2017年05月23日

野の花のごとく強くありたい

大津教会・愛光幼稚園.jpg
これは今春の夕暮れ、大津教会・愛光幼稚園の園庭だ。
かなりタイムリーさを失った風景ではあるがやはり美しい。

4月15日、クリスチャン・ペンクラブの例会が終わって大津駅へ向かう時、あまりに美しいのでペン友・長原さんに撮っていただいた。この日は総会での会計報告や『種を蒔く』4号のことで頭がいっぱいだったのでカメラを持参しなかったからだ。

この風景もまた毎年見ていたであろうのに立ち止まって見ることもなく、ただおしゃべりしながら歩いていた。季節外れの写真だがここにとどめておきたい。

『種を蒔く』4号は昨年6月に召天された久保田暁一先生の追悼号である。まもなく1年になるなんて、時はかくも早く過ぎ行くのか。

発行日を師のお誕生日「5月22日」と記したが、4月の例会時にも追加原稿が出たり、その後も原稿待ちやいろいろで、印刷・製本されるのは5月末の予定は難しく6月に入るとのこと。

再度ご指示くださった大田先生の編集のおかげで、一つひとつに思いが込められ重厚な一冊になった。3校で校了とし、印刷屋さんからようやく13日に「印刷にかかります」の連絡を受けて一息ついた。

今は振り込み通知が届くたびに収支報告書を更新させ、まだ振り込んでくださっていない方々に今日再び連絡した。パソコンを使わない方は数名なのでありがたい。

6月の例会会場は千里ニュータウン教会だが、東牧師は体調を壊して入院されていることがわかった。ご高齢なだけに心配でならず気持ちが沈む。
祈り、聖書を読み、祈る・・・

5.23.jpg5月の美しい季節を東先生に届けたい。常に神と共にあられる牧師に。

「私たちが生きているのは、素晴らしい世界です。
しかし、それが美しく本当に我が家のようであるのは、ただ神がいつも近くにいると感じる時、そして神に依り頼み、神の愛に信頼する時のみです」。

       (マックス・ミュラー)

ドクダミの花が咲き始めた。
                    −星野富弘さんの詩−
どくだみ.jpg「おまえを大切に 摘んでゆく人がいた
臭いといわれ
きらわれ者の おまえだったけれど
道の隅で歩く人の足元を見上げ
ひっそりと生きていた
いつかおまえを 必要とする人が
現れるのを待っていたかのように

おまえの花
白い十字架ににていた」


この辺りはドクダミがたくさん自生しており、ここに住むまでドクダミのにおいも知らなかった。あるとき義母が臭いが強いのでトイレに置くといいと教えてくれた。

チャッピー(柴犬)を飼い始めた時、私はドクダミをさわった手でチャッピーをさわったのだろう。「チャッピー、くさいなぁ」と、ドクダミの臭いを犬のにおいだと思っていた。

ここに移ってきた頃は父の病床に通う日々、その1年4ヵ月後に父が亡くなるまで何度も危篤状態になり、ホッとする時がなかったので、気がつかないままチャッピーのにおいだと思っていたようだ。

そんな期間もドクダミの花を見るたびに「十字架の花」と心の中で言っていた。主イエスを思い出すたびに力を得ていたのかもしれない。


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野原や道端に咲く花こそ美しい。
私も野の花のごとく強くありたい。

【関連する記事】
posted by 優子 at 17:46| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

2017’百花繚乱の5月 D ―ユキノシタ―

「汝ら目をあげて高きを見よ、
誰かこれらのものを創造せしやを思え」。
                  (イザヤ書40章26節)

紫蘭(しらん)は好きな花ではなかったが、先週末の散歩中に満開の紫蘭に見入ってしまった。今日の散歩で写真を撮るのを楽しみにしていたが良い写真が撮れなかったので、たくさん咲いている裏庭へ行った。しかしどれも盛りを過ぎていてかろうじて玄関近くでいくつか見つけた。

そして、その途中でこんな花を見つけた。
朝の写真はピンボケしていたので夕方に再び撮りに行った。

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何てユニークな花だろう!

花の形だけではなく花びらの模様が面白い。まるでいたずらっ子の顔に見えるではないか。そしてついに長い時間検索して花の名前を突き止めた。
これは、ユキノシタだった!
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この写真にはユキノシタの葉は写っていないがよく覚えている。
当地へ引っ越してきた1999年の秋頃だったか、「ユキノシタの葉は天ぷらにしたら食べられるよ」と義母に教えてもらったので、さっそく作って義父と3人で食べたことを思い出す。
そう、ユキノシタの葉があったのはちょうどこの辺りだった。

その頃は父が入院中で翌年の夏に亡くなり、父の悲しみだけではなく周囲の人々に苦悩していた年月だった。しかし、それゆえに霊の目が開かれて新しい境地へと拓かれたのである。

その時のことを綴ったのが、過去ログにも転載した「針の穴を通り抜ける」である。

以下は今日の感動のひと時。
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この花もミカンの花のような甘い匂いがした。
小さな蜂が来ていたよ。

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↑ 珍しい白い紫蘭と、よく見かける赤紫の紫蘭。↓

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この花も甘い香りがした。17日に別の所で見つけた花だ。

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もうすぐ梅雨、アジサイが咲き始めた。
6月7日頃に近畿地方の梅雨入り予報が出ていた。

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ここはユキと名付けた「森の道」。
チャッピーはいないけれど、この新緑の小道を抜けて行った。


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先週シュウメイギクの横で
初めて見つけた草。
そして今日の散歩でこの花を見た。
花のユニークさには驚かされる。

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それにしても私は花の名前を知らなさすぎる。
あの感動の花はハルジオンだったとは! 名前だけは何十年も前から知っていたものの記憶もしていないとは恥ずかしい。

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そしてこれはカタバミだって!





今春初めて見えるようになった「心の目」で知ることができた草花の中で「感動のベスト3」は、

@スノーフレイク 
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Aハルジオン
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そして、ユキノシタ
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自然界は不思議と感動に満ちている。
気がつくのがあまりにも遅すぎたが、今からでも楽しみたい。
 
冒頭のみことばは「イザヤ書40章(21節〜31節)」にある。

あなたがたは知らなかったか。
あなたがたは聞かなかったか。
初めから、あなたがたに伝えられなかったか。
地の基をおいた時から、
あなたがたは悟らなかったか。

主は地球のはるか上に座して、
地に住む者をいなごのように見られる。
主は天を幕のようにひろげ、
これを住むべき天幕のように張り、

また、もろもろの君を無きものとせられ、
地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、
その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、
神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、
わらのように、つむじ風にまき去られる。
聖者は言われる、
「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、
わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、
だれが、これらのものを創造したかを見よ

主は数をしらべて万軍をひきいだし、
おのおのをその名で呼ばれる。
その勢いの大いなるにより、
またその力の強きがゆえに、
一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、
「わが道は主に隠れている」と言うか。
イスラエルよ、何ゆえあなたは、
「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、
あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、
勢いのない者には強さを増し加えられる。

年若い者も弱り、かつ疲れ、
壮年の者も疲れはてて倒れる。

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない。

posted by 優子 at 19:36| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年05月21日

「へえー、今度は白色なんやー」

今回の「家の教会」はお休みした。
ユキはサッカー教室があり、その午後は実が入らないので、良輔と二人で聖書を読もうと思っていたが、今日はどうにもしんどくてそれもできなかった。夕方から回復してきてブログを書く体力も出てきたが、今夜は早く寝ようと思う。

サッカーから帰って来たユキが祖父の作業を見て、「へえー、今度は白色なんやー」と言い、この一言に私と知子は大笑いしてしまった。

日に焼けて茶色になった障子紙、しかも見事なほど穴が開いたボロボロの障子。その半分以上はユキの仕業だが、新築後18年目にしてようやく張り替えたことにも呆れる。こんなことを書いていたら主婦である私が笑われるのであるが、数年前から廃屋状態だった。

@障子の張替.jpg私は自分で張り替えるなど考えも及ばないが、夫は昨日障子の紙を買ってきて朝の7時前から着手した。私はその音ですぐに起こされてしまった。
耳元に響く音は昨日の網戸の滑り具合を見ているのかと思っていたら、私のベッドの真下にある障子紙を張り替え作業を開始し、紙を剥がしていた音だった。

障子の張替A.jpgこんなことは夫も今回が初挑戦。
そして、午後3時半頃に完成!
「古い紙を取るのが一番大変やった」。

私は手伝おうにも今日はどうにもしんどくて臥せっていた。昨日はあんなに元気だったのにどうしてだろう。急激な気温上昇に体がついて行かないからだろうか。ようやく夕方から回復してきたので掃除をした。

18年ぶりに障子の張替.jpg
すごくきれい! ありがとう!
私もユキに倣って、「今度は白色なんやー」と、
苦労した本人以上に何度も見とれていた。

それにしてもこういうことは熱意と根気があるんやね。昨日は電動自転車のパンクを修理してくれたし、妙な感じ・・・ありがとう、お疲れさまでした!
posted by 優子 at 21:36| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

ブルンナー読書会H ―我は聖霊を信ず―

5月中旬の二上山.jpg

2日前から夏日になり、今日は30度の真夏日になった。非常に強い陽ざしだが湿度が低いので爽やかである。

IMG_5127.jpg「我は聖霊を信ず」。

今日は「ブルンナー読書会」(リーダーは下村喜八さん:ドイツ文学、ブルンナー、シュナイダー、ゲーテ etc 研究者)、今月も知子は欠席した。

国際基督教大学(ICU)草創期に着任して大きな働きをしたのが、スイスのチューリッヒ大学を辞して着任したエーミル・ブルンナーである。

半年ぶりに「ブルンナー読書会」を再開した先月は、イースターにちなんで3章分を飛ばして最終章の「われは復活なり」の御講義をお願いし、今月は昨年10月の続きに戻って「9章 いかにして聖霊を受けるか」を学んだ。

今月は司会役を務めさせていただき、最初に讃美歌354番「かいぬし我が主よ」を讃美し、聖書拝読(ヨハネによる福音書14章15〜17節)、祈り、開会礼拝を捧げた。

読書会に入るといつものように、私たちが読んで分からなかったところを解説し感想に耳を傾けてくださった。
毎回思うことであるが、私たちのために講演(講義)してくださり、テーブルを囲んで拝聴できる恵みに感謝が溢れてならず、学びに入る時はいつも意識的に集中させねばならない。

テキストの『使徒信条講解説教』は、第2次世界大戦が始まった時のブルンナーの説教であり、スイス人は戦火を免れたいという祈りであった。

その祈りは正しいが、「そう祈ることによって決して救われはしない。地には戦争よりも悪いことがあり、それは国民の精神的退廃であります。・・・

神はしかし、繰り返し繰り返し事情を悪くいかせることによって、わたしたちをして何が尊いものであり、何が本当に重要であるかをはっきり教えたもうのであります。・・・

わたしたちの地上の生にとって常に最も重要であるところの祈りとは、神の聖霊を求める祈りなのです」。


コリント人への第2の手紙 3章16節〜18節(新共同訳):
「しかし、主の方に向き直れば、覆(おお)いは取り去られます。
ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて変えられていきます」。


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右の写真はブルンナーが使徒信条講解説教をしたチューリッヒのフラウミュンスター教会で、左の写真はブルンナーの墓で、「主の霊のあるところには自由がある」と書いてある。(ドイツ語で読んでいただき感激した)

生涯のモニュメントである墓にこの聖句が書いてあるのは、18節も含めて選んだのであろう。

ブルンナー曰く、
「祈りとは、自分の力でなしうることはことごとくやり遂げるという意志と関係をもつかぎりにおける約束なのである。・・・
           
わたしたちのなすべきことは非常に痛みに満ちたもの、抵抗を感じるもの、反発するようなものなのです。

成すべきこととは悔い改めることである。

悔い改めるとは先ず神と語ることを意味し、声を出して神と語ることです。神に心から自分自身の悲しみをうちあけること。・・・(自らの)不従順な心が暴露されるが、それをつまびらかに神に告げることであります。

悔い改めは必然的に罪の赦しと従順な心を求める祈りへと注ぎ出して行きます。

悔い改めることによってのみ神と出会うことができる。ちょうど握り拳の上には何の贈り物も置くことができないように、悔い改めない心には神もその愛を置きたもうことはできません。

悔い改める人のみが扉を見出し、扉を開ける。そして、道はそこを通って行き、この一本の道以外に山頂をきわめることはできない」。


罪の赦しこそが、神へ自由に近づくことができ、律法からの自由、罪、自己、死からの自由、そして、積極的な自由が与えられる。

ブルンナーは「聖霊における平和と喜び」こそ私たちがもたないといけないものであると述べている。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」。(ロマ書14章17節)

この箇所は新共同訳のドイツ語訳聖書では「神の国は平和と喜び」と訳している。ルター訳聖書には「おける」であることから、ブルンナーはその関連の聖書からそのように語ったようである。

まず神との平和が回復されて人々との平和に及んでいくのである。

今日は心安く学びに集中し溢れる恵みをいただいた。それなのに感想を述べるのを忘れていたことを今思い出すとは情けない。それは次のようなことだ。

「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という一休禅師の道歌を例にとれば、仏教では「仏」と呼び、キリスト教は「イエス・キリスト」と、それぞれ呼ぶ名前が違うだけで、人間が求めている "Something Great" は同じものという考え方がある。

また、近代になって宗教多元主義が起こり止揚(アウフヘーベン)する動きが進んでいるが、ブルンナーの説教から改めて「悔い改める人のみが扉を見出して扉を開け、道はそこを通って行き、この一本の道以外に山頂をきわめることはできない」ということを深く頷かされた。

そして、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ14章6節)のみことばを味わい、道を見出し見出させてくださったことを深謝した。

IMG_5107.jpg「あなたは神にある喜びをもっておられますか。もしももっているなら、あなたは罪の赦しをもっているのです」。
アーメン(その通り)です。
私は神に罪赦されていることを再確認させていただいた。しかし「私たちは繰り返し神から離れ」る者ですから日々刻々に悔い改めて生かせてください! そして、

「神を心の中に持つ人は、他者のことを常に考える人であります。なぜなら、神を愛する人は、神の被造物と神の子たちをも愛するからです」。

今これを心に刻みながら書き終えて聞こえてくる言葉です。私の心をもっともっと広く開放していただきたいと願う。

次回は6月24日(土)、4名全員で集えますように。下村さんも祈ってくださっています。

1485064555.jpg附記:下村さんのお宅の門に植わっている大きなオガタマノキから、バナナが熟したような匂いが漂うそうだ。
日が当たると香るとお聞きして聖書に出てくるヒソプの花を思い浮かべた。ヒソプの花は折られた時に麗しい香りを発するという、傷つけられた時に・・・。
オガタマノキの英名は”Japanese Banana bush”とあった。花はコブシやモクレンよりも小さいそうだ。見たいな・・・いや、ひょっとしたら散歩中に見ているかも知れない。

posted by 優子 at 19:53| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

2017’百花繚乱の5月 C ―サクランボと鶯の声を!―

今はサクランボの季節、短い短いステキな季節。
桜の季節よりも大好きな季節。
一年中で一番心安らぐ季節。


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一粒だけ口に入れると砂糖漬けのように甘かった。
鳥たちよ、おあがり、初夏のごちそうを。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」。     
           (第1テサロニケ人への手紙 5章16節〜18節)

神さまが創られた美しい自然、さくらんぼを見ていたら、私の霊は神をほめたたえずにはおられず、何度も神の息吹きを深呼吸しながらいつまでも満面の笑みを天に向けていた。
                  ―過去ログ 2012.5.14より―

今日はいつもと違うコースを歩いた。自然界の輝きをマリオ・アカールの" Le Temps des Cerises"、 「さくらんぼの時」(訳語では「サクランボの実る頃」)を聞きながらリラックスのひと時を。

「私たちがサクランボの季節を歌い
陽気なナイチンゲールやマネシツグミが
すっかり浮き浮きしているであろう頃
娘たちは頭におかしな思いを抱き
恋人たちは心に太陽を抱くだろう
私たちがサクランボの季節を歌い
マネシツグミがより上手にさえずるであろう頃

でもとても短いんだ、サクランボの季節は・・・」

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上に向かって実をつける山桜のサクランボ、なんだか酸っぱそう。 

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柿の花?

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「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。

             (マタイによる福音書 6章27節〜29章)

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輝く新緑

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たくさん花をつけているのに収穫されないままのレモンもいっぱい。 

最後に40秒間のビデオ、鶯の声をどうぞ!

風に揺れる木の葉の音と鶯や小鳥の声を録音したかったが、鶯の声だけが際立っていた。鶯の生態は知らないが、国定公園内という自然環境ゆえにか大阪市内から電車で30分の所に鶯がいるのは驚きだ。

家庭集会をしていた頃、鶯が庭の木で鳴いたものだからあまりの大きな声に驚かれ、拡声スピーカーで流しているのですかと尋ねられたこともあった。3月前後から鳴き始め、この時期は鶯の声で目が覚める。

附記:散歩から帰宅して写真を見ようとパソコンを起動させた瞬間に真智より電話が入った。ワシントンD.C.は夜の11時22分。
「おやすみなさい」を言って切ったのはD.C.の12時32分だった。
今夏の帰国日程を調整中、感謝!


posted by 優子 at 21:40| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年05月17日

2017’百花繚乱の5月 B

今週はずっと肌寒く、今朝は毛糸の肩掛けを出してきて本を読んでいたが、部屋の中は寒くて散歩に出た。今は23度になっているが曇っているので室内は寒い。

花々の写真を楽しみに見てくださっている方のために、今日も5月の散歩をご一緒に!

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アジサイ宅のあやめ。Kさんとしばらく話す。

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これは何という木だろう?

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↑ この木は? こんな木(↓)です。

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これはエゴの花だろう。

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草藪の中に咲いていた。

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これもよく見かけるが名前を知らない。

「こんにちは、カラスくん!」IMG_5007.jpg

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これは柿の木だから柿の花だ。

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1本の木から白と赤の花が咲いている。
よく見るが名前は知らない。
葉がアジサイに似ているのでアジサイの仲間だ。

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空に向かって勢いよく伸びるタチアオイの姿がいい!

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梅の実がいっぱい!.jpg
梅の実がいっぱい!
ここで草刈りをしておられた83歳の男性とは初対面。
会うなり身の上話を語り始められ20分ほど話していた。

イチジクの葉.jpg
「いちじくの木からこの譬を学びなさい。
その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、
夏の近いことがわかる」。

― イエスさまの言葉 ―(マタイ 24章32節)

ミカンの花.jpg
これはミカンの花。甘い匂いに酔ってしまいそう。

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レッドオニオン

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色とりどりの矢車草.jpg
色とりどりの矢車草。本当に美しいね。

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鳴き声のするほうへ行くとカエルがいたよ。
先ほど帰宅したユキに聞くとトノサマガエルだって!

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これはジャガイモの花。
小学校3〜4年生の時に理科で習ったとおりに
芋の切り口に木灰をつけて植えたら白い花が咲いた。
でも、こんなに印象的な黄色はなかった。
祖父を思い出すジャガイモの花。

栗の木.jpg
この時期の栗の木を見たのは初めて!

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実はこれは「やらせ」。
左手でタンポポの綿毛を触ってから撮った。

この勢い!.jpg
この勢いはすごい! 
みんな空に向かって真っすぐに伸びている。

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この木には白と黄色い花をつけていた。
初めて見た…いや初めて気がついたのだ。
それに2009年からめったに歩いていないから。

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イソトマの花が満開だった!
我が家のはまだ蕾もつけていない。

スモークツリー.jpg
スモークツリー

これもきれいねー.jpg
これもきれいねー。
散歩中、何度も「きれいねー」と言いながら駆け寄った。

この花(↑)は次の写真の手前に咲いている花。
これまでの私は近寄って見ることもしなかった。

この手前の花よ.jpg

足元に!.jpg
もう少しで踏みそうになった、気がつくと足元に咲いていた。

山桜のサクランボ.jpg
山桜のサクランボ

物知りのNさんと一緒だと教えてもらえるのだが、花や木の名前を知りたいけれど調べるのはたいへん。ただただ神が創造された美しい世界に驚くばかり。

posted by 優子 at 15:35| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

2017’百花繚乱の5月 A ― バークレー「若人の祈り」―

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「神さま、きょう一日中元気よく過ごせますように、
 そして私がしなければならないことは何でも、
 笑顔でそれをすることができるように助けてください。


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 神さま、きょう一日中勤勉でありますように、
 そして私がしなければならないことは何でも、
 最善を尽くすことが出来るようにしてください。


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 神さま、きょう一日親切でありえますように、
 そして私がしなければならないことは何でも、
 暇がなくて助けてあげられないなどというようなことが
 ないようにしてください。


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 神さま、きょう一日中勇敢でありえますように、
 そして私がしなければならないことは何でも立ち向かい、
 身をかわすようなことがないように助けてください。


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 神さま、きょう一日中敬虔な気持ちで過ごすことができますように、
 そして私がしなければならないことは何でも、
 あなたが私をごらんになっていることを心にとめ、
 全ての言葉があなたのお聞きになるにふさわしいものとなり、
 全ての働きがあなたに捧げるにふさわしいものとなるように
 してくださいますように。

 主イエス・キリストによって祈ります。
                     アーメン」。
posted by 優子 at 10:07| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

2017’百花繚乱の5月 @

あまりにも疲れやすく太ももに力が入らない。2ヶ月ほど前にもこのような時があった。朝は肌寒かったが強い陽ざしが届いていた。もうすぐ正午になろうとしていたが、陽ざしに誘われるように外に出た。

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街路樹の足元に植えられた花が勢いよく咲いている。
その明るい表情に「こんにちは」と声をかけてしまった。

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池の周りは西洋タンポポで埋め尽くされていた。
この季節もまたやっぱりチャッピーを思い出す。

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初夏を告げるタチアオイ。
幼い頃の心の風景に残っている真っ赤なタチアオイ。
それは祖父との光景だ。

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風に揺れる矢車草。

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これが楓の種!

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玄関の白鳥草も咲き始めた。

午後は知子とユキの冬布団を片付けてから横になり、夕刻まで怠けてしまった。どうしても起き上がれなかった。

posted by 優子 at 22:12| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年05月14日

家の教会R ―「母の日」の今日的意味―

IMG_4889.jpg今朝は町内会の草引きで、夫も珍しく10年ぶり(?)に参加した。知子は講演会のために外出。
今回ユキは手伝わないでボールを壁当てして遊んでいたら蛙を見つけた。この近辺に池など水辺はないのにね。

2017年5月14日(日) (2017第19回 家の教会)
16時〜16時45分
出席者 4名
@ 奏楽    知子
A 主の祈り   
B 聖歌    402番「丘に立てる荒削りの」
C 聖書輪読  列王記上3章16節〜28節
D お話    優子
E お祈り   優子、ユキ
F 讃美歌   510番 「まぼろしの影を追いて」
G 後奏    知子

列王記上 3章16節〜28節:
3:16 さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。
3:17 ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。
3:18 ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。
3:19 ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
3:20 彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。
3:21 わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
3:22 ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。

3:23 この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。
3:24 そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。
3:25 王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。
3:26 すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。
3:27 すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。
3:28 イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

お話:
このお話は今から3000年ほど前のイスラエルのソロモン王のお話です。生きている赤ちゃんを巡って2人の母親が「これは自分の赤ちゃんだ」と主張するのでソロモン王に正しく裁いてもらおうとやってきました。

すると王は、「この生きている赤ちゃんを二つに裂きなさい。そして、半分をこの女に、もう半分をもう一人の女に分け与えよ」と言いました。

すると一人の母親が、「王様、お願いです。この子を生かしたまま、この女の人にあげてください。この子を絶対に殺さないで下さい」と言い、もう一人の母親は「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、どうぞ、裂いて分けてください。」と言いました。

この二人のお母さんの言葉を聞いたソロモン王は、どちらの女性が本当の母親であるかわかったので、「この子を生かしたまま、さっきの女に与えよ。この子を殺してはならない。さっきの女が本当の母親だ」と言って、赤ちゃんを本当のお母さんに戻しました。

ソロモン王の中に神さまの知恵が働いているとイスラエルの人々が王を讃えたというお話です。

本当のお母さんは、「絶対に殺さないでください!」と訴え、この子さえ生きているならば我が子がこのようなひどい女性のものになってもいいと、我が子の命を最も大切に守ったのです。

母の愛はこの世で一番神の愛に近いと言われます。例えば、ポンペイ遺跡(イタリア)の発掘調査で我が子を抱いたまま火砕流にのまれた母と子があったというお話は昨年の母の日礼拝でしました。

ユキもよく知っているように、動物がどんなに一生懸命ヒナを育てているか。親は働きづめで一日中魚や虫を捕り続けて雛に与える姿は、いつも『ワイルドライフ』で観ているよね。

中には例外もあると思うのがカッコウだけれど、カッコウは自分で卵を温めないでオオヨシキリやモズの巣に卵を産んで、その巣の鳥に温めてもらって孵化させて餌まで与えてもらうので、我が子を愛さない生き物もいるんだと思いました。

でもカッコウにも理由があるらしく、カッコウは体温保持能力が低いので、例えば外気温によって体温が大きく変動するので雛にかえるまで温められないからだろうということです。それでも自分勝手だなあと思うのですが、このこともまた我が子を大切に思えばこその本能ですね。

どんな動物でも親は命がけで子どもを守り育てます。特にお母さんと子どもは父親以上に深い愛情で結ばれているようです。子どもを育てられるようにと神さまが備えてくださったのだと思います。

でも今は幸せな母子ばかりではなく大きな社会問題にもなっている、親の愛を受けなかった子どもや虐待された子どもがたくさんいます。

モーセの十戒には「あなたの父と母を敬え。」とありますが、幸いな親を持った人は簡単に「お母さん、ありがとう」と言うことができますが、そうではない親の子はできるでしょうか。

そのようなことを思うと「母の日」はお母さんを亡くした人だけではなく、親によって心が深く傷ついている子どもにとっても辛い日になっていることでしょう。でも神さまはそのような思いをよくわかってくださいます。誰よりもわかってくださるお方です。

その思いを神さまに知ってもらうのです。祈りの中で全部お話しするのです。神さまは必ずや心の傷をいやしてくださいます。そしていつか心の傷や痛みが消えていき、気持ちが変えられていくということが聖書に記されている約束です。

長い時間がかかってもいい、いや、それが私に賜った人生だと受け止めて生涯かけて神さまに求め続けるのです。

ピリピ人への手紙4章6〜7節にこのように書いてあります。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。
                   
祈ることができる人は幸いです。試練や不条理に向き合うことは人生の大きなチャレンジです。自分に向き合うことせずして人生へのチャレンジはありません。

神さまに正直に自らの悲しみや苦しみ、怒りもすべて告白して求めていくならば、いつか必ず親の弱さを理解しゆるせるようになるとありますから、生涯かけての課題として向き合ってほしいです。


世の中には不平を糧に生きている人、人に求めるばかりで全く感謝を知らない人がいますが、そのような生き方は人生を台無しにしているのです。どんなに健康やお金に恵まれていようとも「感謝」を知らずにいる人は生かされている喜びを知らないのです。

近年、公立幼稚園・小学校では「母の日」や「父の日」を全く言わなくなり、そのこともまた画一的ゆえに異様に感じますが、私は「母の日」の今日的意味をこう考えます。

「母の日」は母を亡くした人にとっては母を偲ぶ日であり、母が健在な人は母との時を大切に思い、母への感謝を伝える日であり、虐待や放任により心に深い傷を受けている子どもは神と出会って幸せな人生を選び取る日であってほしいと思います。

そして子育て中の現役の母親は、養育の大任を果たせるようにと姿勢を正し、親と子との限られた幸せな時を味わいながら過ごしてほしいと願います。


「母の日」は1908年5月にアメリカのアンナ・ジャービスという女性が、教会学校で長く教えていた母親を記念して追悼会を行ったことから始まりました。

その日アンナは、母への感謝を表すために母の大好きだった白いカーネーションを礼拝堂に飾り、追悼会の終わりに参加者に配りました。

その後20年ほどの間に全世界に広まり、1952年ウィルソン大統領の時に「母の日」が制定され、やがて赤いカーネーションは生きているお母さんを、白は亡くなったお母さんを表すようになりました。

アメリカの第16代大統領リンカーンは常に聖書を読み、祈り、神と共に生きた人、奴隷解放宣言をしたりっぱな人でした。リンカーンはお母さんのことをこのように言っています。

「神よ、私の母を祝福して下さい。・・私の全ては彼女のおかげです」。

リンカーンの母の祈りは我が子を通して歴史を変え、世界の秩序を牽引していったのです。

IMG_4870.jpg昨日、独りデパートに出向き、母への贈り物を思いながら歩き回った。

そう、私の母はとっくに亡くなって21年になる。でも母が懐かしくて、もう一度だけ贈り物をしたくて歩いた。母が今も健在ならば91歳だが、私は60歳頃の母を想っていた。

ほぼ全てを見て回ったけれど、結局、何かおいしいものを食べに行き、ケーキとカーネーションかな・・・

母に話しかけながら楽しい夢のような時だった。

私は体調が悪いので口の中が苦くて何もほしくなくて、カーネーションだけ買おうとした時、現実に気がつき、手を放した。自らの白髪姿を思い出したのだ。

カーネーションを贈られる側の年齢なのに、買うなんて惨めで恥ずかしいと思ったのだ。しかし、あとで考えると不思議なことでもなかった。今は元気な90代も珍しくはないから。

E3808CE6AF8DE381AEE697A5E3808D1994.jpg私は今も、
こよなく母に感謝している。
懐かしいお母さん、
懐かしいお父さん、
また会おうね。
もうすぐやね。


1994年の「母の日」に讃美歌510番を歌っているところ。
嚥下力がかなり落ちていたので、メロンを持って行ったが・・・

讃美歌510番 歌詞
1 まぼろしの影を追いて
  うき世にさまよい、
  うつろう花にさそわれゆく
  汝(な)が身のはかなさ。
(折り返し)
 春は軒の雨、秋は庭の露、
 母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや。

2 幼くて罪を知らず、胸に枕して、
  むずかりては手に揺られし むかし忘れしか。

3 汝が母のたのむ神の みもとには来ずや、
 小鳥の巣にかえるごとく、こころ安らかに。

4 汝がために祈る母の いつまで世にあらん、
  とわに悔ゆる日の来ぬまに、とく神にかえれ。
                  アーメン
posted by 優子 at 21:28| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年05月11日

ユキはクラスの「生き物係」

4年生になって1ヶ月、その間に学校へ持っていった生き物は。。。

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池で魚釣りしていた人にもらったブルーギル。

IMG_4521.jpg4月末に捕まえたカナヘビ。名前からして気持ち悪いがかわいい眼をしており、ユキが頭を撫でてやると目を閉じて眠る。

カナヘビ・ナビちゃんを学校へ@.jpg




生き物を捕まえては学校へ持って行くユキ。まだまだかわいいね。
そんなユキがバッタを捕まえてきて躊躇なくカナヘビに与えたと言うので驚いたが、ユキは命の営みを知っているからだと思った。

というのは1〜2年前から毎週ユキと観ているBS放送の「ワイルドライフ」から、自然の摂理を理解しているのだと思う。

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7日に捕ってきたメダカ4匹とたくさんのスジエビも翌日学校へ。

その中に産卵中のメダカがいるのをお友達が発見し、「おばあちゃんに見せてあげたくて持って帰ってきたよ」と優しいユキ。

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「うわぁー、初めて見たよ!
でもオスがいなくてもいいのかなあ????」

しかし、その翌朝死んでいた。
教室の水槽に入れたメダカも全部、エビもたくさん死んでいたそうだ。

そして今日はお友達からニホンイシガメをもらって来た。
日本石亀@.jpg

日本石亀A.jpgユキの横にチャッピーがいないのがさみしい。
いつも何でも覗きに来ていたから・・・・

ユキの秋みつけ.jpg

クマゼミを見せている.jpgこれはクマゼミを見せてもらっているところ。
(2014年7月)

今度はサワガニ!.jpg
これは2015年6月、中にいるのはサワガニ。

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チャッピーのことを思い出して悲しくなってしまった。。。けれど

今学校に向かっているユキの笑顔が見え、元気な声が耳に聞こえるよ! もう耳鳴りになっているポケモン・サンムーンの歌。
「今日も一日張り切って行きましょう!」
誰も皆、今日も良い一日をね!!!
 
posted by 優子 at 08:05| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

雨上がりの朝に

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今朝、日曜日に写し忘れた花を見るべく土手までユキを見送った時、雨の雫が光る美しさに心躍り大急ぎでカメラを取りに帰った。

そして天を仰ぎ、今朝届いた御言葉を口ずさんだ。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」。
空を仰ぐ.jpg

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」。   
                      (詩篇 19篇1節)

朝、昼、夜に3分間、空を見上げ、両手を広げて、今日の御言葉を唱えつつ、主の栄光を仰いでみてください。あなたの人生も、今も将来も、家庭も職場も、学校も教会も、主の栄光が満ちていることがわかってきます。
心が塞いでも、下を向いていてはなりません。神の国すでに来ているのです。主はあなたに微笑んでおられます。

                (キリストの栄光教会・川端光生牧師)
アーメン!

posted by 優子 at 12:49| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年05月09日

紀伊勝浦から新宮の旅 ―世界遺産3か所「那智の滝」と「熊野本宮大社」と「熊野川」舟下り―

翌5日、朝はやや曇りがちながらも天気は明朗だった。

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紀州M.jpg

紀州N.jpg

朝食を終えてホテルを発つ。

紀州P.jpg


紀州Q.jpgこのあと島めぐりを予約していたため、ユキに一番見せてやりたかった勝浦漁港を訪ねることができなかったのが残念でならない。

勝浦駅やこの辺りは以前のままでのんびりしていた。


1996勝浦.jpg

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そして、「紀の松島めぐり」へ。
紀州Qダッシュ.jpg

ユキと同じ場所で21年前のママと真智が居るよ!
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乗客は10数名だけで定員の1割にも満たなかった。この日は悪天候で波が高いため55分間のコースではなく40分のショートコースになったので残念。
紀伊松島.jpg 

勝浦と言えば有名な「ラクダ岩」と「ライオン島」だが・・・
らくだ岩.jpg IMG_4720.jpg
ライオンの後ろ姿を想わせる「ライオン岩」。
2011年の台風12号による紀伊半島大水害で「ラクダ岩」は破壊され、「ラクダの湯」はなくなっていた。
現在のラクダ岩.jpg
これが現在の「ラクダ岩」。




紀州R.jpg船を降り、次は世界遺産・熊野本宮大社へ向かう。
ユキの後ろ姿を見ると広島へ行った6年前のユキを思い出す。赤いキャリーだけはあの時と同じ。
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Rの次に熊野本宮大社@.jpg

熊野本宮大社のトレードマーク、3本足の八咫烏(やたがらす)は、日向の国から和歌山に上陸した神武天皇を奈良まで先導したという。この故事に習ってボールをゴールに導くようにとの願いを込めて日本サッカー協会のマークに用いているようだ。

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昼食は熊野本宮大社内の「カフェアルマ」で済ませ、バスの発車時刻までゆっくりした。
「ユキ、クロアゲハがたくさんいたね。この日のこと、忘れないでね。私も忘れないよ」。
そしていよいよ最後のプログラム、
今回一番楽しみにしていた世界遺産・熊野川の舟下り!

紀州S.jpg

この日は川の水が少なく浅いところは石が船底に当たるからと、通常10人乗るところが5人になったから、「ラッキーですよ」とガイドさん。

道の駅「瀞峡(どろきょう)街道熊野川」下の川原から熊野速玉(はやたま)大社横の川原まで16キロメートルを90分かけて下る。

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座布団の下にあるシートを下半身に巻いて、いざ出発!

紀州㉒.jpg


DSC06530.jpg浅いところは川底の石が見え船底にゴツゴツ当たったが、最も深いところは23メートルもあるそうだ。流れの速いところは水が舟の中に入って来て、夫はかなり濡れていた。

最も深いあたりで語り部さんが横笛を吹いてくださり平安時代の世界を想像した。ユキが演奏の一部を録画してくれていたのに、ビデオをインストールしないうちにカメラの中身を全て削除してしまった。

演奏のあとに「感謝と祈り」という曲名だと聞いてますます感じ入った。娘たちの結婚記念誌のタイトルと同じだったから。

紀州㉓ダッシュ.jpg

紀州㉓.jpg
ユキの笑顔が私の慰め、希望!

紀州㉔.jpg

終点近くでは6年前の紀伊半島大水害で壊れた堤防を工事していた。水は熊野川の堤防を越え、家々は堤防の高さまで水没した。
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白い煙を上げているのは紀州製紙工場(現在は北越紀州製紙工場)。

終点「熊野速玉大社」横の川原で下船して、熊野速玉大社に入ったものの関心が無くて立ち寄っただけ。

紀州㉕.jpg

1時間後のバスを待っても間に合ったが、
バスの乗車券を無駄にして歩いてJR新宮駅へ向かった。

帰りの列車も「くろしお」のはずなのに、
「オーシャンアロー」を「くろしお」にして走らせた。
紀州㉖.jpg

「キリストに従う人は皆、地上では旅人で、寄留者です。信仰によって、私たちは前進します。神が導いてくださると知っていますから。信仰によって、私たちは確信します。神は、私たちを離さず、捨てられません。信仰によって、私たちは天の故郷を待ち望みます」。
             (『ディリー・ブレッド』より)

今年もまた「母の日」が来る。
もう母にも父にもプレゼントを贈ることができないけれど、父と母と再会できる日を楽しみに、さあ、微笑んで!
前を向いて歩いて行こう、主イエスと共に!

posted by 優子 at 18:06| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

紀伊勝浦から新宮の旅 ―世界遺産の熊野古道と「那智の滝」と青岸渡寺へ―

5月3日、一泊2日で紀州へ出かけた。1年9か月ぶりの旅行である。
夫は私より6歳年上だがよほど体力に自信があるのだろう、自動車で行こうと言ったがそれでは行かぬと反対して旅行者で組んでもらって出かけた。

私は小学生の頃に勝浦・那智の滝、鬼ヶ城や瀞八丁(どろはっちょう)など熊野方面も含めれば3度(?)連れて行ってもらったように思う。母方の祖父母の家が阪和沿線だったこともあり、何とも懐かしく通り過ぎる紀州路の駅名を追った。

紀州@.jpg昔から捕鯨で知られている太地は、先年「ザ・コーヴ」が太地のイルカ漁を取り上げたことでも有名になった。駅を過ぎるとまもなくそれらしき湾があった。


天王寺から「くろしお」で3時間半、ようやく紀伊勝浦に到着した。

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紀州B.jpg駅前から定期観光バスに乗って、熊野古道・大門坂へ!
熊野古道の起点は(大阪)天満橋の八軒家(はちけんや)で、「熊野街道起点の碑」の前に福助ビルがある。

大門坂は杉並木と石段が650メートル続く那智山への参道で、入口には樹齢800年の夫婦杉があった。登る時間はないので大門坂に入って15分間ほど滞在しただけ。

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紀州D.jpg

紀州E.jpg
霧雨が本降りになってしまった那智の滝。
この時、かなり降っていた。

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1996.8那智の滝.jpgこれは1996年8月にマイカーで行った時のもの。
この頃、母の看病で家庭のことまで行き届かず、後ろ髪を引かれる思いで看護師さんや兄に頼んで遠出した。この2か月後に母を看取った。

21年後の今も苦悩は深まるばかり。私にとってはユキのために最後の頑張り―即ちそれは、これまでの人生で幾たびか経験してきた絶望的危機の時に、真剣に神の導きを渇望して立ち上がろうと―決意しての旅である。

紀州H.jpg

紀州I.jpg次は那智山青岸渡寺(せいがんとじ)へ。
476段の階段は途中で断念しようと思うほどきつかった。軽快に登っている夫の後ろ姿を見て、やっぱり私は長生きできないなと思った。
みんな先に行ってしまいひとり置いて行かれた。

1996青岸渡寺へ.jpg



→ この時もしんどかっただろうが、階段があったことも全く記憶にないほど元気だった。21年も経ったのだから当然だけれど。
70歳で亡くなった母と同じならばあと4年……精いっぱい生きなくては!!!



紀州J.jpg
これはユキが撮った写真。
ここ熊野権現の境内から青岸渡寺につながっている。
青岸渡寺は430年前に建てられた。西国三十三所第一番札所というのは21年前に覚えたが、2番目は紀三井寺だという。

紀州K.jpgこれが現代版おみくじ?
「何をか言わんや」である。







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ユキがDSで撮った写真の写りがよいと喜ぶと
カメラでも写してくれた。 

前回はホテル浦島へ泊まったが、今回はホテル中の島に宿泊した。

紀州L.jpg
鯛のこんな悲しい目を向けられていたら食べられない。
心が繊細な人は食べられないだろう。
私は無理して幾切れか食べたがおいしくなかった。
いつものようにおつくりはかなり残った。

この日は和歌山も概ね晴れの予報だったのに南風が入って来て雨を降らせたそうだ。低気圧が近づいているので明日は朝から雨だろうと覚悟して眠った。

posted by 優子 at 18:41| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2017年05月07日

家の教会Q ―真の信仰に立って聖霊を受ける 「十人のおとめの譬え」より―

2017年5月7日(日) (2017第18回 家の教会)
16時〜16時20分
出席者 3名(With Y&R)
@ お祈り   優子
A 聖書輪読  マタイによる福音書25章1節〜13節
B お祈り   一人ずつ

マタイによる福音書25章1節〜13節:
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
25:5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

お話:
先週はイエスご自身が語られた終末についての説教を読みましたが、今日輪読した「十人のおとめの譬え」もまた終末に重なるキリスト再臨の話です。

聖書では婚姻の譬えをとおして教会をキリストの花嫁として迎えることが記されていますが、「十人のおとめの譬え」では花婿であるキリストを待つ十人のおとめとして語られています。

油は聖霊の表徴であり、十人のおとめ(処女)は皆キリスト者の名称を持っている人々です。

前者は信仰によってキリストに連り聖霊を豊かに受けた人々であり、後者はキリストの教えを知的に感動した人たちなのでしょうか聖霊を受けてはいませんでした。

また反対にいくら熱心であっても真の信仰でなければ聖霊は内住されず、即ち洗礼を受けて「キリスト者(クリスチャン)」という名称を持っていてもダメであることが明言されています。

聖霊(油)は分け合うことができず、各自がキリストよりいただいて準備しなければならないのです。そのことを私は次のように考えます。

御言葉を読むことも祈ることの必要を感じることなく生きている人は聖霊を受けていないのであり、また、「祈ってくださっているから」と、祈ることもできないほどの情況でもないのに執り成しの祈りをあてにしている人も論外でしょう。

思慮の深い賢い人であるか思慮の浅い愚かな人であるかは再臨の時に一瞬にして明らかにされ、各自の信仰がいかなるものであるかが明確にされるのです。
その時、一人ひとりの信仰が問われ、自己の信仰によって神の前に立たねばならないのです。

注目すべきことは、眠ってしまうという肉の弱さはすべての信者に共通しており、思慮の浅い5人だけではなく、思慮深い5人も寝てしまったことです。

イエスさまが「心を熱しているが肉体が弱いのである」(マタイ26章40・41節)と弟子たちに仰ったお言葉を思い出します。

イエスさまは私たち人間の弱さを理解してくださっています。その上で警告してくださっているのです。大切なことは眠らないことではなく、私たちの信仰の火を再び燃やす予備の油を持っているかどうかであると!

私たちは神さまの恵みから迷い出てしまう弱い人間です。何度決心しても意志の弱い心身(肉)をもって生きています。

しかし、だからこそ自分の弱さを思い知らされて、何度でも悔い改めるのです。自分の愚かさや醜さを知って生きる人は幸いです。イエスさまの警告はそこにこそあるのです! 


「思慮の浅いおとめたち」は自分の弱さや愚かさを知らず、自分が強くて賢い人間だと思っている人たちであり、自分に自信があるから予備の油の用意をしなくても大丈夫と考えてしまいます。

それに対して「思慮の深いおとめたち」は、自分が愚かで弱い人間であることを知っていますから、用心深く予備の油を用意していました。

イエスさまは言われます。
洗礼を受けて「キリスト者(クリスチャン)」という名称を持っていてもむなしく、また反対にいくら熱心であっても真の信仰でなければ聖霊は内住されず、その時「わたしはあなたを知らない」と言うと。

私たちは主の贖いによって赦されて主の恵みの中で生きる者とされました。にも関わらず私たちは主を失望させるのですが、神さまはそのこともご承知なのです。

だからこそ常にそのような打ち砕かれた心を失わないで主の導きを求め続けて生きていくのです。日々イエスさまと共に生きることによって聖霊は豊かに注がれ、そのことがとりもなおさず「主の再臨に備える」ことなのです。

附記:ゴールデンウィークの4・5日、紀伊勝浦、熊野、新宮へ小旅行に出た。
その前日3日正午前に『種を蒔く』4号の2校が届きチェック。
昨日、大田先生より送られてきた2校と合体させて1冊に。数名に不明点を問い合わせながら、その後も23時過ぎまで必死の作業が続く。
今日も3時間ほど作業したがキリがないので手を放して印刷屋さんに送った。

posted by 優子 at 19:55| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

新緑の中で神と語る

「日常生活の中で起こる個々の事件、喜怒哀楽すべてを神の摂理として受け取る時、いつの間にかあなた自身が変えられている。これは身をもって経験するほかはない」。(阿部光子)

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新緑の二上山(雄岳)
やはり4月5月は素晴らしい季節だ。

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秋のもみじをも凌ぐ美しさ

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花が枯れたあとが見える。
来年も生かされているならば是非とも花を見たい。


IMG_4552.jpgシュウメイギクの間から顔を出した野の花。→

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これは大根の間引き菜が冬を越したもの。
黄色い可愛い花が咲いた。




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IMG_4564.jpg矢車草を見るといつも胸がキュンと痛む。きっと幼い頃の原風景にあった花なのだろう。







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風に揺られるハナミズキは陽ざしを受けて輝いていた!

IMG_4592.jpg池の端にくるとチャッピーを
思い出して
悲しくなった。

もう一度だけ
チャッピーと
歩きたい。


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風に揺れる野の花。

IMG_4598.jpg今年はこれまで見なかった花が咲いている。



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裏は草ボーボー。
あの魅了された花がいっぱい咲いている。

「すべてを受け入れるとは妥協することではなくて、積極的にすべてを益としてくださる神を信じて、何事であれ、避けずに受けていくことである。その時、十字架の死のあとに復活があったように、人間の頭では考え及ばない道が開けるのである」。(阿部光子)

posted by 優子 at 23:59| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月30日

家の教会2017P ―イエスの「終末についての説教」−

2017年4月30日(日) (2017第17回 家の教会)
9時30分〜11時
出席者 2名(With T)
@ 聖書輪読  マルコによる福音書13章全章
A 分かち合いと祈り
B 聖歌 582番(新聖歌397番) 「神の御子にますイエス」

※ ユキは久々のサッカー教室のため不在。
昼食後、ユキと二人で聖書を読み、短く話して祈り合う(午後12時50分〜1時10分)。その後まもなく遊びに出かけた。


マルコによる福音書13章全章(1節〜37節):
13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
13:2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
13:3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。
13:4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
13:5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。

13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
13:12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

13:14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
13:15 屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。
13:16 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
13:17 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
13:18 この事が冬おこらぬように祈れ。
13:19 その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
13:20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。
13:21 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
13:22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
13:23 だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。

13:24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、
13:25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
13:26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
13:27 そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
13:28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
13:29 そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
13:31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
13:32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
13:33 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
13:35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
13:36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
13:37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。

お話:
北朝鮮の止まらない軍事的挑発に一触即発の状態が続いています。こんなに緊迫した状況になってもこれまで同様に笑いながら話している司会者やコメンテーターには強い憤りを感じます。

戦争への不安や恐れを現実的に感じる今、この箇所からイエスさまに導きを求めて読みたいと思います。

弟子のひとりが言った「立派な建物」とはエルサレム神殿のことです。当時の人々は「エルサレムの宮の建築を見ないものは建築美について語る資格がない」と言っていたほどの建物でした。

しかし、イエスさまはそのような物は永遠性もなく滅び去るものだと言われました。事実このあと40年足らずのち(紀元70年)にローマ帝国によって破壊されてしまうのですが、この時弟子たちは「いつ、そんなことは起こるのですか」と尋ねました。

これはエルサレムの破壊のことだけを指しているのではなく、世の終りにおいても起きるという預言として受け取るべき内容であることから、イエスさまの「終末についての説教」と呼ばれているところです。

「終末の徴」というのは、偽キリストや偽預言者が現われて、戦争、地震、飢饉が起こり、家族同士でも憎しみ合い、殺し合うというのです。
殺されるのは勿論キリスト者で、世の終わりに近づくに従ってキリスト者はますます憎まれて迫害の苦難がくると言われました。何と恐ろしいことでしょうか、そんな覚悟が私たちにあるでしょうか。


黒崎幸吉は次のように語っています。
「キリスト者はこの世の悪のためにもまたその益のためにも苦しまなければならない。この世の人々を愛しこれがために苦しむことは主イエスの道であった。これがまたキリスト者の踏むべき道程である」と。

戦争は世の終りの前兆として必ず起るけれども、しかしこれまでもどの時代にも戦争は起きてきました。私は今まで想像力もなく歴史を淡々と読み流してきましたが、聖書においても、日本史、世界史に残されている事実は何と残虐であったか。今ほどリアルに感じることはありませんでした。

円周と円の面積との相関関係に例えて文明の進歩を円周とするならば、結果である面積も大きくなっていきます。
しかし、文明の進歩は決して理想に向かっているのではなく、文明が進むほど悪や戦争が頻発して世界は混沌さを増すばかりで聖書が記している通りです。


キリストの再臨前には空前絶後の大患難が世界に臨み、宇宙的大変動が起こるとのこと。それはいつかわかりませんが、大切なことは怠惰な信仰生活を戒めて常に「目を覚ましていなさい」と仰いました。

そして「惑わされるな、慌てるな、前もって取り越し苦労するな」と言われ、何度も「気をつけなさい」と繰り返し警告しておられます。

14節の「立ってはならぬ所」とはエルサレム(神殿)に起こった時が世の終末に近づいた証拠であるというのです。

聖書の言葉を神の言葉と信じる私たちは知っています。いつか天地は滅びるということを。「しかしわたし(イエス・キリスト)の言葉は滅びることがない」と主は言われます。

即ち死ねば終わりではないから救いの希望を握って堅く立ち、最期まで困難や試練を耐え抜けというのです。それは我慢ではなく希望の忍耐です。

そして、憎むべき破壊者に巻き込まれないようにひたすら逃げよ。地上のものに執着しないで早く逃げよと忠告されています。実際この世の終わりの時はそれら一切は滅びゆくものです。

ただ迫害への恐怖が常に私の脳裏にあります。迫害にはすぐに転んでしまうような恐れがあります。いや、その時は転ぶことさえできない問答無用の大迫害でしょう。

しかしそのことも一切神に委ねて平安をいただきます。そして今は北朝鮮の危機を回避して最悪の進路に進まないように祈るばかりです。

聖歌 582番(新聖歌397番) 「神の御子にますイエス」 
メロディは「アニー・ローリー」です。
@ 神の御子にますイエスのために
   罪を敵として立つは誰ぞ
   (くり返し)全てを捨てて従いまつらん
         わが全てにます王なる主イエスよ

A 富の楽しみと地の位に
  目もくれずイエスに付くは誰ぞ

IMG_4531.jpgB 罪にとらわれし魂をば
  イエスに連れきたる勇士は誰ぞ


C わが持てる物は主よ汝(な)が物
  きよきみいくさに 用い給え
 

posted by 優子 at 13:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月28日

God's in his heaven

今年こそとヤマフジに誘われて夕方散歩に出た。
2年前にヤマフジ(ノフジ)を知り、昨年は気をつけていたのに期を逃し、ついに見た満開の時!

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「わあ 美しい!」
声を上げて走り寄り、息を呑んだ。

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Pippa's Song (春の朝)
            Robert Browning                     

The year's at the spring  時は春、
And day's at the morn;   日は朝(あした)、
Morning's at seven;      朝(あした)は七時、
The hill‐side's dew‐pearled; 片岡(かたをか)に露みちて、
The lark's on the wing;   揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
The snail's on the thorn;  かたつむり枝に這い、
God's in his heaven ―    神、そらに知ろしめす。
All's right with the world!  すべて世は事も無し。


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モッコウバラ

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「主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい」。

       (哀歌 3章22・23節)

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ナルコユリ

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色づきはじめたサクランボ

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風に揺れる新緑

God's in his heaven. 

「あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」。

                (詩篇16篇11節) 

posted by 優子 at 18:24| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

チャッピーがでてきたよ!

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私の不在中に帰宅した日のユキの置手紙

朝早くから午後3時前まで外出した25日のこと。まん悪く今週は家庭訪問のため午後1時過ぎに学校から帰ってくるというので困ったが、ちゃんと宿題を済ませて遊びに出かけていた。

2月に東大阪の読書会へ出かけた時は近隣の友にお世話になったが、その後の間に著しくしっかりしてきたようで、今日は「かえって楽しかった!」と頼もしい感想が返ってきた。どうやら私の方が不安だったようだ。

IMG_4410.jpgその夜、ユキが遊んでいるゲーム機(DS)に惹きこまれた。写した写真に花やシャボン玉で落書きしたり、これは「どんな写真が取れるか分からないカメラです」という機能にセットして撮ったもの。

「これはチャッピーじゃないの? チャッピーではなくて柴犬の顔なのかなぁ」と、私だけではなくユキもわかっていなかった。何度か写していると今度は間違いなくチャッピーが出てきた!

チャッピー.jpg
チャッピーが笑ってる!!!

私はどうしてチャッピーが出て来るのかわからなくて不思議でならなかったが、ユキが以前にチャッピーの写真を撮って保存していたものが組み合わさったものだった。

しかし毎回出て来るのではなく滅多に出てこない。
「おばあちゃんにもチャッピーと撮ってあげたい」と何度も挑戦してくれたユキの優しさが嬉しかった。

それにしても魔法のような出来事に馴れっこになっている現代の子どもたちが大人になった時、彼らはどのような人間観を備えどのような考え方をするのだろうかと興味深い。

posted by 優子 at 08:31| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

「今日よい1日を出発くださいますように!」

「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」。
                    (詩篇14篇1節)

神がいないなら、「空の空、すべては空」です(伝道者1:2)。学業、労働、結婚など生の営みの全てが無意味です。それゆえ「神はいない」人生を真剣に生きるのは愚かなことです。

人生に意味があるのは、「神はいる」場合だけです。
しかし、「神はいる」と信じながら、「神はいない」かのように生きるなら、それも愚かというべきではありませんか。

        ―キリストの栄光教会:「今日の御言葉」より―

「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように」。
       (黙示録1:5〜6)

「今日よい1日を出発くださいますように」。

主を見上げ、友の励ましに支えられて新しい今日を始めよう。友のことを祈りつつ。

posted by 優子 at 07:14| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

家の教会2017O ―信仰は神の恵み―

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今日の二上山(にじょうざん・雄岳)

2017年4月23日(日) (2017第16回 家の教会)
16時10分〜17時
出席者 3名(Except R)
@お祈り  優子 
A 聖書輪読  ヨハネによる福音書 20章19節〜31節:
B お祈り   一人ずつ
C 分かち合い
D 子ども讃美歌  「雄々しくあれ」
          ユキの独唱に始まり共に讃美する
E 讃美歌   496番 「麗しのしらゆり」

ヨハネによる福音書 20章19節〜31節:
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

20:30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
20:31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

お話:
イエス・キリストの誕生は神の言葉(ロゴス)が人となった「キリストの受肉」という、とてつもない出来事でした。そしてクリスマスと同様のとてつもない出来事がキリストの復活でした。

復活の出来事により、神さまがイエスさまの十字架の死によって私たちの罪をお赦しくださったことがわかったのです。復活は神さまからの赦しの宣言であり神さまの応答です。

ですからイエスさまのお言葉を信じる者は、キリストの復活によってその人の罪の問題は完全に解決しました。このことを「救い」と言い、復活こそがクリスチャンの原点なのです。


パウロはこのように言っています。

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」。

           (コリント人への第一の手紙15章17節〜20節)

復活などあり得ないと多くの人は言うでしょう。2000年前の人にとっても復活は信じがたいことでした。

今日のお話はイエスさまが復活されたその日の夕方の出来事です。弟子たちはイエスさまへの迫害が自分たちにも及ぶことを恐れて戸を閉めていたのですが、イエスさまは戸を開けずに戸を通過して入ってこられました。

イエスさまは弟子たちにご自身を現してくださいました。
ところがそこに居なかったトマスが帰って来た時に、仲間から「わたしたちは主にお目にかかった」と言われて、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」 と主張しました。

その8日後にイエスさまはトマスにも現われてくださり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ないで信ずる者は、さいわいである。」と仰いました。

それ以後の人々のクリスチャンはみな見ないで信じる者になったわけですが、2000年前多くの人々がイエスさまの奇跡を見ました。しかし、奇跡を見た人が皆信仰を持ったわけではありません。

奇跡を見て信じた人もいれば、見ても信じなかった人がいました。ではどうして信仰を授かる人と授からない人がいるのでしょうか。

私は全く疑う余地もなく信じることができました。なぜならば復活されたのは人間ではなく神だからです。
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」とイエスさまは言われました。

そのこと以前に、信じることができないのは主イエスが話されたことに関心がないからだと思っています。聴く者の心に、また、奇跡を見ていた人の心に求めがないからです。「求めがない」とは即ち心に飢え渇きがないのです。

自分の人生にさえ主体的になれず傍観者として生きている人も大勢います。誰も皆、人生途上で次から次へと難題がやってくるわけですが、傍観的に生きている人はそれらと対峙しないで流してしまうのです。

自分自身と向き合うことをしないのです。そういう人に限って決まって他者を責めるのが特徴ですね。「悪いのは全て相手だ」と。常にそのような生き方をしていると、ついに何も見えなくなってしまうのでしょう。

ですからいくら年齢を重ねても他者の優しさや思いやりがわからず、感謝と喜びのない人生を生きることになるのです。それではせっかくの命が勿体な過ぎます。

自己と向き合うと自分の内面の葛藤の醜さを知り、そのようにありたいと願いながら実行が伴わないという二律背反に苦しみます。偉大な思想家は言います、パウロの告白に優る自己省察はないと!

自分の姿を見ると落ち込みますが、そのたびに主イエスを見上げるのです。そしてパウロの言うように、「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と何度も立ち上がるのです。常にこのことを憶えて生かされていることこそが神の恵みです。

御言葉(聖書の言葉)にこそ力があります。神の力が働いているから慰めを受け、励ましと力を受けるのです。真剣に求めている人ほど恵みが豊かに注がれます。最近の私は知子の唇を通して聴く御言葉から溢れる励ましと希望を感じています。

私たちは修養してクリスチャンになるのではありません。神の恵みによって一方的に授かったのです。そして、「あなたこそ生ける神の子キリストです」という告白の恵みを経てクリスチャンになるのです。

そのとき神さまは自分の生涯が何のためであるかを確認させてくださり、そこから真の人生が始まるのです。まさに神を知るまでは「人生の夜明け前」なのです。


弟子たちは復活の主と出会って福音を宣べ伝え始めました。

「わたし(イエス・キリスト)はよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。

ブルンナーはこのように語っています。

「この言葉によってキリストが言おうとしておられることは、何よりも先ず、もしあなたが地上的ないのちを超えて、永遠に向かって目を上げないなら、わたしが誰であり、あなたがたに対して何を意味するものであり、わたしがあなたがたのためになしたこと、これからなそうとしていることを全然理解できないであろう」。

一人でも多くの人が神さまの恵みを受け取られますように!
厚かましく「ありがとうございます!」とお受けすればいいのです。

そして、互いに良い影響を与え合いながら生きていきたい。そのような日々こそが最高の人生だと思います。
今週も多くの闘いがあるでしょうが、どんなことの中にも主のみ旨がなるように信じて励むことができますように。今週もそのことを祈って始めましょう!

「イエスさま、今日の朝はいろいろありましたが『家の教会』ができて感謝します。・・・」(ユキの祈り)

讃美歌 496番 「うるわしの白百合」

無題.png@ うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
  イエス君の墓より いでましし昔を

(繰り返し)うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
      ゆりの花 ゆりの花 ささやきぬ昔を

A 春に会う花百合 夢路よりめさめて
  かぎりなき生命に 咲きいずる姿よ
  
B 冬枯れのさまより 百合しろき花野に
  いとし子を御神は 覚したもう今なお

附記:外出中のお昼過ぎのこと。
良輔より淳子姉が来てくださっているとの連絡が入り、出先で出会ってしばらく話す。1月に入院されていた時よりもお元気になっておられたが、痛みが完全に癒されますようにお祈りします。

posted by 優子 at 17:48| 家の教会 | 更新情報をチェックする