2017年12月17日

家の教会2017㊺ ―天地を貫く歓喜―

anime_tomosibi02.gif2017年12月17日(日) (2017第45回 家の教会)

9時30分〜10時25分

  出席者 3名(ユキと良輔)

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌      115番「ああベツレヘムよ」

C 聖書輪読     ルカによる福音書2章1節〜20節

D お話    優子

E お祈り   1人ずつ

F 讃美歌   114番「天なる神には」


ルカによる福音書 2章1節〜20節:

2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
み使い羊飼に現る.jpg2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

お話:

j_je01.jpg今年は是非ユキに私の母校である同志社女子中・高のクリスマスページェントに連れて行ってあげたいとの思いが与えられ、その準備もかねて待降節より一週間早くから降誕に関する聖書個所や讃美歌を取り上げてきました。


昨日は2時間半も外で立ったまま待たねばならなかったけれど、ユキは居眠りもしないで1時間40分熱心に降誕劇を見、聖書を聴き、讃美歌を歌っていました。今朝讃美したアメリカが生んだ美しい讃美歌、私の大好きな114番まで大きな声で歌っていたのでびっくりしました。


今日のお話も昨日朗読されていた聖書箇所です。

イエスさまはベツレヘムでお生まれになりましたが、皇帝アウグストから全世界(ローマ全土)の住民登録をせよという勅令が出なければベツレヘムではお生まれにならなかったのです。


こうしてミカ(イザヤと同時代の預言者)の預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。


「エフラタ」というのはベツレヘムの別名です。ベツレヘムは「パンの家」という意味であり、小麦や大麦などの穀物の産地だったことからベツレヘムと名付けられたのでしょう。余談ですが20年近く前に「パンの家」というパン屋さんを知った時、オ−ナーはクリスチャンなんだろうかと思ったものです。


人々は、皇帝アウグストこそが「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を完成させた王だと思っていましたが、それは力と権力での治世でありアウグストにとっては、そこにもう一人の王「救い主」が誕生するのはあってはならない事だったのです。


神の子であるイエス・キリストがお生まれになったのは馬小屋でした。寒くて汚くて暗く、神の栄光を捨てて無力で最も貧しい人間として生まれてくださったのです。飼い葉桶はその象徴であり、このこともまた信じられないことでした。


神さまがこの重大な出来事を最初に伝えたのは羊飼いたちでした。当時、羊飼いは貧しく社会的にも最も弱い立場の人々でした。しかし彼らは神さまの啓示を信じることができた恵まれた人々でした。


み使いは羊飼いたちにだけではなく、イスラエルの全ての民に知らせたのですが、信じた人たちはとてもとても僅かな人でした。羊飼いたちは真理を知ることのできる目と耳を備えていたのです。


それは常に真理なる神を待ち望んでいる人に備えてくださり、彼らは神の啓示を聞いて馳せ参じて救い主を拝しました。これが世界で初めてのクリスマスでした。


j_je03.jpg羊飼いたちはどんなに遠くても怯(ひる)むことなく示されたとおりに向かっていく熱心さ、即刻従う人たちでした。

その姿に心が揺さぶられます。しかも見聞きしたことを人々に伝えたとは、これこそが福音伝道者の姿であると深く感じ入りました。

信仰を恥ずべきことのようにひた隠しに隠して生きている人はいないでしょうか。真に主と共にある人は言葉の端々に、その人の言動をとおして伝道させてくださるのだと思います。

救い主の来臨はイスラエルの全民衆が永く待望し切望していたことでしたが、救い主が飼い葉おけに寝かされているのが信じられず、今も多くのユダヤの人々は救い主を待ち続けています。


イエス・キリストは誕生した時から人々に迎え入れられず、最後は十字架に架けられて囚人と共に処刑され、最初から最後まで受け入れられない存在でした。


「メシア」とは、旧約聖書のヘブライ語における「油注がれた者」という言葉で、その言葉をギリシャ語で「クリストス」、即ち「キリスト」という言葉です。また「油を注がれた者」には「選ばれた者」という意味もあります。


「御心に適う人に平和があるように」とは、御心に適わない人(罪人)には平和が与えられないということではなく、そもそも罪人である私たちは誰も「御心に適う人」ではないのです。


しかし、すべての人々にキリスト・イエスの十字架と復活により救いが与えられて、神さまとの関係が修復されたゆえに、この救いは自分のためだったのだと受け止めることができた人は、「神に栄光、地に平和あれ」と神を讃美しながらこの世の旅路を歩んでいくのです。

黒崎幸吉は、「イエス・キリストの降誕は天地の創造以来の第一の事実であり、新人の初穂の出生であり、彼によって人類の救いは完成し、神の栄光が耀き出るのであって、宇宙的に最大の出来事である」と書き残しています。信じる者は幸いです。

ペン友が贈ってくださったクリスマスレターの「あとがき」に書かれた、マリヤの生涯を思いめぐらしての一節にはこうあります。

「ふつうの女性だったらもう少し平和な日々を送れたのではないかと思います。光栄ある救い主の母に選ばれたために、険しい山坂を越え、死の陰の谷を行くような波乱に満ちた人生を送ったとしか思えません。マリヤにも感謝!です」」と。

本当にそうだと思いました。マリヤは光栄ある救い主の母に選ばれたがゆえに、身重の体でナザレからベツレヘムまで220キロも旅し、イエスさまの磔刑まで見なければならなかったのですから。

私たちもキリスト者の生涯を歩む者とされて最高の人生を賜っています。そのことはまたキリスト者は常に神さまの視線を感じていますから、やはりイエス・キリストと出会っていない人よりもはるかに厳しい生き方が求められていますし、そのことを自らが選び取って行くことにもつながると思いました

心が弱っている時は誘惑を感じますが、神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、低い者を高く上げ」てくださるのです。自分のことしか関心のない人や感謝を知らない人に負けないで生きていきましょう。

2000年前、神さまはそれら一切の不条理の中でご計画を成就されたのです。神さまにとっては何があろうとも神のご計画を邪魔されることはないのです。それゆえに私たち一人ひとりにご計画くださっていることも必ず成就してくださるという希望を握って生きることができるのです。

今、エルサレムは争いの地になっています。今月6日にトランプ大統領がイスラエルの首都はエルサレムであると宣言したために、ユダヤ人とアラブ人、正しくはユダヤ教とイスラム教の人々が争い死者が出ています。イエスさまがお生まれになり、そして、死んで復活されたエルサレムで!

この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです!

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」

神さまは私たちにイエス・キリストを贈ってくださり、真の救いを与え、不安と恐れ、そして憎しみから解放し、平安と喜びと希望をもって歩めるようにしてくださったのです。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。

このみ言葉を「あなたにために」、即ち「私のために救い主がお生まれになった」と聞ける者は幸いです。来週はアドヴェント4週目、いよいよクリスマス礼拝です。誰も皆、幸いなクリスマスをお迎えすることができますように祈ります。

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posted by 優子 at 17:18| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

同志社女子中・高のクリスマスページェント ―1970年卒業後2度目で31年ぶり。これが生涯最後のホームカミングか―


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4時頃に整理券が配られるとのことなのに、
2時半過ぎで既に80名ほどが並んでいました。
このあと4時に整理券をいただいて開場の5時まで待ちました。
1100名分完配、入場できなかった人も多数おられました。

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整理券まで同志社カラーにこだわっての紫でした。

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クリスマスページェントは礼拝ゆえに写真撮影禁止。

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ページェントのあとの「ストーム」
聖歌隊が讃美歌を歌って見送ってくれました。
この3倍の人数の聖歌隊でした。

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これは同志社大学のクリスマスツリー。

さあ、ユキ、気合を入れて帰ろうね。
大阪を通り過ぎて奈良県までとは辛かったね。
21時45分に無事帰宅しました。
詳しくは後日記録しておこうと思いますが、
体調が冴えなかったせいもあるけれど
悲しく、ただただ悲しかった・・・

posted by 優子 at 23:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

ノーベル平和賞 サーロー節子さん演説全文

「12月10日、オスロで行われた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式で被爆者サーロー節子さんが行った演説は次の通り。」として、東京新聞に掲載された演説全文をここに記録しておきたい。

サーロー節子さん.jpg両陛下。ノルウェー・ノーベル賞委員会の高名なメンバーの皆さま。ここにいる、そして世界中にいる運動家の仲間たち。淑女、紳士の皆さま。

ICANの運動を形づくる傑出した全ての人々に成り代わってベアトリス(・フィン事務局長)と共にこの賞を受け取ることは大変な栄誉です。私たちは核兵器の時代を終わらせることができる、終わらせるのだという、かくも大きな希望を皆さま一人一人が私に与えてくれます。

▼座視しない

被爆者は、奇跡のような偶然によって広島と長崎の原爆を生き延びました。私は被爆者の一人としてお話しします。70年以上にわたって私たちは核兵器の廃絶に取り組んできました。

私たちは、この恐ろしい兵器の開発と実験から危害を被った世界中の人々と連帯してきました。(核実験が行われた)ムルロア、エケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニといった長く忘れられた地の人々。土地と海を放射線にさらされ、人体実験に使われ、文化を永遠に破壊された人々と連帯してきました。

私たちは犠牲者であることに甘んじることはありませんでした。灼熱の終末を即座に迎えることや、世界がゆっくりと汚染されていくことに対し、手をこまねいていることは拒否しました。

いわゆる大国が、無謀にも私たちを核のたそがれから核の闇夜の間際へと送り込むことを、恐怖の中で座視することは拒否しました。私たちは立ち上がりました。生き延びた体験を分かち合いました。人類と核兵器は共存できないのだと声にしました。

▼叫び声聞こえた

きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。雲霞(うんか)のような20数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。

米国が最初の原爆を私が住んでいた都市、広島に投下した時、私はま13歳でした。私は今もあの朝を鮮明に覚えています。8時15分、窓からの青みを帯びた白い閃光に目がくらみました。体が宙に浮かぶ感覚を覚えています。

静かな闇の中で意識を取り戻すと、倒壊した建物の中で身動きできないことに気付きました。級友たちの弱々しい叫び声が聞こえてきました。「お母さん、助けて。神さま、助けて」

そして突然、私の左肩に手が触れるのを感じました。諦めるな。頑張れ。助けてやる。あの隙間から光が差すのが見えるか。あそこまでできるだけ速くはっていくんだ」。誰かがこう言うのが聞こえました。

はい出ると、倒壊した建物には火が付いていました。あの建物にいた級友のほとんどは生きたまま焼かれ、死にました。そこら中が途方もなく完全に破壊されているのを目にしました。

幽霊のような人影が行列をつくり、足を引きずりながら通り過ぎていきました。人々は異様なまでに傷を負っていました。血を流し、やけどを負い、黒く焦げて、腫れ上がっていました。体の一部を失っていました。肉と皮膚が骨からぶら下がっていました。飛び出た眼球を手に受け止めている人もいました。おなかが裂けて開き、腸が外に垂れ下がっている人もいました。人間の肉体が焼けた時の嫌な悪臭が立ち込めていました。

このようにして、私の愛する都市は一発の爆弾によって消滅したのです。住民のほとんどは非戦闘員でした。彼らは燃やされ、焼き尽くされ、炭になりました。その中には私の家族と351人の級友が含まれています。

▼愚行を許さない

その後の数週間、数カ月間、数年間にわたって、放射線の後遺症により予測もつかないような不可解な形で何千もの人々が亡くなりました。今日に至ってもなお、放射線は人々の命を奪っています。

広島を思い出すとき、最初に目に浮かぶのは4歳だった私の甥、英治の姿です。小さな体は溶けて、肉の塊に変わり、見分けがつかないほどでした。死によって苦しみから解放されるまで弱々しい声で水が欲しいと言い続けました。

今この瞬間も、世界中で罪のない子どもたちが核兵器の脅威にさらされています。甥は私にとって、こうした世界の子どもたちを代表する存在となりました。核兵器はいつどんなときも、私たちが愛する全ての人々、いとおしく思う全てを危険にさらしています。私たちはこの愚行をこれ以上許してはなりません。

苦しみと生き延びるためのいちずな闘いを通じて、そして廃虚から復興するための苦闘を通じて私たち被爆者は確信に至りました。破局をもたらすこうした兵器について、私たちは世界に警告しなければならないのです。繰り返し私たちは証言してきました。

しかし、広島と長崎(への原爆投下)を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今日に至るまで核軍拡競争は続いています。

今も9つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上ることを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです

▼終わりの始まり

今年7月7日、世界の大多数の国々が核兵器禁止条約の採択に賛成した時、私は喜びでいっぱいになりました。私はかつて人類の最悪な側面を目撃しましたが、その日は最良の側面を目撃したのです。

私たち被爆者は72年の間(核兵器が)禁止されることを待ち続けてきました。これを核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。

責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否すれば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につながるのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません

「抑止力」とは、軍縮を抑止するものなのだということはもはや明らかです。私たちはもはや恐怖のキノコ雲の下で暮らすことはありません。

核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。

世界のあらゆる国の、全ての大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。核による滅亡の脅威を永久になくしてください。

▼光に向かって

私は13歳の時、くすぶるがれきの中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光です。

この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」。

今夜、燃え立つたいまつを持ってオスロの通りを行進し、核の恐怖という暗い夜から抜け出しましょう。どんな障害に直面しようとも、私たちは進み続け、頑張り、他の人たちとこの光を分かち合い続けます。この光は、かけがえのない世界を存続させるために私たちが傾ける情熱であり、誓いなのです

                (オスロ・共同)=ノーベル財団公表の公式テキストによる

<サーロー節子さん> 32年広島市生まれ。トロント大大学院修了。13歳のとき広島で被爆し、姉やおいを失う。55年にカナダ人と結婚し、同国に移住して核廃絶運動に尽力。これまで国連総会の委員会など世界中で開かれる国際会議で、被爆証言を重ねてきた。カナダ政府が民間人に贈る最高位勲章オーダー・オブ・カナダを受章した。 (共同)

<核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN=International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)> 核兵器廃絶を目指し、2007年にオーストラリアで設立された非政府組織(NGO)の連合体。100カ国超からの約470団体で構成し、平和や軍縮、人権といったテーマに取り組む。啓発イベントの開催のほか、国連や各国議会での演説が主な活動内容。日本のNGOピースボートは主要運営団体の一つ。事務局はスイス・ジュネーブ。 (共同)2005年には、イスラームやユダヤ教の指導者らと共に聖地宗教評議会を立ち上げた人物だ。

サムサムさんより:

原爆で倒壊した建物の中で身動きができなくなってしまったサーロー節子さんに、「諦めるな。頑張れ。助けてやる。あの隙間から光が差すのが見えるか。あそこまでできるだけ速くはっていくんだ」と、声をかけ励ましてくれたのはいったいどういう人だったんだろう思って読み直してみました。
が、「誰かが」と書かれてあるだけで、結局、ご本人にもわからなかったようですが…。もしかしたら神様の声、は、そう思えてなりませんでした。            
サムサムさん、コメントありがとうございます。
私も全くそのように思えてなりませんでした。                                     
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posted by 優子 at 20:44| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

家の教会2017㊹ −受胎告知とマリヤの讃歌(マグニフィカート)―

anime_tomosibi03.gif2017年12月10日(日) (2017第44回 家の教会)

10時5分〜11時5分

  出席者 2名(with 良輔)

@ 初めのお祈り

A 主の祈り

B 子ども讃美歌

C 讃美歌   95番「わが心は」  

D 聖書輪読  ルカによる福音書 1章26節〜55節

E お話    優子

F お祈り   1人ずつ

G 讃美歌   100番「生けるものすべて」

知子は全日外出、ユキは同室にいたがFのお祈りより参加。

讃美歌100番は文末に歌詞を掲載しています。


ルカによる福音書1章26節〜55節:

1:26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。

1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

1:28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

1:29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。

1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。

1:37 神には、なんでもできないことはありません」。

1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、
1:40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、
1:42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。
1:44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。
1:45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

お話:

マリアの処女懐胎はエリサベツとザカリヤの出来事よりも信じられないことだと思います。あまりにも超自然的なことゆえに論理的に説明することはできません。ですから何故そのことを信じられるのかと問われても論理的に説明することはできず、信じられるということ自体が神さまからの賜物なんだなぁとしみじみ思います。


アヴェ・マリアの「アヴェ」は「ご挨拶申し上げます」、「こんにちは」などの挨拶言葉ですが、その原語の「カイロー(χαίρω)」の本来の意味は、ラテン語で「祝せられよ」や「喜ぶ」を意味する挨拶の言葉です。その訳語を意図的に「おめでとう」(28節)としたのは、聖書の中でここルカ伝1章28節だけです。


天使ガブリエルがマリアに「おめでとう」と言った真意は、「全く新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶」でした。それはマリアだけにではなく、世のすべての人々が主にあって祝福される新しい時代の到来を意味するのです。


「イエス」とは「神は救いなり」の意味で、ヘブル語では「ヨシュア」です。「神の子」であるは「聖なる者」を意味し、「聖」とは「区別」されることを意味します。即ちイエスは私たちとは異なる存在であり、「インマヌエル」という神性と人性とが完全にひとつとなっているお方です。


マリヤ.png先週のザカリヤの気持ちと同様に、私たちはあまりに大いなる恩恵を受けていることを知る場合も不安を覚えます。マリヤはまだ結婚もしていないし、それに神さまの子を産むだなんて、とても信じられないことゆえに戸惑い心配になって、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と驚きの問いかけをしました。


すると天使が、「親族のエリサベツも赤ちゃんを産みますよ」と言い、「エリサベツは赤ちゃんを産むには年を取っているし、赤ちゃんはできないと言われていた人でしたが、今、エリサベツのお腹の中に赤ちゃんがいますよ。それは神さまのお考えで神さまがされたことなのですよ。」と話しました。


IMG_9475.jpg「おことばどおり、この身になりますように」。

マリヤは納得できたから委ねたのではなく、神への全幅の信頼の上に立って、神のご計画が成就されますようにと全てを委ねたのです。この姿こそが神への献身だと思いました。


マリヤのような超自然的なことでなくても、私たちも人生途上でマリヤと同じ全身全霊の祈りをささげる時があります。


例えば、主に在って百戦錬磨の闘いに明け暮れる年月を耐えながらも、全く状況が変わらず、その苦悩と悲しみの末に、より深く謙遜な魂へと導かれて主に委ねるのです。「神さまのみ心が成りますように」と。


しかし、その時の何と平安なことでしょうか。そのような時こそ神の恵みを強く実感させてくださいます。


クリスチャンとは主イエス・キリストの招きを受け入れたキリストに属する者です。ですから私たちにもマリヤのように神の聖霊が臨んでくださっていることを覚え、今一度信仰を強くされて死に至るまで神の約束を信じて神の勝利に立って歩ませてくださいと祈ります。


イエスさまは神の子なのに、神に依存しなければ生きていくことができない貧しく弱い者として、御霊(の助けと力を求めて生き抜かれたのです。ましてや私たちは聖霊を求めずして生きていくことはできません。


マリヤはエリサベツに会いに行きました。マリヤのお話を聞いてエリサベツのお腹の中の赤ちゃんが激しく動いて、マリヤに臨んだ同じ聖霊がエリザベツをも満たし、エリサベツはマリヤのお話も神さまから来たものだとわかったのです。


神さまに選ばれた者たちの交わりは、このように聖霊が行き交って恵みから恵みへと豊かな喜びで満たしてくださいます。


「マリヤさん、おめでとう! 心配しないでいいのよ。あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの赤ちゃんも祝福されています。神さまのことを信じていればいいのですよ」とエリサベツに言われたマリヤは、神さまがどんなに大きなことをしてくださったのかが全身全霊で分かったので、「わたしの魂は主を崇めます」と言葉に出したのです。


46節〜55節もまたあまりにも有名な「マリヤの讃歌」や「マグニフィカート」と呼ばれているところです。それは最初の言葉、「わたしの魂は主を崇めます」をラテン語で“Magnificat”(マグニフィカート)と言うからです。


ここはまさに旧約(神さまとの古い契約)からイエス・キリストが到来した新約に移る黎明の光景です。


力ある者が権力を振るい、貧しい人が虐げられ、善良な人が苦悩し悲しむ不条理、それらのことを超えて全ての事を支配されている全知全能なる神のご計画が実現されていくというのです。ハンナの祈り(第一サムエル記2章1節〜10節)を思い起こさせます。


飼い葉桶の赤ちゃんこそが救い主であり、イエス・キリストを通して朽ちず渇くことのない喜びと希望、魂の解放と平安という真の救いを与えてくださったのです。


こうして紀元前8世紀の預言者ミカの預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。

5:3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、

主は彼らを渡しおかれる。

その後その兄弟たちの残れる者は

イスラエルの子らのもとに帰る。

5:4 彼は主の力により、

その神、主の名の威光により、

立ってその群れを養い、

彼らを安らかにおらせる。

今、彼は大いなる者となって、

地の果にまで及ぶからである。

(ミカ書5章2節〜4節)


主イエス・キリストを受け入れた者たちに臨んでくださっている祝福は、その者の周囲の人々に、そして思いもしない人々にも広がって行くのです。
キリスト不在の日本のクリスマス。
1人でも多くの人に人生の夜明けが訪れますように祈ります。

2_onpu_ak.gif讃美歌100番「いけるものすべて」

1 生けるものすべて
  おののきて黙(もだ)
  世の思いすてて ひたすらに仰げ
  かみの御子(みこ)は くだりたもう
  このきよき日にぞ
2 きみの君なれど
  マリヤより生まれ
  うまぶねの中に 産声をあげて
  おのが身をば あたえたもう
  つみびとのために
3 とこしえの光 暗き世にてりて
  み使いは御子を
  かしこみて崇(あが)
  いざわれらも ほめうたわん
  いとたかき君を
posted by 優子 at 11:27| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月07日

エルサレムに平和を!

エルサレムのために平安を祈れ、
「エルサレムを愛する者は栄え、
その城壁のうちに平安があり、
もろもろの殿のうちに安全があるように」と。
                              (詩篇122篇6・7節)

エルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地である。国際社会はイスラエルによる統治を認めておらず、交渉によって解決すべきとしている。しかし、トランプ米大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると発表した。中東情勢が危機的な情勢にならないように祈らずにはいられない。

ユダヤ人とアラブ人の関係が悪くなったのは第2次世界大戦後からであるが、パレスチナとイスラエル問題の源流は4000年前まで遡る。

アブラハムとサライ(サラ)との息子がイサクで、アブラハムと使女(つかえめ)ハガルとの息子がイシマエルで、イサクとイシマエルは腹違いの兄弟である。イサクはイスラエル民族に、イシマエルはアラブ民族の先祖となった。

世界4大宗教のうち、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はアブラハムを「信仰の父」とし、3者とも旧約聖書のイスラエル民族の伝統を受け継いでいる。

ユダヤ教は「モーセ五書(トーラー)」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)とタルムードを聖典とし、新約聖書に記されているイエス・キリストとの問答からも明らかなように、神の唯一絶対性を信じるがイエス・キリストを排除する。

イスラム教の聖典は「コーラン」で、そこには聖書とは異なることが書かれているようだ。ムスリムの知人から聞いたイエス・キリストについても全く間違った認識だった。

キリスト者は今こそエルサレムの平和を祈り、イエス・キリストの教えに倣って隣人であるアラブ人たちに心からの敬意と愛を示したい。冒頭に掲げた聖句が世界に宣言している。

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posted by 優子 at 18:15| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

冬の散歩道

サムサムさんより:

驚きました。オオバンという水鳥ですか。わたしはまだ見たことがありません。

まるで、みにくいアヒルの子が白鳥にならずカラスになってしまったみたいですね。

いやいや、ほんとに驚きました。

花の写真いいですね。癒されます。     


オオバン.jpgコメントありがとうございます。ウィットに富んだコメントに「うまいなぁ」と感心してしまいました。

オオバンは泳いでいる時はかわいいですが、立つとこのような足なので驚きました。ちょっと苦手です。木の葉状の弁膜がある「弁足(べんそく)」と言うそうです。

嬉しくなって写真をもっと追載しましたのでもう一度ご覧くださいね。


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白モクレンがいっぱい蕾をつけていた。

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こんな水鳥を見たのは初めて。
2羽で泳いでいた。
これはツル目クイナ科のオオバンだって!

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カルガモ

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もうスイセンが咲いていた!

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まだ完全に開き切っていない生まればかりの花。

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皇帝ダリヤの茎は竹のように太くて木のように固かった!


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何年も前から見ていた木だけれど、このような実を見たのは初めて。
実が弾けて粘着液で覆われたエンジ色の種が出てきた。


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追載:
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ユキのクラスメイトはこのお宅の子。
昨夜から点灯が始まったとユキが教えてくれたので観てきました。

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posted by 優子 at 16:21| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

カール・バルトのクリスマスメッセージ

クリスチャン・トゥディ「私たちの味方であるまさにその人」より転載させていただいた。

image.jpg大神学者として知られるカール・バルトは晩年、大学で教えながら、1954年から10年間(60代後半から70代後半)、バーゼル刑務所で囚人に対して説教を語り、聖餐式を行っていた。

教会で説教をしなくなったので、バルトの説教を聞きたければ刑務所に入らなければならないと言われたほどだったという。

この説教は58年のクリスマスに語られたもの。カール・バルト、天野有訳『聖書と説教』(新教出版社)所収の説教を、新教出版社と訳者の天野氏の許可を得て、編集部が記事スペースに収まるよう短くした抄訳。


「そして彼女〔マリヤ〕はその最初の息子を産み、産着にくるんで、飼い葉桶に寝かせた。なぜなら、かれらは宿屋にいかなる場所をも見出さなかったからである」。(ルカ2:7)

わが愛する兄弟姉妹方!

ここでマリヤの最初の息子として生まれ、飼い葉桶に寝かされた人とは誰でしょうか。私はその答えを全く単純にこう申しましょう。「きみの味方であり、私の味方であり、そして私たちすべての味方でもある方だ」と。自分のことを全く考えることなく、また最高の力の中で味方となってくれるのは、まさにこの彼だけです。

この人は、〔ここにおられる〕きみの味方です、そして、〔そこにおられる〕きみの味方、そして、〔あそこにおられる〕きみの味方です! 私が今こう申し上げるとき、それはきみたち一人一人にこう考えていただきたいからです。「それはまさしくこの私に関わっている」と。そう、だから、この人はきみの味方なのです。

誰かがそんな風にしっかりと味方だということを、きみは願っているのではないでしょうか。そのことをきみは心の底では慕い求め、そのことを望んでいます。きみは仲間なしにはやってゆけません。

そこで今やきみはこう自問します。「一体誰が、そんな風にしっかりと私の味方でいてくれるだろうか」と。それから、続いてこんな問いがきっと浮かんで来ることでしょう。「私の味方になったりする人など、そもそもいるんだろうか。そんな人、一人もいないんじゃあないだろうか。もしかしたら、私など、みんなにとってどうでもいい人間じゃあないだろうか。かれらはみんな、あの〔善きサマリヤ人の〕譬えの祭司やレビ人のように、私のそばを通り過ぎて行ってしまうんじゃあないだろうか。それどころか、かれらはみんな、私を敵対視しているんじゃあないだろうか」。

そして、こう自問したあとには、やはり或る全く大きな孤独が襲ってきて、きみは自分が全く見棄てられてしまったと感じることでしょう。そうしてそのとき、あの大きな誤りがきみのそばに寄ってくるのです。「そんなら、私自身が自分の味方になってやろう!」と。

けれども、まさにこれこそが最大の誤りなのです。溺れかけている者が自分で自分の髪の毛をつかんで水から引き上げるなどということはできないのです。誰か或る他者がきみを助けてくれるのでなければなりません。

そして今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「きみの味方であり、きみを助けてくれる、まさにその他者が生きて、ここにいる。この他者は、あの時生まれた方だ。きみの目と耳と心を開いてごらん。そのとき、きみは見て、聴いて、経験して知るようになるだろう。《その方がここにいる。そして、その方は本当に私の味方でいてくれる。ほかの誰も真似(まね)のできない仕方で――そうだ、すべてをかけて、そして、どこまでも、いつまでも――、まさにこの私の味方でいてくれる!》と」。

こうしてこの方は下心なしに――自分のことを考えることなく――きみの味方でいてくれるのです。

きみはもしかしたら、先ほどこんな風に自問したかもしれません。「〔あなたが仰るほど〕そんなに悪いものだろうか。なんと言ったって、この人やあの人が私の味方でいてくれるではないか」と。

なるほど、そうかもしれません。けれども、そこにはなにか或る影があるのではないでしょうか。たとえその人が最愛の人でも。きみは感じるのです。「そもそもこの人は、実際には真っ先に自分のことを考えているんだ」と。そして、これに気づいたとき、きみの孤独はまたしても、そして、いよいよもってそこにあるのです。

しかし今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「あの時生まれた方は自分のことを考えることなしにきみの味方でいてくれる。その方は本当にきみから何も求めない。その方はただきみ自身だけを求めておられる」。

まさにこの方こそ、きみの比類なき仲間となってくださった。この方はただきみのことだけを考えているのです。そして、最大の力をもってきみの味方でいてくれます。

誠実にきみの味方でいてくれるような誰かが実際にいるということもあるでしょう。その人間は、きみを助けたいと思うでしょうし、たしかに幾らかはそうするでしょう。けれども、最も深き根底においては、他のいかなる人間であれ、全く助けることなどできないのです。

しかし今や、あのクリスマスの使信はこう語ります。「あの時生まれた方は、実に神の御子なのだ。そして、その方がきみの味方でいてくれるとき、その方は最高の力の中でそうしてくれる。あらゆる事情の下にあっても、いかなる事情の下にあっても、きみを助けてくれる力! きみを全く明るくしてくれる力! きみをどんな人からも――きみの最悪の敵、〔つまり〕きみ自身からも――守ってくれる力! そのような最高の力の中できみの味方でいてくれるのだ。

その方は、しっかりと正しい仕方で、そして本当に助けてくれる力の中で、きみを担ってくれる力の中で、きみを救い出してくれる力の中で、だから、ただ小さな喜びだけではなく、大いなる喜び・変わることなき喜びを創り出してくれる力の中で、きみの味方でいてくれるのだ。そのような大いなる喜び・変わることなき喜びは、ただこの方おひとりだけがきみに与えることができる。

そして、そのような喜びをこの方はきみに事実、与えることができるのだ。この方はきみを、この〔世の〕生を貫きつつ導きゆく力、そしてその後は死をも貫きつつ永遠の生命へと担いゆく力の中で、きみの味方でいてくれるのだ」と。

このような方こそ、あの時生まれた方なのです。すなわち、きみの、私の、そして私たちすべての者の救い主なのです。

「飼い葉桶」とは私たちの生活の中で一体どのような場所でしょうか。

IMG_9360.jpg私たちの生活の表面の下(もと)に隠されつつ、或る深みが、或る底が、或る深淵が存在するのです。そして、そのようなところで、一人の例外もなく私たちすべての者は、ただまさに極貧状態におり、失われ〔て迷子になっ〕た罪人であり、嘆き呻(うめ)いている被造物、死につつある者、途方に暮れてしまっているのです。

そして、まさにそこでこそイエス・キリストは私たちの許(もと)を訪れてくださいます。いや、この方はすでに訪れてくださっているのです。そうです、私たちの生活の中にあるこの暗い場所・この飼い葉桶・この家畜小屋を神に感謝すべきかな! そのようなところで私たちはこの方を必要としているのです。

そして、まさにそこでこそ、この方も私たち一人一人を必要とすることがおできになるのです。そこでこそ、私たちはこの方に対してふさわしき者なのです。そこでこそ、この方は、《私たちがこの方を見、認識し、信じ、愛する》ことだけを待っておられるのです。

そこでこそ、この方は私たちに挨拶をしてくださるのです。そこでこそ、私たちのほうでもこの方に挨拶をお返しし、「ようこそいらっしゃいました」と言ってお迎えすること以外に、私たちには全く何も残ってはいないのです。

IMG_9407.jpgまさしくそこでこそ、この方は全く堅固に、私たちの味方でいてくださいます。この暗い場所でこそ、この方は私たちと共に主の晩餐を祝うことを欲しておられ、祝ってくださるでしょうし、私たちは、この方と共に主の晩餐を祝うことがゆるされているのです。アーメン。

カール・バルト(Karl Barth、1886〜1968)

スイスのプロテスタント神学者。弁証法神学の中心的存在。ドイツの大学神学部に招かれて教授となるが、ナチズムと対立して講壇を追われ、母国スイス・バーゼル大学神学部教授を務めた。主著に『教会教義学』『ローマ書講解』がある。

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2017年12月03日

家の教会2017㊸ ―イエス誕生の序曲―

anime_tomosibi04.gif2017年12月3日(日) (2017第43回 家の教会)
                   

10時30分〜11時

  出席者 2名(with ユキ)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」

C 聖書輪読     ルカによる福音書1章1節〜25節

D お話       優子

E お祈り      一人ずつ

F 讃美歌      94番「久しく待ちにし」


ルカによる福音書 1章1節〜38節:

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

1:2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
1:3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。
1:4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。
1:7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
1:11 すると主の御使いが現れて、香壇の右に立った。
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
1:13 そこで御使いが彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
1:18 するとザカリヤは御使いに言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
1:19 御使いが答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
1:21 民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。
1:22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。
1:23 それから務めの期日が終ったので、家に帰った。
1:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
1:25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。


お話:
今年は今日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい年が始まりました。私たちは先週からアドヴェントを迎えた気持ちで、クリスマスに間に合うように一緒に関係個所を読み始めています。今日はイエス・キリストが地上に突入される序曲とも言うべきところです。

ルカはユダヤ人ではなく異邦人(ギリシャ人)で医者であり歴史家でした。ルカは他の弟子たちと違ってイエスさまにお目にかかったことはありません。イエスさまの弟子たちによって導かれた人です。

ルカによる福音書はルカがテオピロのために労して書き記したものですが、テオピロという一個の魂の救いだけにとどまらず、ユダヤ人以外の人々にも福音を伝えたいとの祈りがあったと思います。

テオピロがどのような人物であるかよくわかりませんが、「テオピロ閣下」と尊称で呼んでいることから地位の高い人であったようで、しかも熱心にイエスのことを尋ね求めている求道者だったと推察されます。

エリサベツとザカリヤには子どもがいない年老いた夫婦でした。アブラハムとサラのことを思い出しますね。神さまはこの夫婦にも御業を始められ、エリサベツとザカリヤはバプテスマのヨハネの父母になります。

「アビヤの組の祭司」というのは、祭司アロンの子孫は24班に分かれていて、各班の中から籤(くじ)で選ばれて1週間ずつ交替して順番に宮の祭事を司(つかさど)りました。

アビヤはその第8班(歴代誌第一24章7節〜19)で、1回務めると再び選ばれることはないということですから、この日はザカリヤにとって一生に一度の特別な日でした。

ついでながら24班の順番は一定しているので、紀元70年エルサレムの陥落時に順番に当った班の名称から逆算すると、このアビヤの班の順番に当たる週間を知ることでき、そこからイエスの誕生の日を決定する一つの材料となると黒崎幸吉が記しています。

ガブリエルは「神の人」、または「神は人なり」の意味で、神の意志を伝える使いです。その御使いが、すでに老境に入っている夫婦に子供が与えられると聖所で告げたのです。

しかも、その子は万民の祝福となるべき男児だと言われて、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか」と言ったザカリヤは話すことができなくなってしまいました。

なぜ?! あまりの出来事に驚いてそのような言葉が出てしまったのは自然なことだと思うのですが、「あなたの祈りが聞き入れられたのだ」と告げられているのに信じなかったからだというのです。

私たちもイエス・キリストの十字架の死によって罪赦されるという、考えられないような恵みゆえにか、多くの人が信じられないのと同じだなぁと思いました。例えば太宰治は「そんなうまい話はない」と信じられず自殺してしまいました。

私たちもいつも祈っている神さまを本当に信じているのだろうかと、今一度自己吟味することは、まさにアドベントにふさわしい過ごし方だと思います。

ザカリヤが話せなくなったのは罰のように思えるのですが、ザカリヤの出来事は本心に立ち返らせる神さまの警告だと思いました。

神さまが「黙って見ていなさい」と沈黙させてくださり、そのことによりザカリヤは妻の身に起こった神さまの偉大なわざをしっかり見ることになりました。そして、「ザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。」(64節)と、しゃべられるようになった第一声は神への讃美でした。

この夫婦に授かった子どもはバプテスマのヨハネであり、キリストの出現の前にイスラエルの人々をイエスに導き、イエスによって主なる神に立ち返らせる使命を託された人物でした。

IMG_9338.jpgバプテスマのヨハネの誕生は、まさにイエスさまが誕生される前の序曲です。神さまはいつも私たちが人間の力ではどうにもならなくなった時に不思議なことをなさいます。

私たちにとって喜ばしいことであれそうではないことであれ、それは全知全能なる神さまのみ心に叶う最善なのです。

ザカリヤにとっては試練だったでしょうが、神さまは愛にして愛なるお方です。私たちも神さまの約束をしっかり信じて善き闘いを闘い抜きたいと思います。


posted by 優子 at 16:25| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月30日

持久走大会4年生も2位でゴールイン

IMG_9312.jpg昨夜まで持ちこたえていた最後の一輪もとうとう花びらを落とし始めていた。そして、持久走大会から帰宅したとき花びらはすべて散っていた。
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雨上がりの今朝、予定通り小学校の持久走大会が開催された。例年と違って暖かい朝でありがたい。

去年の後半期は知子が多忙を極め応援にいくことも断念せねばならなかったが、その前夜からひどい嘔吐のため欠席したので今回で3回目の出場だ。

1年生では1位、2年生の時は2位、そして、今回も2位でゴールイン! 2年生の時から今回もHa○○君が1位! ユキもよく頑張った!

低学年は2q、中学年のユキは2.6q走る。来年は3.2qだ。最初に運動場を2周して校外を走り、最後に運動場を1周してゴールインする。

去年から変わったのだろうか高学年から走り始めた。9時40分から2分ごとに次々走り出し、各学年の最後ランナーに職員による伴走車が続く。

町内のコースになっている30か所の立哨(りっしょう)場所に協力者が合計150名ほど(?)立ち、それ以外にも多くの保護者が沿道で応援する。

私たちは今年から見学場所を変えたが、走ってく来る子どもを見つけて写真を撮るのは難しい。4年生は赤帽と言っていたので、この中にユキが居るだろうと自信のないままシャッターを押した。幸い写っていてよかった。ユキは先頭から5番目に走っていたそうだ。

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今年は2年前の経験を活かして、最後の上り坂のために体力に余裕を持たせて1番で走らないと話していた。
E99990E7958CE6A8A1E6A798.jpg 4年徒競走A.jpg  
(↑)2年生の時、このあと後ろに続くHa○○君に抜かれた。Ha○○君から「この坂を頑張れるように力を残しておけってお兄ちゃんが言ってた」と聞いて、ユキも倣ったのだ。偉い!

それから2年経った今日のユキ(右上の写真)。幼さが消えていくのが寂しいが、見事に成長していく子どもたちに感動する。白い帽子は5年か6年生だ。

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幼稚園年長組は2位。小1は1位で「ゆきひさ君はダントツに速いね」とお母さん方に印象付け、今日もそのように話してくださる方がいた。

4年徒競走B.jpgユキは4年生で2位、クラスでは一番だった来年も2人の活躍が楽しみだ。

Ha○○君とユキのツーショットを撮らせてもらったら、写真を見てびっくり。もう一人入ろうとしてくれていた子に悪いことをした。
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5・6年生になると話しながら歩いている不真面目な子も珍しくなく、今年は2人の男の子が殴り合いの喧嘩しているので割って入って止めねばならなかった。

一旦は離れたもののすぐに殴りに行くのでまた止めに入っていると、息を切らして追いかけてこられた女性(先生だと知らなかった)に委ね、先生方のご苦労を垣間見た。

このあと1・2年生の子どもたちも応援したかったが、義母の世話があるので知子が会社へ向かうのを機に帰宅した。

では今朝の景色をここに。
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ピンクのヒガンバナ

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花ゆず
明日から寒くなるそうだ。
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posted by 優子 at 21:13| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

ブルンナー読書会N ―大いなる招き―

これは11月25日(土)の記事です。

IMG_9246.jpgミニトマトのオーナメント。こんなに実が残っているのでミニトマトの木を抜くに抜けなくて、ついに今朝処分した。そして実をカイヅカイブキに飾った。少しでも赤くなれば口に入れたい。

今日は毎回楽しみにしている「ブルンナー読書会」。ところが今日は夫は年に一度の土曜出勤日(年に一度にしたのは今年からで知子の英断による)なので、午前中は全体会議で午後は読書会。

感心に頭を切り替えて集中し、夫にも頂戴したテキストに赤線までひいてあった。夫も回を重ねるたびに密度濃く吸収しつつあるように感じる。

今回は、エーミル・ブルンナー著『フラウミュンスター説教集T』の4回目、説教のタイトルは「大いなる招き」。翻訳者から直接ご高説を賜わることのできる恵み。神さまに感謝しつつ2度目の発表当番を務めさせていただいた。

ルカによる福音書14章16節〜24節:
14:15  列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

下村さんのご解説より:
この説教は1948年12月に語られた。6月にロシアがベルリンを封鎖した年で明日どうなるかわからない時代だった。東西冷戦が始まった第一期の緊張が一番高まった時ゆえに「第3次世界大戦」という言葉が出て来る。

東西の冷戦は1945年のヤルタ会議から始まったと言われ、ベルリンの壁が壊された1989年11月まで44年間続いた。

私たち(キリスト者)はいつも初心者であり、日々悔い改め、新しくされて生きるのであり、完全な救いを望みながら生きるというわけでブルンナーの言葉は厳しい。

今日の説教では「喜び」という言葉が何度も出てきた。初代教会の人々は常に喜びをもって将来を考えた。ペテロ第一の手紙(1章3節〜9節)にあるように、イエス・キリストの将来を待望していた。

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。 
1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである。

(ここを輪読している間、私は神さまからの深い慰めを感じて涙が溢れそうになった。)

ヨハネによる福音書17章は「執り成しの祈り」、「大祭司の祈り」と言われているイエスの祈りである。神とイエスが愛し信頼する中で一つであった。その交わりの中に私たちも加えてもらい一つになる。「一つなる交わり」が宴(饗宴)の本質である。

ヨハネによる福音書 17章20節〜26節:
17:20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
17:21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
17:22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
17:23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 
17:25 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。
17:26 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。

私たちは罪を犯し、わがままや傲慢、不信が起こってくるが主イエスを見上げることができる。今はボンヤリと昔の鏡を通してイエスを見ているが、顔と顔を見合わせて会える。これが人生最後の目的であり、罪の悩みもなくなる

ドイツ語で「将来」という言葉は「未来」とも訳せるが、未来はまだ来ていないが、まさに来たらんとしているという意味を持っている「将来」と訳した。

私たちが目指していく将来は「もともと、現在から未来にわたるわれわれの生を規定するもので」あり、将来によって動かされていく。方向もエネルギーもそこにあるということだ。ところがキリスト者と言えども本当に応じていない。

私たちキリスト者は本当に大いなる将来を信じているのだろうか?!
なぜこんなにも招きが拒否されるのか。その不信仰の理由と拒否の仕方など、ブルンナーはあまりにもこの世的になったキリスト者を批判している。

ラインホルト・シュナイダー(1903〜1958・下村喜八さんがシュナイダーの第一人者)は、信仰者が少なくなり「空っぽの教会」となってきたのはなぜかと、現在人の心理を考えるために不信仰の心理学を考えた。

現代と違って昔であれば人生は短かく、絶えず死というのが身近にあったからではないか。そして、人間の死が同じ形になってきた。死が先延ばしになっているし、緩和ケアにより死に至る苦しみが取り除かれた。今は人生が長くなり死への不安が小さくなった。

フロイトは緩和ケアを拒否して死んだ。シュナイダーも腸閉塞の苦しみはキリストの十字架の苦しみと一体感にしてくれると耐えた。

レフ・シェストフ(ロシアの哲学者)の『悲劇の哲学』の影響を受けてドイツに実存哲学が入ってきたことや、ヤスパース(死に至る存在というところから出発した)なども紹介された。

中国に「人間は父親に似るよりも時代に似る」という諺があるが、主体的なものと歴史的なものの境はない。即ち、時代は自分の内で起こり、時代はいかに人間を侵食していくかがわかる。

私が発表で引用したブルンナーの言葉:
▼ 人間は将来をめざして生きなければならないように創造されている。主イエスも使徒たちも、神の国について語る際はいつも、永遠の国、永遠の生命を考えている。

そのことを信じず、関心を寄せなくなればなるほど、「時間切れパニック」を起こし、全てのものをこの世に持ち込もうとし生の意味への絶望が入り込む。

▼ 招きを先延ばしにしてはいけない。さもないと、間に合わなくなるかも知れない。神の招待は差し迫っている。招き(音信)を拒否すれば音信は異教徒へ向けられる。

▼ 今のキリスト者は、ユダヤ人が神の国は我々のもので正当な相続人であると選民意識に安住し、イエスの大いなる招きを拒否して十字架につけてしまったのと同じ危険に立たされている。

 私たちが真に招きを受け入れているか否かを識別する3つの「しるし」。

 @「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という取税人のもつしるし。

 A永遠の国における神との交わりと饗宴という人生の目標を信じ、喜びをもって期待しつつ生きる人間になること。

 B人々が福音を聞かされ、招待され、招待を受け入れることができるように努力すること。

私は自らの信仰生活がぬるま湯につかっているような状態であることを語った。

夫が引用し読み上げた箇所:
キリスト教の洗礼証書は、洗礼の際にあなたが招きを受けたということ以外は何も証明していません。それは、あなたが招きに応じたことを証明しているのではありません。

あなたが教会へ行き、聖書を読み、祈るということーそれらはすべて正しいことです。しかしこのこともまた、あなたが招きを本当に受け入れたことを証明するものではありません。

ユダヤ人たちも、彼らの聖書を読み、シナゴーグへ行き、祈っていました。しかし招きを受け入れたのは、彼らのうちのほんの少数の人たちでした。招きは神がなされる事柄です。

それは、神の愛の計り知れない無限の慈愛の言葉、すべての人に与えられすべての人に永遠の生命を約束する神の慈愛の言葉であり、およそ人間の望みうる最大のものです。

とはいえ、招きを受け入れることは人間の側の事柄です。神は、われわれに代わって出かけてゆくこと、戸を開けることまで引き受けてはくださいません。
夫はこの箇所から、自らも本当に神の招きを受け入れたのかどうかわからないでいるようなことを述べていた。

読書会が終わりケーキタイムに移るとき、私は自問自答し、夫にも問いかけた。大いなる将来を信じているのかと。

次回はクリスマス礼拝前日の12月23日(土)。
主にある者と共に聖書を味わえるとは神さまからの贈り物。まさに今の私に最も嬉しいクリスマスプレゼントだ。

附記:知子は一人残って仕事し、17時過ぎの電車で帰って来た。読書会の間、真智の部屋で宿題の作文を書いていたユキもケーキタイムに加わった。

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posted by 優子 at 17:44| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

渡り鳥たちのたくましさを思いつつ

琵琶湖はコハクチョウの越冬南限とされ、毎年、シベリアから数百羽が飛来して翌年2〜3月ごろまで過ごすという。現在、湖北の長浜に白鳥90羽、オオワシが飛来しているとのこと。

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このような光景を見るならば、朝8時から9時頃に(ここで今夏以後頻繁になっている義母の世話で走って行き、中断したまま忘れて更新してしまったので意味不明な文章になっていた)湖面から飛び立つので、それを見るためには夜中に出発しなければいけない。

私は外泊が好きではないので決心がつかないが今季こそ行ってみたい。独りで行こうかと思うが、興味を持っているユキにも見せてやりたいし・・・

IMG_9285.jpgこれはユキが作ったススキの箒。
「ユキ、きれいに掃けたよ!」

昨日は吉野へ行った27日よりももっと暖かく19度にもなった。室内は25度にもなりセーターを脱いで綿の服に着替えねばならないほどだった。

今朝は暖房なしでも暖かく体調も良い。案の定血圧も(121/75)、このような数値は何日ぶりだろう。維持することは難しいだろうが、体調がいいと何でもできそうな気持になり、起き抜けからベランダを履いた。

IMG_9286.jpgきっとベランダはこれが年末の掃除になることだろう。
若い頃には考えられないことであるが、年を取るというのはこういうことだとわかってきた。とにかくマイペースで健康維持していくことが大切な課題だと思う。

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まもなく厚い雲に覆われて陽ざしも消えた。
明日の小学校のマラソン大会は雨で延期か。
暖かいのも今朝までで既に気温が急降下しており、覿面に頭が重くなって束の間の快調の時だった。

「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」。(ローマ人への手紙 12章15節)
あなたは、友の幸いを心から喜べますか。隣人の悲しみを汲み取って一緒に泣けますか。「隣が畑を買えば腹が痛む」「人の不幸は蜜の味」というのが人の常です。だからこそ、打算なく共に喜び、共に泣いてくれる友の存在はありがたいものです。私たちがそんな友になりましょう。私たちには、私たちの心に寄り添う友なるイエスがおられます。

「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」。(ローマ人への手紙 12章16節)
高ぶりと自惚れ。これが私たちの生活に問題を引き起こします。高ぶれば祈らず、祈らなければ高慢は増長します。主の光の中で自分を見つめれば、誰でも謙遜にならざるを得ません。謙遜こそクリスチャンの強力な武器です。主は謙遜な者に力を注がれるからです。

「あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」。(ローマ人への手紙 12章18節)
あなたが平和を願うなら、あなたから平和を創る行動に出て、和解の手を差し出しましょう。和解の手を出していれば、その手を握る人が必ず出てきます。敵対的な人たちにも、一応、平和の意思を示しておくすのです。逆にあなたが、あなたとの和解を願う人を拒絶するなら、もう一度、十字架の愛を学び直す必要があるでしょう。
  
          ―キリスト栄光教会より―

祈りの友が贈ってくださったお言葉通り、これからも「どんなに大変な時でも、主を主として」歩んでいきたい。
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posted by 優子 at 12:20| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

西吉野に富有柿を買いに

今日は近隣の親友Nさんと西吉野へドライブがてら富有柿を買いに行った。

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今朝は霧で二上山も見えなかったが、出発の頃には霧も晴れて暖かく穏やかな一日だった。

子どもの頃、いや20歳ぐらいまで「富有(ふゆ)柿」を「冬柿」だと思っていた。少し前まで富有柿の日本一の生産地は奈良県、ここ吉野だったが、今は和歌山県だという。

10年ほど前まで私も何度かNさんに西吉野の柿選果場へ連れて行ってもらったことがあるが、5〜6年前からこの直売所に来られている。ここの方がはるかに安い。

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私たちはそれぞれ5キロ買った。Nさんはひとシーズンに3〜4度訪れ、今日は友人に頼まれた贈答先に送り、3人に3キロ、もう1人に5キロを手分けして量った。

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都会と違って誰もいない自然の中をドライブしていると、緊張が解けて心がほぐれていくのがわかる。

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この農園は葉が残っていたが、殆どの木は実だけになっていた。半分は既に収穫し終わっていた。

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写真を撮っていたら堺から来られた男性に声をかけられた。「すごい感動してはるから、どこから来はったんかと思ったらナンバープレートが奈良ですやん。奈良のどこです? 奈良やったらこんな風景はあるんと違いますのん?」と、あまりにも感動している私の様子に心寄せてくださり、しばらく3人で話に花が咲いた。

確かに近隣宅の庭に柿の木がある家は珍しくないが、こんな柿畑は吉野ならではのもの。Kさんに柿を買って行こうと思ったが庭に甘い柿がたくさん実っていた。

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「秋に柿を食べると風邪をひかない」とか
「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われるほど
柿は栄養価が高い。柿は私の大好物!

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今回も吉野の山で魚(鮪)料理を食べ、
地元へ帰って甘いものとコーヒー飲みながら
喋りっぱなし。
こんなに笑ったのは久しぶり。
本当に楽しかった。
こんなcomfortableな情態で生涯を終えたいな。

関東のサムサムさんから関西弁でコメント感謝:

「柿が赤くなると医者が青くなる」か。

ど、ど。ええ言いなあ。感心た。

posted by 優子 at 17:22| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

家の教会2017㊷ ―インマヌエルの神―

IMG_9110.jpg「イエスさま、今日も家の教会できたことを感謝します」。
いつもこのように祈るユキの言葉に、私の中から深い感謝を呼び起こしてくれます。
そして、「家の礼拝、私も太志もいつも参加しています」との真智子の一言から、神さまからの慰めと祝福を感じます。

今朝も神であるイエス・キリストの御臨在のもとで、次女夫婦も一緒に集っている光景を想いながら礼拝を始めました。
12-3.jpg2017年11月26日(日)
 (2017第42回 家の教会)

    10時20分〜55分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   マタイによる福音書1章18節〜24節
D お話     優子
E 聖書輪読   マタイによる福音書2章1節〜12節
F お祈り    一人ずつ
G 讃美歌    529番「ああ嬉し我が身も」
聖歌229番は良輔のリクエストでした。
マタイによる福音書 1章18節〜22節:
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

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2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
お話:
今年のアドヴェントは来週から始まりますが、クリスマスに間に合うように詳しく読んでいきたくて、今日は「プレアドヴェント」と位置付け、今週から関係個所を読むことにしました。

ヨセフとマリアは結婚する約束を結んでいましたが、マリアはまだ一緒になる前に身重になりました。処女が聖霊によって身ごもるというのは、とても理性では考えられないことですから、結婚前に身重になったことがわかるとマリアは姦淫の罪で石打ちで殺されてしまいます。

ヨセフは誠実で責任感のある人でしたから公にはしませんでした。しかしまたそのようなマリアを妻にすることもしませんでした。それがヨセフの正しさであり、「ヨセフは正しい人であったので」と言われる所以です。

それだけではなく、夢の中で語られた主の使いの言葉に従ってマリアを妻に迎えました。これは神に対する全幅の信頼ゆえにできることですね。

「お言葉どおりこの身に成りますように」というマリアの言葉はよく耳にするところですが、主に委ねる従順さはマリアだけではなくヨセフも同様でした。

「イエス」という名は、モーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ており、ヘブル語では「イェシュア」、「主は救い」という意味です。

イエスさまがもたらされた救いとは、イスラエルがローマ帝国の圧迫から解放されるというような、ユダヤ人が考えていた救いではありませんでした。

それは人間の深いところにある魂の滅び、死や安全を脅かす根源的な恐れからの解放でした。それが神さまの永遠の保障であり、そのしるしが イザヤ書7章14節に告げられています。それはイエスさまがお生まれになる800年も前に預言されているのです。

「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。

「インマヌエル」という呼び名は、「神は私たちと共におられる」という意味ですが、「それは本来、状態を意味するのではなく、『神性と人性が共にある存在』という意味です神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの『しるし(サイン)』は、『処女から産まれる男の子』でした。

インマヌエルであるイエス・キリストは、神としてのあり方を捨てて人間として歩まれました。しかも貧しく弱い者として歩まれましたから、神に依存しなければ生きていくことができず、神と共にある祝福をご自身を通して証しされたのです。

昨日の「ブルンナー読書会」で話題になったことと関連しますが(明日には書き上げて更新したいと思います)、物に溢れ満たされていては神に依存する謙虚さは生まれてこないでしょう。

多くの人は依存するのは弱い人間のすることであると批判します。しかし、そうでしょうか。強いことがよいことだとは思いませんが、強い人など一人もいませんし、自分は弱い存在だとわかっている人こそが最も強いとも言えるのです。

ヨセフの信仰と生き方に学びたいですね。
今日はお話が短かったので終わるのが惜しく、みんな心弾ませて今朝読んだ聖書の続きを読みました。
附記:知子は今日も全日外出です。
posted by 優子 at 16:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

花のいのちを生きんとす

最低気温が1度まで下がってもへこたれず、冷たい風に揺られて、今にも花びらが落ちそうだった。シュウメイギクは今朝も保ち、斜光線を受けて輝いていた。

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しかし、もう限界。
近くで見ると花びらは痛々しく色あせている。

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花はどこから見ても飾らず美しい。
後ろ姿の美しい人になりたい。

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「生きるとはこういうことだよ」と
教えてくれているみたい。

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いのち尽きるまで精いっぱい咲き切るのだよと。

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有終の美
今日は2時前から「ブルンナー読書会」、
楽しみだ。
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posted by 優子 at 12:34| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

楽しかった秋の一日 ―私の隠し絵「祝福することは勝利なり!」―

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ここはどこでしょう?

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そう、大阪城です!

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昨春乗ったアクアライナーが出て行きました。

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ホテル・ニューオータニの18階から撮りました。

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ガラス越しなので鮮明に映し出せなかったけれど
大阪城公園も美しく色づいています。

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この一番上の階から見ていました。

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生協のネット案内で4000円ほどで購入。
家族全員の空いている日がようやく取れたけれど、
ユキにはサッカー教室を休ませてしまいました。

IMG_9139.jpg「ユキ、おじいちゃん、私、ママの『お誕生日おめでとうランチ』にしよう!」と言うと、「真智とフーも!」とユキ。
「そうやね、ついでにクリスマスランチもかねて楽しもう」と、予約していた中華料理店へ向かいました。


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蟹とアヒルの卵だけで味付けしたとか。
おいしかったけれど塩辛かったね。
ユキはフィンガーボールも初めてだったので
心を打つ話を贈りました。

2人で食事をしていた時のこと。相手の人がフィンガーボールはの水を飲んでしまいました。それは指を洗うための水だと知らなかったからです。そこで、その人に恥ずかしい思いをさせないためにもう一人の人もボールの水を飲んだというお話です。

教会へ通い始めた早々に小山恒雄牧師が説教の中で話されたことでした。感動したことは31年経っても覚えているのですね。

IMG_9140.jpg麻婆豆腐はユキの大好きな献立です。「ぜったい給食の方がおいしいに決まってる」と言って食べ始めると、辛くて「ヒーヒー」。ジャスミンティを何度も飲みながら、汗をかいて食べていました。

でも、さすがに味はよかったようで、お豆腐をお箸でつまんで完食しました!

IMG_9171.jpg次は18階に移動してスイーツタイムです。ユキはジンジャーエールがお気に入り。

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私の細やかな楽しみでしたが、昨夜は嬉しくて深夜2時過ぎまで眠られませんでした。ここに心の隠し絵のような悲しみと、それゆえの神の慰めを織り込みました。今日の日を主に感謝します。

「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」。(詩篇61篇2節)
体も心も疲れ果て、主が遠くに感じられる時があります。でも、それは私たちの思いなしであり、実は、そんな時こそ主は最も近いのです。暗い思いに引きずり込まれないよう、心を切り替えて主に叫びましょう。主が用意されている将来の希望を見せてくださいます。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、揺るがされない」。(詩篇62篇1・2節)
心が騒ぐときは、口だけではなく心も黙らせて、静かに主を仰ぐのです。主の平安が心に浸透し、主の憐れみと救いが見え始めます。感情任せに動けば、事態は悪化し、闇が覆うだけです。主の岩の上に立ち、あせらず、じっと待ちましょう。主が動き始められます。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」。(ローマ人への手紙12章14節)
自分を傷つけた人の名を挙げて祈り始めると、いつしか憎しみが消え、赦す心が生まれ、ついには祝福できるまでになった、という人の話を聞きました。キリスト者にとって呪うことは敗北、祝福することは勝利です。この勝利こそ信仰の醍醐味です。たとえば今、私たちは北朝鮮を呪わず、憐れみを祈るのです。
               ―キリストの栄光教会より―
posted by 優子 at 21:13| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2017年11月22日

福沢諭吉『学問のすすめ』を読む ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

IMG_9086.jpg今年6月に千里ニュータウン教会の東 道男牧師が召天され、在りし日の師のお姿を想い寂しさに胸詰まる。

「東先生、どこへ行ってしまいはったんやろね。不思議やね」と、Oku姉妹が教会の台所でしみじみ言われたことは、誰もが感じる残された者の実感であり本当に不思議だ。

昨年の11月は、10月に御伴侶を天に送られてまなしの例会だった。その時のことや感じたことも別の機会に書きたいと思っている。

当教会はいま無牧で大阪教区の牧師が輪番制で礼拝説教に来られているとのこと。役員会から今後も私たちの例会会場にとお許しをいただいたが、秋のイチョウ並木道を歩くのはこれが最後になるかもしれない。

では18日(土)の例会での学びを記録しお分かちしたい。講演は私たちの導き手である文芸評論家・梅花女子大学名誉教授の大田正紀先生である。

最初に言い訳を一言。いつも拙い書きとめだが、この日は特に血圧が高く睡眠導入剤を服用していたので、時に朦朧状態になって十分な聞き書きができなかった。
それでも感銘することしきりで、私にとって歴史上の人物でしかなかった福沢諭吉が目の前に現れてきたように感じ、是非励ましをお分かちしたい。

福沢諭吉と中村正直は近代日本をつくった啓蒙学者として挙げられる。2人の共通点は、最初は儒教であったがキリスト教にとても傾倒したことである。

諭吉は信仰をもっていなかったが、子どもたちには熱心にキリスト教の教えを伝えた。道徳としてではなく、より高い品性を持っていかなくてはならないということで特に「十戒」を教えた。

(どう)(もう)おしえ草 ひびのおしえ』に記している「おさだめ(7つの大切なこと)」として、うそをつかない」、「ものを拾わない」、「父母に聞かないで物をもらわない」、「強情をはらない」、「兄弟げんかをしない」、「人のうわさをしない」、「人のものをうらやまない」の7つを丁寧に教えていた。 

  

「神」といえば、日本では八百万の神を想像し、中国では人間の嘆きを決して聞いてくれない天を想像するが、諭吉は聖書の神をしっかり意識していた。

「ひびのおしえ」の10月27日の「ゴッド(神、造物(ぞうぶつ)(しゅ))の心」では、「おさだめ(六つの大切なこと)」の第一は、「天道(てんとう)さまを恐れ、これを敬い、その心にしたがいなさい。ただしここでいう天道さまとは、太陽のことではありません。西洋のことばでは『ゴッドといい、日本のことばにほんやくすれば、創造(そうぞう)(しゅ)(神)というものです。」と十戒を網羅している。


当時の男たちは皆家庭以外に妾を囲うのが当たり前だった時代であり、年端もいかない子どもにも「汝姦淫するなかれ」の教えは必要だった。諭吉は妻以外とは一切そのような関係を持たなかったし、茶屋遊びも殆どしなかった。

しかしここで大切なことは、「これを守らなければならない」とがんじがらめにするのではなく、「あなたが本当に高い品性の人間になりたいならば、神さまがあなたを幸福にならせたいために送ってくださった教えに学びなさい」と導いた。(ここはアヤフヤ)

当時、米国では保守的な人々が大学を創っていたが、キリスト教をもっと自由に信じたらよいということで、神だけを仰ぎ、救い主をもたない「ユニテリアン」がハーバードだった。

諭吉はハーバード大学の分校のようなものを創りたく、慶応大学に神学部を新設したいと思ったが許可されず失敗した。


諭吉は大阪大学の基になった適塾で学び、塾長になり緒方洪庵に大切にされて学を修めた。諭吉はよく実用の学を説くので金儲けと間違われるが、その最も深い真理に対する欲求であり無心に寸暇を惜しんで勉強した。

横浜では専ら英語が用いられており習得したオランダ語が全く役に立たず、英語を教わる所もなく独学で英語をマスターした。諭吉はチャンスを大切に活かし幕府から3度洋行する。最初は咸臨丸による渡米、次にヨーロッパの視察旅行があればそれにも潜り込み、そしてまた再渡米し、近代の外国に深い感銘を受けて帰国した。

中村正直は儒学のトップの権威を持っていた人物である。西洋の科学を支えている精神性を見分けるのが自分の仕事だといって渡欧。

イギリスの人々のモラルの高さとキリスト教の精神。子どもたちが労働だけで潰されてしまうことがないように配慮して社会を作っているなど、キリスト教がいたるところで生きていた。
帰国した時、幕府が潰れていた。尊王か攘夷かというのは過ちだ。優れた文化は取り入れるべきだ。

諭吉もまた洋学者は命を狙われる状態で教育者として立っていた。諭吉は西洋のように努力すれば国や自分自身を建て挙げていくことができる、血統は関係ないんだと子どもたちに説いた。

今の日本人を変えていくのに大切なことがキリスト教だとして、禁教令下で我が子をキリスト教徒にすべるべく、十戒の教えが響いている「おさだめ」を教え、アメリカの学校にも入れた。このことは諭吉の没後に息子が公にした。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はアメリカの独立宣言の引用である。『学問のすすめ』は全ての人のために書いたものではなく、「あなたがたは一人ひとりに与えられた天賦の才能がある」と、田舎にいる不安な若者たちに書いた。役に立たない儒教ではなく、多角的、合理的に物事を考え企業を起こしていく。その励ましのために書いた。

今は貧しい人々に厳しいのではないかと言う批判があるが、福沢と中村は教育こそが子どもを真に自立させていけると考えていた。支配するための道徳ではなく、自分を向上させていく修身的な道徳があったほうがよい。

諭吉は明治維新まで32年生き、その後32年生きた。専修大学も福沢が創っている。「福沢は日本の近代の準備に半生を生き、それを完成させるために半生を生きた」と小泉信三が言っている。

附記【11月20日記事より例会の朝のこと】:
11月初旬から医師の指示通り降圧剤を2倍服用しているが効果がない。18日の冷たい雨の例会の朝は160台だったので頓服を飲み、欠席することになるかもしれない同日午後からのJCP例会関係者に連絡して諸務をお願いした。

毎年11月のクリスチャン・ペンクラブ例会は、当市の公立幼稚園や学校の公開授業(オープンスクール)と重なる。血圧は高かったが珍しくそんなにしんどくなかったので知子と学校へ向かった。

例年通り10時過ぎまで参観して学校を後にした。知子に例会を休むように勧められてしばらく立ち止まって躊躇していたものの、今の私にはかけがえのないクリスチャンの交わりゆえに行きたくて、生きることはいのちを削ることでもあると思って駅へ向かった。

知子は私の姿が見えなくなるまで雨の中見守ってくれていたという。睡眠導入剤の影響でフラフラするのでプラットホームから落ちないように真ん中を歩くように注意した。

大津から来られるHa兄(きょうだい)は朝の電話で、「(南千里)駅まで迎えに行くから電話してや!」と何度も言ってくださり、そのやさしさに目頭が熱くなった。

万が一のために私は夫の携帯電話にHaさんの電話番号をメモした紙を貼って持参したが、その優しさだけで十分だった。その時はタクシーに乗ればいい。IMG_9090.jpg

12時50分無事到着。
玄関に入るなり、私から「電話がないので欠席かと思ってた。大丈夫か?」とHaさん。教会の役員さんも心配してくださっていた。感謝!

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posted by 優子 at 23:16| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

皆川達夫さんのキリスト教音楽への情熱

IMG_9097.jpg最低気温が2度まで下がった今朝も寒さに耐えて健気に咲く最後のシュウメイギク。

「美しいね。私は最期まで見てるよ」。

私は通るたびにしゃがんで声をかける。

私のお気に入りの一つに、日曜日の朝、シューベルトの『楽興の時』第3番で始まる ラジオ第1放送の『音楽の泉』がある。テーマソングをバックに道案内人・皆川達夫さんの声に深い安らぎを感じ、終わる時のさみしいこと。

日曜日は礼拝を捧げるのでゆっくりできないが、ベッドの中で途中まで聞き、続きは食卓で聴くことが多い。先週の『クリスチャン・トゥディ』に掲載されていた皆川さんの記事に深い感動を覚えたので転載させていただいた。

皆川辰夫さん.jpg中世・ルネサンス音楽研究の第一人者で立教大学名誉教授の皆川達夫さん(90)が11日、「かくれキリシタンの祈りの歌」と題した公開講演会(主催:立教大学キリスト教学会、文学部キリスト教学科、キリスト教学研究科)に登壇。キリスト教と音楽、そして隠れキリシタンに歌い継がれてきた「オラショ」について、集まった140人余りの聴講者を前に講演した。

「キリスト教と音楽のつながりは深い。教会には常に音楽があり、また音楽の歴史を語るとき、キリスト教は切っても切れない存在だ。

例えば、バッハやシューベルト、モーツァルトも優れた宗教音楽を残している。それはなぜか」。

そう問い掛け、キリスト教会において音楽が重視されてきた背景をひもといた。

多くの宗教は、見えない神を何とか視覚的に捉えようと、仏像や仏画などを作る。また、海や山、木などに神が宿っているとして、それを拝むことによって神の存在を確かめる。しかし、キリスト教では偶像崇拝は禁止だ。

「キリスト教は目で見る宗教ではなく、神の声を耳で聞く宗教。音楽もまた、形がなく捉えることができない。しかし、私たちの心の中に不思議と大きな感動を与えてくれる。不思議な数の調和の上に成り立つ芸術が音楽。

したがって、音楽は人間の創造物というより、神が作った『音』を人間が利用させていただいているものと言える。人間が作ったものでありながら、神が作られたものであり、神の存在が音の中に潜んでいる。

だから、人間は音楽を聴いて感動する。そして、神を礼拝するため、賛美するために音楽を用いる。キリスト教が優れた音楽を生み出してきたのは、このような背景があるからだ」。

立ちっぱなしで休むことなく2時間に及ぶ講演をこなす皆川さん。さまざまな史実を語る際には、年号や時の将軍、音楽の話では作曲家や作詞家の名前など、詰まることなく口から出てくる。

外国人教員とはドイツ語で会話を交わし、また朗々と歌う姿は、間もなく1世紀を生きようとしているとは思えないほど、聡明で快活だ。

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講演の後半では、いよいよオラショの祈りに話が及んだ。

オラショとは、隠れキリシタンによって口伝えによって伝承されてきた祈りの歌。ラテン語の「oratio(オラツィオ)」に由来し、もともとは宣教師によって教えられた、ラテン語の祈祷文にメロディーを付けて歌われたもの。

しかし、歴史を経る中で次第に意味内容が理解されないまま唱えられるようになった。そのため、日本語のような言葉と、ラテン語のようだが意味のよく分からない言葉が混在している。

例えば、ポルトガル系のラテン語と日本語が混ざった次のようなオラショがある。「デウスパイテロ ヒーリヨー スペリトサントノ 3つのビリソウナ 1つのススタンショウノ 御力をもって 始め奉る」。

皆川さんによると、これは「父と子と聖霊の三つの形の神様が一つになる」という三位一体を示し、祈りの冒頭に唱えるのだという。

隠れキリシタンたちはこう唱えつつ両手を組み、親指で十字を作るのが作法。そして、この不思議な祈りが1時間ほどあり、その後、節をつけた御詠歌のような祈りへと続く。これが「歌オラショ」だ。

「初めは何を言っているのかさっぱり分からなかった。しかし、何度か聴いているうちに、ある一節がラテン語のグレゴリオ聖歌なのではないかと気付いた」。

その後、今もなお隠れキリシタンの末裔が住む長崎県生月(いきつき)島を何度も訪れ、オラショを聴き、録音させてもらった。それをもとに楽譜に起こし、ラテン語に復元する作業を続けるうちに、「グルリヨザ ドミノ」と歌われているのが「O gloriosa Domina」(栄えある聖母よ)というマリア賛歌であることを突き止めたのだ。

「グレゴリオ聖歌であるらしい」という仮説を立てたものの、現在、日本で手に入る「グレゴリオ聖歌集」には、この文言が入った曲が見当たらない。

そこで皆川さんは、バチカン図書館に何度も通い、さまざまな楽譜をしらみつぶしに当たった。楽譜を整理するカードを保管する部屋だけでも、体育館のように広い。

そこから1枚1枚調べ、1日にたった3冊しか借りることのできない本を調べてはまた返し、カードを調べてまた借りるといった作業を約7年続けた。それはまるで「太平洋の海底からたった1つの小石を拾うようだった」という。

しかし、バチカン図書館ではお目当ての楽譜を見つけることができなかった。そこで、当時、日本に来ていた宣教師の出身地であるスペイン、ポルトガルをもう一度、調べることにした。すると、スペインの図書館にたった1曲、同じ文言の入った曲があったのだ。

「これを見つけた時は本当にうれしゅうございました。ようやく見つけた夢の楽譜でした」と皆川さんは感慨深げに話す。

これはスタンダードな聖歌ではなく、スペインのある地方、そして特定の年代にだけ歌われていたものだった。そのため、日本はもちろん、バチカン図書館でも見つけることができなかったのだ。

宣教師が自国のなじみの聖歌を携え、生月島の人々に伝えた。そして、260年にも及ぶ禁教の中、隠れながら人々はこの歌を歌い、「生きる力」をもらって信仰を保ってきたのだ。

「音楽は、ともすれば1週間で聴かれなくなってしまう儚(はかな)い芸術。しかし、この音楽は400年もの間、人が生きることを支えてきた。音楽の力強さを感じた」。

また、講演の最後には、琴の名曲「六段」(八橋検校作曲)がグレゴリオ聖歌の「クレド」(信仰宣言)であったという仮説を提示し、その根拠を説明した。「クレド」と「六段」の構造はまったく同じ。

講演中、このグレゴリオ聖歌と「六段」を同時に演奏しているCD「箏曲《六段》とグレゴリオ聖歌《クレド》〜日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い」(皆川氏の解説と指揮)を皆で鑑賞した。

聴き比べてみると、確かに聖歌の音階が上がると「六段」も上がり、下がるのも同時。クレッシェンド、デクレシェンドなどの一致も、素人の耳にも明らかだ。

皆川氏はますますの研究意欲を語り、講演を結んだ。

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posted by 優子 at 17:22| 音楽・芸術 | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

全日公開授業のオープンスクールを参観してクリスチャン・ペンクラブの例会へ

11月初旬から医師の指示通り降圧剤を2倍服用しているが効果がない。冷たい雨の土曜日(18日)の朝は160台だったので頓服を飲み、欠席することになるかもしれない同日午後からのJCP例会関係者に連絡して諸務をお願いした。

毎年11月のクリスチャン・ペンクラブ例会は、当市の公立幼稚園や学校の公開授業(オープンスクール)と重なる。血圧は高かったが珍しくそんなにしんどくなかったので知子と学校へ向かった。

例年通り10時過ぎまで参観して学校を後にした。知子に例会を休むように勧められてしばらく立ち止まって躊躇していたものの、今の私にはかけがえのないクリスチャンの交わりゆえに行きたくて、生きることはいのちを削ることでもあると思って駅へ向かった。

知子は私の姿が見えなくなるまで雨の中見守ってくれていたという。睡眠導入剤の影響でフラフラするのでプラットホームから落ちないように真ん中を歩くように注意した。

大津から来られるHa兄(きょうだい)は朝の電話で、「(南千里)駅まで迎えに行くから電話してや!」と何度も言ってくださり、そのやさしさに目頭が熱くなった。

万が一のために私は夫の携帯電話にHaさんの電話番号をメモした紙を貼って持参したが、その優しさだけで十分だった。その時はタクシーに乗ればいい。
例会で学んだ福沢諭吉のこともできるだけ早くまとめてお分かちしたいと思うが、今日は今も回復せぬままで頭痛も消えない。

Anyway これはユキの学級。教室に入るなり明るい絵が迎えてくれて感激した。
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私は知子と2時間目の理科を参観させていただいた。タイトルは「ヒトの体のつくりと運動」。
本論に先立って、どうして「人」ではなくてカタカナで「ヒト」と表記しているのだろうという問いかけから導入され、子どもたちの活発な発表で時間を忘れて楽しく観ていた。

そして、子どもたちの発言からも今も変わらず日本では進化論が固定概念となっていたので、創造論の知識を有するユキはどのような気持ちで聞いているんだろうなと思った。勿論、帰宅して尋ねてみたが別の機会に譲りたい。

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「ユキ! 姿勢が悪いよ〜〜〜」
割りばしと輪ゴムで作った鉄砲がいっぱい!
こんなに作っていたなんて驚いた。

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秋の俳句はちょっと駄作かな? ごめん。

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口の周りが髭に見えるけれど、
黒ではなく赤色の唇だった。

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大きくなったね、ユキ。
もうすぐ4年生の2学期も終わってしまう。
この窓を覗くと黄色く染まったイチョウの木が美しく立っていた。
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知子は5時間目の算数も参観した。

posted by 優子 at 17:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

家の教会2017㊶ ―金持ちの青年―

IMG_9083.jpg2017年11月19日(日) 

  (2017第41回 家の教会)

                10時〜45分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  82番「雄々しくあれ」

           90番「主イェスと共に」

C 聖書       ルカによる福音書 

            18章18節〜30節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      355番「主を仰ぎ見れば」

           344番「かいぬしわが主よ」


ルカによる福音書 18章18節〜30節:
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
8:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
お話:

救いを求めてイエスさまのところに来て救われなかったのはこの人だけだったのではないかと思うのですが、彼は品行方正でユダヤ教の戒律を守っている青年であり、若くしてサンヘドリンという最高法院の議員に選ばれていました。


それだけではなく人生についても考える人だったのだと思います。それゆえにイエスさまに純粋な気持ちで問うたのです。


しかし、青年は唯一絶対なる神さまのことがわかっていなかったゆえに「よき師よ」と、人間に対する形式的な敬称を用いて呼びかけました。イエスさまはそんな青年の心を直截に神に向けるために十戒を示されました。


その問答の次にまだ一つ欠けている(やり残している)ことがあり、それは大金持ちの青年に全ての資産を売却して貧しい人に分けるということでした。


ここで誤解してはいけないのは、施しをすれば永遠のいのちが与えられるという意味ではありません。持ち物を売り払って施すという善い行いによって救いを獲得するのではありません。


彼は自分中心の生き方でした。言葉を変えて言えば、自分のために生きていたゆえに財産を手放すことができなかったのです。しかし、これは大金持ちだった彼だけの問題ではありません。金持ちではない私たちにもできません。


それに財産だけが問題ではありません。富だけではなく、地位、名誉、習慣、伝統、あるいは、頑なな自我もそうです。いずれにしてもそれらを棄てられないがゆえに、それらを自分の神とし神を求めることもないのです


永遠の生命を確保したいと思わない人はいないでしょう。この大金持ちの青年は「永遠のいのち」を求めることのできる心を持っていたのに財産が大きな妨げになってしまったのです。


全財産を投げ出すなど誰もできないと思います。それどころか時には僅かな額でも出し惜しみしてしまうのが人間の本性ではないでしょうか。イエスさまは「人にはできない事も、神にはできる」と言われました。ここが大切で、ここに心を傾けるのです。


私たちはイエスさまの仰る通りに従えなくて、迷い、惜しんだり、間違いを侵してしまうお互いですが、そんな自分を嫌悪しながらもやっぱりイエス・キリストと共に生きていきたいと願います。


感謝なことに、そのように命の道に踏みとどまらせてくださっているのも神の力、神の恵みです


主イエスはいつか言われました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と。即ち、富をどこに積むかは心をどこに置くかということであり、何を一番大切なこととして生きるかということです。


地上の富や善行や奉仕に生きることが一番大切なことではなくて、神さまとの関係を一番大切なこととして生きる。それが富を天に積むことであり、「天に宝を積む」生き方なのです。そして、神さまとの関係の中で神さまに喜ばれる生き方に励みたいと思います。


主イエスに従って行くとき、私たちは徐々に握りしめているものから手を放して、隣人や貧しい人々のために用いていく者と変えられていくことでしょう。神の力が働いて必ず変えてくださることを信じます。


IMG_9060.jpg自分の努力によって神さまの救いを手に入れようとするのではなく、ただ神さまの恵みに依り頼んで信頼して生きる。そのためには持っているものを貧しい人々に分けてやりなさい。イエスさまは今日も私たち一人ひとりに語っておられます。

posted by 優子 at 17:15| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

ウォーキングは黙想の時

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空に向かって勢いよく咲く「皇帝ダリア」
冬に負けるなと激励してくれているみたい。

御言葉は「キリストの栄光教会」より
「神よ。私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう」。(詩篇57篇7節)
刻々と変化し、次々と何かが起こるのが、日常生活です。そうしたことに心が揺るがされないよう、しっかりと主の御言葉に立ちましょう。悩んで時間を空費するより、唇も耳も心も賛美で響かせるのです。賛美が揺るがない心をつくります。私たちの喜びが主の喜びと共鳴し、笑顔と力が回復してきます。

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「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」。(ローマ人への手紙12章11・12節)
主があなたのために戦われます。サタンとの戦いを、あなた個人の戦いにせず、主の戦いにするのです。独りで戦えば敗北します。ダビデのように、「これは主の戦いだ」と宣言して主に委ねれば、聖霊が先導してあなたを勝利に導かれます。勝利の予感が喜びを湧きあがらせ、祈りを熱くします。

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咲き始めたツワブキの花

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい」。(ローマ人への手紙12章9節)
真実の愛には恐れがありません。損得勘定がありません。拒絶されることを恐れません。キリストに愛されたように愛します。しかし、愛するとは、悪を許容することではありません。かえって義を成し遂げます。愛が真実であるほど、理解されず、嫌われることがあります。愛するとはそういうことです。主の愛こそがそうでした。

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↑ これのピンク版 ↓

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まさに自然のアート! 
神秘の美しさに目が釘付けになった。
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そして今日のアート。
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以下は11日にユキと歩いた時の写真。
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これはユキが撮った。

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1つだけ咲いていた季節外れのクローバー。

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「宝石みたい!」とユキが写した感動。

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たくさんのキーウィにびっくり!
この10倍くらいあった。

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そして、今朝の光景。
いよいよ最後の1輪もまもなく姿を消す。
長い間楽しませてくれてありがとう。
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2E697A5E99693E9A39FE381B9E3819AE9A3B2E381BEE3819AE291A2.jpgシュウメイギクが終ってまもなくチャッピーが死んだ。
2年前の11月24日に・・・・

附記:横田めぐみさん(行方不明時13歳)が北朝鮮に拉致されてから40年となった昨日、記者会見で母早紀江さんは語った。

「元気なうちに、めぐみちゃんだと分かる間に、1時間でもいいから会いたい。
病気しないで、元気でいてください。お父さん、お母さんは弱ってきても、気持ちのうえでは頑張るから。最後まで頑張って助けるという気持ち、忘れていないから」。

「(政府は)一生懸命に知恵を練ってくださっているとずっと思っていたが、40年たっても何も分からない状況で、本当に信じていてよかったんだろうかという思いがある」とも語った早紀江さん。

私たちで世論を盛り上げて為政者たちを動かさねば、いよいよ時間は限られている。何事も有限な人間ゆえに限界があろうとも、ああ神よ、私たちに我がことのように祈らせてください。
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posted by 優子 at 17:10| 随想 | 更新情報をチェックする