2019年03月26日

叔母への思いは母と同じ

3-25-15.jpg元旦以来、ようやく昨日神戸の叔母を訪ねることができた。高校野球が始まり、10時過ぎでも甲子園でたくさんの人が降りた。
陽ざしはあったが風は冷たく、石屋川沿いの桜はまだ蕾だった。いつものように写真を撮りながら公園内を山に向かって15分ほど歩いて行く。

久しぶりに「火垂るの墓」のモニュメント横で撮った。
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11歳8ヶ月と4歳3か月(2011.10)のユキ。
昨春亡くなられた野坂昭如さんの処女作『火垂るの墓』の舞台が
この辺り周辺だ。

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スズメの喉の毛が黒かったとは初めて知った。

3-25-1.jpg叔母は昨年11月から電動自転車から電動カートに乗り換えた。
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ちょうど昨日、叔母がお世話になっている介護支援専門員の方と、電動カートのレンタル先のフランスベッドの方の訪問日だった。叔母が私が同席することを喜んでくれ、私もお目にかかれてよかったと思った。私の連絡先もお伝えした。

叔母はまもなく91歳になるが、最初から上手に乗りこなしたという。人が歩く速度なので電動自転車と違って座っているだけなので寒いことや、雨が降ると困ると叔母は言うが、「雨の時まで外出しないで」とお願いしなければならないたくましさに敬意を表する。

満充電状態で22キロ走行可能だが、冬は放電が高くなるので減りやすいので18〜20qと思って使用するといいとのこと。しかし、私のような怖がりだとダメだ、今でさえ乗るのは怖いなんて情けない。

3-25-4.jpg叔母がまさに今の私の頃は、母(叔母の姉)のために肥後橋(大阪)の住友病院や実家に通ってくれていた。そんな叔母だったのにもうずいぶん前から両膝関節症でかがむことができず、ヨチヨチとしか歩けない。
しかし、ルンバとコードレス掃除機を使いながら部屋はいつだって我が家よりもはるかに整理されて清潔だ。勿論毎週、娘のAちゃんの助けがある。

叔母は今も変わらず頭脳明晰で社会・介護福祉士とのやり取りも、あの頃のままだ。私も叔母のように気丈に年齢を重ねていかねばとしみじみ思った。

しかも叔母は何度も開腹手術をしているので腸閉塞になったり、脳動脈瘤があるので血圧は130を超えないようにコントロールしなければならず、4週間に1度通院しながら生活している。「要支援1」の認定は2年間出ているので、何もなければ2年後に見直すとのことだった。

義母も昨年1月に民生委員さんと地域包括支援センターの人に来ていただいたことから始まり、このような問答を何度か交わしながら道を拓き、開かれていったのに、何をか言わんやである。

帰る30分ほど前になって、神さまの話へと導かれ、叔母は真剣な顔をして聞いてくれていた。この次も神が時と力を備えてくださって伝えることができますように。
今朝はさみしくてさみしくてならなかった。母を想う気持ちと全く同じ。桜が咲いた頃にまた訪ねようと思う。

3-25-12.jpg帰りのギュウギュウ詰めの電車の中で、ユキはママの古いスマホでゲームをしていた。
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これは今夕、ユキからメール発信した時のやり取り。
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3-25-9.jpg携帯電話で80歳年下のユキと
メールのやり取り。
叔母ちゃん、すごいよ!
また行くからね!
元気でいてね。




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阪神電車・石屋川駅プラットホームより。
幼稚園ころからの懐かしい風景。
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2019年03月23日

ブルンナー読書会㉚ −ゲッセマネのイエスー

3-24-1.jpgテキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』(教文館)の19回目、説教のタイトルは「ゲッセマネのイエス」。

出席者:3名(知子・欠席)
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」
お祈り:下村氏(聖書朗読は3人で)

マルコによる福音書14章32節〜42節:
14:32 さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。
14:33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
14:34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
14:35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
14:36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
14:37 それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
14:39 また離れて行って同じ言葉で祈られた。
14:40 またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。
14:41 三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
14:42 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

良輔の質問:
なぜイエスはゲッセマネで弟子たちから離れて一人になって祈られたのか。(互いに話し合った)

優子の質問:
@ 『すべてを理解することはすべてを許すことである』というのは非常に危険な諺である。」と言う意味がよくわからなかった。
A 自由主義神学について。
         ↓
@(良輔の質問で交わされた話に続けて)弟子の弱さがわかる。気持ちが理解できた、だから自分がそれをゆるす。相手もゆるす。文学では共感、追体験が重要であるから、ゆるしてしまう。トーマス・マンは、ありとあらゆる人間が寛容になると、すべてをゆるしてしまう可能性があると言っている。

ゆるしを安易に考えるのではなく、ゆるしの中にイエスの死、十字架の死の犠牲があり、人格関係であるから人格関係として理解すればわかってくる。例えば、私の苦悩を共にしてくれた母が死んだとすれば心が痛む。

単なる教えや教義としてキリスト教を捉えると、ゆるしの博愛主義やゆるしの自動販売機になりかねない。知識で信仰が生まれるわけではない。信仰は、神と、イエスとのいのちのやり取りの関係である。

A 自由主義神学とは宗教を人間の心の営みだと考え、宗教は絶対的依存感情、神に依存する感情だと考える。従って、神からの啓示や、神と人間との絶対的区別は等閑視する(なおざりにすること)。

人間の敬虔な感情を重んじ、神が人間に近づいてイエスをとおして贖いをおこなったという考え方で、贖罪抜きの人間の主観主義的なところがある。

その背景には、人間の理性で考えられないものは信じられないという啓蒙主義があり、そこから生まれたものが自由主義神学である。シュライエルマッハーが祖。

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★ イエスに召し出された弟子たちは、イエスが最も必要とされた時にイエスのために祈ることをせず、眠りこけてしまった恥ずべきことを告白した。それだけではなく、主イエスが真の人間、われわれと同じように肉と血をもった人間であり、「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである」と言われたことを伝えた。

彼らは、主イエスがキリストでありメシアであり神の子であると宣べ伝えていたから、イエスが死に対して女々しい不安をもった弱い人間だったことを隠しておくということも起こりえた。

3-22-7.jpg★ 文学は喜びも悲しみも苦しみも体験することによって人間になれる。謝れない人は、自分しか肯定し価値づけるものがないのでしょう。不幸ですね(この言葉から慰めを感じた)

★ 聖書でいう「肉」とは、心も精神も肉体も含めての人間が「肉」(罪ある人間)で、十字架の贖罪によって「霊」に生きる人間に変えられる。肉に傾くことに断ちうるのは、祈ることによってキリストが私の中で生きておられる。それが霊であり、分嶺は祈りであると思う。

★ イエスは死を免れえないゆえにおののき、ためらわれたのではありません。この誘惑の本質は、彼が十字架の死を前にして自分のメシア的使命をあやうく疑いそうになられたことにあります。

自分の存在そのものが無に帰す、破局に終わるという、メシア的使命に対する疑いがあった。・・・下降をその本質とするこの生涯に神は冠を与えようとされた。しかしそれは、この生涯にふさわしい茨の冠だった。

★ 地獄との戦いが唯一無比なる人間イエスただひとりによって戦い抜かれたのだということ。
地獄とは神がいないところ。イエスが経験されたことは、神が見捨てられるという我々が想像できない苦しみがあった。神なき世界まで降りられた。

「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』において、神の子が人となりたもうたことがついにその頂点に達したのであります」。頂点とは神に捨てられること。

ところが、人間は自己を高めようとし、より良く、より賢く、より幸せに・・・と、上昇志向がある。人間がつくった宗教はみなそうであり、人間的に上昇すべきであるとする。
しかし神は、わたしたち人間のもとに下りてきてくださった、これこそがイエス・キリストの福音です。

ソクラテスは驚くべき平静さとほとんど理解しがたい快活さをもって、不可避な死を成し遂げた。ローマ人やギリシャ人が、イエスとソクラテスの死を対比させて、神の子イエスを嘲笑した。

死に直面して激しい肉体的・精神的苦痛のもとにあっても、それを少しも面(おもて)に表さないことが、日本人の道徳的規範の一つとされている。(その最たるものが切腹、腹切りの作法まである)

イエスは彼らよりも弱かったのではなく、ただいっそう人間的であったにすぎない。なぜなら、あの自制は、つまるところ空威張りであり、自分の心の対する暴行であるからです。

3-22-8.jpgわれわれは無感情にになるように創造されているのではなく、喜びも悲しみも、その両者を、できるかぎり深く体験するように創造されている表われである。真の人間は心をもった人間です。

イエスの人間性における決定的に重要な点は、イエスが誘惑に遭われたこと、また救いを求めて祈られたことです。この二点において、創造主なる神に対する人間の被造物が鮮明にされています。われわれが誘惑を受けるということは、われわれに与えられている自由の帰結です。

3-22-9.jpg神は人間を、自由意志をもった存在として創造された。そして神は、われわれが自己の決断の自由に基づいて神の意志を行うことを求めておられます。しかし、この自由の代価は、人間が誘惑に陥る可能性をもつということです。

主イエスは、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と言われ、われわれも「私たちに試みに会わせないでください」と神に祈ることを命じておられる。

人間には自由が与えられていることの必然として、誘惑に陥る可能性が無条件につきまといます。
そして誘惑を受けた時に、われわれが究極的に神を選ぶかあるいは自己自身を選ぶか、神に従順であるかあるいは罪を犯すかは定かではないゆえに、誘惑は危機的瞬間なのです。

イエスが受けられた誘惑の実質は、「この苦難の杯をわたしから取りのけてください」という願いであり、神の意志に対する従順よりも強かったという点にある。この誘惑に彼の祈りが対応しています。

「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と付け加えておられるからこそ、そのように願うことが許されます。このようにして誘惑は克服されました。

祈りは、誘惑、すなわち不従順の危険と可能性から逃れるために、被造物である人間がなしうるただ一つのことだからです。われわれは祈ることをとおして神に従う者となります

われわれの祈りの多くが真に誘惑から救いとならないのは、自分の願いの成就のみに求めるからであり、「私の意志ではなく、あなたのご意志が行われますように」ということが、われわれにあって究極的なものでないからです。

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イエス・キリストの神性についてー
イエスの死に対する不安のみではなく、つまるところ、この誘惑の本質は、彼が十字架の死を前にして自分のメシア的使命をあやうく疑いそうになられたことにあります。
イエスは、地上に神の国を実現するとともに人類を罪と死から救い出す使命を神から与えられておられたのに、十字架、絞首台、犯罪者の曝(さら)し柱、拷問の柱に上げられた。

下降をその本質とするこの生涯に神はいばらの冠を与えられた。イエスはこの結末に抵抗されたが、承諾へと移行した。全くひとりでこの決定的な戦いを戦いぬかれた。この誘惑に打ち勝ち、罪を犯すに至らなかったのは、イエスただ一人でした。彼が克服されなければならなかった不安がどれほど恐ろしいものであったかは、われわれにはわからない。

彼のみが、この戦いには何が賭けられているかを理解しておられた。彼のみが闇の力の攻撃の標的であり、彼のみが神の力による勝利者であったのです。一個の人格による真の勝利です。

このゲッセマネの物語は、われわれの救いが一つの勝利の結実であることを語っているがゆえにわれわれにとって非常に貴重なのです。われわれが今神の無条件な愛と真実を喜ぶことができるためには、ある犠牲を必要としました。

福音は単なる教えではなく、実際の出来事です。神はおよそわれわれに近い方ではありません。神は、神的なものと人間的なものが一つになるほどにまでわれわれに近づいて来られたのです。

「われわれは、すべてを理解し、私をも理解しておられる神をもっている。私に何の隠しだても許されない神、何に対しても恐れて尻込みされることのない神、私がすべてを語り、すべてを告白することができ、しかも私を退けられない神をもっている」。

「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利なのである」(Tヨハネ5・4)。アーメン。

3-22-5.jpg「よい羊飼いは、もはや自分から羊飼いをさがし出せない失われた羊のところにまで来たりたもうのです」。

神は私のために、あなたのために人間になりたもうた。それは、クリスマスに始まり、受難の金曜日に終わったのです。
折しも今はレント、今年の復活祭は4月21日です。心して受難節(レント)を過ごし、主の受難を迎え、心からの感謝をささげたいと思います。

次回、ブルンナー読書会は、4月27日(土)、テキストは「信仰の在庫調査」。聖書朗読、お祈り、テキスト要約当番は優子。

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posted by 優子 at 23:30| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2019年03月21日

「祈りの時は命がけの戦場である」

3-20-5.jpg2月末、「祈り」について思いめぐらせていた。祈りに集中できない時がたびたびあったからだ。祈りさえ神の助けがなくてはできないことは、これまでにも何度も経験している。
祈りは神との交わりの時、ひたすら魂を神に向けることだとわかっていても集中できない時がある。あの頃、私は神への望みが希薄になってしまったからだ。

悪魔はあらゆる手段を尽くして、私たちが祈りによって神に近づくのを妨げようとし、失望や悪い思いを入れようとしてくる。まさに聖書(第一ペテロ5章8節〜9節)に書いてある通りだ。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである」。

3-20-12.jpgそのような時、「祈りの時は命がけの戦場である」という言葉を読んだ。
わが家で開いてくださっている「ブルンナー読書会」の主宰者・下村喜八氏が、基督教共助会の2018年度 京阪神修養会で講演された「内村鑑三と森 明、そして奥田成孝 ー『「一筋の道」を巡る』を読んでー」が、今月発行されたキリスト教雑誌『共助』2019年第2号に掲載されている。

特に深く感じ入ったことがあるので詳しくは別の機会に譲るが、下村氏は、「これほど見事に祈りおよび『神の前に立つ個』を表現している言葉を私は知らない。」と評し、引用されている奥田の「祈りについての断章」の一節を読んで立ちすくんでしまった。

私もまた神を父と呼ぶことをゆるされている者が、神と密の関係で交わる時に集中できぬとは言語道断だ。

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祈りとは何だろう。
★神さまがどういうお方であるかを本当に理解していなければ祈れない。神を知ることだ。
★祈りとは、私たちの決心や努力や情熱には関係なく、神さまが私たちになしてくださるみわざである。
★聖霊の助けがないと祈ることはできない。
★祈りは私たちの最高特権であり、最も重要な責任であり、そして神が私たちの手に渡される最大の力だ。
★クリスチャンとしての地上の戦いにおいて達成しうる最大にして最上のことであり力だ。
★神はご自分の思いを祈る人に現わしてくださる。力ある人は、例外なく祈りの人である。

神と交わる術(すべ)を与えられている感謝と、神への信頼。祈ることができるということ自体が奇跡的な神の恵みなのだ。

3-20-22.jpg附記:
キリスト教共助会は1919年(大正8年)森 明(父は森 有礼、森 有正は息子)によって創立されて、今年で基督教共助会創立100周年を迎える。
下村喜八氏の「人格の衰退とその回復」(2018年2月号:3月発行に掲載)と、「苦悩への畏敬(2)」(2018年5月号:8月発行に掲載)を、ネット上で読むことができる。
posted by 優子 at 23:25| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2019年03月20日

いよいよ春開く

一日おきに天気が変わる。昨日は冷たい雨の一日だったが、今日は4度から20度まで上がった。散歩に出るとモンシロチョウが飛び、鶯が鳴き、ハクモクレンやサクランボのなる桜は満開になっていた。

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イチョウの木は裸のようでも新芽を出している。

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駅ちかくの大きな木も新芽が出ている。

でも、これは葉っぱではないみたい。
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これは花の蕾? 散歩コースにして確かめに行こう。
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ここからは一昨日の散歩、ゆっくり黙想しながら歩いた。
私はこの日(18日)に今年初めて鶯の声を聞いた。ユキは2週間ほど前に聞いたというが、近年は家の近くであまり聞かなくなった。以前は目の前の木にやってきて歌ってくれていたのだが、鶯の声は自然が破壊されていくのと連動している。

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↑ この桜は下の木(↓)の右端をクローズアップしたもの 。

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「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。(ガラテヤ人への手紙 6章7節)
神に逆らっても今まで大丈夫だったから、これからも大丈夫だと思ってはなりません。神は忍耐と寛容で悔い改めを待っておられるのです。悔い改めが遅れれば、その分、深い悲しみを刈り取ることになります。取り返しがつくうちに、悪い種は芽の段階で摘みとるのです。

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沈丁花の甘い香りが漂う。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」。(イザヤ書43章19節)
主はどんな状態からでも「新しい事」を始めてくださいます。それを信じるなら、今日から新しい祈りが始まります。主に何も期待しないなら、今日も明日も何事もなく過ぎていきます。主に期待して祈るなら、不思議なことが起こります。

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池の桜の蕾はまだ小さかった。

サンシュユ
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「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになりま」。(ガラテヤ書6章9節)
正しい行いをして報われず、愛して実を結ばないこともあります。それでも失望せずに実践し続けるのが、キリストに倣う者の姿勢です。義は侮辱に屈せず、愛は拒絶を恐れません。刈り取りは主が決められることです。私たちにとって大切なのは、「その時が来る」と信じてあきらめないことです。

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2月27日から着手した「トライアングル・ゾーン」。

3-18-12.jpg2月頃からシッポを振ってくれるようになったゴマちゃん。ある時、トライアングルゾーンにノスミレを移植していたら道路を隔てて遠くから吠えた。
「ゴマちゃ〜〜ん!」と呼ぶとピタッと鳴きやんでシッポを振ったから呼んでいたのだろう。私は嬉しくて、何度も何度も名前を呼びながら手を動かしていた。

土いじりのあと会いに行くと、シッポを振りながら柵に体をすり寄せてきたが、どんなに小さな犬でも触るのは苦手。ちょっと怖くて撫でてやれなかった。迷い犬か野良だったのを飼ってもらって幸せになったが、今また寂しい犬になってしまったゴマちゃん。ごめんね。

posted by 優子 at 22:10| 随想 | 更新情報をチェックする

2019年03月17日

「土はひとりでに実を結ばせる」 −新たなる力と望みを得て−

知子に新たに加えられた2ヶ月に及ぶ大きな試練から解放された15日、今朝はユキと3人で教会に行く予定だったが、昨夜知子が転んで手にかなり深い裂傷を負ったために自動車の運転ができなくなった。

御所教会.jpg私は神さまの御心に思いを馳せた。
神さまの思いはすぐにわかった。
私は神の導きに応えて夫と二人で礼拝に出席した。夫も2015年8月に自ら申し出て洗礼を受けている。2月から導かれている御所(ごせ)教会へは、今朝で3度目(夫は2度目)だ。

今朝の礼拝出席は夫にとって大きな通過点であることと、私にとっては深瀬 務牧師の唇を通して、神さまから大いなる励ましをいただいたので記録し、お読みくださる方々にもお分かちしたい。

招詞:イザヤ書55章6節〜7節
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、
正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。
われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。

エゼキエル書17章22節〜24節:
17:22 主なる神はこう言われる、「わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔かい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。
17:23 わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、実を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。
17:24 そして野のすべての木は、主なるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木を緑にすることを知るようになる。主であるわたしはこれを語り、これをするのである」。

マルコによる福音書4章26節〜34節:
4:21 また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞くがよい」。
4:24 また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
4:25 だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。
4:26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
4:27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。
4:29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

4:30 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。
4:31 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。
4:33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。
4:34 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

牧師は、上記聖書個所より「土はひとりでに実を結ばせる」と題してみことばを取り継いでくださった。なお文責は著者にあります。

実をもたらす種と実をもたらさない種について、この個所では神の国を譬えるもので実りを結ぶ種について語っている。

「地はおのずから実を結ばせる」。

私たちは水や肥料をやるが成長させてくださるのは神である。種に対する成長していく実りの関係が神の国に譬えられている。

私たちも労苦するが、神の国が実現するのは神の業によって成されていく。神の国をマタイでは「天の国」と表されている。神の支配が実現する神の国が近づいたと、私たちはこの言葉を受けて地上の歩みを続けている。

教会は神の国を指し示すものであるが神の国ではない。神の国は人間の力で成り立つことではない。
イエスの十字架により赦されて望みが与えられる。このことを信じられるというのは信仰が与えられた者、聞く耳をもつ者にのみ与えられた神の恵みである。

「地はおのずから実を結ばせる」。
28節がポイントになっている。
からし種はせいぜい2〜3メートルにしかならないどこにでもある雑草であるが、鳥が宿ることができる木にして見せましょうと、主イエスによって極小の小さな者からも、その人たちを用いて神の国を知らせ、神の国の誕生、成長へと導いていく。そのように理解することができる。神の国は主イエスが来られたことによって実現していく。


受ける側から見るならば、主イエスの恵みを受け入れ、信仰によって歩むことによってそこに入ることができる。ひとりでに実るからと言って、ほったらかして何もしなくてもいいのではない。

実りは人生の長さで測られるものではない。実りの日々がなかなか来ない時も、礼拝には喜びがある。慰めがあり、生かされ、解放される。礼拝を守るために大切なことは忍耐することではないか。

自分の弱さに耐えるための忍耐もある。この世との戦いもある。時にはキリスト者としての信仰の在り方を主張しなけばならないこともあるだろう。例えばそれが母体(種)となってKGK(キリスト者学生会)が誕生したように。

熱さだけで続くことはない。解決がすぐに与えられるわけではない。熱い思いがなくなった時に必要なのは忍耐である。

「ひとりでに実を結ばせる」という言葉は、ギリシャ語の聖書につけられたものであって、「忍耐強い農夫の譬え」というのがふさわしい。
27節の「夜昼、寝起きしている間に」忍耐して実りを待つ。それが信仰であり、その意味が込められてあり、実りを実らせるのは神の御業なのだ。
成果がなかなか現れないことがある。しかし、信仰によって忍耐し続ける。実りを信じて教会に繋がっていく。

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」(第一コリント3章6節)とパウロは言った。教会として整えられていくために多くの戦いがあったが、教会が成長していくのは神の業なのだと!

からし種の譬えのもとになっているのは旧約聖書に多くある。今日は「神の国」という主のご支配は、全ての国に及ぶのだということを象徴していると思う。異郷の地、日本で伝道するのは困難であるが、忍耐してみ言葉を蒔き続けていく。

「聞く力」とは簡単に言うならば信仰である。種は芽を出して成長する。我々のつまらない自我を超えて成長していく。この苦しみが私たちに何をもたらしたか。私たちは何を与えられたのか。
私たちは赦されて救われているんですよ! 
望みを失わないで、主イエスの恵みにこたえて歩んでいく者でありたい

3-16.jpgこれは昨日の朝の二上山・雄岳の写真だが、今日は何度も雨が激しく降ったり止んだりの一日だった。
御所の葛城山は真っ黒な雲に覆われて頂上は見えなかった。

3-10-2.jpg子は疲れ切っている体を休め、ユキと2人で穏やかな時を過ごした。説教で恵まれたことを知子にもシェアーした。

「神さまに造られた形態に戻すために礼拝に呼び集めてくださり、御声を聞くことによって形態を取り戻して、礼拝から出て行き、礼拝へ戻ってくる」。
私も癒され、解放され、新たなる力と望みをいただいたので力強く生きよう。この日がゴールに至る大切な通過点となりますように、もう一度十字架を見上げて夫のことを祈り始めよう。

昨夜、『愛はすべてである』(エリザベット・ルスール著)を見つけたのも不思議だった。数年前から探し続けていた本はデスクから手の届く所にあった。これは唯一の頼りとする夫に理解されず、人生のあらゆる苦労をなめつくしたカトリックの信仰深い女性の日記である。私は最後の希望を抱いて忍耐したいと思っている。エリザベットの夫は彼女の死後に日記を発見して悔い改めた。

3-15-1.jpg感謝録:祈り合える兄弟姉妹が与えられていることを神さまに感謝します。どんなに心強かったことか! 私たちの喜びを我がことのように喜んでくださった方々のこと忘れず、私たちも我が心として生きていきます。

明日退院予定のAちゃんが引き続き順調に回復されますようにお祈りします。また、明日扁桃腺を除去されるおさなごのことを覚えつつ、試練の中にある方々に神さまの助けとお守りがありますようにお祈りします。

posted by 優子 at 23:08| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2019年03月13日

5年生学年末の朝の光景

3月1日(金)、知子は月初に朝礼があるので6時過ぎに家を出た。ユキはママがいなくても1年生の時から何も手はかからない。7時に起きて、朝食、歯磨き、排便を済ませて45分頃に出発する。遠い家の子たちは7時20分に家を出るという。

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これが朝のユキ。あの几帳面なママに似会わない子。
昨年末の5年生冬期から登下校の長ズボン着用が許可されて、前日まで履いていたが3月から不可になった。

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学校に着くと体操服に着替えるので全日半ズボンで過ごすのだが、体操服には着替えずに制服のまま過ごす終業式当日まで自由にすればいいのにと思うが、本人は苦痛ではないのか体操服までかなり前から半袖にしている。とはいえ、使い捨てカイロをいつもポケットに忍ばせて登校する。

長ズボン着用についても、昨年赴任されたばかりのN先生の働きかけで叶ったことであり、保護者として声をあげなかった私もまた日本人の典型と、苦い思いが残っている。

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大きくなったね、ユキ。
小学校もいよいよあと1年か・・・さみしいな。

こっち向いて!
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いつも見えなくなる所で必ず振り向いて手を振ってくれる。
私も思いっきり手を振りながら大きな声で叫ぶ。

「ユキ、今日も善い一日をね! 行ってらっしゃい!」

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1年生のユキは、ユキの弟みたい。
ユキ、大きくなってもママに優しくしてあげてね。
ユキがいるから知子は頑張れる。

3月19日の卒業式では、(今年も?)ユキが第一声を上げる。
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そして、4月からユキは6年生になる。
ユキの卒業式もアッという間のことだろう。

今夜知子が帰宅したのは10時を過ぎていた。寒かったであろう。
ユキはまだ眠っていなかった。いつもならレーナ・マリアさんのCDの2〜3曲目で眠ってしまうのに、知子が帰って来た音で嬉しそうに降りて来た。そして何も言わず、ただ微笑むばかりですぐに上がって行った。
ユキ、安心しておやすみ。

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一昨日ユキにもらった飛び出すカード。ありがとう、ユキ。
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2019年03月09日

2019年春 咲くことができなかったオカメザクラ

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2018末に切られたオカメザクラ.jpg私の周辺で毎年一番早く咲く桜の名前がオカメザクラであると知ったのは2012年6月8日 だった。
チャッピーが我が家に来てから、いつも春の訪れを確かめながらオカメザクラを見上げていた。ところが昨秋、枝が全て切り落とされていたので「アッ」と声が出て立ちすくんでしまった。

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足元に眼をやると幹の小枝につけた蕾が開き始めていた。50年近く前、ここにオカメザクラの苗を植えた亡き人を偲びつつ、健気に咲く花が愛おしくカメラに収めた。
      
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カンヒザクラ(寒緋桜)とマメザクラを交配して作られたオカメザクラは、
寒桜のように下に向かって咲く。

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心痛む2019年春。
チャッピーがいなくなって4度目の春。
そして、私と知子にとっても忘れられない春。

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「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。(ガラテヤ5章22・23節)
果樹はどんなに枝を張り、葉を茂らせ、花を豪華に咲かせても、最後に実を結ばなければ不作です。私たちも知識を誇り、多くの物を所有しても、御霊の実を結ばなければ、神をも人をも喜ばせることはできません。所有よりも愛へ、優越感よりも平安へ、効率よりも誠実へと、人生の照準を合わせ直しましょう。

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「彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」。(イザヤ書42章3節)
主のわざを成し遂げた人は、たいてい何回か折れかかっています。でも、早まって自分で折ることはしませんでした。心静めて、主に信頼し続けたのです。主は消えかかりそうな人を見捨てられません。それゆえ自分で消してはならないのです。火を保っていれば、いつか燃え立つ日が来ます。

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「わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前で闇を光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない」。(イザヤ書42章16節)
暗闇のでこぼこ道を進まされるときがあります。そんなとき、自分の目を信じるのは愚かです。自分は見えていないとへりくだれば、主の道が光に照らされるようになります。謙虚さが賢い生き方です。

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「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」。(イザヤ書43章4節)
主は御子イエスのいのちで私たちを買い取られました。ゆえに私たちは主のものです。主は私たち一人一人に、使命と計画を用意しておられます。その計画こそが私たちの財産です。その財産を知らぬまま、年月を過ごしてはなりません。私たちは主に期待しますが、主もまた私たちに期待しておられます。

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「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。(イザヤ書43章2節)
これが神の国に生きる者への安全保障です。生きている今も、死んだ後も、主が永遠に守ってくださいます。この約束があるので、安心して主の計画に参加できます。もう少し大胆にチャレンジしてもいいと思いませんか。

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アジサイ

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。(イザヤ書43章1節)
私たちの人生の意味と尊厳を保証しているのは、主の愛だけです。主はその愛を実証するために、独り子イエスのいのちを犠牲にされました。この愛から離れたら、私たちは何もできないし、何を成し遂げても大した価値はないのです。
                          (キリストの栄光教会より)
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↓ 二上山・雄岳の近くへ行くと、
山麓はこんなにも開発されていた。
そのうち二上山も姿を消されてしまうのではないか。
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                         (私の心の隠し絵)
今年は3月6日からレント(受難節)に入った。

「われわれには今日、どんな喜びが
訪れるか知る由もない。
どんな悲しみや誘惑が
われわれの行く道で待っているかも知れぬ。
しかし確かなのは、良きにつけ悪しきにつけ
神の恩寵が、つねにわれらを助け
聖なるみ旨を行うために助けを送られること」。
        (ウィリアム・バークレー)

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↑ オオバン ↓

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↑ オオバン ↓

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「主は今に至るまでわれわれを助けられた」。
             (サムエル記上 7章12節)
    これからもまた最後まで、主は助けてくださる!
         
神さま
眠りにつく前に、愛するすべての者のことを御前に覚えます。
そして沈黙の内に、一人ひとりの名前を
あなたの御前に呼び出します。
悲しみと孤独の中にいる人々、老いて忘れられた人々
肉体の痛みや心の悩みを覚える人々を・・・・。
あなたの恵みを特に必要としているすべての人を
祝福してください。
そしてこの私にも祝福を与えてください。
この夜を安らかなものとしてください。
この祈りをイエスの御名によって。アーメン。
                     (ウィリアム・バークレー)


雄々しく生きる野鳥たち:          
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最近よく見かけるムクドリ

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これはツグミ
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2019年02月28日

みことば

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今日は冷たい雨。今日の雨を見込んで昨日移植したスイセンは元気そう。
今日は神戸の叔母を訪ねるつもりだったが、昨日のうちに叔母が気遣って別の日にと電話してくれた。その時に新たな心配事を聞かせてしまったことを悔いている。春を待たずに知子とユキも一緒に元気な顔を見せてあげたい。今こそ福音を伝える時。

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2月24日のサッカー教室(最高気温15度)

「主は捕われ人を解放される。主は盲人の目を開け、主はかがんでいる者を起こされる」。(詩篇146篇7・8節)
妬み、憎しみ、恐れ、臆病、病気、失敗・・・人は何かに捕らわれています。それが人格の成長を妨げ、未来の可能性を塞いでいます。キリストはそんな「捕らわれ人」を解放し、真っ直ぐに立たせ、「安心して行きなさい」(ルカ7:50)と励ましてくださいます。私たちは今や、前に進もうと思えば進めるのです。

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「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」。(第2コリント4章7節)
人は土の器です。傷つきやすく、壊れやすく、いずれは崩れて朽ち果てます。しかし、私たちはそんなもろい器に、キリストという宝を入れています。傷つくことを恐れ、自己防衛的になる必要はありません。たといひびが入っても、古びても、途轍もない力を秘めていることに変わりはありません。ひびも古さも、その人の持ち味となります。

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「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」。(第2コリント4章8節)
窮したり行き詰まったりするのは、キリストを見ないで自分を見ているからです。八方塞がりになっても、うなだれてはなりません。天に向かって目を上げましょう。下からは見えずとも、上からは天を仰ぐ私たちが見えています。天には恵みの窓が開かれているのです。

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ヒヨドリ

「(私たちは)迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」。(第2コリント4章9節)
不利な条件で戦い、苦闘している人を、私たちは応援したくなります。主も、そんな信仰者を放ってはおかれません。万策尽きたように思えても、絶対に自分で人生に終止符を打ってはなりません。耐えて待てば必ず主の時が来て、御手が差し伸ばされます。このみ言葉の真実を体験することになります。

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シロハラ

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」。(イザヤ32章15節)
聖霊が私たちの間で特別な恵みを注がれる日が来ます。そのとき荒野のようだったところに、命の回復が始まります。干からびた心が生き返り、すさんだ関係に潤いが戻ります。忍耐し待ち続けたことが、報われる日です。主の恵みを信じてあきらめなかった者のみが味わう喜びの日です。

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ツグミ

「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」。(ガラテヤ4章19節)
産みの苦しみには、「キリストが形造られる」という喜びが伴います。産み出す方も産み出される方も、ともに苦しみます。しかし、ゴールが見えている苦しみです。辛くても耐えられます。もし途中であきらめてしまうなら、それまでの苦しみは、単なる苦しみのままで終ってしまいます。

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シジュウカラ

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」。(ガラテヤ5章1節)
怒りや我欲に縛られていませんか。失望や恐れに縛られていませんか。キリストが与えてくださった自由は、見てはならないものを見ない自由、罵(ののし)りたくても罵らない自由、絶望状態でもなお希望を持ち続ける自由です。

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セグロセキレイ

「『あなたが告げてくれた主のことばはありがたい』。彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである」。(イザヤ39章8節)
ヒゼキヤ王の軽率な行為ゆえに、エルサレム陥落の日が予告されます。しかし、王はそれが自分の時代ではないことで安堵するのです。こうして、将来に滅びを先送りします。私たちは、未来に平和と安定を残す働きをしたいと思います。それが「祝福の源」の務めです。

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アオジ

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を駆って上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。(イザヤ書40章30・31節)
小さな翼を力いっぱい羽ばたかせても、やがて疲れ果てて落下します。私たちに必要なのは、信仰の大きな翼です。その翼を広げれば、聖霊の「上昇気流」に乗って高く舞い上がれます。羽ばたかせなくてよいので疲れません。

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ヒヨドリ

「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」。(ガラテヤ書5章9節)
小さな罪でもそのまま放置すれば、心全体を腐らせます。小さな嘘も清算しなければ、やがて人生を崩壊させます。これくらいは大丈夫と自分を欺き、小さな金銭欲、所有欲、名誉欲を許すなら、いつしか人間関係、家族関係を損なうことになります。心に一粒の妬みや憎しみが生じたら、その場で除去しましょう。聖霊が隙間を満たされます。

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スズメ

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」。(ガラテヤ書5章13節)
真理が与える自由は、自分の能力を超えさせます。愛しにくい人をも愛する力を生み出します。罵られても罵り返さず、憎しみを慈しみに変えます。自分の欲望のままに動く自由は人を遠ざけます。神の願いを実現するための自由は人を近づけます。

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ホオジロ

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」。(イザヤ32章15節)
聖霊が私たちの間で特別な恵みを注がれる日が来ます。そのとき荒野のようだったところに、命の回復が始まります。干からびた心が生き返り、すさんだ関係に潤いが戻ります。忍耐し待ち続けたことが、報われる日です。主の恵みを信じてあきらめなかった者のみが味わう喜びの日です。

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「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」。(ガラテヤ5章1節)
怒りや我欲に縛られていませんか。失望や恐れに縛られていませんか。キリストが与えてくださった自由は、見てはならないものを見ない自由、罵りたくても罵らない自由、絶望状態でもなお希望を持ち続ける自由です。

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「『あなたが告げてくれた主のことばはありがたい』。彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである」。(イザヤ39章8節)
ヒゼキヤ王の軽率な行為ゆえに、エルサレム陥落の日が予告されます。しかし、王はそれが自分の時代ではないことで安堵するのです。こうして、将来に滅びを先送りします。私たちは、未来に平和と安定を残す働きをしたいと思います。それが「祝福の源」の務めです。

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「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を駆って上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。(イザヤ書40章30・31節)
小さな翼を力いっぱい羽ばたかせても、やがて疲れ果てて落下します。私たちに必要なのは、信仰の大きな翼です。その翼を広げれば、聖霊の「上昇気流」に乗って高く舞い上がれます。羽ばたかせなくてよいので疲れません。

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「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」。(ガラテヤ書5章13節)
真理が与える自由は、自分の能力を超えさせます。愛しにくい人をも愛する力を生み出します。罵られても罵り返さず、憎しみを慈しみに変えます。自分の欲望のままに動く自由は人を遠ざけます。神の願いを実現するための自由は人を近づけます。

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(キリストの栄光教会より)

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2019年02月26日

青い空に春の色 −馬見丘陵公園のカワヅザクラ−

IMG_5079.jpgNさんと二人だけの生協の共同購入を終え、いつものようにひとしきり喋って別れようとしたら、「丘陵公園のカワヅザクラを見に行かない?」と誘われ、それぞれ昼食を終えて1時からスタートした。

昨日は16.5度のポカポカ陽気だったが、今日は2度ほど低く風が冷たく感じたものの、陽ざしは力強くサングラスをかけて出かけた。

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季節外れにバスの車窓から伊豆の河津桜を見たことがあるが、花を見るのは今回が初めてだと思う。早咲きの桜も花が開いていたのは僅かだったが、青い空に春の色、確かに今年も春が巡って来た。

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カンヒザクラは下に向かって咲く。

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ここは梅園。
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これはサンシュユの蕾。

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チューリップの芽はまだ3〜4センチだった。

近くのスーパーまで戻ってコーヒータイム。
そこからだと自宅まで自動車で5分、
ユキの下校時間を気にしながら45分間ほどお喋りした。

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Nさん宅の馬酔木の花。
こんな時期から咲くとは知らなかった。

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ローズマリーの葉の中に小さな青い花が咲いていた。
2時間半、心和らぐ時をありがとう。

posted by 優子 at 23:33| 随想 | 更新情報をチェックする

2019年02月25日

この地に移って早20年

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2-25-2.jpg今朝、住友林業のメンテナンスの方々を迎えるべく外に出ると、電信柱のてっぺんから聞こえる鳴き声に気づいて、急いでカメラを取りに入った。限界近くズームアップして撮り、カメラの画面を見てシジュウカラだとわかった。

40倍近くにズームアップすると画面が揺れ、画面が制止した瞬間にシャッターを押せても、被写体が上や右に大きくずれるので今回はよく写っているので嬉しい。

さて、東大阪から当地に引っ越して来て早いもので20年になる。今日は築20年の定期点検で、外壁、屋根の上、床の下(シロアリ点検)、水回りなど、3名の方々が手際よく点検してくださった。

この日を待たずに今月初めに玄関の鍵を新しく取り換え、昨年の3月初めにはトイレと台所の部品を変えた。

1999年3月11日に引き渡されて、4月6日に引っ越して来た。外構工事はまだ何もできていなかった。家の中は200個(あるいは250?)もの段ボール箱で足の踏み場もなかった。
翌日は次女の大学入学式。私も娘と一緒に馴染みのない近鉄電車に乗って、大阪を通り過ぎて神戸に向かった。家のことは長女に任せて。

ようこそチャッピー!.jpg結婚と同時に東大阪で22年過ごし、この地でも早20年過ぎたのである。引越し後まもなくチャッピーがやってきた。引っ越した年の8月だった。
生後3か月の子犬が成犬になり、老犬になって、2015年11月末に一生を終えた。16歳半だった。

引っ越した翌年2000年8月に父が亡くなった。この地からも1年間週2回父の病床(大阪)に通った。私も「もうしばらくだから」と自らを鼓舞し、子と孫に思いをはせる。


40秒の動画です。
ユキが撮った動画です!
次も23秒と短いですから見てやってくださいね。

これは窓ガラス越しに撮った。
最後にユキの声、「あっ、2匹、2匹おる!」
そばにもう一匹ヒヨドリがいた。
posted by 優子 at 21:35| 随想 | 更新情報をチェックする

2019年02月23日

ブルンナー読書会㉙ −決定者−

2-23-3.jpgテキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の18回目、説教のタイトルは「決定者」。
出席者:3名(知子・欠席)
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」
司会役、祈り:優子(聖書朗読は3人で)
要約発表:良輔

マタイによる福音書25章31節〜46節:
25:31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
25:32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、やぎを左におくであろう。
25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
25:46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

要約:
2-22-3.jpg世界審判について受難の直前に語られた譬えについて、多くの誤解がある。芸術家は天国へ行った人々と地獄に落ちた人々、その上に世界審判者を描き、ダンテもまた『神曲』で天国と地獄に行った人々を分けたが、これこそ中世の誤解であり、伝統的・教会的誤解である。


イエスは我々がどのような人間であれ、宗教の違いであれ、信仰のある者ない者、高潔な人間であれ自堕落な人間であれ、全ての一人ひとりに語っておられるのであり、語りかけられている者自身の「決定」、「運命」が問題なのである。天国と地獄が存在するのではない。

2-22-1.jpg譬えで語られている比喩は最後の審判の日についてのことである。私たちがこの地上において幸福であろうと不幸であろうと、成功しようと失敗しようと、自分の目標に達しようと挫折しようと、それらは決定的なことではない。

唯一重要なものは最終目標である。全てのものは最終目標に向かい、この最終目標の地点にイエス・キリストが立っておられる。彼こそが決定的な方であり、福音書が問題にしているのは彼のことである。

イエス・キリストは、万物の創造者なる神があなたをご自身のもとへ呼び寄せ、あなたのために永遠の生命を用意し提供するための仲介者で、キリストは自分のところに来る者は誰も突き放しはしないと言われる方である。この方においてあなたの永遠の運命が決定される。

神が二重のご意志をもっておられ、永遠の昔からある者を救いへ、ある者を滅びへと向けて創造し、かつ決定されたというのは間違いです。聖書はそのようなことは何も語っておりません。

イエス・キリストにおいて啓示せられた神の世界計画は、ただ一つ、救いのみであり、ご意志は永遠の生命、神の国、キリストにおける、そしてキリストによる万物の完成のみである。

そしてそのことを神は、イエス・キリストにおいて、罪人であるあなたに語っておられる。神はあなたの罪を赦そうとしておられ、あなたのすべての破れを癒そうとしておられる。

たとえあなたがどのような人間であれ、あなたがどのような状態であれ、これまでのあなたの生活がどれほど倒錯したものであれ、神は、それが、それのみが、彼のひとり子イエス・キリストにおいて示した彼の永遠の計画と永遠の意志であるとあなたに語られます。

そのために私たち自身の態度を決定しなければならない。イエス・キリストの福音は、どんな人にも、またどんな場合にも必ず救いが出てくる救いの自動販売機ではない。

「分ける」や「決定する」を意味するギリシャ語の「クリシス」は「裁く」という意味をももっている。イエスのみが、父なる神の国に通じるドアである。この招きを受け入れなければ滅びへと向かう。教会が、救いのみ語り、この厳粛な言葉を語らなければ重い罪を負うことになる。

世界審判についてのこの譬えは、「あの地獄に落ちる連中」に対して語られているのではなく、私にたいして、説教者である私に対して語られており、そしてまた私を通して聴く側のあなたに対して語られている。

教理問題や信仰についてではなく、ひとりびとりがなしたことのみが問われており、あなたが関わりをもたなければならなかった人に対して慈悲深かったか、あるいは無慈悲であったかどうかである。

イエスが称賛された人は、慈善の業ではなく、自分の善き行為については全く何ひとつ知らない、まさに「右の手のしていることを左の手に知らせるな」という、イエスの言葉に従って行動した人であり、自分を正しいとする人たちや自信のある人間の自己称賛に対して語られている。

われわれを最も確実に神から引き離すものは、独善、自信、自己称賛、自己満足だ。自分自身を正当化している人は、救い主、救世主を必要としない。

「あなたがた、主に祝福された人たちよ」とイエスに称賛されている人は、自分の善き行為については全く何ひとつ知らない人、したがって、まさに「右の手をしていることを左の手に知らせるな」というイエスの言葉に従って行動する人です。

審判についてのイエスの教えの目的は、われわれを不安にすることではなく、謙虚にすること、信仰の誇りであれ、教会の誇りであれ、徳の誇りであれ、あるいは自己形成の誇りであれ、われわれ自身の誇りを破壊することである。

なぜならこの誇りこそ、絶縁層のようにわれわれを神から分離させ、神の霊と神の愛をわれわれの中に入り込めなくするものだからである。

「神様、罪人の私をおゆるしください」(ルカ18・13)としか言えないあの取税人のように、人間が神の前に膝まづく時、その時にのみ、人間は神に近づき、神は人間に近づかれる。謙虚と愛が同居し、誇りと無慈悲が同居する。

イエスの招待の応諾には、怠惰であり安易さ、傲慢という障害が立ちふさがっている。これらのどちらかが存在するところでは、キリストは福音を携えてわれわれのところに来ることはできない。

世界審判の譬えはこれら双方をわれわれから追い払う。その理由からも、この譬えは受難の前に位置している。なぜなら、われわれに命を与えんとしてわれわれのために死んでくださった方を受けいれるための道を準備してくれるからである。

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講義メモ:
人生はそのたびごとに決断しながら生きている。それを大事にしたのが実存主義だが、絶えず聖書は静的に考え、動的に考えていない。
パリサイ主義は信仰義認、行為義認など、そこには独善、自己称賛し自分自身を正当化する。人の世も独善や自己称賛で動いている。

2-18-13.jpg私たちは自分の決断と関係なく存在するのではない。イエスは我々ひとりびとりに絶えず語りかけておられる。
この地上の生の中で起こる一切のことは−幸福であろうと不幸であろうと、成功しようと失敗しようと、自分の目標に達しようと挫折しようと−それらは決定的なことではなく、あなたの決定が、あなたの運命が問題なのであり、あなたの前に二重の可能性がある。

何が決定されるかといえば、最終目標に向かって進んでいる。一個の人間としての目標のみならず、人類的、世界的救いの目標を語っている。人生だけではなく、諸国民の生も、人類の生も、歴史も、すべてがそれへと向かっており、その最終目標の地点に、イエス・キリストが立っておられる。イエスこそが決定的な方であり福音書が問題にしているのは彼の事である。

イエスは、自分のところに来る者は誰をも突き放しはしないと言われる。招いておられるのに答えなければいけない。

信仰は知識的な事柄ではなく、人格的な事柄だ。出会いとしての真理だと、ブルンナーは絶えず繰り返して説く。

今日は三者ともに会話が弾んだ。私の発言内容のみ記録。
▼クリスチャンとして自分の弱さ(欠点)に気づかされて悔い改めるのだけれど、それは生きている限り、死ぬまで解放されることはない。(自分のことを全く省みずに他責化する人には驚くが、)自らを厳しく省みすぎると悩みこむ場合もあるので、ブルンナー読書会のように信仰の友と学び合い、祈り合うことがとても大切だ。

▼(そして、伴侶に尋ねた)
「私はイエス・キリストと共に歩むようになって気づかされることが多くあるんだけれど、あなたはどう? 今も神がわからない?」(夫は語らず)

「『イエス・キリストの福音は、どんな人にも、またどんな場合にも必ず救いが出てくる救いの自動販売機ではない』という箇所は、実に言い得て妙だと思う。これまで(20〜30年間)聴いてきた説経では、救いは自動販売機のように言われていたように思うね」。(夫は深く頷いた)
「しかし、私たち自身の態度を決定しなければならないということやね」。

▼「語りかけられている者自身の『決定』、『運命』が問題なのである。」と読んだとき、「そうか、だから『汝の運命の星は、汝の胸中にあり』というんだ!」と声を出して納得させられた。

あれは私が中学生の時に、兄が「『運命の星は、汝の胸中にあり』という言葉が聖書にある」と教えてくれた。どの福音書だったか忘れてしまったが、福音書を探したが見つからなかった。今思えばリビングバイブルか何か別の訳語の聖書から引用した聖句だったのだろう。

「今日はブルンナーの会があるんですね。主のみことばで強められますように。私も主人とともに月1回の学びに参加します。私たちは主のもの! 主の御手の中で生かされているんですね」。

次回は、3月23日(土)。
テキスト箇所は「ゲッセマネのイエス」、司会役は下村さん。

2-18-16.jpg附記:今日は良輔が要約を発表した。上記の要約は優子筆。
夕方5時過ぎより、私は知子とユキと3人で外出し、大切なひと時を過ごした。知子も私も長い年月経験したことのない安らぎのひと時だった。

posted by 優子 at 23:59| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

腹にこたえるほどに体験してこそ聖書のメッセージが響く −忘れられぬ例会−

2-21-3.jpg私は何も書けなくてこの2年間書かずにJCP例会に参加しているが、毎回発表する方は何人もおられる。
今回の作品で深い苦悩の渦中にある方を知り、絶句した。人生とは実に不思議だ、「事実は小説より奇なり」。病気だけではなく、自分に責任のない苦悩が多くあることをもう一度思い知らされ、最近読み直していた北森嘉蔵の言葉を思い出していた。

私たちには仲保者キリストが与えられており、その状況の中で苦悩は設定されている。詩篇140篇について北森嘉蔵はこのようにみことばを取り次いでいる。

敵を愛せよということをもって本命としている聖書の中に、「燃える炭を彼らの上に落としてください」という言葉が位置をもっているのです。

だから、こういう直接性の状況というものを、腹にこたえるほどに体験していないと、敵を愛せよという本命のメッセージが空疎なものになるということなのです。

聖書は「敵を愛せよ」というのです。だから、敵の敵たるゆえんが出る幕を持っていないと、「敵を愛せよ」という本命の出る幕がつまらなくなるのです。

だから、敵は敵だということを敏感に感受するアンテナがたっていないといけないのです。そういう意味では140篇は稀有なメッセージだと思います。
例会の日の駅からの帰り道、私は声を出して祈っていた。慰めと励ましを贈りたいが言葉が見つからずメールを送ることもできない。

2-20-5.jpg「人生に一度や二度は魂の底が落ちるという経験をする時がある。
人生はジグザグコース、紆余曲折が起こらないと、神のわざというのは示されない。大波が立ち騒ぐことがないから神がいるというのではない。

春風駘蕩、春風が吹いているような、四海波穏やかな状況ではなく、ダビデが苦戦していたように敗戦に敗戦が重なるという状況。

私たちは本当に人を愛することができない。どんなに努力しても克服できず、どうしても永遠者の力によらねばならないよわい(齢)は必ず終わりが来ることを知っていても、このよわいが終ることを腹の底まで認識することは人間の力だけでは不可能であるように。

聖書は悪い訪れは無いと言っているのではない。悪い訪れを恐れない。仇にまさって強い力が人生を導いているのだと。私たちは『叩けよさらば開かれん』、『求めよさらば与えられん』ということを約束している神の前に立っているのだと!」

詩篇140篇:
140:1 主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、
    わたしを守って、
    乱暴な人々からのがれさせてください。
140:2 彼らは心のうちに悪い事をはかり、
    絶えず戦いを起します。
140:3 彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし、
    そのくちびるの下にはまむしの毒があります。〔セラ
140:4 主よ、わたしを保って、
    悪しき人の手からのがれさせ、
    わたしを守って、わが足をつまずかせようとする
    乱暴な人々からのがれさせてください。
140:5 高ぶる者はわたしのためにわなを伏せ、
    綱をもって網を張り、
    道のほとりにわなを設けました。〔セラ
140:6 わたしは主に言います、「あなたはわが神です。
    主よ、わが願いの声に耳を傾けてください。
140:7 わが救の力、主なる神よ、
    あなたは戦いの日に、わがこうべをおおわれました。
140:8 主よ、悪しき人の願いをゆるさないでください。
    その悪しき計画をとげさせないでください。〔セラ
140:9 わたしを囲む者がそのこうべをあげるとき、
    そのくちびるの害悪で彼らをおおってください。
140:10 燃える炭を彼らの上に落してください。
    彼らを穴に投げ入れ、
    再び上がることのできないようにしてください。
140:11 悪口を言う者を世に立たせないでください。
    乱暴な人をすみやかに災に追い捕えさせてください」。
140:12 わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、
    貧しい者のために正しいさばきを
    行われることを知っています。
140:13 正しい人は必ずみ名に感謝し、
    直き人はみ前に住むでしょう。

2-21-1.jpg書き手には、「今はまだ書く時ではない。書くまでに苦しみ抜かねばならない」とアドヴァイスされた。私は深く頷いた。
ゆるすことが全てに勝利することであっても、そこに至るには何という苦悩を通って行かねばならないのだろうか。しかし、主を信じる者には苦悩にまさって強い力で導かれていることを忘れないでと励ましたい。

閉会の祈りは、児童文学者・今関信子先生が祈られた。
天のお父さま(と呼びかけられたのだろうか覚えていない)
研究を分かち与えていただき、たくさんの学びを得ています。言葉を磨いてあなたを証しする文章を書いていけますように、あなたの小さな器として十分に用いてくださいますように祈ります。

今日ここで学んだことを一人ひとりの内に蓄えられ、毎日の生活の中で耕され醗酵して、どうかよい素材とよい言葉によりあなたを証しする文章が書けるよう、今日ここを出て行くにあたり、あなたの守りを一人ひとりを捉えてくださるように切に祈ります。

一人ひとり書いてきた文章が練り上げられて用いられますように、会を閉じるにあたり主の御名によってお祈りします。アーメン。

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▼次回例会は、4月20日(土)大津教会にて 13時〜17時。
2019年度総会、『種を蒔く』5号出版について。学びは今関先生の講演。
1987年に出版された『小犬の裁判はじめます』(童心社)は、「日本人の心のぬくもりが書かれている。中国でも伝えたい」と劉穎(りゅうえい)さんが中国語に翻訳して、昨年中国の出版社から発刊された。その背景や感じておられることを話していただきたい。

なお、新年度にあたり、年会費(5000円)をお納めください。遠隔地会員の方は、1000円を振り込んでください。(ゆうちょ銀行:口座番号 00930=2=147275   加入者名 藤本優子)

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 ホッと一息 
2-18-3.jpgこれは18日に撮ったシロハラ。
シロハラの目もジョウビタキのように優しい目をしている。


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これはホオジロ。18日の朝7時20分、朝食中のユキが見つけて室内からガラス越しに撮った。

ついでにこれは昨日の朝、5〜6羽のムクドリが元気よく屋根の上を行進していた! ムクドリは気が強そう。
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2019年02月19日

「森鴎外の歴史物語を読む『山椒大夫』を中心に」 ―日本クリスチャンペンクラブ例会―

2-18-1.jpgこれは2月16日(土)、大津教会で開催された日本クリスチャンペンクラブ例会の講演内容を聞き書きしたものである。演者は私たちの導き手、大田正紀先生(日本近代文学研究者)。
『山椒大夫』は青空文庫でを読むことができる。

明治天皇の御大喪の日に乃木大将が切腹して殉死した。妻も喉をついて死ぬ。鷗外はこの報を聞いて、その日の内に『興津弥五右衛門の遺書』を執筆する。漱石は2年あとに罪を悔いて『こころ』を書いた。

鷗外は人生に否定的な小説を書いていた。それが最も露骨に顕れたのが『かのように』である。日本の歴史本には普遍的な価値を感じない。ヨーロッパは教会で国家の安定を足らしめていたが、天皇制に根拠はなく、ただ社会の安定のためであると、はるかに冷めた目で天皇制の社会を見ていた。

鷗外は明治の御代に腹を切って殉死するのは驚きだったが、自分もまた殉死する人間の真心や正義を汲み取って殉死を書いていく。これが鷗外の歴史小説の始まりだった。

2-18-2.jpg鷗外は日本のクリスチャンには大変評判が悪く、鷗外の文学の本質は上手に諦めること、「諦念」の文学だと言われ、キリスト教とは違うのではないかと言われるが、鷗外記念館のノンクリスチャンの館長夫婦は、鷗外はクリスチャンではないが如何にキリスト教に関心をもって作品を書き続けていたかがわかると語っている。
カトリックに入信した鷗外の次女・小堀杏奴(あんぬ)も、父の心の中にキリスト教があったのではないかと書いている。

『鷗外の降誕祭(クリスマス)』にクラウス・クラハトは鷗外のキリスト教を肯定的に書いている。森林太郎の「大正二年日記」12月5日に、「夜樅の木に燭火を点してNoëlの祭の真似を為す。」とある。

キリストの生誕を祝う言葉は多数あり、すでに「クリスマス」が大半を占めていたのに、なぜフランス語の「ノエル」なのか。なぜ「祝う」や「行う」ではなく、「真似を為す」、即ち「かのように為す」であったのか。鷗外は日本では珍しくクリスマスを祝い、お世話になった人にクリスマスプレゼントを渡していた。

『鎚一下』では基督教信者の生涯に感銘を受けて、「多くの不遇の青年を諸方から集めて、基督教の精神を以て同胞としてママ待遇して、自分も一しよになつて労働してゐる」など、キリスト教徒の事業家夫婦の感動的な生活を描いた。キリスト教の善さを見出した鷗外は殉死の歴史を書く合間に、人生の苦難を切り拓いていった女性をキリスト教の影響下で試みるようになった。

山崎国紀は『森鷗外 −≪恨(はん)≫に生きる』に、鷗外における二つの恨、悔いを書いている。少年鷗外が津和野藩のキリシタン迫害、殉教を見たのが大きな心の傷になった。村の人々は優しかったが誰ひとり助けなかった。しかも自分の親戚が改宗の指揮を取って理不尽な迫害をしたが、その人の名前を出せない。それが一つの恨で、10歳で故郷を出て以来、小倉に左遷された時も半日で行けるのに津和野には生涯帰らなかった。

もう一つは、恋人エリーゼ・ヴィーゲルト来朝である。当時外交官は外国人と結婚してはいけないという不文律があったために、ドイツで医学を勉強すればここで医学者として生きていけるという自負もあったが、自分の可能性だけに賭けることはできないと帰国。別れた女性と文通はしていたが、鷗外は用心深い人で外国にいた時の日記はすべて清書して書き換えている。

『山椒大夫』
仏教の真理を解りやすく伝えていくのが説経である。鷗外は原作にない書き方として、母を簡単に人を信じてしまう愚かなところをもっている人物とし、人のいいにもほどがあるように簡単につかまって売り飛ばされてしまう。

最初のクライマックスは、安寿と厨子王の逃亡計画を知られて、山椒大夫の三男三郎に2人の額に「十文字」の焼き印を押されるところだ。これを半ば夢の中の話になり、地蔵尊を額に当てると焼傷は消え、地蔵尊にキリスト教のシンボル十字架が刻まれていた。身代わり地蔵のこのあたりの文体が変わり、夢のことと処理したあたりがうまい。

そして父のあとを継いで支配者になって行くとして、厨子王が乞食から高貴な身分に変わる天王寺の場面や、火あぶりや水責めなど拷問ののちに惨い殺されかたをするところも全て取り去り、安寿は運命に身を投げたという形にして永遠な毫光の中で入水する場面を象徴的に描いている。この物語の最も深いところにキリスト教の受容がある。

最も大きなテーマは、説経ではこんなにひどい下人たちを出世した厨子王が国司として赴任した時に、山椒大夫を捕まえて三郎をノコギリで引いて殺す怨念の復讐で拍手喝采となるのであるが、鷗外は主従関係を改めさせて奴婢を解放し、和解へと導く。佐渡に渡った盲の鳥追いの母とも再会を果たす。

岩崎武夫は中世の説経の肝心を欠落していると批判しているが、これは復讐譚ではなく人はどこにおいて変わるか、できるかということで書いたと言えると思う。

『最後の一句』
父の死罪の知らせを受けて、16歳の長女いちが町奉行に、自分たち子どもの命を差し出すから父親の命を助けてほしいと願い出た。奉行所は父を助けたら「お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでもいいか」と恫喝されるが、「よろしゅうございます。お上のことには間違いはございますまいから」と切り返す。いちの一言が大嘗会(だいじょうえ)に遭遇して、父親は死刑ではなく所払いになったという話である。

この話は鷗外が少年の日に、切支丹迫害をただ傍観者として見守るしかなかったことが、終生鷗外の精神的外傷(トラウマ)として残っていることが影響している。即ち津和野藩が彼らに苛烈な拷問を加え、棄教しなかった子供を含む36名が死を遂げた殉教(マルチリウム)と重ねられており、そこで彼らの尊い信仰に出会っていた。

これは親孝行の話ではなく「マルチリウム (殉教)」の精神を書いたもので、いちの献身・自己犠牲が運命を切り開いたと見ることができる。鷗外は「殉教」ではなく、おだやかに「献身」と訳語し、「献身の中に潜む反抗の鉾」と言っている。

『大塩平八郎』
鷗外は明らかに幸徳秋水事件をめぐってこの作品を書いたと言われている。ひとりの人が銃を撃ったという記録はあるが、殆どの人が冤罪で、命運つきて歴史を越えていくことができなかった悲運を描いた。

ただ社会主義、共産主義、無政府主義を信奉しているというだけで政府はその人々を捕まえ、あっと言う間に処刑してしまった。裁く側は社会主義者がどうして悪いのかを知る手立てがないために、ヨーロッパで多くの本を手に入れている鷗外に訊いた。

取り締まる人間がどれほど偉いのか。大阪に火をつけた平八郎の中に悪魔的な意思はなかったのかどうか、一概に悪魔性があったとは言えないのではないか。平八郎は十字架にかかって死んだと書いている。

安寿は永遠な毫光の中で入水して運命を開き、いちは大嘗会という「時」に逢って命運を生きる。『安井夫人』や『ぢいさんばあさん』など、晩年は愛によって人の人生が変わるという話を書いている。

人生は真面目に生きていても報われないことが多く、そのことを噛みしめながら自分が命を差し出す思いで生きていくならば困難を変えていくと、目先のことではなく遠い所に希望があるのではないかと、美しい目の視線の向こうにある希望を書いた。

そして最後に自伝ものに入っていく。壮年期の鷗外の心底を領していたのは虚無主義であり絶望的な思いしかなかったが、希望も獲得しつつあったのではないか。その本質にキリスト教があったのではないかと次女・杏奴(あんぬ)が言っている。

鷗外が『最後の一句』で、皆が父親の沙汰をどうするかという時に、大嘗会と重なり恩赦になって所払いになった。
鷗外は何かおかしいと考えながらも、明治天皇の大嘗祭を無事にやっていきたいというのが、軍医のトップにいた鷗外の最後の仕事として降りたかった。

『鷗外の降誕祭(クリスマス)』の脚注に大田先生と恩師水谷昭夫先生の論文が紹介されている。「大学の紀要に書いたものなのに」と、ドイツ人がここまで調べていることに驚いておられた。この本は希望が多ければ電子図書にされるという。
(つづく)

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2019年02月16日

『嵐吹くときも』の世界 −2018年11月例会の学びより―

2-13-14.jpg今日は2月の例会に出席、大津教会でペン仲間と交わり、豊かに恵まれて帰宅。今回も大田先生からA3サイズの用紙27枚の資料を拝受した。10名分余りで300枚もコピーして持参してくださり、師の御愛労に応えるべくしっかりまとめたいと思う。

さて3ヶ月も前の記録になるが、2018年11月17日に日本キリスト改革派・灘教会で開催されたJCP関西ブロック例会記録を挙げたい。この日の学びは遠藤優子姉による三浦綾子著「『嵐吹くときも』の世界」だったが、私は例会の数日前に欠席の連絡を入れた。

IMG_4897.jpg優子姉とは2017年4月25日に紀伊国屋のビッグマン前で待ち合わせて、近くのカフェで2時間近く互いの課題を分かち合い、最後に祈り合うという貴重な交わりを得ているのでどうしても行きたかったが、10月半ばの驚愕すべき出来事に打ちのめされてどうしても行くことができなかった。

例会後まもなく12月初めに話されたまとめをお送りくださり、早速読ませていただいていたが、事務局より例会報告がなされてからブログにも記録公開させていただこうと思いながらも、2週間あまり過ぎてしまった。しかし今漸く力が充満されて、読者の皆様にもお分かちさせていただきたい。

講師の遠藤優子さんご紹介:
神戸市生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、同大学院で文芸評論家の水谷昭夫教授に師事。水谷師の三浦綾子夫妻取材で北海道に幾度か同行し、ご夫妻の人柄と生き方に衝撃を受ける。1992年4月から97年3月まで中部女子短期大学(現中部学院大学)初等教育学科専任講師。現在は創作グループ「ふらここ」所属。

近年は三浦綾子読書会の例会日と重なって長らく欠席されているが、2010年8月の夏期学校では「盲目のグーテンベルク」と題して『見はてぬ夢を―「視覚障害者」の新時代を啓いた左近允孝之進の生涯』をご講演いただいている。

では遠藤姉の「『嵐吹くときも』の世界」をお分かちしたい。

この作品は、昭和59年(1984年)1月号〜昭和61年(1986年)6月号まで「主婦の友」誌に29回にわたって連載されました。人間の罪、ゆるし、和解、新生を語る作品の系列に入ると言えます。

綾子さんの父方の祖父母の出身地佐渡の肉親を原型に登場人物を設定したという点で、三浦作品群の中で「ちょっと毛色の変わった小説である」と作者自身があとがきで語っています。

物語の舞台は、北海道の日本海岸、天売/焼尻の島が間近に見える苫幌村で始まります。佐渡から渡ってきた中津順平が開いたかねなか商店、その妻である美しく人をもてなす才能にたけたふじ乃を中心とする中津家と、夫長吉の他界後地味で働きものの女性キワが3人の男の子を育てながら営んでいた山形屋旅館という2家族が物語の中心にあります。このふじ乃は、綾子さんのお祖母さんがモデルということですが、綾子さん自身の一面を見せる人物でもあるとも思われます。

ふじのの一夜の過ちによって誕生したと周囲から見られている息子新太郎をめぐって、どろどろとした家庭小説が繰り広げられる一方、日露戦争終結後から大正末期という自由民権運動や社会主義運動が展開する時代が描かれます。

人間は本来自由で尊いものであるとし、社会をも変えようという運動が弾圧されていた時代を背景に、個人と個人の心理的葛藤、家庭の中での問題が中心に描かれます。そこから罪の本質と罪からの脱出の可能性を示し、それが社会や国家の問題にもつながってゆくという壮大な構造のある作品です。

作品は全半と後半に分けられ、テーマも明確であると言えます。
ひとつめのテーマは、「罪」の問題です。
2つ目のテーマとしては、罪と生きづらさに満ちた世界で、それでも人と人とが互いにつながりを持ち、支えあいながら生きてゆくことの意味というものが描かれています。
そして、3つ目に、人間には解決しえない「罪」を根本的に解決し、究極的な「ゆるし」を与えるものが示されます。

多くの内容が盛り込まれながら、この作品の重要な特徴をひとつ挙げるとするならば、この世で罪のゆるしを宣言されてなお、罪の結果を負って生きてゆくということにどういう意義があるのか、ということを読者に考えさせ、綾子さんの信仰に立った見解を描いた作品であるということです。

❶ 罪について

まず、この「罪」というテーマに焦点をあててみたいと思います。三浦作品の多くは、「だれもが罪を犯す存在」であるということを語ります。この作品でも、まずはヒロインふじ乃をめぐる「罪」が語られます。

ふじ乃が夫のいない間に増野六郎と罪を犯したことが暗示され、その後新太郎という長男が誕生しました。この新太郎は周りの人たちから不義の子だという疑いのまなざしを受け、父親の順平から可愛がられることなく成長してゆくことになりました。

新太郎への父親順平の愛の無い態度、順平とふじのとの冷戦的な状態が、このかねなかの家庭にはいつもありました。新太郎をめぐってふじ乃と順平は口論をしてしまい、順平は倒れてそのまま他界してしまうという事件に発展してしまいます。ふじ乃のうちには、「死にたいくらい辛い」、順平を死なせたのは、自分だという罪責感が残ります。

聖書に基づくと、キリストが十字架上で血を流して罪をあがなってくださったことによってどのような罪も赦していただけるはずです。では、キリストを主として従うことを告白し罪ゆるされれば、犯した罪の結果は消えるのかというと、残念ながらそうではありません。

ふじ乃のかたわらには常に、罪の結果を見せつけるかのように新太郎がいます。ふじ乃が犯した罪の結果は残り、それは生涯消えることはなさそうです。しかし、この世界を造り統べ治めておられる神によって赦しを宣言される、そのことによって、この世で罪の結果は負いつつも、そのことが祝福につながるということになります。

「わたしが悪うございました」という気持ちを持ち続けて生きるのは、苦しくとも自分を深く顧み、そんな自分が生かされている意味を見出して、生かされている目的を見つける道を進んでゆく機会が与えられているということだと言えます。

ふじのの罪は、このように見えやすいものなのですが、では、ほかの人たちはどうかというと、ふじのと対照的に描かれているのが、まじめで曲がったことがきらいで実直な夫の順平であり、娘の志津代です。

志津代は、小さいときから自分と同じような性格の誠実な父親順平になついていて、自分は母とは違うと思ってきました。結婚してからも、この母はいつまた何をしでかすかわからないという思いをずっと持ち続けていました。

義しい者は、誘惑に陥りやすいものを裁きたくなってしまう、一度でも罪を犯した人をそういう人だという目で見続けてしまう、許すといっても、心の底では罪を忘れず、どうしても人を罪あるものとみてしまうという傾向があります。

綾子さんの作品でしばしば出てくることですが、自分を正しい人の側に置く人と、正しくないとみなされていることを甘んじてうけている人、そういう人間同士は、たがいに尊い人格を持つ者同士といった人間関係を作り得ないという悲しい現実が示されています。

人格的に立派で働きものの順平も、志津代同様、いいかげんな人間への裁き心があったといえます。

よき夫にふじのは感謝はしていたわけですが、大元のところに自分は金で買われた人間だ、自分の意思で自由に生きることを奪われたものだという傷を持ったまま生きていたと言えます。

人の罪をさばく側の罪は、人の心に傷を残し、その人を本来の姿から離れたものにしてしまうという結果をもたらしてしまいます。目的をもって人間を造られた方に背いて離れてしまったために本来ふさわしい生き方ができず、罪の中を生きざるを得ない、ゆるしを宣言されてなお罪の結果を刈り取ることに苦しんでしまう人間の姿を現しているということになると言えます。

❷ 人をその人らしく生かすもの

人間を良い人か悪い人かどちらかに分けることはできず、伝統にのっとった古い考え方と新しい考え方も、いい点とよくない点があると言えそうです。

古いものの考え方の恐ろしさを伝えてくれるのは、三郎の詐欺、失踪事件に身の縮むほどの罪責感をもって縊死した番頭の嘉助と梅夫婦です。

嘉助は甥三郎の罪の償いのために死んで先代にもおわびをし許しをこい、主従は三世までという主従関係の中にあるので死んでなお、中津家をお守りしたいという古い精神性を示しました。

このような古い日本の精神は、日本人の大事な精神をも含んでいるのかもしれませんが、命を絶ったあと、どれほど大きな苦しみを残された人たちが負ってゆかなくてはならないか、そこを考えることをしない世界です。

当時、この国には、徴兵制や金で人を買うなどの間違った制度があり、今もかたちを変えて、残っているものがあるのではないか、ということも考えさせられます。

ふじ乃や増野は、世の中を変えるといった大きな使命に目を開かれていた人物ではなかったにしても、古いものの考え方、在り方に反旗を翻すことのできる人物として描かれていると言えそうです。

ふじ乃は増野のもとで初めて自由に生きることを認められたのを感じたのかもしれません。人は本当の自分を求める情熱をおおもとのところに持っているのではないでしょうか。

いろいろな制約や社会制度などに妨げられていて、なかなか思うようには生きられないとしても、ふじ乃には、これではだめだ、もっと自分らしく生きたいという情熱があったと言えると思います。

そのふじ乃のエネルギーに巻き込まれた人は、彼女の奔放さに憤ったり、裁いたりするわけですが、新しい世界に目を開かれてゆくということになるともいえるでしょう。

そのふじ乃の人格を受けついで、さらに行動的な人間となっていったのが新太郎だったといえます。

わがままで直情的、いったいどんな人間に育つのか、と危ぶまれた新太郎でしたが、与えられたぬくぬくとした家を出、自分探しの旅に出るといった生き方に入っていきます。

そして、キリスト者であり自由民権運動活動家であった北上宏明との出会いによって変えられ、伝統や因習といった古いものにしがみついている人たちの心をつないでの和解をもたらし、新しい関係や考え方の中で生きるようにさせる役割を果たすようになるのです。

北上は、人間、知り合った人たちはみな兄弟、まだ知り合っていない人たちはいつか兄弟になる人という考え方で、出会った人たちを愛し、その人にとって最もよいことをしようと努めました。

この作品の中で北上宏明という人物そのものが登場にしている場面はわずかですが、彼の人格、世界観、実行力、それらの原動力であると考えられる聖書信仰が多くの人たちに影響を与えていることが随所から読み取れます。

亡くなった文之助や北上が世に向けて発信していた思想は、まず、人は、それぞれ個性を与えられていて、自分らしく生きる権利があるというものでした。だから、自分らしく生きることを抑圧し、狭めるものに対して、時に対抗し打ち破って出てゆかなくはならないとします。

この作品は、この自由な新しい世界を作ってゆこうとするものと古いものを守り、そこから出ることはならぬとするものとがぶつかり合うという、そういう構成になっていることにも気づかされます。

自由民権運動家たちは、日本の近代化をどうしてゆくか、それだけでなく、人々を因習に縛られた考え方から解放し、本来あるべき人間らしく生きることができる世の中を作るということを課題に活動していました。そのために、国の中心にならなくてはならない優秀な人たちが捕らえられ、北海道で強制労働をさせられたという事実が日本の歴史の中に刻まれました。

人間を人間として尊び、自由に生きることと対立する旧態依然とした制度、伝統を固守する世界とその考え方は、人間として立派な人たちをも、深いところでゆがめてきたと言えるでしょう。

すべての人が完全に古い考え方か新しい自由な考え方のどちらかを持っているというのではなく、それぞれの内側にどちらの考え方も入っていて、社会やその時々のできごとによって、そのいずれかか両方が現れてくると言えるのではないでしょうか。

古い制度、自分の意思を通すことが許されない世界、それが人を卑屈にし、その中でしか生きられないようにし、ほかの人をもその中に連れ込もうという連鎖につながってゆくのではないでしょうか。

文治は、東京の北上のもとで勉強させてもらうことによってそういう人間をしばる世界から出て世の中を変えていくための枝となる機会が与えられました。しかし、身体を壊して故郷に戻りました。そして、家族を大切にして、二度と北上の見ているものを探し、自らをそれに投入するという方向に行くことはありませんでした。

文治の選択は、それはそれで評価できると思われます。が、堅実に自分の家族を守ってゆくことを第1とした文治は、世の中を大きく変えてゆくだけの器にはなり得なかったということにもなるでしょう。

この作品世界は、変わろうとしていた世の中と、その中で絶対的な基準というものを持ち得ず揺らぐ人たちの心の在り方を描いているとも言えます。それは自分が自分に与えられた本来の在り方を求めていいのだというところに立つことができるかもしれない、けれど、難しい・・・そういう課題を突き付けられている時代と人々のドラマでもあると言えます。

❸ ゆるしをもたらすもの

長じて新太郎は、母ふじ乃と貧しさのあまり娘を芸者に売ろうとした故郷の年老いた母親とを和解させることが必要だと自覚しました。そして、32年ぶりにふじ乃を文治と志津代夫婦を伴って佐渡に連れてゆくということを実現させました。母親と再会したふじ乃は、母に駆け寄りすぐにゆるしを表します。

日頃のふじ乃は故郷への想いなど全く見せなかったにも関わらず、故郷と生みの母を思い続けていたことがわかります。母も、実は罪責感に32年間さいなまれてきたことが明かされました。

ふじのの根本問題は、自分自身として生ききるということと、ふじのなりに解釈するとカネによって人生を狂わされたという傷の大元にある母と和解することだったと言えます。

それは、即ち自分を造られた方=創造主である神との和解ということになります。人間のひとつの課題は親に象徴される神との和解ではないでしょうか。

罪が入ってくるときに、兄弟が他人になり、争いが生まれます。けれども、ゆるしが宣言されたときに、人間本来のあるべき姿が見えてくるというのがこの作品の大切な主題であると言えるでしょう。

このゆるしというものが全世界を造り、人を造り、本来の生き方から外れた人間をも赦す道を備え、新しい生き方ができるようにしてくださる、そして送り出してくださるというお方から出るものだということが作品の最後では描かれています。

その方への想いをもって、讃美歌405番を新太郎はみんなに教えます。荒野を行くときも、嵐吹くときも。行く手を示して導いてくださる方を覚えさせ、どんな嵐が襲ってこようとこの方にゆだねて生きることができる平安の証と、嵐吹く世に遣わされてゆく人への想いを込めた祈りの讃美歌です。

新太郎は、この歌を北上から習ったと言いました。自由民権運動の闘士であった北上は、佐藤文之助らのようにいつ捕らえられるかもしれない、場合によっては殺されるかもしれないことを覚悟していたのではないでしょうか。常にいつ世を去ってもいい、自分に与えられた使命に生きるという覚悟を持って北上はこの讃美歌を新太郎に教えたのかもしれません。

その北上のいのちが新太郎のうちに流れ込み、新太郎は新しくされたと言えるでしょう。この場にいた5人は声を合わせて讃美歌を歌います。その声が稲田の上を流れてゆくのを聞きながら、志津代はしあわせを感じます。

ところが、その直後、向かってくる暴れ馬から悟を救って、新太郎はあっという間に死んでしまうという事件が起こります。みなは、悲しみの極みから、新太郎の死の意味を問いました。

ふじ乃は、新太郎の父親順平が一緒にこの島の墓に入りたくて呼んだのかもしれない、自分がいやでも毎年この島に墓参りに来たくなるように死んだんじゃないか、などとその死を故郷との和解が続くことに結びつけて考えます。

「あんちゃん、あんちゃん」と新太郎に取りすがって泣いた悟のうちには、自分のために死んだこのあんちゃんのように生きたい、という願いが芽ばえ、実際新太郎に似たものになろうと、生きたことが想像されます。新太郎の死は、自分のために死んでくださったキリストの死とかぶります。悟は20年後牧師となって北海道に渡り、人を本来の人として生かす方のことを語り伝えるものとされます。

新太郎は名前に表されているように「新しく造られたもの」となり、家族のために和解の務めを果たすために遣わされました。そして、さらにこの世に本当の自由、平和を作り出すものとして生き、世に遣わされようとしていた矢先に一人のいのちを救って、自分は世を去りました。

けれども、その新太郎のいのちは無駄に終わったのではない、遺された人たちに引き継がれてゆきます。さらに、私たちが新しく生きるものとしてこの世に遣わされるということにもつながってゆくことを告げます。

私たちは、生まれながらにして神に背く性質(=罪)を持って生まれます。そのことを悔い改めてキリストによるゆるしと和解を得る道が開かれていること、けれども、この地上でおかしてしまった罪の結果は地上にいる間残り、その責任を負ってゆかなくてはならない場合も起こってきます。

そういった罪の結果による傷を負っている私たちであっても、神は新しく生きるものとしてくだる、嵐吹く世界に遣わされていく人たちを送り出すときに、地上ではもう会うことができないとしても、「造り主であるお方の前でまた会うときまで、神の守りがあるように」と祈り宣言することができます。

この作品は、罪に覆われた世界にひと時の間生かされている者が、それでもこの世に生きる目的と希望を、届けるために遣わされてゆけるということの意義を告げてくれていると言えるでしょう。

2018年12月3日受信メール:
藤本優子さま、
ご多用の中、まとめをさっそくお読みくださり、ありがとうございました。
普段まとめをいただいています講演はどれも深い研究に基づいた学問的なものであるのに、極めて稚拙な内容で、申し訳ない想いです。今後とも、お教えください。
ご家族を支えながら、『メメントドミニ』も、貴い主のご用も、続けていらっしゃることに、本当に頭さがります。
ブログも、クリスマスの様相、ユキくんの長距離持久走での頑張りが、ご家族みなさまの努力のあり様を象徴しているように思いました。
ご家族みなさまのご健康が支えられ、よき季節をお過ごしになれますように!
優子
「永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」。
            (ヨハネ6章27節)

ありがとう クマさん.png遠藤優子姉は謙遜な方、そしていつもこうして必ず励ましの言葉を贈ってくださるのです。神の家族、パウロの言葉を思います。
「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである」。(ロマ書15章2節)
posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

キリスト者の社会運動家・長原武夫さん ―平成30年の歩みを追想し、生涯の「終勝」をめざす−

IMG_4872.jpg2月10日に発行されたばかりの『長浜革新懇』83号を落手し、ここに記録させていただきたい。その前に、誤植について執筆者の思いをも記録して起きたい。
←琵琶湖に飛来しているオオヒシクイ。
渡り鳥たちはまもなく帰北する。オオワシは今週中に飛び立つと、今週初めにラジオで湖北野鳥センターの人が語っていた。ユキだけは連れて行ってあげたいけれど、私ひとりででも見に行きたい、コハクチョウを。
タイトルは「共に産み出せ 野党共闘」と、あえて「産」と記したのですが、「生み出せ」になっています。共闘は「産」から始めなくてはならないですね。「産み出せ」と「生み出せ」は大きく異なると思っています。編集者の見解の甘さを見ています。

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IMG_4875.jpgかつて、JR長浜駅のすぐ近くに在った日本開拓伝道長浜教会。
長原武夫・萬壽子さんご夫妻は、宣教師がオーストラリアへ帰国されたのちも教会を守り牧してこられたが、駅前再開発を発端に苦悩の闘いの途上、伴侶を天に送られた1年後の2013年12月31日付けで教会を閉じ、その後まもなく解体された。日本のキリスト教会史の記録としてここに刻む。

IMG_4862.jpg附記:2月16日(土)の例会(午後1時〜5時)は、日本キリスト教団・大津教会(JR大津駅下車北へ徒歩5分)で開催される。
学びは、「森鴎外の歴史物語を読む『山椒大夫』を中心に」。

ご案内:
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モナミホールは香芝市中央公民館となり(香芝市総合体育館南隣)
@近鉄大阪線:下田駅下車→西へ徒歩約10分
@JR和歌山線:香芝駅下車→西へ徒歩約15分
@西名阪自動車道:香芝インターチェンジ→南へ約15分

posted by 優子 at 19:45| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2019年02月13日

バッタリ出会い直視するも、「もはやただ見て通り過ぎよ」と神の声聞く

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12月3日に植えたチューリップが芽を出し、この数日間にグングン伸びている。球根は凍りつくような冷たい土の中で冬を過ごさないと、春に芽を出さないという。人もまた苦悩を知らずして人間らしくなりえず、真の喜びを味わうこともできないことを思うと、チューリップに励まされて今を過ぎていきたい。

しばらくぶりに外に出るとモノトーンだった景色が明るくなっていた。家々の庭の木がピンク色、自然界は春の序章が始まっていた。

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私が臥している
六畳のこの部屋にも
神さまの恵みの春がある

弟のとって来た蕗のとう
姪達のつんできたイヌフグリ
義妹の生けたあんずの花
    (水野源三)

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「彼らを下らぬもの、かつ滅びるものとして無視せよ。悪人がもはや深い後悔を感じ得ないようになれば、それは彼に下された最も重い罰を意味する。自己の悪を知りながら後悔を覚えないということは、すでにこの世ながらの地獄である。正義からも恩寵からも彼らは蔑まれる。我らも彼らのことを語らず、ただ見て過ぎるがよい。突き抜けよ」。
                   (カール・ヒルティ)

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春の訪れを告げる梅の花

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↑ 野原はホトケノザで覆われていた。↓

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これはアブラナ科の何という野菜が長けたあとだろう。

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ムスカリは2週間前に咲き始めていた。

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ボケの花

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冬に咲くカンザキアヤメ

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Nさん宅のフクジュソウ
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どんな色の花が咲くのか楽しみ。
チャッピーがいなくなって4度目の春。
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2019年02月07日

苦悩への屈服を拒否し、楽しみを再発見する日々

IMG_4784.jpg「自分をとりまく環境にどのような不快なことがあっても、人は精神の翼にのって自由に天がけることができる。時空を超え、あらゆる人々と手をつなぐことができる」。
これ以上の不思議があろうか。神が与え給うた、誰も奪うことのできない精神の自由である。大切なことは、それを選び取る決意を何度も新たにして、歩み続けることだ。

浅田高明先生の御著書に収録された「補遺 神谷美恵子抄」を読み、久しく神谷美恵子の著作を読み直している。冒頭の言葉は神谷の言葉だ。『生きがいについて』、『人間を見つめて』、『心の旅』、『極限のひと』、『エッセイ集』、そのほかに、ブルンナー、北森嘉蔵など、読みたい本を幾冊も積み上げ、数冊並行して読書に没頭すること頻り。

とにかく今も尚、私は「祈って待て!」のみことばを握らせていただいて神の時を待っている。状況は変わらずとも、私はクラシック音楽を聴き、読書を楽しみ、精神的な死から甦りつつある。

そして、私を苦しめ悩ませる人や人々、その状況から焦点を外せていることに気づく。常に更新される悩みに煩わされるままになっていると、ついに自らをも見失い破壊してしまう。40年、20年間私がしてやれることは全てやり終えているがゆえに、漸く一切を神に委ねさせてくださったのだと受け止めている。

魂は自由にされ、心が広がっていくのを感じる。状況は変わらずとも、今までよりははるかに耐えやすい。私は苦痛や絶望への屈服を拒否し、この苦悩を意味あるものとして普遍にまで至らせたい。

IMG_4745.jpgこのきっかけとなったのは、友との語らいからだった。毎月2回、一緒に広報誌を配布し、そのあとも時間がゆるせば30〜40分歩く。まだまだ知人でしかなかった人と友への愛を育み合っている。
(→御所教会前の葛城川にいたシギ)

1月21日朝、歩きながら文学や音楽の話題になった。ロシア文学に詳しくクラシックに明るい人だとわかった。どんな曲が好きかと尋ねられ、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ブラームスの交響曲第4番ラフマニノフのピアノ協奏曲 第2番など、魂を揺さぶられる曲をいくつか挙げると、友の共鳴板も感度鋭く共鳴し、互いの心が深い所で通い合った。

「ビバルディの『四季』は、悶え苦しむ時に聞くことが多い」など対話が弾んだ。それがきっかけになってドストエフスキー(『罪と罰』)を開き、クラシックのCDを何枚も聴き、私は再び楽しみを発見したのだ。

そして1月28日に懐かしい両親を想い出して号泣したのも、このことがあったからだ。私にとっては、母がクラシックの世界への導き手であり、中学3年生の冬から母のレコードを片っ端から聴いていた。大学時代のある時、母と二人だけで、メンデルスゾーンやブラームスを聴いた時のことは鮮烈な思い出となっている。

神さまは人を通して仮死状態になっていた私の精神を生き返らせてくださった。両親を思い起こして自己を取りもどし、読書と音楽により癒されつつある。
先のブログに続いて今夜も夜遅くまで起きている。それはよくないことだけれど、この数か月は10時前にはベッドに入っていた、まるで繭の中に逃げ込むように。今もまだ朝は怖いが、昨日から恐怖心はほぼ感じない。

2-6-1-de907.jpgユキも先月半ば頃から友だちに教えてもらった「ピアノタイル」で、クラシックを鳴らす。今では毎朝ママ(知子)の古いスマホで、私のお気に入りの曲を弾いて(鳴らして?)くれる。曲はモーツァルトの「ピアノソナタ第9番  K.311」。
朝はモーツアルトがいい。気持を快活にしてくれる。
「マチとフーはピアノタイル知ってるかなあ。訊いてね」 だって
追記:「ピアノタイルは知らなかった! 面白そう。
   ゆきちゃんすごそうやね」。(ふーとまちより)

ユキも元気に頑張っているよ。
これは、最高気温が5.4度だった1月26日のユキ。1点入れたんだって。
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折り紙も大好きで毎日やってるよ。早いもので明日は5年生最後の参観日。ママが来るのを嫌がるユキで〜す。

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posted by 優子 at 23:50| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2019年01月31日

Wake up my Glory ! 目覚めよ、わが魂よ!

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はや今日で1月が終わる。
今日は冷たい雨の日だったが、昨日は久々の冬晴れで、午後の室内は22度、自然の暖かさは心の緊張を和らげてくれる。
そんな陽ざしに誘われてお昼前に散歩に出た。防寒対策されたハクモクレンの冬芽は陽ざしを受けて銀色に輝いていた。


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IMG_4722.jpg先日、浅田高明先生から1月30日に出版された『私の太宰治論』をご恵贈にあずかった。
浅田先生は医学博士で結核と呼吸器の専門医であられるかたわら、実証的研究で著名な太宰治研究者だ。

同封されていた出版社(文理閣)担当者の文面によれば、「ようやく、重い荷をおろされ」たが大変お疲れゆえに、お礼状は出版社が取り継いでくださるとのこと。

今年は殆ど年賀状さえ出さず、しかも1月20日過ぎてから20枚近くもプリンターの中に残っていたのに気づく情況ゆえに、この2年間のご無沙汰を悔やみ、その間の時が惜しまれてならない。

IMG_1378.jpgというのは1年前後前頃からだろうか、先生は入院療養生活に入られており、昨春から「限りある日の力試さん」と、ベッドサイドにパソコンを持ち込まれて体調をみながら、単行本に収録されていない多数の論考から選ばれて518ページの大著に仕上げられたという。

『パンドラの匣』について多く取り上げておられるので、早く読みたいと落ち着かないままページをめくるばかりの私は、とにかく「体験的作品論」から「遠藤周作『海と毒薬』 その実相と分析の試み」のみを拝読してお礼状をしたためた。今や全く文章も書けなくなっており、一貫性のないものだったが。

かつてキリスト教文学の視点で書いた拙論、「遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  ー『海と毒薬』、『悲しみの歌』よりー」 を同封させていただいたが、医学的見地から探求された文学論は目新しいことばかりで、「へえー」と驚きながら読んだ。そのことはもう一度ゆっくり再読して記録したいと思う。

私は悩み多き日々に在るも、数日前からご著書に夢中になりつつあり、すっかり忘れていた感情を思い出しつつある。浅田先生の平安な日々を祈りつつ読ませていただこう。そして、神のお計らいに感謝を覚えつつ。

IMG_1379.jpg2009年3月28日の記事「24日、私たちが去った直後に浅田先生が道場跡に!」に記した喜びも懐かしい幸せな記憶として残っている。心ある人々と生かされていた喜びは遠くになっているのに、記憶は鮮明に残っているのは不思議だ。

ああ、私はずっと心も目も奪われてしまっていた。ちょうど2009年春から生きる世界を狭くせざるを得なくなり、2010年秋以降より知子と私は火の中、水の中を通され、この5〜6年に至っては身近に関わる信じがたい倫理観で生きる人々に悩み抜き、私はすっかり自分らしさを失ってしまっていたようだ。

それでも常に神と共に在ったことを感謝している。かえって、悲しみと痛みによって、神から引き離されるどころか、むしろ、神に引き寄せられた。
私は弱り果てていたが、主イエスが守り抜いてくださった。多くの人々を遣わしてくださり、また執り成しの祈りを重ねてくださっていることを感謝している。

chappy.jpgもう大丈夫だ。
ついにまたひとつ苦悩を突き抜けた。
この絶妙なる時に魂を激しく揺り動かされて目が覚めた。亡き父母を想って号泣した1月28日の夜に続いての覚醒を得た思いである。
    Wake up my glory !

「彼らはわたしの足を捕えようと網を設けました。
わたしの魂はうなだれました。
彼らはわたしの前に穴を掘りました。
しかし彼らはみずからその中に陥ったのです。〔セラ

神よ、わたしの心は定まりました。
わたしの心は定まりました。
わたしは歌い、かつほめたたえます。

わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします」。
                    (詩篇57篇6節〜8節)

私に残された時もすでに短くなっているが、健康がゆるされるならば残された日々を懸命に用いたい。

我が生命の保たれている限り
あなたの道を教えたまえ。
わが運命がいずこに向くとも
あなたの道を教えたまえ。
走りゆく道を走り抜き、
わが旅の終わるまで
頭(こうべ)に冠の授けられるまで
あなたの道をわれに教えたまえ。

ユキ撮影@.jpg
Photo by Yuki.

posted by 優子 at 23:34| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2019年01月20日

ナウエンの霊的旅路 ―わたしの内なる兄息子と向き合う−

レンブラント.jpg6日の木ノ脇牧師の説教を拝聴して、久しぶりにナウエンの『放蕩息子の帰郷 父の家に立ち返る物語』を読んでいる。何度もレンブラントの絵を眺め、思い巡らし、家事をしている時や散歩に出た時は、いつも主イエスと語り合っていた。

この絵は1世紀に語られたイエス・キリストのたとえ話を、17世紀にレンブラントが描いたものである。そして前掲の書は、20世紀に世界的な霊的指導者ナウエン(1932年〜1996年)が、人生の意味を捜し求めた霊的旅路を書き綴ったものである。

以下は印象的な個所を一部略して引用したものである。

弟息子は、簡単にそれとわかる罪を犯した。兄息子は、外見的には良い息子で、すべきことをすべて行ったが、内面においては、父(神)から離れ、さまよい出たから、「失われた息子たちのたとえ話」と呼んでもいいだろう。

つまり、遠い国に自由と幸福を求めて家を出た弟息子だけではなく、家に留まった息子もまた失われた者となった。

IMG_4594.jpgこれは、レンブラントのエッチングにある兄息子の顔だ。彼は自分の義務を果たし、毎日一生懸命に働き、全ての義務を果たしてはいても、しだいに不満を抱き、自由を感じなくなっていた。

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失われた状態―その特徴は、裁き、非難、怒り、恨み、妬み、嫉妬―こそが、人間の心をひどく毒し、深刻な被害を与え、彼の心を支配した。

レンブラントは、この話の全てを闇と光で描き出している。絵の中心は、父の手である。その上に、すべての光が集中している。危険な時にわたしを守り、嘆きの時にわたしを慰めてくれた両手。この二つの手は神の手だ。そして、神が遣わしてくれた全ての人々の両手である。

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右手と左手が、全く異なっている。父の左手は力強くたくましい。それに比べて右の手は柔らかく、とても優しい。それは、母の手だ。

レンブラント.jpg光で満ち溢れる父の抱擁は、神の家だ。兄息子はこの愛の輪の外に立っていて、そこに入るのを拒んでいる。
父の顔を照らす光は、彼もまた光へと招かれていることを明白にしている。しかし、その招きは、彼を強制していない。本人の自由に任されている。

すべてを赦す神の愛に信頼するか否かという選択だ。その選択をできるのは、自分しかいない。

自分の持てる強さで、自分の思いで、自分の心理学的洞察でそれを実現することはできない。わたしは過去、自分の抱いた不満を自分で癒そうとひたすら努力しては失敗し、また失敗し、そして失敗してきた。神が手を差し伸べてくださらなければ癒されない。

失われていることを認めるだけではなく、見つけ出され、連れ戻されるためには備えねばならない。神に見いだされるためには受け身でいるのではなく、神を信頼し感謝する日々の積み重ねによって可能になる

イエスは言われた、「祈り求めるものはすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。(マルコ11:24)この徹底的な信頼に生きることが神への道を開く。感謝する行為の一歩一歩が、すべては恵みであることを示してくれる

すずめ.jpg神の子とされた人々は、そこに一人ひとり特別な場所が与えられており、それらはすべて神の場所だ。信仰から信仰へ、信仰の飛躍が求められる。

神の喜びを知るに至った人々は、闇を否定しない。しかし、その中に生きることを選ばない。彼らは、そこかしこにある光の瞬きを指摘し合い、密(ひそ)かだが、それらは現実に神がそこにおられることの兆候であることを互いに思い起こす。

わたしは毎日経験しているが、皮肉と喜びの間の根本的な違いに驚かされる。皮肉屋は、どこへ行っても闇を捜し出す。彼らはいつも、近づきつつある危険、不純な動機、たくらみを指摘する。

「信頼」を「世間知らず」と呼び、「ケア」を「現実離れ」と言い、「赦し」は「感傷的」と見なす。熱心さを冷やかし、霊的情熱をあざけり、カリスマ的な振る舞いをさげすむ。自分こそ、ありのままを見据える現実主義者で、「現実逃避の感情」に欺かれていない者だとみなす。

しかし、こうして神の喜びを矮小化するために、彼らの闇はさらなる闇を引き出すものでしかない。

レンブラント.jpgレンブラントの絵は、神の慈しみを表現したものである。強調されているのは、息子よりも父のほうであり、この父こそ、レンブラントの自画像である。

放蕩息子が家に帰ったのは、そのまま子どもで居続けるためではない。自分自身が父となるためである。

立ち返った神の子としてのわたしとしては、父の家での自分の場を再び回復するようにと招かれ、私自身が父となるためである。この結論に導かれたことに、わたし自身驚く。
posted by 優子 at 20:06| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2019年01月19日

ブルンナー読書会㉘ −キリストの形ができるまで−

18-6.jpgテキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の17回目、説教のタイトルは「キリストの形ができるまで」。
出席者:3名(知子・欠席)
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」


ルカによる福音書2章10〜11節:
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
ガラテヤ人への手紙4章19節:
4:19 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。

下村さんのお話より:
7-4.jpgこの説教は1952年のクリスマスの説教である。ヨーロッパにとってクリスマスは大きな祝祭である。ドイツの冬は午後3時頃から暗くなるから登校する朝も家に帰る時も暗い。そんな暗闇のあちこちに大きなモミの木が立てられ明るい電飾で飾られる。

天の御使いが羊飼いたちに「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」と語った。しかし現実は権力闘争と流血の世界であり、冷酷で残虐な戦争など恐るべき世界がある。

「特に最近の3〜40年」と言えば、1914年に第一次世界大戦が起こり、1917年にロシア革命が起こってボルシェヴィキ政権になる。1933年にナチスが政権をとり、1939年に第二次世界大戦が始まり、20世紀は革命と戦争の世紀だった。それゆえに、クリスマスの物語がわれわれに語っていることは非現実的であるように思われる。

しかし「この喜びの音信は、明らかに、苦悩と不安を抱いている人類全体に向けられています。さらに、それは、数限りないすばらしい音楽や絵画や詩を製作するための素材となる詩的な言葉では決してなく、一つの現実の出来事、新聞や歴史の書物に書かれているのと同じような、疑いなく実際に起こった取り消し難い出来事に関する報告です。・・・疑う余地ない歴史的事実です」。

しかし、たいていの歴史の書物には、異次元から来た光であると書かれていない。「イエス・キリストにおいて生起したことは、永遠から発し、永遠に属し、永遠に至」る。「したがってそれは、あらゆる出来事、いかに重大、いかに重要な地上の出来事とも異なり、ただ一度かぎりの出来事です」。

何事も終れば過去になってしまうが、イエスの出来事は力があり、永遠に有効、不変である。人間によって書かれ、署名された遺言は多くの変更がなされることがあり、遺言の無効を宣言されることもある。
しかし、イエスのテスタメント(神と人との契約)はあなたの永遠の将来を決定する遺言である。

IMG_4543.jpg「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。(ロマ書8章38〜39節)
それゆえ、われわれは、恐るべき、暗い世界のただ中にあって、喜ぶことができ、光をもつことができるのです。これがクリスマスの祝いとクリスマスの喜びの意味です。

ブルンナーは、この世の現実と福音を対比して説明した。

詩人アンゲルス・シレージウスの詩に、「たとえキリストがベツレヘムに幾千回生まれられようと、もしあなたのうちに誕生されなければ、あなたは永遠に滅びてしまうであろう」と歌われています。キリストの現在の誕生、あなたのうちにおけるキリストの誕生について語っています。

アンゲルス・シレージウス(1624~77)は、ドイツの神秘主義的抒情詩人。神秘主義とはイエスと自分が一体となるという立場である。カトリックの詩人であるが、そのいくつかは教派の違いを越えて讃美歌の中に収められている。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。(ガラテヤ人への手紙2章19〜20節)

16-5.jpg私たちの内でキリストが生まれ、生きている。キリストの形ができるというのと同じ消息を語っている。
内村鑑三も『続一日一生』の「1月17日」で、「キリストは己に死して、キリストが彼にかわって彼の内に生きたもう者である。」と述べている。
キリスト者をいかに言い表すことができるか考えると、

@ 喜びにあふれた人間
A 聖霊が働く人間
B 今までの人間とは違う超能力(理性や感情も精一杯生かされる)で生かされる人間
C 罪赦された罪びと
D 完全へと向かう(歩む)人間
E キリストが内在される人間、同時に人の中にもキリストが生きておられると、他者を尊重する人間
F キリストに従う人間
  (ボンヘッファーは「他者のための人間」と言っている)

信仰とは、キリストの生命の中へ受け入れられることであり、キリストの生命の中へと成長してゆくことです。新しい人間の創造とは、一回的な出来事、すなわちイエス・キリストがある人間を占領し始められることです。しかしこの新しい人間の完成は一挙に生じるのではなく、内的な成長という形をとって生じます。

「私たちは、愛にあって真理を堅く保ち、あらゆる点において、かしらなるキリストへと成長し、キリストの豊かさを備えた完き人に等しいほどの成熟に達するのである」。(エペソ人への手紙4章13節、15節:この箇所は口語訳によらずテキストからの下村訳)

このような成熟からは、もちろんわれわれすべて、今はあまりにも遠くかけ離れています。われわれキリスト者の中にも、いやそればかりか、真にキリストに捕えられ、キリストに生かされている人々の中にも、ごく少数しか見られません。

われわれにおけるこの成長を妨げるものとして、まず二つのものがあげられます。
その第一は、われわれの幸福に関する不安と心配です。第二は、われわれのエゴイズム、すなわち、どれほど祈っても、どれほど神の言葉と関わっても、どれほど向上を目ざして努力しても、常に存在し、常に神よりも自分自身のことを真剣に考え、神の栄光よりも自分自身の栄誉を重視する、われわれのうちなる欲求です。

「幸福に関する不安と心配」とは、この世のことに心が捕らわれてしまって生じる不安と心配ではないだろうか。この世の生活上の不安と心配に心が占領されてしまっている。

そのため、われわれの傲慢は、イエス・キリストの謙遜の軛(くびき)のもとに身を屈めようとしません。しかし、われわれがそのような現世主義的人間、そのような権力志向的な人間であるかぎり、キリストはわれわれのうちに成長することはできません。

あなたがたの心をキリストの福音によって広くしてください。キリストゆえに「恐れるな」という言葉を真剣に受けとめましょう。彼がわれれわれのうちで大きくなれるようにわれわれの「私(自我)」を小さくするキリストの霊のために場所を空けましょう。

なぜなら、まさにその時にのみ、われわれ自身、神がわれわれのあるべき姿として定められたものに、すなわち真の人間、愛の人間、自己を求めるのではなく他者の幸せを求める人間、「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」(第2コリント8章9節)方の心を心とする人間になるからです。

このことを生じさせるためには、われわれは沈思熟考を必要とし、静かに心から、真にキリストをわれわれのうちに受け入れるために、このクリスマスの日々を役立てたいと思います。

ブルンナーは「不安と心配」を受けて、キリストゆえに「恐れるな」と言っている。

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次回は、2月23日(土)、テキストは「決定者」。
発表当番は優子。
そして、「今になって苦しみを感じている人生だ」と語った良輔にも声をかけた。深く読み味わってほしいから。

posted by 優子 at 21:12| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする