2021年04月10日

今日も春を歩く

「主よ、いまやあなたは私の心をとらえ
戦いのなかの最大の戦いへ向けられます。
それはみこころに全くかなうためであり、
完成へたどりつくためです」。
       

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ナルコユリ


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シャガ

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カルガモ


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↑ ドウダンツツジ ↓

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山吹


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釣鐘スイセン


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ムクドリ


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主イエスさまの受難があってこその喜び。
鳥が歌い花咲き乱れる季節、
この春の光の中で私は春を楽しみます。

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「神に導かれる人は、自分の行くてにどういう仕事があるのか、どのような使命をになわされるのか、あらかじめ少しも知っていないのが普通であって、そんなことが予知できたら、やはり堪え得ないであろう」。
       (ヒルティ『人生論』の「人生の諸段落」より)

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モッコウバラ


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今朝の最低気温は2.3度と冷え込んだ。快晴の空の下を知子と2時間(1万歩)歩いてポカポカになって帰宅したが、お昼前でも室内は17.5度と肌寒く、やっぱりモコモコの上着を着た。午後3時前になってようやく22度になったものの、やっぱりモコモコ上着は離せない。

posted by 優子 at 16:30| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年04月09日

今日も春

4月7日、2年生に進級したユキは入学式式場準備で登校した日の春。

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「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」。(創世記50章20節)

ヨセフが兄たちを赦せたのは、神の計画を悟ったからです。悟れたのは、神と共に歩み、誘惑に屈せず、神の知恵で逆境を越え、エジプトで勝利者になったからです。憎しみは人生を台無しにし、赦すことは神の計画を成就します。

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中学校裏門あたり。
これならば中庭の桜も花を残してくれているだろう。


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踊り子草


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圧巻のトキワマンサク


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オオデマリ


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昨年Tさんがユキのトライアングルゾーンに植えてくださったアヤメの花が咲いていた!
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モミジもこんなに葉が出ていた!

2019年12月末に大きな石の下から助け出したもの。
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チューリップのない寂しい春に一つ花が咲いていた! 
3年以上も前に義母にあげた球根から再び命が吹き出した。
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一緒に見たかったな。

posted by 優子 at 23:17| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年04月08日

COVID-19 ㊳ 緊急事態宣言から1年、変異株の猛威、ワクチン接種高齢者から始まる

昨春、緊急事態宣言が発令された4月7日から1年後の今、コロナは収まるどころか猛威を振るっており、大阪・兵庫・宮城の3府県で「まん延​防止等重点措置」の適用が4月5日から開始され、7日には吉村府知事が医療非常事態を宣言した。

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4月5日より@.jpg

今日8日、大阪での感染者数は905人、奈良は88人と4日連続過去最多になった。当地からそう遠くない町の病院で院内感染が発生している。奈良県知事は「不要不急の往来と感染リスクの高い場所への出入りを控えること、家庭内でも十分用心するように警告している。

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また、東京、京都、沖縄にも「まん延防止等重点措置」が適用されることになった。

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4波の重症患者は回復が非常に遅く、以前よりも幅広い年齢層と既往歴のない人にも重症化するリスクも出てきたように感じているとは現場の医師。

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2021.4.1に.jpgいよいよ4月12日から近畿圏内でもワクチン接種がスタートするというが、接種券が届いたのは3月31日(私のは4月1日)だから、とても12日スタートには間に合わないだろう。

今日の報道で、あるクリニックの医師が開業医でワクチン接種した人はいないと思うと言われたのには驚いた。

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↓裏面
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同封されていたのは予診票と接種券。
今日のテレビで紹介されていたものと同じだった。
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説明書にはいつから予約するのか、その日の体調がすぐれないときはどうなるのかなど、全く記載されていないゆえに友人のNさんは届いた翌日に保健所へ訊きに行かれた。

今月下旬に再度詳しい案内が届くとのことで、接種場所は平日は体育館(だったか?)、土日は隣接した別の場所(だったと思う)と説明されたという。多くの人から問い合わせがあるようで、6日に夫が予約の電話をかけると自動音声で案内されていた。

ところで筋肉注射というのは見るからに痛そうなので気になる。今までインスリン用の注射器を使った人は8割(1007人)で、25mm針は長すぎて40%の人が上腕骨に当たってしまうという。(やっぱり!)接種担当の医療者にはこのことについても研修していると聞いて安心したが。

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もう一つの懸念は、ドイツがアストラゼネカのワクチンはまれに血栓が生じる恐れがあるため、60歳未満への投与を制限している。日本では今はファイザー社のワクチンであるけれど、アメリカ(ニューヨークだけか)のようにワクチンを選択して予約できればいいが。

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不安が拭えきれないが自分の命の問題であるから、ウィルスの実態と感染状況など自分なりによく考えて、最終的にはメリットとデメリットを秤に乗せて、接種するにも納得して臨まねばならないと思っている。
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赤く染まった通天閣

posted by 優子 at 23:41| COVID-19 | 更新情報をチェックする

2021年04月06日

JCPホームページに「私と昭和」より拙文掲載

IMG_3382.jpgJCP(日本クリスチャンペンクラブ)のホームページ「4月のことば」に懐かしい満江巌牧師の文章が掲載されている。ここに転載記録させていただいた。
  よみがえり    満江 巌

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」 (ヨハネ11:25)

キリスト御自身がよみがえりの命として、われらの中に今も生きておられるということは何という大きな恩恵であろう。しかし、そこに信仰が働いていなかったら、自分にとって何の力にもならないであろう。

キリストのよみがえりの命は、信じて受け入れる者に与えられる。自我の狭い殻にとじこもって、自分を守ろうとのみもがく者には、無限の命の世界が鎖(とざ)される。

「死んでも生きる」というこの大いなる恩恵を受けて、厳しい現実の世界に、希望を失うことなく生きつづけよう。復活の希望は、一切の苦悩から我らを救い出し、キリストと共に生きる喜びをわが魂に与える。

そして「作品の紹介」では『あかし新書14篇』の「私と昭和」が紹介されており、ここに満江巌牧師の言葉と私の拙文を転載記録させていただきたい。常に400字で書き上げるように訓練された。私など全く拙すぎるが、読み応えある証しばかりゆえにHPを訪ねて是非お読みください。

1989年1月8日、64年間続いた昭和が終わりました。この作品は昭和が終わった翌年の1990年に日本クリスチャンペンクラブの会員によって、終わりゆく昭和への思いを小冊子「私と昭和」としてまとめたものです。

「私と昭和」に序す

昭和の時代を四百字にまとめて書くということは、きわめて困難なことです。それをこのような文章にまとめて一書をなすに至ったことは、さすがクリスチャン・ペンクラプの会員のペンの労作だと思います。執筆者の年齢は昭和生まれが多いようですが、自分の生まれ育った世代のことを回顧することは、また意味のあることでしょう。戦争という悲劇を経験しているだけに、書きたいことはいくらでもあると思いますが、それを短く書いておくことは、人生の記念碑を残しておくようなものです。

われわれの子孫にこの異常な経験を残しておきましょう。どこか破滅しないようなところに保存しておきたいような気持です。文字を書くことは彫刻家が創作するのと同じです。

一字ごとに筆者の魂がこもっているのです。読む人の心に触れて、新しい時代への希望の光を点ずることでしょう。

神よ、この小冊子を祝福し給わんことを。

1990年7月  日本クリスチャン・ペンクラブ理事長 満江巌


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これは、1994年9月26日、大阪で集会が開かれた時に満江牧師と写していただいたものである。私はまもなく43歳、満江先生は82歳の頃だと思う。

このころ私は東大阪から大阪へ週2回通っていた。母の通院介護のために朝9時頃に住友病院入口で車椅子で母を出迎え、そのあと実家へ同行して、昼食と入浴介助のあと、買い物をして2〜3食分の料理を作り、両親との濃密な恵みの日々だった。

その日、めったにない大阪でのJCPの集会があり、満江先生から何度もお葉書で是非にと誘っていただいていたが、母に言い出せなくて諦めて両親と再会したのだった。

通院の時だけでも母のお世話をさせてほしい、疲れている父を楽にしてあげたい。それでもやっぱり諦めきれず、母に寄り添いながら点滴中も思いめぐらせていた。いよいよ点滴も終わろうとしていた時、背中を押されたように母に話していた。

「行っといで」

しゃべりにくくなっていた母が言った。その瞬間、私はすごく嬉しそうな顔をしたのだと思う。母はますます微笑んで私を見つめた。父も私の喜びを喜んでくれ、親の愛が全身に沁みた。

私は両親に詫びながら病院で父の自動車を見送り、集会会場の大阪城近くにある大阪クリスチャンセンターへ急いだ。もちろん大幅に遅刻しての出席だった。満江先生とも集会の後、二人で大阪城公園で1時間ほど過ごし、両親のことも思い出させる忘れられない日の写真である。

公園内へ入ってベンチを見つけた時、先生が父のように小銭入れを差し出して「何か飲み物を買っておいで」と仰ったので、「いえ、私が」と自販機に走って行き缶コーヒーを買って戻った。当時はペットボトルではなく缶が主流だった。

そこでどんなことを話したのかよく覚えていない。帰りは新大阪まで乗り換えしなくてもいいように、地下鉄御堂筋(みどうすじ)線の本町までお送りし、電車の窓越しに手を振り合ってお別れした。ご高齢なのに席がなくて心が痛んだ。お互いに見えなくなるまで目で追った。

その時の師のお顔も、お姿もはっきり今も見えるように覚えている。あれから27年。この秋に私が古希を迎えるとは信じられない。

母の晩年は進行性難病を負い、私は別の十字架を負っている。しかし、信仰は衰えてはいない。今もしっかり握っている。すでに御国に視点が合わされての歩みである。

IMG_3394.jpgホームページに掲載していただいている私の拙い文章もここに。

      日本よ、何処へ        
            藤本優子(主婦)

昭和26年生まれの私は、過去の大日本帝国の悪事や、朝鮮半島支配など、激動期の昭和を知らない。繁栄の昭和期に育ち、子育ての大役を与えられている私が、日々想いを熱くするのは、人びとへの伝道である。

今や学校選びはブランド志向と化し、我が子を有名私立校に入学させるために、人びとは世に振り回され、盲目的に突進している。親の教育観は、すなわち親の価値観である。

問われるべきは親の価値観なのである。

その渦中に翻弄される寸前、神より絶対的価値観を与えられた私は、決して人々に悩まされることなく、親子共々、最高の人生を歩む特権を与えられた。

同じ時に、世界の四分の三の人々が貧困・病気・戦争で苦しんでいる。私達がそれを知りながら、これからも彼らの痛みを感じようとしないならば、私達は滅びの道を行くであろう。私は、私達は、何処へ行くというのか。日本よ、何処へ行くのか。

014932s_mini.jpg最後に満江巌牧師のメッセージにより励まされて、読者の方々お一人おひとりも明日からも快活にと願い、今日長い電話をくださった祈りの友(chi姉妹)に感謝して。

     日々新しく  満江巌

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。(コリント第2、5:17)

新しい年は廻って来た。また同じことをこの一年もくり返すのではない。キリストと共に生きることによって、日々新鮮ないのちを与えられるのである。キリストは今も活きて、信ずる者の魂に常に新鮮な霊の力を注がれる。

今日の我は、昨日の我ではない。今年の我は、昨年の我ではない。日々新しくつくられていくことを信ずる者に取って、今日は尊い一日である。

かくして、この一年も信仰による成長を神の御前に感謝しつつ生きよう。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったというこのみわざに今年もすべてゆだねて前進しよう。

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     信仰      満江 巌

「 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。(ヘブル11:1 )

神の約束を信じ、それをいつまでも待望することが信仰である。信仰が見失われ、人間の声のみ騒がしい世界に真の希望はない。絶望こそ人間に真の生き甲斐を見失わしめ、死に追いやるものである。

信仰による聖なる希望をとりもどせ!  そこに洋々たる天地が開かれる。かつて地上に信仰の輝かしい生涯を送った聖徒たちは、そのことをわれわれに証ししている。

人間の歴史が暗黒にとざされた時、光明を点じたものは、この信仰である。この希望である。人間の魂に常に輝くこの希望こそ、われわれを永遠の世界に導き、死から命へと移していくのである。
                      アーメン!

posted by 優子 at 23:16| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2021年04月05日

さあ一緒に春の中を歩こうよ

今日の一番はこれ! ユキを感動させたよ。
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昨日見なかっただけなのに八重桜が満開になっていた!
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見て! イチョウの葉っぱ!
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こういう景色もいいよね、心が和らぐから。
ユキは全くよくないと言ったけれど。


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これもユキに絶賛されたよ。


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今春初めて近隣でも何か所も見つけたよ。

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これも駄目だしされた。「電線が写っているし、緑が写ってる。なんで木だけを撮らないのかなあ」と。(>_<)


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ズームして見ると山桜だった。


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これは西洋シャクナゲだと思う。


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イチョウの木


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↑ ハナミズキ ↓

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知子が好きな山吹

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「わたし(神さま)は、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」。(黙示録3章19節)
罪を犯しても、何の叱責も懲らしめも受けないなら、私たちは罪の中で腐り果てます。主は人の罪を放置せず、打ち叩いて痛みを与えられます。主は私たちを腐らせるわけにはいかないのです。犯した罪は弁解も責任転嫁もせず、正面から主の懲らしめを受けた方がいいのです。心が一新されます。

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「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。(黙示録3章20節)
主は私たちと「御言葉の食事」を共になさりたいのです。私たちの心がどんな状態であれ、とにかく中に入って、ご自身のいのちで私たちを生き返らせたいのです。主は、私たちが戸を開けるまで叩き続けられます。

posted by 優子 at 22:44| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年04月04日

主が復活された ー「喜びあれ」ー

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マタイによる福音書28章1節〜10節:
28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、
全能の父なる神の右に坐したまえり、
かしこより来りて、
生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。
アーメン。

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私たちは罪赦されて、復活された主が「喜びあれ」と声をかけてくださったのであるから、主の導きに従って安心して生きていこう。互いに愛し合うこと、それが主の言葉を受け入れて新しくされた私たちの生き方である。
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La golondrina(スペイン語:燕)
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2021年04月03日

明日はイースター!

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昨日のイエスさまの受難日は朝からずっと重い気持ちだった。今頃、イエスさまは・・・と、一日中思いを馳せながら「賜った恵みを無駄にはしません。しっかり生きていきます」と祈っていた。

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全てが終わった夕方になって気持ちが楽になった。明日は復活された日。




「ユキの家(の木)にもコゲラが来た!」

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曇天の今日も5月上旬の暖かさ、燕が勢いよく飛び交い、ハナミズキまで咲き始めていた。明日は雨だから散歩に行けないからと、夕方5時頃からユキと散歩に出た。

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たった二日で桜の花はこんなに散っていた。


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ハルジオンが咲いていた。

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シャガも咲いていた。

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ユキは上手に撮るね。


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posted by 優子 at 21:39| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年04月02日

キリストの磔刑

イエス・キリストの十字架は、私たちの身代わりに罪を贖うために神の怒りを受けて死んでくださった出来事です。今年は今日がその日です。

祈りは単純になり、苦悩の究極においての祈りは「イエスさま・・・」しか言えない。そんな日々の中に在るゆえに、ペン友の文章が私の心の琴線に触れたのだと思うが、こんなにも主イエスの十字架の受苦を想像させてくれるものはなかったように思う。

2020年12月に、日本クリスチャンペンクラブ(JCP)関西ブロックから発行された『種を蒔く』5号から友の文章をお分かちしたい。著者は2021年1月2日の記事でご紹介した方である。

       初めての磔刑考            
                東中香代

小2の夏に遺伝による強度近視が見つかりメガネをかけ始めた。定期検診で小5の夏休みに当時神戸布引にあった神戸市民病院で球後神経炎による視野狭窄が発覚、翌春までにわたって入院、通院、加療、眼注やルンバールというおぞましい治療を受けた。

神経系に効くというビタミンB剤大量療法を初期には注射で、後日は錠剤で、以降気休めにずっと60年来服用し続け、それが功を奏してかどうかその後安定し、数年に一度程度視野検査を受けるだけになっていた。

それでも59歳の秋に白内障になり、手術で強度近視を脱し、定期検査でも視野の欠損とその進行は緩やかで、読書を趣味としつつ視力と視野に関してはそれなりに平穏に暮らしていたのだった。

が、一昨年秋、30年来のかかりつけ眼科医を変えたところ、思わぬことに正常眼圧緑内障だと診断された。眼圧を下げる他に治療法はないとのことで、日常的に眼圧を下げる点眼薬を使用するようになった。

公共交通の乏しい地方都市に住んでいて、車の運転は日常的に必須であるが、いつかは免許返上が必要だろうと薄ぼんやりと考えてはいた。しかし、自覚される視野の欠損の拡大を思うと、高速道路を毎週運転して三木から伊丹まで教会に通うことの無謀があいまいな思いを吹き飛ばした。

事故を起こせば自分だけのことではすまなくなる。加害者にだけはなりたくない。経済的にもピンチに陥る。それでついに1年後、一大決心をして同じ教派教団の電車で通える神戸市内の教会に出席し始めた。

家から駅まで徒歩6分、1時間に1本の各停しかない電車はジャスト30分で到着、駅から教会へは徒歩2分以内。車だと重くかさばる荷物もへいっちゃらだが、目のための分厚い大判の聖書は諦めて聖書を取り込んだスマホと小さな判の讃美歌を持参というスタイルで教会通いを始めて1か月、師走の最初の日曜の朝。

駅までの途中に一か所ある信号機は押しボタン式で、普段なかなか青信号に変わってくれない。見ると青。渡っちゃえとばかり小走りに近づく途中、もんどりうって派手に転んだ。一瞬の出来事だった。手前のコンビニの駐車場にある車止めの縁石が目に入らなかったのだ。

単に生来のおっちょこちょい&運動神経の鈍さがなせる業だったのか、もしかしたら視野の欠損が縁石を隠していたのか。メガネが壊れてと吹き飛びリュックもどこかへ。信号を渡ってきた青年がメガネを拾い上げてくれ、リュックを背負わせてくれた。

無様だったので即その場を離れたかった。切符を買おうとしてコインを入れる時、手首の痛みは尋常ではなかったが、なぜか先へ進むことしか頭になかった。別の教会へ通う夫はすでに私より一足先に車で出発していた。

新たに通い始めた教会では皆さんのお名前もまだおぼつかないというのに、コートの着脱はおろかトイレでは自力で用も足せない。身じろぎもできないまま礼拝を終えると、幸い三木市内で現役の看護師だという方がおられ、骨折の疑いありとのことで、鎮痛剤を処方してくださり、お住まいが同じ方向だとご一家の車で自宅まで送り届けてくださった。

途中休日診療の救急外来を探してくださったが市内では見つからず、わが家の前で私を下ろして、明日までこれで持たせるようにと翌朝までの分の鎮痛剤をくださった。

翌朝徒歩五分とかからない病院で診てもらい、レントゲンやMRIの画像で両手首の骨折と診断され、即入院、複雑骨折の度合いが大きかった左手首は手術、右手首はギプス固定で治すことになった。

両手首同時骨折は大変珍しいのだそうだ。入院は正月明けまでかかるとのこと。夫と息子と私も加わって営む家業の煎餅屋はこの年末年始こそが唯一の繁忙期であるのに……忸怩たる思いも当初は吹っ飛ぶ痛さであった。

この手首(と視野狭窄)以外、まずまずは健康だし、雨天以外は早朝の一万数千歩ほどのウォーキングも20年ばかり続けているし、筋トレのジム通いも2年に近づいていたが、突如両手使用不能でベッドに仰臥だけの入院生活と相成った。

食事、洗面、排泄、電灯のスイッチのオンオフ、病室のカーテンやドアの開閉、スマホの操作などできないことだらけ。読書をしようと薄い文庫本を両手で支え持つことができるまでに半月を要した。

手術の翌日からリハビリが始まり、リハビリ室にある車輪のない自転車のような器具を願い出て毎日30分ほど賛美しつつ漕いで汗を流し聖歌一冊歌破(読破?)、これを救われて53年目の独りぼっちのクリスマス賛美となし、また、全国全世界にいるであろう病床のご同輩に思いを馳せながら、スマホにダウンロードできるメッセージを拝聴するクリスマス礼拝となした。

さて、手術に際し前もって様々な処置が行われるが、両手首負傷となれば普通になされる腕からの採血も点滴もできない。それで足からということになったのだが、普段の血液検査のためでも手の甲から採るくらい採り辛い体質である。

左足の内側のくるぶしの骨の上を走る細い血管に狙いを定めて点滴用の太めの針を入れるのに看護師さんは大奮闘した。さらに針が刺さったまま、その上からふくらはぎに血栓ができなくするために足を圧迫する医療用のストッキングのようなものを履かされた。

また、別に血液採取が必要だと右足の甲から採血することになり、担当の看護師さんが五か所に針を入れたり抜き加減にしたりしながら「ごめんね、ごめんね」と泣きそうになりながらトライしたが採れず、途中ベテランの看護師を呼びに行って交代、さらに二か所を突きに突いて何とか成功。

骨折も術後のリハビリでも痛かったが骨ばった足首や足の甲への「針攻め」は形容のすべもない痛さと怖さで奥歯を食いしばって耐えた。この痛みを通らないと治療・治癒に漕ぎつけないことを承知してはいたが。

私はこれまで書物や、20代に暮らした西欧の、直近では半年前に訪れたロシアの教会や美術館などで実際に見てきた相当リアルなキリストの磔刑の聖画や彫刻など見ても、それらから実際的な痛みなどあまり想像することなく過ごしてきたのだったが、この処置の間、両手首、両足の痛みの中で、十字架に架けられたイエス様の味あわれた痛みの上澄みをほんのちょこっとだけかもしれないが具体的実際的に思いみずにはいられなかった。

もちろん想像を超えており、体重を支え、呼吸のたびに体重がかかり動かさざるを得ないまま、息絶えるまでの肉も骨を裂け砕けてしまう痛みである。想像のしようもない。

私は大人であるし、奮闘する看護師さんの手前歯を食いしばり黙って祈り耐えたが、生涯を通じ、最も具体的に主の十字架の御苦しみに思いを馳せた痛い怖い数十分の経験となった。

本来「十字架上の七つの言葉」の発語なぞあり得ないところだと改めて思い知る。イエス様の場合は「ぎゃ〜〜っ」と叫んで失神とはゆかず、隣で十字架刑にある罪人を御国に導かれもした。

主は私の罪を赦さんがため何ということに耐えてくださったかについてこのささやかな考察が与えられたことは、この度のハプニングでの最大の収穫、宝物となった。

執刀医は、この傷のことをすっかり忘れて暮らすまでには一年はかかるとおっしゃった。日常生活に戻り、リハビリには通い続けているものの、まだまだできることとできないことに微妙な差異がある。

術後の傷は一見治ってはいても、衣類が当たり擦れると痛みに似た不快感が四六時中ある。何分、お手付き厳禁の身で家の中にいても転ばぬようにとの注意深さは以前とは雲泥の差である。

他方、手首の可動域が戻るのに反比例して視野の欠け具合に不安が募る。眼科医は「ゆっくり進む病気だから」とおっしゃるが点眼薬のせいで常に充血し、目をパッチリとは見開きにくく、見えていない部分が両眼の視界差でカバーしきれず、チラチラと見辛く、常にしょぼしょぼする。しかも活字なしの生活は考えられない。残された日々をどう生きようかと逡巡すること切である。

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」
         (詩編90編12節)       
                    (2019年2月)

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アンドレア・マンテーニャ『キリストの磔刑』

十字架刑はローマの極刑で長時間苦しめるために考え出されたものである。
手のひらではなく体重で肉が裂けないように、手首の骨と骨の間に釘が打ち込まれた。足は両足を重ね膝を曲げて1本の釘が打たれた。

イエスさまはユダヤの最高刑である39回の鞭打ち刑を受けていたゆえに体力も消耗し、非情な痛みに耐えておられた。鞭の先には動物の骨や釘などがついており、40回打つと死んでしまうから39回に決められていた。

両隣の強盗たちは鞭打ち刑は受けていないので、すねを折られて踏ん張ることができないようにされた。

自分が犯した罪の罰であっても耐え難いのに、全く善いことしかされなかったイエスさまが人類の罪のために耐え抜いて死んでくださったのだ。


十字架上の7つの言葉とは、
@「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。(ルカ23章34節)

A「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。十字架上で悔い改めた犯罪者の一人に言われた。(ルカ23章43節)

B 母マリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。弟子ヨハネに「そこに、あなたの母がいます」。(ヨハネ19章26・27節)

C「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。イエスさまの苦しみの絶叫であり、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という意味である(マタイ27章46節)

D「わたしは渇く」。霊的な渇き、苦しみ。(ヨハネ19章28節)

E「完了した」。(ヨハネ19章30節)

F「父よ。わが霊を御手にゆだねます」。(ルカ23章46節)

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2000年前にゴルゴダの丘でイエス・キリストが6時間以上も血を流して死んでくださったのは、この藤本優子のためだった。これが私たちキリスト者が信じる信仰です。

イエス・キリストの十字架を土台にして、35歳より新たなる生涯を築き始めて34年。あとどのくらい時間がのこされているかわかりませんが、私は最後まで主とともにこの世の旅路を歩んでいきます。

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しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。

また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。(第一コリント15章35節〜38節)

死人の復活も、また同様である。(15章42節)

「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。(15章55節)

死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(15章56節〜58節)

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イエスは彼らに言われた、もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。
      (ヨハネによる福音書12章35・36節)

posted by 優子 at 00:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2021年04月01日

今日も桜を見たくて

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花が終わり実を結んでいた梅の木

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4日ほどで満開になった今ぞ盛りの桜 

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季節先取り、3月下旬からヤマツツジも満開!


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ツツジまで咲き始めた


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日に日に吹き出すモミジの葉


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ハナズオウ


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桜にオオバン。今日は花筏ができていた。


やっぱりツグミだ!
もうとっくにシベリアへ旅立ったと思っていたのに。
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これはカリンの花


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フリージア

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モミジ

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posted by 優子 at 22:24| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月31日

初夏の陽気

二上山(雄岳)
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桜満開、明日から新年度。

posted by 優子 at 23:43| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月30日

変異株による感染急拡大 COVID-19 ㊲

フランスでは4月から3度目のロックダウンに入る。
1月13日に大阪府はじめ6府県(京都府・兵庫県・愛知県・岐阜県・福岡県)に発令された緊急事態宣言は2月末で解除され、首都圏1都3県も3月21日に解除されたが、感染は変異株により再拡大を続けている。

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先日も大阪は東京の感染数を上回ったが、今日はより大きく上回った。都は検査数が少ないからとも聞くが、とにかく日本の状況はこれまで以上に懸念される。

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   この翌日は599人に!

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3月29日、重症化リスクを予測できるという最新研究を報じた。
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6月をめざして運用できる予定。


屋外でもマスク着用を!(3月4日)
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ジョギングは同じ人の後ろを走り続けない。
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最近はマスクを2枚重ねている人も見かけるが、不織布マスクにウレタンマスクを重ねなくても不織布マスクを隙間なく着用すれば違いはないとのこと。

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↑ 3月4日の記事 ↓

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私たちは昨年初めから外食は一切していないが、外食しなければならないときは必ず下絵の条件を満たしているところで!
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未だアクリルボードを設置していない飲食店もある。感染対策として飲食店には必ず設置を義務付けて、その費用は国が全額保証する。それが理にかなった支援であり、飲食店もまた客に対して人数やマスク食事を厳守するならばかなり改善できると思う。

例えばスーパーマーケットでも日本は社会的距離をとっておらず、50センチほどの間隔でマーキングしている。人数制限もしていない。今からでもその2点を厳守するだけでも真剣に向き合えると思う。

今やコロナ以前と違うのは、マスクをしてアルコール消毒のみ。決まった曜日は何倍ポイントなど販売方法もずいぶん前から元に戻っている。

ワクチン接種の順番がくれば私も申し込むことにした。(翌日31日にワクチン接種券が夫にのみ届いた)

コロナ禍2年目の卒業式も終わり、まもなく入学式を迎える。
昨春、各大学で中止・延期された入学式が、1年遅れの入学式を企画している。単なる通過儀礼にとどまらず意味深い。未だ感染拡大の現状であってもなおのこと、とびきりのおめでとうの春である。このような苦境にあるからこそ学業に身を入れて、平時では経験できない濃厚な学生時代を過ごしてほしい。

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posted by 優子 at 22:45| COVID-19 | 更新情報をチェックする

チューリップのない春にリュウキンカ咲く ー受難週ー

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「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」。
                     (詩篇130篇5・6節)


28日から受難週に入った。受難週とは、日曜日にイエス・キリストがエルサレムに入場されて十字架につけられ、復活される前日土曜日までの1週間を言う。

posted by 優子 at 17:34| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月29日

ミャンマー弾圧、コロナ蔓延、それでもホッと一息したくて

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」。(創世記45章8節)

ヨセフはエジプトに売られ、13年間辛酸をなめました。しかし、それはヤコブ一族を7年間の飢饉から救い出し、エジプトで養うための神の計画でした。ヨセフは将来が見えぬまま忍耐と誠実を尽くし、それを悟る日が来たのです。苦難や不条理な事をとおしても、神の計画は実現します。忍耐と誠実は尊いのです。

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コゲラ

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今日はオオバンが鶏のように何かをついばんでいた!
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左右の鳥の足に注目。
オオバンの足は「弁足(べんそく)」と言って、それぞれの趾(あしゆび)が木の葉状の弁膜になっていて水かきの役目をする。ちょっとグロテスク。

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池に向かって歩いて行った。


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↑ モミジの新芽 ↓

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トキワマンサク

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posted by 優子 at 23:24| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月27日

ブルンナー読書㊼ ー霊と自由ー

DSCN4753.jpg7回目のオンライン読書会。
テキストはエーミル・ブルンナー著、下村喜八訳 『フラウミュンスター説教集U』(教文館)の14回目、説教のタイトルは「霊と自由」。
出席者:3名
奏 楽:知子
聖書拝読、開会の祈り、要約当番:優子


第2コリント3章17・18節:
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

知子の感想:
DSCN4783.jpgパウロは律法学者・ラビにさえなったが、完全な律法遵守による敬虔な道は自由に至る道ではないというところが印象的だった。
私は「もう万事休してしまった。(私は今や全くキリストのものである。あらゆる短所、あらゆる欠点をもった、まさにこのあるがままの私が。キリストは最初から私の味方であり、敵なのではない)」と、ここに到達するには、いろんなところを通されたからだと思った。全てにトライしたけれども降参です。

それと(115ページ最後から4行目)「キリストは私の味方である。私を認めてくださる。彼は私に悪感情をもってはおられない・・・」という発想がなかったので、ブルンナーがそのようなことを書いているのにすごく驚いた。

余談になるが、昨日読んだ経営者関係の冊子に、経営者の苦悩に寄り添う熱い心を持った弁護士が、弁護士に限らず金融機関の担当者は「自死」に対して単なる傍観者になってはいけないと語っている記事に賛同した。

同じ弁護士事務所の担当した弁護士が関わっていた社長が、50歳前半という若さで命を絶った。彼の会社はコロナ禍にあっても比較的順調だったし、数日前に会っていて元気そうで自死するような素振りは微塵もなかったとのこと。
命を絶ったことに「はいそうですか」で済ますわけにはいかないと村松健一弁護士が書いておられたが、クリスチャンは苦悩している同胞者に寄り添っているだろうかと思った。「そうですか」と済ませてはいないかと思う。人間的なノウハウではなく、イエスさまによる平安をいただいて、霊を受けて用いていただける人間でありたい。

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内容:
パウロは主は霊であり、「主の霊のあるところには、自由がある」と言っているところの、「霊(Geist・ガイスト)」と「自由」という二つの言葉について。

主の霊がわれわれのものになり、この自由もわれわれのものになるということがいかにして生じうるか。ただ福音の説教によって、悔い改めと信仰によってである。

悔い改め、罪のゆるしを得るために、聖霊を受けて聖霊の自由を得るための道であり、このような自由は、ヨガや東洋の知恵の書物を読むことによっては得られない。

しかし、今日の人々はキリスト教の説教では満足できず「より精神的(ガイストリヒ)な」道を捜さねばならないと考えるが、彼らは何よりも自分の面子を失わざるをえない道を取ることを恐れる。即ち、自分自身が一切の責任の矢面に立とうとはせず、自分が回心することを望まない。ただ考え、眺め、瞑想し、理屈を並べることしか望まない。

ローマへ通じる道はたくさんあっても、聖霊を受けるに至る道はただ一本である。それは悔い改めの道、主イエス・キリストの恩恵を信じる道しかない。敬虔なユダヤ人として成長し、律法学者・ラビにまでなったパウロは、それは自由に至る道ではないことを認識し、キリストの介入によって聖霊を受け神の子とされた。

悔い改めて罪を神に告白し、神に心から赦しを乞い願い、信仰においてその罪の赦しを受けとるならば神の霊を受けるというのは本当であり、極めて簡単なことであるが、それではなぜ、キリスト者たちはもっと喜びに満たされていないのか?

それは、キリスト者たちがイエスの音信から全く別のものを作りあげてしまったからであり、キリスト像はおもに律法主義の精神によって甚だしく損なわれたものにされており、そこからは喜びに満ちたキリスト者を造る代わりに、不機嫌な、自己の罪を永遠に悲嘆する、精神的に欠陥のある人間を造り出す。

「もう万事休してしまった。私は今や全くキリストのものである。あらゆる短所、あらゆる欠点をもった、まさにこのあるがままの私が。キリストは最初から私の味方であり、敵なのではない」と一歩踏み出すことが大切であり、いつしか変化はおのずからにして生じる。

この自由とは世の人々が言うところの自由とは全く違う。すべての自由が奪われて、たとえ投獄されようと拷問にかけられようと自由だと感じる自由であり、そのような時でも神をほめたたえ感謝することができる自由である。それが「主の霊のあるところには、自由がある」と書かれている自由であり、自分の霊によって信仰により自分の内に受け取ることができる。

この霊によって、まず不安から自由にされている。私たちは病気により苦しむかもしれないが、キリストにある交わりの喜びを奪うことはできない。死さえも問題にならず、死の境界線を乗り越えて復活の命、永遠の命にあずかることを知っている。

悲しみは取り除かれないが、キリスト者は耐えることができ、また耐えなければならない。特に他者の悲しみは真の同情をもって共に担うことができ、また担わなければならない。しかしその悲しみからは刺が抜かれており、永遠なる確かな希望のうちに解消されており、キリストとの交わりにあっては将来への不安も根絶されている。

さらに人間に深く根を下ろしている金銭欲、快楽欲、名誉欲など、貪欲からも自由にされており、われわれは完全性を神よりの贈り物として、決定的に保証されたものとして所有している。

この自由という生の法則については、今日の聖書個所の後半部分に述べられている。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。

かの道の果てにキリストの像が立っており、しかもそれはわれわれの像の上に刻み込まれた像としてのキリスト像で、われわれの顔の覆いが取り除かれている。

それゆえにただひたすらに、全聖書の本来の意味であるキリストに目を注ぐのであり、その場合われわれは一人の人間の顔の中に、すなわち神の子の顔の中に、神ご自身の顔を見、この顔をわれわれ自身の鏡像と見なすことが許されている。そう信じなさい! それがあなたの像であり、あなたは神の前でそのような姿をしており、そのように神はあなたを見られるということ。

そしてキリストの像によって、自分では何一つ提示できない罪人の像と、神の子の像と二重写しされている像を熟視することが、聖書で「われわれは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と言われている出来事であり、変容を引き起こす力はただ一つ、キリストとの自己同一視によってわれわれの中に働く神の霊のみであるということ。

キリストは私のためだけではなくその人のためにも死なれたのです。「あなたはわたしのものである」という言葉は彼にもあてはまります。この言葉は彼にもあてはまります。あなたがこのことを思う時、あなたは共なる人々に対して、真の、人間的な共なる人間となります。その時あなたは、神を愛すべきであると同じように彼をも愛し、また自分を愛するように彼を愛します。そうすることによって、あなたは人間の真の使命を果たすのです。

イエス・キリストの像はすなわちわが像なりーキリストはすなわちわが生、わが真の存在なり。それゆえ霊の自由なり」。アーメン。

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柿の新芽

感想:
われわれは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくことについて、私はまだまだ実感をもって受け止めていなかったので一歩踏み入れた感じがして、将来に約束された完全な姿で生きよということを自分のこととして受け止められたので覚えて励もうと思った。

下村さんの解説:
E38396E383ABE383B3E3838AE383BCE381AEE5A293.jpgブルンナーのお墓には「主の霊のあるところには自由がある」と刻まれている。

40歳の時にお墓を訪ねた時、聖書の中にあるたくさんの言葉から、なぜこの言葉を選んだのかわからなかったが、年を取ってわかるのは、自分として体験できるぐらい霊の働き(キリスト教)がわかりかけてきたところがあって、ブルンナーが選んだことを何度も読みたい説教だと思った。

ドイツ語で"Geist"(ガイスト)という言葉が「霊」であり、他に「精神、心、魂」の意味も持っている。「時代精神」の精神、また、理性や思考力も「ガイスト」であり多くの意味があり、ドイツ語で一番大切な言葉が「ガイスト」である。

グリム童話集を書いたグリムは言語学者でドイツ語辞典の「A」から「F」の途中まで作って亡くなった。その次から「Z」まで作るのに123年かかった。(ドイツ人と日本人の気質は似ていると思っていたが、全く質的に違っていることに驚いた。)

戦争で消滅しないように辞典を塩抗(塩の洞窟)に置いてあったのを、ドイツが負けてロシア軍が発見しモスクワに運んだところ、元に戻した。
その後、ドイツが東西に分断されてからも西と東で協力して守り、統一ドイツの最初の紙幣はグリム兄弟の肖像だった。

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グリムは「ガイスト」が出てくる文章を集めて並べ、それを読めばガイストという言葉がわかるような辞書を作った。

「霊」を与えられると「自由」が与えられる。
「われは彼なり、彼はわれなり」とは内村鑑三の言葉である。彼とはもちろんキリストのことである。

われわれも時に道徳主義、律法主義になってしまうが、「もう万事休してしまった。私は今や全くキリストのものである。あらゆる短所、あらゆる欠点をもった、まさにこのあるがままの私が。キリストは最初から私の味方であり、敵なのではない」と、そこまで下りて、行き詰まってしまった場所で、神に出会える場所がある。

P115の最後の4行が分かりづらい。
「キリストは私の味方である。私を認めてくださる。彼は私に悪感情をもってはおられない。私は卑しすぎる、ひねくれすぎている、複雑すぎるとは思われない。キリストはすでにもっとまるかに複雑な人間、ひねくれた人間、卑しい人間を見てこられたが、彼らを受け入れてこられた。彼らが無条件に身をゆだねさえすれば無条件に受け入れてこられたのである」と。

相対的な尺度で書いている。相対的にではなく、比較を超越したところに信仰があるのにどうしてだろう・・・。

★私(優子)は、ブルンナーが無教会活動にエクレシア(キリストに属する人々、キリストに呼び集められた人々)を見たと高く評価して、無教会と教会をつなごうと奔走して反発された時に深く傷ついた痛みがあったのではないだろうか。その時に、私は卑しいのか、ひねくれているのか・・と悩んだことがあったからだと思うと発言した。


翻訳上のことであるがP116、13行目:
「しかし、キリストにある交わりの喜びを奪うことーこれは、病気にはできません」の「キリストにある」は「キリストとの」と訳すほうがよい

自由とは一般的には政治的自由、罪からの自由、不安、病気、悲しみからの自由などであるが、「キリストとの交わりにあっては、将来に対する不安も根絶されています。それゆえにこそキリスト者は、人間に対する恐怖という動機から何かを行うということのない人間でもある。人間に対する恐怖から実に驚くべき多くの恐ろしいこと、残忍なこと、理解を絶する悪が生まれている。
あの鉄のカーテンの向こうで起こっていることは、その大部分、人間に対する不安から、上官や国家警察に対する不安から起こっている」。

第2コリント 5章1節〜11節:
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
5:11 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。

2節の「幕屋」とは第2ペテロ1章3節「わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。」にある「幕屋」ことで、この世ではなく、生まれながらの自分自身のこと、生まれながらの体であり、「着る」とはそれに住みかとして服を着ている。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。

天から与えられるすみかがキリスト像のこと。脱ぎ捨てず、そのままキリストを着る。それゆえにキリストを永遠のすみかとしている。

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第一テサロニケ5章23節:
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」。

これが聖書の人間観であり、3分法に考え方では、人間は、霊(神さまの霊とつながっている)、魂(思ったり、考えたりするところ)、体(私たち人間)の3つからできている。

2分法では、人間は霊と肉でできており、パウロは生まれながらの人間そのものを肉と呼ぶ。

十字架の贖いによって、悔い改めることによって霊が働き、人を愛する人間に変えられる。「幕屋」は2分法の肉であり、そこにキリストを着てキリストをすみかとする。

キリストの像によって二重写しされている像を熟視することが、聖書で「われわれは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と言われている出来事であり、変容を引き起こす力はただ一つ、キリストとの自己同一視によってわれわれの中に働く神の霊のみである。

しかし、関心を寄せすぎてはならない。成長、進歩、聖化など意識すると謙遜を欠いてくる。トーマス・カーライルは「へそを見てばかりではいけない」と言っている。デカルト以降は一個の人間として意識されるようになり、自分の内面を見る傾向がでてきた。

「『あなたは、あなたの生の本来の住みかであるわたしのうちに留まっているかぎり、あなたの心も健康でありつづけ、また健康になるのである』とキリストはわれわれに語られている」ように、あまりに自分自身を見ない。

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次回は、4月24日、テキストは「世の光」。
聖書朗読、祈祷は下村さん。

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この大きなミカンは晩白柚(ばんぺいゆ)、ユキの頭よりも大きくて重い。2キロぐらいあると思う。下村さんの農園(?)で収穫されたもので、今春もたくさんの文旦とともに送ってくださった。

調べてみると柑橘系では世界最大級で栽培が難しいと書いてあった。冬が終わり、今年も草が勢いよく伸び始めたので午前は晴耕雨読の生活スタイルになられるのであろう。

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正確な更新日時は、3月28日15時30分。

posted by 優子 at 11:22| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2021年03月24日

コロナ禍に中学校に入学し、再び春めぐりて1年生修了

DSCN4558.jpg担任の先生(女性)は当中学校に11年間勤められて今春異動されるそうだ。
昨春はコロナ禍であったため入学式後、6月まで休校。当然家庭訪問もなく、2度学習プリントを届けてくださった時にマスク越しに短時間お目にかかったとはいえ、お顔もよくわからず、それでも2020年の春の日が懐かしく思い出される。

学校現場も混乱を極めたことであろう。毎日生徒が下校した後、机や教室内の消毒など多くのご苦労をおかけした。今も先生が消毒してくださっているという。ここに心打つ学級通信(最終10号)のごく一部だけ貼らせていただきたい。

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縮小版ながら体育祭もあり、秋の校外学習ではバスで信楽へ行き、陶芸も経験した。ユキに変わって思い出をここに刻もう。

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今月初め、ユキ手作りの湯飲みを持ち帰った。

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1学期の三者懇談時に「すごく背が伸びたねえ」と言われ、特に著しく伸びた生徒の一人だったようだ。

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近いうちに今のを貼っておきたい。

成績表は1学期と違って学年評価は「5」もまばらだが、これならばトップ校をめがける成績ではあっても、とてもそのような学力ではない。

夕食入浴を済ませて遅くても8時から勉強するように言うのだが、とにかく試験前でも50分間もお風呂に入っているし、そのあともゆっくりしている。テレビやユウチューブを見たり毎晩声をかけずにはいられない。

「ママが疲れて帰ってくるのにユキの部屋が真っ暗だったらかわいそう。電気だけでもつけてきなさい」と、私も意味不明なことを言ってしまうときもあるほどに。

という私は勉強嫌いで秀才と言われていた母を悩ませていた。その私は苦労知らずで娘二人とも塾にもいかず自学自習で優秀な成績を修め、その知子はユキで苦労している。部活のように勉強も頑張れるユキに期待したい。今夜珍しく実行!

1年生の最後はやはり学級通信で閉じたい。何度読んでも素晴らしい。ユキは先生が話されている時にプリントのイラストに色を塗っていたとは・・・

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コロナ禍は衰えを見せず、今日は全国で新たに1918人確認され、再拡大が懸念されている。どうか今の日常が維持されながら収束していきますように。

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今朝ユキを見送った時に見つけたイソヒヨドリ。
美しい声でさえずっていたよ、鶯もね。
春が来たね。誰もみな、善き日々を重ねていこうね。


posted by 優子 at 22:57| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2021年03月23日

日に日に変わっていく自然界 ー「わたしは、神の恵みを無にはしない」ー

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海棠桜(かいどうさくら)

「わたしは、神の恵みを無にはしない」。(ガラテヤ人への手紙2章21節)

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電線がなければいいのにな。

ハナモモ
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「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。(ガラテヤ人への手紙5章1節)


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ハナニラ


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ミモザ系

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「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」。(ガラテヤ人への手紙6章7・8節)

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日本スミレ


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スノーフレイク

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池の桜も咲き始めていた。
池にいるのはこの3羽だけ。オオバンは渡り鳥ではなかった?

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裸だった木々から吹き出す新芽。
この生命力!
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コデマリ
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「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。
          (エペソ人への手紙2章8節〜10節)
posted by 優子 at 23:17| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月22日

次女夫婦を通してタイムリーな神の助け 

ワシントンDC(アメリカ)は3月14日からサマータイムに入った。次女夫婦が米国に渡って早15年になるが、今初めて夏時間について検索し3月第2日曜日から11月の第1日曜日までと知った。

コロナ禍にあってミッション(海外出張)もできない今、昨年からオンラインですすめている。経済政策系の分析をして担当国の政策をどうしていけばいいか道筋を立てていくのだと思う。

時差は派遣国に合わせねばならないので早朝5時起きだという。期間は3週間、その間は特に煩わさないように心掛けている。

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これはマチ・クマ(次女夫婦)の家の窓にやってきた鳥。ユキは見た瞬間に「白子鳩(しらこばと)」と言い当てた。


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私は鳩は少々苦手だけれど、白子鳩はかわいいね。そしてこの鳩もかわいいでしょ? 
これは今日、ユキが撮ったキジバト。肌寒い一日だったので寒そう。

14日朝、心の乱れを感じた私はミッション中であることを百も承知で、DCは土曜日の夜だからとスカイプで声をかけ40分間ほど通話した。幸い夕食を済ませたところだった。

次女夫婦は13日の「聖書タイム」で太志君が開いたエレミヤ書29章から7節の聖句を話してくれた。

「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」。(エレミヤ書29章7節)

この聖句から乱れていた心は一瞬にして鎮められた。このみことばを聴いた瞬間に「敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」との主イエスの御言葉を思った。神さまが言われることならば従える。

涙した。
真智もまた。
そしていつものように一人ずつ祈り合い、笑顔で「サヨナラ」した。

あの時、過度のストレスで脳の働きが鈍くて説明できなかったが、脳から下の身体は温かい太い柱を据えられたような体感があり、心どころか、魂が深く安らいだことに驚愕した。初めての経験かもしれない。

エレミヤは捕囚になって送られた民に、その地の平安を祈れと薦めているのである。そうすることで最終的に必ず捕囚から解放されるというメッセージと、敵の地にも主の支配があるのだと語っているのだと思った。

そして、あの有名な御言葉が続く。
「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。
      (エレミヤ書29章10・11節)

70年とは長い年月だが年齢を重ね、経験を重ねてくると頷けるようになった。数年ではなく、30〜40年というスパンでもなく、生かされた人生の全期間に及ぶことも受容できるようになった。

信仰者であるからこそいつしか人間の限界を知り、人間のどうしようもない罪深さも知り、すべてのことに結論が出るわけではないことを悟り、受容し、自分自身の視点、スタンスから神の側に比重が移っていき、そして神のみもとにゆくのであろうと感じ始めている。御国に目を向けられるようになってきたのだと思う。

生涯の終わりまで信仰生涯を歩むことは大変なことであるが、しかしまた信仰が与えられているので過酷な日々も神さまとともにあり、厳しい現実であるからこそ主のご臨在を感じながら歩める日々こそが最高の恵みである。

そして最後には神に従う者が勝利することだけは絶えず確信している。仮に地上での生あるうちに答えをいただけずとも、そう、だからこそ天の御国に移されたときに、必ずや神さまが納得させてくださると25年も前から思っている。久々に自分の思いを言語化できた。

今日のみ言葉(キリストの栄光教会より)も心を捉えた。
「また、二番目の子をエフライムと名づけた。『神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた』からである」。(創世記41章52節)
祈って主から答えがなくても、あせらずに主の時を待ちます。主は共におられますから、自分で希望を放棄してはなりません。苦しみの時に誠実を養い、揺り動かされず、淡々と役割を果たし続けるなら、「実り多い者」となる日が来ます。その日、耐え抜いてよかったと、喜びが溢れます。

今日はホセア書を開き、愛用のテキスト「牧師の書斎」も読み、一日中聖書に集中していた。(I was scared of footsteps all day today.)

クリスチャンは神の恵みによって生きることに使命がある。他者と比べて使命の大小の違いはなく、人生苦に苛まれている人には満たされているクリスチャンには感じ得ない恵みがあると信じる。

苦悩の日々を送っておられる方々の上に神の格別な祝福をお祈りします。

「背きは背いた側ではなく、背かれた側がそれを忘れることによってのみ癒される」。

エフライムのように主の激しい怒りを起こす前に良心の痛みを感じて、救いの機会を失わないでほしい。

ホセア書の最後の個所 14章4節〜9節:
わたし(神)は彼らのそむきをいやし、
喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。

わたしはイスラエルに対しては露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張り、
その枝は茂りひろがり、
その麗しさはオリブの木のように、
そのかんばしさはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、わが陰に住み、
園のように栄え、
ぶどうの木のように花咲き、
そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。

エフライムよ、
わたしは偶像となんの係わりがあろうか。
あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。
わたしは緑のいとすぎのようだ。
あなたはわたしから実を得る。

知恵のある者はだれか。
その人にこれらのことを悟らせよ。
悟りある者はだれか。
その人にこれらのことを知らせよ。
主の道は直く、
正しき者はこれを歩む。
しかし罪びとはこれにつまずく。
posted by 優子 at 23:06| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2021年03月21日

先週半ばすぎから山桜が5分咲きに! ー責任はうやむやにさせず恵みを与えてー

山桜はソメイヨシノが満開になった頃から咲き始めていたのに昨春から出番が入れ替わっている。孫に「桜がたくさん咲いてるで」と言われていたので19日に確かめに行った。17日の記事にあるように4日前はまだ数輪しかさいていなかったのに満開と見間違えるほど変身していた。

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「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」。(黙示録3章8節)
主は門を閉じることなく、待っていてくださいます。大切なのは、小さな信仰でも少しばかりの力を働かせることです。何もしなければそのままです。でも、一歩踏み出せば、主が事を動かされます。

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全能なる神よ、あなたとともにある素晴らしい未来を感謝します。協力が困難な人とかかわるとき、あなたを頼るように助けてください。

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悪いことをしたのに咎められない人がいると、私たちは不当に苦しめられます。しかし、神のあわれみが心で働くなら、神に赦されたように人を赦すことができ、神が備えられた祝福を受けることができます。
あわれみの神よ、あなたを信頼し、主の御手で正義が勝つことを信じられますように。

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何たる輝き!
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たった2輪のヒヤシンス
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常識的には罰が当然の局面で、あえて恵みを与えなさい。責任はうやむやにさせず、しかし、更生のチャンスを与えなさい。そうすれば恩義に富んだ生涯の忠実な友を得るでしょう。主の恵みによって型に縛られず考えましょう。

あなたに対して罪を犯した人の責任をうやむやにすることなく、赦すために、あなたは、どのように行動しますか。

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「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」。(黙示録2章4・5節)
義の旗印だけを高く掲げすぎると、正義感から攻撃的になることがあります。愛がなければ、義の旗印も単に人を裁くだけの道具になってしまいます。私たちの信仰は主の愛を受けて始まりました。その初めの愛に立ち返れば、義と愛が両立する道が開かれていきます。

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悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。

悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
   (詩篇1篇)

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結局のところ、私たちが栄えるのは、神が見守ってくださるからです「主は、正しい者の道を知っておられる」のです(6節)。
あなたの道を神にゆだねましょう。虚しさにしかつながらない古い思考や行動パターンを転換していただき、水路のそばの木のように、心の根を聖書のみことばで潤わせ、養っていただきましょう。

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シャクナゲ

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ハナモモも咲き始めたね
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「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」。( 箴言10章12節)
神の愛は、すべての罪をおおいます。これは間違いを指摘せず、悪人を放置するという意味ではありません。相手が心から悔い改めたなら、過去は水に流すという意味です。
一方、謝らない人については、自分の気持ちを神に告白して、恨みから解放されましょう。慈しみ深いお方を知っている人たちは、熱心に愛し合うべきです。なぜなら、愛は多くの罪をおおうからです(Tペテロ4:8)

posted by 優子 at 20:40| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月18日

主イエスと連れ合いと3人で歩く

今日はイエスさまと二人ではなく、久々に近くを連れ合いと3人で1時間半ほど8400歩歩いた。

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「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」。(ヨハネ15:5)

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キリスト者の人生は、ソロではなくデュエットです。しかし、そばにおられる主の力と導きがなければ何もできないことを、私たちは忘れがちです。自分の力で正しいこと、つまり神に従おうとしても、大抵はしくじってしまいます。自分の限られた力で問題を解決しようとすると、人といさかいになったりします。

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しかし、主とともにいれば、まったく違います。イエスに頼って進むなら、神に従っています。神が人間関係を祝福してくださり、自分でも驚くほど喜んで人に仕え、人を愛することができます。

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「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)とイエスが言われたとおりです。

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私たちの素晴らしい先生、イエスとデュエットしましょう。私たちの霊は、神の力と恵みによってのみメロディーを奏でます。

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ぶどうの木は丈夫で、枝は激しい刈り込みに耐えます。しかし、命の源から切り離されれば、役立たずの枯れ枝です。

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イエスのうちにとどまり、みことばを心に宿らせるなら、私たちはいのちの源であるキリストにつながっています。主は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言われました(8節)。

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豊かに実を結ぶためには日々の栄養が不可欠です。神は、みことばと愛を通して惜しみなく与えてくださいます。さあ、主につながり、活力をみなぎらせましょう。

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どんな脅威も感謝なことに、まず神のみもとに行こうという招待状とともに訪れます。主に必要を訴えましょう。

明日も20度のポカポカ陽気。
公園近くの桜も咲き始めたとユキが教えてくれた。

posted by 優子 at 23:33| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする

2021年03月17日

ユキが私を案じて散歩してくれた春の日  

これは3月15日、ユキと歩いた春の日のこと。
その前夜、「おばあちゃん、あした一緒に散歩しよう」と声をかけてくれ、私は心から楽しみにして眠りについた。その日の衝撃を和らげるためにと思いやってくれたユキ。

ユキが撮った写真ばかり貼ろうと思うが、その朝洗濯物を干している時にかわいい声がして、すばしっこく飛び回る鳥を何枚も撮った。その中に一枚だけ、しかもほとんどピンボケせずに写っていたので貼りたい。

ユキがヤマガラだと教えてくれた!
すごくかわいい声だった。
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ついでに3枚。
今年も春がきた、春のオープニングだ。
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ここからユキが見た自然界
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この時、スノーフレイクを撮っていた。3-15-30.jpg

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次は咲き始めた桜を撮っていた。


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コブシの花
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シジュウカラ


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桐の木にジョウビタキ


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私は欲ボケだから全体を撮りたくなる
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ここから私が写したもの
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「主に信頼する者は決して失望に終わりません」。

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1時間の予定だった散歩が15分伸びて、ユキは大急ぎで遊びに行った。でもお友達がいなくて、おじいさんが帰宅する前に帰ってきた。不思議。神さまのご配慮だと思った。

「神が私たちの心の真の力です。私たちは日々、その力の中で安らうことができます」。

posted by 優子 at 23:41| 四季と黙想 | 更新情報をチェックする