
7回目のオンライン読書会。
テキストはエーミル・ブルンナー著、下村喜八訳 『フラウミュンスター説教集U』(教文館)の14回目、説教のタイトルは「霊と自由」。
出席者:3名
奏 楽:知子
聖書拝読、開会の祈り、要約当番:優子
第2コリント3章17・18節:
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
知子の感想:

パウロは律法学者・ラビにさえなったが、完全な律法遵守による敬虔な道は自由に至る道ではないというところが印象的だった。
私は「もう万事休してしまった。(私は今や全くキリストのものである。あらゆる短所、あらゆる欠点をもった、まさにこのあるがままの私が。キリストは最初から私の味方であり、敵なのではない)」と、ここに到達するには、いろんなところを通されたからだと思った。全てにトライしたけれども降参です。
それと(115ページ最後から4行目)「キリストは私の味方である。私を認めてくださる。彼は私に悪感情をもってはおられない・・・」という発想がなかったので、ブルンナーがそのようなことを書いているのにすごく驚いた。
余談になるが、昨日読んだ経営者関係の冊子に、経営者の苦悩に寄り添う熱い心を持った弁護士が、弁護士に限らず金融機関の担当者は「自死」に対して単なる傍観者になってはいけないと語っている記事に賛同した。
同じ弁護士事務所の担当した弁護士が関わっていた社長が、50歳前半という若さで命を絶った。彼の会社はコロナ禍にあっても比較的順調だったし、数日前に会っていて元気そうで自死するような素振りは微塵もなかったとのこと。
命を絶ったことに「はいそうですか」で済ますわけにはいかないと村松健一弁護士が書いておられたが、クリスチャンは苦悩している同胞者に寄り添っているだろうかと思った。「そうですか」と済ませてはいないかと思う。人間的なノウハウではなく、イエスさまによる平安をいただいて、霊を受けて用いていただける人間でありたい。
内容:
パウロは主は霊であり、「主の霊のあるところには、自由がある」と言っているところの、「霊(Geist・ガイスト)」と「自由」という二つの言葉について。
主の霊がわれわれのものになり、この自由もわれわれのものになるということがいかにして生じうるか。ただ福音の説教によって、悔い改めと信仰によってである。
悔い改め、罪のゆるしを得るために、聖霊を受けて聖霊の自由を得るための道であり、このような自由は、ヨガや東洋の知恵の書物を読むことによっては得られない。
しかし、今日の人々はキリスト教の説教では満足できず「より精神的(ガイストリヒ)な」道を捜さねばならないと考えるが、彼らは何よりも自分の面子を失わざるをえない道を取ることを恐れる。即ち、自分自身が一切の責任の矢面に立とうとはせず、自分が回心することを望まない。ただ考え、眺め、瞑想し、理屈を並べることしか望まない。
ローマへ通じる道はたくさんあっても、聖霊を受けるに至る道はただ一本である。それは悔い改めの道、主イエス・キリストの恩恵を信じる道しかない。敬虔なユダヤ人として成長し、律法学者・ラビにまでなったパウロは、それは自由に至る道ではないことを認識し、キリストの介入によって聖霊を受け神の子とされた。
悔い改めて罪を神に告白し、神に心から赦しを乞い願い、信仰においてその罪の赦しを受けとるならば神の霊を受けるというのは本当であり、極めて簡単なことであるが、それではなぜ、キリスト者たちはもっと喜びに満たされていないのか?
それは、キリスト者たちがイエスの音信から全く別のものを作りあげてしまったからであり、キリスト像はおもに律法主義の精神によって甚だしく損なわれたものにされており、そこからは喜びに満ちたキリスト者を造る代わりに、不機嫌な、自己の罪を永遠に悲嘆する、精神的に欠陥のある人間を造り出す。
「もう万事休してしまった。私は今や全くキリストのものである。あらゆる短所、あらゆる欠点をもった、まさにこのあるがままの私が。キリストは最初から私の味方であり、敵なのではない」と一歩踏み出すことが大切であり、いつしか変化はおのずからにして生じる。
この自由とは世の人々が言うところの自由とは全く違う。すべての自由が奪われて、たとえ投獄されようと拷問にかけられようと自由だと感じる自由であり、そのような時でも神をほめたたえ感謝することができる自由である。それが「主の霊のあるところには、自由がある」と書かれている自由であり、自分の霊によって信仰により自分の内に受け取ることができる。
この霊によって、まず不安から自由にされている。私たちは病気により苦しむかもしれないが、キリストにある交わりの喜びを奪うことはできない。死さえも問題にならず、死の境界線を乗り越えて復活の命、永遠の命にあずかることを知っている。
悲しみは取り除かれないが、キリスト者は耐えることができ、また耐えなければならない。特に他者の悲しみは真の同情をもって共に担うことができ、また担わなければならない。しかしその悲しみからは刺が抜かれており、永遠なる確かな希望のうちに解消されており、キリストとの交わりにあっては将来への不安も根絶されている。
さらに人間に深く根を下ろしている金銭欲、快楽欲、名誉欲など、貪欲からも自由にされており、われわれは完全性を神よりの贈り物として、決定的に保証されたものとして所有している。
この自由という生の法則については、今日の聖書個所の後半部分に述べられている。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。
かの道の果てにキリストの像が立っており、しかもそれはわれわれの像の上に刻み込まれた像としてのキリスト像で、われわれの顔の覆いが取り除かれている。
それゆえにただひたすらに、全聖書の本来の意味であるキリストに目を注ぐのであり、その場合われわれは一人の人間の顔の中に、すなわち神の子の顔の中に、神ご自身の顔を見、この顔をわれわれ自身の鏡像と見なすことが許されている。そう信じなさい! それがあなたの像であり、あなたは神の前でそのような姿をしており、そのように神はあなたを見られるということ。
そしてキリストの像によって、自分では何一つ提示できない罪人の像と、神の子の像と二重写しされている像を熟視することが、聖書で「われわれは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と言われている出来事であり、変容を引き起こす力はただ一つ、キリストとの自己同一視によってわれわれの中に働く神の霊のみであるということ。
キリストは私のためだけではなくその人のためにも死なれたのです。「あなたはわたしのものである」という言葉は彼にもあてはまります。この言葉は彼にもあてはまります。あなたがこのことを思う時、あなたは共なる人々に対して、真の、人間的な共なる人間となります。その時あなたは、神を愛すべきであると同じように彼をも愛し、また自分を愛するように彼を愛します。そうすることによって、あなたは人間の真の使命を果たすのです。
イエス・キリストの像はすなわちわが像なりーキリストはすなわちわが生、わが真の存在なり。それゆえ霊の自由なり」。アーメン。
感想:
われわれは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくことについて、私はまだまだ実感をもって受け止めていなかったので一歩踏み入れた感じがして、将来に約束された完全な姿で生きよということを自分のこととして受け止められたので覚えて励もうと思った。
下村さんの解説:
40歳の時にお墓を訪ねた時、聖書の中にあるたくさんの言葉から、なぜこの言葉を選んだのかわからなかったが、年を取ってわかるのは、自分として体験できるぐらい霊の働き(キリスト教)がわかりかけてきたところがあって、ブルンナーが選んだことを何度も読みたい説教だと思った。
ドイツ語で"Geist"(ガイスト)という言葉が「霊」であり、他に「精神、心、魂」の意味も持っている。「時代精神」の精神、また、理性や思考力も「ガイスト」であり多くの意味があり、ドイツ語で一番大切な言葉が「ガイスト」である。
グリム童話集を書いたグリムは言語学者でドイツ語辞典の「A」から「F」の途中まで作って亡くなった。その次から「Z」まで作るのに123年かかった。(ドイツ人と日本人の気質は似ていると思っていたが、全く質的に違っていることに驚いた。)
戦争で消滅しないように辞典を塩抗(塩の洞窟)に置いてあったのを、ドイツが負けてロシア軍が発見しモスクワに運んだところ、元に戻した。
その後、ドイツが東西に分断されてからも西と東で協力して守り、統一ドイツの最初の紙幣はグリム兄弟の肖像だった。
グリムは「ガイスト」が出てくる文章を集めて並べ、それを読めばガイストという言葉がわかるような辞書を作った。
「霊」を与えられると「自由」が与えられる。
「われは彼なり、彼はわれなり」とは内村鑑三の言葉である。彼とはもちろんキリストのことである。
われわれも時に道徳主義、律法主義になってしまうが、「もう万事休してしまった。私は今や全くキリストのものである。あらゆる短所、あらゆる欠点をもった、まさにこのあるがままの私が。キリストは最初から私の味方であり、敵なのではない」と、そこまで下りて、行き詰まってしまった場所で、神に出会える場所がある。
P115の最後の4行が分かりづらい。
「キリストは私の味方である。私を認めてくださる。彼は私に悪感情をもってはおられない。私は卑しすぎる、ひねくれすぎている、複雑すぎるとは思われない。キリストはすでにもっとまるかに複雑な人間、ひねくれた人間、卑しい人間を見てこられたが、彼らを受け入れてこられた。彼らが無条件に身をゆだねさえすれば無条件に受け入れてこられたのである」と。
相対的な尺度で書いている。相対的にではなく、比較を超越したところに信仰があるのにどうしてだろう・・・。
★私(優子)は、ブルンナーが無教会活動にエクレシア(キリストに属する人々、キリストに呼び集められた人々)を見たと高く評価して、無教会と教会をつなごうと奔走して反発された時に深く傷ついた痛みがあったのではないだろうか。その時に、私は卑しいのか、ひねくれているのか・・と悩んだことがあったからだと思うと発言した。
翻訳上のことであるがP116、13行目:
「しかし、キリストにある交わりの喜びを奪うことーこれは、病気にはできません」の「キリストにある」は「キリストとの」と訳すほうがよい
自由とは一般的には政治的自由、罪からの自由、不安、病気、悲しみからの自由などであるが、「キリストとの交わりにあっては、将来に対する不安も根絶されています。それゆえにこそキリスト者は、人間に対する恐怖という動機から何かを行うということのない人間でもある。人間に対する恐怖から実に驚くべき多くの恐ろしいこと、残忍なこと、理解を絶する悪が生まれている。
あの鉄のカーテンの向こうで起こっていることは、その大部分、人間に対する不安から、上官や国家警察に対する不安から起こっている」。
第2コリント 5章1節〜11節:
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
5:11 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。
2節の「幕屋」とは第2ペテロ1章3節「わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。」にある「幕屋」ことで、この世ではなく、生まれながらの自分自身のこと、生まれながらの体であり、「着る」とはそれに住みかとして服を着ている。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。
天から与えられるすみかがキリスト像のこと。脱ぎ捨てず、そのままキリストを着る。それゆえにキリストを永遠のすみかとしている。
第一テサロニケ5章23節:
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」。
これが聖書の人間観であり、3分法に考え方では、人間は、霊(神さまの霊とつながっている)、魂(思ったり、考えたりするところ)、体(私たち人間)の3つからできている。
2分法では、人間は霊と肉でできており、パウロは生まれながらの人間そのものを肉と呼ぶ。
十字架の贖いによって、悔い改めることによって霊が働き、人を愛する人間に変えられる。「幕屋」は2分法の肉であり、そこにキリストを着てキリストをすみかとする。
キリストの像によって二重写しされている像を熟視することが、聖書で「われわれは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と言われている出来事であり、変容を引き起こす力はただ一つ、キリストとの自己同一視によってわれわれの中に働く神の霊のみである。
しかし、関心を寄せすぎてはならない。成長、進歩、聖化など意識すると謙遜を欠いてくる。トーマス・カーライルは「へそを見てばかりではいけない」と言っている。デカルト以降は一個の人間として意識されるようになり、自分の内面を見る傾向がでてきた。
「『あなたは、あなたの生の本来の住みかであるわたしのうちに留まっているかぎり、あなたの心も健康でありつづけ、また健康になるのである』とキリストはわれわれに語られている」ように、あまりに自分自身を見ない。
次回は、4月24日、テキストは「世の光」。
聖書朗読、祈祷は下村さん。
この大きなミカンは晩白柚(ばんぺいゆ)、ユキの頭よりも大きくて重い。2キロぐらいあると思う。下村さんの農園(?)で収穫されたもので、今春もたくさんの文旦とともに送ってくださった。
調べてみると柑橘系では世界最大級で栽培が難しいと書いてあった。冬が終わり、今年も草が勢いよく伸び始めたので午前は晴耕雨読の生活スタイルになられるのであろう。