2006年01月31日

子供の鋭い目

      家じゅうはシーンとなった
  
  ぼくは夕ごはんの時、おかずをこぼした。
  父から、「よそ見をしているからだ」としかられた。
  弟も、「そうだ、よそ見をしているからだ」と言った。
  数分後、父もおかずをこぼした。
  家じゅうは、シーンとなった。

この詩は、小学校4年生の男の子が作りました。とてもユーモラスで、何度読んでも笑ってしまいます。しかし、身に覚えのある私は笑ってばかりもいられません。子供の非や失敗には厳しく、自分自身には寛容なのですから。
また、こんな詩もあります。

       よい家族
 
  お父さんとお母さんがけんかした。
  最初にお母さんがあやまった。
  次にお父さんがあやまった。
  よい家族だと思った。
  それを言ったらお母さんが泣きだした。

これは1年生の子供の詩です。鋭い子供の目を感じます。子供の素直な気持ちにお母さんが泣きだしたのでしょう。

私は、夫婦円満であることが子供にしてやれる最高のことであり、最高の子育てであると思っています。けんかをしても延長戦をしないで、許し合うことの大切さを教えてくれる詩ですね。
「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」。
その日のうちに仲直り!

      (東大阪藤戸小学校PTA広報委員会発行 1991年12月9日発行
                    ふじとニュースNO22より転載) 

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」とは、聖書の言葉である。

「怒ることがあっても罪を犯してはならない。
 憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。・・・・・・・・・・
 互いに情け深く、あわれみ深い者となり、
 神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、
 あなたがたも互いにゆるし合いなさい」。

             (エペソ人への手紙4章26節)
posted by 優子 at 08:33| 掲載文 | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

今こそ拉致問題に解決あれ!

アメリカ合衆国のユタ州で先週放映された映画、「拉致(abduction)」に観客賞が与えられた。
これは、横田早紀江さん御夫妻の苦悩の日々を追ったドキュメンタリーである。
5000もの作品から9作品が選ばれ、その中から観客が決める「観客賞」を受賞したのだ。

めぐみさんが拉致されたのは、私が長女を出産する4日前のことだったとは。
28年もの年月、ご両親の悲しみや苦しみは想像を絶する。

ある日、早紀江さんはめぐみさんと同級生のお母さんに聖書の「ヨブ記」を読むように勧められたという。しかし、
「こんな悲しみの最中、どうしてびっしりと文字が書き込まれた分厚い本を読むことができるものですか・・・。」と読まれなかったのだが、たった一人涙にくれるしかない早紀江さんは、何気なくパラパラと聖書をめくり読み始めた。

簡単に『ヨブ記』を御紹介しよう。
ヨブは神を畏れる信仰篤く正しい人だった。そのヨブは、子供達を一度に亡くし、財産の全てを無くしただけではなく、ひどい病気にかかった。
あまりの悲惨さに自分が生まれたことを呪い、神を恨んだ時もあった。
しかし、ヨブは最後まで神に目を向け続けて苦難に打ち勝っていった。

早紀江さんは、どんなに大変な中でも神から目を離さずに信じきっているヨブの姿に感動した。
「魂に響く、それも痛みをもって心地よく沁みていくこの本は、何という本でありましょう。いつの間にか、私の目から悲しみでない、不思議な感動の涙がとめどもなく流れてきました。」と、早紀江さんは語っている。そして、

及びもつかない大きなことや、奇(くす)しいことに、私は深入りしません。
 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました
。」
              (聖書・詩篇131篇)

という聖書の言葉に出会い平安を与えられたと告白しておられる。

「事件やその後の救出活動を通して、確かに大変なところを通らされます。
体も心も疲れ果ててしまうことは、今でもしばしばあります。
悲しくて泣くことも・・・・。
しかし、その中にあって、心の底はいつも平安でいられます。
全てを御存知の神が共に居られるからです。
この事件がなければ、キリストに出会うことも、クリスチャンになることもなかったでしょう。
私は、こうして長い年月、神に愛され訓練していただいて今日があることを、本当に感謝しています。・・・・めぐみだけではなく全員が、一刻も早く無事に帰って来てくれることを信じて祈り続けます。」と語っておられる。

私達も祈ろう。
全てが神の御計画であり、全てのことに「時」があるのだから、私達は神の御心(みこころ)が成就されるように祈り続けよう。
今回の映画放映や受賞が用いられますように!
今まで「拉致」になじみのなかったアメリカ人を動かし、大きなうねりとなって世界中に、為政者達に働きかけてくれることを切に祈ろう。

この21世紀の今も、北朝鮮には収容所があるのだ。


posted by 優子 at 13:59| 随想 | 更新情報をチェックする

知的障害の子供に教えられること

速いことが良いとされるようなインスタント文化と言われて久しいが、今やインターット時代に突入しインスタントの極みに達してしまった感がある。
私でさえEメールはもとより、娘とスカイプで話しながら「今、ファイルを送ったから」と言われ、それを開いてパソコンの画面を見ながら話すなど、しみじみとインターネットのすごさに驚いてしまう。
さて問題は,私がこの驚きに慣れてしまわないことである。
そうなっては何も見えなくなってしまう。
常に基を据え直すためにも神と共に在る生涯の幸いを想う。

現代は「心が育たない」というが、そうではなくて「心を育てない」から育たないのだと思う。現代のように高度に機械化された時代であるからこそ、1日に10分間でもいいから静思の時間をとる事は以前にも増して重要なことであろう。

重度の知的障害者の施設『止揚学園』を御存知だろうか。
NHk教育テレビでも何度も紹介されている素晴しい施設である。
その園長をされている福井達雨(たつう)さんの多くの著書をから、私はよく『よい天気、ありがとう』を思い出す。

私達は〔1+1=2〕と考え、また、常に自分中心に物事を考えて行動するのであるが、
この園の子供達は〔1+1=2〕ではなくて、非合理な部分が多く、他者の立場で行動する。
例えばこうである。
晴天の続いた夏の日、久しぶりに雨が降った。
すると、一人の子供が外に飛び出し「よい天気、ありがとう」と叫んだ。
その子に「どうして?」と尋ねると、
「だって、雨が降らなかったから、雨が降って、お花や草やお百姓さんが喜んでいるもの!」と答えた。
また、こんなこともあった。
子供達を旅行に連れて行こうとした時のこと。
一度、新幹線に乗せてやりたかったのだが予算の関係で各駅停車で行くことになった。
園の先生達は、かわいそうにと思いながら子供達にそのことを話したところ、
一人の子供が「そのほうがいいよ。止まらなかったら駅がかわいそうだ。駅を見てあげなかったら、かわいそうだよ。」と、嬉しそうに言ったという。
これを読んだ時、何と優しい心なんだろうと私は深く感動した。

目に見えるものを大切にし自分中心に生きる私達は、目に見えないものを豊かに持った子供達に教えられる。
私達もこの子供達のように感じることによって豊かな心が育まれ、そうして真の豊かな社会が築かれていくのではないだろうか。
心を育てなければならないのは子供だけではない。
私達大人も一生かけて心を育て続けていかねばならないのだ。
posted by 優子 at 12:18| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年01月29日

いつもイエス様といっしょ

       わたしは くずばこ

    わたしは くずばこ
    いやなことや かなしいことが
    とびこんでくる

    わたしは くずばこ
    いっぱいになると イエス様が
    とってくださる

    わたしは くずばこ
    イエス様わすれないくずばこ
    いつもわたしは イエス様のもの

これは、3年生の夏に書きました。
この詩を、教会の人達だけではなく、イエス様を知らない学校の先生や、パパのお仕事のおじちゃんや、いろんな人が、ほめてくださいました。
そんな時、本当にこの詩は、そんなにすごいのかなーと思います。
でも、ほめられたのだから、とってもうれしいです。
わたしの黄色いかさに、緑のマジックで、『わたしはくずばこ』の詩を書いています。
だから、雨の日はいつも、この詩といっしょに歩いています。
もちろん、イエス様とも歩いていますよ!

       (1990年10月発行、放出教会創立40周年記念誌より)

      
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

記念誌寄稿文は次女が小学校4年生の時に書いたものである。
「わたしはくずばこ」は、これに先立つ1989年10月号の『百万人の福音』に掲載され
たもので、「作者は小学校3年生。まさに幼な児のように捉えている明快な信仰の世界を、大人たちも学ばねばならない。」と評して下さった。
あの頃、母の難病や私の股関節の心配ごとなどが前面に立ちはだかり、まさに苦難の始まりだった。
次女はそれらのことを「いやなことやかなしいこと」と表現したのだ。
昨日のことのように思い出される。

しかし、全知全能のまことの神は責任をもって導いてくださり、勝利させて下さったことを
私は大声でお証しする者である。
 
posted by 優子 at 08:40| 掲載文 | 更新情報をチェックする

2006年01月28日

漱石の悲劇

漱石は、いろんなことに膨大な問題意識を持ち、人間を深く洞察した天才であった。
高い倫理性ゆえに罪意識に苦しんだ漱石は、「自己本位」で自己の精神を確立支配しようとして成らず、その対極にある「則天去私」を唱え迷走した。

そして、苦しみぬいた末に「死」か「発狂」か「宗教」しかないと考え、自分の分身である『こころ』の「先生」を自殺させた。死を帰結として選んだ漱石は悲劇である。

漱石は宗教の門をくぐることはなかったものの、宗教もまた人間の限界と基準の枠を超えることはできず、そこに解決は見出せない。

しかし、人は苦しみぬいた時、絶対者なる神と自分との一点に辿り着く。宗教ではなく、問題は神との関係なのである。罪の苦しみが深刻なほど神の救いは現実であるのに、その瀬戸際まで来た漱石が神に背を向けたのはなぜか。

ここで漱石の二面性が私の中で浮上し、漱石は本当に自分自身に正直であったのだろうかということが気にかかる。実はそのことが、漱石を悲劇に至らせたのではあるまいか。

漱石の最期の言葉は、「ああ、苦しい。いま死んじゃ困る。いま死んじゃ困る。」だったという。このことを隠して漱石の虚像を作り上げようとした弟子達は、師の苦悩を解ってはいなかった。私があえて漱石に希望を見出すとすれば、この最期のことばでしかないというのに。

ヘーゲルが、「天才を知る者は天才である。」と言っているように、何事もそれを評価する側にも同等の力が必要である。即ち、自己の醜さに気がつかない傍観者に漱石の苦悩は解らない。

私達は漱石の悲劇に留まっていてはならず、解決を求めてこそ漱石文学が生きるのである。

       (東大阪読書友の会会報 2005年4月発行
              『かわちの』第53号より転載) 

        
毎年4月に発行する『かわちの』の原稿が早々と2通、私の手元に届いている。
私は37号から休まずに寄稿し今回は18回目になるが、そのうち2回は私の代わりに娘達が感想を寄せている。
38号には小学校5年生だった長女が参加した時の感想、「『風の又三郎』を読んで」を、また46号では高校1年生だった次女が参加した漱石作品、「『こころ』を私はこう読んだ」を寄せている。

小学校5年生の3月には次女自身が推薦した『星の王子様』の読書会に参加しており、私は機会を見つけては子供達も読書会にいざなった。

来月の読書会で原稿を提出していただき編集作業に取り掛かるが、それと並行して4月の総会に向け新年度の議案書作りと三役達は忙しい季節を迎える。
さて今回は何を書こうかと今、思い巡らしているところである。
        
posted by 優子 at 07:03| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

真珠貝のように

「この苦しみに耐える時間が、いつか真珠のようになって自分の中で輝く時がくるように
思う」。
祈りの友である文香さんのブログ、昨日の『生かされて』の一節である。

文香さんは今、神の御手の中でその病いを真珠に変えておられるのだ。

貝は異物を入れられて嫌だろう。
痛いだろう。
しかし、貝は吐き出すことをせず、涙を流しながらじっと耐え、
長い時間をかけて異物を美しい真珠に仕上げるのだ。
真珠貝は、「美しいね!」と喜んでもらうためにじっと耐え忍んでいるのだ。

   試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。
   それを忍びとおしたなら、
   神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
           
              (聖書・ヤコブの手紙1章12節)

文香さんの苦しみは、私達にも言い表せない祝福をもたらしてくれることだろう。
私も私の真珠作りに励もう。
地上の生涯を終えて神のみもとに帰る時、最高の真珠を携えていくために。

文香さんが今年になって植えたチューリップも、
きっと今、土の中で芽をふくらませているにちがいない。
春が楽しみだ。


posted by 優子 at 10:08| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年01月26日

チャッピーは讃美歌犬

夫は毎朝6時半頃、自動車で会社に向かう。
私は車を見送りながら、「今日も一日お守りください」と短く祈る。
そして、娘は7時に家を出る。
雨でない限り、私は毎朝チャッピーの散歩を兼ねて駅まで送っていく。
行きは娘と話しながら、帰りはいつも讃美歌を歌う。
「朝からご機嫌ですなあ」と知らない男性に声をかけられたこともある(^-^)。

今朝は小鳩が道の端にうずくまっていた。
怪我でもしているのだろうか。
私はチャッピーを遠ざけながら様子を窺ったがわからなかった。
小鳩の安否を祈りつつ立ち去る時、私の唇に「一羽の雀に」の讃美が溢れた。

 心くじけて思い悩み などて寂しく空を仰ぐ 
 主イエスこそ わがまことの友
 一羽の雀に目を注ぎたもう 主はわれさえも支えたもうなり 
 声高らかに我は歌わん 一羽の雀さえ主は守りたもう

 心静めて御声(みこえ)聞けば 恐れは去りて委ねるをえん
 ただ知らまほし行く手の道
声高らかに我は歌わん 一羽の雀さえ主は守りたもう


チャッピーは黙々と歩いている。
そして、ときどき振り向き私と目を合わせる。
チャッピーほど、いろんな讃美歌を聴いている犬はいないだろう。

posted by 優子 at 10:12| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2006年01月25日

牢獄の彼に伝えたいこと

堀江容疑者は、少年時代から宇宙旅行への夢を持っていたという。
大きな素晴しい夢だ。
この夢を実現させるには確かに莫大なお金が必要だから、小学校4年生の時に「趣味はお金あつめ」と思ったのも不健全であると言い切れないかもしれない。
しかし、なぜ宇宙への知的探究心ではなくお金だったのかなあという思いは残る。

彼はいつしかIT界で世界一になりたいという強い欲求が出てきた。
この辺りから方向がずれて行ったのであろうが、もっと本質的な原因は、それまでに培われてきた心に既に誤りが生じていたのだろうと思う。
少年時代においては、彼自身の責任というよりも身近にいる親や教師、特に親の問題なのであろう。

彼の表情で私が最も注目するのは、昨年の選挙運動中の場面だ。
武部さんや竹中さんの応援演説を傍で聞いている彼が、感極まった表情をする。
私はここに彼の孤独、人生の満たされていない一面を見るのである。

「子ども時代から自己中心的で協調性がなかった」とは、彼を知る周囲の人々の印象だ。
だとすれば、親しい交わりもなかった武部・竹中両氏による応援演説とはいえ、他の立候補者が感ずる以上に何かが彼の心の琴線に触れたのではないだろうか。
きっと本人も無意識だったであろう。
無意識だけれども、彼は直観的に満たされる思いがしたのだ。
自分でも肯定できない自分であることを彼自身が知るとも知らずとも、その自分を認めてくれる応援演説が彼の魂に触れたのだ。

神さまは語っておられる。

    「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
     わたしはあなたを愛している。」     
と。

私は独居房の彼に伝えたい。

    「主(神)は、心の砕けた者に近く、
     たましいの悔いくずおれた者を救われる。」
と。

これを機に、人生の大転換をはかられんことを切に祈っている。





       


posted by 優子 at 17:46| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

『ナルニア国物語』全国超拡大ロードショーを前に!

何でもありの『優子の部屋』に掲示板が登場しました。
第1回目は、この3月4日(土)に封切りされる映画
      『ナルニア国物語・第1章 ライオンと魔女』の御案内です。
 
「なあんだ」とガッカリしないで!
どこででも目にするような御案内ではないんです。
この作品に隠された意味、作者が本当に伝えたかったことをお伝えしたいのです。
まずは「いのちのことば社」のトラクトから御紹介しましょう。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ナルニア国物語」は、20世紀を代表する英国作家C・S・ルイスの著作で、全7巻から
なるファンタジーシリーズである。
今回公開される第1章「ライオンと魔女」は、第2次世界大戦下のイギリスが舞台。
戦火を逃れて田舎に住むカーク教授に預けられる4人の子供たちが主人公。
末のルーシーが衣装箪笥に入り込むと、そこは雪に覆われた冷たい世界。

かつては偉大な王「アスラン」が作ったすばらしい国。
しかし今は美しく冷酷な「白い魔女」に支配され寒い冬の世界になっていた。
一年中が冬になっている。しかしクリスマスは全く来ない。

また、4人の子供たちの一人、エドマンドは魔女のお菓子を食べてしまい、魔女の言い
なりになってしまう。あのエバの誘惑を連想する。
聖書を読んだことがある人ならば、この「アスラン」が誰を表しているかは既にお気づきだろう。アスランが石舞台で殺されていくシーンは、ゲッセマネの園から十字架のイエス、そう、あの映画「パッション」の意味、「犠牲の愛」、「身代わりの死」の意味が表されている。
ストーリーに出てくる「石舞台」は「ゴルゴダの丘」のことかと、聖書の世界に置き換えて
観るのも興味深い。

C・S・ルイスは『悪魔の手紙』、『キリスト教の精髄』などの著作があることからわかるように「クリスチャン作家」である。
「魔女」と聞いて連想する「ハリーポッター」とは全く違い、この作品にはキリストの香りが漂い、イエスの愛を伝える役割を十分果たしている作品である。
          
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、映画のご案内でした。
なお、予告編は www.gospeltv.jp で観ることができます。
         
ルイスはオックスフォード大学、後にケンブリッジ大学の教授でした。
講義、著作、講演など多忙な日々にあって、同居していた戦友の気難しい病身の母親のお世話、蒔き割りから犬の世話まで目の回る生活でした。
ルイスには子供はいませんが、そんな多忙な中にあって、『ナルニア国』の感想を書き送ってくる子供たち全てに丁寧に返事を書きました。
息を引き取る朝にも書いていたのです。

『優子の部屋』18日の記事、読書会テキスト選出の時に『博士の愛した数式』を推薦して下さった方が、この『ナルニア国物語・ライオンと魔女』も挙げておられました。
映画が封切られたら、是非、劇場へお出かけくださいね!

ルイスの『子どもたちへの手紙』も、遠い日々、幼かった娘たちに読み聞かせた本です。
posted by 優子 at 12:14| ご案内 | 更新情報をチェックする

2006年01月24日

神は近くに居られる

昨年末から大きな出来事があとを絶たず、落ち着いて書物を読めない日々が続いている。
昨日の記事に書いた彼は、その夜、逮捕されたという。
たった今まで勝者の象徴とされる六本木ヒルズにいた彼が、三畳独居房の人になった。
今は目立つのが権力であるかのような時代だ。
彼は神になれると錯覚したのかもしれない。

三浦綾子がこんなことを書いている。

「人生の危機は、実は喜びの時にこそあるのではないだろうか。
 順境の時にこそあるのではないか。
 喜びで浮き立っている時こそ、神の導きを願わねばならない。
 どうか、自分の努力、自分の才能をのみ数える事がありませんように。
 心を静めて、(神の)御前に深い感謝を捧げ得ますように、私の心をお導きください。」


常に私の心にとめている言葉である。
試練の時は、やはり心の姿勢は低くされるであろうから、物事がうまく運んでいる時
こそ謙虚さを忘れないでいたいと思う。

彼も今は混乱しているだろうが、最悪な時こそ神は近くに居られるのだ。
過去を見据え、そこから何を学ばねばならぬのか。
神を知らない人でも、自分自身に正直であれば必ず道は開かれていくのだ。
挫折、絶望の中にある彼が、悩むべきことを悩むことができますように。
そして、立ち上がる勇気が与えられますように!
人間の終止符は神の始まりだ。
今こそ、祝福された人生への転換期到来でもあるのだ!

「主(神)は言われる、・・・・
 たといあなたがたの罪は緋のようであっても、
 雪のように白くなるのだ。」
              
(聖書・イザヤ書第1章16節)

神の導きによって私達の生涯も築き上げられていくように祈ろう。

posted by 優子 at 15:01| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年01月23日

私の教育観

今日は静まれる時間がたっぷりあったので、もう一つ、思いの一端を刻んでおこうと思う。
先週から全国に激震が走ったライブドア問題である。
I T 関連のことや株式のことはよく理解できないのであるが、
私の関心は、堀江さんの考え方である。

最近の彼が語ったところによれば、
「夢を実現させるためにはお金が必要だ。夢を叶えられる最も必要なものはお金だ。・・・
『大切なものは金では買えない』というが、それは本質論ではない。」と言うのだ。

私は唖然とした。
では、彼の「夢」とは何なんだろう。
「夢」の概念論から議論されねばならない。
これでは、優秀な知能を与えられていても、あまりに悲惨ではないか!

日本では、教育学ほど立ち遅れているものはないと言われて久しい。
「親はなくても子は育つ」と言われたのは遥か昔のことで、今や、それではとても子供は
育てられない。
我が子はしっかり自分が育てるのだという自覚がなければ、子供の健全な人格成長
は難く、それでさえ問題は多難なのだ。
精神分析学や各種の心理治療の事例研究からも明らかなように、親と子、子どもと
学校、親と教師の関係はとても重要である。

今、子供達に起こっていることは、学力と経験の落差・人格形成の分離なのだ。
いささか旧聞に属するが、センター試験は良くできても、自分でテーマを選んでレポート
を書けと言われれば、手も足も出ないのが日本の学生であり、それが今もなされいている日本の教育である。
国立大学を卒業した者でも、会社に入れば使いものにならない人も珍しくないとは
よく聞いた話である。

「人生は競争の連続だ」という人生観を持つ高学歴、事業家・・・の両親は、競争中心の教育観で子育てをする。当然のこととして、子どもの性格形成に問題が生じてくる。
劣等感・無気力・希望喪失・孤独・孤立感という心理状態になり、仮に優秀な知能が与えられていても、これでは最大限に発揮できない。

現代の心理学では、つまるところ「心」とは経験により形成されていくのであり、家族との係わり合いの中で作り上げられたものの現れであると考えられている。
ということは逆説的に言えば、いかに家族のあり方、子どもを養育する親の生き方が大切であるかを痛感するのである。

人は皆、自己実現の衝動を持っている。
そして、人は愛され、理解された時に初めて自己実現欲求が出てくるのだ。
精神分析ではそのような考え方はしないが、私はそのように確信している。

このことからも私の教育観は、
知能を展開させていくのは心であり、心を豊かにすることが最重要事項であるという一点に尽きる。
自分の頭で考え、自分の気持ちや考えを表現できる人間に育てたいものである。
もはや社会全体が正常とは言えない状態に陥っていると言わざるをえない。

「ホリエモン」とおもしろおかしく言っておられない状況を呈している報道から、15年ぶりに教育について熱く語ってしまった。
posted by 優子 at 17:37| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

全てのものにまさりて汝の心を守れ

昨日は夫が風邪のため長女と二人で教会へ行った。
南大阪福音教会には、ブランチ教会である香芝ゴスペルチャーチがある。
関屋駅から2駅隣りの下田駅、コジマ近くにある緑色の屋根のかわいい教会だ。

香芝ゴスペルの朝の礼拝は驚くことなかれ、南大阪本会堂からのインターネット同時中継礼拝であり、この他、千葉県野田市の梅郷(うめさと)チャペルと、奈良県天理市の天理クリスチャンセンターでも行われている。
私達は、3時からの伝道師による礼拝の恵みに与った。

 「あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって
  守りなさい。」
                      

(聖書・テモテ第2の手紙1章14節)

師はこの御言葉(みことば)から奨励され、箴言からも引用された。

 「油断することなく、あなたの心を守れ、
  命の泉は、これから流れ出るからである。」
                   
   (聖書・箴言4章・23節)

連日、テレビや新聞で報道されている耐震偽造建築問題は最悪な状況だが、
もっと最悪なことにならないために、今ここで、当事者達が真剣に受け止めることができるように祈っている。
彼らは皆、責任は他者にあり自分にはないと訴えているが、彼らは本当に自分の行為が正しかったと思っているのだろうか。
やってしまった事に対して、どんなに尽くしても償いきれるものではなくとも、
彼らは今、自分の生涯が有益であったかどうかを決定する死線に立っているのだ。

姉歯元建築士は自分の弱さから大変なことをしてしまった。
しかし、そのことに気がつき勇気をもって証言したことは幸いである。
深い悔い改めに導かれるように祈らされている。

当事者たちよ、これ以上問題を複雑にしないでほしい。
何よりも自分自身のために!

上記の箴言の言葉は、文語訳聖書では次のように書いてある。

 「すべての操守(まも)るべきものよりもまさりて汝の心を守れ。」

これは私が常に心に留めている御言葉の一つであり、日々実感していることである。
posted by 優子 at 11:13| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2006年01月20日

健康で成熟した人格とは  

 A rose is a rose is a rose.
         バラはバラであるところのバラである
 
 即ち、「バラの花は、バラらしさがいっぱいある時にバラの花として価値があり
美しい」という意味です。

 例えば、赤いバラならば赤いバラの花らしく、満開の時だけではなく蕾の時も、
花が枯れて枝と棘だけのバラであっても、造花ではない本物ならば存在価値があり
美しいという意味なのです。

 この「バラの花」のところに、あなたの名前を入れて言ってみて下さい。
 現在のあなたは、あなたらしく生きておられますか?
 
 「・・・であるべきだ」とか「・・・せねばならない」という建前と、「・・・したい」
とか「本当のところはこうなんだ」という本音がバラバラになっていませんか?

 本心を見せず、自分を押し殺すことが美徳であるような日本文化。
 また、人にはそれぞれ特色があるのに、それがハンディキャップになりやすい日本社会にあって、自分らしく生きるのは難しく大きなテーマです。

 しかし、造花のような人間ではなく、それぞれの成長段階において自分らしさを持つ。
 自分は何を求め、そのためにどう生きるのかを常に考えながら生きていきたいと思います。

 私は他の誰でもないユニークな私らしさをいっぱい身に付けた時、成熟した人格の
持ち主と言えるのです。

     (東大阪市立藤戸小学校PTA広報委員会 1991年10月24日発行
                          ふじとニュースNO.13より転載)

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 私は長女の中学校入学と同時に、臨床心理学を2年間学んだ。
 受講者は私のような専業主婦よりも、教師、保健士、医師、また、会社から義務付けられてなど、社会で活躍している人たちが多かった。
 上記の記事は、その学びで感動したことをお分かちしたものである。

 正直のところ、私は臨床心理士になるつもりはなかったが、基礎講座とアドバンスコースを終えて学科試験を受けようと勉強をやり始めた時に、難病に侵されていた母の限界を感じ断念した。
 しかし2年間の学びは、母に活かすことができたし、後半の子育てにも役立てる事ができた。そして何よりも私にとっては、人間を理解する視野が広げられたことに意味があった。
 
 この記事は、次女が小学校5年生の時にPTAの広報委員長をさせて頂いた時のペン活動である。
 前年に副委員長を経験させて頂いたのだが、カウンセリングの学びに時間が取られるので委員長をお受けするのは難しく、この時、夫が委員長をお受けして実行委員会や広報委員会に出てもらい、私は執筆担当ということでお受けした。

 この『ふじとニュース』は、学期末に配布されるりっぱな正規の新聞とは別に、前年に立ち上げた手書きのものである。春の総会のあと5月半ばから、夏・冬休み期間を除く翌春3月の卒業式までの8ヶ月間に40号(枚)発行した。
 
 あの頃は燃えていたなあ・・・と遠い日々が懐かしい。
 しかし、私は主(イエス・キリスト)を見上げて、再び励もう。

      「手をすき(鋤)にかけてから、うしろを見る者は、
                 神の国にふさわしくないものである。」
      
           (聖書・ルカによる福音書9章62節)
 




 
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2006年01月19日

一粒の麦、豊かな実を結ぶ

     真理は寒梅の似(ごと)し
     敢えて風雪を侵して開く
 

同志社を創設した新島襄の言葉である。
私も師に倣う者でありたいと願い、新島自筆のものを我が家の壁に掛けている。

1989年8月に日本クリスチャンペンクラブから出版された「あかし新書第13篇」の
『日本キリスト教史の人物像』に、私は新島襄を取り挙げた。
ここに、一部訂正加筆したものをお読み頂きたいと思う。
  
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       一粒の麦、地に落ちて

「良心を手腕に運用する人物を養成すべきこと」。そのためには私学でなければならぬという信念で、新島襄は同志社を創立した。
1875年のことである。

新島は生徒を丁重に扱い、小使いさんに「五平さん」と敬称で呼んでおられた話は有名
である。120年前の日本で、身分の上下にかかわらず誰に対しても同一の言葉遣いを
されたということは、非常な信念がなければ実行できなかったことであろう。
新島にとっては、全ての人が同じ神の子なのである。

「一つの新島が死んでもあとには百の新島が出る」を口癖に、良心の全身に充満せる
人物を輩出せんがためには伝道しかないと、伝道一筋に歩む生涯であった。

今日、教育が困難になっているのは、真の意味で子どもを大切にせず、方向が間違っ
ているからである。それゆえにキリスト教主義の私立校は機械的に流れず、あらためて
校祖の遺訓を心に刻み、熱情のバトンを受け継がねばならない。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨年、創立130周年を迎えた同志社は、この4月から小学校を開校する。
長い年月を経ていよいよ新島襄の念願であった夢が実現するが、
校祖の願いが真に実現されるように、母校の発展を見守り祈リ続けたい。
posted by 優子 at 10:23| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

読書会の次年度テキスト決定

昨日の読書会で2006年度のテキストが選出された。
16日に引き続いて読書会のPRをこめて御紹介したい。

「東大阪読書友の会」は、事務局を花園図書館においている。全国的にも有名な花園ラグビー場の隣りにある。
草創期は永和図書館で開いていたが、20年前から現在の大阪商大に場所を移した。
花園図書館が新設されてから図書館で開くことも議論されたが、
最寄の駅から遠いことや
大阪商業大学との関係から今後も変わらないであろうと思われる。

会に対して市から毎年45000円の助成金を頂き、年会費一人2000円を徴収して運営
している。
ところが、市も苦しい財政上、ここ2年前より助成金は毎年減額され、次年度もまた1割
カットと昨秋に連絡があった。
というわけで余裕のない経済で運営しているが、図書館が毎月のテキストを10冊ずつ
購入してくださっているので大変ありがたい。
活動は、毎月第3火曜日の1時から4時までで実に有意義で楽しい時間である。

さて、毎年1月は商大近くのホテルで会費3000円の新年会を楽しみ、席を移動して
午後2時ごろから定例会を持っている。

1月の会では、この4月から読む本をみんなで出し合って合議の上で決めていくの
だが、決め方が面白くて笑ってしまう。
まず何よりも1月にテキスト無しというのは、この10年ほど前からのこと。
殆どが女性会員ということから、年末年始は忙しくてゆっくり本は読めないというのが
理由だ。
「揃えやすい本は年度初めに」を念頭に置き、本の内容にふさわしい季節を頭に入れながら、12月は忙しいから短いものを・・と進めていく。
今回最も悩ませたのが『ワイルドスワン』で、分厚い上下2冊の長編だから上下を2ヶ月
に分けて読もうか・・・と決まりかけたところ、
「1月はテキスト無しだから2月ならどう?」と良い案が出されて即決。
そして、以下のように決まった。

 4月 あかね空     山本一力著      文春文庫
 5月 対岸の彼女    角田光代著      文芸春秋
 6月 負けてたまるか(大阪蘭学の創始者・橋本宗吉伝) 柳田昭著 関西書院
 7月 朱夏       宮尾登美子著     新潮文庫
 8月 この国のかたち(その5)司馬遼太郎著  文芸春秋
 9月 不如帰      徳富蘆花著      岩波文庫
 10月 おごそかな渇き  山本周五郎著     新潮文庫
 11月 西部戦線異状なし レマルク著      新潮文庫
 12月 手毬       瀬戸内寂聴著     新潮社
 2月  ワイルドスワン  ユン・チアン著    講談社文庫
 3月  博士の愛した数式 小川洋子著      新潮文庫

毎月の例会以外に年に1度、40年以上前から豊中の「とよ読書会」と読書交歓会が
続けられている。
毎年、東大阪(花園図書館)と豊中(岡町図書館)と場所を交代して開いており、
今度はこちらにお招きする番である。

私は、山本周五郎の『おごそかな渇き』を推薦し、
昨年の夏にお出会いした梅花女子大学の教授(国文学者)のことをお話したら、
交歓読書会の時に周五郎を取り上げて、先生を講師にお招きしようと仰ってくださり
大感激!

しっかり読まなくては!
まだ読んだこともない本を推薦するなんて!
今年も楽しくなりそう。

 ☆ご関心のある方は、是非一度、読書会を覗きにいらしてくださいね。大歓迎です。☆
 
posted by 優子 at 12:32| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

最上の生き方

今日は民生委員の初出だった。
3つに分かれている香芝市全地域合同の定例会が開かれ、
そのあとは信貴山にある料亭で新年会があった。
この仕事をお受けして2年目になるが、緊張していた去年とは違って
今回は楽しい時間を持たせて頂き、9時ごろ帰宅した。

夫と娘(娘は父親の会社に勤務)も今夜は新年会だったので、
夕食の準備をせずに外出できたのはラッキー!
しかし、私の方が先に帰宅したのはアンラッキー!
理由はチャッピーだ。
私は玄関にバッグを置きチャッピーのリードを手に持ち替えて、チャーと夜の散歩に
出かけた。

さて、定例会では地域型在宅介護支援センターの人たちによる
認知症予防啓発人形劇を見せて頂いた。
認知症は病気であり、我々が経験している物忘れや度忘れとは違って、体験したことを全て忘れてしまうということだが、少々心配な私でもある。

しかし、笑うことでベータエンドルフィンという脳内ホルモンが出て予防できるというのだ。
おしゃべりしたり散歩道を変えてみるなど、こんな小さなことでもいいから
新しいことにチャレンジすることが大変にいいらしい。

確かに、予防は大切だと思う。
しかし、全て" How to"で、生き方まで”How to"か・・・と、少々ガッカリして聴いていた。
そして私は、「最上のわざ」という詩を思い出していた。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・
     
        最上のわざ
 
 この世の最上のわざは何?
 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み
 しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
 従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、
 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
 弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。

 老いの重荷は神の賜物。
 古びた心に、これで最後の磨きをかける。
 まことのふるさとへ行くために。

 おのれをこの世につなぐ鎖を
 少しずつはずしていくのは まことにえらい仕事。
 こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。

 神は最後に一番良い仕事を残してくださる。
 それは祈りだ。
 手は何もできない。
 けれども最後まで合掌できる。
 
 愛する全ての人の上に、神の恵みを求めるために。
 全てを成し終えたら 臨終の床に神の声を聴くだろう。
「来よ、我が友よ。われ汝を見捨てじ」と。
     

・・・・・・・・・・・・・・・・

痴呆にならないことも、健康で長生きすることも素晴しいことだ。
しかし、それが目的になってはいないだろうか。
健康の奴隷にならないで
神から与えられている今をいかに生きていくのか。
生きる目的と意味を忘れないで生きていきたいと思った。

posted by 優子 at 22:22| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年01月11日

幸いなる家庭集会「オリーブの会」

当地に移って3年目に入ったの2002年4月から、Oさんをリーダーに3人で祈りつつ我が家を開放して家庭集会をもたせていただいている。

この会は聖書を読んだことのない方を対象に、それぞれの人生経験を通して感じたことを自由に語り合いながら読み進めていく「聖書を読む会」である。
メンバーはだいたい5〜6名、8月は休会させていただいているが、皆さんの日程の調整がつかないこともままあり今回は24回目である。

今日の箇所は、マルコによる福音書4章35節〜41節で、概要は次の通りである。

夕方、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われ、船を漕ぎ出した。すると激しい突風が起こり、船は転覆の危機に遭遇した。
そんな中にあっても眠っておられるイエスに弟子達が、
「先生(イエス・キリストのこと)、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
イエスは起き上がって風と海を静められ、
「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」と弟子達に言われた。
弟子達は、風も海も従わせるこの方は誰だろうと恐れおののくのであった。

今までの人生を振り返り、神様はなぜ黙っておられるのかと思うような苦しい時はどんな時であっただろうか。
それぞれの経験を語り合った。

天と地を創られ、全知全能で自然をも支配されている神であるならば、何故、世界中でこんな悲惨な事が起こっているのかという問いかけもあった。
これは誰もが感じることであり、神についても話し合った。

さて人生を船に喩えれば、まさに嵐の中を通って行く船である。
そして、人生の嵐をどのように受け止め、どのように越えて行けばいいのか。
人生という船の中に、イエスさまを迎え入れて生きていくならば嵐の中でも進んでいけることも分かち合った。

次回は、2月15日(水)。
大阪や東大阪から当駅11時着の電車で来てくださる方々の関係から、始まるのは11時15分頃である。
昼食はいつも1時半頃からになり、4時ごろまで楽しい交わりが続く。

月に一度、日常から解放されて神の前に心を静め、自分自身を振り返る時を持つことは何と幸いなことであろう。

 ☆☆☆関心のある方は、是非ご一報下さいね。☆☆☆

♪♪新しい年の門出にあたり、この一年が祝福多き年でありますように!♪♪
posted by 優子 at 18:48| オリーブの会 | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

Wake up my glory!

「ブログ」をやり始めて1週間になる。
早々にコメントを頂いた時の驚きと嬉しさは、すっかり忘れていた感情だった。
その中のお一人ヒロシさんは、
「私のようなズボラ人間には到底真似のできないことなので・・・」と書いて下さって
いるのだが、私にはピンとこなくてブログが何なのかちっとも分かっていなかった。

しかし、直ぐにその意味は分かった。
と同時に強迫観念に悩まされかけ、傍に居る長女から何度も注意を受けた。
しかし幸いにして、その悩みも一日だけで解消された。
毎日書こうと思わないで、かつての家族新聞やPTA広報のように不定期に書いていこう
と思っている。

ここ数年というもの筆が重く、書きたいのに書けないという状況が続いている。
ペン活動が停滞状態だった私にとって
この「ブログ」を通して短時間で書く訓練をしようと思っている。

そもそも感動の伴わない経験は書けないのだ。
感動も問題意識も乏しかった近年、書けないのは当然で、
生きる姿勢に関係していたことを再確認した。

私の文学活動(精神)の起点にしているワーズワースの詩を思い出し、
今、感覚も取り戻したようである。
この一週間は、文筆活動復帰のリハビリ期間であった。

          
    
       空に虹を見る時 私の胸は跳び上がる
       私の生が始まった時もそうだったし
         私が大人となった今もそうだ
       私が老年になった時もそうあれかし
      さもなければ、私を死なしめたまえ
     子供は大人の父だ
     そして、私は私の生涯の1日1日が
   おのずからなる敬虔によって
         結び付けられるようにしたいものだ
posted by 優子 at 12:16| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年01月09日

ただ神による慰め

人生で、我が子に先立たれることほど深い悲しみはないであろう。
昨年末に少し早い一周忌の法要をされた方がおられる。
突然に愛娘を亡くされたご両親の悲しみ、痛みは到底経験した者でしかわからない。
ただ神によってのみ慰められる悲しみであろう。
その人が神を信じているかいないか、クリスチャンかノンクリスチャンかは問題ではない。

     よろこびが集まったよりも 
      悲しみが集まった方が 
     しあわせに近いような気がする

     強いものが集まったよりも 
      弱いものが集まった方が 
     真実に近いような気がする

     しあわせが集まったよりも
      不幸せが集まった方が
     愛に近いような気がする
 

年始に届くように、この星野富弘さんの詩画に寄せて神様の慰めをお届けしたところ、
今日、明るいお声でお電話があった。
「私も全くこのように感じているんです。とても心丈夫になりました」と何度も何度も
仰った。
どうかこのご夫妻の上に神様の豊かな慰めがありますように。
                
posted by 優子 at 15:21| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年01月08日

過去には感謝、現在は勝利、未来には希望!

今年の元旦礼拝は、珍しく聖日礼拝(日曜日)と重なった。
第2聖日の今日は、近隣の知人を私の母教会である放出教会へお連れした。
今朝のメッセージは、現在、名誉牧師となっておられる小山恒雄牧師で、
私に洗礼を授けて下さった懐かしい先生である。

私たち家族が初めて教会の門をくぐったのは、1986年のイースター(復活祭)の日。
ちょうど20年前の3月、長女は小学校2年生、次女は幼稚園年中組だった。

その頃、私は身近にいるある人のことで深く悩んでいた。
その人は、両親や私にひどいことばかりした。
私はその人を憎み、心はその人に縛られた。
しかしそのことが、最も大切な私の心の眼を開く道に導いてくれた。
以来、自己認識の深まりと共に神の愛を深く知る者と変えられ、
「過去には感謝、現在は勝利、未来には希望!」と大きな声で神を讃美する日々である。
これも全て神の賜物である。

森有正は書いている。
「僕は墓の土を見ながら、僕もいつかは必ずここに入るのだということを感じた。
 そしてその日まで、ここに入るために決定的に帰って来る日まで、
 ここから歩いて行こうと思った」。

そして1976年、パリにて65歳の生涯を終えて彼は墓に戻って来た。

私にも必ず来る人生最期の時を厳粛に考えさせられている。
人生で最も大切なものは、「時」ではないだろうか。
人生の目的がわからなかった頃は、有り余る時間があっても活かすことができなかった。
既に54歳になり、残り少なくなってきた時間を思うと焦りを感じる時もあるが、
私に与えてくださった賜物を十分に活用されるように祈りつつ生きていきたいと思う。



posted by 優子 at 20:19| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2006年01月07日

母と娘の手紙

「1日1日、喜びを感じながら生きることができますように。
楽しみを期待して、1日1日がただ過ぎてゆくことのみを望むとか、
いつか来る日にのみ期待をかけるなどというのはいけません。
年をとるにつれて、現在のこの瞬間を楽しむことを知るとは、
恩寵にもくらべることができる神の賜物だということをつくづく感じます」。
 

これは、キュリー夫人が娘イレーヌに送った手紙の1節である。
母と娘の往復書簡は30年間続けられ、400通もの手紙が書かれ,
手紙の中で母と娘は、いろんな事を語り合った。
そして、手紙のやり取りが終る頃、イレーヌは手紙を書き始めた頃の母の年齢に達していた。
 
次女と離れて暮らし始めた半年後、長女が私にパソコンを教えてくれた。
以来、私たちもマリーとイレーヌのように、多くのことを語り合っている。
ただ違うのは、直ぐに想いを届けてくれるメールによって。

今日は次女にマリー・キュリーの言葉を贈ろう。

「あなたは私の素晴しいお友達、
 あなたは私に人生を生きやすく楽しくしてくれます。
 どんなに感謝しているかわかりません。・・・・・
 あなたの微笑や、いつも楽しそうな顔を思い浮かべると
 仕事に立ち向かう勇気が湧いてきます」。


勿論、傍にいる長女にも同じ言葉を贈ろう。
ありがとう。
今日も良い一日を!
 
 
posted by 優子 at 08:14| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年01月05日

驚くべき文明の利器でチャッピーを紹介!

メル友に「ブログ」の開設をお知らせすると早速覗いて下さり、改めて「ブログ」を実感。
新しいことに挑戦するのが苦手な私が、時代の流れに乗って「ブログ」をやっているなんて笑ってしまう。変な気分、信じられない。いつも上手に私を臆させずに導き、着手させてくれる次女に感謝。

実は「ブログ」以上に私を驚かせたのは「スカイプ」だ。音声チャット、パソコン電話である。しかも電話代は無料というからびっくり仰天だ。
娘なんかシカゴへ2時間半もしゃべっているというから、私の驚きを何と喩えよう。まるで江戸時代の人が現代に連れてこられたような驚きである。
これからは私も電話代を気にせずに娘と話せるのだ(^0^)!!!

昨日、我がブログにデビューしたチャッピーは、1999年5月に神戸で生まれた6歳の雌。国際公認血統書つきだ。
生後3ヶ月が過ぎているのに売れ残っていたチャッピー。何度も価格ダウンされても最後まで売れ残っていたチャッピーが我が家へ来たのは同年8月半ばだった。

私はチャッピーが「血統書つき」であることも知らなかったし、そんなことに関心も無いが、犬は人間と違って肩書きなんかで誇ることもない。私はそこに感動し、教えられるのだ。

ところで、柴犬は日本犬として数年前に天然記念物に指定された。
私が天然記念物と生活しているなんて!
チャッピー、今年も一緒に歩こうね。
posted by 優子 at 09:36| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2006年01月04日

今年は戌年

我が家の柴犬チャッピーを紹介します!

chappy.JPG

チャッピーの写真を消してしまって、やり方がわからない。
posted by 優子 at 22:28| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする