2006年04月30日

「荒城の月」がベルギーの讃美歌になっていた!

カトリック教会であるがベルギーでは、滝廉太郎の「荒城の月」が讃美歌になっていた!
礼拝(カトリックでは「ミサ」と言われている)のクライマックスに歌われる讃美歌にこの曲が使われていたのだ。私の驚きはそれだけではなく、滝廉太郎がクリスチャンであったということだ!

教会で用いられるようになったいきさつは、「荒城の月」を聴いた司祭が
「この曲は口で表現することのできないような静けさが堂にみなぎり、深い沈黙にいざなう静けさを感じた」と深く感動されたからだ。
しかもこの曲は、廉太郎が「洗礼を受けたいなあ」と思っていた頃に作曲されたものであったというから、私の驚きはいかばかりであろう。
だから私の魂にも届いたのだ!
旋律が美しいだけでは人の魂を捕らえない。そこにある神への信仰が我々の魂を捕らえるのだ。

母が亡くなった時、私は思いっきり泣きたいのに泣くこともできず、悲しみに悲しむこともできないほどの深い悲嘆にあった。
夜も1時間半ごとに目が覚め、短く途切れた浅い眠りの中で何度も何度も母の臨終と葬儀の夢を見た。夢では実際とは違った情景であるが、何度も何度も母の死が繰り返された。

そのような深い悲嘆の中にある私を慰めたものがこの曲だった。誰もいない一人の時に聴いていた「荒城の月」が号泣させてくれた。

今朝の『ライフライン』(☆過去ブログ2月12日に掲載、カテゴリーの「掲示板」をクリックして下さい)では、英文学者の大塚野百合さんの篤い信仰と今も衰えぬ情熱を通して神さまからのメッセージが語られた。

続いて、クリスチャンでない人も一度は耳にしたことがあるであろう讃美歌、「いつくしみ深き」が作られたいきさつを原文を通して作者の深い信仰を解説して下さった。

婚約者が亡くなるという悲しみからカナダのオンタリオ湖へ移った作者は、社会奉仕の務めに励む生活を送っていた。そして再び結婚へと導かれたが、明日は結婚式という時に婚約者が湖で水死した。

この讃美歌は、故国にいる母を慰めるために書かれた
話は周知の通りであるが、英文学を専門とされる大塚師は原文からも、師の篤い信仰に根ざしたところの深い感性からほとばしるメッセージをされた。

その前に、讃美歌312番「いつくしみ深き」の歌詞をご紹介しよう。
   
     いつくしみ深き 友なるイエスは、
     罪とが憂いを  とり去りたもう。
     こころの嘆きを 包まず述べて、
     などかは下ろさぬ 負える重荷を。


原文は次の通りである。
     
     What a friend we have in Jesus,
     all our sins and griefs to bear!
     What a privilege to carry
     everything to God in prayer!
     O what peace we often forfeit,
     O what
needless pain we bear,
     all because
we do not carry
     everything to God in praye


作者が”needless pain ”と書いているのは、
「私達が自分の持っている苦しみをそのまま神に訴えないから、不必要な苦しみや悲しみを感じる(背負い込んでいる)のだという深い思いが込められてあり、そのために何という平安を取り逃がしていることだろうか」というのだ。

”we do not carry everything to God in praye”とあるように、
「全てのことを祈りで神に訴えるということをしないから、受けるべき平安を受け損なっている」のだと。
作者からほとばしる信条の発露である。

そして、大塚師は言われた。
人間は自分の本当の苦しみを神に心を開いて訴えることができないという心の病いを持ち、本当の苦しみを意識の底に秘めている。ちょっとした辛いことは人に話すが、本当の辛いことは隠し押さえ込むと。
クリスチャンになって神に祈る時もそうだ。本当の辛さは神さまに訴えない。

「などかは下ろさぬ負える重荷を」とは「なぜ下ろさないのか、負っている重荷を」という意味なのだ。

私達の心の叫びを聴いて下さる神さまがおられ、私やあなたの負っている重荷を下ろす場所がある。
イエスさまは今、あなたを招いておられるのだ。

   すべて重荷を負うて苦労している者は、
   わたしのもとにきなさい。
   あなたがたを休ませてあげよう。
    
             
             (マタイによる福音書 11章28節)



posted by 優子 at 09:21| 音楽・芸術 | 更新情報をチェックする

2006年04月27日

実現した夢

中学・高校時代にこのくらい頑張っていればかなりのものになっていたと確信できるほど、猛烈な1週間を過ごした。
朝の家事を済まし朝食を食べるのも返上して、8時過ぎからパソコンを開き気がつけば午後2時。
そして、朝昼兼用の食事のあと夕方まで家事をして、また4時ごろから6時半頃までの時間と夜も2〜3時間くらいやっていたから、この1週間の睡眠時間は4〜5時間だった。
『リア王』の執筆中どころではなかった。
今週に入ってから、まぶたは腫れぼったく背中も痛く過労気味である。

実は、次女の結婚式の引き出物に入れる冊子を書いていたのだ。
子供が結婚する時には、幼かった頃からの思い出を凝縮して1冊の本にし、引き出物に入れたいというのが私の見果てぬ夢だった。
そのくせ何も書きためてもいない上に、一気にやってきた娘達の結婚である。
最初のうちは諦めきれずためらっていたが結局諦めることにしたのだった。

しかし、先週の19日(水)のこと!

一度は諦めてしまっていたのに、やはり実現させたいという全く突然の衝動を感じたのだ。
急な結婚で日が無い上に、既に1ヶ月半も浪費してしまっている。
早速19日の夕刻に印刷業を営む兄に電話し、今日27日に原稿を渡すことを約束したのだった。
22・23日は何もできなかったので、正味5日間の仕事だった。
このブログからも引用した30ページの小さな物だが、時間的な制限の中で最高のものができたと神さまに感謝している。

今朝のこと、とりあえず夫に添付ファイルで送信していたことで無に帰さなかったが、そのあとから表紙の文字を打っていた時に操作ミスをして全て消してしまったのだ。
というよりも未だにパソコンの使い方がわかっていないのだ。
フロッピーのも、デスクトップにショートカットで置いていたものも全て真っ白になってしまい、動転し意気消沈した。
しばらくしてから長女の携帯にメールを入れることに気がつき、会社に着いたら直ぐにメールチェックするように頼んだ。

8時15分、電話をした。
あった!
「今、印刷しているところ」と言われて、私は安心して会社に向かえた。
10時に美濃紙業(夫の会社)で兄と打ち合わせをすることになっており、すぐさま東大阪へ向かったのであった。

魂がスパークし、猛烈なパワーが溢れ出た1週間だった。
人間の情熱や才知は個々の魂がもたらすものに違いなく、しかもそこには神が介入されていることが明確にわかった。
そして、自分の可能性にさえ自分で限界はつけられないと思ったことだった。
すべて何事も情熱こそ決め手だ!
私は生きることへの情熱が溢れている。
神さまからの喜びで心が満たされていることを、どのように感謝すればいいのだろう。
ハレルヤ!


一息ついたら、次は長女のに取り掛からなくてはならない。
主よ、私もまた健康を支えて下さり、集中力を発揮させてくださいますように。
posted by 優子 at 23:29| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年04月26日

ガラスの靴は幸せか?

昨日の記事に関連して、『子供の指やかかとを切らないで!』と題する掲載文を更新して転載させて頂きたいと思う。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

衝撃的な見出しで驚かせてしまいましたが、昼も夜もいつも汚れた姿をしていたので「シンデレラ(灰かぶり)」と呼ばれていた昔話は、日本でもよく知られています。
しかし、継母が実の娘達の親指やかかとを切ってまで、どちらか一人を王子さまのおきさきにしようとした話はあまり知られていないようです。
この翻訳本は心理学的にたいへん興味深いものですが、母親として我が子の教育についても深く考えさせられました。

日本では、テストの点数や偏差値でしか生徒を評価しないような教育が現状です(1990年頃のこと)。親や教師はこれではいけないと悩みつつも、社会全体の流れに添っていかざるを得ないのでしょうか。
子供達の心は病み、大人になってからも精神的葛藤に苦しみ、あらゆるところで病理現象が生じています。

私は今、自分自身に問いかけながらこの原稿を書いています。
私も我が子の親指やかかとを切り、あるいは継ぎ足したりしていないだろうか。
子供のためとは言いながら、実は親のエゴや虚栄心ではないだろうかと自分自身を探っています。

私達は子供達に良い学校、高学歴という靴を履かせようとしますが、子供にとってガラスの靴を履くことが幸せなことでしょうか。
大切なことは、ガラスの靴を履かせることではなく、子供の足にピッタリ合った履きやすい靴を見つけてあげることこそが私達の使命だと思うのです。

どの子供にも必ずキラリと光るものがあります。
その埋もれた長所を見つけてやり、それを伸ばしてやることが親や教師の務めです。
とりわけ、子供に劣等感をつけないこと。
これが取り返しのないつかない自信喪失やノイローゼになってしまったケースは数多くあります。
子供達はストレスを発散する方法を知らずに心の苦しみに耐えています。

そして、「ある日突然」という形をとって問題行動を起こしますが、実はそれに至るまでの長い時間をかけての下地があったということを思いますと、私達の日々の接し方がいかに大切なことかを気づかされます。

「子供は親の言ったことはしないが、親のしている通りする」と言います。
私も我が子の言動からハッとさせられることがあります。
親は良くも悪くも子供にとって最も影響を与える人生のモデルであり、子供は敏感に私達の生き方を見抜いています。

私達は親なればこそ子供を育てながら自分自身の生き方を問わざるを得ないし、問い続けていきたいと思います。本当に「育児」とは「育自」にほかならず、「教育」は「共育」であるという実感を強くする日々です。

人生の大事業とも言える子育ての時を楽しみつつ、一日一日を大切に過ごしていきたいものです。
過去よりも現在、そして、現在から未来に向かって。
     
        (東大阪藤戸小学校PTA広報委員会 1990年1学期末発行
                       『ふじと』第25号?より)
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「シンデレラ」の原本を読んだ時、私は大きな衝撃を受けた。
この物語から多くの事を学び、私の子育てにも少なからず影響を与えた忘れられない物語である。
それにしても、この『シンデレラ姫』を初めアンデルセンやグリム童話など、日本では翻訳物の児童図書が原本に忠実でなさ過ぎることに不満を感じている。
人間の弱さ、悲しみ、醜さなどマイナスと思われるところを削ってしまっていては、作者からのメッセージは全く伝わってこない。
私はこんなところにも日本人の精神構造を見る思いである。

子育ても終わり反省することしきりであるが、しかしまた、真摯に生きていたことも思い出されて大変に懐かしい。
子育て中に遣り残している宿題もあるが、祈りつつ見守っていきたいと思う。
実のお母さんがシンデレラに言い残したことを私も我が子に伝えたい。
神さまを信じ、心がけを良くして生きていくのよ」と。
posted by 優子 at 17:35| 掲載文 | 更新情報をチェックする

2006年04月25日

博士課程単位満了で休学する2人

結婚式の打ち合わせやご挨拶などの用事のおかげで、今はチョクチョク帰って来てくれるので嬉しいが、これからの分を先取りしているのだと自分に言い聞かせている。

真智子たち2人は今期で博士課程の必要単位を満了して、とりあえず10月から休学届けを出す予定である。
博士課程の休学期間は最大3年間で、その間の学費は大学法人になった今も元国立大学であるから納めなくてもよい。今年の夏学期中に単位を揃えておけば、将来退学届けを出した時に単位満了退学になるわけだ。

神戸大時代も理学部の授業に出て数学を磨き、今も人文社会系の研究科(大学院)にも出ているらしいが、真智子の学ぶ姿勢に私は感動する。
アメリカへ行くのが遅くなる分、日本で語学研修もやっていこうという意気込みだ。
今は、アカデミックライティングとスピーキングに磨きをかけている。

3年間の博士課程を1年半で修めようとしている真智子たち。
国立大学だから学費は安いとはいうものの、半期間で実質上の学びを修めるということは、学費も半額ですむわけだから親助けである。
真智子たちが火曜日と木曜日の授業を最優先するのも納得せざるを得ない。
5月2日(火)の授業に出てから帰阪し、9日(木)の正午までに戻らなければならないとはシンデレラを思わせるではないか。
ただし、ガラスの靴ではなく、自分に合った靴を履いている真智子は素晴らしい!

次の帰省期間の予定もビッシリ詰まっている。
5月4日には、小学校1・2年生の時の担任の先生がお祝いに来て下さるというのだ。40年間の教職を勤め上げられて今月離任されたばかりと伺った。
真智子は18〜19年前にお世話になったことになる。私もお目にかかりたい懐かしい先生であり、感謝しつつ再会の時を楽しみにしている。

そして、5日は東京から婚約者と共にご両親がご挨拶に来て下さることになっているので、一席もうけて家族の顔合わせ。
ご両親はその夜に帰られるが、翌6日は私達夫婦も一緒に教会の福野牧師をお訪ねして、2人にお導きを頂くべく交わりの時を取って頂いている。真智子は7〜8回はお目にかかっており牧師とは面識を得ている。

その午後は、花嫁衣裳屋さんとクリスチャンセンターへ出向くことになっている。
センターでは、それぞれの担当の方たち3人と夜8時までのタイムスケジュールが組まれている。
しかも、今回が初めてであり最後の打ち合わせとなるから頭も感性も冴えていなければならず、私も訓練と思ってチャレンジしたい。良輔さんも頑張ってね!

ゴールデンウィーク明けの8日(月)は、美濃紙業のソフトウェア開発部の社員として出版社へ出向き、この時、真智子たちが日本を留守にしている間の担当者が東京から来られお引き合わせする段取りが組まれている。

本業では、一ツ橋大学のほかに関西大学や神戸大学からお招きを頂いているので、再び帰阪するもののゆっくりできず東京と大阪を行ったり来たりである。実家の荷物の整理もできない過密スケジュールだ。

そして、6月初めに日本経済学会での発表があり、今回の会場になっている福島県へ出向くらしい。
それでようやく中断して、と言うより一時中断させて結婚式というわけだ(フ〜)。
花嫁、花婿さん、大丈夫?
どうか2人の健康が支えられますように!

出欠の返信も我が家に届き始めている。
神戸大学の先生方、阪大に移られた先生、東大からは外国人の先生が2名来て下さるとのこと。
日本人の先生は、小泉内閣の骨太政策の改正関係で6月は忙しくなる可能性が高いとのことで、確約はできないが可能ならば喜んで出席して下さりスピーチもして下さるとのことだ。

「アカデミックな結婚式になるなあ」とは夫の言葉。こんな言葉はあなたにはそぐわないよ。10年20年を経て、日ごろ耳にしている言葉をついに覚えたという感じ(笑)。

集って下さる皆さんが、真智子たちのために大切な時間を割いて来て下さるのだ。人は試練の時だけではなく、愛を受ける時もまた大きく成長するような気がしてならない。
只々感謝である。
多忙な中であるが結婚式の前に、是非とも家族4人で食事に行き思い出の写真を撮りたいと思う。
ここまで導かれたことを神さまに感謝する愛餐会の時を持ちたいと願っている。  
     
      わがたましいよ。主をほめたたえよ。
      主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。


                     (詩篇 103篇2節)

結婚式に向かって備えられていく私の中で、このみことばが強く照らし出されている。
               
 
posted by 優子 at 09:08| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年04月22日

父よ!

誰が書いたのでしょうか。
私の家のカレンダーに「さようならをする日」と書いてありました。

「さようならをする日 12月17日」、それは長女が結婚する日だったのです。
嫁ぐ娘と父親のこころのハーモニーがうれしくて、さびしくて、やるせなくて、そんな思いが胸にこみあげてきました。

親と子、夫と妻、社長と社員、みんなみんな、お互い同士裸の人間となって、もっと大切にし合って、その心のつながりを宝物のように、よりはぐくんでいきたいものでございます。


       ・・・・・・・・・・・・・・・

昭和51年12月のお歳暮に添えるために父が用意した挨拶文の書き出しである。
2階の居間のカレンダーに書いたことを覚えているが、私は25歳にもなって「さようならをする日」などと幼稚なことを書いていたのである。
年を取った私もまた父母の想いを深くわかる者とされた。
この気持ちを表現したいのに、その術を知らないもどかしさがある。

書いたものは残るのだなあとしみじみ思う。
書いたものから頭の動きも心の動きも全てがわかるのだ。

今日、福野牧師のご長女、優子さんが結婚される。
祝福を祈りたく私達もこれから教会へ馳せ参じる。
ハレルヤ!





                
posted by 優子 at 08:30| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年04月21日

真智子よ しやはせを とはに

     真智子よ しやはせを とはに      
      
      真智子ちゃん おめでとう
      今日は たべぞめ おめでとう
 
         エクボ  ペコペコ まちこちゃん
         笑って  コロコロ まちこちゃん
         ねがえり クルクル まちこちゃん

             今日は たべぞめ おめでとう
             風も  さやかに おめでとう
             青空  太陽   おめでとう
 
                 しやはせ とはに いつまでも
                 しやはせ とはに いつまでも

     
     菊薫る たべぞめの日に
      
      ねがえりが できたとママの はしゃぎ声
  
  真智子ちゃん、ママが大騒ぎで喜んで電話してきましたよ。

     
     ふたり仲良し かしこい子
    
    ちいちゃい 女の子は 知子ちゃん
    ちいちゃい ちいちゃい 真智子ちゃん

       白と赤の お洋服  ふたつ並んで たのしそう
       白いリボンと 赤リボン  ふたつ並んで たのしそう

        ヨチヨチ歩きの 真智子ちゃん
        姉さん知ちゃん おててをつなぎ
          青い芝生も たのしげに
          ちいちゃい小犬も ついてくる
          仲よし きょうだい 可愛い子
          ふたり 揃って かしこい子

       ふたり 揃った しやわせを
       いつも見守る パパとママ
       優しい おめめの パパとママ
       ふたりは 揃って かしこい子
       ふたり 仲良し かしこい子

  昭和55年10月5日(日) 真智子のたべぞめの日に  竹内三郎


これらの詩は、真智子の「食べ初め」の日に父からもらったものだ。
私の大切な大切な宝物。
嫁ぐ時に真智子へと思っていたが、父自筆のものはこれからも私の手元においておきたい。
そして、私が地上を去ってから真智子の手元にずっと大切に持っていてあげてほしい。
お父さん、ありがとう。
ありがとう。
お父さんが元気だったら、今は感謝と喜びの涙を流してばかりいるのでしょうね。


posted by 優子 at 17:37| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年04月19日

『かわちの』発行配布

昨日、読書会の総会も円満のうちに終わり、機関紙『かわちの』を配布し新年度がスタートした。
18回目(このうち2回は娘達による)の寄稿文をここに刻んでおきたい。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・

     突然の巣立ち
            
このお正月に長女の縁談が整い、2月末に婚約式を終えて一息ついた矢先に次女の結婚話が浮上した。
そもそも長女の挙式を秋まで待たずに7月にしてもらったのも、次女の留学が脳裏にあったからだが、思いもよらぬ展開になった。

次女の東京での生活も3年が過ぎ、その間に人生を分かち合いたいと思える人と出会った。彼もまた同じ研究室の学者の卵である。

この二人に留学先の希望校から、学費免除だけではなく生活費も支給されるという幸運な合格通知が届いた。
となれば、経済的にも親から自立できるため、5年間の留学を前に結婚の決意を固めたのである。

2月に長女の花嫁衣裳を選んでいた時、よもや1ヵ月後に次女の衣装選びをするとは夢にも思わなかった。
しかも、長女よりも早く6月に挙式し、姉の結婚を祝ってすぐ日本を発つことになった。
いつかは来ると思っていたが、こんなに突然に、しかも2人とも同時に巣立っていくなんて、夫と私はオロオロするばかりだ。
いろんな想いが交錯する。

「主(神)は与え、主は取られる。
  主の御名はほむべきかな。」

                (聖書)

神様から養育するように私達に預けられた娘達を、とうとう神様にお返しする時が来た。
それぞれの伴侶となる人に返すのだ。

神様が娘たちを今日まで守り育てて下さったこと。
何よりも、この子達の生涯のごく早いうちに神様と出会わせて下さったことに感謝が溢れる。
どうか神様と共に在る生涯を築き上げ、それぞれの使命を果たすことができるように守り導かれんことを祈っている。

娘たちよ、すばらしい生涯を!
お父さん、お母さん。
もうすぐ娘たちが結婚します。

     (東大阪読書友の会会報 2006年4月発行
                 『かわちの』第54号)

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『かわちの』には、毎年その頃感じている想いの一端を書いているので、私にとっては自分史のようでもある。2日前の記事に転載させて頂いたが、あれから10年を経て娘達が飛び立って行くのだ。

東大阪市の中央図書館である花園図書館に100部、4箇所の分室には各50部ずつ今日から配置して頂くようお願いした。
この香芝市民図書館にも毎年30部置かせて頂いているので、近いうちに届けたいと思う。

posted by 優子 at 08:38| 掲載文 | 更新情報をチェックする

2006年04月17日

娘として 母として

長女が中学校に入学した頃から、私の中で母の姿がクローズアップされてきた。
私自身が子供だった頃の母の姿だ。そのような時、私の子供時代のことや母親である現在の自分のことと共に、3つの人生が重なって見える。

母は今(10年前のこと)、最期の病床にある。
もう食べることも飲むことも話すこともできない。しかし、思考力や感情はしっかり残っている。
私は唯一の意志伝達法である母の瞬きを通して母の想いを探るのだが、「はい」と「いいえ」でしか答えられないような内容に限られてしまう。

判らない時は、文字板で一つの単語を1時間近くかけて判読する。
何という苛酷な生かされ方だろう。
歩く・食べる・話すなど、全て当たり前と思っていたことが、今の私には眩しいぐらい輝いて見える。

しかし、苦難の中にあっても神は良きことをして下さる。
母が元気だったらお互いに忙しいからと、こんなに会えなかったであろう。
私は母と共に過ごす時間のあらゆる小さなことも、どんな瞬間をも何一つ逃さずに脳裏に刻みつけよう。
苦難の連続であった難病との長い闘い。
しかし、母は和らいでくれているに違いない。
「これが反対でなくてよかった。娘が病み、私が看取るのでなくてよかった。」と。

「子供を育てていた時が一番幸せだった」と、懐かしそうに言っていた母。
私の娘たちも18歳と15歳になり、子育てもあと僅かだ。
時が来て、この子達が私達のもとから安心して飛び立っていく日まで、成長を見守りながら子育ての大役を果たしていこうと思う。

当たり前の幸せを深くかみしめながら。

       (東大阪読書友の会会報 1996年4月発行
                   『かわちの』第44号より転載)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今からちょうど10年前の4月に掲載されたものである。
この春、長女は大学に次女は高校に入学した。
この頃の私は七転八倒の日々、苦悩の極致に達していた。
安らぎのなくなっていた家庭を再建しながらの母の病床通いだった。

私はクリスチャンになってまもなく「瞬きの詩人」と言われている水野源三を知った。
源三は昭和21年夏、小学校4年生の時に罹った赤痢がもとで手足の自由を奪われ、見聞きすることはできるものの話すことができず、目で51音の文字板を追って瞬きで意思表示をした。
そして、多くの詩を産み出したことから「瞬きの詩人」と呼ばれている。

まさか、このことが参考になろうとは思いもしなかった。

しかも、母の場合はもっと悲惨だった。
「眼振」という症状があるため、物が二重や三重に見えるのだ。
そのために源三のように必要な文字を読み取ることができないため、一つの単語に1時間かかることもあり文字板さえ役に立たず、主治医の表現を借りれば「この世の地獄」だった。

この文章を父に読んでもらった時、
「苦難の連続であった難病との長い闘い」のところに異議を唱えた。
「『連続であった』ではなく『連続である』」だと言った。
父の悲しみを深く知りつつも、やはり私の気持ちはこの表現でしかなかった。
母は教科書通り発病後10年を経てこの半年後に召されたが、もっと命があったところで私には同じだった。
この逸話を娘達にも伝えておきたいと思う。
posted by 優子 at 10:01| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする

2006年04月15日

イースターに希望をつなげ!

        使徒信条
  我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
  我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。
  主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
  ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
  十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
  3日目に死人の内からよみがえり、天にのぼり、
  全能の父なる神の右に座したまえり。
  かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
  我は聖霊を信ず。
  聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、体のよみがえり、
  とこしえの命を信ず。
               アーメン


バッハの『マタイ受難曲』を聴いていると厳粛な気持ちに導かれ、気がつけば使徒信条を口ずさんでいた。

曲に流れている通奏低音は十字架の音だ。
人々の嘲笑の中を、キリストが十字架を引きずりながら歩いて行かれた時のガタガタと地面に響く音。
それは私の罪の音だ。
私の身代わりになって全てを負って下さったイエス。
これは私達の罪の音、バッハはそのことを表しているのだ!


降誕(クリスマス)は、こうして十字架にかかって死んで下さるためだったのだ。
全く罪を犯されなかった神の御ひとり子が、私達のための罪の身代わりとなって神の裁きを受けて下さった。私のために、あなたのために身代わりとなって下さったのだ。
そのことにより、死によって永遠に滅ぼされるはずの私達が、悔い改め、イエスを信じる者に永遠の命を与えて下さるのだ。

「自分の不幸や何かで神さまの方に向くことは自分でできる。
けれども、悔い改めということは、自分の努力ではできない。
悔い改めは神の光が入ってきて私達を照らす時に初めて可能であって、それが信仰である」。

全てが神さまからの賜物。
信じる者にして下さった不思議。

苦難の中にある人々よ、イースターに希望をつないで雄々しくあれ!

私達にどんな苦難がこようとも、不安にさいなまれようと、嘆き悲しもうと、神は決して信ずる者を見捨てられない。
神によりて安し。
嵐が吹き荒れていようとも、台風の目の如く魂は平安である。
嘆き悲しみながらも希望をもって生きることができる。
安心して進んで行こう!
明日は主が復活された日、ハレルヤ!

   喜びなさい。希望があるのだから!
   耐えなさい。困難にあっても。
   そして、いつの時も祈りなさい。


この喜ばしい季節に、主があなたとあなたの御家族を祝福してくださいますように!
posted by 優子 at 09:15| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年04月14日

大阪府立高津高校への想い

3月25日付けの新聞に「民間人校長が辞職へ」という記事があった。
娘達がお世話になった大阪府立高津高校のことだ。
元住友金属工業の製鉄所副所長を歴任された木村氏は、2002年4月に大阪府立高校に初の民間人校長に登用されたが任期一年を残して辞任された。

2002年といえば次女が卒業して3年後だったが、校長が塾の講師による課外授業を強行するなど、教職員と校長が対立しているということを現役PTAの友人から耳にしていた。

来年2007年度より大阪府立高校の学区制が変更され、現行の9学区から4学区になろうとする時にあって、今まで第5学区のトップ校であった伝統校の高津が、新3区においても代表校になるべく大変な努力を傾けていることも同窓会報で承知していた。

民間人校長により新しい風穴を開けたのは良かったものの、学校運営は「数値目標を掲げる企業運営」の考え方と同じにしてもらっては困る。
しかも、「学校の運営方法に反対意見を述べた教職員を怒鳴ったり、他校への異動を迫るなどし、うつ状態になったり退職に追い込まれたケースもあった」など、独裁的なやり方は言語道断である。

そこに唯一の原因があった。
意見の相違は悪いことではなく良いことでさえある。なぜなら、そこで共に考えるからだ。
しかし、そもそも独裁者とは会話が成立しない。
対話とは、相互性がなければ対話にならないからだ。
一方的に問うたり言ったりするだけでは対話にはならず、他方からも問いかけたり考えを述べることがなければならない。
同質の中では良きものは生産されないし、異質の中でこそダイナミズムが生まれるというのに。


長女と次女が続けてお世話になった高津での6年間、私は学年委員長として(1年目は副委員長)PTAの中枢で活動させて頂いたが、実に明朗活発で共に高め合える充実した魅力的なPTAであった。

最初の2年間お世話になった清水校長は、次期校長の重要さから日参して南校長を説得された。
南校長は大阪府の教育委員会を指導する立場の人であった。共に素晴らしい教育理念を持っておられた。

私達役員は、管理職である校長の立場も十分理解し、まさにP(保護者)とT(教師)のA(アソシエーション 協同体)であった。時としてPTAの「A」が”association 協会”ではなく”against 対立・衝突”の「A」になっている学校も珍しくないのに、高津高校は意気軒昂であった。

1学年9クラスで360名(現在は8クラス320名)の学年集会の出席者も250名ほどの保護者が参集し、春の総会においても各学年委員長に発表の場が与えられ、私達はそこで保護者や学校に対して熱く教育を語ったものだ。
文武両道の進学校たる校風を継承せんがためにPもTも燃えていた。

昨年度までの4年間はPTAも大変な審議を重ねたことであろう。
内情や事実関係は存知しないが、「さすが教職者」と言おうか問題提起し、より良きに向かって行動したこと。彼らは傍観者ではなかったことに私はひどく感動する。

次女卒業時に保護者代表の謝辞で述べた通り、私にとっても「高津高校は第二の母校」であるから、新3区においても代表校になってほしいと願うのは同じである。
posted by 優子 at 08:52| 教育 | 更新情報をチェックする

2006年04月13日

己に問う

どんな悲惨なこと、不合理なことでも、長い間、習慣のように続いてきたことに対しては、人間は鈍感、または無関心になるもののようです。
こうしたことに対して自発的に目覚め、批判と改革に乗り出す人というのは、よほど鋭い良心と、勇気ある実行力を備えた人なのでしょう。
 
ドロシア・ディックスは、まさにそういう婦人でした。
彼女の考えでは、精神病者についての古い迷信的な考え方が、全ての悪の根源なのだというのでした。ですから彼女は一切個人攻撃をせず、ただ間違った考えに基づいてできた、間違った社会制度を改革しようとしたのでした。

      神谷美恵子『極限の人―病める人とともに―』より


このような一人ひとりの生き方を通してより良き社会が築かれてきたことを忘れてはならない。

昨日、ある定例会でも総会が持たれた。
人はそれぞれであっていいと思う。
しかし、問題意識を感じた者は通り過ぎてはいけないのだ。
私は長いものに巻かれ、臭い物に蓋をして見過ごしてしまった。

イエス・キリストならばどのようにされるだろうかと瞬間に思い巡らしもした。
やはりあと一言、言うべきであった。
「前年の2倍近くも予算が組まれている会議費の使途はどのようなものであるか」。
何故、そんなことが言えなかったのか。
私は何を恐れたのか!
人ではない。
摩擦が煩わしかった。
物事を面白おかしく混ぜることに生きがいを感じているような存在も見えてきた今、真摯に向き合う価値はないか・・・・・と思ったりもした。
しかし、こうして人は無関心になっていくのだ。

新人が入っても新人代謝が全く行われない組織。
その中にあって数は少なくとも心を砕いている人もおられるのだが、長年の経験から活力喪失という感もあるのだろう。
国会のような質疑応答の総会になれば理想であるが、せめて新人の声を力にして補助説明する役員が一人くらいいてほしかった。
良識ある人達には、何も発言できないような雰囲気を想像して頂くだけで、この会の不健全についての説明は不要であろう。

神の前に静まり、神の導きを求めて聡明に物事を見ていかなくてはならないと思っている。
そして、残りの任期をどのように関わっていくか自分自身に問うているところだ。

今朝は神谷美恵子さんの本から黙想へ導かれ、主の受難週に思いを寄せた。
明日は、キリストが十字架につけられた金曜日である。
こんな取るにも足らないことに悩む自らを情けなく思う。






posted by 優子 at 10:58| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年04月11日

教育への情熱

独立園ではない香芝市立幼稚園の園長先生は、道路を隔てた前にある市立関屋小学校の校長先生である。従って、PTA会長も幼・小のPTA会長であり、初めて知った昨春はびっくりしたものだった。

私はいつもこの女性校長(園長)先生のお人柄にひきつけられている。
今朝の入園式でも、赤白黄色のかわいいチューリップに寄せて話された園長先生のメッセージに熱い想いが込み上げた。
母親を想わせる深く温かいものを内に持たれた教育者だ。
お人柄とお話上手な先生に触れると私の中にある教育への希望と情熱が沸き上がってくるのだ。

日本では「教育」と言う時、「詰め込み」や「頑張る」という楽しくないイメージを受ける。
昨日の中学校の入学式でも、生徒や先生から「頑張る」という言葉が何と多かったことか。日本人は頑張ることが本当に好きなんだなあと思った。
しかし、そうではないのだ!

本来、「教育」という言葉の語源はラテン語で「引き出す」という意味であり、それは能力開発ではなくて一人ひとりが個性的に自己の可能性を実現することを意味する。

また「学校」という言葉の語源には、ギリシャ語で「暇」という意味があることも周知の通りである。
それは人間が人間らしく成長するためには、長い時間が必要であるということではないだろうか。

人は皆、一粒の種である。
ましてや、子供は可能性がいっぱい詰まった卵だ。
自分の可能性の限界もわからない私達が、我が子といえども一個の独立した人格に可能性の限界をつけられるはずがない。

ところが、的外れの評価や言明は枚挙にいとまがない。

発明王エジソンの子供の頃は薄ぼんやりに見え、小学校の先生から「こんなバカな子はいない」と言われた。
モーツアルトの『フィガロの結婚』の初演を鑑賞した皇帝フェルディナンドは、「これでは雑音だ。音符が多すぎる!」と言い、
20世紀最大の科学者アインシュタインが10歳の時、「君は決して大物にはなれないだろう。」と学校長が言った。確かに成績にムラがあり外国語と歴史は大嫌い。大学入試でも数学は非の打ちどころがなかったが、他の科目は全くダメで見事に不合格だった。
また、フランスの天才的数学者ポアンカレも大学入試には失敗している。

教育とは、その子の良さを見出し伸ばしてやることであり、そのことこそが親や教師の使命である。

  子をその行くべき道に従って教えよ。
  そうすれば年老いても、それを離れることがない。

               
                (箴言 22章6節)

桜の木に梅の花は咲かないし、梅の木に桜の花は咲かない。
しかし、梅も桜も共に美しい花なのだ。
私も子育ての初め頃、そのことが分からない時期があり、次女に対して申し訳ないことをした経験がある。別の機会に触れたいと思う。

親は子供たちの良き励まし手になって、子供に向上への意欲こそ育ててあげてほしいと思う。
そして、全てに先立って大切なことは親自身の価値観、生き方ではないだろうか。

我が子たちもまた何度も入学・卒業式をして頂き、親である私も大きな喜びと感謝の気持ちを経験してきたが、それらがどんなに大切なことであったかを深くかみ締めている。
そのことがしみじみ分かるようになった。
posted by 優子 at 12:27| 教育 | 更新情報をチェックする

2006年04月10日

新入生代表・知子の「誓いの言葉」耳に響く

今日は冷たい雨の中学校入学式だった。
民生児童委員は、地域の幼稚園・小・中学校の卒業式や入学式に一人3箇所くらいずつ列席するのだが、今春は3月が超多忙だったので入学式ばかりを回らせて頂いている。

娘達も公立中学校だったから式の雰囲気は同じだ。
体育館で吹奏楽部の演奏に迎えられて入場してくる新入生を見ながら、私は娘達の姿を思い出していた。
そして、新入生代表の生徒が言葉を述べた時、私の耳に鮮やかな長女の声が響いた。

     誓いの言葉

私達が誕生して13度目の春が巡って参りました。
心地よい春風に誘われて、今、新喜多(しぎた)中学校の門をくぐった私達は、希望に胸をふくらませています。今日、私達をこのように喜んで迎えて下さり、本当にありがとうございます。

私達が成長していく過程において小学校が代の第一のステップであるならば、中学校は第二のステップです。そして、中学校の三年間は、私達が人として成長するために、とても大切な時であると聞いております。

私達はこの三年間にいろんなことを経験するでしょう。
しかし、成功も失敗も、喜びも悲しみも、どんなことの中にも意味を見出して歩んで行きたいと思います。

「ああ いつも 常にもっと高く 常にもっと高く」と
自分を励ましながら、与えられた道を歩み通したシュヴァイツァー博士のように、私達も常により高きを求めて歩んで行きたいと思います。

私達を迎えて下さった新喜多中学校の先生方、ご来賓の方々、
また、今まで私達を導いて下さった小学校の先生方、
そして、常に私達の背後で支えて下さっているお父さん、お母さん。

私達は今日の喜びを忘れないで、今より心新たに中学校生活に踏み出したいと思います。
そして、中学校を卒業する時には、私達一人ひとりに与えられた自分でしか咲かすことのできない花のつぼみをふくらませていたいと思います。

喜びと心からの感謝の気持ちを込めて、これを誓いの言葉とします。

      平成2年4月7日  東大阪市立新喜多中学校
                新入生代表  藤本 知子

           
      (家族新聞 『親ばと子ばと新聞』1990.4.7 NO.93より)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時、8クラス編成で380名の新入生だった。
新入生代表は3つの小学校の輪番制になっていて、この年は幸運にも藤戸小学校だったので児童会会長を務めていた知子が大役を頂いたのだ。
式終了後、
「藤本さんやから安心しきっていた。この子はどこに行っても大丈夫や!」と6年生の担任の先生が大きな賛辞を贈って下さっていたこともまた懐かしい思い出だ。
小学校4年生になった真智子とパパとママと3人で行ったよね。

入学式に列席させて頂き懐かしく楽しかった日々と共に、今までお世話になった多くの人々のお顔を思い出していた。。
posted by 優子 at 14:42| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2006年04月08日

桜は満開になっていた

ここは大阪より朝晩は4〜5度も温度が低く、私は4月になっても電気毛布を入れている。それなのに5日夜半に寒気で目が覚めて2時間近くも眠れなかった。
夜が明けて、いつものように夫と娘を送り出してブログを書いたものの急に震えがきてダウン。
熱を計れば38度8分もあった。
この日(5日)は読書会の議案書作りのために、どんなことがあっても花園図書館へ行かなければならなかった。そのために準備万端整えていたというのに、しんどくて行けず、やむなく断念。
二人の役員さんに印刷のお願いをすることになり、快く引き受けて下さるだけに申し訳なくて、ありがたくて、任務を果たしえぬ無念さを感じた。
しかたなく、機関紙『かわちの』の校正も私の目を通しただけで印刷屋さんに送付することになった。校正ミスが気になるが致し方なし。

7日の小学校の入学式も欠席させて頂いた。夜にはお風呂に入れるほど回復したが、やはりまだ本調子ではない。
今日は夫と共に自動車で朝9時前に家を出て、理事会の会計監査役のために大阪商業大学へ向かった。どこも総会準備で忙しい時期だ。
そのあと、次女の挙式場である大阪クリスチャンセンターで打ち合わせ。

3日ぶりの外出、桜はすっかり満開になっていた。
何という見事さ!
「これらのものは、誰が創造せしやを思え」という神さまの呼びかけを聴きながら、車窓から桜を味わった。
週が明ければ、中学校の入学式と幼稚園の入園式に来賓として出席せねばならない。
きっと娘達の遠い春の日が鮮やかによみがえることであろう。
posted by 優子 at 23:58| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年04月07日

忘れ得ぬモーゼスさん御夫妻のこと

こちらに来て導かれた南大阪福音教会には、常に外国の方が3〜4名おられた時があった。
牧師ご夫妻もバイリンガルだ。
礼拝の時にも同時通訳の奉仕者も居られたほどで、知子も受洗前の一時期、そのご奉仕に加えて頂いていたことがある。

私はしゃべれないのに外人と話すのが好きで、この性分は若い頃から変わらない。
時には「よくあれだけ理解できて話せるね」と娘たちに言われたこともあるが、ある時は全く間違った理解をしていたこともあり、家に帰ってから大笑いだった。

チャッピー(愛犬)は私たちが話す単語を聞き取って意思表示するが、私の英語力はチャッピーと同じである。ちなみにチャッピーの分かる言葉は、
餌、ミルク、パン、さかな、お水、お座り、お手、ダメ、ハウス(犬小屋)、お外、おうち入る?(家)、(家に)上がるか?、ボール、寝んね、行こか(行こうか)、裏(裏庭)、猫、カラス、狸(この辺りには狸がいる)、何か居る(こう言うとキョロキョロして見て回ってくれる)・・・・・・・など20余りの言葉は分かっている。
こんなことを書いていると育児日記をつけていた頃を思い出すが、悲しいかな犬だからこれ以上は増えないだろう。

私もチャッピーのように知っている単語だけを頼りに外人と会話する。
時制は現在形と過去形に限られ、中・高校時代に全く勉強をしなかったために会話を楽しむこともできないお粗末さである。

モーゼスさんご夫妻(夫人は日本人)は、ロンドン大学でそれぞれにPHDを取られた方たちである。
彼は奈良県立医大でも教えておられたが、日本人の語学力の貧しさと主体性の無さに失望されていた。そんな彼が、
「真智子の英語はすごいよ。しかも英語で議論をふっかけてくるからすごいよ。」と、大きな目をもっと大きくして言われたことがあった。

反対に真智子は、日本へ来られて4〜5年経っても全く日本語が分からないモーゼスさんのことを、
「彼も日本に住んでいるんだから、もう少し日本語を覚える努力をしてほしいよね。」と笑っていたことがあった。
ある時、息子さんが通っている関屋小学校へ彼の母国であるマレーシアの文化や生活について話に行かれた。その日、夫人は東京出張だったため急きょ代理を頼まれて長女が通訳で同行させて頂いたこともあった。
モーゼスさんの故郷の人々は、2000年前からクリスチャンである。

自宅から歩いて15分くらいの所に住んでおられたモーゼスさん御夫妻を通して今の教会に導かれ、このお二人のお働きがなければ長女は救い出されていなかったであろう。
その後しばらくして神戸へ移られたが、私たちにとっては宮沢賢治の『風の又三郎』のごとく突然現れて突然去って行かれたご夫妻だった。

長女が救われる半年前、娘にふさわしい助け手を送って下さった神さま。
当初は長女の得意の分野であった英語を接点にし、ご夫妻は祈りを積み上げながら熱心に関わって下さった。
まさしく神さまが遣わしてくださった方たちであった。

  神は様々な人を通して、様々な方法で働かれますが、
  それら全ての人を通して目的を達成されるのは同じ神です。

      
          (コリント人への第1の手紙 12章6節)

モーゼスさんから食前の祈りを”graice"だと教わり、以来、いつも我が家での集まりの時には、”Moses,please say graise."と言って食前の祈りをお願いしたことだった。
私たちにとって忘れ得ぬご夫妻である。

posted by 優子 at 23:24| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2006年04月06日

☆「医師よ驕るなかれ」への反響に感謝

「医師よ 驕るなかれ」を拝見致しました。
13年前、此の様に書かれるのは非常に勇気のいる事だったと思います。
私も医療者の一員として、今後とも肝に命じなければと思います。

医療現場では改善されている所もあれば旧態依然の所もあり、病院に因る格差が広がってきているように思えます。

2月に家内が手術の為入院した病院では、執刀医始めインターンの若い医者、看護士にいたる迄患者の為にという姿勢が一貫していて「医療斯くあるべし」との思いを抱きました。

一方、脳出血後4年間意識不明の友人が入院している病院では、(所謂、姥棄て山とみなされている病院)病院長以外には責任の持てる診療のできる医者が不在で、他の病院と掛け持ちアルバイトをしている経験不足の医者か他の病院では危険で診療を任せられないレベルの医者しかいないのです。
(入院から数カ月で「寿命でした」との死亡退院が殆どです。)
看護をしている奥様が御主人の体調を毎日観察して、必要な処置を強く希望することで今迄生存しているのです。

また4月から健康保険の改正で、インフォームドコンセントの為一部の治療については診療内容を逐一書面で患者に渡す事となりました。
こう書けば納得と思われるかも知れませんが、行政の担当すべき責任を患者と医者に転嫁しただけの内容です。(患者も同意書にサインするので個人の責任になるだけの事です)

最後の方で言われている様に、どの種類の組織でも本来のあり方から離れて行き、前時代的状態がそれに関わる人を傷つけて苦しめているように思われてなりません。

医療者であっても患者になる事もあれば、身内の者を介護する立場にもなり得ます。此の事を忘れなければ、医療も少しは変わるのではないでしょうか。

「ブログ考」の中で「人はなぜ書くのか」について4つの事を上げておられますね。
柳田邦男さんもそうですが文章を書かれる方にとっては、書く事は日常生活の中で息をするのと同じ位当たり前の事と感じておられます。(推敲の苦しみはありますが)

ところが書けない者にとっては「書く」という事が分らないのです。
例えて言えば、勉強のできる子にとっては何をしても自然に勉強となっています。
勉強の出来ない子にとっては、勉強とは何かどうすれば身につけられるのかそれさえも分りません。
言われた通りやってみてもその意味が分らずお手上げになるのです。

私は自分を表現したくてもなかなか文章に纏める事が出来ません。
拙い書きなぐりの内容を私の気持ち以上に汲み上げて、優子さんの言葉に直して取り上げて下さっている事を感謝します。
(ボロボロの考えを言葉の糸で綴り、アーミッシュキルトのような実用的で素敵な模様の表現にして下さっているのですから)

どのブログを拝見しても、優子さんは本当に言葉を大切にして、文章を綴り合わせ、表現されています。これもやはり与えられた能力なのでしょう。
益々用いられますようにお祈りしています。
    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

O医師から反響を寄せて下さいました。ありがとうございます。
あれを書きました時は苦難の始まりでしたが、まだまだ活力はありましたから社会に対しても問題意識を持てたのです。
「医師よ驕るなかれ」をここに転載しようとした時、O先生に恐縮しながらもO先生のような医師との出会いに感謝しました。そして、O先生からこのようなメールを頂き恐縮しつつも深い洞察を与えられ、改めて自分の書いたものを深めております。

4年間意識不明でおられる方が入院されている病院のことも、私なりに十分想像がつきます。
父が最初に運ばれた救急病院がそうでしたから。これについても、辛い経験があります。

「書けない者にとっては『書く』という事が分らないのです。」と仰るのですが、私などよりよほど語彙も豊富であり明晰な文章からお人柄が伝わって参ります。
Oさん(「先生」ではなくてそう呼ばせて下さいね)とも、こんな私が遠慮なく堂々と交わらせて頂けるのも神さまを知る者とされたからなんです。そして、私の思想の根幹にある「人は共に育ちあい育てあっていく関係である」ということが確立されたのです。

ところで、「悩むにも能力が要る」と言うか、やや傲慢に聞こえるかもしれませんが、私の中にそのような思いがあります。
私自身にもよい例話があります。
30歳に入って直ぐの頃だったでしょうか。
次女も3〜4歳になっていたと思うのですが、妊娠したかと思うほど生理が遅れたことがありました。
しかもその時、風邪薬を飲んでいましたから大変心配し産婦人科を受診した時のことです。

開口一番に女医さんが言われたことは「ここでは中絶できませんよ!」でした。
その頃はまだまだ貧しい診察室が当たり前の時代でしたから、他の患者さんにも丸聞こえです。
「いえ、そのことを申し上げているのではない・・・」というようなことを言うのが精一杯で、悲惨な思いをしました。
後年になって気づかされましたことは、遠慮して言えなかったというよりも、憤りを感じていたのに「憤ることに憤ることができない」自分の稚拙さでした。

この「医師よ驕るなかれ」を書いた時は、30歳代に入り改めて自分を確立していく道を歩み始めていましたから、問題意識を持つことができたのです。このことって、すごく大切なことだと思います。
いつまでたっても頑なな私ですから悪戦苦闘の多い日々ですが、自分が経験することに対しては逃げないで真正面から立ち向かいたい思っています。
人は皆、死ぬ時まで若葉マークだと思うのです。
年を取った者でも、昔からずっと年寄りを生きているわけではありません。
今は誰にとっても初めての経験です。
だから経験を語り合い、気づかされ合いながら共に生き、生を生き切りたいのです。
私はこのブログを通して今まで忘れていた情熱にかきたてられています。

「書くこと」についてですが、私にとって書くことが生きることであるような時期がありました。
母や父が語った言葉を忘れないために書き始めたのですが、1993年7月から1999年4月頃まで
100ページ綴りのノート11冊に及びます。
父が亡くなる1年4ヶ月前に関屋に移り、さすがに引越しが加わってから記述は中断されてしまいましたが、絶望しないために書いていたのかもしれません。書くことで生をつないでいたというくらいです。
嘆き、苦しみ、呻き、それは慟哭と求道の記述でした。

これからもいろんなことが起こってくるでしょう。
時々、怖くなってしまいます。
しかし、それらにどのように立ち向かい、どのように苦しみ、どのように生きたのかということを書いていきたいのです。
自分の成長に役立つ機会を失うことのないように、神さまと共に主体的に生きて行きたいと思っています。




posted by 優子 at 08:45| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年04月05日

真智子カップル、明日渡米。

真智子たちは明日の午後3時半に離陸し3泊4日でアメリカへ行く。
目指すはミネソタ大学だ。
同大学から「パトリック・キーホー奨学金」も獲得できたから50万円給付されるという連絡があったとのこと。別の論文が評価されたのか、プレゼンテーションが良かったのかそこまで話を聞く時間的余裕はなかったが、、いろんなことにチャレンジしている娘の姿に励まされている。

IMFからも正式に文書が届いた。
IMF奨学金の魅力は、2年間TA(大学院生への授業や採点)をしなくてもよく、そのぶん学業に専念せよという条件なので娘にはこの上もない条件なのだ。
アメリカでは奨学金の二重取りを防ぐために、4月15日までに行き先を決定しなければならないとのこと。この渡米でこれからの道が示され、決断の時にも神さまが介在してくださるように祈っているからね。
   
   あなたが右に行くにも左に行くにも、
   あなたの耳はうしろから
   「これが道だ。これに歩め。」ということばを聞く。      
           (イザヤ書 30章21節)


先月に美濃紙業の社員としてソフト販売の営業に回った時、彼らが作った商品ではなかったものの大手出版社と商談を成立させてきた。
その前夜は、わが家のリビングは会議室になった。
婚約者のアルバイト先のソフト会社社長と、真智子たちが日本を留守している間に担当される方、そして、夫(美濃紙業社長)と共に、スカイプにより値段設定など話を詰めていた。
東京の2箇所と奈良の計3箇所5人が、それぞれの自宅に居ながらにして話しているのだから、改めてすごい時代になったという驚きを隠せない。

以来、真智子と婚約者は本業以外にソフト作りもしているから、益々ハードな日々を送っている。
我が子ながら、よく仕事をこなしていっていると感心する。
アメリカへ行ってからもメールやスカイプでお得意先ともやりとりできるように、美濃紙業は勿論のこと、お得意先にもスカイプを設定して備えた。
仕事の関係から年に2度は帰国するらしいから私には嬉しい限りである(^0^)。

今回のオープンキャンパス参加のために、大学から渡航費の半額やホテル代も提供されるので5万円ほどの出費だという。友人にも恵まれている彼らは、旅行会社に勤めている人から卸価格くらいで旅券を分けて頂いたそうだ。
成田発、ノースウエスト航空機でミネアポリスセントポール国際空港への直行便で発ち、帰国は10日の午後とのこと。
どうか、あらゆる危険から守られんことを、旅の無事を祈らずにはおられない。
   
  ハレルヤ!
  真智子さんのご結婚のこと、心よりお祝い申し上げます。
  主の豊かな恵みの導きで素晴らしいですね。
  主に愛されているご家族であることを心より感謝します。

     (略)

  主の豊かな祝福がありますように!


航空機事故やテロなど不安が高まる私は、昨日頂いた福野牧師先生のお言葉に導かれて主の平安を頂いた。
posted by 優子 at 09:08| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年04月04日

医師よ 驕るなかれ ―より良き医療を求めて―

昨日の記事と関連して、私の考え方の根幹が書かれている拙文をここに転載しておきたい。
特に青字で示したところが強調したいことであり、共感して頂ければ嬉しく思う。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「知らされた上での同意」とでも訳せばよいのだろうか。
今(1993年のこと)、「インフォームド・コンセント」が叫ばれているが、日本ではまだまだ「医療は知らしむべからず、依らしむべし」というのが現実のようである。

しかし、医療の主体は患者である。
患者と医師・医療従事者との間に良い関係がなくて、どうして治療効果を期待できよう。

偉大な内科医、ウィリアム・オスラーが医学生に語った言葉を想起する。
  「患者さんの話に耳を傾けなさい。
   彼はあなたに診断の仕方を教えてくれているのだから」。

医師は、医学知識や技術により患者に仕える者であり、患者との関わりを通して真の医師になっていく。
子ども産むことで親になるのではなくて、子どもとの関わりを通して親になっていくのと同様である。
このことからもわかるように、有能な医師を育てるのは患者でもある。

人間は共に育て合い、共に育っていく関係であり、真にそのことを理解しているならば、誰に対しても謙遜になれるはずだ。
そして謙遜であるならば、上下関係の構図であっても相手に対して語ることができる。
高圧的な人に対して口を開くことは、確かに勇気がいる。
しかし、特に医療や教育現場では勇気を出さなくてはならない。


患者やその家族の人も、医療に対して盲従するのではなく姿勢を変える必要がある。
医師に対して受身であってはならない。
自分の病気を医者という他人任せにしないで、主体的に病気に向かってほしい。
それは即ち生きる姿勢の転換であり、そのことが有能な医師を育て、より高い医療を実現していくことにもなるからだ。

患者が第一に望むのは、医師を信頼し、安心して受けられる医療なのだ。
医師に願うことは、心をこめて患者に接すること。
例えば、病床にある人と話す時は、椅子に座り目線を患者に合わせる。
患者を大切にするとは、このような小さなことから始まるのだと思う。

患者と医師が対等の立場に立つ医療でなければ、どんなに医療が進歩しようとも、私達は医学に対して安心できない。
一人ひとりを大切にする生き方。
このことが、日本社会の問題多き縦割り意識を崩すためにも、最も重要であると考える。

人は自分が病まなければ病む人の悲しみや苦悩を感じとることができないのだろう。
しかし、医療職にある者は患者の気持ちをわかろうとする感性が必要だ。
真心をもって患者に接し、感性高く患者の気持ちを感知できるように励んでいただきたい。
専門分野が細かく分科発達した現代医学では、そのことがとりわけ大切である。
しかも、今の医学でさえ完成されていないのに、医師は傲慢になりすぎている。
どうか臓器だけを診ないで患者全体を診てほしい。

人間は不可思議なもので、同じ病気でもそれを受け止める人によって症状の現れ方が違い、それが個体の持つ生命力であるというではないか。
医学は決して科学の一分科ではなく、人間学そのものである。
そして、人間学で最も大切なことは自分自身を知ることである。

医学の情報だけではなく、自分の心を働かせて患者の心を導けるような有能な医師を目指してほしいと願う。
人は皆、大切にされたい。
病んだ時はなおさらである。

医師よ、医療従事者よ、驕るなかれ。
あなた達も病み、老いて、いつかは朽ちる肉体を持った人間なのだから。

     (東大阪読書友の会会報 1993年4月発行
         『かわちの』第41号より転載)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これを書いたのは長女が高校に入学した年であり、母の通院介助で住友病院へ通っていた頃である。
2度目の入院時だったと思うが、神経内科を専門とされる院長の回診や部長回診に出くわし、そこに繰り広げられている光景は「白い巨塔」と同じで驚愕した。
患者は完全に物体(マテリアル)として扱われ、病棟の婦長さんは院長や部長に対してビリビリし、その一生懸命さは滑稽なほどだった。

回診の時、家族は一斉に廊下へ出されてしまうので、その理由説明を求めたが意味不明で理解できず、私は不安がっている母の傍らに居た。
どの科でもそうであろうが神経内科の病気はミゼラブルなのに、これでは原因不明で治療法も確立していない難病患者は医学研究のモルモットでしかないではないか。
その後、院長室を訪ねたが不在だったため、数日後、手紙を秘書の方に託した。

アメリカでは既に1972年に「患者の権利章典」が医療側から発布されている。
この章典は、医療の主体は患者であるということを宣言したもので、全て患者が主語で書かれている。

「医師よ驕るなかれ」を発表してから今までの13年間に、日本の医療現場もかなり改善されてきた。
しかし医療現場だけではなく、それ以上に前時代的でさえあると感じる社会を私はいま体験している。
これまで僅かな経験ながら小学校のPTAから始まり、東大阪市の教育や文化行政にも携わらせて頂いて多くの学びの場を与えられてきた。
ところが、今まで経験したことのない雰囲気を体験している。
都会とは違って奈良という地方性によるものなのか、その組織、あるいは構成メンバーによるものなのか分からないが、少なくともずっと継承されているようであり、この違和感は当初から大変に気になっていた。
このこともまた良き経験となるように祈りつつ務めているところである。

いずれにしろ、根本は同じところに起因していると私は考えている。
即ち、何事も受身ではなく、主体的に生きることの大切さを訴えずにはおられない。



posted by 優子 at 09:38| 掲載文 | 更新情報をチェックする

2006年04月03日

ブログ考 A

評論家の柳田邦男は『「死の医学」への日記』(1996年)で、
「現代は闘病の社会化の時代で、様々な人々が闘病記を書いて出版するという日本の文化史、精神史上かつてなかった現象」であると書いている。
そして、この現象は良いことであると肯定し私も同感である。

人はなぜ書くのかについては、『「犠牲」への手紙』で以下のことを挙げている。

@ 書かなくてはいられないような抑えがたい情動に突き動かされて書く。
A 自分の生の証しを書く。
B 自分の癒しのために書く。
C 癒しだけではなく、一歩進んで自らの再生のために書く。


2002年9月の読書会では、私が推薦した柳田邦男の『犠牲(サクリファイス)』を取り上げて頂いた。
現在、評論家として活躍されている柳田氏は大変な地獄を経験しておられる。
長い年月、神経症を患っていた次男・洋二郎さんが、とうとう1993年8月9日の深夜、自ら命を絶ってしまったのだ。
我が子の自死(自殺)と脳死という過酷すぎる十字架を負った親の苦悩は計り知れない。

この内容はあまりに重くて推薦するつもりはなかったが、テキスト選出の折に補欠候補どころか11冊さえ出揃わなくて困っていた。何か推薦をと頼まれて頭に浮かんだのがこの本であったから、推薦の動機は特にない。
しかしテキストの推薦者であるから、この機会に何冊か柳田氏の本を読んだ。

ちょうど同じ月に、「トゥルニエ読書会」があった。
トゥルニエは既に天に移られたが、スイスの有名なクリスチャン精神科医である。
この時、この会の導き手となっておられた精神科医のK先生が、
「最近はいろんな人が闘病記を書いたりするが、・・・書かなくてもいいのにねえ・・・。」というようなことを話されて、驕りのようなものを感じ、精神医学を専門とする人の意見らしくないと思った。

この時の例会は日帰りのリトリート(”retreat”とは、仕事や家庭の日常生活から離れ、自分だけの空間や人間関係になる生活を意味する)だった。
K先生にこんな考えもあることを紹介すべく、ちょうど持っていた『犠牲』のレジメを休憩の時にお渡しした。数日後の読書会でお配りするために、この日、電車の中で赤ペンを入れて校正していたものであったが失礼を承知でお渡しした。
そこに冒頭に示した柳田氏の言葉を引用していたからだ。

   読むことは 人を賢くし
   聞くことは 人を豊かにし
   書くことは 人を確かにする 
と言う言葉がある。

書くことで思いもしなかった気づきや発展があるのだ。
本を出版することは、誰か特定な人々の独占特許ではない。
例えば、難病に苦しんだ母の死を社会化することによって、難病を見事に闘い抜いた母の生を意味あるものにするのだ。
そのことがユングの言う「コンステレーション」という概念ではないのか!


私も生ある時に、一書を書き上げたいと願っている。

「トゥルニエ読書会」に参加していた頃は、父と別れて2度目の夏が巡り来た頃であるが、私はまだ悲嘆のプロセスの中にあった。
というのは、父が召された季節が近づいてきた頃、ある人々に対して怒りの感情が急に湧き上がってきたのだ。今まで何年間も耐え忍べたことが耐えられず、自分の感情を持て余すほどに人を許せぬ感情で苦しんでいた。

それが不思議なことに秋が深まる頃には治まっていた。
次の年もまたあのような苦しい感情に支配されるのではないかと、私は夏が近くなる6月頃から不安を感じていた。
しかし、父が召された季節を迎えても私の心は穏やかだった。
このことから、あの頃はまだ「悲嘆の癒し作業」(グリーフワーク)期間だったことを理解した。
あの時、父と別れて1年目の事だったと思っていたが2年目だったのだ。
人は悲しみを受容できるまで、少なくとも3年という時間が必要なのかもしれない。

とにかく、「書くこと」が如何に意義深いことかを知っているがゆえに、当分の間はブログを通して自己認識を深めて行きたいと思っている。
また、現代社会においてどのようなブログ文化が構築されていくのか興味深いものである。







posted by 優子 at 02:05| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2006年04月01日

ブログ考 @

ブログを書き始めて3ヶ月が過ぎようとしている。
相互リンクを張らせて頂いているおふたりと違って、私は全く遊びでやり始めたのだが、2日後には書く感覚が息を吹き返し、3日後には死んでいた私が甦ったような感じがするほどに、大変な勢いで思考力も感性も動き出していった。

ところが間もなく感じ始めたことは、読み手を意識しながら書くブログは自己満足ではないかという想いであった。
幸いにして、書くことの意味についての認識を深く持っている私は、その想いはまもなく覆された。
ただし今も残っている問題意識の中に「甘え」はないかというのがある。

つまり、自分の話だけを聴いて頂いているということから「甘え」に繋がらないかと懸念しているのだ。
このことは当初感じた自己満足とはまた違った意味合いである。
数分であっても私のブログを読むために時間を頂き、時に応じて優しい配慮に富んだコメントやメールまで頂くのであるから、甘えに慣れてとんでもない人間になっていくのではないかという懸念すらある。

このこと自体が過剰な、あるいは間違った自意識なのかもしれないが、曖昧な認識のまま続けることはできないし、一方で、書物と違ってブログ(ネット)ゆえにこのような過敏な感じ方をするのかもしれないとも思っている。

「ブログを書くのは暇な人だから」ということも耳にした。
このことに関しては、生活の必要のために働かなければならない場合は別として、私は本を読んだり書いたりすることを選び取っているのであり、神さまから与えられた時間をどのように使うかはお金と同様に、それぞれに委ねられている。

私もまた、クリスチャン姉妹おふたりのように神の愛をお伝えせんがために一字一句を刻んでいきたいと願っている。喜びも悲しみも、失敗も成功も、怒りも全て、自分自身の生き様を通して、キリストを証しする生涯であることを願っている。

私の「生きるということ」の認識の根幹にある一つが、人はお互いに影響を与え合いながら育ち合っていくということである。従って、経験を分かち合い、学び合っていきたいということにアクセントが置かれるので、ブログの有効活用もできるという考えに至る。
このことにより、私にとってのブログの位置づけを確認できたので今後も書いていこうと思う。
ただし、「今日は何を書こうかな・・・」と思うような時は書かないことにしている。

         (つづく)
posted by 優子 at 10:12| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする