2006年07月29日

知子と真智子に綴った記念誌より

   この冊子は真智子と知子に贈る唯一の花嫁支度です

娘たちが結婚する時には、娘の幼かった頃の絵や作文などと共に、私の想いを綴ったものを1冊の本にして引き出物の中に入れたいというのが、私の長年の夢でした。
娘たちがそれぞれ大学を卒業した頃から気になりながらも、結婚が決まってから必死になれば何とかなるだろうと思い、日常の忙しさにかまけて何の準備もせずにいました。

このお正月に長女の縁談が整い、7月に挙式というだけでもこの夢を実現させる自信はありませんでした。
しかも、次女までが6月に結婚ということになり私は諦めの心境になっていましたが、それでも諦めきれずに悶々としながらも4月を迎えた頃にはついに諦めたのでした。

日がどんどん過ぎて行く4月19日の夜のことでした。
急に私の胸に強い思いが突き上げてきたのです。
「 書きたいんだろう?今、やらなくては後悔するよ。わたしも手伝うから!」
と、イエスさまに後ろから押し出されたように感じました。
祈りました。
祈りつつやり始めました。
そしたら出来上がったのです!
意志が弱く、努力できない者ですのに真智子のものを4月26日に脱稿し、27日に印刷業を営む兄に届けました。(その後、二度も改変して5月8日に最終原稿を渡しました)
続いて、知子の冊子に取り掛かりました。

制限された短い時間の中ですから内容も限られてしまいましたが、そのぶん濃縮されたものになったかもしれません。
諦めきれないのに諦めるしかなかった私に、この思いを与えて実現させて下さった主(神であられるイエスさま)に感謝します。

  「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、
  かつ実現に至らせるのは神であって、
  それは神のよしとされるところだからである。


                    (ピリピ人への手紙 2章13節)

この冊子は、母から娘へのはなむけの気持ちを綴ったものであり、娘に伝えておきたいことを書き記したものですが、知子のことをお心にとめて下さった方々にもお読み頂き、記念に御許に置いて下されば望外の喜びです。        
                      
                            優子
                       
posted by 優子 at 17:26| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年夏・渡米前の真智子と太志君

6月25日(日)、お隣りのおばあさんにサイパン旅行のお土産を届け、7月24日(月)には真智子たちの結婚式のビデオを見てもらったり、祖母との交わりに貴重な時間を割いていた。
この時、知子たちは機上の人、カナダに向かってフライト中である。

翌25日朝、お得意先の出版社と詰めの商談があり父と共に美濃紙業へ。
この時、太志君が寂しそうな顔をしているのは、私とはこの時が見送りとなったから。

仕事のあとは森之宮で降りて新大阪に向かえばいいのに、寂しいからと再び会社まで付いて来た太志君。
しかし、そのお蔭で先方から届いた商談成立の吉報を知って帰郷することができた。
このことはまた、美濃紙業(株)ソフトウェア開発部の初めての足跡でもあった。
前夜も2人は遅くまで書類を作成していたね。
何事も「情熱」こそが決め手であり、「一生懸命」は魅力的だ。
長田駅でいつまでも別れを惜しんでいたという太志君(^−^)。

太志君、真智子、3月からの最高に忙しかった日々は最高の思い出になりました。
あまりに懐かしくて、秋を迎える頃にクリスチャンセンターや難波の衣装屋さんなど訪ねてみたい気持ちです。
太志君、真智子のことをよろしくお願いします。
いつもいつも二人のことを祈っています。

posted by 優子 at 09:46| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年07月28日

寂しさを分かち合う

成田のお義母さんと初めてお会いしたのは、昨年2月、東大大学院修士課程終了式で上京した時だった。
この時、残念ながら保護者は別室で同時中継の映像を見ていたのであるが、博士課程卒業時は保護者も安田講堂に入れるから是非ご一緒しましょうと話し合ったことであった。
ミネソタ大学へ行くのだからそれは見果てぬ夢なのか・・・・。
東大で博士号を取るならばあと2年半、わざわざ5年も要してアメリカへ渡らなくてもいいのにな。

別れの日が近づき寂しさを覚えていた時、成田さんに発信した返信メールには次のように書いて下さっていた。

確かに離れることの寂しさが増しています。
でもそれ以上に2人からの便りが来ることに期待して気持ちを弾ませることにしています。

知子さん達は素敵なカナダを楽しんでいられることでしょう。
引き出物でいただいたカップを主人がとても気に入り、早速、毎日のカップとして愛用しています。
           (略)
優子さんには間近に素敵な方がいるではありませんか。
穏やかなご主人様の大ファンです。
これを機会にフルムーンの時を大いに楽しんでください。

真智子さんの日本での時間を少しでも快適に過ごせるようがんばります。
東京に帰ってくる日を心待ちにしています。気をつけてと伝えてください。


真智子はなんて幸せなんだろう。
いくら現代でも嫁姑意識は不変であろうのに、愛深く芯の強い肝っ玉かあさんだ。
今日から1週間ほどお世話になる。
感謝。

ところで、知子たちのサンクスギフトはカサが大きくて恐縮したが嬉しい反響を頂いた。
一般の人々には珍しいものであるし、落ち着いた色のカップだからきっと気に入って頂けるのではないかと思ったのだ。

カップに記されてある魚のマーク、その中にギリシャ語で「IXθYΣ」と書かれてあり、「イクソス」と読む。意味は「魚」である。

それは、JESUS CHRIST(イエス・キリスト)
      Son of GOD  (神の子)
      SAVIOR    (救い主)

ギリシャ語でこの5つの単語の頭文字をつなげると「魚」という言葉になり、古く2000年前のキリスト教のシンボルとなっていた。

☆気に入って頂き愛用して下さっているとは嬉しいです。
posted by 優子 at 16:24| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

今までの中で今が一番楽しいです・真智子

ママ〜。暑い中お見送り有難う。いつもイエス様と頑張るよ。人生楽しむよ。
一番寂しさを堪える場面でおばあさんに会って、ある意味気がほぐれて良かったね(笑)。
一応手を振ってくれてたね。(優子付記・表情の少ないおばあさんなので)

ちゃっくん(愛犬チャッピー)とパパと3人で朝晩歩くといいよ。
お父さんの内蔵脂肪レベルを一桁代にすることを目標に。
三人仲良くね(^O^)v


駅に着いて切符を買い終えた時、国分の眼科へ目薬をもらいに行ったおばあさんが降りてきたのだ。
家を出る時に立ち寄ったが会えなかったので本当によかった。
神さまの計らいだと思った。
そのこともあって私たちに涙はなかった。
いや、おばあさんと会わなかったとしても私は大丈夫だったような気がする。真智はどうだったかわからないけれど。

50メートルくらい離れているプラットフォームに立つ真智子に私は叫んだ。
イエス様と一緒にね!!!お祈りするのよ!!
うん!!するよー!!!」と、元気に手を振った真智子。
チャッピーはこの時ばかりと猛烈に草を食べていた。
帰り道、スーツケースを取りに来て頂くようにクロネコさんに立ち寄った。

真智子は11時8分の電車で行った。
家を出る前、真智も泣いていた。真智はそもそも外国在住は嫌だから本人も耐えているのだ。
2月早々に真智子に合格通知が届き、3月に入って彼にも合格通知が届いた。
その時から急展開、私たちも娘の結婚に向かって一生懸命の日々だった。
そして、とうとうこの日が来てしまった。

真智子を見送り、静まり返ったリビングに一人ぽつんと座って蝉の声を聞いていた。
3月からのことを思い出し、このように運んでくださった主(神)に感謝の祈りを捧げた。
その後、3度目の洗濯物を干し終えて横になるといつの間にか眠ってしまった。

さっきお弁当食べたよ。鮭は朝、食べなかったけどおいしかった。有難う。
今は静岡ぐらいです。
この半年は本当に激動だったね。でも超楽しかったね。
昔から思うけど、今までの中で今が一番楽しいです。
ママも色々出番頑張ってね!

     (2時28分発信、東京に向かう新幹線の中の真智子より)
posted by 優子 at 15:14| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

ついに別れの時が来た

昨日は、真智子が滞在する最後の夕食だった。
「明日はあなた(夫)が真智を見送ってほしい。私は駅へ見送りに行きたくない。」と言って泣いた。
今、これを書いている時も涙が出てくる。

今朝、夫が玄関に立った時に私は言った。
「今なら真智がいるから、そっと寝ている真智の姿を見ておいでよ。見に行かないの?」
「いや、いい」
「辛いから?」と聞くと「そうだ」と言った。
「それでも見ておいでよ。もう今しかいないんだから!」と私はダメ押ししたが、夫は「いい」と辛さをこらえながら外に出た。

「切符は自分でやってみると言うといて」とだけ言った。
2ヵ月後の北海道出張の飛行機の格安チケットを、インターネットで買ってほしいと真智子に頼んでいたのだ。
今までは知子に買ってもらっていた。

必要最低限の言葉しか言わない夫である。
毎度のことながらそれでも尚、子犬がまとわりつくように車を発進させようとしている夫に求める私。
「真智に何か言ってやらないの?」
「元気に勉強がんばりって言うといて」と、寂しさをこらえながら車の窓越しに言った夫。やわらかい微笑みを浮かべていた。

あっ、真智が起きてきた。
見送りの時はどうなってしまうんだろう。

今朝はひときわ激しく蝉が鳴いている。

posted by 優子 at 08:20| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年07月27日

真智子と外出した国分駅界隈

昨日は真智子と一緒に二駅向こうの国分(こくぶ)へ行った。
コンタクトレンズだけではなくメガネを作っておいてほしいからだ。
娘2人とも視力は大変悪く0.02くらいだろうか。知子がコンタクトレンズを使い始めた中学校入学時、小学校4年生の真智子もレンズを装用し始めた。メガネを持っているものの0.1程度にしか合わせていなくて、せめて0.5くらいは見えるものをと随分前から作るように言っていたのだ。

ようやくその気になってくれて0.7程度のを作ってもらった。
少し前に同じ店で知子もメガネを作ったところだが、視力は知子よりももっと悪いと言われた。きっと、0.01くらいだと思う。常に、そして、これからもパソコンに向かわざるを得ない日々であるからどうなっていくのだろう。
真智子はアメリカ行きに備えてコンタクトレンズを6組購入した。
知子のようにワンデイの使い捨てレンズの方が良いのではと思うが、真智子のように最悪に目を酷使する者にはソフトレンズはかえって良くないのだ。

遅くとも28日にはほしいということで、1日で作って頂ける可能な商品の中から選んだ。圧縮レンズであるにも関わらず今日の夕方にはでき上がるようにして下さった。夫の会社帰りの道沿いにあるので取ってきてもらうことになっている。
シミズメガネの店長さん、感謝します。

真智子と外出はめったにないことだから尚のこと気の利いた店で食事がしたい。しかし、国分にはそのような店はなく何ということ、昼食は「王将」だった。
辛い!
しかし、こんな時はいつもそうであったように真智子の導きで私の辛さは消え、感謝の昼食タイムになった。
王将さん、ごめんなさい。
汗だくになって作って下さっていた店長さん、ありがとう!

そして、真智子はカットに行った。
3年4ヶ月間の東京時代も、真智子はついに東京の美容院へ行くことはなかった。
帰省した時にこの店に行くのである。特にお気に入りだからというのではなくて、多忙な日々にあって美容院へ行くという優先順位がいつも第2第3になってしまったのだ。だから1年間に美容院に行く回数は3回であり、その間はスキバサミなどで適当にやっていたというからお見事と言うほかない。
先月に続いて、たった1ヶ月で美容院へ行くのは初めてだったのではないだろうか。

そしてケーキを買って、最後に駅と合体しているライフ(スーパーマーケット)でお買い物。
「欲しい物は何でも買ってあげるからね」と言う私も辛かった。
アメリカへは最少の荷物しか持って行かないため用意をしていなかったのであるけれど、スーパーでパジャマなどの衣類を揃えるのはかわいそうな気がした。
嬉しそうに喜ぶ真智子。
花嫁支度でもあるのに!
ごめんね、真智。

大学1回生の春休みに1ヶ月間ヒューストンに行く前、国分の銀行でドルに換えてもらったね。そのあと大学へ行く真智を見送った時、雪が激しく降っていた。
その次の春休みはイギリスのラムスゲイトへ行ったね。国分の銀行ではポンドに換えられなくて梅田まで行くことになった真智を見送った。あの日も雪が降っていたね。

国分の駅にはいっぱい思い出がある。
寂しくなるから思い出はないほうがいいと思うほど私は寂しい。
posted by 優子 at 10:23| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年07月26日

いよいよプログラムのエピローグを迎える

結婚式の夜は、真智子夫婦と成田のお母さんと共に帰宅した。
家の中はお客様をお迎えするような状態ではなかったが快くご一緒して下さり、その夜は早速結婚式の写真を見ながらとても楽しい時間を持たせて頂いた。
気さくで明るいお方なので私もすっかり甘えさせて頂いて、翌朝のチャッピーの散歩もお申し入れをお受けしてお願いしたほどだ。

その夜、新郎新婦はリーガロイヤルホテルの特別のお計らいでビップルームに宿泊させて頂いた。
翌日の23日は、婚姻届けを提出するために京都へ行き、おばあさまや親戚の方ともお目にかかり、夕刻我が家へ帰って来た。

知子たちが帰宅後まもなくして、成田のお母さんを新大阪までお見送りに行った真智子たちが帰って来た。
運転手役のパパは駅と家を2往復。忙しくとも嬉しい悲鳴の仕事もこれで廃業となる。
こうして23日の夜は6人の全家族が揃い、本当に幸せなひと時だった。

ビップルーム宿泊は生涯経験することがないので聞いてみると、知子は息をつぐのも忘れて一気呵成に話した。
「部屋は家よりも広くて、石鹸やシャンプーはエルメスで揃えてあってね、朝食もすごかったよ。シェフの人が卵料理の希望を聞いて下さって、その場で作って下さったよ。」と話が弾んだ。

翌24日の朝、剛臣さんは夫を外まで見送って下さった。
その時の夫の笑顔は印象的だった。
そして、お昼前に剛臣さんと知子はお隣りのおばあさん(良輔の母)に挨拶して新婚旅行に出発した。
この日は平日で我が家のパパタクシーは本業に就いているため、関屋駅まで本物タクシーに来て頂き、私は家の前で新婚旅行に行く娘達を見送った。(関空までお見送りしないでごめんね)

知子と真智子は抱き合って涙の別れを告げた。
一週間のカナダ旅行なので知子たちは30日の夕方には帰国するものの福岡に向かう。その頃、真智子たちは東京に移っているし、まもなく日本を離れるのだ。
いよいよプログラムも終わりに近づいた。
残るは夫と私とチャッピーだけ。辛い!


24日(月)に真智子は香芝市の役所に海外転出届けを出し、国民年金の名義変更やバイク譲渡のこと・・・など役所関係の用事を終えた。
いつもいつも時間いっぱいの真智子たちなので夕刻になったが、お隣りのおばあさんに結婚式のビデオを持って訪ねてくれた。戻ってきたのは9時、大急ぎで夕食にしたことだった。

そして昨朝、真智子夫婦は美濃紙業ソフトウェア開発部の社員として夫と共に出社した。
午後一時にお得意先である出版社を訪ね、その仕事が終われば太志君は真智子より一足先に東京へ戻り彼自身の用事をかたづけることになった。
この朝、私は太志君と別れの挨拶をし涙した。

真智子も28日には行ってしまうが別離の覚悟ができていただけに、気持ちが揺らがないうちに大志君と一緒に出発してほしいとさえ思っていた。
しかし、実家にあるアメリカ行きの荷物をまとめなければならないし、やはり少しでも一緒に居てくれるならそのほうがいいに決まっている。

それに大切なレクチャーがまだ終わっていない。
デジカメの撮り方はわかったものの、パソコンに取り入れる方法がまだだ。一昨日もブログに写真を掲載するだけならばノートを見ながらできると思っていたら、やり方が改訂されていて本当に困った。
お願いだから改訂しないでほしい!
そのほかにスカイプの設定もできるようにならねばならない。
今は設定できているが、トラブッタ時に最初から設定し直せるように教わるのだ。(宇宙飛行士の訓練みたい)
とにかく機械は苦手な上に、さび付いた頭だから大変である。

ところで、太志君は私たちや家田のお父さんのために当日はビデオまで撮ってくれた。
真智子もマメに200枚も写真を撮ってくれていた。
ホテルの写真屋さんにもビデオをお願いしてあるができ上がりは9月になるというので、素人ながら家田さんへの速報ということで早速ダビングして真智子の手紙と共に用意してくれた。
ありがとう、太志君と真智子!
今夜、病院から帰宅された夫人が手にされることであろう。
愛の贈り物が病床の家田さんをお慰めすることができますように、主の豊かな慰めを祈りつつ。


posted by 優子 at 16:33| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年07月25日

知子と真智子

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私たちの最愛の娘、知子と真智子。

子供たちが私たちから細胞分裂するかのように、それぞれの夫婦が核となって「家族水入らず」を構成した寂しさもあるが、数学で学んだ集合の図のように重なるところがあり、それが私たち夫婦である。

私たちは元の2人になったけれど、やはり家族が増えたんだ!

痛みを通して喜びを知った。しかも、神さまはこんなに素晴しい息子たちを与えてくださった。
神さま、ありがとう!



posted by 優子 at 11:45| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年07月20日

明日は今日よりもっといい!

昨夜は思ったより早く10時過ぎに夫と真智子が帰って来た。
父と子は東京駅のドトールで待ち合わせ、夕食はお弁当を買って新幹線の中で済ませたからだ。相変わらずハードな日々を送っている真智子は、今回も目の下にクマつき真智子で帰って来た。

15日の2次会では95名もの友人が集まって来て下さったという。
真智子の神戸大学時代の友人もたくさん来て下さった。遠くは岡山や名古屋からも駆けつけて来て下さった。
横浜から来て下さった放出教会の懐かしい友は小学校の先生。昨日まで修学旅行に行っておられたというからお疲れだったことだろう。
☆ソノちゃん、ありがとう。美しい娘さんになられて感激しました。
 集って下さった方々に心から感謝します。

真智子たちは、その後2次会の2次会、3次会と続き、終わったのは午前3時。
すごい体力にびっくり!

昨日は幸いにして雨が止んでいる時に荷物が届いた。
東京に運んだ時の半分ほどの荷物だったから運び込みは15分ほどで完了した。
9月末に知子達の新居に送る荷物と東京から戻ってきた真智子の荷物でいっぱいで、家のどこもかしこも引っ越してきた当時のよう。
やらなければならないことは山のようにある。

真智子は8月6日の旅券を取るそうだ。
しかし、実家に滞在できるのは8日間くらい。家を引き払ったあとのたくさんの荷物を研究室に運んであり、そちらでの用事もたくさん残っているそうだ。

昨夜も真智子と2人で話は尽きず午前1時過ぎにベッドに入ったものの、私は3時頃まで眠れなかった。

いつも空っぽだったベッドに真智子が寝ている。
知子もいる。
4人揃った幸せ。
ああ、できることなら 時間よ止まってほしい。

私もまだ明後日の用意さえできていないのに、「寂しい、寂しい」とフニャフニャしている時ではない。
潔くしなければ!
人生は進んでいくのだから!

posted by 優子 at 10:07| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年07月19日

家族の動き

朝から土砂降りの雨が降っている。
知子は自動車で父を駅まで送った。
夫は今日、王子製紙の社長就任披露パーティに出席するため、6時半過ぎの電車で東京に向かった。そして、真智子と一緒に帰って来る。
真智子の予定では明日の夜遅くか、姉の結婚式前日の帰宅予定であったが私の無理を聞いてくれたのだ。
そのために、明日の最終授業を今日にして頂いたという。
披露宴にも来て下さっていたロジャー先生に感謝!
今日の授業では真智子の論文を批評してもらうので有益だと喜んでいる。
父子の再会は夕方6時頃になるので、夫は披露パーティのあとお得意先を訪問してから東大近くの喫茶店で時間待ちすることにしている。

帰宅が2日早くなったので、17日に引越し屋さんに荷物を取りに来てもらった真智子だが、「明日が19日?!」とカレンダーを見て驚いていたことからも日々の様子を窺い知れる。
今日は廃品回収業者に不用品を持って行ってもらったあと、周旋屋さんに来てもらって家の引き払いを完了させてから大学へ行くことになっている。
そして、引越し屋さんからの荷物は今日こちらに届く。梅雨末期の豪雨の日に。

一方こちらの動きであるが、知子は私の用事である内祝いの準備までやり終えてくれた。真智子の時に4〜5日間も忘れていて大変だったからだ。住所も全てをエクセルに打ち込んでくれ既に昨日発注済みである。
明日は美容のことでホテルへ行き、明後日の結婚式前日は役所へ転出届けと戸籍謄本を取りに行くことになっている。

何もかもテキパキとこなす知子は、ホテル関係者にも驚かれている。
ベテランの宴会担当者は早々より「私の仕事までやって頂いて」と感動されていたし、17日に打ち合わせた司会者も、「ここまでできる人は100人いても100人ともできません」と大変驚かれて感謝されたという。

親の出来が悪いと子はしっかりするのだ。

真智子の最後の帰省もいつものように最終電車近くなることであろう。

posted by 優子 at 07:55| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年07月18日

リュニオン 懐かしき同志社

毎年8月になると同志社同窓会報が送られてくる。今年はいつもより早くまだ梅雨が明けない今日届いた。

私の関心度による今年のトピックは、何といっても今春、同志社小学校が開校したことであり、同志社総長も会報に書いておられるように、校祖新島襄の長年の夢が実現したことになる。
同志社大学、同志社女子大学、同志社中学校・高等学校、同志社女子中学校・高等学校、同志社香里(こうり)中学校・高等学校、同志社国際中学校・高等学校、そして、同志社幼稚園に続く12番目の学校である。

2番目のトピックは、昨秋、米大統領ブッシュ夫人ローラさんが女子中高を訪問されたことだ。
2005年11月16日9時45分から1時間来校されたとのことだが、同年10月6日に大阪の米総領事館から訪問依頼があってから、超VIPのファーストレディーということで全て極秘裏に進められたとのこと。

どの授業を見学して頂くか、教室か図書館か・・・など検討を重ね、当日でさえ生徒達にも伏せてお迎えしたという。
夫人が校内に入られた後はセキュリティーのために全ての門を閉ざし、夫人の位置が分からないよう部屋に入られた後はカーテンを閉めるなど・・・細心の注意をはらっての受け入れ態勢だった。

しかし、食べ物は口にされないという原則があったにも関わらず、和室のお茶席(立礼)ではお菓子も生徒の点てたお茶も召し上がるほど和やかな交わりがもたれた。その時の写真が掲載されている。

見学された授業は、ビジネスレター作成の高校3年生21人の英語のクラスで、帰り際に「ビジネスレターではなく、フレンドリーレターを下さい。必ず返事を書きます。」と仰ったという。英語の先生宛に届いたローラ夫人の手紙も掲載されている。

京都は「学生の街」と言われるようにたくさんの学校がある中で、同志社女子中・高が選ばれたことは光栄である。
英語クラスにいた生徒は、この出来事に触発されて英語の学習に励むことであろう。

同志社は昨年創立130周年を迎え、女子部は今年130周年を迎える。
7月1日の記事でご紹介したデントン先生の永眠記念礼拝は、12月22日(金)の11時から相国寺長得院墓前でもたれる。

この同窓会報を開く時、いつも懐かしい故郷に帰った気分になる。
posted by 優子 at 22:10| 随想 | 更新情報をチェックする

人々への愛に満たされる人生を願う

「明日はどなたも『おめでとうございます』と言って下さるけれど、いい気にならんようにな。感謝を忘れたらあかんで。」

私の結婚式前夜に父が私に言った言葉である。
私は今までにもこの言葉を何度も思い出し、真智子の結婚式の朝もわが心に刻んで家を出たのだった。
その夜、父の教えをしみじみ味わい、深め、このような父に育てられたことを今更ながら感謝した。 
今も記憶のスケッチブックに刻まれている懐かしい父である。

そして想う。

神が子供たちを送ってくださったのは、単に種の保存のためではありません。
わたしたちの心を広くし、利己心をなくし、優しい思いやりと愛情に満ち、
魂の目標をかかげ、能力の限りを発揮し、冒険心と努力を拡げる・・・・そのためです。
              
                  (メアリー・ヘウィット)


子供たちが巣立って行く今、果たして私はどれだけ良きに変えられただろうかと思う。
自分自身に目をやるとがっかりしてしまうが、だからこそ主に目を向けてこれからも主と共に生きていこう。
聖書は語っている。

  「人々への愛に満たされた人生を歩みなさい。」と。

              (エペソ人への手紙 5章2節)

神の恩寵を深く知る人生でありたい。
posted by 優子 at 11:32| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年07月15日

気力にかける夫と私

胸ふくらませて飛び立とうとする人たちを受けとめるには、周囲の私たち自身にも、夢や理想の実現を信じて歩む気力と体力が必要です。

3月17日の記事、友から贈られた「婦人の友」巻頭言を思い出している。

大変に不思議だと思われるかもしれないが、私はこの3週間ほど気力が萎えている。
次女が結婚し、来週の今日は長女の結婚式、それが終わればいよいよ次女達はアメリカへ発つというのに気力に欠け、倦怠感さえ感じている。

最初の頃は中だるみかと思っていたがそうでもなさそうだ。
こんなに日が迫ってきているにも関わらず精神がシャンとしない。
更年期障害なのだろうか、やる気がなく物事をテキパキと片付けられない。
喜びごとであれ大きなことが重なったゆえに動揺しているからなのだろうか、何もやる気のない自分を奮い立たせての闘いの日々が続いている。

夫もずっと冴えない表情をしているから、やはり娘たちの結婚ゆえなのだろうか。
私は鈍感でわからないのだ。
仕事のことで心配事でもあるの? 倒されたの? と聞いてばかり。

生き生きしているのは娘だけ。

真智子たちは今日、原宿のイタリアンレストランを借り切って2次会を予定している。
3日前には予防接種も済ませ、アメリカ大使館でようやくビザの申請も無事に終えた。ミネソタ大学のミスで書類が旧姓で処理されていたため、航空便で往復となれば手続きに手間取り8月初めに出国できないのではと気をもんでいたのだ。そうでなくても大学側は7月中に到着していなければいけないというので私もホッとしたところだ。

一方こちらは知子の婚約者が明日の友の結婚式のために来阪、今夜は我が家泊まり。
新婚旅行のスーツケースを持ってくることになっている。
私たちは今日、結婚式の費用全額を支払うためにホテルへ行く。1週間前に完済していないとやってもらえないのだ。それに比べてクリスチャンセンターは何と良心的なんだろう。請求書は事前にもらっていたものの、客を信じきっているからなのだろうか、支払いは式後1週間以内だったかと思う。
posted by 優子 at 08:52| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年07月13日

読書会活動の今後

次女の結婚式の後、一息ついて再び長女の挙式に向かって多忙な日々を送っている。
来週再来週に予定されている民生委員の仕事は休ませて頂くことにし、今日は無理をして地域の公立中学校の先生方との懇談会に出席した。

家を出る直前のこと、東大阪市の花園図書館長さんからお電話を頂戴した。
今年の読書会機関紙『かわちの』を読まれた方から、私の方へ連絡を取ってほしいとのことだった。読書会の事務局を花園図書館とし、会報には役員名しか記載されていないため図書館経由でこちらに届く。

この時の電話で、単発でいいから花園図書館で肩の凝らない体験読書会を開いてほしいとの強い要望を受けた。10月には花園図書館で東大阪と豊中との読書交歓会をさせて頂くので、来春ならばと申し上げたが是非とも今年中にと仰る。

さて、どうするか・・・・。

東大阪図書館協議会委員として4年前まで10年間務めさせて頂いたが、東大阪の図書館行政は大変貧しいものだ。
協議会では特に「子ども文庫」や朗読ボランティアの人たちが、常に行政に対して声を出し要望を訴え続けておられたが実態は悪くなる一方である。
2年前に私たちも市議会に対して意見書を提出したが全く効果なし、ついに図書館行政は行き詰ってしまった感がある。

今朝の話から察するに、図書館としてもかなりの危機感を持っておられるようである。
要は東大阪市の読書会など市民の力を借りて図書館の活動を盛り上げてほしい、特に会場を図書館にということであろう。
それよりも何よりもまず私たちが主張していることは、税金を使うべきところに使って本の専門家である図書館司書を多く配置してほしいということである。館長の求めはその趣旨と異にするものであるが、広報活動に熱心な現館長の熱意に対して応えたいと思った。
役員の方々にもご相談して是非とも実現させて頂くようにしたい旨を申し上げ、その節は市民参加を募るのであるから「市政だより」への掲載もお願いした。

今、団塊の世代の人々が徐々に定年を迎えており図書館に男性も増えてきている。この方たちを如何に巻き込んでいくか考えもするが、一方で、20年間続けてきた読書会を去ることも意識し始めている。
私は自分自身に残された制限時間が視野に入ってきており、私の最もやりたいことに絞り込んで行きたいと考え始めている。
即ち、読みたい本だけを読んでいきたい。
これは今までとは全く逆転の発想である。

今までならばこうである。
自分だけで本を読んでいると当然、自分の関心のある領域の本に限られてしまう。
しかし、読書会に入ることで領域を拡げることになり、話題になっている本にも触れられる・・・。何よりも人々の感想を聴くことにより感性を磨ける。実際その通りであったし、これからもそうであることには違いない。即断せずに神様の導きを求めながら時間をかけて考えていこうと思っているが、読書会自体の今後のことを思うと読書会活動から身を引くことは難しいのであろうか。

館長さんから問い合わせを受けて、午後3時頃になったが民生の仕事から帰ってきてお電話を差し上げたところ、その方は東大阪にある教会の牧師先生だった。
時々このように新しい方から読書会への問い合わせを受けるが、今回のように読書会のことではなくて私自身への問い合わせは初めてだった。
私の書いた文面からクリスチャンだと分かったとのことで連絡を取ってほしいと言って下さったのだ。副会長のセンリさんもクリスチャンであることを話し、主に在る者同志、直ぐに親しく話したことだった。

師は地域に開かれた教会として「こども文庫」や書道教室などに場所を提供され、明日がその第一日目であるということだ。
神様が御教会を豊かに祝福し用いて下さいますように!
今春、埼玉から移って来られたばかりで大阪商業大学が何処にあるかも分からないと仰った牧師のためにもお力になりたいと思う。


posted by 優子 at 16:47| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2006年07月11日

懐かしの文京区千駄木を刻む

2003年2月初めのことだったと思うが、真智子は東京での住まいを捜しに2泊3日で単身上京した。
何をするにも情熱的に取り組む真智子は、この時もまた全く経験のない部屋探しを短期集中で時間を最大限に活かして決めてきたのである。
それが文京区千駄木であり、東京で昔から「山の手」と言われている辺りであると説明された。

不忍通りを地下鉄千代田線が走っており、千駄木駅を降りるとすぐに団子坂がある。
この辺りは台地になっているので、団子坂、狸坂、動坂、大給坂など坂道が多く、それぞれに名前が付けられている。江戸川乱歩の処女作『D坂の殺人』の「D坂」とは、この団子坂のことである。

急勾配の団子坂と辺りの風景が神戸大学に通じる六甲の風景とよく似ており、引越しの手伝いに行った時の私は関西が恋しくて、この風景を六甲の風景に重ね合わせてホームシックを和らげていた。それもまた今は懐かしい思い出である。

その直ぐ近くに鴎外記念本郷図書館があり、この地が森鴎外の「観潮楼跡」である。
ここは本郷台地の東側にあたり、かつてはここから谷中・上野山から遥か東京湾の潮路も眺めることができたことから、この地に移り住んだ鴎外が「観潮楼」と名づけたのである。

そして、与謝野寛、伊藤左千代、石川啄木、斉藤茂吉・・・など多彩な文学者がここに集っていたというから、近代文学の中心地でもあった。
私は当時の光景を想像しながら、図書館に収められている森鴎外や樋口一葉自筆のものを興味深く見せて頂いた。日本一の大都会である東京の街は史跡の宝庫でもある。

真智子の家の真前は、今では看板だけになっているが高村光太郎旧居跡であり、近くに宮本百合子ゆかりの地がある。鴎外図書館の向かい辺りだったと思うが青鞜社発祥の地がある。

他に夏目漱石旧居跡である『猫の家跡』、サトウハチロー旧居跡、樋口一葉宅跡に一葉終焉の地、啄木ゆかりの2箇所、坪内逍遥旧居跡・・・・などあとを絶たない。すべて歩いて行ける所だ。

また、東京大学自体が観光名所になっていて、毎日ツアーの見学者が訪れている。と言う私も見学者の一人であったが、真智子にキャンパス内を案内してもらい何度か三四郎池も歩いた。

この池の形は「心」という字に似ていると言われている。まあ、そう言われればそんな感じだ。今頃は巨大な蛙の声で賑やかであろう。
大学正門側にある赤門ほど有名ではないが、大学の裏側にあたる医学部入り口の門を「緑門(りょくもん)」と呼ばれていると成田さんのお母様に教えて頂いた。
犬の散歩に来ている人もおり、私もチャッピーを連れて歩きたかった。

東京と言えば神戸のように教会が多いように感じていたので、根津教会を訪ねた時に牧師先生にお聞きしたことがある。
まさしくその通りだった。
東京大学がまだ東京帝国大学であった時代に、これからの日本をリードしていく人物を養成しようと、帝大生に対して熱心に伝道すべくいくつもの教会が献堂されたのだった。

かつての東大総長である矢内原忠雄は名を残したクリスチャンである。そういえば昨年上京し根津教会で聖日礼拝を守った時も、東大大学院教育学の助教授が来られていたから驚いた。

そして、いよいよ真智子は千駄木を去ろうとしている。
あの時、私も熱心に街を散策したものだから今でもどこにお蕎麦屋さんがあって、どこに八百屋さん、お米屋さん、スーパーがあるのかもよく覚えている。

懐かしい千駄木の街よ、本郷の街よ、ありがとう。
真智子の東京時代にもっと行っておけばよかった。

posted by 優子 at 12:00| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

忘れ得ぬ2006年 夏

今朝、知子の引出物に入れる冊子ができあがったと兄から嬉しい電話が入った。
今度は次の原稿をお願いするわけではないので出向かなくてもよいのだが、少しでも早く手にしたくてお礼方々、月曜日の朝に美濃紙業で直接受け取ることにした。(^0^)

さて、土曜日と言えば我が家では食料を買い出しに行く日である。
長女は体調不良のために買い物にはめったに付いて来ないが、今日は最後の機会とあって3人で出かけた。
幸いにして退社してからは健康も強められており、日々忙しく動いている。
ホテルとのやり取りから全て着々と用事をこなし、今朝は選りすぐりの生活必需品3箱を宅急便で福岡へ送った。ダンボール3箱の花嫁である。

真智子たちもまもなく千駄木の家を引き払う準備に入ることだろう。
ところで、アメリカ合衆国なのに在住のためには免疫注射が必要で、ミネソタ州からはジフテリア、破傷風、はしか、おたふくかぜ、風疹の5つの免疫注射を受けることを義務付けられているという。
そのために、接種した過去の記録が書かれてある母子手帳が必要とのことで数日前に送った。

私は娘たちに母子手帳と共に、生後1ヶ月の泣き声から始まる子ども達の成長を追った4本のテープを渡そうと思って、ようやく今になって用事をしながらダビングしているところである。
テープの中にある幼かった日々も、母子手帳に書き込んであるできごとも、全てがつい昨日のことのように思い出される。

   ゆきなれた路の
   なつかしくて耐えられぬように
   わたしの祈りの道をつくりたい


八木重吉の詩、「祈」の言葉は言い得て妙である。

私もまた、なつかしくて耐えられぬ気持ちである。

真智子たちは来週の15日に東京で2次会を予定している。
東京の友人達と共に、原宿のレストランを借り切って90名近い参加者でパーティを開いて頂くらしい。
この時、横浜に転居された放出教会の懐かしい2人の友人とも再会するとのことだ。
婚約した時には、神戸大学のアドバンストコースの友人達が集まって下さり、遠くは下関からも来て下さったという。
何という幸せな時を持たせて頂いているのだろうか。

神様、集って下さる若者お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますように、これら一切のことを通して若者達の生涯を導き、豊かに祝して下さいますようにお祈りします。

2週間後の今頃は披露宴が始まり乾杯の頃だろうか。
結婚式に向けて娘たちと共に私達を整えて下さいますように、そして、祈って下さっている方々に私達以上の祝福がありますようにお祈りします。

posted by 優子 at 16:09| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年07月07日

全てが神様の摂理  『患難をこえて』より

私は人を許せぬ苦しみにより神様と出会ったが、このことはまもなく始まる苦難の前に、神様が私に備えて下さったことであった。

母は何十年もの間、愛をもって地域の困っている人々のために尽くす私には過ぎた母だった。
その母に難病である。
しかも、その難病の苦しみよりも両親を苦しめたのは、相変わらず勝手気ままに生きる身近な人であった。

私の見るところ善良な人ほど苦難があり、他者を省みることのない人ほど平凡な日々が許されている。この理不尽で不条理な出来事こそが私の苦悩であった。

そのうち「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。」ということにも疑いを持つほど苦しみ、心の中で神様のことを「おまえ」呼ばわりしたこともあった。
苦しみの意味が分からなくて「どうして?」と子供のように泣いた。

いつしか私達夫婦の関係も行き詰まり、娘達をも悩ませ、家庭に安らぎはなくなっていた。
その間に母は召され、その半年後、脳梗塞に倒れた父も危篤状態を繰り返していた。
そのような日々にあった時、夫の親族との確執が明らかになり、悔しさや怒りを通り越して唖然とし、夫にも絶望した。

ついに私は自己の一切の力が尽き、もはや逃げ場は神様しかなかった。
しかし、この大打撃によって、ようやく私の頑なな心が破れ砕かれて、霊の目が開かれたのである。

あの人がどうのこうのではない。
徹底的に神様と自分とのことでしか、神様の真理、愛はわからないことを知った。
私はここまで経験しなければ納得できない強情者であり、これらのことは私がどうしても通らなければならない狭き門であった。

神様との凄まじい12年間の格闘であったが、神様は見えざる手で私を握り締め、一つひとつ越えさせて下さったのである。
全てが神様の摂理であり、感謝に変えられた。   

    「わたしはあなた(神)の事を耳で聞いていましたが、
     今は、わたしの目であなたを拝見いたします。


                    (ヨブ記 42章5節)
 

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
2004年7月に日本クリスチャンペンクラブから発行された『患難をこえて』に寄せた証しである。

パスカルは著書『パンセ』で、「神を知ることから神を愛することまでは、何と遠いのだろう。」と言っているが、私が神様と出会ってから神様の愛が分かるまで何と遠かったことだろう。

しかも、神様の恵みの中で感謝して生かされているのに尚、時としてつぶやきが出てくる弱い者なのだ。
しかし、私がそのようなどうしようもない者であることも神様はご存知であり、それにもかかわらず神様はどんな時も私を愛して下さるのだ。

そのことが分かった時から、私は生きることに真剣になった。
posted by 優子 at 22:35| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2006年07月05日

挫折から生まれる恵み

    牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。
    しかし牛の力によって収穫は多くなる。

               
                     (箴言14章4節)

飼い葉おけを汚さないできれいなまましておきたいと思うならば、牛を追い出せばよい。
しかし、牛のお蔭で多大な収穫を得る。

人はそれぞれ異なり、それぞれの悩みを抱えている。
それぞれが長所と欠点を持ったお互いであるから、人間関係で問題が起きるのは避けられない。

しかし、クリスチャンは神に赦された罪人である。
自分の弱さ、醜さ、罪を知っている民である。
主(神)は、そんな愚かな者をも用いて御業(みわざ)を成して下さるのだ。
主の恵みに目を向けて何度も何度も立ち上がる生涯でありたい。

    かいぬしわが主よ 迷う我らを
    若草の野べに   導きたまえ。
    我らを守りて   養いたまえ、
    我らは主のもの  主に購(あがな)わる。

                
                     (讃美歌 354番)
posted by 優子 at 23:01| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年07月04日

大切なことは目に見えないよ!!

あなたは、養殖の鴨が自分の力で生きていけないのをご存知ですか。
目に見えるところは鴨の形をしていても、人間の管理のもとにしか生きていくことができません。
野性の鴨は、一年に三回しか卵を産みませんが、養殖鴨は毎日産み、自分では卵をかえすことができません。
本来、寒さに強い鴨なのに、冬に外に出すと凍死してしまいます。そして、最も悲しいことは、親子の関係がなく、子どもが餌を食べにくると、突っついて食べさせないのです。

この話は私にとって直下型激震のごとく目が開かれる思いでした。
私たちも子ども達に同じことをしているのではないか。
合理的で管理的な教育。
人にしてもらうことは上手でも、人には何もしない。
このままだと将来、人間関係を大切にするというような非合理的なことは理解できなくなるのではないかと、自らを探られた思いでした。

そして、私の大好きな童話の一つ、『星の王子さま』が強く心に迫ってきました。
今(1991年)から50年ほど前に書かれたサン・テグジュペリの『星の王子さま』は、子どもから大人まで世界中の人々に愛読されています。

ある星から地球にやってきた王子さまが、地球の人間、特に大人たちは大切なことを見失っていると訴えます。
権力や財産、学識や仕事よりももっと大切なものがある。
それは愛なんだよ。愛に気づくことが大切なんだよと教えます。

大切なことは心で見なくちゃ見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ。

この美しい言葉こそが、この物語のテーマでしょう。
そしてそれは自分で育てていかなくてはならないものであるのに、反対に私たちは成長するたびに失ってきたように思います。

大人は目に見えるものに心を奪われすぎています。
人間を人間たらしめているのは精神性であり、目に見えないものにこそ目を注がなくてはなりません。

私たちが生きていく時、本当に大切なものは何でしょうか。
この作者は何を最も大切にしなければならないのか、そして、それを見極めることの大切さを伝えたいのだと思います。

私は今、臨床心理学を学んでいますが、子どもにとって親の生き方が如何に大切であるかを知らされています。
親の生き方が子どもの人生の方向性を決定すると言っても決して過言ではないでしょう。

大切なことは親の教育観です。
教育観とは価値観であり、問われるべきは親の価値観です。
人生は競争ではありません。ゆっくりと人生の意味を見つけることです。


ユダヤのことわざに、「他人に優れようと思うな。他人と違った人間になれ。」というのがありますが、競争社会に生きる私達には金言に値し、大きな道しるべになります。

私が全ての子ども達に願うのは、自分の良さに気づき、それを伸ばしてほしいのです。
「ナンバーワンになるよりも オンリーワンになりなさい。」
その生き方こそが、自分らしく生きることですよと伝えたいのです。

そして親である私たちは、子どもを理解することができますようにと祈りつつ、その子にとって最も必要な援助をしてやりたいと思います。
子どもが私達の元に居るのは限られた時間です。その時はやはり人生で最高の時だと思います。

アメリカの大学では、卒業式を”commencement”と言いますが、この言葉には「新しい出発、スタート」の意味があります。
今再び、新しい季節を迎えた私達も心新たにスタートしたいと思います。
      

          (東大阪市立藤戸小学校 PTA広報委員会
              1991年3月15日発行 『ふじと』26号掲載文より)
  
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この記事を書いてから早15年。
社会はますます混沌とし闇は深まるばかりであるが、出来ることをやり続けなければならない。 
posted by 優子 at 17:07| 掲載文 | 更新情報をチェックする

神の導きを求めて

最近、インターネットの驚異的な威力を改めて感じています。
現代は匿名社会と言われていますがブログもまたその象徴の一つでありましょう。
特に匿名のコメントは建設的でない内容が出やすく、発信者に対して責任の所在を求めることもできず、再度、ブログについて自分なりに検討を加えてみる必要を感じています。
神さまの導きと知恵を求めながら、しばらくはコメントを受け付けないで続けることにしました。
しかし、そのことにより書き手である私からの一方通行になってしまい、お互いに経験や想いを分かち合うことができなくなってしまいます。
そういうわけでご面倒ですが、時に応じてメールでレスポンスを頂戴できれば嬉しいです。

気分を一新して背景もシンプルに改め、字も大きくしてお読み頂きやすくしました。
いかがでしょうか?(^−^)
これからもいろんなことを教え、気づかせて下さいますようにお願いします。
posted by 優子 at 11:21| ご案内 | 更新情報をチェックする

2006年07月03日

あなた(神さま)は知っていてくださいます

     神さま
     あなたは 私の弱さ 小さなことに
     傷つき苦しむことをよくご存知です
     どうして こんなことでと思うようなことに
     苦しんで 座りこんでしまって
     立ち上がる勇気を失ってしまう私であることを
     あなたは 知っていてくださいます

     もう あしたから何もできない
     何もしたくないというむなしさに
     生きる私をあなたは知っています

     それなのに あなたは 今日も
     お前は生きなさい 歩き出しなさい
     お前を私が必要としているのだと
     声をかけてくださいます

     もう 私はだめです できませんというのに
     あなたは お前を信頼する
     お前を用いて 私の役にたってほしい
     それが お前はできるのだといわれます

     神さま もう私は逃げません
     泣き言をいいません
     あなたのお好きなだけ
     あなたが 私を必要とする時には
     神さまのお好みのように私を働かせてください

     あなたが 一番気に入るように
     私を生かしてください わたしはあなたのために
     もっとふさわしく生きる決意をしました

    
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私がクリスチャンになって初めて購入した本が、石井錦一牧師の『祈れない日のために』であった。
ここに掲げた祈りは、その続編『癒されない心の祈り』から引用したものである。

本書を祈りの人であった三浦綾子にして次のように言わしめた。
神の前に、こうまで自らの弱さを見つめ得るとは!
常に生と死を凝視して苦悩する心を、私はここに見た。
そして自分の祈りの何と浅いものかを知らされた。祈りの何たるかを改めて学ばずには居られない
」。

この本は、私が霊的な疲れを覚える時に導きとなってくれる1冊である。
何度も何度も落ち込み、そのたびにとつとつとした言葉で神さまと語らい(祈り)、再び立ち上がらせて頂く。地上を去る時まで神さまは私を、あなたを支えて下さるのだ。

さて、長女は5時間にわたる結婚式の打ち合せを終えて疲労困憊しながらも、幸せをかみしめながら帰宅した。
今しか味わえないことなのに、一緒に行ってやらなかったことを少々後悔している。

いよいよ挙式まであと18日。
まもなく長女も巣立って行くのだ。
さすがに寂しくなってきた私はいささか動揺する時もあるが、多くの友の顔を思い出しては励まされている。
感謝。
posted by 優子 at 23:19| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年07月02日

癒しだけが祝福ではない

今日の礼拝で、病いの癒しについて篤い祈りがなされた。
祈りの途中から父母の闘病の日々や、ある牧師の言葉を思い出し私の想いを主に申し上げていた。

36歳で癌で召された能登一郎牧師。
『神様の絵の具』は、能登牧師が闘病中に体力の許す限り語られた説教をまとめたものである。
その中の一節に、「苦しみの中に祝福があるのだ」と述べ、次のように語っておられる。

苦しみと祝福は決して相反するものではありません。
病気が癒されるという祝福もあれば、病気が癒されないという祝福もあります。
物事がうまくいくという祝福もあれば、うまくいかないという祝福もあります。


病気が癒されること、物事がうまくいくことだけが祝福だとするならば、それは「ハレルヤ信仰」であろう。
長い苦悶を経て、苦悩の中にありながら「ハレルヤ!」と神さまを讃美する。
この苦しい時間、年月こそが尊く祝福に至る道なのだ。

この地上で我々が経験する苦悩、病気も災いも一切は全て経験した者でしか語りえぬものがある。
だからこそ、それぞれの人生経験は尊いのだ。
不安、恐怖、肉体の痛み、悲しみ、中傷される苦しみ・・・など、他者には到底わかり合えぬことがあろう。それが人間の限界であり、それゆえに全てをご存知であり慰めることのできるお方が必要なのである。

この能登一郎牧師の説教は、まだまだ人生の謎に苦しんでいた私にとって一条の光だった。

病気になれば癒されたい。誰しもただ癒されることだけを願うであろう。それが人間だ。
我が身に深刻な病いを負った時、果たして「病気が癒されないという祝福もある」などと受け止めることができるのだろうか。
いや、自分の努力で受け止めるのではない。

自分では絶望、現実は絶望、しかし、主(イエスさま)が、何かをなさいます」。
                           (金田 福一)

信じる者には神が必ず責任を持ってそこまで導いて下さるのだと私は信じる。
posted by 優子 at 23:58| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年07月01日

地の塩 ミス・デントン

日本クリスチャンペンクラブに籍を置いて19年目になる。
ペンクラブに意気揚々と入会させて頂いた3年後、「日本に献げた宣教師」という課題文書で新人賞を受賞したことがある。
1990年の夏のことだった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     地の塩 ミス・デントン

「同志社のデントン」か、「デントンの同志社」かと言われたほど同志社を愛し、日本の女子教育に生涯を尽くされたミス・メアリー・フローレンス・デントン先生。

明治維新まもない頃に、女性の自立と女子教育の重要性を説かれた新島襄先生の事業に共鳴し、米国より渡日。
以来、60年に及ぶ歳月は説教者としてではなく、自らを溶かしていくことによって他を生かす「地の塩」として多大な教化をもたらした。

1947年12月24日、永住地となった京都で88歳の生涯を終え、安らかに神のみもとに帰られたミス・デントン。

特異な精神土壌を有する日本に、福音(ふくいん)の種を蒔かれた数多くの宣教師達。
現代の信仰者が在るのも、彼ら異国の宣教師達の献身的な働きがあったことを忘れてはならない。

そして、私もその恵みを受けた一人であることを思う時、自らの姿勢が正され、信仰が強められるのである。
   

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

原稿用紙1枚でいかに書くか。推敲に推敲を重ねた。

文献によると、ミス・デントンは、ツギハギだらけの靴下をはき、ボロをまとい実に質素な生活をされていた。
しかし、大変に社交的でデントン・ハウスには多くの内外の有名人や教え子達が訪れた。

晩年は第二次世界大戦開戦前夜で実に悲しい数年間だった。
敵国人ということで、日本より退去命令が出されたが、デントン先生は帰国を拒まれた。
同志社当局より政府に対する熱心な交渉と老齢のために滞在が許されたが、軟禁状態で西陣署の特高刑事に一日中見張られるという日々が続いた。

「自分は新島ほど偉くない。そして、若王子(にゃくおうじ)はあまりにも遠くて、もし訪ねてくれる生徒があっても大変だから同志社の近くに埋めてほしい。」との遺言から、相国寺(しょうこくじ・同志社と地続き北側にある)長得院に分骨された。

イエスは言われた。
あなたがたは地の塩である」。
そして、「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたの良い行いを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と。
「あなたがたの麗しい行いを人々が見ると、その麗しさを与えている父なる神、天にいます父に讃美の心を抱くのです。」と仰っている。

決して自分自身を大きくすることではない。

デントン先生の生涯は、まことに神のしもべとしての献身の生涯であった。
私達も「地の塩、世の光」としての生涯を送りたい。
生きている限り才能を磨き、立派な人格を養っていきたいと思う。     
        
           (以上、家族新聞『親ばと子ばと新聞 NO.138
                      1990.10.15 発行より)

若王子に新島襄のお墓があり、同志社に入学を許された者は入学時と卒業時には必ず墓前礼拝に行くことになっている。
posted by 優子 at 22:09| JCP関係 | 更新情報をチェックする