2006年09月28日

苛酷な労働を強いられている若者達

東大阪から当地へ引っ越してくる時、「引越のサカイ」を使った。
22年間の所帯道具はかなりの量になっていたが、安くて丁寧な仕事だったのでサカイへの我々の信頼は高い。
商談の途中で、とにかくもう一社の見積もりをとるようにと夫は譲らなかったので、情に流されかけた私も賛同したりしていたが、結局、今回は他社と相見積もりを取らずに決定した。
他社に断りの電話を入れておいたが、サカイの営業マンが言っていたようにまもなく某社営業マンが来られて、しかも予想通り5000円低い価格を提示してきたから驚いた。

夫は「うまいこと話す」と私のビジネストークを褒めてくれるが、どんな場合も夫ではなく私が最前線で値切る役目を担っているではないか!
しかし、情に脆い私は同じような年頃の子を持つ母心になってしまい一社で決めることにした。
僅かの荷物の引越しだから、5000円の差は大きいのに!

それにしても、どの業界も過当競争で若者は大変苛酷な労働を強いられている。
長女がファイザー製薬のMR(「エムアール」”medical representative”の略、医薬情報担当者)をやっていた時、朝は7時頃から始まり帰宅が10時過ぎは普通で、ひどい時には疲れ果ててお風呂に入る体力も無く、そのままリビングで眠ってしまったこともあったという。

外資系だけに1年目から給料はいいが、時間給で計算すれば決して高額ではなく、お金を使う時間さえないという生活であった。
健康を損なったこともあり退社したのであるが、以来私は若者の仕事内容に関心を持って見ていると、今の若者の使われ方はあまりに苛酷だ。
婿のスズケンでもすさまじい。確かにサラリーもいいが何と苛酷かと思う。
かつて日本の経済成長が著しかった1960年〜70年代の頃でも、こんなに苛酷ではなかったのではないだろうか。

先ほど、夜9時10分にサカイの営業マンが追加の箱を持って来て下さった。私は「こんなに遅く・・」という気にはなれなかった。
今から帰社して今日の商談を打ち込み、帰宅は12時頃になるという。毎日のことだけに体が続くかと心配でならない。

posted by 優子 at 21:46| 随想 | 更新情報をチェックする

生から死へ移されゆく時

片親になったとはいえ83歳の義母は大変元気なので、夫やその弟妹たちはいつまでも親が居ていいなあと思う平穏な日々を送っているが、何人もの友が親御さんの老いの緊迫した日々を迎えておられる。
脳梗塞で老いを加速させた方、老衰であっても著しい速さで衰えていっておられる方、また、今日ホスピスに入られる方など心痛む現状である。

母が亡くなり、父が亡くなって読書会に出席した時、「あんたはもうこれで2度と再び、こんな悲しい思いを経験せんでええんや。」と、80歳を過ぎたご婦人が言って下さった。
心に沁みた。忘れることはないだろう。

クリスチャンにとって、死は「亡くなる」とか「逝く」というものでないが、直後の心情はとてもそのようなものではなかった。
また会えるという希望は忘れていなくとも、幼子が親を慕う悲しみでいっぱいだった。


母が入院してからの1年3ヶ月、特に悪くなっていった半年間は、母が生から死へ移されていくのを共にした時である。
友たちは今、その時を過ごしておられるのだ。
文香さんのお父様はもうホスピスへ移られただろうか。
ホスピスだからお父様だけではなく、ご家族の方にも関わって下さるだろうから心配はしていない。きっと、チャプレンを通してお父様はもちろんのこと、お母様にも神さまが届いて下さり全てを最善にして下さると信じている。

今朝、庭のシュウメイ菊が咲き始めた。

付記: 「チャプレン」とは病院に居られる牧師のことで
     す。
     共に祈り合う場である「教会」を「チャーチ」と言
     い、そこで導きをされる方が「牧師」です。
     病院や学校での祈りの場を「チャペル」と言い、
     その言葉から派生してそこでの導き手(牧師)を
     「チャプレン」と言います。
posted by 優子 at 09:57| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年09月27日

友のお父様、明日ホスピスへ

ホスピスに入るためにもいろんな手続きが必要であるそうだ。
親しくしている友人のお父様に漸くホスピスへの入院許可がおり、明日入院されることになった。ただし、救急車を呼ぶようなことになると入院できないという。
一日一日弱っておられるので、ホスピスへ入ることができますようにと切なる祈りを捧げよう。

この春のこと、お父上は癌末期で医師から余命はあと3ヶ月と宣告された。敬虔なクリスチャンである友は、お父上になんとか魂の救いを得てほしいと長い年月を熱心に祈ってこられた。
最近は足しげく実家へ足を運ばれている。
イエス・キリストを信じる者は、死んで終わりではないのだということを伝えるために、ずっと祈りながらお父様の気持ちに寄り添ってこられた。そして、ついに文香さんの祈りに家族全員が心を合わされた。
まだ形だけではあっても、それは素晴しい事だ。

私は印象深く残っている柏木哲夫さんの話を思い出している。
「今、何がいちばん辛いですか?」と患者さんに問いかけると、殆どの患者さんは体の苦しみを訴え、「この痛みが取れたら私は何も言いません」と言われる。
しかし、柏木さんの経験から決してそうではないということだ。
身体的な不快な症状よりも精神的な人間本来の悩みをみんなもっていると。

淀川キリスト教病院の名誉ホスピス長である柏木さんは、
何かをすることではなく、共にいることだ。
もとの英語でいえば、”Not doing,but being”という簡潔な表現である。

と書いておられる。
我々クリスチャンはよく耳にする言葉である。

母の介護で実家へ通っていたころ、たった週2回ではあったが体はクタクタに疲れた。しかし、母と父が喜んでくれることが私の喜びであったから、そのことが私を支えた。
ところが、入院してからは労働介護はなくなり体は楽になったが、母の傍にいるだけというのは本当に辛かった。亡くなる半年前から呼吸するたびにベッドが揺れるようになり、息をすることさえ苦しくなっている母に何もしてやれない悲しみは、今思い出しても胸がえぐられる痛みを感じる。

そんな時、ただ寄り添うこと、何もできなくても辛く重い時間を共に過ごしてあげること、そのことが死にゆく人にはとてつもない慰めになることを書物を通して教えられた。
「ホスピス・ケアの真髄は、何もできないことを知りながら、患者のそばに居続けることである。」と、近代ホスピスの母といわれるソンダース女史が言っている。

母と共に過ごした病院明けの帰りに書店へ立ち寄って、この『愛する人の死を看取るとき』を買ったのは、母が亡くなるちょうど2ヶ月前のことだった。
ただ、母の苦しみと悲しみを少しでも和らげて下さいとのみ祈っていた。そして、この書物を通して慰めと導きを得て、私は前に向って進んで行った。

文香さんが今どんなに辛い時間を過ごしておられるか痛いほど分かる。
私はお父様を支える文香さんのために祈りたい。健康が守られて主の御用を果たされますように祈っている。
愛なる神さまは、既にそのようにしてくださっているのだと思っている。

posted by 優子 at 08:18| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年09月24日

メメントモリ

22日金曜日、新大阪に到着する直前に夫の携帯電話に訃報が入った。美濃紙業前社長の藤井英治さんが82歳で永眠されたのだ。

藤本の父が会長に退いた時、夫は30代の終わりだったため社長職に就くにはまだ早いということで、暫くの間、社長の重職を担って下さった方である。

昨夜のお通夜は夫だけであったが、今日の葬儀には私も参列した。
藤本の両親と同郷の岐阜から出て来られて堺市に根を下ろされた。岐阜は禅宗が多いのか藤井家も臨済宗であった。

晩年の3年2ヶ月は寝たきりの状態で、年老いた奥様とヘルパーさんのお世話を受けてご自宅で亡くなられたとのことである。
病院ではなく在宅介護なら尚更にご自宅からお姿が見えなくなって、残された奥様の悲しみは計り知れないだろう。

藤井さんは穏やかなお人だった。
読経の中、私は地下鉄でお目にかかった時のことを思い出していた。
藤井さんが社長時代のこと、外出の帰りで再び会社に向われていて、長田駅までご一緒したことがある。当時、私達の住まいは会社と同じ駅にあった。

季節は夏、私の人生も夏に入った頃で溌剌としていた。
午後の空いた地下鉄に飛び乗ると藤井さんが座っておられて、瞬間に「こんにちは!」とご挨拶したら、藤井さんのお顔がパッと花が咲いたように満面の笑みになった。あの時の藤井さんを思い出し、我が人生についても思い巡らせていた。

かつて千葉県知事であったクリスチャンの加納久朗氏は、死を前にして書いたものを死後にご遺族から知人達に配布された。

「生前は私のような者に温かい友情をお寄せ下さいましてありがとうございました。少し早いようではありますが、一足お先に失礼させて頂きます。

私はこの世の最後の何年かの闘病生活で、忍耐がいかなるものかを学びました。これで私の走るべき行程は終わったのでしょうか。神に召されて参ります。
皆様方は、ゆっくり楽しまれてからお出で下さい。
                       別れに代えて」


藤井さんも死に到る闘病という最後の成すべき務めを果たされて、ようやく一切のことから解放されたのだ。

「メメントモリ」とは「汝の死を覚えよ」という意味である。
朝目覚めたならば、「今日は私の残りの日々の最初の日」であることを覚えてその日を始めたいと思う。

私も自分の行程をしっかり走り終えることができますように、いつこの日が来てもよいように一日一日を心を込めて精一杯生きたい。
そして、神の限りなき恩寵を感謝して地上を去りたい。


ご遺族の上に神さまの慰めが豊かにありますように祈りつつ。


posted by 優子 at 20:07| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2006年09月23日

スケジュール満載の秋

2日前までの雨の予報は見事に外れて爽やかな秋晴れである。
昨日の荷物の整理も疲れもそのままで、早朝より地域の小学校の運動会に来賓として参加した。

去年の運動会で我が子たちの懐かしき思い出に浸れたからか、今日は40年以上も前の私自身が子どもだった頃の姿ばかりが重なり、午前中は懐かしい思い出に抱かれて一瞬居眠りをしてしまった。

こちらでは男女入り混じっての徒競争で、理由は男女混合の名簿になっているからで意味は無い。1・2年の低学年は女の子が速く、高学年になると男子が首位を占め体力の性差がはっきりと現れていた。

昼食時には自治会長とも親しくおしゃべりした。
この方は、”ザ・パック”の会長を務められ、今はどこそこの財団の専務理事をしておられるとか。
以前、私が東大阪市の文化行政委員を務めていた時、評議委員会でご一緒した”ザ・パック”の人事部長の女性のことをお話すると、よくご存知だった。
もう15年前くらいのことだが、その方の名前をお聞きして直ぐに思い出せたほど記憶に残っている女性である。

さて、東大阪の鴻池新田にあるこの会社にも目をつけている私は、すかさずに商大の「河内の郷土文化サークルセンター」のPR方々、チラッとお耳に入れておいたが、お知り合いだという有名人の名前を連発されて・・・Oh, help!
自慢話はノーサンキューである。
「企業はリーダーで決まる。リーダー次第です。フィロソフィーを持っているかどうかですなあ。」
「哲学ですか。なるほど、何事も理念が無いと駄目ですね、私も全く同感です。」と言うと、「?」と、時代劇で言うならば、「おぬし やるな?!」というような目をされて私の顔をご覧になった。
果たして私を熱くさせる面白い話をお聴きできるかどうか、その感触は今のところ5分5分である。
次は10月1日の関屋幼稚園の運動会でもご一緒だ。

プログラムの最終では、迫力に満ちたPTAのリレーは立ち上がって観戦した。和やかな雰囲気が満ち、もはや勝ち負けの順位は問題ではなく、知り合いなど一人もいないのに校長先生と一緒になって大拍手をおくっていた。

しかし、公的な仕事ばかりにかまけてはいられない。
いよいよ30日には、長女が婿と共に福岡を引き上げて関西へ戻ってくる。同日の理事会はやむおえず欠席し代理の人にお願いしたが、今週こそは知子たちの受け入れ準備を最優先しなくてはならない。
今年は最強にスケジュール満載の秋である。

        

posted by 優子 at 18:30| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年09月22日

「時の人」と接した関西北越会

過日TOB問題でスポットライトを浴びた北越製紙と、その代理店である丸大紙業主催による卸し会社を招いての「関西北越会」(関北会)は、もう30年も前から続けられており今年は29回を重ねた。
私も前回の沖縄行きからデビューさせて頂いている。
とにかく豪勢な親睦旅行である。
昨年2月の2泊3日沖縄旅行では、2000年に開かれた沖縄サミット会場”ザ・ブセナテラス”で宿泊させて頂いた。昼食もまた超豪華版だから嬉しい限りである。

昨日の朝、新大阪駅9時46分発のサンダーバードに乗車し、東京勢の方達と金沢で合流して総勢18社34名の北陸路の旅だった。
到着後すぐに金沢を代表する料亭「つば甚」で昼食。創業は1752年(宝暦2年)、金沢の迎賓館にふさわしい品格と趣きがあった。
まずは乾杯で一同挨拶を交わして1泊2日のプログラムが始まった。

国指定重要文化財である喜多家を見学後、和倉温泉「加賀屋」へ向かった。
ここもまた今年は創業100年の歴史を有する老舗で、しかも25年連続で人気ランキング1位を独占している旅館であるとのことで、私達はここでも最高の部屋と料理を提供して頂いた。

今回は我々夫人達もまた「時の人」となられた三輪社長のお話を楽しみにしていた。男性方の総会だけではなく、夕食懇親会の席上でも今回の顛末記を直接伺えたことは幸いだった。
「戸惑う1ヶ月半でした。
7月23日、日曜日の夜、NHKにTOBを打つと報道されたのが始まりで・・・」

と話し始められた。
7月23日と言えば長女の結婚式翌日のことである。

三輪社長はまずメディアをコントロールする会社と契約されたという。
ワイドショーに限らずニュースにおいてもそうであるが、テレビではインパクトのある映像だけを繰り返し流されるから、「社長の第一声こそが大切」だとアドバイスされ慎重に考えられたと言う。そして、
「金と力でねじ伏せるのは許せない!」
この第一声がよかった。

しかも表現法は言葉だけにとどまらず、ネクタイはしない方がいいなど雰囲気作りもアドバイスされたというのだ。
アメリカの大統領選挙なども全てそうだという。
そう言えば「パフォーマンス学」なるものを耳にしたことがあったなあと脳裏をよぎった。

そのようなメディアアドバイザー会社(?)とチームを組まれて、まさに獅子奮迅の戦い、居所を隠すために45日間のホテル生活をされ、食事はひたすらコンビニ弁当で我慢されていた。

夫からの話も総合して私なりに理解できたことは、
王子製紙の覇権主義は大衆に受け入れられず、他のメーカーをも敵に回してしまったということ。
これまで「持ち株会」は安全だと思っていたが、案外そうでもないことも感じられたという。しかしまた、今後は三菱製紙や日本製紙と提携しながら生き残る道が開かれたことは幸いであった。

そして勝利の要因は、やはりトップと社員との関係であった。
いざとなった時、社員が一致団結してトップを支えようとする気運があるか否かである。普段の在り方が今回の結果を得た。

時代が変わっても心のふれあいの大切さは変わらないというところに心地よさを感じ、「やはりそうなのか」と納得いく印象を得て、私は心の中でほくそ笑んだ。
教育や医療現場だけではなく、会社経営においても全人格的関わりが求められるのだ。そんなこと考えなくても当たり前のことであるが。


夕食の席で鑑賞した石川県指定無形文化財「御陣乗太鼓」は勇壮である。
越後の上杉謙信が能登に攻め入った時、村人達が面をかぶり、海草を頭の毛や髭にして変装した。そして、日が沈みかけた時、村人達にその姿で陣太鼓を打ち鳴らされた上杉勢は、彼らの姿がこれまで殺してきた人々の亡霊に見えて恐れおののいて逃げ去ったという謂れである。

12〜3年前に家族揃って北陸へ行った時も御陣乗太鼓を聞いたが、何度聞いても体中に熱いものが走る。

命がけで村を守ろうとする男達の切羽詰った太鼓の響きは、聞く者を魅了する。
私は右横に見える三輪社長の表情を窺っていた。
今回の出来事は、まさしく村を守ろうとする悲壮感漂う村人の心境であったろう。彼の表情から会社を守り抜いた男の気魄と自負が見て取れた。


そして、私は何を思っていたのか。

命を燃焼したい。
喜びも悲しみも怒りも安らぎも・・・今までもそうであったように一切の問題から逃げない。
傍観的でも綺麗事でもなく、泣いて、笑って、怒って、・・・何よりも自分の気持ちに正直に生き、私に課せられたことを普遍にまで到らせたいと思った。このことが私の意味する命の燃焼である。
激しく鳴り響く太鼓の音は、生きることへの熱情を横溢させた。


2日間のバスの席も通路を隔てて三輪社長ご夫妻と隣り同士であったから、本当ならば心情的なことをいろいろお聞きしたかったけれど、そのような話はもううんざりされるだろうと思って遠慮した。

来年は北越製紙創業100周年と関西北越会30回が重なるため、会員一同が一層の期待を寄せている。
御夫人たちとも来年の再会を約して別れた。

posted by 優子 at 23:46| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2006年09月21日

あなたはあなたらしく、私は私らしく

    病者の祈り

大事をなそうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに
より良きことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

人生を享楽しようとして あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りは全て叶えられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福された



これはニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた癌末期患者の切実な祈りです。
一度読んだだけで忘れられない素晴しい詩です。

私は自分の限界を知り、自分の良さを知ってから頑張り過ぎないようなりました。健康が与えられていても、心身が疲れすぎると賜物を生かせなくなるからです。
自分の弱さを知る人が本当に強い人なのです。

体力も気力も人それぞれ。
今日も神さまと共に自分らしく生きたいです。
ブログのタイトル『優子の部屋』のところにもありますでしょう?
私は私らしくです。
これをお読み下さったあなたもあなたらしく、今日も良い一日を!


posted by 優子 at 06:20| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

胸躍る新しい経験

昨日の読書会に続いて、今日も大阪商業大学まで出向いた。
郷土文化サークルセンターの御用で、会長、副会長、そして、大阪商業大学事務局の方と4人で2社を訪問した。
地元の企業一社と50社が集結している企業団地の事務局長をお訪ねして、我々の活動のPR方々、会報への広告や講師のご依頼に上がった。
共にお時間を割いて頂き快く面談して下さり、緊張の中にも新しい経験は楽しかった。
後日御承諾を頂き、30日の理事会を通過させて正式決定されてから、「サークルの集い」のPRを兼ねてお知らせしたいと思う。

この11月でサークルセンターは創立22年目を迎える。
10周年記念行事の時、役員の方達が企業への協力金集めに奔走されていた。当時も既に理事の一人として連ならせて頂いていたが、私は役員方のご苦労を他人事のように眺めていた。

10周年記念事業だけではなく、20周年のテーマとしても使われた『河内の宝 発見』は、故西口孝四郎氏が考えられたものである。
その前年に私を読書会の会長に引き出して下さった西口氏は、私に大きな影響を与えたお一人で、生涯忘れ得ぬ人である。

西口氏は谷崎潤一郎を最も愛した研究者だと言って過言ではない。谷崎研究の新発見もされて、文芸春秋にもたくさんのページが割かれて掲載されたこともある。
文学者であり、元読売新聞社会部デスクをされていただけあって、この見出しのうまさに私は今さらながら唸ってしまう。
ご夫人も女史と呼ばれた聡明な文化人であった。
この会は東大阪市の文化活動をリードしていく人たちの集まりであるが、ご夫妻は新人の私をお一人おひとりに紹介して下さっていた。

あんなにお元気だった夫人は母よりも早く、西口氏まで母のあと2ヵ月後に逝ってしまわれて、私にはどんなに大きな打撃であっただろうか。
今ならばもっともっと吸収できたのにと悔やみもするが、2年間、氏から薫陶を受けた幸いを感謝し、これからに生かしていこうと思う。

11月25・26日に開かれる河内の郷土文化「サークルの集い」に向けて、労して下さっている事務局の方や役員の方達のお供をさせて頂いて、サークルセンターの勢いのあった時代を思い出し、メンバーの移り変わりを寂しく感じた。 

今のこの時も間違いなく過ぎ去っていく。
だから今を大切に大切に過ごしていきたいと思う。
そして、「どうせやるからには情熱をもってやる」という私のモットーが湧き上がってきた。
「企業と文化」など考えたこともなかったが、企業も文化推進に協力を求められる時代である。
企業さんに広告料のご負担を頂いたのであるから、我々もお役に立ちたいと思う。
たとえば、東大阪の企業は地元の文化団体と連携して文化向上に貢献していると全国に発信できれば最高である。
posted by 優子 at 17:27| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2006年09月19日

苦しんでおられるあなたへ

あなただけではない、私たち人間は神のような真実の愛を持っていません。
親に対しても、最愛の子にも、配偶者に対してもです。私たちには限界があるのです。
私も自分自身の弱さに苦しみました。
自分の弱さに絶望しました。
自分の弱さに嫌悪し、絶望し、本当に苦しい経験をしました。
しかし絶望したことは幸いであったと思っています。
どうか、今こそ神を求めてください。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」


「脱出の道」とは神さまを求めることなのです。
今こそ神さまを求めてください。
「聖書にはいいことが書いてある」というような読み方ではなく、真剣に求める者には出会わせてくださいます。
聖書の言葉は信じた時に神の言葉になるのです。
きっとあなたも神さまと出会われることでしょう。
この苦しみの中で、神さまはあなたを呼び求めておられるのです。
この苦難を通して、あなたを救い出そうとされているのです。

あなたはもう十分に苦しまれました。
一刻も早く神さまにギブアップして下さい。
そして、ご自分を責めないで下さい。
必ずや一切が益に変えられていくのです!

「頑張る」とは、「我を張る」ことだというのを読んだことがあります。
頑張ることが立派なことだと思ってやっていると、とんでもない方へそれてしまいます。
本当にそう思います。私は神さまを知るようになって、そのことがよくわかります。
あなたにこの祝福が届きますようにお祈りしています。


24時間いつでもいい、夜中でもいいですから電話して下さい。
人は共に慰め励まし合って歩んでいくのですから、怒りや悲しみも苦しみも正直に話して下さい!
一人で頑張らなくてもいいのです!
救いはもうすぐそこ、目の前です!

posted by 優子 at 22:48| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

敬老の日に思う ―良き生を生きる―

外国では現役を退いた老人を「シニア シティズン」とも呼ばれていますが、これは年長者という意味の尊敬をこめた言葉として使われています。

人間の肉体は20歳頃から血管から老化が始まるということですから、20歳を越えているなら「老い」は自分自身の問題です。
私も人生の折り返し点に立とうとしていますが(当時39歳)、四季で言うならばまさに今の時期です。まだ暑さが残っていますが、季節は秋に変わろうとしている時期、60歳からが成熟期間であるならば、これからの20年は老いへの準備期間でもあります。

かの天才、レオナルド・ダ・ビンチは書き残しています。
「十分に人生の終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考えよ」と。

人生は限られた時間です。
その最後には必ず死があります。誰もが老いを迎えられるとは限らないのですが、自分はどのような老いを生きるのかということも、老人問題に目覚める必要があるのではないでしょうか。

「敬老の日」は祝日として制定されていますが、本当の敬老がなされているかを考えます時、「静かに余生をお送り下さい」ではなくて、「あなたは今も無限の価値を持っているのですよ」とお伝えすべきでしょう。
そしてこれからも、シニア シティズンとしての働きをして頂きたいと思います。

     失ったものを数えるな。
     今あるものを感謝せよ!


と、自らを励まして生きるのは私たちも同じです。
大好きなブラウニングの詩の一節を贈ります。

     われと共に老い行けよ!
     最善はなお未来にあり。



(東大阪市立藤戸小学校PTA広報委員会 1991年9月14日発行                 
                  ふじとニュースNo.10より転載)
 
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この記事を書いてからの15年間に社会や人々の意識は大きく変わり、「静かに余生を送る」という言葉は陳腐に響く。
素晴しいことだと思う。
グルメや海外旅行にと楽しみだけを追い求めている人も多いが、大学で学んでいる人や社会のために活動している人も多く、人々の意識は高くなっている。

私が中学生の時に「敬老の日」が制定されたと記憶しているが、当時、大阪市では1キロ入りの砂糖を高齢者の方達に贈っていた。私は民生委員をしていた母のお伴をして一軒ずつお届けしたことを覚えている。
訪問先の玄関に入っていく時の母の表情や言葉、雰囲気も全てはっきり覚えている。懐かしく素晴しい思い出だ。

学校の帰りにデパートで甘納豆を買って祖父にプレゼントしたこともあった。
私が21歳の時に85歳で亡くなったから、その時は76〜78歳だったのだろう。

現在65歳以上の人口が20パーセントを越えて2640万人。日本は世界一の高齢者国になった。
我が夫も61歳、6歳年下の私もまた来月末には四捨五入すれば・・・である。
共に時間を大切に良き日々を生きたいと思う。るんるん
posted by 優子 at 07:34| 掲載文 | 更新情報をチェックする

2006年09月17日

讃美に導かれて恵みを賜う

「砕かれた心に癒しの御手(みて)は伸べられる」

「主の者とせられし我が身こそ幸なれ、感謝なき日はなく讃美なき夜はなし。
日もすがら証しせん。夜もすがら主を讃(ほ)めん。
み救いは絶えなり、み救いは奇(くす)しと」


どの教会においても礼拝の初めに讃美歌を歌い、その讃美を通して心が導かれていく。昨日今日と久しぶりにゆっくりした時間が与えられて、神のみ前に静まってリフレッシュされた。

今朝の礼拝ではピリピ人への手紙3章を読んだ。
この短い手紙の中に、「喜び」や「喜ぶ」と言う言葉が16回も使われているので、別名「喜びの手紙」とも呼ばれている。

この手紙を書いたパウロは、この時、獄に捕らわれていて現状は決して喜ぶことのできるような情態ではなかった。
しかし、パウロは自分の生涯を通して「神は愛である」ということを知っていたからこそ、獄の中から外にいる人々を「喜びなさい」と励ますことができたのである。

受洗した時、洗礼を授けて下さった小山恒夫牧師から頂いた色紙に、
「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」という聖句が書かれてある。
この言葉もピリピ人への手紙(1章27節)にあるパウロの言葉である。
「福音(ふくいん)」とは、「喜びの訪れ」、”good news"(グッドニュース)の意味である。

渇きかけていた魂が再びリフレッシュされ、これ以上の喜び、満ち足りた気持ちはない。生きている喜びが全身に充満し、私はゆっくり深呼吸する。
高ぶらず心砕かれた者には平安を賜り、唇から感謝が溢れてくるから不思議である。
こうして新しい週を始めることのできる幸せ。
新しい週も常に主に委ねて、主の御心を選びとることができるように祈りつつ励もう。
主はそのようにさせて下さる。昨日今日と主を選び取ったように!
連れて行ってくれた夫にも主の祝福が豊かにありますように!

心ならずも7日、13日のご奉仕で足腰をひどく痛めてしまい、礼拝のあと癒されるように祈って頂いた。祈って下さった兄弟姉妹のように、私もまた癒しに対してもっと信じて祈れる者に変えられますように。
今週も多忙な日が続く。午後は何もしないで休養し3時間以上も眠っていた。


posted by 優子 at 21:36| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年09月16日

結実ある人生を歩む

今日は夫婦だけで谷口家の家庭集会に出席した。
今年になって導かれておられた近隣の方は、今夏、弟さんの「癌手術ということもあり、私も自然の安定を図りたい」とのことから当分欠席したいと言ってこられたからだ。

その方は仏教に強い関心を示されているので、仏教からキリスト教へ回心された女医さんの本を何年か前にお貸ししたことがある。
小児科医の藤井圭子さんは、かつては真理を求めて尼僧学校で修行して教師にまでなられたが、求めたものは虚しく還俗されて医師に戻られた。不思議なことに―それはまさに神の計らいであったのだが―ご自宅の隣りに建った教会がきっかけとなり、聖書に真理を見出されエバンジェリスト(伝道者)として活躍されている。
同じ職業人であるし、しかも、とことんまで仏教に求め尼僧として指導者にまでなられた人の話は説得力があった。

ご兄弟が癌という現実に直面され、ご自身も既に80歳を過ぎておられるので身辺のことやご自身のことを考えられているのだろう。
仮に病気が癒されたとしても、我々は皆いつかは死ぬのである。私は、「こんな時だからこそ、いらっしゃいませんか。」とお誘いした。今は谷口先生と共に背後で祈らせて頂こうと思う。

今日のメッセージは、マタイによる福音書14章13節から33節で、イエスさまが2匹の魚と5つのパンから5000人以上の人々の空腹を満たされたことや、イエスさまが湖の上を歩かれた話であった。

湖の上を歩いているイエスさまを見て、恐れおののいている弟子たちに向かって、
しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」とイエスさまが言われた。

「この声を聞きとれる人は幸いであると思います。
私たちも主の声を聞き取って、揺れ動いていた心を平安にされて、その問題に立ち向かっていくことができますように。
無力を覚える時も主が近づいて下さるのです。」
と薮野牧師は語られた。

私たちは本当に無力で無能であるけれども、そのまま主(神であるイエス・キリスト)に携え行けばいいのだ。
主は全ての欠乏や全ての事情を「わたしのところへ持って来なさい」と仰って下さっているのである。主の祝福を受ける時、いかなる境遇をも祝福して下さるのだ。

イエスさまは度々静かなところに退いて一人になって祈られた。
我々は主から離れる時、必ずこの世の波風に悩まされる。
現代のように多忙な時代だからこそ、私たちも一人になって神さまと交わる時間がことさら大切である。

今日も豊かな恵みを頂いて帰宅した。
次回11月25日の家庭集会には知子たちも集わせて頂けるので、皆さんが楽しみにして下さっている。

まもなく収穫の秋を迎えるが、私たちも結実ある人生の歩み方をしたいものである。
一歩一歩教え導かれていきたい。


神さまは今、これを読んで下さっている貴方も招いておられるのです。
posted by 優子 at 23:08| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

二人と一匹の初秋

メス犬のチャッピーに子どもを産ませてやらなくて悪いと思っているが、かといって避妊手術はしたくない。チャッピーは今、発情期でイライラするらしくクルクル回り続けて鼻を鳴らす。繋いでいる紐が短く絡まってしまい何度もほどいてやらなければならない。

チャッ君は初めて我が家に来た時からクルクル回っていた。嬉しい時やストレスのある時に回り、その速さはそれらの程度に比例するようである。
生理前は私もイライラした時があったから、この時期の散歩はチャッピーの行きたい所に合わせて歩くようにしてやっている。

今朝の散歩で、通勤する知子を見送りに行っていた時にご一緒だった人に出会った。
カントが毎朝同じ時間に散歩をしていたという話は有名だが、彼もまた毎朝同じ時間に早足で歩いて行かれるので時計代わりになった。私と知子は彼のことを「ウオーキングクロック」と呼んでいた。
肌寒くなったけれど彼は今朝も半袖シャツを着ておられ、知子と一緒だった頃のままで嬉しかった。
時間が過ぎて行かないでと思う。

この前も寂しさを感じた。
8日は豊中の皆さんと別れてから、梅田で2時間以上も話し込んで疲れてしまった。
いつもなら疲れていてもポール・ボキューズのパンにお寿司にモロゾフのチーズケーキ・・・と、お決まりのものを買って帰ったものだ。
しかし、「ああ、知子もいないんだ・・・」と思い出して、入り口付近にある喜八洲(きやす)でみたらし団子を5本だけ買って帰った。
家に帰っても、「うわぁ、ヤッター」と喜んでくれる知子の明るい声もなく、私は一人寂しく食べた。

posted by 優子 at 09:24| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

父を偲ぶ 5

お父さん、お母さん。
今はとても悲しくてがまんできない。
 
お母さんとお父さんに大変なことが起こって、私は初めて一生懸命がんばってきたけれど、気が付いたらお父さんもお母さんもいなくなっていた。
この地上でもう一度会いたい。
たった一分間しか会えなくても、地球の果てまで行けば会えるのなら私は今すぐにだって飛んで行く。

お兄さんも本当に耐えている。
お母さんが亡くなってから私はいつも、お兄さんにお母さんの姿を重ね合わせていた。そうやって耐えてきた。今はお父さんの姿も重なって見える。お兄さんは本当に立派な人。だから重なって見える。
 
左半身不随になった父は、動かなくなった左手を妻だと思っていた。
麻痺した痛い左腕を、
「お母さん、痛がるからな」と言って、右手でヨシヨシと撫でていた父。
「ここはいいから、お母さんのところへ行ったげて、喜ぶから。」と、妻はまだ住友病院に入院していると思っていた父。
「お母さん、このごろ来ないけどどうしてる?元気か?」
「お母さんに会いたいなあ」と母を待っていた父。


お父さん、よかったね。
また、お母さんと一緒になれて、よかったね。
私はいつも、「お父さん、お母さん」って心の中で呼んでいる。
でもこれからは、辛くなったら別離ではなく再会を考えようと思う。
きっと、しばしの別れ。
きっと、つかの間のことだから。
再会の時までお父さんとお母さんが願っているように生きていくから心配しないでね。
お父さん、お母さん、本当にありがとう。 
お父さん、お母さん、また会おうね。               

                優子      
                             (完)  

父が召されて1年目を迎える頃はまだ悲嘆のプロセスであったということもあろうが、相変わらず身勝手極まりない身近にいる人たちの姿に耐え難く、半年間くらいもだえ苦しんでいた時期があった。

しかし、いつしか人生の新しいページをめくっていた。
常に私は神さまと共に在った。
私は常に神と共に在ることを選び続けた。
そのこともまた神の導きであったと受け止めている。
posted by 優子 at 06:11| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年09月14日

父を偲ぶ 4

「神さまは優子さんに多くの人々のいろんな生き方を見せ、語って下さっていた」ということを、後に谷口先生から教えられた。
そして、10年以上に及ぶ苦悩の果てに辿りついた境地は、やはり、「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。」という真理だった。

健康も与えられ、順境にありながら感謝の心なく、絶え間ない不平を糧として生きていること自体が、喜びのない重い鎖を引きずって歩いているではないか。
たとえ、回復不可能な病いを負い、生きる事が闘いの日々であり、心ない人にどんなにひどいことを言われ、ひどいことをされようとも、人の真心がわかり、人との豊かな交わりの中で感謝して生きられるということが、自分の生き方を刈り取っていることになると納得した。

神は私に、神から絶縁された人間の正体をそれらの人を通して見せて下さっていたのだった。
よくここまで導いて下さったものだ。
よくここまで導かれてきたものだと思う。

しかし、母の時はそのことがわからずに悲しみと苦しみで耐えがたい地獄だった。
父の時に間に合ってよかった。
父の存命中に我が魂の嵐も静まり、遂に平安を得た。
せめて父だけでも安らかな気持ちで看取りたいという、私の切なる願いもこうして神は叶えて下さった。
 
今、母と父の一切を通り抜けて思うことは、他者の苦しみに対していかに共感的理解を示し、愛の手を差し伸べる事が出来るか。このことが、真に成熟した人間であり、それを求めて日々励むことが生きることだと確信している。残りの私の人生もそのようでありたいと思う。

当たり前と思われることが、どんなに大切な事であり感謝なことであるかを知った私は、一日一日心を込めて生きていきたいと思う。
母と父の晩年は、悲しみと苦しみに満たされていたが、そこを通らなければ解り得ない真理を明かされた。 

私にとって30歳になるまで死は無限の彼方にあったが、あと10年もすれば(この時48歳)今よりももっと身近な存在になっているだろう。
人は生きてきたようにしか死ねないと言われている。
ならば私も父と母のように精一杯生き、感謝してこの世を去りたい。手応えのある人生とは、苦痛を伴うものでしかあり得ないのだ。 

わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」。しかし、
今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」。
 
父も全ての苦しみから解放されて、今、母と共に至福の喜びにあるのだろう。これ以上の感謝はないのに、残された私は気がつけばため息をついている。何を見ても、何を聞いても「お父さんはもういない。」とつぶやいてため息をつくだけ。
悲しみの傷が癒えるまで当分の間は苦痛を伴う日々を耐えなければならないが、時が来れば人生の新しいページをめくることが出来るだろう。
これからは一切を神の御手に委ねてこの世の旅路を進んで行こうと思う。
母と父が晩年の苦難を通して生涯を全うしたように、神様、私も自分に与えられた使命を果たすことが出来ますように、そして、生涯を完成させて下さい。
 
わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。」と、神様は言って下さっているのだ。
だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは忍耐である。」と。
アーメン。 
                   (つづく)                  

posted by 優子 at 07:16| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年09月13日

老婦人に神さまの慰めがありますように

「老人祭り」とは、何というデリカシーのない命名であろう。
昨日から敬老の日を前にして、市の「老人祭り」が福祉センターで催されている。
今日は5つの老人会から約200名が集い、この地域の老人会も参加するので地区の民生委員も朝早くからお手伝いに行った。
歌や踊り、将棋などをし温泉に入って一日を楽しく過ごすのである。

私たちは去年と同じくお茶席でお抹茶のお運びだった。
2時間の間に200名が来られるのであるから大変である。
民生のお仲間からもご配慮を頂いて、私は重いものを持つのはひかえさせて頂いているので、お運び3人、茶器洗い1名でそれぞれ大奮闘だった。立ったり座ったりで股関節と腰がひどく痛む。
民生委員の仕事は私には無理なのかもしれない。

早く着かれた老婦人が寂しそうに一人で座っておられたので声をかけると、初対面の私に家庭のことを切々と話された。
お孫さんも一緒の家庭ならば賑やかで幸せそうであるが、そうではなかった。

嫁は『あんたの世話はでけへん』とはっきり言いはります。・・私は3秒でも立ってられへんので家の中でもこれ(歩行器)を使ってるから、見るたびにうっとうしい顔をしはる。そやから廊下に手すりをつけたいけれど反対しはるねん。私が死んだら家を売りに出す気やろな。そやから家に手を入れたくないんやな。・・・・・・・・
毎日顔を見るたびに『死ね、死ね』と言われてる人もいてはる。私はまだましや・・・そう思うて耐えてます。


私はずっと老婦人の足を撫でながら、神さまにこの方を慰めてくださるように祈りながら聴いていた。
そして、私が慰めの言葉を語ると老婦人の目から涙が溢れ、堰を切ったように話し続けられた。
何度も何度も家の場所を説明されるので、「私がお訪ねしてもお嫁さんは大丈夫ですか?」と尋ね、「では、郵便受けにお手紙を入れるだけではなくチャイムを鳴らしますね!」と言うと嬉しそうな顔をして下さった。
この方に主(キリスト)の守りと慰めがありますように、そして、神さまの御用ができますように祈った。

私は胸をえぐられるような気持ちで老婦人の話を聴いていた。
どこかで聴いたことがある。
いや、似ているがもっとひどかった。
「どこかで聞いたことがある」とごまかしておきたいほど、さすがの私も書きたくないことだ。

母の苦しみ、父の苦しみの年月、ずっとそのような人を見てきたのだった。
母はその上に苛酷な神経難病を負い、まさに「生きる悲しみ、死ぬ喜び」の日々を送っていたのだ。

掲載中の「父を偲ぶ」に記録してあることと重なる内容である。
神は母にそれらの苦しみを許されたのだ。
父にも。
いや、もう止めよう。
過ぎ去ったことだ。
主を見上げよう。

他人の苦しみにキリスト教徒が出会うということは、その苦しみを和らげるために、神によってそこに呼ばれたことを意味するのです。
良きサマリヤ人の話や、よき羊飼いの話は医師の心に響くこと大なるものがありますが、それは、『神は私を、人を助けるために召して下さった』と感じ、自分の職業の真の素晴しさを教えられるからにほかなりません。
ですから医師は神の協力者となるのです。


私の魂に深く刻まれている有名な精神科医トゥルニエの言葉である。
私もまた神の協力者になりたい。

今日も帰宅して真っ先に隣りの義母に「老人祭り」の様子を伝えに行った。
藤本の義母に機会を見つけては外へ出るように誘っているが、ずっと人との交わりを全くしないでいる。何か一人でしたい趣味があるわけではないのだから、週に一回の「仲良し会」で人々と触れ合う時間を取ってほしいと願っている。
そうすれば少しでも、ほんの少しでも気持ちが変えられていくのではないかと思うからだ。

愛に包まれているのに不平不満で生きるのは悲しいことだ。
しかも80歳を過ぎた今も、話すことも歩くことも全て何もかも健康に保たれているというのに!
人との交わりがないと人はいびつになる。
「おはようございます」の明るい挨拶だけでも心は和む。
ご近所のおばあさんも何度も何度も関わってくださっていたが、ついにこの春には怒ってしまわれた。
気にかけて頂くというのは、若い者でもどんなに嬉しいことだろうか!
「ありがとう」と思える気持ちを持てたら人生は変わるのに!

posted by 優子 at 16:25| 随想 | 更新情報をチェックする

父を偲ぶ 3

この10年余りの間(1989〜2000年くらいのこと)、私は実にすさまじい嵐の中を通された。
不条理、理不尽、怒り、悲惨、苦悩、絶望・・・・特に母にとってはこの世の地獄であった。そして、母に続いて父までも逝ってしまったが、今も状況は依然として変わらず全てが未解決のままである。

しかし、母と父は永遠の命を頂いて天国に迎え入れて下さった。
私は今初めて、神はご自身の目的を確実に達成されるということを知った。御心に叶う祈りはしっかり聴き入れて下さっていたことに驚くと共に、神の御前に厳粛な気持ちで立たされている。
  
人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。」 

この御言葉が、私の中にはっきりと照らし出されている。 
 
私にとっては、聖書の“ヨブ記”のテーマが若い時からの関心事であったが、35歳にしてキリストに導かれてまもなく始まった母の苦難。以来、私もまた全身全霊を懸けたと言っても過言ではない闘いの日々であった。

つまり、自分の責任とは無関係の苦しみというものがあり、しかも悪を行っている者が栄えているのは何故かという激しい問いかけである。
世の中には、人にしてほしいと望むだけで自分は何もせず、人に対して一切思いやりの心がなく、自分の思う通りにならないと我慢できず言いたいことを言って生きている人、また、殺人と同じぐらい罪深いことをいつまでも続けている人もいる。
普通ならばとっくにノイローゼになるのだが、良心のかけらもないのだろうか、そのような人は悩む事もなく生活している。

もっと不可解なのは、往々にして彼らに健康が与えられ、金銭的にも困らず順風な人生が許されている事が多い。
反対に、人から受けた悪を憎まず、人の親切を忘れずに他者に対しても自分の時間や財をも与えて生きる人に、「何故?!」と思うような重い十字架がかせられている。
我が母にこの苦難が起こり、娘の私もまた言葉では言い尽くせぬ壮絶な苦悩に見まわれた。
私は今でも、地上での闘いの中の最大の闘いの一つだったと思っている。

 
そうした悩みの中、先人の教えが弱り果てた私を奮い立たせた。高校生の時に出会ったカール・ヒルテイによるものだ。
 
「彼らを下らぬもの、かつ滅びるものとして無視せよ。
悪人がもはや深い後悔を感じ得ないようになれば、それは彼に下された最も重い罰を意味する。自己の悪を知りながら後悔を覚えないということは、すでにこの世ながらの地獄である。正義からも恩寵からも彼らは蔑まれる。
我らも彼らのことを語らず、ただ見て過ぎるがよい。突き抜けよ。と。
 
「優子よ。今を突き抜けよ。縛られてはならぬ。おまえの気高い魂よ、目覚めよ。突き抜けるのだ。神に向かって進め!苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」と、自らを励まして
何度も何度も立ちあがって来た。

                    (つづく)
posted by 優子 at 05:55| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年09月12日

長い時間が流れた今、満たされて在り

子どもが小学校を卒業すれば、朝の旗持ちもできなくなります。
そして、もっと長い時間が流れて、旗持ちをしている若いお母さんを見た時、私たちはどのような気持ちを抱くのでしょうか。
その時、私は元気いっぱいの若い人を見ても妬まず、その年齢でしか味わうことのできない喜びを見出していたいと思います。
娘たちが小学生だった頃の懐かしい思い出に抱かれながら。



次女が小学校5年生の時、広報活動をしていた時の「藤戸ニュース21号」に書いた記事からの抜粋である。
1年間に2〜3度しか回って来ない交通当番なのにスッポカス人も多く、協力を呼びかけたものである。

さて、あれから15年もの長い時が流れて私は54歳。
小学校低学年の下校時間に見守りに立った今日は、ご近所の知り合いの方もPTAの当番でご一緒だった。

子育て現役のお母さんを見ても私の心は晴れやかだった。
昔が懐かしくはあったが妬むことはなく、これまでのことへの感謝と今を悔いなく生きようとの思いを強くした。
人生は進んで行く。
posted by 優子 at 16:25| 随想 | 更新情報をチェックする

父を偲ぶ 2

父が重い脳梗塞に倒れたのは、母が召されて半年余り後のことだった。
その5日前に、父は母が入院していた住友病院の婦長(あえて当時の呼称で示す)を訪ね、改めて感謝の気持ちを伝えた。
母が居た病室の前まで行ったが、悲しくていたたまれない気持ちになったという。

父にとって妻のいない日々は耐え難く、私の悲しみとは比べものにならないものであったと知ったのは父が倒れてからだった。

また、長い間ご無沙汰している同じ町に住む従兄弟を訪ね、父は心残りがないように会いたい人に会い、まるで自分の最期を用意した別離の挨拶のようで、私はこの不思議な出来事に人知をはるかに超えた力が働いていることを思わざるを得ない。

1997年5月14日、夕刻7時頃、父は吐き気を訴え、時間の経過と共に冷や汗、失禁、左半身麻痺が現れた。
便座に座り思い切りきばる(いきむ)父に、
「お父さん、こんな時は強くきばったらあかん。」と兄が言うと、
「いや、きばって脳溢血になったほうが早いんや。」というようなことを父が言ったという。
父自身が命に関わる異変を察知したのであろう。
そして、「司(兄)、商売やめるか?」と言ったその言葉は衝撃的で、それが父の最後の一句となった。


夜半2時30分頃、救急車で病院へ搬送。
重度の脳梗塞。
明け方、兄から電話が入った。
同日、即ち5月15日、時間の経過と共に状態は悪くなり麻痺も進行していった。
命は取り留めたものの父はすっかり変貌してしまっていた。

目の焦点は定まらず漱石の言葉を借りれば、父は「魂とじかに繋がっていないような目」をしていた。
意識も朦朧とした状態で、「司が便の後始末をしてくれて嬉しかった」と何度も言うので、私は兄に父の想いを伝えた。

この時は母が逝ってまだ半年過ぎたばかりで、病院で痰を吸引されている患者さんを目にして涙が溢れ、私はしゃがみこんで号泣してしまった。
傍にいた兄も悲しみを堪えていた。
私たちは、母の病床が昨日の事のように思い出される痛々しい悲嘆の中にあったが、母に続いて今度は父の病床に通う事になり、再び無我夢中の日々が始まった。
 
病床生活の3年3ヶ月は、後に残される私達が多くのことを学び、父の死を受け入られるようにと神が導いてくださるための時間であったと思う。
そして、危篤状態になった時、父の救いの業(わざ)が完了し「こと、終われり。」の聖言が成就された。イエスさまが責任を持って、父もまた間違いなく死んでも死なない永遠の天国に入れて下さるのだ。
呼吸が止まった瞬間、父の魂が肉体から離れてイエス・キリストの御手に抱きかかえられて永遠の生命に移された。
それは最善の時であり、死は終わりなどでは決してなく、キリストと一緒に居られる最高の幸せの始まりである。
母も父も、神の導きと人々の篤い祈りにより、永遠の生命をいただいて神の御許に引き上げられた。
この確信が与えられているというのは、何という慰めであろう。 

                   (つづく)      
posted by 優子 at 06:11| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年09月11日

地元企業「ハウス食品」を活かせ!

今朝10時半から始まった商大での役員会が終わったのは午後1時だった。
夏が終わり文化の秋をひかえて、「文化サークルセンター」は文字通り多忙なスケジュールである。
今春から25団体の会長を努められているのは拓本クラブの会長で、初めての女性の会長である。
今月17日のバスツアー、会報や研究発表誌「あしたづ」の発行、そして、「サークルの集い」・・・など案件はいっぱいだ。

「サークルの集い」というのは、毎年11月末の土・日の2日間に行っているもので、学校の文化祭を想像して頂けばいい。
さて、今年のメインとなるものを何にするかに知恵を絞った。

昨年の高評だった郷土の「河内ワイン」やお菓子販売からヒントを得て、時間も忘れて話し合っていた時、私は地元企業の「ハウス食品」がひらめいた。
地元も地元、大阪商大の道路を隔てた斜向かいにある。
辺りはカレーの香りが漂い、おなかをすかした夕方にはこたえる。

「ハウス食品」は全国に知られた食品メーカーである。本社を今も発祥の地である東大阪市御厨(みくりや)に定めている。
きっと「面白い話が聴ける!」と直感した。

北越製紙の地元云々についてブログに書いていたこともあるが、昨夕見ていたテレビ番組の感動がひらめかせたのだ。
私は途中から、しかも心身ともに疲れている冴えない心で見たのだが、それでも感動が溢れてきた。
それは「”ミームの冒険”日本の伝統技術で躍進した企業」という番組で、キッコーマン醤油創業者の茂木啓三郎と京都の村田製作所の村田昭が取り上げられていた。

キッコーマンの茂木は、目標が完遂するまで諦めなかった。
そして、アメリカに進出し、1年間で使うコマーシャル代をたった1日で使うなど技術者であり企業経営者としての鋭い感を持っていた。選挙報道だったか(記憶不明瞭)一日中流される報道番組のコマーシャル権を買い取って、一社で独占して流した。それが大成功した。

一方、村田製作所がやっているのは、電子機器に必要不可欠なセラミックコンデンサーを作っている。全く知識のない分野の上にメモも取らずに見ていたから説明さえできないのが残念である。

昭は18歳まで病身だったために学歴もなかったが、『こどもの科学』を購読し独学で科学を勉強した。
父親の「同業者に迷惑をかけてはならぬ」という教えから、人のやらないことをやりだした。
難題の商品開発を3ヶ月で成功させたが、「帝国大学を卒業した研究者でもできないのに君にできるわけがない」と取り合ってもらえなかった悔しさも経験した。ある人物との運命的出会いなど、心打つストーリーがいっぱいあった。

とにかく二人共に共通しているのは、最後までやり遂げる執念、どんなに挫折しても途中で諦めなかったことである。
私は真智子を思い出していた。
共にグローバル企業として発展を見たのは我々日本人の誇りである。

疲れた心身で見ていたけれど大いに励まされた。

よく考えてみれば、「ハウス食品」が今まで一度もサークルセンターとの接点がなかったことは驚きである。
会報にも広告を出して頂いてもいない。
まさに「灯台下暗し」、役員全員の合意を得た。
これも長い時間を「ああでもない」、「こうでもない」と話し合っていたからこそのひらめきである。

30日に臨時理事会を開いて承認して頂いたら、この熱い想いを役員全員で「ハウス食品」へ届けよう。
これだけのメーカーならば、必ずや創業者は感動の物語を持っているであろうから、私はルポライターになって取材しよう。
我々の「河内の郷土文化サークルセンター」にのみメリットがあるのではなく、地元の企業が地域文化に貢献して頂くためにも共に影響し合って地元企業を応援したいものだ。


私が朝早く涙を流して冴えない心で外出したとは誰も思わなかったであろう。
郷土の文化発展の為に労する人たちとの時間はたいへん楽しいひと時であり励まされた。
posted by 優子 at 18:45| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

父を偲ぶ 1

ちょうど6年前の今頃のこと、父が召されて4週間が過ぎ2〜3日かけて綴ったものがある。「父を天に送って」の一部はブログの3月24日でも掲載している。

同じ季節を迎えたのを機に、父への想いもまたここに刻んでおきたい。私の想いを全て一つにまとめておきたいとの思いからである。娘たちのために。私の生を振り返ってほしいからだ。

今の私には「まだ6年前のことなのか」と思える。
きっと私自身が大きく変わったからだと思う。悲しみは生きている限り消え去ることはないが、悲しみの傷は癒やされていることがわかる。
「まだ6年前のことなのか」とは、深い苦脳の根本的答えを見出すのに必要だったのは、たった6年間だったという感慨である。いや、父が逝って4年経った頃には心の嵐は消えていた。
勿論それまでの10年以上に及ぶ年月があってのことであるが、今では「再び会えるのだ、今度はもう2度と別れなくてもいいんだ」という希望がある。

私は両親と再会するのをいつもいつも楽しみにしている。
どんなに楽しみにして生きているか!
だから耐えているのだ。
耐えられるのだ。
 

知子と真智子も自立した。
あとは二人でしっかり生きていくだろう。
私は安心して地上を去って行くことができるように、命ある限り励もう。

その時が来れば、ああ、その時はついに逝けるんだ!
両手を広げて駆け寄ってくる父と母に、私は「おとうさーん。おかあさーん。」と小学生の子どものように思いっきり走って行き、両親の胸に抱きつくんだ。

不条理な悲しみがつのる時は、いつもこのことを想いながら生きるようになった。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                      2000年9月13日

父が滞在していた8月が終わった。
夏が過ぎ行くのと共に、父が遠ざかっていくようで今は日が経つほど辛く悲しい。
病床の父のことも楽しかった思い出も全て悲しみになる。
父が死ぬなんてあってはならないこと。
遺体を前にして「お父さん、趣味の悪い真似はやめて!」と私は何度も心の中で叫んだ。
「故 竹内三郎 儀 葬儀に際しまして・・・」と書かれた書状が、非情な現実へと導く。
「故」だなんて! 父の葬儀?・・・私はただぼんやりと立ち止まってしまう。
 
母の時も同様に感じた。
父の再起が不可能だと分かった時、あの悲しみをもう一度通らなければならないのかという思いが迫り、私は心の中で小さな子供のように泣き叫んでいた。
そして気が付けば遺体となった父の傍らに居た。
母を亡くした時、通夜、葬儀と父の姿を思い出すのだが、父がどのようにしていたか記憶になく、父を気遣ってやれなかったことが悔やまれる。
そして、半身を亡くしてあんなに悲しんでいた父も逝ってしまい、私は独り取り残された感じがしている。
 
葬儀を終え自宅へ戻ってからの2週間ほどは、高い熱に浮かされたように、身も心もぼんやりと宙に浮いているようだった。
朝、目覚めた時、「お父さんはもういない。」と深いため息をつき、今日も一日、父のいない世界で過ごさねばならないことを思い知らされた。
10時8分の電車に乗る必要もない。病院に行っても父はもういないのだ。
 
亡くなる数時間前、居眠っている私を父がじーっといつまでも見つめていたと真智子から聞いた。
父の深い愛を思う。
お父さん、ごめんね。お父さんが最も孤独な時に、しかも、いよいよお父さんが地上を去ろうとされている時にも私は眠っていた。悔やんでも悔やみきれない思いに苛まれた。

「召されゆく人は、最も愛する者が眼を見開いて傍に居てはお別れが出来ないそうです。居眠ったことを絶対に悔いる事はありません。愛する人達とお別れの時間も与えられて地上を去られたお父様はお幸せな人でいらっしゃいます。
あなたはあまりに愛され、あまりに幸せな所に置かれてたから、その大きな宝物を失って悲しみも大きいでしょう。
でも、娘としてするだけの事をして、十分に愛されただけ返す事が出来たのも神様の御心だと思います。」


と、富樫姉が慰めに満ちたお便りを下さった。すぐに届いたお手紙により神様からの慰めを得た。
posted by 優子 at 06:55| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

たった一度の人生だから ―速報・今朝の番組より―

日野原重明さんは、2005年に文化勲章も授章された94歳の現役医師で、星野富弘さんは器械体操中の事故により首から下が動かず、口に筆をくわえて花の詩画を生み出しておられる。
今朝の『ライフライン』は、共にクリスチャンであり聖書の教えがもとになっている二人の対談であった。

日野原さんは学生時代に結核になり8ヶ月間も絶対安静の状態であった。トイレに行くことさえできなかった。
「この間はネガティブな考え方になり、『なぜ自分だけが・・・』という思いになった。しかし、あとになってわかったことは、医学は勉強で達成できるが病人学は自分が病気にならないとわからない。
あの頃は失ったものばかりに心が向いていたが、臨床医になって患者さんを診ているうちに得たことのほうが多いと分かってきた。だから医者やナースは、少なくとも死なない程度の病気になったほうがいい。」


長期間の病気、決して嬉しくない不幸と思えることが祝福をもたらした。
あの時感じた否定的な気持ちを経験したからこそ見えてきたものがあり、日本の医学教育や医療史に大きな足跡を残されるほどの有能な医師になられた。

番組の後半は「ゆるし」のテーマで語られた。

日野原さんは「恕し」という字を使われる。
そういえば最近の著書には、この字を用いておられる。この漢字は中国(韓愈)の書に出てくる字で、特に「自分のことと同じように相手のことを思いやる」という意味がある。

アメリカの同時多発テロを私たちも恕さなければならない。人から受けたものを恕すことによって仕返しをしない。
「テロで夫を亡くして不幸になったけれど、夫は仕返しをすることは望んでいない。ゆるすことを望んでいると思う。」と語ったドイツ人女性の話をされて、愛には犠牲があるのだ。愛のマントの内側は真っ赤な血の色なのだと語られ、私の心に深く深く沁みこんでいった。


「核兵器反対ではなくて、平和をもたらしましょう」だと。
確かにこれらは共に平和を求めることには違いないが方向が違っている。後者はもっと積極的な平和を求める姿勢だ。

次に星野富弘さんが語られたことをご紹介しよう。

私は人の世話にならないと生きていけない。
こんな人間が生きていていいのかと思っていた時に聖書に出会い、生きていていいんだ、神さまはこんな私でも尊く思って下さっているんだということを知った。
信じられる。いや、信じたいと思った。

いつしか人と比べて生きる姿勢がなくなったように思う。
それまでは、人が幸せになれば自分が不幸になる。自分は変わらないのに幸せになったり不幸になったりする。そういう世界から抜け出せるようになった。

自分が神さまに赦されているから人を許せるようになった。これは努力がいるが、少しずつできるようになった。人を許せた時、その人が楽になるのではなく一番楽になったのは自分だったことに気がついた。


正直に自分自身の内面を吐露される星野さんの話は、きっとどなたの心にも強く迫ってくるものがあったことだろう。
イエス・キリストは言われた。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。私の平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。


日野原さんは医学生の若い頃に何年間もベッドに縛られて療養生活をしなければならなかった。

星野さんは中学校で器械体操を指導している時に落下し、首から下が完全に動かなくなってしまった。
命を取り留めたものの心は荒れ果て、絶望の苦しみに苦しみ抜いた。母の大きな愛と犠牲、そして、神は献身的な妻となる女性を遣わして下さり、お母さんは安心して地上を去られた。
以来ずっと妻や多くの人々の愛と祈りに支えられて詩画を生み出し、私たちに勇気と希望を与え続けておられる。

お二人をこのように生かしておられる神さまが居られることを、私もまたどうしてもお伝えしたい。
神さまの平安を与えられて生きていく。
こんな素晴しい人生はない。
神と出会ってこそ日々の喜怒哀楽も意味があり、意味を見出せるのである。

posted by 優子 at 08:53| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

社内一致で危機に勝利した北越製紙

昨夜は帝国ホテルで北越製紙主催の謝恩ビヤーパーティが開かれ、1社より2名が招待されて約200名ほどが一堂に会した。
席上で三輪社長が語られたところによれば、今回の大試練を乗り切れた勝因は社員一同が一致団結できたことであったという。

社長が社内にむけて「断固として闘う」と意思表明された時、社員一同が賛同してくれて全社一丸となって事に当たったことが何よりも大きなことであった。地元の支援も大きかったが、何よりも社内の一致がなければこのような結果を見なかったであろうと語られたのだ。

試練がやってきた時に共に助け合って乗り越え、しかも良い結果をも得ることができたというのは幸せな経験である。

私は夫を通して聞きながら、家庭を守る主婦、また、母親として過去のことを振り返りながら、内部の統一がいかに大切であるか思わされた。

イエスさまは言われた。
おおよそ、内部で分かれ争う国は自滅し、内わで分かれ争う町や家は立ち行かない。」と。

私にも痛い経験がある。
リーダーシップについても多くのことを考えさせられているが、何よりも大切なことは、リーダーの意思表示は全てに先立つのである。夫が外敵から妻や家庭を守るということもまた同じである。
パーティでは三輪社長と同じテーブルだった夫も、感性豊かに感じ取ってくれたことを願う。

企業にとっては人材こそが命であり、「心を込めて生きる」という人事が社風になれば幸いである。
美濃紙業において成された知子の愛の働きが生かされるようにと祈りつつ見守っていきたい。

自己を再発見した人こそが、対人との感性の向上を可能にするのであるから、経営者として、また、家長としても向上発展を期待したいと思う。

このたびの騒動で、経営者と社員の日頃の在り方が勝敗を決定したとは、何度思い出しても驚きの感動である。


昨夜、北越製紙さんから頂戴したお土産もまた地元新潟のおかきであった。

posted by 優子 at 15:03| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)F 

10 私の結論

かつて『沈黙』が世に出された時、カトリック教会から強い批判を受けたことはよく知られているが、今回の私の疑問や違和感はそれと重なっていることに気がついた。

神学的なことになるが、『沈黙』で問題となった踏み絵を踏むロドリゴの場面と同様で、このこともまた自らの行為を是とする「自己義認」ではないだろうか。
少なくとも、『悲しみの歌』をキリスト教文学と言うのは危険であり、それは救いの問題だけではなく、遠藤が抱く「神」についても同じ見解である。

遠藤は、汎神的な日本でキリストの神と取り組むうちに、いつしか汎神的に反れて行ったのか、あるいはもしかして、神と出会っていなかったのかと考えたりもしている。

勝呂は最後まで罪の意識を自覚することはなかったと思うのだが、人は罪意識があろうとなかろうと、罪の解決がないと魂の平安を得ることはできない。それゆえに無意識であっても罪から逃避せざるをえなかったのであろう。
『悲しみの歌』を推薦されたNさんは、「良心の罰を受けない人もいるのに、勝呂は罪から解放されずに、いつも追われて生きてきた。赦されるということは、どういうことなのかなあと思った。」と言われたが、唯一、私の心に残った鋭い感想であった。
その答えは全て聖書に書かれてあるので、是非、聖書を読まれることをお勧めしたい。

良心の呵責に悩む人もいれば、悩まない人もいる。確かにこのことも不可解なことであるが、これもまた神様の領域の事柄であるから、私は深入りせずにカントに倣ってエポケーすることにしている。
否、エポケーできるようになったと言う方が的確だ。そして、気持ちが沈む時は、イエスが語られた『毒麦の譬え話』により慰めを得ている。


                   (完)

(参考文献)

※ 『海と毒薬』 遠藤周作著 新潮文庫 1960年
※ 『悲しみの歌』 遠藤周作著 新潮文庫 1981年
※ 『愛と信頼を求めて』 西村幸郎著 ヨルダン社 1969年
※ 『「遠藤周作」とShusaku Endo』 
  アメリカ「沈黙と声」、遠藤文学研究学会報告 春秋社 1994年
※ 『人生の同伴者 遠藤周作』(聞き手 佐藤泰正) 春秋社 1991年
※ 『遠藤周作 愛の同伴者』 川島秀一著 和泉書院 1993年
※『十字架を背負ったピエロ ―孤狸庵先生と遠藤周作―』
                      朝文社 1990年
※『日本の作家とキリスト教』 久保田暁一著 朝文社 1992年
※『菊と刀』 ルース・ベネディクト著  社会思想社 1967年
※『いかに生きるか』 森有正著 講談社現代新書 1967年         
posted by 優子 at 07:00| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

大阪府豊中市の「とよ読書会」、感動の500回記念読書会

今朝は8時に家を出て、阪急電車宝塚線岡町駅から歩いてすぐの岡町図書館へ向かった。東大阪読書友の会と40年来交流している豊中市の「とよ読書会」が500回目を迎えられたのだ。
代表者として前でご挨拶させて頂いた。
500回と言えば41年8ヶ月の歴史、私も18年前からの交わりがあり、今では故郷へ帰ったような気持ちがする顔なじみのお仲間である。

今回は講師の先生をお迎えしての英文学作品、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』だった。
私は1ページも読まないで出席したが、予想以上に素晴しいお話を伺えた。

しかもである。
講師は関西外国語大学で助教授をされているクリスチャンだったのだ。
講演会直後に、講師と親しくされている豊中の友人から確かめたのだ。
私より13歳年上の橋本登代子先生は、とにかく情熱の塊のような方だった。
良い講演がしたいからと水・木曜日は国会図書館まで調べに行かれたというのだ。
わざわざ東京まで!
これだけでも驚きだった。

話される内容が一般の文学者とはどこか違っていた。この情熱はただの熱心さとは違っているように感じていた。
特に英米文学はキリスト教がベースにあるから聖書の知識が必要であるのは言うまでもない。日本文学にしろ西洋音楽にしろ信仰者が語る内容、学問、演奏でないとつかみえない、また、表現しえないものがある。
この方のは聴きごたえがあり引きずり込まれて拝聴していたところ、

私たちの幸せとは、お金が欲しいとか物を持つとかではなく、神さまから与えられた能力を磨いて世の人々に少しでも良い生活をして頂くようにするのが・・・

と言われて、「やっぱりクリスチャンだった!」と納得した。

しかもである。
紹介して下さった『感動 愛の物語11章』の出版社が、美濃紙業のお得意先である大阪教育図書(ひょうたん書房)だと言うではないか!
大阪では老舗の出版社である。
私も何度か教育図書の社長ご夫妻にお目にかかっており、このブログも愛読して下さっている。


この本は有名な英文学作品11編のあらすじを要約したものであるから、バレンタインデーにチョコレートを贈るよりも素晴しいプレゼントになると学生さんに勧められているそうである。
価格も1000円とお手ごろだ。
確かにこの方がよほどインパクトがある(^−^)。

出席者全員が師の講演内容に感動されていた。
講演会のあと、いつものように図書館のお向かいにあるお寿司屋さんで楽しい会食を持った。実に楽しい時間だった。

私はこの会食の席で、今回の講演会出席について無礼千万なことをしたことを正直にお詫びした。
8月の読書会(東大阪)でご案内して欲しいと、山浦氏より7月に案内状を頂戴していた。本はとても読めないけれど、私もお話だけでも聴きたいと思っていたが、その時はその程度の気持ちしかなかった。

しかし、7月の読書会を休んだ時も出席される方のために少しでも早くテキストをお伝えしたいと思って、役員の方にご案内して頂いていた。
そして、8月の例会で私もご案内したものの、今週は連日外出の予定が入っていて疲れやすい私は行くのをためらっていた。
その後、「とよ読書会」の会長さんからのお誘いを頂いても尚、欠席のお詫び状を差し上げていた。

呆けたとしか言いようがない。
その後、東大阪の読書会のお一人から行きたいとの連絡を頂いた時もまだ気がつかなかった。次に、親しくしている「とよ読書会」元会長の大塚さんからお電話を頂いた時もお断りしていたのだ。

しかし、電話を切って直ぐに、そして、漸く気がついた。
500回目と言えば大きな節目の記念会である。
私が会長になりたての年のこと、もう14年も前のことであるが、25周年の記念読書会にも豊中から3名来て下さっていたことを思い出した。
会長なら何を置いても出席せなばならぬではないか!
直ぐに折り返し大塚さんに電話し、出席される東大阪の会員さんにもお詫びしお伝えしたのだった。そして、前日になってもう1名の参加者を得て、こちらからは3名が出席した。

情けない!
無責任だ!
いや、無責任なつもりはない。
どうなってしまったのだろうか、これが年を取るということなのか!
仮に配慮することができなくなるにしても、まだ20年早いではないか。
配慮もなにも、直ぐに気がつかなくてどうする!!
記憶力は著しく低下していて怖いくらい探し物ばかりしているが、このようなことまで気がつかなくて本当に心配だ。

そして、今回もまた神さまは私を揺さぶり続けて気づかせて下さったのである。
お役目だからということもあるが、どうしても大切なこと、特に私自身にとって大切なことがある時には、今回のように神さまがいつも何度も何度も教えて下さるのだ。
優子、優子よ。こちらだ、こちらだ。」と道を照らして下さるのだ。
今回のように、どんなに私がボンヤリしていても。


今日の講演内容や交わりを通して情熱を奮い起こせただけではなく、模索している今後の方向性を決めるための参考を示されたのかもしれないと思っている。
そして、いろんなところで活躍されているクリスチャンの姿に励ましを感じながら6時20分に帰宅した。
posted by 優子 at 21:34| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)E 

8 神の問題

〔4〕で勝呂と戸田が神について問答しているところがある。
まず、キリスト教作家が「神」と言う時、日本人が言うところのものとは全く異なる。
聖書開巻第一の言葉に「初めに神が天と地を創造した。」とあるように、この神によって宇宙の万物が造られ、神の姿に似せて人間も造られた。従って、神は全知全能なる唯一のお方であるから、向こうの国の神であるとか、こちらの国の神であるとか言うものではない。

日本人が人や動物、自然などを神格化して崇め、信仰の対象とするようなものではないから、常に自分自身の在り方や人格が問われる。そして、悔い改めた者には豊かに赦しを与え、溢れる恵みを下さる憐れみ深い愛なる神である。
このほか、キリスト者が書いた文学作品を読むには、最低限の聖書の知識が必要であろう。遠藤もこんなことを語っている。

「 犬の眼」の背後に(臆病ゆえにイエスを「 知らない」と言って拒んだ)ペテロを見るイエスの眼差しがダブルイメージとしてある。
『わたしが・棄てた・女』というのは、『わたしが・棄てた・イエス』というのが、本当の題なんですけれども、日本人はそこまで読み取ってくれない。そこが実作者として一番辛い。」


ついでながら、人類は古来より今まで神が居るか居ないかという論争を繰り返してきたが、あの大哲カントが理性の限界を説き、理性の取り扱えない問題、即ち、神の存在については判断中止(エポケー)することが正しいと説いたのは、まことに完璧な解答である。
どこまでも神を知的にのみ理解しようとする人がおられるが、エポケーする聡明さに導かれるように願っている。

        
9 勝呂の自殺と遠藤周作への疑問


戦後、影を潜め開業医として生きてきた勝呂は、『悲しみの歌』の最後で首を吊って自殺した。新聞記者の執拗な追跡や世間の風評が、勝呂を自殺に追い込んだというのが読書会の一致した意見のようであった。確かに世間の眼はたいへん辛かったであろうが、私はそれで自殺したとは思えないのである。
「あの事件」については戦犯として裁かれて刑罰も受けたにもかかわらず、勝呂にとっての解決、罪からの解放が無かったために自殺せざるを得なかったのだと思う。

牛乳配達の青年は、こわごわ、遠くから、その死体を眺めた。
まるでその死体の番をするように野良犬が動かない。死体と同じように雨にしとどに濡れたその犬は哀しそうな眼で青年をじっと見つめた。まるで野良犬は青年にこう訴えているようだった。
(あんたには・・・この人の・・・哀しみがわかるか・・・)


ここに「 犬は哀しそうな眼で」とあるが、この「見つめる眼」「犬の眼」と言うのは、遠藤がよく用いる技法であり、遠藤文学に何回も出てくるものである。
遠藤自身が語っているように、この「眼」は全ての出来事や人間の一切を看破する眼、即ち、人間を見つめる神の子イエスの眼を暗示している。また、遠藤が抱いていたイエス像と考えられるガストンに、
  
「・・・ほんとに、あの人、いい人でした。」
「・・・ほんとにあの人、今、天国にいますです。天国であの人のなみだ、だれかが、ふいていますです。わたくーし、そう思う。」


と語らせていることから、勝呂に対する作者の憐れみの気持ちが伝わってくる。それだけではなく、この犬の「眼」やガストンの言葉から、勝呂に魂の救い、神の救済が実現されたという解釈になる。
私が最も興味深いのはこのところである。(追記・今月2日のペンクラブでの学びで文学者・久保田先生と意見の相違があったのは、このような箇所である。)

6月の読書会で『悲しみの歌』について語り合った時点では、まさかカトリックでもこのような聖書解釈はしないであろうと、私は気になりながらも適当にごまかしてしまったのであるが、正直のところ大きな疑問であった。
これは全く聖書に反する解釈であり、遠藤がずっと問い続けてきたことはどうなってしまったのかという失望だけではなく、私が感じていた疑問や問題点が明確になったのである。
            
                  (最終章につづく)
posted by 優子 at 06:19| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

知的障害者施設を訪ねて

毎月の民生委員会は社会福祉センターで開かれている。
昨日は敬老の日を前に、独り住まいのご老人や寝たきりの方へのプレゼントの用意のために午前中から詰めていた。
私は約170軒を受け持っているが、その中で独居の高齢者が13名である。早速今日の午前中、午後とお訪ねしている。
年を取ると心身ともに個人差が大きく、自分の老後を見据えながらいろんなことを考えさせられる。

2年前にご主人を亡くされた方にお慰めの言葉をかけると、今も一瞬にして涙いっぱいにされた。時間を取ってお訪ねせねばといつも思うのにできないでいる。
母のように少しの時間も使わなければと思う。
夕飯の用意ができた6時半ごろからでも、父が帰ってくるまでの少しの時間を見つけては訪問していた母の姿を見て育った。そんな母の姿を思い出していた。

今日の午後は、知的障害者のデイサービスセンターを訪問した。社会福祉センターの横にあり、市の福祉課が用意して下さっている手土産(お菓子)を持って行くのだ。私たちが訪問する1時半から3時までは運動の時間で、福祉センターへ移動して音楽に合わせて楽しく踊るのである。

抱きついてくれる女性、それは彼女の挨拶だという。
そこへ、「いっしょに行こう」と、反対に私の手をとって歩き始めた30代後半の女性。
私は「お名前は?」と聞いた。
「○○のぶこ」
「のぶこさん、わたしはゆうこです。よろしくおねがいします。」と言うと、
「ゆうこさん。ゆうこさんっていうの!」と、大きな声で何度も嬉しそうに言いながら福祉センターに向かって歩き始めた。
すると急に、あとから一人で歩いて来る人のところへ走って行き、「○○さん、一緒に行こう」と誘って一緒に歩き出した。
ダウン症の方は物静かで、今回もまたみんなが和んでいるか心を配っておられた。
この方たちみんな優しいのである。他人のことに心を配られるのである。

通所者の年齢は高校卒業以上からとのことで、今のところ30代後半の方が最高齢のようである。今日の出席者は11名、スタッフは8名おられたからかなり行き届いたお世話がされている。
今日も去年と同様に『マツケンサンバ』を踊った。すごく楽しそうに踊るのだ。車椅子の人も体を大きく動かしておられた。

正直のところ、去年初めて訪問した時は入り口で足がすくんでしまった。
これまでにも講演会や書物を通して学んでいたつもりであったが、恐れてしまった自分自身にショックだった。
障害者を理解するためには、障害者の方達と共に交わることが如何に大切なことであるか、5〜6回経験して初めて気がついた。
しかし、触れ合いの中で書物で学んできたことは大きく生かされている。このこともまた驚きである。民生委員の仕事を通して、社会的実践のための学びの場を与えられていることに気がついた。

障害者施設「すみれの里」では、今日も時間はゆっくりと流れていた。



posted by 優子 at 16:58| 随想 | 更新情報をチェックする

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点 (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)D  

6 「ふかい疲れ」

この「ふかい疲れ」はどこからくるのであろうか。この言葉は大切なキーワードであろう。事件から何十年も経った『悲しみの歌』において、新聞記者が勝呂に生体解剖に参加した理由を問うた時、勝呂は次のように答えている。

「あの時・・・くたびれていたからね。毎日の診察や空襲や雑務で疲れとったからね」
戦争を知らないこの青年に、あの日の暗さ、あの日々の希望のない生活、あの日々の疲労、をどう説明したらいいのだろう。いや、いくら話してきかせたところで、彼は決してわからないだろう。


確かに何事も経験した者でしか分からないことがあり、戦時中の苦労を知らずして戦後生まれの者が軽々に論じてはいけないと承知しているし、勝呂自身もそのように話しているのであるが、作者が彼らに言わせている「ふかい疲れ」とは、戦争という状況だけがが起因するものではなかろうと思う。
これは神不在、罪意識不在ゆえの虚無感、無気力からくる「ふかい疲れ」であり、遠藤が日本人に問うた「日本的感性が孕む虚無」をこそ見極めようとしているのである。  
     
7 罪の問題


ここで言う「罪」とは、なにも勝呂のように生体実験に加わったとか、人を殺したとかいうものだけではなく、誰一人として例外ではない万人に対して言われているものである。
仮に刑罰を受けたところで、それによって罪は消えるのであろうか。罪とは、そんなに簡単には消えるものではないからこそ、勝呂は自分で死を選んでしまったのだと私は考えている。

人間にとって決定的に死に値するものは、人間の持っている罪なのです。・・・・人間に罪というものがある以上、人間は死ぬことができない、これはいちばん重要な問題だと思うのです。・・・人間の魂を、生きることができなくさせるものは罪です。自分が罪人だということです。・・・罪がある限り、人間は死んでも死にきれないということをつかむことです。自分の経験を深めていきますと、その問題だけが残ります。
・・・けっきょく最後に残るのは、人間の死の問題であるということ。しかも、死の棘、死の針は罪だということ、罪が死の針のようにあって、人間は死ぬこともできないでいる、人間があんなに死を避けるのは、ただ死が恐いからでなくて、やっぱりそこに罪があるからだと私は思うのです。


これは、フランス文学者であり哲学者である森有正の言葉である。
彼は、政治家の森有礼を祖父に、キリスト教学者で牧師の森明を父に持ち、高い知性と深い経験、そして、研ぎ澄まされた批判力と磨かれた感性により、「経験」を土台に据え独自の思想を展開した。書物を通して私の師と仰ぐ一人であり私の思想に大きな影響を与えた。

戦争という時代においても、自分の出世のためには患者を人とも思わない柴田助教授や浅井助手もいた
今回読み直して気づかされたことは、勝呂と戸田は彼ら柴田助教授や浅井助手と違って人間として苦しんでいると言えるのではないかということである。
しかも、戸田は自分の姿を知っていることから勝呂よりも希望が持てるのではないか。「考えても仕方がない」とする勝呂よりも、救済の可能性があるように思われる。佐藤泰正は、

半ば無意識で動いている勝呂のいろんな問題を、もっと明確に日本人の、人間の問題として意識化した存在が戸田であろう。

と述べている。

自分を押し流す運命から自由にしてくれるものが神であると言う戸田は無神論者であるが、「神があっても、なくてもどうでもいいんや。」と言っている勝呂の方が、闇は深いのではないか。私は、自己の醜さを知る戸田のその後に興味深いものを感じる。

                     (つづく)
posted by 優子 at 07:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

企業はいかにして生き残るか ―王子製紙が仕掛けた買収劇より―

昨夜のNHK番組『クローズアップ現代』では、「挫折した買収劇」と題して王子製紙と北越製紙の問題が取り上げられていた。

私は今年になって初めて「TOB」という言葉を耳にしたように思う。
「TOB」とは”take−over bid ”の略で、「株式公開買い付け。経営権の支配などを目的として、その会社の株主に株式の買い取りを申し入れること」の意味である。
手元にある「イミダス」の別冊付録辞典2002年版だけではなく1993年版にも既に載っていた。この「TOB」とは買収したい経営者の合意を得ないで実行するというのだから、日本の精神文化から言えば受け入れにくいものであろう。

北越製紙社長は直ちに新潟へ出向き、地元の自治体や商工会議所を回って支援を願った。
今まで自主独立を守り、金融機関も全て地元密着のメーカーである。新潟地震のあとも立ち直りの為に共に努力してきた企業であり、地元の生活・経済を左右する存在なのだ。
それが救いとなった。
「地元と共に歩んできた北越を守れ!」と地元の指示を得たのだ。

王子製紙は「敵対的TOB」という欧米的な手法をとったのであるが、時間を置いて2段階で進めていくという日本的な進め方でやったという。
しかし、手法自体が良くなかった。
保守的と言われている紙業界の協調関係を壊してしまうことになり、8月末に王子製紙は敗北宣言をして買収劇の幕を閉じた。

美濃紙業も「持ち株会」で株を持っていることから、8月初め、王子製紙と北越製紙は直接会社にやって来られた。
王子は「北越の株を売ってくれ」と言い、北越は「売らないでくれ」と、あちこちで熱い夏の陣が繰り広げられていたのだ。

番組が終わって夫に感想を聞いてみた。

今まで王子製紙と日本製紙の2大メーカーが業界を引っ張って、他の中小メーカーと共存してきたが、国際競争力の為にトップの王子が、業界の中でも利益率のいい抄紙機を持っている北越に目をつけた。
第3番目のグループとして規模を大きくするための合併だったら北越も受け入れただろうが、王子が北越を取るということになるとメーカーが減ることになる。
そうなれば流通の選択肢がなくなりメーカー主導になってしまうので、我々もそのような吸収合併は受け入れられないということで王子は総反対をくらった。


と、日頃ものを言わない夫は雄弁に語った。
そして最後にこう付け加えた。
「2年後には再び再編の波がやって来る」と。

バブルがはじけ戦後最大級の不景気だと言われて以来、今も毎日「食うか食われるか」の熾烈な戦いが続いている。

人間育成においては、「ナンバーワンではなくてオンリーワンに」ということが正しくとも、政治や経済界に関しては通用しないのではないか。
力の強いものが絶対的優位の構図の中で動いていくのだと思った。


このことは「日本の大買収時代の幕開けの出来事」であったが、新しいことをする時は摩擦が生じるということもまた私は強烈に受け止めていた。時代は大きく動き続けているのだ。
そして、今回の買収劇には日本独特の良い部分が健在であることもわかり嬉しくもあった。

「8日に北越謝恩のビヤーパーティーがあり、その時はこの話でもちきりになるやろな。」と語った夫に、
「きっと三輪社長は、皆さんから大きな拍手を送られるやろうね。」と言葉を返した。

私はなぜか北越製紙の肩をもちたくなるのは、社長さんのお人柄に関係しているからだろう思っている。親しくお交わりしたわけではないが、人柄というのは大体において外側に表れているものである。
前社長さんにしても同様に素敵な方だという印象を持っている。

会社であれ家庭であれ頭(かしら)となる人の影響は多大であるから、きっと良き社風を育て継承されているのだろうと拝察している。
ここに生き残れる真理が隠されているようにも思っている。


posted by 優子 at 07:33| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)C 

 
5 良心、『罪と恥』について

戸田にとっては、「他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけだったのである。」と語っている通り、難なくそこをうまく通り過ぎればまた身勝手な論理で生きていけるのである。

あの姦通を犯した時もぼくは決して自分が破廉恥漢だとも裏切者だとも思わなかった。多少の後ろめたさ、不安や、自己嫌悪はあったが、それもこの秘密がだれにも嗅ぎつけられないとわかると、やがて消えてしまった。ぼくの良心の呵責は長く保ってもせいぜい1ヵ月ぐらいのものだ。

人間の良心とは、戸田が言うように考えかた一つで、どうにでも変わるものなのだろうか。戸田には罪意識がなく、そのことは絶対者なる神意識の不在を意味していると作者は問題を提起しているように思われる。
ここで脳裏に浮かぶのが、文化人類学者であるルース・ベネディクトが書いた『菊と刀』である。これについては批判があることも承知しているが、そのことについては別の機会に取り上げてみたいと思う。

ベネディクトは、日本人の精神生活や文化を西欧の「罪の文化」に対して、日本は「恥の文化」 であると論じた。
「日本人は罪の重大さよりも恥の重大さに重きをおいている。」
「真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である。」


以来50年以上も経ち、日本の社会状況は大きく変化し批評も加えられるであろうが、外面的な生活や状況の変化があろうとも、ベネディクトが指摘した民族文化の傾向は容易に変化するものではなく、今も色濃く残っていることは日常生活で我々の経験するところである。

小説に戻ろう。
実験に立ち会うことを決めたのに悩んでいる勝呂に対して、

「お前も、阿呆やなあ。」と戸田が呟いた。
「ああ。」
「断ろうと思えばまだ機会があるのやで。」
「うん。」
「断らんのか。」
「うん。」
「神というのはあるのかなあ。」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押し流すものから―運命というんやろうが、どうしても脱れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや。」
「さあ、俺にはわからん。」
火口の消えた煙草を机の上にのせて勝呂は答えた。
「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや。」
「そやけど、おばはんも一種、お前の神みたいなものやったのかも知れんなあ。」
「ああ。」
と呟くように話す2人だった。

そして、戸田と勝呂に共通しているのは、重く、けだるい、「 言いようのない疲労感」、「どうにもならないふかい疲れ」を感じていることである。
                    
                   (つづく)
posted by 優子 at 06:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

共に励まし合って今日の旅路を歩く

     救い主イエスと共に行く身は  
     乏しきことなく恐れもあらじ
     イエスは安きもて心足らわせ  
     ものごと全てを良きに成したもう
     ものごと全てを良きに成したもう

     坂道に強き御手(みて)をさしのべ
     試みの時は恵みをたもう
     弱きわが魂(たま)の渇くおりしも
     目の前の岩は裂けて水湧く
     目の前の岩は裂けて水湧く

     いかに満ち満てる恵みなるかや
     約束しませる家に帰らば
     わが魂(たま)は歌わん力の限り
     君(イエス)に守られて今日まで来ぬと
     君に守られて今日まで来ぬと
          (聖歌 590番)

この讃美歌から神さまからの力強い励ましと慰めを感じる。

今朝は、5月からハンブルクの地で宣教されている井野宣教師(2月5日の記事に掲載)が、ピアノを弾きながら歌っておられるこの曲を連続再生で聴きながら、神さまとの幸せな時をもっている。
私が書く時は祈りの時、神さまと二人だけの最高の時間である。
歌詞のところをクリックすれば讃美歌が流れてくればいいのにと、いつも読者の方にもお届けできなことを残念に思う。

今は私の感情が生々しいので書けないが、文香さんと節子さんから頂いたメールに導かれて今日を始められることを感謝している。

「毎日 優子さんのブログからパワーをもらって 私の一日が始まると云っていいくらい」と仰って下さるブログ読者。


私たちは神さまから今日も命を賜り、命と共に新しい力を頂いて生きるのだ。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。
             
とイエスさまが言われたように、食物と共にみことばを一緒に頂いて今日の旅路を行こう。
これを読んでくださっている貴方に神さまの祝福が豊かにありますように!
posted by 優子 at 08:23| 随想 | 更新情報をチェックする

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より B 

4 「あの事件」への関わり方

勝呂は真剣に考えることもなく、どうしようもないこととして生体解剖に立ち会うことを承諾する。

俺は何故、この解剖に立ち会うことを言い含められたのだろうと勝呂は眼がさめた時、考える。言い含められたというのは間違いだ。・・・・戸田の煙草のためかもしれない、あれでもそれでも、どうでもいいことだ、考えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ。

と。しかし、
「強制しているんじゃない。ただ、承諾しなくても、これは絶対、秘密にしてもらわねば困るぜ。」「 君の自由なんだよ。本当に。」と言われており、断ろうと思えば断れたのである。

一方、戸田は運命だと考えた。
手術台に横たわる捕虜の傍に立っていた戸田は、勝呂に、
「 こっちに来て手伝わんかいな。」と促した時、「 俺あ、とても駄目だ。」、「 俺あ、やっぱり断るべきじゃった。」と壁から離れなかった。「阿呆、何を言うねん。」 (略) 「断るんやったら昨日も今朝も充分、時間があったやないか。今、ここまで来た以上、もうお前は半分は通り過ぎたんやで。」「半分?何の半分を俺が通り過ぎたんや。」「俺たちと同じ運命をや。」

と言っていることから、戸田にとっては「自ら選び取った運命」であった。
彼は、実験中に背後で廻されている8ミリ撮影機をも意識して、

(ほら、今、俺が血圧計をのぞいたんや。首を動かした。これが人間を殺している俺の姿や。この姿が一つ、一つフィルムの中にはっきりと撮られていく。これが殺人の姿なんかな。だが、後になってその映画を見せられたとき、別に大した感動が起きるやろか。)

と自問し、周りの人々をも冷ややかに見、冷静に第2助手を務めた。
勝呂は(俺あ、なにもせん。)(俺あ、あんたに何もせん。)と呟いた。
そして、全てが終わった後、

殺した、殺した、殺した、殺した・・・・耳もとでだれかの声がリズムをとりながら繰りかえしている。(俺あ、なにもしない。)と勝呂はその声を懸命に消そうとする。(俺あ、なにもしない。)だがこの説得も心の中で撥ねかえり、小さな渦をまき、消えていった。(成程、お前はなにもしなかったとさ。おばはんが死ぬ時も、今度もなにもしなかった。だがお前はいつも、そこにいたのじゃ。そこにいてなにもしなかったのじゃ。)

勝呂は、立ち会いを断ることができたにもかかわらず断らなかったのである。仮に断れなかったとしてもそれを選んだことには違いない。そして、「何もしなかった」からと言う勝呂の生き方に主体性はなく、そこに典型的な日本人の姿を見る

開業医となった勝呂は、「私」に「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない・・・アレをねえ。」と語っているが、何十年経っても同じ受け止め方でいることを、私は注視したい。

これに対して戸田は、2時間前まで生きていた捕虜の赤黒くよどんだ水に漬けられたこの褐色の暗い塊り。俺が怖ろしいのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見ても、ほとんどなにも感ぜず、なにも苦しまないこの不気味な心なのだ。
今、戸田のほしいものは呵責だった。胸の烈しい痛みだった。心を引き裂くような後悔の念だった。だが、この手術室に戻ってきても、そうした感情はやっぱり起きてこなかった。

と、罪に苦しむことのできないことを苦しんでいる。私はここに、せめてもの良心の痕跡を見るのであるが、
「今日のこと、お前、苦しゅうはないのか。お前は強いなあ。・・・どう考えてよいんか、俺にはさっぱり今でも、分からん。」

と言う勝呂に対して、戸田は、

「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したことやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変わるもんやわ。」

と答えている。そして、

「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや。」

と、身勝手な論理で自分を納得させ、今までのようにこのこともまた通り過ぎていくのである。                    
                    (つづく)
posted by 優子 at 06:39| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年09月04日

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)A 

3 勝呂と戸田の人物像
 
勝呂がごく普通の人間であることは、次のことから窺える。

「平凡でもいい、何処かの、小さな町でささやかな医院に住み町の病人たちを往診することである。町の有力者の娘と結婚できれば、なお良い。そうしたら、自分は糸島郡にいる父親と母親との面倒をみることもできるだろう。平凡が一番、幸福なのだ」。

この思いは、小説の冒頭に出てくる「私」と同様であり、共に空疎な内面を持って生きている感じがする。
一方、戸田については手記の形式で多くの紙面が割かれてあり、

「昭和10年ごろ、神戸市灘区の東はずれにある六甲小学校で髪の毛を長く伸ばしている男の子はぼくだけだった。」

と、子供の頃の経歴は遠藤氏のそれと重なっている。
「生徒の大部分は百姓の子供」であり、戸田の父は近くで開業する内科医、成績は1年生の時からずっと全甲(オール5)、学芸会では必ず主役、絵も書き方もいつも金賞である。

「ぼくは大人たちを無意識のうちにダマしにかかった。大人たちというのは詰襟を着た師範出の教師たちのことであり、また父親や母親のことでもあった。
どうすれば彼等がよろこぶか、どうすればホメられるかを素早くその眼や表情から読みとり、時には無邪気ぶったり、時には利口な子のふりを演じてみせるにはそれほど苦労もいらなかった。本能的にぼくは大人たちがぼくに期待しているものが、純真であることと賢いことの2つだと見抜いていた。」

とあるように、戸田は大人の気に入られるように自分を作って生きてきた。また、

「長い間、ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の呵責とは今まで書いた通り、子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰にたいする恐怖だけだったのである。勿論、自分が善人だとは思いもしなかったが、どの友人も一皮むけば、ぼくと同じだと考えていたのだ。」

「罪悪感の乏しさだけではない。ぼくはもっと別なことにも無感覚なようだ。今となっては、これを打明ける必要もあるだろう。はっきり言えば、ぼくは他人の苦痛やその死にたいしても平気なのだ。」

と、医学生になってからの数年間をも振り返って語っている。
私は今まで戸田に対して、生体解剖に積極的に関わっていたことから、人間らしさから言えば勝呂よりも冷酷で救いがたい存在であると思っていた。しかし、戸田は、

「他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分が不気味になってきたからだ。」

と、良心の呵責を感じない自分が不気味であると言っている。
自己のありのままの姿を直視しているところは、勝呂と全く違っている。この点については後半で少し触れたいと思う。

勝呂や戸田は共に遠藤の精神的分身であると思われるが、戸田の手記は何と正直に自己の姿を語っているのだろうかと思った。
そして遠藤が、「戸田は私ですから。」と語っていることを知り驚いた。(「対談〈文学―弱者の論理―遠藤周作氏に聞く〉」、『国文学』第18巻2号、昭和48年2月)。

また、

「ぼくはあなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。」

と、戸田に問わせているが、遠藤にとっては戸田という人物を深く掘り下げることが、遠藤自身の内部を、否、人間の実相を深く探ることであった.                    
                    (つづく)
posted by 優子 at 07:13| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年09月03日

遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)@ 

1 はじめに

2004年6月の読書会のテキストは、遠藤周作の『悲しみの歌』であった。ここに登場する勝呂二郎は、昭和32年に発表された遠藤の代表作、『海と毒薬』の主人公である。
『悲しみの歌』は、それから20年を経た昭和51年に発表されたもので、解説者・遠丸正も述べている通り、『海と毒薬』の続編ともいうべきものである。
勝呂は、第2次世界大戦の末期に米兵捕虜の生体解剖に加わったことから、戦犯という過去を持った開業医として登場する。
主な登場人物は、正義の御旗で勝呂を執拗に追及する若い新聞記者、その彼女、大学教授ではあるが表と裏の顔が全く違う文化人、その娘、無気力でぐうたらな学生、末期の胃がんを患う焼き芋売りの老人、その孫、無垢で清らかなガストン・・・など、いろんな生き様が織り成されている。
遠丸正は、

この作品の底に澱んでいる滓(おり)のような悲しみをあじわうには、読者の側にそれ相応の生の体験を、生そのものから分泌する悲しみの体験を、刻み込んだ感受性が要求される。おそらくこれは『知』の敏性(デリカシー)で『鑑賞』する作品ではない。そうではなく、ながい人生を渡渉し、人間の裏と表の実情をふたつながら知悉した感性でもって『共感』する作品なのだ。

と述べている。
まさしく私も言葉にはならない悲しみ、理屈では割り切れない人生の深遠さを考えさせられた。
そして、今回も皆さんの感想を楽しみに出席し、18名の出席者全員が期待通り熱く語り合い、読書会の醍醐味を味わった。
しかし、今回ほど皆さんの感想との違いを鮮明に感じたことはなかったように思う。それは、勝呂を自殺に追いやったものは何かという点であった。

勝呂を自殺させたことから、私は遠藤が『海と毒薬』以来、ずっと問い続けてきたことへの結論が書かれているのではないかと期待したのであるが、作者への違和感と疑問だけが残った。
どうしてもこのまま読み過ごすことはできず、遠藤氏と向き合うことになった。そのようなわけで、『悲しみの歌』の正編とも言うべき『海と毒薬』を再読することから始めたいと思う。

2 『海と毒薬』より
 
第2次世界大戦末期、九州大学付属医学部の病院でアメリカ人捕虜の飛行士8名が医学上の実験材料にされ、戦後直ちにアメリカ軍の法廷で取り上げられた生体解剖事件があった。
その事件を素材にして書かれたものが『海と毒薬』である。
遠藤はこの作品以来、「神なき日本人の悲惨」を描き、神を求めることなく生きる日本人とは何か、日本人の罪意識の不在を問い続けた。
  
小説は、「私」が8月の暑い盛りに「新宿から電車で1時間もかかる」西松原住宅に引っ越してきたところから始まる。
「私」は結婚し、「子供もでき、小さいながら家もでき」、「これで病気さえ良くなれば幸せなんだ」と、平凡が何よりと考えているサラリーマンである。
半年前から気胸療法を受けており、引越し先で治療を受けるためにモルタル作りの医院に出かけたところ、そこの医師が「あの事件」に関わった勝呂二郎であり、話は「あの事件」へと展開されていく。 

実験内容とは、「血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量」、「血管に空気を注入し、その死亡までの空気量」、「肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界」を調査するというものであった。
そこで2人の医局員、戸田剛と勝呂二郎に生体実験助手の声がかかり、彼らは戦争に巻き込まれていくかのようにして実験に立ち会うことになる。

                    (つづく)
posted by 優子 at 09:20| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

遠藤周作に再燃!

昨日の学びで久保田先生は、藤村にとどまらず遠藤周作についても触れられ冷めていた私の文学への想いが再燃した。
その理由は2つある。
以前より承知していることであるが、先生の遠藤解釈(信仰解釈と言い直してよい)は私のそれと異にするものであること。
また、大田先生が配布された遠藤周作の『海と毒薬』論である。
これは今年7月に韓国で開かれた「日本学連合会国際学術発表大会」で、氏が「キリスト教文学批評の可能性」と題して遠藤の『海と毒薬』を取り上げて論じられたものである。その中で、

遠藤周作は戦時中、一人のキリスト教教徒として棄教と呼ぶに値する罪を犯したと思われる。

と書いておられる。この箇所を読んで溜飲が下がる気持ちだった。

と言うのは、『海と毒薬』の主人公の勝呂が何故に自殺を遂げたのか?
と言うよりもっと的確に言えば、遠藤は何故、勝呂を自殺させたのかが私の納得できないところであったからだ。


大田氏は続けて次のように書いておられる。

赦しの恩寵が聞こえてこないのは、ジャンセニズム(敬虔主義)の教会で洗礼を受け、更にイエズス会の信仰に鼓舞され、献身まで志ながら、断念せざるを得なかった出来事が、影を落としているのではないか。
『神の選びの教理』を裏返しにした、『滅びに定められた人間』の絶望が作品の底部に奏でられる所以である。


やっぱりそういうことだったんだという思いと共に、カトリックと我々プロテスタントの違いをも垣間見たように感じた。
私が今まで抱いていた大きな疑問に対して納得のいく背景がわかり、同時に次の観点が見え始め、今後ももっと深く突っ込んでいきたいと思った。

そこで2年前の夏に熱中していた遠藤作品の評論を読み直してみたいと思う。これは2005年2月に発行されたもので、2004年11月末の原稿締め切りに燃えた忘れられない作品の一つである。
posted by 優子 at 09:00| 文学 | 更新情報をチェックする

2006年09月02日

恵まれたクリスチャンペンクラブ関西支部の例会

ペンクラブ例会は奇数月第1土曜日の午後1時半から5時までだが、今日は1時間延長したため帰宅は8時15分になった。
今日の会場である吹田市民会館会議室に12名が集められた。

会を導いて下さっている久保田暁一先生は有名なクリスチャン日本文学者で、小さな香芝市民図書館でも所蔵している『日本の作家とキリスト教』の著者である。
私は6〜7年前に図書館から借り出して読んでいたが、この6月に再版されたので購入し、今日は先生にサインして頂いた。
そして、同じくクリスチャンの日本文学者である大田正紀先生も来て下さり充実の4時間半であった。

久保田先生より島崎藤村の『破壊』についてご高説を賜り、藤村は大田先生のご専門でもあるのでお二方より濃密なお話を拝聴した。
会員の作品高評では、児童文学作家の今関さんが熱く語られた。昨夏も感じた事であるが、とても勢いのある方である。
今関さんとは昨年の夏期学校で初めてお目にかかり、今日は個人的にご挨拶した。
最近のこと、遠く滋賀県から香芝市民図書館にも講師として来られたというから驚いた。

会員が本を出版されているのは珍しくない。今日も多くの本を紹介された。
「やりたいことくらいは努力しないと!!」と、今回ばかりは自分の怠惰をしみじみ示された。
こんなことをしていたら人生が終わってしまう!

久保田先生は、「この方はしっかりした文章を書かれますからねぇ。」と仰って今関さんにも紹介して下さるのであるが、昨夏も大田先生に過分なるお口添えをして頂いてお引き合わせ下さったのだ。だからこそ初対面にもかかわらず大田先生から御著書『近代日本文芸評論U―キリスト教倫理と恩寵―』を頂いたのだと恐縮し感謝している。

今日も大田先生の方から来月の読書会を前に、資料(サマリー)をフロッピーと共に用意して下さっていた。今月の読書会で配布させて頂かなくてはならないし、来週、岡町図書館(大阪府豊中市)へ出向く折にもお届けしようと思う。

久保田先生は、志のある者を励まし育てようと愛の導きを惜しみなくして下さるのだ。
私もやりたいことを絞り込んで、時間を大切に使っていかなくてはならない。真剣に努力しなければ何もできないことを改めて肝に銘じた。

昨日も朝から夕刻まで外出していたので何もできなかったし、来週もあまり時間が取れないだろうが、これからは小さな時間も疎かにしないで真剣にやろうと思う。

しかし、昨日は懐かしかった。
外出ついでに大阪クリスチャンセンターへ焼き増しの写真を取りに行ったのだ。
真智子と太志君と初めてクリスチャンセンターへ行ったのは3月9日で、6月10日の挙式までに2人は何度も東京からやって来た。
そして、たった3ヶ月で全てを準備して頂いて、あんなに素晴しい式と披露宴をして頂いたことは時間が経つほど感謝と感動がこみ上げてくる。
だから、もう一度お目にかかってご挨拶できてよかった。
神さまの家族の方々に感謝!


posted by 優子 at 22:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2006年09月01日

夫の誕生日の朝、チャッピーびしょぬれ!

「今日は何の日でしょう?」
「防災の日!」
かつて我が家の2学期初日は、毎年同じセリフで娘たちの明るい声が響いた。
今日は良輔の誕生日である。

父が60歳になった時、私は一度だけ父に誕生日のプレゼントを贈ったことがある。おしゃれな父だったから考えに考えた末にアラミスのコロンを買った。
何年前のことになるのだろう。
今、元気ならば81歳だから、もう21年前のことである。ついこの前のことのようなのに今度は私の夫が60歳だなんて信じられず、昨年はしみじみと人生の速さを考えたものだった。
そして今日、夫は61歳になった。
私だってあっという間にやってくるだろう。

夫へのプレゼントは無料のヤフーのグリーティングカード。もう読んでくれたかな・・・・?(^^)

ところで、もう一人の家族、いや、もう一匹の家族のことだ。
今朝、夫を見送ろうとドアを開けると惨めな格好で鼻を鳴らしていた。
夜半から激しく降り出した雨でチャッピーはびしょぬれになって惨めな格好だった。夜中に窓を閉めていた時も、犬小屋に入っているものとばかり思っていたのに紐が絡まって入れなかったのだ。
かわいそうなことをした。
「アホやなあ。せめて主人(あるじ)が起きてきた時に、なんで泣けへんの?!
ワンワン泣いて呼ばなあかんやろ!」と言いながら丁寧に体を拭いてやった。

鎖ならば短いので絡むこともないが、チャッピーはクルクル回るので鎖は団子のようになってしまい身動きがとれなくなってしまうのだ。
それに鎖は重いし、私はどうしても奴隷だったベン・ハーの姿と重なって嫌なのだ。それで結構強靭な洗濯物を干すロープで長いままつないである。
それでさえ、つなぐ時はいつも「チャッピーごめんね。つながせてね。失礼します。」と言いながらつないでいる。

ところが今朝は、植木鉢にしている大きな火鉢に紐が巻き付いていたのだ。
小屋にも入れず、玄関先の軒下にも届かず、かわいそうに雨の中4時間も耐えていたのだ。
かわいそうなことをした。
しかも、こんな時でも犬は文句を言わないのだ。

実は昨日の朝もそうだった。
私がいけないのだ。あんなところに大きな植木鉢を置いているからだ。
散歩のあと、私はサムソン(聖書に出てくる人物)のような力を込めて重い火鉢を引っ張りずらして端っこに置き換えた。てきめんにひどい腰痛だ。

ついでながらチャッピーの雨の日の姿をご披露しよう。
これは知子が結婚前にプレゼントしてくれたもので、色が可愛くないのは特価だったから。不本意ながら私もついに犬に服を着せてしまった。

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知ちゃん、チャッ君は先月半ばから冬毛が生えてきて高級絨毯のようにムクムク。だからこの写真の時と違ってキュウキュウだったよ。
(^−^)
posted by 優子 at 08:48| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする