2006年10月31日

時期遅れのリンゴ園

ミネソタ大学では今週から新しい学期の始まりで、次女たちは更なる苛酷な生活の始まりでもある。
その目前の10月最終週末に国際色豊かな楽しい時間を過ごしていた。

金曜日の夜は、MR.ドイツ人とMS.スイス人のカップルから夕食にご招待されて、手料理をご馳走になったと楽しそうなメールが届いた。
彼らは大きな家を4人でシェアしていて、その一人のMR.ブラジル人も加わって4カ国5人の若者たちのディナーパーティーだ。

「(*~v~*)。感動!」だったって!

「なんか波長が合うのか、爆笑トークを繰り広げられたよ。英語でこんなに心から楽しめるなんて」と感動した二人。
語学の上達も実感できてよかったね。
そして土曜日は、クラスメートのアンディに誘われて、クラスメートばかり12人でリンゴ園に行った。

ここからは実況中継気分で本人から伝えてもらおう。

「東京ででも、原付しか運転できない我等は、もちろん車を運転できる方々のお世話になりながらm(__)m。
マチたちが乗せてもらったアリエルの運転は、アメリカ人には珍しく上手で、眠くなるぐらい安心でした(笑)。

リンゴ園では、リンゴ摘みもできるのですが、今回は時期が遅すぎて駄目でした。
木は冬バージョンになってて(笑)りんごは落ちているものばかり。

平均年齢25歳のPhD集団は、リンゴを拾っては投げ合ったりしていて、妙に無邪気でした...orz。クマキチは落ちているリンゴを見つけては踏み潰して喜んでました..._no。」


そこで飲んだ「アップルサイダー」は炭酸飲料ではなく、映画“サイダーハウスルール”に出てくる茶色いジュースとか。かなりの濃さなのでコップ一杯で満足できるらしい。

アップルパイは苦手な真智子が、「本当に感動した!」と絶賛している。
お土産に1枚買ったパイは20センチ四方は優にある大きさだ。ずっしりと重く、
「これがなんと約千円!安い〜♪もっと買ってきてもよかったかも…と悔しがってます(笑)。」
というクマキチとアライグマのクマ夫婦だ。

ところで「クマキチ」とは、娘が現ハズバンドと親しくなった頃から命名した彼のニックネームである。
結婚披露宴で司会者がお互いのことをどのように呼び合っているかを尋ねられた時、娘はおしとやかに「太志君」と言っていたが、事実ではない!
「クマ」OR「クマキチ」が正解。
しかも「熊」や「熊吉」ではいけない、カタカナがいい。

今春、クマのお母さんからメールを頂いたので、それを夫に転送したときのこと。
私は件名を「クマ母より」と書いて、送信ボタンを押した。
その瞬間に気がついた。
「ああーーーー!」
宛先を夫ではなくクマ母にやってしまったのだ。
「知ーらんで、知ーらんで!」
私は赤面、心臓ドキドキ、お詫びのメールさえ書けなかったのであった。

ところで「orz」や「_no」って何のこと?・・・・・。


posted by 優子 at 08:52| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

神の祝福が流れていきますように!

「全部読ませてもらいましたよ。お父さんの筆跡を見てとても懐かしく拝見し・・・」
『感謝と祈り』をお送りした印刷会社社長のMさんからも26日の朝に嬉しいお電話を頂いた。

Mさんとは母の通夜の折に30年ぶりの再会を果たし、以来時々ではあるが手紙や電話で交わりがある。Mさんは若い頃からずっと土佐堀にあるYMCAへ通いコーラスをされていたこと(今も?)、扇町教会に通っていたが洗礼は受けていないことなどお聴きした。

Mさんにお世話になった忘れられない思い出がある。

私が小学校4年生の夏休みに、妹とはしゃいでいて玄関のドアで右手首くるぶしのところから8針くらいも縫う怪我をした。
現在よくある形の玄関ドアで外に押して開けるようになっていて、私は追いかけてくる妹から逃げるために思いっきり手で押し開けたのだろう、分厚いガラスが割れて大怪我をした。

傷の長さは5センチくらいで1センチ幅はあったと思う。痛みは感じなかったが、ドロドロの血がポタポタ落ちるのを見て怖かった。
両親は不在、Mさんは手際よく私の手首と腕を縛って止血し、私をおんぶして近くの病院へ走って下さった。恥ずかしさも芽生えていた年頃で処置中も泣くのを我慢した。
ボーイスカウトで活躍されていたMさんのお蔭と生涯感謝を忘れることはない。

YMCAは住友病院からも近く、母の入院中の泊まりの時に度々立ち寄っていた所である。その頃は教会から離れていたので機関紙やトラクトなどをもらって糧としていた。

話の中で、「優ちゃんがクリスチャンになるとは思わなかった」と言われて嬉しい驚きを感じた。
妹とは子供の時のように意思の疎通がうまくいかなくなっているので、子供の頃の私達姉妹のことを尋ねると、
小さい頃の妹は「おとなしく人の影に隠れているような恥ずかしがりやだったが、優ちゃんは天真爛漫で自分の思ったことをはっきり言う子だった。」と仰った。

Mさんは私が高校2年生の時に父の会社を辞めて独立されたが、妹が大学生になった頃から人の目には妹の方が姉に見えていた。私は精神的にも稚拙でわがままであったように思う。そんなことからも私がクリスチャンになったことを意外がられたのではないだろうか。

私は実家のことを話し、きょうだい3人がもう一度一致できるように願っていること、このことが今では私の第一の祈りになっており、両親の願い(祈り)を私が引き継いで祈り求めながら生きていることを話した。

冊子をお送りしてよかった。
MさんもまたピアノのY先生と同様に娘達の結婚のことだけではなく、このような冊子を作ったことを本当に喜んで下さり、子供達にとっては宝物だと仰って下さった。
私はそのことが何よりも嬉しかった。

関心のない方に読むことを押し付けてはいけないし、かといって私にとって書いたものは分身のようであり、数枚のコピーでさえ大切なものである。
粗末にはされたくないから、よく考えてお渡しするようにしているので本当に嬉しかった。

愛する人たちに福音をお伝えすることができますようにと祈っている。
posted by 優子 at 08:18| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2006年10月28日

東大阪市の「1day 市民活動ひろば」

今朝はまた商大へ足を運んだ。
東大阪市が取り組んでいる市民との協働を進める場づくりである「1day市民活動ひろば」が、大阪商業大学の御厨祭(大学祭)開催期間中の今日、大学のホールで開催された。

これは、ボランティア・NPO・市民活動施策推進を目的としたもので、『河内の郷土文化サークルセンター』も参加した。
各代表によるプレゼンテーションでは、私達サークルセンター会長だけではなく「読書会」と「むら・まち文化研究会」からもアピールした。
メッチャ上出来だった!手(チョキ)
せっかく我々3者でバッチリ決めたのに、市のケーブルテレビ取材者は別のコーナーに行っておられたようで残念!ふらふら
私はマイクを持ちながら余裕の観察もしていたのだった。わーい(嬉しい顔)

サークルの一つである「河内木綿コットン・クラブ」の展示では、私も「綿打ち」をさせて頂いた。それは小さな木の機械で、かつての2層式洗濯機の脱水機のローラーのような仕掛けになっており、それで綿と種を別々にするのだ。
一つの綿の塊に14〜15粒の種が入っている。
綿を糸にするのもさせて頂いたがこれはむつかしかった。
米綿の花はピンクで、日本の綿は淡い黄色の花である。私も2年前にサークル20周年記念行事に協力して鉢植えで育てた。
木は小さかったが綿が取れたので感激したものだ。

また、「NPO法人 地域情報支援ネット」の働きを通して新しい気づきを与えられた。
東大阪の町には「みまもりロボくん」なるものが広がりつつあるという。
自動販売機前面につけられている赤いボタンを押すと、「青色のパトライトが点灯、回転し同時に警報音が出て、防犯カメラが画像を記録するもの」である。
音やパトライトに気がついた者が駆けつけるというわけで、「『子ども110番の家』の自動販売機版」だ。

これを設置する場合、自治会を通してではないからややこしくないと思った。
今はまだ数えるほどの設置で取り組みは始まったところで、長尾市長にも熱心に説明されていた。
東大阪から全国へ広がっていけば嬉しい。

民生の仕事に関わらせて頂いて2年、私もまた地域への関心が育てられてきていることを発見して嬉しくもあった。それはなにも自分の住んでいる地域だけを意味するのではなく、子ども達は地域で見守り育てていくという意識だ。
そしてそれ以上に、他者に無関心な時代にあって周囲への関わり方、自分にできることをやっていこうと働きかけるリーダー達に触れて、人々の機運の盛り上がりを肌で感じたことであった。

それにしても説明者のあまりの情熱に圧倒された。
「これからはドンドン団塊の世代が定年になるんだから、その人たちを活かしてほしい。」と言われた。
今後は世のため人のために生きるなんて、熟年を迎えた者の素晴しい生き方だと感銘を受け、より良い社会をつくっていきたいものだと思った。
私はプレゼンが終わったところで2時間半も早く先に帰らせて頂いた。

と、ブログを書き終えたところで、連日のゴルフを終えた夫が帰って来た。昨夜は夫の外泊のおかげで、一人でぐっすり眠れたから今日は元気だった。

posted by 優子 at 18:07| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

苦難の中にあって血のしたたる文章を書け

敬虔なカトリック信者であり、皇太子さまの養育係であった浜尾実氏が25日に天に帰られた。
81歳のご生涯であった。
終の棲家を長野県の施設に決めて、8年前にバッグ一つを持って入所されたという。

若い頃は本をあまり読むほうではなかった私だが、子供を与えられてから本を読み始めた。
浜尾実氏との出会いもまたその頃であった。
『心に豊かさを』は1981年11月8日に購入している。長女がまもなく4歳、次女が1歳半の時だ。

実家に子供を預けてデパートへ行った時に、阪急百貨店の書籍売り場で購入した本だ。
今振り返ってみると、30歳代の若い心と頭で読んだものが今の私の精神性を構築したことがよくわかる。

浜尾さんの本にも赤線がたくさん引かれてあるが、パラパラとページをめくっていると線を引かず読み過ごしていたところに目が止まった。

「ある人々、ある霊魂に、もし適当な助言を与えることがどうしても必要ならば、神はその助言者を地球の果てからでも連れて来られるであろうと思う。」


このたび母のノートをめくっていた時に思い出した出来事もまたそのことであった。

1994年9月26日(月)、森之宮の国際クリスチャンセンター(現大阪クリスチャンセンター)にてペンクラブの大阪集会があった。
母の通院介護のあと心苦くも両親と病院で別れて森之宮へ走った時のこと。めったとない大阪での集会なので行きたい、しかしまた行こうかどうしようかと迷いもしていた。
ついに点滴中の母にそのことを話し、「行きたい」と告げた。母は、「行っといで・・ええよ。」と快く行かせてくれた。
私がいなくてもきっと神様が守って下さることを信じて集会に出た。

その集会のあとに、思いもしない満江先生との2時間近い交わりまで与えられたのだ。帰り際に満江先生からお誘いを受けたのである。
集会のあと満江牧師を大阪城公園にご案内し、ベンチに座って缶ジュースを飲みながら不条理な苦しみについて苦悩を吐露した。その時にこんなことを話して下さった。

「苦難が通り過ぎたあとよりも・・・・・苦難の中にあって血のしたたる文章を書いて下さい。あなたは書ける人だから。」
と。
まさしく、この出来事の中に神が現存しておられ、迷える子羊を我がものとされようとして私を集会に導き出して声をかけて下さっていたのだった。

そのあと新大阪に向かわれる満江先生の道案内をして御堂筋線本町駅までお送りした。電車の中からも手を振って下さっていたお姿は、年老いた父を見送るような思いだった。

長年の間、日本クリスチャンペンクラブの理事長を務められた満江先生は、背筋をピンと張られた厳しい感じのする牧師だった。東大を出られた歴史家であり、既に天に帰られた文書伝道の熱血の師であった。

満江牧師や浜尾さんのように私も使命を果たし終えて天に帰還したいと願う。

  わたし(イエス・キリスト)は道であり、
  真理であり、命である。
  だれでもわたしによらないでは、
  父(神)のみもとに行くことはできない。


          (ヨハネによる福音書 14章6節)
posted by 優子 at 07:20| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2006年10月27日

日本ハムのヒルマン監督が宣教師だったとは!

私は野球は全く見ないし知らないのですが、日本ハムを25年ぶりのパ・リーグ優勝に導いたトレイ・ヒルマン監督(43歳)は、クリスチャンであり、宣教師だということです。たった今届いた『ハーベストタイム』メールマガジンより速報です。

ヒルマン監督は、「我が信条」というトラクトの中でこう書いています。

「野球では、監督として、チームの勝算が最大になるように、毎回試合中にたくさんの重要な決断をしなければなりません。
監督にとって、自分のチームの選手たちをよく知っておくことは大切なことです。
選手たちの長所、弱点、またそれぞれのポジションで彼らが最高の力を発揮できるように、どう助けたらよいかを知っておかなければなりません。
 
人生においては、全能で力強い、生きている神があらゆる人にとっての監督です。
神は私たちが神との関係を持つようにと私たちを造り、私たちのことを何もかも知っています。私たちには弱いところがたくさんあるにもかかわらず、神は私たちを愛しています。神は、2000年以上も前に、神の子であるイエス・キリストをこの世に送って、ご自分のことを私たちに知らせてくれました。それは私たちに、永遠のいのちという贈り物をただで与えるためだったのです。
 
神の祝福がみなさんの上にありますように。 
                   
                  トレイ・ヒルマン」 
 

posted by 優子 at 17:32| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

10年前の読書会 ―『黄落』より―

毎朝パソコンを開けてメールチェックのあと、友のブログ訪問が日課となっている。更新されていることで健在であることを喜び読み始める。
昨日の記事で曾野綾子著『晩年の美学を求めて』の《檻に入りたがるライオン》について取り挙げておられ、興味深く読ませて頂いた。
「檻とは、老人ホームのこと。ライオンとは、終の棲家をそこに選んで入居する人のこと」で、「曾野さんの言うライオンとは、経済力があってまあまあ健康で、自分の意志で優雅な老後を選択できる人のことでしょう。」と。

大体においては曾野さんの考え方に肯定できる。
すぐにコメントをしようと思ったものの、またピンボケかなと思いつつ『黄落』を思い出していた。

今朝、先日の交歓読書会の写真を関係者に送付したこともあり、10年前の交歓読書会のことと高齢者問題について話し合った時のノートを開いた。
あの時も今年と同じように花園図書館で開かれ、テキストは佐江衆一の『黄落』(こうらく)だった。
年老いた親の介護、看取り、義母の介護に疲れている妻(嫁)に「ありがとう」と言えない夫との夫婦間の危うさなど・・・当時話題になりテレビドラマにもなった作品である。

10歳高齢になった今再び、参加者22人の方達の感想を読み返してみると、
「木の葉が落ちていくことへの愛しさ、老い方が自分の中に生まれてきている。」など、私もそのように感じる年齢になっていて感慨深いものがある。

ごく一部だがその時の感想をご紹介しよう。

「血を分けた息子も親に死んでほしいと思ったことなど、それまでの生き方、関わり方が老後に押し寄せてくる。」

「私は主人も子もなくずっと一人で生きてきた。この先のことを考えて老人ホームを訪ねているが・・・子供のある方がホームにいる。人間は全て、と言うより思いようで楽しく生きられるんだなと思った。」

「年を取っているからといって遠慮したりせず、自分の意志をしっかりもって生きていけたらいいなあと思う。」


最後の番だった千里さんは、
「今、藤本さんの話を聴いて胸が詰まった。
『黄落』とは自然に葉や実が落ちることだと思っていたが、老人だから何もせずに生きるのではなく、黄落の巨木に生き方を教えられた。読書会に参加してよかったと毎回思う。」
と話された。

この時は母が召される9日前だったが会長の任にあったので休めなかったし、その務めがあることで支えられてもいたと思う。
緊迫した精神的状況にあったので厳しい表情で語ったことを記憶している。あの時、私が語ったことは以下である。

次男だった父は生涯独身であった伯父を養父にし、母の結婚生活が始まった。それだけではなく、私が中学生の時に離れを増築して舅姑も迎え入れた。同じ町に住んでいる父の兄姉たちは誰も全く来なかった。

祖父母の介護をしていた母の姿を思い出す。
母の労苦はたいへんなものであったが、老人たちは「ありがとう」と言い、脳軟化症の祖父もまた母に感謝して逝った。

私は母のような生き方はとてもできないが、私の置かれている経験から強く思うことは、感謝された母だけではなく、感謝して逝った祖父母たちも幸せな生涯であったということだ。
感謝できる人になりたい。老人になった時はなおさらだ。老人になっても感謝できないことこそこの世の地獄だ。

病院で知り合った付き添いさんは「今は実の親もみない時代」だと言われた。
老いていく親のことも含めて私の人生の段階での大切なことだと思っているから、親の老後は子供として当然のこととしてお世話させて欲しいと思う。

私の母は今、老いと言うよりも病気のために大変悪い状況であるが、人の世話になるということは、世話をする人よりも辛いことだと思う。
世話をする人の肉体的、精神的疲労も大変なものだけれど、される側の人の意識がハッキリし、感謝できる人の場合は、する側以上に辛いものがあると思う。


と同時に、介護する人の精神的な面での支援もとても大切で、医療現場では患者さんに目は注がれても、その家族への精神的配慮はなされておらず考える必要がある。

母が入院してしばらくしてから、私は母にとって最も遠い存在になってしまった苦い経験がある。
自宅介護と違い、入院すれば労働介護はなくなり肉体的疲れは殆どなくなっているのに、希望を見失い悩みに疲れ果ててしまって何も言葉をかけられなくなってしまった。
ベッドサイドに寄り添ってはいても、ただ黙って座っていただけの時があった。「なぜもっとやってあげられないのか」、「なぜ優しくしてあげられないのか」と罪悪感に苦しんだ。


行政のサービスを十分に利用する事は大切だ。
しかし、今の福祉サービスは(当時は介護保険がなかった)、本人に収入があるから受けられないという矛盾がある。収入があるということは、税金もまた多く払い社会のために尽くしてきた者であろうはずの人が、いざサービスが必要になった時、収入があるからサービスは受けられないというのではおかしい。
在宅の頃、受けられるサービスを利用して週2回ヘルパーさんに来て頂いていたが、高額な費用を支払っていた。


かつての社会福祉と言えば障害を持った人であるとか、弱者に対して使われた言葉であるが、今や全ての人の問題だ。
なぜなら、高齢化が進み多くの人が長寿になっている。老人になればみんな助けが必要になるのであるから、福祉の概念自体を変えないといけない。

ましてや、介護という問題を福祉の概念で考えてはいけない。
最も弱い立場に居る人が必要を声に出していかないと社会は改善されていかない。
人間はその立場にならないとわからないことがいっぱいあるのだから、まずそれぞれが声を出すことが大切だ。


以上が私の読書会ノートに残っている準備していった発言のあらましである。このほかにも生々しく痛々しいことを話したのだろう。だから千里さんが胸を詰まらせたのだと思う。

父が亡くなった年の4月に介護保険制度がスタートし、問題は多々あろうけれど大変よくなった。
しかし、福祉に対する考え方は私の目には全くと言っていいほど変わっていない。
話す側も聴く側もどれほどの人が自分の問題として受け止めているだろうか。
民生委員会で福祉課の人は、時に応じて改善された制度について流れるように話されるが、口先でスッパスッパ言っているだけで熱いものは全く伝わってこない。
このことについても書き始めたら止まらないから今は休筆すべし。

あの時、豊中のご婦人が言われたことが今の私の気持ちである。
「私が50歳の時に主人の父母を80歳で見送ったが、今度は自分の老後が問題だ。生き方上手、死に方上手ということを思うようになった。」

気がつけば1時間半も没頭して、長い長い記事になってしまった。




posted by 優子 at 12:12| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2006年10月26日

母を偲ぶ E ―母の死―

1996年10月25日、午前1時28分、母は70歳の生涯を終えた。
与えられた生を生き切り、一切の苦しみから解放されて懐かしい我が家に帰った。
私はこの時、夜が明けないで、永遠に真っ暗な夜が続けばいいと思った。今振り返ってみても、死後の強烈な悲嘆にある時は、なんと痛ましく危機的な状況だったことだろう。

特に最初の一ヶ月は、情緒的に麻痺した感じに捕われた。
虚無感と脱力感だけではなく、成しえた僅かなことの喜びよりも、成し得なかったことの大きさを悔い、良心の呵責と不全感に苦しんだ。
そして、「なぜ、私の心に平安がないのですか」という神への怒りと絶望など、苦痛を伴う感情がうねりとなって押し寄せてきた。
これらの喪失感は妥当なものであるが、何とかしてこの混乱から抜け出さなくてはという焦りもあった。

あれから3ヶ月が過ぎ、ショックもかなり和らいできた。
神への想いも、私が神を信じられないということではなく、死後直後の混乱した私の両義的な感情だったということも理解できるようになった。

そして、人生のごとき深遠な問題は解決するというよりも、むしろ向き合わなければならないこと。生涯の終わりまで生きる意味を問い続けることこそが、尊いことなのだという思いにたどり着いた。

「人は喪失を忘れるのではなく、それに馴れるのである」と、臨床心理学者が言っている。
年月は悲しみを和らげることはできても、消し去ることはできない。死別の悲しみは、人間の力ではどうしようもない悲しみであり、ただ神によって慰められる悲しみであろう。

母の死と共に私の体内に宿った母。
それでもやはり、私は常に亡き母の姿を探し求めている。しかし、兄や妹と共に私こそが母の愛児であり、母の世に残した何よりの形見だと思うと、私自身がいとおしく、涙のうちにも微笑むことができる。
そして、私以上に悲嘆に暮れている父を慰めたい。寄り添ってあげたいと思う。


忍耐強く不言のうちに実行した母。
多忙な中にあって保護司や民生委員としても何十年もの間、労を惜しまなかった。その功績に対して、数年前に名誉ある称号が授けられたことを亡くなってから知った。そのような母の生き方が今後の私の道しるべとなってくれるだろう。

私は母を失うまで幸福な愚者の一人だった。
今ようやく、人の心の悲しみを知ることができる人間になりえたのだと思う。
神はこれからの私に何をせよと求めておられるのだろうか。
私は今、神を身近に感じている。



        東大阪読書友の会 1997年4月発行
              『かわちの』45号より転載
posted by 優子 at 08:47| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする

2006年10月25日

母を偲ぶ D ―感謝と祈りを神に捧ぐ―

先の記事は、ちょうど10年前の今夜のことであった。

「そうかぁ、もう10年になるんやなぁ」と夫はしみじみと言った。

「真智は泣き続けていたなぁ」
「あなたも気がついてたの?」
「あぁ」
「真智が長い時間号泣してたことも?」
「いや、それは知らん」

今思えば、真智子が激しく血の出るような悲しみの声を上げていた時、夫は私の実家へお風呂に入りに行っていたのだ。

天をつんざくような真智子の慟哭。

知子は泣けるものならば泣く方がよほど楽であろうと思えるような、真っ暗闇の閉ざされた悲嘆の中にあった。


母が亡くなってまだ2週間ほど過ぎた時のこと、病院という病院はどこであれ避けたいくらい行きたくはなかったが、11月11日には知子と共に国立大阪病院へ行った。知子の体調不調もいよいよ放っておけない状況だったからだ。
以後、特に5〜6年間は医学書にもない肉体的苦痛が続き、ますます深い苦悩の始まりでもあった。
ほぼ全快したのはつい最近になってのことである。

しかし主(しゅ)は、父と母が愛した最愛の知子と真智子を守り育てて下さった。
責任をもってここまで連れて来て下さったのだ。
ハレルヤー!


22日の日曜日のこと、3人の方に知子と真智子の『感謝と祈り』(引出物に入れさせて頂いた冊子)を送らせて頂いた。
この子達の子供時代のことをよく知って下さっている方に、二人は幸せに巣立って行ったことをお知らせするために、また、両親のことをよく知って下さっている方に、子孫の消息をお知らせしたくなったからだ。
お一人はピアノの先生であり、もうお一人はお若い頃に父の会社で長年働いて下さり、その後独立されて今では美濃紙業のお得意先でもある印刷会社を経営されている方である。

今日は早速、ピアノのY先生から驚きとお祝いと喜びのお電話を頂いた。
私はどんなに嬉しかったことか!
10年間近くも自宅まで教えに来て下さっていた懐かしい先生である。
知子が先生にレッスンして頂いたデュランの『ワルツ』を披露宴で弾いたこともお伝えした。

今日のこの日にこのようなお電話を頂いたことを神様に感謝します。
先生ご一家に、お子達の上に神様の祝福が豊かにありますようにお祈りします。

  「人生の理解できないことがわかる日が来ます。
  得たものではなく失ったもので人生を計りなさい。
  神様は私たちの涙も一滴残らず無駄にはなさいま
  せん。
  愛の強さは愛の犠牲にあるのです。
  多く苦しんだ人が多く得るのです。」 

  

  思い煩うことなかれ
  ただ神のみこころのままに
  心 安んじて進んでいこう
        
            優子(50歳)


母と父との濃縮された日々を一冊のアルバムにした。その最後のページに書き込んだ言葉である。
          
母が病床にて救われた瞬間のことは、今秋まもなく日本クリスチャンペンクラブより出版される書に刻んだ。
そして父もまた間違いなく天に召されたことを確信させて頂いている。


「我は復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり、
 我を信ずるものは死ぬとも生きん。
 凡(おおよ)そ生きて我を信ずるものは、
 永遠(とこしえ)に死なざるべし。
 汝これを信ずるか。」
   
                
               (ヨハネ伝11章25・26節)


posted by 優子 at 22:23| 父母を想う | 更新情報をチェックする

母を偲ぶ C ―おばあちゃんの知らない朝がやってきた―

10月25日 午前1時28分

おばあちゃん、おばあちゃんはついに息をすることを止めてしまったね。
3日程前、おばあちゃんが息をすることを止めかけた時、お母さんは必死になっておばあちゃんを揺さぶって、「お母さん、しっかりして!息をして!」とおばあちゃんを引き止めたんだよ。
おばあちゃんもそれに応えて寿命いっぱいいっぱいに頑張ってくれたんだよね。

でも、あの時、お母さんは止めようとしなかった。
私も「おばあちゃん、息を、息をしてよ」と心の中で繰り返し、声に出そうともしてたけど、何かが喉に詰まって、涙だけが止めどなく溢れてきてた。

その時、お母さんが泣きながら「もう頑張ってくれなくていいよ。今も私は頑張って!と言おうとしてた。でも、もういいよ。もういいよ。」とおばあちゃんに言ったんだっけ。

「ああ、そうか」と私は思った。
これが私の声をせき止めていたんだと。
おばあちゃんは限界の極みまで頑張っていたんだと。

でも、私の気持ちは全然整理がつかなかったよ。
いつもう一度もちなおしてくれるかを、そればかりを望んでた。
でも、おばあちゃん、おばあちゃんは殆ど動かせられなかった舌を3度も動かして・・・ついに心臓が止まったね。

私をかわいがってくれた時も、一生懸命していた仕事の時も、辛い、苦しい病気の時も・・・いっつもいっつも動いていたのに―10月25日、午前1時28分―ついに、ついに動かなくなってしまったね。

家に帰っておばあちゃんの綺麗な着物を着せてもらって、ドライアイスに囲まれて。
眠っているおばあちゃんは本当に綺麗だった。
「優ちゃん」と言って、今にも起き上がりそうで、病気になる前のおばあちゃんが一休みにちょっと寝てるおばあちゃんに見えて、
私はずーっと見てた。
待っていた。
ずーっとずっと待っていた。


でも、おばあちゃんはだんだん冷たくなっていったね。ずっと寝てたね。
そのうち夜が明け始め、おばあちゃんの知らない朝がやってきた。
元気な時には必ず起きてた6時になっても、おばあちゃんは目を覚まさなかったね。お寺さんが来ても、礼儀正しいおばあちゃんは深々と挨拶するはずなのに、初めて、ただただ眠っていたね。
私がちょっと寝た後も、やっぱりおばあちゃんは起きてはいなかったよ。ほっぺを触るとびっくりするほど冷たくなっていたね。

お通夜も、お葬式も、誰のをしているかはっきり分からなかった。
写真を見ても、隣りで笑っているみたいで、私は誇りに思ったりもしたぐらい。ほんとに何を何のためにしてるのか、全然何も分からなかった。


そして、いよいよ最後のお別れ。最後のお別れ? 何よそれ。
おばあちゃん、まだ起きないの?
私はやっぱり待っているのよ、おばあちゃん! 
今ならまだ間に合うよと、ずーっとずっと言っているのに、聞こえてる?


お花を飾っている時も、いったい何をしているのかって困っているのに、おばあちゃんはやっぱり、やっぱり眠っているのね? やっぱりお顔も冷たいね。
それから何も、なんにも知らずに煙となった。
どれだけ私は辛かったことか。おじいちゃんも、お母さんも、お姉ちゃんも、伯父ちゃんも・・・。

でも、その後ようやく少し分かったよ。
おばあちゃんはもう天の国にいてるのね。住民登録はもう済んだ?
再会はちょっと先になるんだね。
すっごくすっごく寂しいけれど、頑張って我慢するよ。
おばあちゃん。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・

母が亡くなった時、真智子は高校一年生の中間考査中だった。
睡眠不足でしんどいのに試験のあとは連日、家とは反対方向の住友病院へ駆けつけてくれたね。危篤状態が続いていたおばあちゃんのいる病院へ毎日来てくれたね。
そして、ついに召されて最後の日の試験は受けられなかったね。

祖母を棺に納めるまで真智子は祖母の傍から離れず、ずっと泣いていた。
通夜の夜半、私の疲れも限界になり母の近くでやっと横になったものの、寺の境内に設置されたテントの椅子で真智子はたった一人で痛々しいほど泣いていた。「あんなに悲しんで、この子はどうなるんだろう」と思った。
葬儀の翌日、「知ちゃんとまっちゃんのこと注意して見たりや。特にまっちゃんはずっと泣き続けていたからな。」と、兄も子供達のことを心配してくれていた。

寺には私達と兄の3人だけだった。
あとの者は、歩いて数分のところにある実家へ眠りに帰っていた。

私は泣きじゃくる真智子の傍に寄り添い、真智子と共に号泣した。
午前2時を過ぎた頃、ようやく泣き止んだ真智子を実家へ送り、私は再び寺へ戻った。

これはその3日後に書いた真智子の祖母への惜別の手紙である。
今読んでも胸が痛む。
「おばあちゃんのいのちはしっかりと真智子につながっている。真智子、生きよ!」と私は記した。

「家には一人を減じたり・・・・さはれ 天に一人を増しぬ。清められ救はれ全うせられしもの一人を!」
悲嘆が和らいできた頃から、この言葉が私の体内で、血流と共に体の隅々にまで行き渡るのを感じた。

その後の長い7年間、そしてまた3年が過ぎて26歳になった真智子は今、ミネソタ大学でいのちを燃やしている。
主よ感謝します。
私達一人ひとりをここまでお導き下さったことを感謝します。
posted by 優子 at 07:28| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月24日

母を偲ぶ B ―パッヘルベルのカノン―

母が入院してまもなく、長女が祖母を慰めるためにと1本のテープを編集してくれた。
そこにはヘンデルの「ラルゴ」、バッハの「G線上のアリア」など、バロック音楽の小品集が録音され、2曲目に「パッヘルベルのカノン」が入っていた。

あの時、夏の盛りで外は猛暑だが病室は涼しく、安静のためにと濃い緑色のカーテンが曳かれ、窓際には経管栄養のエンシュアリキッドの缶の箱が置いてあった。
その部屋に孫娘が祖母の慰めにと贈ってくれた音楽が流れた。

それらの曲の中でも「パッヘルベルのカノン」だけは強烈な悲しみの曲になってしまった。
この曲は私を一瞬にしてあの日の病室の光景を思い出させ、これからのことを心配する余裕さえなかったあの時の私を蘇えらせてしまう。

10代の頃には秋に舞う枯葉をイメージしたロマンティックな曲だったのに、母の悲しみの曲に結晶してしまった。
これだけはもう一生変わることはないだろう。
今もカノンを聴きながら母を刻んでいる。

ママへ

メールありがとう。

今ブログを読んで、まちもおばあちゃんのことを思い出して泣いてしまったよ。
その時のママのことも思い出して、今のママの気持ちを思って涙が出てくるよ。
おばあちゃんとおじいちゃんに会いたいね。
まちも時々無性に会いたくなることがあるよ。さびしいです。


      (2006年10月23日 21:06のメールより)

1996年10月24日、この日が最後の時となる。
病がかなり苛酷になっていた1992年8月半ば、気丈な母もついに私に電話をかけてきた。
その日から母のもとに通った回数は380回、不思議なことに父の時も同じ380回目に召された。



posted by 優子 at 07:30| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月23日

アンデルセンのごとくにあれかし

2005年はアンデルセン生誕200年で世界中でい ろんな催しが開かれた。
昨日の『ライフライン』(http://pba-net.com/tv/tv.html )は、大阪外国語大学助教授の田辺欧(うた)さんがアンデルセンの信仰を語られた。

同時代のグリムは昔話を童話にしたが、アンデルセンは自分の生き方そのままを創作童話に書いた。
「愛」、「人生の旅」、そして「光と闇」をテーマとして、常に神の支えを感じながら作品を書いていった。
大人にも読んでもらうことを意識して、たいへん文学的な表現がとられている。

『雪の女王』は愛の力で凍りついた心を溶かし、『みにくいあひるの子』はアンデルセン自身の成長を描き、『人魚姫』はアンデルセンが最も好きだった作品である。

日本で初めて邦訳された『マッチ売りの少女』は光と闇を見事に描いている。少女はアンデルセンの母親がモデルになっている。
マッチをすると光の世界が現れてすぐに消えてしまう。その光の中に死んだはずのおばあさんが出てきて「行かないで!」と、全てのマッチをすってしまう。
真昼の光よりも明るくなり、現実社会での光と闇、地上の世界と天上(神)の世界を描き、アンデルセンは神の国において永遠の命が得られることを書いた。ここに強い信仰が窺える。

アンデルセンは世間の風評を気にしなかったが、作品が世に出てからもプライドとコンプレックスがアンビバレント(両義的)だったと言われている。
しかし、どんな状況におかれても死ぬまで子どもの心を失わなかった。
いろんな人物と出会うが、非常に真摯に純真な心で向かい合った。ここに神を信じて生きてきた純真な気持ち、信仰の原点を感じる。

アンデルセンは優等生なキリスト教徒ではなかったが、個別的な関係で神との関係を築いている。
いろんな起伏があったアンデルセン。
しかし深いところで神に信頼している。それが子どもの心ではないだろうか。
私たちも上(神・天の国)を目指して生きていこう。


 「まことに、あなたがたに告げます。
  子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
  決してそこに、はいることはできません。」

             
        (マルコによる福音書 10章15節)

posted by 優子 at 23:55| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

母を偲ぶ A ―お父様を天に送られた友を想いつつ―

母の葬儀を終えて家に戻ってきたものの、何日間も夜は1時間半ごとに目が覚め、その間にも何度も何度も母の通夜の夢を見ていた。
実際とは違う通夜の夢で毎回違っていたから、「私は何度母の死を経験すればいいの?」と目が覚めては泣いていた。
人は夢を見て心のバランスをとるというが、母の死は強烈な悲しみと痛みであったことがわかる。

思いっきり泣きたいのに泣くこともできない情態だった。かつて読んだ矢内原忠雄(経済学者、東大教授、クリスチャン、東京大学総長歴任)の言葉を引っ張り出し、矢内原の文章から神の慰めを頂いて思いっきり泣くことができた。

文香さんが葬儀を終えて落ち着かれた時、いや、文香さんだけではない。
このブログを読んで下さっている中に愛する人との死別の悲しみの中におられる人がおられるならば、その方にも神様からの慰めをお届けするために一部を抜粋しよう。

神様の為さることですもの、その全てが今すぐに私共に解る筈はありません。・・・解っても解らなくても、ただ従順に従うほか道はありません。・・・ただし理性はそのように告げましても、感情は容易にそれに従いません。

一口に言えば、愛する者を天に送りまして、私共は初めて人生のまことの意味と目的を知ったのです。・・・愛する者をもぎ取られました時、誰でも一度は自分の人生を底の無いような空虚(うつろ)に感じ、生きていく力も甲斐もないように思います。・・・

「時」は悲しみの記憶を和らげる為に神の送り給う鎮痛剤であり、「仕事」は消極的な心を引き起こして人生の生き甲斐を知らせる為の興奮剤であります。
併し時も仕事も、私共の悲しみを消してしまう事はできません。

私共からもぎ取られた私共の愛する者が再び私共の手に返されるのでなければ、死別の悲しみはどうしても消えないのです。

でも(神を信じる者にとりましては)本当に神様はあなた方の愛する夫を妻を、子を親を、またあなた方に還して下さるのです。・・・
若しも愛する者の死によって私共が崩れ折れてしまったなら、召された者は私共の為にどんなに悲しむか知れません。


愛する兄弟姉妹よ、あなた方の大切な宝が天に召されました。
併し決して死滅したのではありません。地上に居た時よりも更に盛んないのちで、キリストの中に生き続けるのです。・・・・・
悲しみの中から神を呼ばわりなさい。
神様を信頼しなさい。
そうすればあなた方の深い悲しみも、朝には必ず歓喜に化するでありましょう。

   岩波書店刊 『矢内原忠雄全集』第14巻より

いつの日か地上で母や父と抱き合ったように再び両親と会える。天国への憧れが年を経るごとに強くなっていく。
そのことを最大の喜びとして共に神さまを仰いで生きていこう。
夫と共に、娘達は結婚して巣立っていったけれど娘は娘、いや一人前になって最高の伴侶と共に歩き始めた娘達、その伴侶たちとも一緒に生きていこう。
地上を去るその日まで。

恵みを与えようとされている神様から誰一人もれることなく、手を広げて恵みを頂くことができますように。
家田さんの全御家族のためにも祈ります。
ここまでお導き下さったことを感謝します。

もう10年にもなるのですね、お母さん。
私はもうすぐ55歳になるのですよ。
お母さんが55歳の時にはもう孫を抱いておられましたね。
知子が2歳半を過ぎた頃で、腕白な真智子が誕生した頃でしたね。
あの頃のお父さんの幸せそうな顔を思い出します。

お父さん、お母さん、知子と真智子は結婚したのですよ。
知子も神様の恵みの中で幸せに生かされ、婚家先でも本当に愛されて大切にして頂いていますよ。
これからはもうお母さんとお父さんのことで涙しないで、子供達と別れるまでの時を大切に大切に過ごしていこうと思います。
良輔さんと共に。

   愛して愛を失うは、
   愛せしことなきに勝る
 


               (テニスン)
posted by 優子 at 21:10| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月20日

「サークルの集い」ご案内

既にチラシも配布されている「サークルの集い」について、今朝の役員会で最終打ち合わせをした。
9月20日の記事にある企業さんも訪問時に快諾して下さり、後日直ぐに正式なお返事を頂戴した。
それを受けて、会長を中心に役員5名と事務局の方の心強い支えを頂いて動き出し、大詰めを迎えている。
まずは、読者の皆様にもご案内させて頂きたい。

開催日 11月25日(土)〜26日(日)
会 場 大阪商業大学ユニバーサルシティホール 
     蒼天(そうてん)
内 容 各サークルの展示 両日10時〜4時

講演会 25日(土)1時30分〜3時
テーマ 「ハウス食品 東大阪で80年」
講 師 加藤 智一氏(ハウス食品株式会社 
              執行役員 総務部長)
 ハウスさんからお土産もありますよ〜ん手(チョキ)

河内(かわち)の郷土料理「ジャコ豆」の試食!

東大阪(河内)の隣り、大阪育ちの私も「ジャコ豆」のことは全く知らなかった。
「ジャコ」とは「雑魚」のこと。
小さな鮒を焼いたものをダシにして大豆と煮るらしい。今は手に入りにくく高価な鮒も、昔は川や池にたくさんいた。それと田んぼの畔(あぜ)に植えていた枝豆で作っていた河内の家庭料理である。
誰でも簡単に手に入る材料で作ったものが郷土料理だと聞いて、「なるほどなぁ」と唸ってしまった。

地元の人でも「40年前に食べたのが最後」と言われるほど、今では珍しい料理であるから伝承しておかなければ「幻の・・・」になってしまう。
幸いなことに今も作っておられる方がサークル会員に居られ、その方にお願いすることになった。

ところで今これを書きながら、テレビでおなじみの伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)氏のことを思い出した。香芝市在住だからお知らせしたいものだ。
こちらへ移ってから2度講演をお聴きしたが、果たしてどのくらい純粋なる情熱を持っておられるか、本物の文化人かどうかはわからない。
しかし、朝日新聞社の記者が「ジャコ豆」に興味を持ってくれているとお聞きしたから、奥村氏とひっつけて記事にしてもらえないだろうか。面白いかも・・ひらめき(笑)。

とにかく私は試食させて頂くのが楽しみだ。

実演コーナーでは、
石臼で豆を挽いた薫り高いコーヒーを試飲!

石臼で挽いたものはコーヒー豆にしろ小麦にしろ、それらが熱を持たないからおいしいのだそうだ。
石臼も挽かせてもらってコーヒーを味わう。
早く飲みたい!
これらは両日共に常設される。

そして、26日(日)1時30分〜3時にサークルの活動報告がある。
発表は10サークル。
今回はセンター22年目にして初めて食文化にスポットを当てることになった。「これはいける!」という感触あり。このテーマで数年は継続できること間違いなしだ。

例えば有名な岡山の桃は、もとは河内の桃(稲田)だ。小ぶりな桃らしい。今再び河内の桃を作り既に収穫したことも耳にした。
「今はそれぞれの自治会も自分達の足元に関心を持つようになってきている」とS氏が言われたように、郷土文化を大切にする時代でもあることを感じている。

今年は展示配置も大きく変え、発表も自由に創造性を発揮してやろうと士気高揚した。
読書会の発表も代表者だけではなく、最低5〜6人は舞台に上がってもらおうとひらめいた。
先日の『婦道記』について多彩な感想を発表してもらって、「だから読書会は面白い!」と結んでアッピールしよう。
当日はお寺さんの関係で11時から義父の3回忌と重なってしまった。義母は席を設けての食事はしないとのことだから幸いした。
この日は教会に行けないが、主に在って長男の嫁の務めを果たして大急ぎで東大阪へ向かうことになる。

入場無料! 一般の方 大歓迎! よろしく!




  
posted by 優子 at 22:44| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

母を偲ぶ @ ―我が道程を振り返る―

10月も半ばが過ぎだというのに大阪では13日連続の夏日で、我が家のベランダでは季節はずれの朝顔が4日前から咲いている。
今朝は4つも開いていた。
夜明け早々の薄明かりの中に花を見つけた時の驚き。

夏に楽しませてくれていた朝顔はとっくに枯れて、1ヶ月前くらいに取り除いた。そのプランターにこぼれ落ちた種が芽を出したのだ。
あんな小さな種にこんなに豊かないのちが詰まっているなんて、今まで何でもないと思っていたことに驚くばかりだ。50歳を過ぎたころから見えてきたものが何と多いことか。
秋らしくなると朝顔の勢いは止まり若いうちに枯れてしまうだろうに・・・

3年余りの母との日々が100枚綴りのノート7冊に残っている。
最初は処方されている薬だけを書くつもりで薄いノートを用意していたが、いつしか「我が魂の旅路」と名付けるような内容になった。1冊目は失ってしまい手元にあるのは2冊目、1993年7月30日からの記述である。
そのノートの表紙や裏表紙に書き残している一つひとつの言葉は、苦難にあった時の慟哭である。

過度のストレスゆえの意欲の減退。
どんなに自分を励ましても、どんなに奮起しようとしても、どうしてもやる気がない。自分らしさまでなくなった。

「老いたる親のためにする孝こそ、いと孝と思う」(『荻窪物語』)

いかに母の気持ちを楽にしてあげられるか。愛情をもって、ゆったりとした気持ちで接すること。
自尊心を傷つけず、介護を受ける人の気持ちを大切にし、互いに心を開くこと・・・・・これが介護の大前提だと思う。

母の命はこの家に充満する・・・万感の想い胸に極まる・・・

「私は幸せや。いい子が居るから」と母が泣いた。

悲しみ、苦しみ、・・・何とかしてこの混乱した気持ちから抜け出したいと思う。私がこれでは母は地獄だ。

私は誰からも同情なんて求めていない。
必ずや苦悩を突き抜けて歓喜に至らん!

「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。」

成し得たほんの僅かなことの喜びよりも、成し得なかったことのあまりの大きさに直面する悲しみにうちひしがれてしまう。
「お母さん、ごめんね。堪忍してね。また来るからね」とつぶやきながら帰路につく。いつもいつも・・・・

苦難を通して磨かれていった母の魂は輝く。私の魂もそうあってほしい。
激しくロクロを回され揺さぶられながら魂は徐々に形成され、死ぬ頃になれば見事な作品になる。驚くような神の傑作ができてゆくのだ。


これらを読みながら今振り返って思わされていることは、神が関与されての人生は確かに必ずや神の傑作となるであろうということだ。この今も作品は作られ続けているのだから、神さまを信じて生きていこう!

両親が召されてから天国を近くに感じる。
誰しもみな限られた人生である。
神さまからの賜物は能力も個性も全て一人ひとり違うのだ。その一人ひとりが神さまを見上げて神さまと共に歩んでいく。
人生の春と夏が過ぎて秋を迎えた私は、これから母や父との再会の日が一日一日近づいて行くことを思うと、どんなことも励んで生きていけるような気がする。

18日に文香さんのお父様が召されたという知らせが入った。召される前にお父様は天国へ召されたとの確信があったとのこと、ハレルヤ!
22日に葬儀、癌を身に負われし文香さんの健康が支えられますように祈ろう。そして、ご遺族の上に神さまの慰めが豊かにありますように祈ろう。


※「ハレルヤ」とは、ヘブル語で「神を讃美しなさい」とい
 う意味である。詩篇の終わりに多く用いられる祈りの
 言葉であり、新約聖書では黙示録19章に出てくる。
 私は「神を讃美します」という喜びの表出であると理解
 している。
 
posted by 優子 at 06:54| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月19日

今より11月末に向って執筆に没頭

研究発表誌『あしたづ』の原稿募集が公表されたのは10月5日の編集会議以後であったものの、締め切りが11月末であることを重々承知していた。
私も編集委員の一人であるということよりも、ライフワークとして位置づけて第5号から寄稿しているからだ。

昨年の4回目が「『リア王』は悲劇か」であったが、その前の遠藤周作にしても2ヶ月間で、「リア王」は3ヶ月足らずで仕上げるるという不真面目な挑戦であったものの、今回に到ってはテーマさえ決まっていない始末である。
しかし、どうしてもパスしたくない。

今年は新年スタートと同時に娘達の結婚という人生の一大事に集中した9ヶ月であったから、読書0冊、ましてや研鑽を積んできたものは何もない。
いよいよ10月に入ってからテーマを思い巡らせつつも定まらないまま昨日まで来た。
実のところ交歓読書会で何かのひらめきがあれば、たった1ヶ月間でもいいから周五郎の短編1作品を取り上げてみようと期待していたが、やはり、2〜3枚の読後感ではなく原稿用紙20枚書くには今回は無理である。

時間不足で文章が散漫になってはいけないが、それ以上に問題意識の薄いものをテーマにすることだけは断じてしたくない。
「私はなぜ書くのか」あるいは、「なぜ書きたいのか」というような設定で昨夜遅くに2枚余り書き出したものの、これでは20枚は無理だと感じた。

ところが、今朝目覚めた瞬間にテーマは定まった。
主旨は10月5日のブログ記事に書いたことである。
仮題ではあっても先週事務局へ提出した「柳田邦夫の『犠牲』」とは異なることになったが、柳田氏のことも触れることになろうと思う。

とにかく11月30日締め切りに向って執筆に没頭の日々が始まるので、昨日『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーについても、主催者ツアコンさんに恐縮しつつ率直に申し上げた。
返信を緊張しつつ開くと予想外のご理解を示して下さっていた。
と言うよりも、主催者さんの読書への取り組みの姿勢、いや人生の生き方に新しく目が開かれたような感動を覚えた。


最多忙なK姉(しまい)が、走り書きのようにして返信して下さったメールを無断で掲載することを詫びなくてはいけないが、私の魂がスパークした感動を叫ばずにはおられない。(申し訳ありません。2度としません。)

「読書のこと、悩まないでください。そちらの働きを最優先させてください。
でも、こちらも途中下車はしないでください。
読まなくても、今なさっていることを少し紹介してくださったり、カラマに関係のないことでも、一寸おしゃべりしてください。気の向いたとき。息抜きに。私たちは遊び感覚ですから。
メールレベルでいいですから。われら9名はカラマ共同体ですよ。」


「おしゃべり」とは、ツアコンさんが参加者の読後感をまとめて送付して下さる回覧用旅日記のことである。
18日に6回目が届いている。お一人おひとりすごい内容である。

私はこのメールに眩しいくらいにキラキラ光るものを感じ、その感動は抑えることができない。
私も姉のように世の務め、今すべきことを果たしつつ励みたいと思う。
今朝もブログが更新されていない文香さんのことを祈りつつ。

posted by 優子 at 09:47| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年10月18日

山本周五郎の世界 (第41回 交歓読書会報告)

「あなた、生きている目的が分かりますか。生活の目的でなくってよ。」

山本周五郎の文学碑に刻まれている言葉である。
この言葉は文壇処女作『須磨寺附近』の一節からとられている。
神戸市の須磨寺の境内を入ってすぐ左手に正覚院があり、その前に周五郎の文学碑がある。須磨寺へは何度か行ったことがあるのに私は全く知らなかった。

昨日も暑いくらいの晴天に恵まれ、今まで祈ってきた豊中の「とよ読書会」と「東大阪読書友の会」の交歓読書会を持たせて頂いた。

昨夏のクリスチャンペンクラブ集会でお出会いした大田先生を講師にお迎えできたこと、東大阪教会の井置牧師先生とのお出会い、近隣のYさんも出席して下さり親しい交わりをもてたことなど、私には忘れられない交歓会となった。
心に残っていることを思いつくままに書き残しておきたい。

周五郎曰く、
日本の女性はしとやかで大変おとなしく、夫に仕え、親に仕え・・・、それは事実でしょうけれども、しかしもし不当な犠牲を強いられたら、日本の女性だって、そんな不当な犠牲にあまんじている筈はありません。

私はそうではなく夫も苦しむ、その夫が苦しむと同時に妻も夫と一緒になって、一つの苦難を乗り切って行く、という意味で、あれだけの一連の小説(『婦道記』)を書いたのであります。

日本の女性の最も美しくたっといことは、その良人(おっと)さえも気づかないところにあらわれている。


出席者の感想より
女性たちの献身に値する男性を読むという反対の読み方をすると、今の時代はこのように仕えられるに値する男はいない。(男性の発言)

心の奥深いところで夫婦は信じ合い、結び合っている。潔く捨て身になれる女性、凛として生きる女性に感動した。今の女性は陰になって耐える強さ、捨て身になれる強さに欠ける。(女性)

主人公の女性達はみな限られた環境の中で、人から押し付けられたのではなく、自分の考えで自ら選んで最高に生きている。(女性)

みんな自分の人生を納得して生きているから、かわいそうさはなかった。(女性)

『風鈴』、『梅咲きぬ』は、女の心の揺れが出ていてよかったと思う。(男性)

夫婦は相手の生命がどうなるかという時にこそ、夫婦の大切なものが残されていると思う。その時にどんな生きざまをするのか。
周五郎は『星の王子さま』の主題と同じことを、即ち人間の目に見えない心を書いている。見えないところにこそ心を投入したいと思う。(女性)

大田先生の資料より 
手軽な生き甲斐や、生活の目的はあてがうことはできます。
しかし、パスカルが『パンセ』でいうように、そして「それから」を繰り返してみれば、私たちの人生の究極にある「死」を免れ、その虚無に打ち勝つ「人生の目的」を見いだすことは容易ではありません。

(大田師の恩師は)周五郎のキリスト教理解は単なる知的なポーズではなく、聖書との出会い、イエス・キリストの赦し、祈りの存在のあることを直覚され、周五郎が少年時代にクリスチャンの父に連れられ「山の上教会」とよばれた日本メソジスト横浜教会(現・日本基督教団横浜上原教会)に通い・・・日曜学校に通っていたことをあとづけされました。
すると、この問答には、「人間の生きる目的はなんですか」、「神さまをよろこび、栄光をあらわすことです」という少年期に繰り返された信仰告白の問答が隠されているはずです。

周五郎は、結核を養いつつ貧しいなか読書と小説執筆に明け暮れます。
聖書とヒルティやストリンドベルヒの著作などを読みふけります。このころの『あおべか日記』は、神と愛する者への祈りに満ちています。作家周五郎はここで生まれたのです。


(自分の)罪を知らぬ人だけが人を裁く。

大田先生のお話より
「あきらめることの美しさ」を書いている藤沢周平は、周五郎の一字をとってペンネームにつけたほど周五郎を慕った。
共に共通するものが二人の作品に流れているというのもうなづける。

周五郎は毎晩寝る前に「主の祈り」を捧げていたのです。これはすごいことですね。


ある出席者が大田先生に「教会に行ってみようと思います」と言われたという。
なんという喜び、感謝なことか。

来年の10月の交歓会は、私達が岡町図書館をお訪ねする。再会の時まで主の祝福を祈りつつお見送りした。
posted by 優子 at 18:11| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2006年10月17日

母の時から10年が過ぎて

ちょうど10年前の今頃は私もまた同じ痛みの中に在った。
ただし文香さんと違って、母を看取る頃の私は今ほども神さまのことが解っていなかったから、悲しみだけではなく苦悩に満ちていた。
状況は最悪だった。
その時の精神的状況が当時の日記に刻まれている。

10月20日(日)
お母さん、もうすぐ逝かれるのですね、責任を全うして。
もう楽になりたいですか?
お母さんと別れる覚悟がまだできない。
お母さんが苦しくても薬を使わずに、明確な意識のお母さんに会いたい。こんな気持ちになるなんて予想もしなかった。
今も気管切開は嫌だ。その思いは変わらない。

10月24日(木)
朝の谷口先生への電話で私は子供のようにうろたえ泣いてしまった。
この時に言われたことは、
「あなたはイエスに立てられた人、リーダーシップをとって『みんなでお母さんを送ってあげよ』と言ってあげて下さい。その人の一生が終わるという厳粛な場、お母さんも今、肉体だけではなく魂も闘っておられる。そして、みんなの一番いい時に、『もういいよ』と神が引き上げてくださる」と。

電話の途中から兄嫁や妹への激しい怒りと憎しみが静められた。
イエスさま、どうぞ私をあなたの使者として下さい。どうぞ、この憎しみを砕いて下さい。主に委ねますと祈った。
そして、10時頃家を出て母のところへ急ぐ。この日が最後の泊まりとなった。


             (1996年秋の日記より)

母は地獄であったが、私にとっては母の難病ゆえの、この世の不条理の苦しみこそが地獄であった。
この時はまだまだ神の愛はわかっていなかった。
「どうして!」と絶叫する段階で母は召された。
娘がそんな状況で召された母もまた地獄であったろうが、母は神さまの平安を賜っていたことも後年わかった。

私はどん底に到って初めてイエス様を知り、そこから新しい次の段階に足を踏み入れさせて下さったことも後年になってわかった。
それからの10年間を振り返ると、今このように在ることは奇跡に等しい。
神さまの介入なくしてはありえなかった。
愚かな私達夫婦のために、親族達おとなの確執のために、若い娘達の人生をつぶさないように神さまは守り抜かれた。


昨日の文香さんのブログ(「生かされて」)に私の記事を紹介して下さっている。
その前日、文香さんから頂戴したメールに書いて下さっていることは、言葉では言い表せない感慨を覚える。
それは、神さまからの力強い励ましであり導きであると感謝している。

私もまたあの時、あれだけいろんな本をも読んで心の備えをしていたつもりであったのに、いよいよという時、私は母の体を揺すって「お母さん、死なないで! 息をして!」と言ってしまった。
その瞬間にハッとして、「ああ、そうだった。お母さん、もう頑張らなくてもいいよ。お母さん、よくここまで頑張ってくれたね。ありがとう。」と泣き崩れた。

そして、今も忘れられない不思議なことがあった。
息を引き取って10秒くらいあとだったか、右後ろで母の笑い声が聞こえ、私は「えっ?」と声を出して右後ろを振り返ったほどだった。
はっきりと母の声だとわかる笑い声だった。
「ああ、お母さんはようやく苦しみから解放されたんだ。自由になったんだ」と瞬間に思った。

臨終の場の幻聴でもないことは明確だ。
私はいたってそのようなことには関心も持っていないし、そのようなシーンを想像したこともなかったから、どんなに驚いたことか!
天使ガブリエルが現れた時のマリアのような驚きであった。
母の声は、苦悩を伴う悲しみの極致にある私に対して、神さまが臨在を示して下さったのだと直感した。

主が文香さんと一緒に通り抜けさせて下さる。
お父様は既に主の平安の中に居られる。
今日までお導き下さったことを感謝しつつ、この時を祈り続けよう。




posted by 優子 at 08:05| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月16日

主の慰めを祈りつつ

  谷口幸子著 『歌集 生きてふたたび』
                (短歌出版社)より
  

(夫の)最後の入院で二人は「死」の問題についてゆっくり話し合う時が与えられました。

信仰者といえども「死」はそう簡単なものではないこと、イエス様でさえゲッセマネの園で、苦しみもだえ血の汗を流して「死」ととりくまれたこと。
ご聖霊の助けによってそこをのりこえて、カルバリーへと進まれたが、そこでも「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし」と苦悩の言葉を吐かれ、最期は「父よ、わが霊をみ手にゆだぬ。」と平安に生涯を終わられたことなど枕辺で語り合いました。

愛する独り子に、十字架の道を歩ませた神の愛は、私達にも十字架を負うて生きる力を必ず与えて下さるのだから、心配はいらないと語ってくれました。自分のことよりも、残される者に対する配慮でした。
思えば、病床は二人にとって珠玉の時であったと深い感謝がわいてきます。

                             

信仰者であるからこそ悲しい時は、誰はばかることなく泣けばいい。
ルターだって、内村鑑三だって、あれだけの信仰者が愛する者との別れの時には人前で声を出して泣いたではないか。
だからこそ私の心を動かすのだ。
人生苦、深い悲しみを経験せぬ者に聖書の言葉はわからない。
神の平安と慰めを頂いていても悲しいのだ。
主が伴って下さっているからこそ安心して泣けばいいのだ。
posted by 優子 at 21:32| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

15日のミネソタは20度の予報だって!

昨日の昼下がりのこと、7月13日付けブログに書いた東大阪教会のI牧師より、17日の花園図書館での読書交歓会に出席したいとのお電話が入った。

I牧師さんとの出会いは、昨秋に関東から単身赴任で来られて半年後の時だった。バリバリの大阪人の私も仲良しにならせて頂こうと思っていたので、17日に花園図書館でクリスチャン文学者のお話が聴けることをお知らせしていたのだ。

斯く言うものの忙しさに流されてお知らせしたのは6日のこと。ご都合がついたのか嬉しいお電話を頂戴して、早速に名札の準備をして下さっている副会長の千里姉に携帯メールで伝令した。

その時、「こんにちは」と真智子がチャットしてきた。わーい(嬉しい顔)
早速、スカイプに切り替えた。
「真智とスカイプするよ!」のひと声で、ソファーに横になって居眠りかけていた夫は飛び起きて、椅子を持ってパソコンの前に座るハヤワザ。まるでエサをもらう時のチャッピーのようだった。

彼らは生存していた! 手(チョキ)
と言うのは、13日の記事にあるように真智子たちは徹夜しているのに、次の朝に私がパソコンを開いた時もまだオンラインになっていた。それどころかお昼になっても夕方になっても、私が見つけてからも24時間以上オンラインになったままだったので、ひょっとして暴漢に襲われてその場で倒れているのではと、いつもの心配性がつのってきていたのだ。(テレビの見過ぎ!)

聞くところによるとマクロや確率論の宿題の締め切りで、その一昨日ぐらいから数時間ぐらいずつしか寝ないで頑張っていたとのこと、ラストスパートは今回もまた「起きてから36時間になる」というパターンだったのだろう。
東大にいた時は、そのあとバイクに乗って家まで帰らねばならないが自宅なのでありがたいと言っている。

そして昨日は、「15時間も寝たよ」と二人の元気な顔が映っていた。
長時間眠るにも体力がいるので、15時間も続けて眠れるというのもまた若い証拠だ。

一安心したところで、カメラを動かしてもらって家の中を案内してもらった。 目

食事だけではなく勉強机も兼ねる大きなテーブルを買いたいと言っていたが、6人用の大きさ以上あるだろうか実に大きかった。

マイナス35度にも耐えうる防寒着は、いたって薄かった。私は北極探検に行く人が着るようなものを想像していたのだが、私たちのと殆ど変わらなかった。
先日はもうマイナス2度だと聞いてショックだったが、気温は日によって20度位は差があるという。
今日はセーター一枚くらいで、明日(15日、即ち日本では月曜日の今日)の予報は20度くらいになるというから驚いてばかりである。

とにかく食料品は安いそうで、肉1キログラムが800円くらいだというから、ランドセルの皮のように硬いのではないのかと聞けば、それがすごく柔らかい肉だというから笑ってしまう。
タマネギも5キロで500円くらい、野菜もしっかり食べていると聞いて安心したが、魚は全く食べていない。「東京にいる時もそうだったから」と言う娘。鮭やマスくらいはあるだろうから魚を摂るように言っておいた。


勉強も健闘しているようだ。
「ミクロ経済学が25人、マクロが35人くらいかなあ。
ミクロやマクロは東大時代にやっていたから、けっこう満点を取っているよ。
確率は大変。とにかくこちらの宿題は並ではない。多すぎる。80ページのレポートを提出するので腱鞘炎になっている。」
真智子たちは詳しく証明を書いていくので、教官はページの多さに辟易ぎみらしい(笑)。

IMFから奨学金をもらっている真智子と違って、ミネソタ大学の奨学金で留学している彼は採点もしなければならない。150名もの数だから大変だ。夫婦で助け合ってやっているようである。揺れるハート

「次にひびいたら大変だから、へこんではいられない。」
今日の名言だ(笑)。

「天ぷら、うどん、そばが食べたい」とも言った。

帰ってきたら飽きるほど食べさせてあげるから、「食べたいリスト」を考えておいてね! 
アンディとお隣りのレバノン人のマフムートさん(?)によろしくね!
 るんるん
「ところで、そっちは夜中の1時半でしょ? 早く寝ないと!」と気がついてスカイプを切ったのであった。
ハードな日々であろうが、好きなことだから頑張れる。
主に在って充実されたし!


posted by 優子 at 10:30| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2006年10月15日

イスラム圏での奇跡

今から20年前のこと、放出教会の小山恒夫牧師(現名誉牧師)は、「21世紀になればイスラム教社会から、ありとあらゆるクリスチャンは締め出される」と語っておられたが、その予告通り21世紀に入って過激派のイスラム教徒は世界を震撼させている。
「世界宣教の最後の砦」と言われているイスラム圏の一つタンザニアは、インドネシアに次ぐ2番目にイスラム教徒の多い国である。

今朝のメッセージは、タンザニアへ遣わされている井上美穂宣教師が講壇に立たれて、最初に第1コリント2章3節から5節のみことば(聖書の言葉・聖句)を開かれた。

「あなたがたといっしょにいた時の私(パウロ)は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊(みたま)と御力(みちから)の現れでした。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」


井上師の宣教地ダルエスサラームは9割がイスラム教徒であり、彼らカッチ・インディアンは、誰かが遣わされていかないと福音を聞くことができない人々である。

驚いたことにイスラム教の聖典『コーラン』には、イエスはメシアであり、イエスは神のみことばであり、イエスは病人を癒されたということも書いてあるという。
ところが、「メシア」が「救い主」の意味であることを知らないのだ。

宣教師が説明していくうちに、イエス・キリストへの誤解が取り除かれていき、真理を発見して、その感動を抑えることができない人々を見るのは素晴しいと語る井上師、その光景はいかばかりであろう。
不可能と思われていた地に神の奇跡が起こっているのだ!
しかしまた、そのことにより家族からさえ殺されそうになるという危険が生じる。救われた人々への迫害を知らされたからには、私達も具体的にタンザニアの名前を挙げて祈ろうではないか。

30歳代の若き女性宣教師は言われた。
「最初は、いったい私に何ができるのだろうと思った。・・・・しかし、神の御霊(みたま)が先を行って下さってこのような働きをさせて下さっている。これは主が備えられた出会いであり、主は私を助けて大いなるみわざを成して下さっている」と。

この経験のお分かちは聴く者を大いに力づけた。
危険と隣り合わせで宣教のわざに励んでおられる師の働きを思うと、我々はぬるま湯の中での伝道であり、畳の上での伝道だと自らをも探られた。
私達もまた福音を委ねられた主(しゅ)の民、主の証し人であるという召しを強くされた。


今日初めて来られたOさんといろいろお話しするうちに、単に近隣の方というだけではなく、この出会いもまた主が備えられた出会いであることを夫婦共々直ぐに確信させられた。 

「主の御名(みな)によって来る人に、祝福があるように。」

節子さんと淳子さんのことを祈りつつ。
posted by 優子 at 20:41| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年10月14日

友の召され行くお父様に

文香さんのお父様が9月28日にホスピスに入られて
16日が過ぎた。
先日10日ぶりに見舞われた時のお父様の衰弱ぶりを読み、私はひどく胸が痛んだ。
お父様はもちろんのこと、娘の文香さんのことを朝に夕に思い出しては祈らされている。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
 わざわいを恐れません。
 あなた(神さま)がわたしと共におられるからです。」

                  
                   (詩篇 23篇4節)

お父様に難しい神学は必要ないのです。
ただ一つのことだけ、主イエスさまがお父様と共におられるということ。
「お父さん、イエスさまがいつもそばに居てくださるから心配しないでいいからね。全てイエスさまがいいようにして下さるからね。」と言ってあげてください。

それだけお伝えすればいいのです。
お父様に主の平安がありますように。

文香さん、現実を直視するのは怖いけれど、怖くて悲しくて泣き出しそうな文香さんのことも、全てをご存知のイエスさまがついていて下さっているからね。
だからこそ、「恐れるな」と言って下さるのですからね。
全てにおいて最善をなして下さっていることを感謝して祈り続けています。

posted by 優子 at 21:23| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

「ミネソタは寒いです。 (><) 」

雪真智子からの待ちに待ったメールが届いた。
「今朝家を出ると」と言うから12日のこと、外は真っ白な雪でびっくりしたというのだ。まだ10月半ばなのに今からマイナス2度とはこれからが思いやられる。

幸いにして、「数週間前に−35度まで耐えられる防寒着を買っておいた」というから安心したが、「マイナス35度まで耐えられる」ものをという買い方にもびっくりする。

確かブラウン先生は、穏やかな秋の日を「インディアン・サマー」だと仰っていたはずだ。秋は9月までのことを言うのだろうか?
過去の記事を直ぐに見られるのもブログの利点である。
私は過去ログの6月をクリックしてみた。懐かしい結婚式の写真が出てきた。そして14日の記事のメッセージを再読すると、やっぱり「10月下旬から11月上旬」と書いてあった。それなのに、もう既に零下2度だって?!がく〜(落胆した顔)
「ミネソタは北極並みに寒いです。」とも仰っていたけれど、今からこれだと恐怖だ。

真智へ晴れ (お日さま暖かそうでしょ?)

暖かいうちに生活必需品を揃えることができてよかったね。
こちらでは、庭には薄いピンクのシュウメイギクがたくさん咲いていて、昼間や掃除の時などは真夏の薄いTシャツ1枚だったよ。
今、真智たちもオンラインになっているけれど、そちらは真夜中でしょ?
ハードな日々を送っているんだろうけれど、「健康一番、勉強2番」と仰っていた吉川先生の言葉も忘れないでね!
太志君にもよろしくね!


夜9時47分の追伸
2人とも今もオンラインやね。
もうすぐ13日の朝8時、昨夜は徹夜になってしまったのね。
体に気をつけてね。
posted by 優子 at 18:43| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

私はひとり神と共にいた

今朝は昨日よりもひどい濃霧だったのでチャッピーの散歩も洗濯物を干すのもあとにして、夫を見送ったあとずっと聖書とカウマンの書を読んでいた。
定時にメロディーを奏でる掛け時計で8時になったことに気がついた。
外はやや明るくなり、小鳥の声も聞こえ始めた。
静かな朝のひと時を神さまと二人だけで過ごす恵み。

私達が祈り、神のみこころに委ねるならば、私達の生涯もまた神によって計画された生涯となるのだ。
今日も無駄に生きることがありませんように。

「わが子よ、あなたの心をわたし(神)に与え、あなたの目をわたしの道に注げ。」
     
      
             (箴言 23章26節)


posted by 優子 at 08:09| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年10月12日

哀歓交々(こもごも)の秋

今日は、今春改築された読書会の知人宅に御招待されて6人でお邪魔した。
近鉄奈良線にある瓢箪山(ひょうたんやま)駅は、花園図書館がある次の駅だ。その方の娘さん御家族は奇遇にも関屋に住んでおられる。

知人は70歳初めの聡明な明るいご夫人で、私はいつもその方の読後感を興味深く聴かせて頂いている。
ご主人は内科医院を開業されていて、とても81歳とは思えぬ若さとお話好きな面白い方だった。

ご夫人は母よりも8歳もお若い方だが、父が生きていたらご主人と同じ歳である。
私は心の中で何度もお二人の姿に両親を重ねていた。
近くのレストランで昼食をご馳走になっている時も、おうちで歓談している時も、ダイニングでのお姿も、そこに父と母の姿を重ねていた。

母が亡くなってもう10年にもなるのに、私は未だに年恰好が合う人々と心地よい時間を過ごしている時は両親を追慕している。
そして、父と母にまつわるどんなにつまらぬものでも使っているのは、そうした形で父と母をいつまでも生かしておきたいのだと思う。


哀歓交々の秋である。
関屋駅に着いた6時頃にはすっかり日が暮れていた。
「チャッピー、ただいま!」犬
posted by 優子 at 19:17| 父母を想う | 更新情報をチェックする

それでも我々は希望に向かおう

人間は愚かだ。
実に愚かだ。
人を殺すために地雷を作り出した人間。それによって多くの命を奪われ、足を無くし、痛みに耐え、地雷撤去に何十年もかけて悪戦苦闘するのも人間。
おかしいではないか!
人間が地雷を埋め込み、人間が地雷の恐怖で家からも出られない。神が与えて下さった広い大地は危険に満ち、安全な所は縄を張っている所だけとは、我々はいったい何をやっているのだろうか。
世界は人間が作り出した苦しみで覆い尽くされている。

アインシュタインは、「核連鎖反応の発見が人類の滅亡につながるわけではない。それはマッチの発明が人類の滅亡につながらないのと同じだ」と言っている。

しかし、「私たちは知性を神格化しないよう十分注意しなくてはならない。・・・宗教なき科学は不具である。・・・人間の邪悪な心を変えるより、プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい。」と言い残している。

原爆開発のきっかけを作ったのはアインシュタイン自身であるが、彼はマンハッタン計画には参加を拒否し、日本に原爆が投下されたことを深く嘆き悲しんだ。
61年後の今、地球を何回でも破壊できる3万発の核弾頭があり、時代が進むほど危険と緊張状態は高まるばかりである。

社会を見渡しても何から手をつけていいか分からないほど問題は山積みだ。
自分一人の生き方なんて関係ないと思いたくなる時がある。
しかし、一人ひとりの生き方こそが大切なのだ。
今まで以上に大切なのだ。
自分のできることをしていくことだ。
自分が置かれた所で日々の出来事に心を込めて生きることだ。
食事や運動などの生活習慣に気をつけることで体内が改善されていくように、日々の生き方が人生を変えていく。
絶望的に見えていても真理を求め続け、ルターの祈りを想起して立ち上がろうではないか。

死は人生の終末ではない、生涯の完成だ。
希望は強い勇気であり、新たな意志である。
全てのことは願うことから始まる。

たとえ明日、この世界が滅ぼうとも
私はリンゴの木を植えよう。
この世を動かす力は希望である。


そうだ、希望は内側からの意志であり、勇気なのだ。
posted by 優子 at 07:36| 随想 | 更新情報をチェックする

2006年10月11日

人間の未来は? ―『無念の湾岸開戦』より―

国際社会から再三の警告を受け続けたにも関わらず北朝鮮が核実験を強行した。もはや核の恐怖は、国民レベルでも現実問題の時代に入っている。

今夏、ワールドカップ杯が開催されたドイツでは、開催準備に対テロ演習が行われていたことも記憶に新しい。
スポーツの大会に特殊攻撃部隊が配備されなければならないとは、我々人間はいったい何をやっているのだろうかと唖然とした。
しかし、皮肉な笑みを浮かべて見ている状況ではないのだ。
湾岸戦争開戦の時にも激しい憤りと悲しみが突き上げ、一気呵成に書き上げた拙文がある。その時と全く同じ想いを強くしているのでここに掲載したい。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

無念の湾岸開戦

1990年10月27日付けの読売英字新聞に、サダム・フセインは自らを「アラブ諸国の騎士」、「現在のネブカデネザル」と唱えているという記事があったらしい。
2500年前に、ネブカデネザル王がイスラエルを征服したことから考えると、フセインの狙いはクウェートだけではなくイスラエルの征服であろう。事実、彼は1500万個の古式製造の煉瓦を用いて古代バビロン帝国を復興しようとしている。

1月17日の開戦から10日後の今日、ペルシャ湾に流出した原油で覆い尽くされた海と、油にまみれた水鳥の姿は悲惨で、歴史がゴールに向っているのではないかと予感させた。

既に戦争に突入してしまった今、どちらが良いか悪いかという議論は方向性を見失うばかりである。直接関与していない国は和平への仲介者になるべきで、今からでも日本に聡明な選択を希望したい。

にもかかわらず、血を流してでも平和を勝ち取るのだと豪語する政治家に問いたい。血を流す戦いに正義が成立するのだろうか。正義の名のもとに行われる暴力ほど恐ろしいものはない。私はいかなる戦争も、断じて受け入れることはできない。

第二次世界大戦後から今日までの45年間に、400回以上もの戦争や武力衝突があった。私達は歴史から何も学んでいなかった。
と言うよりも、私達が平和を望んでも、人間には平和を作り出す力がないことに気づかねばならない。戦争は私達一人ひとりの姿そのものであり、自分の力ではどうすることもできない罪があることに気づくべきである。

かつての世界大戦を通ってきた年配の人々は、「今日の日本政府の政策を見ていると『この道はいつか来た道』のようだ」と警鐘を鳴らしておられる。

「国を愛するとはどういうことでしょうか。
時の政府のいうままに、唯々諾々と従うことでしょうか。国のすることだから何でもよしとするのは、国が大事なのではなく、自分が大事な人間のすることです。」


と書いておられる三浦綾子さんの言葉も想起する。
私達は広島と長崎を体験しているのに、核に対しても無知で何と無関心なのであろう。

昨夏、テレビの画像に映し出されたチェルノブイリとその周辺の放射能汚染地域にも、美しい青空が広がり草が茂っていた。あまりの美しさに驚いていた私に、「だからね!」と一生懸命訴える王子さまの声が聞こえてくるようであった。
「大切なことは心で見なくちゃ見えない。かんじんなことは目に見えないんだよ。」という、サン・テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる有名な言葉から、
「目に見えないものは、愛や情熱など良きものだけではなく、生存を脅かす放射能だって目に見えないんだよ!」と叫ぶ王子さまの姿が画像に重なった。

現在、世界には広島に投下された500倍の放射能を有している。今や世界の人々が危険を共有しているのだ。
もはや一国の問題だけではなく、個人と共に全人類が新しく歩み出さなければならない時に、今回の湾岸開戦は無念でならない。
このままだと、世界は方向を見失ってしまう危険性がある。今こそ、「汝の敵を愛せよ。」と言われたキリストの教えに従うべきである。

欧米の指導者達の殆どが全知全能なる神を知っている。
私は祈る。
一刻も早く和平の方向に向うよう各国為政者達の上に、主イエス・キリストによる知恵と勇気が与えられるように。全てを支配されている神のみ心が成るように祈り続けよう。

サダム・フセイン。
彼の先祖がメイフラワー号の一員であったとは、なんとも複雑な思いである。


       (東大阪読書友の会会報 1991年発行
           『かわちの』39号より転載)
posted by 優子 at 10:33| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2006年10月10日

読書会・山本周五郎『小説 日本婦道記』のご案内

来週の17日(火)に、東大阪花園図書館3階の視聴覚室において東大阪と豊中の読書交歓会があります。
時間は午後1時から4時で、テキストは山本周五郎の『小説 日本婦道記』(新潮文庫)です。
例年交歓会の参加者は、私達東大阪読書友の会メンバーが約15〜18名、豊中から8名くらい加わって下さり25名くらいになります。

今回は私の推薦図書が交歓会のテキストになり、梅花女子大学の大田正紀先生を講師にお迎えすることができて今から楽しみです。
この本は11の短編よりなっていますが、特に『松の花』、『薮の蔭』、『糸車』、『二十三年』を中心に読みたいとのことですので、今からでも大丈夫、その作品だけでしたら1時間もあれば読むことができます。

周五郎はクリスチャンではありませんが、クリスチャンの父に連れられて教会に通っていたことがあり、周五郎の生涯や文学に多大な影響を与えています。
後年、「聖書とヒルティやストリンドベルヒなどの著作を読みふけ」っていたということです。
確かにこの小説からも、単に知識として聖書を読んでいたというのではないことがよく分かります。

私はこの作品を初めて読んだ時、凛として生きる女性の姿や全編に流れている真実の優しさと強さを感じていました。
先月皆様にもお配りした先生の資料を読ませて頂き、滅私的な哀しみではない周五郎の書きたかった真髄を確かめることができたように思いました。
「近現代日本文学とキリスト教」を専攻テーマとされる講師のお話を今から楽しみにしています。私自身の今後の方向性を模索している今、何かヒントとなる新たなる出会いがあるのではないかと期待をしています。

当日のプログラムを次のように考えています。

 1 東大阪読書友の会会長挨拶
 2 花園図書館館長挨拶
 3 豊中読書会会長挨拶 
 4 司会者(藤本)より講師をご紹介
 5 参加者の感想を短く発表
 6 講師より周五郎の文学を概観
     10分間休憩
 7 『日本婦道記』の世界について
     質疑応答もできれば最高!

昨夜の段階で講師とはこのように打合せをしているところです。

当日は豊中の方達をお見送りしてから、有志の方達で図書館近くの喫茶店へ移動し、先生を囲んで1時間ばかりお茶会をします。
ここでは、より突っ込んだ文学論を交わしたりして実に楽しみな時間です。

私の近所に周五郎のファンが居られますので今回お誘いしました。
読書会は読書推進を目的とするものですから、関心のある方はお話だけでも聴きに来て下さい。
大歓迎します。
会場準備の関係もありますので、ご希望の方はご一報ください。
posted by 優子 at 10:36| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2006年10月09日

楽しかった秋の一日

この時期になると関屋の町は、どこにいてもキンモクセイの香りが漂っている。
殆どの家の庭にキンモクセイを植えておられるからだ。我が家のは今年はつぼみさえつけなかった。私達の家を建てるために、狭くて日当たりの悪い所に移植されたからだ。

長女達が生駒に引越して10日目の今日は雲ひとつない秋晴れの一日。 (ミネソタの真智子へ・日本は体育の日で休日でした)
私は娘の顔を見るなり「お帰りなさい」と言ってしまったが、直ぐに「こんにちは」と言い直した。

「話したいことがいっぱい!」と言う娘の顔は喜びに輝いていた。
ようやく新居を構えての里帰りで用事もいっぱいだ。用意していた物をわたしてやり、足りない物を揃えたり、私のミスのために今頃になって結婚式の精算、そして洗車と、たった4時間余りの滞在では落ち着いて何もしゃべられなかった。

そして、家の前でゴルフの講習会である(笑)。
昨日は2人でゴルフの打ちっぱなしに行ったらしく、娘の話につられて私は娘時代に使っていた年代物のゴルフクラブを出して来た。
キャディーバッグは少し前に粗大ゴミで捨てたところだが、クラブは全く昔のままである。あちこちガタがきている老体の私が、30年ぶりにクラブを振って救急車騒ぎにならないか心配しつつも、やはり懐かしくて見ているだけではいられなかった。

娘のピアノと同じで体は覚えていたのだ!
大学1回生前期の体育はゴルフとソーシャルダンスで、ゴルフ同好会に入っていた兄に何度も打ちっぱなしに連れて行ってもらい指南してもらった。おかげで授業ではフォームが美しいからと何回か前でやらされたものだ。

3回生になってから道具も揃えて本格的にやり出した。1日350球を週に3回打っていた時もあった。
スコアーは平均して55ぐらいで回っていた。
結婚4ヵ月後にエントリーしていたが、妊娠しているかもしれないからと医師に許可されなかったので、最後にラウンドしたのは婚約時代だったから30年ぶりである。
もう一度だけラウンドしたい気持ちもあるが、クラブを娘に譲って正解だった。
既に股関節はズキズキうずいている。

今日はタイムスリップしたような妙な感覚だった。
素振りしていた時、私の意識は20歳に戻っていて、娘達の車を見送っていた時は娘を見送る不思議だけではなく、手を振っている娘が私自身になり、私達が見えなくなるまで手を振ってくれていた両親の姿を思い出していた。

何度、実家に行ったことだろう。
特に新婚当初から長女が幼稚園に行くまでは2週間に1度は行っていたと思う。
「こんにちは」、「ありがとう、また来るね、元気でね。」という言葉を両親と何回交わしたことだろう。
夫よ、ありがとう!
何度も何度も連れて行ってくれて、本当にありがとう。


娘達の帰り際に思いもかけず、近くの知人が採りたての栗をたくさん持ってきて下さり私も娘も大喜び!
栗まで新鮮なものは味が違うのだ。店で買うものとは全く違い、こんなにおいしい物を頂いて感謝の気持ちをどのように伝えればいいのだろうか!
娘達はいろんなおみやげを車に積んで4時ごろ家路についた。



posted by 優子 at 22:59| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2006年10月08日

司馬遼太郎が亡くなった日の日記を開く

司馬遼太郎が亡くなったのは1996年2月12日(月)で、この日は母の病室で寝泊りした夜だった。
その日の日記を開けてみた。この日は休日で夫も一緒に来てくれていた。

「3時39分、母と再会する。夫も5時12分までいてくれた。春の訪れ、シクラメンの鉢植えを持っていく。・・・・

夜9時から文字板をする。
長いことかかって「つ」をキャッチしたが分からず、今度は文字板ではなく連想ゲームのように聞いてみた。
「この部屋に関係すること?もしそうなら目をつむって?」
「この病院に関係すること?」・・・・・・と、30分も40分もかけて漸くわかった。

「つぎはいつ来てくれるの?」と母は聞いていたのだ。
いつもは「こんどいつ来てくれるの?」なので、「こ」だったら直ぐにわかってあげられたのに、初めて「つ」になったので分かってやれなかった。

ああ母よ、これほどまでに私を待っていてくれるのか!


私は数時間前に来たところで、明日の午後までお母さんと一緒に居るというのに、すでに次回のことを知りたいなんて。
母がようやく目を閉じたのは10時45分頃だったと思う。

この夜、司馬遼太郎が亡くなった。72歳だった。
そのニュースを枕元で聞きながら、人の寿命を思わされた。
10日に体調を崩し12日に死亡。たった2日間の患いだった。
母の苦しみを思うと、そのあっけなさに悲しみよりも幸せ感を抱いてしまう。
母はこんなになっても、まだ死ねないんだ。死なせてはもらえないのだ。・・・・人生の意味なんてわからない。」


苦悩の日々が刻まれていた。

 
posted by 優子 at 22:19| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

司馬遼太郎の愛した喫茶店へ行ったよ!

今日の午後はサークルセンターが主催する談話会、「第19回 城東サロン」へ出かけた。
毎回各会のリーダーが主宰者となって、自由なテーマで気楽なサロンの雰囲気で話し合う会である。
今日は大阪商業大学がある次の駅、近鉄電車奈良線八戸ノ里(やえのさと)駅前にある宮本順三記念館に会場を移して、「夢いっぱい”おまけ文化”について」と題するサロンが開かれた。

私は宮本順三なる名前も知らなかったが、かの有名なグリコのおもちゃデザイナーであった。
グリコのキャラメルについていた(いる?)オマケを知らない人はいないだろう。私が買い求めていた1960年前後のおまけを見てみると、見覚えのあるおもちゃがいくつかあった。
おもちゃ博物館は実に心休まる空間だった。

2年前に亡くなった宮本順三は、鶴見俊輔に「日本のルネサンスを生きる人」と讃えられたオマケの達人で、兄は経済学者(経済史専門?)の宮本又次氏である。
オマケ文化、「小さいことはいいことだ!」の哲学は大阪から生まれたという。

博物館を支えておられるお一人、岡田三郎さん(72歳)は驚くことなかれ、50年前に折る刃式の携帯用ナイフを考案され、その後、世界中の人々に愛用されているカッターナイフを発明された方である。
現在は刃物を上手に使って手作りの良さと楽しさを伝えておられる。

博物館がある建物の1階に喫茶店「珈琲工房」がある。
ここが司馬遼太郎が愛した喫茶店である。司馬さんの家から歩いて10分程のところで、よくご夫妻で来られた所だ。小さな店だが、なかなか落ち着いた雰囲気で珈琲のおいしい店だった。
私は司馬さん愛用の定席に座らせて頂いて感激し、在りし日の司馬さんを想像していた。
サロンのあと、この喫茶店で役員と事務局の方で役員会を持ち、9月30日の理事会決定を受けて11月25・26日の打ち合わせに熱が入った。

この喫茶店は、かつて東大阪に住んでいた時に数え切れないほど何度も前を通っていた所だった。
皆さんと別れてから入った西友もまた何度も来たスーパーだ。店内を歩いていると幼かった娘達がお菓子の棚の辺りにいるような気がした。

関屋駅に着いたのは、5時15分を過ぎていた。
夫は外出中で迎えはなく、代わりに来てくれていた娘の姿もなく、今日もまた寂しい秋の夕暮れだった。

posted by 優子 at 22:01| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

遠い日の夕暮れに

夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないでみな帰ろう カラスと一緒に帰りましょう


今頃は夕方の5時を過ぎると見る見るうちに日が暮れていく。
昨日の夕暮れ時、チャッピーの散歩に出た私は、空高く沢山のカラスが「カアカア」と山に向って飛んで行くのを見た。カラスたちは時々向き合ったりしながら、まるで楽しくおしゃべりしているかのように嬉しそうに飛んでいた。

こんな夕暮れはいつも遠い日の思い出に包まれる。
季節は秋だったか春だったか覚えていないが、暑くもなく寒くもない、ちょうど今頃のような夕暮れだった。
私の右手は母の左手に握られて、母の右手にも兄か妹が手をつないでいたように思う。

母は遊びに出ていた私達を迎えに来たのだろうか。
あの時、母と一緒に手を振りながら「夕焼け小焼け」を歌った光景が、今も鮮やかに原風景となって残っている。

主婦はサンダルではなく下駄を履いていた時代のこと、母が下駄を履いていたことも、あの道の、あの場所に通りかかった時に「お手々つないでみな帰ろう」と歌ったことも鮮明に覚えている。
私は一緒に歌いながら歩くのが嬉しくて母の顔を見上げたことも、その時の母の表情も、明るい歌声も体の振動まで伝わってくる。
もう50年も前の遠い遠い日のことなのに。

10年前の10月25日に母が召され、その5日後に私は45歳になった。
母に会いたくて会いたくてたまらなくなる時がある。

posted by 優子 at 07:48| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2006年10月06日

追記・メールマガジンから

旧東ドイツに行きましたので、日本から来られた先生方を案内してアイゼナハに行きました。
ここは大作曲家バッハの生れた町ですが、もうひとつ、宗教改革家のルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した所でもあるのです。
写真はルターがローマ教会から破門された後、かくまわれていたヴァルトブルク城内部。この写真の左上あたりの部屋で、ルターは約10ヶ月で新約聖書のドイツ語訳を完成させたということです。このルター訳が今でもドイツで読まれています。

<ヴァルトブルク城>


美しい写真を掲載できないのが残念です。
コメントは受け付けていませんので、メールマガジンをご希望の方はメールでお知らせ下さい。
メールアドレスもご存知でない方もおられましょうが、このブログをお知りになったルーツ先にお聞き下さい。
夫や娘達を通してお知らせさせて頂きますのでよろしくお願いします。



posted by 優子 at 08:26| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

ドイツの宣教師からメールが届く

このブログでも何度かとりあげた井野葉由美(いの はゆみ)宣教師、覚えておられるだろうか?
5月にドイツに発たれてちょうど5ヶ月が過ぎた。
以来、ドイツから送られてくる美しいメールマガジンを読ませて頂いている。
春からの多忙な日々も一段落して、5日に配信されたメールマガジン17号に短くメールを送ると「すごい!」、今朝、井野宣教師から返信が届いていたのだ。

ミネソタに行っている次女からもメールのやり取りをしているから、外国からのメールに驚いたわけではないのに、すごく嬉しかった。
いつも祈りながら希望をもって励んでおられる姉(しまい)からのメールに感動したのだと思う。
メールマガジンもアドレスをご紹介すればいいのだろうか?私にはわからない。5日に送られてきたマガジンから一部をご紹介しよう。

ニコライ教会は17年前、東ドイツ解放のきっかけを作った教会だったのです。旧東ドイツの末期、政情がどんどん不安定になっていった時、人々はニコライ教会で、まず、月に一度「暴力によらない国の解放」のために祈り始めました。

当時は、宗教活動は規制され、伝道することは禁じられていた時代でした。しかし、その祈り会はやがて週に1回になり、次第に毎日人が集まっては祈りが捧げられるようになっていきました。そして教会に入れない人々は広場で平和的なデモをするようになり、それが各地に拡がって、ついにベルリンの壁の開放に至ったのです。
     
その歴史的教会で、「今また暴力に寄らない改革の祈りが求められている。今度は人々の霊的革命である。私たちの祈りが集結する時、神は信じられないほどの力を与えて下さり、人々の心を変えて下さる。この教会はその事を歴史的に証明している」と語られました。
歴史的事実に裏打ちされた確かさ、力強さを感じ、感動しました。


自己を確立している読書会やサークル関係者との交わりとは違い、エゴと主体性の違いが分からぬ集団で私はどう生きるのか、そんなことを考えていた時に葉由美宣教師のメールマガジンが届いたのだ。

これまでにも何度か印象を書いたことがある某委員会も、まもなく2年目が終わろうとしている。1年を要して全体像も見えている。
殆どの人が上手に泳いでいるというのが共通する生き方で、こういう集団の中ではいつしか私もカメレオン的生き方をしているところがあった。徐々に感覚が麻痺していっているのも怠惰な気持ちの表れである。

私はこのようなことにさえ息苦しさを感じてしまう程度の人間なのだとガックリしていたので、昨日は本畝さんのことも思い出していたのだ。
私自身が選び求めた集まりではないだけに、良い社会勉強の場だと自らを励まして残りの任期を努めようと思った。

いや、私自身が選び求めた集まりではないだけに、神さまから託された使命もあろう。そんな大事なことも一瞬であれ忘れているのだからつまらないことで悩むのは当然だ。
道が示された!
今までそうしてきたように酒の席は辞退しよう。

ドイツに遣わされておられる宣教師を通して、私に「高きを見よ!」と主(しゅ、イエスさま)が語ってくださり、再びしっかりと主を見上げることができた。
主よ、感謝します。
姉(しまい)の尊い働きがこれからも大いに祝福されますように!
姉の健康をお守りください。

メールマガジンの最後の言葉を皆様にもお届けしよう。

それでは、Gott segne Dich! (ゴット ゼーグネ ディッヒ=神の祝福がありますように)

井野 葉由美


葉由美さん、ありがとう。
私は今も葉由美さんの讃美を聴きながら書いています。
次女は6月10日に、このCDを録音された大阪クリスチャンセンターで挙式し、8月初めにミネソタへ発ちました。
神さまと葉由美さんに感謝します。
これからも日本の地より祈っています。

posted by 優子 at 08:07| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2006年10月05日

私の社会性を目覚めさせた本

ここに一冊の本がある。
カゼを引いただけで不必要な投薬によりライ症候群にかかって、2歳8ヶ月の寿子ちゃんを亡くされた母親の手記、『こわいカゼ薬 ―子供たちが急死・らい症候群』である。

「知らないことは罪である。知ろうとしないことはもっと深い罪である。
最愛の娘を失って初めて、私は日本の医療制度に潜む犯罪性に愕然としました。安易な自分の人生観こそが、この犯罪性を支える原点であったと、思い知らされました。」


冒頭から私の心を揺り動かした。

※ 病気になったら全部、医者と薬にお任せという、主
  体性のなさではいけない。
※ 被害者の方々が財力と体力と精神力との限りを尽
  くして下さっているからこそ、私達は同じ被害に遭わ
  ずにすんでいるのである。
※ 人生そのものを破戒された人々の言葉に、心を澄
  ましてみないかぎり見えてこない。
※ 私達もまた、人が悪い、制度が悪いという前に、賢
  い市民だったでしょうか。沈黙し、耐えていることが
  実は、世の矛盾を更に大きく助長させ、「悪」を全面
  的に支援することになった
といえるでしょう。・・・
  黙っていることは、現状を容認することになるので
  す。


など、紹介したい内容は限りない。
かかった医者に投薬証明を書いて欲しいと言っても書いてくれず、どんなに惨めな思いをされたことか。
「あんた金がほしいんか!」と無礼極まりない悪態暴言をぶつけられ、不快極まりない苦痛を何度も経験された。
このような人たちの悲しみの働きを通して医療現場や社会が変わり、患者の立場と権利意識が変えられて我々も恩恵を受けているのである。
裁判のために法律をしらなくてはならないと夜間大学で学んだ著者の生きざまは、真実を追い求める真剣な母の姿だった。

「本文の中で、『なんとひどい医者にかかったのだろう』と一瞬思われるかもしれません。
けれども、私達は決して運悪く、医学的知識の低い医者や人道的に許せない悪特医にかかったのではないのです。今あなたがかかっている病院名を、私達の場合にあてはめれば、いつでも同じことが起こりうるのです。・・(略)
知っていながら行動しないことは、もう罪悪です。
                    (1985年10月)」

と、<はじめに>を結んでおられる。

「子育てをするに当たって、当然持っておくべき最低限度の医学知識さえもなかったことが責められてならない。」と書いておられるが、抗生物質や解熱剤を多いめに処方してもらって喜んでいた私は身震いし、これをきっかけに全てのことに盲目だった私の目が次々と開かれていった。

以来、自分が体験する出来事に対して「おかしい」と思うことは「おかしいのでは」と声を出す生き方を選び取った。今振り返ると私の社会性を目覚めさせ、彼女の生き方に著しく感化されたことは明白である。
長女がファイザー製薬のMRになった時も、医薬品情報提供者としての使命を伝えるためにこの本を手渡した。

本畝さんを知ったのは、出版されて半年後の1986年7月だったが既に第3版を重ねていた。
私は洗礼を受けて1ヶ月になろうとした頃である。
あれから20年間の私の歩みはどうであったか。いよいよ人生最後の段階を真剣に生きねばと思う。


posted by 優子 at 08:07| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2006年10月04日

聞こえていますか子どもの叫び

「まず自分の言葉が相手を傷つけるかどうかを感じる能力を育てること。
それが育てば、バッハやモーツァルトの美しい音楽を感じとることができる。」


ヴァイオリンの早期才能教育で活躍された鈴木慎一郎氏の言葉です。
つまり、自分の言おうとする言葉が相手の心にどう響くか分からないようでは、バッハやモーツァルトを感じとることも演奏することもできないとということでしょう。

言葉は脳で言語化されますが、精神的発達と関係し魂に関係するものです。
子供達の多くの事例を見ても明らかなように、知能を展開させていくのも心であり、心を豊かにすることが最重要事項であることがわかります。

そして、その心は経験により形成されていくのですから、主に親や教師との関り合いの中で作り上げられていくわけです。
私達はそのことを今一度記憶すべきではないでしょうか。
   

 (藤戸小学校PTA広報委員会 1992年2月4日発行
      ふじとニュースNO.30より転載)     

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いじめによる悲惨な事件があとを断たない。
人間は何度同じことを繰り返せばわかるのだろうか。
連日のように悲しい事件を知る我々もまた、「またか」と、その深刻さに慣れていく人間性喪失も甚だしい。
もし我が子だったらどうなのか!
もっともっと想像力を働かせて、鋭敏に受け止めなくてはならない。
保身に走るのも人間の本能だろう。しかし、教育機関の対応はあまりにもひどく、「筆舌に尽くしがたし」とはこのことである。

このブログを書き始めてからも度重なる悲劇があった。
そのことを殆ど取り上げなかったのは娘達の結婚に浮かれていたからではない。あまりの出来事に悲しみと憤りで石のように黙してしまうのだ。軽々しく言葉にできなかった。

上記の掲載文は、同校の音楽教師に切なる祈りを込めて語りかけたものである。この教師から長女が6年生の時に受けた暴言の数々、教師の問題が一個の人生を左右することもありうるのだ。
娘は神に守られて今に到ったが、教育問題こそ私の最も訴えたいテーマの一つである。

問題教師の実態、教師や親のあり方の大切さ、子供の心を傷つけるとは如何なることなのか、自分に自信のあると思われるところで失敗したペテロのように私も同じ経験をしたこと、悩むべきことにも悩むことができない人々のことなど書きたいことがたくさんある。

鈴木氏の教えに子育ての早い時期に出会い、私の糧となった。
斯く言う私自身も成長期の娘達に心の傷をつけたことも数え切れず、弱い自分に嘆いた。しかし、そのつど悔い改め、神さまが子供達の心を守り育てて下さったから幸せな大人に成長できたことを感謝している。
(評論ならばここで「幸せな大人」というところに解釈を加えたいところであるが(笑)、別の機会に譲ろう)

音楽であれ、文学であれ、知的探求するにも心こそが命である。
私の意味する「心」とは、神を認めて生きる心である。
人間は神さま抜きで地位や名誉、財産を得ることはできる。しかし、それらは人間の心を決して満足させることはなく際限もなく、人間の尊厳が失われてしまう。
命は墓場までではない。
神を信じる者には永遠の命が与えられるのである。


失われた少女の命が決して無駄にされることなく、一粒の麦として用いて下さるように全権を握っておられる神に委ね祈ろう。
今再び我が姿勢を正し、使命に生かされていきたいと思う。
posted by 優子 at 09:38| 掲載文 | 更新情報をチェックする