2007年08月31日

文学の面白さを教えてくれた人

優子さん

残暑お見舞い申し上げます。
今年の夏はこたえますね。私も暑さにお手上げです。
”あしたづ”に西口孝四郎さんとの出会いを執筆される由、大変楽しみにしております。
私も西口さんには何かとお教えいただきました。印象深い方でした。
今も心の中に生きておられますので”あしたづ”でも再びお会いしたいですね。

Mさんから嬉しいメールを頂いた。
西口氏とは私などよりもっと長い間交わりをされていたMさんだから、思い出もたくさんお持ちだろうと思う。

1988年2月初めだったと思う。『ふれあい東大阪』だったかどうか正しい名称は覚えていないが、新聞に折り込まれていたミニコミ誌で読書会を知り、その日のうちに連絡をとって2月の月例会に参加した。

とは言うものの、私は多少の読書はしても小説に関心はなかったし、案内されていたテキスト『私生活』も知らなければ、神吉(かんき)拓郎という著者名も知らなかった。しかも、その本を手にすることもなく出席したのだから、今思えば実に不思議な始まりである。

ところで一昨日29日の席で、「西口先生は『文学に玄人も素人もない。その人それぞれの感受性が勝負になる。文学は自分の立場で読んでいくことが大切だ』と言っておられましたよ」と話した時、
O氏は「いや、それは中身のある西口さんだから言えることですよ。」と言われた。
「確かに強い問題意識やこだわりをもっておられましたからねぇ」と私は言った。

と言うのは、氏は何度もこんなことを話しておられたからだ。
『あしたづ』用にとっておかなくてはならないけれど(>_<)惜しみなくご披露しよう。

「もの書きで一番あかんのは、自分の書きたいことに不足がある時や。書物の資料不足ではなくて、自分の中の書きたい資料不足が一番あかん。

見たもので自分が感じることを書くんや。
本当に感じたものは人に教えたくなるやろ?
人に教えてやりたい、伝えてやりたいと思うことを書くんや。
作品は頭の中の動きやから、作者が死んでも死なないもんや。

自分の腹の底に秘めている光景、人、音、感触・・・など、自分の忘れられない思い出が自分の原点や。それはすぐに思い出すようなものではなく深いものや。
それをいかにつかむかが大切であり、それが文学というもんや。

ジャーナリストの文章は掘り下げより新しさが勝負であり、人にわかる文章でないとあかん。しかし、文学は新しさではなくホンネや。つっこんで書かんと人の心を打たん」。


読売新聞東大阪支局長で社会部デスクでもあった氏は、新聞の読み方も教えて下さった。
つまり、新聞を真正面からだけ読んでいてはダメだ、何事も後ろから、斜めから見ないとわからないと教えて下さった。
これは、今よく耳にする「メディアリテラシー」と重なる。

この年になって私も少しは複眼的に見ることができるようになったと思うが、20年という歳月を思えばその進展はあまりに貧弱すぎる。

氏とはたった7年間の交わりであったが、全く盲目状態の私の目を少しずつ開いてくれた人であった。
Mさんも西口さんとの再会を楽しみにして下さっているなんて、私は西口さんの娘のような嬉しさを感じる。






posted by 優子 at 12:03| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月30日

1年目の学びを終えた真智子夫婦

今日(27日)の試験は、例年よりハードだったような気がしたけど、健闘したよ!
この2ヶ月間、研究を進めながらも、試験勉強についても全力投球でやってきたので、嬉しいです。

今日で1年目の全日程が終わったということで、色々振り返って、感慨深いです。
よく頑張ったし、色々なことを学んだし、色んなことを通じて成熟してきたように思います。小さな喜びを、よりいっぱい見つけられるようになっているように思います。
イエス様は本当に心から望んで努力する事に対して、いつも応えてくださってきたんだな、って改めて思いました。

一週間ほどで早速新学期が始まるけど、更なる成長の時期になるように、しっかりと望んで、努力していこうと思うよ。
それでは、またね。
おやすみなさい。

ミネソタ時間の28日午前1時に送信された次女からのメールだ。
27日は会社のパソコンのことで次女夫婦に相談をかけていたので、試験直後のクタクタ真智子が書いてくれたメールの一部である。

神と共に歩み、神の恵みの中で生かされている真智子。
太宰治の言ではなく、このメールにこそ励まされる。
苛酷な一年間(勉学だけではない)を優秀な成績で終えたことよりも遥かに驚くべきは、真智子たちがイエス・キリストのものにされたということだ。

神が全ての人に与えようと備えて下さっている最高の人生を、我々はもらいそこねてはいけない。私も神の計画された人生を生きたいと切望している。そのために必要なのは唯一つ、幼子のように素直な心だけだ。

日本も猛暑の峠を越え、週明けから秋の訪れを感じるようになった。
私の苦悶も峠を越えつつあれ!
posted by 優子 at 06:52| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

29日の余録2つ

余録1

「太宰が『人間、暗いうちは大丈夫』と言っている」と、商大のO氏が言われた。
どんなことからこの話題になったのかハッキリしないが、心の中で「そうか」と希望を感じ、「太宰に励まされていてどうする!」と、すかさずもう一人の自分が言った。

O氏は「文学では救われないですよ。救いは宗教にしかない」と言われた。
「しかし、文学が宗教に導くことはある」と、私は言った。正確には、「文学作品にもよるが、宗教への道案内をするものもあり、それ以上に読み手しだいで文学から神と出会う場合もある」と言いたかった。

余録2

不思議にも夕刻の時間に谷口先生からも長い電話があった。何かを察してのお電話だったと推察している。私の精神的状況を話した。
師が語気を強めて言われたことは、クリスチャンの人生は徹底的に受け容れていく人生だということだった。

仮に夫が不倫しようとも受け容れるのだと。しかし、簡単に受け容れられないから我々は苦しむと。
しかし、そこに留まっていたら何もかもが許せなくなって、自分がいたたまれなくなり、ついには破滅する。

自分の醜さに苦しみ、自分の醜さに泣いたら、自分を見ないでイエスのふところに逃げ込めばいいのだと。自分の醜さに泣ける人は素晴しい。なぜならば自分の罪がわかっているからだ。

しかしそこで大切なことは、自分はもう罪赦された者であるから、そのような自分とは関係がないのだと決別して、イエスに逃げ込むのだと強調された。

このような狭き門を私は何度通ればわかるのだろうか。
今までの経験は何だったのかと苦しい心境である。
・・・・今はまだ素直に「アーメン」とは言えない自分だが、導かれる者でありたいと願っている。

私が破滅しないようにと神さまが多くの援軍を送って下さっているのがわかる。しかし、まるで身体が不自由なごとくに心(魂)がイエスに向かない。心が麻痺し硬直してしまったように、神の前でも謙虚になれない不思議。
早くイエス・キリストの胸に泣きつきたいのに!
posted by 優子 at 00:22| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月29日

2ヵ月半ぶりの仕事始め

「これは3年来、藤本さんに声をかけていたことですよ」と、商大の前室長O氏は席に着くやいなや仰った。
大阪商業大学の300人収容の立派なホール「蒼天」を無料で使わせてあげるから、読書会主催で何かイベントをしないかというものである。

私もようやく本気になって腰を上げ、ついに11月20日に実現することになった。

今日は読書会の新会長をお引き合わせして、4者で意見を出し合いほぼ決定した。約2時間の会議にも、山崎豊子の話から、本当の大阪弁である美しい「船場(せんば)ことば」の話など文化論や文学論に脱線しつつも、テキパキと決めていく過程は水を得た魚のように楽しいひと時だった。

ヘッドタイトルとサブタイトルを決めるまでに、ああでもないこうでもないと熱く語り合った。
「では、『読書への誘い』では?」と言うと「ありふれているなあ」と却下され、結局のところ最初に発案した「公開読書会」と銘打つのが単純明快だと私の案に決まった。

サブタイトルについては、30日に「読書家の集い」に変更したいとO氏より申し入れがあり、「読書家」となれば誰も来なくなるのではと思いつつも承諾してしまう私。時としてあるこういうところが私の欠点の一つ、無責任だ。

案の定、会員から反対意見が出て、サブタイトルは「読書への誘い」に決まったとのこと。結果的には両タイトル共に私の発案したものに落ち着いた。

O氏は今回を第1回として毎年シリーズでやらないかと促されたが、しばりをかけることで情熱的に励めるものの、負担感がかかってはよいものが生み出せないし、会員の意見も諮らなくてはならないから、連続シリーズが可能ならば次年度から「第2回 公開読書会」にして頂くことを提案し、これも快諾して下さった。
(これも「第1回」を付けさせてほしいとのこと、2回目が続くかどうかはともかくとして気楽にするのもいいだろうと解して快諾した)

東大阪読書友の会主催、大阪商業大学後援で、10月15日の『東大阪市政だより』にも掲載の手配をしていただき、1ヵ月前から商大校門近くに大きな看板も立てて下さるという最大級のご協力を頂くことになった。

市政だより掲載文や看板の文章は商大の事務局にお願いし、私も早速とばかりに帰宅早々、講師としてお迎えする関西外国語大学の先生にお電話した。
大学が始まるのは9月末だからとご自宅にお電話したが、すでに大学の研究室におられた。30分間近くも話し込み、こちらの案を快諾して下さり大体の打ち合わせも終えた。
あとは新会長にお任せして、会長ではない私は道筋をつけたので裏方で協力しよう。

そんなわけで、本来の自分らしさを生きることができて蘇生したような感じがした。
これも祈りに覚えてくださっている友たちのおかげだ。いつも祈られている感謝だけは忘れてはいない。
昨日、メッセージのテープを送って下さった姉(しまい)、メールを下さった姉、Nさん、そして、今日の会合のあと千里さんと4時間近くも共に過ごすことができたことを感謝している。
祈って下さっている方々に特別の恵みがありますように。


駅に着いた時、私は讃美歌を口ずさんでいた。

     主 われを愛す 主は強ければ 
     われ弱くとも 恐れはあらじ
     わが主イェス わが主イェス 
     わが主イェス われを愛す


ボソボソとした口の動きながらも家に着くまで繰り返していた。再び神を見上げて生きていけるような気がした。
posted by 優子 at 22:33| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

文学を読む者の心

24日の記事はチャッピーの逃走劇に変わってしまったが、同日夜、中村獅童主役で『私は貝になりたい』のドラマが放映された。ご案内できなかったが、ご覧になった方も居られたであろう。
今回のドラマでは、実話をもとに10年後に釈放される内容になっていたが、タイトルの意味はブログでご紹介した遺書と同じように使われていた。

実は、先週21日の記事に「私は貝になりたい」を引用しながら、このような意味だったかなぁと気になっていた。
「どうしても生まれ代わらなければならないのなら・・・いっそ深い海の底の貝にでも・・・
そうだ、貝がいい
貝だったら、深い海の底の岩にへばりついているから、何の心配もありません。」

というところだ。

私の記憶では、「どんなに無実を訴えても信じてもらえない。だからもう何もしゃべらない。貝のように口を閉じよう」という意味合いで使われていたように思う。

私の記憶といっても7歳のそれであり理解力であることを思うと、きっと私の思い違いだろうとそのことを書かずにいた。
ところが、どうにも気になって夫に聞いてみたところ、私よりも6歳年上の夫も同じように記憶していたし、3歳年上の友人も同様だとわかった。

やはり、貝は沈黙を表していたのだ!
あの遺言が正しいとすれば、50年近く前のドラマに手が加えられていたことになる。私の記憶が正しかったことが嬉しかったし、7歳の子供が50年近く経っても記憶しているとは、よほどインパクトのある作品だったと言える。

仮に自然描写がうまく書けていても、感動や共感のない作品もあるから、初めてドラマ化されたこの作品は、子供から大人まで多くの人々の心をつかんだ成功作品だった。

数日来、8冊の読書会ノートを開きながらいろんな作品を思い出している。20年間に約230冊、そのうち読んだ本は少なく見積もって180冊ぐらいだろうか。

「文学に玄人も素人もない。その人それぞれの感受性が勝負になる。文学は自分の立場で読んでいくことが大切だ。

文学はハウツーではないから、このような時はこのようにしなさいと説くものではない。各個人が自分の培ってきた教養と経験から読み味わっていくものである。

目に見えないものを見、耳で聞こえないことを聞くのが文学を読む者の心だ。」


とは、西口氏が何度も熱く語っておられたことだ。

年配の人たちの豊かな人生は、行間を埋める自らの人生の思い出があり、その人たちから出てくる感想が私の栄養となっていた。
人間の中に渦巻いているドロドロしたものを考えさせてくれる、それが文学だ。
posted by 優子 at 07:14| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月28日

苦悶する夏

今夏、初めて暑さでしんどくなった。
55歳の私がこれならば年老いた方たちは大丈夫だろうかと心配になり、お盆明けには独居のお年寄りの家を訪ね回った。留守宅には一筆書いた名刺を郵便受けに入れた。半数近い方とお目にかかれなかったので、全員の無事を確かめたのは3・4日後のことだった。
幸い皆さんが元気にそれぞれの夏を過ごしておられた。
健全な精神を保持して明るく話して下さる姿に喜びとたくましさを感じた。

何事も感情の伴わないことは書けないので、私はここ数日書けないでいた。実は考え込んでしまっている。
手当たり次第に先人達の書き残したものを読んでいると、ようやく心の深いところにあるものが言葉になって出てきそうな気がしている。

今日は高村光太郎の「智恵子の死」を開いていた。

私は智恵子を病院に訪問して15分かそこらの面会をしてくるたびにめちゃめちゃに打ちのめされる。極度に疲れて往来を歩くのにも足が重く、・・・そのくせいつまでも歩いていたく、家へ帰る気になれず、咽喉を干からびさせて夜半まで街をうろうろしてしまう。
困憊(こんぱい)の極自家にたどりついてそのまま横になると、智恵子の昼間の姿や言葉がありありと眼の前によみがえる。

狂気と人はいうが、狂気の人のいう言葉はわれわれのよりも真理に近い。狂気の人のいうことをきいていると、われわれの生活のほうが悪いように思えてくる。

極度に純粋になれば人は誰でも狂気になるに違いない。極度の純粋には社会の存在する余地がない。社会性の喪失する時当然その人は社会から閉めだされる。それを人が狂人とよぶ。純粋であることを理想としながら、しかもあまりに純粋すぎることは人間に許されない。

そこまで行ってしまっては人間相互の連絡が断たれる。純粋性を保ちながら人間相互の疎通を図るところに人間倫理の真意がある。


智恵子がついに精神に破綻をきたして亡くなった時、痛々しい悲嘆の中にあった光太郎もまた、書くことで精神の均衡を取り戻していったように思う。

『あしたづ』への執筆に取り掛かっている。
たぶん最終寄稿になることを予感しているので、読書会ノートをひもといて西口孝四郎氏から教わったことをまとめ、そして、私の可能性を引き出して下さった氏との出会いを書き残すことにした。
光太郎が追憶の中の智恵子を書きとめたように。


あんなに激しく鳴いていた蝉の声がしない。
まだ逝かないでと思う。

★2009年5月28日追記:この頃の苦悩は知子夫婦のことであった。
posted by 優子 at 17:56| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2007年08月24日

チャッピーの逃走とアトムの死

毎朝、夫を見送る時はチャッピーをリードにつないで、「今日も一日夫をお守りください」と祈りながら、車が見えなくなるまで立っている。そして、チャッピーを朝の散歩に連れて行く。暑い夏は6時半でも決して早すぎることはない。

ところが今朝は失敗した。
外につないでいるロープ(チャッピーの肩がこらないようにと軽い洗濯物干し用のを使い、長くしてやっている)から、散歩用のリードにつなぎかえる時、ウッカリして失敗してしまった。

一足先に門を出た夫は、いつものように門の柵を全開している。「アッ!」と思った瞬間、チャッピーも「アッ!」という感じで外に出てしまった。
「ダメ!」と言って聞く犬ではない。
「おいで!」と言っても来る犬ではない。
かといって、最初の2〜3年までのように遠くまで行かないで、家が見える範囲内でウロウロしている。これまでの8年間の経験上から追いかけても徒労に終わるだけだ。


幼児を子守りするつもりで付き合っていたが限度がある。
「そんなに外がいいなら外におればいい!」
「これだけ世話しているのに情けない、裏切り者!」
と、堪忍袋の緒が切れそうになった。

お隣りの娘さんがソーセージを持って来て下さったので、それで誘ったが失敗。
犬の頭脳と機敏な運動神経に負けた。
「あっ、真智ちゃんや!」と言うとチャッピーは真智子の姿を捜した。
「あっ、知ちゃんも来た!、パパや!」という言葉に反応したので、もう一度気合いを入れて頑張ったが失敗。

最後には相手も疲れて頭脳の冴えが鈍ってきた。
残っていたソーセージを小さくちぎって、手前から奥の方へ放り投げてパーキングの奥へ追い込んだ。「今だ!」と、一気に柵を閉めてついに捕まえた。
頭を下げながらお座りするチャッピーは、怒られることを知っていた。

逃走して2時間余り、捕獲したのは8時半を過ぎていた。

「チャッピーは、自分が家の中で一番上だと思っているから飼い主の言うことを聞かないのよ。」と友に言われて、なるほどと思った。
チャッピーが馬鹿だからでもないし、犬が悪いのでもない。犬に責任はないのだ。ちゃんとしつけてやらなかった人間がいけないのだ。呼んでも来ない犬にした飼い主が笑われることなのだ。何事も同じか・・。


7時前、お隣りさんご夫妻は小型犬マルチーズのアトムを連れて獣医さんに連れて行かれた。昨日は何も食べなくなって、今朝はグッタリしたままで水を口に入れてやると血が出てきたという。
一昨夜から翌朝までの長く激しい雷雨が悪かったのだ。
チャッピーは玄関内に入れてやっていてよかったが、犬は雷や花火の音を怖がる。生まれつき気管支と心臓が悪いアトムには命とりになったようだ。


ゲージに横たわっているアトムの鼻はぬれていたが、目は開いたままだった。あとでお聞きしたところ、この頃に死んだらしい。死因は肺破裂、7歳だった。

チャッピーの逃走も、アトムのことを思えば困らされても嬉しい悲鳴だと思って付き合い、チャッピーが死んでから悔いの残る怒り方をしないようにと律していたが、捕まえた時には堪忍袋の緒が切れてしまった。
叩くよりもましだろうと思ってホースで水をかけてしまい、また一つ悔いを残してしまった。

夫に今捕獲したという電話をしたあと、どうせ濡れているのならばと、ついでにシャンプーした。お湯ではなく水で。
「暑いからすぐに乾くがね」と義母が言ってくれたところで気持ちは楽にはならなかった。私は自分の罪意識を和らげるためにシャンプーしたことを知っているから。

posted by 優子 at 17:53| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2007年08月23日

昨夏に続いて2度目のワシントン行き

8月15日付け真智子のメールより

日本は暑いのねー。
ミネソタの夏も90F度(32.2C度)越えの日が一昨日で24回といった暑い年です。家には冷房が無いからお弁当を持って毎日大学で勉強してました。みんなと教えあったりできて、わりと効率も良い感じです。・・・来週21日はミクロの試験。明日からワシントンに行くということで、かなりラストスパートしてました。・・・

6日には東大の後輩のT君がミネソタに到着して、色々アドバイスしてあげたりしてます。マチたちの家も見せてあげて、「かっこいいですねー」とか言って貰って嬉しがってます。

最近ママは元気がないみたいね。結構長い間元気が無いみたいやし、心配してます。
まちは、結構元気にやってます。喧嘩もたまにするけど、仲良く協力してやってます。気持ちなどを更に分かち合えるようになっている感じです。

明日朝8時過ぎに出発します。T君もIMF奨学金をもらえたので一緒に行きます。
行ってきます。
                       真智子
8月20日付け真智子のメールより

ママへ

昨日無事ミネソタに帰ってきました。
ワシントンでは合宿のような環境で良く勉強でき、充実した時間を過ごしてきました。
昨日はミネアポリスの天候が悪くて、着陸が1時間程伸びましたが、無事着陸できて、その後の家までの道のりもスムーズでした。10時前に帰宅したと思います。

家に着いたらメアリー達が工事をしてて、仰天したけど、その後約1時間で片付けてくれてホッとしました(^^;)。環境は良くなったし、結果的には良かったです。 ・・・

ワシントン出発の日から急にミネソタの気温が下がって、去年のことを色々思い出してるぐらいです。また冬に向かっている感じです。現在も16度ぐらいで、雨で肌寒いです。 それではまたね。
                    真智子

19日にワシントンから帰って来て、翌日21日はミクロの試験があるのにメールを書いてくれた真智子。優しさを感じた。28日にも試験があるらしい。
(真智は常に挑戦者でえらいなぁ。8月半ばから急激に気温が下がって早くも冬に向かうなんて・・、またマイナス30度の世界に向っていくんだ・・)

次女夫婦がアメリカに移って1年過ぎた。
昨夏は到着後まもなくのワシントン行きだったのを思い出し、ブログのバックナンバーを開いて懐かしかったが、肝心のワシントン行きの理由を書いていない。

次女は難関を突破してIMFから奨学金を頂いて留学している。この奨学生試験に再度挑戦した婿も合格したというわけで、今夏は次女が彼のお伴をして認証式やガイダンスのためにワシントン入りした。

8月1日に起きたミネソタの橋崩落事故について、その後の経過を尋ねたところ、8月9日付けの婿からのメールによれば、「現在、亡くなった方が5名で、行方不明の方が8名とのことです。今も復旧作業が続いております。」とのことだった。

思いもかけないことが人生には起こる。常に世界中で不慮の出来事に巻き込まれた人がたくさんいるが、我々は何をもって語り、何をもって慰めを与えることができるだろうか。

いつも脳裏にある谷口諭師のメッセージが聞こえてくる。

「神も仏もあるものか!」という気持ちになるが、「神に棄てられた」と絶望の死を遂げてもそれでいいんだ。そう簡単には越えられない苦闘の中に、自分の悲惨な状態の中にあっても神の言葉には変わりがない。
自分は負けても大丈夫なんだ。サタンの世界、死の世界から引き上げておいて下さっているのだから。

我々が苦しみの中にある時、その時こそ、尚、神は憐れみの心で我々を見て下さっている。この一点にこそ救いがある。神は決して私を棄てないということを忘れないことだ。

ところがまた、現実はこれを簡単に受け取れないから我々は思い煩うのである。
「信仰により義とされ」、「神は私を贖って下さった」という一句を受け取るために、人はどれだけ苦しむか!!
と。

あのキリストの香りを放っておられた方でもそうだったのか・・。高い山には広い裾野があるんだ・・・と、想起させられた思いである。
被害に遭われた方々、ご遺族の方々を想って書き出したが、いつしか葛藤中の自分自身に語っていた。

正直のところ、「それでもクリスチャンなの?」と声が聞こえてきそうなほどに、今も強いペシミスティックな感情が私を覆っている。
そして、このこともまた「信仰により義とされ」、「神は私を贖って下さった」ということがわからなくなっているからであり、素直に受け取れないがゆえに自己嫌悪から解放されないでいる。

おかしな「ミネソタ便り」になってしまい、ブログとしてもユニークだなと思う。
「メメントドミニ」は、私が成熟していく実況中継でもある。言うまでもなく、それは死に向かっての成熟である。
posted by 優子 at 08:06| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2007年08月22日

日本よ、何処へ ―『私と昭和』より―

15日の終戦記念日を機に、戦争や平和について考えさせられた1週間だった。最後に『私と昭和』から、私の一文を転載して締めくくりとしたい。

「自分の生まれ育った世代のことを回顧することは、また意味のあることでしょう。戦争という悲劇を経験しているだけに、書きたいことはいくらでもあると思いますが、それを短く書いておくことは、人生の記念碑を残しておくようなものです。」

と、先の記事でご紹介した満江巌牧師が冊子巻頭の「『私と昭和』に序す」で書いておられる。
ところが、戦後生まれの私は昭和という時代を意識したこともなく、このテーマで書けと言われて困った。しかしまた、それゆえに有意義な機会にもなった。

私にとっては平和な昭和であり、廃墟から立ち上がって国を復興して下さった先人たちの恩恵を受けて、ぬくぬくと何の問題意識も持たずに生きていたから、祈りの中で長い間思い巡らし、ようやくペンを執ったことを覚えている。

子育て真っ最中だった私は親としての生き方に目が開かれていたので、親のあり方と公・私立を含む全教育者たちの価値観が子に影響すること、しいては社会や国の将来に関わることを書くことにした。

これを書いたのは1989年(翌年に出版)のこと、私は38歳、長女12歳、次女は9歳であり、自分史的には冬の時代に入る直前の頃であった。
          日本よ、何処へ

昭和26年生まれの私は、過去の大日本帝国の悪事や朝鮮半島支配など激動期の昭和を知らない。昭和の繁栄期に育ち、子育ての大役を与えられている私が、日々想いを熱くするのは人々への伝道である。

今や学校選びはブランド志向と化し、我が子を有名私立校に入学させるために人々は世に振り回され、盲目的に突進している。
その渦中に翻弄される寸前、神より絶対的価値観を与えられた私は、決して人々に悩まされることなく親子共々、最高の人生を歩む特権を与えられた。
親の教育観は、即ち親の価値観であり、問われるべきは親の価値観である。

同じ時に、世界の4分の3の人々が貧困、病気、戦争で苦しんでいる。私たちがそれを知りながら彼らの痛みを感じようとしないならば、私たちは滅びの道を行くであろう。
私は、私たちは、何処へ行くというのか。
日本よ、何処へ行くのか。

以来18年経ち、私は日本の行く末に一層の不安を感じている。日米同盟、集団的自衛権、個別的自衛権、国際貢献、憲法改憲か護憲か・・・考え方が違う人も共に平和を希求していることには違いない。

62年前に軍国主義と決別した日本が、今では世界第5位の軍事力を有する国になっているとは驚きを隠せない。
その間の科学技術の進歩には目を見張るものがあり、第二次世界大戦を中世の戦争と錯覚させるほどの事態になっている。弾道ミサイルがあって、それを迎撃するミサイルがあり、細菌テロ、核散の恐怖と、まるで奇想天外な作り話の世界が現実世界の姿になってしまった。
「こうなれば早く年を取って死んだ者勝ち」と言いたいくらいに恐怖を感じる。

確かに武力で自主防衛しなければという思いもある。
しかし、「軍隊がある限り平和は守れない!」と訴える沖縄の人々、苦しみぬいている人々の声こそが正しいのではあるまいか。

日本は特別法案を作って自衛隊を戦地に送っているが、そもそも憲法改憲へと強力に圧力をかけてくる根源はアメリカなのだ。
敗戦国日本にアメリカが押し付けた憲法は皮肉にも崇高なものだった。その日本国憲法がアメリカにとって不都合になり、これまた皮肉にもアメリカは自分で自分の首を絞めるような格好になっている。


クリスチャンの間でも改憲派と護憲派に分かれるが、日本は戦争放棄を謳っている日本国憲法の原点に立ち続けることが神のみこころであると私は確信している。

イエス・キリストは言われた。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

「剣をもとにおさめなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」 
と。

「軍隊がある限り平和は守れない」と訴える声は、イエスの教えと完全に一致する。
posted by 優子 at 10:04| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月21日

『わたしは貝になりたい』も戦争が生んだ実話だった

せめて生まれ代わることが出来るのなら・・・
いいえ、お父さんは生れ代わっても、もう人間になんかなりたくありません。
人間なんて厭だ。牛か馬の方がいい。
・・・いや牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。

どうしても生まれ代わらなければならないのなら・・・いっそ深い海の底の貝にでも・・・
そうだ、貝がいい
貝だったら、深い海の底の岩にへばりついているから、何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
房江や、健一のことを心配することもない。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい

50歳以上の方はご存知の方も多いであろう。近日中にもリメイクされて再び放映されるらしい。
私はストーリーさえ覚えていなかったが、幼い日の記憶には、主人公を演じるフランキー堺が暗い牢屋の中で、「私は貝になりたい。生まれ変わることができるなら、私は貝になりたい。」と言っていたセリフだけが強烈な印象として残っている。

インターネットは即座に応えてくれる魔法の箱だ。瞬時にして私の知りたいことを教えてくれた。
このドラマは1958年に放映されたもので、「テレビ草創期の時代に放送され、視聴者の涙を誘ったドラマとして、日本のテレビの歴史に語り継がれている」という。

あらすじは、第二次世界大戦中、高知県で理髪店を営む清水豊松(フランキー堺)が突然、軍隊に召集されるところから物語は始まる。
豊松は気は弱いが平凡な人柄。
新兵の訓練で上官に命令されてアメリカ兵捕虜を銃剣で殺害しようとするが、気後れして怪我を負わせただけにとどまった。

ところが終戦後、理髪店に戻っていつも通りに仕事をこなしていた豊松が、捕虜虐待の罪で戦犯として特殊警察に逮捕される。

極東国際軍事裁判(横浜裁判)で被告席に立った豊松は、『日本の軍隊では上官の命令に逆らえば命はないんだ』と主張するが、『拒否しなかった事は殺す意思があったという証拠だ』というアメリカ流の論理に跳ね返され、BC級戦犯として死刑にされるという悲劇を描いた作品」
である。

冒頭に掲げたのは、死刑執行の宣告を受けた豊松が妻と子供に宛てた遺書である。書き終えた後、処刑台に上がって処刑されてドラマは終わるらしい。

1958年、私は7歳だった。
テレビの前に両親と兄がいる光景と共に、フランキー堺の悲しみに沈んだ顔と言葉、そして、しみじみと感慨深げだった母の表情が思い出される。
これもまた戦争に翻弄された人物のドラマであったとは、どうしようもないほど悲しい。戦争の犠牲者、なんという不条理な死か!!

今月15日の毎日新聞に、東条英機が東京・大森の収容所で元陸軍参謀本部大佐に語った言葉を見つけた。

「治療の間つき添ってくれたアメリカのMP(憲兵)は立派だった。社会の動きにもそれなりの見識をもっていた。教育程度も高いだろうが、国民に知らせ、これを掌握すれば力となる。アメリカのデモクラシーはこの点にあったのだ。

(日米開戦前に)日米両国は虚心坦懐に・・・直接交渉して、和平の途を勇敢に講じてみるべきではなかったか。


と述懐している。
これが、太平洋戦争開戦当時首相だった東条英機の言葉である。

敗戦後、MPが東条の身柄を拘束するために自宅へやって来た時のこと、2階の窓からニヤリと薄笑いさえしてMPを見ていた東条が、直ぐに部屋に引っ込みピストル自殺をはかった。幸いにしてMPたちの手早い処置により一命をとりとめることができたが、「治療の間」とはそのことを指している。

「指導者としてあまりに素朴な後知恵による自省、・・・こんなたわいない認識の変化のはざまで、内外の途方もない数の人命が失われたのだ」とコラム記者は憤り、ジャーナリストとして自省し、ジャーナリズムのあり方を問うている。

私は思う。
一個の人生においても、国と国の間における交渉においても、最も大切なことは「あまりに素朴」「たわいない認識」であると確信している。


本当に問題を解決したいならば、お互いに心を開いて話し合うことだ。話し合いのテーブルにさえつこうとしない人もいるが、それでは生きていることにはならない。
そのような人たちはともかく、誠実に生きたいと願っている人々にとっては、心を開くことができるかどうかにかかっている。

お互いに心を開いて、お互いに相手の立場を考えながら話し合うことだ。それでさえ同意できないこともあるだろう。しかし、そのこともまた最重要ポイントなのだ。

即ち、意見が一致しないということを同意すること。
一致しない時には友好的に話を打ち切るのだ。見解の相違をお互いに認めることだ。それは人間として崇高な姿である。


”agree to disagree ”

これこそが真のデモクラシーの意味なのだから!

東条英機が最後に辿り着いた認識が為政者たちの心に届くことを切に祈る。
posted by 優子 at 11:24| 随想 | 更新情報をチェックする

2007年08月20日

『私と昭和』より

昨日の記事に続いて『私と昭和』から、クリスチャン歴史家でもある満江巌牧師の一文をお読みいただきたい。日本クリスチャンペンクラブの前理事長であり、東大で歴史学を修められて教壇にも立っておられたかたである。
この文章を読むと明日への希望と力が体内に充満するのを覚える。書いた文章は地上を去られてからも我々に語り続けるのである。

          歴史のひとこまとして

長い日本の歴史にとって、僅か60年余の昭和時代は瞬間のようなものである。それをいかに意味づけるかは、もっと後にならないとわからないのかもしれない。

しかし、その中に生きつづけた者として、またクリスチャンとして神の愛に生かされた自分にとっては、鮮やかな印象の残る歴史の1頁である。

よく戦争責任のことが問われるが、歴史の大きな歯車の中で生かされた個人にとっては、その一点にのみ焦点をあてて考え始めると、わからなくなることがある。それは責任を逃れる意味ではない。

日本人は20年間戦争に全力を注ぎ、40年間その処理に苦労してきた。そして、それが今も続いている。一度滅亡しかけたこの国がどうして今も存続して、世界史の舞台に活躍しているのだろうか。

それは政治家や実業家の力によるのでなく、この国の存続を許し給う創造の神の御旨によるのだというのが、クリスチャン歴史家の信念である。昭和の時代が与えられたのも、神の摂理であるというのが、私の歴史観である。

我が母国、愛する日本を神が常に導いて下さっていることを信じる心が与えられ、祈りが出てくる。
2007年の証し文章のテーマは、「愛すること 赦すこと ―平和を求めて―」である。「このテーマに沿って、それぞれが置かれている信仰生活のただ中で経験したキリストの素晴しさを」書こうと、もう随分前に原稿募集が送られてきている。

しかしながら今の私は、生涯記憶に残るような大きな挫折の中にあり、とても書けないと思っている。しかも、相変わらず人を愛し赦すことで悩んでいるのだからどうしようもない。
今再び、原稿募集案内に載せられている久保田暁一先生(理事であり著名な文学者)のアドバイスを読んで祈り心へと導かれたい。
「この友がら黙さば石叫ぶべし」とイエスは、弟子たちの口を封じようとした者たちに言われました。

私たちがその中に生きる日本社会と世界の状況は、たとえばイラク戦争に象徴的に見られるように、人間同士の愛による連帯と赦しの倫理を喪失し、平和と人間の尊厳が侵される危機的な状況に陥っています。憎しみと憎悪による殺傷が絶えない状況です。

私たちが住む日本社会にも、寒々とした事変が続発しています。
こうした状況に対し、キリスト者として私たちは、いかに考え、身を律していけばよいのでしょうか。

身近な生活と命に関わる問題として平和問題を考え、発言し、証ししていきましょう。希望の火を点していきましょう。

誰もが人間関係に悩んでいるが、畢竟、全ての人間関係は赦し合いである。
ならば、挫折にある今こそ人間の力の限界を思い知り、神の助けなしにはどうにもならないことが身に沁みているはずだ。

弱い自分だからこそ他者の弱さもより深く理解できるのではないか。私は未だ人を感動せしめるような証しは書けない、いつまでたっても神の恵みがわからぬ者であるが、この姿もまた人間の偽らざる姿でもある。

どの証しも全て、その人でしか書けないもの、その人でしか生きることができない人生を賜っているのだから、私もまた、私でしか書けないもの、私だからこそ書けるものがあるはずだ。
私はこの記事を書きながらそう思えるまでになった。


毎年8月から11月末まで、また来春4月までは複数の原稿締め切りに追われる本業集中期間に入る。今年も今から熱心にやってみようと思う。
posted by 優子 at 10:51| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月19日

公正公平なる真の裁きは神にあり

1946年5月3日に開廷し、1948年11月12日に閉廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)は、ニュルンベルグ裁判と違って多くの問題点があり今も議論が続いている。

11人の判事のうち、ただ一人「日本無罪論」を唱えて判決に反対意見を提出したインドのヒンドゥー教法哲学者ラダ・ビノード・パール判事についてはあまりに有名である。フリー百科事典・ウィキペディアから拝借引用したい。

パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告全員の無罪を主張した。
“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものである。・・・

またパールは、判決書の中で残虐行為について敗戦国の日本やドイツと戦勝国のアメリカを分け隔てなく批判し、南京事件については裁判資料をもとに宣伝と誇張をできる限り斟酌しても残虐行為の存在を示す証拠は圧倒的であるとした。
また原爆投下については非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてのナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。


パールの言わんとするところは、日本の残虐行為は罪であり、決して許されるものではない。しかしながら、

「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」あるいは「連合国を裁かないなら日本も裁かれるべきでない」というものであり裁判の公平性を訴えるものである。

フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後、「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘している。

                   (以上)

パール判事はその意味において「日本無罪論」を主張したのである。
人が人を裁くことの難しさは、国と国も同じである。
いや、そもそも東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いている色彩が濃く、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の感を禁じえない。なぜならば、アメリカの原爆投下が世界に問われないのはおかしいし、それ一つ挙げるだけでも論拠は明白であろう。

あるいはこの考え方もまた、私が日本人であるがゆえに客観的に見ることができていないのだろうか!
いや、断じてそうではあるまい。
原爆を使ったことは彼ら連合国がナチや大日本帝国に問うた平和と人道に対する罪であり、パール判事が訴えていた「事後法」にも当たらない究極の悪をなしたのである。

我々は物事を客観的に見ることのできない弱さを持っており、個人であれ国家であれ同じことが言える。こういう人間の実相については常々考えさせられ関心のあるところなので別の項にゆずることにして、最後にクリスチャンペンクラブが1990年に発行した『私と昭和』から、忘れられぬ一文をご紹介したい。敬愛する横山麗子先生のお父上・横山一郎氏のお証しである。

昨夜のBS1では『マッカーサーが見た日本』の実録番組があった。その中にも出てきた有名な歴史的シーン、米海軍戦艦ミズーリー号艦上で行われた太平洋戦争降伏文書調印式を、私は万感の思いをもって見ていた。昭和20年9月2日のことであった。

そして、麗子先生のお顔からお父上のお顔を想像しながら映像の中を捜した。そう、その中に横山一郎氏がおられるのだ。既に神のみもとに帰還された横山一郎氏のお証しをご紹介してこの項を終わりたい。

         激動の昭和史とともに               
                   
                   横山 一郎

1990年3月1日に私は90歳になった。
税務申告のとき税理士は「原稿料」の欄に目をとめ、「90歳でまだ原稿を書くんですか。」と驚いていた。明治・大正・昭和・平成と生き、まだ元気で原稿が書けることは、まことに感謝である。

一生の大半は昭和であった。激動の昭和史に残る出来事に、海軍軍人として何回か参加した。開戦時は大使館付海軍武官としてワシントンにおり、戦争回避のための日米交渉に当たった。しかし、力及ばず戦争に突入してしまったこと、お詫びのしようもない。

終戦直後はマニラでの進駐打ち合わせの交渉、そしてミズーリ艦上降伏調印式に列し、その後5年間、日本海軍の後始末に従事した。

昭和30年、55歳で受洗。海軍将官はキリストの兵卒に生まれ変わった。
激動の昭和は終わった。私のこの世の旅路も終わりに近づいたが、生きる限り、ペンをもって主のみ栄えを証ししたいと祈っている。

                    (元海軍将校)
posted by 優子 at 20:15| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月18日

Nurenberg ニュルンベルグ

ナチス・ドイツの犯した信じられない大虐殺。
かつて類を見ない残虐な罪を裁くために、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の概念を設けて、世界で初めて戦争犯罪が裁かれた。それがニュルンベルグ裁判である。ドイツが降伏して半年後の1945年11月20日に始まり、完結するまでに10ヶ月を要した。

英・米・ソ・仏の戦勝4大国の検事たち、750名のアメリカの検察団。12人のスタッフで4ヶ国語に通訳された。一部始終を映像に記録するよう要請されたのは、アメリカ海軍大佐だったジョン・フォードである。

この時に”genocide "という言葉が造語された。「ジェノサイド、集団殺害」である。
被告一人ひとりの量刑をいかにするかは難しく、少なくとも20年はかかる。そこで共同謀議の罪で一度にまとめて告発することが求められた。

ヒトラーの『我が闘争』を読んでいた21歳の時、ゴルフ仲間だったJALの元スチュワーデスの知人に、「かわいい顔して怖いものを読んでるんやね」と言われて、妙にガッカリした気持ちを今も忘れられないでいる。

確かに怖いもの見たさもあった。
しかし、ヒトラーは何故ここまで残虐なことができたのか、何故ここまで異常な考え方を持つに至ったのか直視して考えてみたいと思っていたのだ。その思いは人生の半分以上を経験してきた今のほうが、以前よりもはるかに強い関心事となっている。


「戦争では正義ではなく、最強の者こそが正しいのである」と叫んでいたヒトラー。今の為政者たちの中にも同じ臭いを嗅いでいる。
数奇な運命を背負った(「背負う」という受け止め方が正しいのかどうかわからないが)アドルフ・ヒトラーは、母親が20代、父は3度目の結婚の52歳の時の子である。

母親クララ・ペルツは、物静かで誠実な働き者の立派な婦人だった。父親アロイスは厳格で気難しく、頑固で気短か、心底からの暴君であった。惨めで孤独な心を酒に逃げた酒びたりの人生だった。そんな父親のもとで育ったアドルフは、少年期の頃から父親との対立は深刻だった。

「アドルフ・ヒトラーの激しい憎悪は、疑いもなく一部この父親に対する敵意に端を発している。
また、父親の手荒な仕打ちは、アドルフの心に強者は常に正しいという観念を植え付けた。
何百万という罪のない人々が、この意志薄弱な少年の不幸のせいで苦しみ、そして死ぬことなる」。


画家になりたかったアドルフに父親が反対していなかったら、少なくともアウシュビッツのジェノサイドは免れたのではないか。関係書を読みあさって考えてみたいことがいっぱいある。

ニュルンベルグ裁判の映像に映っている殆どの人々は既に亡くなっていない。どの時代も、その時代の良心と英知が結集して最善をなしていくのか・・・と、何度も思いながら見ていた。

ちなみに、ジェノサイド(民族絶滅)は、ギリシャ語”genos "(民族)と、ラテン語の”cida "(殺す、根絶やしにする)を結びつけた言葉である。
posted by 優子 at 09:50| 随想 | 更新情報をチェックする

2007年08月17日

暑さで思考停止状態

昨日は74年ぶりに国内最高気温を更新して、岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市で40.9度を記録し、今日も40度突破という猛暑が続いている。実際には町の中で44度だった所もあり、今日も熱中症で9人が亡くなり、今月だけで56人の死者が出ている。

夜は大阪よりも3〜4度低い当地では、寝る時にクーラーをつけることは殆どない。つい最近までは、明け方3時を過ぎると寒いので全開している窓を3分の1くらいに、あるいは全部閉めていたほどだ。膝上のショートパンツで寝ていると、年のせいで今夏は膝が痛く感じるようになった。

それくらい夜は涼しい当地なのに、一昨日15日の夜は風もなく扇風機のタイマーを入れて眠ったが、タイマーが切れると眼が覚めた寝苦しい夜だった。

よく眠れていなかったこともあるのか、昨日は暑さで体調を崩したのかと思ったほどだった。食欲はなくなり、起きていられないほどしんどくなって一日中寝込んでいた。洗濯物を取り入れたくても外に出る体力も気力もなくて困ってしまった。私でさえこうならば義母は大丈夫かと心配したほどだったが、元気な姿を見てホッとし励まされもした。

昨日は盆明けで夫の帰宅は6時40分と1時間ほども早かった。帰宅した早々に義母と夫と3人で送り火をした。言葉の足りない義母が「ありがとう」と言ってくれたのが嬉しかった。
その後、夕食の後片付けもしないでNHKスペシャル、「京都、五山送り火」を見ていた。人はみな永遠を想い、亡き人々に心を馳せるのだと深い感動を覚えた。


戦争、終戦、平和、ホロコースト、ニュルンベルグ裁判、東京裁判、パール判事のこと・・・など、深く考えてみたい季節である。
今夜は10時15分からBS1で実録の「ニュルンベルグ裁判」がある。今から大急ぎでお風呂に入って見ようと思う。
あと、30分だ。
posted by 優子 at 21:43| 随想 | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

盆法要 ―真に先祖を慰めるとは―

同じ仏教でも実家の浄土真宗と違って、盆法要についても禅宗は目新しいことが多い。
「迎え火」と「送り火」は浄土真宗ではやらないし、「精霊馬(しょうりょううま)」も供えないし、キュウリとナスビに割り箸を刺したものは見たことはあっても、その呼び名もそれらに込めた意味も知らなかった。

キュウリは馬を表し、死者(死霊)がお盆の時に少しでも早く帰ってこられるようにキュウリに乗り、帰りは牛に見立てたナスに乗ってゆっくり帰って行くことを表現しているのだそうだ。昨日、義妹に教えてもらった時、亡き人への想いに熱いものを感じた。

送り火とは、「家に迎えた精霊を今度は送り火をたいてお墓に帰っていただくために、迎え火をたいた同じ場所でオガラをつみ重ねて送り火をたく」のだそうだが、盆について私の知るところでは次のとおりだ。

「盂蘭盆会(うらぼんえ)とは梵語のウランバナを音読したもので、『倒懸(とうけん)』と訳され、倒(さか)さまに懸けられて苦しんでいる亡者、すなわち地獄に落ちて苦しんでいる霊を救い、慰めること」が本意だという。

そして、先祖たちが「せっかく懐かしい我が家に帰ったのに、わずか3、4日で仏壇から引き出されて再び送り火をたかれて倒懸(地獄)の世界へ押し返される」。
これが盆行事の本当の意味だというから、なんと残酷で辛いことであろう。

また、釈迦の第一の弟子だった目連は、亡き母が倒懸苦(即ち盂蘭盆会)に苦しんでいることを知り、母親を救い出す道は「7月15日に仏と僧に供養すれば、死んだ7世の父母を救うことができる」と釈迦から教えられて、それを実践して母親を救い出したと言われている。
盆については、目連の「子による父母救済物語」のほかにも複数説があり、「一義的に決められないのが実情である」というのが仏教民族学の見解である。

聖書によれば、人は死んでからではどうすることもできないと書いている。
死後については、イエスが語られたところの心ない金持ちと貧しいラザロの話をご紹介したい。聖書のルカによる福音書16章14〜31節で、貧しい人を顧みず贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、貧しい一生を送ったラザロのことを語っておられる。

この2人が死ぬと、金持ちは黄泉に下って苦しんでいたが、そこから渡ることのできない大きな淵の向こうにラザロが安らかにいた。金持ちは助けを求めたがラザロのほうへは行けないことを知り、
「わたしに5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです。」と、遺族が間違った生き方から離れて永遠のいのちを得るように懇願した。

このところから、人が死んだ時、全ての人に神の実在が明瞭にされると私は固く信じている。そして、死後の運命の変更は不可能であるから、我々は生ある今をいかに生きるのか、これこそが最も考えなくてはならぬことだと思っている。

この話から貧富の問題も考えるが、冨を善行の報いと見ることも悪行の結果と見ることも正しくない。問題は、富者の奢りと貧者を顧みないことであった。

この箇所について兄から譲り受けた古い解説書(1950年初版)には、
「富者が特に不善をしたのでもなく、ラザロが特に善事を行ったためでもないのに、死後の運命が大きく違っている。運命に従順に疑わず、つぶやかずに一生を送る者を神は特別に愛したもう。とある。


ロマ書14章10節に、「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである」とあるとおり、死ねば全ての人がいのちを下さった神の前に立たされて真理を知らされるのである。

盆明けの今日が「送り火」とのこと、娘(義妹)が帰ってしまって義母一人の送り火は寂しいだろう。
私の信じるところではないから手を合わすことはしないが、今回で2度目、私は年老いた義母の気持ちにより添ってやりたいと思っている。いつか時がきた時に、まことの神がおられることを伝えんがため、ここに移り住んで8回目の夏である。


posted by 優子 at 11:28| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2007年08月15日

聖書と平和

1992年7月に日本クリスチャンペンクラブから発行された『聖書と平和』がある。400字という限られた紙幅に私の信条を綴ったが、以来15年を経て世界はますます混迷し緊迫した危機的状況を呈している。
62回目の終戦記念日にあたり、ここに転載して今の想いを加筆しておきたい。


        破れを繕う者

湾岸戦争開戦前夜、ビリー・グラハムは「正義のために戦う時がきた」と説き、英国教界の殆どの人が「小さな悪」として戦争を肯定した。

キリストの福音は、いかなる場合も非暴力の上に成り立つのであるにもかかわらず、戦争という重大な事にも意見が分かれ、キリストにある一致はなかった。

キリスト者は神の和解の使者ではなかったか。
破れを大きくするのは世の人で、キリスト者は「破れを繕う者」ではなかったか。

現在、世界には広島に投下された500倍の放射能を有し、世界の人々が危険を共有している。もはや一国の問題だけではなく、個人と共に全人類が新しく歩み出さなければならない時にあって、一人ひとりの生き方は今まで以上に重大である。

人間には平和を創り出す力はない。故に神に祈りつつ、破れを繕う者としてキリスト者の社会的責任を果たしていきたいと思う。        


そもそも正義を振りかざしての戦争なんてあり得ない。
にもかかわらず、戦争する者は全て正義の御旗をもってするのである。あの時、湾岸戦争を支持した彼らはピンポイント爆撃を「小さな悪」と言っていたのだろうかと揶揄したい気持ちだ。

ビリー・グラハムは20世紀に活躍したアメリカの最も著名な大衆伝道者であり、大統領就任式の祈祷を最も多く担当した指導者である。

掲載文に書いたとおり、彼は大統領の背後で戦争容認の導きをした。私は信じられず激しい憤りを感じただけではなく、彼を師事するキリスト教界にも憤りを感じた。今はそのあり方をとても危惧している。

あの時、同志社大学神学部教授の松山氏だったか松永氏だったか、新聞紙上で開戦反対の立場で書かれた論説を読んで、私の考えは間違いでなかったのだと嬉しく思ったものだ。

そして、私はこの時から信仰生涯においてもまた、上に立てられた人の教えであるからと無批判に盲従してはならぬと心に刻んだのである。

現在は4男のフランクリン(54歳)が父のあとを継承している。折りしも昨日、ビリーより一歳下のルツ夫人が地上生涯を終えられた。

最後に、クリスチャンの方々に現グラハム氏の働きについて覚えていただきたく、昨秋開催されたフランクリン・グラハム国際大会への「反対声明」を紹介して終わりたい。
    http://henoko.jp/info/20061031graham.html 

私たちはどんな戦争も絶対に容認してはならないし、どんなことがあっても戦争放棄しなければならない。世界中の戦争犠牲者をこれ以上悲しませてはならないのだ。
posted by 優子 at 12:13| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2007年08月14日

「成らぬ堪忍、するが堪忍」を生きた母

「ならぬ堪忍、するが堪忍」という言葉は、私たちより一世代上の人たちには耳慣れた教えであったようだ。大正14年生まれの父と昭和元年生まれ母、特に母にとっては母の生涯を貫く言葉であった。

言葉の出所を調べてみると有名な故事に由来していた。
その「漢の統一における功労者であった大将軍韓信についての逸話」を読んでみたい。

韓信は、若いころ家が貧しくて食べるものにも事欠き、釣りをして空腹を凌いでいたことがありました。気の毒に思った老女が飯を恵んでくれたことさえありました。

あるとき、町の無頼の者が「お前は長剣を下げているが、出来るものなら、おれを斬ってみよ。できないならおれの股の下をくぐってみよ」と嘲ったのでした。韓信はしばらく相手をにらんでいましたが、やがて這いつくばって、その無頼の者の股の下をくぐったとのことです。「韓信の股くぐり」と和漢折衷の格言となっています。

公衆の面前で侮辱を受けて「市の人背信を笑いて怯となす」というような状態に忍の一字で耐えぬいたからこそ、将来の彼があったといえましょう。

また、韓信が耐えることができたのは、彼には他に大志があったからで、その希望をかなえるためには小事にかかわっていてはいけない、という自戒の念が強かったからだと思います。

どうしても我慢できないようなことを許すのを堪忍というのであって、普通に簡単に許せるようなときは堪忍とはいわないのです。自分が寛容であると考えている人は、許すということの心構えがほしいものです。

 
とある。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」は、子供の頃からよく聞かされていた母の教えであり、「股くぐり」の話も思い出した。母はまことに忍耐強い人だった。決して美談にしているのではなく、人を赦し堪忍できる人物だった。

その母が一度だけ苦悩を訴えたことがあった。
「私は保護司をしているのにこんなことで情けないが、私には(相談しようと思える)尊敬できる人がいない。だから、家裁へ行って私の気持を聞いてもらいたい」と、切々と語った。

私もまた悩み抜いていた人物のことである。
私と妹は即座に母に賛同したが、父と兄は固く反対した。事が大きくなると思ったのだろう。家裁へ行ったからとて外に知れるものではないが、きっと世間体も脳裏をかすめたのだろう。あの時、私でさえ今ほどの事の重大さに気づいてはいなかったが、父と兄にとっては論外の認識であっただろうと思う。

母の顔は苦渋に満ちていた。
私ではない、弱音を吐かぬ人物が「気持ちを聞いてほしい」と訴えたからには、言語では尽くせぬ積年の苦悩があったのだ。
しかし、母の気持ちは全く置き去りにされた。私たちが置き去りにしてしまったのだ。

両親と兄だけではなく私もまた、その人がどんなひどいことをしようとも母と父の願いどおりに、今に至るまで見事なほどに一度として争うことはなかった。
その2年後に母に難病告知という地獄が加わった。
あの時ならば、母は家裁であれどこであれ自由にどこにでも歩いて行けたのに!

しかし、あの母にして特に最近の私は似ても似つかぬ哀れな娘だ。確かに、母の苦難を共にしていた時は私にも自戒の念があった。
私が耐えてしっかりしなければ、苛酷ないのちを生きている母がかわいそうすぎる。母のために、母を介護している父のために、そして、母亡きあとは父のために、父亡きあとはわが子に生き方を示すために、両親を悲しませないために、私はイエス・キリストを求め抜いて生きてきた。


では、今の私には自戒の念がないのか?!
そうではない、どうしても対峙しなくてはならないことであるから黙していないで話すのだ。

聖書が教える「忍耐」と「韓信の股くぐり」を思い巡らせながら、亡き父と母に親のあり方を尋ねる日々である。

蝉よ鳴け!
もっともっと激しく鳴け!
蝉のいのちが果てるまでに、我が心に生きる歓喜が充満するのを願う。
分かり合えぬ人生の寂しさ深まる。これも人生の醍醐味なり。

posted by 優子 at 08:29| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2007年08月12日

I T 時代の今も引きずる家制度の問題

今朝は早朝6時半に家を出て、藤本の墓参に行った。
義母、義弟2人、義妹、3男の嫁、そして、私たち夫婦の計7名である。
8時前に帰宅した時には既に太陽の日差しが強くなっていた。夫には急いでチャッピーの散歩に出てもらい、私は家事をした。

長女は引き上げて自宅へ戻り、午後、婿だけが再び残りの荷物を取りに来ることになっていたが、私は急用のために11時半頃家を出て再び難波へ向かった。
(2013年6月21日追記:「急用」ではなく婿を避けたのだ。苦悩の日々が続いていた)

婿が帰ったあと、母屋では藤本の母と子供たち4人と3男の嫁が集まってあととり問題が重ねられていたという。
「婿さんは養子にはなってもらえないのか、孫が男の子なのに・・・」と、この1ヵ月間、義母の顔を見ればその話ばかりだったから私も複雑な思いで頭が痛い。

何事も大切なことを避けてはいけないのだ。そのことを声を大にして訴え続けている私は、結婚前に相手のご両親とこの問題を語るに至らなかったことが今さらながら残念であり、多事多難で頭が痛い。
この話は避けては通れないので、今からでも話し合いをせねばならないが、神が最善の道を開いてくださることを信じて祈り続けよう。祈る者とされたからには心安んじて進んで行くのみ、全てが神の責任においてことが成されていくのであるから。

かつて次女が生まれた時、「また女の子で申し訳ありません」と両親が藤本の両親に頭を下げていた。私は今になって苦々しく思い出した。旧家ならばいざ知らず、30年ほど前でさえ私には陳腐に響いてはいた。
しかし、私は妹と違って人権問題や男女差別、また、女性の生き方に問題意識を持つこともなかった。国会議員が、女性は子供を産む機械のように言ったのもついこの前のことではなかったか。

義弟たちの子供は共に息子2人であり、その妻たちは共に2人姉妹である。また一般的には、日本人は個人の信仰というよりも家の宗教として継承されているとは言え、それでさえ、信仰上のことで反対されるのはよく理解できる。

しかしながら、いつだったか孫を寝させながら義母と話していた時、あととりは男子直系が希望だと明言されて、強い不快感を感じた。私はようやく今になって、妹が若い頃から言っていたことに眼が開かれたと思っている。即ちそれは人間の尊厳の問題でもある。
  
こんなIT時代になっても、現実の日本社会はまだまだ前近代的な意識に支配され、未だ古い家族制度の問題に縛られているのである。
ここに信仰の問題が絡む。
私には既に明確な不動の結論が出ているが、夫の気持ちも大切にせねばならない。神の導きを祈り続けるしかなく、私たちの世代の問題を子に残してはいけないと思うことしきり、まさに私たち夫婦世代の問題なのだ。


これに関連して、去年のお盆の出来事を「1代目クリスチャンの闘い」に書き、ブログ上にも公開した。<2007年2月9日の記事、カテゴリ「掲載文(神・文学)」参照>

私が帰宅したのは5時半だった。家に入るとベッドも全て引き上げられて和室はガランとしていた。
「蝉の声か猫の声かわからへんなぁ」と笑って聞いていた孫の泣き声もなく寂しくなった。そのかわりに用事がいっぱい飛び込んできて、カレンダーは予定で埋まり賑やかに私の字が踊っている。
posted by 優子 at 21:15| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2007年08月11日

「優子、がんばれよ!」

今年も兄と私たち夫婦の3人だけの墓参となった。
大阪府豊中市、服部緑地にある寺の墓地に両親の遺骨が葬られている。
道路がすいてさえいれば、西名阪と阪神高速道路を乗り継いで1時間もあれば行くことができるが、今年は毎年1時間半以上もかかってヤキモキさせられる阪神高速には乗らないことにした。歳のせいで休日の6時起きも苦にならない。私たちは8時半に家を出た。

おかげで11時の待ち合わせ時間よりも30分も早く着いた。
夫には日陰で兄を待ちがてら休憩してもらって、私はひとりでお墓の掃除を始めた。

両親はこんな所にはいないとわかっていても、懐かしい父と母を身近に感じた。
「お父さん、お母さん、」という呼び名さえ懐かしかった。

「お父さん、お母さん、知子と真智子は結婚しました。
お父さん、お母さん、知子は母になりましたよ。
お父さん、お母さん、・・・早く会いたいです」

と、掃除しながら小さな声で話し続けた。
私は1時間でも2時間でもずっとそうしていたかったが、「遅なってごめんごめん、掃除してくれてありがとう」と明るい兄の声に顔を上げると、夫と兄が近くまで来ていた。


「このあたりに僕の名前が刻まれて、お母さんはその次でこのあたりやなあ」と、霊標を指差しながらいつも馬鹿なことを言って笑っていた父。父と母の順番が違ったけれど、あの時、そんな日が本当に来るなんて思っていなかった。

墓参のあとは、いつものように一緒にファミリーレストランで昼食を摂り、互いの消息を交わしながら良き時間を過ごした。
私は兄に弱音を吐いた。(2013年6月21日追記:弱音とは知子とのことだ)
兄は苦労の連続の人生なのに美しい眼をしている。血を分けた兄妹でも抱える悩みはそれぞれ違う。兄は忍耐強い両親にふさわしい息子だ。店を出ればパーキングでお別れだ。
兄は言った。
「優子、がんばれよ!」
「うん。私もお兄さんのことお祈りしてるからね。」と、パイプオルガン演奏の讃美歌が入ったテープを渡した。

その後、私たちは難波(なんば)に向かった。
高島屋に寄り、初孫誕生のお祝いを下さった夫の仕事関係の方に内祝いをお送りした。
そこで催されていた「日本の伝統展」で目にした「江戸風鈴」を買った。その名前も知らなかったが、ガラスに描かれた金魚の絵が幼い頃の原風景と重なり、あまりの懐かしさに引き寄せられたからだ。
今日は心休まる楽しい一日だった。

12年前の今日、1995年8月11日は母が最後の入院をした日である。その数日前の7日に別れる時、
「じゃあまた来るね。お盆休みは一緒に寝ようね。一緒に寝られるね。」と言うと、
「楽しみにしてる」と、かろうじて聞き取れた母の言葉だった。

喜んでくれた母は翌日からの盆休みを待たずに、金曜日の早朝緊急入院するとになり、この日から私は実家ではなく住友病院へ通うことになった。
以来、週2回、病室で母と夜を過ごす1年3ヶ月になった。
posted by 優子 at 23:48| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2007年08月10日

「正しさと怒り」再考

以前に書いた記事で少々気になっているものがある。
今年の1月31日の「正しさと怒り」だ。その冒頭の部分に問題を感じて訂正加筆したいと思う。

テレビで大相撲の八百長問題が取り沙汰されている。
嫌疑をかけられている当事者の一人に、「怒らないんですか?」とインタビュアーが質問した。その力士は、「やましいことをやっていないから怒らない」と応えたが、私は「objection !」の手を挙げたい。

果たしてそうだろうか。
身に覚えの無いことを言われ、誹謗中傷された時、人は怒らないだろうか。事実と違うから怒るのであって、反対に自分にやましいことがあると怒れないものだ。


冒頭のこの部分であるが、「異議あり」と唱えた下線部分にこそ今は疑問を感じている。
本論に入る前に確認しておきたいことは、「怒り」とは「正しいいかり」を意味し、「感情的におこる」ことを指してはいない。「いかり」も「おこる」も同じ漢字を使うので誤解のないようにと思う。

さて、この話題について今書いたとすれば、その力士に対して異論を述べなかったと思う。
潔白であり、身に覚えの無いことを言われ誹謗中傷された時、人はむきになっては怒らないものだ。
悔しくとも良心の呵責はないため、心は平安であり耐え忍ぶことができる。
1月31日の記事を書いた時も今までの半生を振り返りながら想いを綴ったのだが、今は以下のことのほうが強く感じる。


確かに世の中の不正や不正義には怒るべきだ。それに対して怒らないならば、それこそ寛容と忍耐をはき違えたクリスチャンの逃げである。
しかし、社会の不正に怒るなどの場合ではなく、日常生活に経験する怒りは、仮に怒る理由が妥当であっても、それを主張し続けることは愚かなことであり、エゴの奴隷にならぬように自制しなければならない。

問題は、そもそもその怒りが正しいものであり、心を尽くしても全く理解が得られない場合だ。
その後は全てを神に委ねればいいのだが、心を尽くしてもそうできなかった時は怒りが膨らんでいき、ついには自分の感情に支配されて見えなくなる。行き着くところはサスペンスドラマの世界と化すことは日々の報道で証明されている。
自分には関係ない、彼らは例外なのだからと思っているとしたら、それはとんでもないことであり軽薄な人と言わねばならない。

ひとたび怒りにコントロールされてしまった時には、人は自制心を失い暴言を吐き、その顔つきは醜く、その人の最も醜い部分があらわにされる。
その時には、本来の問題はそっちのけになり、怒った者の愚行だけが問題にされてしまい、ことの発端の問題は複雑になるばかりで解決はますます遠ざかってしまうであろう。心すべきことである。

本論からそれてしまったが、これが今日の本論のようだ。苦い思いを感じながら書いた。
折りしも今、相撲界では朝青龍のことが話題になっている。軽々にはコメントしないのが賢明だろう。

2013年6月21日追記:
この記事がなぜ「知子(ユキの成長)」なのかと思われるだろうが間違ってはいない。知子とその関係者のことであまりにも理不尽なことがたびたびあったからだ。

posted by 優子 at 22:31| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2007年08月09日

母と子の1ヵ月健診

婿が会社を休んでの1ヶ月健診に私の出番はなかった。
「それがいちばんいいよ」とは妹の弁。
私が心配していたのは娘の体だ。
ところが、あの異物が出てから体調が良くなり、今日は子宮内もきれいになっていてかき出すものもなく、今後は受診の必要なしとのこと。(お祈り下さっていた方々に心から感謝します)

そして、7月11日にちょっと小さめに生まれた幸悠(ゆきひさ)も、体重は2824グラムから3936グラムになり、身長も47センチから55センチになっていた。頭囲は37、4センチ。

子供の栄養状態も大変に良くて、母乳だけでここまで成長するのはすごいらしい。
妹が心配してくれていた黄疸だが、足の先まで出ていると心配があるらしいが、黄色いのは顔から胸の辺りまでなので母乳性黄疸といわれるもので心配無用とのことだ。

娘は、子供が昼の間あまり眠らないので心配し困っていることをお聞きしたところ、昼夜さかさまになるよりもよほどいいし、子供の個性と受け止めればよいとのこと。とにかく元気な赤ちゃんなので小児科医もびっくりされていたという。

お祈り下さっていた方々、メールを下さった方々に心から感謝します。
とにかく、これで一安心、一段落、一日がかりの結果待ちで長い一日だった。

私も2ヶ月の隠遁生活(?)を終えるにあたり、いよいよ社会復帰を前にして起動し始めている。
7月25日に商大の学術研究事務室の前室長さんにメールを打ち、昨日、電話やメールのやりとりで会合の日取りが決まった。


大阪商大のホール「蒼天」を無料で使わせてやるから何かしないかと、もう1年以上も前からお声をかけて頂いていたのだ。
本来は私の会長在任中にしたかったことだが心ならずも実現できなかった。こんなありがたいチャンスを活かさないのはもったいないので、読書会への感謝をこめて取り組みたいと思っている。
そこで11月の講師をお招きしての読書会を、何か大々的に読書活動をアピールできないものかと相談を投げかけておいたのだ。

すると、商大の方々も賛同して下さったので善は急げだ。
「東大阪市政だより」に催しの案内を掲載してもらいたいので、発行2ヶ月前の原稿締め切りまでに時間がない。今月末に集まりを持って頂くことになった。
新会長さんにも同席させてほしいことを申し上げたところ、では即刻決定会議にしようと快諾して下さった。

「人間は社会の中の人間である」だったか忘れてしまったが、学生時代に読んだヤスパース哲学を思い出すと共に、人々との交わりはとても大切なものだと改めて感じている。
サークルセンターの御用や、多少のストレスを感じる民生委員会でさえ楽しみなくらいだ。私は私の人生に集中しよう。

そして、改めて心に刻んでいることは、
祈りは神の子だけに与えられている特権です。わたしたちが霊的跳躍するため、神さまは祈りというプレゼントを下さったのですと聞いて、祈ることができる喜びを感じました。

祈らずに、自分の力で何とかしようともがいてもどうにもならないときがあります。
人間は自分の力で生きられない弱い者です。祈るとき神の霊が働き、助けが与えられます。祈る人生は神の力によって生きる人生です。

リンカーンは祈りの部屋を発電所と言ったそうです。祈りにより奴隷解放の力が与えられ、大統領としての使命を全うしたのです。

祈りは霊的発電所です。祈りには力があります。なぜ力があるかというと、イエスのみ名によって祈るからです。イエスさまはすべてのものを造られた神さまです。イエスさまは死んだ者を生き返らせる力を持っておられるお方です。
だから力があり、奇跡が起きるのですね。

祈ることによって祝福された人生を送ることができます。祈りは凧の糸のようです。祈りを離れると、糸の切れた凧のようになります。糸が切れると、一瞬高く上がりますが、すぐ墜落してしまいます。凧は糸につながっているゆえに高く上がるのです。

どんな小さなことでも祈って下さい。祈りの特権を用いて祈って下さい。皆さんがこのプレゼントを享受できますように。

祈りというプレゼントが与えられていることを深く感謝しました。これからもっと熱心に祈り、どんな小さなことでも祈っていきたいです
   
 
8日の『生かされて』に大いに励まされた。
今からまた新しい一歩を踏み出そう。1から出直しだ。
祈り始めると、神を求める者には神が全てのことに関わって下さっていることを再び信じられるようになった。祈られることの恵み。
もう大丈夫!

posted by 優子 at 21:47| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

父が召された日

「今日はお父さんの命日やね」と妹から電話があった。
「命日」という言葉は私の想いにはそぐわないので使わないが、2000年8月8日午後1時59分に父は地上生涯を終えた。7年の歳月は悲しみを遠ざけてくれた。

     親を失うことは 過去を失うこと
     子供を失うことは 未来を失うこと
     配偶者を失うことは 現在を失うこと
     友人を失うことは 自分の一部を失うこと


過去が聞けないというのは寂しいことだが、両親を看取った者は、悲しみが和らげば未来を見つめて生きよということかもしれない。

あの日も今日のように暑い一日だった。勢いよく鳴いている蝉の声が心地よい。私の心にしみいる。
posted by 優子 at 18:37| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2007年08月07日

人間の脳と脳が作った人工脳との対戦

今朝の毎日新聞『余禄』には、人間の脳とコンピューターの脳との本質的違いを解明する研究について書かれてあった。
今の脳科学は将棋に注目しているらしい。
将棋士という「明確なルールで訓練された頭脳集団」が実験に適していることと、人間の直感力の開発に目をつけての試みである。また、東大では昨年から想像力や直感力を高める囲碁を教育に生かしているのも興味深い。

今春(4月28日)、将棋士と人口脳「ボナンザ」との白熱した戦いを夫と一緒に見入ってしまった。
将棋ソフト「ボナンザ」と名将棋士 渡辺竜王との試合は、将棋が全くわからない私でさえテレビの前に釘付けにするほど面白かった。

ボナンザは「全幅検索」で80通り全ての手を検索し、相手の手の80通りと、そしてまた、次の(相手の)手の80通りを全て検索し、その中で最も高い点数をつけた局面の一手を打つ。

ボナンザも窮地の時には一手を打つのに多くの時間を要した。いや、ボナンザは長い時間考えていたと表現したいくらいに、観戦している私たちはソフトを擬人化して見ていた。
ハラハラドキドキしたが、最後は人間が勝った!!

ソフトを作った保木さんが、「訓練された人間の脳はさすがだ。人間の知力は素晴しいと思う。」と言われた言葉と、彼の感動の表情に感動した。感性の鈍い夫でさえ感動していたのがわかった。

朝刊の『余禄』は次のように結んでいる。

確かに「直感力」も「創造力」も、日本の人材育成におけるキーワードだ。ただ、脳の働き方がわかってもそのまま応用できるわけではない。
プロ棋士を支えているのは長年の訓練であり、それが直感力や創造力をつける早道ではないだろうか。


そして私は次のように付け加えたい。
「神の平安あってこそ直感力や創造力は大いに発揮することであろう」と。


ちょうど今日の『生かされて』の記事に適切な例話で説明されている。
神さまは、私たちに「平安」と「祈り」というプレゼントを与えて下さっている・・・
平安とは、自分の機能を発揮することであり、「飛行機が無事空港に着くということは、飛行機の部品ひとつひとつが機能を全うしているからです。体が平安なときはひとつひとつの器官、細胞がその働きを全うしているときです」。


本当にその通りだと思う。
祈ることさえできない時もあるが、イエス・キリストの十字架を思い出せば祈りへと導かれて神の平安に至れるであろう。
焦らずにゆっくり癒されて、ついに神の平安を取り戻した時には、神が与えて下さった知能や賜物が開花されていく。ミクロ的に見ればこの繰り返しが我々の人生の歩みだと思う。

ちなみに「ボナンザ」とは、スペイン語で”bonanza”「繁栄」、「掘り当てた豊富な鉱脈」の意味だというから、それぞれに与えられている豊かな鉱脈を掘り当てるためにも神による掘削が威力を発揮することであろう。
posted by 優子 at 16:49| 随想 | 更新情報をチェックする

2007年08月06日

ヒロシマを2度と繰り返すな!!

広島に原爆が投下された62年前、14万人もの人々が年内に亡くなり、死を免れた人々も死者を羨むほどの地獄の苦しみだった。

傷口が癒されてからも、「ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。
しかし、その中から生まれたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。
『こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ』と、忘れてしまいたい体験を語り続け、・・・」


広島市長 秋葉氏の「平和宣言」からの抜粋である。
こども代表による「平和への誓い」も私の心を打った。

「嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にぶつけても、何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。・・・

途切れそうな命を必死でつないできた祖父母たちがいたから、今の私たちがいます。・・・
私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助ける事はできるのです。
私たちは、ヒロシマを『遠い昔の話』にはしません。
・・・」


「原爆投下はしようがなかった」とは言語道断、特に被爆者の人たちにとっては断腸の思いであったことだろう。

私は悪戦苦闘に意気消沈し、実に惨めな気持ちにあるので、特に今年のメッセージは強く心に響いた。
一個の人生における人間関係でさえ理解し合うのは至難であるから、もっと複雑な国際関係においては戦争はしないということさえ一致することはないのかもしれない。

しかし、それでも尚、努力し続けている人々がいる。常に希望をもって平和のために闘う人々の姿を、昨夜も何時間も深い沈黙の中でジッと見ていた。

今夜もNHKで核の危機を伝える番組が放送されていた。
核散すればテロリストが核を手するのも時間の問題だ。核を廃絶しないと世界はとんでもないことになってしまう。

孫が男の子だっただけに、危機に瀕している世界情勢を思って身震いした。まさか、この子が戦場にかりだされるようなことがあってはならない。私の世代は戦争を免れるかもしれないが、今やそれさえ危うい状況なのだ。

何事によらず経験した人、訴えている人の声に耳を傾けねばならない。特に弱者の声は神の語りかけである。
今朝の平和記念式典を見ながら、核廃絶と平和憲法の遵守を叫ばねばならなぬと本気で思った。
posted by 優子 at 23:51| 随想 | 更新情報をチェックする

2007年08月05日

排泄された異物をもって病院へ

「キャー!!」
長女の叫び声に驚いた。昨夕のことだ。
この地域は都会と違って空気はいいが虫も出る。夏は苦手な時期だ。私は何かまた出たのだろうと思って娘の所へ走っていった。

ところが、トイレにいた娘は体内から出た大きな異物に奇声を上げたのだった。
赤褐色のレバー状でもなく肉片である。
私は使い捨てのポリエチレンの手袋をはめて便器から拾った。1週間前に出たのもこういうものだった。今回はもっと大きくて2センチに5センチくらいもあった。
固そうな肉片に見えたが柔らかかった。しかし、指で押してもつぶれない。色は単純に一色ではないが、どちらかといえば肌の色に近かった。嫌な臭いもない。


病院に電話したところ様子を見ていてもいいだろうとのことだったが、毎週土曜日の午前中から婿が来ているので授乳を済ませ、娘たちも急いで夕食を摂って7時頃から病院に向った。

超音波や内視鏡で詳しく診察して頂いた。
悪露はまだ残っているが今のところ問題はない、心配ないだろうとのことで薬を処方されるほどでもなかった。


しかし、異物の正体はわからない。
「これは何だろう。この時期にどこから出てきたのだろう。血液ではないし、時間はかかるけれど・・」と検査に出された。
ということは、今までの臨床経験では初めてということであるから気になるところである。この夜の女医は3日の記事にある女医とは別の方で、この方が退院前の診察をされたとのことだ。

娘不在の2時間半は、私にとっても初めてのことで緊張した。
夫に子守りをしてもらっている間に夕食の後片付けをした。それが終わった頃には漸くおとなしく抱かれていたので、夫の指示で私がもう一人の子の守りに出ることになった。
チャッピーの散歩である。

ところが、15分あまりして帰って来た時はまた泣いていた。
赤ん坊はまだ軽いとは言え1時間半も立って抱いていれば大変だ。「ウンコちゃんしてる」の言葉と共に赤ん坊を受け取って、夫にはお風呂に入ってもらった。

私がお風呂から上がってきてもまだ泣いている。
ママがいない赤ん坊の泣き声は切ない。お乳がほしいので手をしゃぶって泣いている。抱くとお乳をもらえると思って口をあけてお乳を捜すが、私は出ない。病院を出た時の電話から30分たっているからもうすぐ帰ってくるだろう。
ママもお乳が張ってきているはず。

「もうすぐお姉ちゃんは帰ってくるからね。いや違う、この子にとってはママだった。ママ、早く帰ってきてね。チャッピーがね、帰って来たよ〜〜って教えてくれるよ。」と話しながら、こちらも泣きそうになってきた。

ついに、どうやっても泣き止まない制御不能状態になったが、その後まもなく帰宅したのでホッとした。
お乳のこともあるが、とにかく短く話してもらった。
するとどうだろう気がつけば赤ん坊は泣き止んでいた。母の声を聞き分けているに違いない。ママの声を聞いて安心したように目をクリクリさせて抱かれていたから不思議だった。

回復を祈りつつ


posted by 優子 at 11:30| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2007年08月03日

心配な産後の肥立ち

お昼前に義母(藤本の母)が知子の体調を心配して訪ねてくれた。今もときどき血の塊が出ている。
今週30日の月曜日に病院に電話して尋ねた時(今回で2度目)、折り返し電話して頂いた主治医の説明で9日の受診日まで様子を見ることにした。

分娩時の胎盤の出し方については妥当な処置であったことも理解できた。
本来ならば出産後20〜30分を待って出すのであるが、子宮の状態や出血量が多い場合には剥離を促すために、娘のように押し出すのだそうだ。娘の出血は標準だったから、分娩に時間がかかったからではないだろうか。
「助産師がそのように判断したのでしょう」と言われたが、その時は医師であるあなたも居られたではないか!と、今これを書きながら気がつく始末。いつも肝心なことが抜けていて情けない。

切開部分の傷の腫れについては、特に心配するような状態ではなかったとのことで、原因もなし。要観察と報告を助産師に指示して下さっていたが特に注意すべき報告も上がってこなかったとのこと。

しかし、出産2日目に診て頂いた助産師さんが「すごく腫れてるねぇ、こんなの初めて」だと廊下で私に話されたことをお伝えしておいた。
と言うのは、それ以外の言葉は何もなかっただけに益々不安をあおられることになってしまったからだ。今後はスタッフの方たちに不用意な言葉は慎むように指導して下さるのではないかと期待してのことと、そのように診ていた助産師もおられたことをお伝えしておくためにだ。

産後3週間もたてば無くなっているはずの悪露だが、1ヶ月後も出ている人もあり個人差があるとのこと。知子の場合は3週間目に入って初めてレバー状のものが出始めたので子宮の回復がかなり悪いのであろう。今からでも出てもらわないと困るのだが、かといって量は少ない。

ところで、婿は「挨拶も返さない」と怒っていた女医さん(主治医)だが、私の第一印象とも打って変わって誠実にテキパキと応答して下さった。
「ご説明しなかったので不安を与えてしまって申し訳ありませんでした」と何度も説明の中で述べられ、その日の午後、特別に診察する配慮も示してくださったほどだ。

誠意ある対応に感謝している。
このことで近大病院産婦人科に抱きかけた不信感も完全に払拭された。これはとても大切なことだ。医療者との信頼関係こそが全てに先立つからだ。


義母は曾孫を元気な赤ちゃんだ、生後3週間とは思えないしっかりした顔をしているとか、知ちゃんは頭がいいから賢い子になるとか、曾おばあちゃんバカの言葉を言ってくれる義母の姿があった。
「赤ちゃんはええけれど、知ちゃんが心配や」とも言ってくれた。
父と母も喜んでくれているに違いない。


午後は妹が手作りのパンを持ってやって来てくれた。奈良県同士とはいえ1時間近くかかる。
妹は私と2人で話がしたいとシビアな顔で言っているが、私がまだミネソタに行っていないことに驚いた妹は、一緒にニューヨークとミネソタへ行こうと誘ってくれた。サモアにも一緒に行こうと。サモアは妹が独身時代に国連の経済専門職員として赴任していた国だ。

さてどうしよう。
私と正反対の行動派で情熱的な妹に感化されたいものだ。

生後まもなく3週間の頃と沐浴中の写真を添えておこう。
表情によりこうも違う(^−^)
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私は娘の体が完全に回復しますようにと祈る日々である。

 
posted by 優子 at 22:27| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2007年08月02日

ミネソタの橋崩落?! ―真智子夫婦の家から歩いて5分とは!―

今朝の9時半頃だっただろうか、なかなか眠ってくれない孫を抱きながらテレビを見ていたら速報で番組が中断した。

日本時間の今朝8時前頃(?)に、ミネソタの首都ミネアポリスのミシシッピ川に架かる高速道路の橋が崩落したと報じた。

少なくとも6人死亡、40人以上の負傷者、そして、50台の車が川に転落している。
国土安全保障省は、現在のところテロの兆候はないと語っている。
今のところ日本人は報告されていないが、ミネソタ州には
1300人の日本人がおり、シカゴにある日本総領事館は現地の関係機関に安否を確認中とのことである。


ミネソタのことと驚いて見つつも、真智子たちのところではないだろうと思っていた。
「ミネソタ、ミネアポリス、ミシシッピ、橋、・・・」、全てが関係している。ミシシッピ川が近くにあると聞いていた。
そして、「橋」と聞いて私はハッとした。
真智子は橋を渡って大学に行くと言っていたことを思い出したからだが、「あれは高速道路やで」と長女に言われてひとまず安堵した。
祈った。
何かあれば、国の機関から何か言ってくるだろう。私は掃除を済ませてしまおうと2階へ上がっていった。しかし、掃除のあと孫の沐浴も終えると胸が高鳴ってきた。そして、メールを飛ばした。
「・・・・短くてもいいから連絡してね。
真智子と太志君はイエスさまと一緒だから万が一の時も天国へ行ける、再会できるからと安心しました。」

と、最悪のことも覚悟しつつ・・・11時27分のことだ。勿論、まさかのことになっていたら返信はもらえないのだが・・・・。

そして、今、パソコンを開くと太志(君)がオンラインになっていた。よかった!
メッセンジャーを開くと「無事です!」の文字が飛び込んできた。真智子からだ。よかった!
大学から帰ろうとしたら、いつも通っている橋が閉鎖されていました。迂回して家に帰ってきてCNNを見てびっくりしています。

私達が毎日通っている橋の隣の橋が落ちたのです。とてもショックです。 落ちた橋まで歩いて5分とかからない場所なので、今も家の近くは警察や消防車でいっぱいです。

いつも守られていることに改めて感謝しました。
被害者の方達や、レスキューの方達のためにお祈りします。
とにかく、私達は安全でした。場所は本当に家と大学の側だけど、無事でした。
               真智子

「いつなんどき召されるかも知れないのだから、常にイエスさまと一緒にね。悔い改める時間さえないほど、死は突然にやってくることもあるのだからね。」と再返信した。

私もまた、事故に遭われた方々のために、そのご遺族の方々のために、そして、一人でも多くの方々が救出されますように、救援にあたっておられる方々のためにもお祈りします。

posted by 優子 at 13:52| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2007年08月01日

プライム ミニスター

総理大臣のことを英語で”prime minister "と言う。
「ミニスター」とは「牧師、大臣、閣僚、公使」など「奉仕する人」の意味であるから、「プライム・ミニスター」とは「最も仕える人」と訳すことができる。

ここで思い出すのが、弟子たちの間で一番誰が偉いかという議論が起こった時に、イエスが彼らに語られた言葉である。

「異邦人(ここでは神を知らない人たちを意味する)の王たちは その民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
しかし、あなたがたはそうであってはならない。
かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」
 
            
                (ルカ伝 22章25・26節)

総理大臣・首相は地上で最高の立場にある人だからこそ、本来は「最も仕える人」なのである。

5月26日の記事、「JPニュース"TOP INTERVIEW" より 『経営は人生そのものである』」(カテゴリ「美濃紙業関連」参照)を思い出して頂きたい。
「JPニュース」の誌上で夫が語った内容と関連するが、「人々に仕える者こそ治める人にふさわしい」のである。


「治める人は仕える人のようであれ」と言われたイエスの言葉の深い意味に気づかされ、私は政治の行方を見守っていきたいと思う。

選挙で惨敗しても辞職しない安倍さんは、我々日本人全ての姿でもあろう。
なぜならば、選挙民である我々の意識の低さがそれを容認しているのであろうし、日本人の甘え意識とも関係しているのではないだろうか。

イスラエル王国の2代目のダビデ王は、権力の絶頂期にあった時に罪を犯した。しかし、預言者ナタンにその罪を鋭く指摘されたダビデ王は直ちに悔い改めた。
今から3000年前のことである。

安倍首相が続投することを選んだならば、法律や制度や組織を変えることよりも何よりも、まず自己を深く顧みることである。そして、全ての政治家は、ダビデのように神を畏れて真実なる高い理念を持って歩み出してほしいと切に願う。


posted by 優子 at 16:29| 神(聖書) | 更新情報をチェックする