2008年02月29日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 最終回

それから1ヶ月もしない8月5日のことだった。

「10日前から入院してますねん」と西口氏から電話が入った。私は直ぐに会の重鎮お2人に相談して、その3日後に3人でお見舞いに上がった。
氏は奈良県立医大病院病棟の窓から指さしながら、「ここから家内が上っていった(火葬場の)煙が見えますねん」と涙されていた。
奥様亡きあとは娘さんがお世話されていたが、「家内やないとあかん。娘ではあかん。」と深い悲嘆の中におられる氏を、私はどのようにお慰めしてよいのかわからなかった。

そして9月30日に、3日前に退院したと短い電話があった。
西口氏が私を最も必要として下さっていた時に私は何もしなかったのだ。あの頃の私は人生の大きな問いに七転八倒しながら、死が迫っていた母のことで無我夢中だった。

この電話から25日後に母は召された。
西口氏からも12月下旬になって喪中の葉書きが届いた。
それなのに何と言うことだろう。
年が明けた10日後にご長男から西口氏が亡くなられたことをお聞きして、私は電話口で座り込んでしまった。ウタ子夫人が亡くなって半年後のことだった。私がお見舞いに上がったのは一度きりで、お目にかかったのは8月8日が最後になってしまった。

「父は母の100ヶ日の法要に藤本さんに来てもらうんやと楽しみにしていました。料理屋にも予約していましたが容態が悪くなって・・・」
と、お通夜の席でご長男が話して下さった時には、それほどまでに想って下さっていたのか、取り返しのつかぬ悔いに神さまと西口先生にお詫びした。

あの頃の私は母の悲しみに打ちひしがれ、人を思いやる余裕は全く無かったのだ。何度も何度も心の中でお詫びした。

       6 過去には感謝、未来には希望

これを書きながら西口先生とお出会いできたことを改めて感謝している。西口先生に会いたくなった時は、このページを開けばよいようにと自分自身のためにも書いた。

その後、宗原千里さんと交互に務めた7期14年間は、私たちふたりの懐かしい思い出である。振り返るとキラキラ輝いている。

聖書には、「すべての守るべきものよりもまさりて汝の心を守れ」とある。
素直な心を保持してこそ、読書や人との交わりを通して豊かに感じることができ、感受性を磨いていくことができるだろう。いくつになってもそうでありたいと願う。

創立40周年を迎えた「東大阪読書友の会」に新しい時代が始まった。そして、私にも神さまからの希望の風が吹いている。
読書会で育まれたことを感謝し、これからも神の御手に導かれながら歩いていこう。読書会の良き気風が受け継がれんことを祈りつつ。

(東大阪読書友の会)


花園図書館前にて.jpg

花園図書館前にて

1993年9月11日 読書会創立25周年記念講演会を終えて

右より宗原千里さん、ウタ子夫人、西口先生、筆者、筆者の次
女(中学1年生) 
(撮影者・筆者の夫)

― 完 ―


※ 『あしたづ』に掲載した写真(白黒)をこのページにも掲載できたのは、長女の携帯電話で写真を写して転送してくれたからだ。
夫の携帯電話は会社で規制をかけたらしく、私のフリーメールアドレスへは転送できないようなっていた。尚、写真下の部分は写真を立てて撮った時のテーブルの色である。


乳飲み子がいるのに快く労してくれた知子に感謝(^−^)!
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2008年02月28日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 5

        5 西口氏ご夫妻との別れ

1993年と言えば既に母の通院介護が始まっており、母の難病の進行と共に私の苦難も厳しくなっていく頃であった。しかし、私は新しい経験に心躍らせ、久々のフレッシュマンの気持ちで以後2年間、西口氏の薫陶を受けた。

そして、その2年間を終えた1995年4月から病気療養を理由に休会された。母もまた、その8月から最後の入院生活になるほど苛酷な状況になっていたので、御夫妻のいない読書会はとても寂しく辛いものであった。

休会(退会)された翌年のこと、「1996年7月9日午前9時15分、西口先生より電話あり」と記録簿に書かれている。
あの時の電話は今も忘れられない。明るく話し始める私に、「藤本さん、家内はもうあきまへんねん」と泣き声になられたので、「ええ?!」と 耳を疑った。

糖尿病の療養のために休会されたのは西口氏御自身だったのに、どうして奥様が死の床にあるのだろうと動揺しながらも、咄嗟に「今から直ぐに参ります」と口走っていた。
この時、深刻な容態になっている入院先の母のところへ出かける直前だったが、即座に優先順位を変更した。

そして、「藤本さん以外は誰にも言うてないから黙っといて下さい」と言われた。私は一瞬心細さを感じたのだろう。「宗原さんには話してもいいですか?」とお聞きしたところ、承諾して下さったので2人で奈良市のお宅へ急いだ。
 
ウタ子さんはすっかりやせ衰えて、お元気な頃の面影は全くなかった。私は驚きを隠すのに必死だった。母の世話で慣れていたので自然に体が動いていた。「よかったなあ、藤本さんが(おしめを)換えてくれはったで」と、涙声で言われた西口氏。

その3年ほど前のこと、ウタ子夫人は嚥下できなくなっていた母のために、栄養があるからとペースト状になった胡麻を買ってきて下さったことがあった。
引退されてからも、あまりの苦悩に私が泣き言を漏らした時には、「あなたにはりっぱな信仰があるじゃない!」とお手紙で励まして下さっていた。その奥様があんなになっておられたとは信じられないことだった。

西口氏は娘さんに奥様のことを頼んで、私たちを2階に住まいされていた娘さんの住居に案内された。そこで30分間くらい話していただろうか。「以前、2人で教会の聖書研究会に長い間通っていたことがありますねん」と唐突に話し出された。

そして、具体的には話されなかったが、苦しい心情を吐露された。罪の告白だった。
ここで言う「罪」とは反社会的な行為を意味するものではなく、神の導きがなければ感じることができない悔い改めである。


私は「神さまも赦して下さっていますよ」と申し上げたものの、どうしてあの時、一緒に祈ってあげなかったのだろうと今も悔いが残っている。
あの頃の私は薄い信仰で、ノンクリスチャンを前にして共に祈る勇気はなかった。祈りが全く足りなかったからだ。


西口氏はなぜ聖書の話をされたのか。
なにゆえに罪の告白をされたのか。
それは、私たちがクリスチャンであるからこそ話されたのであり、神に祈ってもらうことを願っておられたに違いないのだ。導き手がこれでは「教師の当たり外れ」どころではない。


しかし憐れみ深い神は、導き手いかんで救いを求める人が救いに与れないようなことをなさるはずがない。愛なる神は氏の砕かれた魂をごらんになり、救いの手を差し伸べて下さったに違いないと思っている。

この翌日、夫人は亡くなられた。
                 
                 (つづく)
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2008年02月27日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 4

        4 西口氏の生きざまに触れた出来事

私が西口氏に傾倒するきっかけになった出来事がある。
それは1992年2月の例会後のことだった。皆さんが帰られたあと、事前にお願いしていた私の相談に応えて、西口氏御夫妻は1時間以上も時間を割いて下さった。そこに宗原千里さんにも同席して頂いた。

その頃、小学校5年生だった次女の関係で私はPTA広報誌でペンを奮っていた。毒にも薬にもならないおざなりな、と言っては言い過ぎかもしれないが、保護者に興味をもって読んでもらえる新聞作りに燃えていた終盤の頃である。

その年度は学期末に発行する従来の新聞以外に、春の総会後の5月半ばから翌年の3月半ばまで、夏・冬休みの2ヶ月間を除く9ヶ月間に40号の手書きの新聞発行を重ねた。しかし、3学期に入って学校側対広報正副委員長という構図で対立した。

しかも、PTA役員たちは中立の立場ではなく学校側に与した。もとより、広報委員会は上意下達の学校報を書くものではない。保護者というフィルターを通したものを書かなくてはいけないのに、PTAという意味すらわかっていない役員たちをも相手に、孤軍奮闘の戦いとなってしまった時のことである。

2学期末に発行したPTA新聞は、毎日新聞社のコンクールで優良賞を頂き、手書きの新聞も同新聞社が開いているPTA新聞講座において、毎回模範として講師に取り上げてもらえるほど評価されたものであった。

即ち、健全な内容であることは言うまでもないことなのに、学校という組織は大変に保守的であり、何事も「万事例年通り」を旨とする組織だった。


私の考え方が間違っていないか確かめるために、新聞社編集局の意見を聞き、法律的根拠も調べて問題なきを確かめた。
しかし、一人で学校という組織に立ち向かうには心細さがあった。かといって、真剣に取り組んできたことだけに信念を曲げることはできないというのも、私が生まれて初めて体験した思いであった。

そこで西口氏に相談したのである。
対立した原因と相談内容をブログ『メメントドミニ』に書いているので引用させて頂きたい。

2007年3月21日 「私に影響を与えた西口孝四郎氏」
             (カテゴリ「読書会関係」)

私にとって西口孝四郎氏は忘れられない人である。
読売新聞東大阪支局社会部デスク、支局長の経歴であるが、この方ほど愛と情熱に溢れた谷崎潤一郎研究者はいなかったであろう。その西口氏に深く敬意を抱いた出来事があった。

これまでにも何度も転載させて頂いている『ふじとニュース』、次女が小学校5年生のPTA広報でペン活動をしていた時のことだ。
健全な小学校であったからこそ保護者による自由な広報活動ができたのであるが、2学期に学校側から「待った!」をかけられたことがあった。

2学期末に発行する新聞に、「今や塾通いはあたりまえ、これでいいのでしょうか?!」というテーマで、学校5日制のことも織り込んで特集を組もうとしていたのだが、このようなことにさえ学校側は体面を気にしたのだ。

結局、設問は「塾」から「ゆとり」中心に変えられてしまった。よく耳にした学校側の検閲はなかったものの、これではそれに準ずるものである。


ようやくこの年度に実現した、みんなに読んでもらえる新聞作りをつぶされないために、私は次年度への引継ぎを前にして広報活動を正しく位置づける記事を書いた。

それが学校側を大いに刺激した。

即刻、学校とPTA3役から広報正副委員長と私(夫を委員長とし、私は書き手としてやらせてもらっていた)に呼び出しがかかった。

発行5日後の夜、校長・教頭先生、PTA3役に私たち広報委員3名の11名が集まり、3時間半に及ぶ激論が11時まで続いた。3役は学校側に与(くみ)し委員会を支援しなかったから、我々は孤立状態になった。

さあ、困った。
しかし、このようなことで挫折したくない。
ところが、約9ヶ月間に40号を重ねたことからもわかるように、原稿ができ上がれば印刷のためにたびたび私1人で学校へ行かなくてはならないから気持ちがひるんだ。

この話し合いの前に、私は大学を卒業して以来はじめて憲法の本をひもとき、自由権、特に21条の言論・表現活動について熱心に読み直したものだ。学生時代とは比べものにならない熱心さで読んだ。

また、広報のおかげで出会い一目置いて下さっていた毎日新聞大阪本社編集局次長(PTA新聞講座で有名)にも相談した。私たちは間違っていないと言われたが、「まあまあ・・これ以上は対立しないで・・・」とのアドバイスにがっかりしたものだった。

次に西口氏にも相談した。
すると、西口氏は「戦え!」と言われたのだ。間違っていないのだから、ここで引いてはいけないと言われた。
先のアドバイザーから「引け」と言われて失望したものの、戦うにも恐れがあり、いろんな議論を想定して相談した。

すると、「いつでも行ったげる。これは大切なことやからな。」と何度も言われた。それまでの経験では、言葉では言っていてもいざとなれば逃げ、多数派に調子を合わせる人ばかりというのが私の印象だっただけに、西口氏の本物の生き方に圧倒され尊敬した。

そこで、手書きの新聞に11名の話し合いのことも記事にし、最後の一文で次のように締めくくった。
「委員会に任されて出来上がったものに対して批判ばかり言うことは、言論活動の制限・弾圧になりますから、まだ反論があるなら投稿して紙上ですべきです」。
(元読売新聞社会部デスク、現在は評論家の西口孝四郎先生
より)

するとどうだろう。
水を打ったように騒ぎはピタッと静まった。
法律的にも検討し、専門家に意見を求めるなど真正面から取り組み、紙上に専門家のコメントを公表したことが良い結果に繋がったと思っている。

そして、「父母の豊かな力量を引き出せるPTA、意欲を大切にされるPTAでなければ、PTA離れはますます激しくなると思うからです。」と広報誌に書いたように、「PTAとのトラブルを心配して毒にも薬にもならない『ことなかれ広報』を作る」ことなく、最後まで信念のペンを奮ったのだった。

ちなみに、2学期末にとったアンケートによると、手書きの新聞『ふじとニュース』を「毎号読んでいる人」が79パーセントで、「発行を楽しみにしている」と答えた人が63パーセントという画期的な結果も得ていた。

あの時、恐れがあっても勇気を奮い立たすことができたのは、西口氏の後ろ盾があったからだ。この時、私も西口氏のように社会に対して発言する人間でありたいと強く思った。

今、これを書きながら、すっかり忘れていたあの時の精神の高揚がよみがえり、西口氏が私の自己確立に多大なる影響を与えた人であったことに気がついた。
どうしても流されてはならない、信念を曲げてはいけない事があるのだ。このことを思い出してすごく幸せな気持ちに満たされ、意欲と力が横溢している。
       
 ―以上、ブログ「メメントドミニ」より―


この出来事があった翌年の1993年4月のこと、西口氏は私を読書会の代表として立たせて下さり、広い社会へ引っぱり出して下さったのである。
ひょっとして、この時のことを通して私の姿勢を評価し会長に抜擢して下さったのではないかと今になって思うのである。

                 (つづく)
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2008年02月26日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 3

          3 西口氏の文学論 

1990年1月の例会では漱石の『倫敦塔』をテキストに、講師をお招きしての会だった。この時は読書会に入って二年過ぎた頃であり、私はまだまだ西口氏を知らなかっただけに、氏が専門家を前にして冒頭から熱く語られたシーンは衝撃的だった。

「文学に玄人も素人もない。即ち学問のあるなしではなく、それぞれの感受性が勝負になる。自分の立場で深く読んでいくことが大切であり、目に見えないものを見、耳で聞こえないことを聞くのが文学を読む者の心である。

文学研究家には、作品について問題が出てきた時に、文献上の知識を話して頂だけばよい、そういうことだ」
と、終始強い語気で語られた。
私は講師である鳥井氏の顔色を見ながらペンを走らせていた。

また、西口氏が何度も話しておられたことは、作家が何を書くか、何を書かなくてはいけないのか、それは「秘密」である。「秘密」とは隠しごとだけではない。アイデアや自分の生き方などであり、どういう秘密を持っているかが作家の仕事である。

画家が自画像を描くのは自分の内面を描くのであり、作家もまたそうである。自分自身でもわかっていない秘密を、どういう視点から、それをどう見つけるのかである。

文学は新しさではなく「ホンネ」である。
「だまし絵」であり「隠し絵」であると、このことは毎回のように熱く語っておられた。また、面白くない本は逆から読んでいくとよい。この読み方は大切で、かえって本質がわかる時があると言われた。氏の語り口のままで続けよう。

「もの書きで一番あかんのは、自分の書きたいことに不足がある時や。書物の資料不足ではなくて、自分の中の書きたい資料不足が一番あかん。

見たもので自分が感じることを書くんや。本当に感じたものは人に伝えたくなるやろ。人に教えてやりたい、伝えてやりたいと思うことを書くんや。作品は頭の中の動きやから、作者が死んでも死なないもんや。

自分の腹の底に秘めている光景、人、音、感動など、自分の忘れられない思い出が自分の原点や。それはすぐに思い出すようなものではなく深いものや。それをいかにつかむかが大切であり、それが文学というもんや。

ジャーナリストの文章は掘り下げより新しさが勝負であり、人にわかる文章でないとあかん。しかし、文学は新しさではなくホンネや。突っ込んで書かんと人の心を打たん」。


まさしく、私に書くことの意味を教えて下さった人物であった。そしてご自身が言われたように、亡くなられた西口氏もまた今も我々に語り続けている。書いたものは残るのだ。

                 (つづく)
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2008年02月25日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 2

2 西口氏の『変身』論で文学開眼

私が今も読書会のノートを何度も開いて西口氏の語られたことを読み直すのは、書くことへの情熱を喚起したいがためである。あまりにも遅きに失するが、今になって西口氏から大きな影響を受けていたことに気づき、読書会に導かれた背後に神の御手を感じている。

まず、読書感想として最も印象的だったのは、何といっても1991年2月の例会で取り挙げて頂いたカフカの『変身』である。

ある日突然、グレゴールが虫になっていたという話だ。
古い訳本には「毒虫」になっているらしいが、「巨大な褐色の虫」はカフカの不安の象徴であり、即ち、ユダヤ人である苦しみや不安から逃げられないという意識や葛藤を表している。カフカが不条理文学の先駆者と言われている所以はここにあるのだろう。


ところが不思議なことに、虫になったグレゴールの苦悩や悲しみは何も書いていない。家族のそれらも書いていない。カフカと父親とのギクシャクした関係はよく表れているが、なぜ虫になったのかもわからない。

グレゴールが死んだ時、家族が簡単に立ち直っていく姿も印象的だった。異常な現実から解放されてホッとしたのだろうか。しかし、死んだ虫は息子であり、兄であるグレゴールなのにと私は悲しく思ったものだ。

さて、この時の西口氏の見方に驚愕した。
今振り返ってみると、その驚きこそが私の文学の眼が開かれた瞬間であったと言っても過言ではないだろう。
氏の見方はこうであった。

変身したのはグレゴールだけではなく家族であり、特に妹の変身は大きかった。最初は文中で「妹」になっていたのに途中から「グレーテ」に変わった。そのうちに妹は餌を入れた器を足で与えるようになり、グレゴールが死んだ時はルンルン気分になった。カフカはこれを書きたかったのではないか。 

一方、それに対して常に変わらなかったものは額縁に入れてあった絵であり、変わらないものは神であるか何なのかはわからないが、これこそがグレゴールの心であり、カフカはそれに希望を託しているのかも知れない。

グレゴールの変身は、突然襲ってくる避けられぬ病気や災難、戦争などの不条理を意味するものであり、変身した目(虫)から家族を見ていたのだと話された。

ぶったまげた。
私の視野が大きく広げられた瞬間だった。

本の扉絵についても教えて頂いた。
扉絵は作品の中に書かれていることを象徴する大切な絵であり挿絵とは違う。従って、扉絵を虫にされては困るとカフカは出版社に注文をつけた。なぜならば、ドアの向こうにグレゴール(虫)という秘密があり、その暗い部屋の秘密を書いているからだ。

カフカは、「この本のテーマは息子たちである」と言っている。

即ち、私(カフカ)が死ぬ時、それを看取るのは息子たちである。その時、息子たちはどのように変わるのか。「変身」とは人間の心である。虫だけに捕らわれて読むと本質から反れる。

文学作品とは手品であり、小説(文学)にはいつも隠し玉がある。『変身』の場合は読者の目を虫に引き寄せておき、実は妹こそが最も変身したのだった。

どの文学作品にも謎があり、それをどう読むか。どのように読んでもよいが、面白く読むことが大切であると教えて頂いた。
紙幅の関係で詳しく書けないが、ヘミングウェイの『老人と海』では、老人は夢を見ていたのであって海へ出ていなかったという読み方にも感心したものだった。

                     (つづく)
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2008年02月24日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 1

河内の郷土文化サークルセンター2007年度の事業は昨日の講演会で全て終わった。
お昼過ぎから役員会、理事会、講演会、懇親会と続き、帰宅したのは夜9時だった。私は講演会の司会役だけだったのに疲れてしまい、出張疲れの夫と共に今日は夫婦でダウンしていた。

昨日発行された『あしたづ』(10号)掲載文を今年も例年通りここに転載させて頂きたい。
当誌への寄稿は今回が最後である。読書会を去る私にとって時を得た最善のテーマで書けたことに満足している。

そして、この場をお借りして、コメントを下さった杉山三記雄さん(『小阪庵だより』http://www.d3.dion.ne.jp/~mikio566/)に心から感謝を申し上げたい。

さて、6回に分けて転載させて頂こうとした今、大きなミスを発見!超多忙な日々に書いていたことなど言い訳にもならないが、今日の記事にある年号が間違っていた。1993年ではなく1995年だった
せめてブログを読んで下さっているサークル関係者の方たちだけにでもお伝えできますように。

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私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い―

    
     1 新聞記者の働きと谷崎文学への功績

1988年2月に読書会に入会してから20年が過ぎた。
20年と言えば人生で短くない年月であり、私にとって生涯忘れられない西口孝四郎氏との出会いがあった。読書会を導いて下さっていた西口氏は、健康を理由に(1993年)1995年3月を最後に退会されたので、氏との交わりは7年間であった。

当センターの発起人の一人としても重要な人物であった氏は、かつて小学校の教師をされてのち、17年間にわたって読売新聞東大阪支局の社会部記者として勤務され、社会部デスク、支局長を歴任された。

特筆すべきことは、誰よりも谷崎文学を愛された人物であり、研究家としても大きな功績を残された。
1994年の『中央公論・文芸特集・秋季号』に「谷崎潤一郎が妻丁未子にあてた三通の手紙」を発表され、谷崎の空白年譜の2ヶ月間は2番目の妻、丁未子(とみこ)と共に生駒山麓の稲荷山に住んでいたことを発見された。新聞社退職後に記者の手法で探り出されたのである。

永和駅前の西支所に記者クラブがあった頃のこと、市の職員として同じ階で勤務されていた杉山三記雄氏が、当時の西口氏のことを次のように話して下さった。
 
「広報課の幹部を叱責されているところを見て、かなり厳しい記者さんだという印象を持ちました。職員たちにも『怖い記者、苦手なタイプ』と映っていました。

私も近寄りがたい人だなぁという印象でしたが、西口さんが記者を辞められて『河内の郷土文化サークルセンター』の『歴史文学春秋会』を主宰されていた頃にお話した時、谷崎の優れた研究家だとわかり、これまでとは全く違った面を拝見して嬉しい驚きを感じました。

今から考えると記者としてのお姿は、新聞記者の使命として市民や国民に真実を報道することに徹しておられた姿だとわかりました。文化に精通されていた西口さんの言葉やお話、情熱が、今でも私の胸から決して離れることなく、感謝の気持ちでいっぱいです」。


杉山氏から西口氏の現職時代のお話をお聴きして、西口氏の原点はこれだと思った。言うべきことを言う厳しい記者ゆえに敵も多かったようだが、周囲の顔色を見て自分の考えを押し殺してしまう私は、氏の生き方に強く魅かれた。人間的にも温かく優しい方であったがゆえに魅かれたのである。

新聞社退職後も鋭い感性で、ジャーナリストと作家の二つの目で文芸評論活動を発揮されていた。私にとっても生涯忘れ得ぬ人となった西口氏を偲びつつ、氏との出会いをここに書き残しておきたいと思う。

                 (つづく)
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2008年02月22日

大事業を終えたような充足感

夫は日本製紙の石巻工場を見学するために今朝仙台へ飛んだ。紙をすく機械の全長が240メートルもあるというのだから、どんなものか見たいものだ。

水曜日から来ていた長女と孫を午後3時過ぎに見送り、日が暮れないうちに掃除に取り掛かった。続いてチャッピーの散歩も済ませて家に入ると、ユキ台風が去って家の中は静まり返っていた。

二人を見送る時は寂しかったが、娘の暖かい家庭を想うだけで幸せだった。
「今日は知子と幸悠に会うのを楽しみに帰ります。くれぐれも気をつけて帰るようにね。」と、婿から娘にメールが入っていた。


私は見送ってから、ずっと、今も、ニッコリ微笑んでいる。

娘たちが結婚した年の秋はよく涙していたが、今では駅まで自動車で迎えに来てくれる知子の姿がなくても、真智子と同い年の娘さんを「行ってらっしゃい」と見送る母子の光景を見ても平気になった。
人間の順応力だけではなく、それぞれの娘たちが主と共に家庭を建設し始めたことの喜びにあると思っている。

子育ての大仕事は、我が子に人生の正しい方向を示してやることだと思う。それが親の使命であり、あとは自分たちで造り上げていくのだ。
私は今、大事業を終えたような充足感に満たされている。


人生の座標軸を神に定めたならば、成功も失敗も、喜びも悲しみも、怒りさえも、全てのことに意味があり、必ずそれらを見出すであろう。
順境の時は感謝を忘れないで、逆境の時は祈り抜け!
いよいよそれぞれに与えられた賜物を思いっきり磨いて人生を謳歌してほしい。私もまた、アグレッシブなほどに意欲に溢れている。

今夜は一人静かに『感謝と祈り』(知子と真智子への結婚記念誌)を開いてみたい。
試練の中を行く方々の上に特別なる神の守りと導きを祈りつつ。

posted by 優子 at 20:09| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年02月21日

生後8ヶ月の知子と7ヶ月の孫

ともこ生後8ヶ月.jpg

これはちょうど生後8ヶ月目の知子です。
この赤ちゃんが大きくなってママになりました。
そして、これは生後7ヶ月と10日になる幸悠(ゆきひさ)です。
よく似てるでしょ?
7ヶ月と10日.jpg

2.21.jpg

今朝のお散歩中に寝てしまったユキちゃん。

2.21バギーでネンネ.jpg

今夜もおじいちゃんの顔を見て激しく激しく泣いてしまいました。お風呂の前にようやく馴れてきて緊張も解けてきたところです。

おじいちゃんと。2.21.jpg

今夜もケーキを買って帰宅した夫、私の体重もすっかり元に戻ってしまいました(>_<)。

posted by 優子 at 22:54| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

最近の動静

「また水曜朝に行くから、ボクをよろしくね(☆_☆)」

お座りユキ.jpg

と、お座りができるようになった写真と共に、18日夜に長女からメールが着信した。
「は〜〜い、待っているよ〜〜」と返信したものの、実は台風が来るような心境でもある(>_<)。
前回ユキ台風が去ってからというもの、腰と股関節の痛みがひどくて無理はできない。

2月1日の市民ワーキング会議の折にK保健師さんから「ラブレターよ」と手渡されて、来月6日には市の保健センターから血液検査のお誘いも頂いているのに(高脂血症のため)、それを機に奮起することもなかった。

しかし、腰と股関節が常時痛いので危機感を感じて間食を控えるようにした。チャッピーの散歩といってもダラダラと15分ほど歩くだけだったのを、ついに17日からサッサと歩くようにした。

と言うのは、娘たちが結婚してから4キロ以上も太り、55.3キロにまでなってしまっている。3日目の今朝は54.2キロ、目標は50キロだ。

近くに住む親しい友は右の股関節が悪く、いよいよ5月には人工股関節の手術をすることになった。私も他人事ではなくなってきた。
私の場合は特に左側のかぶりが浅い。できることならば手術をせずに終わりたいと思っているので、本気で節制しなければならない。

先週のブログ空白時は読書会機関紙の原稿に集中していた。
最後の掲載になるというのにテーマが決まらず時間を要したが、「太宰の悲劇」と題して書いた。昨日の読書会も欠席したが、例会後に編集会議を開かれたようだ。3月で退会させて頂くことも18日の電話でお伝えした。

23日はサークルの役員会、理事会、講演会、懇親会とプログラムが詰まっている。
この文化講演会では15回目で初めて女性講師として講壇に立たせて頂いた。西口先生のお口添えではなくて、事務局のK氏が白羽の矢を当てて下さったのだ。

その時の司会者・西口先生が、「主婦業をこなしながらの研究活動に頭が下がります」と仰って下さり、「ああ、そうなんだ」と嬉しかった。全て懐かしい思い出だ。

今回は司会役として講師をご紹介することになっている。
商大事務局の恵子姫(バリバリの超一流の仕事人。お互いに「姫」と呼び合い、親しい友にして頂いている)から、今回も紹介内容のセリフを全て添付して頂いている。ありがとう!!!

ついでに「第27回 河内の郷土文化講演会」のPRを!

日時: 2月23日(土)午後2時30分
場所: 大阪商業大学 ホール「蒼天」
演題: 「河内のものづくり」
講師: 柏原市教育委員会社会教育課主幹 北野 重氏


河内は古代より天と地と水に恵まれ、渡来系文化や技術、思想を取り入れ、人々の貪欲なまでの知恵と工夫により数多くの分野の「ものづくり」に成功し、政治や経済の中心地として技術発展の基礎を築きました。
今日はその背景を探りながらお話して頂きます。


以上、司会役の台本より。わーい(嬉しい顔)

そして、この日に『あしたづ』が発行配布される。
執筆者は楽しみにしているので、早速その日のうちに海谷(かいや)さんにも読書会会長に代わって宅急便の手配をしてあげようと思っている。

さて、孫台風が来るまでに朝の仕事にかかろう。

posted by 優子 at 07:50| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2008年02月18日

行動を促すコミュニケーション「コーチング」

1月の市民ワーキング会議でのコーチング講座は大変興味深いものだったので、忘れないうちにご紹介したい。

私は「コーチング」という言葉さえ知らなかったが、これは「人の心を整理することができて、自分自身も豊かになる会話法」のことだ。子育てやスポーツ選手のメンタル支援、さらに、ビジネス界で急速に広まってきているらしい。

「NLP」という心理学から派生したものらしいが、これもまた聞き初めだった。
即座に教えてくれるインターネットで検索してみると―
「NLPは、Neuro-Linguistic Programming の頭文字からきており、日本語に直すと神経言語プログラミングとなります。非常に優れたコミュニケーション心理学のひとつと言われています」
とのこと。

コミュニケーションは、
まず、その人の外見の様子に55パーセントも表れていて、
声の調子で38パーセント、そして、言葉はたった7パーセントだというのだ。
つまり、その人の言いたいことの約6割は見た目に表れており、その人が語る思いは7パーセントでしか表現していないというのだ。


「コーチング」とはこうだ。
例えばビジネスの場で、「そうだ、やってみよう!」と社員の自発性を促すためにどうすればよいのか。

人が行動を起こす時を考えると、

 @ 手に入れたい夢(未来)がある時
 A その先にもっとより良いものがあると信じられる時
 B 自分にはできるんだと自分を信じられる時
 C それを喜んでくれる人、支えてくれる人がいる時
 D 自分の使命に触れた時
              だという。確かにそうだ。

このことからわかるようにコーチングとは、「心からの望みを実現するために、本人の持てる力を最大限に引き出し、自発的に行動できるようにサポートするコミュニケーションとプロセス」のことだ。

そのために、コーチが信じていることは、

 @ 人は無限の可能性がある
 A 答えは本人が持っている
 B それを引き出してくれるパートナーが必要である

では、コーチングで手に入るものは何か。

 @ 心から望んだゴール
 A そこにいくまでのプロセス(やり方)
 B 信頼関係 である。

過去は変えられない、未来も体験できない、大切なのは今。変えられるのは自分だけ。これは心理学界の合言葉のようなものだ。
そこで、「今の自分では手に入らない、高い位置にあるまだ見ぬ望む未来(ビジョン)」を描く。。

そのアイデアが出れば、「それを手に入れるためには何をしますか?」「やってみてどうでしたか?」、「それを達成したら、どんな気分でしょうか?」、「気づいたことは何ですか?」、「そして、どんなことが起こりますか?」、「そのためには何が必要ですか?」、「今すぐできることは何ですか?」など、コーチは対象者に「魔法の質問」と呼ばれるものを潜在意識に問いかけていく。これこそが行動につなげるコミュニケーションだというのだ。

人は何という涙ぐましい努力をしているのだろうと思った。まさにハウツーだ。
感動しながらも、それが私の感想だった。

参考にできるところはある。
しかし、全てに先立って心の根源を満たされない限り人は満足しないだろう。神と出会い、人生の意味と目的を知ってこそ時間の使い方も行動も変わってくる。その時にこの手法を参考にはできるだろう。


リード・コーチのT講師は女優の山村紅葉さんと井野宣教師を足して2で割ったようなお顔で、物忘れのひどい私も今でもはっきり記憶している(笑)。
posted by 優子 at 21:44| 随想 | 更新情報をチェックする

2008年02月16日

キング牧師の『自由への大いなる歩み』

再び『自由への大いなる歩み』を開いてみた。
そこにはキング牧師を殺そうとする恐るべき脅迫と、「絶望的な人々の暴力」の苦悩と葛藤も述べられている。

「にわかに僕の心はひるみ、恐れが加わってくるのが感じられた。・・僕はすでに飽和点に達していたのだ。・・勇気がすっかりくじけ去り疲労困憊したこうした状態のなかで、僕は、この問題の解決を神様におまかせしようと決心した。・・

不正や人種隔離を受動的に受けいれることは、抑圧者たちに、彼らの行動が道徳的に正しいと告げることだ。それは、彼の良心が眠るのをゆるす道なのだ。・・

黙って服従することは、しばしば安易な道ではあるが、決して道徳的な道ではないのだ。それは臆病者の道なのだ」。


心無い白人達の暴力の恐怖と闘い続けたキング。

キングは彼らが自分や「ニグロ一般について述べた一切の言葉について考えた」時に、怒りの念が再燃した。

あのキングでさえ怒りが彼の心をむしばみ始めたというのだ。我々の経験とは比べものにならない苦痛だったことは承知していても、あの偉大な人物もまたそうだったのだということに心打たれ、それらの怒りに負けてはならぬと闘い抜いたキング牧師は実に偉大なる人物だった。

歯を食いしばって怒りを抑え、すさまじい闘いを経てきたキング牧師に心が震えたのを覚えている。


「非暴力抵抗者は、苦痛は人を教育し変化させる大きな力を持っているということを知っている。・・・反対者を打ち倒すことを拒絶するのは勿論のこと、彼を憎むことさえも拒絶するのだ。

非暴力の中心には愛の原理がある。
・・ここで僕が愛というのは、理解と言うことであり、救済する力を持った善意ということだ。・・・人間の心の中に働いている神の愛なのだ。

暴力は決して永続的な平和をもたらしはしない。暴力は社会問題を解決しない。単に、新たなもっと複雑な問題をつくりだすにすぎない。
暴力は、生き残った人々の中には苦痛を、破戒する人々の中には野獣性をつくりだす。

もし僕たちが憎しみをもって憎しみにこたえるならば、僕たちの人格は失われてしまう。・・僕が兄弟(他者)を傷つけるだけ、それだけ僕は僕自身を傷つけているのだ。・・・非暴力を信ずる者は、未来を深く信じている」。


『自由への大いなる歩み』は、昨日前掲した有名な演説より5年前にキング自身によって書かれた闘争の記録である。アメリカで出版された翌1959年に日本でも第一版が発行された。

45年前とはいえ教会が堂々と人種隔離をしていたことに驚く。日曜日の聖日礼拝の時間こそが一番人種隔離された施設だったとは、私はここに人間の実相を見るのだ!

キング牧師は、白人の牧師たちのことは闘争経験の中でも大きな失望だったと書いている。そして、

「教会は観念の領域で活動するばかりでは十分ではない。
まず、教会は人種隔離の束縛を教会自身の肉体から取り除かねばならない。こうすることによってしか、教会は有効に教会外部の悪を攻撃することはできないのだ」。


と述べている。
このことから感じることは、クリスチャンはみことばに養われながら、政治経済や社会問題などにも関心を持って現実生活に足をつけて歩んでいかねば、彼らと同じ間違いを犯すだろうということだ。

大学時代に読み、人生の苦難の時には、「どうして!!!」と苦悩に絶叫していた私を支えた一冊でもある。

posted by 優子 at 15:12| 随想 | 更新情報をチェックする

2008年02月15日

I Have a Dream.

アメリカの大統領予備選挙ではヒラリー・クリントン氏を制してバラク・オバマ氏が優位に立った。

米国の黒人とは黒人奴隷の子孫であり、「オバマ氏はケニヤ人の父が留学生時代に白人の母とハワイで出会って結婚し」ての子供だから、正しくは初の黒人大統領ではないらしい。

しかしながら、有色人種のオバマ氏が大統領選に立つこと自体に隔世の感を強くする。 かつて公民権運動を展開し暗殺されたキング牧師を思い出すからだ。

1963年4月、ワシントン大行進でのマーティン・ルーサー・キング牧師の演説は、ケネディ大統領と共に20世紀の有名な演説として記憶されている。
以下はその時の演説、「私には夢がある(I Have a Dream)」からの抜粋である。

今から100年前、ある偉大なアメリカ人、今の我々にも多大な影響を及ぼした人物が奴隷解放宣言に調印しました。・・・捕われの身で過ごした長い夜の果てに見た一条の光、歓喜に満ちた夜明けの光だったのです。

ところが100年経っても黒人はまだ自由になっていない。
100年経っても悲しいことに、黒人の暮らしは差別の鎖でがんじがらめにされ手足の自由をもがれたままです。・・・

もう頭を冷やせなんて贅沢を言ってる場合ではないのです。
ゆっくりやればいいなどと気休めを言っている暇はない。
民主主義を実現するのは今をおいて他にない。今こそ暗い人種差別の荒んだ谷から立ち上がって平等という日の当たる道に進もう。
今こそ我が国を差別というぬかるみの泥沼から友愛という揺るぎない岩に引き上げよう。今こそ神の子すべてに正義を実現する時なのです。

この差し迫った課題をウヤムヤにすることは、国家の存亡に係わる由々しき問題です。・・
1963年、それは終わりではなく始まりの年。日が昇るまで我々国家の土台を揺さぶり続けるでしょう。

ここでひとつだけ、正義の殿堂の暖かな入り口に立つ同志には断っておかなければならないことがあります。
正しい居場所を確保するまでは、まかり間違っても過ちを犯さないこと。嫌味や嫌悪の杯で自由の渇きを癒すことだけはやめようじゃないですか!
闘争は尊厳と規律をもって進めていかなくては駄目です。抗議行動は創意工夫をもって行い、暴徒にだけはなり下がらない。

繰り返します。物理的な力に魂の力で立ち向かう、その高みを我々は目指していかなくてはならないのです。

黒人社会は今また新たな厳戒体勢に包囲されています。これはとても信じがたいことです。
でもだからと言って白人すべてを不信の目で見るのはやめにしようじゃありませんか。白人の同胞が今日ここにたくさん集まっておられることでも分かるように、彼らの中にも白人が我々と命運を共にする運命にあると見透した人は大勢いるのです。
彼らは我々の自由なしに自分たちの自由は有り得ない、それが分かる人たちです。


我々は一人では歩いていけない。
歩き出したら前進あるのみ、そう心に誓おう。
もう後戻りはできない。

きっとこの状況は変えることができるし、絶対変わっていく、そう心に信じて。同志よ、絶望の淵に溺れてしまってはいけない。今日、明日、仮に困難が待ち受けていようとも私には夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざしたひとつの夢です。

私には夢がある。
いつか、ジョージアの赤土の丘に元奴隷の息子たちと元奴隷所有者の息子たちが一緒に座り、友愛のテーブルを囲む日が来るという夢が。

私には夢がある。
いつか、あの差別の熱にうだるミシシッピー州さえもが自由と正義のオアシスに変わる日が来るという夢が。

私には夢がある。
いつか、私の子どもたち4人が肌の色でなく中身で判断される、そんな国に住む日が必ずくる。I have a dream today!


私には夢がある。
「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」。 (イザヤ書40章4・5節)
これが我々の希望。この信仰を抱いて私は南部に帰って行こう。

この信仰があれば、絶望の山から希望の石を切り出すことだって叶う。
この信仰があるなら、この国に溢れる騒々しい不協和音を友愛の美しいシンフォニーに変えていくことだってできる。
この信仰があるからこそ我々は共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢に入って共に自由のために立ち上がることができる。いつかきっと、いつかきっと自由になる日が来る、そう信じればこそ。

すべての村、すべての部落、すべての州、すべての町から自由の鐘が鳴り渡るその時、私の夢はもっと早く実現の日を迎え、ありとあらゆる神の子は黒人も白人もユダヤ教徒も非ユダヤ教徒もプロテスタントもカソリックも共に手を携えて、あのいにしえの黒人霊歌を歌うのです。

やっと自由になった!やっと自由になった!
おお、全能なる神よ、感謝します。
とうとう我々は、自由になったのだと!

            Dr.Martin Luther King Jr.



" I Have a Dream."は、次女が中学2年生の時に参加した関西女子中学生の英語暗誦大会で取り上げた内容だったから、今も私の耳に残っている。

このままの英語ではなかったが、キング牧師の声と次女の声が今も私の中で高らかに響いている。優良賞入賞したこともまた懐かしい思い出である。

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not judged by the color of their skin but the content of their character. I have a dream today!

今年はキング牧師が暗殺されてちょうど45年になる。
アメリカの行くえを祈りをもって見守っていきたい。
posted by 優子 at 21:57| 随想 | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

悲嘆の闇にある友のこと

昨秋10月にご主人を亡くされた友から、8日遅くに初めてのメールが入っていた。
喪中の葉書きを出すまでは気を張っておられたのだろう、その後、お正月から寝込んでることが多いとのこと。時々文字化けしてわからないのだが、胸が痛んだ。

「家事をして、時間かけて、ちょっとでも、多く食べれるようにしてます。・・・生きる気力が、わいてこなくて、何かしていても、むなしくなってしまいます。・・・」

これはS・O・S である。
9日、ペンクラブ例会に行く前に見つけ、とにかくお返事を書いた。ところが、今朝になっても返信が無かったのでいよいよ心配になり、今朝から何度も電話していたが不在。先ほど、ずっと寝込んでおられたとの返信がありひとまず安堵した。

友の悲嘆のプロセスを越えて行く助け手になりたいと、両親を亡くした時の悲嘆や、書物から学んだ知識を思い起こしている。
悲嘆の苦悩にはいろんな出来事が複雑に関連しており、その苦悩を和らげるには、ひたすら聴く行為によってのみ可能なのだ。私も聴いて欲しい、話したいという心境だった。

感情を吐き出せる人がいて、性格的にも吐き出せる人はいいが、怒りをうまく処理できないままでいると、重度の鬱状態や心身症状を引き起こす。

かのC・S・ルイスでさえ、愛妻を失った時は、
「『求めよ、そうすれば与えられるであろう』(マタイ伝7章7節)の代わりに、実際は『求めても得られない』と教えているように思える。
なぜ、こんなことになるのであろうか」
と『痛みについて』に記しているという。

このような悲しみや苦悩の怒りをぶつけてもいいということと、神は分かってくださるということを知っておくことは大切だと思う。神だけが私たちの苦しみを解決できるお方なのだから。

私は友が怒りや不満を話しやすいようにしてあげたい。怒りや不満が出るようになると、心のバランスがとれるようになり、祈りへと導かれていくだろう。
何よりも愛をもって嘆き悲しむ友を抱しめてあげたいと思う。

悲しみの本質は愛だから、友はそれほどにご主人を愛されていたという証しなのだ。


    The better to have loved and lost,
    Than never to have loved at all ―.


愛して失いしが、愛せることのなきよりも、はるかにまされるを。
           (テニスン 『イン・メモリアム』より)

これを書きながら友を訪ねていこうとの思いを与えられたのでお尋ねしてみようと思う。互いに慰め励まし合って地上の旅路を越えていきたいと思っている。
友の上に神さまの慰めが豊かにありますように!
posted by 優子 at 22:00| 随想 | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

詰まるところ、太宰は傲慢だったのかもしれない

昨夜、先のブログを書き終えて2階へ上がると、夫はハラハラドキドキする暴力的な洋画を見ていた。こういうところも趣味が全く合わないところである。

まだ眠くないので近くの3段ラックから渡辺和子さんの『目に見えないけれど大切なもの』を見つけ、テレビの騒音の中で読み始めた。

渡辺和子さんの著書は30歳代に何冊も何度も読み、私を自己確立に導いてくれた恩人であり多大な影響を受けた。
何年か前に読んでいたこの本を読んでいると、太宰のことを再び考えさせられた。

最初のエッセイ冒頭に河野進の詩を挙げ、次のようなことを書いておられる。

        こまった時に思い出され 
        用がすめば
        すぐ忘れられる
        ぞうきん
        台所のすみに小さくなり
        むくいを知らず
        朝も夜もよろこんで仕える
        ぞうきんになりたい


「本当に、こんな生き方ができたら、どんなにいいかと思いながら、そうなれない自分と毎日一緒に暮らしている。・・・

所詮人間は神ではないのだから、100パーセントむくいを求めない仕事などできっこないのだ。・・・

今の私は、優等生のぞうきんになり切れず、まだ、ひそかな自己満足を求め、味わっている。
でも、そんな私に、『それでいいんだよ。ぞうきんになろうという気持ちだけは忘れないでいなさい』と、優しく言ってくれる声がある。その声に支えられて、毎日を歩んでいる」。


私も全く渡辺さんと同じ心境であり、時として神の声よりも太宰の如くに自意識に悩まされる時さえあるが、だからこそ神に祈るのである。渡辺さんの書いておられる正直さに共感することしきりだ。

太宰ならばそういう自分を許せなくて、徹底的に追求していくのだろう。それもまた悪霊(サタン)の働きなのかどうか私にはわからないが、苦しむ太宰に、
「それでいいんですよ。そこでイエス・キリストに助けを求めればいいんですよ。
主イエス・キリストを通してでしか神を知ることはできないし、主イエスを通してでしか解決はないのですから。考えるのはやめて祈るんですよ!」

と言ってあげたいと思ったが、知人から福音を聞いているという文献があったのを思い出してガッカリした。

神のメッセージを聞いていても受け入れなかったとすれば、やはり傲慢だったというのが破滅に至った原因かもしれないと思ったからだ。
それだとすれば、『人間失格』の最後の言葉とも一致する。

「私たちの知っている葉ちゃん(太宰)は、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・神様みたいないい子でした」


ついでながら、今月の『よろこびの泉』には次のような河野進の詩が掲載されている。

          こたえて

       天の父さま
       願い通りにならなかった
       恵みを感謝いたします
       願いをはるかに超えた
       恵みを感謝いたします
       どのような愚かな願いも
       最善にこたえて下さる
       恵みを感謝いたします


私もこの信仰に立つ。
祈れることは最大の恵みである。
posted by 優子 at 08:11| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年02月10日

『人間失格』―太宰の悲惨―

昨朝午前9時頃から降り始めた雪は夕方になってやっと上がり、奈良では11センチの積雪となった。

私は朝一番に美容院へ送ってもらい、その前に立ち寄ったベーカリーで買った焼き立てのパンを渡して夫と別れ、カットを済ませてからペンクラブ会場の吹田へ向かった。

40分遅刻して到着した時、3名の方たちで機関誌の校正を終えられていた。その後、関西ブロックの運営について1時間ほど審議して昼食を共にした。

55年の歴史がある日本クリスチャンペンクラブは全国組織であり、その支部の一つである関西ブロックが立ち上げられて6〜7年、今までのご苦労をお聴きしながら、本部と支部の位置づけを明確にして運営していく時期にきていると感じた。

さて、例会には久保田先生と大田先生を加えて全8名の少ない参加者であったが、一流の文学者から親しく御講義を拝聴できる特権を主に感謝した。

4回の自殺未遂を繰り返し5回目で完遂した太宰治。
『ヴィヨンの妻』、『パンドラの匣』、『お伽草子』、『桜桃』、『女生徒』、『津軽』など読書会でも取り上げ、ついでに短編もいくつか読んだことがある。

以下は今回のノートから―

まず文体については、読む者に話しかけるような文章になっているのが特徴である。

太宰は人を愛するということを忠実に神さまの前で悩んだ作家である。小説なので事実そのままではないが、自分の偽善など自分のありのままを書いた精神的自伝である。しかし、ここには救いがなかった。

本当の私とはいったい何だろう。
本当の私を出した時に、人は受け入れてくれるのだろうか
と、今の若い人も傷つきやすい自尊心で生きているから、今も尚これほどに読まれ、この本から本当の自分に気づかされるきっかけを与えてくれるのだろう。

罪の問題。人並みの人間として厚かましく生きられず、自分は生きるに値しない人間だと感じている。
神の前で人間失格なのか?!

我々の殆どが人間失格に陥っているのが現実である。
しかし、太宰ほど本気で聖書を読んだ作家はいない。
他者への和解の唯一の道が「道化」であり、それを全て見抜いている神さまがいる。それまでの日本文学では罪を贖ってくれる義はどこからくるのかを捜し続けていた。


作品的には戦時中に書いた『富岳百系』、『走れメロス』、『津軽』、『お伽草子』など中期の作品はレベルが高く、聖書の信仰によって支えられて人生を肯定しているものもある。

「神に問う。信頼は罪なりや。」
いくら治療のためとは言え、入れられた所は精神病院だった。
人を信じてはいけないのか、人を信じるのは罪なのかと悶える太宰。

我々は自分が傷つかない程度に人を信じているのではないだろうか。太宰は我々に、人をそこまで信じたことがあるのかどうかと訴えているのではないか。

戦時中、谷崎は中央公論社から頼まれて已む無く源氏物語を書いていたが、自ら戦争に加担しなかった作家は山本周五郎と太宰だけである。

この作品に対して批判もあるが、これは太宰でないと書けない作品であり、中途半端な借り物ではない。
キリスト教の本質は贖罪宗教であり、贖罪を書いた文学者は三浦綾子だけである。神の本質は贖いなのだ。


「信仰が無かったら人間は傲慢になる。
信仰によって相対的に見られるようになる。」

久保田先生の言葉も心に留まった。

最後に私がお聴きしたことについて―

聖書の読み方の問題や教会に繋がっていないことなど・・・いろんな原因があろうが、太宰がここまで真剣に聖書を読み、解決を求めていたにも関わらず破滅に至ったというのは何故なのか。
神の本質が愛ならば、何故救われなかったのか。

先生方からお応えはなかったが、これは文学論ではなく神学論の範疇になろうかと思うが、私の全ての関心はここに行き着くようである。

以下は本文より―

「自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信じられず、神の罰だけを信じているのでした。
信仰。それは、ただ神の苔(むち)を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。
地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信じられなかったのです。
      (略)

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞(ちょうし)なんかを読んでいるのではないでしょうか。」


鋭すぎる感受性を持った人間の悲惨なのか?!
これを突き詰めていけば狂気し、破滅に至るしかないだろう。


佐古純一郎は書いている。

「人格と人格の間では、分かり合うなんてことは金輪際できない。あるところまでいったら決断以外にない。

聖書が知識としてしか利用されないところでは、命の救済にはならない。「信じる」というのは「理解」ではない」。


まさに、カール・バルトが言ったように「信仰とは決断」なのだ。
ここにおいて太宰の悲惨を私なりに納得できるように思う。
posted by 優子 at 21:31| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年02月08日

『人間失格』で果てた太宰治

明日のクリスチャンペンクラブ例会に向けて、漸く太宰に夢中になっている。テキストの『人間失格』も読み終えた。14〜5年前に読んだことがあり今回は2回目である。

主人公、大庭葉蔵は太宰の分身だ。
太宰(文学)の最も大きな問題は人間不信であり、それが人間恐怖になってしまったことだ。

まず抑えておかないといけないことは、生後5〜6歳まで母親を知らずに育ったことや、高利貸しで大地主になった津島家の者であることに罪意識を持っていたこと、そして、誰からだったか忘れてしまったが、幼い頃に寺の地獄絵を何度も見せられて恐怖心を持ったことも無関係とは言えないと思う。

太宰の倫理観は「道化」だった。
倫理とは道徳を意味するものと誤解されやすい言葉だが、
”relationship ”「関係、かかわり合い」のことであり、人間と人間の関係を意味する。従って無人島で生きるのならば倫理は不要なのだ。


太宰は人が信じられず、人を恐れた。その太宰が他者との関係で生きていかねばならない人生は、虚構的にしか生きるしかなかった。
若かりし頃の私も自分らしく生きられていなかったし、誰しも道化を演じたことは多少なりとも経験している。

太宰にとって人間は偽善の塊に見えていたのだろうか。
彼は自分をごまかして生きることはできなかったのだろうが、一方でギョッとするような不純なものも感じる。また、自己の純粋なる感受性の鋭さを誇るというか、それと戯れていたようなところも感じる。

かつて太宰に熱中していた時、彼の聖書の読み方を知って驚いたものだ。
マタイ伝28章を読むのに3年かかっている。原書のギリシャ語でまで読んでいるが、悲しいかな聖書を読むことによって、より自虐的になり自己嫌悪し、自己否定、罪意識ばかりが深まっていった。

特にマタイ伝は律法で縛られているユダヤ人を意識して書いたものであるから、余計に律法的に読んでしまったのだろうか。
私にも経験がある。21〜2歳頃のことだ。若い頃は純粋なゆえに強い罪意識に悩んでいたことがある。

その頃買い求めた本に修道院の住所が書いてあったので手紙を書いた。返事を下さったシスターとは書簡上だけの交わりだったが、10通以上もやりとりして下さった中で、「あなたほど深く悩み苦しむ人を知りません」というようなことを書いておられたことがある。今も捜せば出てくるはずだ。優しいシスターを苦しめて悪いと思った。

凡人の私でさえ聖書を読めば読むほど追い詰められていったのだから、感受性の鋭い太宰ならば頷ける。

『人間失格』の中で、太宰はアントニム(反対語)とシノニム(同義語)探しをし、ついに「罪」のアントニムを見つけられなかった。佐古純一郎は、「罪」のアントニムは「義」だと言っている。

しかも、これでさえ律法的であり、「信仰のみという恩寵に召し入れられる時、十字架で罪を贖って下さったイエス・キリストの御名によって祈るという行為が聖霊に導かれて出てくる」と述べている。

あそこまで自己否定したならば、どうしてイエスの十字架の贖いにより自己肯定に転じられなかったのだろうか。
かつての私は、こんなに苦しむ者をどうして神が転じて下さらなかったのだろうかとも思った。


「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われてもできないと苦しんだ太宰。それは太宰だけではない、誰だってそんなことできやしない。
だからこそ、祈りが出てくるのだ。
まさしく、ここが破滅に至るかどうかの分かれ道であり、信じるという決断なのだ!

イエスに助けを求めようと決断した時に、聖霊によって祈りへと導かれていく。自分の力ではできないが求め続ける者を変えていって下さる。従って、祈ることさえ自分から出たものではなく、聖霊が祈らせて下さるのである

例えば、『Human lost』では125回も聖書の言葉を引用しているほど聖書を読んでいたのに、信仰に導かれるどころか自殺で果てた。
「聖書を読んでいたのに何故自殺したのか」と、読書会でも問われた。

太宰にとって聖書とは何であったのか。
それは私やあなたにとっても同じように問われているのに、自分の問題として考える人は稀有であり、太宰の研究家A先生でさえご自分とは無関係な出来事であった。


明日の例会が楽しみである。
午前中の編集会議から参加するので長時間の外出で疲れるだろう。
ちなみに、『あしたづ』の最終校正は5日の編集会議で終わり、23日の理事会で発行配布されるのを待つばかり。

明日は再び終日お留守番の夫。
専業主婦が休日に外出するのは心苦しいが、本人は再び羽を伸ばせると結構喜んでいるのかも(笑)。

posted by 優子 at 08:09| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年02月07日

病いにある方々を想いつつ

祈りのリストには病気の方々のお名前を最初に書いている。親しい友のお兄様を初め、何人かの知人たちが深刻な病いと闘っておられる。
今朝はウィリアム・バークレーの『慰めの祈り―病むときに―』から、祈りつつ文字を打っていきたい。
病んでおられる方がこれをご覧になって、神さまからの平安と新しい希望が届きますように。

おお 神よ
家に帰っても再び同じ生活はできないと分かっております。
いつも気をつけていなければならず
すべてが前よりずっとゆっくりで
努力することも以前のようにはできないでしょう。

わたしが今あるがままで、
持つべきものは持っていることを喜ばせてください。

今なお生きて、働くことができます。
動き回ることもできます。
友人たちと会い、美しい世界を目にすることもできています。

これまでは、あまりにも早いペースで生き
あまりにも大きなストレスがあったのだと
今、わかります。

ですからこれからは
生をあるがまま受け入れて
最善を尽くせるようお助けください。

正しく歩んでいけば人生はまだ終わらず
もっと善きものは、
これからくるのだと確信させてください。
パウロのことばを思い起こさせてください。

「わたし(パウロ)は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」
              (ピリピ人への手紙 4章11節)

持てるものが小さくとも大きくとも
わが心は満ち足りている。
主よ、われになお満足を与えたまえ
主がかかる者を救われるゆえに。


       ・・・・・・・・・・・・・・

身体だけではなく、精神の病いにある方々も覚えて祈っています。そして、その方々を支えておられるご家族やごきょうだいのためにお祈りします。

祈りの格闘の渦中にある時は苦しいです。
苦難が長い年月続くうちに自分勝手な理解により、神の力を人間の理解可能な範囲に留めてしまった経験があります。周囲の人々を別世界のことのように眺めていた時もありました。離人感、妬み、いろんな思いを経験しました。

しかし、その過程はとても大切であり尊いものであると思っています。人はその苦悩、祈りの格闘を越えてこそ荒野に泉湧くことを知るのですから。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」
とダビデが歌ったように、私たちも必ず勝利させて下さるのです。

私達には神のご計画が分からないから苦しみ悶えますが、神は私たちを背負ってまでも完成へと導いて下さるお方ですから、これが最善なのだということを忘れないで艱難を越えて行きたいと思います。

苦難の時は、「今こそは恵みの時」(共同訳)であることを信じて進み行きたいと思います。


神の祝福が豊かにありますように!

          
             
posted by 優子 at 16:28| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2008年02月06日

第34回 聖書の集い・「オリーブの会」ご案内

2008年第1回目の家庭集会「オリーブの会」は、
2月29日(金)に決まりました。時間は11時15分からです。


この会は聖書を読んだことのない方を対象に、それぞれの人生経験を通して感じたことを自由に語り合いながら、聖書を読み進めていく「聖書の集い」です。

自分自身の歩みを振り返りながら、また、皆さんのお話をお聴きしながら、聖書、即ち「良き知らせ」に耳を傾けるのです。

近隣の方は、お気軽にお出でかけ下さい。
昼食準備の関係から25日までにご連絡下さいね。るんるん

posted by 優子 at 17:48| ご案内 | 更新情報をチェックする

ニーバーの祈り

「神よ、
 変えることのできるものについては、
 それを変えるだけの勇気を与え給え。

 変えることのできないものについては、
 それを受け入れるだけの平静さ(serenity)を与えたまえ。

 そして、
 変えることのできるものと、
 変えることのできないものとを見分ける知恵を与え給え」。


プロテスタントの神学者ラインホールド・ニーバーがマサチューセッツの教会で捧げたと言われている有名な祈りである。これは18世紀ドイツの神学者フリードリッヒ・C・エティンガーの祈りからきているとも言われている。

私が信仰生涯に入れられて早々に知った祈りであり、生きていく道しるべとなっている。特に母の苦難を進んでいく時には我が祈りとなっていた。

この「変えられないもの」とは、究極的には「死」である。
私にとって母の死は、悲しみを悲しめない、思い切り泣くこともできないほどの悲嘆だった。幸いにして、父の時は泣くことができた。泣くことができたとしても、病気で声の出ない人もおられる。声を出して号泣できるのは何と感謝なことかと思った。

こうして私も母と父の死を越えて来た。この地上に両親が居ないことにもすっかり慣れた。

娘たちがそれぞれの人生を歩みだしてから常に意識していることは、私が母と父と別れたように、ことの順序通りを願って、今度は娘たちが私と別れねばならないということだ。

娘たちも主イエス・キリストを信じ受け容れているから天の御国で再会できる。永遠に別れることもないと約束されているので、死別は一時の別れであるが何と辛く悲しいことだろうか。

だから、遠くアメリカに住んでいる次女だけではなく、何度も会える長女を見送る時も、常に別れの時を意識している。私自身のためというよりも、あとに残る娘たちのことを想っているのだ。

結婚する前までのように一緒に生活できないから、会うたびに小さな別れを繰り返す。それは小さな喪失感であり、とても大切なことである。

何度も別れを惜しみ、小さな喪失を体験し、その寂しさを大切に重ねていくことで死別の悲しみをも乗り越えていけるようになると思うからだ。

私は今、親子共々再び心一つにされて最高の喜びと感謝に在る。私たち全家族が神に助けを求めて問題解決に努力したからだ。

自分自身を見つめ、現実の問題を直視して立ち向かう勇気を持ったことから全てが始まった。あとの問題は問題ではない。大切なことは、まず人生の座標軸を正しく定めることである。

人生の途上で問題が絶え間なく起こってくる。その最大の出来事は何といっても自分自身の死である。
私は私の死を死んでいかねばならないということだ。すべての出来事は、そのための備えであるからこそ大切に心を込めて生きていきたい。 

今日もまた神に許されて与えられた一日である。


posted by 優子 at 11:42| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年02月05日

ユキちゃんもすっかり家族の一員だ!

ユキをおんぶ.jpgこれは先週来た時のこと、私はお正月の残りのゴマメを炒っている。知子と真智子に使った負い紐も必須アイテムだ。

流しで水仕事をしていると体を真横に倒して、いつまでもじっと手仕事を見るのだから肩が凝る。

3ヶ月になる頃から、とにかく部屋でも外でも何処でも何でも初めての場所や物には、ジッと少しずつ視野を移行させながら見つめるのには驚かされている。
「この子は頭がいいと思うよ」と早々にバババカぶりの私。

まもなく生後7ヶ月を迎える孫である。
9日は3種混合ワクチン接種だ。最終3回目も無事に通過しますように!
posted by 優子 at 06:46| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年02月04日

主に在って一致して生きる幸い

私達は肉体以上に精神的なことも疲れに大きく作用しているものである。昨日7時前には帰宅したものの疲れを感じて夫と共に10時に就寝したが、今朝は夫もまた6時前まで目が覚めなかったのだから、何と私達は8時間も連続して熟睡していたのである。

昨日の話し合いでも再び知子の麗しい涙を見た。(同年12月16日追記:この日は長女の婚家先を訪ね、結婚前からの重要な未解決問題、及び、それゆえに生じた結婚後の懸念について、先様のお婆さまも同席されて7名の会合となった。)

一昨日もまたより深く気づかされたと語り、しかも娘だけではなく娘婿にも気づきが与えられているというのだ。
婿の言動や気持ちをよく知っている娘が、その変化に驚いているのだから主のみわざに驚き、感謝するだけではなく厳粛な気持ちにさせられている。


今朝は長い時間、聖書と信仰書を読んでいた。

言葉を尽くしても自分の立場だけを主張される相手を前に、そのうちに自分自身の心も頑なになり、私もまた相手同様に間違った自己主張に向かう危惧を感じた。人間とは実に弱いものである。

幸いにして口をつぐむことができたのは祈り祈られていたからであり、今までの経験から学んだことを活かすことができてよかったと思う。


ところで、聖書で言う「交わり」とは経験を分かち合うことを意味するのだという。

「それは、人生を共に経験することです。それは純粋に愛することであり、正直に分かち合うことであり、具体的に仕えることであり、犠牲を惜しまずに与えることであり、心から同情し慰めることであって、新約聖書の中に見出されるすべての『互いに』という戒めを含むものです」。

そのことこそが「純粋に愛する」ということだろうし、それは何と難しいことだろうか。
愛には犠牲が伴うことを改めて考えさせられている。
そして、親はいつまでも親であり、親としてもずっと成熟していかねばならないと思った。

帰宅するとミネソタからメールが届いていた。
メアリーベスさんのことを読み、真智子たちが日本を発ってまだ半月しか経っていないことに驚いた。そのところをご紹介したい。
ママへ

昨日メアリーベスが家賃の回収に来たので、ママからのプレゼントとマチたちからのミニ千羽鶴を渡したら、すごく感動してくれて、すっごく喜んでくれたよ。

ママの自筆をみて、びっくりしてたよ。
「英語が書けるのね!すごいわ。私は日本語を書けないわ。」って。あと、ママはクリスチャンだって言ったら、「あなた達もクリスチャンなの?」ってすごく嬉しそうにしていました。

ブドウの木の英語も、全部読み上げてたよ。
「これはクリスチャンカードね」って。
カレンダーも、「キッチンに飾るわ。いつも見えるように。」って言ってたよ。
愛は国境を越えるね♪

パパやゆきちゃん達にもよろしく。
                   真智子
I am the vine;you are the branches.
If a man remains in me and I in him,
he will bear much fruit,apart from me you can do nothing.


メアリーベスに差し上げたカードに書かれていた英語の聖句である。05budou1a1.gif
ヨハネによる福音書15章5節の有名な聖句だ。

「わたし(イエス・キリスト)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。
posted by 優子 at 16:17| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年02月02日

『人間失格』を読み直す

9日のクリスチャンペンクラブの例会に備えて、太宰治の『人間失格』を読み始めているが、なんて自虐的なんだろうか。

今回は久保田先生からコメントが出ている。

1.「人間失格」とは、どういう意味か、
   何をもって「失格」と言うのか。 
2.なぜ今も多くの人に読まれるのか。その魅力。
3.内容、書き方、文体について、どう思うか。


読書会ではないものの、信仰者の感想を聞けるのがとても興味深い。

読書会への最終原稿も日が迫ってきているし、証しも気になっているが、祈りつつも筆が重くて全く書けないままである。


posted by 優子 at 20:11| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年02月01日

苦悩の涙が喜びの涙になった

孫はかわいいけれど、つ・か・れ・る(笑)。
昨夜もパワー全開で孫が大泣きしていたので夫が帰って来たのもわからなかったが、部屋に入ってきた夫は私の目の前に箱を差し出した。

「ケーキや!!!」

見事なる緘黙症(無言症)の我が夫。
絶対に娘のために、娘が居るから買ってきたのに何も言わないのだから、「誰かしゃべらせてあげて〜〜〜!!」と言いたい私。


長女は昨夕帰宅するはずだったが、伴侶の帰宅が遅くなるとのことでもう一晩留まることになって今日のお昼過ぎに帰った。

昨日は久しぶりに長いあいだ話し合った。
夜は夫も一緒に3人でも話し合った。先様の申し出をお受けして3日に京都の婚家先に行くことになっているが、詳しく書くのは控えたい。

自動車に乗る前に長女を抱きしめた。細い体。
長い長い間、抱き合った。
二人とも泣いていた。
苦悩の涙が喜びの涙になっていた。


「ママ、ごめんね」
「ママも悪かったね。
知ちゃん、またおいでね、いつでも待ってるからね。」


運転席に座った知子の手に私の手を置いて短く祈った。
声を出して泣きたいのをこらえて、曲がり角で自動車が見えなくなるまで見送った。
門を入ると、ありがとう!と知子の声が聞こえた。
ともちゃーん!気をつけてねーと、私も叫んだ。

涙を拭きつつ、まとわりつこうとするチャッピーをよけながら家に入り、大急ぎで外出の用意をした。
まもなく民生委員OBのOさんが迎えに来て下さり、最後の「市民ワーキング会議」に出かけた。

知子と真智子は、私と夫に神様から賜った宝物。
誰よりも娘たちの幸せを願っている。
父と母がそうであったように。
イエスさま、ありがとうございました。
posted by 優子 at 22:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする