2008年08月31日

神と共に悲しみを越え行く C

「優子姉と共にキリスト者が父上様を共に守られ導いておられます」とは、当時の私にはとうてい理解できないことだった。
闘いの年月にあった頃、自分で祈ることができない時があった。しかし、そんな時も常に祈られてきたのだった。私のために祈りを積み上げて下さったことに思いを深めたい。

神は時に友を遣わして慰めと励ましを与えて下さった。
今回を最後に、これは父を看取った1週間後に届いた富樫姉からのお手紙である。
敬愛する優子様

京の五山の送り火 大文字が今夜です。
奈良も大阪も 全国で召された人達の霊を慰めます。
その八月 人生の大往生を 愛する人達に囲まれて 地上を去られたお父上様は お幸せな人でいらっしゃいます。

不思議なおはなしですが 召されゆく人も介護する者も 映画やお芝居のように お別れを充分にできる例はありません。そばにいても 眠りに誘われているか トイレに立つ間か・・・であります。最も愛する者が眼をみひらいてそばにいては お別れができないそうです。

私は朝6時 病院から電話で 10年介護した人と別れました。覚悟していましても 病院の庭の木の下で慟哭しました。
残された者の上に十字架があり、愛する人を 父母 そして家族が 宝であることを知ります。

身体は解放されても精神状態はいつまでも不安定なのです。
愛する人を失った傷あとを 自ら(猫が手をなめて癒していくように)の思いと愛で埋めましょう。

両親ほど愛を与えてくれた人はありません。墓参の度にごめんなさいを私は繰り返しています。

優子さまは、智と愛と理 を兼ね備えておられるので 悩まれるのです。何事にもすぐれておられるので 他者のなされることに 人よりも鋭く感じられるのです。
その長所を 文筆 または 何かの 未知なるものに投影なさいませ。

しばらくご両親様のことが 胸中から動きませんが それが供養と仏の道では申します。
涙がこぼれないように 上を向いて歩いて下さいませ。

炎天下、今津の礼拝に出ています。「教会はキリストの身体である」、 その中に入れてもらうだけの原始的な信仰なのです。
お祈りしています。

      2000年8月16日
           M.Togashi

この頃は放出教会が改築中のために、今津の礼拝に出ておられたのだろうと思う。放出教会に行くたびに昨年まではお目にかかっていたのに、小山牧師の告別式にお姿がなかった。ご無沙汰しすぎてしまった。

手紙こそが何にも先立つ贈り物だ。
私も40歳になる頃までは筆まめだった。1年間にどのくらい書くのか数えてみたことがあり、便箋170枚以上になっていたことに驚いた。しかし、母の苦難が厳しくなるにつれ書かなくなっていったように思う。以来、今ではすっかり筆不精になってしまった。

人は一人では生きていけない。
友のために何もできなくても、その方のことを思い出すたびに手紙を書こうと思う。そして、「あなたは一人ぼっちではない、いつも憶えて祈っていますよ」と伝えよう。
私が苦しかった時、私のことを気にかけて下さっている人がいるということが、何よりも嬉しくて頑張ろうと思えたからだ。

父と母の晩年をふり返る恵み。
2008年の8月も今日で終わる。
恵みの紐を絞め直して、神と共に新しい週を始め、9月に入って行こう。これを読んで下さっている方々の上に、神の祝福が豊かにありますように!          God bless you!






posted by 優子 at 09:50| 父母を想う | 更新情報をチェックする

無害性心雑音で心配なし

幸悠の心臓に雑音が聞こえると言われて、昨日、心電図と心臓のエコー検査を受けたところ、「無害性心雑音」と呼ばれるもので、そのうちに消えるので心配なしということでした。
祈って下さってありがとうございました。

食欲旺盛でたくさんいただく幸悠は、78センチ余りの背丈があり身長は高い方ですが、体重は9、3キロと低めです。
お医者さんに「よく動くのでしょう」と言われたそうです。

チョコチョコ歩いている姿を思いうかべると会いたくなります。
幸悠は今、かわいい盛りです。
posted by 優子 at 08:38| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年08月30日

神と共に悲しみを越え行く B

このお手紙は、父が亡くなる1年前の1999年夏だったと思う。放出教会の富樫正子姉より頂いたものである。

藤本優子様

厳しい暑さの中、愛する御父上様の御介護とお心のゆれる中、摂理の神への信頼に基づいていられます。他者の非情な振る舞いに慣れていても心は揺れます。それが人間なのです。

地上を去る人にとり、傍らにいてほしい人は妻と娘です。男と女を造られた神の憐れみでしょうか。
今、優子姉が父の待たれる病床訪問は天使の使命があります。心を美しくして父上に介護してあげて下さいませ。

私は歌舞伎を見て感動するのは、義理にはさまれても 我を殺して正義に殉ずる場が多いからです。
まわりを見ないで、父と娘の最高の刻を! 特権を! 神に感謝しましょう。

それは後の日にわかります。あの日々の戦いがあったからこそ、神よりの慰めの宝が与えられます。優子姉と共にキリスト者が父上様を共に守られ導いておられます。

「慰める」の英訳は「共にいて力づける」の意味です。
天に送られる人は受洗の儀式はなくとも父(神)のみもとに召され、地上から祈らばそのことは叶えられるとあります。

私はキリスト教について考えています。
キリストの寛容は、殺人に近い行為、多くの人の信頼を裏切り続けても主はゆるされておられます。

寛容は「共に苦しみつつゆるす愛」とあり、私共も毎日毎日キリストを悩まして、そしてゆるされているのですね。

40代50代は花ざかり、60、70は娘ざかり、樋口女史が話されています。優子さんは人生のまだ花の日々です。

「あなたが右にゆくにも左にゆくにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ、これに歩め』」。(イザヤ30)

主が歩めと仰せの道は険しくとも共に歩んで下さいます。
共に苦しみ悩み、別れの苦しみも共有して下さるのがキリストです。
ふり返ると足あとが一人しかない時、主は抱きかかえていて下さるのです。
     
富樫姉は文学に造詣が深く、俳句の奥義を極め、画家であり、書家のような美しい字を書かれる。
今は施設に入所されていると最近お聞きした。もう92〜3歳になっておられると思うが、頭脳は鮮明であるともお聞きした。
富樫さんにもう一度お目にかからねばならぬ。地上におられるうちにどうしても感謝申し上げたい。
posted by 優子 at 07:48| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

イエスさまからのイーパル?、Ms.Sue

さて、26日の火曜日にお訪ねしたスー先生とは、今やペンパルならぬイーパルだ。節子さんにアドレスを教えて頂き、翌日にお礼メールを差し上げて以来、毎日1往復し既に3往復している。

私が書くのは間違いだらけの英語だろうから、スー先生に誤解が生じないようにと思いつつも、言語不能になれば日本語に切り替えようと気楽に楽しんでいる。こんな具合に・・・

Hi Ms.Sue,
My testimony will be issued by JCP next year.
But mine is only page 2 . I have not published my own book yet. I have passed 20 years since I became a member JCP.
The address of JCP is here. http://jcp.daa.jp/
Please open though it is a Japanese site.

And my site is "メメント ド ミニ", meaning of memorizing your Lord . This blog is my testimony .It is time of the prayer that I am writing.
I am glad if you open once. http://yukochappy.seesaa.net/

God speaking to me when I had my quiet time,
"To him who is able to keep you from falling and to bring you faultless and joyful before his glorious presence to the only God our Savior,"
I was comforted and encouraged.
Thank you Ms.Sue.
Thank you Jesus.

Yuko

私はクリペンの会員で「証し」を書いていることをお話したものだから、証しについて毎回尋ねられていた。
そこで今回は、日本クリスチャンペンクラブのサイトと共に私のブログもご紹介したのだ。
すると、こんな嬉しい返信が届いた。差しさわりのない部分だけ・・・

Good morning Yuko san,
I looked at your page and really want to know what you wrote so I will get a friend to read it to me! The background of the site is so lovely with the yellow flowers.

Today I was greatly encouraged. (別のことでである)・・・
God bless you, Yuko san--I hope to see you on Tuesday.
Love in Jesus,
sue
これからはブログの背景も、今までのように気まぐれでコロコロ変えられないかな?(笑)
実のところ、お訪ねした翌日にはどうしようかなという思いもあった。
私は50代も後半になり今更英語をという思いと、そのこと以上に、今の私は若い時と違ってやりたいことがあるから、あれもこれもではいけないと思った。
そんなわけで英語の学びではなく、クリスチャンのフェローシップのためにとの意識に定めた。そして、仕事に油が乗っている時は休ませて頂くことにしようと思っている。勿論、祈りつつ主の導きを乞いながら。

今朝、ペンクラブの原稿を書き上げて添付送付した。最近には珍しく運筆爽やかに走り、短時間で我が想いをまとめることができた。聖霊豊かなることがわかる。

ホッとひと息つきながら久々にクリスチャンペンクラブのHPを覗くと、次回例会の課題図書が島尾敏雄の『死の棘』とあったので驚いた。以前に推薦して読書会で読んでいるが、分厚くて514ページもあるので、フロムは後回しにして早速読み始めることにした。

お昼前にペンクラブ関西ブロックから『関西ペンの声・14号』が届いた。お世話下さった方々に感謝!
ここにも私の証しを載せて頂いている。膀胱癌の疑いにより生と死の狭間に置かれた時のことを綴った。真智子と3人で答志島に旅行して帰宅した夜に書いたものだ。これもまた近いうちにブログに公開させて頂きたいと思う。







posted by 優子 at 17:33| 随想 | 更新情報をチェックする

神と共に悲しみを越え行く A

ただ過去を振り返っているのではない。
今、強く迫られるものに促されて母と父に関する記事を続けたいと思う。それは誰のためなのか、何のためなのかわからない。

私が死に去りてのちの娘たちへのためなのか ― 娘たちには母親(私)がいかなることに苦しみ、何を求めて、どのように生きてきたか。子どもたちにどのような人間になってほしくて、いかなる生涯を送ってほしいかを願って育ててきたのか、そのことを知ってほしいという願いが強くある。だからこのブログは娘たちへの遺書でもあるというわけだ―、
あるいは、このような苦悩と悲しみの年月を歩いてきた私自身に、神は今一度、「しっかりせよ」と励まさんとしておられるようにも思うが、今は過ぎた日々を振り返りたくてならない。

私はこれまでに多くの愛を受けてきた。
あの方、この方に支えて頂いて今日在ることを忘れてはならない。
以下は谷口幸子先生より1995年10月31日落手した手紙だ。
この前日に私は44歳になり、翌年の10月25日に母は召される。
優子様

長いご看病に心身のお疲れ如何ばかりかと拝察致します。何の力にもなれませず、口先ばかりの人間でご免なさいね。ただ心から毎朝祈らせて戴いています。私も(夫と)一緒したかったのですが精検前で自重しています。

お顔色よいし笑顔で迎えて下さって、平安なご様子だったと聞いて、神様がご臨在下さって、厳しかった夏も力を与えて越えさせて下さったんだと感謝しております。

70年のご生涯、ご主人の片腕として一家を支え、3人のお子様をこんなに立派に育て上げられましたのです。
その上近隣の為に、特に恵まれない人、困っている人の為に温かく相談にのってあげられ、援助して来られたお母様のご生涯、ほんとうにご立派です。

しかも戦中、戦後の試練の中を生きて来られたそのご生涯には、おかし難い重みを持った貴品を覚えさせられました。確実に記された年輪の風格を見せて戴きました。

私と同じ大正15年(昭和元年)のお生まれだったと思っていますが、特別親しみを持たせて戴いております。

私は今、「死の積極的意義」について考えさせられています。
(甲状腺がんを)発病以来、私の生活は一貫して死の問題ばかり考えて生きているといってもいいと思います。

それ程、死は大きな問題です。クリスチャンにとっても死は人生最重要事ですね。
私は今、自分の死を見つめつつ生きています。癌でなかったらあるいは、ぼやけた生活が続いたかもしれませんが、癌は転移し、再発しひとり歩きする細胞である、恐ろしい病気であるという事実の前に自分の死を見つめて生きる毎日です。

自分の死を見定めて生きるとは、逆に自分の生を見定めて生きることです。限られた生命なるが故に、その限られた生命をいかに真摯に生きるかです。・・・
    

     
posted by 優子 at 07:44| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月28日

神と共に悲しみを越え行く @

1993年9月3日(金)
戦後最大級の台風が接近していて夕方までが雨のピークと伝えていたが、一日中雨は降らず両親との再会が叶った。

点滴している母の傍に座る。(この僅かな時間だけが会える時間だった)。窓から蝉がお腹を上にして死んでいるのが見えた。羽の透けた蝉だった。
「蝉が死んでる」と私は母に言った。
「私はなかなか死なへん。・・・私はどうやって死ぬんやろうな・・・。だんだん弱っていって死ぬのかなあ」と、母は一点を見つめて静かに言った。
「心配せんでいいよ。いのちを握っておられるのは神さまやから、良いようにして下さると思うよ。」
「そうやな。・・・急やったらええな、忙しいけれど」
「えっ?! 誰が忙しいの?」
「死ぬ人が」
そして、2人で笑った。

いつものように大江橋近くで別れた。(この頃は病院の帰りに実家に行くこともできなかった。両親が改築した家なのに、父は嫁に気遣って私を連れて行くこともできないでいた)。
私は車から降りて助手席の母のほうへ回り、いつも父と母と私は笑う。

「元気やな、走ってるから。まだ20代みたいやな」。そして、父は「嬉しい」と言った。父を喜ばすことができてよかった。
「また月曜日ね。ありがとう、さようなら」と、自動車が見えなくなるまで見送った。いつも神に祈りながら。

母と父のこと、両親の言葉をひとこと漏らさず書いておきたい。一瞬一瞬を私の胸に永遠に刻むために。


1993年9月20日(月)
母の頭が白い包帯で包まれていた。
昨日の朝、また母はこけて、あたりは血だらけの中、仰向けに倒れて意識が無かった。父はオロオロして私に電話をしようと思ったが、こんな時もしなかった。あの嫁のためだ。

ああ、お母さん!!!
かわいそうに、こんなにひどい苦難を忍ばねばならないのですか?
神よ、あなたは本当に存在されるお方ですか?
なぜですか?!
これまでにも頭を縫うほどまでの転倒を3度もしているのに、あなたは今回も母の命には触れなかった。だから感謝せよとでも言うのですか?
この極限状態にも、何も、何の杖も与えずに苦難を通らされるのですか?
母が何をしたというのですか?!
母があなたに何かしましたか?!
信仰さえ今も与えずに、ひどい方だ。


点滴の時に母と話した。
ああ、時間が止まってほしい。母と話せる時間が尊く尊く胸に迫った。

「死ぬことはこわくない。昨日も全然わからなかったから」と母は言った。私は一瞬祈って母に応答した。
「そうらしいね、死ぬ時は肉体の苦痛はないらしいね。
だから何も心配する必要はないから、それまでの生活をできるだけ快適にしようよ。生きやすいように・・・」

「そうやな」と言った母の目に、希望の光がかすかに走った。

「生きてる限り苦しみやな」
「生きる悲しみ、死ぬ喜び?!」
「そうや、その通りや。・・・私が悪いねん、こんな病気になったから」
「違うよ、お母さん。これはお母さんには何の責任もない。責任があるとすれば、全てを治めておられる神さまや、神さまの責任やろ?」
母は頷いた。

母に寄り添う父の肩を落とした姿、父が小さく見えた。
母自身は苛酷なすさまじい苦難を黙して耐え、父は母のことで落胆失望の悲しみを耐えている。母の悲しみを心身共に背負いきれない極限状態にある。私が実家へ手伝いに行くことさえできれば、父の荷も少しは軽くなるであろうに。
私は母だけではなく、その父をも励まさねばならない。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・

これらは母が亡くなる3年前の記録である。
母の場合は発病以来進行が非常に速く、この頃から甲状腺刺激ホルモンであるTRH(商品名はヒルトニン)の筋肉注射と、パーキンソンの症状も出ていたために脳の代謝改善薬ニコリンHの点滴が週に2回になった。しかし、効き目は全くなかったと思う。

しかしながら、この頃はまだ不自由ながらも母は話すことができ、私たちも聞き取ることができた。
それから3年後、母の死が近くなった9月18日の日記は14ページも書き綴っている。もうすぐ母が逝くというのに、長女も次女も、夫も、家庭も何もかもどうしようもない状態だった。兄嫁や妹のことも、夫のことでも苦しみ抜いていた。

1996年9月18日(水)
神の時が近づいていることを予感した。
とにかく私は長い間の次から次への苦難に加えて、K牧師やM牧師(9月6日、高津高校役員会を途中で退席し京橋のホテルケイハンへ急ぐ。クリスチャンペンクラブの重鎮である山崎宗太郎師と花盛勲一牧師に相談するために)の不可解な苦悩も全て真剣だった。
しかし、一切の苦悶の果てに、ついに神と対決することもなくなり虚脱状態になった。

私は嫌と言うほど神の前に素直になれぬ頑なな自分を知った。
理論や考え方の転換では、イエスを主とは呼べないことも最近わかるに至った。聖霊の助けがないと祈ることもできないことを知った。ああ、これが私のキリスト体験なのか!!!・・・

しかし、今は心から信じられるのだ。
祈り求めることは叶えて下さると!!だから祈ろう。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・

「過去を振り返ることはクリスチャンの命取りになりかねない」と、小山牧師が言われたことがあったが、私は常にそうであるとは思わない。きっと振り返り方を言われたのだろう。

これらは悲しい出来事には違いないが恨みもなく全き平安だ。
自己憐憫に陥ることもない。私にとっては、母と父の苦難を振り返ることで人生の何たるかを思い起こさせ、主の豊かな恵みの世界へと引き寄せられるのだ。
          
         こたえて
              河野 進
     天の父さま
     願い通りにならなかった
     恵みを感謝いたします
     願いをはるかに超えた
     恵みを感謝したします
     どのような愚かな願いも
     最善にこたえて下さる
     恵みを感謝いたします

最後の最後まで、神は母の上に正義はなされなかった。
しかし、最期の1年3ヶ月間に千里姉と谷口先生ご夫妻を母の病床に遣わして下さり、母を救い出して御許に引き上げて下さった。そして、父をも同じようにして下さったことを確信させられている。

ついに、神は私の切なる祈りを叶えて下さったのである。
ここに神の栄光を見ることができた。
神の栄光とは神の本質であり、私は全権を支配されている真実なる神を崇めたのである。




posted by 優子 at 10:27| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

きい子さんへ

「優子さん ご親切なメールありがとう。
星野さんのこと、びょうしょう六尺のこと、お母さまの病気のこと、異言の祈りのこと、あなたとはいくらでもお話したいことがあります。」
と短いメールを下さったきい子さん。

7月23日に圧迫骨折されてから少しは良くなられたとはいえ、今も左手で支えていないと起きておられない状態で、片手で打って下さったメールのお言葉は尚更に尊いものである。

また返信したいが返信のお心遣いをかけてはいけないので、きい子さんのことを想いながら今日のブログを書きたいと思う。

『病床六尺』は1991年11月19日の読書会で取り上げている。この日は長女の14歳の誕生日であり、私は40歳だった。ついでながら、鯨尺(くじらじゃく)で「6尺」とは、228センチのことである。
まずは私が発表した感想をご紹介しながら、読書会の雰囲気に遊んで頂ければ嬉しい(^−^)。

「子規の好奇心と観察力のすごさに驚いた。実に純情で、子供のような好奇心に溢れている。
俳人は散文を書く人よりも、はるかに言葉を大切に扱っているようだ。時には、そこまで深く考えるものなのかしらと、理屈っぽいと感じたくらいに一つの言葉を大切にしている。

家庭教育と女子教育の大切さなど、子供の教育論についてはとても興味深かった。
そして、心を打たれたところは、やはり子規の病状や心中を書いているところだ。子規は病人の立場からやってほしいことを書いているが、看護する側にはとても貴重な話であると思う。

最近、『台所から北京が見える』という本を書いた主婦がいるが、その豊かな発想に心震わせたのと同様に、子規は病床にあっても精神界は自由に広がり、いろんな世界を楽しんでいるところも心打った。ジャーナリストの仕事をやらせるとおもしろいだろう。」
 

ということで、毎度この程度の拙い感想で終始したが、西口孝四郎氏は常に鋭くて、この時に話されたこともまた今も鮮明に記憶している。

「写生」とは観察することだが、ただジーッと見ていてもだめで、自分が面白いと思うものが何であるのか。それを書くのが写生であり文章である。
その中にその人の考え方や感じ方、思想があるところに価値が出る。子規は物事の本質が見える人だ。

彼は(病床に臥して)何を求めていたのか。
それは薬ではないか。
その薬とは薬品ではなく、俳句であり、文章であり、絵、人、物・・であり、自分を楽しませてくれるかけがえのないものではなかったか。

子規の「薬」とは「くさ(くさかんむり)」を楽しむことである。即ち人間が楽しむものである。身の回り六尺の中にジャーナリスの目で書いていく。これが子規の薬である。

彼は何者であったのか。
俳人ではなくジャーナリストであった。ここに書かれているのは、物の見方のニュースであり発見(一つの解釈、特ダネ)である。
どの文章にもジャーナリスティックな精神が出ており、文化部的な記者の目を持ち、子規の頭の動かし方は今のジャーナリストにも通じる。

書くポイントは、新しい解釈で書くか、見方、品物で書くか・・・。

ジャーナリストは社会の動きが気になる。従って、子規は自分の文章が新聞に載らないと七転八倒した。

子規が初めて喀血したのが22歳(明治22年)の頃だったと思うが、この年に「子規」という名をつけている。西口氏は、「死期」を感じたからではないかと言われた。
このことを聞いて、西口流の鋭い感性に、自分の感覚を磨くとはこういうことかと深く感動した。
自分の大事なものをどう導き出すか。本を読むということにより、本来気づかないものをスパークさせて、いつか形にする。そういうことだと思った。


西口氏はこの読書会の最後に、「現代は漫画が薬になっているかどうか、病床に漫画があったかどうかだ。」と言われた。
私は入院されている西口氏を見舞った時、「先生の薬は何ですか?」とお聞きしたかったが聞けなかった。
氏は奥様の入院時のことについて、「看護婦がオシメを何回取替えにくるか、それが医療のバロメーターだ」と、悲しい現実を批判的に仰ったことが耳に残っている。

どんな人であれ、人は死を前にして漫画が薬になるとは絶対に思わない。

子規は30歳頃から寝たり起きたりになり、35歳で短い生涯を終えた。
『仰臥漫録』では、子規を介護する妹の律さんとお母さんのことに私の目は向けられた。特に、我が子を看取らねばならない母親の思いはいかばかりであっただろうか。そんな感想を持ったことを覚えている。


きい子さん、重い内容になってしまってごめんなさい。
でも、高い知性と鋭い感性で作家活動してこられ、何よりも信仰をもって深い人生を歩んでおられるきい子さんだもの、気楽な慰めなど慰めにはならないことをご存知ですし、私も人生にゴマカシはきかないことを知っているから、文学を語っても良かったですよね。

主がこの記事を薬に変換して届けて下さいますように!
このブログを読んで下さっているきい子さんを感じながら、自分に与えられている資質を熱心に磨いていきます。

きい子さんのこと、いつも憶えてお祈りしています。
主がきい子さんの霊肉共に支えてお守り下さいますように。無理は禁物、くれぐれもお大事になさって下さいね。ご快癒を祈っています。
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posted by 優子 at 17:49| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月26日

「病床六尺」の生活になった時、いかに生きるか

           あなたの手のひら

        暗く長い
        土の中の時代があった
        命がけで
        芽生えた時もあった
  
        しかし草は
        そういった昔を
        ひとことも語らず
        もっとも美しい
        今だけを見ている 


          
           私のいのち

        少しつらいことがあって
        帰り道
        枯れ草の中に
        花を見つけた

  
星野富弘さんの詩だ。
何が辛いと言って、星野さんのような生かされ方が最も苛酷だろう。ただし、星野さんは意志を伝達することができる。この上に、話すことも書くこともできずに完全に意志伝達不能の母は地獄だった。

このような重度の障害を持たれた星野さんに、神さまは渡辺昌子さんという伴侶を与えられた。昌子さんはもちろんのこと、そのご両親もまた、2人の結婚については悩みぬかれたことであろう。

以下はノートに走り書きしてあったメモだ。
「母が逝きて5度目の夏。」と書いてあるので、2001年の記述であり、この1年前には父も亡くなっている。
そして、こんなことが書いてあった。
「母は我々には到底想像もつかない懊悩と不安と闘っていたのだと改めて思う。ニーチェは『生きる理由があれば殆どどんな事態も耐えられる』と言っているが、母はどうだったのか?!
自殺するにも身体を動かせぬ状況で、忍耐強い母は不抜の忍耐で絶望を耐え抜いたのか?!」

この時はまだ、私の中で悲しみと苦悩の残影が色濃い。
「ただ他人に迷惑をかけて生きるのがたまらないと夫は言う。それでは生きる屍ではないかと言う。
彼の苦しい気持ちは痛いほどわかるけれど、しかし、それはたくさんの苦しんでいる人々を侮辱することになるのではないか。

他人のために役立って生きるのはむしろ易しいと思う。
他人のために何かできなくなった時、逆に他人に助けられなければ生きられなくなった時、どう生きるか。とても大事なことが問われているように思う。」

「何の役にもたてなくて、世話になるばかりで・・・」と、母も同じことを言っていた。
正岡子規の『病床六尺』ではないが、人は皆、最後は病床六尺の世界に入っていくのである。その時、私はいかに生きるのかである。星野さんが話されることをじかに聴きながら考えたいと思っている。

早速、星野さんの講演会に妹を誘ったが、あっさりと断られてしまってガッカリした。それに、長女たちも幼児同伴では周囲へのこともあり、難しいかも知れない。それで私たち夫婦2人で行くことになるだろう。というわけで、整理券が3枚余るのでご希望の方にお譲りしたい。

夫は講演会の前日は神戸泊だが、当日朝に帰宅するから「行ける」と言ってくれた。ゴルフの翌日で疲れているから電車で行こうと話し合い、今から楽しみにしている。

今日は節子姉が親しくしておられるスー先生のところへ行ってきた。節子さんにとってスー先生は、私にとっての谷口先生のような存在のようだ。

今は閉鎖されている「神の愛チャペル」(?)は、自動車で行けば10分ほどの所なのでタクシーに乗ればいいのだが、公共バスを乗り継いで1時間余りかけて行ったのである。

現在78歳のスー先生は、結婚後22歳から56歳まで宣教師として日本に住まれたので日本語も堪能で敬語も自由自在だった。テネシーにお住まいの方で、6月から半年間ほど滞在されるそうだ。

皆さんが餃子を作って下さっている間、私はスー先生とずっと話していた。「異言(いげん)」について強調されたが、私には全くわからない。

地図を見ながら初めての場所へ行ったことや、錆付いた頭をフル回転させたこともあってか、帰路についた頃からひどく疲れを感じた。異常な肩こりと身体の重さで、帰宅後すぐに倒れこむようにして眠ってしまった。

餃子の皮まで手作りして下さり、焼き餃子に水餃子。餃子だけでお腹いっぱいになるまで頂いたのだった。
節子さん、ご馳走さまでした!

posted by 優子 at 18:10| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年08月24日

今週は長女一家と香芝の教会へ!

久しぶりに再会した孫は、なんと小さくやせ細ってしまったのだろうと思った。病気をしていた1週間の命を繋いだのは、桃と野菜ジュースだけだったというから痩せるはずだ。今は再びモリモリ食べているが、今もまだ顔は小さく手足も細い。

感謝なことに、今朝は長女たち3人と一緒に礼拝に集った。
昨年10月に献児式をして頂いたのは富田林の本会堂だったので、長女たちが香芝の教会に来るのは1年半ぶりくらいである。娘は幸悠を抱きながら、皆さんの前で数分間近況報告方々ご挨拶させて頂いた。

知子たちの結婚披露宴でスピーチして頂いた真知子姉のことを、「まるで同級生と再会するような気持ち」と娘は嬉しそうに語っていた。礼拝後も楽しそうに語り合う娘の姿を見て感謝が溢れた。

礼拝が終われば自動車に直行する夫を気にしながらも、私もまたしばしの間クリスチャンの交わりの中で、言葉では尽くせぬ満たされたものを感じていた。

さて、関西在住の方々にビッグなご案内をさせて頂きたい。
このブログでも何度かご紹介させて頂いている星野富弘さんが、「ありがとう 私のいのち」と題して奈良でお話される。
星野氏については、過去ログ・2007年2月23日、2006年9月10日、2006年1月9日で取りあげているのでご参照されたい。

このほか、奈良県キリスト教連合会・聖歌隊「ならジュビリー」の讃美と、常田富士男さんの朗読、ソプラノ岡田由美子&ピアノトリオ「音登夢(おととむ)」によるソロなど、豊富なプログラムが組まれている。

   会場: 奈良県文化会館・国際ホール
         (近鉄奈良駅下車、1番出口から東へ徒歩5分)
   日時: 2008年10月25日(土)
   開演: 午後1時30分(開場・午後1時)


入場無料だが整理券が必要なので、主催している奈良県キリスト教連合会の実行委員会事務局、奈良キリスト教会・рO742−22−3818まで問い合わせて頂きたい。

なお、講演会当日の10月25日より11月3日まで、同会場、奈良県文化会館の2階展示室で、「星野富弘・花の詩画展in奈良」が同時開催される。

私は妹夫婦を誘って、また、孫が元気ならば長女たちも一緒に集いたいと思う。神のお導きを心から感謝し、皆様にもご紹介させて頂いた。

「わたし(イエス・キリスト)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
             
                 (ヨハネによる福音書 15章5節)

今から我が家の門にもこのポスターを貼らせて頂こう。
一人でも多くの方々に神の愛が届きますようにと祈りつつ。
posted by 優子 at 16:14| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年08月23日

聖書理解に立つ聖霊論かどうか・・・

やはり昨夜も今朝も肌寒い。昨日の最低気温は16度だったというから、10月初旬から中旬の気温だと思う。

さて、再び昨日の記事の続きだが、献本リストの中から『日本の霊の壁を打ち破れ』という小さな冊子を頂戴した。
というのは、昨秋頃から心に留め始めた「第3の波」について興味を持っているので、『聖霊の第3の波』も求めたのだが先約の方がおられたらしく入っていなかった。
今朝、洗濯が終わるのを待ちながら読み始め、86ページほどのものだったので興味深く読み終えた。ピーター・ワグナーという同じ著者のものである。

祈りつつ、警戒しながら読んでいた。
というのは、小山恒雄牧師の著書『恩寵の選び』で、次のように述べておられるからである。

「・・・聖霊論の問題は多くの混乱を招いている。特に『第3の波』とか『パワー・エバンジェリズム』といった聖霊論の理解は、十字架の贖罪を抜きにした宣教論的な把握の仕方で、聖書的とは言えないので注意を要する(ジェームズ・パッカー博士)。」

やはり読んでいて疑問に感じた箇所が何箇所かあった。
著者ピータ−・ワグナーのプロフィールには、「『聖霊の第3の波』という言葉の創始者でもある」と記されている。この冊子は1991年発行というから、既に20年も前に起こっているカリスマ運動だったのだ。

聖書の専門家である牧師、しかも、一人ではなく何人かの牧師から話を聴いてみたい。また、今後はこのことについて記事にしないが、クリスチャンのご意見をお聞かせ頂ければありがたいと思う。

今日は久々に長女たち家族がやってくる。
孫は来週30日に精密検査をひかえているが、今回の突発性発疹も全快して2日前から歩き回っているとのこと。
孫台風が到着するまでに、以上走り書きした次第である。
posted by 優子 at 10:30| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2008年08月22日

信仰生涯を終えた方の本届く

ここ数日前からの朝夕の肌寒さには驚いてしまう。
もう20年も前から夏はパジャマを着ないで翌日着るTシャツを着用している私は、昨夜はそれだけでは寒いのでTシャツの上から長袖のブラウスを羽織り、窓をピッタリ閉めて眠った。

今朝の散歩は日陰ではなく日の当たっている所を選んで歩いたほどで、それでもチャッピーはハーハー言わずに歩いていた。
手は冷たくて、これでは夏の終わりではなく運動会の頃の季節だ。今はまだ夏休み中であることを忘れさせてしまうほどの異常気象である。

ここ数日は『出エジプト記』に熱中し、神道と仏教関係の本を読んでいた。今朝は聖書を開く前に羽仁もと子の著書を読み、その後ずっと今月末までの原稿書きに集中していた。

そして、お昼前に宅急便が届いた。
過日、ペンクラブのH兄から不要になった中古本の無料頒布のメールを頂いており、その時にリクエストした本を頂戴したのだ。
不要になった本とは、日本キリスト教団・石山教会の召された方のご遺族が、ご主人の膨大な蔵書から信仰に関係する本を献品されたもので、H兄のメールには本のリストと共に、希望者は先着順に無料で送って下さるというものだった。

私は亡くなられた方も、お世話下さったS兄のことも全く面識はないが、主に在って厚かましくもリクエストした。そのうちの数冊以外、22冊も送ってきて下さった。

曽野綾子さんは、プロテスタントの我々には少々違和感があって人気がないのか9冊も入れて下さっていた。小説ではなく全てエッセイである。

本の持ち主は、これらの書物を読まれて信仰生涯を終え、天に帰られたことを思うと胸が熱くなった。
そして、奥様がご主人の遺物となった本を献品されて、有効に用いられたことに深い感銘を受けた。臓器提供もこれと同じことなのだろうか・・・・。

読みたい本が溢れている。
まずは、エーリッヒ・フロムの『生きるということ』。次に『聖書のフェミニズム ―女性の自立をめざして―』(ヨルダン社)かな・・・曽野さんの本も早く読みたいものだ。

カテゴリは、あえて「JCP関係」にした。ペンクラブのH兄のご紹介による拝受ゆえだが、これでは図書館司書は務まらないだろう(笑)。


21時03分追記:本の持ち主の名を記してもいいだろう。
「飛田さんは、石山教会の役員でもあられた優しい方でした。すごく熱心なクリスチャンだったと思い起こします。惜しい方でした。」とH兄が教えて下さった。
これだけの情報だけでも教えて頂いて嬉しい。いつの日か天国でお礼を申し上げたいと思う。

夕方から再び蒸し暑くなってホッとしている。それでも尚かなり涼しいが、夏が戻って来てよかった。
posted by 優子 at 17:27| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月21日

曽野綾子節は心の風邪薬

昨日から完全に言葉が出なくなってしまった。こんな時は曽野綾子節(ぶし)が心地よい。

>掃除は手抜きを原則。

>一致する部分で付き合い、相手の不得手とする分野には決して相手をひきずりこまないという礼儀を守る。

>人生のこれからの後半は、人を恐れたり、醜いと感じたり、時には蔑んだりしたくなるような思いで自分の人生を使いたくない。

>もうこの世にはどんなことでもあり得ることを知っているから、人をいい人か悪い人で分けているうちはだめなんです。

>人の心は、本気で他人を思い、責任を持ってその人と係わる時、必ず屈折した部分を持つようになる。その方がむしろほんものなのだ。

>影を濃く描くことによって、画家は光の強さを表わす。
悪をはっきりと認識した時にのみ、私たちは人間の極限までの可能性として偉大な善を考える。悪の陰影がないということは、同時に幼児性を意味している。


>私たちは、どれほどにも、成熟した人間にならなければならない。
それには、清流の中にしか身をおかないのではなく、濁流に揉(も)まれることであり、自分の手はきれいだと思うことではなく、自分はいつも泥塗(どろまみ)れであると思うことであり、自分はいつも強いと自信を持つことではなく、自分の弱さを確認できる勇気を持つことである。

>人を労わるとは、相手がいい人だから労わるのではない。いい人でも悪い人でも労わるのである。しかし、「弱者は常に正しい」などというでたらめを容認していると、真実はどんどん遠のいてしまう。

>付き合いの世界が拡がれば、特定の人の「毒」を強く感じずに済む。自分の運命を客観的にみることもできるようになるし、自分を傷めつける人に対しても寛容になる。

>選択というものが常に迷い、苦渋し、理性の間を彷徨しながら、どこかで愛に結びつかなければ、自分の生の実感を与えないものであることを知る年になった。

>利己主義ってあんまり責めちゃいけないよ。
人を責めてると、自分が立ち行かなくなるからね。

>魂の会話。私自身が年を取って余命幾許(いくばく)もないと思うと、いっそう内容のない会話で残り時間を過ごすのも嫌になる。

>間違いを自ら認めるのが恐らく勇気の本質なのである。



あんなに激しく命を奏でていた蝉たちは、いつのまにこんなに静かになってしまったのだろう。みんな務めを果たして、今鳴いているツクツクホウシもまもなく過ぎ去っていくのだろう。
蝉よ、私も一日一日を大切に生きるよ。

夏の終わりに心の風邪をひき、今日は元気な曽野節で休養した。
同じクリスチャンであるがカトリシャンの曽野綾子さん、『「いい人」をやめると楽になる』とは、書名からして正直でおもしろい。爽快だ。そして、『自分をまげない勇気と信念のことば』、この2冊から引用した言葉である。

>愛は愛するに至るまで、多くの場合、血みどろの醜さを体験しており、そしてまた、いったんそこへ到達したとしても、いつ瓦解するかわからぬ脆さを持っている。それゆえに愛は尊いのである。 (曽野綾子)





posted by 優子 at 18:28| 引用文 | 更新情報をチェックする

2008年08月19日

Charity begins at home.

今日の最も大きな罪悪は人々の抽象的な愛であり、遠くのどこかにいるような人に対する無人格的な愛です。・・・

自分の知らない人、めぐり合うことのない人を愛することは非常に優しいことです。何も犠牲にする必要はありません。と同時に自己満足もできます。良心が軽くあしらわれているのです。

こうであってはなりません。隣人を愛さなければならないのです。いつも一緒に生活をし、自分を悩ます人を愛さなければならないのです。

これはカトリック系の本から書き写したものと記憶しているが、書名を記しておらず出所は不明である。20歳くらいの時に感銘を受けたもので、即座に私の心に十字架のように深く刻まれた。

" charity begins at home. "(愛は近きより)である。
ボランティアに熱心であっても、その中には身近に援助を求めている親や舅に目を向けない人々もいる。

次女が中学時代の夏休みだったと思うが、老人施設などで奉仕せよとの課題が出たことがあった。提出する用紙には慰問先の施設名を記入するようになっていたと思う。

その頃の母は難病が進行し苛酷な日々だったので、娘には、「学校に評価されなくても、今はおばあちゃんとおじいちゃんを慰め励ますことこそ大切なことやね」と語り合った。
私は深い思いをこめて娘たちをこのように育ててきた。

ボランティア活動に行けなくて施設名を書けずとも、施設の署名がなくても、身近に助けを求める人を助けることこそ最高のボランティアである。他人か家族であるかは関係ない。

今生きる上で何が最も大切なことかを考え、賢い選択ができるように、また、学校という教育機関においてもそのことを堂々と発表し、学校側にも大切なことを伝えたいと、親として様々な教育的配慮も込めていた。

昨日ここまで書いていた時に、重い内容のメールが入って打ちのめされて、午後も悶々としていた。3時半頃から奮起して掃除に励んだものの更新しないで一日を終えた。

「救いの神さま。
私の中では、新旧の人の戦いが続いています。
あなたにおいて生まれた新しい人と、圧迫された古い人が頑強に抵抗します。・・・どうか、この生涯に渡って、私の中で続けられる執拗な戦闘を戦い貫かせてください。」


あなた(神)のご計画が日々進められていることを忘れることなく、忍耐する力を強め、寛容と愛の人へとお導き下さい。
両親を看取り、若い時と違って年齢的にも人生の一通りの経験をし、周囲がよく見えるようになっているのですから、あなたに頂いた翼をもっともっと大きく広げて、愛を尽くしていくことができますように。

私は主に在って、いのちの道を登って行きます。
主よ、感謝します。アーメン! 
posted by 優子 at 10:42| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

力強く働かれる神を感じる

今朝は、私たち夫婦が通っている香芝ゴスペルチャーチへ妹夫婦を伴って礼拝に集った。
今朝の礼拝は、富田林本会堂からインターネットによる同時中継礼拝だったが、福野牧師のメッセージを拝聴できたのは神の導きであった。

聖書はマタイによる福音書14章22節〜36節から、「要塞を打ち砕け!」と題して語られた。ここには2つの話が書かれている。

一つは、ペテロが水の上を歩いてイエスのほうへ行く有名な話で、何歩か歩いたペテロは風を見て恐れてしまい、「主よ、助けてください」と言ったところである。
もう一つは、イエスの福音(ふくいん、喜びの訪れ・good news の意味)を聞いた病人たちがイエスの着物に触れさせて下さいと願い、触った人々が癒された話である。

このところから語られたことは、霊的要塞の突破口はみ言葉に留まることである。以下に要約したい。

我々は物事を否定的に考える傾向があるが、これが罪(全ての人間が有している罪)の性質である。エペソ人への手紙1・2章に書いてある通り、我々は悪魔に縛られている。

では、暗闇(悪魔)の力とは何か。
それは、欺(あざむ)きであり、思い込みであり、臆病である。

「欺き」とは私たちを神さまから引き離すことである。
神さまに信頼する心をつぶそうとするものであり、私たちを不安や孤独感を感じさせるようにする。
不安になると真理が見えなくなり、どんなことが起こっても全てを悪く捉えるようになってしまう。

私たちはサタン(悪魔)の策略を学ばねばならず、いつまでも無知であってはいけない。プロセスや対処の仕方、行動によって結果としての実が変わってくる。

(他者に対しては)正直であるというよりも誠実であることが大切であり、即ち、正直さに愛を加えることである。例えば真実を語るにも、語る時と状況を選ばねばならない。

恐れと信頼は対称的だが、共通点は共に目には見えないということである。目に見えないものに対して最も力があるのは言葉である。詩篇56篇3・4節には、
     「恐れのある日には、私は、あなたに信頼します。
      神にあって、私はみ言葉を、ほめたたえます。
      私は神に信頼し、何も恐れません。
      肉なる者が、私に何をなしえましょうか。」

とある。
神は言葉によって天地を造られたように、言葉は霊的領域を動かしていく力である。

自分の最も深い部分は人と分かち合うことはできない。たった一人のお方(神)だけができることである。

ストーリーだけを聞くのではなく、メッセージを聴かねばならない。

次に、「思い込み」について。
信仰と推測は違う。主の前に出て触れて頂かなくてはならない。
不安を感じたら感じたとおりになる。しかし、み言葉は私の考え方を変えていく。

「臆病」は内向的で自己中心的な考え方である。
マタイ伝14章36節・・・イエスに癒しを求める人ではあるが信仰的ではなかった。
病気を治してほしいという自分の必要に敏感であり、必要のために行動を起こし、必要に応じて熱意の程度が変わる。(このことを否定的にのみ話されたことについては少々疑問を感じた。言葉足らずで誤解を招いたという程度だろうが)。

無関心さ、冷淡さ、冷ややかさ。これこそが自分の居心地のいい領域から出ようとしない姿である。

み言葉を聴き、主の愛の中に留まること。そして、み言葉の道を通って出て行く。その時に霊的な要塞が崩れていく。み言葉に聴くことが突破口になっていく。
すると、神のみ国の力が下りてくる。私の中で霊的な変化を感じ始める。み言葉に信頼し留まる者が勝利者となる。
                      
以上がメッセージの要約であるが、http://r-c-i.net/ をクリックすると聴けるので(勿論、無料)是非一度訪ねて頂きたい。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

牧師が告白されたように、私もまた、悪魔の策略に何度も陥った苦い経験がある。目には見えない悪の力が働いていることもよくわかるようになった。

幸いなことに、悪戦苦闘の日々であっても主と共に対処してきたことにより、その結果としての実が大きくなってきている。
私は神と出会ってから、愚かにも15年間もの時を要して悪魔の存在を知ったと言えるかもしれない。


私たちは一たび困難な事情に心奪われてイエスから目を離すと、ペテロ同様にその事に没頭し、恐れたり絶望してしまうが、絶望するには及ばない。

なぜなら、私たちもペテロのように「主よ、助けてください!」とイエスに呼びかけることができるからである。
私たちは、特にひとたび神の御手に導かれた者がイエスから目を離す時、必ずこの世の波風に悩まされるのであるが、イエスは私たちに、全ての困った問題を「わたしのところに持ってきなさい」と言われるのだ。私は生涯の最後までイエスだけを頼りに生きていく。

死を待つ時もイエスは語って下さるであろう。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。
posted by 優子 at 23:43| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

絶対的真理はイエス・キリストに現されている

昨夜は義弟たちを見送って家に帰ると9時40分になっていた。大急ぎでチャックンの短い散歩に行った。
今年は何ということなく藤本の親族と円満な時を過していたが、昨夜は非常に寝つきが悪く何度も目が覚めたので今朝はしんどかった。やはりまだ普通以上の緊張がある。(2006年の盆に続いて、2007年8月12日にも親族からの突き上げがあり、今も未解決なため)

さて、孫は気管支が弱くて、今回も風邪をこじらせて肺炎寸前になっているが、今朝は快方に向かっているとのメールが入っていたので一安心して、我が家の用事をする前に母屋を片付けに行った。

開口一番に今日が送り火であることを確かめると、義母は昨日だと言い、昨夜一人で済ませたというのだ。そうだったかなあ・・・と思いながらも、悪気なく席を外せたことは幸いだった。義母一人でしたことをかわいそうに思ったが。

1時間ほどで帰ってこられるかと思っていたところ、途中で3男の嫁が来たので時間が気になりながらもお昼まで話しこんでしまった。

家に帰ると、「ゆっくりやったなあ」と夫は嬉しそうに言っていた。
オリンピックに釘付けの夫に、「お母さんのところでテレビを見てあげたら?快く許可するよ!(^−^)」と言うと、「ええわ」と微笑んで、午後は2人揃って2時間近くも寝てしまった。

明日は新しい週の初め、異教の雰囲気から解放されて礼拝の恵みに与り、一同で力強く讃美歌を歌いたい。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
              (第Tコリント 1章18節)

夜になって妹から電話が入った。
私たち夫婦は、体力や事情が許す限り礼拝を第一に重んじていることを理解してくれた妹は、教会へ一緒に行きたいと言った。

私は祈りの中で、妹達と共に放出教会への導きを感じ始めているが、夫は近さを優先しているようで無理も言えず、明日は香芝の教会へ妹を伴うことにした。

私たちの思いをはるかに越えて、最善に導いて下さる神を信頼して、共に礼拝の恵みに与りたいと思う。
祈って下さっている方々に感謝しつつ。
posted by 優子 at 22:54| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

親を生き、祖母を生きながら、再び研修会感動録

昨日は夕飯の後片付けも早く終わったもののチャッピーの散歩にも出られず、午後からやり始めていたペンクラブの研修会報告を書きながら娘の電話を待っていた。

幸悠がまた心配な状態なのだ。13日のお昼過ぎから熱が下がったと思っていたが、一時的なもので昨日から再び40度の高熱で、しかも心音に雑音が聞こえるというのだ。

昨日の夕刻には当番制になっている休日診療の開業医を訪ねて3時間。多くの子供たちが来ていたこともあるが、熱の原因を確かめるべく血液と尿検査、点滴注射を受けて、今朝は紹介状を持って近大病院を受診することになっている。

子供を与えられると喜びだけではなく苦労が始まる。そうやって一人前の親に成長していくのだが、背後で祈る私もまた祖母を深めていくのである。

昨夜に報告書を完成させて添付してお送りしたが、書記役としてメモしていたわけではないので、担当者や内容も不十分なところもあった。
改めて資料を読み直して久保田先生のコメントをブログに書き損じていた箇所があったので、ここにも刻んでおきたい。

「同じ事実であってもいろんな見方や解釈があり、その真実の汲み取り方の深さによって違ってくる。人まねをする必要はない。人にどう思われるだろうかなど、よく見せようと思わないで、自分をごまかさずに書いていくこと。

ドロドロしたものを書けるのは信仰しているからであり、闇を書けなかったら光を書けない。『闇は光に勝たなかった』のである。苦しみの道中を見ているがこそ書けるのであり、全身全霊をかけて書く。人の書けないものを書くのはたいしたものだ
と語気を強めて講演を締めくくられ、私は私でないと書けないものを書いていこうと強く励まされた。

報告書が長くなり過ぎてはいけないので書けなかったが、ここに続けて書き記しておきたい。

「太宰は自分にごまかしなく追及し、聖書に関わったからこそ作品が生まれてきたのである。
人の偽善、自分の利益しか考えない人間を見据えているのである。『自分が生まれてきてすみません』とまで罪意識が強く、徹底的な自己否定だった」。


しかし、椎名麟三は違った。
『邂逅』(かいこう)の中の、「絶望的な挫折はないんだ。人間には立つ力が与えられているんだ」。「信仰によって、恵みによって」とは書いていないが、このように続けたかったはずだ。
「苦しい中にあっても、人間は神によって立ち上がる力が与えられているんだ」というメッセージが書かれた『邂逅』は、久保田先生には救いの書だった。『邂逅』とは「神に出会う」という意味である。

しかも、ここからが凡人と違っていた。久保田師は感銘を受けただけではなく励まれた。既に著名だった椎名に書いたものを持って行かれた。
「これだけの体験をしたらもっと書けるはずですよ。何のために書くのかを考えて、もっともっと突っ込んで書いて下さい。もう一度書いて下さい」との導きに励まれて、クリスチャン作家・久保田暁一が誕生したのである。処女作には椎名麟三の文章が刻まれている。

「文学は人に訴える力がある。人を生かす力がある」。

「一冊でもいいから人を励ます書を書きたいと思った」。
以来、久保田師は愛を尽くす生き方を通して、また、書き続けながら神の愛を伝えてこられたのである。
12日に図書館でもらってきたリサイクル図書の中に三浦綾子の『石ころのうた』がある。その解説は久保田先生だった。

私は、学問に燃える次女の大学時代から今に至るまで深い感動を重ねながら、生きるとはどういうことかを神に語り続けられてきたような気がしている。
「やりたいことがあるなら努力しないと人生が終わってしまう」という焦りを感じながらも、感銘を受けても努力しない、できない、しなかった。

今開催されている北京オリンピックで活躍している選手たち、また、エジソンやキュリー夫人も全て天才と呼ばれる人たちは、ことごとく努力し続けることができる人なのだ。この期に及んでまで愚言を重ねはすまい。要は努力するかしないか、賜物を磨くか磨かないかなのだ。

「人にどう思われるだろうかなど、よく見せようと思わないで、自分をごまかさずに書いていくこと。
ドロドロしたものを書けるのは信仰しているからであり、闇を書けなかったら光を書けない。『闇は光に勝たなかった』のである。苦しみの道中を見ているがこそ書けるのであり、全身全霊をかけて書く。人の書けないものを書くのはたいしたものだ」。


久保田先生が命を燃やして語って下さった言葉がいつまでも重く響いている。


母親を生きる長女は今、わが子を胸に抱いて病院にいるのだろう。わが子の命を守り育てながら、知子は母親に、剛臣は父親になっていくのだ。
泣きすぎてまぶたが腫れてしまった幸悠。
孫の大事ないことを祈りながら知らせを待とう。


蛇足ながら、昨日の義母への心の揺れもその日のうち解放して下さったからこそ、研修会報告書を書きながら感動が溢れたのである。心が正されなければ絶対に感動などできないことを、私は子供の時から知っている。だからイエスさまを知らずしては生きていけないのだ。

昨夜遅く窓を閉める時、私は母屋を見ながら娘と母の良き時間を祈り微笑んでいた。
だって、母を想う娘の気持ちも、娘を想う母の気持ちも同じだもの!
いつもこうして日々刻々に悔い改めに導いて下さり、本心に立ち返らせて私の心を守って下さる主に感謝している。
イエスさま、本当にありがとう!
posted by 優子 at 10:18| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月14日

早朝の光景 ― 讃美、誘惑、主の御名を呼ぶ ―

日中はうだるような暑さで、お風呂上りにはクーラーをつけるが、先週末から寝る頃には扇風機さえいらない涼しさなので熟睡できるようになった。明け方4時頃になるとタオルケットをかけないと肌寒いくらいで、寝冷えして月曜日の朝から喉が痛い。

今朝は営業時間外だったのに予想通り起こされてしまった。
夫はどんなに早い時間に起きなければならない時でも目覚ましをかけないのだから驚いてしまう。時間を気にしながらではゆっくり眠れないだろうに、夫は「いい、いい」と言う。セットしてやったが、案の定、その前に目を覚ましたので不要だった。

8月初め頃なら4時過ぎから夜が明け始めて、4時半にもなればすっかり夜が明けて小鳥たちの声も賑やかだったのに、今朝は暗かった。暦の上では立秋を迎えたとは言え、まだ8月半ばで夏真っ盛りだが、やはり季節は秋に向かいつつある。

5時過ぎに義弟たちがやって来た。夫の自動車のトランクに4人分のキャディーバッグを入れ、直ぐに出発した。2階の窓から義弟たちにわからぬように夫の車を見送り、もう一度眠ろうとベッドでねばっていたが、どうしても眠れずに5時半に起きた。

直ぐにチャッピーを散歩に連れて行ってやった。
6時までの散歩は気持ちがいい。「朝風しずかに吹きて、小鳥も目さむる時、きよけき朝よりきよく、うかぶは神の思い」。朝はいつも讃美歌30番が自然にでてくる。

明日のお寺さんの準備があるので義母に尋ねたところ、「今日から○○子(娘)が来るから」の一言で却下(笑)。以前の私は、このそっけない言動に苦しんだものだが、今では本当に変えられた。
決して慣れたのではない。慣れや鈍感になったのではなく、受け容れられるようになったのだ。

今も時として、例えば癌の疑いを耐えていた時などは、そのような言動に憤りを感じることもあるが、主が私を根本的に変えていって下さっているのが嬉しくてならない。

「では、去年のようにスイカを冷やして持って行きますね」と伝えた。
夫もいないことだし研修会報告に集中できるわけで、怒ることでも悲しむことでも何もないのだ。

いや、そうだろうか。
今朝の私の心は微かにではあるが反応していた。


「おやこ(母娘)のいい時間を過ごしてほしい」と願った時、義妹は60歳近くになっても元気な母親と過せるのか・・・。私は45歳を迎えた時には母は亡くなっていた。15年も違う・・・と、一瞬良くない思いが脳裡をよぎった。
だから、義母とのやりとりを書いたのだろうと思う。

今日は古新聞回収日なのでこのやりとりの前に、いつものように母屋を訪ねたところまだ鍵が閉まっていた。
7時頃、チャッピーの気配で玄関が開いたのがわかったので出て行った。「おはようございます。運びましょうか。先ほどはまだ閉まっていたので・・」と言うと、「もう運んだ」とのみ返された。これが日常だから何でもないことなのに、かつてのように不快に感じてしまった。

私だけではなく殆どの人は、他者に自分のことを心にかけて頂くことが嬉しくてならないだろう。私とて「ありがとう」の気持ちを期待してやっているのではないが、時として不快感に支配されそうになる時がある。
そしてまた、このようなことを書くことで、私はこんなに尽くしているのだと言いたいのだろうと、もう一人の自分が私に訴える。

今まで数え切れないほど訓練されてきているのだから、この誘惑の罠に陥らないで、こういう時こそ意志により信仰を働かせるのだ。大げさに言えば、ここが光と闇の分かれ道である。私は主を見上げる。

主よ、私の心を引き上げて下さい!
主に在る方々を思い起こせ!


研修会報告書、そして、クリスチャンペンクラブ本部発行の機関紙、『文は信なり』の原稿ご依頼も受けたので、感謝の祈りの中で研修会の恵みを書かせて頂きたいと思う。
主よ、感謝します、アーメン!


付記:8時40分、鳩飼さんからお礼のお電話が入り、20分間もお話して下った。全快までには長い時間が必要だろうが、霊肉共に支えて完全に癒して下さり、怪我の危険から守って下さるように祈ろう。感謝。感謝!
posted by 優子 at 09:15| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年08月13日

年に一度の再会、兄の上に神の導きを祈る

母に次いで父も亡くなった2000年夏、「せめて1年に一度だけでも、お盆のお墓参りの時に兄妹(きょうだい)揃って一緒に会おうよ」と、私は兄と妹に発案した。悲しい事情のために実家を訪ねる状況ではなかったからであり、それは今も変わらない。

以来、賛同してくれた兄と私たち家族は、昔話の七夕のように年に一度会うのが習慣になった。娘たちが結婚してからは私たち夫婦と3人だけである。

「みんな(墓に)入ってしもたなぁ。」と、兄が言った。
兄は父と母に手を合わせていた。
私は神さまに祈った。
「神さま、今年も兄妹(きょうだい)揃うことができませんでしたが、来年はどうなのでしょうか。3人一緒に来ることができますように一人ひとりをお導き下さい。お父さん、お母さん、心配しないでね。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」。祈り終えて目を開けた時、涙で目が潤んでいた。

この次は声に出して祈ることができるように。そして、両親の愛の片身である私たち兄妹3人揃って、墓前礼拝できるように祈ろう。
道は遠くとも御心に叶う祈りは必ず成就して下さることを、私は何度も経験済みだから希望を持って祈ることができる。


墓参のあとは、いつものように帰り道にあるファミリーレストランへ入った。
今回は長女夫妻も一緒のはずだったが、孫がまた11日から熱出しで私たちだけになってしまった。結婚して未だ墓参にも来ていない娘と婿であり、長女は伯父に子供も見てもらいたかっただろうから残念だったが、兄と2時間近くもいろいろと話すことができて主に感謝している。

最後に兄は言った。
「いつもお祈りしてくれてありがとう。僕はお父さんとお母さんが見守ってくれていると思うので、お父さんとお母さんに手を合わせている」。

この時は既に、かなり濃厚なイエスさまのメッセージを伝えたあとだったから、私は「うん」と小さな声で頷き、イエスさまがいいようにして下さるからと思いつつ兄の上に神の導きを祈った。

今回も兄に讃美歌のテープを渡した。
「またか(笑)」と言われる前に、「今度のは合唱団の讃美歌だからグリークラブ風でいいよ。」と言うと、兄は喜んでくれた。封筒の中に『デイリーブレッド』も入れておいた。

先日、鳩飼さんのことを知り、昨日の朝早く公共バスに乗って図書館で讃美歌のCDを借りてきた。それをテープに録音してメール便でお送りしたのだが、今朝それと同じものを兄にも録音してきたのだ。

録音しながら昨年・2007年8月11日付けの記事を読んでいた。
「優子、頑張れよ」と、兄が励ましてくれたことも全てが昨日のことのようだ。
また1年後はどのような日を迎えるのかわからないが、私は主に在って、一日一日を悔いなく重ねていこう。
まことの神を信じ、素直な心で誠実に生きること。これが全てであり、間違いのない人生、唯一幸せになる道である。


今年もまた去年同様に高島屋に立ち寄った。
明日、夫は弟たちと早朝5時出発でプライベートゴルフに出かける。さすがに4時半の起床は、私の営業時間外なので見送りなしの完全セルフサービスになる(笑)。あしからず。

幸悠(ゆきひさ)は、お昼過ぎから熱が下がったとのこと。ユキ坊、早く元気になあれ!


posted by 優子 at 22:02| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月11日

作家H姉から聞いた島尾敏雄のこと

先日の研修会でも取りあげられた島尾敏雄は、キリスト教作家の筆頭に挙げられる1人である。
1947年に神戸で起こされた同人誌『VIKING』(バイキング)に島尾敏雄がおり、そこに私が親しくして頂いているH姉が居られた。
かつてH姉から島尾の興味深い話を聞かせて頂き、その後、お手紙でも話して下さっている。私信ではあるが、島尾研究の興味深いエピソードでもあろうからご紹介したい。これは2002年3月27日に落手したものである。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私が「VIKIG」にいたのは久坂葉子が27年(1952年)の大晦日に自殺した前後だったのですが、その頃に島尾の恋愛の話を富士さん(作家・富士正晴)からきいたから、島尾はもう東京へ出ていったあとだったと思います。

とにかく作家になるには東京に居住していなければならないという大前提があって、みんな東京へ東京へと流れていきました。手書きの原稿を出版社へ走って持ってゆくような時代、電話を持っている作家などよほど売れっ子でないと、という時代でしたから。

島尾はそれまで神戸の久坂の家のそばに住んでいたようで、時々行き来があったみたいです。が、久坂葉子の自殺の原因と言われている失恋の相手を島尾であったと久世光彦が書いているのはあやまりで、その頃はもう島尾は結婚していました。でも作家になりたかったのでしょうね。

富士さんの語る島尾とミホ夫人の恋物語は、どうせ島尾がどこかで書いているでしょうが、私は読んでないので富士さんからきいた話を書きます。

島尾は明日出撃の命令が下りたら『回天』(正しくは「震洋」)かなにかで海の底へもぐり、敵の軍艦に体当たりしなければならないという特攻隊の隊長でした。いずれ死なねばならぬ身、男前のインテリ青年隊長はニヒルになっていたのでしょう。向こうの島の美しい少女に恋をしました。その女性は奄美の島の酋長の娘「色は黒いが南洋じゃ美人・・・」というのは富士流のふざけた形容で、美しい肢体と魅力的な顔をした島の豪族の娘でした。

月のさえわたる夜、毎夜向こうの島から命がけで泳いでくる娘、浜で待ってそれを見ている青年将校、娘は浜へ泳ぎつくとすっと立ちました。月の光で娘の裸体はきらきら輝いて見えました。夜光虫が娘の身体にびっしりくっついていたのです。島尾のこの話はあなたには前にしましたね。きれいなシーンをイメージして忘れられません。
(2009年2月12日訂正加筆:オレンジ色で表示した箇所は、毎日新聞2009年2月5日記事により、富士さん流のアレンジであったことがわかった。詳細は、ブログ2009年2月12日を参照されたい。)

やがて終戦、島尾の命は助かりました。ロマンティックな恋物語もそれで終わりになればよかったのです。島尾はきっとそれくらいに思っていたのでしょうね。ところが終わりにならなかった。神戸へ帰った島尾のところへ酋長の娘が追いすがってきたのです。

そして物語『死の棘』が始まりました。東京へ出た夫婦、というより酋長の娘さんはよれよれ、くたくたになった。それに巻き込まれて作家島尾もぐちゃぐちゃ、やがて生き抜くために夫婦は奄美へもどることを選択し、その後の島尾があるわけです。
以上、私の思い出話『今様道成寺』を終わります。
    

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

久坂葉子は川崎財閥創業者の曾孫で、芥川賞候補にもなった作家である。4度の自殺未遂をし、21歳で鉄道自殺をして果てた。

H姉は、筑紫哲也氏に絶賛された『不思議の薬 サリドマイドの話』を出版されているのだから、イニシャルではなくお名前を公表してもよいだろう。
鳩飼きい子(本名・きよ子)さん、1929年生まれである。
「姉(しまい)」から判るようにクリスチャンである。過去ログの2007年1月17日の記事に、鳩飼さんとの出会いや関連記事を書いているので再読して頂ければたいへん嬉しい。

8日に記した大田先生のお話を、鳩飼さんは興味深く読んで下さっているだろうなと何度も思っていた矢先のことである。
昨夕、鳩飼さんから電話があった。
「圧迫骨折で7月23日から9日まで入院していた。整形外科の扱いはひどい。悪い所だけ治したらいいという考えで、患者の年齢など考えない。医療現場のことを話したい。会いたい。身体も心もめちゃくちゃ。祈ってほしい」と、今にも消え入るような声で1分間ほどの短い電話だった。


身体的苦痛だけではなく、人間の尊厳がおかされた叫びなのだ!

「日赤で感じられた医療現場での患者側からの感想、文章にまとめて下さい。あなたの言い分なんか序の口ですよ。あの巨大病院の中で何があるか、です。」とは、6月末に頂いた手紙だ。私の癌の疑いが晴れた翌日6月28日に書いて下さったものである。

今は電話もできなくて鳩飼さんからの電話を待機することになっているが、私は今すぐにでも飛んでいきたい。お傍にいて身の回りのお世話をさせて頂きたい。宅急便を受け取るのも苦痛だろうか・・・通っておられる教会に電話すれば様子を聞けるだろうか・・・昨夜から考えあぐねている。

「もう70歳になったわ」と勉強会で話しておられたのは、ついこの前のことではなかったか。華奢な方だが、今も変わらず勢いある達筆な文字だからと安心していただけに、悲しくてしかたがない。
もう79歳になっておられたのだ。
心細いだろう、痛いだろう、不自由だろう、・・・祈りの中でどのようにすればいいか教えて下さるに違いない。読者の皆様からもご教示頂ければありがたい。
民生関係のことは後日に書くことにしたい。
posted by 優子 at 09:52| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

研修会こぼれ話感謝録

今回の研修会は特に意味深いものを感じていたが、8・9日の記事を書くことによって具体的に確認することができた。皆さんのお証しに教えられ導かれてのち、早天礼拝で松本姉が語られた言葉、「このイエスさまのことを書かずには死ねないなと思っている」にハッとしたのだ。

私にとってもまた、「書くことの意味」は伝道のためということに違いなかったが、自分自身の信仰が練られ強められることに傾斜しつつあったように思う。

神は文書伝道という尊い使命を私にも果たさせようとされるがために、私の手を引っぱって下さったような気持ちがしている。

一般のブログ文化に対しては今も甘えを嗅ぎとっているが、私は伝道のためとは言え、自分を深めるためにというスタンスだったから、ブログは甘えの構造につながるのではないかという懸念を払拭できなかったのだ。私にはこのことが何よりも大きな収穫だった。

ここからはこぼれ話である。
長原さんは、「65歳の人にいくら言っても75歳という気持ちはわからない。」と言われた。それぞれの年齢を真摯に生きておられるゆえのものと深い感銘を受けた。

この長原さんが私のブログを全て印刷して下さっているとお聞きして驚喜の悲鳴を上げ、恐縮しつつも神さまからの励ましと感謝している。
それだけではなく、例えば遠藤周作について書いた時は久保田先生にお渡しして下さっているというから穴があったら入りたい。長原さん、ありがとう!

そういえば、7日夕食後のこと、お帰りになる大田先生にご挨拶した時、「最近のホームページはきれいになりましたね」と仰ったのでびっくり仰天した。
膨大なお仕事をこなされているのに、『メメントドミニ』を覗いて下さっているとは光栄至極だ。互いに関心を持ち合って、励まし合うことの大切さを教わったように思う。このことは私もまた心がけていることでもある。

奥村直彦牧師とも親しくなった。
「藤本さんは何しておられるのですか」と声をかけて下さり、「ずっと専業主婦です」と申し上げると「もったいないなあ」と仰って下さった。
「妹さんは?」
「妹も専業主婦です。独身時代に国連の経済専門職員として西サモアに赴任していたこともあります。」
「国連の専門職員ですか・・・」と少々驚かれていた。

奥村先生とは今までにも5回ほどお目にかかっていたが、特にお話しする機会がなかった。
私の作品講評の折、「神さまは自動車のナビゲーターのようで、ナビゲーターは私たちが道を間違えても新たな道を示して下さり、いえ、ナビゲーターに敬語を使わなくてもいいけれど」と言い直した時に、皆さんが爆笑された。
牧師はその時のことを思って、「藤本さんはおもしろいなあ」と仰って下さったと思うのだが、親しい交わりへと導かれている。

かわいいリスのような笑顔の奥村先生は、元近江兄弟社学園長で、現在は牧師職のほかに同志社大学嘱託研究員の籍にある。ヴォーリズ来日100年・生誕125周年を記念して、3年前に『ヴォーリズ評伝 ―日本で隣人愛を実践したアメリカ人―』を出版された。366頁の大著である。推薦文は日野原重明氏が書いておられる。

ヴォーリス(1880〜1964)は、牧師にはならず信徒として証したいと、志していた建築学を神に捧げて海外宣教の召命を受けた。
ついでながら、奥村先生の御著書の広告チラシを参考にさせて頂いて、ヴォーリズをご紹介したい。

東京・山の上ホテル、大阪・大丸百貨店、同志社大学アーモスト館、関西学院大学や神戸女学院のチャペル、また、近年話題になった滋賀県・豊郷小学校など全国に数々の有名建築を建てた。

また、滋賀県近江八幡に近江兄弟社を創立し家庭薬「メンソレータム」(現メンターム)を日本に紹介した。地域に根ざした伝道・教育・医療・社会福祉事業を展開し、日本に多大に貢献した偉大なるウィリアム・メレル・ヴォーリズが昭和16年に日本に帰化してからは、満喜子夫人(華族の出身)の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)、米国より来りて留まる、という洒落た名前をつけた。

御著書ではヴォーリズの生い立ちから召天までを丹念に追い、生涯を賭けて行われた「近江ミッション」の全貌を明らかにしたヴォーリズ研究の決定版であり、詳述する初めての本格評伝である。


頂戴した名刺の裏には、Rev.・・・Ph.D.と書かれていた。
「Rev」は何の意味だろうかわからないが(真智、また教えてね)、博士号を取得されている学者だったことに驚いた。政治か経済をされていたというから社会科学者には違いない。次女の話をすれば、きっと興味深く聴いて下さることだろう。

最後に研修会で不注意優子が炸裂したエピソードを一つ。
今回、プログラムの作成を仰せつかり5日の午後に、開会礼拝、早天礼拝、閉会礼拝と3種類作成した。日帰りの方もおられたので一つにまとめてセットできないので、そのつど配布することにした。

8日の朝は必要なものだけを持って早天礼拝に向かった。そして、プログラムを配布し始めて気づいた。「ん?!!」がく〜(落胆した顔)、「早天礼拝」ではなく「閉会礼拝」と書いてあるではないか!!Oh,my God!

既に開始5分前。皆さんは席に着いておられた。
急いで部屋を出ようとした時、H兄が「どこ行くの?」と声をかけられたが、「説明はあとで申し上げます」と集会室を出たのだった。

全速力ではなかったが、股関節を気にしながら速力で別棟へ走った。
ところがまた、プログラムを手にして部屋の鍵を閉めたのだが、鍵が抜けない!ちっ(怒った顔)どうやっても抜けない。毎回妹がやってくれていたので鍵を触るのはこの時が初めてだった。

制限時間いっぱいだ。どうしよう。ここは一般のホテルではなくてクリスチャンアカデミーだ、お客さんも教会関係者だろうから大丈夫だろうと、妹のバッグを持って行くことにして鍵をさしたままで戻った。ふらふら
妹は直ぐに鍵を外しに行ってくれた。予定より5分遅れで礼拝が始まり、まもなく妹も戻ってきた。
 パンチ
 
日本クリスチャンアカデミー・関西セミナーハウスは、京都市左京区一乗寺・曼殊院の隣りにある。比叡の天然水がとてもおいしかった。
近くにある「宝が池」は、兄が大学時代にゴルフ同好会で練習に通った所だ。
妹も高校時代にスキークラブで宝ヶ池あたりを走っていたという。なんと素晴しい青春時代の思い出だろうか。勉強もクラブ活動も何もしなかった私には何の思い出もない。

主にある兄弟姉妹の中で妹の心も安らいだことだろう。
妹とこのように過せたのは20年ぶりぐらいになるだろうか。主と、主にある方々のお交わりを心から感謝している。言い尽くせぬほど感謝している。

私と妹にとっては、同志社入学後の修養会のように、いつまでもキラキラ輝く懐かしい思い出になることだろう。
いよいよ主に委ねて今まで失われていた絆を完全に修復して頂き、これまでの時を取り戻すかのように、楽しい時間を過ごすことができますように。急がず焦らずに、そして、兄と妹の関係も修復されることを祈り続けよう。

宿泊所を去る時、ヒグラシが夏の終わりが近いことを告げていた。

posted by 優子 at 16:30| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月09日

研修会報告 ― 鬱病で悩んでいる方へのメッセージ! ―

坂口良彬兄のお証しから:

現在70歳の坂口さんは、終戦の年が小学校1年生だった。大学は文学部に進みたかったが父親に反対されて法学部に進み、その後学生運動に傾倒していく。

2回生の時には大学自治会の委員長。学生運動の先頭に立って安保反対闘争に加わるが、権力に抵抗する恐怖心などへの疲労から鬱病になる。精神病院にも1年間入院。今もまだ薬を服用されているが、50年間患ってきた鬱病をようやく全快されようとしている。

聖書に出てくる12年間も長血(婦人病の出血)を患っている女は、イエスのうわさを聞いて近づき、癒されたいとの一心からイエスの後ろから衣服を触って癒された話であるが、坂口さんは、この女のごとき状態で教会に来られた。そして、24歳で受洗。

私はなぜ教会へ行かれたのかと不思議だったが、幼稚園と中学校がミッション系だったとお聞きして、改めてキリスト教主義の教育機関の使命の重大さを思った。
大学卒業後は名鉄(名古屋鉄道)に入社されて、定年まで勤め上げられた。

「精神病理学の限界がわかる。
自分の身の上に癒しの奇跡が働いた。全快の見通しがつかなかった時は病いは棘であったが、今は賜物であると思っている。
ここに至るまで、父を初め多大の人たちの努力によってやってこれた。」


私はこのことこそが、神が妹をこのところに導いて下さって、最も伝えようとされた神のメッセージではなかったかと思った。
坂口さんは周囲の人々を、例えばお父さまを苦悩の原因としなかったから、憎しみや恨みに縛られてはいなかったからだ。


そして、最後に次のように言われた。

「鬱病の人が教会へ来られたら、鬱病だからという心遣いからそっとしておくのではなく、仲間の交わりに引きずり込んでやってほしい。『無理なようなら言って下さいね』と声をかけながら、交わりを持つ方が早く治る。

マルコ伝5章にある悪霊にとり憑かれたレギオンが、イエスによって悪霊から解放されたことを悩む人に伝えて、自分の十字架を負っていくように励ましてあげてほしい。

イエスが奇跡を起こして病いを癒された時、いつも人には話すなと言われていたのに、レギオンにだけはイエスによって正気にされたことを話してやれと言われた。
だから私も語り続けたい。
肉体は衰退し、霊の身体に変えられて主なる神のところへ召されていくから、私もいつまで生かされるかわからないが、私が召された後も、神を求める人たちのために文章を書いて残すことに専念していきたい」。

 
ひどく感動した!!!私も斯くありたい。


「書くことは人生を変えていく。イエスさまに出会わなければ今の私はなかった。このイエスさまのことを書かずには死ねないなと思っている」。 (松本姉)

「私にとって『書くこと』は神への召しへの応答、献身である。文書伝道に召され、『神に近くあることを幸い』を感謝し、終わりの日まで忠実に従いたい」。 
                                    (O姉こと小川姉)

私もまた溢れんばかりの聖霊を受けて霊肉共に覚醒し、昨夜も3時間弱の睡眠になってしまった。目はヒリヒリしているが先ほどから昨夜の続きを書いている。

時々、私が書く「ブログで励まされている」と返して下さる方々があるが、坂口さんのお証しを書き終えて身近に鬱病の方と関わっておられる方を思い出した。今日の記事はきっと参考にして頂ける、いよいよ神の導きに繋がっていくのではないかと思わされて、このブログもまた神に用いられていることを感謝した。

最後に、文書伝道以外に気づかされたことを述べたい。

それは中路さんのお話から、私は民生委員会の濁を飲むことができなかったのかもしれないと思った。そして、長原さんならば世の中の表も裏も見てこられたから、長原さんに相談すれば直接的なアドバイスを頂けて何か影響を与えることができたように思った。

とにかく、私の所属していた民生委員会を運営している人達の違和感たるものや、どうしようもなかった。私にはその泥流を漕ぎ分けて前へ漕ぎ出すことは到底できなくなってしまって3年間で辞退したのだった。これこそが辞めた大きな理由である。


ついに語る時がきたと思う。
これは公表してはならないことではなく、国や地方行政の税金の使い方についても公表すべきことでさえある。その考えは持っていたが勇気がなかったのだ。
促しは常に自分の内側から来る。勇気も不安も全て外からではなく内側から来るのだ。
次の記事で研修会での軽いエピソードを書き終えてから書きたいと思う。









posted by 優子 at 11:40| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月08日

2008年度JCP関西・中部合同夏期研修会覚え書き

豊かに豊かに祝福された研修会、ああ、何から書き始めればよいのだろうか。昨日は十分眠れなくて今朝から疲れていたのに、恵みに溢れて今夜も眠れそうにない。そこでメモ書きしておこうと思う。

        7日 午前10時15分
開会礼拝。讃美歌191番。
説教は、安土教会・奥村直彦牧師による「平和の福音を告げ知らせ」。
「今の若者の中には、日本がアメリカと戦争をしたことも知らない人もいる。・・・『今の体制が悪い』などと平和を訴えて平和運動をやっているが、彼らは平和のために敵を作って争っているのがわからない。クリスチャンは神の言葉を伝えることが第一であり、遣わされたところで奉仕する。ここにヒューマニズムとの違いがある」。
祈祷、頌栄・讃美歌541番。

開会挨拶は文学者であり作家の久保田暁一先生。
師曰く、「この研修会の学びが一歩前進のよすがにならんことを!」。

発題講演は、梅花女子大学教授の大田正紀先生
「日本伝道を阻むもの ―奄美大島のカトリック弾圧から学ぶ―」。このほか、「奄美のカトリック教会略史と島尾敏雄」など、今回もまた豊富な資料を頂戴した。

「洗礼を受けた作家は多いが、島尾のように信仰をもって、それを原点にして書き続けた人は非常に少ない。島尾は少年時代にキリスト教と真剣にぶつかって、キリスト教を自分のものとして書いている作家である。

震洋特攻隊の隊長を務めた島尾は、最後まで出撃命令が出なかったために生き残ったが、いつ命令が下されるかと常に死が迫っている日々を経験した。

島尾は村の救い主のように尊敬を集めていた。そのような人物である島尾(夫)が不倫した。
子供たちの前で夫婦の争いが尽きず、ついに子供たちは『家庭の事情』という言葉を口にするようになってしまった。子供のひとりは失語症になって死ぬまで言葉は回復しなかったという。

そして、妻は精神病になってしまう。せめてもの罪滅ぼしにと妻の故郷である奄美大島に移る。

自分はどのような言い訳もできないほどの罪深い人間である。そして、それを赦して欲しいという願いを持っている。たった一度の(聞き間違い?)不倫のために、10数年かけて書き続けたのが有名な『死の棘』である。」


写真撮影、昼食。

午後は、児童文学作家の今関信子先生による講演。
テーマは「いま、ここに生きる」。
「クリスチャンの群れの中で支えられて生きていく・・」。

証し(私の書く意味と志)。
証しするにもレジメを配布されたことが今回の新発見、さすが!
自己紹介と主題テーマについて、ティータイム、証し(私にとって書くことは)、2グループに分かれて相互講評、各支部の現状報告、夕食、そのあと、日帰りの方は帰路に就かれた。

夜の部の司会役を務める。
証し(伝道)、「人生の最後は伝道であろうと思う。『長原はカメラと聖書を離れたら出世できる』と言われたが棄てなかった。35歳を初めに3回も市会議員に立候補」され、もう少しというところで落選されたが、社会運動に情熱をかけた熱血信仰者だ。

講演 「自伝の書き方」久保田暁一先生。
祈祷会。
予定より30分遅れて9時30分閉会、就寝。

        8日 午前7時40分
早天礼拝。
讃美歌30番(同志社に入学してまもなく、1泊2日で琵琶湖湖畔にある唐崎ハウスでの修養会のことを思い出す懐かしい讃美歌だ)。
奨励 「豊かな架け橋に」・中路治代先生。
親しく「中路さん」とお呼びしてしまっているが、中路先生は牧師でもあられる。
2005年の夏期学校で同室だった時に、大阪梅田・扇町教会の中路牧師の養女であることを知る。その時に、中路嶋雄牧師が書かれた『かくされた宝』を頂戴した。私の耳にも懐かしい中路牧師、扇町教会は兄が高校時代に通っていた教会なのだ。

「カトリックは清濁合わせ飲むというような印象があるが、私たちプロテスタントは最初から悪を切っているように思う。しかし、そうではなくてお風呂場で汚れた体を洗うように、清濁共に神の愛で潔められて強くなって生きていく。繋がり合い、架け橋になっていきたい。」

祈祷、頌栄・讃美歌543番。

朝食。
曼殊院見学。
私でも名前だけは知っていた有名な門跡、妹は案内人つきの特別茶室見学まで申し込んで見学した。遅刻せずに戻ってきてくれたのでホッとした(笑)。

奥村牧師による講演、「キリスト教文学 ―島崎藤村をめぐって―」。
「藤村は明治大学の雰囲気に魅かれて洗礼を受けたので回心していない。本人も『ついうっかり受けた』と書いており、洗礼を受けたことを後悔している。」

相互講評。ここで私の作品を朗読し講評して頂いた。
「短く一つのことを具体的に書くように」とは久保田先生。要は、内容が大きな出来事すぎて、このような短い作品に収めるには無理があり、読者には何があったのかわからない。これは20〜30枚の作品にしようと思う。いい勉強になったので、今後は率先して講評してもらおうと思った。そのためには書かなくては!!!

昼食。
午後は集会室から能楽堂の舞台だったところへ移動。勿論、ここでも机と椅子だった。

証し。
閉会礼拝。
讃美歌「ガリラヤの風かおる丘で」(関西ブロック例会で毎回讃美する讃美歌である)
説教は松本瑞江姉(牧師の資格を持っておられる)、「神のすばらしい約束」。
祈祷、頌栄・讃美歌541番。

ここで京都見学グループと、語り合いグループに分かれ解散となる。
妹は、名古屋と東京から来られた方々と共に見学組に加わり、私は残ることにして妹と別れた。2時過ぎだったと思う。
見学コース組は、京都在住のN姉の自動車で三千院と国際会議場、そして、N姉の教会にも案内して頂いて京都駅まで送って頂いたとのこと。
「楽しかった、ありがとう!」と、受話器から妹の明るい声がはじけていた。主が終始共に居て守って下さったことを感謝している。

私は7名の方たちと共に話し合いに加わり、滋賀県の方たちとは4時半頃別れた。そしてO姉と私は、吹田方面に帰られる中路さんに五条まで送って頂き京阪電車で大阪に戻った。
私以上にお疲れであろうO姉と、京橋で1時間半くらいも立ち話して、お別れしたのは7時前だった。この日の夫の夕食も用意していたので、休憩がてら夕食を外で済ませて8時40分頃帰宅。

  「私たちは神に守られて生かされている。
  大切なことは、力強く生き抜いていくということだと思います」。
久保田先生が研修会を締めくくられた言葉である。
      
     
       (現在、9日午前1時40分だが8日の記事に掲げる)


posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月07日

神の祝福

1997年5月15日、父が救急車で病院に搬送されて、命の危機を脱してからはすっかり変貌していた。そして、亡くなるまで一度も家に帰ることはなかった。

「お母さん、どうしてる?」
「お母さん、死んだやろ・・・」
「そうか・・・」と言って泣いた。

父が話してくれた言葉は宝石のように思え、帰りの電車の中で書き取っていた。

「ここはもうええから、お母さんとこへ行ったげて。喜ぶから。行って、手を握って、肩をもんであげて。・・・かわいそうや、疲れきってるから」と泣いた。
母はこの時も住友病院に入院していると思っていた父。

真智子が(高校の)修学旅行のお土産に買ってきたプーさんのぬいぐるみを、食べ物と間違えて口に入れようとした父。
壊れてしまった父を見るのは胸がつぶれそうだった。

「いつも同じ夢を見るねん。手を縛られる夢を。僕は何も悪いことをしていないのに」と泣いた。夜は手を縛られると、抑制されることを訴えていたが、私は何もできなかった。しなかった。

「お母さんの手がうずく」と言い、動かなくなった左手を撫でながら「大丈夫やで」と慰めている。

「お母さん、この頃、来ないけどどうしてる? 元気か?
お母さんに電話して顔出してと言うといて。はよ(早く)来てほしい。お母さんに会いたいなあ。」
と言って、少し泣き顔になった父。

明日は父が召された日。
8年が過ぎた。
今年の夏は、妹と一緒にペンクラブの研修会に行くなんて、これも絶対に考えられないことだった。
主に感謝し、これからも全てを委ねていこう。

イエスさま、ありがとうございます!!!!!
posted by 優子 at 05:58| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

一篇の証しを刻む

昨年8月30日の過去ログに、「29日の余録2つ」と題した「余録2」には、当時の苦しい心境を吐露している。それに続けて2日後に書いた記事が未公開のまま残っているので、ここに掲載しておきたい。

「早くイエス・キリストの胸に泣きつきたいのに、身体が不自由で動かないように心(魂)がイエスに向かない。心が麻痺し硬直してしまったように、神の前でも謙虚になれないと書いた。

犬に水を飲まそうと思っても、飲みたくなければ絶対に飲まない。その時のシーンと全く同じである。
どうしてイエスさまに泣きつけないのだろうか。
水を拒否する犬のように、「いらない。いやだ!」と力を入れて頭を横に向けている自分の姿を想う。

苦悶の一切の原因は明白だ。
相手がどうであれ、要は自分の罪が全くわかっていないのだ。自分の罪がわかっていないから、罪が赦されていることもわからないし、わからないから人を赦せないのだ。

今日は夫の62歳の誕生日である。」


あの時からもずっと、主は私に寄り添って励まし、慰め、導き、ちょうど一年の時間をかけて心を癒して下さり、一篇の証しを書かせて下さった。
新しい望みと力に溢れている今に至るまでのことを、一昨日の6時間と、昨日と今日の朝に2時間ずつかけて書き終えたのである。

同じ記事に引用していた金田福一牧師のメッセージも、消さずにここに残しておこう。

不信仰になると、感謝を忘れます。
感謝を忘れると、現実が暗くなり、耐え難くなります。
耐える力を失った暗い人は、家族の人たちや、周囲の人たちをも暗くします。

不信仰になると、「イエスさまが変えて下さる」という希望を失ってしまいます。不信仰とは、イエスさまのみわざと、お力を、信じないことです。イエスさまの御臨在を見失うことを、不信仰というのです。

しかし、生きておいでになるイエスさまが、自分のそばに、いつでも居て下さると信じる人は、現在がどんなに暗くても、イエスさまが、自分を変えて下さり、また、いつか必ず、その人をも変えて下さると、希望を抱くようになるのです


「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
 
              
              (ローマ人への手紙 15章13節)

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上・・・・・・・・・

広島に原爆を投下されて63年目の夏である。
この世の地獄を見、生かされた人はそれからも苦しみ抜かれた人々である。その人々も次々と地上から姿を消されていく。
国の犠牲になって人生を翻弄された数え切れない人々、数え切れない悲惨な人生の証言者が失われていく今、未だ原爆症にさえ認定されない無念さに苦悩する人々に、特別なる神の助けがあらんことを祈る。





posted by 優子 at 21:53| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月05日

祈り始めて8ヶ月、ようやく書けた!!!

やっと書けた。
昨春、クリスチャンペンクラブから「愛すること、赦すこと、平和を求めて」という執筆課題が出されていた。昨秋の55周年の時に書き上げている人も多くおられたようだが、私は今年になっても書けないでいた。たった35字35行が書けないのだ。いや、1行だって書けなかった。

今春、最後の読書会機関紙の原稿の締め切り2月半ばにも努力したが書けなかった。読書会の原稿は1〜2日で書き上げたが、証しだけは書けない。文章は心が乱れていては書けないが、特に証しは100パーセント聖霊の助けがないと書けないのだ。

今年の初めから締め切りの督促がかかるのを気にしながら、あるいは忘れられたのではと気になりながらも、日が過ぎるばかりだった。掲載の機会が与えられる時は、どんな小さな文章でもパスしたくない私が、祈っても祈っても書けなくて、今回だけは諦め始めていた。来年出版される本に掲載されなくてもいいとさえ思い始めていたのだ。

ところがである。
一昨日、妹が「私も何か書こうかな」と言ったので、
テーマはこだわらなくてもいいけれど証しを書くのだと話すと、的外れなリアクションを感じてガッカリもしたが、私は妹を励ましたい気持ちと、神の導きに協力することになるのかもしれないと思って、「その言葉に励まされて私も書こうと思う」とメールしたことが本当になったのだった。

昨日の午後、昼食を済ませて洗濯物も取り入れてPCを開いた。
2時過ぎに夫から電話があり、今夜は帝国ホテルで集まりがあるから夕食はいらないと聞き、夕食を作らなくてもいいからタップリ時間があると喜んだ。

ようやく夕刻6時過ぎに書き終えたと思えば、正しく設定していたはずの字数と行数が間違っていることに気づき、100字近くも削らなければならなくなった。疲れていたがやるしかない。ところが、どうやってもうまく設定できなくて、新しいワードファイル(?)を作って最初から打ち直しながらの推敲だった。

夫が帰るまでに夕食とチャッピーの散歩を終えておくつもりが、ファイルを閉じた時は既に8時半になっていた。早くしないと夫が帰って来る。食べるものは2〜3日前の握りこぶしほどのご飯が残っているだけで、それをお茶と梅干で流し込んで夕食をすませた時に夫が帰宅した。

夫は、2時過ぎに電話した時から私がずっと集中していたことを聞いて唖然とした。私自身も驚いた。6時間の間に立ったのが一度トイレに行っただけだった。昼食後は風が入っていたが、蒸し暑いのに扇風機をつけるのも忘れて集中していた。

人を愛する、赦す。
ようやく私の心にまた一つ小さな実が結ばれた気持ちである。昨夏から冬にかけて、あんなに大きな出来事を経験しているのに書けないでいた。
命を滅ぼしかけるほどの悔しさと挫折、そして、不思議な神の奇跡を体験しているのに書けなかった。私の中で神の祝福をさえぎるものがあったからだ。
書くことを通して神が私の細部まで探って、妨げの石を取り除いて下さったおかげで文字に刻むことができた。書くことで信仰が練られる、これが私の「書く意味と志」にほかならない。


こうなれば、研修会で大いに講評して頂きたいと思う。自分の作品を持参するのは今回が初めてである。

夜9時15分追記:
印刷して読むとやはり文章がまずい。唐突な書き方がいけない。数ヶ月経ってからブログを読み返すと、理路整然としなくて何を言いたいのか不明な文章もある。熱心に研鑽を積んでいきたい。タイトルもこれでいいか・・・やはり講評は断念すべきかな・・・。
posted by 優子 at 12:52| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月04日

「文は信仰なり」

「『文は信なり』という心構えで、一字一句に祈りを込めて文章を書くようにしよう。聖書にあるように、筆と墨とによる文ではなく、神の霊によって、書かざるを得ないような命あふれる文章を一行でもいいから書いてみたい。」
              
                  (満江 巌 『あかしの文章入門』)

これが日本クリスチャンペンクラブ(日本基督教文筆家協会)の真髄である。

「比叡山麓の自然の豊かな地で、しばし日常生活を離れ、み言葉を聴き、学び、交わりの時を与えられたいと願っております」。
今夏開催されるJCP(日本クリスチャンペンクラブ)関西・中部合同夏期研修会が近づいてきた。場所は、京都にある日本クリスチャンアカデミー・関西セミナーハウスである。案内状冒頭にはO姉の短歌が載せられていた。

「長雨も摂理にかないし時季(とき)なりし紫陽花(あじさい)の色いよよあざやか」

うたごころのない私にも味わい深く伝わってくる忘れられない一句である。
O姉は『信仰の友』誌上で、三浦光世氏(故 三浦綾子さんの半身)選による短歌に何度も取り上げられておられる歌人でもある。

私は5月に入って癌の疑いに集中していたために、楽しみにしていた下見にもご一緒できないまま、O姉に労を重ねて頂くばかりで申し訳なく思っている。

6月初めに案内状が届いた時は、「入院していない限り出席させて頂きます」とお返事していた。それが疑いが晴れただけではなく、研修会に妹も参加させて頂くという思いもよらない展開になっている。

このことは癌の出来事がなければ絶対に有り得なかったことであり、人知では計り知れない神のみわざに驚異している。神のみこころがなるように更に祈り続けて出発したい。

今回は9名の日帰りの方を含めて23名の参加者とのこと、研修会が豊かに祝されるように祈ろう。(5日追記:1人加わって24名になったとのこと)

「純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。
心に多くの辛い実験(人生経験の意)を経て、全ての乞食的根性を失って、多く祈って、多く戦って、しかるのちに神より与えられるものである。
文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である。これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。」

              
              (内村鑑三 『一日一生』4月5日)

私もいのちの文章を書けるように、これからも祈りをもって書き続けていきたいと思う。

posted by 優子 at 08:41| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年08月03日

ひきこもり

NPO法人全国引きこもりKHJ親の会(家族会連合会)によると、「ひきこもり」の人数を163万人と推計している。「ひきこもり」は日本特有の現象と言われており、日本の家制度と関係する文化病と考えた方がいいらしい。

しかしながら戦後60年以上も経ち、今や給食費を払えるのに払わない親や、我が子が集合写真の中央に写っていないと文句を言うモンスター親が蔓延している現代に、家制度がねぇ・・・と考えてしまう。

しかも家に引きこもっているばかりが「ひきこもり」ではなく、「潜在的なひきこもり」と呼ばれる「社会参加しているひきこもり、働くひきこもり」も多いということだ。
その特徴は本音を言えない、感情がない、相手に合わせるというのであるから、確かに日本文化が深く関係しているということは理解できる。

本音を言えないということについては多少説明を要するが、とにかくひきこもりの人々に共通していることは、子供時代に自己表現していない、親とのつながりがないというのである。

しかも、全てのケースが幼児期の親子関係に起因し、小さい時に親にホンネを言えなかったところにあるというのであるから、特に伝統的な日本の家庭にこの傾向があり、思ったことを言えば無視されて話を聴いてくれない環境で大きくなってしまったわけだ。

ついでながら、子供に厳しい父親は、実のところは子供を怖がっているケースが多いという。子供時代の親との関係に失敗すると、自分の子供とも親しくなれないというのが悲惨だ。

思ったことが言えないと人格が二重化するのもわかる。
自己表現できないから自分で物事を決められない。
自分を出さないから誰とも親しくなれない。
対人関係で常に緊張するために集団の中へ埋没しようとする。


他方、その対極にある自己主張が強すぎる人もまた親しい友や知人を作れない。そのような人は、常に他者の話をさえぎるので継続的な人間関係を作ることが難しい。
そして、相手の話を最後まで聴けないので、話す側も落ち着いて話せず、空気が読めない人は疲れる。


話を戻そう。
ひきこもりの人は、セラピスト(カウンセラー)と感情的に繋がっている場合にのみ本当のコミュニケーションが可能になる。そこで初めて社会参加をしていることになるわけだ。

ちなみに、全てのカウンセラーに要求される人柄は、人間として温かみを感じられる人であり、クライエント(来談者)の前で、自然に自分が出せる人である。

言葉には話す人の人柄が現れる。と言うことは、言葉は情報だけではなく情緒を伝えるものであり、お互いの信頼関係は情緒的な人間関係の中で作られていくことがわかる。言葉と話し方を大切にしたいと思う。

完全な親などどこにもいないし、子育てをしながら親が育てられていくのだが、30歳代になってまで家にひきこもっている人々に心が痛む。

しかし、人間関係がうまくいかなくて悩む人は幸いだ。
周囲の状況や人、また自分に目を向けないで、主イエスにのみに目を向けることだ。イエスほど素晴しいカウンセラーはいないのだから!
私たちは一人ひとりが神さまに造られた作品なのだから、喜びをもって自分らしく生きていこうではないか!


posted by 優子 at 06:38| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2008年08月02日

孫が歩いた夏

孫の幸悠は歩くのが楽しくて仕方がないように歩く。
笑いながら歩く。
「ヨイヨイヨイ、上手ねぇ、ユキちゃん」
と言うと、得意そうに歩く。
何てかわいいんだろう。
「ユキちゃん、ユキちゃん言うけれど、お尻にラッパ挟(は)さんで、歩くたびにプップップ」と、母が知子や真智子にしてくれていた通りにあやしている私。
私はいつも孫を抱いて父と母の写真の前に立って話す。
「お父さん、お母さん、私の孫ですよ。お父さんとお母さんの曾孫ですよ」と。
すると両親は、まるで見えているかのように嬉しそうに微笑むのだ。

首がすわり、お座りし、ハイハイして歩き出す成長振りに感謝し驚異する。こちらが言っていることも日ごとに解るようになっている。今まではチャッピーの方が理解できる言葉が多かったが、今や見る見る追い抜かしていく。台所に立っていると、私の服を引っぱって呼ぶのだから、もう一度若くなって子育てしたい気持ちにさせられた。

昨夜は紙文具流通センターのビヤーパーティがあるので、知子たちに早い夕食を済ませて6時過ぎに見送った。
たった一晩のことだからと体力もフルに使って、あれもしてやりたい、これもしてやりたいと思うが、何もたいしたことはしてやれない。

不眠症で睡眠不足の娘だが、昨日の午後は珍しく2時間半も眠れたので、病人のような顔をしていたのに見違えるような元気な顔になって帰って行った。そのことが最高に嬉しかった。

「今日こそは、家に入ってから忘れ物を見つけて叫びたくないからね」と、マカロニサラダとハムを持たせてやるのも忘れなかった。夕食が早かったのでお腹がすいた時のために、真智子に作って好評だったおにぎりも。

腰痛、左の股関節はひどく疼(うず)き、膝は釘が打ち込まれたような痛みで、チャッピーの散歩は夫ひとりで行ってもらった。

さて、昨日八月1日といえば、関西では夏の風物詩になっている全国最大級のPLの花火があった。富田林にある南大阪福音教会とは目と鼻の先だから、毎年午後になれば駐車場を閉鎖する。

夜7時50分、ズドーンという大きな音が響いた。
半径250メートルに広がる花火だから、山を越えた当地からも2階へ上がれば見えるのだ。お隣りさんは、毎年お孫さんのお友達親子を招くイベントにされているほどだ。

打ち上げ花火は今年も10万発(今年から数え方を変えたために2万発になった)で、約17万人の観衆が集まったそうだ。

32年前の婚約時代に、当地から近い屯鶴峯(どんづるぼう)を過ぎたあたりに車を止めて見ていたことがある。
懐かしい遠い夏の日。
今年は1歳になった孫がいる。
孫が歩いた2008年の夏である。

暑い夏に実を膨らませていくように、私も収穫期に向かって今を無駄にすまい。人生の夏は終わったけれど、イエスさまに留まってこの夏を生き、秋を生きよう。




posted by 優子 at 08:11| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする