2008年11月30日

すべての人を照らすまことの光

クリスマスは救いの業のスタートであり、十字架まで行かなければその意味は全うされない。
クリスマスを間近に今日からアドベントに入った。救い主をお迎えする準備期間で、5世紀からあったと聞いている。教会では4本のロウソクが立てられ、今日は一本目のロウソクに火が灯された。

日本では八百万の神々に手を合わせ、因習や縁起ものに縛られて生きている。今ではさすがに、雷はプラスとマイナスの空中放電であることを誰でも知っているが、いにしえの人々は神が天上で怒っておられると思って「かみなりたもう」としたのだと言う。

しかし、今も世の人々は被造物を神として拝み、パウロと似通っているといわれる親鸞の教えでさえ、宗教哲学であって事実がない。私たちクリスチャンは人間が作った教理を信じているのではなく、神から下さったものを信じているのである。

人はみな真理、不動の平安を求めている。
主イエスと出会うことこそが人生の大革命であり、これほどに素晴しい革命はない。
徹底的に人を裁くことのできる神さまが、徹底的に人を赦して下さって、私たちのかつての罪を思わないで恵みの中で生かして下さるのである。私たちならば、ゆるしてやると言っても、あの時こうされたと覚えているのに、神さまは全く消して下さるのだ。

「我々は人を救わんがために救われた」
とは、小山牧師が説教で何度も口にされたウィリアム・ブースの言葉である。
神はクリスチャンを通して福音を伝えていかれるのである。世の人々もまた、キリストを見ようとする時はクリスチャンを見るのである。

  「あなたがたは、世の光である。
  山の上にある町は隠れることができない。
  また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。
  むしろ燭台の上において、
  家の中のすべてのものを照させるのである。
  そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、
  そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、
  天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。


                 (マタイ伝5章14〜16節)

神との交わりがあるということは、神が共にいて下さるということであり、神は救われたクリスチャンをどんなに愛して下さっているか!
どうか私たちが主の証し人として多くの実を結ぶ人になれますように。
私もまた先に救われた者として、クリスマスの時を神の喜びを伝えるために用いたい。まことのプレゼントであるイエス・キリストを伝えたいと願う。





posted by 優子 at 18:07| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2008年11月29日

「私が私になっていく」

26日、長女は伴侶と共にメンタルヘルス科を受診した。いわゆる心療内科である。そこで自律神経の乱れを改善する薬を処方された。
婿はかつて薬品の卸会社にいたのであらゆる薬に詳しく、その薬は2段階あって、娘に処方された薬は強い方だという。

あと2年もすれば子供が聞き分けられるようになるが、それまで母親(娘)の体がもたないと医師が言われたそうだ。完ぺき主義なほどに何もかもしないと気がすまなくて強迫的になるのだ。

娘は不眠症であるから、今まで目覚まし時計をセットしていないが、昨日は子供の泣き声で起こされたという。7時15分、子供が泣かなかったら遅刻していたと。

本当ならば嬉しく楽しいエピソードだろうが、私の気持ちは重かった。
「頑張りすぎ」と言われることもストレスが過度に働くならば、目を完全に違うほうへ転じるのがいいだろう。自分の好きなことを楽しむ方向にもっていってはどうだろうか。それが容易ならば苦労しない。

だからこそ今こそ信仰を働かせよう!
主に在って受け容れるならばこれこそ好機である。これもまた神の深いご配慮であるのだから、娘に最も大切なことを伝えようとされているのであろう。

イエスさまは「空の鳥を見なさい」と仰った。
神のなさること全てが益となることを忘れないで、落ち着いて、焦らずに、専門家の医師に相談しながらやっていけばいいのだ。
今こそ、娘の信仰にいのちの息が吹き込まれるように! 
         悲しみの意味
      
      冬があり夏があり
      昼と夜があり
      晴れた日と
      雨の日があって
      ひとつの花が
      咲くように
      悲しみも
      苦しみもあって
      私が私になってゆく

星野富弘さんの詩だ。
神に焦点を合わすならば、日常に起こる全ての出来事、全ての感情や思いを通して、私が私になっていく。神のみことばの力によって私は私らしく、あなたはあなたらしく変えられていく。


今日は「河内の郷土サークルの集い」に行くことにした。
今日明日は、昨年総合司会をさせて頂いていた「サークルの集い」である。久々の大阪商業大学だ。皆さんとあまりにご無沙汰していたので(>_<)、体調も良くなってきたからと2日前に決め、T会長さんと昼食の約束をしている。

美濃紙業(夫が経営する会社)では、月の最終週に祝日があるとその土曜日は半日仕事があるため、帰りは商大前で落ち合って、昨年同様に梅田(大阪駅)にあるお気に入りのキリスト教書店(オアシス・旧ライフセンター)に連れて行ってもらうことになっている。

今日も主が共に居て下さいますように!
  
posted by 優子 at 08:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

人は我を棄つれど主イエスは棄てず

最近では朝6時半頃からようやく夜が明け始める。
6時半過ぎ、夫はヘッドライトをつけて自動車をスタートした。曲がり角で車が見えなくなれば、直ぐにパーキングに戻って柵から通り過ぎるのを見送るのである。

この光景がずっと続いてほしいが、さすがに10年後には今の日常とは違っているだろうと、秋になってしみじみ思いながら見送っている。
そんな大切な日々なのに、11月になって毎朝見送っていなかった。外まで見送りに出たのは今週は今日が初めてだった。

連休明けの25日朝は夫が起きたのも出て行ったのも知らなかった。玄関のドアが閉まる音で目が覚め、時計を見て夫が出て行ったとわかった。とにかく疲れがとれなくて起きた気配にも気づかなかった。

今朝は夫を見送って直ぐにチャッピーを連れて散歩に出た。朝に大切な電話の約束をしていたからだ。
今朝、私の唇に出てきた讃美歌は512番だった。
これはテープなので、ここ何年間か聴いたことはなかったのに、不思議に最も時に叶った讃美が出てくるから不思議だ。

我が魂の慕いまつる イェスきみの麗しさよ
あしたの星か 谷の百合か 何になぞらえて歌わん
悩める時の 我が慰め
寂しき日の我が友
きみは谷の百合 あしたの星 
うつし世にたぐいもなき

・・・・・人は棄つれど きみは棄てず
み恵みは いやまさらん

心痛めている友のことを思いながら、そして、友に慰めを祈りつつ大きな声で歌っていた。

友よ、私は醜い葛藤や憎しみの気持ちが出てきたり、不安や恐怖に苛まれそうになる時、どんな時にも「イエスさま、助けて!!」と、主の胸に飛び込むのだ。

そのような時に神学などいらない。御言葉を我がうちに蓄えておくことはとても大切なことであるが、ただイエスだけ、主イエスの御名を呼んで、その胸に飛び込むのだ。

今日は今月末が締め切りの『死の棘』の読後感を書いていた。
今年から私の発表の場はクリスチャンペンクラブのみなのに、お尻に火がつかないと書けないのだから困る。書きながら気づかされたのでこんなことを書いた。

ミホの精神に異変をきたしたのは、夫を責める視点しか持たなかったからだろう。人間は他者や環境にのみ責任を転嫁し続けていけば、いつしか精神に混乱をきたして狂気していくのだと思う。相手がどうであれ、苦悩しながらも、その中で自分はいかに生きるかなのだ!

自分自身を責め続ける人だけではなく、他者を責め続ける人もまた精神を病んでいくのを、悲しいかな私の身近かに見ているのでこのように書いたのだった。
その人のことを思いながら、次女が語っていた「影」の問題を考えてみたくて、1月8日『ゲド戦記』(「ミネソタ便り」)を開いてみた。何度読んでも感動する。時間がないのでその関連記事で捜したかった言葉を見つけずに閉じたが、あの時、娘はこんなことも言っていた。

あまりに深い傷を持っている人は周囲の人を傷つけるので、そういう人とは距離を置かなければならないというようなことだった。

人は自分の姿が見えにくいと他者のことも見えない。
特に攻撃的な人は、全てが自己中心的で相手を自分の思うように要求ばかりしてくるため慎重を要する。無防備でいると翻弄され、拒否反応を示すようになってしまう。いや、防備していてもなお追い込まれるくらい人間は弱い存在だ。

そうなってはますます悲痛であるからこそ距離を置き、主に祈りながら焦らずに進んでいくのである。しかし、一方的に入り込んでくるのが特徴であるから頭を抱えることも間々ある。

その点、自己内省できる人は幸いだ。
しかし、十分に認識できていても、我々には神の如き愛は持ち合わせていないのだから、あとは主に委ねて平安を得ればいいのだ。
祈って待つことだ。
私はようやく自分の無力さに気づいて委ねることができるようになった。祈って主に重荷を手放すことができるのだ。


葛藤や怒りが押し寄せてくるたびに、「イエスさまー!!!」と主の御名を呼び求めればいい。

「自分では絶望、現実は絶望、しかし、主が、何かをなさいます」。

主に助けを求める者を、主は決してそのままにはしておかれない。
愛と祈りにより神が驚くべきことをして下さる。いつかはわからないけれど必ず!


posted by 優子 at 17:04| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年11月27日

第38回 オリーブの会  ―本編―

聖書はクリスマスに寄せて、ルカによる福音書2章8節〜20節を開いた。
8節 さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
9 すると主の御使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使いと一緒になって神をさんびして言った、
14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
18 人々はみな、羊飼いたちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
教会や学校で演じられるクリスマス降誕劇の箇所である。
当時、羊飼いは低い階層の人々であり、その仕事は「安息日も守ることができないので軽蔑された職業」だった。旧約聖書によれば、みつかいはアブラハムやエゼキエル、ダニエルといった「神の人」と呼ばれる者にしか現れなかったのに、羊飼いに現れたのである!

ではいつものように質問の中からいくつかをご提示し、読者の方々もご自身を探りながら読み進んで頂きたい。

@ 羊飼いたちの毎日に、どんな喜び、どんな悲しみがあったでしょう。想像して下さい。

A この人たちは、神さまや宗教についてどう思っていたでしょう。つまり神さまとの関係です。
全能の神が居られると聞きながら、自分達の生活は貧しく、人々に虐げられている・・。ローマに支配されていたゆえに、より惨めさもあったであろう。羊飼いのあなたならどのように思われるでしょうか?

B エルサレムはベツレヘムの近くです。そこには、たくさんの敬虔なユダヤ人が住んでいたのに、その人たちにではなく、羊飼いの前に御使いが現れたのはなぜですか。

C 10〜12節の言葉は、羊飼いにとってどういう意味だったのでしょうか?(羊飼いが自分の人生に適用できることは、何だったのでしょう)

D 御使いがあなたに現れて、このように言ったとしたら、それはあなたにとってどういう意味でしょう。

E 「すべての民」という言葉の中には、あなたが一番心にかけている人も含まれています。イエスさまがその人のためにも生まれてこられたということは、あなたにとってどういう意味を持ちますか。

F あなたが今恐れていることに対して、イエスさまの誕生はどのような解決になるでしょうか。

G 飼い葉おけの赤ちゃんが救い主であるとわかった根拠は何ですか。
馬小屋は日本のように家屋の近くにあるものではなく、岩をくり抜いた洞窟であり、そこは死体をくるむ布の貯蔵所でもあったことを教えて頂いた。イエスはその布に包まれて飼い葉おけに寝かされていたのである。

H どうして救い主が馬小屋という汚くて、冷たくて、ばい菌だらけのところに生まれなければならなかったのでしょうか。

I イエスさまの誕生は、あなたの人生にすばらしい喜びをもたらしますか。

J 羊飼いたちの心にクリスマスの夜、どんな信仰が生まれたでしょうか。

K 羊飼いは、幼子について告げられたことを大勢の人に知らせましたが、なぜ、他の人はイエスさまを拝みに行かなかったのでしょう。

L イエスさまが人に知られるようになったのは30年後です。この羊飼いたちは死んでしまっています。彼らの人生は変わったでしょうか。どう変わりましたか。変わらなかったのは何ですか。


M この出来事を通して羊飼いは神さまとの関係がどうであるとわかりましたか。 
 
以上、オレンジ色にした箇所が私の胸に迫ったものである。

クリスマス、即ち、イエスの誕生は10月末頃であったというのを読んだことがあるが、8節の「羊の群れ」ということからその説が正しいのかもしれない。冬になると羊は檻に入れられるからだ。

羊飼いたちは、救い主が飼い葉おけに臥しているなど信じがたいことだったろう。「羊飼いのように自分の足りなさを知っていることは、喜びのニュースに応答する力があるということである」。

「全て高き真理は皆、少数にのみ示される。天における歓喜の音楽を聴く耳ある者は幸福である」。
こうして全地に生きる人々への祝福の歴史が始まったと告げたのである!
 

イエスの誕生により世界史は一変され、キリスト誕生以前を" Before Christ "「BC」と言い、誕生以後をラテン語で " Anno Domini(アンノ・ドミニ) "「AD」と呼ぶようになったのである。従って来年を正しく言うならば「主の年2009年」である。

「いと高きところでは、神に栄光があるように、
 地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」!

今年のクリスマスには是非お近くの教会へお出かけください!
尚、次回「オリーブの会」は、2009年1月21日(水)の予定です。

posted by 優子 at 17:25| オリーブの会 | 更新情報をチェックする

第38回オリーブの会 ―プロローグ―

2008年度最後の「オリーブの会」の昨日は3日ぶりの晴天で、レースのカーテンを引いて陽射しを遮っても室内は30度近くになり、あまりの暖かさに皆さんが驚かれた。今日の朝刊によれば昨日の最高気温は14.8度だった。

緑内障である友は、いつものように陽射しが背になる席に座られて、その方のところだけ分厚いカーテンも引いていたが、それでもきついので途中からサングラスをかけられたほどだった。

このOさんは次女の高津高校時代のPTAでお知り合いになった方で、2002年4月の「オリーブの会」初回に来て下さった方である。
Oさんは病気を負いながらもマンドリンを続けておられ、外出されることが多く重なるために今回で10回目の出席だ。遠く香里園(同志社香里中・高校がある所)から2時間かけて来て下さるのである。

我が家の家庭集会を「オリーブの会」と命名したのは、2回目の2002年6月20日のことだった。この時は冨美子姉と千里姉の同労者3人だけの集まりだった。
歓談の時に集会の名前をつけようということになって、何がいいか植物図鑑まで開いていろいろ考え、「オリーブの会はどう?」との私の案に賛同して下さった。

その時、冨美子姉が、「ノアの洪水のあと、鳩がオリーブの若芽をくわえて戻ってきた光景が浮かぶ」というようなことを仰ったように思う。
私のノートにはそれに続いて、「生命が芽生えていたのだ!私たちも、この会を通して一人ひとりが芽を出し、豊かな実が結ばれんことを祈ってスタートしよう!」と記されていた。
2002年4月と言えば、母の死に続いて父も亡くなって1年半が過ぎた頃だ。弱音を吐きながらも、私は人生の新しいページをめくっていたのだ!

そして昨日もまた、日常の手を休めて神さまが私たちに与えて下さった聖書を開いて、神さまが語って下さる人生の道しるべを聴こうとしたのだった。

今日は曇り空で室内の温度は12度しかない。何もしないでいると寒いが、デスクワークだと足温器を使うので室温は18〜9度あれば快適である。今は掃除を終えて、お昼過ぎに来る生協の配達を待ちながら書いているので使っていない。

今朝のエピソードを一つ。
チャッピーと歩きながら「主われを愛す」を歌っていた。今日はこの讃美歌を歌おうと思って歌い始めることはめったにない。いつも自然にその日その日の讃美歌が口に出るのである。

今朝も結構大きな声で歌っていたら、曲がり角でウォーキングしている70歳代の男性と出会った。
「朝から朗らかに歌を歌っていいですね!」と声をかけて下さった。
「はい、朝に讃美歌を歌うと気持ちいいですよ!」と言ったら、両方の手のひらを合わせて「アーメンですか」と仰った。
「はい、クリスチャンです。今日も良い一日を!」と言って別れたのだった。
このような場面に出くわした時、自らクリスチャンであることを表明するのかしないのかについて考えたこともある。
例えば椎名麟三は、「『私はクリスチャンです』というときには、私はあるやましさを感じずには自分をそのようにはいうことができないのである」と言っているが、私も私なりに考えたものだ。


私は椎名が言うところの「クリスチャン」の意味が違うように思う。このことについても早く書きたいと思っているのに未だ書けないでいる。書きながら考えてみたいテーマである。

今の思いを端的に言えば、今朝出会った方の心にごくごく僅かながらも神さまの刻印を残したい、何かの折りにまことの神へと導かれるきっかけになればと思うゆえに、「讃美歌を歌っています」とまで言うのである。
長くなるので昨日の学びの内容は次の記事に改めて、まずはそのプロローグとした。
posted by 優子 at 12:02| オリーブの会 | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

孫の知的発達の背後に神を思う

ママに叱られた時の1歳2ヶ月頃の幸悠。どんな顔をしているのか覗いてみたい。今回来た時に、この写真を本人に見せたら笑っていた。既に自分を客観視できるのである!

叱られたユキ.jpg

虫の苦手なママが「キャー」と悲鳴をあげると、咄嗟にテーブルに並べてあったナイフとフォークを手に持って、天井にいる虫に立ち向かったユキ。
不在だったパパに代わってママを守ろうという気概が、男児には備わっているのだろうか。頼りになる幼子。1歳3ヶ月頃のものである。

2008.10.24.jpg

そんな頼もしい孫と思いきや、気に入らないことがあると床に寝そべってしまう。散歩中の外でもやるから大変!
女の子だったからだろうか、わが子たちは外でこのようなことはしなかった。

拗ねるユキ.jpg


今回来た時には床に寝転ぶのは一度もなかったが、気に入らないことを注意されると、持っている物をポイッと捨ててしまう。そこでまた「ユキ!」と注意すると泣いてしまう。

子供たちが幼かった頃、母が私に「怒ったりなや(怒ってあげないでね)」と言っていた同じ言葉を、私が娘に言っているのだからおかしい。

泣かずに拗ねている時は、助け船を出してやらないと引っ込みがつかない時もある。「ユキちゃん、ごめんなさいは?」と言うと、ペコンと頭を下げる。すかさず私は思いっきりほめてやる。

子育てしていた時と同様に、いや、今はその時よりも感動が深い。
何気ない日常の母子間の対話が子供の知能を開き、心を育てていっていることに感動するのだ。孫を創造された神を思い、備えて下さったものを豊かに伸ばしてやらねばと思わされた。


長女は今、子育てでしか味わえない喜びと学びの日々が始まったばかりである。大変ながら愛情深く育てている娘は幸せを感謝しながらの日々を過ごしている。

26日朝6時40分追記:
今日は婿が休暇願いを出しているというので何だろうと思ったら、知子が3週間前から寝汗がひどいので病院へ行くとのこと。その間の子守りのために婿は仕事を休むのだった。今日は家庭集会だから頼ってこなかったのだろうか。
もっと娘の助けになってやらねばと思うが、私は今朝になってようやく先週の疲れが取れたところという情けない体力である。頑張りが足りないというのではなく記念会に出席し、大急ぎで帰宅してからの掃除は体力の限界を越えていた。
知子の不定愁訴が癒されるように真剣に祈ろう。



posted by 優子 at 21:32| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

4人と1匹で楽しいスカイプタイム!

勤労感謝振り替え休日の今朝、次女からチャットで声がかかりスカイプに切り替えた。その時、世界中では1041万1654人もの人がスカイプしていた。
次女夫婦と私たち夫婦、そして、真智子がチャックンにも会いたいというので敷物に座らせての登場となった。

パソコンから聞きなれた真智子の声を耳にしたチャッピーは、キョロキョロと真智子を捜した。声がするのにいないので、ついに玄関の方に向き直って正座し、外から帰って来た真智子が部屋に入ってくると思って待っていた。
それならばどんなにいいか!
私は寂しくて涙が潤んだ。


娘はここ1ヵ月半は土日も休みなしのハードさだったそうだ。
そんな日々でもキンピラゴボウを作るなど、食生活もおろそかにしないでいたというから感心した。クマ(夫)にゴボウのササガキを伝授し2人で作っている姿が微笑ましい。感謝。
「12月10日から冬休みに入るので教会へも行ける」。ハードな日々ももう少しだ。

ミネソタの夏は夜の10時頃まで暗くならないので、花火大会も10時からスタートだそうだ。そんなミネソタも今では夕方4時半には暗くなってしまう。
真冬に入ったミネソタはマイナス5度〜10度の極寒の世界になっている。22日には大学の運動施設にある温水プールで泳ぎ、サウナにも入ってリラックスしたそうだ。音楽会もプールも全て無料だから心身のために大いに楽しんでほしい。

そのプールでの爆笑話。
いつか真智子と、外人は日本の大浴場には馴染めないだろうなと話していたことがあった。そのことを覚えていた次女はシャワーやサウナの光景を見て見解を改めたそうだ。

日本ではプールから出てシャワーにかかる時、水着を脱いだりしない。水着を脱いで体をゆすぎたくても、胸もとをあけてお湯を流すくらいで我慢しなければならないのに、彼らは水着を脱いで備え付けの大きなブラシで体を洗うというのだ!

温泉旅館の大浴場の如くにタオルを下半身に当てて歩いている人もいれば、隠さずに歩いている人もいるんだって!
娘が意外だったように私も予想外で2人して大爆笑したのだった。

娘も私と他愛ない話題で大笑いして気分転換になったことだろう。私はこれを書きながらも笑っている。
この冬は会えないけれど、日々祈りながら過ごしている次女夫婦に神の祝福あれ!楽しい時間をありがとう!


寒く、鬱々した気持ちになりやすい冬であるが、次の日曜日30日はアドベント(待降節)に入る。イエスの誕生を待ち望みつつクリスマスを迎える準備期間に入るのだ。ブログの背景デザインをクリスマスバージョンに変えるのが楽しみだ。

「イエスがこの世に来られたのは、
罪で台無しになった私たちの人生を修復するためだ。」
神は私たちを喜んで下さるのだ。
主を慕い求める人々を感謝と喜びで満たし、
人生に豊かな収穫を得させて下さることだろう!
posted by 優子 at 18:05| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2008年11月23日

佐藤昌平兄、召天1年記念会

我が家の家庭集会に来て下さっている節子姉の半身、昌平兄が召されなさって1年が過ぎ、昨日の記念会に出席させて頂いた。
私には早い1年だったが節子さんにとっては、未だご主人が亡くなられたという実感がないそうだ。

式は讃美歌312番の讃美から始まり、司式者による聖書拝読(詩篇23篇)と祈りに続いて、節子姉の愛唱歌である聖歌292番を讃美した。これは三浦綾子さんの愛唱歌でもあった。
      
     今日まで守られ 来たりし我が身
     つゆだに憂えじ ゆく末などは
     いかなるおりにも 愛なる神は
     全てのことをば 良きにしたまわん


故人の思い出を故人の妹さんとスー先生が話された。スー先生が話されたことがご親族の方々に届きますように。
昌平(まさひら)さんが亡くなる1ヶ月前に電話で話しました。その時、「さようなら」と言ったのをとても寂しく思いました。
私は今、黒い服を着ていません。天国にいることを信じているからです。
そこには永遠のいのちと喜びと平安があります。この天国にはもはや死はありません。嘆きも叫びも痛みもありません。古いものはみな過ぎ去ったのです。

天国には月も太陽もいりません。イエスさまが都の光だからです。
佐藤さんが微笑んでいらっしゃるお顔にお目にかかるのを楽しみにしています。
皆さんもそうしたいと思いませんか?
皆さんもそのようにできると思います。
                   said Ms.Sue.

このあと節子姉ほか4人の方々で琴の演奏をされた。
悲嘆の日々を琴の練習に励まれていた節子さんは、「お琴の音色が癒しになっていたように思う」と話しておられた。
琴の先生との出会いもまた不思議な神の摂理であった。師匠ご自身が「ボブ・ディランの歌詞にある『運命のひとひねり』で節子さんと出会った」と仰っていたが、節子さんにとってだけではなく、お師匠さんがクリスチャンと出会われた神の深いお計らいを思った。

続いて、式辞と祈り、聖歌655番(讃美歌461番「主われを愛す」と同じメロディー)、頌栄。
「昌平さんは最後にイエスさまを信じました。
昌平さんは、どこかをさまよっておられるのではなく、確かな場所に移されました。天国です!」

ハレルヤ!
最後に、親族代表挨拶で節子姉が立たれた。
もう1年も経ったのかなぁと感慨深いものがあります。この時まで出会う方々から慰めのお言葉をかけて頂きました。
これまで神さまから豊かな慰めがあったことがわかりました。主人が亡くなってからの心の軌跡をお話させて頂きたいと思います。

(看取りの)辛い悲しみを越えて、最初は辛くて悲しい数ヶ月を過ごし、そして、寂しさに変わっていきました。
それが不思議と、ここ1ヶ月前から涙が止めどなく流れて、神さまが辛い悲しみを流して下さっているんだと思いました。そのあとは天にいるお父さん(夫)への懐かしさが込み上げて、寂しさで泣くことはなくて、嬉しさと恵みの中にいるんだなあと心から思うようになりました。

お姿が見えないのは寂しいが、再び会える希望がある。
私も天国へ行くんだなあと思った。

スーさんと抱き合った時に、「天国で会いましょう!」と言われて「はい!」と微笑んだ。
英語の聞き間違いでなければ来春来られるようなことも仰っていたので、主のお許しがあればまた地上で再会できるだろう。
「スー先生は美しく年を取っていかれていますね。本当に美しいですね」と申し上げたら、「神さまから頂いた器だから、あなたもよ!(You too.)」というようなことを言われた。「器」のところの英語が聞き取れなくて何という単語だろうかと思った瞬間に、スーさんは日本語で「器」と言って下さるからありがたい。そしてまた英語に戻った。最後は日本語で「イーメイルでね!」と仰り、今後もメールを通してアメリカと日本のフェローシップができるから嬉しい!

いつものようにテキトウな解釈で理解した。私のことだからテキトウに(和子さん、ここで笑ってね!)、とんでもない誤解釈していたりしているかも(笑)。

教会の椅子は60客分しかなく、台所の食卓用椅子を4客運び出してピッタリ足りた。多くの方々と共に祝福された記念会だった。節子姉は今日、墓参のために東京へ行かれた。

節子さんとお子達がこれからも神さまの愛に満たされますように!!
神の愛を知り、神の恵みの中で生かされている人々を見せて頂いて、私もまた豊かに祝福されたのだった。
主よ、感謝します。アーメン!
posted by 優子 at 17:41| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2008年11月21日

日本に献げた宣教師 ―スー・ベネディクトさんのメッセージ―

8月29日の記事にあるMs.Sue Benedictさんは、昭和27年から37年間、日本に滞在された宣教師である。久しぶりに来日されて半年間ほど滞在されていたが、12月4日にアメリカへ帰られることになった。

英語で聖書を読む会にお誘い頂いたのに、不本意ながらもたった一度だけの出席となってしまった。
来週の礼拝は富田林の会堂へ行かれたあと、長野県の友人を訪ねられるので、今週16日の礼拝が最後ということで30分余りお証しされたのでここに刻んでおきたい。勿論バリバリの日本語で!
神さまは試練を通して自分の足りなさを示して下さいます。ありがたいことです。私たちはそうやって生きていくのです。私たちの失敗はいいことですよ。
闘いもありました。私のプライド、罪深い心も教えて下さった。従って試練も良かったと思います。

神さまは私たちのために本当によくして下さいました。よく与えて下さいました。
私が神さまの力が必要だとわかった時に私は変わっていったと思います。神さまは私を愛して下さっている、それは個人的な愛です。この私を愛して死んで下さったことを知っていきました。

私たちの源は自分ではなくて神さまです。
私たちの愛、・・全ては神さまから出るものです。私たちは自己中心で醜いものがいっぱいありますが、神さまは私たちをきよめて下さいます。私たちは諦めやすいけれど、神さまは諦めないです。

黙示録3章20節に、「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」とあります。

ヨハネによる福音書の14章21節に、「わたし(イエス・キリスト)を愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」とあるように、条件がありますが、これが約束です。条件とは、ただ互いに愛することです。イエスとの交わりをとることです。

テトスへの手紙3章4節から7節には、
「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。

この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」
とあります。

神は私たちにいのちを与えるために十字架という呪いの場に行って下さったのです。
律法を守ることが絶対と思っていたユダヤ人。
律法を守り道徳行為をすることで神が認めて下さるのだと思っています。これは人類共通の意識ではなかろうかと思います。
だからイエスさまの言葉に躓くのです。
私たちは何をしたから認められるのではないのです。
一番よいことは感謝です。
感謝することです。

日本クリスチャンペンクラブから1991年に発行された『あかし新書第16篇 日本に献げた宣教師』がある。そのまえがき後半から、当時の理事長・故 満江巌牧師の文章を刻ませて頂きたい。
ペンクラブに入って3年目、1990年のこのテーマの時に「地の塩 ミス・デントン」で新人賞を頂いた。同志社女学校のために生涯をささげて下さった方である。(過去ログ・2006年7月1日、カテゴリ「JCP関係」)
ここに改めてスー先生を日本に遣わして下さった神さまと、スー先生に心からの感謝をささげたい。

未開の地日本に来て、いのちがけで日本人の救いのために働くということは、召命感がなければできないことです。その人たちの面影が、簡潔な文章で記述されています。小冊子さながら貴重な文献として残ることでしょう。

このような献身者の己を捨てての尊い働きがあったればこそ、今日のわが国のキリスト教会が存在するのです。この一篇は彼等への感謝の表われであり、神の御名を讃美する歌でもあります。あるいは、頌徳碑でもあるといえましょう。
読者、祈りの心をもて読まれんことを。

明日の佐藤兄の記念会に出席されると伺っているので、もう一度感謝の気持ちを申し上げて、再会を楽しみにお別れしたい。
" Blessings on you and your family! "と!






posted by 優子 at 23:59| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2008年11月20日

冬よ来い!

先週末から週明けは寒くなると言われていた。
「寒の入りの寒さ」、「体がついて行かないほどの寒さ」の連発に緊張が高まりストレスを感じていた。予報通り18日午後から気温が急激に落ちて、昨日今日は真冬並みの寒さになった。昨日は一瞬だったがみぞれが降った。今日の奈良の最低気温は0度となっている。(21日追記:最低気温は−1.3度、最高は10.6度だった。)

寒さに突入すると私のストレスは消滅する。どうということはない。
今朝は気持ちのいい真っ青な冬晴れだった。
チャッピーと歩きながら賀川豊彦の如くに神に祈った。

      苦しみのさなかにいると
      苦しみはもうなくなって
      ただ生きるということだけだった。


八木重吉の詩だ。
星野富弘さんも力強い詩を書いておられる。

          雪割草

      白い息よ
      おまえに逢える冬の朝は
      ひと息ごとに
      蒸気機関車のような
      力が湧いてくる

      さあ古い悩みなんか吐き出し
      新しい困難を思いっきり燃やし
      今日という
      原野を走ろう


私も冬が来たら冬だけのことを考えて一心に通り抜けよう。

19日のお昼前、生駒チャッピーが「また来たー!」(>_<)。
長女は自律神経失調症の不定愁訴を抱えているので、息抜きさせてやらないと再び頭位変換性頭痛になっても大変だから、私は(^−^)な顔で歓迎した。

到着するまでに大急ぎでペンクラブの報告書を作成して送付完了。あとは締め切りが迫っている原稿と、来週は家庭集会もある。主が助けて下さるだろう。

19日は長女の31歳の誕生日だった。その前日、孫に1歳4ヶ月年下のいとこが生まれた。娘の義弟御夫妻に女の子が誕生したのである。

今日も長い一日が終わった。
娘と二人がかりでも一日が長い。「まだ(午前)10時?!」と何度も時計を見、夕刻になれば子守りの帰りを首を長くして待つ。2日目終了!

22日は佐藤昌平さんの記念会である。
秋になってから去年のブログを何度か読み直していた。死別の悲しみは神によらねば慰められぬ悲しみである。神さまが慰め続けて下さるように祈らせて頂こう。
当日夫は自社主催のゴルフのために、私一人で出席させて頂くことになっている。長女は私を教会へ送った足で帰ることになった。

posted by 優子 at 23:57| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年11月19日

東牧師講話余録(後編)と神戸文学館のご案内

最後に、戦時中の国家権力がいかなるものだったか、興味深くお聴きしたことを記してこの項を終えたいと思う。

昭和17年の頃、教会(宗教)を管理していたのは文部省ではなく警察でした。警察はあらゆる宗教が一つになって日本教を作れと言いました。
「それはできない」と私は当局に日参し、ついにキリスト教と神道と仏教をそれぞれ独立した形でやっていくことになり、こうして日本基督教団を強制的に作らされたのでした。

「私たちはキリスト教の信徒であると共に、日本の臣民(しんみん)であることを決して忘れません。日本の戦さには絶対に批判しませんし、服従します。」と誓うことでできたのでした。

各教会では礼拝する前に、皇居を遥拝(ようはい)しなければならなかったので、全員起立して宮城に向かって最敬礼したのです。天皇を神として拝み、そうしてようやく「父・御子(みこ)・御霊(みたま)」を歌うことが許されたのです。

「平和の愛のゆえにゆるし合い、」は一切言えませんでした。各教会に私服のスパイが入っていましたから、国是に少しでも批判しようものなら引っぱられて行ったのです。

最初80名だった神学生が徴用されて40名になり、昭和20年に全国で唯一の東京神学専門学校ができたが誰も居なくて私ひとりでした。
全国から集められていた膨大な神学・信仰図書を、戦中戦後ひとりで守ったのでした。

娘時代、戦時中のフィルムがテレビで放映されると、父が「これは実写や」と言って、画面に見入っていた父の姿を懐かしく思い出すことがあるが、東牧師の話はまさしく実写であった。

これは戦時中のキリスト教界の実録であり、生き証人の話であるばかりか、ただ一人で守り抜かれたその人であったのだから身の引き締まる思いだった。


戦時中、日本の教会は弾圧にひるんで当局の言うがままになり、教会も国家に従うのが当然という姿勢をとったのだった。
しかし、そんな中にも国家権力に屈せずに、牢獄に入れられても己の信仰を守り抜いた人々もいた。

東牧師は賀川豊彦とも直に触れた方である。
賀川豊彦については説明するまでもないが、大正・昭和期のキリスト教社会運動家であり、戦前、日本の労働運動、農民運動、無産政党運動を展開した。日本農民組合創設者であり、身近なものとしては私たちが利用しているコープ、生活協同組合を神戸に作った人である。

蒋介石に「日本にはドクター賀川がいるから」と言わしめ、敗戦後、日本が4分割されずにすんだことは三浦綾子の著作から知っていたが、
「賀川は天皇が免責されるように米当局に連絡し、天皇制を保護するようにご苦労されました。皇室が存続することはキリスト教のおかげであり、賀川のおかげであります。
平和の実現はたいへん遠いけれど、希望を決して失ってはいけないと、(喀血して)血を吐きながらも訴えておられました。」


そして、賀川豊彦のお祈りは、講壇に手を置いてひざまずき、一方の手を挙げて、「ちち(父)さまーー!」とお祈りされたそうだ。
胸が熱くなり目頭が熱くなった。
私もまたイエスの御前に走りより跪きたい気持ちに駆られた。

「一人ひとり書きますところのものが証しし、伝道し、主の栄光を現すものに役立つものとなりますように。
一人ひとりが導きと守りの時に置いてくださいますように・・・」
と祈られた東牧師もまた、私に強烈な印象を与えた忘れられぬ牧師になるだろう。

最後に大田先生がご案内して下さったことをご紹介したい。
神戸文学館では今月11月1日から翌年2月24日まで「賀川豊彦献身100年記念事業」を開催している。常設展示、入場無料である。

記念講演は午後2時〜3時半。定員50名、申し込み先着順で参加費は200円である。神戸文学館 078(882)2028まで(王子動物園西隣)。記念講演については以下の通りである。
11月29日(土) 「賀川豊彦の文学」       
          田辺健二(鳴門市賀川豊彦記念館館長)
      
12月6日(土)  「賀川豊彦と遠藤周作―日本文学の中のキリスト
           教」
          山折哲雄(国際日本文化研究所名誉教授)

1月24日(土)  「祖父 賀川豊彦の周辺」
          賀川督明(社会福祉・学校法人イエス団理事、
          カガワデザインワークショップ代表)

今では賀川豊彦の文学を語れる人は少なくなっているので貴重であるとのこと。仏教に造詣の深い哲学者の山折哲雄さんの話も興味深い。

大田先生が話して下さった賀川の逸話は、
「戦争中の賀川先生の態度について問題にされるところもあるが、中国のクリスチャンに手紙を書いており、急激に実行行使を訴える組合運動の折にも非暴力を訴えられた。
賀川豊彦の文句を言う人はたくさんいるが、賀川先生の社会正義を実現しようとする気持ちの高さなど、いい面を語る人は少なくなった。

          (略)
 
戦争中にガンジーは賀川に、『あなたは預言者として立てられているのだから、あなたは日本国にそれは間違いだと語る賜物がある。あなたはそれを言って死ぬのがあなたの仕事です』と言ったというから、ガンジーというのは怖い人だ。すごい人だ。」

しかし、賀川は逃げ回ったそうだ。

大田先生は12月20日(土)の「文学サロン(2時〜3時半)」(神戸文学館)で御講演されることになっている。
posted by 優子 at 09:32| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月18日

東牧師講話余録 前編

先の記事に続いて、私の耳に強烈なインパクトをもって入ってきたことを書きとめておきたい。
まず、悪との戦いについて、我々が聴いているところの聖句理解は間違っているとして次のように語られた。
聖書(マタイ伝・5章39節)にある、「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい。」は、正しく解釈されていない。


これは絶対平和主義の無抵抗主義で人を赦せと言っているのではない。
イエスが生きておられた当時の小作人たちは、大金持ちに雇われながら殴る蹴るの中で仕事をさせられていた。その人たちに、自分の方から左の頬を向けて抵抗しろと仰っているのである。

即ち、現況に甘んずるのではなく、突破口を捜し求めよ。必ず神が道を開かれるから、無駄な抵抗ではなくて殴るなら殴れと、もう片方を向けてやる気力を持てと言っておられるのだ。闘わなければいけないと!


このお説は、私にとってはまさしく「目からうろこが落ちる」ごときものであった。ただ無抵抗で赦してやれというのではヒューマニズムの掲げるところと同じであり、時には虚しく無益に感じ、またそれを耐えるには何と至難なことかと力を落としてしまうのだが、イエスはそんなことを仰ってはいなかったのだ!
この歓喜を是非言語化したいと思う。
ついでながら「目からうろこが落ちる」と言う言葉は聖書(使徒行伝9章 1〜23節)から来ている。


神がこの国をサタン(悪魔)から取り戻すだけではなく、キリストのあとに着いて行き、弟子に、仲間になって行く。
イエスは、「神の国は本流の如くに溢れ出しておる。本流の如くに押し出されていくんだ。神の国は来るんだ!」と仰ったのである。

では、このような解釈間違いがなぜ生じたのか。
それは聖書の原語であるヘブル語からギリシャ語に翻訳する時点で間違って訳され、そのまま英語、日本語へと誤訳されたままになっているのである。

「義」の解釈についても大いに間違っていると師はのたもうた。
新共同訳聖書では、「義」を殆どの箇所で「神の恵み」と訳しているが全く違うと、ここでもまた語気を強くして語れた。
原書聖書では、ヘブル語で「ツェダカー(tsedaquah)」と書かれている。その意味するところの「義」とは、「解放、救い」の言葉である。 
それはイスラエルのエジプトからの解放の救いであり、個人の霊的な救いに結びついてくる。即ち、解放、即、救いなのである


現代我々が学んでいる信仰解釈は全てヨーロッパ神学に基づいており、間違った学びをしているのである。
東師は聖書の御言葉をイメージ化して鮮明な記憶に蓄えてこられた。学問的気持ちで読んで観念化してしまうと生きた力が乏しくなるから、聖書を読む時ディズニー映画のように感じて、感動し、ときめきを感じる。それが私の聖書の読み方であると。

そして、東牧師が何度も口にされた「宇宙的エネルギー」とは、天地を創造し、支配し、意のままに秩序を保っておられる力であり、その力とイスラエル民族に対する救いに働く力は同じものである。
我々が現実生活している時も宇宙的エネルギーと受け止めて神を讃美せよというのがヘブライズムである。


イエス・キリストにおける「神の国」とは、死後のことも言っているが、今いかに生きるかである!
向こうからやって来て「近づいている」とは、現にここに来ているということである。現にイエスと一体になっているのだ、この私をしっかりつかまえているのだと!


プロテスタントとカトリック両者で訳した新共同訳聖書は、いいところもあるが誤訳が多い。カトリックの立場で解釈しており、聖句に対する解釈を原文に書き加えて書いている。
従って、新共同訳聖書よりも口語訳聖書、新改訳聖書がいいだろうというお話だった。




posted by 優子 at 11:41| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月17日

『ナルニヤ国物語』の信仰的背景 ―児童文学を愛する方々へ―

この作品に一貫して流れているのは、希望を失わずに世界の平和と神の国の実現を願うものである。戦時中の作品であることは間違いなく、ルイスが50歳から7年間かけて書いた作品である。
ルイスは1898年に生まれ、亡くなったのは1963年、J.F.ケネディが暗殺された同じ日だった。

『ライオンと魔女』(正しくは『ライオンと魔女と衣装だんす』)には、兄弟愛、正義、勇気、自信を持つこと、神信頼、互いに信じあうこと、優しい思いやり・・・など、多くのメッセージが織り込まれ、イエス・キリストの救いの信仰が背景になっている。

記事が長くなるが、レジメを追いながらお伝えしたい。
私ができるご奉仕はこれしかないので、喜んで感謝して刻ませて頂きたい。児童文学を愛されている方々への贈り物、どうか楽しみ味わって下されば最高の喜びである。

@ 恐ろしい魔女の支配に絶望して、ルーシーが泣き出した時にビーバーが言った言葉。
「元気を出して下さいな。希望はありますよ。そうです。希望以上のものがあるのです!」
この物語には「希望」が一番強く流れている。
聖書が語る「希望」とは、世間で言われているところの希望ではなく、神信頼の絶対的希望である。創造の神からエネルギーを注ぎ込まれて生きるのが希望であると!これは私たちを生かすところの霊的な意味である。

A 白い魔女は黙示録17章1節、「それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、『さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。』」の、神にそむくバビロンの「大淫婦」の姿である。バビロンとは神に背くところの世界的勢力を象徴するものである。

B 4人の子供の出現を待つ預言と言うのは、ローマ書8章19節「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。」と言う、神の子である我々への期待である。

C そして、4人の兄弟が衣装だんすにもぐり込んでナルニヤ国へ出るところは、マタイ伝6章6節の、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」のみことばを連想させる。

D ルーシーが出会ったフォーンのタムナスの悲しみを慰めるルーシーの言葉は、ルカ伝6章21節の、「あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。」を思い起こさせる。

E ナルニヤ国のすべての者のアスランへの希望は、第1コリント1章7節「こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。」

そして、第2ペテロ3章13節「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」という私たちの信仰と希望と一致する。
我々は神に依存し、神の手の内にあることを象徴的に語っている。

F 魔女に捕らえられた4人の兄弟の一人、エドマンドを取り戻すためにアスランは命を差し出した。アスランが殺される時に、彼が縛り付けられた石舞台が雷鳴と共に真っ二つに割れてアスランが甦るところは、言うまでもなくヨハネ伝15章13節「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」であり、マタイ伝27章50〜52節「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。」
そして、ヨハネ伝11章25節「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。』」である。

キリストの犠牲愛と贖罪、復活信仰が顕著である。
この映画はクリスチャンではない人が見ても全くわからないが、我々にとっては説教を聴き、讃美歌を歌っているという感じである。


G 生き返ったアスランが泣いているスージーとルーシーの前に立ち上がるところは、マタイ伝28章1節「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。」同28章9節「すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。」という記録と一致する。

「平安」をヘブライ語で「シャローム」と言い、その意味するところは、「神があなたの存在を保証します。神があなたに本当の平安を与え、健康を与え、霊的な健康をも与えて祝福します」と言う意味である。

死ぬる状況に追い込まれても宇宙的エネルギーを注ぎ込まれて生かされるのである。「宇宙的エネルギー」こそが、新約聖書で言われるところの「いのち」の意味である。

H 2人の少女を背に乗せたアスランが、魔女の館で石像に変えられた者たちの救出に向かうところは、出エジプト記19章4節「あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。 」と結びつく。

I アスランが石像にされた者たちに息を吹きかけて生き返らせるところは、ヨハネ伝20章22節「そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。』」と一致し、エゼキエル書37章10節のイスラエル人が生き返って「そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。」の預言と全く同一である。

J クライマックスの魔女とその軍勢との戦いは、黙示録16章の「大いなる日」のハルマゲドンの戦いを念頭に置いており、マタイ伝10章34節「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」第1ペテロの5章9節「この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。」の聖句が裏づけになっている。

この聖句は、「神が必ずサタン(悪魔)を打ち倒したもう。だから、あなたは絶対に引いてはいけませんよ!」という意味である。
「抵抗」に関して、ヘブル語聖書の原点に立った感動のお説を拝聴しているので、それは次の記事の「東牧師講話余録」にてご紹介したい。
尚、「ハルマゲドン」とはヘブル語で「メギドの丘」、その意味するところは地上最終戦争であり、神の勝利となる戦いのことである

K さて、魔女軍勢との戦いの中で、エドマンドが魔女の魔法の杖を奪い取り、それを叩き折るところは、ゼカリヤ書11章10節「わたしは恵みというつえを取って、これを折った。これはわたしがもろもろの民と結んだ契約を、廃するためであった。」という背信者への裁きの預言と同じである。

神は慈悲、慈愛の杖を差しのべたのに、イスラエルはすがってこようとしなかった。神はイスラエルの背信を憤られて背信者の裁きを表わしている。

L 最後にアスランが飛んできて魔女に飛びかかり、「王者の牙にかかった白い魔女は、ついにほろびました」は、黙示録17章14節である。そこに「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。」 と記されている。

M そして、アスランが子供たちを王城に連れて行き、4人兄弟に王冠を与え、王座に就かせるのは、黙示録20章4節の千年王国の預言と一致する。「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。」

また、同20章6節「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」とある。「千年王国」とは、世が終わる終末の前に続く千年王国のことである。

N そして、マタイ伝19章28節「イエスは彼らに言われた、『よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。」を魅力的に物語り、4人の王座の姿となる。

お話の最後は、15年経ったはずなのに、不思議なことに殆ど時間は過ぎていなかったということで終わる。

英国ではハリー・ポッターを上回る興行成績なのに、日本ではさほど価値が認められていない。
天地、私たち人間を創られた創造主なる神イエスが、平和の主として現れてくるアスラン。
そして、勝利をもたらすところのメシア(救い主)。
この物語には、預言書であるイザヤ書(旧約聖書)がふんだんに出ており、象徴的に表わされている。



posted by 優子 at 15:10| JCP関係 | 更新情報をチェックする

『ナルニヤ国物語』とC.S.ルイスについて

今回の例会でのもう一つの学びは、全世界で愛読されているC.S.ルイスの『ナルニヤ国物語』について、その信仰的背景を千里ニュータウ教会牧師・東(あずま)道男先生が語って下さった。

それに先立って、作者・C.S.ルイスと『ナルニヤ国物語・ライオンと魔女』についてご紹介し、ページを変えて学びをお分かちしたいと思う。
『ナルニヤ国物語』については、過去ログ2006年1月25日(カテゴリ「ご案内」)でご紹介しているが、まずはそこから要所を掲載させて頂こう。
C・S・ルイスは『悪魔の手紙』、『キリスト教の精髄』などの著作があることからわかるように「クリスチャン作家」である。
「魔女」と聞いて連想する「ハリーポッター」とは全く違い、この作品にはキリストの香りが漂い、イエスの愛を伝える役割を十分果たしている作品である。
                  
ルイスはオックスフォード大学、後にケンブリッジ大学の教授だった。
講義、著作、講演など多忙な日々にあって、同居していた戦友の気難しい病身の母親の世話、蒔き割りから犬の世話まで目の回る生活だった。

ルイスには子供はなく、そんな多忙な中にあって、『ナルニア国』の感想を書き送ってくる子供たち全てに丁寧に返事を書いた。息を引き取る朝にも書いていたのだった。

『ナルニア国物語』は、20世紀を代表する英国作家C・S・ルイスの著作で、全7巻からなるファンタジーシリーズである。
第1章「ライオンと魔女」の舞台は、第2次世界大戦下のイギリスで、戦火を逃れて田舎に住むカーク教授に預けられる4人の子供たちが主人公である。

末のルーシーが衣装箪笥に入り込むと、そこは雪に覆われた冷たい世界だった。かつては偉大な王「アスラン」が作ったすばらしい国だったのに、今は美しく冷酷な「白い魔女」に支配されて、寒い冬の世界になっていた。
しかも、一年中が冬になっているのにクリスマスは全く来ない。

また、4人の子供たちの一人、エドマンドは魔女のお菓子を食べてしまい、魔女の言いなりになってしまう。あのエバの誘惑を連想する。
聖書を読んだことがある人ならば、この「アスラン」が誰を表しているかは既にお気づきだろう。

アスランが石舞台で殺されていくシーンは、ゲッセマネの園から十字架のイエス、そう、映画「パッション」の意味でもある「犠牲の愛」、「身代わりの死」の意味が表されているのである。

ストーリーに出てくる「石舞台」は「ゴルゴダの丘」のことかと、聖書の世界に置き換えて観るのも興味深い。

東先生は、最近岩波書店から発行された『ライオンと魔女』の大判の美しい絵本を掲げながら、ルイスが作品に織り込んだ聖書のメッセージを話して下さった。
我が子が小学生ならば、今年のクリスマスプレゼントはこれだ!と思ったことだろう。いや、絵本は大人の本でもあるから梅田へ出た時は是非買い求めたいと思う。孫が大きくなった時に読み聞かせてやりたい。

とにかく東先生のお話はすごくて、私などあまりにも聖書の読みが浅いことと、あまりにも感動したので途中でペンを走らせることも忘れていた部分が多々あり、その時の解説を正しく刻めるかどうかわからないが、とにかく次のページで書いていきたい。

posted by 優子 at 10:58| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月16日

三浦綾子の『母』と小林多喜二の『蟹工船』

『母』の出版に際して、角川書店より久保田暁一先生に解説依頼があった。文庫本10ページに書かれた「解説」は原稿用紙10枚ほどである。そして、平成8年6月25日に初版発行されて世に出た。

まず、久保田先生のご講義から:
著者がこの作品を書くに至った動機は、次のことに心動かされたからである。
@ 著者の夫・光世氏の勧めによるものであったこと。
著者は多喜二と共産主義をよく知らなかったので困惑したが、光世氏が「多喜二の母は受洗した人だそうだね」と言った一言に心を動かされて取材し始めたのである。
 
A 底抜けに明るいヒューマンな家庭であること。

特に、多喜二の母への愛、子への信頼と多喜二の優しさが溢れている。タミを身請けする多喜二のいちずさ、タミを引き取ってからも肉体関係を持たずに待っていた純粋さ。そして、弟や妹への優しさ。

国家権力、特高権力の非情さが随所に書かれている。(三浦綾子作品の)『銃口』や『逃亡』にも出てくる蛸部屋に入れられた労働者が、人権無視され、虐待を受け、逃亡して捕まったら半殺しの目に遭う。そのような状況の中で、逃亡した朝鮮労働者をかくまってやる優しい両親だった。

B 多喜二の強さと、息子を虐殺された母の悲しみ。
母セキが悲しみを耐える力となったのが近藤牧師から見せてもらった絵である。キリストの十字架の痛ましい死を描いた絵を見て、キリストの死に多喜二の死を重ね合わせて考えたからである。


以上のようなことから心動かされて執筆したのである。
この作品が書かれた時代は、大正から昭和期に入り、天皇の神格化、思想統制、軍国主義化の波がひたひたと押し寄せ、日中戦争へと進んでいく暗い時代に入っていた。

このような時代にあっても多喜二は明るく、優しく、そして、自分の信念を貫いていった。
母もまた、息子のすることは正しいことだと信じてやる親の強さその母の目から見、母の言動を通して書いた作品である。


ずっと耐えて息子を支えていたセキの姿は、日本的な母親像である。
これに対して、ゴーゴリーの『女』は戦う母である。息子が共産党の運動に突っ込んで行くのを共に戦って、息子を擁護していく母親像である。


どの作品を読む場合も、その作品が書かれた時代背景を知らなくてはならない。戦争へ戦争へと進んでいく時代に、多喜二の作品が評価されるということは、それだけ権力者に睨(にら)まれていくことになる。

国家権力に対して、即ち、資本家を擁護し独占的利益を得ようとする者の犠牲となって、人間扱いされずに酷使させられる労働者を書くことにより、その非を訴え不正を暴こうとする多喜二の意図がよく出ている。


次に、同じく久保田先生より多喜二の『蟹工船』について:

この作品は文学的には問題がある。
リアリティはあるが、あまりにも割り切りすぎて文学的柔軟さがなく、人間的なつっこみがもっとほしい。意図ははっきりしているが、公式的と言えば公式的過ぎる。

酷使され、非人間的で劣悪な環境の中で蟹とりをする。このように時代がひっ迫していったことと、権力者に対する怒りがそのように書かせたのである。しかし、文学性という意味では困るのではないか。


「今なぜ、『蟹工船』が注目されるのか?!」について話し合った。

★ バブルがはじけて今は格差社会になっており、結局しわ寄せは弱い人へいく。会社の都合でいつ辞めさせられるかわからないという不安な時代であり、ひっ迫してきているから惹きつけるものがあるのだろう。

★ だからと言って、社会主義、共産主義がバラ色の未来をもたらすという幻想は、ここ50年で破れてしまったのであって、今の若者はそのことを知らない。
クリスチャンとしては、貧しい人たちをそのままにしておいてはいけないけれど、共産主義によっての革命路線では未来を切り開くことはできない。


★ 『蟹工船』ブームにより、共産党員もすごく増えている。

★ 多喜二を理解しつつも、これは切羽詰ったところに置かれた者が書いたのであって、歴史的に見ることや本質を知ることが大切である。

これについて、大田先生は次のようなことを話して下さった。

特高を悪者にするのは簡単だが、実際に当時の指導者達の文章を読むと、「綴りかた教室」をやっていたトップの人たちはソ連のトップから援助をもらっていたし、地主はみな血祭りだと言っている・・・など、驚くべき実態であった。

若者には世の中の矛盾を経験させることが賢明だ。行き過ぎた革命路線は、どこかでセーブをかけなければならず、多喜二が勝利を目指した革命は絶望でしかない。人間の心から変わっていかないといけない。

共産主義運動の歴史を見れば、共産主義にもとても残虐な内部トラブルがあり、例えば野坂参三は粛清されている。

善意でできることだけではなく、社会を変えていかないといけない正義の実現もあるので、やはり社会的正義に取り組まないクリスチャンは問題であるが、心ある学生(大田先生が教えておられる現代の大学生)は『蟹工船』を読んで「これでいいのだろうかな」というような意見を述べている。
今こそ心ある資本家が起きてこなくてはいけない。


また、ある方は、

「ナショナルが終身雇用をやめた時からおかしくなった。
貧しい人がお金持ちになったら、お金持ちと同じようにするらしい。
私が若かった頃、20歳で共産主義にならない人はアホやと言われた。そして、40歳になっても共産主義ならばもっとアホやと言われた時代だった。」


「『蟹工船』ブームは、今も閉塞状態にある警鐘であると考えたらいいのではないだろうか」というのが一致する感想だった。

最後に久保田先生は次のように結ばれた。


「作品の時代背景を十分理解して、時代に対して、また、人間性に対して冷静に問題にする必要がある。
多喜二を否定するのではなく、良いところを認めながら考えていくことが大事だ。」


大田先生は、

「島崎藤村の『破壊』も同じである。
今日的には問題があるが、現代にも継承する点はどういう点か。保留、否定する点はどういうところかというような知性を持たねばならない。

これを受けて、久保田先生からも信仰生涯と重なる文学的姿勢を話された。
私の文学活動も一切党派を持たない。なぜならば、客観的に見られなくなるからだ。自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していくために、党派性をもたないでやってきた。
(このことは今年初めの日本キリスト教文学会に出席した時に、私は直観的に感じとっていた。)

イエスを追求するにも自己を持たないかん。人の物まね、受け売りはいかん。遠藤(周作)にしろ椎名(麟三)にしろ独自の文学論をもってやっている。

「おおいなるもの」を宗教と言う。
そのおおいなるものに支えられていることがとても大切だ。おおいなるものに支えられていると傲慢にならずに生きていくことができる。

感動!!!!!!!!
次の記事では、千里ニュータウン教会牧師の東(あずま)道男先生による「『ナルニヤ国物語』の信仰的背景」をお分かちしたい。
これもまた衝撃的なほどの感動講話であり、90歳を越えておられる東牧師から、日本プロテスタント教会史の証言者如き話は他では聴けないものであった。
posted by 優子 at 18:15| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月15日

『蟹工船』読書メモ  

午後1時半から5時半まで、日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会に出席。
時間の余裕をもって家を出た私は12時5分に吹田駅についてしまった。と思いきや、直ぐ目の前に久保田先生がおられるではないか!
遠路滋賀県高島から足がお悪いのに、あとに続く数少ない日本のクリスチャン文筆家のためにお運び下さったのである。

駅から徒歩で10分もかからずに会場へ行けるが、右膝を悪くされている先生はタクシーで、私は商店街を楽しみながらお菓子を買ってからまもなく到着した。

小川姉が来られるまでの30分間ほど久保田先生と親しくお話した。
先生は「藤本さんは筆力があるから書いて下さい。今まで書きためているものを一冊にまとめるといいですね。原稿を送ってきてくれれば協力しますから」と、このたびも出版への意欲を引き出して下さった。

エッセイは自費出版になるが、書きためているキリスト教文学評論をまとめれば、安い値段で作ってくれる出版社をご紹介して下さり販売支援もして下さるというありがたいお話だ。

私は少なくとも200ページ欲しい。となれば原稿用紙300枚分は必要らしい。まだその半分だが、「では、その時は先生が序文を書いて下さいね!」と、厚かましくもお願いしてしまった。

このあとは私のお証しオンパレードになってしまった。先生は神妙な顔で耳を傾けて下さり、深く感動して下さった。深く共感して下さり大きな励ましとなった。時間があればいろいろ教えて頂きたいことがいっぱいあった。教会のこと、信仰解釈についてなど・・・だ。

さて、今回もまた、長原さんが『メメントドミニ』から「蟹工船」(11月9・11日)の記事を印刷して皆さんに配布して下さって恐縮した。「長原さん、ありがとう!!!」

以下は今朝家を出る前にアップしていこうと思いつつも時間切れで出来なかった『蟹工船』の読書メモである。
試験前の一夜漬け如く昨夜ようやく『蟹工船』を読み終えて記録した。後半部分は雑な読み方になったのが残念だったが、初めて読んだ時の印象が今も鮮明に残っているので良しとしよう。

★北海道では、字義どおり、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本一本労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋め立てには、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。― 北海道の、そういう労働者を「タコ(蛸)」と言っている。
蛸は自分が生きて行くためには、自分の手足も食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか!そこではだれもはばからない「原始的」な搾取ができた。・・・・

★「おれたちの交渉があいつらをタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の団結の力によるのだ。」

★「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無造作に土工がタタキ殺された。虐使に堪えられなくて逃亡する。それがつかまると、棒杭にしばりつけておいて、馬のあと足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬にかみ殺させたりする。
それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッとこもった音を聞いて、「人間でない」土方さえ思わず額をおさえるものがいた。・・・・(P56)

★死んでも「暇がない」ので、そのまま何日もほうっておかれた。


次は、多喜二が1931年7月に執筆した『処女作のころを思う』の中で、当時の心境を書いたところのものより:

★「(「3.15」の弾圧について)・・・雪にうずもれた人口15万に満たない北の国の小さい町から、二百人近くの労働者、学生、組合員が警察にくくりこまれる。この町にとっても、それはまたただ事ではなかった。

しかも、警察の中でそれらの同志に加えられている半植民地的な拷問が、いかに残忍きわまるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎悪をもってしることができた。
私はその時何かの顕示をうけたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、かれらの前にたたきつけ、あらゆる大衆を憤激にかりたてなければならないと思った。

            (略)

この作品の後半になると、私は一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の場面だった。・・・いよいよできあがったとき、私はこの作品にはみだらな題をつけてはならぬと考えた。

そして「1928年3月15日』とその題が決まったとき、私はこれは恥かしくない立派な題だと思った。・・・

当時私はほんとうのことを言って、尊い血を流しているに過ぎない、従ってそれは私自身といえども何か粗末にしてはならないものだと考えていたからである。今もその当時のそういう気持ちを、私はアリアリと思い出すことができる。」


★解説者・蔵原惟人は『1928年3月15日』を、「一読してこれはいろいろの欠陥はあるにしても日本プロレタリア文学にとって画期的な作品であると思った」と述べている。

そして、「『蟹工船』は『3.15』に比して一段の進歩を見せている。そしてこの作品はこの作としてまた画期的でもある。
というのはこの作は国際的規模において、プロレタリアの姿を描き出しており、オホツク海の工船に虐使されている労働者と丸ビルの重役とを一つの光景の中に見通させている。」 

「『蟹工船』は近来の日本プロレタリア文学中での、いなブルジョワ文学も含めての在来の日本文学中での、出色な作品だと評したい。」

「社会的な『問題』を根底においた芸術作品として、日本の文学に少ない例である・・・」

「しかし、集団を描こうとするあまり、個人がその中に全然埋没してしまう危険がある。・・・プロレタリア作家は集団を描くために個人を全然埋没してしまってよいのだろうか?」

                              
第1版発行は1951年1月7日。私が生まれた年(昭和26年)であった。今日の学びについては明日の記事に続けたい。
尚、10月30日(カテゴリ「読書会関係」)に、かつて読書会で取り上げた『蟹工船』記事を書いているので参照されたい。
posted by 優子 at 22:17| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月14日

我が子への父の篤い想い

昨日の記事を読み直しながら、医師から母に気管切開するように迫られた時のことを思い出している。神経難病はあまりにも過酷だった。この病の死因の主なものは窒息死だと早い時期に説明も受けていた。
母が亡くなる半年前にはますます息苦しくなり、呼吸するたびに声が漏れてベッドが揺れていた。

入院10ヶ月後の1996年4月初め、「気管切開すれば5〜6年はもちます」と切開を薦められた。私は「もちます」という表現にさえ憤りを感じるような精神的状況だった。

「気管切開すれば窒息することもなくなり、自宅介護もできる」
と説明を受けた。そのことを父に伝え電話で話し合ったのを覚えている。
母の病室に置いていたノートには父がこのようなことを書き残している。1996年4月3日朝の記述である。
 <重要案件>

気管切開と自宅療養の延命
申し分のない話ですが(医師側の思考と吾々の将来への思考との差異)、これからの5年先き延命が長くなる程 お父さんの命がなくなることもある。(※実際に、父はこれを書いて4年4ヵ月後に75歳で亡くなった)

2人の老人の世話 また 2人老人の入院(経済的にもある)(※母の入院中は毎日1万円あまりの出費だった)
、司(私の兄)も仕事と(Tが大学卒業には司も55歳位であり)これからの年月で予想以上に体力の低下が想像出来得る。

これは優子も同意義であるし、藤本のご両親の事もある。
其の後の孫達にまでも 高令化の時代への移行に 現在 お父さんや、司、優子達の現在の生活苦闘状況が、子から孫へと繰り返されることは避けていかねばならない。

将来的指向として 熟慮して考えるべきと思います。
これを読んで、私は父の悲痛なる憤りを感じ取り、私も全く同意見であることと、医師にも伝えてあることをもう一度書いて父に伝えた。

主治医は心ある方だったが、月1回だったか部下を複数連れての部長診では、部長と呼ばれる医師が「切開すれば楽になるのにねえ」とつぶやきながら部屋を出て行かれたことがあった。

この人は、患者のことを一度でも考えたことがあるのだろうか。全く他人事で、自分がそうなった時もそうするのだろうか?!

大脳が機能しているのに一切の意思伝達法がない者に、気管切開することが「必要の医学」なのであろうか?!彼にとっては「欲望の医学」でもなく、「傍観者の医学」「オモチャの医学」でしかない。

ただ長らえさせることを母は喜ぶだろうか?!
人為的に死を引き伸ばしてはいけないのだ。母の延命は良いことだとは思わなかった。


母のような場合の気管切開は人工呼吸器を挿管するのと同様で、切開したはいいが、あまりにかわいそうだから塞いでほしいと求めても法律上許されないことなのだ。悲痛な思いで父と共に決断したのだった。

やはりこのようなことを振りかえるだけで果てしなく悲しくなって心も体も動かなくなってしまう。もう13年も経っているのに!!!
だからこそ喜代子さんのことを思い出しては祈る日々である。

ところで、三浦綾子の『母』は読書会で取り上げていたことは覚えていたが、最後の章「山路越えて」を一度でも読んでいたらもっと記憶は残っていただろうと思う。
7月のテキストを2月に購入しており、読み始めた記憶はあるが最後まで読んだのか読んでいないのかもわからない。あの頃の社会生活の記憶が全くないことに気がついた。


2000年7月の読書会ノートには何も書いておらず、「欠席」とも書いていなかった。そこで「生活記録簿」を開いてみた。
この記録簿も娘たちが結婚してからズボラし始め、最近では殆ど書かなくなってしまった。今では空白ばかりのひどいものになってしまっている。

父のこと(ノート)についても引越し準備で中断してしまい、以後も途切れてばかりで母の時のように記録しなくなっていた。
そこで当時の生活記録簿から2007年7月の読書会の日を捜してみてハッとした。
この頃は父の容態が非常に悪く、連日通っており、読書会の日もまた病床にいた。父が亡くなるちょうど3週間前のことだった。
その後1年間も全く集中できていない。殆ど読んでいないし例会のノートさえひどいものだった。

我々の多くは多喜二のお母さんのように非情な人生でなくても、人が誕生して死亡するまで、我々は何と多くの悲しみや苦しみを通っていかねばならないかと思う。
50歳を越えてからというもの年齢を重ねながら、生を全うするということはまことに尊いことであり厳粛なことであると感じている。
posted by 優子 at 13:48| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年11月13日

『希望の風』さん、聖霊の風が豊かにあらんことを!

昨夜、喜代子姉(リンク先『希望の風』の筆者)からお電話を頂いた。
8日以後ブログを更新されていないので、心配しながら朝に夕に訪ねていたから嬉しさだけではなく驚いた。

「パソコンがつぶれてしまったのですよ」と喜代子姉(しまい)は明るい第一声だったが、お話を伺うと私が想像していた通りのお母様のご様子だった。
ご容態をお聞きして胸が痛んだ。きっとお母様ご本人は、私たちが思うほど苦しくないのだろうと思う。それもまた神の恵みなのだろううと互いに黙して頷きあったのだった。
母のように神経難病であれ、老衰であれ、命の焔が小さくなってくればみんな同じ状態に至る。お辛いことだろう。

ついに栄養補給は胃ろうにされたそうだ。
母の場合は全く嚥下できなくなってからは、鼻から直接胃に通したカテーテルで栄養液(エンシュアリキッド)を流し入れる経管栄養だった。母はそれだけで1年3ヶ月生かされたことや、痰の吸引法を教わってナースを呼ばすに私がやっていたことなどをお話した。

お母様のこの40日間のご様子は、脳梗塞で亡くなった父の様子と酷似していると思っていた通りだった。
容態が安定すれば退院を迫られるのは昔も今も同じ。この先どうなっていくのだろうという不安な思いでおられることだろう。しかし、その時は家に迎えようと決心されている喜代子さん。
お母様はこの上もなくお幸せだ。喜代子さんという優しい娘を持たれてお幸せだ。私はそうではなかった・・・・

就寝前の祈りの時、過ぎ去った年月を振りかえって見ると、神が常に私と一緒に歩いて下さっていた軌跡の道程がはっきり見え、感謝で泣き崩れてしまった。

今夜の散歩で夫に言った。「私もいつしか自力の信仰ではなくて、神の恵みによって生かされているね!ここに引越して来た頃は悔しくて悲しくて歯を食いしばっての忍耐と努力だったけれど、神さまはすごいね。私にも本物の信仰に変えて下さっていたね!!」 と、最後は歩みを止めて夫の目を見て話していた。
すると、夫もしみじみと、それはそれは深く頷いていた。夫自身もイエスさまを身に沁みてわかっているのだ。
 
「あふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」             
                 (ペテロ第一の手紙 5章10節)
イギリスの詩人ミルトンは
失明し 職を失い 投獄され
財産を没収された失意のどん底にあるとき
名著『失楽園』を書きました。

ベートーベンは耳が聞こえなくなりました。
愛するジュリエッタも去り
遺書まで書きました。

しかし
彼は立ち直った。

彼は「運命」「田園」「第9」などをはじめ
以前に優る量の名作をつくりあげていったのです。

                 (『み言葉の花束』より)

ハレルヤ!
神は神を求める者を決してお見捨てにならないどころか、私たちには計り知れぬことをなさるのだ!


posted by 優子 at 23:56| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年11月12日

三浦綾子著『母』を読み涙とまらず

15日例会間際になって三浦綾子の『母』を読み終えた。(『蟹工船』はまだ読めていない)
小林多喜二の家庭は「あまりにも明るく、あまりにも優しさに満ちていた」。優しい両親に育てられた兄弟姉妹もみんな優しく仲睦まじい家庭だった。以下に私自身の読書メモを記しておきたい。
多喜二は死んだ。指はぶらんとするほど折られても、足はぶすぶす千枚通しで刺されても、多喜二は、守らねばならない秘密は守ったんだと。そう言って、党の人たち、みんなほめてくれたの。でも、ほめられんでもいい。生きていてほしかった。
             (略)

「多喜二、苦しかったべなあ」
「多喜二、せめて死ぬ時だけでも、手を握っていてやりたかった」
「多喜二、わだしはお前を生んで、悪いことしたんだべか」
とか、
「多喜二、お前、死んでどこさ行っているんだ」
とか、独り言言ってるの。
多喜二が死んでから、わだしはいつのまにか、
(神も仏もあるもんか)
という気持ちになっていた。ほんとに神さまがいるもんなら、多喜二みたいな親思いの、きょうだい思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごい死に方をするべか。たとえ警察で誰かが多喜二を殴ろうとしても、首ば締めようとしても、錐(きり)で足を刺そうとしても、神さまがいるならば、その手ば動かんようにして、がっちりとめてくれたんでないべか。それを見殺しにするような神さまだば、いないよりまだ悪い。わだしは腹の底からそう思ったもんね。・・・
多喜二が亡くなってからも多喜二が住んでいた東京を去りがたく、5年間留まった母セキ。
家に居るとたまらないからと、多喜二の面影を追い求めて東京の街を歩きまわる母の姿に泣けて泣けてしかたなく、誰も居なかったから私は思いっきり声を出して泣いた。
わだしが東京の街ばあちこち歩いたのは、多喜二がこの東京のどこば逃げまわったかなって、そう思ってな。そう思うと、その辺のごみごみした小路だの、柳の木の下だのに、多喜二の姿が見えるような気がしてな。母親なんて、馬鹿なもんだ。どの道行っても、
(多喜二はこの道通ったべか)
(ここを走って逃げたべか)
(あの塀の陰さかくれて、刑事ばやり過ごしたべか)
なんて、思っても詮ないことを思うのね。まるで、多喜二が生きていた時、わだしも一緒に歩いたみたいな気になることもあった。

多喜二が死んで5年間は多喜二の夢を見ない日は一度もなかったセキ。
「母さん、ただいま」
「お帰り」
「お、なんだ、生きていたのか」
「生きていたのかっ!」
「生きていたか、あんちゃん!」
多喜二の手が、ひょいとわだしの肩におかれて、
「じゃ、行って来るからな」
って、にこっと笑う多喜二にしがみついたら、ちゃんと体があるの。わだしは気がふれたように、
「多喜二!お前生きているんだな!生きているんだな!夢でないんだなっ」
って、その体に本当にこの手でさわった夢もみた。

      (略)

三十年近く経ったこの頃でも、多喜二が玄関から入って来る夢だの、わだしの隣りでご飯食べてる夢だの、
「タミちゃんところへ行ってくる」
なんて、照れたように笑って出て行く姿だの、月に何回かは見る。

「闇があるから光があるんだ」、「光は闇に輝く」と、よく言っていた多喜二は、高商に通っていた頃、教会に通い聖書を読んでいた。

多喜二の妹チマの伴侶は素晴しい人物だった。
大きな網もとであり寺の檀家総代の家柄であるにも関わらず、妻チマの信仰を認め、喜んで教会へ送り出す人だった。セキを養子縁組して最後まで面倒を見、しかも、セキがキリスト教の葬式を願った時も喜んで認めてやる人だった。

近藤治義牧師はチマが通っていた教会の牧師である。この牧師の人柄を通してセキはまことの神の存在を知ったのである。
「神さまは、正しい方だから、この世の最後の裁判の時には、白黒つけて下さる。お母さん、安心していていいんですよ」
             (略)

「多喜二は天国にいるべか」
って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。チマさんから聞いてますが、多喜二さんはずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。
『小さき者』というのは、貧しい人ということでね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
うれしかったなあ。多喜二に会える、多喜二に会える。うれしかったなあ。

「2月が近づくとなあ、多喜二が死んでから三十年近く経っても、まだ心が暗くなる」と87歳の年老いた母の姿に、多大なる苦難を越えねばならぬ人の世の旅路と、その重さと厳粛なる日々の連続を思わされた。

セキの悲しみに5分も10分も黙して泣いて下さった近藤牧師。
「イエス涙を流し給う」。イエスさまも涙を流して下さっているのだ。

1933年(昭和8年)2月20日 多喜二、死亡。
                   多喜二30歳。セキ60歳。
1961年(昭和36年)5月10日 セキ死亡。87歳。


「神も仏もあるものか!」と慟哭していたセキの魂を鎮め、イエスに希望をおいて生かされる者として下さった神。
神はセキの最期の日に近藤牧師を遣わされた。牧師が訪問した時、セキはお手伝いの人と囲炉裏を囲んで「山路越えて」を歌っていたという。
その5時間後に突然召し上げられたのである。
私は神の愛に涙する。こうしてセキは悲しみから解放されて天国に移されたのである。

久々に三浦綾子の作品を読んで、私は初めて小説を書きたいと思った。このような小説を。
posted by 優子 at 22:23| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月11日

娘たちの恩師から贈られた言葉の花束

ミネソタから真智子がチャットで大歓喜を伝えてくれたのは、先月10月29日(同日記事)だった。以来、先生と毎日のようにメールで人生を語り合い、生かされている喜びを深くされている。

先生は激務から声帯に異常が現れて手術をされた身であるにもかかわらず、その後、学年主任まで引きうけねばならぬ事態になり、無理に無理を重ねてしまい悪化させてしまわれた。
激務を全うされてようやく今春から病気休暇に入っておられるが、今はおしゃべりは厳禁で呼吸法のトレーニングなどの治療に励んでおられる。

人格的にも音楽的にも有能な教師であられるゆえに、何と大きな試練を耐え忍ばれていることだろうか!
2人のお子たちは、「ただいま」と家に帰るといつもお母さんがいるので大喜びされているという。小学生の坊ちゃんは、「このままお仕事を辞めてずっとお家にいて!いつもおりこうにしているから!」と仰るそうだ。社会で活躍されている母親の辛さが想像できる。

私は厚かましくも娘たちの恩師を「和子さん」とお呼びさせて頂き、互いに名前で呼び合う交わりをさせて頂いている。

そして、早々に娘たちの結婚の記念誌をお送りさせて頂き、子育て時代の足あとであり私の想いが詰め込まれたPTA広報誌をも同封させて頂いたところ、共に心から感動して下さり、それが嬉しくてお許しを得てここにも刻ませて頂いた。
和子さん、11月2日のメールも転載させて下さいね。本当に嬉しかったのです!!

これは11月2日、呼吸法のトレーニングに向かわれる車中や待ち時間に、娘たちへの結婚記念誌をお読み下さった日のことである。
すごい!本当に素晴らしい冊子です!!
優子さんにしか出来ないことだと痛感しました。
こんなに夢中で文章を読んだのはいつぶりだろう?
思い出せないくらいです。

そして、帰り道ではなんともいえないほっこりした幸せな気持ちになりました。私は母親になれて本当に良かったと、幸せだと思わせて頂きました。

優子さん 本当に有り難うございます。
私も神様に感謝します。
頂いた冊子、ふじとニュース全部読みました!
どちらにも私の心に留めておきたい所にはアンダーラインを引きました。
冊子の「知子さんの新入生誓いの言葉」のページには
桜色のカードをはさみました。
海外で大活躍なさっている真智子さんの文化祭の合唱のページや、卒業式で優子さんも一緒に歌ってくださったことが書かれた所にも!
ああ懐かしい・・・。
汚れないようにファイルに納めました。
そしていつでも読み返せるようにすぐ出せるところに入れました。

ふじとニュースは広報のコンクールで受賞されたのでは?
こんなに内容の濃い広報誌はなかなか作れないです。
わが子たちの学校の新聞はほとんどが行事での写真で埋め尽くされています。

11月4日のブログを読み
「待つこと」について考えました。
まさに私にとって今がその時なんですね。

本当にありがたいことだ。
この喜びを下さったのは神さまだ!
坊ちゃんは、幸悠の写真をプリントアウトして下さったのをご覧になりながら似顔絵を描いて下さっているというのだ。「『ほんまにかわいい・・・』って言いながら鉛筆で丁寧に描いています。」と。

なんという優しい子供さんに成長されているのだろう!
「そのような子供さんに育てておられる大阪先生のお人柄がわかるね。そういうところは私に欠けていた部分やねぇ」と、昨夜も夫と話していたのだった。若い頃の私は今ほどの心の豊かささえなかったので。

また、こんなことも!!!
「お母さん、今日はもう、メメントドミニ見た?」って毎日のように聞くんですよ!
そして、私が優子さんのブログを見ているのに気づいたら、すぐ隣にひっついて座りに来て大好きなお絵描きをするんです。
ときには4コマ漫画も自分で作って描くんですよ!

この前「お母さんは神様を信じる?」って突然聞くので
「うん、信じるよ!」と答えました。
私の隣でブログをちらちらと見ているからかな?

またまた毎度お馴染みの「嬉しがり優子」が炸裂してしまったようだ。
私はしみじみ神さまの御手を感じないではいられない。
真智子が言ったように、この出会いは奇跡だった!
ということは、神さまが「和子さんの前方に最高の喜びを備えているよ!」と示して下さっているのだ!!
和子さん、同封させて頂いた『よろこびの泉』に掲載されている島田裕子さんは、親しくして頂いている友なんですよ。
画面右側のリンクにあります『生かされて』の筆者です。お写真の通りとても柔和で優しい方です。

昨日クリスチャンペンクラブのHPを更新して下さったので「ありがとう」をお伝えしたら、御返信にこんなことを書いて下さっていた。
お山の記者ポッポの記事、繰り返し読んでいます。
幸悠くん感受性が強いのですね。泣き顔も可愛い……。
28年前に使っていたおもちゃを大切にとっているところがすごいと思いました。
ご両親のことを思う優子さんの心が伝わってきて思わず涙ぐみました。

和子さん、裕子さん、ありがとう!!!
そして、イエスさま、ありがとう!!!
こうして私もまた愛の人に変えていって下さる。感謝。るんるん
posted by 優子 at 13:32| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

筑紫哲也さん逝く

8日のお昼頃、帰宅した長女から2度目の電話が入った。
「ママ、筑紫哲也さんが亡くなられた。忙しいからまだ新聞を見ていないと思って・・」と教えてもらって知ったのだった。7日午後のこと、73歳だった。
私は筑紫さんがジャーナリストの中で最も好きだった。
ある有名なジャーナリストは淡路・神戸の大震災を報道しながら、コートのポケットに手を入れて被災地を歩き解説していた姿を見て不快に感じたことがあった。被災者へのインタビューも何か他人事に映り、それ以来、筑紫さんの言動をより注視するようになった。

筑紫さんからは常に人々への愛、人間味を感じていた。社会的地位の高い人にも媚びへつらわず、低い人にも無礼さは全く感じられず、全ての人々に平等に接し、パフォーマンスではなくて人格からほとばしる人間への愛が漂っていた。

穏やかな言葉で、しかし、鋭く言うべきことを主張された筑紫さんが私は大好きだった。このたびの訃報の報道番組から、日本にとって大切な人を失ったことがわかった。


どんなことがあっても、平和・言論の自由・憲法、この3つは絶対に守れと訴えておられた。1968〜1970年には朝日新聞の特派員として沖縄に駐在。
10歳で終戦を迎えた筑紫さんにとって、「ジャーナリストは、戦後の発展から取り残されている沖縄をそのままにしていていいのか?!」と強く訴えておられた。常に弱い人々の立場に立ち、その後もずっとそうだったと沖縄の人が哀悼の言葉を述べておられた。

「自由に言えて反対意見も自由に出せることを当たり前のことにしたい」。
MBSの「ニュース23」での「多事争論」に代表される言動。
その根底には、福沢諭吉の「違う意見を持つものと議論することが何よりだ」があったと言う。論を大事にし、そして、少数意見を大切にし続けられた。
1982年の東大入学式では、そこを討論の場にされた。
「新人類」や「元気印」の造語者でもある。

「時代が少し『右』に寄ったので、(筑紫さんは)ちょっと『左』に見えるだけで、スタンスは全く変わらなかった。晩年、親しい仲間に『俺たちは少数派になったなぁ』と、静かにつぶやいた。」とは、お仲間だったジャーナリストのばば こういちさんの話だ。

ばば こういちさんもまた私の大好きな人だ。筑紫さんと同じ息遣いを感じる。私が30代に入った頃から大きな感化を受け、全く手付かずになっていた私の知性と感性を目覚めへと導いていってくれた一人である。
筑紫さんとばばさんが私の敬愛するジャーナリストなのだ。


「戦争中は議論することができなかったが自由になった。しかし、未だタブーがあって触れられないものがある。
言論が不自由になっていくのかもしれないという危機感を持って議論しようというのが彼の立場であり、それは揺るぎなかった。従って我々の(道しるべとなる)南十字星であり羅針盤であった」
とは、鳥越俊太郎さんのコメントである。

「成功してきたことがマイナスに働くかもしれないということを歴史が教えている」、「ワイドショーにも危惧している」とは、筑紫さんの言い残した言葉のように受け止めている。

私もワイドショーについては正当な路線からずれ、ワイドショーの限界を感じている。例えば、不正義を正すために事実関係を明らかにすることはいいことであっても、正しいことをやりながらも他方では間違いをおかさざるをえなかったり、それが人間が完全でないことの証明なのかなと感じることがあった。

それにしても、長女はどうしてわざわざ伝えてくれたのだろうか。
私は筑紫さんが好きなことを特に話題にした覚えはないので、今日のお昼の電話で尋ねてみた。
すると、私は日常的に言っていたらしい。娘が独身時代からずっと。「多事争論」を注目して聞いていたことも日常の光景であったと。
嬉しかった。
電話をしてくれるほどに私の一面を知ってくれていたことが嬉しかった。

人は親を失うと自分の子供時代のことを聞けなくて寂しいのと同様に、子供たちが巣立ってしまった親は、わが子のことを知ることができなくて、またこちらのことも知ってもらえなくて寂しく感じることがある。
しかしブログを通して、私がどんなことを考えながら生きているのかを知ってもらえるのでありがたいと思う。


筑紫さんは最後にご自分の意思で聖路加病院に入院されたそうだ。
クリスチャンであった滝廉太郎は大伯父にあたる(滝の妹・トミが筑紫さんの祖母)。筑紫さんもまた神の恵みを受け取られて安らかに召されなさったと信じたい。このような方なればこそ!


与えられた賜物を十分に用いて生を全うし地上を去られた筑紫哲也さん。この国にとってかけがえのない人が亡くなった。私も自分の命をしっかり生きていかなくてはと思う。

私は常に神の座標軸に自分の立脚点を置いて生きている。
混沌とし激動する時代は常に軸足を見つめていないと流されてしまう。全知全能なる神を知らされて生きるということほどありがたいことはない。常に神を見失わずに生きていこう。

筑紫さんに絶賛された鳩飼さん、健康が完全に戻された時には再び書いてほしい。
posted by 優子 at 17:08| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2008年11月09日

小林多喜二の母

寒くなり、ついにセーターを着て冬装束になった。あとは防寒着を残すのみである。
今朝は家を早く出て買い物に立ち寄ってから教会へ向かった。
ところが教会のドアが開かない。いつまでもドアをガチャガチャやっている私に、「今日は向こうと違うんか?」と夫に言われて納得したのだった。

今通っている教会では時々こういうことがある。
この会堂が献堂されて意外だったのは、教会なのに門が閉じられているのが多いことだ。一部屋借りての集会所ではなく教会なのだから伝道者が常駐されるのが望ましいだろう。

先週は夫も私も疲れていたので教会を休んだために、今月の予定を知らずにいたというわけだ。今日のように日曜日に教会が閉じられていると、新来者のことを思うとやはり考えさせられてしまう。

先月のJCP定例会会場だった大津教会では鍵をかけずに帰った。どなたかが祈りに来られるかもしれないというので開けておられるようだ。実はあの時、私は『レ・ミゼラブル』を思い出すほど感動したのだった。それでこそ教会だと。


ところで、先週お訪ねした淀川教会の母教会である天満教会は、来年創立130周年を迎える歴史ある教会だ。JCPのO姉の天に帰られたご主人が天満教会の方なので、先週2日の召天礼拝に集われている。

また、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』に登場する長野政雄のモデルが天満教会で洗礼を受けているとお聞きしている。「大田先生が資料を天満教会の牧師に提供されたのに牧師は無関心だったそう」であるが。

古い教会なので、このほかにも歴史に名を残した人が受洗していると鳩飼さんに教えて頂いた。社会運動家の管野スガ(1881〜1911)だ。

文学を学び、日本基督矯風会大阪支部で活躍中に木下尚江(キリスト教社会運動家)と知り合って社会運動に接近し、毎日新聞記者、赤旗事件の巻き添え・・と挙げればきりがないほど多くの足跡を残している。

幸徳秋水との出会いからアナーキズムに共鳴、恋愛し、大逆事件の大逆罪として秋水ら関係者11人とともに処刑された。
僅か30歳。何という波乱の人生だったのだろうか!!!

その8年前の22歳の時に、スガは私生活を反省して天満教会で洗礼を受けていた。スガはどのような思いで生涯を終えたのか大変に興味深い。歴史を身近に感じる。

さて、今週15日のJCP関西ブロック定例会が今年最終となる。
テキストは三浦綾子の『母』だ。せっかくだから多喜二の『蟹工船』も読むことになっている。
 

「母さん、おれはね、みんなが公平に、仲よく暮らせる世の中を夢みて働いているんだ。小説ば書いてるんだ。ストライキの手伝いしてるんだ。恥ずかしいことは何一つしていないからね。結婚するまでは、タミちゃんだって決して手ば出さんし・・・だから、おれのすることを信じてくれ。」

「わだしは小説を書くことが、あんなにおっかないことだとは思ってもみなかった。あの多喜二が小説書いて殺されるなんて・・・」

拷問のために痛ましく変形した多喜二の遺体を前に、母セキの怒りと嘆きはいかばかりだっただろうか。「気が狂うばかりに苦しみ、生涯わたって多喜二の死が脳裡から去らなかった。(神も仏もあるもんか)とも思った。」

「多喜二の母は、息子を殺されて、正しく白黒をつけて下さる方がいるのか、いないのか、どんなに切実にそのことを思ったのではないだろうか。その切なる思いを何とか書いて欲しい」と、夫から強く迫られて書いた小説である。

久保田先生は(角川文庫)解説で次のように書いておられる。

ここで私が特に注目したいのは、罪なき身でありながら十字架にかけられて召天したイエス・キリストの死と、多喜二の死の惨めさに共通の悲しみを見た三浦氏の視点である。

また「ピエタ」の絵に描かれたイエスの聖母マリアが悲しみに耐える姿と、多喜二の母セキの悲しみと重ねあわせて想いを馳せた三浦氏の視点である。

          (略)

多喜二の拷問による死を、キリストの死と重ね合わせたセキの思いは、三浦氏自身の思いでもある。
そして、セキがキリストを慕って心の安らぎを得、しかも亡くなる5時間ほど前に、近藤牧師が偶然、セキを訪ねていること(「あとがき」)に、三浦氏は「神の御旨の深さ」を思ったのである。

多喜二の母セキは洗礼を受けていないまま召されたが、「キリスト教で自分の葬式をしてもらおうとするに至る心情を述べている」。

セキの愛唱歌、讃美歌404番「山路こえて」は私にも懐かしい曲である。放出教会の聖餐式で歌う、このメロディーと同様の聖歌206番「しみもとがも」が夫の愛唱歌だからだ。

まもなく88年の地上生涯を終えようとしていたセキのもとに、神が牧師を遣わされたのであった。神は神を求める者を決して見捨てることはなさらないのだ。
私はセキを偲び、「山路越えて」を繰り返し聞きながらこれを書いた。

ご案内:15日の例会は大阪府吹田市であります。
リンク先の「クリスチャンペンクラブ」をクリックして頂きますと、詳しい案内が出ています。
本をお読みになっていなくてもいいのです。話だけでも聴きたいと思われる方は是非お出かけ下さい。歓迎いたします!






posted by 優子 at 22:31| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

おじいちゃんとおばあちゃんに重なった汽車ポッポ

ハウルあってよかったね。メールありがとう。
パパも腰がひどくなくってよかったね。しかもフォームの改善に役立ったとは(笑)。バスケしてたとき、怪我のせいで動きがよくなったことがあったのを思い出した。

今年は比較的寒くなるのが遅いようだけど、今日から、一気に寒くなりました。現在2度。日曜日の予想最低気温は−5度らしい。

お山の汽車ぽっぽ、懐かしいね。動いたの、嬉しいね。
記事読んで、まちも懐かしくてちょっと胸が熱くなった。
まちにとっては、おじいちゃんとおばあちゃんが重なる部分もありました。ママとパパは、良いおじいちゃんとおばあちゃんになってる。

ゆきちゃんが泣いちゃったのは、やや残念やけど、そうゆうこともあるね。おもちゃ売り場で、お話しするクマさんをよく見ていたけど、ゆきちゃんは恐がるかもやね。(そのくまは、顔に似合わぬ低い声を出すから、余計恐いかも(笑))

クリスマスプレゼント(お年玉)の参考になりました。うふふ。

真智子

昨日の記事を読んで胸を熱くしてくれた真智子の気持ちに、また胸が熱くなって掲載させてもらった。このこともまた懐かしい日々に変えられていくであろうから。

「フォームの改善に役立った」って何のことかと思ったが、どうやら夫が娘への返信にゴルフのことを書いたようだ。
返信を全く返さない夫に注意喚起したことがあるが、返信しているなんてすごい!本当に改善されていた(笑)。
夫は昨日、会合会場となった奈良ホテルに宿泊して、今日はゴルフで不在。冷たい雨の中ご苦労なことである(笑)。

長女は昨夜も婿が会議で遅くなるのでと、もう一晩泊まって今朝8時半に帰った。私は長女夫婦の、婿の心遣いを感じてもいる。
6日の夜のこと、「今夜はこんなに賑やかだけれど、明日の夜は一人ぼっちになる」」と、私がつぶやいたからだ。

もう一晩、さて親としてどうするのがいいかと考えた。
最近の娘は婚家先へ行くことが重なったり、子供を負んぶしていてギクッと背骨に痛みが走って今も良くなっていないのも気になるので、少しでも体を労われるだろうと思っていいことにした。
嬉しくもあり、・・・でもあり、こんな顔かな?わーい(嬉しい顔);。昨夜は私も9時半から眠ってしまった。

知子は働き者で整理整頓の鉄人とあって毎回整理整頓してくれ、これを維持しなくてはと思うが直ぐに×××となってしまう(>_<)。

今朝も互いに神さまへの感謝が溢れて溢れての見送りとなった。
帰りはいつもたくさんの荷物なので帰宅すれば大忙しだから、無事到着電話は無用にしてもらっているが、今日は先ほど電話してきてくれた。「寒くなったから掃除してホーム炬燵を出したよ」と、明るく美しいが響いていた。

ありがとう、知ちゃん!
剛臣さんにもよろしく!良い週末をね!

真智ちゃん、ありがとう!
太志君と良い週末をね!愛しているよ〜〜!!!!

そして、このブログを読んで下さっている方々の上にも、神さまの励ましと喜びが豊かに届きますように!
posted by 優子 at 12:12| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2008年11月06日

「お山の時計駅」の汽車ポッポ

真智子が生まれた年の冬に父が買ってくれたおもちゃが、28年の時を経て目の前に現れた。

娘達が使わなくなったあと、真智子より10歳年下の姪っ子が使ったオモチャである。再び幸悠にと妹から知子に手渡されたが、さすがに古いので動かなかったと持って来た。

4日の夕食後、夫は根気よく電池を入れるところの錆を取り除いて動かした。汽車が動いた瞬間、私は長い眠りから覚めたような感覚で目が釘付けになった。

続いて夫はレールを組み立て始めた。
こういう根気のいる仕事が大の苦手な私と違って、夫は黙々と記憶を辿るようにして繋いでいた。娘達が幼かった頃と全く同じ光景を前にして、私はぼんやりと立ちすくんでいた。

カラフルなレールの色もそのままなら、夫の髪は薄くも白髪にもなっていないので、私は一瞬見当識障害になったのかと思うような錯覚を起こして、ただ茫然として見つめていた。ここに幼い知子と真智子がいないだけだ。

汽車A.jpg

ところが、夫がせっかく孫を喜ばせてあげようとしたのに幸悠は泣いた。本当に変わった子なのだ。
座ると「プー」っと音の鳴る椅子も怖いし、定時になると音楽がなってボーンボーンと時を打つ時計の音も怖くて泣いてしまうので、孫が来ると電池を取り出す始末である。

今度は動く汽車やかわいい音に泣いた。幸悠もまた幼い頃の娘たち同様に音楽が大好きで、リズミカルな讃美歌やディズニーのメロディーを聴くと自然に体をスウィングさせているのに、「お山の時計駅」で汽車が止まってウサギさんとクマさんが交互に顔を出しいるのを見て泣いている。

汽車ポッポ.jpg

真智子なら興味津々汽車を目で追っていた。いつまでも飽きずに見ていたから、人それぞれに小さい時から個性があるんだなぁと思ったが、いや待てよ、真智子も10ヶ月の頃に電池で動くぬいぐるみの犬を怖がったから、この月齢の孫の反応は一般的なのかもしれない。

真智と汽車ポッポ.jpg

そんなことを懐かしく思い出しながら、長女が居るので昔の写真を携帯電話で撮ってもらって記録することにした。生後5ヶ月頃の真智子である。

あれから28年あまりの時が流れ、両親の姿はとっくに無く、オモチャだけが残っている。
夫63歳、私は57歳。
若く見えている夫も、湯船から孫を抱いて軽々と立ち上がれなかった。その姿を見て私の胸に熱いものが突き上げ、寂しさと懐かしさ、そして、今まで守り導いて下さった神への感謝が溢れて目頭が潤んだ。
私たちは老いの坂を登り始めていた。


posted by 優子 at 10:03| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

建国以来初めての黒人大統領誕生!

アメリカ合衆国が建国されたのは1776年で、1863年にリンカーンによる奴隷解放宣言、その100年後にキング牧師がワシントン大行進での有名な大演説がなされた。
その5年後に暗殺され、キング牧師没後40年にあたる節目に黒人大統領が誕生したのである。オバマ氏は黒人奴隷の子孫ではないけれども、アメリカにおける奴隷解放宣言に匹敵する歴史的出来事であり、世界史的にも歴史が動いた瞬間であった。

キング牧師については、今年の2月15・16日の記事にも取り上げた。
不正義の嵐が吹き荒れ、キング牧師をかしらに暴力的苦痛と恐怖に耐えながら闘い続けた人々。今も健在されているその世代の人々の感慨はいかばかりであろう。

オバマ氏支持基盤は「若者や大卒以上の高学歴層、黒人」で、マケイン氏は「週1回以上教会に通う信仰心のあつい人たちの支持が高かった」そうだ。

オバマ氏のことは詳しくは知らないが、世代を超えて、ついにキング牧師の不屈の勇気が勝利したのである。

仮にもアメリカがキリスト教国と呼ばれているならば、2度と無益な戦争を選択してはいけない。事象の表層ではなく本質を見なければならぬという立場はキリスト者として同じであっても、正義の名の下にする戦いは報復でしかなく同意できない。

イエスの福音は剣を捨て去ることである。オバマ氏は剣を捨てて平和を求め続けて欲しい。


我々は為政者のためにもっと真剣に祈らねばならない。
米国の再生は成るか?!
オバマ氏の上にキリストの知恵と勇気が与えられて、神のみこころがなるように祈っていきたいと思う。

孫や娘と一緒にいるのは楽しく幸せな時間であり、孫や家族とのことは例外であるが、多忙すぎたり疲れすぎると考えることも感動することもできなくなる。今年からは「あれもこれも」ではなくライフワークを優先するようにした。

今は頭が朦朧として、これを書きながら眠ってしまいそうなほどだが、どうしても歴史の瞬間を記述しておきたくキーボードを叩いている。

そして、今日は鳩飼さんの手術日だった。
私は2日の日曜日から、そして、今朝から一刻一刻を想いながらお祈りしていた。

夕方、鳩飼さんから生涯の宝となるようなお手紙が届いていた。神の愛の内に生かされている幸せを感謝した。
そして、5時になった時、もう全てを終えて安らかに横たわっておられることであろうと安堵したのだった。
麻酔の後遺症や傷の痛みもなく、今頃は熟睡しておられますように祈りしつつ記事を終える。






posted by 優子 at 23:25| 随想 | 更新情報をチェックする

2008年11月04日

わが魂に露のようにしたたる神のことば

       主は
       おのれを待ち望む者と、
       おのれを尋ね求める者に
       むかって恵みふかい。
       主の救いを
       静かに待ち望むことは、
       良いことである。
  
         
            (哀歌 3章25、26節)

待つことより、動くことの方が簡単です。しかし、動くことよりも、待つことの方が重要な時があります。私たちが待っている間に、神さまは必要な働きをしていてくださるのです。

ですから、待つことを嫌って、動こうとするなら、神さまが私のためにしようとしておられることを、妨げてしまうことになるのです。
待つことは、私たちにとって一番難しいことではないでしょうか。詩篇の記者は「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(詩篇37・7)と言っています。


「わたし(神)のことばは、露のようにしたたる。」

                     (申命記 32章2節)

これは、秋山恵一牧師が一粒社から発行されている『祈りの花たば』(第3集)から引用させて頂いたものである。その序文には次のようなことを書いておられる。一部ご紹介したい。

神のみことばには、いのちがあり、私たちの魂を生かします。しかも主は「わたしのことばは、露のようにしたたる」と言っておられます。
音もなく静かに降りる露は、乾いた地をうるおし、昼間の烈しい炎熱でしおれた草花を生き返らせ、色も香も甦らせます。

・・私が十二指腸潰瘍で床に伏していた時、今は亡き恩師が聖書を開き、「わたしの時は、みての中にあります」(詩篇31・15)と読んでくださいました。その時、弱りうなだれていた私の魂は、みことばの露で生き返り、どれほど力づけられたことでしょう、生涯忘れることは出来ません。
         
            (略)

荒野のようにいよいよ風化していく現代、人の心は荒れすさみ、傷つき、疲れ果てて倒れています。天よりの露を必要としています。
露は嵐の夜には決して降りません。
神の恵みの露も騒がしい心では受けられないのです
。神の前に静まり、主を待ち望みましょう。

尚、『祈りの花たば』から「苦しみは私たちの益のため」と題して、2008年3月30日の記事(カテゴリ「引用文」)にも引用させて頂いている。
posted by 優子 at 09:18| 引用文 | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

チャッピーおいで!

これが我が家のチャッピーだ。
2007年夏の写真だが、今もこのような感じである。大きく見えるかもしれないが約9キロのメスの柴犬である。
チャッピー2007..jpg

冬になると、晴れの日の午後にはこの部屋に入れてやることが多くなる。チャッピーの小屋は北向きの玄関にあるので寒いからだ。
「おうちに上がる?」と言って、この敷物を敷いてやるとここに座るので、引っぱって運ぶ。
滑りやすい布を底に敷いているが、かがむと腰が痛いので向こう側に見えるエンジ色の紐(子供の中学校制服のリボン)を縫い付けた。これを引っぱると簡単に運べる。

チャッピーは絶対にこのマットから外へ出ない。
1回として教えたことはないが、飼い主の気持ちを察知してくれているかのように、何があっても出ない。最近は時々、足先がはみ出して横になる時もあるが、まあその程度である。

「お水ほしい?」と聞いてやると、欲しければここでクルクル回る。欲しくない時は反応しない。
陽射しの動きに合わせてマットを動かしてやる。私の机はチャッピーの目先の所にある。

現在9歳半、人間で言えば54歳くらい。そろそろ閉経かと思っていたら1ヵ月遅れで10月半ばからあった。今年は特にイライラしていてかわいそうなほどだった。

いつも発情期の時は、散歩中にオス犬がいると「キュンキュン」と鼻を鳴らして寄って行く。夫は「はしたない!」とリード(綱)を手綱のようにしてしばいた。
かわいそうに!
「そんなひどいことせんといて!」と、私はすかさず言葉の手綱をビシッと入れた(笑)。

チャッピーはよほどイライラしたのだろう、散歩用の綱を噛み切ってしまった。こんなこと今までなかったのに子犬の頃みたいだ。すっかりオバちゃんなのに。
夫は格好悪いから新しいものをと言うが、物を大切に使わなければもったいない。無残に切れた綱を結んで使っている(笑)。短くなって良くなったくらいだ。

真智子のことを「ミネソタチャッピー」、孫のことを「生駒チャッピー」と呼ぶ夫。全てチャッピーが基調になっている。
明日から知子が息抜きのために3泊の予定でやって来る。生駒チャッピーが来るとチャッピーは寂しそう。私たちの気持ちがチャッピーから孫に移ってしまうからかな。
そういえば、家の中で飼っておられる人は、お孫さんが来ると犬がショボンとして拗ねるそうだ。チャッピーに寂しい思いをさせないようにしよう。

ミネソタチャッピーからも、ホッとひと息メールが届いている。
パパ、ぎっくり腰になったらしいね。お大事にね。くまおもお大事にっていってました。
ママ、ケーキ買ってきてもらって、よかったね。
腰と股関節、お大事にね。

この週末は、ミネソタは暖かく(15度ぐらい)、いわゆるインディアンサマーでした。
ハローウィンで仮装している人も多かったよ。
来週の火曜日は大統領選挙の日らしいです。
またね。
真智子

アメリカではいよいよ大統領選挙だ。
長い選挙期間中に候補者の演説が冴え大統領になっていくような感じがした。特にオバマ氏は大統領にふさわしい器に成長していくようで興味深かった。最強にしんどいけれどやりがいのあるチャレンジだ。

今日は「文化の日」で祝日。
アメリカではもうすぐ感謝祭の祝日があるね。
それぞれに賜った人生を誠実に生きていくことができますように。
真智、メールありがとう!






posted by 優子 at 17:35| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

鳩飼さんと再会! ―淀川教会 オルガン奉献記念コンサート―

昨日、ご無沙汰していた友と6年ぶりの再会を果たした。
友の母教会、日本キリスト教団 淀川教会は、大阪市内の教会なのに芝生の庭があり、そこにはギネスブックに載っているという日本一小さな教会「ミニチャペル」があった。ドアを開けると小さな椅子が8つ並べてあった。

淀川教会は天満教会が母教会だという。過日10月19日に創立50周年を迎え、パイプオルガンを設置された。
これまでの歩みを記された記念誌(夫によれば、表紙がキャストコートで、本紙もコート紙を使用したA4版のりっぱなもの)によれば、オルガンについては30年近くも前の「先見的幻」であり、時満ちてその実現を見たのである。

勿論、シンフォニーホールのようなパイプではないが素晴しい音色だった。172本のパイプのうち、木でできている36本は鳩時計のような優しい音だった。そして、電子オルガンとも繋がっているので、様々な音色が組み合わさって演奏できるオルガンだ。

演奏される土橋薫さんは、島之内教会のオルガニストで世界を舞台に演奏活動されており、シンフォニーホールやいずみホールでも連続演奏されている有名な方だ。
淀川教会のクリスマスでは、毎年、土橋さんの伴奏でハレルヤコーラスを歌うのが恒例になっているというから羨ましい限りである。

特別演奏に先立ち、第1部のプログラムは、10人の男性聖歌隊による『詩篇98』から始まった。
続いて、淀川教会・杉本常雄牧師の感謝祈祷。パイプオルガン設置推進委員による経過報告。そして、奉献演奏として全員が讃美しようということで、当教会の4人の奏楽者がそれぞれに演奏された。このあたりに1人ひとりを大切にしている淀川教会の温かい雰囲気を感じた。

第1部最後のプログラムは、淀川教会と天満教会の聖歌隊による聖歌隊用の讃美歌、『御陵威(みいつ)あれ 御栄えあれ』(1931年作)が会堂に力強く響いた。

杉本牧師はマラソン大好き牧師通り日焼けしておられた。
マラソンだけではなくコーヒーも大好き牧師で、明るいダイニングルームにはいつもコーヒーがサービスされているという。この日も素敵な雰囲気の中でフェローシップの輪が広がっていた。おいしかった!(^−^)

特別演奏のプログラムは、以下の通りである。
土橋さんが一曲ずつ解説しながら演奏されたので味わい深く鑑賞できた。

@ J.P.スウェーリンク(1592〜1621、ルネサンス終わりからバロックの初期、宗教改革でカルバンが力を振るっていた頃のオランダ人)
 コラール変奏曲
  『いと高きところにいます神にみ栄えあれ』

会衆も参加できるようにと、コラールにもとずく讃美歌を組み入れて下さり、私たちも「いと高き神に」(グローリア・インネクセルシス・デオ)を讃美した(歌った)。  

A J.S.バッハ(1685〜1750、スウェーリンクの孫弟子)

 オルガン小曲集(信仰的にも音楽的にも深い作品集)より
  『我、汝を呼びまつる』 BWV641
  『われら、悩みの極みにありて』BWV641 (讃美歌21の526番)


B S.カルクーエーレルト(1877〜1933、ロマン派時代に活躍。ロマン派ということでラッパが入るなど、ぶあつい響きが特徴。ドイツよりもイギリスで活躍した)

  『いざ、主に感謝せよ』 (感謝祭に歌われる讃美歌21の11番、「感謝にみちて」)

C J.S.バッハ  
  『幻想曲とフーガ ト短調』BWV542  「小フーガ」に対する「大フーガ」がこれである。

D ヴァージニア ハーモニー(1831)と言われている『アメージング グレイス』 (讃美歌21の451番)

このところでも私たちも讃美した。
私は近年、「アメージング グレイス(驚くばかりの恵み)」を聖歌の歌詞で歌うばかりになっていたから、久しぶりに讃美歌の歌詞に感極まった。この時歌った1・3・5節の歌詞を記しておこう。

     くすしき恵み われを救い、
     まよいしこの身も たちかえりぬ。

     思えば過ぎにし すべての日々、
     苦しみも悩みも またみ恵み。

     この身はおとろえ 世を去るとき、
     よろこびあふるる み国に生きん。


そして、コンサートの最後は、有志が壇上で『ハレルヤコーラス』を讃美した。

司会者は「心を合わせて主を讃美するのは素晴しいことですから」と、会衆にも何度もお誘いの声をかけて下さっていた。私も歌詞カードを持っていたら絶対に一緒に歌いたかった!!!

今週もまた涙を拭かねばならないほど溢れる恵みを頂いた。
10月25日のハレルヤコーラスではヘンデルのことで感極まり、今回は合唱している人々、神に救われし者たちの姿に深く感動した。

友も涙しておられた。
友とは作家活動をされている鳩飼さんである。「親子ほど年が違う」と仰った。この再会が神による導きであったことを示されて神を讃えずにはおられなかった。


土橋さんは「教会でオルガンを弾いている時がいちばん嬉しいと思う」とご挨拶を結ばれた。

鳩飼さんの圧迫骨折は殆ど良くなっておられたが、5日には別の心配事で一泊入院して手術を受けられることになっている。
心弱くしておられる鳩飼さんのために、神さまは直前にも不思議なことをなさり、神のお計らいには驚くばかりだ。

鳩飼さんからコンサートのご招待を受けて、私は1人で出かけるはずだったのに、不思議な出来事が起こったのだ。

臨床心理学の勉強中に親しくなったYさんが勉強会に誘って下さり、そこで鳩飼さんと出会ったのが1997年11月だった。母の死後、父が死に至る病床に就いて5ヶ月後のことである。
その後、1年近くしてから千里さんもお誘いして加わって下さるようになったので鳩飼さんとも共通の知人になった。

千里さんはどんなに大変な時も私のブログを読んで下さっていたが、ついにこの8月頃より諸事情と重なってパソコンを開いておられないので、鳩飼さんのことを携帯電話に入れさせて頂いていた。オルガンコンサートに行くことも。

すると、当日の朝10時半過ぎに千里さんから電話が入った。
この日はお孫さんを預かる日だったのに、前夜になって日曜日に変更されたから一緒に行けることになったというのだ。
私以上に驚かれたのは千里さんご自身だったと思う。鳩飼さんのことを祈りに憶えておられての出来事だったから。

かつて月一回、梅田・茶屋町で開いていた「二時の会」で知人になり、このような恵みの交わりに発展するなんて思いもしなかった。知人が友になった。ハレルヤ!

教会をあとにして、鳩飼さんにコーヒーをご馳走になった。
夕刻のしばしの時、当時を懐かしく、しかし、その時以上の恵みを味わいながら神に感謝した。


千里さんとも以前のようにゆっくり話す時間がなくなって3年ほどになるだろうか。私たちも行き帰りのバスの中でおしゃべりできる幸せな時を持たせて頂いた。互いの家族の消息を話し合い、互いに祈りに憶えて別れた。

帰宅したのは7時半、その30秒後に「ぎっくり腰になった」と夫が帰宅した。しかし、私の方が腰と股関節の痛みが強く、疲れていたのを察してチャッピーを散歩に連れて行ってくれた。

季節は進み夜は寒くなってきた。
冬のまん中にクリスマスの喜びを備えて力づけて下さる神さまに感謝し、淀川教会のパイプオルガンが神の御栄光のために用いられるように!

全知全能の神を「お父さま」とお呼びして祈られる恵みを感謝します。
病気のために不安や恐れの時を過されている方、抗がん剤治療に耐えておられる方、また、そのご家族、未だ混乱して神を見失い憎しみに縛られている方、・・・試練や悲嘆の中にある方々のためにお祈りします。


鳩飼さん、昨日は本当に楽しい一日をありがとうございました。
5日はイエスさまが鳩飼さんの手をとって先に進んで行かれます。
弱虫の私が言うのもなんですが、一切のことを支配されている神さまに祈れる、神さまと交わる術を知っているってすごいですよね。
千里さんと共にお祈りしています。

クリスマスには再び3人で御教会で楽しい時を持たせて下さいますように。その時は主の御降誕とご快癒の二重のお祝いです。
そして、来年から再びクリスマス劇のシナリオを書いて下さいね。お名前を忘れてしまったけれど、お友達との名コンビ振りを見たいです。

イエスさまの御名を呼びながら突破されますように!!!
ご快癒を祈っています!!!
 
 
posted by 優子 at 23:05| 神(聖書) | 更新情報をチェックする