2009年01月31日

今日は太宰を聴きに関西(かんせい)学院大学へ!

昨日はお昼頃から雨の予報だったので、朝の散歩に続いて正午過ぎにもチャッピーを短い散歩に連れて行った。既に霧雨が降り始めていた。夜は豪雨だった。

今朝5時半過ぎに目が覚めた時に窓を開けて耳を澄ませた。雨は完全に上がっていた。もう一度ベッドに入ったものの、夜の間かけているラジオが昼過ぎまで雨が残りそうなことを告げていたので、私は飛び起きて大急ぎで散歩に連れて行ってやった。昨日の昼の散歩から既に18時間も経っていたからだ。

6時はまだ真っ暗だった。
チャッピーがそこそこの排尿をしたのでホッとし、「神さま、新しい一日を感謝します」と祈り始めた。
ペンクラブのことも祈りの中にある。
それぞれの立場で一生懸命に務めているからこそ熱くなるのだ。その段階は注意点でもあるが、その熱意がなければ何も始まらない。やはりこだわりをもって生きている人たちは素晴しいと思う。

しかし、少し歩いただけで膝も痛い。
昨日からまた腰痛が戻り、今朝は特に左側が強く痛む。筋力の無さに加えて、やはり股関節の影響も強いのだ。

しかし予定通り、今日は関学まで出向くことにしている。日本キリスト教文学会だ。出席届けの所属欄には「日本クリスチャンペンクラブ」と書いて送付済み。

今日のシンポジュウム(14:20〜16:50)は、「太宰治とキリスト教―太宰はキリスト教をどう理解したか?」というもので、発題者のテーマは、
「太宰治の『神』概念―そのキリスト教理解をめぐって―」、「太宰治の『如是我聞』論、『己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』を中心に」、そして、「関係の物語としての聖書受容―山岸外史『人間キリスト記』から『駈込み訴へ』へ―」である。

太宰の書簡集にも山岸外史の名前がたくさんあった。

シンポジゥムに先立っての研究発表(13:10〜14:00)は、「Anne Sexton(アメリカ詩人・1928〜1974)のThe Death Notebooks における神の探求 ―"Hurry up Please It's Time"を中心に―」だ。

私はアン・セクストン(?)の名前も知らないで聞くのだが、「キリスト教の信仰を素直に受け継ぐことはしなかった」セクストンの詩には、「物質に溢れたアメリカ社会にあってなお、神を希求する現代人のやるせない姿勢が如実に映し出されている」とのこと。

また、「死を意識した詩人が神の探求という大きな課題にどう取り組んだか」も考察される。そのあたりが私は最も興味深い。ニーチェも読みたくなる。

今回は懇親会には出ないが帰宅は8時頃になるだろう。夫の昼食と夕食の準備をして10時に出発。夫は休養の一日だ。

今朝の散歩を終えた6時40分頃にようやく東の空が青くなり始めていたのに、今は雨を降らせそうな重い雲が立ち込めている。
空は鉛色で今週初めからの私の心と同じだけれど、久保田先生にもお目にかかれるのが救いだ。小川姉と梅田で待ち合わせし、甲東園で昼食をご一緒して大学へ向かう。
私にはこういう一日が最高の楽しみだ。
主に在る意欲が戻ってきますように!



posted by 優子 at 08:20| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年01月30日

老いの入り口に立って思うこと

アメリカのオランダ系神父・ヘンリー・ナウエン(Henri J.M.Nouwen)については、これまでにも何度か取り上げている。
イェールやハーヴァード大学の神学部でも教鞭を執っていた牧会心理学の専門家だ。以下はナウエンの言葉である。

我々の苦痛や喜び、悲嘆や満足感などというものは、具体的な出来事そのものによって起こると共に、また、それ以上に、我々がそれらの出来事をどのように記憶しているかによって決まる。

我々の生において起こる具体的な出来事よりも、もっと重要と思われるものは、それらの出来事が我々の人生の全体像の中においてどのような形をとるかということである。

同じような病気、事故、成功や思いがけない出来事を、人々はそれぞれ違った形で記憶するものであり、彼らが自分はどのような人間であるかを判断するのは、出来事そのもよりも、人々がそれらの出来事をどのように記憶しているか、またその過去の出来事を自分史の中でどのように評価しているかによるのである

実際の結果は変更不可能であっても意味と価値は修正できる。
即ち、それらをいかに再評価するか、まさしく人生の再構築であり、過去をどのように解釈して意義づけ、それを残りの人生に取り入れるのかということである。

日々の出来事もまた同じこと。
それらを再構築し再生させていかねばならない。それら日々の積み重ねが、その人物の人格を形成していくのであり、失敗や不快なこと、自分の弱さこそが自己洞察を深めていく。そこに生き方の違いが鮮明に現れてくる。

要は、いかに生きるかである。
50代を迎えるまでに自分自身や自分の人生を受け容れられないとすれば、悲惨な老年期を過ごさねばならないことだろう。


posted by 優子 at 11:45| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

兄も覚えてしまったヒルティの言葉

「愛する心もなく、40になってペシミストにならぬとは、その人はあまりに考えなしである」。

これは我が愛するカール・ヒルティの言葉であり、高校2年生の頃によく口にしていた。それを聞いていた兄もカルタの言葉のように覚え、合言葉のように言い合って笑っていたことがある。

この言葉を捜すために1時間もかかってしまった。
『人生論』、『愛と悩みと幸福と』、『幸福論』、『心の糧』、『眠られぬ夜のために』を何度も何度もめくってようやく探り当てた。意外にも線を引いていなかったので尚更にわからなかった。
『幸福論』からの引用だったが、『幸福論』以外のどの本で見つけたのかまたわからなくなってしまった(笑)。

なぜ捜したくなったかと言えば、昨日の記事で「厭世(悲観、ペシミスト)的意識がある」と書いたからだ。
私がペシミスティックになる時は、神との関係が希薄になっていることの現われであるので、神への導き手としてヒルティの書を開き、かつて覚えた言葉を読み直してみたいと思ったのだ。
今日は次の言葉が心に響いた。

「人の生涯に憂いの伴わないことはありえない。
憂いと共にありながら、それどころか往々いくたの憂いをもちながら、しかも憂いなしに生活して行くこと、・・・・憂いは常に、それが神を信ずる者の上に果たすべき任務をもっている間しか、続かないのである」。


そして、聖書を開いた。ヨハネによる福音書14章17節。
イエス・キリストが、神を信じる者には聖霊を送って下さると話されている箇所である。
「それは真理の御霊(みたま)である。
この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。
あなたがたはそれを知っている。
なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」。


アーメン。
既に憂いは通り過ぎた。
主に祈ろう。
「求めよ、さらば与えられん」。

腰の痛みは夜になって殆ど通常の痛み程度に和らいだ。
今日の生協共同購入の時、2人の友にギクッとなっていないのに(痛いながらも歩ける中程度の)ギックリ腰になったことを話した。

すると口を揃えて、「筋肉が相当弱っている」と仰り、痛みが治まったら腹筋と背筋を鍛えるように言われた。体が柔らかくなっているお風呂上りにするといいらしい。
寝転んで足を真っすぐ45度くらいに上げるとか・・・いろいろと。

その中でも歩くことが一番いいというので助かった。これだとやる気になる。
これからは教えてもらった通り両腕を曲げて前後に振りながら、歩幅を大きく取ってしっかり歩こう。腕を振るというよりも、後ろに引くことで背筋を鍛えることになるのだそうだ。

しかし、膝も痛い。
早くもこの年齢で膝に水がたまることにも驚かれてショックだった。炎症を起こしているのだそうだ。年を取れば若い頃のように無鉄砲な生活を続けることは、自分で自分の首を絞めていくことなのだ。
posted by 優子 at 23:12| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

読書会『パンドラの匣』を紐解く

1992年4月の読書会『パンドラの匣』では、その小説の舞台が東大阪の「孔舎衙健康道場」であったことを発掘された浅田高明氏をお迎えした。
今から約17年前のことである。この時の主な感想を拾ってみたい。

★ 日記をどのように料理して小説にしたのか、木村庄助氏の日記を見たいと思った。とても暗いはずの肺病なのに全体を通じてユーモアがあり面白かった。

詩人が見舞いに来てマア坊と2人の姿を「十和田湖で富士を見るようだ」など、素晴しい表現がいたるところにある。

6つも7つも「希望」という言葉が出ていたが、みんな一縷の希望を持って療養している。「終戦を境に自分はすっかり変わってしまった」とあちこちに書いてあった。
13の項目のどれも面白かった。
花宵(かしょう)先生が良かった。」
とは、今は亡き西口ウタ子さん。
このブログ読者の中にご存知の方が居られるので発言者名をご紹介した。

★ 今日初めて舞台がこの近辺であることを知った。
この作品は明るいと言うが、それは病気であっても若いから希望や明るさを作っているのではないか・・・。「コスモス」のところが一番面白かった。手紙や日記からこんなに創造する作家に驚く。
(向井さん・当時75歳くらいの御婦人)

★ 今、体を壊しているので希望の光があることに励まされた。

★ 院長ではなく場長、患者を塾生、医師を指導員、ナースを助手さんと呼ぶなど、健康道場の組織や療養の仕方から、旧い概念にとらわれないことや発想の転換の大切さを思った。
「人間は死によって完成せられる」というのがわからない。


★ 父を結核で30代半ばで亡くしているので、やや暗い気持ちで読んだ。
多感で文学に興味を持ち、知識欲旺盛な青年の明るさがわかったし、青年の純粋さもわかった。しかし、ひばりのモデルである木村氏は自殺していることから、明るさの下に悲劇があるのではないか。


★私は子供のころ病気がちだったので、このような作品を読むのは嫌いだった。当時、穀潰(ごくつぶ)しと言われたこのような青年の悲しさを感じる。しかし、新しく伸びていこうとする希望が感じられるのがよい。
先月、54歳の妹を癌で亡くしているが、人間は死によって完成されると思う。


★ 「新しい生き方」という言葉がよく出ているが、今まで抱いていた考えに対して、それで本当にいいのだろうか、正しいだろうかと思ったりした。
「やっとるか」、「やっとるよ」、「がんばれよ」、「ようしきた」というかけ声、会話が面白かった。看護婦さんにこのように声をかけてもらうほうが良いのではないか。また、老人に対してもそうではないかと思った。


★ 健康道場は戦争中のことだと思う。私も肋膜になったこともあり、そんな時、自分が治そうとする力が大切だ。
最後は自殺したというので、希望をもってがんばるところが憐れであった。
(涙ぐまれた加藤さん・当時75歳くらいだった御婦人)

★ちょうどこの頃、夫をこの病気で亡くしている。
開戦の時の話と終戦の話が混ざっているのでスッキリしない。
人間は死によって完成され、鳥や虫は無に帰すると書いてあるが、それは見送る人の思い入れではないか。真実はわからないが、人も鳥もみんな同じだと思う。
「コスモス」の「詩人は気障(きざ)だ」の意味がわからない。
(渡辺さん・当時75歳くらいだった御婦人)

★ 太宰は正論をひっくり返すのでどこまでが本音なのか、また、どれが本音なのかわからなかった。
太宰は淋しい孤独な人で、生きることよりも死ぬことを思っている。気障なところは気取りだと思う。杉田玄白の言葉(新潮文庫212・221ページ)は大げさの典型だ。

女性に対して「大鯛のような女」なんてひどい。
「自分は新しい人間だ」と盛んに言っているが、フェミニストではなくナルシストである。金持ちのお母さんとの話からもわかる。

「鈴虫」の章で「鈴虫が鳴いていると言ってやって」という言葉はうまいが、これは3回も出てくる。読者の心を捉える法を心得ているが、なぜ3回もと思う。
太宰は気障であることと、フェミニストではなくナルシストであることがよくわかった。
(作家活動されているMR.海谷さん・当時は63歳くらいだっただろうか)

以上、出席者の感想は明るい小説と読んだ人と、そうだろうかと思っている人に分かれた。「死によって完成する」や摩擦について多くの方が取り上げていた。
西口孝四郎氏の「摩擦は男にとってとても嬉しいものだ」と西口節に笑っていたが、今回再読してさもありなんと思った。

この時の私の感想記録が無く、「295・6ページ、カントの純粋理性批判に書かれてある例話、キリスト教と科学の関係」とだけ書いて出席している。

私はそのことについて述べただけで、感想はお粗末極まりなかったと思う。まだまだ人生の悲しみを知らない幸せな愚者だった私には、「面白く読みました」としか述べることができなかったに違いない。

私は41歳だった。この4年半後に母を亡くす。そこに至るまでの人生苦本番の序章あたりを生きていた頃である。


しかし、今回もやはり明るい気持ちで読み終えた。
時には声を上げて大笑いしたところもあった。例えば、詩人がひばりを見舞いに道場へ来た時、竹さんのイメージがあまりに違っていた時のことだ。
「予想と違ったかね。」
「違った、違った、大違い。堂々として立派なんて言うから、馬みたいなひとかと思っていたら、なあんだ、あれは、・・・」

「馬みたいやなんて!」と一人で大笑いした。

太宰作品もまた多くを読んでいるわけではないが、読んだ限りにおいて太宰には珍しく軽快な内容で明るい作品だ。
小説の中(325ページ)で芭蕉の「かるみ」を引き合いに出しているが、私の笑いはかつてのような単純な笑いではなく、しかしまた、芭蕉の「軽(かろ)み」でもない。

俳諧のかろみは、自分が事柄から外へ出ることによって与えられる解放感であり、日本人の精神的救済観だ。
しかし、私は現実人生の中に留まって与えられているところの解放感であり、その笑いであった。こんな理屈っぽく考えていたわけではなかったが、これを書きながら太宰の世界観の一端を見たという気持ちだ。


読書会のノートを読むと、その時の空気まで感じられた。
今までにもこのように感想を読み返したことがあったが、今回は特別懐かしくて、そこに留まっていたいと思った。懐かしさに浸りたいのではなくて、明日へと歩み出したくないのだ。こういう時は生き辛く感じている時なのだ。

「かろみ」に似た感情ではないと言いながらも、私の深いところでは常に厭世的意識があり、それを強く感じる時は人生が重く悲しい。


私はあの時の読書会で初めて浅田先生とお目にかかり、その後も3〜4度、太宰作品の時にお迎えして御高説を拝聴していたが、後年、『パンドラの匣』について書かせて頂くことになろうとは、万感の思いが込み上げてくる。

心身が整えられたらすぐにでも日下へ行きたい。
「パンドラの丘公園」は「希望の丘公園」だ。
人々は何に希望をつないで生きているのだろうか。現地に立って私は何を感じるだろうか?!小論の結びの言葉を見つけてきたいと思っている。 
posted by 優子 at 17:58| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

全てが信じられぬようになれば狂気だ!

2日前からひどい腰痛に耐えている。ギクッとなったわけではないのにギックリ腰の症状だ。
昨日は特に左半分に強い痛みがあったが、今朝からは左から中央に、夕方から右側にも痛みが及び全体が痛む。痛む場所が動くということは数日もすれば楽になると思うが、今はまだ体位を動かす時は痛みのために顔をしかめ、「痛い!」と声が漏れる。

しかし、昨日も仕事は進み今朝から続きを楽しみにしていたのに、つまらぬことで仕事が全くできなかった。要は自分に負けたのである。

オンラインになっていた次女に帰国に関する返信をしてパソコンを閉じた。何度も躊躇しながらもつまらぬ一行を書いたのが良くなかった。娘は心配して国際電話をかけてきてくれた。まだ大学に居り、ミネソタ時間で19日夜の8時半を過ぎていた。

直ぐにパソコンを起動させてスカイプに切り替えた。真智子も疲れているのに愚痴を吐き出させてくれた。話がくどくならないように常に心得てはいる。何よりも自分のためでもある。

スカイプを終えた直後に叔母から電話が入った。あることを聞かされて驚き愕然とした。叔母と人生の不思議を語り合って電話を切ったのが午後1時15分頃だった。
朝のつまらぬことに加えて、叔母から聞いた相変わらずのバカさかげんに力が失せ、腰の痛みを自分への言い訳にして己に負けた。怠けて無駄に一日を過ごしてしまった。

最近ずっと私の脳裡にウィトゲンシュタインの言葉がある。
「我々の考えの全てを疑うということは、誤りなのではない。狂気のしるしである」。
もはや私は人生の不可思議さに、40代後半までのような苦悩の仕方はしないが、どうしてこんなことがわからないのかと思う人がいるものだ。

そういう人に共通して見えるのは感謝がない。
自分の過ちに気がつかない。
自分の愚かさで悩むことはしない。
悪いのは全て周囲の者。
信じるのは自分だけ。
その行き着くところは狂気なのか?!
ついに何もかも信じられずに恐怖に縛られている。まさに恐怖に縛られた人生だ!

そうではなくて、「断固として神を肯定して思い悩め!」と私は胸中で叫んだ。今までにも何度も伝えてもいる。


人生の幸不幸は、感謝があるかないかが人生の分かれ道だ。
「ありがとう」と思える人は、「ごめんなさい」も言えるだろう。
不完全極まりない愚かな自己こそが人生の最大関心事になるであろうのに、彼らはそうではない。

ウィトゲンシュタインが「言葉は実在の写像である」と言っている通りだ。
心に無いことは言えない。
歯の浮くようなことを言う人のような例外もあるが―いや、それでさえ例外にはならないかもしれない。内実はなくてもその発想はできるのだから。思っていても素直に言えないことが逆説的例外になるだろうが―、とにかく社交辞令であれ、
人は心に無いことは言えないものだというのが近年の私の持論である。

歩いても腰が痛いので今夜は夫にチャッピーの散歩に行ってもらおうと思っていたら、インフルエンザなのか普通の風邪なのかわからないが、夫は帰るなり体の不調を訴えた。

夕食後はお風呂に入って直ぐにベッドインしてもらうことにして、チャッピーと短い散歩に出た。

今朝のつまらぬ出来事であるが・・・
昨日は母屋の勝手口の排水口工事が無事に終わり、その報告を受けた営業担当者から翌朝9時頃に来訪するとの電話があったので、今朝は執筆に取り掛からずに待っていた。

昨日は2時間おきに母屋へ通い、最後は1時間割きながら読み書きしていたので今日は集中したかったのだ。

一息つくまで3〜4時間は没頭するので、志賀直哉が玄関外に下げていた札のように、「只今執筆中につき面会はご遠慮ください」を真似したい心境だ。私は早く取り掛かりたいのを抑えて来客を待っていたのだった。
ところが9時25分になっても来られないので連絡をとった。するとそんな電話はしていないと言うのだった。

もとより私自身の記憶力は自信が無いので早々から詫びたのだったが、あまりに自分の正しさを強く主張されるので私の道理を引っ込めるしかなかった。言った言わないは水掛け論であるし、少なくとも共に謙虚であるべきではないだろうか。今ならこのことも発言できた。

直ぐに夫に電話して昨夜の私の弁を確かめた。どうしたことかその電話中に涙が出そうになった。
帰宅した夫から営業マンとの電話内容を聞くと、争点になっている内容自体が徐々に変わり追加されていくので、真相が見えてきたように思った。
しかも、今日の締めの商談は美濃紙業を訪ねて夫にと依頼したのに来社せず、夫から電話してようやく連絡とれたと聞いてあきれた。紙文具流通センターから何億もの仕事を依頼した業者であり、担当役員でもある夫に対しても今後のこともあるだろうに。

今朝のつまらぬトルに足りないことに私はひどく動揺した。
しかし、夫への電話での涙は何だろう?
かつての夫の非道さやここ数年前のことなど、断腸のごとき悔しい出来事が思い出されたからだと思う。

チャッピーと歩いていると急に今朝からの乱れた心が鎮められた。
私の勘違いではなかったとの思いが急にきた。憤りもなく全き平安だったから神さまからだと思った。

私は即座に神さまに応えた。
「彼の非を追及して逃げ場がないような言い方になりませんように。しかし、彼がそのことを悟ることができるような話し方を教えて下さい」と祈った。
凍てつくような寒気が気持ち良かった。

今後は再び記録をつけることだ。そうすればこんな悔しい思いをしなくてもいい。
今では字を書くのも面倒くさくて、最近の字は自分でも読めないような、極まりなくだらしのない字になっている。これから年老いていくのだから明日から記録再開だ。

一日を無駄に過ごしてしまったが、20世紀最大の天才哲学者ウィトゲンシュタインに人間ウィトゲンシュタインを感じることができた。難解きわまりない巨人だが、死ぬまでにもう一度読みたいと思った。

真智、ありがとう!!!
posted by 優子 at 21:32| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

小論の進捗状況 ―太宰治『パンドラの匣』と孔舎衙(くさか)健康道場(仮名)―

大阪市の東側に位置する柏原市、八尾市、東大阪市、大東市を「中河内(なかがわち)地域」と呼ぶ。
昨日のニュースでは、東大阪で誕生した人工衛星「まいど1号」が大きく取り上げられた。中小企業の町で有名な東大阪は、人工衛星を打ち上げるほどの技術を持つ「ものづくり」の町であり、歴史・文学においても宝石箱を開けたような土地柄である。

それら河内の郷土文化の発掘と継承に力を入れているのが『河内の郷土文化サークルセンター』である。
最盛期には40近いサークルが加盟し、今も25の団体が活動している。この秋にはサークルセンター創設25周年の記念事業を計画しておられる。
昨春に20年間所属していた読書会を退いて部外者になった私は、「おられる」というふうに言葉遣いも使い分けねばならず寂しい思いがする。

ところで、昨年創立40周年を重ねた「東大阪読書友の会」は、直接的には郷土文化に関係しないがサークルセンター発足当初から加盟しており、私は最後の4年間をセンターの役員として携わらせて頂いた。

そして、今秋の25周年記念事業の一つとして、「河内文化のインデックス(索引)のような」もので、「研究者だけではなく一般市民を」読者に想定した書物を刊行しようとされている。

そこに掲載される小論執筆にお声をかけて頂いた私は、即座に太宰治の『パンドラの匣』のモデルになった孔舎衙健康道場をとりあげることを申し出た。
孔舎衙(くさか)健康道場は、昭和10年代にあった全国的にも有名な結核患者の療養所で、現在、近鉄石切駅で下車して歩くこと10分ほどの日下(くさか)8丁目にあった。

今朝も図書館で太宰治全集の書簡集を開いていた。
このことを発見された浅田先生から御恵贈に与った御著書『太宰治 探査と論証』を拝読すると、誌面から発掘に至る熱い息遣いが伝わってくる。


今はまだまだ文献を読破せねばならない状況であるが、書きたい構想が浮かび上がってきている。掲載したい写真使用も快くご許可頂いた。近いうちに道場跡の取材も兼ねてその地を訪れたいと思う。

唯一残っていた石段と石段前の小橋も町興し運動により様変わりして、数年前から「パンドラの丘公園」となっているそうだ。
当時の面影がないのは非常に残念だが、当時の群像と、道場で交わしていた元気な挨拶を脳裡で見聞きたいと期待している。

そういえば和子さん(知子と真智子の中学校の恩師・大阪和子先生)が、今、『パンドラの匣』を読んで下さっているという。
「優子さんのブログを読んでいて『東大阪のくさか?!』ってびっくりして!!
今年は太宰治誕生100年を記念して沢山の映画が秋頃から上映されるそうですね。」
と、先日のメールに書いて下さっていた。

浅田先生からも『パンドラの匣』映画化について詳しいニュースを頂いている。

「助手の組長(看護婦長)竹さん役に、昨年の芥川賞を受賞した大阪の作家・川上未映子さんが扮します。
芥川賞発足当時、あれほど執着して文壇を騒がせたにもかかわらず、遂に受賞が叶わなかった太宰にとって、生誕百周年記念の今年、自らの作品の女主人公に芥川賞作家がデビューするのも何か皮肉っぽい因縁を感じます。」
と教えて頂いた。

主人公のモデルになった木村庄助氏は服毒自殺して22歳2ヶ月の短い生涯を終えている。
浅田先生は医師でもいらっしゃるからと、服毒した薬名「カルモチン」と「ブロバリン」について調べることもしないでお聞きしたところ、これらは共に商品名であり同じ薬であることを教えて頂いた。
書かせて頂く姿勢を問われまいかと自分の甘さに反省しきりである。

今は油が乗っているので『パンドラ』に集中し、途中で賀川豊彦をはさんで3月10日くらいに仕上げる勢いである。次女夫婦が帰国するまでにと思っている。
posted by 優子 at 18:08| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

オバマ大統領就任式の牧師の祈り

昨日の交わりの時に、冨美子姉からオバマ大統領就任式でリック・ウォレン牧師が祈られたと教えて頂いた。
リック・ウォレンと言えばクリスチャンならば知らない人はいないであろう。それほどに神に用いられている有名な牧師である。
日本でも2004年6月に出版された『人生を導く5つの目的』を、私も早速購入し、以来、座右の書として愛読している。真智子にも持たせてやった。

就任式をビデオに録画したものの、未だニュースさえ見ておらず、昨夜にそのところだけ見たのだった。しかし、同時通訳の言葉もわかりにくく、ここに『Tama's ゴスペラーズ日記』から転載させて頂いたものを刻ませて頂いた。

全能の神、私たちの父、私たちが見るすべて、および私たちが見ることができないすべてがあなたのものであり、それはすべて、あなたの栄光のために存在しています。 歴史はあなたの物語です。
 
聖書は、‘主が私たちの神である' と私たちに言います。そして、あなたは情け深くて慈悲深い方です。
今日、今、私たちはアメリカの過去44代で最初のアフリカ系アメリカ人の大統領の就任という歴史的なこの時を祝います。

私たちはこの国に住んでいることを感謝しています。それはアフリカの息子が私たちのリーダーシップの最高水準に上がることができる優れた可能性の国だからです。

私たちは、今日、目撃者のキング牧師と天使たちが天国で叫んでいるのを知っています。

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私たちの新しい大統領・バラク・オバマに、謙遜で私たちを導く知恵、安全に私たちを導く勇気、寛大さで私たちを導く同情を与えてください。

私たちの自由によって選出されたリーダーの彼、彼の家族、バイデン副大統領、内閣、および皆を祝福して保護してください。

おお、神よ、私たちを助けてください。
私たちはアメリカ人です。宗教や人種でも一致出来ませんでしたが、私たちの自由の委任とすべてのための正義とで一致しました。あなたを忘れて互いに戦ったこと、私たちが自己中心的であったことを赦してください。

私たちが偉大だとか、私たちの繁栄が私たちのものと思わないようお導きください。私たちが敬意をもって私たちの同胞と地球すべてを支配すると思い上がらないようお導きください。

そして、難しい問題に直面しているとき、異なる意見に対し、私たちの目的における明快、私たちの行動における責任、私たちのアプローチにおける謙遜、および私たちの態度と礼儀正しさの新しい誕生がありますように。

私たちが共有して、務めて、すべての公益を求めるのを助けてください。 すべての人々の好意が、今日、アメリカのためにさらに働き一致しますように。

まさしく、より健康な惑星、より繁栄している国、および平和な惑星。 そして、私たちが、世界中すべての人々が、あなたの前で責任を持った状態で立つことを決して忘れませんように。

私たちは新しい大統領、ミシェル夫人、彼の娘マリア、およびサシャをあなたの愛によって愛します。

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私は、私たちに祈ることを教えてくださった主イエスの祈りによって祈ります。
 
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 「特に最後の主イエスのところは、数ヶ国語で繰り返しました。そこに宗教・人種を超えて世界が融和していくアメリカの決意を感じました。もちろん、すべての名に勝るイエス・キリストがベースになっているところは見落とせません。・・・」

ウォレン師の祈り全てを詳細に、かつ正しく訳されたものを読みたい。
「You Tube(ユー・チューブ)」でも見ることができるが、ここに添付する方法がわからない。

キング牧師が39歳の若さで凶弾に倒れて今年で41年。姉のファリスさん(81歳)は、心の中で亡きキング牧師と共に式典に参加されたことだろう。

昨年11月、大統領選でのオバマ氏の勝利宣言を聞いた時、ファリスさんは、「(キング牧師が)生きていたら、何と言っただろう。きっと大喜びしたに違いない。
(キング牧師の)夢の実現に向け、米国は大きな一歩を踏み出した」
と思い、そして、心の中で語りかけた。
「あなたのことを誇りに思う。あなたの運動があったからこそ、オバマ氏は大統領になるのよ」と!


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「黒人が米国の最高権力者になることなど、誰も想像しなかった。今なお厳然として差別が残るからだ。・・・ミシェル夫人への期待も大きい。黒人女性のイメージを大きく変え、黒人女性自身にもエネルギーと希望を与える。

今はまだ(キング牧師の)夢の一部が実現したに過ぎない。まだ頂上にはたどりついていない。そこまで行けるかどうかは、オバマ氏のこれからにもかかっている」
と語った。

私たちは為政者のために真剣にとりなしの祈りを捧げよう。聖書には次のように記されている。

そこで、まず初めに、このことを勧めます。
すべての人のために、
また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、
祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

それは、私たちが敬虔に、
また、威厳をもって、
平安で静かな一生を過ごすためです。

       (テモテへの第1の手紙 2章1・2節)

2008年2月15・16日、11月5日の記事にキング牧師関連記事を書いている。キング牧師の生涯を思い出すたびに姿勢が正されて生きる意欲に溢れる。
地上の生涯を終えて神の前に立たされた時、「私は誠実を尽くし、主に在って心を込めて生きようと務めました」と申し上げられるように生きていこう。

良書紹介:51RXQ3HWA8L__SL160_PIsitb-sticker-arrow-dp,TopRight,12,-18_SH30_OU09_AA115_.jpg

『人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章』
リック・ウォレン著  尾山 清仁訳 、2625円。

英語版は出版後1年で1000万部を越え、その後も記録的売れ行きを続け、今では歴史的著書になっている。
私はこのほかに、2005年に出版された『回復への道』も愛読している。共に、パーパス・ドリブン・ジャパン(PDJ)より発行されている。


posted by 優子 at 09:04| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2009年01月21日

第39回 オリーブの会 ―妹との恵みの時―

今回は欠席者が重なり前日には私たち3人だけになってしまった。あとお一人だけどうしても連絡がとれない方がおられたが、私は冨美子さんと千里さんにご相談しないでその方に休会になったことをお伝えした。

というわけで、今回は最愛の心の友たちとの時間となり、私には蜜のように甘く嬉しいひと時が持てるというのに何故か消極的だった。

お互いに忙しいと言いながらも数年前までは電話で話すこともあったが、今ではよほどの時にしか電話のやりとりもない。
私は昨春から時間的にも自由な日々に在るが、千里さんはまもなくお二人目のお孫さんを迎えることになり、今後数年間はますます難しくなるであろうから最高の時間が与えられたわけである。

今までにもあえて3人だけの集まりをもった時もあった。なぜか私はお2人へのラブコールを送ることもなく消極的だった。

しかも、妹から「オリーブの会」に出たいとのメールがこの前日(19日)に入っていたのである。求める人のために開いている集会なのに妹への祈り心が希薄になっていた私は、妹のことをお伝えするのを一瞬ためらう気持ちがよぎったのを覚えている。

昨夜9時前にパソコンを開いた時、「妹さんもオリーブの会のメンバーだから快くお迎えしたいですね。・・・主の導きを祈ってお交わりしましょうね。」と千里さんからのメールが届いていた。私は深い悔い改めへと導かれてすぐに妹へ電話したのだった。

その直後、集会から帰宅されたばかりの冨美子姉からもお電話を頂き、今回は妹のために4人だけの集会へと導かれた。まさに神の導きであった!

今日の集会の恵みを刻む前に、イエスさま、そして、冨美子さんと千里さんに感謝を捧げたい。

自動車で来ていた妹がお2人を駅までお送りし、3人を乗せた車を見送って家に入ると4時半近くになっていた。
今回の5時間は実に濃密な時間であり、最後に一人ひとりが祈り合い豊かに祝福された。
主よ、感謝します!
冨美子さん、千里さん、ありがとう!!!


今日は「束縛された人生」と題して、ルカによる福音書13章10〜17節から神さまの御心に耳を傾けた。

10 安息日に、ある会堂で教えておられると、
11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。

「この背景について―
会堂は安息日(土曜日)ごとに神のみことばを聞く所だった。
当時、女性たちは宗教的にあまり立場がなかったので、会堂では後ろに座らされていた」。


いつものように質問が投げかけられ、これらの問いかけを通してそれぞれが自らを神に探られた。

@ 背骨が曲がった女性の18年間を想像して下さい。
もしあなたが10代で障碍(しょうがい)を負ったとしたら、どんなことが苦しかったでしょうか?
 不便なこと、結婚問題やセルフイメージなど・・・・

A イエスさまはこの女性のことを「縛られている」と言っておられますが、何によって縛られていたのか、なるべくたくさん言って下さい。

B 意味ある人生を送れないほど私たちを縛り付けているものを他に考えて下さい。

C 安息日ごとに神の言葉(旧約聖書朗読)を聞くということは、この女性にとってどういう意味がありましたか。

D この女性は癒されるために会堂へ来たのではありません。何のために来たのでしょうか。

E なぜ彼女はイエスさまに癒しの助けを求めなかったのですか。自分の方から出てこなかったのはなぜですか。

F イエスさまがみんなの前へ出て来るように言われた時、その女性はどんな気持ちだったと思いますか。
 (イエスさまが前へ出る力を与えられたのではないか。また、前へ出ている自分自身にもハッとしているのではないか。)

G あなたは、あなたを束縛しているものを皆の前でさらけ出さなければならないとしたらどう感じますか。

H イエスさまがあなたに「あなたを束縛していることは癒されました」と言われます。あなたはそれをどういう意味に受け取りますか。

I 苦しんできた18年間は、この女性にとって何だったのでしょうか。

J 会堂司は神さまを信じているつもりでしたが、その信仰はどう間違っていましたか。

K 会堂司は自由であるつもりでしたが、何によって縛られていたと思いますか。

L イエスさまの彼女に対する態度と会堂司の態度とどう違いますか。
 (「治ってよかったね」と喜んでやっておらず、普通に感じられる「よかったね」ということを感じることができない)

M 自分自身を縛っているものは何ですか。
        
                 ―以上―


この女性は信仰ある善き娘であったようである。
イエスは安息日の形式化を憂いておられ、会堂司は旧い習慣を固く守るのみで、その意義を考えることはしない。ただその形式にのみこだわるゆえにイエスの行動を憤ったのである。

私は最後の問いについてもっと多く語り合いたかったが、たった4人にも関わらず時を忘れて午後1時前になるほど白熱していたので、一端学びを終えて続きは食事をしながら再開した。

私を縛るもの、それは時として陥る自己中心や人を赦せぬ心に支配されそうになることだ。要は自分自身に縛られるのだ。

そして、今日もまた私は神さまに完全に解放され、癒されて新しい力を注ぎこまれたのだった。

もとより、全知全能なるまことの神さまと出会って以来、旧い因習は勿論のこと、多くの日本人が恐れている日がら、家の向きや間取り・方角は勿論のこと、印相から手相、前世の因縁、名前の字画、占い・・・など、ありとあらゆる恐れに縛られることはない。ハレルヤ!


これを機に、今後は妹もまた「オリーブの会」のレギュラーになって、共に人生を分かち合っていってほしいと願っている。
妹の上に神の祝福が豊かにありますように!

冨美子さんと千里さんの御愛に心から感謝しつつ。
posted by 優子 at 22:23| オリーブの会 | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

ようやく叔母とメール開通!

あのね、優ちゃんの場合は、夜中でも別に音がなる訳では無いけど、まちちやんのは、それは、駄目なんやね、朝は、忙しいやろし、まちちやんの処の夜がいいのかな、〓

今日ようやく叔母とメールが開通した。
開通したのに電話もあり、このメールは3通目だ(笑)。
叔母は器用に絵文字も書けるというので、「〓」は絵文字が文字化けしたのものだろうか。ちなみに私など未だに3種類、(^0^)(^−^)(>_<)から増えないままだ(笑)。

15日のブログ記事に一部転載した真智子のメールには、続いて次のように綴られていた。
叔母ちゃんのメールアドレス教えてね。
はがきを送ろうと思ったけど、良いはがきが全然売ってなくて、手紙を出そうと思っていたよ。手紙は手紙で送ろうと思うけど。メールは速いからね。
(14日の)ブログ読んだよ。(大叔母の様子を教えてくれて)ありがとう。
ふと思ったけど、3月の春休みに短いけど帰国しようかな。今学期はティーチングもないし。
というわけで、早速今日両者にアドレスを知らせた。
15日朝に届いたこのメールに喜んだ私は帰国を促した。
すぐさま帰国が決まり、18時間後のメールには、夫君のクマがいろいろ捜してチケットを取ったと知らせてくれた。私は何も動かなくていいが、決断力と行動力のある2人に敬意を表したい。

11日にミネアポリスを発ち12日夜に関空着。
そして22日に伊丹から羽田、成田という乗り継ぎルートで、何とかギリギリ発表に間に合うというので帰国が実現したそうだ。

アメリカから日本へ来る時の時差のしんどさよりも、こちらから行った時が大変らしい。今回は特に渡米後すぐに大学に戻らねばならないというから大丈夫だろうか。申し訳ない限りである。

しかし、あと2ヵ月後には2人をこの胸に抱きしめられる。
今の私には大いなる楽しみであり、慰め、励まし、喜びである。主よ、感謝します!!!
マイナス28度に耐えるマチ・クマの健康が守られるように!

まもなく20日の夜が明けるミネソタ。
19日のマーチン・ルーサー・キング・ディの祝日と共に大学の冬休みが終わり、20日は世界が注目しているオバマ大統領の就任式である。

女性かユダヤ人か、あるいは黒人が大統領になるのはいつかと、ずっと注目されてきたアメリカの大統領である。しかも、最も最後になるであろう不可能だと思われた黒人の大統領が起こされたのである。
今夜1時半からの就任式はビデオに撮りたい。
オバマ大統領にキング牧師を重ね見るのは私だけではないだろう。

新大統領の為に祈りたいと思う。まさか、リンカーンやキング牧師のように暗殺されることなく、世界から核兵器を無くすと訴えるオバマ氏が大いなる働きをされるように祈り続けたい。

posted by 優子 at 19:17| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2009年01月18日

谷口家の家庭集会で、知子がイエスに叫んだ!

「キリストは生きておられる。我がうちにおられる。全ては御手のうちにあり、今日も励もう主に守られ。」
昨日の谷口先生宅家庭集会は、知子の奏楽により新聖歌257番の讃美で始まった。そのあとお2人のお祈りに続いて267番を讃美して聖書を開いた。

マタイによる福音書15章21節〜28節

21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

以下は薮野牧師のメッセージである。

この箇所は悪霊にとりつかれて苦しんでいる娘の母親が、イエスさまに助けを求めてきた時の会話である。
その女はイエスさまに「あなたの信仰は見あげたものだ」と言わせるような信仰を見せた。

この福音書を書いたマタイは、同胞のユダヤ人を読者に思いながら書いものである。
この女性は異教の民であり、神さまを知らない人なのにイエスさまをうならせるような信仰を見せたのである。では、どのような信仰だったのだろうか。

まず22節からわかるように、彼女の信仰には愛があった。
娘が苦しんでいるのは母親にとってはいたたまれない。何とかしてあげたいのにどうすることもできなくて、イエスさまのところに駈込んだ。
娘のことを自分の苦しみとして受けとめていた愛に根ざすところのものである。

我々は自分を愛するように人を愛せるか?
自分を愛する何パーセントぐらいで愛せるだろうか?


ここではパリサイ人や律法学者とカナンの女性の信仰が対比されている。
宗教的指導者である人たちは口先や形式だけの冷たい信仰であり、それは信仰とは呼べないものだった。

2つ目は、「叫び続けた」とあるように諦めないということ。
人にしつこくすると嫌がられるが、神さまに対してしつこく求め続けることは良いことである。
23節にあるように、イエスさまは一言もお答えにならず、女は叫び続けながら付きまとったのである。私たちは途方にくれることがよくあるが、諦めずに祈り続けることが大切である。

そして3つ目は、謙そんであるということ。女性は謙(へりくだ)っている。

24節にある「イスラエルの家の失われた羊」とはユダヤ人のことであり、この女は縁の無いような言われ方をしている。

27節の「パンくず」とは神さまの恵みであり、「恵みのおこぼれを頂きます」とそこまで言うのである。

神を知らない人の中に神さまを求めていく人がいるんだなと思う。そして、ユダヤ人以外にも福音、神の恵みが拡がっていくことを意味する。
私たちの先祖も探っていけばアダムとエバまでいくが、ユダヤ人ではない私たちにも福音が伝わってきたのである。

「私たちも謙った謙そんな思いでイエスさまを迎えたいと思います。」と牧師はメッセージを結んで祈られた。

ところで、イエスは何故カナンの女を救うことを拒まれたのだろうか。私の座右の書には次のような解説が記されている。

「このところはイエスらしくないので、いろんな解釈がなされているらしいが、とにかくイエスの御心はあまりに高く、あまりに深い。

イエスは神の経綸に従って、まずイスラエルを救い、そして救いを全世界に及ぼそうとされたのに、このイスラエルの人々の中の最も信仰的種族として誇っていたパリサイ人らはイエスを拒み、イエスは淋しく異邦の地へ行かれた。

そして、そのカナンの女の信仰を見てかえって深く彼の心を動かされたのであろう」。


私が面白く感じたところは23節だ。
弟子はイエスに、「女がうるさいから早く治して帰してください」という要求をしている。ごく平凡でわかりやすい感じ方であるが、弟子は女の信仰も、イエスの思い(悩み)も全く理解していないことがわかる。弟子でさえである。


この箇所から、私も「イエスの無関心と弟子たちの不親切にも怯(ひる)まなかった」女の信仰がほしいと思った。
それは本人次第だ。
この女のようにイエスに対する絶対的信頼があるかどうかだ。信頼があれば真剣に求め続けるだろう。

いや、それに先立ってその悩みを本当に解決したいと思っているかどうかであり、大切なことを無視して素通りしていくのではなく、真摯に向き合おうとするか否かが問題だ。

私の場合はイエスへの真剣さに欠ける。神なしで生きるようになれば生きているとは言えない。


その後、導かれるままに何人か祈られた中に知子もいた。
「私は体調がとても悪く薬を飲みながら子育てをしていますが、この女の人のようにイエスさまに熱心に求めていなかったように思います。・・・」という告白と悔い改め、そして、助けを祈り求めた。

知子に続いて谷口先生が篤いお祈りを捧げられた。

「知子ちゃんは今、イエスさまに叫び声をあげました。・・・」と、谷口姉の祈りは常に主の御臨在に溢れる祈りだ。文字に刻むことができなくて残念でならない。
このあとの聖歌は何番だったか覚えていない。

その後、毎年1月はおぜんざいをご馳走になり、お菓子やみかんを頂きながら交わりの時をもった。
幸悠は知子の胎にいる時から祈られて誕生し、その後もずっと祝福の中で育んで下さっていることを改めて神さまに感謝した。
幸悠は私たち夫婦の間に置いて下さっていたかわいい椅子に座っていた。

参加者17名は「また会う日まで」を歌って散会した。
その後、いつものように知子たちと共に食事をして2時頃に別れた。この日は4時から集会所での集まりがあるので買い物も短く済ませて帰宅した。

出発前に夫と共に前日の工事の仕上げを見るために裏庭を見回ろうとしたところ、母屋の勝手口あたりから排水が裏庭に勢いよく流れ出ていたため、出発の時間を気にしながらも工事屋さんに電話し、義母にも伝えたりで大変だった。家も築38年になるとやっかいなことが続出である。

帰宅した時、(大阪府)大東市から土木係の人が来て下さっていた。その方を見送って集会所へ夫婦で急いだのだった。
夫にも行ってもらったのは、この自治会は共同アンテナを利用しているため、地上デジタルテレビの説明会を開いて下さったが理解する自信がないからだ。
集会の報告のために再び母屋へ直行し、自宅に入ったのは6時半を過ぎていた。

知子の状態が心配でならないが、「いつでも預かってあげるからね」と伝えてあるので、あとは主に委ねて祈るしかない。カナンの女のように私も神に泣きつこう。

もう20年以上も前のこと、聖書カルタを読み上げていた娘たちの声が今も鮮明に私の耳に残っている。
「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」!
今こそこの信仰を働かせよう!
posted by 優子 at 20:39| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

真智子に倣って自己管理に励め!

今日は朝から夕方まで工事、後始末が終わったのは昨日と同じ6時過ぎだった。
母屋の給湯器が年末から故障になり新年早々に夫の関係先にお願することになった。ついでに我が家のビルトインのガスコンロを新しくした。8年を過ぎた頃からグリルのセンサーが利かなくなり、昨秋にはついに限界になっていた。

コンロの交換は9時半過ぎには終わったが、新しい給湯器設置を機に、義母が風呂場から助けを呼べるように我が家の台所の壁に装置(?)をつけることになった。そのために一日仕事となった。

午後2時過ぎから我が家の工事に移り、外壁から、また台所から結構大きな穴があけられた。チャッピーもまた連日の人の出入りと大きな音で受難だった。

何度も母屋を行ったり来たり、トイレの水漏れのことでは水道屋さんを手配したり、合間の時間にと思っていた読書もままならず台所の掃除をすることにした。かなりきれいになったけれど腰痛がたまらない。

それに、何をやっていても太宰の『パンドラ』が気になってしかたがない。何度も何度も思い出してヒヤッとした。
今週も全く全く何もできずに終わってしまった。1月も既に半月以上が過ぎ、とにかく読み始めないと精神衛生上とても悪い。
昨日真智子が言っていたように、予定通り仕上げられるように自己管理に励まねばならない。

数日前の整理中に日本キリスト教文学会の案内状が見つかった。今回のシンポジュウムは「太宰治とキリスト教―太宰はキリスト教をどう理解したか?」というものであり、大変興味深いので行くことにした。

発題者は「太宰治の『神』概念―そのキリスト教理解をめぐって―」「太宰治の『如是我聞』論、『己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』を中心に」、そして、「関係の物語としての聖書受容―山岸外史『人間キリスト記』から『駈込み訴へ』へ―」である。

懇親会は欠席することにした。
全く自学せず、もとより何も知識がないので聞きたいことも話したいこともないし、帰宅が11時近くになるからだ。

夜8時過ぎ、義母の給湯器の様子を見ているとどうも気になって覗きに行った。今日も来ていた義妹が使い方を書いてくれていたらしいが、わからなくてお湯がぬるくて寒かったそうだ。
明日、お風呂場用と台所用を書いて貼っておいてやろう。
posted by 優子 at 22:04| 随想 | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

懐かしい父よ、母よ、時よ!

叔母は2007年2月にも23針も縫うヘルニアの手術をし、その前には胆管結石のために胆嚢を取る手術をしている。冠婚葬祭やお見舞いなどを記録しているノートには、1992年6月22日と記されていた。

この時は両親と夫と一緒に行ったことを覚えている。
母の難病がかなり進行していた頃で、大手術後に点滴をぶら下げて歩く叔母の方が母のことを心配してくれていた。叔母の3回の手術、そして、叔父が亡くなったのも六甲病院だった。

昨日は雪やみぞれが降ったり止んだりする寒い日だったが、母の通院介護に通っていた時のように薄いスプリングコートで外出した。

母の時はいつも真冬でも薄いコートで出かけた。
病院ではオーバーコートが荷物になって介助の邪魔になるからだ。歩いていると寒くないし電車の中も暖かい。帰りには必ず寄っていたデパートも薄手で十分だ。

昨日は行き先が病院であり、この出で立ちだったことも関係していたと思うが、梅田を歩いていると実家や住友病院へ通っていた時のことが無性に思い出されて、懐かしさと寂しさでウエットになっていた。


最近は梅田へ行くこともめったにないのでカードを解約するために大丸に入ると、母の時の帰りと錯覚するほどだった。
しかし、悲しい痛みを感じながらも、ずっと錯覚の世界に留まっていたい気持ちだった。


今、真智子夫婦が2度目に大叔母を訪ねた記事(2007年6月8日・「ミネソタ便り」)を読み返した。
今回は阪急電車で行こうかと思ったが、やはり阪神電車に乗って石屋川から登って行った。叔母の快癒と、私を見舞う者にふさわしく整えて下さるように祈ったあと、叔母が母のところへ来てくれていた時のことを思いながら歩いてた。

六甲山を真正面に見上げながら歩いていると、真智子は奈良から神戸大学までよく通学してくれたものだと思った。
娘には家のローンが始まったからという理由にしたが、正直のところは敵地の中に置かれたような当時の状況だったので、心細さから新居に私の分身に居て欲しかったことや、通学運賃の方がはるかに安くつくからという私のケチ根性も多分にあった。

「六甲病院」の文字と建物が間近に見えた時、何か遠藤周作の世界を思わせた。病院の廊下を歩きながら、大叔父を見舞ってくれた大学1回生の真智子の姿を追っていた。

病院に着きエレベーターの中で射祷して、詰め所で尋ねると叔母は今朝退院したと聞いて驚いた。行く道で留守宅の叔母の家を寂しく横目で見ながら通り過ぎたものだから、あるじの居る家を訪ねることができて嬉しかった。

その日、叔母の家を出たのは7時半だった。
叔母と別れて駅までの帰り道では、まもなく14年目を迎える神戸大震災のことを思っていた。家々は全て新しい家ばかり。ご遺族の方々の慰めを祈った。

御影で一人住まいしていた従姉妹は、地震直後、パジャマのまま両親に向かって走った。親たちもまた必死で家から外に出て我に返った時、父親が娘を助け出さなくてはと思った時に娘が駆けつけてくれたという。

あたりの様子は現実のこととは信じられぬ事態になっており、家はドミノ倒しのように全てが崩壊していたそうだ。私は母の通院介助のために石屋川の様子を見てはいない。

親を思う子と、子を思う親の姿。
高校時代は有力なスプリンターだった従姉妹の走る姿と、その時の従姉妹の気持ちを想像するだけで今も涙が溢れる。


そんなことを思いながら石屋川まで歩いていた。
御影(みかげ)から急行だったので甲子園で直通特急に乗り換えた。梅田まで直通というのに尼崎でも止まった。

車窓から「ひめじま」という字を見た瞬間に祖父を思い出し、父と母が懐かしく泣けて泣けてしかたがなかった。
「泣かないで!もうすぐ梅田に着くよ!」と自分を泣きやませるのに必死だった。

窓に映った泣き顔は皺だらけで、すっかり年老いていた。
目は父のようでもあった。父と母の居ないことにもすっかり慣れたのに、昨日はどうしたのだろう。


叔母の家を出てから45分後には梅田に着いていた。
今どきのデパートは遅くまであいているのだ。入りたかったが大急ぎで地上へ出た。そこに旭屋があると思ったらうっかり間違えてしまった。あえて後方で降りたのに、呆けてしまったのか?!どうかしている。
大急ぎで阪神百貨店の売り場を通り抜けて行った。

階段を上がる、そうそう、ここだ。
ようやく御堂筋に出た。懐かしき旭屋本店が見えた。太宰治の『パンドラの匣』と『もの思う葦』を買いたかったからだ。
学生時代によく通った本屋、私は紀伊国屋よりも旭屋がお気に入りだった。そして、思想・哲学の分野が私の精神界だった。

本屋を出てこのまま「ただいま!」と実家に帰れば、元気な母が「おかえりなさい」と言ってくれそうな気がした。懐かしいなぁ。会いたいなぁ。

本屋を出て地下街への階段を下りながら気持ちを現実に戻した。


阪神、大丸、マツキヨで買い物をしながら大阪をあとにし、ようやく自宅のある駅にたどり着いた。ここに引越してきてはや10年過ぎようとしているのに、昨日はいつもの愛着心はなかった。
「でも、チャッピーが待っている」と思った。
「夫が待っている」と思わなかったのはなぜだろう・・・。
「娘たちもいないし・・」と一瞬脳裡をかすったが、娘たちを手放した生活にもすっかり慣れた。

夜遅くに、閉店前のデパートで買ってきたプチシューを15個と巻き寿司の殆どを食べた。甘いもの好きな夫も欲しがったので4〜5個あげた。

今朝は夫を見送ってから8時過ぎまで寝てしまい、とても怖い夢で目が覚めた。
午後は築10年目のメンテナンスに来られるので、夢のこともゆっくり考える暇もなく昨日の掃除の続きを始めた。
2時間余りの家のチェックでは畳を上げてシロアリのチェックもあり、2度目の掃除をし終わればすっかり真っ暗になっていた。


おなかもすいたはずだ。
朝は昨日の残りのプチシュー3つと巻き寿司2切れだけで、食パンも出したままで焼くのさえ忘れていた。昼食も忘れていた。今はもうクタクタだが、明日は母屋の関係で一日ガス屋さんの工事がある。

夫は今夜、製紙メーカーの新年会で京都・岡崎の「つる家」まで行っているので、夕食を作らなくてすんで助かった。

以上、他人にとっては全く退屈な駄文であることも承知している。太宰治なら『如是我聞』風にボロクソに言うだろうが、娘たちは心を寄せてくれるだろう。

昨日のブログを読んで真智子もこんなことを書いてきてくれている。
「まちも叔母ちゃんに会いたい。神戸のおばちゃんも元気でいてほしい。
今週はとてもさびしい。
おじいちゃんやおばあちゃんのことも思い出す。
ゆきちゃんと相手しているママとパパも見たい。」
と。

そして大ニュースは、今朝のチャットで春休みに緊急帰国することにほぼ決定した!

メンテナンス10年と言えば、神戸の叔父が亡くなって今夏で10年になる。
家のローンも昨夏に完済し土地の抵当権も外され、神さまと夫に感謝している。この10年の恵みを書き出してみたい。






posted by 優子 at 21:31| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

年末に手術、今日退院した叔母を見舞う

叔母は娘(従姉妹)と2人で越年旅行を楽しんでいたとばかり思っていたが、22針も縫い、4時間もかかる大きな開腹手術をしていたのだった。

真智子からのメールのおかげで叔母の入院を知ったのは1月8日のことだった。次女がミネソタから3日と6日に大叔母に電話してくれていたが、いつも留守電だったとのこと。

「叔母ちゃんは結構外出してるのかな?3日には一応留守電にメッセージ残したんだけれど、またかけてみるけどね。」と書いてあったので、直ぐに電話したがやはり留守電だった。

私は悪い胸騒ぎがしたので、続いて従姉妹にも電話を入れた。従姉妹は仕事をしているので留守だとわかっていたが、留守電に連絡を乞うメッセージを入れた。

その夜9時の電話で、叔母が12月24日に我慢しきれぬ腹痛の為に病院へ行ったところ即刻入院し、26日に手術していたことを知った。
「こんな時はタクシーではなくて救急車を使ってください」と言われたそうだ。

最初は鼻からチューブを小腸まで通して詰まっているものを吸い出そうとしたが、固いものを感じるだけでお腹を開けてみないとわからないとのこと。
そして、26日に開腹手術になった。
腹内では腸捻転を起こしていて今回は腸にはメスを入れずにおわったが、やはり腸閉塞の手術というものだった。
12月31日にようやく集中治療室から個室に移ったが、そののちも、お腹と鼻、そして膀胱にも管が入っていて大変だった。

しかし、ようやく前日(7日)から口からモノが食べられるようになり、ご近所の友人たちのお見舞いも受けているというのが8日の現状だった。

私はその翌日から孫を預からねばならず、退院まで2週間くらいかかるだろうからと聞いていたので、13日にお見舞いに寄せて頂きたいと話していた。
実際には13日ではなく14日の誤りだったが、ようやく今日の午後、六甲病院に叔母を訪ねたのだった。

ところが、急に今朝退院したと言われて、今登ってきた山を再び下って行き、徒歩で7分ほどの所にある叔母の家へ向かったのだった。

どうやらベッドの関係で退院が早くなったようで、まさに今朝言われての緊急だったので息子は会社を休めなくて、娘が甲斐甲斐しく働いていた。

従姉妹もまたバリバリのキャリアウーマンで、このあとも一度会社に戻って、その後自宅で仕事をこなさねばならぬというから、私も行った甲斐があった。ありがたいことに従姉妹のあとを引き受けることになったのだ。

幸いにして叔母は思ったより元気そうだった。
知子のことも心配して聞いてくれていた。また、命や延命の話、私の難病だった母の地獄の長い年月、そして、妹のことなどいろんな話をした。


そして、一言だけだったが神さまのことを伝え、「イエスさまを信じて一緒に天国へ行こうよ!」と話した。
すると、「そんなことを言ってくれるのは誰もおれへん、優ちゃんだけや。」と嬉しそうに言ってくれたから、私には思いもしない喜びだった。


よし、メールでもいろいろ話せる!
叔母は昨秋から携帯電話を持ち、しかも、メールができて、写真まで送ることができるのだから驚いてしまった。病院では何もすることがないからと、写真に撮った毎朝の食事も付け加えて娘にメールしていたのだ。

私のメールアドレスを従姉妹に入れてもらったのに、その後うまくできなくて、明日再び娘に教えてもらうとのこと。

従姉妹は3食分の食事を作ったところで帰ったので、掃除や片付け物、そして、夕食も叔母と一緒にして7時半過ぎに石屋川の家を出た。梅田で30分余り道草して9時50分に帰って来た。

奈良は寒い。かなり寒い。神戸も大阪も、寒さが和らいだのかと思ったほど暖かかった。

家路に着くまでの感慨を明日の記事に書きたいと思う。




posted by 優子 at 23:59| 随想 | 更新情報をチェックする

2009年01月13日

私もこのままの姿で歩いていこう、主と共に。

夕方4時20分頃だったろうか、知子が幸悠を迎えに来た。
表情は少々疲れ気味に見えた。今日は迎えに行かなければ・・・家を出る時にはいよいよ・・・と思ったそうだが、年末の旅行帰りとは反対に、時間と共に緊張した表情が笑顔になっていき、別れる時は元気に帰って行った。

10日は3回目のメンタルヘルス科受診日であった。
家族病理ではないが、娘は最も身近にいる伴侶の理解と協力を求めるためにと初回から夫婦同伴で行っている。
医師は、子供を預けることは非常に良いことだと言われたそうだ。投薬量はやはり増えたそうだが、良くなってきているらしい。
私は一喜一憂しないで向き合おうと思う。
既に私の中で何か大きな意味があるようにも思えてきている。

11日は礼拝に集い、交わりの中で心を癒されていたようだ。
クリスマス祝会で写した壮年会の方々の写真を皆さんにお渡ししたら、すごく喜んで下さったとのこと。
また、谷口先生宅の家庭集会で奏楽をしてもらえないだろうかとお声をかけて下さり、この17日の集会でご奉仕させて頂くそうである。

教会の帰りはドライブを楽しみ、夜には大河ドラマも見てゆっくりし、昨夜は鍋料理も楽しんだとか。掃除も今日が初めてで、連休中はしなかったというのは奇跡のごとき出来事だ!
しかし、時間単位で体調が変わるのでたびたび横になっていたそうだ。

とは言え、「子供を取ってくれたおかげで一石二鳥どころか一石四鳥だった」と、夫婦2人で過ごした連休は伴侶にとっても息抜きできた最高の時間だったそうだ。

そして、私たちもまたいい時間だった。
何よりも夫との時間が幸せだった。そのことは体力と時間のある時に書きたいと思う。

実はこの11日の礼拝後は、私たち夫婦と三人の姉妹方(50〜60代)の5人でランチに行くはずだった。
と言うのは、年末の娘の心配事や子守りで疲れた心身のリフレッシュのために、私から声をかけていたのだった。ところが、孫の子守りでキャンセルになってガッカリもしたのだが、日曜日の夕方にそのメンバーのお2人がランチ帰りに寄って下さったのだ。

「生(なま)のユキちゃんが見たい」とは、いつもブログを読んで下さっているからこそのお言葉、淳子さんらしい。とても楽しくて嬉しかった。

しかし、ようやく寝させたところで家の中もメチャクチャ。連日雪の舞う寒さなので洗濯物は温かい室内で乾かしているし・・・と、一瞬考えたのだが入って頂くことにした。

まずは寝顔から見てもらいペチャクチャ話していた。
目を覚ました時の孫はやっぱり固まったが軽度だった。

節子さんと淳子さんは知子のことを心配して下さっているのがよくわかった。孫が起きるまで1時間少し話していたら、私まですっかり心が軽くなっていた。
お2人が帰られたあと、「主婦のランチってこんな雰囲気なんやけれど楽しいやろ?」と言うと、夫は「そうやな」と笑いながら答えた。

「女の中に男が一人」ではないが、このメンバーでランチタイムを過ごし、そこに節子さんの息子さんや淳子さんと明美さんたちの伴侶方にも加わってもらって、次には教会へとお誘いできたら最高だ。私はそんなことをも考えている。

さて、昨日の午後は義母とも良い時間を過ごした。
庭の木に金柑の実がいっぱいなっており、部屋から手を伸ばして取った。皮が甘くて孫も何度もかじりにきた。
「おとなしい子やね」とばかり言われていた内弁慶のユキ。
「ユキちゃんは賢い子やね。ともちゃんみたいに賢くなる」とも言った義母。

義母は息子がおじいさんと呼ばれるのを聞いて、どんな感じなんだろうと楽しく想像したりしながら、神が成就された時を深く噛み締めて過ごしていた。
そのあと久しぶりに義母も一緒にスーパーへ出かけた。85歳から1歳までの4人で!かわいい

娘夫婦が一石四鳥の連休だったとしたら、それに私たちの分も加えて一石八鳥くらいになるだろう。勿論、八鳥の喜びは全て神さまからのものだった。

多くの方々がお祈りに覚えて下さっていること、自らも祈り心を与えられて祈りへと導かれていったことも全ての根源である神に感謝している。

「バラはバラのように
スミレはスミレのように
私もこのままの姿で(主に)ついてゆきます。

鷲は鷲のように
雀は雀のように
私も主のほめ歌を歌い続ける。」


「弱い」、「強い」という言葉があるが、その意味を正確に規定するのは難しいように思う。
健康面だけではなく性格的弱点も含めて、弱ければ弱いなりに最後まで生き抜くということもまた強いことだと思う。


「じーじ」、「ばーば」、「ターター(靴下)」など、明確に発語するわが子に歓喜の声をあげた知子。
日々著しい成長を見せる幼子に、私は聖書開巻の創世記に記されている神の創造のわざを見るようだ。



posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年01月10日

祝福の訪れ

我が座右の書、カール・ヒルティ著『眠られぬ夜のために』第1部、「4月24日」より。

試みと祝福とは密接に関連している。試みがやってくるのは、そうしなければ祝福が与えられそうもない時である。
なぜなら、特に、自分自身の力を頼みとする心の自信と傲慢とがあって、祝福の訪れをはばむからである。
そこで、再び戸口を開き、心をやわらかにし、素直にするのが試みの役目である。この目的が達せられると、すぐさま祝福が訪れてくる。
改めてこの箇所が目に留まった。
このところには、私の最大の人生の難所だった悪戦苦闘時代の書き込みがある。

「神を見失うほどの苦しみの日々が1年近くになるが、素直に神に対して祈り求めない頑なな心を、最近はっきり自覚している。
これが砕かれなければいけないこともわかる。このような傲慢さを初めて感じている(1994年8月1日)」。


この10日後に母は入院し翌年10月25日に亡くなる、そんな人生の段階である。43歳にしてようやく辿り付いた霊的段階であった。

ここ数日間祝福の妨げとなっていたものが昨日のブログを書き始めた頃から取り除かれて平安と気楽さが戻ってきた。
生ある限り改善工事が続行されていくことを感謝している。これぞ神の恩寵である。

「神さまは私たちを十分に祝福する前に、私たちの一番強い部分を砕く必要がある」。


今朝は簡易式のベビーバギーを持って3人で大店舗のスーパーに行った。娘と一緒に行って買ってやったバギーなのに、使い方がわからず夫とテンヤワンヤだった。
今度はたたみ方がわからない。
孫を一人で車内座席に座らせて2人で悪戦苦闘の果て、ようやくトランクに収めた時、孫は買ってきたイチゴを手に持って食べていたので笑ってしまった。

娘は子供の靴下を入れ忘れたものだから、幼児の衣料品売り場で買い物した。私は小さな靴下を捜しながら30年前を懐かしく思い出していた。
新米おじいさん、おばあさんの子守りの連休である。

夫がいたから子育てができたのだなあと改めて夫に深く感謝した。深い感謝に満たされたのも嬉しくて神の祝福に満たされている。

posted by 優子 at 16:52| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2009年01月09日

神はこんな私の存在をも喜んで下さっている

今朝から13日夕方まで密着チビ(孫)を預かることになった。
健康管理をしているのに数日前からやや風邪気味なので、今朝は夫を見送ったあと再びベッドへ戻り7時半まで眠った。

起きてすぐにPCを開けると、娘からのメールで既にこちらに向かっているという。
娘は子供を預けて直ぐに戻るつもりだったが、共に心の内を話し合う会話に導かれて感謝の祈りで終わった。より深く理解し合い、3時間半ほど滞在して12時過ぎに帰って行った。

「親不幸」もあるが「子不幸」な親もある。私はもっと強くならねばならない。畢竟、私は自分の罪深さが全然わかっていない憐れな者なのだろう。

こんなことで孫を預かるのではなく、娘が大学時代のお友達と会うとかバーゲンに行くために預かるのであればどんなに嬉しいことだろうか。
いけないと思いつつも、孫の前で泣いてしまった。


お風呂も夫の助けがいるので、孫が眠ったので急いでチャッピーの散歩に出た。短い散歩だったが、神との時を過ごしたので平安と力が体内に流れていた。
神と交わる術を与えられていること以上の恵みがあるだろうか!
神は私の存在をも喜んで下さっていることを忘れないでいたい。

posted by 優子 at 18:46| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

真智子叔母ちゃんたちから贈られてきたワンワン

次女夫婦がクリスマスに間に合うように幸悠に航空小包で送ってきてくれた贈り物は、" Remote Control Dog "だった。
長女夫婦が滞在中の2008年12月31日、午前9時〜9時半のスカイプでプレゼントを開けた。スカイプが2度目の幸悠。まずは軽く緊張気味。

スカイプのカタマル君.jpg

この写真はミネソタの真智子夫婦たちが見ていた画面であり、それを写真に撮って送ってもらったものである。

リモートコントロールで歩いたりワンワン鳴いてお座りする犬。
動いて音を出すオモチャを殆ど怖がらなかったのは意外だったが、本物の犬・チャッピーで慣れていたからだろう。
さて、名前は何にするのかな?

2008年のお正月には真智子と太志君もいて、聖日礼拝に放出教会へ出かけた。

長女は昨年末から生協のこまどり便(個人宅配)を断わったという。パソコンも殆ど開かないそうだ。ストレスになるならば遠ざければよい。
昨日、これらの写真を送信してくれたが、一言の言葉も添えられていなかったので心配は募る。

これらの記録は私自身の喜びのためだけではなく、後年、知子が喜んでくれるだろうとの思いで、いつも娘に代わって幸悠の成長記録や思い出を記している。


「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、
主よ、あなたの恵みが
私を支えて下さいますように。
私のうちで、思い煩いが増すときに、
あなたの慰めが、
私の魂を喜ばしてくださいますように。


                 (詩篇 94篇18・19節)
posted by 優子 at 16:34| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年01月06日

夫と私の事始め

仕事始めの昨日、夫は会社に着くやいなや数多く届いていたファックスを調べ、幸いにして倒産したという報告が入っていなかったのでまずは胸を撫で下ろしたという。

いくつか倒されている会社の社長は、営業マンたちに直ぐに全ての客先を見てくるように檄を飛ばしたそうだ。いずれにしても誰とも厳しい話ばかりだと夫の顔も厳しい。

今日は11時からリーガロイヤルでの大阪紙業5団体合同新年互礼会があり、やはり500名からの出席者だったそうだ。立礼に始まり、「閉会のことば、並びに万歳三唱」に立った。

大きい新年会があと二つあるそうだが、自社経営と共に業界、特に卸し業の新しい枠組み実現のために勇気ある行動を期待している。

そして私の仕事始めは、何と言っても太宰治の『パンドラの匣(はこ)』の舞台が生駒山麓「孔舎衛(くさか)健康道場」であったことについて5枚にまとめることである。

そのことを発見された浅田先生は何冊もの本を書いておられるが、年末に頂戴した御著書『太宰治 探査と論証』(文理閣出版)を昨日から読み始めている。
難解なところもあるが既に引っ張り込まれている。

発見者ゆえのエネルギーに圧倒されるのは勿論のことだが、国立療養所宇多野病院呼吸器科医長でもあった医師としての見解は非常に興味深く、他の追随を許さぬユニークな太宰研究者だ。

浅田先生もまたとても謙遜なお方で、御著書を拝読しながら改めて温かいお人柄に胸を熱くし、講演会の時に写して頂いたツーショットの写真を懐かしく見ている。

とにかく何とか頑張れるだろうという思いを与えられたので、執筆を拒んでいた私を何度も励まして下さったKo氏に、今夕、現在の進捗状態を伝えるためにメールを打った。

Ko氏は、大阪府教育委員会事務局 文化財保護課の方であり、平野屋新田会所保存のために熱く尽力されていた。同じく執筆を薦めて下さった東大阪市職員環境課のku氏にはメールの送信を遠慮してしまったが、両氏宛に同時送信すべきだった(>_<)。

そういえば、1月末にある日本キリスト教文学会でも太宰治だったはずだ。整理整頓が悪いので案内状が見当たらない。久保田先生も遠路出席されるそうだ。出席通知早く出さねばならない。

気になっている賀川豊彦の『死線を越えて』は、このことをもう少し進めてからにしたい。
読書や執筆に励めることを感謝しつつ、今年は姿勢を正して年頭から真剣にやり始めている。原稿締め切りは3月末。批評社から出版される。
エールを送って下さっている鳩飼さん、ありがとう!

posted by 優子 at 21:55| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年01月05日

仕事始め、いざ出陣!

仕事始めを前に昨日から夫の表情は厳しくなっていた。
土方歳三が愛人おゆきの前で見せる顔は、新撰組隊士たちには想像できなかったであろうと司馬遼太郎の世界で描いているが、職場での夫もまた家庭や教会での表情とは違うだろう。

牧師の妻が夫を支えて信徒たち一人ひとりに心配りをするように、私は事業家の妻として夫を支え、社員の方々や得意先、仕入先、また関係する方々に心を配る。

○○さんの健康状態はどうか、○○さんの娘さんはお元気になってこられただろうか、倉庫の人たちも良い雰囲気の中で機嫌よく仕事をしておられるのか・・・とか、常に祈りに覚えて夫に尋ねている。


今朝は社員に対して年頭の訓示から始まり、幹部たちとお得意先へ年始の挨拶回りである。昨年までとは違い幹部メンバーも変わった。
夫は去年まで同業会の副理事を務めていたが、理事長が病気で中途退陣されたために理事長としての仕事も昨年から始まっている。実務が多い副理事の仕事と両方だから大変なストレスだろう。

幸いにして事務局の方々とは親しい交わりのうちに、力強く支えて頂いているのでありがたい。
しかもお一人は、このブログを読んで下さっているとお聞きしているので、実は小さな冊子を夫に託していたのだが年内にお届けできずに、今もクリスマスプレゼント包装のまま手許に残っている(>_<)。

明日はロイヤルホテルの「光琳の間」で同業会の新年会が開かれる。
そこでは略礼装に白のネクタイの出で立ちで、子供の結婚式のように金屏風の前に立って皆さんをお迎えするらしい。

各製紙メーカー、代理店、卸会社の方々300名余り(?)を前にしてショートメッセージの出番もあるのに、練習しているのを聞いたこともない。(ピー、大丈夫?)

武士が裃(かみしも)を着けて外に出ていく時の厳しい雰囲気を感じ取っている私は、夫の息づかいに合わせている。
モーニングだと思ったら略礼でよいとのことだが、かしこまった華やかな場なので胸のポケットチーフもスリーピークスに折って準備完了!

2009年も慌しく過ぎていくのだろうが、今年も主の御名を呼びながら歩いていく日々でありますように!
忙しく過ぎていく現代であっても、常に主に在って、誠実を尽くしていく時、その日がその日で終わらずに、必ずのちに大きな収穫を得させて下さることだろう。


「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」                
                  (詩篇 121篇8節)    

posted by 優子 at 12:10| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

次女夫婦のミネソタ越年風景

3日朝、スカイプで新年の挨拶を交わし、2時間ほどマチ・クマと私たち夫婦で新春談議を楽しんだ。
最初に教会のご婦人宅で開かれた年末カウントダウンパーティの様子を聞かせてもらった。

ミネソタで紅白歌合戦を見るとなれば夜明け前だから大変だろうな、前日から泊まらせてもらっているのだろうか、それでも大変だ・・などと思っていたが、ミネソタ時間で31日の夜8時から放映されたそうだ。

同時放送も見ることができるらしいが、日本人は紅白を見ながら母国に想いを馳せていたことであろう。
この放送だとNHKそのままではなくアメリカ放送用のCMが入るので、日付けが変わった午前12時を過ぎても終わっていなかったという。しかし、「ゆく年くる年」も少し見たと言っていた。

歌合戦が終わると直ぐに画面が変わり、「ゴーン」と寺の鐘が鳴って、「こちらは○○です。今年は雪のない暖かい正月を迎えております」とかナレーターが語るあの番組が私は大好きだ。

放出教会では今でも夜11時から歳末感謝祈祷会が行われているのだろうか。真智子からのスカイプレポートを聞きながらそんなことも思い出していた。

さて、薫姉のお宅に招かれた人たちを数えてみると20名近くいるだろう。アメリカの家屋は広いからそれでも空間がいっぱいでゆったりしている。殆どがクリスチャンだそうだ。

歌合戦は、プロジェクターでリビングルームの壁に大きく写し出して映画館のようにして見ていたそうだ。送ってもらった写真の中から一部御紹介したい。

DSC03501.jpg

DSC03504.jpg


年末パーティのテーブルに並ぶ日本食を見ると、我が家のお粗末さを思い出して「どちらが日本?」という感じだ(笑)。

重箱には高野豆腐まで入っている。黒豆は今年初めて作られたとか。
巻き寿司、おいなりさん、ちらし寿司、天むす、そして、チキンを巻いた昆布巻き、キンピラや筑前煮きのようなものも見える。
真智子たちはデザートにココナッツプリンを作っていったそうだ。

右側奥にいるのが真智子。
アメリカでは高校生にも見られないとか・・・日本にいた大学院時代でさえ宅急便屋さんや近隣の方々が高校生と間違えられたのだった。これが大学の先生?(笑)
シンプル・イズ・ベストである。

DSC03495.jpg

アメリカ人もお箸を上手に使っておられる。
次の写真の左手前が、伴侶のクマこと太志君だ。
ちなみにクマのヘアーカットは常に愛妻がしている。
夫婦共に28歳のカップルである。

DSC03492.jpg

そして、次は2人の愛の巣に戻って
手許にある材料で作ったお雑煮だ。その中身は、
鶏肉・大根・にんじん・とろろ昆布・焼いたお餅・おネギ。
おすまし仕立てだったので、
「今年は白味噌のお雑煮が恋しかった。無いと余計に恋しくなるものやね」と、関西人の真智子。
ネギ入りのお雑煮はアメリカ滞在ならではの発想やね!

お雑煮.jpg


真智子のもとに小学校恩師の小寺康子先生からお年賀状が届いた。
「まさに元旦に届いた!」と大喜びの真智子だった。達筆な毛筆で書いて下さっていたのがはっきり見えた。
こちらからは大学時代のお友達と、神戸の大叔母から2人宛の年賀状を見てもらった。

知子たちも今夜婚家先から帰宅するだろう。明日からのことは主に委ねていこう。

さて、新年を期に教会を移ろうと思っていたが、明確な促しがなく香芝へ集った。一年半前から祈りに覚えており、4〜5名の方々から同じアドバイスを頂いている。
最近ではいろんな意味で熱心に考えさせられており祈りが真剣になっている。自分の思いで決めないようにと今しばらく思い巡らせたい。

礼拝後に集合写真を撮り、教会を出てお昼は外食で済ませて2時頃に帰宅した。洗濯物を取り入れてから母屋へ行った。義母と歓談したあと、お正月の座布団などの片づけをした。
我が家の掃除をしたのも昨日初めてだったので、気になっていたことをやり終えてホッとした。
さて、日米共にお正月は終わり明日は新しい船出だ。

マチ・クマ、一足先に私たちから5日を始めます!
これからも恵みの中を歩いて行こうね、主と共に。
今年も良い一年をね!
posted by 優子 at 19:59| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

息を吹き返した知子 ―2008年最後の1週間―

昨年末の28・29日は好天に恵まれて、長女夫婦は最高の気晴らしを楽しみ3時過ぎに帰宅した。
美しい白良浜(しららはま)で太平洋の力強い波の音を聞き、鄙(ひな)びた民宿での時間は、擦り切れた知子の精神をゆったりと解放させることができた。帰り道は高野山の奥にある龍神温泉を走り雪景色も見て来たそうだ。

帰宅した娘の見違えるような表情に喜んだのも束(つか)の間、数時間後にはすっかり疲れた表情になり重症だとわかった。
その夜、娘と孫が眠ったあとで夫と共に婿と3人で話し合い、娘の状況を聞いて暗い思いに落ち込んでしまった。
あれ以上話していても方策はなく環状線のように堂々巡りだった。心配で気持ちが沈んでいくばかりの私は、神に思い煩いを持っていこうと主を見上げたのだった。

「あなたはあなたの唇の言葉によって、罠にかかる」
(箴言6章2節)とある。このことは荒野を通り抜けてきたイエス体験者として、常に私の脳裡にある教えでもある。

神さま抜きで人間の知識や意気込みだけでやるのではなく、神の言葉を口ずさんでいく時に解決の方向へと転換されて導かれてきた。
だから思い煩わないでイエス・キリストに助けを求め、私は神の言葉を信じて進んで行こうと主を見上げたのだった。

その後、娘と話すうちに問題点が見えてきた。
私と違って、長女は実に忍耐強く子供に関わり過ぎていたと言えるだろう。まだ言葉を話せない孫は、「アッ!アッ!」と指を指しながら自己主張するのだが、娘は100パーセント子供の意を叶えてやる格好になって子供に振り回されていたのだ。

私がビックリしたのは、旅行から娘夫婦が帰ってからの孫の「アッ!アッ!」が、私たちに見せていたのとは全く違っていたことだ。
とても激しくて眉間に皺を寄せてではないが、眉間辺りに力が入り鋭い表情だった。観察力の乏しい私が驚くほどであり、あれでは誰だってうるさくてたまらない。


例えば、洗濯物を干している時も手伝ってくれるのはいいが、次から次へと洗濯物を取って渡してくるから早過ぎて困る。洗濯ばさみもハンガーも待ったなしで渡してくる。

子供の行為自体は全く問題はないし、「ちょっと待っててね」と言っても通じないので、娘は子供の言うとおりに動いてしまうのだ。
時には厳しく「ダメ!」と言うのだが、そうすると子供が泣いてしまう。知子はそれを放っておけないというのだ。

普通ならばヒステリックになるであろうに、泣かせたままでいると愛の無い行為だと思っているものだから、全て自分を抑えて子供の意を叶えてやっているうちに、いつしか巻き込まれてしまっていたのだった。

そのような日々を繰り返しているうちに、娘は動悸を覚えるようになり、子供が静かにしてくれているうちにアレモコレモしておかなければと強迫観念が強められてしまったようだ。

時には泣かせておけばいいのだ。
子供が泣いた時、「ほら見てごらん?泣きながらもこちらの様子を窺っているよ」と知子に示してやった。
相手は1歳半に満たない幼児といえども知能と心は見事に開花していっており、こちらの様子を窺いながら駆け引きもする名役者なのだ。


娘は子供に振り回されている格好になっていたものだから、毎朝、伴侶が家を出るまでに少しでも用事をしておかねばならぬと必死になっていた。なんとしんどかったことだろう。

しかも私の子育てとは違って、はるかに多く同じ年頃の子供たちとも触れさせたり、マメに屋外でも遊ばせてやっている。一年中不眠状態でよくできたと思う。
そこまで忍耐心が強く真面目すぎるものだから、ついに心身ともに疲れ切ってしまったわけだ。行き着くところまで行ってよかったのであり、大切なのはこれからだ。


子供の自己主張はとても大事なことだが、時には「ダメ!」と言って泣かせておくことだ。子供のためでもある。
娘にそのことを話してやると、そうやっても愛が無いわけではないということを大発見したように受け止めたことに私は驚いてしまった。と同時に、薬を増やさないで回復していくだろうと私は大きな希望を抱けた。

孫は内弁慶で外ではおとなしいので、人々に「こんなにおとなしいとやりやすいね」と言われることも辛かったようだ。
婿に「知子は頑張りすぎだから」の一辺倒で片付けられてしまっては情けなかったことであろう。


母親の子への目のかけ方は父親とは比べものにならないほど細部に行き届いている。それでさえ怪我をしながら大きくなっていくのである。今後、男児は女児の動きとは違って激しくなっていくだろうから尚更である。

また親に見せる態度と違って、祖父母と一緒に居る時はとてもおりこうであり、何人か近所の方と話したが皆同じように仰った。預かっていた時、今までのところは困ったことはなかった。

幼児といえども祖父母のところでは気を遣うのか本当にいい子なのだ。真智子を出産する時に知子を預かってくれた母も全く同じことを言っていた。

物事がうまくいかないことはいいことである!
人はこのようなことを通して互いに理解を深めていくのであり、生きる喜びを知るのである。そして、全ての始まりは気づきからである。

何事も本当に自分を理解してくれる人が一人でもいれば感情をうまく処理して、より良きへと進んでいけるのではないだろうか。

私にとって大きな発見だったのは、いつだったか娘がここに来ていた時に伴侶との電話で、「実家に帰っても気晴らしにならない」と話していたのを耳にして気を悪くしたのだが、その意味するところが全く違っていたことがわかった。

娘は股関節と腰を悪くしている私に子守りをしてもらうのが辛くて、申し訳なくて、子供をとってもらって2階で横になっていても安らぎがなかったというのだ。
その思いは婚家先の義母に対しても同様で、伴侶に子供を連れて実家で親子水入らずの楽しい時を過ごしてもらっていても、気が休まることはないのだった。

僅かの睡眠中にも寝汗でボトボトになるので毎晩着替える日々だったという。この不眠症のしんどさでも尚、そのように思ってしまう娘がかわいそうになった。私ならば欲も得も無く休むだろうに!


こうして私の心の隅にあった娘への誤解も解け、共に大きな気づきを与えられて強い希望の光が差し込んだ。回復は知子に期待するのではなく、神さまに期待して焦らずにやっていこう。

次の受診で医師はどう判断されるかわからないが、私は強迫障害の薬物は必要ないと思っている。神さまが完全に癒して下さるように祈りつつ、導かれていきたい。
そして、娘の伴侶にも深い気づきが与えられるように祈り続けていきたいと思う。

このような年末を過ごして元旦の午後に見送ったのであった。知子に神の癒しと祝福を祈りつつ。



posted by 優子 at 08:48| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年01月02日

癒しの道開かれゆく知子

長女夫婦が年賀状に載せた孫の写真も記録しておきたい。この写り方ならば本物の孫の顔だ。これは1歳4ヶ月くらいの時だと思う。
「ユキちゃんも全国に羽ばたいた」と言った長女の面白い表現がすっかり気に入ってしまった。
我が家にも元旦に飛んで来てくれた!

2009年年賀状に!.jpg

元旦は知子たちも母屋でおせち料理とお雑煮の昼食を共にし、藤本の祖母、叔父たちや従兄弟たちと2時間余りを過ごして婚家先へ発った。

別れぎわ知子を抱きしめた時、知子は
「ママ、ありがとう。大丈夫、治ると思う」と言った。
「心配しなくっても大丈夫だからね。一人で頑張り過ぎないで、助けを求めればいいからね。大丈夫!いつでも力になるからね!」と、私は強く強く抱しめた。

そして、父親とも強く抱き合った。


母屋で嫁の務めを終えて帰宅した夕方、ダイニングのカウンターに娘の走り書きした手紙が置いてあった。読みながら涙で喉を詰まらせた。
(知ちゃん、記録させてね)
大好きな大好きなパパ、ママ。
本当に本当に(今回は特に)ありがとう。ホッとできました。
太志君と真智が帰ってこなかったことも今の私にとっては気を遣わなくてよかったかも。
薬に頼らず、でも、助けを借りてイエス様と共に行きます。
強迫性障害も自律神経もゆっくり治していけるはず。
また電話した時にはヘルプしてね。

ママ、どうか、腰と股関節を正月休みの間に休めて下さい。
ありがとう。
滞在は何よりの薬でした。
パパ、ママ、今年もどうか元気で。
愛してるよ!!(^−^)知子


12月26、心身ともに疲れ切った危機的状況で子供を預けに来て直ぐに帰って行った娘。垣根の陰から娘の車を見送った時は胸がつぶれそうだった。
しかし、元旦の午後に見送る時の娘は美しい笑顔に戻り、私たち夫婦も安らいだ笑みで満ちていた。それに至るまでを次の記事に書いておきたい。
娘の苦悩を私たち親と伴侶が理解し、問題点が明確にされたこと。そして、娘が心の緊張を緩めて喜びと希望を取りもどしたことを。
その全てに主の御臨在があり、今後も責任をもって知子を守り導いて下さることを感謝している。

このことは知子の問題だけではなくて、伴侶にも多くの深い意味があることを確信させられている。神が知子のことを通して周囲の者たちにも気づかせようとされているのだと思う。神の手によって変えられていくのだろう。私たちも変えられていきたいと思う。


知ちゃんへ:今気がついたけれど、ユキの厳しい「アッ!アッ!」の表情が完全に消えているね!
ここ数日は全然見なかったものね。この調子でやっていけばいいよ。何事もゆっくりゆっくりね。
自分の限界を知ってやっていくのよ。それでこそ最高の自分が築きあげられていくからね!


夜9時45分追記: この「知子の育児便り」に、懐妊がわかった2006年11月18日に始まる12の記事を「家族」から移動させた。
posted by 優子 at 12:20| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

主の2009年 元旦

新年明けましておめでとうございます。
主の2009年が明けました。
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3日にはブログを開設して4年目に入ります。
新しいページにどのようなことが記されていくのか
私の知るところではありませんが、
心をこめて生きていきたいと思います。


今朝9時半過ぎから長女夫婦と4人で、質素極まりないおせち料理とお雑煮の食卓についた。家長として話す夫の言葉はいつしか祈りになり、続いて私も祈った。

まもなく孫は寝てしまい、婿と夫は仕事の話で盛り上がっていた。
舅と婿。
婿とも良い関係が定着しつつあるので嬉しい。
舅になった夫の姿に私は父を重ね見ていた。

今年は紙業界もまたとにかく年が明けてみないとわからないという未曾有の厳しさだ。
「長い正月休みが明けて、出社すればファックスでどこどこが倒産したという知らせが入っているかもわからんからな。」と夫は婿に話していた。
実際に以前には、「年始の挨拶回りに行ったら、倒産してシャッターが閉じられていたこともあった」と義弟も話していた。義弟は美濃紙業から枝分かれした協和紙業に勤めている。

11時前から母屋へ移り、義弟たちの家族が揃ったので11時半頃から食事が始まった。知子たちは午後1時20分頃、婚家先へ向かった。
今回の滞在では3度も母屋へ行ったからか、孫は初対面の人たちが大勢居たのに固まり度はとても弱かった。そのうちに歩き回りもしていた。

今朝届いた年賀状を拝見していると、私たちの年賀状が恥かしい。
そしてそれ以上に、皆さんはどんなに忙しくとも、ちゃんとこうして間に合わせておられるので自分が情けない。
今年からはもっと頑張っていかねばと反省から始まった2009年。1月3日には配達されるであろう私たちの年賀状をここに記録しておきたい。

頌主頌春

世界大不況の中で今年は大変厳しい年になりますが、心を強くして雄々しく前進して行きたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
お一人おひとりの上に神の豊かな祝福がありますようにお祈りします。 

 「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
  驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
  わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
  わが勝利の右の手をもって、あなたを支える」。
    

                        (聖書)
     
  2009年元旦
夫婦合作の文面である。明確な信仰を与えられていない夫なので、「神の言葉を握りしめて」の言葉をはじかれてしまったが、少しずつ少しずつ神に導かれている。

年齢や経験から近年は多忙な夫である。
自社経営だけではなく大阪紙業界のリーダーとしての職務も多い。
どの会合でもスピーチが求められるような立場にあり、新年早々には500名の前で話さねばならないそうだ。

今年は私も緊張が走る。
しかし、どんなことがあっても全知全能の神が一切を支配され、全てを掌握されているのだから絶望するには及ばない。前進するのみである。

2009年の船出は5日から始まる。

posted by 優子 at 22:22| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする