2009年02月28日

石切(いしきり)の孔舎衙健康道場跡探索

昨夜のこと、次の月曜日に行く予定をしていた孔舎衙(くさか)健康道場跡と「パンドラの丘公園」へ、夫が連れて行ってあげるというので、今朝は9時に家を出てまず買い物から始めた。

買い物の次は夫の散髪のために私を図書館で降ろす。先月も同様に最近はこのパターンが多い。
散髪屋さんでは、夫より先に弟(次男)が散髪に来て帰ったそうだ。そして、夫がやってもらっている時に3男が来た。一駅違いの町で隣りどうしで住んでいる義弟たち。何と兄弟揃って同じ理髪店だったとは!

そして、店主曰く、「弟さんたちよりも、お兄さんが一番髪の毛が多いですね」と言われたと、夫は嬉しそうに話した。
さて、食料品を冷蔵庫に納めて11時に再び家を出た。

新石切駅から石切駅に辿り着くのが大変だった。細く急な坂道なうえにナビだけではわからなくて、何人もの人に尋ねながらようやく辿り着いたが、「パンドラの丘公園」の名前は誰も知らなかったし、日下新池もわからない。

石切駅前の地図に「ヒトモトススキ」(植物名)の名前を見つけたので、これがめざす日下新池だとわかった。
ヒトモトススキが東大阪市の天然記念物になっているというのを、三記雄さん(市職員OBであり、サークルセンターの副会長。『小阪庵だより』は私が毎日訪れるHPの一つである)に教えて頂いた。

本来、ヒトモトススキは海に自生する植物であり、古代は河内が海だったことから淡水の池に生えているのだ。


さて、ようやく池に辿り着いたが、池の水はすっかり抜かれて工事中だった。現地の人に聞くと、土砂崩れを防ぐための工事だと説明して下さった。枯れたススキだけでも見ることができてよかった。

しかし、池は空っぽでも、後ろの山の形は間違いなく健康道場のあった所だった。桜の木はあの時の木だろう。
浅田先生が御著書に掲載されている写真と合致し、私はマア坊や竹さんの姿を池沿いの道に見ていた。


そのあと公園を捜したがどうしてもわからず、夫は付き合ってくれそうだったが気兼ねだったので、後日、再度行くことにした。山を殆ど下ったあたりに日下公園があった。

山を降りてしまうとよく見慣れた東大阪の町、かつての住まいがある長田のマンションを横目に中央大通り沿いの店で昼食を済ませ、梅田へ向かった。

キリスト教書店で出産祝いやお見舞い、お慰めにお贈りする本を買い求めた。路上駐車ができなくなってから夫は自動車で待ってもらっている。
今日は20分ほどで戻ってくるからと調子のいいことを言いながら3倍も待たせてしまった(>_<)。

大阪駅前も次々と再開発が進み、残る古い建物は中央郵便局と隣りの大弘ビルくらいだ。
ちなみに「オアシス」(キリスト教書店)梅田店は4月16日に大阪駅前第2ビル2階に移転オープンし、大弘ビルでの営業は4月11日までだ。

帰りは高麗橋から高速に乗り30分足らずで帰って来た。
車を降りる時、「またカシオペア座やなあ」と夫が言った。「カシオペア」、「貸しやで」という意味の語呂合わせだ。わーい(嬉しい顔)

明日も教会があるので今日の借りは今日返しておこうと(笑)、股関節が痛くともチャッピーの散歩も頼まず、良妻役を3時間務めて、夕食、入浴を済ませてもらい、夜8時には2階へ上がってもらった。

事故無く無事に予定をはかせることができたことを何度も神に感謝し、夫にも感謝した。(^0^)

posted by 優子 at 22:14| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月27日

2週間後にはマチ・クマはここに居る! ―真智子への返信に代えて―

まもなく2月も終わろうとしている。
急きょ、次女夫婦の帰国が決まった時、アグレッシブなほどに挑戦し続けている真智子からかけられた、「パンドラ頑張れ!」の言葉が嬉しく、「ママも自己管理をね!」と言われて大いに励まされた。(真智! ママも頑張っているよ!予定通り仕事をこなせているよ!)

いよいよ『パンドラ』の原稿を仕上げねばならない。
今週は雨続きで、晴れ間が出た昨日は家のメンテナンスにとられ現地取材に行けなかったので掃除に充(あ)てた。3月10日には完了させたい。その間に孫の世話もあるだろうから正味3〜4日間ほどになる。

今朝届いていた真智子のメールを開いて躍動感が伝わってきた。

来週の水曜日、ビクターのワークショップでも急遽発表することにしたよ。ダブル発表!頑張るわ。
昨日、ビクターに「春休みは日本に帰る予定で、11日は休まないと駄目なんです・・」と言ったら、「楽しんでこいよ!」と笑顔!素敵な人やなー!
春休みまでラストスパートで頑張って、日本に帰ります!
またね。真智子

「ママも頑張るぞー!今こそ頑張り時!」と意欲が溢れてくる。
ビクターとは有名な経済学者だ。
これは余談だが、「先生」呼称が大好きな日本社会と同様に、時には教会内での違和感に時代の逆行さえ感じている私は、(院生に限ってとは言え)教授をもファーストネームで呼ぶアメリカ社会と日本文化の違いに圧倒された。

歴然たる日本文化の良さを残しながらも、教育や医療現場に代表されるような機関以外では、そろそろ個の自覚と深い交わりの喜びを享受する方向に進めていきたいものだ。

さて、久々の母国に帰って食べたい物をリクエストしてもらったところ、天ぷら、回転寿司、鯛の子、若ゴボウ、生協の春巻き、たこ焼き、コロッケを挙げていた。(笑)

そして、「回転寿司と天ぷらをいっぱい食べたい。あと、シシャモが久しぶりに食べたいなー。」だって!
真智、いっぱい食べようね!!
太志君と一緒にいっぱいおあがり!
(神さま、事故や危険から守って下さり無事に再会することができますように。そして、健康を守って下さり、この短い期間を幸いな時として下さい。)

3月11日 (水) :ミネアポリス/セントポール国際空港、東京 - 成田国際空港 (NRT) 5:30PM到着、所要時間: 12 時間 30 分 。
(と言うことは、日本時間12日早朝5時にミネソタを離陸する!わーい(嬉しい顔)

3月12日 (木) 東京 - 成田国際空港 (NRT) 、 関西国際空港, Japan (KIX) 8:20PM到着。(自宅着は夜遅く11時過ぎるだろう。夫よ、どこまで迎えに行ってあげるの?)

再渡米は3月22日 (日)朝、 Osaka Int'l Airport, Japan (ITM) 、Tokyo-Haneda, そして、東京 - 成田国際空港 (NRT) から、再びミネアポリス/セントポール国際空港 MN (MSP) に向かって飛び立つ。(また行ってしまう。もうやだ〜(悲しい顔)

残念なことに、夫が13・14日は九州出張で不在となる。
伊丹、羽田、成田と乗り継ぎ便により帰国可能になったが、アメリカへ戻って直ぐのスケジュールのためにも体力が支えられるように祈っている。

まもなく受難の時期に入る。今年の復活祭は4月12日であるから受難週は4月5日からの一週間になる。贖われたことの意味と喜びを深く噛み締めたいと思う。

これからも神に心を向け、神に対して誠実に生きていこう。それが信仰をもって生きるということである。


posted by 優子 at 09:52| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2009年02月25日

イエスさまが祈られた最後の祈り

我が国にプロテスタント宣教が開始されて今年で150年になる。しかし、同じ聖書信仰に立つ信仰であっても、教団や教派によっていくつかの解釈の違いがある。

例えば、異言(いげん)について2者の立場がある。
殆どの教会では語られることはないが、当地に移って、特にこの3年間は正しい教えなのかどうか祈り求めていた。そして、辿り着いた現時点の結論は、異言を否定はしないという立場である。

勿論言うまでもなく、正統な聖書信仰に立つ信仰であるならばという大前提に立ってのことであるが、異言に限らず信仰理解の相違については誇示するのではなく、また、否定しないのが主の御心であろうと思う。

どの立場であれ信仰が養われているクリスチャンならば聖霊体験がある。言葉を代えれば人間的理解ではなく啓示上理解という体験だ。その体験を強調するかどうかの問題であろう。

大切なことは、互いにそれぞれの賜物を認め合い、補い合ってこそ主に在る者の生き方である。神学は大切だが究極的には信仰生活に神学は必要なく、信仰は神の主権により成就されるものである。
それを誇示し続けると賜物や信仰体験に優劣をつけかねない罠に落ちるであろう。

私は自分のことだけではなく、最近しみじみ人間の弱さがわかるようになった。大きな発見だと思っている。
個人レベルだけではなく国家に至るまで、制度化された教会もまたその範疇においては例外ではなく、互いに固執し、対峙するところに人間の弱さ、罪深さがある。


教会生活においても一人ひとりが主体的に、かつ、知的にも磨かねば賜物を優劣で測る迷妄に陥ったり、あるいは牧師至上主義になりかねない。先日の総会での光景からその危うさを感じないでもなかった。

昨夏、信仰の大先輩が語って下さったアドバイスを読み直した。そのごく一部をここにも刻ませて頂きたい。
礼拝での讃美は礼拝での異言と同じと私は思っています。
共に理解し、共に「アーメン」と言えなければ何の役に立つでしょうか。礼拝に出席したために喜び無く会堂を去るのは主の望まれるものではありません。
どの集会であっても、たとえ独りであっても主を喜べるところが礼拝の場所と言えるでしょう。

香芝ゴスペルチャーチは、昨年から親教会である南大阪福音教会より経済的にも自立したので、今年初めての総会が持たれた。3月1日は親教会の総会があり、夫の理解を得て総会にも出席できるので、1年以上ぶりに富田林会堂で礼拝を守ることになっている。

香芝ゴスペルチャーチは20〜30人の小さな群れであるが、地域にも受け容れられ根を生やしつつある。教会も高齢化が叫ばれる時代にあって若い世代が多く、幼児や学童たちの賑やかな声が聞こえる祝された教会である。

牧師夫妻は長女夫婦と同じ年頃の若い方々なので、信仰生活や社会経験豊かな年配者のサポートが必要だ。既に節子姉を初め重荷を感じて仕えておられる方々も新しく起こされている。

イエスさまが地上を去る前に祈られた最後の祈りは、クリスチャンのことであり、クリスチャンたちが一つになることだった。
イエスさまの御心を想い目頭を熱くして読んだ。
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼ら(クリスチャン)はこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。

今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。
わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。

あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。

わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。
             

           (ヨハネによる福音書17章11〜23節)

posted by 優子 at 17:45| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2009年02月23日

心配事は神に委ねよ!

長女が19日に子供を預けにきた時、『心配事を委ねる』という冊子を持たせてやった。『デイリーーブレッド』の別冊版だ。
娘は静かな時間を過ごしながら何度も読み直し、伴侶とも音読して話し合うなど、神さまの恵みが豊かにあったことを伝えてくれた。

メールには、「あそこに答えが全て書かれている。癒しは神様に対し謙虚に祈る事でしかない。食事もできているし明日迎えに行くのも大丈夫。・・・イエス様に頼るのみ。」と書かれていた。

私たち夫婦は娘の体力も心配で、もっと回復するまでゆっくりするようにと返信したのだが今日の夕方迎えにやって来た。

感謝なことに、自動車の運転はしんどいだろうからと、私の妹が旅行帰りの翌日にも関わらず娘を迎えに行き、市役所にも寄ってやってくれての送迎を買って出てくれた。娘も私も感謝して受けた。

娘には孫のここでの様子、昨日は午後の総会にも出たので夕方4時まで教会に居たことを話した。
教会での様子を見ていると、慣れない場所や初対面の人の前での硬直度は微々たるものになり、同じような年頃の子には自分から笑顔で関わり合いを持とうとしている姿に感動した。「カタマル君」の名前はそろそろ返上してもいいようだ。

21日の土曜日は、孫と3人でスーパーを3軒ハシゴをした。
孫がいくら食欲旺盛とは言え、1歳7ヶ月の幼児が一人増えたくらいであんなに買い物の量が増えるだろうか!
今週いっぱいは預かるつもりになっていたからだが、まるで知子と真智子が居た頃のような買出しぶりだった。

スーパーへ入ると繋いでいた手を放して歩き回る孫、その安全管理が夫の役目である。2軒目のスーパーで買い物袋に荷物を詰めていた時のこと。スーパーで働いておられる御婦人が、「お孫さんですか?おじいちゃん、孫にデレデレでんなあ(ですねえ)。」と仰った。

私は笑いが止まらず自動車に乗ってからも5分間は笑っていた。
この子をもらって育ててもいいよねと、私も楽しい気持ちで孫の世話をしていた。


午後は3人とチャッピーで散歩に行き、写真も何枚か撮った。早く見たくてたまらないが、「パンドラの丘公園」の写真を撮りたいのでカメラは娘に返していない。
とにかく自分でパソコンに写真を入れられず掲載できなくて残念。苦手なことは覚える気もないから仕方がない。

さて、今日の夕方、「ユキちゃん、ママやよ。ママが来たよ!」と言うと、孫は遊びの手を止めてニコニコしながら玄関へ走って行った。
「ユキちゃーん!」
知子は我が子を抱きしめ、子供もママを抱きしめた。
いい光景だった。(^−^)


娘と妹は1時間ほどの滞在で自動車に乗った。
最後に妹から短い短い話を聞き、妹を抱きしめて祈った。神さまは一人ひとりの上に確実に働いて下さっている。しかも、神さまからの希望は決して失望には終わらない!
背後で祈って下さっている方々に感謝し、その方々に神の豊かなお恵みがありますように。

付記: 昨朝、教会へ出かける直前に自治会長と次期自治会長が来られ、副会長の業務内容を記したものを提示されてのご依頼を頂いた。その概要を把握し、こちらの事情もご理解頂いているので内諾した。

民生委員を受ける時、先輩に確かめた上でお受けしたにも関わらず問題が生じて最後まで困り続けた。地域の働きなので初めてお聞きした時はストレスに感じ、と同時に神さまからのチャレンジの場が与えられたとも直観した。

今回はその轍を踏まないように1対1ではなく、3月8日の総会・役員改選の場でお聞きして、要望される働きに応えられるかどうかを確かめたいと思う。
そして、お受けするからには情熱を持って、全てを神に委ねて臆することなくチャレンジし、主に在って忠実に責務を果たしていきたいと思う。

posted by 優子 at 22:57| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年02月20日

「ママ、ママ」と孫の寝言

昨日、お昼前に子供を預けに来た長女の表情はやつれ果て、私はもらしそうになった驚きの声を呑み込んだ。
不安に襲われそうになった心は、瞬間、主の御名を呼び、イエスさまが守って下さっていることを思い出して心強くされた。
娘は早く一人になってゆっくり横になりたいからと、昼食も一緒に食べないで帰って行った。

今までの半生にも多くの艱難があり、それらを乗り越えさせて下さって強くされているはずなのに、私は全く強くなっていないとしみじみ思う。今の状況よりもはるかに厳しい中を経験してきたのにと自分の実態に愕然とする。

しかし、決定的に違っているところがある。
かつても祈ることのできる恵みは頂いていたが、今は、常に主が支えて下さっていることを信じられる。心細く感じている今も、主が常に共に居て下さっているのである。

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

               (エペソ人への手紙4章4〜7節)

孫はこの前に預かった時からまたしっかりし、「うん」と頷くようになっている。前回からとても負んぶはできなくなったので、「(座って)ダッコしてネンネしようか」と言うと簡単に抱かれてくれた。

いつものように即興話をしてやると笑うので、話の筋を静かな方向に替え、いつしか祈りになった。
「イエスさま、ユキちゃんとの時間を感謝します。
イエスさま、ユキちゃんのママがしんどくて困っています。助けて下さい。今、ママはどうしていますか?イエスさまがいつもママの傍に居てあげてください。
ユキちゃんも寂しくありませんようにお守りください。大好きなイエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」


祈り終えて目を開けると、孫はかわいい寝息をたてて寝ていた。

寝返りした時に、「ママ、ママ」と寝言を言った孫。
家では1日に50回以上も「ママ」と呼び、甘えん坊で全てがママでないとダメだそうだ。
いつもの口癖で「ママ」と言ってしまう幸悠は、続けて「ばあ」と言い直し、「ママ、ばあー」を何度も言う。
私も時々「チャッピー」と呼び名を間違える。


昨夕は4時頃から1時間半眠ってくれた。
大急ぎでチャッピーの散歩に出た。歩きながら祈り、大きく深呼吸して帰宅した。無性に聖書を読みたくなりしばらく読んでいた時、日帰りで東京に行っている夫から電話が入った。4時40分だった。
「今、新大阪に着いた。来てるんか?」

夫の声を聞いて心強くなった。まさに神さまからの助けだった。そのあとは会社へ出ずに6時前に帰宅してくれた。
今回は孫を連れて教会へ行こうと思う。夫から誘ってくれたのだ。
これら一切の上に神のお導きがありますように!

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

               (詩篇103篇1〜5篇)

恵み深く全能なる天のお父様、どうぞ知子を癒して下さい!
心弱い私を支えて下さい!


posted by 優子 at 13:10| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年02月18日

「勝利者 賀川」" conqueror Kagawa "

暖かかった先週末、静岡(?)では夏日という異常高温になったそうだが、4月上旬の暖かい日々から昨日は真冬に逆戻りして雪が舞った。

しかし、春はそこまで来ている。夫は数日前に鶯の声を聞いており、寒い今朝も春の訪れを告げていた。あまりの感動に暫くのあいだ立ち止まって聞いていた。

嬉しくてこのことをS兄(きょうだい)へのメールに書いたところ、
「春は目の前に来ました。
優子さんは、希望というものをしっかりと掴んでいらっしゃる方ですね。・・・神のお恵み深からんことを祈りつつ。」
と御返信下さって、胸がアドバルンのように感謝と喜びで大きくふくらんだ。

チャッピーの散歩で会う人と交わす言葉も、今朝から「鶯の初鳴きですねぇ」と春の挨拶に切り替えよう。
当地は生活には不便な所だが、大阪から30分で鶯やメジロ、そして、タヌキまでいる田舎だ。

チャッピーの冬毛も今朝からボコボコと塊になって抜け始めた。お腹のあたりは既に2週間ほど前にすっかり抜けてピンク色の肌になっている。
シュウメイギクもウブ毛に包まれた新芽が次から次へと顔を出し、全てが春を察知しているのである!
小鳥も、植物も、チャッピーも!


さて、これを最後に第4回連続で賀川豊彦関連記事をお届けしたい。私に洗礼を授けて下さった小山恒雄牧師が、著書『恩寵の選び』で賀川豊彦のことを短く触れておられる。

使徒ヨハネは、人生を2つのジャンルに分けて教えた。
死か命か、光か闇か、愛か憎しみか、救いか滅びか、勝利か敗北か、そのいずれかである。ヨハネはこの第1の手紙5章4・5節に「世に勝つ」という言葉を3度も繰り返している。

一人の少年が徳島にいた。家庭が乱脈を極め、小学校では「妾の子」といじめにあう。楽しくあるべき休み時間も、校舎の片隅のプラタナスの木陰で泣かぬ日はなかった。

彼は将来いじめっ子たちを見返してやろうと決心し、当時徳島で伝道していたローガン宣教師のもとを訪ねて、英会話の勉強に励もうとした。

ローガン先生は、ある日も泣き腫らした目でやって来た彼に必要なのは神の愛だと確信し、「少年よ、上を向いてごらん、太陽は輝いているよ」と、窓辺から上を仰がせた。その時少年の目から涙は消えた。

後に彼が世界の賀川豊彦になった時、アメリカで出版された人物伝のタイトルは『勝利者賀川』(コンクェラー・カガワ)であった。
ヨハネによる第1の手紙5章4・5節のみことば:

「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」

             
今朝、この私にも神がこのように語って下さっている。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」
          
             
              (ヨハネによる福音書15章16節)

主イエス共に在る人々には神の祝福が豊かにありますように、そして、全ての人々に神の導きと祝福がありますように!

posted by 優子 at 07:33| 引用文 | 更新情報をチェックする

2009年02月16日

賀川豊彦の遺書

「戦前のアメリカの人びとに一番よく知られている日本人といえば、それは天皇陛下、東条英機と賀川豊彦であった」とは、日野原重明氏が著書『死をどう生きたか―私の心に残る人々―』(中公新書)で賀川について書いた一節である。

この小さな本は、日野原氏が看取った心に残る人々の死を書いたもので、1993年5月に一気呵成に読んだ私はその後も時々開いては励まされている。

賀川は晩年まで、衰えた体に鞭打って毎年続けていた故郷徳島に伝道旅行した。そんな1959年1月、宇野から高松への連絡船内で心筋梗塞の発作を起こした。

高松の病院で3ヶ月過ごした後に何とか東京の自宅へ帰りついた。同年クリスマスに日野原氏が見舞われた時、心筋梗塞は落ち着いていたが腎臓病がひどく悪化していた。

1960年4月23日朝、長年の宣教活動を支援してくれていた3人の見舞いを受け、彼らが祈って別れようとした時のことだった。
「教会を強くしてください。日本を救ってください。世界に平和を来たらせてください。主によってアーメン」と、はっきり祈られて、「眼を閉じ、夜9時13分に、死線を越えて天に召された。」

賀川は死の5ヶ月前に遺書を書いていた。

地上の悲しみをのがれて天に帰る者は悦びを持つ。選挙運動もしなくてよい。地位名聞を離れて天に帰ることは光栄中の光栄である。
弱気肉体に支えられ、不安と激闘を貫いて、神と歩んだ生命が天に帰っていく。思えばもったいなくなる。死は灰になることではない。慈愛深き天の父に帰ることである。

地上の生活は代数の方程式と似たものである。係数もあり、符号もある。
しかし、その奥にある”根 ”(ルート)は変わらない。宇宙の創造主が企画し給うた筋道を人間が勝手気儘に変更することはできない。
多次元の世界は複雑に見えても、神の”根 ”(ルート)に還元すれば、そう複雑なものではない。そこで不滅の愛の世界が邪悪の世界をすら清浄に鋳換えてくれるのだ。

すべての生命は元素に復帰し、そして原子は不滅である。この不滅なるもので人間ができていることを信じる者には不安はない。法則も、エネルギーも、すべて不滅である。
”生命 ”の原理も”合目的 ”の世界も不滅である。この不滅なるものは集合離散の世界を超越して永遠なるものに我らを繋いでくれる。
我らは臆病たることをやめて、この無窮の愛につながればよいのである。そこに天がある。相対世界の奥に隠れた絶対者がいる。

天は我らのうちに内在してくれる。この心の中にまで内在してくれる天に私は帰るのだ。
すべての恐怖、死、災害を天が追払ってくれる。組立てられた人格の世界―霊魂の世界は、組立てられた空気が無窮であるように無窮である。見えなくとも空気は作用する。
そして、死を越えて”霊魂 ”は天の使命を伝達する。私は霊魂の不滅を信じている。
          (黒田四郎著『人間賀川豊彦』)
 

涙なくしては読むことはできない。
私の頬を涙が伝う。
彼の霊魂が私に語っているのだ。これからも神の愛に繋がって生きよと!


「武藤氏は、『死を迎えんとする偉大なる信仰と、死についての叫びをこの一文から知ることができる』と述べている。」

賀川を支えた終生の伴侶ハル夫人は、1980年4月25日の賀川豊彦召天20周年記念会で次のように語っている。

「私は、本当に神様に恵まれている者は、自分は力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みを頂くことであると思います。」

そして、1982年5月5日、神に仕えたハル夫人もまた神の御許に帰って行った。94歳の生涯であった。

私も賀川のように全身全霊をかけて神と人に仕える人生を送りたい。現実は悲しくとも、これもまた私の心からの願いであり偽りは無い。堂々と顔を上げて神に申し上げられる。
どうか私にもその愛と力を与えたまえ!
『死線を越えて』。
今もう一度、古き自己を越えて新しき人として生かされたいと切に祈る。これが読後の感想である。


posted by 優子 at 11:30| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

賀川豊彦に学ぶ社会的正義

賀川豊彦の主な略歴:

1888(明治21)年 神戸市に次男として生まれ、裕福な
             幼児期を過ごす。
1893(明治26)年 父母の死により姉と徳島の本家へ。
1900(明治32)年 旧制徳島中学に入学。
1905(明治38)年〜1911(明治44)年
             明治学院と神戸神学校で学ぶ。
1909(明治42)年 神戸のスラムに住み、キリスト教伝
             道活動を始める。後にイエス団とな
            る。
1914(大正3)年〜1916(大正5)年
             プリンストン大学で実験心理学を学
             び修士号を取得、同大学神学学士。
1918(大正7)年  関西労働運動の指導者として活動
            を始める。
1920(大正9)年  神戸購買組合(現・コープこうべ)
            を設立。『死線を越えて』を出版、
            大ベストセラーに。印税は全て社会
            事業に寄付。

その後、日本農民組合、イエスの友会、新渡戸稲造らと共に東京医療利用購買組合を初めとする多くの組合を設立。

関東大震災の時には東京本所で救援活動。
ニューヨークで「友愛の経済学」の講演を初め、カナダ、ノルウェー、フィリピン、オーストラリア、タイ、ブラジルなどに招かれて講演や講義を行った。

一方で、反戦思想や社会主義思想の疑いで神戸の警察署に留置されたこともあった。

戦後処理のために立てられた唯一の皇族出身総理大臣の東久邇内閣では参与に就任。
日本生活協同組合同盟を結成して初代会長に就任。
キリスト新聞社を設立し、1955(昭和30)年にはノーベル平和賞候補にも挙げられるなど、多くの足跡を残した。これらに加えて文筆活動と多岐にわたる。

1960(昭和35)年、71年の生涯を終えて召天。

最初に久保田暁一先生のご講義概要:

『死線を越えて』の3分の2あたりまで書いたものを明治学院先輩の島崎藤村に見せたところ、けんもほろろに「世に出た時に公にしなさい」と送り返されてきた。

このようなものは小説ではないという批判が強かったが、読者から大きな反響を受けたのはなぜか。
会話や筆の運びはぎこちないところがあるが内容が良い。(前半部分は)文芸価値は無くとも(後半部分の)題材価値が読者をひきつけたのである。
初版の500部を一日で売り上げたことは、倉田百三の『出家とその弟子』(大正5年)と共に日本出版界の大ベストセラーになった。

「お父様、それでは私はもうあなたと一生お目に懸(かか)りませぬ。私とあなたの道はあまりかけ離れ過ぎております。・・・」と、生き方の違う父親と別れをつげるところ(22章終わり)の内実、祈りが読者の胸を打ったのであろう。

次に大田正紀先生のご講義概要:

この作品では父親が悪役になっているが、実際の父は豊彦が4歳の時に赤痢で亡くなっており、この時に妊娠していた母は出産の時に産褥で死亡した。以後、叔父(父の弟)に養育されることになる。

子どもに恵まれなかった大庄屋の本家夫婦に迎えられたが、継母の攻撃や、田舎の大庄屋の息子への周囲の妬みを受けて孤独な少年期を過ごした。

叔父は社会運動に加わり官僚にもなったが、夫婦仲は悪く妾がいた。当時の日本人の結婚観では、このような不道徳なことが通っていた。
しかし、賀川少年は叔父の不誠実なところが許せず、叔父との対立を父にしたのである。

兄もまた贅沢三昧で酒と女により人間が崩れていき破産。その兄への怒りをも創作上の父に加えて、小説の中でフィクションとして書いていったのである。


学力優秀な賀川は、県立徳島中学校(現高校)に進学して寄宿舎に入る。その頃にアメリカのローガン宣教師と出会う。
ローガンは賀川に自分の書斎の本を読むことを許し、それを全て読んだというから語学の天才だった。貪欲にあらゆる知識を吸収する賀川は「本の虫」と言われ、図書館の本は全て読破したと言われている。

親や家庭の愛に渇いていた心はローガン牧師夫妻によって慰められ、これが賀川の原点だったであろう。
自覚的信仰を持つに至るプロセスを書くことにより、日本人の多くの読者にキリスト教が我々のどこに訴えてくるかを書いた。

スラムに入ってからも路傍伝道、神学校での勉強、復習、そして、スラムの子供たちの勉強を見てやり、できる限りのことをした。

アメリカ留学中に洋裁職工組合のデモ行進を見て、貧しい人を助けるのは慈善運動ではなく、社会そのものを変えていかねばならないと気づかされ、帰国後は労働運動など、社会正義を実現するための運動として展開していった。

賀川への批判として、スラム街の人々への偏見や思い上がりがあったと、賀川の全てを否定する人もいるが、その時代が握っている知識のレベルであり、それをもって全てを否定するのはやり過ぎである。

また、賀川は早い時期に全国非戦同盟を組織して日本の軍国主義に「ノー」と言っていたが、特高や憲兵にたびたび検挙される中で、いつしか大東亜共栄圏構想に賛同して愛国キリスト教を唱え、日本の軍部が行っている中国や朝鮮での残虐行為を黙認したなどの問題はあった。

しかし、戦時中、ホーリネス教団を除いて日本のクリスチャンは神社参拝に「ノー」を言わなかった。あれは習俗であって宗教ではないから頭を下げていいとしたのである。
賀川一人にその責任を負わせることはできない。

最後に、「私たちクリスチャンは、その遣わされた場所で、与えられた賜物を生かして、人間の尊厳性の回復のために賀川先生に倣い、『愛と社会的正義』を追い求めることが要請されている」と結ばれた。

社会運動家であり日本開拓伝道団・長浜教会代表の長原武夫さんは、賀川が設立した「イエス友会」との関連で賀川を語って下さった。
私は社会運動家のクリスチャンを長原さん以外に知らないので、経験談をお聞きするのは非常に興味深い。そのフットワークの軽さと仕事量には驚くばかりである。
賀川の『一粒の麦』(アガペ出版・300ページ)をお借りした。

余談になるが「イエス友会」は、1990年(?)の夏に奈良で開かれた日本クリスチャンペンクラブの集まりで知った。

その後、人生の悪戦苦闘中だった1995年末か1996年夏頃、花盛牧師にペンクラブでの悩みを相談したことがあった。
すると私の苦悶する訴えを聴くために、同じくペンクラブの重鎮、山崎宗太郎氏と共に京橋駅前のホテルまで出向いて下さるというので、高津高校のPTA役員会を中座して駆けつけたのだった。

※ 2月16日15時20分追記: 
 記録ノートからようやく探し出した。
  お2人にお目にかかったのは、問題が起きて1年後の1996年9月6日だった。ホテルケイハン7階の喫茶室で1時間懇談して頂いたことが記録されていた。

 この翌月末には母が亡くなるという切迫した日々だったにも関わらず、当時の私は求道中ごとき精神的状況で、この懸案問題をどう越えていけばいいのか、尊敬できる信仰者の考えを知りたい一心だった。 

その前年の1995年11月17日夜には横山麗子先生からお電話を頂いていた。東京から40分間もかけてきて下さったのである。
 
キリストのように、私の心を、魂を大切に関わって下さった信仰者たちに感謝の涙が溢れる。山崎宗太郎氏も天国に帰還された。賀川豊彦のように、キリストの香りを放つ方々である。

この時、2人の師が語って下さったお言葉で苦悩していた魂は完全に鎮まり、その時の導きは生涯の指針になっている。
発言すべきは発言し、それでも改善されないならば黙して神に委ねよ。神の時を待てと、具体的経験として神の教えを頂いたのである。


お2人は共にペンクラブとイエス友会の役員であられたことから、花盛牧師の紹介でイエス友会に入会し会員登録していたことがある。1996年9月12日入会とメモが見つかったので、あの時にイエス友会を紹介されたのだろう。

しかし、このあともあまりの人生の不条理さに嘆き苦しみ、人生の疑問や苦闘を神に求めたり応答する気力も萎えてしまい、会報を読む程度になってしまった。

花盛牧師は奈良県北葛城郡広陵町馬見の教会で牧会されていたが、私が奈良に転居したのと入れ替わりに東京へ移られたようだ。

「いい作品は時が来れば日の目を見る。
文章技術も大切だが、内容こそ大切であり、読者の胸を打つものがあるかどうかだ。テーマの掘り下げが大切だ。
自分の全身全霊をかけた賀川の文章に、時が来れば必ず人々に読まれるという希望をもって励もう。」
と、久保田先生は書くことを奨励された。

今年は書くことに重点をおいていくことになった。
書くことにより自分の考え方を確かめられ、考えが深まる。次回までに「遺書」を書いてくるようにと課題が出された。

聖書から愛唱句を選び、あるいは、こうでありたいと思う言葉を選び、ひかれる理由を書く。自分が死んだあとに伝えたいことを書いておくことは大切である。字数は400字詰め3枚。

取り上げるテキストは、倉田百三の『出家とその弟子』。これは読書会でも読んだことがある。私の推薦だったように思うがはっきり覚えていない。

このあと総会に入り関西ブロックのスタンスが決議され、新年度の役割分担を決めた。私は今年度に引き続いて運営委員の一人として、書記と例会係りを担当させて頂くことになった。

新年度の例会日は第3土曜日に変更され、次回は4月18日・吹田で、6月は神戸文学館で予定している。

超一流の講師陣に恵まれていることの一例として、和泉書院がシリーズで地域ごとに発行している文学事典の、昨年末に出た『滋賀近代文学事典』に久保田先生のことが出ている。

執筆は遠藤周作研究の第一人者である笠井秋生氏が担当されている。今年も1月末の日本キリスト教文学会でお目にかかった。大田先生には兵庫と京都の執筆依頼があり、賀川豊彦のことを2000字で執筆されたそうだ。


日本を代表する活躍中の文学者から直接ご指導頂けるのは最高の環境である。
クリスチャンの方で書くことや、このような学びに関心のある方は大歓迎!右側にリンクしている「日本クリスチャンペンクラブ」(JCP)に連絡されたし。
関西ブロックのホームページもHa兄(きょうだい)により立ち上げる予定である。

posted by 優子 at 22:36| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月13日

我が魂に賀川豊彦の春一番が吹いた!

明日のクリスチャンペンクラブ例会で取り上げる『死線を越えて』は昨日に読み終えた。
最初は賀川豊彦のことを、変な人やなあ、よく泣く人やなあ、と何度も写真を見ながら読んでいたが、後半からは違っていった。笑ってなど居られなくなった。

直後の読後感は、私は自分のためにしか生きていないと思ったこと。そして、自分の心情を率直に書いているところに魅かれ倣いたいと思った。

情愛に溢れ、貧苦の人々にイエスの愛を実践した賀川。
筋肉労働者の苦悩を経験して賃金地獄を知り、自分の努力だけでは貧民窟はどうにもならぬことを知り、知性をも社会のために用いて真に生きた人であった。

不勉強な私は賀川のことを殆ど知らないが、批判されるべき問題点もあることは知っている。
しかし、人間に完全を求めての非難だけで終わるならば愚かであり、次代に生きる我々がより良きに継承していくことだ。
神から大きな使命を与えられ、それを生涯実践した賀川豊彦に深い感銘を受けた。

「死線を越えて」というタイトルは、命の危機を脱してというような意味ではなかった。
父の葬式で固く決心した時のこと、「彼はすべての『死』の線を越えて、因襲と姑息と伝統と迷妄と戦わねばならぬということを。」と書いていることから意味は明白である。

57章の「多くの死を飛び越えて、延びて行かねばならぬと思うと、生命が如何に不思議なものであるかを考えざるを得なかった。」というのも理解できる。


明日の学びが楽しみでならない。
休日の夫はゴルフシーズンに先立って、体をならすために一人でゴルフに出かけると言っていたが、雨模様なのでチャッピーと留守番することになった。

今日は午前中から春一番が吹くと予報していたので、朝の7時過ぎから掃除にかかったのに今も穏やかに曇ったままだ。
強風の時は埃が舞い上がり、掃除しているのか埃を飛ばしているのかわからない。しかも春一番となれば大変だからと8時半過ぎに掃除を終えたのだった。

東大阪に居た時は、毎年一回、桐の衣装箪笥や小袖箪笥にかけてある油単(ゆたん)の埃を掃っていたが、当地に来てから一度掃っただけだ。
家紋の入った濃い抹茶色の油単も今ではすっかり色あせ、朱色の房も2箇所ほど取れてしまって穴があき、布は紙のようにもろくなっている。

「年を取ったら紫色の油単に作り直すといい」と母が言っていたが、私はこのままで終わろうと思っている。そして、私の亡き後に、娘が箪笥を洗いに出して油単を新しくして使ってくれれば嬉しい。

賀川豊彦に会いたい。
涙が出て困る。
神がこの涙を生かして下さるように。

「恐れるな。
 私はあなたと共にいる。
 イザヤ書」

毎日見ているボロボロになった賀川豊彦肉筆の聖句だ。

2009年2月、賀川豊彦と知り合いになって我が魂に霊の春一番が吹いている。彼に会える日を楽しみに私も精一杯生きよう。

尚、過去ログ・2008年11月19日(JCP関係)にも賀川豊彦について書いている。

posted by 優子 at 13:18| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

島尾敏雄とミホの逢瀬譚

作家・島尾敏雄とミホの逢瀬について、鳩飼さんから訂正依頼のお手紙が届いた。
その根拠となる毎日新聞2月5日夕刊に大きく掲載された、「島尾敏雄と妻ミホが出会った島/特攻任務で死の影迫り未明のデート/険しい岩場越えて心通わせ」という記事も同封されていた。
実は我が家も毎日新聞を購読しているのに知らないとは、新聞に目を通していない愚かさを思った。

さて、過去ログ2008年8月11日の記事、
「月のさえわたる夜、毎夜向こうの島から命がけで泳いでくる娘、浜で待ってそれを見ている青年将校、娘は浜へ泳ぎつくとすっと立ちました。月の光で娘の裸体はきらきら輝いて見えました。夜光虫が娘の身体にびっしりくっついていたのです。」という下りである。

これは島尾敏雄がいた同人誌『VIKING』(バイキング)で、鳩飼さんが富士正晴さん(作家)から聞かれたことを話して下さったものである。
昼に見えるコバルトブルーの海の色、その蛍光色の夜光虫をイメージさせた。

しかし、今回の新聞記事により、あのように美しくロマンティックなイメージは「富士さん流のアレンジ」だったことがわかった。同封された新聞記事を読んで、なるほどと、改めて創作術を教えられたように思った。

2人が出会った鹿児島県奄美大島本島の南の対岸に位置する加計呂麻(かけろま)島は、
「ミホさんの村から島尾の基地まで直線距離で約2〜3キロ。ほぼ中間地点に当たる浜辺で落ち合っていた」そうだ。

しかし、「そこまでの道は満潮になればほぼ水没するような岩場が続く」ようなところで、女性記者は何度も転げ落ちそうになるような険しい場所だった。

「ミホさんは、時には腰まで海水につかりながら裸足で歩いた」そうだから、鳩飼さんが富士さんからお聞きになった2人の逢瀬シーンは作家の創作であった。

新聞記事に地元の瀬戸内町立図書館・郷土館の澤佳男館長の話が紹介されている。澤さんはミホさんに逢瀬の浜では何をしていたのか聞いたそうだ。
すると、「何も。手も握らず、1メートルぐらい離れて並んで、ただ黙って座ってずうっと朝まで海を見てたの」と語ったという。

島尾は心を病んだ妻のために妻の故郷に帰り、そこで多くの小説を書き上げた。
澤さんが貴重なエピソードを語っておられる。
「高校時代に一度だけ夫婦を見たことがあります。(小さな八百屋さんの)店内で野菜を選ぶミホさんを、島尾さんが見守っていました。
後にミホさんは言ってました。あの時期が人生の中で一番幸せだった、と。」


鼻がキューンと痛くなり涙が潤んだ。

2007年、87歳でミホも亡くなり、生前「私が死んだら、ここに島尾と埋葬してほしい」と望んでいた場所に、長女と共に島尾夫婦三人の墓が建てられている。
澤さんたちの尽力によるものである。




posted by 優子 at 09:15| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

聖書と生命倫理B ―聖書の人間観―

国連の専門機関である「世界保健機関(World Health Organization)」は、健康を人間の基本的人権の一つと捉え、その目的達成のために1948年に設立された。

世界保健機関(略して" WHO ")の「健康定義」は、「健康とは病気や障害がないだけではなく、完全な身体的、精神的、社会的に幸福な状態である。」と唱えている。

これに対して、ドイツの神学者ユルゲン・モルトニンは待ったをかけた。
この定義からいけば、「病人や障害者や老人を追い出してしまう社会を作ることになり、死や悲しみや痛みを共有しない社会は、決して人間的であるとは言えない」と異議を唱えている。


聖書によれば、人間は「神のかたち」(ラテン語で”imago dei”イマゴ・デイ)として造られ、生命そのものが神との関係で捉えられている。 その根拠は創世記第1章27〜28節にある。

27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

これがキリスト教の人間観であるから、殺人や自殺は神を殺すことにも等しい行為なのである。
例えば、人間は(特に第2次世界大戦までは)戦場という極限状態にあっては、敵を殺すことを奨励されるなど状況によって変わるものである。しかし、聖書の倫理は絶対的なものであり、このような状況倫理とは異なる。

また、人間は神と共に在って、神の愛によって自分の未来、そして、人類の未来を切り開いていく存在であるから、高度な医療技術自体は素晴しいものだ。その英知もまた人間を創造された神が備えて下さったものである。

現代の医療技術は、人間が「神を演じる(Playing God)」と言われるほど高度に発展した。
近年しばしばテレビで紹介される「神の手を持つ医師」と呼ばれる手術技術の優れた医師たちがいる。その多くは人間的にも素晴しく、私は神と人間との素晴しきわざであると深い感銘を覚える。

そして、脳死や安楽死の問題、また、照川さんのように思考力と感性が残されているミゼラブルな方々の末期医療の問題については、次のように考えている。

生と死は神の支配であり、人間が操作できるものではないことを大前提に、尚且つ、現代のような高度医療時代にあっては、単に法律的な対処ではなく患者本人と家族の考え方を大切にされなければならないだろう。

ゆえに先の関連記事で述べたように、照川さんの場合は呼吸器を外してあげてもよいのではないかと思っている。
ただ、照川さんが仰っている「栄光ある撤退」という言葉の真意はわからないものの、日本人の死生観に死を美化しようとする傾向があるので少々懸念を感じる。

今世紀ほどキリスト者のチャレンジが求められる時代はないのではないだろうか。
聖書の光に照らした人間観の立場で生命倫理を考え発言していくことも、福音を伝えていくことに繋がっていくことである。


posted by 優子 at 13:48| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

知子の内に豊かに働かれる神

8日は知子たちも教会で礼拝に与り、神の家族の愛の中で憩っていた。
1月17日の谷口家の家庭集会で、皆さんの前で知子が祈りへと導かれて(神さまが)祈らせて下さり、その祈りを通して知子の窮状をお知りになった方が尋ねて下さったとメールしてきてくれた。

「知子ちゃん、どう?」と声をかけてくださり、手を握っていろんなお話を長時間した。Sさんの奥さんも本当に辛いところを通って来られて、素晴しく変えられていったんだと思った。

私は育児奔走で時間を作れなかった、じゃなく作らなかったのだと気付いた。おんぶしながら祈るようにしたと話したら、Sさんは・・・(あの大変な時に)歩く時間に祈れると気付かれたって。

「知ちゃん事故によって気付けてよかったやんか」と涙目で、本当に家族みたいに皆さんが祈って下さってるんだなと感謝。「3月14日、楽しみにしているよ」と谷口先生。
祈ります。ママと剛臣の激痛が癒されますように。

と、書いてあった。
嬉しかったのと同時に、婿に心配事が起きていた。
突然土曜の朝から左足の痛みを訴え、昨夜(9日)夜は階段を上がれないほど足を引きずって帰って来たらしく、今夜は19時に間に合うように駅まで迎えに行って整形外科に行くと書いてあった。

今もまだ連絡はないが、「神を信じる者にはどんな時も神ご自身が知子と共にいて下さっているからね!お祈りしてるよ!」とメールしたのだった。
ユキを連れて慣れない代車の運転・・・と心配しかけたが、神に祈れるということがかくも心強いことか!!!

そして連絡を待ちながらこれを書いていたら、22時15分にメールが着信した。子供が寝かけているのでとメールで嬉しい報告が届いた!

帰宅したのは8時半になったそうだが、「レントゲン異常無し、物理的刺激か黴菌によりなりうる滑液包炎という症状らしい。痛風でもなく骨の先天性奇形でも大事なくて…腫れてるから消炎剤等もらったけど奇跡は、昼がピークで歩けなかったらしいのに夕方に急に痛み消失、違和感のみ。」今では完全に無痛になったそうだ。

そして、先のメールの最後にはこのように書いてあった。
私、事故してよかった。等級は下がり保険料も上がるし、泉大津以来6年、来年の免許更新にはやっと事故なしでペナルティなしになって行けると思ってたのが、また違反者長時間講習になるやるやろうけれど、代償より得たものは大きい!
少しずつ体重も増えてきたよ。・・・
私達はより一層救い出された奇跡を感じるね。

娘はファイザー製薬のMRをしていた時、廃車になる大事故を起こしている。会社から新車を与えられて営業に出ていた時、一年間だけ大阪府泉大津市で一人住まいをしていたことがある。

どの仕事も若者は過酷な働きを要求される時代である。
外資系の会社なので給料は高かったが、帰宅は夜10〜11時頃になり、朝は6時過ぎに家を出て7時頃からの打ち合わせで一日が始まる過酷な日々だった。

ある日の早朝6時半頃、私は夫を見送ってホッとした時に電話が入った。今、事故を起こしたと。幸い無傷だと聞いて安堵したが、廃車になる大事故で軽い打撲だけですんだのは奇跡としか言いようがない。

横転大破した車から知子が這い出して来た時、周囲に集まっていた人々がどよめき拍手されたそうだ。新車を1年で破壊してしまい会社にも多大な損害をかけた。

そして、今回の事故を通して祈る者とされ、より深い意味を見出す者として下さったのである。
40キロ弱だった体重が少しでも増えてきたとは嬉しいこと!
知子は少なくとも8キロアップ、私は少なくとも5キロダウンをめざそう。(^−^)
箴言3章21〜24節

わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、
それをあなたの目から離してはならない。
それはあなたの魂の命となり
あなたの首の飾りとなる。
こうして、あなたは安らかに自分の道を行き、
あなたの足はつまずくことがない。
あなたは座しているとき、恐れることはなく、
伏すとき、あなたの眠りはここちよい。

知子、香芝ゴスペルチャーチの徳山兄も「知子さんによろしく!」と、お声をかけて下さっていたよ!

知子のためにお祈り下さっている方々に心から感謝しています。私のこともお祈り下さり感謝します。祈られている心強さを感じます。
ギックリではないギックリ腰以来、腰痛と(左)股関節の痛みが強いままで、横になれば腰は楽になりますが、日曜日の夜は横になっても1時間ぐらい股関節が疼くので眠れませんでした。

昨日今日は2〜3時間横になって(時に居眠りも)、土曜日に迫っているクリスチャンペンクラブで取り上げる、賀川豊彦の『死線を越えて』を読んでいます。
大正時代に空前の大ベストセラーになった本なのに、2日間で200ページふらふら、あと250ページ。ようやく面白くなってきたのでスピードアップに期待します。


posted by 優子 at 23:20| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

神田牧師も執筆依頼を受けておられた!

インターネット上に公開されている神田牧師のアドレスは今使われていないために、直接教会へお電話することにした。
さすが、既に執筆のご依頼を受けておられた!

確かに依頼書には、「戦国時代河内キリシタンの世界」(神田宏大・河内キリシタンサンガ会)とお名前が挙がっていた。小論ではなく、原稿用紙20枚の論考である。

サークルセンターのK氏からも同様の返信が届き、再度牧師に電話した。K氏は牧師説と見解の相違があるようだが、こういうことは私が今まで見聞きしてきた郷土史家たちの熱い姿であり、私もまた研鑽への情熱が掻き立てられる。

私としては昨日牧師が話されていた、キリシタン研究会の最高峰である上智大学からも招かれて講演されたほどであるから、学問的にも裏づけがとれていると考えている。自分でも文献にあたってみたいと関心が拡がる。

「河内キリシタンと呼ばれる信仰の先輩たちが私たちと同じ地域で、イエス様と出会い、イエス様を伝え、良きあかしをされた記録を調べながら、私自身が恵まれました。」

神田牧師は夫と同じ昭和20年生まれ。神学博士。
現在は関西聖書学院で「伝道実践・キリシタン史」を教え、毎月、朝日放送ラジオでは日本のキリスト教会史のエピソードを語っておられるそうだ。
すごく親しみを感じる方で、直ぐに何十年来の親しい友のような気持ちになって話していた。

このたびのことに神の御手を感じないではいられない。
私が書く気になるまで寄り添って下さったK氏のこと、そして、神田牧師との不思議な出会いも全て神のプロビデンスだ!
話していて牧師の伝道スタンスにとても共感した。
師のご健筆を祈り、私も祈りつつ一気に書きあげたい。


posted by 優子 at 18:37| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月08日

野崎観音はキリシタンの寺だった!

いよいよ今日から放出教会(東大阪)へ通い始めようと思っていたが、やはり遠すぎる。どちらの教会へ導かれるかわからないが、いつか神さまから明確なお答えが頂けるのを信じて香芝ゴスペルチャーチへ向かった。

今朝は富田林市にある南大阪福音教会からインターネット同時中継を通して、野崎キリスト教会(大阪府大東市)・神田宏大(ひろお)牧師の説教をお聴きした。

「戦国時代とキリスト教」と題する、野崎観音がキリシタンの寺であったというお話は実に驚きであった。
「今まで文献上の研究は深く成されていたけれど、文献に載っていない文字化されていないところでキリシタンの姿を残してくれていた」と、そのことを発見されたのが神田牧師その人であった。

『パンドラの匣』のモデルになったのが孔舎衙(くさか)健康道場であったことを発見された浅田先生と同じく、特に今の私には胸躍るものであった。

言うまでもなく私も執筆させて頂く河内の歴史や文化、伝統を紹介する書物に神田牧師にも書いて頂きたいし、サークルセンターの役員方にお願いして牧師にも書かせて頂きたいと思ったからだ。また、商大の文化講演会の講師にご紹介したいと心が踊って、直ぐにでも飛び出して行きたい気持ちで聴いていた。

「河内キリシタン」のこと今月も目にしたのに、どこで読んだのか思い出せない。まずは「野崎観音」に関連した2007年5月16日の記事をもう一度!

昨日の席でお聞きしたのは、「野崎参りは 屋形船でまいろ」で全国的に知られている野崎のことだった。この歌はたしか、直立不動で歌っておられた、まん丸めがねの東海林太郎さんの持ち歌ではなかったかと思う。
私の親の世代で流行した歌だが、50代以上の人ならば耳に残っておられるだろう。題名は「野崎小唄」と言うらしい。

野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人

野崎参りは 屋形船でまいろ
お染久松 切ない恋に
残る紅梅 久作屋敷
今も降らすか 春の雨


何かすごく懐かしくて、何が懐かしいのかと言えば、この歌を耳にしていた娘時代であり、懐かしいのは両親のことだった。

ところで、その方たちは野崎の菜の花漬けと共に市のアピールをしようと熱く語っておられた。その方々から、『あしたづ』に掲載して頂いている私の作品について、「いい文章を書いてはる」と褒めて頂いてすごく嬉しかった。きっと内容に共感して下さっているからだと受け止めた。
お酒がそう言わせたのだろうか(笑)。


さて、何しろ歴史もまた真っ暗な者が聞き書きしたものであるから、理解できない部分は記述できない。漢字はわからないし聞き間違いもあろうと思うが次のような概要だった。

2007年、大東市50周年の広報誌第一面に、「野崎観音の釣鐘の中にある十字架」と載っていたという話から始まった。

最初は鐘の傷かと思っていたが、曹洞宗のりゅうび(?)寺の鐘の中にも同じ十字架が掘られてあり、同じ人物が作ったものである。
この寺の鐘は、誰がいつ撞(つ)いてもかまわないようになっている。十字架を刻んだことを知っている人は、あそこから打たれる鐘の音を聞きながら、慰め励まされていたのであろう。

河内がキリシタンの聖地だったことは、キリシタン研究の第一人者である東大のゴノイ先生も太鼓判を押している。

この河内キリシタンも元はザビエルから始まった。
山口で一人の人物が救われて、この人だけで7000人を導いたと言われている。名前をロレンソ了斉と言い、殆ど目が見えず、奇異に感じるような醜い風貌だったという。しかし、この人の話を聴いて73人もの人が洗礼を受けた。
その中には四条畷の城主、八尾の城主、また、河内長野など城持ちの武将たちが多く入っていた。

河内は堺と京都の中継地であり、高野街道から堺までがキリスト教の広がる地域になった。そして、一人の異教徒もいなくなったと言われるほど一気にキリシタンの聖地になった。

河内から堺までの6000〜7000人のキリシタン集団が築かれていき、河内にリバイバルが起こったのであった。
しかも、九州よりも河内地域の方がヨーロッパと直結しており、正統な信仰を継承していたというから驚きである。


1600年当時の日本の人口は1500万人で、その時のキリシタン人口は75万人が通説になっているという。すごいものだ。しかも、キリシタン大名と言われる力のある人たちが多くいたのである。

大阪城本丸には女性しか入れず、そのなかの事務方の仕事をする人は全てキリシタンだった。
キリシタンは裏切らない、卑怯なことはしないということから、秀吉は側近にキリシタンを置いていた。それなのに、九州を平定した最後にキリスト教を弾圧した。

野崎観音は大阪夏の陣が終わった1616年に建てられた。
野崎観音の最も大切な青巌(せいがん)和尚は、フロイスの記録にも載っている人物であるのに氏素性だけではなく没年もわからない。それさえ伝えられなかったほどに徹底した弾圧のすごさであり、それこそが恐ろしい。

禅宗の坊さんがたくさんキリシタンに変わったことについては、禅宗の教えが「悟りの道」であることから、悟った道を進むのだという禅の道だからではないだろうか。

毎年5月1日から8日(2007年までは10日)まで催される水上パレードは、時期的にも復活祭パレードだったのではないか。
野崎参りは無縁仏の弔いである。即ち、矢田山で処刑された人々を弔うのである。
観音に向かって手を合わせる辺りが「ハライソ」(天国)であり、地名もそれに似ていた。その背後の地名は「地獄谷」となっているから間違いがない。

聖書は、ルカ伝9章23〜25節から短く説教された。
23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。

ザビエルは、はるばる一銭の得にもならないのに、どうして遠くからやってきたのかと日本人は聞いたそうだ。
物を持つことによって成功したとレッテルを貼られる人の世であるが、人間の一番大切なものは何かということである。
私たちは人の為に何かできる、できないではない。
良いことではなく、良いかた、良い方と共に居りたい。良い方と共に歩みたいものである。

ザビエルは先進国の精神的な科学的な知識で対決型の伝道をした。それに対して、当時の日本人はとても太刀打ちできなくて口で負けた。そのような時、人はどうするのか。口で勝てなかった人々は彼らを迫害したのである。

踏み絵自体は偶像だから踏んでもかまわないが、踏むことによってキリストを拒絶したことに繋がるならば踏まない。
しかし、「命あっての物種(ものだね)」と言うように、死んだら何もならないじゃないかと考える日本人には彼らの気持ちがわからなかった。

殉教者たちは讃美歌を歌って死んでいった。
彼らは殺す人たちを祝福して死んでいったのである。それは死が終わりではないことを知っていたからだ。

神田宏大著
『河内キリシタン人物伝』(いのちのことば社)
『野崎観音の謎』(文芸社):

近松の浄瑠璃や東海林太郎の小唄で有名な野崎観音は隠れキリシタンの寺だった!?屋形船でまいる野崎まいりは、隠れキリシタンの復活祭(イースター)の水上パレードだった―。

礼拝後、3人の姉(しまい)たちと私たち夫婦5人で大和高田の店でランチタイムを過ごし、買い忘れの買い物をして4時過ぎに帰宅した。
交わりは大切だがこれでは何もできなくなってしまう。仕事が山積みになっているのに、すっかり疲れて車を降りた。と同時に、自治会の会長と次期会長が乗っておられた自動車が家の前で止まった。

「?・・・何だろう」
私に次期副会長にと訪ねて来られたのだった。
あまりに意外だったので驚きながら、困ったなぁという思いで事情をお伝えしたが、承諾してもらえず保留になった。私にすれば、もうすぐ班長が終わるとホッとしかけていたところだ。

しかし、地域のことで奉仕されている方々には常々ありがたく感謝しており、副会長は3名で任期は1年間だ。こんなことさえ拒むようでは証しにもならず、神さまから社会的責任が問われるだろう。
話が進むようならば民生委員をお受けした時の経験を活かさねばならない。祈って考えたいと思う。

一息ついて、早速、『河内の郷土文化サークルセンター』会長さんに電話して、「河内のキリシタン」のことを話す。原稿執筆依頼について詳しいK氏に明日一番に連絡をとりたい。

posted by 優子 at 23:55| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

聖書と生命倫理A ―死生観と身体観―

1960年代から生命科学にエネルギーが注がれて医療技術が高度に発展した。人工呼吸器(レスピレーター)の開発により脳死状態が起こりうるようになり生命倫理が問われるようになったのである。

それまでの呼吸停止、心臓停止、瞳孔散大であった死の概念を揺るがせ、日本でも1974年に日本脳派学会が脳死の判定基準を挙げている。

生命倫理の問題が叫ばれるようになって4半世紀以上が過ぎ、知識の拡大についていけなかった人間が少しずつ成熟の段階に入ってきたような感じもするが、今も延命にのみ焦点を当てた生命維持が施されている状況だ。

本来、生命の誕生と死は神の領域であるにも関わらず、現代はそれらの概念が大きく揺さぶられ生命に関する神の支配権を奪っている。

生命倫理の問題は大きく分けて、脳死と臓器移植の問題、延命と尊厳死の問題、人工妊娠中絶と体外受精の問題に分類される。

私は生命倫理については深い関心があり、かつて続けていた勉強会『二時の会』においても発題して議論したことがあった。好評だったのでシリーズで続けて欲しいと言われ、今後は聖書の視点から考えたいと応えたものの単発で終わっている。

その時のレジメに書かれている1998年10月24日と言えば、母が亡くなってちょうど2年後で、今度は父が病床に就いて1年半が過ぎた頃だったので精神的にきつかったのだろうと思う。

あれから10年余りの時を経て、私自身も年齢を重ねてますます死に近づいたわけであるから、現実の自分自身の問題として考える機会を与えられたことは幸いだ。

まず初めに、生命倫理の問題を考える時、どうしても死生観と人間観が大きな問題になってくる。欧米の考え方と日本とでは違うが、最終的には個人の問題に集約される。

欧米の死生観の根本思想になっている心身二元論は、キリスト教の考えが根本にあると理解されているようだがこれは全くの誤りである。特に医学においてはデカルトの考え方に立って発展してきたのである。

我々が思っている欧米の死生観は中世・近世の哲学の人間観であり、肉体を監獄と考え、死によって霊魂が解放されるというプラトンの心身二元論が根底にある。

しかし、聖書の身体観はそれとは全く異にするものである。
身体は神によって創造されたものであり精神や魂と共に大切な役割があると考え、従って身体を機械のように扱って割り切れるものではない。


今では医学があまりに専門分科し各臓器の専門家時代になってしまって、これでは身体が各部品からなる機械のようだ。
今こそ、その専門性を活かしながら、人間全体を全人格的に診る統合医学の方向へ向かわねばならない。

深遠な問題だけに自分なりの結論に至るまでにも考えたいことが多くあるが、照川さん(2月5日の記事参照)の訴えに対する自分なりの答えは出ている。私は呼吸器を外してもよいと思っている。

この結論は直観的なものであると思っているが、直感的なものでしかないのかもしれない。それゆえに、これを機会に現代に生きる人間に課せられた生命倫理の問題を考え続けていきたい。

「母は安らかに死んでいっただろうか・・・最終段階に対しての医療はあれでよかったと思う。」
母が亡くなった半年後の読書ノートに書いてあった。

" How to die is how to live. "
まさに「どのように死ぬかはどのように生きるか」の問題である。私は私の死を死んでいきたい。
それゆえに最期はどうしてほしいのかを書き残し、夫と娘たちにも伝えておきたいと思う。

あの過酷な年月を生きてきた照川さんが、意思疎通できなくなったら呼吸器を外してほしいと言われるのである。法律は尊重されなくてはならないが、法律が照川さんの死を取りあげてはいけないと思う。

その時がきたら、照川さんに照川さんの死を戻してやればいい。戻してやらねばいけないと思う。それは神の御意思に反することではないと思う。

posted by 優子 at 11:13| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2009年02月06日

苦悩の日々を勝利させて下さった神

母が負った脊髄小脳変性症もまたALSと同じ神経難病で「この世の地獄」だった。
主治医と人工呼吸器をつけるかどうかじっくり話し合ったことがあり、その時の医師の言葉を引用したくて父が書き残している日時から、記録ノートや病室に置いていた介護ノートを捜したが見つからなかった。あのような大切なことを書かないはずがないから不思議でならないのだが。

『母のこと』と題した記録ノートを開くと今もたまらない悲しみに覆われる。病気のことだけではなく、その背後の出来事もまた地獄であったから、今日は朝から何度も泣いてしまった。
気を取り直してアイロンかけや掃除を終え、体を休めながら読書してから再度ノートを開いた。

病気自体が最悪なのに、それ以上に妹のことでは父も私も苦しみ抜いていた。
私たちは形だけの夫婦と化し、家庭に安らぎはなくなっていた。夫は父親としても悲しい状態で、娘たちの心をより深く傷つけた。・・・こんな年月をよく越えて来たものだ。

しかし、みんな精一杯だった。
娘たちは私たちの弱さを理解できる年齢になった。いや年齢だけの問題でもないだろう。
私たちは神にすがりながら精一杯にやったからこそ再び心を一つにされたのである。全てを乗り越えさせて下さり、家庭を修復し、再び家族を一つにして下さったのは神が守り支え抜いて下さったからだ。今から僅か4〜5年前のことだ。


孫との連日の疲れに加えて精神的に疲れてしまったので、今日は2008年11月14日の記事の一部を転載し、母の時に考えた延命問題を再度考えるのは次回にしたい。
昨日の記事を読み直しながら、医師から母に気管切開するように迫られた時のことを思い出している。神経難病はあまりにも過酷だった。この病の死因の主なものは窒息死だと早い時期に説明も受けていた。
母が亡くなる半年前にはますます息苦しくなり、呼吸するたびに声が漏れてベッドが揺れていた。

入院10ヶ月後の1996年4月初め、「気管切開すれば5〜6年はもちます」と切開を薦められた。私は「もちます」という表現にさえ憤りを感じるような精神的状況だった。

「気管切開すれば窒息することもなくなり、自宅介護もできる」
と説明を受けた。そのことを父に伝え電話で話し合ったのを覚えている。
母の病室に置いていたノートには父がこのようなことを書き残している。1996年4月3日朝の記述である。
 <重要案件>

気管切開と自宅療養の延命
申し分のない話ですが(医師側の思考と吾々の将来への思考との差異)、これからの5年先き延命が長くなる程 お父さんの命がなくなることもある。(※実際に、父はこれを書いて4年4ヵ月後に75歳で亡くなった)

2人の老人の世話 また 2人老人の入院(経済的にもある)(※母の入院中は毎日1万円あまりの出費だった)
、司(私の兄)も仕事と(Tが大学卒業には司も55歳位であり)これからの年月で予想以上に体力の低下が想像出来得る。

これは優子も同意義であるし、藤本のご両親の事もある。
其の後の孫達にまでも 高令化の時代への移行に 現在 お父さんや、司、優子達の現在の生活苦闘状況が、子から孫へと繰り返されることは避けていかねばならない。

将来的指向として 熟慮して考えるべきと思います。
これを読んで、私は父の悲痛なる憤りを感じ取り、私も全く同意見であることと、医師にも伝えてあることをもう一度書いて父に伝えた。

主治医は心ある方だったが、月1回だったか部下を複数連れての部長診では、部長と呼ばれる医師が「切開すれば楽になるのにねえ」とつぶやきながら部屋を出て行かれたことがあった。

この人は、患者のことを一度でも考えたことがあるのだろうか。全く他人事で、自分がそうなった時もそうするのだろうか?!

大脳が機能しているのに一切の意思伝達法がない者に、気管切開することが「必要の医学」なのであろうか?!彼にとっては「欲望の医学」でもなく、「傍観者の医学」「オモチャの医学」でしかない。

ただ長らえさせることを母は喜ぶだろうか?!
人為的に死を引き伸ばしてはいけないのだ。母の延命は良いことだとは思わなかった。


母のような場合の気管切開は人工呼吸器を挿管するのと同様で、切開したはいいが、あまりにかわいそうだから塞いでほしいと求めても法律上許されないことなのだ。悲痛な思いで父と共に決断したのだった。
posted by 優子 at 18:24| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2009年02月05日

聖書と生命倫理@ ―延命医療について@―

「筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)」、通称「ALS」”amyotrophic lateral sclerosis ”は過酷な神経難病で罹患率は10万人に2人。

ウィキペディアによれば、「重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患で、運動ニューロン病の一種。きわめて進行が速く、半数ほどが発症後3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。有効な治療法は確立されていない。
日本国内では1974年に特定疾患に認定された指定難病である。」


有名な患者ルー・ゲーリッグから、ルー・ゲーリッグ病(Lou Gehrig's disease) とも呼ばれる。次女も読んだことがある『モリー先生との火曜日』のモリー・シュワルツもそうだった。

今週月曜日の『クローズアップ現代』(NHK)をご覧になった方も多いであろう。私は孫がいたので十分に見ることはできなかったが、生命倫理の問題を自分の問題として考えずには居られず今一度取り上げたい。

以下は番組の内容である。考え方に違和感を感じた部分については短く記したのみで、まずは内容をご紹介したい。

妻と訪問ヘルパーにより24時間の介護を受けておられる照川さんは、人工呼吸器をつけておられ、今や目と右の頬だけが微かに動くのみだ。その微かな動きを読み取るセンサーでパソコンを通して意思を伝えておられる。

これまでにも母のことで書いたことがあるが、日本では一度人工呼吸器を着けると外すことはできない。
照川さんは2年前に「意思疎通ができなくなったら呼吸器をはずしてほしい」と、要望書を病院に提出された。

この要望書を書くまでに20年近くに及ぶ心の葛藤があったという。
警察官だった照川さんは49歳で発病し3年後に呼吸器をつけた。病気になっても前向きな生き方は変わらず、当初は呼吸器を外すという考えはなかった。

しかし、病気の進行が考えを少しずつ変えていったという。
歩けない、食べられない・・・何もかもできなくなって絶望に打ちのめされた。病気は容赦なく、これでもか、これでもかと残存機能を失わせていった


僅かに動いていた口の動きも止まりパソコン操作ができなくなった。まぶたも筋肉だからいつかは動かなくなる。まぶたと頬が動かなくなれば、どうしたら恐怖から逃れられるのか。

「その時は呼吸器を外して自然の経過に任せて下さい。精神的死にひってきするから栄光ある撤退を希望する。」と、1年かけて9ページの要望書を書かれた。

家族は要望書を戸惑いながらも話し合いを続け、本人の恐怖心を取り除いてやるためには要望書を認めてやることだという考えに辿り着いたのだった。
照川さんは、「意思の疎通ができる間は精一杯生きる」と文字を打たれた。

評論家の柳田邦男さんは、「海底何万メートルの深海に落とされて、ただひたすら生きていくようなもので、そのことを我々健常者がいくら想像してもおいつけないことだ。込み上げてくる感情的理解はほど遠いと思う。と語っておられた。(母の地獄と自分の愛のなさを思い出して息が詰まった。)

患者の権利をどこまで認めるのか。
病者は家族に負担がかかる苦しみも抱えており、そのことから呼吸器を外すことが患者の本意ではないことにならないかと倫理委員会は懸念している。容認すれば呼吸器をつけていることが罪悪になってしまう

「意思の疎通ができなくなった時は、呼吸器を外して自然の経過に任せて下さい。精神的死にひってきするから栄光ある撤退を希望する。」
この言葉には20年間の重みがある。(それでもやはり「栄光ある撤退」という言葉にひっかかる)

人間は生物学的な命だけではなく精神的命もあり、精神的命の重要性は個別性を認めることが大切である。(「精神的命の重要性は個別性を認めること」についてもじっくり考えてみたい点だ)

現代医学のジレンマ。
死の選択を容認していいかどうかの活発な議論がされている。
本人が介護される気兼ねをしなくてもいいように社会支援システムを作ることが大切だ。

以上が番組の概要だ。



posted by 優子 at 11:52| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2009年02月04日

太宰治論・文学会ノートより(後編)

福井県立大学教授・木村小夜氏の「関係の物語としての聖書受容―山岸外史『人間キリスト』から『駈込み訴へ』―」は、「一人称で話しているユダは自分をどんどん見失っていき、愛をこのように表現せざるを得なかった言葉の問題に最後は辿り着いてみたい」と前置きされて、エネルギッシュに時間内に語り終えられた。教授とはいえ、まだ40歳前後(?)の女性だった。

話の流れを追いながら記録するには多くの時間がかかるので、私が特に関心を示した事柄をキーワード程度に箇条書きしておきたい。

★ 悲劇の哲学・シエストフ論

★ 「ユダは努力すればするほど耶蘇からその才能を黙殺された。ユダは、いつか、耶蘇に対して怨恨に満ちた気持ちをもつようになったことさへある。冷酷だと考えた。」(山岸外史)

この発想は面白い。現実に容易にありうることである。

★ ユダは「最後まで、耶蘇に求愛しながら、容れられなかつた自分の性(さが)の拙さを情けないものと考えてゐた。」(山岸)

★ 「対等であること・人間の寂しさをわかってほしい愛は、それが『わかってもらえぬ』ことによって、劣等感と優越感との錯綜する憎に転ずる。」(森厚子)

★ 「分裂した自己を同一化したかった。お金を得る事で、自分でも目的が分からぬままなされてしまった裏切りを、『お金目当て』だったと自分の中ですり替えて納得することができる。」(小林幹也)

★ 「あの人(耶蘇)と対等になる・なれるという願望を、さまざまな曲折を経て、追いつめられるかたちで『裏切りという禁断の手段』によって一応は実現することになった身の破滅の物語、というふうに読むことはできないだろうか。」(陸根和)

★ 「語り、回想すること(殊に告白)は、一方的に収斂しないものを収束させようとする志向(そうでなければ、語り終えられぬ)。
同時に、この語りは一つの決定的行動=対等な関係(願望)の成就。」

★ 「特徴的なのは、イエスの言葉に対する徹底した不信からその物語が成立していることだろう。・・・一体、他者の言葉を信じない他者の語りとはあり得るのだろうか。結局、それは自己の物語でしかなく、ここにイエスという他者を排除したユダの物語が展開されることになる筈だろう。
まさに『駈込み訴へ』はその宿命をたどるのであって、それはまた自意識が生産する物語の必然の結果と言えるのだ。」(服部康喜)


そして発題者の導き出された結論は、「言葉は他者に使われるもので他律的なものである。ユダにとっては愛、即ち、裏切りという矛盾が矛盾しなかった。
信仰というよりも関係の中に生きる言葉のあり方ではないか。ユダの追い詰められた語りから、そんなことを思わずにはいられなかった。」
というものであった。


私が大変興味深かったことは―
内面の自律性が脅かされたユダには、過去のことや現在のことを話すにも自律的な言葉が困難になっていることだ。
自分と周囲を冷静に見られなくなるという人間の自律性に危機が生じた時、人は対等性を主張するということ

「二転三転している中でも一貫しているところは、個としての意思決定と自己認識への確信を言葉で示し続けるのがユダの際立った特徴である。しかし、全く自律性はない。」

(他者との)「関係の呪縛」とは、私の人生の不可解な出来事の参考になった。
『如是我聞』から受ける太宰の印象も、関係の呪縛に捉われた姿と感じないでもない。


来年1月の関西支部冬季大会は芥川のキリシタン物を取り上げ、今夏7月25日(土)には、大阪薬科大学で遠藤周作をやるらしい。

posted by 優子 at 19:02| 文学 | 更新情報をチェックする

体重40キロ

長女は3時半頃に迎えに来て2時間ほど共に過ごすはずだったが、来る時に接触事故を起こして1時間も到着が遅れてしまった。10〜20キロの徐行中だったことが幸いして大事故にならずにすんだ。こちらが全面的に悪かったそうだ。誠実そうな人というので安心した。

幸い相手の方も怪我はなく、2〜3日後にムチウチ症が出てこなければ物損事故で終わる。追突した本人も考え事をしていたのか突然だったので心配が残る。
藤本の祖母を訪ねるのも10分ほどしかなく、5時半頃、知子は子供と共に帰って行った。

私は気合いを入れて健康管理をしているが、昨日の午後から頭痛と喉の痛みで孫にうつさないかと心配した。真剣に祈りつつ、腰痛も何とか守られて孫を元気なまま親元に還すことができた。

事故のあとのこともあったのだろうが、知子はひどく疲れた表情だった。しかも、今年になってからも体重は減る一方で、158センチの身長に40キロしかない。頬はこけて目がますます大きく見える。

知子は聖句の書かれた花の写真集を開き、読みながら涙で声を詰まらせた。自宅に居る時は聖書を開く体力さえないのだが、子供がいない時にその本を開いていたそうだ。

「神様は倒れた人を起こし、あまりの重荷に身をかがめている人の背筋を伸ばされます。」

「自分のしようとすることをみな、神様にゆだねなさい。
信頼する者を、神様は助けて下さいます。」

「神様、何もかも信じられなくなって動揺している時、
どうか私の気持ちを静め、新しい希望を与え、
快活さを取り戻させてください。」


そして、最後に「涙をまく人は、やがて喜びを刈り取ります。」を読み、聖書の箇所を控えて行った。詩篇126篇5・6節。

「涙をもって種をまく者は、
 喜びの声をもって刈り取る、
 種を携え、涙を流して出て行く者は、
 束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」

共に祈った。

見送る時の表情には主の平安に満たされ、疲れた顔にも笑顔が見え、主が守って下さっていることがわかった。
私は部屋に戻って祈り、主に委ねつつも娘が無事に着くまで落ち着かず、書きかけていた記事(次にアップした記事)を仕上げることにした。

6時28分、知子から無事着いたとの電話が入り、心からの「ありがとう」の言葉を何度も言ってくれていた。
私は「ユキとの時を楽しみにいつでも待っているからね!」と、もう一度伝え、電話を切って主への感謝に泣いてしまった。

「大丈夫! 求めよ、さらば与えられん」。
私は自分に言ってやった。
知子が愛おしく、幸せな喜びと悲しみに涙した。

真智子の帰国と出発日時を聞き、「短いんやね」と言いながらメモしていた知子。嬉しかった。その頃には少しでも元気になっていたらいいな・・・

posted by 優子 at 19:00| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

太宰治論・文学会ノートより(前編)

日本キリスト教文学会は、日本文学と英文学などの専門にこだわらずキリスト教と文学という接点で、あらゆる分野の人が集まって考える会である。
シンポジゥムも前述した詩人の研究発表に同じく、一人30分間の発表に20分間の質疑で進められた。

最初の発題者・仏教大学教授の三谷憲正氏の問題提起は今後の参考になるものだった。
いわゆる作家論ではなく、太宰治全集から立ち上がってくるキリスト教理解という趣旨で、「〈太宰治〉における『神』とは何か」と題して話された。

太宰に限らず、日本の近代が「ゴッド〈神)」をどう受け止めてきたのかを考えるために、「日本近代の『神』概念」から取り上げられたのである。
続いて「太宰作品における様々な『神』」として、ギリシャ神話の神、日本の神仏の神(前世と現世という捉え方などは仏教の輪廻転生の表われ)、聖書的文脈の神」などを各作品から提示された。

結論として三谷氏の問題提起は、太宰は浄土的受け皿をもってキリスト教を理解しようとしたのではないかというものであった。
これに関連して笠井氏は、「太宰とキリスト教ではなく、太宰と聖書と設定して考えるのが良い」と発言されたことも、私の太宰を見る微妙なズレを正されたようで頷いた。

発題者二番手は関西学院大学大学院研究員・洪(ホン)明嬉(ミョンヒ)さんが、「太宰治『如是我聞』論―『己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』を中心に―」のテーマで問題提起された。

まずその前に「如是我聞〈にょぜがもん)」というのは、浄土真宗の最初に唱えるお経で「かくのごとくわれきけり」と読み下す通り、「私はこのようにお釈迦様の説法を聞きました」という意味であり、太宰は「今から言うことは真実本当のことですよ」と銘打って痛烈な批判を書いたものである。

文学の本質への批判に爽快さを感じて笑って読んだところもあるが、あまりに感情的で喧嘩腰な書き方に、読後は哀れな独り相撲に感じた。
例えばこのような調子だ。以下は本分の引用である。
或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ、これは蓄膿症(ちくのうしょう)ではなかろうか、と本気に疑ったほどであった。大学教授といっても何もえらいわけではないけれども、こういうのが大学で文学を教えている犯罪の悪質に慄然(りつぜん)とした。

そいつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰(いわ)く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑(おか)しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。

太宰は偽善に敏感だ。
「文章の神様」と言われている志賀直哉のような、自分が手本になると思える人物が一番ゆるせなかったのである。
「暗夜行路」
大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。

何処がうまいのだろう。ただ自惚(うぬぼ)れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。

しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、・・・、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の曰く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が却(かえ)ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、襖(ふすま)のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。狸(たぬき)か狐のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。

いったい志賀直哉というひとの作品は、厳しいとか、何とか言われているようだが、それは嘘で、アマイ家庭生活、主人公の柄でもなく甘ったれた我儘、要するに、その容易で、楽しそうな生活が魅力になっているらしい。・・・何度でも繰返して言いたい。彼は、古くさく、乱暴な作家である。古くさい文学観をもって、彼は、一寸(いっすん)も身動きしようとしない。頑固。彼は、それを美徳だと思っているらしい。それは、狡猾(こうかつ)である。あわよくば、と思っているに過ぎない。いろいろ打算もあることだろう。それだから、嫌になるのだ。倒さなければならないと思うのだ。頑固とかいう親爺(おやじ)が、ひとりいると、その家族たちは、みな不幸の溜息(ためいき)をもらしているものだ。気取りを止めよ。私のことを「いやなポーズがあって、どうもいい点が見つからないね」とか言っていたが、それは、おまえの、もはや石膏(せっこう)のギブスみたいに固定している馬鹿なポーズのせいなのだ。

も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るように努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまっていろ。むやみに座談会なんかに出て、恥をさらすな。無学のくせに、カンだの何だの頼りにもクソにもならないものだけに、すがって、十年一日の如く、ひとの蔭口をきいて、笑って、いい気になっているようなやつらは、私のほうでも「閉口」である。勝つために、実に卑劣な手段を用いる。そうして、俗世に於て、「あれはいいひとだ、潔癖な立派なひとである」などと言われることに成功している。殆んど、悪人である

太宰にとって「隣人」とは、また、「隣人愛」をどういうふうに見ているのか。
隣人とは「自分には理解できない他人であり、その他人を愛することができたかどうかという自分の限界に気がついていたらしい。」
そして、「志賀直哉たちへの批判と反キリスト教的なものへの闘いが『隣人愛』に収斂されていく。」
「丁寧に作品論をやって『懼(おそ)れる』の意味を見ていかないといけないが、『神を愛する』を『神を懼れる』と思っていた」そうだ。

(資料)東郷克美曰く:
志賀は「太宰の死」を書き、太宰批判にも、その文学にも一言もふれず、太宰の自殺の原因を「肉体の不健康」に帰する、まことに志賀らしい反応をしている。この無神経ともいえる健康な「強さ」こそ太宰が命がけでプロテストしたものであった

「あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライド」と怒った太宰が、自分の死について語った志賀の言葉を読めば何と叫ぶのか。
もはや言葉にはならず、狂気するのか超越できるのか、それしかないであろう。
posted by 優子 at 14:40| 文学 | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

アン・セクストンの神の探求

1月31日(土)、関学での日本キリスト教文学会で「Anne Sexton(アメリカ詩人・1928〜1974)のThe Death Notebooks における神の探求 ―"Hurry up Please It's Time"を中心に―」の発表要旨には、「ピューリタン色の濃いボストン近郊で終生を過ごしながらも、Sextonはキリスト教信仰を素直に受け継ぐことはしなかった。」とあったので興味深く聴かせて頂いた。

Anne Sexton は、20世紀の精神的荒野に生きる人間、キリスト教から遠ざかった20世紀の絶望、焦り、ジレンマを表現したアメリカ詩人(1928〜74)である。まだ日本語の翻訳物は出ていないとのこと。

欧米の文学や詩を理解するには聖書の知識がなくてはならぬことがわかる。詩に関心のない私には、現代詩においてさえそうなんだと新鮮な驚きを覚えた。

詩の中には" cherub "(「保つ者、守る者、天使」を意味するケルビム。複数形cherubim、またはcherubs)、「造り主」、" Lazarous "(ラザロ)・・・など、聖書に出てくる言葉や人物、また、「造り主」など神の概念がわからないと読み進めない。

この詩には、アン、ミズ・ドッグ、語り手の3人のペルソナ(人格をもった存在・人物)が登場する。
ミズ・ドッグは荒廃した社会の復活として登場するが、彼女もまた死の訪れに向き合っていない人物である。”Ms.Dog”を逆さまに綴れば”God "(神)になる皮肉なネーミング。
アンが彼女に言う。

「ミズ・ドッグ、時間はもう残っていないのよ。
 ミズ・ドッグ、いつまであの冷たい鼻面を無視するの?
 造り主とちゃんと折り合いをつけなきゃ。
 だってその時が来ているんだから、その時が!」


死すべき運命に向き合えない者が贖罪を求めている。

十字架上でイエスが祈られた祈りの「彼ら」を「私たち」にして、
"Forgive us,Father,for we know not."(父よ。私たちをおゆるし下さい。私たちは何をしているのかわからずにいるのです。)と祈るが、作者はその祈りを誰に捧げているのだろうか。贖罪の希望が見つからない。

そして、最後には神への興味を示したアンに語り手が聞く。
" Why talk to God?"(なぜ神に話をするのか?)
アンは答える。
" It's better than playing bridge."(ブリッジをするよりマシだからです)と、「神との対話を選び取って再生の明るい兆しが見える」と発表者は解説された。
詳しい詩の流れを知らずには不毛の感想だが、私には明るい兆しにはとても感じられない。それどころか、もはや探求することも放棄したようにさえ感じる。


詩の最後では、救いから一番かけ離れた存在だったミズ・ドッグが現れて、不毛の世界には縁が切れたことを宣言する。
そして、明確な答えは生きている限りは与えられないが、死んでから与えられると「希望を持って詩を書き終えているが、どのような神に祈ったかは不明である」という解説者の最終節にも私の印象と矛盾するものではなかった。

即ち、このように神なき世界ながらも贖罪を求める一篇の詩を通して、「救済の可能性にまで辿りつく変容を描いた作品である」と発表者が結論づけられたことである。

しかし、「キリストの神ではなく、詩を書くことで神を見出すという文学の中に見出す神に安らぎを見つけているように思った」とのお説には頷ける。

どのような神に祈ったのか?!
人や動物、また、自然を神格化して祈るなどは論外としても、どのような神に祈るのかという信仰の対象は非常に重要だ。私は詩の解釈を聴きながら、思い当たる事例と人物が脳裡に浮かんでいた。

正統な教会で洗礼を受けた者が神に祈っているというが、いつしか救い主がキリストではなくなっている場合を目撃し、一体どんな神に祈っているのか疑問に感じた時があった。

聖書が示すイエス・キリストなのか?!
仮にイエスを知らない人でも、「本当にまことの神が居られるならば私を助けて下さい!」と祈り求める者に狂気に至る危うさがあるのだろうか?

例えばいつまでも自己中心的で愛に乏しくとも、そういう自己に悩みながらも祈りつつ生きる。いや、悩むからこそ主の慰めがわかるのであり、これが神の恩寵と言われるもので狂気に向かうなどは考えられないのである。

セクストンは次女出産後、鬱病になって精神病院に入院し医師より詩作をすすめられた。
それを起点に勉強を始め、ハーバード大学を初め多くの大学で詩作を教え、2つの大学より名誉博士号を授与され、ピューリッツァ賞まで受賞したのであるが、自動車に二酸化炭素を引き込んで自殺した。50歳だった。

堕胎、何度もの浮気など自分の罪に悩み、神を見つけようと作品を書いた。
「セクストンは何を求めたのか。あるいは何を求められなくて自殺したのだろうか。その原因はわからず、本当のことは書いていないと思う。という発表者の弁に深く考えさせられた。

「告白詩人だから人生そのものが反映されているというものではなく、詩と詩人は必ずしも一致しているとは限らない」ということは、このあとの太宰論でも取り上げられた。

このことは偶然にも学会の前日(30日)に、鳩飼さんとの電話で「作品と作家とは違う」とお聞きしていたことでもあった。

私も私の書いた文章に、どの程度正確に自分自身が投影されているだろうかと考えることがあったので、作品の読み方も再考せねばならないと気づかされたところだった。その点においても興味深い内容だった。


posted by 優子 at 16:29| 文学 | 更新情報をチェックする

2009年02月01日

久保田先生と小川姉との恵みの時

では昨日のキリスト教文学会での恵み「その1」。
甲東園駅に着いて店を捜しかけたが関学行きのバスが停車していたこともあり、昼食は昨年利用した大学構内の素敵なレストランに変更して大学に直行した。

ところが、今日から始まる入試準備のために昨日は殆どの校舎が閉鎖されており、レストランも例外ではなく昼食は学生食堂利用となった(>_<)。
高校3年生の時に校則違反をして、昼休みに同じ敷地内にある同志社女子大や同志社大学の学生食堂へ遠征したことがあった。
あれから40年、大学の違いは問題ではなく、また、幾種類かのバイキング形式が備えてあったものの、当時の雰囲気と違和感を感じなかったことに違和感を感じたのだった。

昨年の記事にも書いたが、関学の校舎は他の大学のように無機的なビルではなく、3階ほどの昔のままの校舎ばかりで実に素晴しい。
ヴォーリスが設計したチャペルも閉鎖されていたので残念ながら外観を見ただけで会場へ向かった。

会場は昨年同様に教授会が開かれる会議室(約80席)が設けられ、参加者は43名という盛会だった。
太宰の記録しておきたい内容は次のページに譲ることにして、大阪駅構内のカフェでのことを先に記しておきたい。

大阪駅でいよいよ久保田先生とさようならしようとした時のこと、先生は気を遣われながら私たち二人をお茶に誘って下さった。

先生は文学会の重鎮でもあられるので午前中から運営委員会に出ておられ、ご自宅は滋賀県高島で大阪からでも3時間もの遠方である。
お疲れにも関わらず、私たちを引き止めては迷惑ではないかとの思いに勇気を奮ってお声をかけて下さり、小川姉と共にプレシャスタイムに与った。

話は前後するが、学会が終わってキャンパスを歩きながら、このたびの『パンドラの匣』と孔舎衙健康道場のことを久保田先生に話した。
すると、「よかったなぁ。すごいなぁ。さっき(学会で)話せばよかったのに」と、それはそれは喜んで下さり、校門でご一緒になった笠井先生(支部長)にも話すように促して下さった。


日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック長の小川姉は、常に精力的に書き続けておられ、今もまた出版社と話を進めておられた。

久保田先生は、「私でよければ序文を書かせてもらうから」 と、今年こそ本を出すように励まして下さり、私はついに本気で今年実現の意志を固めたのだった。

「(パンドラの)執筆依頼にしても評価されているから声をかけて下さったんやからな。志を持ち続けていれば必ず道は開かれていくから。」

何というありがたいお言葉だろう。
著名な文芸評論家の先生とのこのような交わりは主イエスからのものだ。ちなみに「久保田暁一」を検索してみると多くの記事が出てきた。

「失礼だろうけれど藤本さんのことを娘のように思っている」と言って下さり目頭が熱くなった。「光栄です。できの悪い娘ですが、私も父のように思っています。いつもおうちまでお送りしたいと思っています」と言いながら涙ぐんでしまった。

「上半身は元気ですが」と仰るように、久保田先生は両膝が悪く痛みに堪えながら5センチほどの歩幅でしか歩くことができない。しかし、ペンクラブのために大阪や東京、名古屋へと遠方まで出向いて下さり、私は道中のことを祈らずにはおられないからだ。

近くならば何度もお目にかかってお導きを乞いたいことがたくさんある。私は師を数年前から霊的な父親のようにお慕いしているので、このお言葉は今より生涯の終わりまで大きな慰めと励ましになることだろう。

久保田先生を改札口でお見送りしたのは7時15分頃だっただろうか、その後まもなく小川姉とも別れて阪神百貨店と大丸の食料品街で買い物をし、帰宅したのは9時頃だった。腰痛の為に昨日は夫が駅まで送迎してくれた。

と、昨日の余韻も覚めやらぬ今夕6時半頃、急きょ、婿が孫を預けに来た。
私は腰痛がひどくて3時過ぎから6時頃まで2階で寝ていたし、夫はチャッピーの散歩に出ていたために、娘は祖母(母屋)に連絡して出発させたようだ。私たちは義母から聞いて10分後には孫便が到着したのだった。

明日約束していたランチも、前回に続いて再びキャンセルしなければならなくなり、大急ぎでNさん、節子姉、淳子姉にお詫びの電話を入れたのだった。

昨日、久保田先生は「嬉しいなぁ」と、小川姉と三人の時間を本当に喜んで下さっていた。先生と姉(しまい)から頂いた恵みを今こそ生かす時!

今夜からのことも主イエスに祈り、感謝を忘れないで、4日の夕刻まで頑張りたいと思う。

posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする