2009年08月30日

自治会でのチャレンジE ―初めての投票立会人―

今も民主党議員の当確続出の報道を聞きながらブログを書いている。

昨夜は目覚まし時計を二つセットして11時過ぎにベッドに入ったが、なかなか寝つけず眠りに入ったのは午前1時をまわっていた。
そのあとも何度も目が覚め、アラームよりも前に5時に起床して5時50分に集会所に行った。

まもなく遠方の御所(ごせ)にお住まいの職員さんが来られて、集合時間は6時半だったことがわかった。情けない。(>_<)
家まで歩いて2〜3分なので洗濯物を干しに帰ろうかと思ったが、この時すでにそれもしんどい状態で投票開始時間を迎えた。

職員さんは計5名。
名簿対照係1名、投票用紙交付係に小選挙区で1名、比例代表と最高裁判官国民審査係で2名、そして、リーダー格の方1名である。
私のほかにもう1名の立会人は隣り町の自治会長さんだ。民生委員でご一緒だった方で、投票管理者の自治会長は終日の任務である。

一番乗りの投票者には投票箱を開けて空っぽであることを確認してもらっていた。
その方は「はい、確かに空っぽです!」と宣言され、間違いないことを記した書面に署名されていた。私には新鮮な見聞だった。

投票用紙交付係は、毎回同じ説明をしなければならないので大変だと思った。
私たちは不正がないか見守っているだけ。それでも9時までの2時間は本当に腰痛が辛くて身体を持て余した。途中で辞められないし、どうなるかと思った。
投票に来られた人が居ない時は何度も席を立って腰を反らせたり曲げたりしていたが、10時過ぎた頃から徐々に時間の速度が速くなっていった。


気を紛らわせるために、気になっている自分のボケ度と比べながら投票者の行動に注目したり、人柄と顔つきの関連を観察したり、人間の集合的無意識を発見したりしながら過ごしていた。

投票整理券を無くしても用紙に記入すれば投票できることに驚いたり、昼食も用意されていたのは思いもしなかったことだけに喜びは2倍。
正午からはアッという間に過ぎて定刻を迎え、その間問題なかったことが書かれた引き継ぎ書に署名した。6500円の報酬を下さり、印鑑持参はそのためだった。

多くの知人が親しく話しかけて下さり、私もすっかりこの地に溶け込んでいるのを感じた。人との交わりは心が和む。久しぶりにゴンI さんご夫妻と会い、Nさんのご主人にもご挨拶できた。

当区の選挙当日の有権者は892名。
午前7時から13時28分までの投票者は355人、約40%の投票率だった。名簿対照はパソコンなので瞬時にわかる。

このあとも務めねばならない会長さんのことを心配しつつも、私たち立会人は後半の方とバトンタッチして投票所をあとにした。
お連れは私の自宅前経由で遠回りして帰って行かれた。歓談しながら歩くのがとても気持ちよかった。

これを書いている今既に民主党の圧勝だ。
テレビから目を離せない。
疲れているが、もうしばらく見てから寝ることにしよう。


posted by 優子 at 22:29| 随想 | 更新情報をチェックする

2009年08月29日

青蓮寺湖へぶどう狩り

春のイチゴ狩りが遠い昔のようである。
今日は三重県名張にある青蓮寺(しょうれんじ)湖へぶどう狩りに行った。ぶどうの品種はデラウェアである。

あとで考えれば、わざわざ1時間半もかけて三重県まで行かなくても、自動車で20分も乗れば直ぐ近くに有名な大阪ブドウの産地がある。同じデラウェア種で、今年も何度か直売所で買っているのに気がつかなかった。
どこか遠くへ連れて行ってやらねばという思いが強かったのだろう。私達夫婦は出発直前にア○○ミンを飲んで車に乗り込んだ。

ぶどう園のおばあさんにブドウの手入れをお聞きしたら、ご苦労は大変なものだった。

孫は1房で満腹したが、私達は7房は食べただろう。時間制限はない。
「もっとゆっくりしてたくさん食べて行って下さい。梨や柿を食べ過ぎるとお腹をこわしますが、ブドウは大丈夫だから」と言われたが、1時間で十分に堪能した。

せっかくのぶどう狩りにデジカメを忘れて残念しごく、娘の携帯電話で撮った写真だけでも残しておこう。

ぶどう狩りB.jpg


ぶどう狩りA.jpg


ぶどう狩りC.jpg


ブドウ畑に来れば、クリスチャンならば絶対に思い出すであろう聖句を娘と語り合っていた。
ヨハネによる福音書15章、「クリスチャン生涯の秘訣、奥義」と呼ばれているところである。ここに1節から9節を引用したい。

「わたし(イエス・キリスト)はまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。

枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」

私達の信仰生涯というのは、まず主が私達にしっかりと繋がっていて下さり、神さまは決して私たちの手をお放しにならないということである。これが神の恵みの事実である。

つまり、私達が神に繋がることができるのは、まず神が私に繋がって下さる、私の手をとって下さったという恵みによるものであるのだ。


ぶどう園のおばあさんは言われた。
「ぶどうの木を剪定しないで放っておいたら森のようになってしまいます。枝を切って実がつきやすいように剪定するんですよ。」

神さまも私達の人生に刈り込みをされる。
神が私達一人ひとりになさる刈り込みは、後に豊かな実を結ばせ歓喜に変えられるためのものである。

「主よ、感謝します。アーメン!」


posted by 優子 at 22:04| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年08月28日

ユキちゃん、初めて図書館へ行く

「あなたのブログは深刻な話が多くて、軽く読みとばせないのです。
だから、チャッピーの話やお孫さんの話や真智子さんの話になると、心がのびやかになって明るくなるからアクセスとやらが増えるのだと思います。」


友のコメントに感謝!
人生の諸問題を直視し、関心のある文学もまたテーマが深刻なだけに、軽く読んで頂けない内容になってしまうのだろうが、ブログは筆者の精神界の表出であるからどうしようもない。

ご要望にお応えして、今日は孫のほのぼの風景を刻んでおきたい。
まずは今日のスナップから! 

初めての図書館.jpg

市役所の用事を終えて、娘と待ち合わせていた図書館へ行くと絵本を楽しんでいた。2歳1ヶ月にして初めての図書館体験である。

孫は絵本が大好きで「読んであげよう」と言うと5冊も6冊も持ってくる。知子ママ曰く、「そのうちの2冊は3回ずつ読まされるので10冊分になる」。とにかく、テントウムシと青虫(ムイムイ)が出てくる絵本が大好きなのだ。
棒読みに近いおじいちゃんも孫の知育にはかなり貢献してくれている。


絵本がすっかり大好きになってしまった孫に、今月から毎月2冊の絵本を贈ってやることにした。
歯医者さんの待合室で手にした冊子で知り、そこから定期的に発送してもらうのである。既に持っている本は前もって断われるので重なることはない。

義母(大おばあさん)がユキのことを可愛がってくれるのに刺激されてか、6月頃から毎週木曜日に義妹と共に知子の従姉妹が子供と共にやって来るようになった。
義母にとってはユキに続いて二人目に曾孫である。それまでは生まれてから1〜2回顔を見せただけだったらしい。(笑)

今では子供同士もすっかり顔見知りになって遊ぶようになった。義妹一人で来ることもあるので、昨日は3週間ぶりの再会だった。
ユキと「たつくん」は、またいとこ(はとこ)になる。ユキと1ヵ月違いなので共によい遊び相手だ。
ユキは「たつくん」と言えなくて「タクツン」と呼び、たつくんは「ユキチャン」と呼ぶ。

昨日は(妹から譲り受けた)ジャングルジムで楽しそうに遊んだ・・・とは言ってもタクツンだけ。初めてのジャングルジムに一人で、しかも一番上まで登ったのに、ユキは今も怖くて一番下のマスをくぐっているだけだ。ふらふら 
背丈もユキの方が4〜5センチも高いのに怖がりなユキ。これは生まれ持った性格なのだろう。

これは8月18日のユキ。自分で登ったのではない。ちっ(怒った顔)
組立てるのにかなり力がいるので二つ分は省略してある。

2009,8,18.jpg  

今年買ったスイカは、たぶん15個だった。
冷蔵庫に最後の半玉が残っている。
ユキが最も好きな果物は桃で、
「びどう(ブドウ)」もスイカも大好きである。

お盆・''2009.jpg

22日夜、隣りの自治会から
自治会主催の夜店に御招待されて、
初めての綿菓子(わたあめ)を食べている。

青葉台自治会の夜店.jpg

次のスナップは、ママと同じように拭き掃除してくれている。
ママが来てから床掃除もマメにしてくれるので、
裸足で歩いても気持ちいい。

拭き掃除.jpg

トマちゃんは大の仲良し。
ユキの消防車は電車のように長い。

積み木遊び.jpg  

おままごとを始めると1時間は遊ぶ。
長方形の積み木をキュウリに、しゃもじを包丁にして
「トントントントン」と上手に切るしぐさに感動する。
男の子もおままごとをするのだ!

今月初めには「イェチャバ(イエスさま)、アートー(ありがとう)、アーメン」と自分でお祈りするようになった。食前のお祈りが短くなったと喜んでいるのはおじいちゃん。

「ユキちゃん、イエスさまのご本を何て言うの?」
「しぇいしょ!(聖書)」
「じゃあ、イエスさまのお歌は?」
「しゃんびか!(讃美歌)」

「ユキちゃん、まちこおばちゃんはどこにいるの?」
「あめりか。えいご」
「そうねえ、英語の国にいるのねえ。
もうすぐ太志おじちゃんと帰ってくるよ」

と、再会を楽しみに待っている私である。

23日には「パッピー」が「チャッピー」になり、感動すると共に幼さが消えていく一抹のさみしさを感じる成長著しい日々である。

posted by 優子 at 18:04| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2009年08月27日

自治会でのチャレンジD

最近ずっと股関節と膝が痛くて困っている。
いつまで生かされるのかわからないが、50代からこれではこの先どうなっていくのだろう。過日のラジオ体操で、第一体操をしただけなのに股関節が一日中疼いたのでショックだった。勿論、跳躍は20年前からやったことがない。

膝の痛みもひどい。最近では起床してベッドから立ち上がった時から、痛みに耐えながらのぎこちない歩行で階段を下りていく。

これらの痛みはコレステロールを下げる薬の副作用だろうか。
座っていても股関節があまりに痛いので、たびたび横にならねばならない日々だ。そして、1時間ほどしてようやく疼きが治まるのである。


チャッピーの朝の散歩も短いだけではなく元気でない老人のようである。
今朝は珍しく歩き始めるとましになったので、痛みを感じながらも以前のように歩けた。9時過ぎから再び地図を片手に町内をくまなく歩いた。側溝にある排水口の蓋の有無を点検するためだ。

やる気満々の自治会長のおかげで町内が整備されていくのはいいが、昨夜になって申請は8月末までと連絡が入ってきたから大変!無理するしかなかった。

会長は各班長さんに電話して班内の点検を依頼せよと仰るが、時間不足だし、同じことを何十回も説明する大変さと、必要箇所の説明を受けるのも難しいだろうからと自分で回ることにした。

歩きながら神さまといろいろ話し合った。
二度合わせての2時間半は苦にならず、やはり感謝でしかなかった。


蓋の必要箇所は31もあった。
幸い、あとは夜の散歩コースの所を残すのみ。今夜もうひと頑張りしてチャピーと歩きながらと思っていたら、母屋で従姉妹と過ごして帰ってきた長女が、私の足を心配して行ってくれた。

しかし、直ぐに日が暮れてしまい申し訳ないことをした。
明朝の散歩で見て廻るのに、娘は見えないところは足を突っ込んでまで確かめてくれ完了させてくれた。6箇所追加で合計37箇所となった。

明日早速、市役所へ出かけて公園道路維持課に申請し、生活環境課では秋の一斉清掃のことで相談せねばならない。それが終われば、ついでに図書館へ寄って『塩狩峠』を借りてこよう。

次の日曜日の第45回衆議院議員選挙では、自治会役員ということで投票立会人に任命された。
会長は一日務められるが、私はもう一人の副会長と共に半日ずつ交替する。私は6時半から13時半までだから早朝6時に集会所へ行かねばならない。
股関節の具合が非常に悪いので、長時間座ったままで居られるのか心配だ。

posted by 優子 at 22:54| 随想 | 更新情報をチェックする

2009年08月26日

3ヶ月ぶりにワシントンよりミネソタに無事帰還

IMFを去るにあたり、21日(金)には2箱、合計約18キロの荷物を自宅に送るために郵便局まで運んだそうだ。クマも大変だっただろう。共に助け合って夫婦の絆が強くされていることを微笑ましく思いながら、22日早朝着信したメールを読んでいた。

ところが、その後連絡がなくて心配が募っていった。
私は22日(土)にミネソタへ戻って来ると思っていたものだから、日本時間の月曜日朝になってもメールが届かず、翌日の夜はいよいよ心配になって長女に話したところ、「神さまにお祈りして安心していたらいいよ」と言われ、知子の信仰がかくのごとく豊かにされていることを神に感謝した。

「そうやね。今までのことを振り返っても取り越し苦労ばかりやったからね。いつも神さまが守って下さっていたから、心配しないでお祈りして寝るよ。」と答え、その通りに心配事を主に委ねて熟睡した。

今朝早くメールが届いていた!
次女夫婦はゲルマン民族の大移動ならぬマチ・クマ大移動を終えて、無事に23日の夜8時にミネソタに帰還していた。神さまに感謝!

最後の週は人と会う約束がすごく多くて、荷造りやら作業やらが沢山あって大変でした。

スーツケースは2つとも約30キロになって、小型スーツケースなど手荷物も結構重くて、くまもまちもかなりの筋肉痛にみまわれました。
          ・          
         (略)
          ・
何が起こるかは本当に分からないね。
まちも最近、自分で人生を調整してるんじゃなくて、与えられているのだな、ってよく思います。私も、神様を信頼して歩いていきたいです。

今年は東大時代の後輩のT君がミネソタに入学したので、木曜日にでも夕食に招こうと思ってます。今日、久しぶりに会ったんだけど、旧友に会うのはいいね。

ただ、こちらに戻ってくると、やはり学生としての生活があって、気持ちがしんどくなったりしてます。
10月のカンファレンス用の論文改訂版の締め切りと、Third year paper competitionの締め切りが迫っているし、事務的な仕事もいくつもあって。
自分で何とかしようとせずに、毎日を感謝して、神様を信頼して生きていきたいです。

実は先週19日に突如としてブログの訪問者が200名に跳ね上がった。アクセス数(ページ閲覧数)も570になり、そんな状況が24日まで続いていた。

アクセス解析を見ると真智子へのアクセスであることが直ぐにわかった。2009年4月11日の記事、「ミネソタも一気に春! ―神戸大学卒業から6年―」だ。

半数がそこからで、検索先を辿ると「お母さんは高揚していますね」や、「ミネソタ、数学ができて、クリスチャンとは国際標準を満たしている」だったか、そんな書き込みもあった。

ブログ訪問者が増えるのは嬉しいことであっても、注目されるのもまた不安で、実はそれが理由で先週はペンが止まってしまった。
私は神さまから微かなりとも目を離すと力が萎えてしまう。ペテロの如しである。信仰をもって書いているブログであるから当然のことだ。

今はアクセス数もいつものように200〜300(訪問者130名)に下がったが、以来、新しい方が今も20名ほど真智子の記事を訪ねて下さっている。

私はその方々に、私と真智子とのコレスポンダンスを通して神のメッセージを、人生で最も大切なことをお伝えしたいとの祈り心を与えられ、これからも真智子とのやりとりを刻んでいきたいと思う。

今朝は讃美歌288番を繰り返し聞きながらこれを書いている。

たえなる道しるべの光よ、
家路も定かならぬ闇夜に、
寂しくさすらう身を
導き往かせたまえ。

行く末遠く見るを願わじ、
主よ、わが弱き足を守りて、
ひと足、またひと足、
道をば示したまえ。

しるべとなりたまいし光よ、
今よりなおも野路に山路に、
闇夜の明けゆくまで、
導き往かせたまえ。

そして、今朝、示されたみことばは出エジプト記の13章21・22節である。

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。」


私は今日もいつくしみ深きイエスにすがって生きていこう。
「いつくしみ」とは、「自分の力ではどうすることもできないことに手を差し伸べること」である。
 


※ 新しい読者の方へ
 「主」とは「しゅ」と読み、主イエス・キリストのことです。
 人名のあとに「姉」や「兄」がついている場合は、その人がクリスチャンであることを示し、女性を「○○しまい」、男性を「○○きょうだい」と読みます。


posted by 優子 at 10:34| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2009年08月24日

試練の2009年、晩夏にヴォーリズの風そよぐ

私たちは人生の途上で多くの試練や艱難と出くわす。
その中でも、深刻な病気や事故、災害、伴侶や子供の死、子供の側からは親との早い死別、そして、経済の破綻・・・など、多くの悲しみや苦悩を抱えながら生きており、特に自分の責任外の苦難を負う方々や誠実に生きておられる方々の苦難には胸が痛む。

2009年は私たち夫婦にとっても大きな試練の年であり、昨年に続いて社員の死という深い悲しみもあった。事業経営についても、前世紀末から時代の大きな変動期にあって、過酷さ極まる苦闘の年月が続いている。

そのような今、私は奥村直彦牧師が書かれた『ヴォーリス評伝』を通して、イエス・キリストの教えを具現したヴォーリズの生涯に眼(まなこ)を大きく見開かされ聖霊の風を肌で感じている。

タイムリーにも、昨夜は妹のおかげで「魂の建築家・ヴォーリズ」を録画し今朝見ることができた。過日見逃してしまった教育テレビの『日曜美術館』の再放送だ。

ヴォーリズが建築した3000棟を越える建物のうち、1000棟が残されており、30棟は重要文化財になっているそうだ。その中の一つに同志社大学のアーモスト館(寮)がある。ちなみに、私も親しんだ同志社カレッジソングの作詞者はヴォーリズである。

彼の建築物は形体や様式でもなく、人間の健康を重視したものであったという。
「ヴォーリズは相手の話を聴ける人、相手の心を読める人ではなかったか」とゲストの建築士が語っておられたが、奥村牧師が書いておられるように、ヴォーリズのキリスト教信仰を理解せずして真実の彼を知ることはできないであろう。

そして、ヴォーリズが1932年のクリスマスメッセージで語った次の言葉から、彼が「祈りの人」であったことがわかると書いておられる。
「祈りの能力(ちから)がどれ程強いものであるかは、ただ祈りによって能力(ちから)を受けし者のみ解し得る処で、理論理屈では到底説明できない。」

「ヴォーリズが愛唱し生涯の指針とした聖書の言葉」:
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな加えて与えられる。」
(マタイ伝6章33節)

最後に、著者と共に日本初となったヴォーリス評伝のご紹介としたい。
私事になるが、筆者は大学を卒業後、近江兄弟社学園の教員として近江兄弟社に入社し、ヴォーリズ夫妻の許で「キリスト教教育」に専心してきた者である。

その間、直接、創立者ヴォーリズに面会して教えを乞い、当時学園長であった一柳(ひとつやなぎ)満喜子夫人には、教員として指導を受けた。

後年、近江兄弟社全体の再建のために財団本部の事務局長に就任し、各法人事業体の歴史や現況を学び、問題の解決に当たった。

同時にヴォーリズ研究にも取り組み、それらを大学や学会で発表し多くの論文を書いてきた。本書はそれらの集大成としての学位論文の要約でもある。

以上、港の人発行の『ヴォーリス評伝』の「あとがき」より引用させて頂いた。この本はアマゾンでも購入できる。   
51YJEC5118L__SL160_AA115_.jpg 
『ヴォーリズ評伝―日本で隣人愛を実践したアメリカ人』
奥村 直彦著 (単行本 - 2005/7) ¥ 3,780

今年はプロテスタント宣教が始まって150年に当たる記念すべき年であり、2005年はヴォーリズ来日100年だった。
1941年に日本に帰化し一柳米来留(めれる)と名のり、東京オリンピックが開催された1964年に83歳で永眠した。その時私は13歳、中学校1年生だった。

今一度、豊かに聖霊を頂いて私に賜った人生を生き抜いていきたいと信仰を堅くされている。

posted by 優子 at 21:15| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2009年08月19日

大田先生の文学講座と映画『パンドラの匣』試写会のご案内

私達ペンの仲間が親しくお導き頂いている大田正紀先生が、クリスチャンセンター神戸バイブルハウスで「近代日本文学と聖書」と題して講演会を開催されます。詳細は下記の通りです。

第41回 聖書セミナー 「近代日本文学と聖書」

■講 師:大田 正紀(おおた まさき)[梅花女子大学教授]

1949年三重県紀北町に生まれる。
関西学院大学大学院で日本文学を専攻。聖和大学、梅花短期大学日本語表現科を経て、梅花女子大学文化表現学部日本文化創造学科教授。

専攻テーマ:「近現代日本文学とキリスト教」。
島崎藤村学会、有島武郎研究会、日本キリスト教文学会などに所属。日本キリスト改革派灘教会長老。

著書:『近代日本文芸試論 ―透谷・藤村・漱石・武郎―』(桜楓社)、『日本文学のなかの聖書』(いのちのことば社)、『高貴なる人間の姿形一近代文学と神』(彼方社)、『近代日本文芸試論U―キリスト教倫理と恩寵ー』(おうふう)、『祈りとしての文芸―三浦綾子・遠藤周作・山本周五郎・有島武郎―』(聖恵授産所)、『文章表現』(桜楓社)など。

■期 間:2009年9月3日・10日・17日・24日・10月1日
毎週木曜日 午後2時〜4時(コーヒータイムを含めて120分)


■テーマ:「近代日本文学と聖書」
近代日本文学の成立に影響を与えた聖書とキリスト教について考察します。受講時に資料集をお渡しします。作品・テキストは事前にお読みください。

T  9月3日 森鴎外 「文づかい」「心頭語」
        西欧の恋愛と結婚
U   10日 北村透谷 「厭世詩家と女性」「人生に相捗るとは何の謂ぞ」。恋愛・批評・内部生命
V   17日 島崎藤村 「桜の実の熟する時」入信・離教・受容
W   24日 夏目漱石 「門」ダビデ詩篇・参禅
X 10月1日 芥川龍之介 「蜘蛛の糸」「白」キリスト説話集 
 
■受講料:一般7500円(5週分)、部分参加 一回につき1500円。

■場所:クリスチャンセンター神戸バイブルハウス   
   〒651-0086 神戸市中央区磯上通4-1-12-2F
   Tel:(078)252-1966【月〜金午前11時〜5時】

■定員数: 50人

■セミナー問い合わせ:

   Tel:(078)782-9697
   Fax:(078)784-2939 岩村義雄迄
   E-mail:QYH05423@nifty.com

もう一つは、今秋、『パンドラの匣』が東京テアトル配給で順次全国公開されるのに先立って、「試写会と鼎談(ていだん)」開催予定の情報を頂きましたのでご案内させて頂きます。

「東大阪物産観光まちづくりセンター」(石切参道:アンテナショップ)のオープニング〈プレ〉イベントです。

■日時:10月3日(土)

■会場:石切剣箭(つるぎや)神社会館

■試写会:午後1時〜3時(定員200名)

■トークショー:午後3時30分〜5時

■出演者予定:

 木村重信 (作品主人公モデルの実弟)
 浅田高明 (孔舎衙健康道場発掘者)
 川上未映子(作家・映画のダブルヒロイン)

 コーディネーター:佐藤秀明(近畿大学文芸学部教授)

『パンドラの匣』公式サイ:http://www.pandoranohako.com/index2.html

posted by 優子 at 08:27| ご案内 | 更新情報をチェックする

2009年08月18日

自治会でのチャレンジC ―苦手だった自治会長を敬愛す―

今日は社会福祉協議会へ、過日行われたラジオ体操の報告書を持って地域福祉委員長(自治会長)に同行した。助成金交付申請のためである。

会長の自動車で送迎して頂き、その車中で「よく書けている」と何度も喜んで下さった。社協では民生委員時代にお世話になった職員さんたちのお顔も見えた。

申請書は簡潔明瞭な報告書なので担当職員の方は数分間で読まれ、その場で受理された。
ということは助成金1万円は下りるということらしく、書記役としてはホッとした。その後、コーヒーを頂きながら三者で社会教育領域の話をして1時間ほどの外出で帰宅した。

「自治会でのチャレンジ」のタイトルでシリーズを作っているのは、私自身に課した今年度の課題に挑戦したいとの思いからだが、当初会長さんに感じていたストレスは4ヶ月間ほどで完全に解消され、今では気楽に、しかし、心を込めて主体的に私らしくできている。

苦手だったK会長は、長年東大阪の小学校で教職に就いておられた方で校長でもあられた。今70代後半くらいだろうか、ご夫人もまた同じく小学校の教師をしておられた方で、私も以前から承知していた。

しかし、校長までしておられた方なのに無鉄砲なことを言われたので、私にはストレスを感じさせる方だった。(これについては別の機会に譲りたい)

4月早々の初登板の朝は緊張してしんどかったが、「イエスさまのためにしよう」と思った瞬間にリラックスできた。まもなくKさんが来られ、仕事を終えて歓談もした!


その時の話だが、K会長は長年、石切小学校に居られて、そこで芹陽子さんを教えられたそうだ。しかも、歌手・芹陽子の産みの親はK先生(会長)だったのだ!


芹さんが小学校6年生(だったか?)の時に、全国のど自慢大会に出たいというので歌い方を指導された。
曲は童謡の『とおりゃんせ』で、普通ならば出だしは弱く歌うところを強く歌うように指導された。
それがよかった。
見事優勝されて、これがきっかけで私達の知るところの歌手になられたそうだ。
へえ〜。すごい!
Kさんは感性豊かな方なんだと一目置いた瞬間であり、親近感を持った。


そして、石切と聞いたからには私も話さずにおられようか!わーい(嬉しい顔)
3月末に『パンドラの匣』の原稿を書き上げた直後だっただけに、石切を散策したこと、日下新池のことなどパンドラ関連の話、そして、この秋に刊行される本のこともお話したのだった。

とは言うものの、その後もまだまだ緊張しながらの数ヶ月だった。何よりも長女のことがあったので、特に3ヶ月間は精神的にしんどさを感じながら務めていた。

毎月2回ある班別の広報誌も、従来ならば副会長が班ごとに分けておけば、各班長が取りに来て下さるようになっているのに、K会長は27班分の班長宅へ届けられるのだ。(今年の班長はツイてる!)

第1回班別分けの日、私は仕事に出る父を見送るような気持ちでK会長をお見送りした。「見送ってくれはりまんのか」と恐縮して下さるKさんに心の触れ合いを感じた。私はKさんの上に神のお守りがありますようにと祈っていた。

情熱とエネルギッシュ自治会長コンテストがあるならば、間違いなくKさんが日本一だ!
主に在って個人的な出会いへと導かれていきそうな予感がしている。


posted by 優子 at 23:37| 随想 | 更新情報をチェックする

2009年08月17日

真智子の足跡 ―今も横溢するみずみずしい感動―

先の記事を書くために3年前のお盆の記事を捜していたら、2006年8月6日、真智子が伴侶と共に日本を飛び立った時の記事が目に止まった。読んでいて涙が溢れた。

この数ヶ月後に、悪夢のような現実を突きつけられた真智子は苦悩のどん底に叩き落された。私達もどんなに苦悩したことだろうか。

今も解決したわけではなく、これからもずっとその中で生きていかねばならないが、私たち夫婦は真智子の生き方から多くのことを学び、夫にも神の祝福が及びつつある。何度も神の臨在を目撃しているからだ。

何よりも感謝なことは、真智子の伴侶が信仰へと導かれて神の存在を知る者とされたことである。
神さまはいつか必ず真智子を心から安堵させて喜びの刈り取りをさせて下さることであろう。


多忙を極める中で山本博史さんへのお見舞い状を書いてくれたふたり。残念ながら間に合わなかったけれど、奥様と息子さんを深く慰め、神さまがご遺族に豊かに関わって下さっている。

ところで、海外からの速達は留守宅にはメモを残して持ち帰るとのこと。お葬式の朝に親族の方が自宅へ帰られた時、郵便受けでそのことを書いたものを見つけられて直ぐに本局まで取りに行かれたそうだ。
主は博史さんにも真智子たちの愛を伝えて下さったことだろう。

ここに3年前の真智子の記事を掲げたい。

2006年8月6日 
真智子、伴侶と共に飛び立つ!


「私の主たる関心事は時に応じて変化してきたが、好奇心に基づくという点では共通している。

小学校の頃には宿題さえも忘れて飛び回っていた私だが、中学生の頃から学校で新しいこと学ぶこと、一生懸命になって考えることが面白くなった。

大学で経済学を学ぶことを決めたのは、日本史から人間の群像が見えた時であった。高校生だった私は、時代を遡っても共通する人間の姿や経済に強い興味を抱いたのである。

そして、本校の経済学部に入学し、経済学に没頭する日々を送り今に至るのである。

この卒業論文の作成中、私は大学卒業後も経済学を続けることを決心した。研究職についての厳しい就職状況を覚悟した上での果敢なる挑戦である。

動植物を見つけては夢中になり、遊びを考えては友達と駆け回っていた頃と同様の好奇心が、『童心』が騒いだためである。」


2人を見送ったあと、これが私の耳に真智子の声で聞こえていた。
そして、結婚式に寄せて贈ってくださった神戸大学の指導教官のメッセージを思い出していた。

「彼女は神戸大学経済学部で学業が一番の六甲台賞と、論文が一番の最優秀論文賞の両者を獲得した、神戸大学経済学部ではダントツの学生でした。

これは前人未踏の業績で、今年も含め彼女だけが得た、神戸大学では燦然と輝く業績です。しかも、2番に大きな差を持ったずば抜けて1番の学業成績を修めました。

彼女は経済学部のみならず、理学部にも数学の勉強に通っており、授業後も熱心に教師に質問に行き、彼女の努力家たるや並はずれており超優秀な学生でした。」


東京大学大学院においても自分を磨ききった真智子。
一つだけ勘違いの解答を書いたために失敗して「良」があったと思うが、見事なほど全てに「優」を並べていた。
そして今日、新しい挑戦をするために次の夢に向かって飛び立った。
こんどは生涯を共にする伴侶と共に!

お父さん、お母さん、26年間、本当に有難うございました。

今日からは太志さんと二人で信頼しあい、協力しあって、明るくあたたかい家庭を築いていこうと思います。

8月からはミネソタ大学に移り、新しい生活を始めますが、2人で支え合いながら一生懸命頑張ります。

アメリカは遠く離れてしまうようで寂しいけれど、お互い、寂しさを吹き飛ばすぐらい充実した日々を報告するつもりです。                  
                      真智子

いつ読んでもみずみずしい感動が溢れる。
真智子夫婦は、まもなく3ヶ月間のIMFでの働きを終えて今週末にはワシントンからミネソタへ戻る予定である。また荷造りクマ(婿)の出番である。

神さまが真智子と太志君の心身を支えて下さって無事にミネソタへ移動完了できるように祈っている。

神は真智子の人生に神のみこころを実現しようとされているのだから、主に信頼して前進あるのみ!
私の人生においてもしかり。
信仰は決して苦しみを苦しみだけには終わらせない。

娘たちが結婚して3年目の今夏、苦渋の色濃い日々にあって神の臨在を示して下さった喜びと感謝。
今日の記事二つを懐かしい父母に捧げたい。

「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」

「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、
あなたがた一同と共にあるように。」


posted by 優子 at 12:30| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

娘たちが結婚して3年目の夏 

2006年8月15日のブログには「我が身に、私たち夫婦に衝撃的な出来事があったが、どんな時にも主に祈れる私は幸せだ。」とだけ記されていた。詳しく書くことは憚(はばか)られたからだ。

この日、母屋で盆法要を終えて夕食後の片付けも済ませたので、帰宅しようかと思ったら親族から唐突に厳しい話が出され、母屋から帰宅したのは11時になっていた。
3年前はまだまだ緊張状態にあり、私はストレスフルな厳しい環境の中に在った。
そして、これは今年のお盆、一昨日の母屋での光景である。

2009.8.14.jpg

14日朝、義母と義弟二人と孫の6人で墓参から帰って来て、ケーキとコーヒータイムのあと、三男氏も一緒になって孫のためにジャングルジムを組立ててくれているのだ。
しかも彼は、13日に兄弟で行ったゴルフのプレイ中にギックリ腰になって本調子ではないのにである。これまでの事情を知っている真智子と千里姉が見れば驚くだろう。

私は一足先に我が家に退き、神に感謝の祈りを捧げた。
そして、「私を愛の人に変えて下さい。もっともっと愛の人に変えて下さい!」と祈った。神さまは真実な方だ。これからもこのような祈りを聴いて下さらないわけがない。神さまはこの祈りを喜んで下さっていると思う。

この時、一つのみことばが与えられた。

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。
たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」
              
                (ガラテヤ人への手紙6章9節)

このジャングルジムは、今から18年ほど前に妹が母に買ってもらったものである。私はブランコを買ってもらって、知子のあと真智子が使ったあと廃棄したのに、妹は今も大切に持っていたのだ。緑色の部分は紙でできているというから驚く。すごく強くできていた。

この夜、親族との夕食時に、知子は叔父叔母たちに実家に長く滞在している理由を話した。
現状の厳しさから7月には選択肢が照らし出されているように思うが、それでも尚、神が働いて下さって彼に気づきが与えられることを祈って待っている状況であることも話した。

そして、これら一切の上に、話を聞かれた一人ひとりに神の導きと祝福があるように祈った。

posted by 優子 at 11:45| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2009年08月15日

夏期研修会E(最終回)―ヴォーリズ研究家・奥村直彦牧師―

6日の閉会礼拝では安土教会牧師・奥村先生がコリント人への第一の手紙9章16節から23節を開いて、「福音に共にあずかる者」と題して奨励された。

「福音を告げ知らせないなら不幸」だとあるのは「苦痛、悲しみ」という意味であり、回心して「救われた喜び」を経験せずしては理解できない言葉である。
これについては、それぞれ自問し各自の信仰経験を前提とした中で、「福音にあずかるために」どう生きるのかは、各自が神との関係において実存的に決めることである。
即ち、主体的に決断することだ。
祈り神さまと相談しながら、導きを受けながら自分で決断しなければいけない
。」

「共に」とは、人に説教していて自分が救われなければいけないということだ。27節には、「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」とある。一人ひとり常に心せねばならないことだ。

奥村牧師は有名なヴォーリズ研究家であり文学にも造詣が深い。
東京都の御出身で早稲田大学政治経済学部を卒業されて、近江兄弟社学園教諭、同高等学校校長を経て、財団法人近江兄弟社本部理事、近江兄弟社学園長を歴任された。
近江兄弟社へは会社が倒産してから頼まれて入られたので、再建のために多大なご苦労をされたのであろう。
後に同志社大学神学部、カリフォルニア神学大学院(日本校)に学ばれて、Ph.D.in Religionの称号を取得された。

現在は日本基督教団安土教会牧師で、同志社大学人文科学研究所嘱託研究員として活躍されている。
奥村先生もまた実に個性的な牧師である。
昨夏の研修会で「藤本さんは面白いなあ」と言われたことについて、2008年8月10日付けブログに書きもらしたことがある。
このお言葉は、先生が宿泊所の美しい庭を愛でられた時に、「これは私の父が創りました!」と私が言った時のことである。


実は、これにはモデルがある。
日本の最初の大衆伝道者となった木村清松牧師が、シカゴのムーディ聖書学院留学中に、「俺の父親はナイヤガラ瀑布の持ち主だ」と言った有名な話に倣ったのだ。
このエピソードは私に洗礼を授けて下さった小山恒雄牧師の説教で印象深く残っている。

ところで、奥村先生は太宰治研究家で内科医の浅田高明先生をご存知だった!
浅田先生がヴォーリズ記念病院にも在籍されていたことをお聞きしたので、ひょっとしてと思ってお尋ねしたところ、「お名前だけは存じている」と仰って驚いた。世間は狭い!


私は驚喜して矢継ぎ早に、「浅田先生は太宰治の『パンドラの匣』の舞台が東大阪の健康道場だったことを発掘された方なんです」とお話ししたのだった。

奥村先生の御著書『ヴォーリス評伝』、『近江に「神の国を」W・メレル・ヴォーリズ』を一昨日落手した。
ヴォーリズは「メンソレータム」(現メンターム)を日本にもたらし、YMCA、建築、伝道、出版、近江兄弟社創設、教育、市の図書館を作るなど、本来は行政がやらなければならないことまでやって地域に貢献した人である。

今日お盆の法要を終えたので、落ち着けばライフワークを本格的に再開させたいと思う。当分は僅かな時間しか取れないだろうが、まずは、ヴォーリズから始めたい。主はヴォーリズを通して多くのことを語って下さることだろう。

大いに祝された2009年の日本クリスチャンペンクラブ中部・関西ブロック合同夏期研修会記録を終えるにあたり、半年も前から祈って準備して下さった坂口兄に心から感謝申し上げたい。

最後に今朝早く届いたペンクラブの友からの温かいメールは、今の私にとってどれほど力強い励ましになったことか!!!このこともまた神の導きであり祝福だ!!!
未だおめもじしたことのないY・Eさん。
主の愛に免じて、ここに無断で掲載させて頂くことをお赦し頂きたい。

藤本優子様、
残暑が続く中、ご家族ともにご体調が支えられていらっしゃることを願いつつ。
久しぶりにブログを読ませていただきました。
たくさんの充実したお分かちの数々を本当にありがとうございます。
夏期研修会のことは気になっていましたが、すばらしい学びと交わりの時であったことを知ることができ、感謝です。
娘さんご一家、玉木先生や久保田先生はじめ、大切な方々への主の癒しと支え、祝福をお祈りします。
折々読ませていただくのを楽しみにします。
感謝をこめ、今日もすばらしい一日を!


posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月14日

夏期研修会D ―十分にできなかった証し「主の臨在」―

研修会2日目、児童文学者の今関信子先生の講演では、資料収集のための取材秘話など興味深いお話をお聞きした。

今関先生が講評されたことでメモしておきたいこと:
「心のあり方を表現していく方法として『象徴化の方法』がある。何か一つのものを象徴化していくのだ。
目に見えるものを写真のように書くのではなく、最も言いたいことをどこに定めるか。
時系列に書くと平板になる場合がある。また、エピソードの串団子のように書くのではなく、どこかを強く書くことで読者に印象を与える。3枚ならばいろいろ書けないので一つのことを言い切る。そうでないと感情的に伝わってこない。」


なるほどと思った。
未だ自分が読んでも退屈な文章を書くことの多い私としては、それをマスターするには書き続けるしかないということだけは分かるようになった。これだけでも大きな進歩である。とにかく書き続けることだ。

また、他の先生方からこんな講評もあった。
「苦しんでいなければ与えられないみことばがある。クリスチャンでなければ答えてあげられないことを書く。
我々は人をゆるすことは簡単にはできないのに、『神に導かれてゆるすことができた』とは紋切り型であり、そこをこそ読者にわかるように書いてほしい。どのようにゆるすことができて、心がどのように癒されたのかを書いてほしい。」


私は作品を提出しなかったが、今回お証しをさせて頂いた。
しかし、最初から最後まで途切れ途切れの話し方であり、話したかった内容の2割ほどしか話せず全く情けないものだった。
と言うのは、緊張していたもののそこまでドキドキしていたわけではなく、最後まで盛り上がりもなく終わってしまったからだ。それなのに時間だけは25分も過ぎていたので驚いたくらいだ。
私はしばしば頭が全く動かなくなってしまう時があるので、認知症が始まっているのだろうか気になっている。

そのあと、研修会最後の昼食を終えてロビーに向かう時、「苦労したんやなぁ。知らなくて悪かったなぁ」と久保田先生が仰って下さった。深く深く慰められ、先生の優しさが私の体内にしみわたった。

そして、ホテル前で集合写真を撮る時、「ここへ!一緒に!」と私の手を取って先生の横に立たせて下さった。私はこんな真ん中でいいのかなと恐縮しつつも、主の優しい眼差しを背後に感じながら師の横に立たせて頂いた。

帰宅した夜、証しの原稿を久保田先生にお送りすることにし、アドレスを存じ上げている方々にも添付送付させて頂いた。下記に掲げたのは何人かの方々から頂いたお言葉だ。励ましとさせて頂きたく刻ませて頂いた。

苦労されたのですね。
無邪気に振舞う優子さんからは、想像できない試練ですね。
神様は、各人にあったように訓練されています。

神さまは人それぞれの人生をお与えくださり、そこでかかわってくださいます。

正しい者には災いが多い。
しかし主はすべてその中から彼を助け出される。
          詩34・19口語訳

お証しを読んで、題名の通り、神のご臨在をはっきりと感じました。そして、多くのことを教えられました。
優子さんがこれまで通って来られた苦難の道を思うと、言葉が出ません。まさにヨブのような試練だったのですね。

(略)・・苦しみの意味がわからなくて「なぜ?」と泣く気持ちがビンビンと伝わってきました。
長い苦悩の後、

『あの人がどうのこうのではない。神様の真理は人と比べてではなく、徹底的に神様と自分とのことでしかわからないこと』を悟られたこと。

『クリスチャンの生涯はどんなことがあっても最後は勝利へと導かれると信じます』と断言されていること。

素晴らしい信仰に心打たれました。

『悩むことができるのは神の恩寵であり、神の呼びかけ』と書かれた一文に励まされました。

〈略)・・知子さんにこの証しを読んで聞かせたのですね。今、試練の中にある知子さんにとって、大きな励ましになったことと思います。

知子さんが泣くことができ、深い心の傷が癒されますように祈っています。

読ませて戴いていて本当に感動致しました。・・・・
あなたのお証は、人に聴いて戴くためのものだったのでしょうか?神様に聴いて戴いている、すばらしい証です。メールで送って下さって嬉しいでした。

久保田先生には長女のことをごくごく簡単にお話した。
昨日落手したおはがきの余白に、「今朝〈10日)証し文を拝受」したこと。そして、『世にありては悩みあり。されど雄々しくあれ』。ご平安を祈ります。」と添え書きして下さっていた。

「主の御名(みな)によって来る人に、祝福があるように。」



posted by 優子 at 08:24| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月13日

夏期研修会C ―大田正紀先生の講演より、鴎外・漱石・遠藤周作―

大田先生はいつものように多くの資料を配布され、「贖い主は生きておられる―わたしたちの伝道の原点」では、近現代の日本文学に大きな影響を与えたキリスト教との関連から、明治の文豪、森鴎外と夏目漱石を取り上げられた。
以下はその要諦である。

日本のクリスチャン人口は1パーセントにも満たないのに、日本文学を築いた人々の中に多くのキリスト教関係者がいるのは驚くべきことである。
ある知的レベルを持っている教養人が無教会主義を守っていたり、信仰を持ったが背教した者、また、与謝野晶子・鉄幹は亡くなる前にカトリックの洗礼を受けているなど多くの者がキリスト教に影響を受けた。


初期の文学者たちにはイエスの贖い主の信仰が無く復活信仰もなかった。この欠落こそが大きな問題だったのではないか。

森鴎外:


鴎外は津和野を出てから二度と故郷に帰らなかった。それには二つの理由(恨み)があった。
一つはエリス(エリーゼ)のこと。
もう一つは、棄教を拒んだ36名のクリスチャンを拷問虐殺した役人の中に鴎外の近しい親族が居たことだ。このことを一行も書いていない。

鴎外はキリスト教の根幹には自己犠牲、殉教があったことを知っていた。『山椒大夫』と『最後の一句』を読むと二つのことがわかる。
鴎外はヨーロッパのものを肯定しながら、日本にもこんな物語があるんだという捉え方であり、永遠の眼差しの中で我々の人生は見つめられているんだということに気づいた人なんだということである。

鴎外の娘は、「父の諦念はキリスト教の断念に近い素晴しいものがある」と言っている。

夏目漱石:

漱石は黙っていても初めての東大の英文学の先生になれた人だった。
漱石は女性を一人の人格として愛そうとした。そこが漱石の偉いところだ。自分が人を愛するとはどういうことかということを真剣に考えた初めての人であり、近代社会の中に生きる隣人愛を書いている。

以下は『道草』(48章)本文より引用。
「島田(養父)の一生を煎じ詰めたやうな一句を目の前に味はった健三は、自分は果して何うして老ゆるのだらうかと考へた。彼は神といふ言葉が嫌であった。然し其の時の彼の心にはたしかに神といふ言葉が出た。さうして、若し其神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、此強欲な老人の一生と大した変わりはないかも知れないといふ気が強くした。」

こんなことを考えるのが漱石の素晴しいところではないか。

漱石は教会には繋がっていなかったが、英文学を通じてイエスの贖罪愛に繋がっていると言えるのではないかと思う。

遠藤周作についても、論文「遠藤周作『深い河』論―宗教多元主義と〈神〉像の変容―」をもとに短く話して下さった。

『深い河』はクリスチャンにとって非常に切実な問題を突きつけ、我々の信仰に背くような思いを与えるものである。
遠藤が洗礼を受けたのはプロテスタントと同じジャンセニズムの夙川の教会だったのに、行き過ぎたジャンセニズムの宗教は我々の福音理解と違っているところがある。

信仰義認の立場からは信仰を試みるような信仰であり、信仰の安らぎは自分の善行によってでしか手に入れられないということから、それは絶対に不可能なことである渇きから来るのではないか。

宗教多元主義はキリスト教を内部から崩壊する最も危険なものである。
遠藤周作はキリスト教から縁遠い人たちから関心を持ってもらえるかもしれないが、本人はキリスト教中心の包摂主義であり多元主義ではなかったと思う。

                     (以上)

8月5日、研修会第1日目のプログラムは昼食から始まり、3回に渡って連載した講演と作品講評だった。私は残念ながら作品を書かないで出席した。
参加者16名。その半数が牧師、文学者、作家で占めている。この夜、ホテルの自室に戻ったのは21時50分だった。

posted by 優子 at 06:57| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月12日

夏期研修会B ―久保田先生の文章論より―

久保田暁一先生による「私の目指す文学と文章論」より:

「聖書は世界最大の文学とよくいわれるが、正にそのとおり、実によく人間を描いている。特に、その醜悪・罪悪を抉り出してやまない。しかし、ただ抉り出すだけではなく、聖書はその救いの路(道?)を明らかに証明しているのである。

わたしはこのキリストの救いを、13年間の闘病生活において知らされた。そして、これこそが、人間を真に生かす道、真に幸いにする道、即ち福音であることを知った。

わたしはこの福音を伝えずにはいられない。従ってわたしは、直接であれ、間接であれ、このキリストの福音を伝えようとして書いているのである。たとえ文学的には、どうであれ、この信仰の土台に立って書いているのである。」
(三浦綾子)

三浦綾子は贖罪のキリストを書いている。素晴しい「証し文学」だ。
椎名麟三の文章は少し難しいが、椎名は復活の信仰を書いている。私は椎名の『邂逅』で生きる力を得た。遠藤周作は同伴者イエスについて書いた。
反キリストに分類されるアルベール・カミユは、信仰には至らなかったがキリストに対して親愛の情を抱いている。

文学作品を徹底的に読んで自分なりに理解してみる。そして、自分の生き方に関連して一貫した研究テーマを持ち、持続して掘り下げていくことだ。

「ましな人間になっている」という思いを深めていく。しかし、「十分だ」というような思いなどもったことはない。
キリストの教える真実は何かを生涯かけて突き詰めていく。
私はイエス・キリストによって支えられてきたことを告白したい。それを十分果たしたいという気持ちがある。


今までに27冊の書物を出したが、残りもまとめれば10冊ぐらいになるだろう。書くことは自分を見つめ、掘り下げていくことだ。また、自分の思いを確認することである。

「文章のどこを切っても、そこから血が吹きだすように『具体的な事実』がでてくる」ような文章を書く、「いい文章を書くということは、小手先ではできない。その人の力の全てをかけた営みである。」

                     (以上)

posted by 優子 at 22:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月11日

夏期研修会A ―神による島しづ子牧師とジャン・バニエの出会い―

先の記事、島牧師は次のように講演を結ばれた。
「暴力的な言動を止めることは難しい。暴力の連鎖を断ち切るためには神さまと語り合い、人に聴いてもらうことを通して解決していくことだ。聖書に学びながら私達の時代の問題を解決していけるのか考えていきたい。」
                   〈完)

ジャン・バニエやラルシュ・ホームについては、ヘンリー・ナウエンを通して知った。
補足説明として島牧師の別の講演から転載させて頂いた。
※ ジャン・バニエとラルシュ・ホームについて:

ジャン・バニエは、カナダ生まれ、海軍出身、ナチスによる強制収容所からの生還者を見て、「人間はどうしこんなことができるのか」と思い、哲学を学んだ。

46年前、トマ神父と出会い、パリ郊外のトローリー村に、ラルシュ・ホーム(箱舟)という家をおき、ラファエルとフィリップという知的障害者と暮らしはじめた。そこは、精神病院や施設と違い、家庭的な自己決定権が尊重される場だった。

しかし、ラファエルたちは怒りを出し始めた。ジャン・バニエは、「これは彼らの叫びだ、私だって人間だ、ばかにするなと言っているのだ」、と考えた。ラルシュ・ホームは後に世界130箇所以上に広がる。

※ 島牧師とジャン・バニエとの出会い:

その年、来日していたジャン・バニエの講演を聴きにいった。ジャン・バニエは350人もいる聴衆の中で、「みなさん有難う、特に陽子、ありがとう。私はあなたを尊敬している。神様もあなたを大事に思っている。」と言ってくれた。陽子がニコニコ微笑んだ。

私が求めていたものはこれだ、と思った。上に昇らなくてもいい、対等に横に並んで認め合っていくことだ。
陽子は1995年に亡くなった。日本の福祉の限界を感じていた私は、2001年にはじめて、ラルシュ・ホームを訪れた。そこは人と人の関係だけで生きていた。

ギャリさんという方が、「島さん、価値観の違う方と暮らして下さい」と言った。「人生は最後まで学び続けよ」という意味らしい。

「私のような立場の人は今までの経験を振りかざす危険があるからこのような仕事に就くことができない。」と言われたことも、島牧師の人間への深い洞察だ。

玉木牧師の奨励より: 

「神さまの働きが思わぬところで実っている。その事実を本人は知らないが、隠れたところで大いなる働きをしていかねばならない。それが文書伝道として最も的確な場であることを忘れてはならない。

私達の書いていることがいつどこで実るかわからない。売れない本であっても、それがどれだけ大きな励ましを与えているかわからない。
心に描いていることを書き上げることができますように!」


玉木先生とは2年前にも東京でお目にかかっているが、8年前に癌のために胃を全摘されていたことを知らなかった。今回は痛みのために時々席を外され、閉会礼拝中に病院へ行かれたので心配している。

また、2006年6月にご長男を44歳で亡くされている。
聖路加国際病院の医事課のマネージャーとして活躍されていた息子さんは、激しい勤務の中で急病で召されなさった。
このことは2006年6月13日付けの記事に転載させて頂いた『希望の風』にも触れておられる。

「やがて、主の再臨の時に、ともによみがえり主の家で真一と再会することを信じる。
手を彼の肩の上にのせて抱きあうことを信じる。」

父・玉木牧師が棺の前で書かれた詩の結語である。
わが子の死を受け容れられず夢中で聖書を読み続けられた姿は、牧師ではなく父の姿だった。

受け容れがたい悲しみを越えてこられた師の上に、主の慰めと恵みが豊かにありますように祈りつつ、師のメッセージを記録させて頂いた。

posted by 優子 at 22:33| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

クリスチャンペンクラブ中部・関西ブロック合同夏期研修会@ ―主のいやし―

8月5・6日、名古屋のサンプラザ・シーズンズで開かれた今年の夏期研修会も大いに祝福されて、豊かな恵みを頂いて帰宅した。

開会礼拝では玉木功牧師による奨励、次に「主のいやし」と題して島しづ子牧師による主題講演に入った。
島牧師も大きな苦難を通って来られた方ゆえに、この方でしか語ることのできないメッセージが我々の魂に届いたのである。

「このテーマを頂いて考えておりましたら、自分の人生との和解ではないかと思いました。今まで関わってきた人たちとの和解、それらが癒しに繋がるのではないかと思います。」と、冒頭で語られた島牧師の一言に、私は人生の意味の一切を理解できたように思った。

『メメントドミニ』を読んで下さっている方々に、特に3〜4人の方々のことを覚え(意識し)て書き進めていきたいと思う。心を開いて神の導きを願って読み進めて下さるならば、その方にも必ず主の癒しが始まっていくであろうと思う。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今30歳初めの方々が社会に出られた時は就職氷河期だった。
そして、自分の生活が良くならなかったのは自分の頑張りが足りない、自己責任だと言われた時代である。

しかし、それは自己責任ではなく、10年以上の国の政策により必要な時は働き蜂のように働かされて、日雇い労働者が「景気の調整弁」と言われているように利用されたのである。

当事者は自己責任だと思っていたが、それだけではなく、この国の在り方が生きにくくしていることに気がついた。社会改革運動や社会権利運動をしていくうちに、メンタルヘルスの病気の人が回復していた。
つまり、問題の本質に気がついた時に病気の人がメンタルヘルスの治療の必要がなくなった。(ここはとても多くの示唆を与えている!)

「あきらめる」とは、「明らかに見る」という言葉であり、即ち、モヤモヤしていたことが明らかになったことで問題がわかるということだ。

私は3人目があと1ヶ月後に生まれるという時に、夫が29歳で急死した。
そして、私は父がいる子のように立派に育てなければいけない、男の牧師のように立派にしなければならないと、この世の階段を上り始めた。

そんな時、3人目の子が1歳の時に百日咳に罹った。
3種混合により障害を持った子がいるので2種混合になり、そして、我が子が百日咳に罹患した。命は助かったが重度の障害を持った。

過日、脳死は人の死であると決められたが、我が子も脳死と告げられて人工呼吸器を外すことを促された。
しかし、子供は温かいから諦め切れないので医療を継続してもらったところ、1ヵ月あまりして平坦な脳波に波が出てきた。

従って、ダメだと決めてしまってはいけない。脳は再生しないけれど、その周囲の脳が死んでしまった分まで働くのである。
しかし、臓器移植でしか助からない人にとっては脳死に対しても見方が違う。物事の捉え方は立場によって違うのだ!


障害のある子供の養育は本当に大変だ。体はコンニャクのようだし、自分でできることは何一つなかった。疲れ果てていた時、「陽子さんのできることを数えてあげて下さい」と言われたことで助けられた。

しかし、教会、ボランティア、子育てで疲れ果てて教会を辞した。
教会の方々は「ここに居ればいいではないですか」と言われた。私は何の見通しもなかったが、「陽子の友達のお母さんたちとグループを作っていきます」と言った。

その後、ジャン・バニエとの出会いがあった。(ここが最も大切なところだが、バニエのことについては次回に譲りたい)

障害者が求めていたのはリーダーではなく友だちだった。
相談してもらって意思を聞かれて一緒にやっていくこと。彼らが求めていたのは、世界130のラルシュ・ホームだ。
誰も目を向けなかったこの人たちに耳を傾けたら世界が平和になる。
「元気ですか?」と聞かれて「元気です」と言ったら、普通ならばそれで終わりだが、彼らが持っている人間の知恵は違う。本当に元気かどうかを見分けられる。

私は尊敬されるためにはいい家庭を持って、子供を立派に育て上げることだと思っていたので、階段を上って行って、それなりの身なり、それなりの知恵を身につけなければと思っていた。(牧師でもある人でさえこのように思ってしまう迷妄に人間の実相が現れている。)
私はモヤモヤして、何を相談していいかもわからなかった。

しかし、バニエに「あなたを尊敬していますよ」と言われた時、癒された。何も障害が軽くなったわけでも、経済的に解放されたということはなくても、深い人間理解を示されて癒された。


いい母親だから、立派な母親だからではなくて、娘は私がいると喜んでくれる。そのことで励まされてきた。
あれから、陽子は16歳と3ヶ月生きた。私はお葬式の時に「感謝している」と言った。今、生きていたら30歳になる。

「憩いの家」では「職員」ではなく「アシスタント」なので、命令することも支配することもしない。
ところが、ホームレスの中にも階層があり、人を馬鹿にする。
テントを持っている人は豊かで、次にダンボールを持っている人、そして、何もない人である。持っている人は小銭を渡して人を使い支配がある。
苛められることや馬鹿にされることが嫌なのに、どうして憩いの家にきてそうするのか考えた。

我々は縦の関係であって、並んで生きることができない。言葉遣いも全てそうだ。同じ立場の人間が相手にひどいことをするのがショックだった。憩いの家の中のことは世の中の縮図だと思った。

いろんな痛みを持っている人だから優しい。しかし、天国であっても、嫌なことがあったらそれが伝わっていく。表情のない人が微笑んだり、気持ち良さそうにしている姿で私たちに平和がくる。

しかしまた、良いことだけではなく、この弱い人たちが、私たちの中に隠されていた怒り、暴力的な怒りも引き出される。ああしてもこうしても1時間も泣き止まない時だ。
そのうちに私たちに怒りが湧いてきて暴力的な気持ちになる。そんな時に交替する人がいたり、「お願いします」と言って席を立てればいい。
※(この考え方が出来るか否かも重大ポイントだろう。人間の本質に対する正しい理解があれば、間違った頑張りや間違った罪意識に悩むこともないからだ。
母の介護をしていた時の父への思いは正しかった。私は父をもっと助けてやりたかったし、それは母のためでもあった。)


「私は優しい人」ではなくて、自分の暴力的な気持ちがあることを発見しなければならない。どの人にも必ずある


障害を持った人は大声を出す。叫びだしたら止まらないから明るい部屋に入ってもらうようにしている。そのことを本人も納得している。
ところが、ある時アシスタントが暗い玄関外に追いやってしまった。

そんな時に、「そのアシスタントは誰ですか」と聞くと議論になり、問題解決にならない。「その方は、きっと小さい時にそのようにされたのかもしれないね」と言った時に本人が謝った

このように、人は自分の歴史において不当に扱われたこと、不当に踏みにじられた怒りが出てくる。
本当ならば、それをその人にすればいよいのに、その問題の意味がわからないから踏みにじられた怒りが弱い人に向かって放出していく。
このことで家の中のことだけではなく、世界のことも全て問題が明らかになるのではないか


イエスと同じ十字架に架けられた人が、イエスが彼らに何かをしたわけではないのに罵(ののし)っている。暴力的な彼らの言動にあるものは、踏みにじられた怒り、人間として大切にされなかった彼らの怒りだ。人間として愛されたい、尊重されたいという怒りだ。

イエスはこの世の暴力の仕組み、どういう力学によって動いているのかを見ておられた。

自分の辛かった思い、誰にも聞いてもらえなかったことを、安全な場所で安全な人に何度も聞いてもらってほしい
そしたら怒りが消えていく。
これこそが私の人生なんだと受け止めて生きていく。


それは歩けるようになることや話せるようになることではなく、本当の癒しは神さまに自分の辛さを日々訴えることで乗り越えていっているということだ。
                  (つづく)

posted by 優子 at 17:02| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月09日

子を残して逝く父と、幼くして父を送る子

葬儀場は東大阪、荒本駅に近い会館だった。
奥さまは喪主として気丈に尽くしておられた。
ご挨拶しようと目が合った時、凛としておられたご夫人の目から涙が溢れ、私は強く抱しめた。横に中学2年生のご長男が立っておられた。
棺へと促されて博史さんのお顔を拝見し、私はただ黙って語っていた。

そして、「真智子さんの手紙を読んで泣いてしまいました」と、ご長男も頷いて同じことを仰った。

真智子に訃報を告げた時の返信によれば、手紙は明日着く予定だった。それが、今朝、布施の本局へ行って受け取って来られたそうだが、どういうわけで手紙が届いていることが分かったのだろうか。

幼い小学4年生の坊やを見ていると、その頃の真智子の姿と重なり、この年で父親を亡くさねばならない2人の愛児が愛おしく、この子たちを残していかねばならなかった博史さんの胸中を思うと胸が張り裂けそうだった。
生きていたかったであろう!


これからこの子たちの養育は、あのご夫人一人の肩に重くのしかかっているのだ。奥さまのことを祈りながら読経を聞いていた。私たちも出来ることをさせて頂かねばと、社宅は当分の間そのまま使ってもらえるように夫に頼んだ。夫もそのつもりのようだ。

昨夜のお通夜の席で、ご夫人から葬儀の時に挨拶をしてほしいと夫に依頼されたが、弔辞なのか、葬儀委員長のような立場でさせて頂くのか明確ではなかった。
しかし、それは会衆にお礼を述べるか述べないかの違いだけで、いずれにしても心を込めて自分の気持ちに添ったことを話せばいいのだ。

孫が寝てから草稿に取り掛かり、私はいつものように夫の言葉を聞きながらキーボードを打った。
そして、故人への愛と敬意を、ご遺族への慰めを込めて、夫は次のようなことを話してご挨拶とした。ここに山本博史さんを偲び刻んでおきたいと思う。
本日はお忙しい中、お足元のお悪い中、山本博史君の葬儀にご参列下さいまして、まことにありがとうございました。とは申します私も、まさかこのようなことになろうとは思いもしませんでした。

博史君が大学卒業と同時に当社に入社されましたのは、今から27年前のことです。営業を長く勤められたあと、店頭業務に移られて、そこでは課長としても頑張られました。

そして、1年半前から経理に配属され、この5月からは、いよいよ経理部長として働き出されたところでありました。
5月の連休明けから動脈瘤の治療のために入院されましたが、22日には出社するということでしたから、私が今、こんなところで話しているのが信じられません。

博史君は、どの部署においてもそうでしたが、あとの者が困らないようにとマニュアルを作ってファイルしてくれていました。経理に移られてからもそうでした。

おかげで、博史君の不在中も仕事がとどこおることなく無難にこなすことができています。これらのファイルは、これからも大切に使わせて頂きます。

私達が最後にお見舞いに伺ったのは7月29日でした。
この時、「自分のことしか考えない人はあかん。会社のために仕事をしないとだめだ」と話されました。
一緒に見舞った妻と娘には、「私が変わったのは社長のおかげです。あんまり怒ってばかりいると部下がついてこないから、それを直すようにと教えて下さったからです」と、涙ながらにおっしゃったそうです。

確かに博史君は気が短いところがあったのですが、優しい人でした。
そして、このように人の言葉に耳を傾け、それを見事に実践された方でもありました。これはなかなか真似のできないことです。私は博史君に敬意を表します。

博史君は、「若い営業マンたちに伝えたいことや、経理の分野においてもやりたいことがある。やり残したことがある。」と無念な表情で話しておられました。
会社としても本当に惜しい人を失いました。ご家族の悲しみはいかばかりでしょうか。

どうか皆さん、これからも今までのように博史君のご家族を見守って上げて下さい。どうぞよろしくお願い申し上げます。
本日はどうもありがとうございました。

「もう命が無いなら社長と奥さんと知子さんに遺書を書きたい」とまで仰って下さった博史さん、いろんな思いを残して旅立たれたことだろう。私も多くの悔いを残してしまった。

しかし、癌の痛みを取り除いて下さった神さまに感謝し、ご遺族の上に神さまでしか慰めることのできない慰めを賜りますように祈ります。

火葬場を出た時、まるで秋を思わせる涼しさだった。
ご夫人はご主人の死に直面している実感さえなく葬儀式を終えられたことであろう。

今年はいつ夏が終わり、秋が来たのかも分からないような日々を過ごされるのだろうか。家族を愛し、仕事に誠実を尽くして生きた人は幸いだ。


posted by 優子 at 23:55| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月08日

「愛して愛を失うは、愛せしことなきに勝る」 

夕刻6時から始まったお通夜も終わった頃だろう。
夫と相談して私は明日の葬儀に参列させて頂くことになり、今夜は長女が父親と共にお慰めに伺った。式場は会社からそう遠くない所だ。

これから悲しみの日々を通って行かねばならないご遺族に、ああ主よ、どうかあなたの慰めが豊かにありますように!

(最愛の人を亡くし)どんなに辛くても、少しも取り乱さないで自制できるということを自慢して言わないで下さい。むしろ、泣けば辛い気持ちが消えていくのです。
「友人が私を抱しめてくれた時、私の頬は彼の涙でぬれました。その時、悲しみが和らぎ始めました」と、ある人が言っています。

誰にとっても、胸の中に押し込められた気持ちを解き放つはけ口が必要なのです。精神安定剤に頼って悲しみを癒すようなことはしないで下さい。・・・
悲しみを避けて通る迂回路などというものはありません。

必要なだけの時間をかけて、あなたなりのあなたの悲しみを癒して下さい。・・・悲しいのに悲しくない振りをしたり、再起できていないのに再起できているような顔をする必要など少しもないのです。

私たちが住んでいるこの悲しみに満ちた世界にあっては、悲しまない人など一人もいません。
悲しい時には、胸が張り裂けそうな苦しみを味わいます。その苦しみは、時を待たねば、完全には消え去りません。やがていつの日か心の晴れる時が来ようとは、今は夢にも思えないことでしょう。

けれども、それは思い違いというものです。あなたは、きっとまた幸せになります。この確かな真実がおわかりになれば、今の惨めな気持ちが少しは和らぐはずです。私は自分の体験から申しているのです。
                   アブラハム・リンカーン

※ リンカーンは、3人の愛息エドワード(4歳)、ウィリアム(11歳)、トーマス(18歳)を亡くしている。

今日は父が亡くなった日だ。もう9年も前のことだ。
今では母のことも、父のことでも胸が張り裂けるような思いはしなくなった。そこに至るまでにはそれぞれに3年かかった。親と伴侶の死は違うだろうが、必ず再び笑える時がくる。

互いに愛し合い、共に築き上げた人生。
ぶつかり合いながらも共に愛を深めてきた日々は、何と尊いことだろうか。だからこそ悲しいのであり、悲しいのは素晴しい人生であったことの証明だ!これからの苦労も乗り越えていけるに違いない。

「愛して愛を失うは、愛せしことなきに勝る」

                          (テニスン)

posted by 優子 at 18:45| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月07日

山本さん、今朝、逝去された

Yさん、いや、もうイニシャルで書く必要はあるまい。もはや隠しておく必要はないしイニシャルでは軽薄無礼だと思う。

今朝5時50分頃だった。
美濃紙業の社員、山本さんの奥様からお電話が入った。
私は電話の前に立っていたので直ぐ受話器を取った。そして、瞬間的に空を見た。今日は雨の心配はない。ラジオ体操はできるから自治会長ではない。「では・・?」と出るまでの短い間にもそんなことを思いながら受話器を取ったのだった。

やはり山本さんだった。
「今朝4時29分に主人が亡くなりました。」

先週水曜日、お見舞いに伺った時に山本さんが話されたことは私たちへの遺言だった。私たちは勿論そのことを重々承知の上でお聞きしていた。
黄疸が強く出て来られているならば意識が混濁してくるので、お見舞いも急がれた方がいいと冨美子姉からお聞きもしていた。

山本さんは知子に仕事の概要を熱心に話されて引継ぎをされた。どこどこにファイルがあるから、今すぐにでも(女性社員に)コピーして貰って下さいとまで仰って今後のことを託された。

「私が変わったのは社長のおかげです。もっとご恩返しをしたかった。」

私はクリスチャンペンクラブの研修会に行っている時も朝夕祈り、昨夜も長いあいだ山本さんのことを祈っていた。
今月2日に50歳になられたばかりだった。
心を尽くして生きている人をC型肝炎のために召し上げられるなんて、実に理不尽で不条理なことだ。今は神さまの御心がわからない。

電話を切ってから、長い間、夫と私は黙って天を仰いでいた。
ただただ黙って座っていた。
蝉の声だけが聞こえていた。
しきりに蝉が鳴いていた。


posted by 優子 at 08:59| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2009年08月03日

自治会でのチャレンジB ―朝のラジオ体操に家族全員参加―

自治会の仕事も5ヶ月目に入った。
自治会の福祉の窓口である地域福祉推進委員会の委員長も今年は自治会長が兼務されているという関係から、私に民生委員の経験を生かして副委員長も受けてほしいと強引なほどに推されて受けることになった。

3月の時点でも孫の世話で心身の余裕がなかった。
人間関係を悪くしても断わろうとしているのに、どうしても引いては下さらなかった。そこまで仰るならばと、月に一度、2時間の会議だけならばお受けするということを確約して引き受けたのだった。

ところが、春の総会当日のこと、配布されるものを見て驚いた。福祉推進委員会の「副委員長兼書記」と書いてあるではないか。
私は直ぐに会長に異議を申し立てて強く抗議したのだが、相手の立場を組んで受け入れるしかなかった。私はバウンダリーズがないのだろうかと悩みもしたが、最善を尽くせばいいのだからと自分の中で受容したのだ。

こんなわけで会長氏に懸念していたことが早々から現れて脅威を感じもしたが、主(しゅ・イエス・キリスト)と共に責務を果たしながら情を深めている。

4月になって娘の事態が明白になり、公的なことへの余裕は時間的にさえ益々なくなり必死でこなしていた。
5月末にあった地域の一斉清掃の総指揮を執らねばならなかった時は精神的にもきつかった。市の生活環境化や公園道路維持課とのやりとり、各班長さんや名阪道路公団の事務局(近くを名阪高速が走っており、高速沿いの土手の草木の苦情で)とやりとりをしながらも無事に終えてホッとしたのだった。秋にもう一度ある。

その間も悩みの状況は深刻さを増すばかりで、ついに6月は頭も動かず精神的にも限界状況になり家に引きこもっていたかった。
そんな時、新型インフルエンザのために全ての集会が中止になって、どんなに助けられたことか。おかげで娘のこと以外のことは考えずにおれた。

7月には委員会主催で地域型在宅介護支援センターの理学療法士をお招きして転倒予防教室を開催した。お膳立ては全て会長がして下さった。
この時、ストレスを感じながらも司会役を務めさせて頂いたのをきっかけに、本来の自分を取り戻していったように思う。勿論、この時機だったからであるが、人間は社会的存在であることを改めて実感させられた。

そして、世代間交流として実施することになったのが朝のラジオ体操である。
長年人形劇と紙芝居をしておられたそうだが、肝心の子供たちは面白くないからと集会所には入って来ないで、来たのはたった一人だけ。ほかの子は隣りの公園で遊んでいたそうだ。

そこで意見を出し合って決まったのがラジオ体操である。最終日には参加賞としてビンゴゲームをすることになっている。子供だけではなく大人も全て、当日だけの参加者もOKだ。

8月1日から8日までの9日間、ラジオに合わせて6時半から10分間である。昨日は大雨だったので今朝で2回目だ。

夫は今春から10分間のテレビ体操をやってから6時40分過ぎに家を出ており、それならばと参加者を動員するために協力してもらうことになった。
孫もまた1歳8・9ヶ月頃より、おじいちゃんと一緒にしている体操大好き幼児なので参加した。最年少参加者であり、それなりに体操しているので「かわいい、かわいい」と多くの人々の注目を浴びている。

ラジオ体操A.jpg

ここは高齢者の多い地域で、今年度の小学生は35名。
そのうち7名が今春入学した児童である。
今日の参加者は約60名ほどだった。

ラジオ体操@.jpg

右から4人目が夫、娘と孫も左端に見える。

私も春にデジカメを買って使い始めたものの、長女が来てからすっかり娘がやっていたので使い方を忘れてしまっていた。
今朝はシャッターと間違えて電源ボタンを押していたので、毎回電源を入れていた。変だなあと気がつくのも3枚目を撮ろうとした時だから呆れてしまう。

JCPの研修会から帰宅する翌7日は、朝から会長さんらと3人でビンゴゲームの景品を買いに行くことになっている。いずれも一律に500円程度の商品を準備するのだが、さて何人分くらい用意しておけばいいのだろうか。

最初は役目の負担感が重くのしかかってしんどかったが、今では認知症予防のために、あるいは既になっているならば進行を遅らせるために、少しでも脳の刺激になると感謝さえしている。
来年4月の引継ぎまで愛を込めて地域のためにやらせて頂きたいと思う。

ようやく今日、近畿・東海地方の梅雨が明けた。
私が生まれた昭和26年の観測以来初めての遅い梅雨明けだった。


posted by 優子 at 17:45| 随想 | 更新情報をチェックする

2009年08月02日

短時間で書き上げた証し

木曜日〈30日)の夜は徹夜などとてもできなくて、気がつけば書きながら眠りかけていた。午前2時半だった。
翌朝、知子はユキを連れて外出してくれたのですぐにとりかかり、二人が帰ってくるまで没頭していた。あっという間に3時間経っていた。
原稿用紙15枚、ほぼ書き上げたのでホッと息ついた。そして、今日の午後、孫が長い昼寝をしてくれたので推敲を終えて、これで良しとした。

昨夜、推敲前だったものを知子に聞いてもらった。思いもせず早々から涙で読めなくなってしまった。読み終えた時、知子は涙ぐんで興奮気味に言った。
「本当なら号泣してしまったと思う。今は涙が滲む程度で泣きたくても泣けない。今回の傷が深くて癒えていないからだと思う。これは聖霊が書かせたのだと思う」と深い感銘を受けてくれた。
証しは知子のことを書いたのではなく、知子は母(祖母)と私の苦難に涙したのだった。

このたびのことで娘の信仰は質的に変えられ、クリスチャン同志の分かち合いができるようになった。
娘が早く泣くことができますように。
泣くことは癒しの究極であり、涙は再生に繋がっていくからだ。

それにしても、書き始めや中断した後の取り掛かりは、何と重い気持ちだったことだろうか。原爆や戦時中の体験を話したくないという人の気持ちがわかるような気がした。

しかし、そんな時でも「パッヘルベルのカノン」(ジャン=フランソワ・パイヤール指揮、パイヤール室内管弦楽団演奏)を流すと、いつも瞬間的に母の病室のドアが開くような感じがして、厳粛な気持ちにさせられてペンが動く。
この曲への悲痛な印象は私が生きている限り消えることはないだろう。そして、私の時に聴くことであろう。
その時、私は生涯を懐かしく振り返りたいと思う。


知子の胸に悲しみがくるまでにどのくらいかかるのだろうか。

posted by 優子 at 22:34| JCP関係 | 更新情報をチェックする