2010年02月27日

JCP研究例会 D ―余録―

バンクーバーオリンピック。
真央ちゃんは自分の最高が出せずに悔しかったことだろう。
浅田真央とキム・ヨナは同じ年月に誕生した不思議なライバル。これからも互いの存在が互いを高め合って厳しい階段を上っていくことだろう。

天才的資質を与えられた者は飽くなき努力する力をも備えられているのだ。自分のやりたいことがあって一生懸命に努力できる人は素晴しい!
      「天才? 
      そんなものはない。
      勉強だ、努力だ、不断に計画していることだ。」

                   (オーギュスト・ロダン)

今週月曜日から一気に春になった。
例年この時期の平均気温は9度代であるのに22度を越え、25日には23.9度と4月半ばの陽気になった。今朝も室温は17、2度ある。

しかし、春の喜びは一足ひと足がいい。
本来の気温に戻ってくれないと冬から春に向かう心の備えができず、春を迎える喜びも半減するというものだ。

さて、例会記録の最後に今回の学びから感じたことを続けたい。

内村鑑三は、「最良の聖書の注解書は苦難である。人生苦である。人生で苦しまずに聖書はわからない。」と述べている。
人は自分の蒔いた種による苦しみならば納得できるが、理屈に合わぬ苦しみに出くわして懊悩するのである。

しかし、「苦難の意味は、それを解釈する本人の信仰が大切だ。神義論を問うのは自由だが、信仰ができていない人にはわからないのであって、これが実感してきたならば本当にヨブ記を理解したことになる。」と語られた東牧師の仰ることが私にもよくわかる。

実感できるのが嬉しくて、私は心の中で大きな声で神を讃美していた。
悲しみと苦しみの狭い狭い門を通り抜けて以来、この平安は揺るがない。勿論生きている限りいろんなことで嘆き悲しむこともあるに違いないが、かつてのような苦しみ方とは質的に全く違っている。

何よりも顕著なことは、変えることができなものを受け入れられるようになったことだ。当座は苦しむのだけれども、かつてとは比べものにならないほど短時間で受容できるようになった。


ヨブの如くにと言えばおこがましいが、私は私なりに人生の不条理に苦しみ抜いて、その間に真の回心へと導かれていったのである。50歳頃のことである。

つまるところ、霊の目覚めに至るには苦悩に伴う疑いや批判は不可欠だ。それは前向きなるがゆえの批判であり疑いであって、懐疑論者の疑いではなく神との真剣な対話なのである。


ところで、今回の作品講評では私のも取り上げて頂いた。題して「赦しは神が成就される」を朗読したところ、最初にO姉が穏やかに微笑みながら仰った。
「私は藤本さんを知っているからわかるけれど、具体的に書いておられないから読者が読んでも何のことかわからないね」。O姉は『百万人の福音』でも何度も入賞しておられる力のある書き手だ。

大田先生は、「『私は赦せない』と正直に書いてもいいのではないか。そして、なぜ赦せないのかを書いて・・」とご教示を頂いたので、書き方論から逸れるのを承知で、
「いや、私の中では既に赦せているのです。時には苦しみの感情が出てくることがあっても」と、この証しの背景となっている出来事の顛末を簡単にお話したのだった。

そして、この機会に「試練」という言葉の使い方もお尋ねした。やはり「試練」という言葉の解釈にこだわってしまうからだ。

我々は「試練、試練」と言うが、ヨブのように自分に責任のない苦しみは「苦難」や「試練」と呼んでいいだろうが、人間の常としてそうではない苦しみもまた多く、そういうものも「試練」と呼んでいいものかどうか、そのこだわりが消えないのだ。

深い霊性を感じ、「牧師の牧師」の如くに尊敬している東先生にも、真情を吐露しながら牧師や信仰について質問をぶつけた。何度か会話を交わしながら私は最後に次のように申し上げた。

「先生が仰ったとおり、悔い改めて立ち直るたびに信仰を強くされていますし、『試練』については今日のお話をお聞きして、信仰を強くされるためという意味において、(全ての困難を)『試練』として受け止めることができるという答えを頂きました。」とお話したのだった。

師は只一言、「尊い経験をされています」と一句一句噛み締めるように語られた。私はお言葉どおり受け取ったのである。

大田先生は、「藤本さんは文学レポートはいいのを書かれるから、文学作品を論じながら自分の信仰を書いていけばいいと仰って下さり、証しは苦手なだけに嬉しかった。


書く能力にもよるのだが、教会で証ししたり経験を分かち合う場合とは違って、書物やブログ上に公開する場合は書く内容が制限されるので難しい。

そう言えば、JCP55周年記念の折に大田先生と東京でお目にかかった時、遠藤周作の『海と毒薬』について論じたものに対して、「この卒論ならば『A』をあげますよ」と仰った。
あれは2005年に書いたものだが、私のオリジナルが際立ってきた評論だっただけに、「指導を一切受けないで『A』評価とは嬉しいな・・」と微笑んだことを思い出した。

今回の研究例会も、このような至福の時を過ごして帰って来たので、「7時半過ぎに帰宅して今も気持ちが高揚しているが・・・」という20日の記事になったのである。
これからもこだわりを失わないで熱心に私に賜った人生を磨いていきたいと思う。

大田先生は3月13日(土)の午後2時から3時半まで、神戸文学館で記念講演される。演題は「賀川豊彦の文学とイエス」で、参加費は200円。私も拝聴したいと思っている。

posted by 優子 at 07:52| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月26日

JCP研究例会 C ―ヘブライズムが滲み出ている『ヨブ記』―

東(あずま)道男牧師の『ヨブ記』論:

『ヨブ記』は結論のないまま終わっているという注解書があるが、ここには伝統的なヘブライズムが滲み出ている。
罪なき者がなぜ苦しむかについての不条理を神に詰問し、自分が生きていることに意味があるのかと問う。(自己評価の問題)

このどうしようもないところの苦しみに、ヨブは生まれながらにして死産であってほしいと否定的な言葉を口にする。それが神を信ずることのできない人間の行き着くところだ。
しかし、ヨブはそれを本気で言っていたのかという問題がある。

「神を呪って死になさい」というヨブの妻の言葉に対して、ヨブの答え(「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか」)は何を意味しているのか。

『ヨブ記』と『伝道の書』には共通点がある。
(B.C.6〜5世紀の頃のことで)復活もなかった時だから、摂理の神への信仰が表に出ないで神は超越者であることが強調されていく。

『ヨブ記』については矛盾だらけで解決が無いなどと神義論が問われるが、神はそのような我々に命を与えて生かしめておられるのである。その我々がいかに生きるのかだ。
不条理の中で生かされていることに意味があるのだ!神の手の内にあること自体に安らぎがある。

それらは何を意味するのかということは、それを解釈する本人の信仰が大切だ。神義論を問うのは自由だが、信仰ができていない人にはわからないのであって、これが実感としてきたならば本当にヨブ記を理解したことになる。

(ヨブ記に表されているのが人間の実相であるが、)我々は祈ることがゆるされている。神は思いのままなしたまい、それが我々にとっていいことなのだと受け止める。それが知恵であり、悟りであり、信仰だ。

ヘブル語にある「永遠」とは、「神のうちに秘められたる事実」である。我々は神さまの内に秘められた人間の生きがいを知りたい、教えて欲しいと思うが、神さまと人間の考えは違うのである。

原罪とは人間の有限性であり、神の意志を理解することができない。
従って、謙虚になって神に一切を委ねていこうではないかというのが、私の『ヨブ記』の解釈である。


辛い時は弱気になって負けてしまうが、新しい力が増し加えられて力の限界を越えていく。聖書の言葉自身が奇跡を生む力を持っている。

このお証しは私の魂を揺さぶり、失礼ながら東牧師にお年をお聞きしたら、「私は年のことはあまり考えませんが、89歳です」と答えて下さった。
昨年10月8日には右足膝の手術をされたが、術後もすこぶる順調な回復を見、1週間少しで退院されて医師が驚いておられたそうだ。すっかり苦痛なく歩いておられたから、5月に手術を控えておられる久保田先生に大きな励ましになるだろう。

『ヨブ記』から受け取った私の答えは、「無知の知」を自覚し、人間の及びもつかない人生の深遠な問題は神の領域であるから深入りしないというものだった。
10〜12年に及ぶ苦悩の果てに、このことを納得させて下さり安らぎを得たことをお話したのだった。
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次のページに「余録」として今回の学びを締めくくりたいと思う。

posted by 優子 at 06:36| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月25日

JCP研究例会 B ―作家はどのように『ヨブ記』を書いたか―

日本の作家で『ヨブ記』の主題を正面から取り上げて書いた人は4人しかいない。
@ 曽野綾子 『無名碑』

曽野が若い頃は才能で書いていたが、その時期は終わり生活上のことから鬱病になり、なぜ真面目な人間が苦しまねばならぬのかという問いにぶつかった。
神父(カトリック)の導きで『ヨブ記』と『夜と霧』(フランクル著)を読み、『ヨブ記』を読んで結実したのが『無名碑』である。

曽野綾子は誤解するようなことも口にする人なので敵も多いが、日本の文学史に残る人だと思う。女でも甘えないで工事現場に入っていく人だ。「自分は人を裁かない生き方をしたい」が信条だ。

主人公・竜起は巨大ダムや高速道路建設に関わる土木技師である。ダムが今では無用になっているように、高速道路や大きな建物など作られたものは永遠ではない。
しかし、人の進歩を続けていくためには大切なものだ。そこに自分たちの名が刻まれることはないが、「神のような存在が、記憶するだろう」と竜起は思う。
結末は、正しく生きて仕えたにも関わらず、心を病んだ妻に殺されてしまう。

A 阪田寛夫 『土の器』

童謡『さっちゃん』の作詞者。熱心なクリスチャンの家庭に生まれ、阪田の父は南大阪教会(大阪市阿倍野区)を設立する。次女は昨年11月に亡くなった元宝塚スター・大浦みずきだ。

「敗戦の混乱の中で、満州の人を頭だけ出させて生き埋めにし、その上に足を載せ踏んだ。・・・こんなときでもなければこんな経験はできないだろう、そう考えて軽い気持ちで足を載せた。しばらく生きていた」と書いている。

一生隠し通すことのできた事件である。口に出してしまったら拭えないような深刻な出来事だが、文章の軽さ以上に、実は深い悔恨がこもっているように思う。決して大仰ではないが、もっとも誠実な戦士の記録として記憶されていくものだと思う。

阪田に本当の回心が訪れるのは、お母さんが癌になった時である。
神さまを疑いかけた作品で優れたものはいくつもあるが、祈りにもならないたどたどしい祈りを書いて人を感動させ、芥川賞を取ったのは阪田だけである。
「ある壮年のクリスチャンの不器用な回心のドラマで芥川賞は日本文学史でも特異な出来事」である。

「土の器」とは、聖書が「人間は土から出て、塵となって土に帰る」ということから、人間を意味する謙虚なたとえである。この土の器に神さまから宝を頂いている。その宝は、この地上の財物のように腐るものではなく永遠に繋がるものである。

B 山本周五郎 『おごそかな渇き』

周五郎はこの作品で「小説家を志して50年の総決算」として、「真面目に生きる人の慰め、励ましになるような現代の聖書を書きたい」と意気込んでいた。

この小説は『ヨブ記』の主題をもとに、なぜ人間は生きるのか、何を求めて生きるべきか、この世の苦難はどういう意味があるのかを神に問うものとして書いた。

周五郎の机の上には、いつも聖書と岩波新書の小塩力の『聖書』があり、就寝前に必ず「主の祈り」をもとにお祈りしていたという。

周五郎の最も身近で編集記者を務めた木村久邇典は次のように語っている。
「『おごそかな渇き』での松本隆二の呟きは、就寝時の山本自身のものなのであった。
それは地の底から天上の神に呼びかけるような、しんとした響きのなかに、必死の祈りがこめられているのを、わたくしは聞いた。
山本の作品は、すべてが神への問いかけではなかったか。そんな気がしてならない」。
(『文芸春秋 ノーサイド』1992.5)

C 三浦綾子 『泥流地帯』

これが今回のテキストである。
大正15年5月、十勝岳の大噴火で上富良野の開拓地は一瞬のうちに土石流に飲み込まれ破滅的な被害を受けた。

人間は真面目に生きても無意味なのか?

賢明に生きる彼らの姿を通して、人生の試練の意味を問いかける。
しかし、『ヨブ記』のテーマをむき出しのままぶつけるのではなく、子供たちの成長を描きながら書いているのが素晴しい。

三浦は主人公を設定する時にヒーローにせずに、悲しみや欠点を持った人間にする。この主人公・拓一も父の死以来、夜の闇を恐れるような少年であった。

「心がけのいいもんは助かるよ」と、うそぶく武井の継母シン。
「まじめに生きている者がどうしてひどい目にあって死ぬんだべな」と、耕作は「馬鹿臭い」とつぶやく。
しかし、拓一は言う。
「あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生まれ変わったとしても、おれはやっぱりまじめに生きるつもりだぞ」と、
学校も出ていない人間であるが、人間としてははるかに全うなものを持っている。

我々は長い生涯の中でその時にはわからないこともあるが、それを耐えて生きて行く時に、その命が永遠の命につながっていくんだよと考えていたと思う。

悪いことをしてきた人が奇跡的に助かり、良い生き方をしている人が死んでしまったりすることもあるが、本当に神さまの御心は苦難の時こそ、より潔(きよ)められるがために、真面目に努力を重ねていくのがいいんだ。
今は試練の時なのだから耐えて生きていくぞと、命を与えて下さっている神さまに対して真実に生きていく生き方を竜起は選んだのである。

三浦綾子の作品は、夫(光世)が勤めを辞めて口述筆記して紡いでいったので、夫との魂の合作と考えた方がいい。光世が手を加えたというのではなく、二人の信仰が作品を膨らませて作ったのだと思う。

綾子が夫に書くように薦められたのが『母』と『泥流地帯』である。
綾子を信仰に導いたのが前川正であり、綾子の手足となって寄り添ったのが光世であった。光世の信仰と歌と生涯は、綾子の中で発酵して『塩狩峠』や『泥流地帯』などに豊かに実っている。

「着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛(かな)し吾が妻なれば」
「愛し」を「かなしい」と読ませる歌は光世の愛情の本質を語っている。
以上、大田先生のご講義で我が心にとまったものを記録した。
頂戴した資料に、光世の歌集『共にあゆめば』(聖燈社、1973年)からたくさんの短歌を紹介して下さっている。感謝。

これからも善きものを選び取って、悔いのない人生を歩んでいきたい。


posted by 優子 at 14:53| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月24日

JCP研究例会 A ―日本人作家の自殺、『ヨブ記』について―

*23日午前2時から12時まで予定されていたブログメンテナンスが、延々36時間を経て、漸く24日午後2時頃に終了した。

久保田暁一先生は歩行が困難なために欠席された。お顔を拝見できず寂しかったが、長原兄(きょうだい)に言づけて下さった資料(『三浦綾子書誌』岡野裕行著・勉誠出版から抜粋したもの)に先生の肉筆を拝見して懐かしい思いがした。

大田正紀先生のご講義:

日本人の自殺者が年間に3万人を超え、しかも40代50代の働き盛りの男性に多い。2009年の自殺者は34427名にも及んでいる。このうち男性はほぼ33000人である。(精神科医・元持雅男氏のHPより)
しかしながら、行政も心理学者も何の手立てを持っていない。

「私は文学者として、日本の作家に自殺者が多いのは何故か、そこを明らかにしたいという思いがある。
太宰の『人間失格』が封切りになり話題を呼ぶと思うが、(太宰の)道化や堕落などの人間の優しさで、誤って若者が死なないようにと思う」。


日本人作家で自殺した人は、北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、三島由紀夫、川端康成、有吉佐和子、火野葦平、川上眉山、生田春月、牧野信一、原口統三、服部達、15名にも及ぶ。(『自殺者の近代文学』より)

デュルケームの『自殺論』から自殺の4タイプ(自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺、宿命的自殺)を概観し、「宗教生活の構造と自殺」を見た。

ユダヤ人の自殺者が圧倒的に少ないのは、生活と信仰が全く一致していることと、神と生命の尊厳性を教えていること、そして、共同体が生きているからである。

日本人は仏教的生命観が強いので自殺への歯止めがきかないのだろう。
キリスト教は日本に初めてモラル(律法)を教えたことで大きな役割があったが、研ぎ澄まされた精神がある文学者は、自分の救いを確信できないことから背教者が出たり、自殺者が多いのではないか。

悔い改めて立ち直るたびに、より深い信仰を与えて下さるという確信を持てなかったからではないかという見通しの確信を持っている。

今回のテキスト、三浦綾子の『泥流地帯』は『ヨブ記』が問いかける問題が意味をもって迫ってくる作品である。

デュルケームの『自殺論』は、次女の本棚から取り出して開いたことがある。分厚い本だ。

『ヨブ記』については『メメントドミニ』で何度も取り上げているので、クリスチャンの方でなくても記憶して下さっていると思う。
これは39巻からなる旧約聖書の中に収められ、知恵文学と呼ばれている。欧州の哲学や文学と深い関係があり、時代や国を越えて人類の普遍的な問題を提起している。

ごく簡単に『ヨブ記』のあらすじを述べるならば、富裕な家長で信仰深いヨブが一日にして全財産と子供たちを失ったのみならず、自ら悪性の病に侵されたのである。
何故、善良なるヨブが、このような苦悩に耐えねばならないのか!
悪が栄え、善が苦しむ不条理な苦悩の意味を問いかけている。

posted by 優子 at 15:08| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

JCP研究例会 @ ―初めに神の言葉があった―

研究例会では開会礼拝に続いて「みことばと祈り」がある。
担当して下さっているM姉(しまい)が欠席されたので、急きょ、東 道男牧師に語って頂いたのだが、東牧師はヘブライズムの視点から聖書を解き明かして下さるので貴重な存在だ。ここに記憶に留めておきたい我が霊的情熱を刻んでおきたい。

聖書の箇所は「ヨハネによる福音書」の1章1節から14節までだが、時間的な関係から5節までについて語って下さった。

ヨハネによる福音書 1章1節〜5節:

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。

ヨハネの時代はA.D.100年前後になるから、イエス・キリストのご昇天後60〜70年経っている。
旧約聖書はヘブライズムに一貫されているが、キリストの時代に入ってくるとギリシャ思想の影響を受けるので、表現にも言語の用い方や文法も全てギリシャ的になる。しかし、厳然としてヘブライズムに裏づけされていると理解すべきである。

「言」の「ロゴス」(logos)はギリシア語(λόγος )からきており、意味は「理論、意味、論理」だ。

「初めに言があった」の「言(ことば)」は、人の言葉ではなく神の言葉を意味し、「神と共にあった」とは「神ご自身のお働きであった」という意味だ。

そして、「すべてのものは、これによってできた」とあるように、万物を創造されるところからキリスト教が入っている。
「命」はヘブライズムの「命」であり永遠の命を意味し、絶対的なご存在そのものが命と表現されているのである。

ヘブライズムにおいて「闇」は「人の世」を意味し、「世」は「混沌、罪」であり、ギリシャの世界観とは何の関わりもない。

また、「光」は純粋な真実であって物事を浄化し清める働きをする。即ち、罪を裁き、贖罪神を信じる者は全て罪ゆるされ贖われて浄化されるのである。

神学書や註解書は全てギリシャ思想によるものであるが、ヘブライズムの立場から純粋に聖書を読むことが大切だ。ヨーロッパ神学に影響され、日本人独特の言葉で理解していると、本来の聖書の理解から外れてしまう。

要約すれば、神のお働きがイエス・キリストであり、イエス・キリストが神の意志において宇宙の神ご自身であったのだという讃美が、ギリシャ語的な表現によってわかりにくくなっているということである。


この箇所は「ロゴス讃歌」と呼ばれている有名な箇所であるが、ギリシャ哲学でいう宇宙の根本真理を表わすものというような曖昧な「ロゴス」とは全く違うものであることを再確認した。

最後に前掲の続きを引用しておきたい。冒頭の1節から最後まで意味深くお読み頂ければお分かちした喜びを感じる。
ヨハネによる福音書 1章6節〜14節:

ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。

わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

イエス・キリストと共にある人生は素晴しい!


posted by 優子 at 10:47| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月21日

厳しい現状にも関わらず、主にあって喜んでいる

毎年、春の訪れを予感する頃に受難節を迎える。
受難節とは復活祭までの46日間のことで、英語で「レント」(Lent)と言い、悔い改めて神の愛を真剣に考えながら過ごす日々である。

復活祭(イースター)は、春分の日のあとの初めての満月の次の日曜日と定められているので、年によって異なり、今年は4月4日だが2011年は4月24日、早い年は3月末の時もある。

余談だが、リオのカーニバルが教会歴に関係があったとは知らなかった。
文化人類学の立場では、カーニバルは文化におけるダイナミズムの法則で理解できると記憶している。簡単に言えば、遊びと仕事、子供と大人、真面目と不真面目など、日常生活での立場や秩序関係も全て逆転する祭りを意味するのだが、節制(断食)する受難節に入るまでに飲めや食えや踊れのドンチャン騒ぎをするのだというのには驚いた。

今年は今日が受難節の初めての礼拝にあたる。
バッハの『前奏曲二短調』の奏楽に耳を澄ませた。今朝の説教(「主にあっていつも喜びなさい」)は、私に深い喜びを噛み締めさせるものであった。

ピリピ人への手紙 4章4節〜7節:


あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。


ローマ人への手紙 5章1節〜5節:

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

「主にあって」とは、「主の十字架と復活を思い起こしながら」、あるいは、「キリストの犠牲の中にあって喜びながら」、「キリストにどっぷりつかって」、「神の愛にどっぷりつかって」という意味だ。

つまり「主にあって喜ぶ」とは、キリストが関わって下さっているということであり、一つひとつ覚えて下さり解決のために祈っていて下さるということを覚えているということだ。

だから、今苦しいにも関わらず嬉しいという生き方であり、全く逆転しているのがイエス・キリストの福音である。神と共に歩む者には神は必ずそのような生涯に変えて下さるのであり、事実、この私をもそのように生かして下さっている。


「キリストはあなたと共にいると言って下さる方であり、だからどんな場合も立ち上がることができる。
生かされていることの喜び、神に知られていることの喜びをもって家族に仕え、困難な中にある人々に仕え、隣人に仕えていく。

20世紀を代表するキリスト教神学者の一人、ディートリッヒ・ボンフェッファーは、第2次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加わったが、計画が漏れて失敗した。収容所に入れられ、ドイツ降伏直前にフロッセンビュルクの収容所で刑死した。

その獄中で書いたものを日本に紹介したのが同志社大学の竹中正夫だ。ボンフェッファーは、『教会は他者のために生きなければならない』と書き残している。

何よりもイエスの恵みを喜び、この喜びをもって他者に仕えないといけない。『寛容』とは愛であり、仕えるということである。
『主に在って隣人に仕える生活を選び取っていくことができますように、正義を実践する教会でありますように・・・』」。


常に社会に目を開いている労祷教会の牧師らしい祈りだ。
建堂には賀川豊彦との関わりがあった教会らしく、社会における教会の位置づけと宣教ビジョンに私のそれとの一致を見る。

昨日のクリスチャンペンクラブでの学びや東牧師のお話に続いて、高見牧師の説教に深く慰められ気力は横溢している。
何度も立ち上がらせて下さり、信仰から信仰へと歩ませて下さっている神に感謝している。このブログは私の信仰告白だ。

しかしながら、プライベイトなことはブログや本には書きたくても書けないことの方が多い。そのことが私に証しを書きにくくしているのだが、今年の受難節は特に意味深く、主にある喜びを深く噛み締めている。

週報に記されている「今週の一言メッセージ」を読者の皆様にもお贈りしたい。
「喜びなさい」

パウロはキリストによって新しい生き方を示されました。キリストの十字架、復活をいつも思い起こし、感謝の生活の中にありました。
ローマ書5章において、「神を喜ぶ」と言いました。キリストの十字架、復活を神の愛の表れと理解したパウロは、「神の愛を喜ぶ」と言いたかったのでしょう。

「喜ぶ」という表現で、パウロは「私はキリストの恵みによって生かされているので嬉しくてたまりません。苦しいことが続きますが、キリストが共にいて下さるので苦しいことはありません。それどころか苦しみも喜びに変えられているのです。」ということを言いたかったのでしょう。

「死を前にした苦しいさなかにあって書いているので、パウロの遺書のような響きがある。『神を喜ぶ』とは『主にあって喜ぶ』ということだ。
生かされていることの喜び、神に知られていることの喜びが、この短い言葉に表わされている」。


聖書は喜びの書だ。
新しい春。
新しい門出である。
あなたの上にも神の祝福が豊かにありますように!



posted by 優子 at 22:27| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月20日

「証し文」に集中していた1週間だった

「私(大田正紀先生)は文学者として、日本の作家に自殺者が多いのは何故か、そこを明らかにしたいという思いがある。
太宰の『人間失格』が封切りになり話題を呼ぶと思うが、(太宰の)道化や堕落などの人間の優しさで、誤って若者が死なないようにと思う」。


学びの初めから大田先生の興味深い話に引きずり込まれた。

この1週間ブログを更新しなかったのは、今日の日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会に備えて「証し文」に取り組んでいたからだ。延べ30時間はしていたと思う。

テーマは「愛すること、赦すこと、平和を求めて」で、今年出版される本の原稿だ。全てのテーマを書き込まなくてもいい。35字35行を何とか書き上げて持参した。このことについても後ほど記録したいと思う。

7時半過ぎに帰宅して今も気持ちが高揚しているが、今日は1週間ぶりの消息だけでペンを置きたい。

ブログメンテナンスのご案内:
延期になっていたメンテナンスが来週実施されます。
■作業期間:2月23日(火曜日)午前2時〜12時までを予定
*メンテナンス終了時刻は、作業状況によって前後する場合がございます。


posted by 優子 at 21:48| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

関屋鉄道の蒸気機関車

来月に控えている会計監査と、新旧班長、及び、新旧役員の引き継ぎや総会の打ち合わせなど、相談事項満載の自治会役員会議を終えて帰宅。大急ぎで昼食を済ませて関屋鉄道宅に向かった。
今日は自動車で行ったが、隣りの自治会地区にあるお宅なので歩いても12〜3分ほどで行ける場所だ。

あるじ宅の門には「関屋鉄道」と風格ある看板がかかっていた。
庭内をミニSLが走るのである。無煙炭で走らせる本物の蒸気機関車で、庭にはトンネルや鉄橋もあった。

関屋鉄道A.jpg

あるじは赤帽をかぶった機関士だ。
線路の幅は5インチ(127ミリ)で、人が乗車できる最小の線路幅だそうだ。関屋鉄道C.jpg

関屋鉄道@.jpg 

子供だけではなく大人の男性でも大丈夫ならばと、太っちょ優子も乗っちゃった!高所恐怖症の私は鉄橋が怖くて2周目からは目を閉じた。池には大きな鯉が20匹ほどもいた。

関屋鉄道B.jpg 

感動が極まると硬い表情になるのが孫の常。
「汽車ポッポ」が大好きな孫は、本物の蒸気や汽笛に触れて感動したことだろう。1回で3〜4周してくれるのに、3回も乗せてもらった上に「また行きたい」を連発するユキ。

知人のお宅がすぐ近くにあり、散歩でも何度も通っていたのに全く気がつかなかったとは、私は理解しがたいボンヤリ人間だ。

SLはご自身が4年がかりで組立てられ、費用は500万円以上とか。
6〜7年前から一般の人に開放されており、HPによればテレビでも何度か紹介されている。すごい家があるものだ。

毎月1回、走行会をされていて、出入り自由で乗車も無料だ。孫は当分、毎月お邪魔しそうな気配である。あるじが穏やかで素敵な方だったのもリピーターにさせる要因だろう。

夫は後半、ワックスがけをしていた自動車を磨きながら待ってくれていた。ご協力感謝である。

春近し。
今朝、鶯の初鳴きを聞いた。

posted by 優子 at 21:43| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2010年02月13日

悔いなく生きる道がある ―メールマガジンより―

年度末にあたり活動報告の作成に忙しい時期です。
今年度は自治会副会長だけではなく、自治会地域福祉推進委員会の副会長兼書記役ですから大変です。

私はエクセルなど全く使えないのですが、75歳の自治会長は「エクセルを使わないで『罫線』でやっている」とのことで、先週は何度も教えて頂きながら挑戦していました。

夫が表の中の線の消し方を知っていたのは驚きでしたが、そんなこともできるパソコンに感動しました。(遅れてる〜〜〜)

昨日は活動報告書作りのあとも、夫の秘書役として頼まれていたことに集中していました。
来月、紙業界の60周年史に掲載されるインタビュー原稿が送られてきたのですが、あまりにも読み辛いものなので読みやすい文章に整えてほしいと頼まれていたからです。

時間を忘れて夕方まで5時間も座っていたら、すっかり体調が悪くなってしまいました。相変わらず血圧が高く無理ができずに困ります。

そんなわけで、昨日更新したかった記事が今日になりました。
昨日、「悔いなく生きる」を検索して当ブログを訪ねて下さった方が居られ、タイムリーにもピッタリのメッセージがメールマガジンで送られてきましたのでご紹介したいと思っていたからです。

ラジオ牧師でお馴染みの羽鳥 明牧師のメッセージです。これこそが悔いのない生き方ではないでしょうか。

『道がわかりません』

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネの福音書14章6節)

人生は永遠を求め、最善の幸福、つまり、神を求めていく旅のようなものではないでしょうか。旅には地図が必要ですね。でも、神のもとに行く地図があるのでしょうか。

アメリカ開拓の初期の頃に、一冊の地図が出版されました。まだ人跡未踏の部分には、「ここには恐ろしいさそりがいる」とか、「ここには危険な巨人が住んでいる」とか、「ドラゴンがいる」とか書いてあったそうです。

勇敢なクリスチャンが、それらの言葉を消して「ここには神が住んでおられる」と書いたそうです。

イエス・キリストの弟子のひとり、疑い深いトマスがイエス・キリストに言いました。「先生。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」。
そのときキリストが、打てば響くように答えて言われたのが冒頭のことばです。

人生にはやぶ道があり、砂漠の道があり、分かれ道があり、山坂の道、曲がりくねった道があります。地図なしでは心もとない限りです。

ところがイエス・キリストは、「わたしが道です。わたしについて来なさい。そうしたらわたしの父、すなわち、神様のところへ行けます」とおっしゃるのです。

イエス・キリストは、人生のすべてのことを知りつくし、そこを通って来られたお方、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」お方(ヘブル人への手紙4章15節)。また、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル人への手紙13章5節)と言われたお方です。

何て美しいのでしょう。
この美しい山を見ていると心の緊張がとれていくようです。

securedownload.jpg
 
文香さんのブログ(「お気に入りリンク」にある『生かされて』)の2月10日の記事のクイズに回答すると、こんなに美しい写真と動物のかわいい写真を送って頂きました。
この美しい自然も神が創造されたのです! 


posted by 優子 at 23:04| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年02月11日

Minneapolis FED のホームページにマチ・クマを発見!

遥かなるミネソタよ。
日本と地続きならばいいのに、我が家の隣接地ならばいいのにと、たまらなくミネソタを恋しく思う時がある。

両親を想う懐かしさだけではなく、娘を想う愛おしさにも悲しみの旋律があるのはなぜだろう。
娘が遠い異国に居るからか。
父と母が地上にはいないからか。
いや、愛犬を見ていても悲しみを感じるのだ。

人生の持ち時間が少なくなってきた者の感じる悲哀だろうか。
それだけではない。
時間という無常の中に生きるはかなさだ。普遍的な悲しみだ。感情的な浅い悲しみではなく深い悲しみだ。

独歩も植村正久も死んだ、立松和平さんも亡くなったのか・・・と、込み上げる無常感に覆われかけた時、真智子からのメールに頭(こうべ)を上げた。

Minneapolis FED(日本銀行にあたるアメリカ合衆国連邦準備銀行の一つ)のホームページに、娘夫婦が顔写真入りで載っていた!

肩書きは "Research Analyst"(調査分析者) だ。娘夫婦だけではなく3名の東大大学院の同窓が載っており、私はまたしても「がんばれ、ニッポン!」と、意味不明な言葉を心の中で発していた。(笑)

私の喜びの返信に対して「過大評価しないで等身大で見るように」と、いつものように忠告された。(>_<)

次女はミネソタ大学からも(返済不要の)奨学金による留学許可を頂いていたが、最初の2年間はIMFの奨学金を頂いて留学した。IMFの方が自分の研究に専念できる条件が整っていたからだ。

3年目の2008年9月からは、教授の研究補助や学部生を教えたりして生活費を得ているのだが、「ミネソタの経済学部の大学院生は全員、入学する時点で、就学期間の学費と生活費については保障してもらっています。」とのことで、サポートの具体的方法は3通りあるそうだ。

(1)大学でTeaching関係の仕事を週20時間して大学から給料をもらう。
(2)先生のResearch Assistantとして週20時間仕事して、大学経由で給料をもらう。
(3)ミネアポリスFEDに所属している先生・エコノミストのResearch Assistantとして週20時間仕事して、FED経由で給料をもらう。

次女は2008年の秋に(1)、2009年の春と秋は(2)、そして現在は(3)ということだ。本業は学生で、学費の免除と生活費のサポートをしてもらうために、(1)〜(3)のいずれかをするというわけだ。

従って、FED用にResearch Analystという呼び名がついてても、実質は大学でのRAと同じで、(2)か(3)かの違いは、先生が大学の研究費を使うか、FEDの研究費を使うかの違いだそうだ。

ホームページのアドレスはこれ!ここをマウスの左側を一回クリックして下さればOK。http://www.minneapolisfed.org/research/economists/gradstudents.cfm

また、出てきた画面左上にある" ABOUT THE FED " を開くと、連邦銀行総裁のナラヤナ・コッチャラコータ氏が載っている。私には聞きなれた名前だ。pronunciationを押して何度も名前の発音を聞いては真似る孫。わーい(嬉しい顔)

真智子は語る。
「『プレジデント』(総裁)のRAというのも、自分で達成したものではなく偶発的に生じたことだと思っている。
しかし、アミルもナラヤナも、まちとクマいう人間を知っていて、直接RAのオファーをくれたので、そういう意味ではとても嬉しく思っています」。


学部長のナラヤナさん(娘たちは先生とファーストネームで呼び合うそうだ)が連銀に移ると聞いた時、ナラヤナさんのもとで研究していた娘にとっては大きな痛手だった。長女のことで大変だった私の記憶にもはっきり残っている。
その時のことを次のように書いて結ばれていた。
人間の真智からみてアクシデントに見えることもすべて含めて、神様が最善として真智に与えて下さっているものなんだな、と本当に思います。
多くのことが真智の予想とは違うことで、しかもより良いことが与えられていると思います。神様はすごいです!本当に感謝です。

今後も、きっと自分にとって最善のものが与えられると思う。
信じて歩んでいきたいです。

では、またね。

自己欺瞞を否み、常に己を省みつつ歩む者の信仰を、神はこんなにも豊か祝福して下さるのだ。
そして、神から(能力を)多く与えられている者は多くを求められるのだなぁとしみじみ思う。彼らの日々の努力がどんなものであるか!そしてまた、私達に与えられている可能性に、自分で限界はつけられないと思わずにはいられない。

メールを読み終え、私は微笑みながら頭を高く上げた。そして、残された日々に目を向け、背筋を正した。

posted by 優子 at 11:38| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2010年02月10日

『国木田独歩と基督教』再論 F最終回

      9 結論

以上が再びたどってみたかったことである。序論に挙げた問題点については、予想通り同じ結果を得た。しかし、最も興味深い点であった独歩と神との関係や信仰生活については、予想していたものの以前とは大きく違うものであった。

そして、あの頃とは比べものにならないほど行間を深く味わうことができ、年齢を重ねるのはすばらしいことだと感慨深い。それだけに、信仰生涯に導かれた独歩が、日本の精神風土にみられる汎神論の方向に迷い出、死の床にある平安なき独歩を思うと胸が痛む。
 
独歩は常に何かをすることが信仰者であるように思っていた感があり、独歩の日記は信仰的というより倫理的すぎる。キリスト教は福音(喜びの訪れ)であって道徳ではない。人生修業でもない。福音は、我々を一切の恐れから解放し、真の自由を与えてくれるものである。

そして実際に生きていく時に、神様との深い人格的交わりの中で真理が明らかにされていくものであり、それは緩やかであっても確かなものである。

内村鑑三の入信でさえ、最初は真の神は唯一であることに目覚めた程度であり、神が人格的な存在であることがわかったのは、ずっと後のことであった。鑑三は言っている。「私は一度に回心したのではない。それは少しずつ遅々たる歩みであった」と。

信仰が与えられた後も、苦難の日々が続けば誰しも神への懐疑や迷いも経験し、まさに信仰生活は躓きの連続である。しかし、見えるところ悲痛な状態で生涯を終えたとしても、独歩は求めていたものを得たと、筆者は堅く信じるのである。

                      (完)

【参考文献】

1 『国木田独歩全集 第3巻』 学習研究社・昭和44年発行 『あ
 の時分』457頁

2 『近代日本とキリスト教―明治篇―』 創文社・昭和45年発行 149頁

3 『「文学界」とその時代 下』 明治書院・昭和45年発行 1374頁

4 『山梨英和短期大学紀要 第2号』 山梨英和短期大学・昭和43年10月発行 「国木田独歩とキリスト教」23頁

5 『背教者の系譜―日本人とキリスト教―』 岩波新書・昭和48年発行 127〜133頁
 
6 前掲『国木田独歩全集 第9巻』 345〜346頁 

7 前掲『国木田独歩全集 第3巻』 219〜222頁
 
8 前掲『国木田独歩全集 第9巻』 30〜31頁

9 前掲『「文学界」とその時代 下』 1378頁

10 前掲『国木田独歩全集 第10巻』 242頁

                        (完)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、卒論をもとにして再び独歩の信仰を論じた。結論に記したことは私の信仰理解であり信仰告白でもある。
掲載しながら再読し終えて、久保田暁一先生(著名な文学者・文芸評論家・作家)が語って下さったことを想起した。過去ログ2008年11月16日の記事に書いたことだ。

私の文学活動も一切党派を持たない。なぜならば、客観的に見られなくなるからだ。自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していくために、党派性をもたないでやってきた。
(このことは今年初めの日本キリスト教文学会に出席した時に、私は直観的に感じとっていた。)

イエスを追求するにも自己を持たないかん。人の物まね、受け売りはいかん。遠藤(周作)にしろ椎名(麟三)にしろ独自の文学論をもってやっている。

「おおいなるもの」を宗教と言う。
そのおおいなるものに支えられていることがとても大切だ。おおいなるものに支えられていると傲慢にならずに生きていくことができる。

教会では「赦し」や「愛」、「聖霊」について熱心に説かれているが、自らのことも含めて牧師も口先だけのものになってはいないかという思いも脳裡をよぎる。

「キリスト教の信仰が、口先だけでただスッパスッパやられているだけではどうにもならない、・・・わたくしたちの主体に深くかかわる出来事として、イエスとの出会いを、自分なりに明確につかみとりたい」(同志社女子中・高時代の宗教主任、西村幸郎先生の言葉)のスタンスは大切である。
これからも主体性を失うことなく、自らのこだわりを追求していきたいと思う。

posted by 優子 at 07:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月09日

『国木田独歩と基督教』再論 E

      8 独歩の晩年

『欺かざるの記』における教会に関する記事は、明治30年1月17日が最後であり、それ以後は見られない。そして、小説家としての道を歩み出した後は、次第に教会から遠ざかっていったようである。
では、最後まで驚異心の信仰であったのだろうか。ここに『病床録』の一部を引用したい。
 
  植村正久氏は始めて余の心を開ける人なり。余の心の合鍵は渠
  (かれ)の手にあり。故に余はその鍵を以って、今の余の煩悶より
  救はれんとせり。生死の境に迷へる余の心は、氏の導きに依つて
  初めて救はる可しと信じたり。
  氏は唯祈れと云ふ。祈れば一切の事解決すべしと云ふ。極めて容
  易なる事なり。
  然れども、余は祈ること能はず、衷心に湧かざる祈祷は主も容れ給
  はざらん。祈の文句は極めて簡易なれど、祈の心は難し、得難し。
  誰か来りて、この祈り得ぬ心を救はずや。余は衷心より祈を捧ぐる
  を得ば、その時直ちに救はれ得可きを信ず。(8)


祈ることを断念している死の床にある悲痛な独歩。笹渕氏は「(このように)慟哭せざるをえなかったのは、祈りが人格的、倫理的行為であるのに対し、彼の驚異心の信仰は単なる存在の問題に止まってゐたからである。」(9)と述べている。

しかし、これは離教した者の言葉ではないであろう。それどころか、独歩は神との出会いへ一歩踏み出したと考えられる。独歩に洗礼を授け、独歩と関わってきた植村正久牧師も次のように述べている。

  私が茅ヶ崎へ行って見ると、同君は私に「貴方は私の信仰を開く相
  鍵を持って居るから、私を救って呉れ」と云はれた。然し私はその
  時「私は相鍵を持って居ない。相鍵を持ってるのは神だから神様に
  祈らなくてはならぬ」と話した。けれど何うしても同君は祈ること
  が出来ないと云って泣かれた。
  
  同君が死なれる前に令弟収二君に対して「死は彼岸に達する努力
  なり」と言ったとか聞いて居る。これは私が同君に会った時話した
  事であるから、或は信仰に進むで死なれたのではないかと内心喜
  むでゐる。自分で、意識しなかったかも知れないが、暗々裡に恩寵
  れて居たのであろうと思はれる。」(10)
  

以上のことから、「五」で保留にしてあった点について、独歩は背教者ではなかったと結論づけるのである。
      
                      (つづく)

posted by 優子 at 06:22| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

『国木田独歩と基督教』再論 D

      6 独歩の告白『我が過去』について

明治29年4月12日に信子の失踪、その夏に結婚生活が破綻する。その頃、内村鑑三の招きに応じて京都に旅した時に執筆されたものと考えられる『我が過去』という文章がある。その中で、独歩はキリスト教徒である自分を反省して自分自身に問うているところがある。また、
 
  嗚呼、基督なく聖書なく祈祷なきの基督教信徒、高慢、卑屈、乱行、
  怠慢、薄弱、我儘の信徒。我は決して基督教信徒にあらざるなり。


と厳しく反省し、

  カーライルを夢み、ウォールヅウォースを夢み、バーンスを夢み、
  バイロンを夢み、今又西京に於て基督教信徒を夢まんとす。(6)

と記されている。

これらの意味するところは何か。離婚という大きな挫折を経験した独歩が、再び本心に立ち返って神との出会いを深めていく過程と見るのか、あるいは、独歩の思想に多大なる影響を与えたカーライル、ワーズワース、エマーソンらと同様に、独歩にとってはキリスト教もまた大きな影響を与えはしたが、思想的共鳴という次元で受けとられたにすぎず、信仰にまで至っていなっかたと見るのが妥当であるのか、考えさせられる点である。

かつて著者は後者の考えを結論としたが、笠井氏は、「そのような結論を早急に導き出すべきではない。…『我が過去』は信仰の深まりの中で、独歩がキリスト教徒としての自己を反省したものと考えるべきである。」と述べている。

改めて読み直してみると、この点についても笠井氏の意見を支持したい。何よりもあのように断定するのはなんと浅薄で傲慢であったかと思う。

      7 『悪魔』について

教会生活を経験する中で、独歩は律法の字句にとらわれてその精神を省みない、偽善者であり形式主義者であるパリサイの徒を見、彼らを憎む心を持っていた。

『欺かざるの記』の明治27年4月20日の記事や、『病床録』にも偽善を憎む文章があるが、明治36年5月に発表された独歩の告白、『悪魔』に登場する尾間利雄もパリサイ人の一人であった。

神の子にも似た思想を浅見謙輔に託し、その謙輔の手記『悪魔』は、独歩の思想的悩みの率直な告白であり、これを通して更に自分の思想を打ち建てようとしたものと思われる。
また、この作品から独歩の信仰についても見ることができる。
 
  我黙して山上に立つ時、忽然として我生存の不思議なるを感ず、此
  時に於いて『歴史』なく『将来』なし、ただ見る、我が生命其者の
  此不思議なる宇宙に現存することを、あゝこれ天地生存の感にあら
  ずや。かかる時、口言ふ能はず、ただ奇異にして恐ろしき感、わが
  霊を震動せしむ。思ふ基督が四十日間、荒野に於いて嘗め尽した
るものは此痛感にあらざるか。


これが独歩の信仰である。即ち、魂を裸にしてこの宇宙に向かい、不思議なる宇宙に驚きたいという独歩独自の驚異心の信仰なのである。また、
  
  神の有無を言う勿れ。『人』なる言葉を止めよ、先ず生物の一個と
  して面と面、直ちに此無窮なる宇宙に対し、爾の生命其者の存在を
  直感せよ。(7)


という記述から明らかなように、この天地生存感が独歩の信仰を支え、その充実こそが真の人生であるとする。そして、宇宙に孤立する人間の「生」そのものの意味を問い詰める、独歩独自の純粋な作品が生まれ、ここに独歩の芸術が確立するのである。しかし、それはキリスト教信仰とは全く異質のものである。

                      (つづく)

      
posted by 優子 at 07:49| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月07日

『国木田独歩と基督教』再論 C

      4 独歩のキリスト教観

『欺かざるの記』の中に、熱心な神への祈りが多く見うけられるが、ここで問題になってくるのは独歩のキリスト教および神についての観念である。

この日記から明らかにわかることは、独歩の神とは理想主義精神と結びついているため、当然のことながらキリスト教の核心にある“原罪”についての観念が見られない。

このことは重要な点であり、明確にキリスト教と異にするものである。現実の人間の罪性について、即ち、自由の主体として神にかたどって造られた人間の、神に対する罪の責任という観念が独歩には全く見受けられないのである。それゆえに、人間を理想化して考える理想主義精神と結びつくことも理解できる。

独歩は佐々城信子と灼熱の恋をし、信子の母の猛反対をも押し切って結婚するが、結婚生活は短いものであった。離婚の苦しみにあった時、ヨブ記を読み慰めを得ていたことも記されている。

しかし、日記は3ヶ月間中断され明治29年8月から再び書き始めるが、その後は慰めの対象が「自然」へと変わっていった。著者は独歩の信仰が、キリスト教と無縁なものであるとは考えないが、独歩の場合はキリスト教の教えに強く影響されはしたが、正しい聖書理解と信仰にまで定着するに至らなかったと結論づけた。そこで問題になるのが、背教についてである。
  
      5 背教者の問題
 
『背教者の系譜−日本人とキリスト教−』(5)で、武田清子氏は日本における背教を5つの類型に分けている。

   第一に、弾圧のための背教、第二に、偽装的背教、第三に、く
   ぐりぬけ的背教、第四に、日本化したキリスト教、あるいは、社
   会矛盾解決に積極性の足りないキリスト教などといったキリスト
   教会の現実に不満をいだき、あるいは、躓いて、非キリスト教思
   想へ脱出する背教、第五に、キリスト教を強固な神学的、信仰的
   把握をうらづけとして、信奉するのではなく、心情的共感をもっ
   てキリスト教に接近し、また、それを信じ、日本の民衆の中で生
   活し、実践し、思想する中で、背教を自覚的に決断することなく、
   東洋的宗教思想に回帰するといった背教。
 

独歩の場合を考えると、少し無理があるかもしれないが、第三のタイプに属するものと思われる。特にこの場合、著者も書いている通り日本においては多様な姿をとっている。

   近代日本のプロテスタント史を通観するとき、非常に数多く発見
   するところの、いわゆる「卒業クリスチャン」とよばれる人たち、
   すなわち、青年期にキリスト教とある程度の思想的接触をもちな
   がら、キリスト者集団内に一時身をおいただけで、福音との決定
   的な対決、回心を持つことなしに、ある期間を経てキリスト教か
   ら離れる人々がある。これらの人々は厳密な意味における「背教
   者」の範疇に入れることは適当でないかもしれない。(中略)
   
   また、明治期の欧化時代、あるいは、敗戦直後のアメリカ的デモ
   クラシーの流行時代に表面的「流行」の波に乗って教会の門をくぐ
   り、そしてやがてすりぬけて出て行った、まさに「通過集団」のよ
   うなくぐりぬけタイプももちろんあるであろう。


一般的には独歩も、武田氏が言う明治期欧化時代の「通過集団」のような、くぐりぬけタイプとして受け取られている。しかし、晩年の記述を辿ると単純にはそうは言いきれず、独歩の離教ということに関して筆者は疑問を持っている。

                       (つづく)

posted by 優子 at 08:29| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月06日

『国木田独歩と基督教』再論 B

       3 独歩の教会生活

独歩の最高傑作といわれる『欺かざるの記』は、数え年23歳から27歳までの5年間、即ち明治26年2月4日から30年5月8日までの生活と内面世界の記述であり、貴重な思想史と見ることができる。ここには教会やキリスト教に関する記事が多く、この日記から独歩の教会生活を窺うことができる。
  
  ・夜祈祷会に出席す。(明治26年2月4日)
  ・今朝聖書を読む。(同年2月26日)
  ・今夜自由社より直ちに我が教会の祈祷会に出席し、(同年3月
   1日)


など簡単な記述ではあるが、余程の事情がないかぎり聖日礼拝や祈祷会には欠かさず出席している。また、

  ・日曜日午前教会に出席す(略)余は独り植村正久氏の宅に開かる
   可き委員会に出席す。教会堂に出席者を案内する役をなす事をひ
   きうく、又、教会員人名住所薄編纂を申出で遂に余が編纂する事
   となる。(同年5月4日)
  ・夜教会懇親会委員会に出席す(同年5月17日)
  ・7日、昨日なり、後楽園に開かる可き教会懇親会に出席す。(同
   年5月28日)


などから、地味な教会の仕事にも積極的に協力している。そして、信仰者としての内省や神への祈りも数多く見られる。
  
  ・嗚呼、信仰の念は燃ゆるなり。(同年8月2日)
  ・白状す、薄志弱行を、不信仰を、「不シンシリティ」を、神よ、助
   け給へ。(同年8月10日)
  ・神を忘るゝ時程薄弱なるわれは非ず。(同年9月8日)
  ・余の信仰と思想と感情とは次第に進みつつあるなり。(同年11
   月9日)


このように受洗後の独歩は熱心に励んでいる。
この頃の独歩について代表する二者の見方がある。笹渕友一氏は、次のように述べている。

   受洗後の独歩は毎日曜、礼拝か祈祷会かに殆ど欠かさず出席
   してをり、信仰生活に対して熱意をもってゐた。しかし信仰その
   ものがどれ程の深さをもってゐたか疑問の余地が多い。(3)


これに対して笠井秋生氏は、
 
   『欺かざるの記』に見られる独歩の生活は敬虔なるキリスト教
   徒の瞑想と反省の生活であり、『我が過去』の告白からは決して
   想像出来ないクリスチャン独歩の姿がそこにある。熱心に聖書
   を読み、礼拝や祈祷会にかかさず出席し、教会への奉仕に努め、
   絶えず自己の信仰を祈りをもって反省する独歩は、ある意味で
   は模範的な信仰生活を送っていたと言えよう。(4)


と述べている。
改めて考えてみたかったことの一つはこの点である。卒論では笹渕氏の考えに立った。その理由として、独歩の情熱的な性格によるところが大きいことと、独歩は常に意気揚々と何かをすることが信仰者であるかのように考えているとも受け取れ、当時の独歩は敬虔なクリスチャンと見るよりも、熱心な教会員の姿として捉える方が正確であろうと考えたからだ。

しかし、そのように言い切ってよいものであろうか。著者は今、両氏の説に頷きつつも、信仰生涯に入って間もない頃の独歩に、「信仰の深さ」を問う笹渕氏の意見には異論がある。深さというのは、年月を重ねて生きて行く時にこそ実感し、獲得していくものではないだろうか。私は笠井氏の説が妥当であると考える。  

                      (つづく)

※ この笠井秋生氏に初めてお目にかかったのが2008年1月末のこと、久保田暁一先生に初めて連れて行って頂いた日本キリスト教文学会でだ。

「この人か」と私はどんなに感激したことか!まるで35年を経て憧れの人に会ったような気持ちだった。その時の様子と遠藤周作に関する短い討論は、2008年1月29日の記事(「懇親会で求められたスピーチで語ったこと」)に詳しい。

現在は梅花短期大学名誉教授、当学会の運営委員の一人であり今年もンポジウムの進行役を務められていた。「お名前を直ぐに忘れてしまうのですが、お名前は何て仰いましたか?」と休憩時に声をかけて下さり、親しくお話ししたのだった。


posted by 優子 at 08:56| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月05日

ほのぼのブレイク

tiger & Mt.fuji.jpg

これは三菱製紙の前社長が、昨年12月23日に昭和天皇記念館屋上から撮られたもので、真ん中に白く見えるのはこの写真を再び撮った時のフラッシュが写ったものです。
富士山にかかった雲は何に見えますか?
富士山から出てきた虎が火を噴いて気勢を揚げているようですね。題して、「富士山より湧きいづる虎」。見事ですね。

トラ年とも重なって評判になり、30名ほど(?)で組織されている菱和会(三菱製紙の紙を取り扱っている卸会社との親睦会)のメンバーにも配布され、2月1日に夫にも届けて下さったわけです。

その翌日には、アメリカはテネシー州のスー先生から23枚の写真が送られてきました。それぞれに短いコメントがついていました。その中から3つ、ご紹介しましょう。

笑いの薦めです。
" They know when we need a good LAUGH! ・・・ HAVE YOU SMILED TODAY????? "

(彼らは私達にいつ良い笑いが必要であるかを知っています。・・・
あなたは、今日、微笑みましたか?)


smile cat.jpg

猫の苦手な私もこれには微笑んでしまいます。そして、

laugh dog.jpg 笑ってしまうでしょう!
気持ち悪い?ふらふらでは、これはいかが?

cooking dog.jpg

NOW PASS IT ON, AND MAKE SOMEONE ELSE SMILE!!! (では、あなたもこの写真を見せて、他の誰かを微笑ませてくださいね!)
最後に我が家のチャッピーも登場させましょう。smileしてるよ犬
夏になるとこうして暑さをしのぎます。

チャックン、ひっくり返って暑気払い.jpg

「笑ってくれたかな?・・・今は寒いから丸まってるよ、ワン!」


posted by 優子 at 18:13| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

『国木田独歩と基督教』再論 A

         2 独歩とキリスト教の出会い
 
独歩が初めて教会の門をくぐったのはいつ頃であったかは、彼の回想的作品である『あの時分』より推察できる。友人、木村(佐藤毅)に連れられて教会に行った時の記述がある。

  木村の教会は麹町区ですから一里の道程は確にあります。(略)
  私は其以前にも基督教の会堂に入たことがあるかも知れません
  が、此夜の事ほど能く心に残って居ることはなく、従って 彼の 
  晩初めて会堂に行った気が今でもするのであります。(1)

 
この記述にある夜は、明治22年末から23年にかけての冬と推定され、それより以前に教会に来たことがあると書かれていることから、独歩が初めて教会の門をくぐったのは明治22年まで遡ることができる。
 
当時のキリスト教はまだまだ異端視されていたようであるが、インテリと呼ばれる人々においては流行していたとも言え、明治時代のキリスト教が、明治の青春を形成する上で大きな役割を果たしたことは見逃すことができない。当時の文学者の受洗について、亀井勝一郎氏は次のように述べている。
  
  国木田独歩、藤村、透谷はみな洗礼を受けています。ごく若いと
  きなのですが、(略)ほんとうに思想的な対決があって洗礼を受
  けたのではない。軽薄な面があったと思います。当時の流行とか、
  たまたま明治学院におったとか、そういう外的な理由があったと
  思う。けれどもその中で初めてヨーロッパ精神の核心に触れよう
  としたということはありますね。学問的にもむろん不完全きわま
  るものですが、青年固有の感情の動き、その精神革命の過程とし
  てみると意味ふかいと思います。(2)
 

確かに、日本におけるキリスト教の歴史の浅さや思想的対決の貧困などを考えると、受洗に際しての軽薄さは理解でき、独歩もその例外ではなかったようである。

政治や法律など社会的なものに関心を持っていた独歩は、哲学や文学というよりは社会倫理の側面からキリスト教に接近し、キリスト教会を中心に推進された社会改良運動の影響を受けたものと考えられる。
 
また『あの時分』に、教会に行った時の感動的な夜の記述があるように、教会で味わった異国情調や社交的雰囲気に魅了されたということも、入信への動機の要因になったのではないかと思われる。

このあと約一ヶ月後の明治24年1月4日、麹町一番町教会(現在の富士見町教会)において、当時、「牧師の牧師」と言われた植村正久牧師より洗礼を受けた。独歩20歳の時である。

                      (つづく)
 
      
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2010年02月04日

『国木田独歩と基督教』再論 @

2008年3月までの20年間入会していた「東大阪読書友の会」は、「河内の郷土文化サークルセンター」に所属しており、このサークルセンターが『あしたづ』という研究発表誌を1999年に創刊し、毎年1回2月末に発行している。

私は第5号より退会する年の10号まで、以下の6つの作品を寄稿した。

  2003年(『あしたづ』5号) 『国木田独歩と基督教』再論
  
  2004年(『あしたづ』6号) 文学作品に見る人間の真相
              ―選ぶということ、自由に生きるとは―
  
  2005年(『あしたづ』7号) 
       遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点
              (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)
  
  2006年(『あしたづ』8号) 『リア王』は悲劇か
                    ―リアの生涯を考える―
  
  2007年(『あしたづ』9号)  私にとって書くということ
  
  2008年(『あしたづ』10号) 私の忘れられぬ人
                    ―西口孝四郎氏との出会い―


毎年掲載されるたびにブログ上に公開し、ブログ開設以前に発表したものも掲載したが、デビュー作の国木田独歩論だけがブログに刻まれていないことに気づいた。そこで、今日より7回に分けて掲載したいと思う。興味のない方も読み進んで下されば嬉しい。

独歩の『欺かざるの記』の本文は旧漢字旧仮名づかいであるが、パソコンでは旧漢字を打ち出せないので現代使用されている漢字でお読み頂くことをお断りしておきたい。

この作品を書き上げた時、次女から論文の書き方について簡単にレクチャーしてもらって「著者」と書き改めたことや、「これから毎年、チャレンジすればいいね」と意欲を引き出してくれたことが懐かしく思い出される。
真智へ!
真智のおかげで退会するまで寄稿していたなんて驚きです。
真智が2003年春に東大へ行ってからも、結婚してミネソタへ行ってからも、ママは楽しみながらやっていたよ。ありがとう!
これからもますます情熱をもって励もうと思う。これからも時折々にプッシュしてね。

『国木田独歩と基督教』再論
                    
            1 序論
 
筆者は大学の卒業論文で国木田独歩を取り上げ、彼の人生と芸術に強く影響を与えたキリスト教との関係に焦点を絞って論じた。その時の結論は次の通りである。

独歩の神は、罪とは全く無関係の理想主義精神と結びつくものであり、正統なキリスト教信仰と異にするものである。それは、「自然即神」という汎神論であり、宇宙・人生の秘儀に驚異する驚異心の信仰であった。

しかし、死期が迫った時、キリスト教信仰を実感したように思われ、一般的に言われているような背教者ではないというものであった。
 
その後、筆者は35歳の時、まさにダンテの『神曲』冒頭にある通り、人生の半ばにしてキリストを信じる者の一人とされて、是非もう一度、今度は信仰者の目で独歩をたどってみたいと思うようになった。

そこで本稿では、独歩のキリスト教観、信仰観、背教者の問題を調べ直し、それらについてどのような見解を得るのか、また、独歩は神との人格的出会いがあったのかどうかについて探ることとする。

                       (つづく)

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2010年02月03日

芥川が最後に開いた聖書の箇所は?

芥川が自殺する夜(1927年・昭和2年7月24日)、芥川は午前2時頃まで2階で書いていた。

階下に下り、寝室の隣りの部屋には子供たち(長男・比呂志、次男・多加志、三男・也寸志。次男は父に似て最も文学志向が強かったが第二次世界大戦で戦死)が寝ていて、そばでウトウトしていた妻の文(ふみ)と視線が合い、「いつもの薬を飲んできたよ」と言った。

そして、寝床に入ってから聖書を開いていたが、薬が効いて聖書で顔を覆うようにして眠りに入った。
「茂吉さんが与えていた睡眠薬は、急に回ってくると、それこそぱったり眠りにつく」と、佐古純一郎は斉藤茂吉から実際に聞いている。当時としては最高級の睡眠薬だったそうだ。


芥川は「いつものように飲んできたよ」と言ったが、実は致死量飲んで寝床についたのである。彼は2度と目覚めることなく35歳の生涯を閉じた。

最後の寝床で聖書のどこを開いていたのかは誰もが興味深いところである。大家はエマオのキリストのところに間違いないと言われている。そこはルカ伝24章、有名な場面だ。

イエスが復活された日、それを知らずに悲しみながらエマオ村に向かって歩いていた二人の弟子に、イエスが現れたという箇所である。(最後の「続きを読む」にその箇所を掲げた)

というのは、絶筆となった『続西方の人』(この作品は文夫人が聞き書きしたものだったと思う)の最後を、「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないであらう」という言葉で結んでいるからだ。
「これが芥川が地上に残した最後の言葉」であり、遺言でもある。

この言葉は「聖霊が言わせたんじゃないですかね。私にはそう思えてしようがないんですよ」と言った佐古純一郎(牧師)の言葉に、佐藤泰正もまた「そうですねえ」と、第一級の二人の文学者が同じ見解を述べている。


先日の日本キリスト教文学会で発題された細川正義氏の芥川への視線とは、同じクリスチャン文学者であっても少々異にするように思う。

私は昨夜遅くから今朝も目覚めてすぐ読んでいたのだが、この書物(『漱石 芥川 太宰』 朝文社・1992年発行、先日30日にお目にかかった宮坂氏のことも何度か話に出てくる)を改めて読むと、今まで芥川のことを「知の敗北」と片付けていた私は傲慢だと思った。

そして不思議に感じるのは、錆びついていた感性がたった一日で潤いを取り戻し、しかも、これまで以上に磨かれているように感じるのはどうしてだろうか。このたびの苦悩がもたらしたものなのか。

底なしの空虚に苦悩する芥川と、裁きの神しか見なかった絶望の太宰をじっくり読んでみたいものだ。

漱石に傾倒していた芥川、そして、「芥川の枕頭に開かれた聖書を取り上げて読み出した」太宰。

共に自己を深く見つめ、人間を掘り下げていった彼らへの関心は尽きず、私の中で眠っていたマグマが噴出してくるような勢いを感じる。


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posted by 優子 at 12:18| 文学 | 更新情報をチェックする

2010年02月02日

日本キリスト教文学会メモ・芥川龍之介(後編)

関学の副学長細川氏もまたクリスチャン文学者で、この日は通っておられる教会の牧師も来られていた。以下は細川氏の話されたことの中から興味あるところをメモしておきたい。

芥川は東と西の対立する地点に立っており、日本人の変わらない価値観に西方のものというメスが入れられている。

『おぎん』は儒教の影響が非常に強い作品で、ザビエルの書簡を読まずして『おぎん』は論じられない。

ザビエルは1549年から1551年の2年間ほどの宣教で900人導いた。インドでは一ヶ月に1万人だったというから日本での伝道の仕方に問題があったのだろうか。

ザビエルは、「日本の第一の悪魔は釈迦と阿弥陀だ」と言っている。
日本人は中国の哲学を重んじるので、中国人が信じたら日本人も信じるだろうと考えたザビエルは中国へ渡ったが死んでしまった。

当時の宣教師といえばパードレ(神父)であるが、伝道者への批判もあっただろうが、遠藤(周作)は信仰者であり、芥川は正しくキリストに向き合うことができない負い目があるから、最後まで造形なものを見ていく芸術性になっていったのではないか

そこがクリスチャンでない芥川の限界であり、「父なる神、母なる教会」を持てなかったから自殺に至ったのではないか。それと、遠藤は皮膚感覚として「母なるもの」があったのに対して、芥川は無かったことも関係するだろう。


(※芥川は築地居留地の隣接地に生まれ、両親の大厄のために捨て子の形式をとられ斜め向かいの教会の扉の前に捨てられた。)

出席された牧師の発言:

『おしの』では宣教師のあり方も問題があったということだが、イエスに躓くのならばしかたなくとも教会の姿で躓かせてはならない。包み込むような教会でないといけないと思う。牧師への助言があれば伺いたい。

現代はアジアを一区切りにできず、例えば、日本のクリスチャン人口が0.7%に対して韓国は非常な伸びを示している。それについて興味深いことをお聞きした。

「大都会ではクリスチャンは30%越えていると言われている。いろんな宗派があり、考え方の違いもあり、シャーマニズムの土着化もある。日本はもっと厳しい信仰ではないかと思う。」

今回もまたこの学会のために韓国から来日された韓国仁川大学校の曹(正しくは縦の棒が1本の漢字)教授だ。

一時期、『西方の人』を「さいほうの人」と読むのが正しいと言われた時代もあったが、「せいほう」が正しい。「芥川家では『せいほうの人』と読んでいます」と家人も述べている。

芥川の絶筆は『西方の人』だが、本来ならば『日蓮伝』などを書くのが自然だった。辞世の句は、「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」。
                           ―以上―

何事も知識がないと質問は湧いてこないものだ。
この1年間で知力だけではなく、感性も著しく錆びついてしまっているのがわかった。理解度も低く、それに比例して感動もなく、メモを取る内容も限られてしまった。


大阪キリスト教短期大学准教授・森田美芽氏の「キェルケゴールの女性論 ―その思想と生涯―」も同様だった。感動なく聞き流していた。

キルケゴールは、「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何か?自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。・・・」と述べている。

キルケゴールは人間に対して自分というものを自覚せよ。自己であれ。神の前に立つ一人の人間であれとしながら、女性は男性と同じ精神ではありえないと言っている矛盾をいかに考えるのか、それが森田氏の主題である。

女性観については時代的制約を免れ得ないだろうが、その人物の母親像はその思想に大きな影響を与えるものである。独裁的な父に黙って服従する母だった。森田氏は次のように結ばれた。

「キルケゴールは自分を深め、神に対して問うばかりであったが、神と出会い、隣人を発見し、他者との関わりを通して癒され変えられていったり、私と神と他者との三角関係になっていく。そのほうがキルケゴールが求める自己のあり方だと思う。」

キルケゴールについては高校2年生の聖書の時間に知り、スピノザと共に興味をもった哲学者だった。
今振り返ると、キルケゴールは私に信仰に至る言葉を与えてくれたように思う。信仰をもってからも、神の真理を求める者の真髄を教えくれた思想家である。

昨日は冷たい雨が降り今も雫が残る曇り空であるが、天気予報を伝える明るい女性の声がラジオから耳に飛び込んできた。

「上空では既に青空です」!

2010年2月、今より再び真理への探究心を燃え上がらせて励もう!


posted by 優子 at 08:56| 文学 | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

日本キリスト教文学会メモ・芥川龍之介(前編)

日本キリスト教文学会関西支部は1996年に発足された。母が召された年である。第1回目では芥川を取り上げ、三者による華々しいシンポジウムだったようだ。

三者とは、芥川研究のトップ・宮坂覚氏(国際芥川龍之介学会会長、フェリス女学院大学学長)、遠藤周作の笠井秋生氏、そして、当会の世話役であり関西学院大学副学長の細川正義氏だ。

15回目の今回は3度目の芥川である。三者共に今も活躍されている。
出席者36名中、その3分の2が近現代文学の著名な研究者、大学教授、大学非常勤講師である。あとは10名ほどが大学院生であり、私のような畑違いの者は2〜3名であろう。カルチャーセンターではないのだから。

宮坂氏の発言(青色で示す): 

芥川は聖書を読みながら自殺した。これが大きなことで、これこそが始まりで研究しはじめた。
どういうところから自分の人生を発題していくか。
どういうところから自分の人生や人の人生を語っていくのかを押さえておかないといけない。どのような視点でそれが転回していくのか押さえておかないと語れない。

(例えば)あの時の芥川は芸術的だったというように。そのことを押さえておかないといけない。
私(優子)自身を語ればこういうことだ。

苦悩一色だった2009年の出来事を押さえておかないと、ノイローゼになる危うさを感じるほどに悩んでしまった信仰者の在り方―特に牧者への深い絶望と迷妄―を、的確に批評することはできないということだ。

確かに自分史においても2009年―正確には2010年1月末まで―は間違いなく転機になる時期である。それゆえに、まさに今この時、新しい芽生えを感じ始めている。


誰が初めに「切支丹もの」と言い出したのか調べたがわからないが、芥川作品から「切支丹もの」を何作に数えるのかというまとめ方は好ましくない。キーワードで作品群をくくることには問題がある。

(宮坂氏が)イギリスに居た時、英国人に質問された。日本人のわからないのは、困った時は困った顔をすればいいのに微笑むことだ。これはどういう理由だと問われて困った。
異物感か・・・何かが倒壊していくような感じなのだろうか・・・返答に困った。

芥川は自分の中でわだかまっていた問題(西と東の問題)があったと思われる。勿論、文明批評を考えていたのではない。それは日本人の近代の宿命的なものだ。
近代精神がプラスのものとして一気になだれ込んでくるが、それらは日本的なものと鋭い対立関係にあった。

芥川が著名になりつつあった時に、あえてメジャーではない同人雑誌に『煙草と悪魔』(1916年・大正5年、『新思潮』)を書いたのかを考える。

「こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々(あいあい)たる日光に浴してゐると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行なふと云ふ気にもならずにしまふ。」(『煙草と悪魔』より)

何らかの問題を持っていないと、このような着想は出てこないだろう。


内村(鑑三)は、「日本には徹底した悪人も徹底した善人もいない」と言っている。・・神が有っても無くてもいい日本人。

『西方の人』は切支丹ものではなく、東と西を乗り越えていくものがあるのではないか。東と西の同質性を探っていくようなものがある。キリスト教受容の可能性。


結びとして、「近代精神、宗教(キリスト教)、芸術という三者鼎立(ていりつ)の構図の中に芥川龍之介の切支丹ものを発見することができる。さらに、その意味を問うことが、新しい地平を拓くものとなる。」と、芥川の問題を自分の問題として語られた宮坂氏にクリスチャン文学者たる輝きが顕在している。

芥川は実母の発狂や自らの苦しみから何かに庇護されたいとの思いがあったのであろうか・・・作品を時系列に読みながら芥川の心の揺れを探るのも興味深い。
                       (つづく)

posted by 優子 at 14:48| 文学 | 更新情報をチェックする