2010年03月30日

自宅前の道路新しくされる

明後日から4月だというのに真冬の寒さである。
血圧は今も高いのだが自覚症状がなくなったので、恐々ながらも気になっている自治会の用事を済ますべく10班内を巡り歩いた。9日ぶりのウォーキングだったので朝は脚に力が入らなかったが、2度目に回った夕方は気にならなくなっていた。

毎年、自治会内の道路の一部分を舗装工事してもらっているが、今年は自宅前と一段下の道路を舗装することになった。環境業務役だった私が役所にお願いに行ったのだが、決して役得ではなく昨年度の要望書から引き継いで申し出たことだった。

この住宅地が開発されて44〜45年になる。今までに半分余りの道路が改良されているように思う。同じ班の人は異口同音に「40年で初めてのこと」と喜んでおられた。

アスファルトを剥がしたのは27日(土)で雪の舞う寒い日だった。
私は孫と二人で窓に張り付いて見ていた。まるで家の前を通る祇園祭りの山鉾でも見るかのように、特等席で飽きもせずに見ていた。

昨日アスファルトを敷いてもらえるかと思っていたが期待はずれで、やっと今日、待ちに待ったアスファルト敷き(?)を見られると喜んだものの、私一人で見ることになってしまった。

と言うのは、舗装したあとは夕方まで歩けないと聞いていたこともあり、今はまだ3軒先が終わったところだからと、娘は11時頃に子供を連れて散歩に出たのだった。
ところが、子供が言うことを聞かなかったために、家近くに戻って来た時は家の前をやっていて、見ることも家に入ることもできなかった。

私は私でまだかまだかと2人の帰りをヤキモキしながらの見学だった。一生に2度とない最高のチャンスを逃した孫と娘。せめて写真を編集しておいてやろうと、お風呂に入る頃になってからやり始めている。

写真からも寒さが伝わってきそうな27日の土曜日。
ショベルカーで古いアスファルトを剥離したあと、
砂を補充して道路の補正をしている。

道路工事1.jpg

次の写真は今朝の9時過ぎだ。
氷点下(−1.4度)の朝だったが陽射しがあるので明るい。
これは重油を噴射しているところだ。

道路工事2.jpg

そのあとを青グレー色の細かい砂を撒いていた。

道路工事3.jpg

いよいよ舗装工事が隣家前に迫り佳境に入る。
写真には写っていないが、
左手前にはアスファルトを積んだ大きなトラックが控えている。
コールタールの臭いと煙で
現場の人達の健康が心配でならなかった。

道路工事4.jpg

総勢12人、全てがプロフェッショナルの仕事だった!
そのチームワークの良さに感動して見入っていた。
正午、既に自宅前を半分過ぎた所だ。
20分ほどの短時間で家の前は新しくされた。

道路工事6.jpg

次の写真前方角に孫と娘の姿を発見したのは12時2分頃だった。
手を振り合ったが、どうすることもできなかった。ふらふら

道路工事7.jpg

12時40分、娘は子供を負んぶして
反対方向から溝を歩きながら帰宅した。
トラックは次から次へとひっきりなしに10台以上来たと思う。
1台のトラックで3回に分けてアスファルトを移していた。

そのあと、地ならしのためにこの2倍大の車とで
何度も何度も行ったり来たりしてくれていた。

道路工事8.jpg

作業員さんたちが昼食休憩に入ったのは1時40分頃で、
2時過ぎには再び裏の道路から音が聞こえた。

そして、5時頃に工事は終わった。
孫と娘とチャッピーと一緒に新しくなった道路を歩いて、
お留守だった班長さん宅を訪ねた。
この時もまだ道路を触ると温かさが残っていた。

道路工事9.jpg

昨日、ユキも工事のおじちゃんに「ありがとう!」って言ったね。
きれいな道にして下さったことを忘れないでいようね。

ところで、日本の道路の95%がアスファルト舗装道路で、掘り返された使用済みアスファルト混合物は生まれ変わり、リサイクル率は約99%に達するという。
「ちなみに日本初のアスファルト舗装は明治初期、長崎市の旧グラバー邸(現グラバー園内)前の小道だそうだ。」

夕刻、お隣さんの自動車が新しくなった道を通ってパーキングに入った。どの人も皆、きれいになった道路を喜んでおられるだろう。

しかし、私は剥離から舗装まで全てを見ていたので、従事されている方々の御苦労がわかった。これからは道を歩く時もこの方々の姿を思い出して感謝を忘れないだろう。

人生も同じだ。
苦労してこそ味わいがある。
苦労してこそ喜びと感謝がある。
この世の不条理に苦しんでいる人も、今は辛くとも耐え忍んでよかったと、必ず主はそこまでお導き下さる。今を突き抜けよ!

悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。

このような人は
流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。

悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
 
              
                 (詩篇 1篇1節〜6節)

道路工事に従事して下さる方々の健康が守られるように祈りつつ。



posted by 優子 at 23:09| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年03月28日

追記:主イエス・キリストと共にあり!

さきほど私がお風呂に入る前に、「今日の週報はどこにあるの?」と知子が聞いてきた。娘は今朝歌った讃美歌を確かめたかったのだ。
「讃美歌21の306番よ。ママは深く感じて歌いながらボロボロ泣いてしまった。」と話したところ、「私も泣いていた。ユキがこうして指で涙を触っていた。心配させないように抱しめた」。
礼拝では夫を真ん中にして座っていたのでお互いに全く知らなかった。

「私は最初の2小節を聞いた時に涙が出てきた。あの曲を知りたい。」と言うので、『讃美歌21』を持っていないので検索したところ、インターネットは即座に欲求を満たしてくれた。
そして、「今日のブログに書いたから読んでね。」と言って私はお風呂に入った。
暫くすると、ピアノ演奏が聞こえてきた。
と同時に、「思い出した!!!」と、私は大発見した科学者のように声を上げた。

当地に来てから通っていた教会は讃美歌を歌わない教会だったこともあり、讃美歌21になったことを知ったのも数年前だった。
これはかつて私もずっと耳にしていた曲で、知子が小学校6年生の時だったと思う。千里さんに頂いたカセットテープ、『マイピース クラリネット・プレイズ 柳瀬 洋』に入っていたことを思い出したのだ。股関節の異常や母の難病がわかって暗く打ちひしがれていた頃に聞いていた曲だった。

今もまだ魂は痛々しい状態の知子は、久しくピアノを弾いていないのに、神の与え給いし娘の絶対音感は失われていなかった。
楽譜がなくても、このメロディーを耳にしただけで即座に変ホ長調を直観し、勿論伴奏をつけて弾きこなしていた!


そのテープから聖歌400番の「君もそこにいたのか」という曲だとわかったが、聖歌ではフラット(♭)一つのヘ長調の曲が、讃美歌21ではフラット3つで編曲もしてあり難しいものだった。

そう言えば、知子は子供の時からこのクラリネット演奏に魅かれていた。特に「主はわが隠れ場」が好きだったそうだ。

そして、娘は続けて話し始めた。 
「私が礼拝で流した涙は感謝の涙ではない。自分でも思いもしなかった感情があふれ出しての涙だった。
今はキリストの愛からゆるしているのではない。ゆるしの動機はイエスさまの十字架の愛からではない。悪に手向かうと巻き添えを食うからだ。だからしかたなく諦めから無抵抗になっているだけだ。
私の涙は感謝や再生への涙ではなく悔しさに耐える涙だ。」

と話してくれた。

「それでいい。
今はそれでいい。そのような気持ちにもなるであろう。あまりにもあまりなことゆえに・・・神は決してお責めにはなっていない。その正直さゆえに神に慰められるのだ。そこを通らずして歓喜には至れない。

主はそのことも全てご存知だから、知子の心の中の痛みを涙にして外に出して下さったのだ。
必ず確実に癒して下さるから主に委ねて安心していなさい。
イエスさまは知子をどんなに愛して下さっているか!
イースターに希望をつないで生きていこうね。
イエスさまが復活される朝、知子にも新たなる力の息吹きを吹き込んで下さることを信じて祈っているよ。」


知子の心と身体を完全に癒して下さるように。
そして、私の霊肉を強くして下さって、もっと愛をもって家族に仕えることができるように祈ろう。
教会へ連れて行ってくれた夫の上にも豊かな恵みがありますように。
夫の健康を支え、明日からの仕事も十分に務めることができますようにお守り下さい。

ご案内: 
讃美歌集をインターネット上に開設し提供して下さっているので、早速「お気に入りリンク」に追加させて頂きました。
その「讃美歌midi集」をクリックして、是非『讃美歌21』の306番をお聞き下さい。このほかにもいろんな讃美歌が聞くことができます。恵みを配信して下さっている著作者の「すーさん」に感謝します。

そして、これをお読み下さっているあなたの上にも神の豊かな恵みがありますように!


posted by 優子 at 23:19| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

今日から受難週 ―イエス・キリストは今日も十字架上で私のために祈って下さっている―

教会歴では今日は受難節の第6主日で、「棕櫚の日曜日(パーム・サンデー)」と呼ばれる。palmcros01.gif

今日からいよいよ受難週(Passion Week)に入り、2日の金曜日(Good Friday)に十字架につけられ、3日後の4日(Easter)に復活されるのである。

西大和教会の名誉牧師である高見敏雄牧師は、馬見労祷教会を4年間牧会されて今日が最後のメッセージだった。

1968年4月4日、マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺された時、高見牧師はその地に滞在されていた。それはイースターを間近にした受難節中の出来事であった。

「その2日後の日曜日はパーム・サンデーだった。礼拝では説教はなく、ただ" We shall overcome "を歌っていた。
その間に、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と、ルカの23章34節のみを何度も朗読していたことを鮮やかに思い出す」
と感慨深げに話された。

彼らは決して暴力で抵抗しなかった。
愛による抵抗、赦しによる抵抗、イエス・キリストによる抵抗運動と言える。神の愛とは赦しの愛である。

ガラテヤ人への手紙3章1節の「十字架につけられたイエス・キリスト」は、文語訳では「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」となっており、イエス・キリストは今日も十字架上で「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈って下さっているとも読むことができる。

イエス・キリストは今日も私のために十字架につけられたままなのだ。イエス・キリストは今日も十字架上で藤本優子のために祈って下さっているのである。(あなたのお名前を入れて読んで下さい!)
キリストは、私達のために十字架にかかって今も祈って下さっている。


人は悲しい時、自分で悲しんで小さくなっていくが、そういうことのないようにと神が祈って下さっている。愛する人を天に送って悲しんでいる人には、「愛する人をわたしは引き受けていますよ」と、語って下さっている。

「永遠の命」とは神の国に帰ることであり、イエス・キリストを信じる私達の未来は保証されている。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」。(ヘブル人への手紙13章8節)

私達は信仰において、イエス・キリストは今も生きて、教会のために、私達のために祈って下さっているということを覚えるのが、ルカの言葉を深く読むことになる。

高見牧師は「神の愛、ここに」と力強くみことばをとりつがれて、「思いを新たにイエス・キリストに従っていくことができますように、・・・パームサンデー、イースターを期に新しい出発をさせて下さい。」と祈りを捧げられた。

養いになる説教と、『讃美歌21』の306番、「あなたもそこにいたのか」を通しても神は豊かに恵んで下さった。

「あなたもそこにいたのか 主が十字架についた時、
ああ いま思い出すと
深い深い罪に 私は震えてくる

あなたもそこにいたのか 主が釘で打たれた時、・・・・

主が槍に刺された時、・・・主を墓におさめた時・・・

あなたもそこにいたのか 主がよみがえられた時、
ああ いま思い出すと
深い深い愛に 私は震えてくる」


いつものように元気よく1節を歌いだした私は、2節、3節をどのように歌っていたのかわからないが・・・4節になると涙がこぼれ、最後の5節は涙が止めどなく流れていた。

夫は昨日ゴルフで疲れているので礼拝に出ることを諦めていたが、先週も自治会のために行けなかったので夫の体力を心配しながらも無理を言って連れて行ってもらった。

そんなわけで今回も交わりをしないで礼拝だけで失礼したが、高見牧師はいつも礼拝が終われば直ぐに玄関に行き、帰る者を見送られるのである。同じようにしておられた小山牧師をいつも懐かしく思い出すのだ。

教会では上に立つ人こそが最も人々に仕える者であり、世の中と反対である。私はそのことを身を持って教えられ育まれてきたことを、この上なく感謝している。

牧師は今日も玄関で孫に手を差し伸べて握手して下さり、「ゆきひさくん、よくお祈りできるね」と誉めて下さった。
孫は教会でも祈りの最後には見事なほどにグッドタイミングに「アーメン」と唱和するのである。孫が神の家族の中で育まれる恵みを感謝し、これからもそのことだけを切に祈りながら前を向いて生きていこう。


孫はこの前も教会でお菓子を頂いたものだから、今朝席に着いた瞬間に「今日はラムネくれないの?」と言っていた。ふらふら 教会はお菓子をくれる所だと思っているようである。わーい(嬉しい顔)

東京では今朝の礼拝で、希望姉の二人のお孫さんが揃って洗礼を受けられたことだろう。幸悠のその日を思い浮かべながら、お孫さんたちの祝福をお祈りした。

2時半頃から4時までお昼寝中のユキ。
パームサンデーのお昼寝.jpg

向かいのソファーにはおじいちゃん(良輔)が寝ていた。今は先に起きて母屋へ行ったおじいちゃんを追って孫も母屋で過ごしている。

私は年を取るほどに主の御受難に涙が溢れる。
新しい週も主イエス・キリストが私達と共にいて下さいますように!主に感謝し、家族や周囲の人々に仕えることができますように導きを祈りつつ。

* 次に書いた「追記:主イエス・キリストと共にあり!」は、カテゴリ「知子への想い」に収録した。


posted by 優子 at 17:17| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2010年03月26日

冤罪被害者の訴え

足利事件の菅家利和さんに再審無罪判決が出た。

今日の毎日新聞によれば、「佐藤裁判長は判決言い渡し後、2人の陪席裁判官とともに立ち上がり、『菅家さんの真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪うことになりました。誠に申し訳なく思います』と菅家さんに謝罪し」、深々と頭を下げたそうだ。

これは異例のことである。
しかし、菅家さんの名誉回復のためにも判決を言い渡す場面のカメラ取材は許されず、司法の意識は旧態依然として改善されてはいなかった。


菅家さんは裁判所前で、「絶対に私と同じような冤罪をつくってほしくない。これで最後にしてほしい。」と語った。その胸中を想像すると言葉が出ない。

先月のBS番組だったと思うが、冤罪被害者の免田栄さん(84歳)は次のように語っていた。

「事件に巻き込まれなければ、人の喜ぶことを喜ぶ人生だった・・・いつの間にか暗い穴の中に落ちていった。
なぜ私が無実の罪を背負うことになっていったのか!
明白なアリバイがあったにも関わらず、間違った日を証言していた。それを証明するために34年もかかった。

自分が被告にされた時はどうなるだろうかということを考えてやらねばいけない。人が人を裁くことはできない。

無実を訴えている者には、その声に耳を澄ませてほしい。それが、私、免田栄の願いです」。


重い言葉である。
自分がそのような立場に置かれたらどんなだろうか。
実に重い言葉である。

冤罪を憎むのは冤罪被害者だけではなく殺害された被害者だ。
警察は誰でもいいから犯人にすればよいとでも思っているのではあるまい。ましてや無実の罪の者に死刑執行することだけは絶対に防がねばならない。何よりも真犯人は野放しにされているのだ。

どんなに謝罪されても、免田さんの34年間、菅家さんの17年半は返ってこないし、人生を奪われた冤罪被害者にとって過去と決別できるまでは地獄の苦しみである。生きている限り苦痛を伴うに違いない。

これからもどうしようもない苦痛が何度もうねりとなって押し寄せてくるであろう。しかし、取り返しのつかぬ年月に思いを縛られては、これからの日々まで破壊されてしまう。


どうか菅家さんや免田さんなど冤罪被害者の方々の上に、神の特別なる慰めと祝福があるように、豊かに豊かにあるように。そして、菅家さんを支援し続けた人々に感謝と敬意を表したい。

少なくとも国家は、今後の経済的支援と社会復帰に尽力せねばならない。選挙権はもとより国民として正当に遇するべきだ。


posted by 優子 at 21:40| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2010年03月25日

神のみが心の病を癒す

「鬱病や神経症は、自分が作った『枠』から外れる自分を受容できなくなった結果であり、強迫神経症も成功したいと思う自分と、失敗を怖れる自分の葛藤で・・・・『枠を守って頑張ってきた自分』と『枠を守れなかった自分』の両者を受容することが大切である。枠にこだわる人は真面目で有能な人。」というようなことを読んだことがある。

「全て私が悪いんです」と自分を責めるのも問題の解決にはならないし、他方、「あの人がこんなふうに言うのは私のことを陥れようとしているからだ」と、何事にも被害妄想的に意味づけていく人もいる。
うまくいかないことは全て外側の問題にし、自分の内面や感情を見ていくことができないのだ。

なぜ被害妄想が出てきたのだろうかと自己洞察できればいいのだが、緊張が高まるとそういった思いも高まり、我々も一つ間違うとパラノイア(paranoia、偏執狂・妄想狂)や分裂病の世界に入っていく。

人間とはそのように弱いものである。精神の健全、不健全の境目は微妙であり、カウンセラーや精神科医も混乱しないためにスーパーバイザーにつきながら来談や診療を進めていくとは、臨床心理学を学んでいた時に何度も聞いた話だ。

いずれにしても、現実を吟味する能力が確かであれば精神病ではない。
そして、大切なことは「私は困っている。どうしたらいいのだろう」という思い(心の準備)がなくては、カウンセリングや受診も意味をなさず治癒への道は開かれていかない。


とにかく、一人だけで悩み過ぎないことだ。
「たった一人でも心の中を本当に打ち明けられる人がいたら自殺しない」というのが自殺防止の鉄則だ。悩める人のそのような存在になりたい。

聖書(箴言 13章12節)には、
「望みを得ることが長引くときは、心を悩ます、
願いが叶うときは、命の木を得たようだ。」

とある。意訳すれば、望みがあなたの心に留まっているならば望みが叶うということだ。
私の中に希望があります。
この希望が病を追い出していきます。
神さまからの健康が今、私の中にあります。

ですから、戦いの中に前進することができます。
戦いは長びくかも知れません。
収穫の実は、まだ少ししか見えないかも知れません。

しかし、希望であるいのちの木が
私たちの中にあります。
私は実を結ぶように定められているのです。

どうか皆さん、つぎのことを一人ひとりが告白して下さい。
私は実を結ぶように、定められているのです

これは22日に撮った裏庭の桃の木だ。
義母が孫達の雛祭りにいけた枝を庭に挿しておいたら、こんなに大きくなった。
桃の花.jpg

義母と墓参に行った20日は夏日になり、21日の総会も暖房を入れなかったのに、23日には1月末から2月初めの真冬並の寒さに戻ってしまった。冷たい雨は3日間降り続いている。咲き始めた春の花々は震えていることだろう。

苦しみの中にある方々が、その苦悩を通してまことの神と出会われることを祈りつつ・・・


posted by 優子 at 22:54| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2010年03月24日

体調悪し、されど再びめぐる春に霊の息吹き感ず

昨日に続いて冷たい雨が降っているが、さえずる鶯の声、咲き始めた桜の花に再び春はめぐる。

先の記事の最後に、「私も新年度のデザインを構想して良い1年にしたい。」と書いたが、神は早速その思いを実現して下さろうと、その夜の入浴中に具体的な思いを与えて下さった。

自らの信仰生涯を語る本の出版だ。
このことは自治会のことで1年ストップさせていたことであり、常に忘れてはいないものの具体的なビジョンが見えてこなかった。

同じ22日夕方のこと、地域のある方から過分なる感謝のお気持ちを頂いた。その方は昭和2年のお生まれだから母より2歳下、母が生きていたら・・と、話しながら今も母の面影を追うていた。

昨年末にも御愛をお受けしていたので、今月中には梅田へ出て贈物をと思っていたところだった。この方は私がクリスチャンであることを知っておられ、新島襄の妻のことを話されたりしたので驚いた。

80歳を過ぎてパソコンを使い始めようとされており、本も読まれるということを知り、自己紹介のつもりで読書会の機関誌に書いてきたものをお届けすることになった。

そんな話をしていたからだと思うが、いろんなところで掲載されたものを一つにまとめ、そこにエッセーを書き下ろせば200枚近くになるだろうとの思いが与えられ、私は神さまの促しを感じて湯船の中で大きな声で感謝の叫びを挙げたのだった。
そして、直ぐにでも始めたいと熱情に駆られるのに反して再び体調は悪くなっていた。


入浴中にフラフラと倒れそうになった。
普通、入浴すれば血圧は低くなるのだが、入浴直後でも(159/99)もあり、気分が悪く吐き気まであった。
父が脳梗塞で亡くなっているので怖くなった。吐き気、しびれ、失禁・・・と、兄が話していたことが脳裡をかすめた。

昨朝も体調は非常に悪く受診すべきか医師の指示で休んでいた。
しびれがなかったので様子を見ていたが強い吐き気があり、天井はグルグル回っていた。天井だけではなく身体も引っぱられるような感覚で、まるでビックリハウスに入っているようだった。

午後3時頃になってようやく落ち着いてきたので初めて食事をとった。食べたあとはやや吐き気がするものの一度ももどさずに胃に治まった。

今も血圧は(160/100)あるので宙に浮いている感じがするが、これだけの文字も打てるようになったので、一筆箋を書いて早くご婦人に届けたい。

命の危機を感じた今回も、最初は「神さま、命を下さい。もう少し生かして下さい。」とのみ祈っていたが、まもなく「神さま、今までおかしてきた罪をお赦し下さい。救われていることを感謝します。あとのことを宜しくお願いします」と祈るのみだった。

いつも癒しを簡単に諦めてしまうのは、気力がないからだろうがそれだけではない。死んだあとの行き先がわかっているから覚悟できるからだとも思う。
私は既に永遠の命に生かされているのがわかる。墓場までの命ではなく、死んでも死なない永遠の命に生かされているのがわかる。


それならば尚のこと、地上にある間は一日でも長く生きて使命を果たさんがために、癒しを求め健康が支えられるように祈らねばならないのではないか。闘病の恐怖と怠慢から諦めるならばとんでもない。最後まで癒しを求めて生きていかねばならない。

祈りに覚えている方々のことも祈った。
あんなに人生が行き詰まっているのに平気な人がいれば、苦しんでいる人もいる。苦しむ人こそ幸いである。どうか的外れな悩み方ではなく、神に自分の弱さを告白する恵みに与ってほしい。

そして、悩みの中におられる方々にお伝えしたい。
神は私たちの失敗を成功に、敗北を勝利に変えることがおできになる。キリストを見上げ、キリストと共に歩む時、私たちの中に神のみわざが始められるのである。

私の「下には(神の)永遠の腕があ」り、「あなた(神)は後ろから、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。」

「あなたがたがわたし(神)を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。

             
                (ヨハネによる福音書15章16節)

posted by 優子 at 11:46| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

自治会でのチャレンジ完了!H ―久々の充足感に心潤う―

昨日の自治会決算総会は会員数323のうち、出席者は43名、委任状が222名で、優に過半数を超え総会は成立した。

地域福祉推進委員会の役員未定についても突っ込まれることはなく、拍子抜けなほど1時間でスンナリ終わった。
私が懸念していた地域活性化の件についても一言も出なかった。発言があったところで審議は次年度でのことになるのだが、中には喧嘩腰で発言する人もいるので心配していたのだ。

ここは奈良県で2番目の高齢化率で、当市では1番の住宅地である。現在の小学生児童は35名ほどだ。
そこで開発後40数年経った住宅地を活性化しようということから、最小区画制限を100坪から75坪にしてはどうかというのが1昨年度からの引継ぎ議案であった。

そこで昨秋、環境保全委員会規則及び細則についてのアンケートを実施した。内容は最小区画面積だけではなく、建築物の高さや色彩について7つあり、結果はだいたい半々の回答になった。

意見も多く寄せられ、「改正案に大賛成です」というのがあれば、「高級住宅地として開発されたのに乱開発につながるから絶対反対!」というのが代表的なものだった。

ここは国定公園内という美しい自然環境も関係するのか、コンビニ一つ無い不便な住宅地だ。そこで今後は京町屋のような家の店舗を認めるのかどうかも含めて、美しい景観と品位(グレード)の点から、次年度はブッロク会議や全体会議で活発な論議が行われることであろう。

このアンケート作りから全家庭数分の印刷まで全てK会長がして下さった。私はAブロック(10班分)の集計をしたのみで、寄せられた意見も全てワードに打って2月半ばに回覧された。

アンケートには会長への厳しい意見も寄せられていたゆえに、昨日も会長の後方援護の気持ちで出席したのだった。

総会のあと、昨年は10分間ほどで終わった役員の業務引継ぎに2時間も要した。K会長らしく丁寧に進められたのはいいが、次期役員さんが熱心すぎて遅くなったのだ。

しかし、地域へのボランティア意識の高い方だから会長も心強いだろうと安堵した。福祉推進委員会次期役員については会長の思惑も見えた。

新役員の一人が、「会長さん、役を頼みに来られた時に仰っていたことと全然違いますやん!」と早々にオブジェクションが出た。(>_<)

2期目も労して下さる書記さんは新年度の役員会を想像して「やっていけるか心配」と真顔で仰ったが、賢明な方たちだからそのうちに良いリズムが生まれてくることだろう。

こうして今年も新人代謝よろしく自治会の活動が始まった。私も新年度のデザインを構想して良い1年にしたい。
昨夜、「Aブロック副会長」の看板を外した。近いうちにお届けしよう。

サーバメンテナンス予定:
3月24日(水) 午前2時 から 午前8時 までを予定
*メンテナンス終了時刻は、作業状況によって前後する場合がございます。



posted by 優子 at 11:17| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年03月19日

自治会でのチャレンジG ―Kさんが苦手だった理由と1年を振り返って―

21日に今年度の自治会決算総会を控えており、これが終われば御役御免となる。
K会長のもとでの副会長役は、私にとっては今までの社会的経験の総括的意味を持つものであり、意欲と共に緊張が伴う大きなチャレンジであった。
それゆえに毎回十分な備え(バウンダリーズの学びと祈り)をして臨みたかったが、(昨年)4月早々から長女の心身が一層深刻な情況になりその余裕は全くなかった。そのために役員会や業務の時も家を出て集会所に着くまでの数分間祈るのみで、せっかくの総括実習に集中できないことが残念でもあった。

会長は1年を振り返って「よくやってくれた」と喜んで下さり、2月半ば頃まで副会長をもう1年やってくれないかと再三頼まれてもいた。
地域福祉推進委員会については今も完全に諦めてはおられず、未だに「ふつうは副会長が会長になるもんや」と強い口調で迫られる時もある。ちっ(怒った顔)

私が役を受けなければ休会にするしかないとまで言われるので真剣に考えもした。
実のところ娘のことも落ち着いたので昨年度よりもはるかにやりやすいし、この役だけならばできないことはないかもと思ったりもしたが、総合的に考え1年で降りる決意は固い。

この1年間を振り返ると会長に言われたことだけをやっていただけで、主体性に欠けた自分に不満足を感じている。しかし、それが精一杯であったのだから良しとしなければと受け容れた。

K会長のおかげで地域への目が開かれたことを感謝しているし、この経験を次に繋いでいきたいと思っている。
総会では地域福祉推進委員会の役員候補者は未定と発表するので、もう1年せよと声が出ることも想定して明確に返答できるように考えて臨みたい。

過去ログ・2007年3月21日記事は、実はこのK会長のことが心理的背景にあった。K会長には失礼だが、Kさんのことを脅えていたので次のような結語になった。
「今、これを書きながら、すっかり忘れていたあの時の精神の高揚がよみがえり、西口氏が私の自己確立に多大なる影響を与えた人であったことに気がついた。
どうしても流されてはならない、信念を曲げてはいけない事があるのだ。このことを思い出してすごく幸せな気持ちに満たされ、意欲と力が横溢している。」


と言うのは、民生委員は老人会(毎木曜日の10時から5時まで)に出なくても良いということを確かめて受けたのであるが、民生委員の任期中に老人会会長がKさんに変わった。すると、「どうして老人会に出てこないのか」と厳しい電話が入ったのだ。

詳しく経緯を説明しても理解してもらえず困ってしまった。
私は穏やかに明確に受け答えをしたものの、その後が情けない。Kさんを恐れたのだ。そうでなくても当市の民生委員会の運営や諸々のことで大きな問題とストレスを感じ続けていたので、私にとっては地域の同じ範疇のことゆえにビビッてしまった。

そこで西口孝四郎氏のことと、小学校PTAのペン活動での勇敢なる闘いを思い出した。すると瞬間的に恐れは消え、本来の自分自身を取り戻し、以来その気持ちは微動だにすることはなかった。


これがK会長との出会いであり全てだった。
そのKさんが私を「気心の知れた人」と指名され、2009年6月15日(「自治会でのチャレンジ@」)の記事につながっていくのである。
私のことを「気心の知れた人」と言われるがKさんとは全く関わりがないのでお聞きしたところ、「長年教師をしていたら、ひと目見ただけでどんな人間かわかる」と答えて下さった。(ふ〜〜〜ん)

昨年度の役員をしていた知人から、「Kさんは藤本さんのことを自分の言いなりになるだろうと思ってはるわ」ということを聞き、私はKさんに自己紹介のつもりで『私の忘れられぬ人―西口孝四郎氏との出会い―』(掲載文「神・文学」)をお届けした。役をお引き受けした3月末頃のことだ。

私はその頃すでに、Kさんは東大阪の教育界(小学校)では著名な校長だったような印象を感じていたので、記者クラブの西口氏をご存知だったのではないかと思ったのだ。

その西口氏に薫陶を受けたことと、「ここぞという時は私も迎合しないぞ。私も信念を持っているぞ!」という牽制の気持ちもあった。


やはり昨年の今頃予想した懸念は常にあり、ストレスが高まった10月頃に夫に相談したこともあった。
「役員は会長を支えないといけない。そうでないと役員会が成り立たなくなってしまう。」と助言された。しかし、つぶすためではなく、より良い関係になりたいためにならば言ってもいいと同意してくれた。とは言うものの私の中では受容できているので言うつもりは失せていた。

ところが、その数日後の役員会において、またしても福祉推進委員副会長ならば老人会に出てこないといけないと強い批判を受け、ついに私は依頼を受けた時の話を確認するべく経緯を話し批判の不当性を述べた。

それに対するKさんの応答に対して、「Kさん、それでは藤本さんへのお答えになっていません」と、会計役を引き受けて下さっている沈着冷静なMR.Y氏の聡明なる発言に感銘したこともあった。


そして1年を共にして、今はやはり尊敬し愛すべきKさんである(^0^)。心からそう思っている。


posted by 優子 at 23:14| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年03月17日

『紙パルプ産業60年史』に掲載された夫のインタビュー記事

昨日、『60th anniversary 紙パルプ産業60年史』(2010年3月18日印刷、4月1日紙業タイムスより発行)が会社に送られてきた。A4版で520ページの分厚い本である。

第1章では15ページの紙幅に「滅亡と攻防の60年史から何を学ぶか」が述べられている。執筆者は紙業タイムスの記者だ。統計も用いての製紙産業の60年史は私にも興味深い。

第2章の「肉声で綴る『その時、人は会社はどう動いたか』」には61名の記事が掲載されている。その中に卸商としては一人だけ夫へのインタビュー記事が載っている。

第3章は「1枚の写真が語る”私の紙パ史”」、第4章は「タイム・アーカイブ 記者の思い出語り」と続く。
ここに夫の記事を転載しておきたい。紙パルプ産業60年史.jpg
☆入社した頃を振り返って。

当時、会社は大阪市内の清水谷にあった。入社後は倉庫で配送業務に就いた。その頃はまだリフトがなく、不慣れなこともあって客先で紙を落としたこともあった。倉庫で物流を経験し、店頭で学んでから営業に出て行った。営業に全力を注いでいた頃が懐かしく思い出される。

その後10年ほどして現在の紙文具流通センターに移転した。地下鉄はまだ長田まで延長されていなかったので、深江橋からバスに乗らねばならず、交通の便が悪いので社員を募集しても応募者は少なかった。
 
☆会社の転機になったことは。

やはり流通センターへの移転だ。当初は交通の便が悪かったが、徐々に東大阪地区に主要な代理店倉庫が集まり、大阪紙流通の中心として機能するようになっていった。それとともに売上げが増加し、事業に大いに弾みがついた。

☆1989(平成元)年に社長に就任された。

「何かをやろう」という意欲だけではなく、「何かをしなければ・・」というプレッシャーもあった。そこで今までの仕事全体、特に物流について見つめ直した。

そもそも紙文具流通センターは共同で在庫する倉庫機能と共同配送を行うためにスタートした。ところが、多くの会社は自社の倉庫に在庫を入れており、実質的には1〜2社しか倉庫を利用していないのが実情だった。

当時は代理店が紙を預かってくれており必要なものは自社に入れていたため、共同倉庫や共同配送では採算が合わなくなっていった。つまり共同倉庫でありながら全く機能していなかった。

紙文具流通センターを運営するためには保管料で稼ぐ必要あるが、共同配送の採算が悪化してきたため共同倉庫は谷川運輸倉庫に委託して賃料を頂くことになり、共同倉庫の在り方を見直さざるを得なくなった。

一方、共同配送についても各社の思惑があり、個別でやろうということになった。その当時、東亜洋紙が自社の配達を子会社のトーア運輸に任せていたので、トーア運輸をメインに当社を含め隣接する4社が加わって共同配送してはどうかと考えた。採算のシミュレーションを数ヶ月かけて何度も行った結果、プラスになるかどうかは微妙だったが共同配送に踏み切った。

当初は各社ごとのシステムの違いでテンテコ舞いの状況だったが、やがてスムーズにいくようになり10年続いている。残念ながら今は厳しい経済状況により売上げが減っているが、大阪では初の試みでもある共同配送を何とか継続させたいと努力している。

このほか同じ団地内にあった卸商の(株)藤本を吸収したことも特筆すべきことだ。
同社には後継者がおらず、当時の代理店であった三幸の子会社になっていた。その三幸が合併して大倉三幸になり、今までのように藤本をカバーすることができなくなった。そこで大倉三幸が藤本の商権を引き継いでくれる会社を捜し始め、当社も秘密裏に面談した。

その頃、当社も売上げが落ちてきていたので前向きに商権を引き受けようと考え、(株)藤本の社長の推薦も得て引き継ぐことを決断した。

当初は各部署に計7名の入社予定だったが、期待していた営業2名が他社へ行ってしまい5名の入社となった。想定外だったのは、藤本に代わって今まで通りの注文を当社にいただけず、売上げに反映されないばかりか倒産した取引先さえあったことだ。

そんなわけで商権を引き継いだとは言うものの、1プラス1が2にはならないと苦渋を味わったが、結果的にはマイナスではなかったと思う。

☆仕事上で大切にしていることは。

われわれ卸商の場合は人と人とのつながりで商売をさせてもらっているから、今後も人との関わりを大切にして励みたい。このことは、たとえどんなに時代が変わろうとも変わらぬことであり、こんな時代だからこそ大切にしなければならないことである。一個の人間としても、心をこめて生きることが悔いのない人生であると確信している。

【藤本 良輔(ふじもと・りょうすけ)】

1945(昭和20)年9月1日・大阪市出身/大阪経済大学・経済学部卒業後・美濃紙業入社、80年取締役、81年専務取締役、89年代表取締役社長/趣味=ゴルフとテレビのスポーツ観戦、休日の日課は愛犬の散歩、最近は出勤前のラジオ体操/最近の読書名:『バウンダリーズ 境界線 ―聖書が語る人間関係の大原則』、『シャープの謎』/生活信条=「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる」/好きな言葉=誠実を信念とする

私たちは1976年12月に結婚し、翌年11月に長女誕生、次女が生まれた年に夫は取締役になり、社長に就任したのは長女が小学校6年生の冬で夫は44歳だった。

それを期に義父は会長職も降り相談役に。その後、会社には殆ど姿を見せなくなったように思う。その15年後、2004年に88歳で亡くなり今秋7回忌である。

義父は岐阜から大阪へ出て丁稚からたたき上げた人だ。リヤカーで紙を運んでいた時代のことである。そして、同郷の薄い親族と3人で美濃紙業を起こした。

夫は社長就任後、年配の役員たちとの摩擦で深い孤独を味わった。やりにくく重苦しかった年月も今では懐かしい思い出だ。
「若い社長」と言われていたのは遠い昔となり、今は年齢を重ねて業界の重鎮となった。時間の流れと、誠実に積み重ねてきた夫の業績、そして、神の守りに胸が熱くなり、懐かしき義父や実父の感慨はいかにと想いを馳せる。

バブルが弾けて戦後最大級の不況だと耐え続ける間に、時代はすっかり変わっていた。その上に世界同時不況で売上げが大きく減少し苦境は厳しくなる一方である。

日本では団塊の世代が大量退職の時代に入り今後の日本経済はどうなっていくのだろうか。経済モデルさえ考えられないのではないかと心配になる。

命ある限り次から次へと問題が起こってくるのは自明の理だ。今更そのようなことで悩みはしないし強くもされてきた。これからも悩みながら、ひたすら神の導きを求めつつ果敢なる挑戦を続けることだ。そのこと自体が感謝である。

神は神を信頼する者を助けて下さる。
夫に上よりの千恵が与えられ、事業を豊かに祝福して下さるように祈り続けよう。          
          2010年、良輔64歳、優子58歳の春を迎える―

良輔さん
礼拝で伸び伸びと大きな声で讃美歌を歌うあなたの横で、私は至福の喜びを感じながら私も大きな声で讃美していました。ユキも私たちの間に立って上手に合わせていたね。(知子は体調が悪くて欠席)
私たちは神さまの御手の中で最高に祝福されているよ!
 
 
posted by 優子 at 11:37| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2010年03月16日

ミネソタもポカポカ陽気、帰国は5月末!

アメリカでは今週から夏時間になり、ミネソタ時間は日本時間引く14時間になった。
彼の地も先週末から急激に暖かくなり、14日は17度だったと聞いて驚いてしまった。極寒の地にも春が訪れ、我々と同じような季節を迎えている。

次女夫婦は今週一週間は春休みでホッとひと息つけるらしいが、その間も18日からEvanston(シカゴ近く)で開かれるカンファレンスに参加し、夫婦共にそれぞれ発表するそうだ。今ではそういうのが日常のようである。

「今週はスローダウンして、また頑張ろう、と思えるまでリラックスしようと思います。・・(略)・・
EvanstonにはIMFの時に会った友達がいて、連絡を取ったら、なんと車で空港に迎えに来てくれるそうです。感謝です。
Northwesten大学に留学中の日本人にも声をかけてくれているそうで、夕食を食べに行く予定です。」


そして、「今回は週末を3回含むような予定で帰ろうと思ってます」と、いよいよ帰国の日程が書いてあった!
全家族一緒に過ごせる日々を楽しみに私も頑張ろうと活気づく。


では、ミネソタチャッピー(夫が次女につけた愛称)とクマに日本の春をお伝えしよう。昨日Nさんに連れて行ってもらった賀名生(あのう)梅林レポートだ。

いつものようにNさんは水中ウォーキングを終えてお昼前に迎えに来て下さった。家を出て30分も走れば、「ここはどこ?」と思うほど道路の両側は渓谷になる。
途中、Nさんお薦めの鮪料理の店に立ち寄ってランチを済ませた。山の中に鮪である。美味しかった!そして、再びおしゃべりドライブが続く。

「主人とは話題がなくて」とNさん。
「ホントホント」と、ペチャクチャペチャクチャ喋りっぱなしの楽しい時間だった。

「賀名生」を「あのう」と読むことも、この土地が南北朝時代に南朝の御所が一時置かれた所であったことも全く知らなかった。
今年は既に散り初めていて花の盛りを越えていたけれど、山一面の純白や淡い紅色の梅の花は見事だった。 
賀名生(あのう)梅林.jpg
(五條市のHPより拝借)

ここは奈良県の三大梅林(月ヶ瀬梅林・広橋梅林)の一つで、2万本の梅が植わっている奈良県最大規模の梅林だ。
「700年前の南北朝時代に都を追われた公家たちによって賀名生の梅の花が歌に詠まれているところからも、既にこの地の梅が香り高く咲き誇っていたことが分かります」。

インターネット時代になった今も山の景色は殆ど変わらないとは、なんて不思議なんだろう。

昨日は自動車から降りずにドライブで山を一周したので、梅の香りを楽しんだり写真を撮ったりできなかったのが残念。Nさんに「もう一周してもいいよ」と声をかけてもらったが遠慮した。

昨夜の激しい雨に打たれて花はたくさん散ったことだろう。来年は是非夫と一緒に歩きたいと思う。長谷寺に行った時のように。
これが唯一撮った写真だ。

賀名生(あのう)梅林. .jpg

花や木に詳しいNさんと一緒だと本当に楽しい。メモを取らなかったから忘れてしまったけれど、ミツマタは本当に3つに分かれていたし、今回もいろんなことを教わった。
「山はまだ眠っているね」とはお見事!

季節はまもなく梅から桜に移り、いよいよ春のファンファーレが鳴り響くだろう。
マチ&クマ、Have a good spring time!


posted by 優子 at 12:08| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2010年03月12日

「希望の土台を替えてみる」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより A―

     「希望の土台を替えてみる」
                  安海靖郎牧師のメッセージ

最近、生きることをしんどく感じる人が増えているのではないでしょうか。年間の自殺者が3万人を超えているという数字も、そんな表れでしょう。

こんな現状への対策として、中央労働災害防止協会が数年前に『職場における自殺の予防と対応』という本を作りました。「自殺のマニュアル」という情報が、インターネットで流れている時代、必要な対抗策でしょう。

他方で、「自殺をしないためのマニュアル」のような本も出されています。『命のメッセージ〜死から再起した15人の証言』(一粒社)という本もそんなひとつです。

4回も自殺未遂をして、そこからどのようにして再起していったかという、ドラマに勝る体験談もあります。自殺に追い込まれた原因ごとに分類され、それをいかに乗り越えたかが赤裸々に記されています。

例えば、「経済苦、生活苦の嵐を経て」、「怨恨を乗り越えさせた愛のエネルギー」、「競争社会の枷から解かれて」、「虚しさという壁の向こうに」というふうです。

この本の冒頭に、「自殺の共通要因は、何らかの理由で『生きる希望の土台を失ったことによる』」とあります。

ちなみにその土台とは、心身の健康、夫婦・親子の絆、学歴、事業、財産、終身雇用制、経済の安定と発展というものだと言います。
確かに土台としてきたものが崩れてしまうと、生きる希望、生きる力そのものも揺らいでしまい、時には失われてしまうでしょう。では、どう対応したら良いのでしょう。


大切なことは、生きる土台、希望の土台を、不安定なもの、揺らいでしまったり失われたりするものから、揺るがない、変わらない、決してなくならないものに替えていく必要があるということではないでしょうか。

そんなものがあるのでしょうか。
聖書は「ある」と言っています。


「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」             
              (ペテロの手紙第一1章24・25節)

聖書のことば、神のことばは不変です。神が不変、永遠だからです。この神への信仰、神のことばへの信頼を、希望の土台に据えることができるように、キリストが「道・真理・いのち」としてこの世にこられたのです。

『メメントドミニ』は名も無き拙い者が書いているブログです。それでも毎日平均300近いアクセスがあります。
ひょっとしたら、その中に自殺を考えるほど深く悩んでおられる方が読んでおられるかも知れません。そのこと自体が神のお導きです。そのような方のことを思ってこのメッセージを転載させて頂きました。

私もまた神のことばを人生の土台に据えた希望の民です!


posted by 優子 at 22:36| 引用文 | 更新情報をチェックする

2010年03月11日

雪嵐の昨日、開花宣言

2月末から降水量は例年の10倍とか。日照時間が少ないうえに、今週に入ってから真冬並の寒さに戻り、昨日は「春の嵐」ならぬ「冬の嵐」が日本列島を真っ白にした。鎌倉では雪の重さと風で樹齢1000年の大銀杏(おおいちょう)が倒れていた。

当地では20〜30分間ほど雨が雪に変わっただけだったが、乾燥剤のような粒の雪がチューリップを驚かせたことだろう。
雪嵐.jpg

今は陽射しを受けて気持ち良さそう。
まもなく美しい花を咲かせてくれることだろう。今年はピンク色だけ丸い植木鉢に植えた。色とりどりの花を見るのが楽しみだ。

私も半年ぶりに熱を出して日曜日の夜から昨日までダウンしていた。昨日から平熱に戻っているが、今日もまだフラフラして体に力が入らない。

私が寝込んでいる時も夫は仕事に出かけ、夜に帰宅して、そしてまた、次の日も家を出る夫を2階の窓から見送っていた。

孫のためにももうひと働きせねばならないのに、私が元気でないと夫に何もかも負担がかかってしまうと、まるで年老いていく親を想う気持ちと同じ想いになって胸が痛くなった。

病気のお蔭で2キロほど減量できたので、これを機会に体重ももとに戻そうと真面目な気持ちになっている。私は娘の体調を心配する余裕もなく寝込んでしまったが、テキパキと用事をこなしてくれてありがたかった。1年前には想像だにしなかった回復ぶりだ。

今朝も厳しい寒さであるが久しぶりの陽射しに気持ちが引き上げられる。これからも天気はコロコロ変わるらしいが明日から春らしい陽気になるそうだ。

「冬はもう終わりやなぁ」と、夏が苦手な叔母は2月の異常な陽気にガッカリしていたものだが、この寒さは嬉しかっただろうか。久々にメールでご機嫌伺いをしよう(^−^)。

気象庁は昨日の嵐の日に高知市で桜が開花したと発表した!
これは統計が開始された1953年以来、これまでの3回と共に歴代最速1位タイの早さだそうだ。
これから桜前線が春を告げ新年度が始まる。元旦よりも新しい気持ちになる大好きな季節到来。いよいよ季節は春に突入する。

さあ、大きく深呼吸して、身体一杯に神さまの力強い希望を充満させて出発しよう。

posted by 優子 at 11:59| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年03月07日

自治会でのチャレンジF ―いよいよ終盤を迎える―

老人会は会計報告書が未完のために監査は先送りになったが、自治会、地域福祉推進委員会の会計監査を終えて、会長が手配して下さった昼食をご馳走になり午後1時から新旧班長の引継ぎへと続いた。

班長の引継ぎは毎年決算総会のあとに行っているのだが、気の早い会長なので3月に入ったばかりの今日に早い引継ぎとなった。私は司会兼説明役を仰せつかっていたが、昨日はしんどくて予習せずに臨んだものだから話が前後して申し訳なかった。

各班の新旧班長の出欠を口頭で取った時もお笑いだった。
「7班の方は?・・・」と何度か尋ねてからようやく思い出した(>_<)。「ああ、私の班はお二人とも欠席でした」。(爆笑)
とにかく直ぐに忘れてしまうし、頭が動かないのである。家にいる時もいつでもどこでもこんな具合だ。


ドキドキはしなかったものの、コンタクトレンズで行ったので説明書を丁寧に読むのが億劫になり、早々に省略することにしてしまった。
そのために不十分な説明であったことを会長に詫びたところ、「いや、それでええ。」と頷いて下さった。そして、そのあとが面白かった。
「あんた、足ふるえていたやろ」と笑いながら仰ったので、「いや、足は震えませんでしたが人前で話すのは慣れていませんから」と笑ってしまった。

自治会の次期副会長も決まったが、地域福祉推進委員会の委員長が決まっていない。会長は今日もまだ誘ってこられるので困ってしまった。
「あんたが受けてくれなかったら委員会は休止にするしかない」とまで言われているので苦しいところだ。

会長が苦手な人ゆえにと挑戦した1年であったが、想像していたように議論できる人だったし、その働きぶりは他の追随を許さない情熱と行動の人で、良い感化を受けた。

私にとっては社会と関わりを持てる貴重な場でもあるが私の決心は固い。3月中に自治会活動を振り返って書いてみたいと思っている。

新班長さんの中に懐かしいお顔を拝見した。『メメントドミニ』でも早くご紹介したいと思っていた方だ。

奈良国立博物館で解説者のボランティア活動をされており、天平時代の衣装に詳しいだけではなく、学術的に研究され実際に作っておられる服飾家だ。

私が最も感心したのは、車椅子の方のおしゃれ着や寝たきりの方の着物、留袖で作ったスーツなどの介護服だった。これならば身体の不自由な方の気持ちも晴れるのではないか。喜ばれるに違いないと思ったからだ。

2005年秋に大阪中央公会堂で発表された作品展では、私も実際に見て改めて感動したことであった。

山本周五郎がお好きだとお聞きしていたのでテキストに取りあげて頂き、翌2006年10月の読書会(『日本婦道記』)にお誘いした。
大田先生を講師に、そして、この時は知らなかったが讃美歌243番(「ああ主のひとみ」)を作詞された井置利男牧師もお招きした時だった。

では山口千代子さんをご紹介したい。久しぶりにHPを拝見するとご活躍の足跡を更新し続けておられた。http://www.eonet.ne.jp/~ufmii/chiyoko.html

posted by 優子 at 21:32| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年03月06日

「ロゴス讃歌」をヘブル語より解説

先月のJCP関西ブロック研究例会で開いた「ヨハネによる福音書1章1節〜5節」について、東牧師が事務局長に送って下さった補足説明を例会報告書に転載して下さったのでここにも刻ませて頂きたい。

ヨハネ伝1章1節〜5節:

1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

「初めに言があった。言は神と共にあった」という言で始まります。「言」はギリシャ語で「ロゴス」と訳され、意味は「体験し、認識できる法則」を意味しますが、ヘブライ語に戻すと「ダーバル」という言葉です。「ダーバル」は、ここでは神の「働きかけるみ業」を意味します。

また、3節に「なったもので言によらずに成ったものは一つもなかった」とあります。ここは原文を直訳しますと「すべてのことは彼を介して生じた。彼をさしおいては何一つ生じなかった」という事です。
即ち神の子キリストが、父なる神の代理として一切をやりとげたということです。
そこで、1章1節から5節まで解釈しますと、次のようになります。

原始に(神の)み業があった。み業は神と共にあり、み業(の働きと力)は神のものであった。

(さて)このお方ははじめに(父なる)神の許におられた。すべての事(万物)は(父なる神の代理として働かれた神の子なる)彼を介して生じた。彼をさしおいては何一つ生じなかった。

彼には(宇宙支配の神としての)霊的な力と命があり、その力と命は(罪)人達を浄化し、信仰の情熱を燃えたたせる光であった。その光は罪深い人の世の闇の中にあって輝いている。

これが初代教会の信仰でした。ギリシャ語にとらわれずヘブル語に戻し、その上で初代教会の信仰に基いて解釈すると、このようになります。

3日に生活習慣病のことで医院へ行き、1時間滞在して帰ってきたら喉が少し痛くなっていた。昨朝からしんどくてならない。夜もよく眠れなかった。

私がうつしたのか孫も昨日から発熱し、夜中には39度5分にもなった。しかし、今朝は37度台になり、受診することなく今夜はお風呂にも入った。
明日は朝から3時頃まで年度末の関係で自治会の用事がある。今夜は熟睡できればいいが・・・

posted by 優子 at 21:47| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年03月04日

新しい可能性に開かれていく「経験」

「イェシュしゃま、この食べもの感謝しましゅ。お食事感謝しましゅ。ママこれ作ったの感謝しましゅ。
(ここで目を開けてテーブルの上を見ながら)、コーンもヨーグルトもイヨカンもシュークリームもミルクもチーズもコーンフレークも、こんないっぱい感謝しましゅ。イェシュしゃまのお名前によってお祈りしましゅ。アーメン。いきまーしゅ!(いただきまーす!)」。


今朝も孫は食前の祈りを捧げて美味しくいただいた。
いつもこうして食べ物一つひとつを感謝する幼子の姿に祈りへと導かれ、信頼しきった信仰に感動させられる。

今日は孫のことではなくこの数日間考えていたこと、一つの疑問(体験)が結晶しつつあることを書いてみたい。森有正の言うところの「経験」についてだ。

「一つのものが、ある凝固した形をとるときに、それが『体験』で、それがあくまで新しい可能性に向かって開かれているときに『経験』という名前を私はつけるのです。

・・・たとえば迷信なんか、体験の最も極端なものでしょう。あるときに、あることが有効だったというので、みんなそれが有効だと思って、それを頑張って守るという例です」。
(森有正)

私が自分を大切にできるようになってしみじみ思うことは、個人の経験は絶対に他人が代わることのできないものであるということだ。それゆえに自分自身を深く知るようになり、他者の経験を尊重することも学んできたように思う。

個人的な経験は一個の経験に留まらず普遍性を含んでいるが、全てが普遍に至るわけではない。
つまり、形(状況)の上ではどんなに似通った経験であれ、その状況以上に問題の受け止め方(気づきと神への求めの切実さ)の違いによって、各自の進む方向が違ってくる。


信仰者と言えども例えばヨブの友人たちのように、いつまでも教条的信仰とも言うべき身についていない教えで進んでいく人もいれば、自分の痛みを認めずに―だから教条的になるのだろうが―人を導こうとする人などいろいろだ。

私は昨秋のある出来事から信仰上の解釈の違いについて考えてきたが、個人の経験はその人の経験でしかないということだ。
それゆえに独自性が生まれるのであり、それぞれの人生が展開されていき、人生の終わりに最終的な結果を見るのだと思う。本人がそれを自覚できるかどうかという問題も別に残るのであるが。

経験が深まっていく時に人格が造り上げられていくのであるから、願わくば自分自身について見当はずれな見方ではないようにというのが私の切なる祈りとなっている。

森有正の言葉で言うならば、信仰は「体験」ではなく「経験」だ。
この「経験」は未来という新しい可能性に開かれており、大切なのは「経験」の深まりである。
そして、「経験」の深さに比例して、生きる喜び、感謝、意欲が泉のように湧き出で、その背後で赦す心と愛する心をも育まれていくのである。


敬愛する森有正(ありまさ)は、一橋大学創設者で初代の文部大臣を務めた森有礼(ありのり)を祖父に、牧師でありキリスト教学者の森明を父にもち、「経験」を土台にして独自の思想を築き上げた有名な哲学者である。
デカルトとパスカルの研究を専門とし、バッハをこよなく愛したパイプオルガン演奏家でもある。

私は有正と初めて出会った1988年に『いかに生きるか』を読み終えた時、既に1976年に死去されていることを知って泣いてしまった。65歳の地上生涯だった。

知性高く、研ぎ澄まされた批判力と洞察力に魅かれ続けている。
私の思想に大きな影響を与え、信仰の根本的導き手となった森有正は『いかに生きるか』を次のように結んでいる。

「絶えず経験が信仰に養われるときに、その経験はどこまででも深まっていくことができます。
死がそこに来ても、その死を安らかに迎えることができます。
信仰は、そうした可能性の根拠であると思います。

私たちはさらに、キリストにおける復活の信仰を持っています。
これは、近代人には最も受け容れがたい問題になっています。ここで述べることはしませんが、ただ一言だけ申しますと、復活というのは非常に積極的に、キリスト教の本質的な部分を示すものと、私は考えています。

あらゆる人が、あらゆる詭弁を弄して、キリストの復活を他のものとすり替えようとしていますけれども、私はキリストの復活は、やはり私たちの信仰の根本的なものだと思います。

キリストにおける罪の問題、十字架における罪の贖いと赦し、私たちがそれに対して唯一のなすべき業(わざ)としての、人の罪を忘れるということ、それからさらに復活を待ち望むということ、これは私が経験という問題と真剣に取り組み始めた最初から考えますと、いかにも縁遠い、他の世界の問題のように見えますけれども、結局すべての経験は、死と罪の問題を通して、そこへ行ってしまうことに気づきました」。


私もまたそのことを実感できるようになっていることを神に深く感謝している。

posted by 優子 at 11:09| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2010年03月03日

「また、春やね!」

2月27・28日は孫を喜ばせてやりたくて列車の旅に出た。
今までアーバンライナー一筋だったユキがサンダーバードに乗った!

距離的に一番近い所でということで芦原(あわら)温泉を選んだが、すっかり寂れていた。私達は旅行下手と言おうか、まるで義務で旅行に行って来たという感じだ。(>_<)

しかし、2歳7ヶ月の孫が温泉を気に入って4回もお風呂に入った。驚いたことに、カサカサだった孫のホッペがツルツルになっていた。

何も見るところもなくガッカリだったが、市内のバスに乗って東尋坊に足を伸ばした。初めてだった知子は喜んでいた。夫は何度目だろうか、去年の秋に自社の慰安旅行で行ったばかりだった。
日本中どこへ行ってもお土産屋さんにはアンパンマンがある。幼児にはどう映っているのだろう。そのうち、買って欲しいとせがむのだろうな。

東尋坊 A.jpg

サンダーバードの車内で。

東尋坊 @.jpg

出発前夜の激しい雨は早朝に上がり、宿泊した夜に降り出した雨も翌朝上がり、天候に恵まれた冬の終わりの平和な旅だった。
知子の中に末永く懐かしい思い出となって残ることだろう。

今度は真智子夫婦も一緒に旅に出たい。私たちはスポンサーで、マチ・クマはプランナー(^−^)。去年は3月と10月に帰国したが今度はいつ会えるのだろう。

「今週はとても温かくて、日中は、0度以上になることも多く、春を感じています。また、春やね!」
今朝、極寒のミネソタにも春近しの便りが届いていた。

新しい春。
さあ、冬と別れを告げて春を迎えよう。
神に導かれて出発だ!
これからの日々を生きながら、人生を深めていくことができますように。神が全てのことを働かせて益として下さるように。
そして、誠実に生きたいと望む人々の上に神のお導きが豊かにあらんことを祈りつつ・・・

posted by 優子 at 21:57| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする