2010年11月29日

ユキの日常と私の情況

昨夜から血圧がますます高く(182/106)なり、頭を触ると血管がドクドクと脈打っているのがわかる。

今朝は夫と知子を見送る時だけ起きて再びベッドに入り、ユキの目覚めと同時に8時半まで寝ていた。
こんな状態なので資料を見ながら昨日の学びについて書くのは難しく、孫との生活や情況を記しておきたい。

今ではユキも近隣の方々と共に地域の中で生かされており、私自身もまたひとつハードルを越えていた。

今朝もいつもどおり9時半頃からユキと一緒にチャッピーの散歩に出た。血圧が高いので冬になってからは知子たちが家に居る間に散歩に行くのは怖い。

今朝の散歩コースは、我が家で「じゃり道」と呼んでいる畑の道にした。
集会所近くの枯葉を掃き集めて下さっていた自治会の副会長さんが、「かわいいねえ、女の子みたいな顔やねえ」と声をかけて下さった。

じゃり道を歩いていると知人と会った。昨年ご主人を亡くされた年配の方だ。叔母と同じような年齢だと思う。
会うなり悩みを話して来られしばらく話していた。その方は実践倫理公正会(早起き会)の方で、私がクリスチャンであることもご存知だ。

お話をお聴きして、生きている限り新しい問題が起こってくるんだなあと思った。
帰る時、畑の木から柿をとって持たせて下さった。ユキは自然に「ありがとうごいます」とお礼を言った。
この方にも神さまのお導きがあるように。

公園近くまで戻ってくると、「ユキちゃ〜〜ん!ユキちゃ〜〜ん!」と呼ぶ声がした。
AちゃんとAちゃんのママだ!

知子と同じ年のAちゃんのママは、昨年の自治会で副会長の1人としてご奉仕下さった方だ。Aちゃんはユキより1歳下の女の子。
まもなくMちゃんも来た。自治会の幼児教室に誘って下さった方だ。

2歳の子供たちとのごっこ遊びでAちゃんが言った。
「ユキちゃんのママは何にしますか?」
「まあ嬉しい、私をママに見てくれていたんやね。でもね、実はユキのおばあちゃんなの」
「ユキちゃんのおばあちゃん、何がいい? オレンジジュース?」

ユキのために私はこの時を楽しもう。

今日は2時間半と長く、帰宅したら正午を回っていた。頂いた柿は皆さんで分けた。

以前私は、孫が授かったのに自分のことを「おばあちゃん」と言うのに抵抗があった。
昨年の今頃、夫が孫に「おばあちゃんにやってもらい」などと、頻繁に私のことを「おばあちゃん」と言うのが耳についた。少々嫌だったが、それによって慣れていった。


女性は子供を産んだから母になるのではなく、子供に「ママ」「おかあさん」と呼ばれて母親になっていき、教師や医師は「先生」と呼ばれて「先生」に育てられていくように、私は今、「おばあちゃん」の器にも育てられているのだろう。

先週も毎日チャッピーの散歩のあとはお昼前まで公園で遊んでいた。
我が子にはこんなに長時間遊んでやらなかったなあと、何度も幼かった知子と真智子の顔を思い浮かべていた。ごめんね。

「イエスさま、ユキにお友達を与えて下さい」と、2ヶ月ほど前からユキとお祈りしていたが、こんなに早く、その1ヶ月後に友達が与えられるなんて!多い時には6人くらいも集まる。

私に「よし、幼児教室に行こう」との思いと勇気を与えて背中を押して下さった神さま。
主が共に歩いて下さり、主と共に在るならば、人生は大きく展開していくことを思い出させて下さった。


恥ずかしがり屋のユキも少しずつ自己主張できるようになってきた。この子の良さをこわさないで、良きものを引き出して伸ばしてやれる祖母でありたい。

こういう交わりの中で感じることが多々あり、書きたいが長くなるので体調の良い時にしよう。

これに関連したことで先週の金曜日は知子とひともめあった。
誤解が溶けて理解し合えたが、土曜日はその気持ちを抱えて梅田へ出たのだった。


これは昨日教会で頂いた「アドベントカレンダー」
カレンダーの数字はバラバラに書いてあり、
1日1つずつ、その日のところにシールを貼っていくのだ。アドベントカレンダー.jpg
折り紙のツリー、サンタクロース、教会、そして、シールも添えて頂いた。
ツリーの左上にはユキの字(?)で、「イエシュしゃま、お誕生日おめでとう」と書いているんだって!

子供の祝会「こどもクリスマス会」は12月25日(土)の午前中にあり、この週も知子は半日会社勤めがある。だから私が連れて行ってやろうかなと思うが体調次第だ。

posted by 優子 at 21:27| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2010年11月28日

クリスマスは希望の光

「冬季型欝」というのがあるらしいが、私は冬の朝が苦手だ。
数日間記事を更新できなかったのは、左の股関節と腰の痛みで横になりたかったということもあるが、気分は冴えなくて精神は仮死状態だったからだ。

私にとって運筆は精神的バロメーターでもある。
生来の明るい性格と適当にできる怠け心と、今はアニマルセラピーよろしく幼児セラピーのおかげで重症にはならないからありがたい。

昨日は気分転換しようと娘と夫の帰宅(美濃紙業は月の最後の週に祝日がある土曜日は半日仕事がある)を待ってすぐに梅田へ出かけた。

しかし、馴染み深い梅田界隈はよけいに悲しみを思い出させた。
実家へは梅田から電車で8分。母の介護で実家や住友病院へ通っていたことや、鳩飼さんのことも思い出し、狭くなった大阪駅構内を歩きながら「みんな逝ってしまった」とつぶやいていた。

流れているクリスマスソングを避けるようにしてキリスト教書店に直行した。気がつくと2時間も店内にいた。

真智子と太志君が喜んでくれる「みことばカレンダー」も買ってきた。今年こそはクリスマスまでにミネソタへ贈りたい。喜んでくれる2人の顔を思い浮かべると一瞬微笑みが戻った。

今週から「アドベント(正確なカタカナ表記はアドヴェント)」に入った。
教会では「アドベント・クランツ(ろうそく)」が用意され、第1週目の今朝は1本目のろうそくに火が灯される。来週カメラで写してきて馬見労祷教会のクランツをご紹介したい。

アドベントクランツ.gif

「アドベント」は「到来、到着、接近、出現」などの意味であり、日本語では「待降節」と訳されている。12月25日の4週間前の日曜日から24日までの期間を言う。

ところで、本当のクリスマスは10月の終わり頃だというのを読んだことがあるが、正確にはわからない。
クリスマスが12月25日であるというのは聖書に由来するものではなく、冬至の祭を転用したのではないかと言われている。

つまり、「冬至を境にして冬の憂鬱さや暗さを乗り切ろうと、光と正義の主(しゅ)である神の愛が輝き始めるという思いが冬至に重なったのではないだろうか」。

エレミヤ書33章14節〜16節:
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。
その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。その日、ユダは救いを得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。


エルサレムはバビロンによって滅ぼされるが再び復興されるということを、神が預言者エレミアに予言された。それがこの箇所である。

エレミヤはBC650年頃にエルサレムの祭司の家に生まれ、BC626年に預言者として使命を受けた。

このことは聖書を神の言葉と信じないノンクリスチャンでも、歴史から認めざるを得ないことである。
エルサレムはBC586年に滅ぼされ、その50年後(BC537年)にバビロンがペルシャに破れてユダヤ人たちは解放された。

このようなことを50年前に誰が想像できたであろうか!
神は必ずご自分のことばを果たされる方である!

その辛い状況の只中にある時は、夜の暗闇を耐えねばならないが、恵みを与えると約束して下さった神さまに目をとめられ愛されているとは、何という幸いであろうか!

時至ってイエス・キリストがこの世に来て下さった。
闇が破られ光が来て、愛という光で照らして下さったのである。

パウロがコリント人への手紙に書き加えた「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」は、迫害を生き抜いたクリスチャンたちの合い言葉だった。

アドベントはイエス・キリストの再臨を待ち望む時でもあり、私達も神の愛を信じて希望を失わないで励もうと奨励された。

(青字は古森牧師が話された要旨である)

毎月第4週目の礼拝後は、高見敏雄牧師による「憲法を学ぶ会 聖書と憲法」がある。
子守りに明け暮れする今の私には唯一の学びの場、ゴールデンタイムであるから、今回から家族には先に帰ってもらうことにして気兼ねなくゆっくり参加することにした。

今日の参加者は11名。
皆でおにぎりの昼食をすませて、12時15分から2時間半の学びは本当に楽しいひとときだった。K姉に近鉄線の駅まで送って頂き5時前に帰宅した。

内容があまりに濃くて理解力に欠けたが、理解できた範囲で明日の記事で書きながら考えてきたいと思う。

おりしも23日に北朝鮮が韓国に砲撃し、今日から米韓両軍が米原子力空母「ジョージ・ワシントン」も参加して、黄海で合同軍事演習を開始した。

戦争は絶対に回避せねばならない。


posted by 優子 at 21:54| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2010年11月23日

医療技術とキリスト教信仰

法事のために欠席した20日の日本クリスチャンペンクラブの例会は、大田正紀先生が籍を置いておられる日本キリスト改革派灘教会会堂で開催された。
大田先生より前日にお送り頂いたプログラムをもとにここにも記録しておきたい。

奨励は「ヘブライ語文法による詩編139」と題して、日本基督教団千里ニュータウン教会牧師・東 道男先生が立たれた。

東先生は、昨年6月24日に開催された「プロテスタント日本伝道150年記念・日本基督教団創立記念日礼拝」で、50年以上の伝道牧会に捧げられた現職牧師の表彰式では第3位(62年間)で表彰された御高齢の牧師だ。

師はヘブライ語に詳しく、熱く語られるヘブライズムに満ちたメッセージをお聞きできなかったのが残念である。


第1部・講演会の講師は、古賀副武(そえむ)先生(兵庫県立盲学校元教諭・日本イエスキリスト教団垂水教会)をお迎えして、「キリスト者左近允孝之進(さこんのじょう・こうのしん)が今日語りかけているもの」と題してご講演された。

第2部の「あかしと讃美」では宇野繁博先生(滋賀県立盲学校教諭・インマヌエル総合伝道団彦根キリスト教会)が、「私の絶望を希望に変えたもの」を話されてサックスを演奏された。
共にお聴きできなかったのが残念でならない。
           
第3部の「あかし文書発表」では、「医学とキリスト教信仰」をテーマに書いた6名の作品発表と相互批評がなされた。

私の作品も配布された冊子に掲載して下さっているので、ここに掲載記録しておきたい。

医療技術とキリスト教信仰
          
         藤本優子(日本基督教団・馬見労祷教会)

1960年代より生命科学は著しい発展を遂げ、今や生命の誕生と死の人為的操作が可能になったと言っても過言ではない。

そのために死を拒絶する文化に拍車がかかり、生命倫理の問題は深刻さを増すばかりである。このような時代に生きるキリスト者には、特別な使命が与えられているように思う。

世界保健機構(WHO)が掲げる健康の定義には、「健康とは病気や障がいがないというだけでなく、完全な身体的、精神的、社会的に幸福な状態である」と謳われている。

これに対して、ドイツの神学者・ユルゲン・モルトニンはユートピアニズムであると批判している。確かにこの定義の延長線上にあるのは、病人や障がい者、また、老人を排除する社会でしかない。

このことからも明らかなように、たとえ権威ある国際機関や人物が語るところのものであっても、それらを私達が無批判に受け入れるならばミスリードされかねない。

自分の頭で考えることがいかに重要であるか、今ほど一人ひとりの主体性が問われている時代はないであろう。

私達は聖書の人間観に立つ生命倫理観を訴える使命がある。
キリスト者が社会に対して口を閉ざすならば、救いの喜びを経験したとは言えないであろう。私達は世に迎合するのではなく、おかしいと感じたことは発言しなければならない。

また他方では、癒しを強調する教派に危惧の念を抱く。信仰解釈の違いによるのだろうが、私はキリスト教信仰にとって癒しは決定的なものであるとは思わない。

仮に癒されたとしても、私達はいつか死ぬのであり、「信仰の癒しという名の態度は問題からの逃避である場合が多い」と警鐘を鳴らしたい。

人為的な生命操作の時代にあって、医療技術がもたらすキリスト教信仰への挑戦は、まさしく神と人間の関係を問われているのである。


神戸医療産業都市構想(ポートアイランド).jpg

神戸医療産業都市構想(ポートアイランド)

上掲の写真は大田先生が入れて下さったものである。

posted by 優子 at 20:54| 大阪 ☁| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2010年11月22日

「挫折して得られるもの」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 13―

 
挫折して得られるもの(安海 靖郎牧師)

病気や挫折を願う人は誰もいません。そして、それを経験する当人にとっては、本当につらい、試練です。

でも人生には不思議な面があります。そういうことを通して得られるもの、そういうつらい経験をしないと体得できないものがあります。しかも、それは大変意味深い、貴重なものであることが多いのです。
 
私の友人、ウェリー・ウィルソン君は、30歳半ばの新進気鋭の半導体を研究している学者です。

インドネシアから留学して、東京工業大学の大学院、博士課程を優秀な成績で卒業しました。卒業の時に優秀者に与えられる、創立者の名にちなんだ手島賞をもらったほどでした。

この優秀で物静かな彼が卒業を前にして、原因不明の目の病気になりました。急に目が斜視になって、治療法もないという中で二ヶ月近く入院しました。

彼は、小康を得て退院し、教会の集まりで、自分は病気を通して成長したと言うのです。学者らしく
それをまとめました。

1、まず、病気になって感謝の心が生まれた。朝、目覚めて、今日も生きている。食べられると・・・・・・。
 
2、他人の喜びを喜べるようになった。同室者が少しでも良くなると皆で喜べた。
 
3、精神的に成長した。今までの忙しい自分の生活を反省できた。自分は、小学校からずっと成績一番。名門バンドン工科大の教師になり、いつの間にか自分は高慢になっていた。愛のない自分、ひとのことなどどうでも良かった自分に気付いた。罪を自覚できた。
 
4、最後に、病院で今までになく深く神様と交わり、お祈りすることができた。神様は生きておられる。お祈りを聞いてくださるということを経験した。

人が変わったように、明るく積極的になった彼に多くの人が驚きました。
まばたきの詩人、水野源三さんは33年の闘病生活から、次のようにうたいました。
 

「もしも私が苦しまなかったら
 神様の愛を知らなかった

 もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら
 神様の愛は伝えられなかった

 もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
 神様の愛はあらわれなかった」。


posted by 優子 at 16:45| 引用文 | 更新情報をチェックする

2010年11月21日

ユキの幼児祝福式

今朝は収穫感謝礼拝を捧げ牧師のメッセージに続いて幼児祝福式が執り行われ、K君と一緒にユキも祝福の恵みに与った。
まずは、冒頭より古森牧師のメッセージから始めたい。

日本キリスト教団では今日を収穫感謝日と位置づけているが、これは聖書を基にしたものではなく、アメリカの感謝祭が11月の第4木曜日に設定されていることから取り入れられたものである。

1517年10月31日にルターの宗教改革が始まり、イギリスで更なる宗教改革を目指す清教徒たちは英国教会より迫害を受けてオランダへ亡命するが、そこでも受け入れられず新天地アメリカを目指してメイフラワー号で船出した。

彼らがアメリカに渡ったその年の冬は大変厳しく半数もの死者を出したが、近隣に居住していたネイティブアメリカン(インディアン)、ワンパノアグ族の助けにより生き延びることができた。

翌年の秋には豊かな収穫に恵まれたので彼らを招待して、神の恵みに感謝し共にご馳走を頂いたと伝えられている。
後年、このことを記念して祝日となり、七面鳥を焼いて家庭で祝うようになったのが収穫感謝日の謂れである。

鎖国を解くまでの日本はキリスト教の布教も信仰の自由も禁止されていたが、開国と同時に日本に初めてプロテスタントの信仰をもたらせたのはアメリカであった。

改革派と呼ばれる清教徒たちは、アメリカを形成するために大きな働きをした。同志社もこの流れをくんでいる。

今朝は「育てるのは神様」と題してメッセージされた。聖書箇所は、コリント人への第1の手紙 3章6節:

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」。

コリントの教会ではパウロのあとにアポロが来て彼らの信仰を育んだが、パウロ派、アポロ派、あるいは、エルサレム教会のケファ(ペテロのこと・アラム語で岩の意)派など分派争いをした。

彼らは指導者として教えたが、真に信仰を成長させて下さったのは神さまである。

人間の子供は成長するまで時間がかかる。
親は精一杯の努力をして育てるが、その子はその子の成長があり、何事にも「時」がある。人が変えられていく成長もまた同じではないかと思う。

クルミのようにとても硬くて割れないような強情な人がいるが、この硬いクルミの実も土に埋めておけば、いつか柔らかくなって芽が出てくる。

人間的な目から見ると絶対に不可能なことも、硬い殻も内で神が働いて下さるように、時が至り殻を破って下さるのである。
破るためには準備期間がいるので、神さまが必ず殻を溶かして下さると信じて祈り続けることだ。


私たちがなぜそのように信じることができるのかと言えば、私たち自身が神さまに祈って頂き誰かに祈って頂いたからである。自分で作った硬い殻は自分自身だったのではないかと思う。

教会の方々の温かい交わりにより、時いたって心が解放されたという経験をおもちの方々おられるのではないだろうか。

こうして私たちも変えられてきた。これは神さまでなければできないことだ。不可能なことを可能にして下さるのは神さまである。

かくて私たちは自分の欠点を知りながら落ち込むのではなく、更なる成長を信じて約束された刈り入れの時を必ず迎えるのである。
まず自分の成長のために祈り、そして、他者のために祈り自らを捧げていきたいものである。


私はお説教を通して主の深い慰めを頂いて何度も涙を拭っていた。
お説教とお祈りのあと幼児祝福式に移ったが、ユキは途中から眠ってしまったのでママに抱かれて講壇の前に立った。

みかんやお米(左端にある白いもの)、野菜など、家でできたものを持ち寄ったもので、午後にこれを持って慰問するのである。
同志社に学んでいた時のことを思い出す。6月の花の日礼拝には花を持ち寄り、秋には果物や野菜を持ち寄って病院や施設を慰問するのだ。私は大阪から2時間の通学時間を要したので参加したことはなかったが。

幼児祝福式@.jpg


幼児祝福式A.jpg

古森牧師がユキの頭に手を置いて祝福を祈って下さっているところ。
驚くことに目覚めたばかりのユキは、目を閉じ、手を組んで自然に祈りの姿勢をとった。


幼児祝福式記念に拝受.jpg

幼児祝福式記念にそれぞれにふさわしい絵本を頂戴した。
ユキが頂いた絵本は『ありがとう
かみさま』。
早速今日のお昼寝の時にママに読んでもらったね。

ユキが神さまを身近に感じながら教会の愛の中で育てられていくことに感謝が溢れた。これ以上の幸せな人生があるだろうか!

礼拝後の緊急役員会のあと、私から転入準備会を持って下さった。同時に始まった今月の交わり会では、11月が誕生月の知子はメインゲストというわけでショートスピーチをするために別々にして下さったのである。

今日の準備会では教会員になるとはどういうことか説明された。
礼拝を重んじること、献金について、それに続く信仰生活については既に正しく年月を重ねているので省略された。

次に日本基督教団の信仰告白と使徒信条を牧師と朗読し承認した。
母教会である日本イエス・キリスト教団の信仰告白との違いはなく、共に正統なる教団であることを再確認した。
最後に転入会式の流れをお聞きして終了。終始厳粛に承った。

あとは、12月の役員会に出席して役員の方々にご承認頂き、クリスマス礼拝で転入させて頂くことになる。
次週からのアドベント(待降節)を前にして、世界中の教会はクリスマスの準備で忙しくなる。

数日前から風邪気味だった私は法事が終わってホッとしたのか昨夜から本格的になり、教会をあとにしてから最悪になってしまった。

昼食はマクドナルド。ユキだけではなく我が夫も知子も大喜び。その後、少しだけ買い物も頑張った。

そして、頑張りついでに帰り道にある住宅展示場へ。
昨秋からここにポニーがいるのだ。
毎週教会の行き帰りに見ていて気になっていたが、ユキはつい最近まで怖くて嫌がっていた。しかし、乗ってみたいと言い始めたので20度もある温かい好天気なので夫も疲れていたが無理を言って寄ってもらった。
教会の帰りにポニーに乗ったよ!.jpg 

ついにポニーに乗った!
やっぱり緊張して笑顔はなかったが・・・プロップは6歳で1児の母だって!


ユキにも風邪が移って要注意。今夜熱が出なければいいが・・・・

神さまから新しい力を頂いて大いに恵まれて帰宅。日々の糧として今週もまたしっかりそれぞれが遣わされた所で信仰生活に励もう。

イエスさま ありがとう!

posted by 優子 at 21:52| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2010年11月20日

周囲に目を奪われないように

穏やかなお天気に恵まれた今日、義父の7回忌法要を終えた。以前には考えられない和やかな交わりを神に感謝した。神に栄光があるように祈りつつ前進あるのみ。

今日は故人の孫9人のうち4人が集まった。今夏結婚した人も2名あり、みな家庭を築いている者ばかりだった。

87歳になる義母は、「もう13回忌まで生きられないからこれが最後」とばかり言っていた。高齢には違いないので愛をこめて時を大切に用いたいと思う。

私たちが会食している頃から、クリスチャンペンクラブの例会が日本キリスト改革派灘教会会堂で開かれていた。叔母の家からだとさほど遠くない所だ。
私は已む無く欠席したが、会はさぞ祝されたことであろう。大体の様子だけでも知りたいものだ。

昨日は知子の33歳の誕生日だったので、知子の幼かった日々を振り返って何か書きたいと思っていたが、鳩飼さんのことで書けなくなってしまった。後日になるが知子へのページを重ねたいと思う。

hato-poppo235@・・・
今、鳩飼さんのメールアドレスを消した。全ては過ぎ去っていく。

こんなことを思ったことがある。
ネットのグリーティングカードは送信する日を予約できるので、私が死んでから毎年娘たちの誕生日に届くように予約しておいて、娘たちをびっくりさせてやろうかなんて思ったことがあった。状況がゆるされるならば1回分は準備したいと思う。

人生で本当に大切なものが何であるかを忘れないように。
希望は環境や状況からではなく、天地の造り主である神さまから来るのであり、希望を確実に成就して下さることを忘れないようにと再度心に刻んだ。

周囲に目を奪われないで主を見上げよう。
明日は孫の祝福式である。
主よ、感謝します!


posted by 優子 at 22:10| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

鳩飼きよ子さん、5月に80歳の生涯を閉じられていた

「しばらくいろいろあってあなたのブログは拝見しませんでした。昨夜久しぶりに展いたのです。
あまりにショッキングなことが書いてあって、これはあなたもいよいよフィクションを書き出したのかと一瞬思ったのですけど。」


これは2008年5月31日の記事冒頭に掲げた鳩飼きよ子さんのお手紙である。この時、私は膀胱癌の疑いで検査入院を控えていた。

今日の正午頃郵便受けを見ると、鳩飼さんが5月21日に亡くなったと書かれた喪中のはがきが入っていた。9時間たった今も衝撃が治まらない。

しばらくして差出人である一人息子のお嫁さんに電話したが不在。鳩飼さんたちとの勉強会を紹介して下さった友に電話したが不在。
次に鳩飼さんの所属教会に電話すればわかるだろうと思いつき淀川教会に電話した。

牧師はアッケラカンと、「3ヶ月間ほど入院されていて、最後は心臓麻痺だったんでしょうね」と言われるのみで、いろいろ尋ねてもこれしかわからなかった。

今年、年賀状を頂かなかったのでどうしたのだろうと思った。いつ頃からだったか覚えていないが、受話器をとって何度か電話しかけたことがあったがためらってしなかった。

それからまた1ヶ月くらい過ぎてから電話したが、長い間呼び出しても鳩飼さんはお出にならなかった。あの時はすでに逝かれたあとだった。

臨床心理学の勉強中に親しくなったYさんが勉強会に誘って下さり、そこで鳩飼さんと出会った。相手がクリスチャンということで即刻親しくなった。1997年11月28日のことだった。

あの頃は母の死から1年1ヶ月、父が死に至る病床に就いて5ヶ月後の時で、その現実を受け容れることができた私は、再び前を向いて歩いていこうとお誘いを受けたのだった。

このあと夕方から父の入院する病院へ行ってから帰宅したと記録されていた。その1年後に千里さんもお誘いし、鳩飼さんは私たちの共通の知人になった。

2008年11月2日の記事にあるように、淀川教会のオルガン奉献記念コンサートで6年ぶりに再会し、それが最後となった。
あの時、「親子ほど年が違う」と仰った鳩飼さん。私達と再会した鳩飼さんのとても嬉しそうな顔が思い出される。

鳩飼さんの人生は壮絶だった。
再婚した人との息子さんは、サリドマイド薬品の服用により耳介(じかい)奇形児として誕生された。
2001年9月に出版された『不思議の薬 サリドマイドの話』には実名でご子息のことも書いておられる。

その後、日本の薬害事件の原点と言われるサリドマイド事件の大薬害裁判の原告の1人として闘い抜かれた。

裁判終結後にご主人が亡くなられ、1周忌を迎えるまでに英雄さんと一緒に受洗。
その後、英雄さんは3年間の入退院を繰り返しながら過酷な外耳形成手術を繰り返された。

「肋骨の軟骨をとり、あちこちの皮膚を剥ぎ、・・・ここまで子供を苦しめてまで耳のようなものを造らなければならないのか」
と、その厳しさに神経を病み、以来ずっと睡眠薬がないと眠ることができなくなってしまわれた。

今夜、息子さんのお嫁さんに電話したが、お嫁さんも少々障がいをもっておられるので詳しい状況はわからなかった。
Yさんにも再度電話した。突然の訃報にご無沙汰していたことを悔やまれていた。

梅田・茶屋町のレストランで、毎月1回「2時の会」を開いて議論を戦わせていた頃が懐かしい。

     くすしき恵み われを救い、
     まよいしこの身も たちかえりぬ。

     思えば過ぎにし すべての日々、
     苦しみも悩みも またみ恵み。

     この身はおとろえ 世を去るとき、
     よろこびあふるる み国に生きん。


悲しい。
取り残された気持ちもする。
しかし、また会える。

イエス・キリストを信じる者には大きな慰めがある。そして、私もまた自分の死を死んでいかねばならない大仕事を思った。

そこに至るまでいろんなことがあるだろう。煩わしいことから逃げてはいけない。主よ、私もまた私の「走るべき行程」を走り抜かせて下さるように!


天国で再会した時の会話が頭の中でグルグル回っている。
「驚かせてごめんね。いやぁ、あの時はもう誰にも知らせへんかってん。
それで、あれから何か書いたん? どんなん書いたんか見せて。・・・ほんまや、そういうこっちゃ!」
と、鳩飼さんの声が聞こえてくるようだ。

英雄さんのことを心に残して旅立たれたことだろう。
今週は「障がい者週間」でもある。鳩飼さんのメッセージをお伝えして追悼文としたい。

以下にある内容は、過去ログ2008年10月4日、6日(カテゴリ「社会的なこと」)に詳しく書いているのでお読みくだされば嬉しい。

「(大薬害裁判は)はじめから判りきった結論にたどりつくまで十数年の凄惨(せいさん)ともいえる裁判闘争が繰りひろげられました。そして、和解での終結。

サリドマイド裁判がその後の血友病エイズ事件をはじめとする薬害根絶の捨て石にならなかったことは、この終結の仕方にあったと私は考えています。

原告の一人としてこのことがずっと胸のそこにあり、その贖罪の気持ちもふくめてこの本を書きました。
   
         (略)

子は自分を生んだ親の年齢をはるかにこえ、もはや親の庇護のおよばぬ次元で、その苦しみを一人背負ってあと何十年かを生きねばなりません。

この子たちのつらさは、障害の不自由さよりも、世の中から向けられる好奇な目、差別と偏見に耐えていかねばならないことです。

最後の一人の生が終わるまで、『サリドマイドの話』は続くわけですが、親として、これからあとに残る子供たちの身が案じられないわけがなく、ただただこれからは社会の方がたのご理解とご援助をお願い申し上げるしかありません」。
 
   
   『不思議の薬 サリドマイドの話』あとがきより


    
posted by 優子 at 22:14| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

こどもは詩人 ―ユキの近況トピック集―

大きな松ぼっくり.jpg

大きな松ぼっくりは、5日に夫がゴルフ場で拾ってきたもの。

茨木カントリークラブには西洋の松があり、昨秋も孫に持って帰ってきてくれた。

昨日の朝、ママと一緒に目覚めたユキは、「ママ、いやぁよう。会社行ったらいやぁよう。もっと一緒にベッドにおろうよう」とママを困らせていた。9月以来こんなことは初めてだった。

今は朝の6時でも暗く、まもなく空が白みはじめて夜が明けた。すると、
「夜 どこいった? 夜のおうちあるのかなぁ?」
現在3歳4ヶ月。こどもは詩人だ!

昨日の午後は先月から始まった自治会、正しくは昨年度の私のあとを継いで下さった福祉推進委員会主催による幼児教室に出かけた。
孫のために行ってやらねばと分かっていても行くのが億劫で先月は行かなかった。

その後、公園で声をかけて頂き参加することにした。こどもたちはみんな母親と一緒だが、ユキのところだけ名簿の保護者欄に「祖母」と書かれていた。

初回も20名の幼児が参加し、今回は25名になっていた。保育園や幼稚園に行っていない1歳から5歳までの幼児たちを対象に、保育士をされていた2名が我が子を連れてリーダーになっての試みだ。

昨日は新聞紙を破ってのお遊び。
ユキが人前でもハキハキ話せるようにと、私は我が子のとき同様に少々意識づけながらおばあちゃんママをやっている。

何事も情熱をもってやるのが私流と、遊びも子供と一緒に楽しんだ。両腕を上げて新聞紙を散らすと五十肩(?)の右腕が「おお、痛い!」。
昨日の午後は疲れてユキと一緒に寝てしまった。

私自身はいろんな心の動きがあるが、孫が幼稚園に入園するまで行ってやろうと思う。


今年になって時々義母(ユキにとっては曾祖母)を誘って散歩に行くようになった。
先週もユキとチャッピーと一緒に3人と1匹で散歩に出た時のこと。このカエデ(?)を見た瞬間にユキが叫んだ。
「うわぁ、きれい。花火みたい!」.jpg
「うわぁ きれい! 花火みたい!」
これを聞いた義母が、「この子はすごいなぁ」と感動の言葉を発したので、またまた私は驚いた。

というのは、義母は昔から言葉少なく表情の乏しい人だけに、私には2連発の驚きだった。この写真は今日の午後、お昼寝前に思いついてユキと一緒に写しに行った。

今月3日の「しいたけ狩り」では、紙商健保組合の職員さんたちが「大きくなったねえ」と声をかけて下さった。比較してみると成長ぶりがよくわかる。

しいたけ狩り.jpgユキ、大きくなったねぇ。
1年半前の「いちご狩り」の時はこんなに小さかった。
画像 006.jpgこの時1歳8ヶ月だったユキの靴のサイズは13センチで、今は16センチを履いている。 

次も同じ頃のユキ。
昨年3月に帰国中の真智子にパジャマを着せてもらっているところ。
マチとクマは今も猛烈にハードな日々を過ごしている。今日の午後4時前にスカイプした。ミネソタ時間の16日午前1時頃だった。DSC03569.jpg 
ユキは星の王子さまみたい。星の王子様.jpg
大きくなったね.jpg
ガウンがこんなに短くなった。
それでもまだ着せるところが我が家流。わーい(嬉しい顔)

ある日の朝食前のお祈り。
私が祈り終わると、「さっきアニー言うたよ」とユキが言った。
この日の朝は独りになってお祈りできなかったので、食前のお祈りで兄や妹のことも祈った。
そこでユキは「兄」を「アニー」と聞いたのである。アニーとは機関車トーマスの友、アニーのことである。わーい(嬉しい顔)

教会のバザーで知子が古森先生(牧師)と一緒にフランクフルト・ソーセージを受け持っていた時のこと。
「はい、ユキちゃん。おあがり」と知子がソーセージを差し出すと、
「ユキちゃん(が)全部? ママは?」
「いいよ。ユキちゃんに全部あげるから」
「そしたら次はママが何か食べや」と笑って、大好きなソーセージをほおばった。

ユキはまだ十分に話せなかった1歳過ぎの時から知子に食べるように促し、ママが食べなかったら自分も食べないという不思議なこどもだった。
知子の体重が37キロにまでなっていた時のことである。体脂肪は6.8(?)だったと思う。


その知子は今、想像もつかないほど、特に今年の8月末から元気になった。もはや睡眠薬など全く必要なくなり、バタン・キューで子供と一緒に眠っている。

それでもまだ体調不調があるので通勤は殆ど電車で通っている。体調不調だから自動車ではなく電車なのだ。
しかも父親が家を出てから5〜6分しか違わない出発である。駅まで4〜5分で走り、運動のためにラッシュの電車に乗って行く。

再び孫のトピックを続けよう。
私が朝の祈りで、「イエスさま、今日もユキちゃんと一緒にいて下さい。」とお祈りするからか、「イェシュしゃま みんなにおらなあかんね。会社にもおりますように」(「イエスさま、みんなと共にいてくださいますように。会社にもいてくださいますように」の意味)と話すユキ。

13日の土曜日は、ママに「きんてつ鉄道まつり2010」に連れて行ってもらって大喜び。

鉄道まつり@.jpg
鉄道まつりA.jpg
「まのなく(まもなく)2番線に電車が参ります。いせん(危険)ですから白線の内側までお下がりください」。

今日も朝から晩までユキのアナウンスが聞こえていた。

そして今日はこんなことを言った。
「もう飛行機も怖くない。おばあちゃん、飛行機に乗って一緒にアメリカへ行こうグッド(上向き矢印)。 どこに飛行機の駅があるの? 運転手さんは?」と、行く気満々で言うのでびっくり。数日前から成長ぶりが顕著である。

自宅近くのクリスマスのイルミネーションで有名なお宅では10月初めから準備が始まり、飾りつけもほぼ完了か。
イルミネーション準備中.jpg

去年も動くサンタクロースが怖くて行けなかったユキだが、今年は大丈夫のようだ。この写真はユキのリクエストで昨日の幼児教室の帰りに撮った。

posted by 優子 at 22:53| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2010年11月14日

あふれる感謝!

今朝は教会のバザー(11時から)があるので礼拝はいつもより1時間早く9時半から始まり、大人と子供の合同礼拝だった。
また今日から1週間は、障がい者週間に位置付けられているので、「バザー礼拝・障がい者週間礼拝」を捧げた。

今朝も奏楽の恵みに与った知子は、私にも懐かしい「こどもさんびか」を弾いた。
交読文は「交祷リタニー」とあった。
私は「リタニー」という言葉を知らなかったので調べてみると、「連祷」(litany)の意味だとわかった。

今週は障害者の方々に思いを馳せてイエス・キリストの一部として生きていこうと、古森牧師は「弱いものこそ必要」と題して説教された。
聖書はコリント人への第1の手紙12章12節から26節。(末尾の「続きを読む」に掲載)

最初に福井達雨(たつう)氏の止揚学園の始まりについて話された。
止揚学園設立の頃、障害児といっても多くの人は関心を示さず、国の取り組みも貧困でした。そんな時に、福井 達雨(止揚学園リーダー)は4人の知能に重い障害をもった子どもたちと出会いました。
 
その中の1人は牛を飼わなくなった小屋の土間に掘った穴の中に入れられていました。
「何て、ひどいことをしているんや」たまらなくなって怒鳴りつける福井に母親は、涙を流しながら訴えました。
 
「怒りを感じられるのは当然と思います。でも、この子を外に出すと、皆がからかったり、石を投げたりします。車の前に走っていっても、誰も止めてくれません。この穴の中に入れている時だけがこの子の生命を守れるのです」。
 
それを聞き、(この子を穴の中に入れざるをえないように母親を追いつめたのは、心の冷たい日本人なんや。その日本人の中に私もいた。私もこの子どもを穴の中に入れた1人なんや)と、福井はドキンとしました。そして母親に必死になって謝りました。                                      
こうして、1962年差別をしてきた私たちが差別をされた人たちに謝ろうと止揚学園が生まれました。
 
「止揚学園が創設されて46年経った。
福井先生に『かわいそうに』という気持ちはない。共に歩もうとの考えで取り組んでおられるのである。

パウロは自分の弱いところを自分の力で頑張るのではなく、イエスさまに頼ることによって生きていくと言っている。
弱いところでイエスさまにお会いすることができるとも言えるだろう。
それどころか、弱く見える部分がかえって必要なんだとパウロは言う。その肉体の刺(病)の中でイエスさまがおられるのである」。
(この聖書の箇所も末尾の「続きを読む」に掲載)

私は説教を聴きながら新島襄の同志社への想いを思い出していた。
「我カ校をして深山大沢(だいたく)之(の)如くになし」、「小魚(しょうぎょ)も生長セしめ、大魚(たいぎょ)も自在ニ発育セしめ」 ることが肝要(『新島襄全集』4)だと述べている。

つまり、全ての人がリーダーになる必要はない。教師は優秀な生徒を大切にするのではなく、できない生徒をこそ大切に育て、共に「自在に」泳げる学校にと遺言を残している。


礼拝後、礼拝堂をバザー会場に設置し商品を並べた。
炊き込みご飯、黒米と黒豆のご飯、おはぎ、おからケーキ、スィートポテト、梅干、奈良漬け、お漬物、フランクフルト・ソーセージなど。
庭では、柿、野菜、花、スダチ、柚子などが売られ、2階は寄贈品売り場だった。

11月21日追記:子供にはスタンプラリーやゲームも盛り込まれ、教会員以外の来会者は大人55名、子供30名と大盛況だった。

私達は昨年の10月末にこの教会で礼拝の恵みにあずかっていたが(といっても、この頃は夫婦2人で行っていた)、バザーの時は欠席したので今回が初めてだった。今日は私達も一緒になって最後まで楽しい時を過ごした。

昨年の今頃を思うと信じられないことだ。
神さまが1年後にこのような日々を備えて下さっていたとは信じられぬことである。「こっちだ、こっちだ」と、目には見えない御手で導き続けて下さっていたのだ。


教会の台所で!.jpg

高見敏雄牧師、N姉(しまい)と共に。
N姉のおはぎは最高!
80個は早々に完売した。
高見牧師は終始台所で香り高いコーヒーを点てて下さっていた。

博学でユーモアに満ち、懐の大きい先生だ。
それぞれの良さを引き出し、伸ばして下さる敬愛する牧師である。

「ユキちゃんが呼び込みをしてくれた、呼び込みユキちゃん。
ユキちゃんの『アーメン』がないと礼拝が始まらん。」

と高見先生。
写して下さったのはS姉。感謝!

教会のバザー光景.jpg

2階の寄贈品売り場


教会のバザーで@.jpg

夫もスタッフのシャツブラウスを着て、
ご飯とケーキ売り場を受け持ってくれた。

昨日は大雨の沖縄でゴルフをして
夜遅くの帰宅だったので疲れていたと思うが、
神の祝福の真只中にある。

今週も神さまに守られて職務を果たせますように!

教会のバザーA.jpg 

私よりも年配の I 姉は長いことユキの相手をして遊んで下さっていた。


教会では皆さんから「ユキちゃん」「ユキちゃん」と呼ばれて、愛の中で育まれている。

先週の礼拝後の墓前礼拝に行けなかったが、墓前礼拝に続いて納骨堂では、今年の3月に召天された方の納骨が行われた。以下は週報より古森牧師の言葉の抜粋である。

「教会員の賛美のうちに、先に天に行かれたSさん(ご主人)の遺骨の隣に安置されました。・・・(略)・・・

納骨堂の十字架にあらわされるイエス・キリストの愛により、今は永遠の安らぎにおられることを信じ、そのことを唯一の慰めとして、残された私たちも、家族の待つ天を目指して、信仰の馳せ場を走り抜きたいと思います」。


読みながら涙した。

来週は収穫感謝礼拝だ。
幼児祝福式ではユキも祝福に与ることになっている。また、礼拝後には古森先生が私と知子の転入準備会を持って下さる。感謝。

秋から喜びの連続、私の杯は感謝が溢れている。

最後にお笑いを一つ。
ある姉(しまい)が、「ご主人は学者タイプやね」と仰った。
「ええ〜〜〜〜〜〜〜〜」と、私は大笑い。
笑いの振動がミネソタにも伝わった?!
でも、その子供が学者になった!!!
わーい(嬉しい顔)犬手(チョキ)

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posted by 優子 at 22:15| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2010年11月13日

サムエル・ウルマンの『青春』が成熟拒否?!

日本クリスチャンペンクラブのN兄は多紙に目を通されており、広い視野で文学から社会問題に至るまで興味深い記事を度々郵送して下さる。
私の得意とする分野の資料として役立ちそうなのものも多くあり、それらは大切にとってある。

過日の便に同封して下さった朝日新聞10月5日づけの「オピニオン」の、野田正彰氏へのインタビュー記事も興味深く読ませて頂いた。

精神科医の野田氏を知ったのは、15年前の阪神・淡路大震災の時が最初だと思う。度々メディアに登場されて被災者の精神面についてコメントされていたことを覚えている。

「オピニオン」では、野田氏がサムエル・ウルマンの「青春」についても語っておられるのであるが、私の受け止め方と全く違っており、あの詩が「成熟拒否」であると言われては心中穏やかではない。

「青春」は『メメントドミニ』でも3回取り上げている(過去ログ・2006年11月28日、2007年9月19日、2009年7月12日)私の好きな詩であるが、改めて丁寧に読み直してみたい。
青春
            
                       サムエル・ウルマン作 

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、豊かな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。

歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地に這い、
精神は芥(あくた)になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。

君にも我にも見えざる駅逓(えきてい)が心にある。
人から神から美、希望、喜び、勇気、力の霊感を受ける限り
君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
悲嘆の氷にとざされるとき、
20歳であとうと人は老いる。
頭(こうべ)を高く上げ希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと人は青春にして已(や)む。

Samuel Ullman という名前からも明らかなように、ウルマンはユダヤ人であり、この詩には深い信仰的心情がほとばしり出ている。決して、目に見える若さを憧れて謳っているのではない。

高知出身の野田氏がNHKの大河ドラマ『龍馬伝』の龍馬像と竜馬人気に疑問を投げかけ、「龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ」と異議を唱えておられ、その中でサムエル・ウルマンの『青春』は、日本の企業経営者や日本経済連が好む座右の銘ともいえる詩で、これこそ龍馬であり、成熟拒否だと次のようにおっしゃっているのである。

「本来、人は年齢を重ねるとそれなりに成熟していかないといけない。なのに青春像にしがみつくのは、申し訳ないのですが、人格的に未熟だからです。

なぜ経営者は成熟の歌を自分の部屋(会長室や社長室)に飾らないのか。彼らが龍馬にあこがれるとしたら、それは龍馬という青春にこだわることであり、幼稚さの表れでしょう」。


周囲には老いに目を背け、若く見られたいために若作りしたり、若さを保とうと頑張リズムでやっている人も珍しくない。

また、企業経営者や日本経済連の人々がどのように鑑賞しておられるかはわからないが、この詩は失った青春にすがっているのでも、老いを拒否しているのでもない。

確かにウルマンは若さを肯定し、「理想を失うとき初めて老いる」と老いを否定的なものとして表現しているが真意はそうではない。

父が68歳くらいの時だったか、妻(私の母)の介護疲れで気弱になった時に語った言葉が今も記憶に残っている。

「60歳代になると体力が落ちていく。迂闊にもそのことは想定外だった。若い頃は仕事をいくつも並行してやっていけたが、年を取ると集中力も気力もなくなってくる」というようなことを、私への教訓として語ってくれたことがあった。

年齢を重ねると体力と共に気力も減退していくのもまた神の摂理ではないだろうか。

この詩は老いを受け入れたからこそ感じられる励ましであり、気力は失せていくが生ある限り人間的成熟を求め続けようとの励まし以外の何でもない。

感じていることをうまく表現できないのがもどかしいが、信仰者として言うならば信仰から信仰へ、信仰の高嶺へと導かれていきたいのであり、私はその激励として受けとめている。


「しがらみを離れて理想像を描き、実行するだけの力がある時期。自由な発想で生きていくことができる。中年以上の成長した経済人がそういう青春像を結ぶのに、龍馬は適当なのだと思います」。

そのような青春像とは対極にある内容の詩であり、目に見えない心の専門家であるのに外観だけを捉えておられるとしか言えない。
『龍馬伝』を見ていないが、お説には全て頷きながら興味深く読んだ。

「(龍馬は)30代前半で暗殺されて中年以降がない。もしも明治維新にも生きていたら、時代を切り開く若々しいイメージを投影することは難しかったであろう」。

(龍馬伝』の)「内容はフィクションだらけで、いくらなんでも、こんなことをやってはいけません。・・・龍馬は、長崎の英国商人グラバーと親しくし、武器を大量に買いつけました。・・・

歴史学の専門家に聞いたら、龍馬が植民地化への危機感を持っていたという文書はないと言う。
ならば、『列強は日本を植民地化しようとしている、だから幕府を倒さないといけない』というのは変でしょう。嘘になる。国民にある種の政治的メッセージを発したいのでしょうか。・・・

ドラマとはいえ、歴史学の知見や実証的にわかっていることと大きく違うことは、作ってはいけません。・・・地元紙の記者に聞いたら、高知では『史実と違いすぎる』と冷めているそうです。・・・

龍馬は開かれた世界を志向したし、後の自由民権運動につながる系譜があった。でも、これは強調しておきたいのですが、軍国主義に利用されたことを忘れないでほしい。・・・

勝手な使い方には『いいかげんにしてくれよ』と言いたくなります」。

というような内容だった。

「小説を書ける人は極端に言えば虚言者だ」と、女医の知人が言われたことがあった。
芸術とは現実と虚構の接点であり、小説は真実に近い虚構であるから、真実と違いすぎるのは面白くもないし問題である。


龍馬は明治に入って忘れられ、日露戦争という有事の時に利用された。
常に危機的状況となっている現代、再び軍国主義やナショナリズムの鼓舞に利用されないように私達も聡明であらねばならない。何よりもこれでは当の龍馬が嘆くであろう。

posted by 優子 at 17:46| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2010年11月12日

「これらのことの後!」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 12― 

これらのことの後!(羽鳥 明牧師)
 
「これらのことの後」ということばが聖書の中によく出てきます。これらのことの後・・・・どうなるのか、その時によって違います。
 
あるとても献身的な黒人の牧師がこんなことを言っていました。
「『これらのことの後・・・・よくなる』。これは私の好きな聖句です。苦しいとき、私は『これらのことの後・・・・よくなる』と言います。

すると、いつも元気を取り戻すことができます。悩みがあるときも、『これらのことの後・・・・よくなる』と言います。すると、いつもこの言葉が耐える力を与えてくれるのです」。
 
この牧師の素朴な哲学は、私たちにとっても、よい薬ではないでしょうか。
優しい天の父、神様のおはからいなしには、この世には何も起こりません。神様は私たちの必要を知り、また私たちの耐え得る限度もご存じです。

試練とともに、いつも十分な恵みをも与えてくださいます。つまり、「これらのことの後・・・・よくなる」ことを悟らせてくださるお方です。
 
聖書は言います。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」
(コリント人への手紙 第1 10章13節)。
 
黒人牧師の言うように、「これらのことの後・・・・よくなる」ということを覚えるべきでしょう。
使徒パウロはこう言っています。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」
(コリント人への手紙 第2 4章8〜10節)。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」
(コリント人への手紙 第2 4章17節)。
 
「これらのことの後・・・・よくなる」。
このことばをあなたの生活の中で働かせてみたらどうでしょうか。


posted by 優子 at 19:50| 引用文 | 更新情報をチェックする

2010年11月11日

人生の秋深まりゆく

今日は孫と2人でデパートへ出かけた。多忙な日々を送っている娘に代わって、ベビー・子供服のバーゲンセールが目的だった。

娘達が幼かった頃、デパートへ行く時は実家の母に子供を見てもらい、次女が幼稚園に行くようになってからは、デパートの開店と同時に到着して幼稚園の2時のお迎えに急いだものだ。

何て懐かしいんだろう。
今のような疲れなど全く感じなかった。
そんなわけで、今日は私の子育て現役時代にも経験しなかったことをやったものだから疲れてしまった。

買い物は1時間で切り上げて早々にランチタイムにした。高島屋のレストラン街は広くゴージャスにリニューアルされて、さながらユキと2人でデート気分だった。

となりのテーブルには幼児と母と祖母の3人連れ、その向こうは幼児と母のダブルカップルで昼食を楽しんでおられた。
ここに知子がいないのが少々寂しく心の痛みを感じた。

私の髪の毛は白くなり祖母3年生ともなれば、さすがに自分の年齢を自覚できていたのだろう。となりのテーブルの親子連れを見て、亡き母に焦点を合わせて悲しくなることはなかった。

孫にも人並みなことをしてやりたい。
娘に寂しい想いをさせたくない。母と父の存在が私を満たしてくれたように我が子にもと思うと目頭が熱くなった。

遠くにいる真智子のことも想う。
真智子の子供にも同じようにしてやりたい。
子供が小さい時はそばにいて助けてやりたい。

そうなれば飛行機が嫌だなどと言ってはいられない。
言葉の壁だって何のその、私はアメリカだって地の果てにだって行って助けてやりたい。


「親に受けた恩を子に返す」。
いつか近隣の人に教えてもらった言葉だが、私も両親から受けた愛を子らに注いでやりたいと思う。

次女は夜遅くまで、また早朝からオンラインになっている時がある。
「真智」、といつも心の中で名前を呼ぶ。

今年は秋の深まりと共に我が人生の秋も実感した。当然だろう。1年後には60歳になるのだから。

遠い日々がキラキラと輝いている。
そして、やっぱり父と母が懐かしい。
会いたい。たまらなく会いたい。涙が頬を伝う。


催し場の北海道展に立ち寄る体力もなく、右手にたくさんの荷物を持ち左手にユキの手をつないで、ケーキを買うのが精一杯で帰ってきた。

午後2時、帰宅と同時に大スズメバチ騒ぎで疲れは吹っ飛んでしまった。
義母は、「優子さんがいないからどうしようかと思って、会社(良輔)に電話しようかと思った」と言ってオロオロしていた。
こんな言葉を聞いたのは初めてだった。


posted by 優子 at 21:42| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2010年11月10日

『紙業タイムス』に掲載されたインタビュー記事

我が家の商いとする紙業界の『紙業タイムス』(1449号・11月1日発行)の「インタビュー」で取り上げられた記事をご紹介かたがた記録しておきたい。
紙業タイムス掲載文.jpg
題して、
「立地と共同配送の利点活かす」。
美濃紙業は和紙・洋紙・板紙・情報用紙など、紙専門の商社として60年余りの歴史があり、近年は僅かながらも教材ソフトの開発にも着手している。

同社の代表取締役藤本良輔社長は現在、大阪洋紙同業会・日紙商西部ブロックの理事長並びに大阪紙商組合の副理事長を務め業界発展のために尽力している。今回は関西の流通の現状についてお話を伺った。


Q:最近の市況について

昨年は大きく販売数量が落ち込み、今年に入ってからも3月に前年度を上回っただけで厳しい状況が続いている。

その中で板紙だけが前年を上回っているが、上質紙についてはほぼ前年並みで、A2コート紙にいたっては夏場から更に落ち込んでいる。

A3コート紙は通販向けの紙が輸入紙に変わったことと、チラシ需要の大幅な減少と輪転印刷業社に対する与信問題で大幅に落ち込んでいる。印刷関係は今後も倒産の心配は増すばかりである。

Q:売上、利益については

卸商の一部では安売りをして数量を伸ばしているところもあるが、大半は大きく数字を落としている。

昨年は価格重視で販売していたが、今年になって大口注文で値段を下げ、現在は値上げ前の価格にまで下がってしまった。そのため粗利についても下落幅が大きい。これからの秋需に期待したいところだが盛り上がる気配はない。

Q:理事長としての立場からは

今後市場に対する卸商の対応は、今までのように数量だけを追っていくのではなく、互いに協調し合って販売倫理を守らねばならない。

このことは機会あるたびに何度も発言していることだが、ある程度の淘汰は覚悟しなければならず、その段階になるまでは会社の体力勝負でしかないというのが実情だ。

価格競争にしても一部の卸商同士が客を取り合い、やられたら利益を度外視してでもやりかえすというモラルの無さが市場にも影響を及ぼしている。

安売りを警告されたら客先に告げ口するなど、コンプライアンスを逆手にとるような現状に憂いている。それに巻き込まれた会社は大きな迷惑を被り、最終的には社長同士の話し合いにもっていかないと解決しない。

同業会としては、数量から利益重視の発想に変えるように啓発しているが強制力はなく、最終的には各社のモラルに任せるしかない。

Q:価格修正については

チリ地震の影響でパルプの価格が上がり、その後、アジアでパルプが高騰し国内でも原材料価格の値上がりが予想されたが、円高により相殺されてしまった。

年末には中国で300万トンもの生産量のAPP新マシンが稼働し、それが日本に入ってくれば円高も加えて相当安い価格の輸入紙が入ってくることになり、値上げどころか反対に値下げになるかもしれないと脅威を感じている。

また最近の日経新聞は、A2の価格が値上げ前の価格まで下がったと報じていた。価格もまだまだ先安感があり、卸商はさらに在庫調整に入っている。

Q:御社の他卸商と比較した場合の強みは?

自社の強みは、大阪の紙流通の中心である紙文具流通センターに位置していることと、4社で共同配送している事だ。それにより物流コストを下げ、また至急の配送にも対応できている。自社の物流では固定費がかかるが、共同配送だと売上が落ちても並行して物流コストが下がるのでメリットが大きい。

もう一点は、教科書関係の出版社を顧客に持っているので、その部門においては大幅な落ち込みはない。

Q:東京のマーケットとの違いは

大阪では25年ほど前に卸商先へ代理店が売り込みに来て、大半の卸商が売り上げをなくしてしまったことがある。現在は卸商と代理店の棲み分けがきちんとできており、卸商同士の競争になっている。

一方、東京は今や何でもありの状況で、卸商先へ商社や代理店、また、地方からの売込みによる価格競争でシェアを落とし、大変な激戦になっている。これはかつて大阪で起こったことと同じ状況である。

Q:今後の見通し他

利益重視の姿勢に乗り換えていく過程で、売上を落としても経営していける経営体質、合理化、更には人材の問題など、固定費を売上に見合っただけ下げていかないと生き残れない。

既にメーカーは国内数量を20%減でも利益が出るような体制に合理化している。流通もより一層の合理化を図らねば卸商の数はますます減っていくであろう。

我々がどういう形で生き残っていくかについては、日紙商で言われている「M&A」も一つの選択肢ではあるが、小さい企業同士はなかなか合併が進まないのが現状である。

そしてまた、小さい会社同士が一緒になっても既に難しいと思われる。このような過酷な状況の中で、大阪の卸商はよく頑張っているなと思う。頑張るしかない。
*

[藤本良輔(ふじもとりょうすけ)]
1945(昭和20)年9月1日・大阪市出身
大阪経済大学・経済学部卒業後・美濃紙業入社、80年取締役、81年専務取締役、89年代表取締役社長
趣味=ゴルフとテレビのスポーツ観戦、休日は愛犬の散歩、出社前のラジオ体操
最近の読書名=『松下幸之助の哲学 −いかに生き、いかに栄えるか−』
生活信条=「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる」
好きな言葉=誠実を信念とする。

今回もこのゲラ刷りを拝見して、夫のコメントが正しく文字化されていなかった箇所を夫から話を聞いて書き直した。10月半ばだったと思う。近年はこのような役目を通して紙業界の過酷な状況を知る。

私は幕末末期の土方歳三の心境を想った。
流山で近藤勇と別れ、土方は会津、そして、蝦夷にまで行って戦い抜いた。勝目のない戦いを戦うしかなく、まるで死地を求めていった土方歳三の心境に似ている。

この先どうなっていくのか明日のこともわからない厳しさであるが、とにかく精一杯の働きをするだけである。

posted by 優子 at 17:24| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

馬見丘陵公園で開催中の「全国都市緑化ならフェア」

9月18日から11月14日まで開催されている「第27回全国都市緑化ならフェア」は、馬見労祷教会からすぐ近くの馬見丘陵公園が会場になっている。

東大阪に住んでいた頃、1990年に開かれた「国際花と緑の博覧会」(大阪花博)が、自宅からすぐ目と鼻の先の鶴見緑地で開催された時も行かなかった花に関心のない私達だが、今回は私以外の家族は行っている。

私が大溝教会へ行った10月11日、私を駅まで送ってくれた自動車に長女と孫も乗っていたので、夫は急きょ孫のためにと行ってきたのだった。

開催早々に行って来られた教会の方から、「ダリアの茎が水道管になっていた」とお聞きしていたので、私は是非見たいと思っていたが夫たちは見てこなかった(>_<)。

馬見丘陵公園は、「大和平野のほぼ中央にある県営馬見丘陵公園は、我が国でも有数の古墳が集中している地域」だという。

「馬見(うまみ)」という名は珍しいので地名の由来を知りたい。新しく開発された町は「馬見」を音読みにして「真美ケ丘」と名づけたようだ。

方向音痴の私は、何度説明されても教会からどの方向にあるのかさえわからないが、やっと孫が寝たのでコーヒーを飲みながらパソコンで花を楽しむことにしよう。


posted by 優子 at 16:11| 随想 | 更新情報をチェックする

2010年11月07日

召天者記念礼拝 ―天のふるさとを目指して―

キリスト教では、イエス・キリストを信じて召された方は神さまが天に召して下さったと信じて、亡くなった方々を召天者と呼ぶ。

召天者は神さまのおられる天国におられるから、その人達が未練があったり、祟(たた)りをもたらすようなこともなければ、死者の霊を慰めることもない。
年に1回この世に帰ってきてもらって、労い、美味しいものを食べて頂くということもない。

召天者記念礼拝は、召された人の信仰を思い出して記念し、地上にいる私達の生き方を見直す時である。

63年前に馬見労祷教会を設立した青年達は、神さまから与えられた人生を終えて教会の納骨堂に眠っておられる。

家庭集会に導かれた青年達は賀川豊彦より洗礼を受けた
「耶蘇を信じる変わり者」と見られていたが、農家の人々には感謝されていた。

教会の資料室から戦後すぐに建てられた教会の青写真が出てきた。
昼は託児所、夜は教会のために、休日は福音学校、日曜学校、また、聖書の学びや祈りの場として使われていた。

そして、昭和23年に僅か7名で開かれた教会総会。
即ち、たった7名の教会員から始まったのであり、草創期は大変な苦労があったであろう。

賀川豊彦が相当額の本の印税を封も切らずに下さっていたことも記録されている。その背後に神さまのお恵みと後押しがあったことは言うまでもない。


以来、教会に繋がった31名の召天者は確信をもって歩み、天命を全うし、神のお招きによって天へ帰って行かれた。

イエス・キリストを信じたからと言って、私達は聖人君子になったわけではないから、身近にいる家族ならば欠点も見えるだろう。

私達は欠点だらけの人間であり、罪をおかし続ける人生を送らねばならないが、神はこのような私達を赦し、愛し、神のおられる天に召して下さるのである。

もし私達が偶然に生まれてきたならば、死んだ後は何も残らないが、神さまによって誕生したと信じられる人は、帰る所も見出すことができる。


この地上の生涯は仮り住まいである。
パウロは、この肉体は幕屋(テント)であると言っている。この幕屋を脱ぐ時に、神に迎え入れて頂けるように、見えないものを信じる者でありたいと思う。

ヘブル人への手紙11章13節〜16節:

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。

同11章1節:
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。 

講壇前には召天された方々の遺影が並べてあった。
特に奈良という異郷の地に、まことの神を礼拝する民が起こされたことに私は深い感動を覚える。
私達も先人達の信仰を継承し、それぞれの使命を全うさせて頂きたいと切に願う。


附記:
知子は昨日今日と総務管理者養成講座受講のため礼拝を欠席した。過酷な状況であった1年前に何冊ものテキストで自学しており、年に一度設けられている講座を受講したのである。
知子にとっては関心のない苦手な分野であるが、今後に必要な知識を生き生きと摂取している。

体調不調の不安があるので受講すべきかどうか悩んだが、一切を神さまに委ねて決意し休日なしの日々を送っている。

自分(人間)の能力の限界を知ったから、あれもこれもと完璧を目指すのではなく、神さまに助けを求めながら優先順位をつけて、ゆったりとした気持ちで、しかし、見事なる集中力を発揮して励んでいる。神さまも喜んで下さっていることであろう。

ハレルヤ、感謝である!
神さまは最悪のことを喜びに変えて下さった。

不幸を幸いの起点として下さったのである!


そんなわけで今日は私達夫婦と孫だけで礼拝を守った。
大きくなったユキは抱かれて寝るのがしんどくて、眠りたいのに眠れずにかわいそうだった。私も苦心惨憺しながらの説教拝聴となり、先週以上に聞き逃したところがあった。

礼拝後は、教会からさほど遠くない所にある教会納骨堂前にて墓前礼拝がもたれた。

この教会では初めてなので私は是非行きたかったが、夫は「僕らには関係ないから」と渋った。か・な・し・い・・・神さまは働いて下さるのだろうか・・・

死後の運命は生きている時に決まるのである。死んでからでは遅い。従って、死者の冥福を祈るなどありえないのに!

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。 
信じます。アーメン。

今日は知子もいないことだからと断念し、来年は行ってくれることを約束して教会をあとにした。
昼食は外食し、義母に頼まれた法事の粗供養や日常の買い物をして3時過ぎに帰宅。

明日もまた夫は東京出張、今週末には沖縄へ飛ぶ。
今週も神さまのお守りの中で過ごすことができますように。


posted by 優子 at 22:39| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2010年11月06日

食文化と食を考える ―映画『ザ・コーヴ』より―

毎週視聴している土曜日夕刻のテレビ番組の『報道特集』では、和歌山県太地町のイルカ漁について取り上げられていた。

太地と言えば3回生のゼミで学んだ蕪村の句を想起する。

「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」

これは鯨の名所である紀州太地のあたりを詠った句(「いざよひや鯨来初し熊野うら」遺稿)で、ひっそりとした熊野灘漁村の何事もなくのどかに暮れていく夕日を視点として描き出したものであり、茫乎たる外洋の大景描写するために「鯨もよらず」と奇想したようである。

今この太地が世界から批判の的になっている。
2009年にアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』(The Cove)で、和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁を批判的に取り上げられたからだ。「コーヴ(cove)」とは「入り江」の意である。

私は「ユーチューブ」で大体のことを知っているだけで、映画全体を見たわけではないので何も書けないが、善悪2元論で描かれているそうだ。
今夕の『報道特集』は次のような内容だった。

リック・オバリー氏は、昔あったアメリカのテレビ番組、『わんぱくフリッパー』のフリッパーを調教した人である。

彼の主張は、イルカは鏡を見て自分の姿だとわかる高い知能を持っており、人間の命を救ったこともある特別な存在だから食用にしてはいけないというものだ。

彼にとっては太地のイルカ漁は野蛮で非文明的な姿であり、議論の余地のない悪として捉えている。

太地の人々は、「なぜ、イルカを食べてはいけないのかわからない。小さい時からイルカのすき焼きを食べていた」のである。

日本人の私もイルカを食べるとは最近まで知らなかったが、クジラは何度も食べたことがある。

子供の頃、母は「今日はいい尾の身(この字だと思う)が入ったから」と言って、牛肉の霜降りと全く同じ鯨の肉を何度も食べさせてくれた。あの当時でも尾の身はかなり高価なものだったようだ。

料理法はステーキか「ハリハリ鍋」だった。
「ハリハリ鍋」は大阪の名物で、甘辛い汁の鍋に具材は鯨と水菜だけ。水菜はあまり煮過ぎないで、噛んだ時に音がする程度で食べるので「ハリハリ鍋」という。

話が逸れたが、オバリー氏は町議会の人々と反捕鯨団体との意見交換をボイコットして入り江へ向かった。
番組のルポライターは、このこと自体がメディアに向けたパフォーマンスとも見えると語った。

意見交換ではシーシェパードの人々もまた一方的な価値観を押し付け、太地の人々と立場の違いを際立たせただけだった。

伝統的な食文化なので食用にしてもかまわないというのが太地の人々の主張であり、私達の思いでもあろう。

食文化の違いということで犬を食する韓国が紹介された。
今では若い人々は食べないようだが、年配の人々は今も疲労回復に絶大な効果があるとして犬肉を食べている。
「西洋人たちは野蛮だと言うが、伝統的食文化だから食べても良いのだ!」と彼らは強く主張した。

私たちが夏バテ防止に鰻を食べるのと同様に、韓国の人々は犬肉を食べる。「体が温まって汗が出て気分もスッキリする」とか。

一方で、「文化は時代によって変わるものだから」と、この食文化に反対する韓国人たちもいた。

取材者は最後に、圧倒的な少数派である太地の人々の後押しない国に失望していた。

私はこのルポを見て熱くなった。
同じ日本人だからという身びいき根性では物事が見えなくなってしまうから、書きながら客観的に見直してみたい。

このことはまた、ちょうど11月3日の記事で菜食主義に関することをいつか書きたいと言っていた問題とも重なることである。しかし、再び高血圧になっている今の体調で書くのは重い内容なので負担がかかる。

既に体が要注意信号を出しているので今は書けないが、一言で言うならば、オバリー氏やシーシェパードの主張はあまりにも客観性に欠けるということだ。

確かに、イルカの血で真っ赤になった入り江は異様で怖かった。
しかし、仮にオバリー氏やシーシェパードの主張が正しかったとしても、あれでは説得することはできない。

最大の問題は、前世紀後半から世界に爆発的に拡がった工場的畜産だ。動物を物として扱い、飼い方も非道きわまりなく、と蓄(今は屠殺という言葉は使わない)の仕方も人道に反している国が多いことだ。

このようなことを私達は知らなさすぎる。
人間の死を見えなくした社会は、いのちを食べるということも見えなくしてしまっている。

今や知ろうしないこと、考えようとしないことは罪だ。
知った者は伝えていかねばならず、無抵抗な動物に地獄の苦痛を与え続けてはならない。


私がこれらのことを知ったのは今夏8月半ばであり、過去ログ9月24日の「部落解放フィールドワーク・水平社博物館見学」で「鳴き声以外は捨てるところはない」と言われるぐらい動物の命を大切に扱ったと聞いて慰めを得た。

この一点からも、今から殺されようとして死への道を歩く牛や豚を、血の海と化したと蓄場で足を滑らす豚を思いっきり足蹴りする人々とは全く異にすると感じたからだ。

故に、「私は最近、日本語の『いただきます』とは『いのちをいただきます』の意味であり、外国語には翻訳できない言葉であることを知ったばかりだっただけに、命を大切に扱っていることを具体的に見た思いだった」と書き添えたのであった。

我が国においても鶏が狭い所に入れられているが、日光が射し、風通しのよいようにされているだろうから、諸外国のような地獄の工場的畜産ではないと思うが、今はまだ調べていないので全く知らない。

聖書は菜食主義を奨めてはいないし、牛も豚も鳥も感謝して食べていいのである。食についても聖書を踏まえて論述したいことのひとつである。

「シーシェパード (Sea Shepherd Conservation Society) は、『生態系と生物種の保全』を名目とした団体のひとつであり、「『世界の海洋における野生生物の棲息環境破壊と虐殺の終焉』を目指して活動する」ことを標榜する国際非営利組織である」。(ウィキペデェアより)

生態系の問題は食文化以上に優先せねばならない問題であるが、彼らの見識が正当なものであるかどうか検討しなければならないし、食の問題である以上、もっと全体的かつ包括的に考えねばならない。
 

「現代の蛮行」、工場的畜産や異常な動物実験、生きたまま動物の皮を剥ぐことなどこそ何よりも早急に止めさせなければならないことだ!
人間は何と罪深いことか!

例えば、貴方はフランスのフォアグラがどのようにして生産されるのかご存知だろうか!

これを問題提起して私の見解としたい。


posted by 優子 at 23:41| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2010年11月05日

尖閣諸島での衝突動画がYouTubeに流れていた!

今朝5時半頃だったか、夜もかけっぱなしで寝るラジオの音で目が覚め、ニュースに耳をすました。
尖閣諸島での衝突の動画がYouTubeに公開されているというではないか!

以下は11月5日(金)1時28分に産経新聞が配信した記事の一部である。
沖縄県・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、海上保安庁が衝突時に撮影したとみられるビデオ映像が動画投稿サイト「YouTube(ユーチューブ)」に投稿されていることが4日、分かった。

映像は数パターンあり、主に「●晋漁(びんしんりょう)5179」と書かれた漁船が映っている。衝突場面も映っており、「右舷船尾部に衝突した」「止まれ!」といった日本語の声も入っている。

海保関係者は「恐らく本物だ」としている。映像は1日、衆参両院の予算委員会理事らに国会内で限定公開された。(●=門がまえに虫)

稀に例外もあるだろうが、私は最初から真実を公開すればよいという考え方だ。この場合も例外だとは思わない。

中国政府が非常識な反応を示した時に、日本国政府の意思として公開すべきだった。
流出してしまったことにこそ大問題を感じるが、外交問題も全てネット時代の現実を踏まえるべきだろう。
                               

posted by 優子 at 06:36| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2010年11月03日

ヒヤヒヤドキドキ、爆笑、ひたすら、シイタケ狩り

久々の晴天に恵まれた今日、紙商健保組合主催の健康管理事業、「ウォーキング&味覚狩り」が開催された。家族が参加したのは昨春のいちご狩りに続いて2度目の参加である。

夫は理事をしている関係からお知り合いも多い。参加人数をお聞きしてくるのを忘れたが、50名以上おられたように思う。

私達は孫に昼寝させられるからと自動車で行ったので、せっかくのウォーキングを楽しむことはできなかった上に、またしてもカーナビが狂乱してヒヤヒヤドキドキのドライブになってしまった。

2005年夏、最後の家族旅行になった伊勢へ向かう道中でカーナビに振り回されて、天理付近でひどい山道に入り込み、何度検索しても間違った道をクルクル回らされてひどい目に合ったが、それがまた起きたのだ。

朝は中国道池田インターから11キロ渋滞していることがわかったので、予定より早く8時半過ぎに出発した。
しかし、途中から渋滞は解消され時間の余裕もあったので、三田西出口をまじかに赤松パーキングで休憩をとった。

私は早速お土産や焼きたてのパンを買って目的地を忘れてしまうほど楽しんでいた。私達の表情が一変したのはこのあとすぐだった。

三田西出口を降りればあと5分ほどだったのに、出てからの道案内がメチャクチャで、一般道に設定しても高速道路を走らせようとする。

仕方なくついにカーナビの言う通りに従うことにして、再び三田西インターに入った。
すると、目的地までの距離が35キロになった。がく〜(落胆した顔)
「そんなアホな。やっぱり違う!」

しかし、もう後戻りはできない。次の出口まで行くしかない。
10時45分の集合時間が迫ってくるが、舞鶴若狭自動車道をひたすら走るしかなかった。遅刻することを連絡するにも圏外で、ぶつぎれながら連絡でき道も尋ねた。

ようやく篠山出口に出た。「料金は0円です」「?・・・」
すぐに反対車線に入る。「料金は650円です」「・・・」
スピードは100キロを超えていた。

「そんなに飛ばさんといて!連絡もついたんやから、あとになればこのことも良い思い出になるだけやから急がないで」と夫に言い、トンネルの中では緊張して祈っていた。

ようやく三田西を出た。
「料金は0円です」。やっぱり聞き間違いではなかった。

若狭道の三田西から高速道路の無料区間に入っていたので往復1300円は無料だった。「民主党ありがとう!」と3人は爆笑して三田西を出た。
するとこの時になってカーナビは正しく道案内していた。ちっ(怒った顔)

今になって思えば、あの段階で電話して聞けばよかったのだ。
もはやカーナビに信頼感などなくなっていたのだから、落ち着いて考えるべきだった。
主体性なく盲目的にリーダーについていく怖さを想起させた。


「ママ、これって十分に旅行やね」と知子。
再び3人は爆笑。
ユキだけは長い道中にタメ息ついてぐずり始めた。

11時5分、現地に無事到着した時は、お世話して下さっている健保組合の方々だけで私達が一番のりだった。

今日の企画は「ウォーキングと味覚狩り」なのに私達は全く歩かず、どのテーブルよりも昼食のバーベキューは大幅に早く食べ終わってしまった。ふらふら恥ずかし〜〜〜い。

焦げるからとひたすら食べていたが、次から次へと鉄板にのせるからいけないのであって、想像して頂けるだろうか。私達はまるで食べるマシーンのようだった。

このあと芋掘りを楽しんで3時前に無事帰宅した。
「今日は200キロも走った」と夫。

今日のキーワードは「ひたすら」だ。
ひたすら遠くまで出かけて、ひたすら椎茸をとって、ひたすら食べて、ひたすら芋を掘って、ひたすら走って帰って来た。まるで遠くまで昼食に行ってきただけのよう。
わーい(嬉しい顔)

夫は明日も午後から再び出張に。今度は有馬だから再び今日の三田方面を通って行くはずだ。事故にならないようにと祈らずにはおられない。自動車は心配だ。

しいたけ狩り.jpg

椎茸をとるにはユキの力では取れないほど力が要った。

三田の黒毛和牛と若鶏のバーベキュー.jpg

昼食は三田牛(神戸牛)の黒毛和牛と若鶏のバーベキューに椎茸ごはん。
私は菜食主義になったはずではなかったか?!(このことについてはいつか書きたい)

芋掘り.jpg

一人3株ずつ(700円)、合計9株掘った。

収穫いも!.jpg

これが収穫物、7キロもあった。
しかも、私達の隣で掘っておられた方の収穫が少ないので、
お2人に2つずつ差し上げたから正確には9キロだ。
私達も1人分は全く不作だったが、6株分でもこんなにあった!

1940グラムのサツマイモ!.jpg

これが最大級のサツマイモ、1940グラムもあった!

「しい茸ランド かさや」へは、JR大阪駅(4番線)より篠山口(ささやまぐち)行きの丹波路快速で、宝塚、三田を経て相野(あいの)駅下車、乗車時間は約50分。駅より徒歩で10〜15分のところだ。

美濃紙業の社員さんもご家族で行かれたらいいのに。
組合から1人につき5000円ほど補助して下さっているらしい。参加費1500円で贅沢に楽しませて頂いた。電車で行けば最高のリクレーションになるだろう。

夫よ、お疲れさまでした。
浅草では失恋になったけれど、これで揺れるハートになったかな?
ありがとう、孫孝行。


posted by 優子 at 21:57| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする