2011年01月30日

従兄弟・T君の上に神の平安あれ!

私は小説を書けない質(たち)の人間であり、ブログでも虚構できない者である。しかし、ただ一度だけ虚構したことがある。2009年9月1日の記事だ。

その中で「最も親しい友の一人」と書いたのは神戸の叔母のことであり、「娘さん」とは従兄弟T君のことだ。

その従兄弟が昨年11月半ばより癌末期の状態にあり、年末年始、そして、日を追って過酷な容態になっている。

親が子を看取らねばならないのは地上の耐え難い悲しみだ。
叔母は83歳という年齢に加えて、膝の痛みで歩行困難なために、病院近くのホテルに4日前から娘と共に連泊し、命を削りながら悲しみに耐えている。

そして、夜間はT君の伴侶とT君の妹とで交代しながら病人に寄り添っている。

従姉妹は外資系パソコンのトップメーカーで働く有能な仕事人である。
仕事は在宅勤務も可能なのでホテル生活も支障はないとのことだが、病床で一睡もできずに夜を明かした体でホテルに戻ってからは夕方5時までに仕事をこなしていたという。専業主婦とは違う厳しさだ。

従姉妹は目立たずにキーパーソンとして母や兄嫁の支えになっている。

今朝も叔母から電話があった。慰める言葉がみつからない。
心配な中、礼拝に出席し、臨時総会にも出席した。

今月半ばから筆が重くなっているのはT君のことで頭がいっぱいになっているからだ。

T君に死は終わりではないことを会って伝えることは叶わないように思う。疲れるからということで会わせてはもらえないのだ。
しかし、最後の最後まであきらめてはいけない。平安のうちに召し上げて下さるようにと祈り続けよう。

posted by 優子 at 21:32| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年01月26日

ユキの3歳6ヶ月健診

昨夜寝る前に思いついて、今朝一番に美容院へ出かけた。今日はユキの3歳6ヶ月健診があり知子が在宅していたからだ。

美容院は2駅乗って大阪府まで行くのだが、10時15分頃には帰宅した。知子は正午過ぎから市の公共バスに乗って保健センターへ出かけた。幼児期最後の定期健診だ。

「今日初めての100センチ以上の子やね」と、やはりユキは大きかった。しかし、この月齢になると皆んな大きく成長し特に飛びでていたわけではないらしく、せいぜい2センチほどの差だったそうだ。

体重14.9キロ、身長100.9センチ、頭囲50.6センチ、胸囲50.8センチ、虫歯なし・・・

ただし甘い物の与えすぎで、甘い物が好きなのは甘い物依存症になっているからだという。幼児用の野菜ジュースも良くないそうだ。

ユキは保健士や栄養士さんの話を聞き分け、「これからはもう食べない」とコメントし、即実践している(笑)。

幼児のおやつは補食だからと模範的なおやつの中にユキ好物のお餅が入っていた。(よかったね)
「よかった」と喜ぶのはユキよりも私かも。
11月から1月上旬までに9キロのお餅がなくなった。そのうち8キロは私のお腹の中に入っていったのだから。

ソンナコンナで育児係の私も保健センターで頂いてきたガイドラインを読んで頭に入れた。

posted by 優子 at 22:36| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年01月25日

死に対する備え

23日は熱も下がっていたが礼拝は知子だけ出席し、マスクを二重にして奏楽のご奉仕を務めた。
私達は今心配ごとを抱えているので無理をして風邪をこじらせるわけにはいかず、夫も日々の業務に疲れているのでゆっくり休養してもらった。

今日は少し食欲が戻ってきたが、大好物のフィナンシェにもまだ手が出ない。ありがたいことに体重が2、5キロダウンしたので、これを機に減量に取り組もうと思う。

10日からの腰と股関節の痛みに続いて19日からは風邪のために、今年になって最低の家事しかできていない。おかげで手の業を休めて「静まる」ことの大切さを思い出させてくれた。

12日の記事で今年の抱負を「断捨離(だんしゃり)」と書いたが、「心の断捨離」はイエス・キリストがしてくださることに気づかされた。

現代は忙しくしていないといけないような時代であるが、活発に活動し、多くのことに忙しく関わり続けると霊的枯渇状態になる。それは信仰生活においても例外ではない。

私は静まりの日々にあって日本人の死生観を考え続けている。
日本人は自分や家族の死が目の前に迫っても、最後まで死を受容できない、しないのだろうか。
肉体の苦痛除去は求めても、精神的苦痛を取り除く必要を感じないのだろうか。つまり、死ねば何処へ行き、どうなるのだろうという人間の根源的な怖れはないのだろうか。

死の問題の解決なく死を迎える人が多いように思う。
きっと諦めの境地なのだろう。

しかし私に言わせれば、そんなままで死に呑み込まれても恐怖ではないのか、平気なのか?!私ならそんなことはとてもできない!

私たちは自分の罪のために滅びゆく運命にあるが、私たちの罪のために十字架上で死んで下さり、死に打ち勝ってよみがえって下さったイエス・キリストがおられるのだ。
このことを信じる者には死をも越えて行く平安が与えられる。

やはり、全ての人に真理が明らかにされるのは死後であって、死が迫っても求めずしては解らせて下さるわけではないのだ。

しかし、死後に救いはない。
救いのチャンスは生きている間だけだから、私は最後まであきらめないで祈り続けたい。
死んでしまえば神の権限の中に入ってしまい、もはや私たちがその人のために祈っても何の役にも立たず、何もしてやれないからだ。

どうかT君に心の中で「イエスさま、イエスさま」と御名を呼ばせて下さっていますように! 

私は諦めずに最後まで祈り続ける。



posted by 優子 at 23:59| 随想 | 更新情報をチェックする

2011年01月22日

「キリストへの接ぎ木」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 17― 

「キリストへの接ぎ木」 (村上 宣道牧師)
 
「桃栗三年柿八年」と言われています。
桃や栗は植えてから三年で実がなりますが、柿は実がなるまでに八年もかかるということです。しかも柿は、八年もかかってやっと実がなっても、それを食べると、なんと渋いわけです。それで、「渋柿や まる八年の 恩知らず」という句があるくらいなのです。
 
私たち人間はこのことと、似ているところがあると思うのです。
赤ちゃんの頃はかわいくて、 「まるで天使のよう」などと言われ、大事に育てられます。少し大きくなると、その恩などはすっかり忘れ、言うことは聞かなくなるわ、悪態はつくわ、時にはとんでもないことをしでかしたりと、 「まあ、本当にこのガキは・・・・・ 」などということになったりするわけです。
ともかく、人間はしょせん渋柿なのではないかと思わされます。

柿というのは、甘柿の種を植えたとしても、実った柿は絶対に渋柿なのです。これは日当たりが悪いから 、または肥料や水が足りないからということでは決してありません。その渋柿に甘い実を実らせる唯一の方法は、接ぎ木をするほかないということです。
 
聖書の中に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました」。(コリント人への手紙第二5章17節)ということばがあります。

誰でもが新しくなれるという条件は 、「キリストのうちにあるなら」というのですが、これはキリストに「接がれるならば」と訳すことができる言葉が使われています。
 
私は牧師の子ども、いわば甘柿の種だったのかもしれませんが、大きくなって、嘘をついたり、盗みさえもして、結局は渋柿でしかありませんでした。

人間を変えるために、環境を変えたり、教育をほどこしても本質は変わらないものです。

渋柿も植えられて育っただけではだめで、いつかバッサリと切られ、接ぎ木をしてもらわなければ、いつまでも渋柿であるように、人間もそのままではだめで、自分の限界、罪深さを認め、どこかで切られなければならないということなのです。

それが聖書でいう悔い改めなのです。
悔い改めた傷口を、私たちの罪のために十字架の上で、いわば切られてくださったキリストの傷口にピタリと合わせて接ぎ木されると、キリストのいのちが私たちの内に入り込んで、私たちを内側から造り変えてくださるのです。

posted by 優子 at 09:17| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年01月21日

風邪でダウン

知子が17日帰宅時から喉がかゆいと咳き込み、加湿器なしで暖房をつけっぱなしにしているせいだと思っていたら風邪だった。19日には38度発熱。しかし、会社は休むことなくマスクをして出社している。

18日夜から私のベッドでユキとキュウキュウになって寝ているが、私も19日夜から風邪気味で時間の経過と共に悪くなった。今は38度ある。熱が上りきったので悪寒もなくなり楽になった。今のところユキにうつっていない。

頼りは夫のみ。
帰宅してからも夕方(夜)のチャッピーの散歩、ユキのお風呂と大変だ。ユキと夫にうつらなければいいが、ちょっと熱が出てもこのしんどさだから重い病気の人はどんなだろう。私も耐えられるか?しんどいので感性も霊性も弱ってしまった。

23日の午後は『ぞうれっしゃがやってきた』の合唱を聞きに行くことになっているか。楽しみにしているが行けるかどうかわからない。

19時10分追記:

「イエッしゃま、試みにあわせず、寝てる時も、会社に行くときも、お仕事している時も、おばあちゃんがパカションしているときも、いつも一緒にいてください。

目の見えない人も、歩けない人も治して下さい。
おばあちゃんがこのご飯を作ってくれたことを感謝します。」


今夜のユキの食前の祈りだった。

知子は受診するために今しがた家を出た。


posted by 優子 at 17:31| 随想 | 更新情報をチェックする

2011年01月17日

震災から16年、人生は留まることなく進んでいる

今から16年前の今日、兵庫県南部に直下型大地震が起きた時、私達は東大阪の9階建てマンションの8階に住んでいた。

私は43歳、知子は高校2年生、真智子は中学2年生。
私は母の介護で毎週2回、住友病院に同行してのち実家へ行っていた頃である。

あの朝、地面から突き上げるような地震にびっくりして飛び起きた。
当時は6畳の部屋に、二棹の和ダンスと鏡台を置いた部屋に家族4人が寝ていたものだから、タンスの下敷きになっては大変と私は咄嗟に子どもたちを寝室から出るように促した。

リビングルームではCDラジカセが遠くへ飛び、台所の炊飯器はひっくり返って洗米していた米と水が飛び散り、割れた食器で足の踏み場もなかった。トイレの便器の水がザブンザブンという音をたてていた。

すぐにテレビ(NHK)をつけたが、宮田アナウンサーは被害はたいしたことないの繰り返しで、「東大阪でもこれなのにそんなはずはない」と私はブツブツ言いながら片付けていた。

しかし、8時頃になると被害の様子がわかり始めた。神戸の叔母たちのことが心配になって電話したが既に回線は切れていた。

この日は読書会の新年会と例会が予定されており、「東大阪読書友の会」の代表だった関係から、奈良市に住んでおられた顧問の西口孝四郎氏に開催するかどうかを相談した。

「近鉄電車は動いているからやりましょうや」ということで開催することに決まった。

その後、会員さんたちから電話があり、また、電話したりで大変だったが、まもなく電話は通じなくなってしまった。

定刻正午より小阪駅前のユニオンホテル(現?)で新年会を開き、商大に移動して例会を終え5時過ぎに帰宅。

すぐにテレビをつけると信じられない光景に唖然として立ちすくんでしまった。

夜7時20分頃、父より電話が入った。
私たちの無事を知った父はこう言った。
「あの時、すぐおばあちゃん(私の母)の寝間に入って抱いていた。『死ぬ時は一緒や!』と言ってた」と。

進行性難病だった母は、この時すでに全く身動きできない状況だった。怖かったであろう!!!母68歳、父69歳だった。

夜8時頃、兄が電話をくれた。
「優子か、僕や。大丈夫やったか?!!」と力強い口調で安否を聞いてくれた。

灘区に住んでいる叔母や叔父とは連絡とれず、無事を祈るしかなかった。

あの時、御影(みかげ・東灘区)で一人住まいしていた従姉妹は、地震直後、パジャマのまま両親に向かって走った。親たちもまた必死で家から外に出て我に返った時、父親が娘を助け出さなくてはと思った時に娘が駆けつけてくれたという。

あたりの様子は現実のこととは信じられぬ事態になっており、家はドミノ倒しのように全てが崩壊していたそうだ。私は母の通院介助のために石屋川の様子を見てはいない。

親を思う子と、子を思う親の姿。
高校時代は有力なスプリンターだった従姉妹の走る姿と、その時の従姉妹の気持ちを想像するだけで今も涙が溢れる。
私より10歳年下だからAちゃんは33歳だったんだ。

翌朝の7時半頃に叔父から無事の第一報が入った。
電話口までこぎつけたものの、公衆電話は長蛇の列で直ぐに切らねばならなかった。8時半頃に叔母からも電話があった。

この日は母の通院日で、私はいつも通り9時前に家を出て夕刻6時半に帰宅したのだった。
その夜、叔母たちは西神中央のマンションに住んでいた息子宅に移ったと電話が入り安堵した。同じ神戸でも西区は全く被害がなかったのだ。

阪神電車は青木(おうぎ)駅までしか行かず、阪神高速道路は飴で作った玩具のように壊れていた。しかし、この大惨事なのに梅田界隈はそれまでと全く変わらず天国と地獄のようだった。

「1月19日夜11時55分現在、犠牲者が4015人、この大惨事に何もせずにいることが罪のように思われる。」と、私はノートに記している。

24日、YMCAに電話。YMCAは、母が通院していた住友病院の行き帰りに何度も立ち寄っていた所で馴染み深い。

その翌朝、指示通り9時半から18時までボランティアに行ったものの、既に働き手や援助物資はたくさん集まっていた。しかし、物資の仕分けができなくて混乱しリーダーの人材不足が叫ばれていた。

そして私には、「落ち着いた段階で子どもたちに読書会をやっていただくとか精神的援助をしてほしい」と言われて連絡待ちになり、結局行ったのは1回だけで終わった。

あの頃は母の介護で疲れていただけではなく、高津高校の役員、東大阪市の2つの行政委員、読書会会長・・・と多忙な年月だった。
人生の最も盛んな時だったとは言え、ボランティアが立ち切れになってしまって挫折感を感じた。

母が亡くなったのは翌年の秋だった。

今年は震災から16年。

叔父と父も亡くなり、・・・いろんなことがあった。
今もいろんなことがある。
これからもいろんなことがあるだろう。

Life is going on.

私は人生の重さに、ただ黙するのみ。

敬愛するO兄が今日のメールで贈って下さった短歌を刻ませて頂きたい。Oさんが座右の銘とされている信仰の先輩・故清水氾先生の短歌だ。

「主の前に 怠れる日を 要とし
扇のごとく 我が日々は在る」

そして、「霊的、精神的、肉体的に十分休息を摂ってください。」とのお言葉に、何とも言えない安らぎを感じ、静まることを思い出させて下さった。

長女のことで一息ついたのはいいが、今年に入ってから酸欠状態のような息苦しさを感じ始めていたように思う。

あのとき義務感に強いられてYMCAにボランティアを申し出た時のように、今もまた”doing”の姿勢になっていたことに気づかされた。

急がず、焦らず、私らしく、私らしく生きていこうと思わせて下さった。



posted by 優子 at 21:55| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年01月16日

寒波でも平気な風の子ユキとチャッピーと

近年は暖冬の年が続いていたが、今冬は愛犬の飲水が何度も凍るほどの厳しい寒さだ。数日前から猛烈に寒く、今朝は2センチほどの氷が張っていた。

しかし、チャッピーとユキは風の子だ。
とは言ってもチャッピーは11歳8ヶ月だから、人間の年齢だと既に62〜3歳の年配犬だが、ユキとチャッピーは昨夜の寒波の中でも平気で1時間近く歩いた。

さすがに出会った人は1人も1匹もいなかったという。私は血圧の心配だけではなく、股関節が強く痛むので行かなかった。

今朝、教会に出発する前のこと、素手で氷をつかんで遊んでいたユキが「痛い!痛い!」と泣き出したので、自動車の掃除をしていた夫が大急ぎでユキの手をお湯で温めてやっていた。

家を出る10時でも外気温は0度、帰宅した午後3時前でも3度しかなく、朝の氷はまだ大きな塊のまま残っていた。そして、今夜8時頃には再び凍り始めていた。

真智子たちのミネソタではマイナス20度以上にもなっている。数年前はマイナス36度だと言っていた。どんな感覚なんだろう。

「あの寒がりの太志君はよく耐えているね」と言って微笑んだ知子。
「おーい!2人ともサバイバルしている?!」

ユキ(3歳6ヶ月)の最近のスナップで、真智子と太志君にリラックスタイムのひとときをお届けしたい。

ヤギとユキ.jpg

旧村でヤギを見つけた!

チャッピーは怖くて何メートルも手前で動かなくなった。
ヤギを見つけたこの日、カメラを取りに帰って再びやってきて撮った。12日以後は毎日ヤギに会いに行く私達。ふらふら

ヤギ.jpg

私たちが帰ろうとすると、この姿勢で「メエー、メエー」と大きな声で鳴いてくれるので帰りにくい。

今も残る貴重なかわいい幼児語は、「ゆきたぐるま(雪だるま)」、「まちごえた(間違えた)」、「ひやく(早く)」、「キャマメル(キャラメル)」、「メーシュモップ(メープルシロップ)」、「こまま(このまま)」、「とうちょっきゅう(超特急)」、「ちゅがぐ(つなぐ)」、「ビオコン(リモコン)」くらいかな?

ユキは今も「ジングルベル」と「お正月」を歌っている。わーい(嬉しい顔)

健保組合機関誌に登場.jpg

紙商健康保健組合の機関誌に掲載された写真。

2010年11月3日の「ヒヤヒヤドキドキ、爆笑、ひたすら、シイタケ狩り」の時の写真だ。

今日は礼拝後、机をコの字型に並べて、皆でおにぎりと果物とお菓子で軽い昼食を済ませて信徒研修会に移った。同席してもらった夫も含めて16名の参加者だった。

「ミニ証しリレー」と題して話されたそれぞれの短いお証しから、教会の方々の輪郭がかなりわかってきた。

スーパーに寄って帰宅した直後、2009年春まで通っていた教会の友人より電話が入り、疲れていたが自動車送迎付きのお茶に誘われて、隣り町のお店でペチャクチャおしゃべりした。

2時間なんてあっという間で、「主婦業を忘れていた!」と驚いて席を立った。しばしの間、羽を伸ばして6時前に帰宅。今度はNさんも一緒にフルメンバーで行こう!今ではNさんも『メメントドミニ』を愛読して下さっている。

「信じることは、今日を生きる力です。明日を生きる力が、希望です」!


posted by 優子 at 22:05| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

「先生」呼称反対の枝野氏に共感

昨夜は年始からの心配事が高まって寝つきが悪く、深夜のラジオ放送で就任会見を聴いていた。

昨日発足した菅再改造内閣は7ヶ月間に2度目、最初から数えれば3回目の改変となる。
内閣官房長官に就任した枝野幸男氏の会見の途中で眠ってしまったが、その冒頭から非常に共感するところがあってますます頭が冴えてしまった。

共感したところは、「ぶれない、こびない、あきらめない」とする彼の政治姿勢だけではなく、「『先生』と呼ばないでほしい。・・・できれば長官ではなく、名前で呼んでもらえればありがたい。・・・親近感がある内閣を目指したい」というようなことを話していたところだ。

小さなことで時にぶれそうになるので「ぶれない」に頷き、「こびない、こびられるのもいや」は私の本意であり、祈りが叶わずに諦めそうになっている今、「あきらめない」に背筋を正された。

そしてもう一点、「先生」呼称について非常に共感して頭の中で独演していた。これにはこだわりをがある。

日本人は「先生」と呼ばれたい人種だとしみじみ思う。それはキリスト教界でも例外ではない。
「先生」にしてしまっては人生を深いところで分かち合いたくても、「先生壁」を作ってしまってはそれ以上深めにくいのだ。

呼ばれる側もまた、どこにいても「先生」では嫌になってしまうだろう。
先生ではなく夫や妻でも親でもない自分自身になって互いに深め合いたいのに、「先生」と呼ばれては「先生」でなければならなくなってしまうではないか。


例えば読書会や信仰の交わりに参加する時、「先生」と呼ばれたのでは自分自身を出しにくいのではないか。

それでもトゥルニエやナウエンやバニエなどのように、一個の人間としてのスタンスをとれる人ならばいいのだが、そうでなければ呼ぶ側も相手と個人的出会いを深めていきにくい。

もう一点は、作家にも誰にでも「せんせー」と呼ぶことに非常に違和感を感じる。

講師を「先生」と紹介するのは良しとしても、しかし、それでさえ正確には「〇〇病院の〇〇さん」、「〇〇大学教授の〇〇さん」である。
ましてや作家や代議士に「先生」と呼ぶのは日本人の意識構造の象徴的な一面だろう。

例えば医療現場で患者として、あるいは、教育機関で指導される者として出会ったならば、やはり相手は「先生」であり、場所が違ってもいつになっても「先生」だ。

それでさえ個人的に親しくなりたいと思うような人物ならば残念でさえあり、人間の本質に根ざした話を語り合うのは難しい。

以上のような理由から、私は「さん」で呼ぶようにしているので枝野氏に共感したのだった。
「先生」と呼ばれ続けると勘違いしてしまうといけないからとの発言は、自己を見つめている人らしい言葉だ。

もう20年以上前だったと思うが、弁護士会で互いに「先生」呼ばわりするのはやめようと、先生呼称反対運動があった。違反したものは罰金を払うことになっており、日本文化では非常にユニークな取り組みであると評価して読んだが、枝野氏は弁護士出身というのも影響しているかもしれない。

かつて数ヶ月間だけ関心を持ち、辞書を取り寄せてもらった時には熱が冷めていた中国語。
中国では人名のあとに「様」という意味で「先生(シエンシャン)」とつけていたように思う。渡来文化の影響なのだろうか。

日本と日本人の長所を誇りに思うだけに、「『先生』と呼びたい呼ばれたい症候群」だけは頂けない。これは個の確立ができないことと大いに関係していると思うだけに改変せねばならない意識だ。

斯く言う私も時に迎合して「先生」と呼んでしまうだけに枝野氏の姿勢に魅かれるものがあった。
そんなことを考えながらラジオを聞いていたが、枝野氏の会見が終わるまでに眠ってしまった。彼の働きに期待して注目したい。


posted by 優子 at 14:17| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2011年01月12日

今年は本気で生活改善だ!

寒さのせいだろうか、10日はギックリ腰かと思うほど強い腰痛になって午後はずっと横になっていた。メールチェックは寝転んでお腹の上にパソコンを置いてしていた。

昨日は少し楽になって痛みの出所がわかった。やはり左の股関節からきているようだ。
39歳の時に両股関節共にカブリが浅いとわかり、特に左側は常に痛みを感じるようになった。

2004年だったと思うが、暖かい季節になっても痛みが消えなかったので本気になって体重を落とす努力をした。以来3年間ほどは50〜51キロ位を保っていたが、再び55〜56キロになってしまって調子が悪い。

何よりも減量が大事だとわかっていても食欲に勝てない。
何かの病気が原因かもしれないと心配なくせに、意志が弱くて生活習慣を改善できないのは情けない限りだ。
食べたくても食べられない病気の人もおられるのにと、昨日から少々本気になり始めている。

牧師が9日の説教で触れられた『脱・三日ぼうず! 続かない女のための続ける技術』も参考になるだろう。
これは行動科学をいかに自分の生活に組み込んでいくかという内容らしい。ということは行動の選択肢が要になる。何れにしても本人が本気かどうかなのだ。

かつては精神が溌剌としている時は食欲を制御できていたが、ここ数年前からはそのような時でも食欲旺盛で困る。

2004年は遠藤周作の著述と重なって減量が本物になっていったと記憶している。
※ 過去ログ・2006年9月3日から9日まで(カテゴリ・「掲載文(神・文学)」)掲載した「遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点  (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)」

今では長時間座ることもできなくなってしまったので、食事を忘れてまで集中するというわけにはいかないが、生活改善への欲求は本気になりつつある。

ちなみに、今年の抱負は「なだれ落ちるほど物を積まない。整理と『断捨離』」。
「断捨離」とは、「不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというもの」だ。
高脂血症や高血圧の薬も「断捨離」だ!

posted by 優子 at 09:25| 随想 | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

今朝の礼拝メッセージより ―「水のバプテスマ」―

キリスト教の暦によれば、今日はイエス・キリストのバプテスマ(洗礼)になっていることから、バプテスマを受ける意味について話された。

@ 悔い改め
聖書が言う「悔い改め」とは方向転換の意味で、視点を神さまに向けることである。
今まで人生のゴールを自分のために決めて自分で生きていたが、この命は神さまに生かされているということを人生の根底に据えて日々の歩みをすることである。

A イエスさまの死に与る
洗礼式では水の中でする浸礼式と、頭に水を垂らす滴礼式があるが、水に力があるわけではなく水は象徴である。

バプテスマの水を通ることにより死ぬことを意味し、イエスの命の犠牲により罪赦されて愛の特権が与えられるということである。

B 死んだ私がイエスさまの命に生きること
ガラテヤ人への手紙2章19・20節を自分の口から告白することでもある。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。


つまり、今からの命をキリストのものとして生かされることであり、「新たに生まれる」、「聖霊の実を結ぶ生き方」とも表言できる。

C 来臨のキリストを待ち望む
テサロニケ人への第1の手紙4章15節〜17節:

「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。

その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」。


ローマ人への手紙10章9・10節にあるように、バプテスマの意味を理解し、バプテスマを受けることを望む人は、神と会衆の前で言い表さなければならない。それゆえに洗礼式は礼拝中に執り行われる。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」


それは会衆にとっても幸いである。
信仰告白と誓約を聴かせて頂いて自分の時のことを思い起こし、キリストへの信仰を確信し、その思いを新たにすることができるからだ。

「悔い改め」については、次に掲げた「ルカによる福音書」3章7節〜14節に詳しく書いてある。

さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、

「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。

おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。

斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。

そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。

彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。

取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。

兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。

これによって立場の違う人々に悔い改めの意味を具体的に示した。
つまり、悪いことをしないようにという決心だけではなく、反省にふさわしい実を結ぶことが必要であり、それは人によって異なるということだ。

家族や友人、また経済状態も違うだろう。それぞれ置かれた場で自分しかできない行動があると教えており、人と比べることはできない。

「愛をもって接しなさい」というような抽象的なことではなく、その人にだけ与えられる具体的内容だ。
本当の悔い改めとは反省し謝るだけではなく、新しい行動を要求する。


しかし、人間はそれをし続けるのは難しい存在だ。心から願って誓うわけであるが、時が経ち、状況が変わっていく中で実行していくのは至難だ。

バプテスマも会衆の前で自分の決断を公にすることであり、信仰生活も自分の力でやっていこうと思っているとすれば間違いである。

自分には継続させる力はない。しかし、神さまに頼り支えられて日々新たな誓いとしたいと思う。大きなことではなく、自分のできる小さな行為を決めて一つずつしていくことが大切である。
                         (完)

先週の礼拝前に強度のギックリ腰になられた古森牧師は、まだ危なっかしさが残るものの回復されていて本当に嬉しかった。お世話下さった方々に感謝!

礼拝後、おぜんざいを頂きながら1月の交わり会兼新年会がもたれた。その場で一言ずつスピーチが回ってきて困り、新年に入ってから毎日のように頭を悩ませ、心痛む大きな問題が口をついて出てしまった。

人は自分の限界を知った時に神を求めるというが、限界の只中に在っても限界に身をまかせて、諦めて呑み込まれていく人がほとんどのように見える。

しかし、私はいずれにも最後の最期まで「奇跡を起こして下さい!」と祈り続ける。

私はそのことで思いつめているのか、今朝夜明け前の3時半頃、異常なしんどさで目が覚め、不安になって血圧を測った。やはり高かったがどうしようもなく眠った。

今度は夫に起こされないと目が覚めず、「もう9時やで」と1階から声をかけられて目が覚めるしまつで、何もお腹に入れずに教会へ行った。

信仰は神のみわざ、神の奇跡であり、私は信仰を賜った感謝を言葉では言い尽くせない。

讃美歌21の290番の歌詞、「ペテロは妬む学者の目を退け主の弟子になった」、「悪が力を奮う中もみわざは進んだは、私に訴えるものがあった。

posted by 優子 at 21:13| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2011年01月08日

知子の年賀状と私の新年の気づき

2011'年賀状.jpg

昨年の御無礼をお許し下さい。幸悠もここまで癒されました。
この子に負わせる底知れない苦難を思うと胸が痛みますが、
「全ての」道に神を認めるなら、必ず最後まで導かれると
信じて生きる決意をしました。この命を慈しみ、守り抜きます。

2011年の知子の年賀状だ。

今年になって改めてと言おうか、私に決定的な新しい気づきが与えられ、過去ログ・2006年3月2日〜8日に掲載した「『リア王』は悲劇か ―リアの生涯を考える―」に加筆したいと思っている。 
      
シェイクスピアの有名な四大悲劇の中でも『リア王』は最高峰と言われている。
しかし、自分の愚かさが招いたことであるから私にはどうしても悲劇だとは思えず、次女に問うてみると次のように話してくれた。

「いやあ、これほどの悲劇はないよ。
リア王は、耳障りのいいことを言う人を優遇するという愚かなことをしてしまったけれど、ある日、自分がそのような愚かなことをしたと気がついた。しかも、それによって生じた辛く情けない状況の中でね。
この逆境が自分に全く責任のないことから生じているなら、どれだけ気が楽だろう。でも、自分の愚かさから生じたことであるから悔やんでも悔やみきれない」。


だから悲劇だと言ったのだが、悲劇の概念規定はともかくも、次女の話したことについて深く理解できるようになった。
知子の出来事を通して私自身の高慢さに気づかされたのだと思う。


非情な問題が明らかにされた2009年春からの1年間は、知子だけではなく私たち夫婦もまた苦悩の深い淵にあった。

私の中で最後まで残ったのは、「あんなに反対していたのになぜ?!!!」、「私は両親の意見を尊重して聞いた」という娘への怒りだった。

そして、苦しみ抜いたあとに徐々に気づかされていったことは、私は結婚については失敗しなかっただけで―これさえ最後までわからないことであるが―娘を裁く資格はないということだった。
その後、主が私の心から娘への怒りを拭いとって下さった。

改めて考えてみるに、病気や災難など自分の責任に関係のない苦しみもあるが、それ以外は失敗や挫折を通して人生が作り上げられていくのではないか。

そこで今年になってからの再発見だが、それは聖書に登場する偉大な人々は皆、大きな失敗をしたという共通点があったことだ。

いや、失敗や挫折を通して人生は作り上げられていくから、他者を裁くことができるのは誰もいないと気づかされたのかもしれない。


ヤコブ、モーセ、ダビデ、ペテロ・・・など皆そうだ。

イサクの息子のヤコブはずるがしこいが、神と葛藤しながらもその苦労を乗り越えようと努力し、後に「イスラエル」(その意味は「神(良心)と格闘し、最後には世間や苦労に打ち勝つ人」)という新しい名前を神より与えられユダヤ人の先祖となった。

モーセは同胞を助けるためにエジプト人を殺してしまい、名誉や地位を失って逃亡の生活を強いられた。

『詩篇』の筆者であるイスラエルの王ダビデは、部下であるウリヤの妻、バテ・シバと不倫し、それが明らかになることを恐れてウリヤを殺してしまった。

ペテロはイエスの受難の時、イエスを「知らない」と否認したことはあまりにも有名だ。

彼らは皆、どうしようもない大きな罪や失敗を犯していたということと、にもかかわらず、彼らには主なる神への信仰があったゆえに、神が赦されただけではなく大きな働き手とされたという再発見だ。

それだけではなく、改めて明確にされたことは失敗を認めないクリスチャンの存在だった

その中には敬愛していた人もあり、私などの比にならないほど聖書を読み重ねてきた人達だけに、失敗を認めない頑なさに愕然とした。それほどまでに人間は頑ななのか!

人生で大切なことは失敗が問題ではなく、そのあとをいかに進んでいくかである。そのためには何にも先立って失敗を認めなくてはならないのではないか!


加筆したいことの要旨は以上のようなことだ。

私はこれからも神にすがりながら人生を渡っていきたいと願う。
「イミテーションの信仰」、「ハレルヤ信仰」を嫌悪する。
最悪の時にこそ信仰によって本心に立ち返る信仰者でありたい!

常に祈りつつ、日々の食物と共に神の言葉(みことば)を食す(読む)。主と共に在る生活を守るところにのみ神の安らぎがある。

第一、主の愛から遠ざかって心を無防備にしてしまったら、攻撃の誘惑にのって魂を引きずり降ろされてしまう。

知子は今日、大学時代の友人2人とそれぞれ子供を連れての再会だ。6年ぶりに会う友が、広島のご実家から東京へ戻る途中に京都で途中下車して下さることになって実現した。

共にイエス・キリストを知らない方であるが、苦しみの時も寄り添って下さったのは教会の友人たちではなくこの方たちだった。

知子とユキはもうすぐ帰宅することだろう。
お土産話が楽しみだ。


posted by 優子 at 17:30| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

「もうひとつのいのち」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 16―                 

「違いない!」 (関根 弘興牧師)

あなたは、自分自身をどのように見ていますか。少なくともいくつかの自分が存在します。

自分が思っている自分。また、他人が思っている自分。そして、他人が思っているだろうと勝手に思い込んでいる自分がいるんです。

やっかいなことは、私たちは、「あの人はこう思っているに違いない」と思い込むと、いつのまにか「そうだ、そうに決まっている、間違いない」というふうに自分勝手に結論を出してしまいます。
そしてその結果、勝手に不安と心配と落ち込みが繰り返されていくのです。

エジプトで奴隷生活を強いられたイスラエルの民が、モーセに率いられて脱出し、過酷な荒れ地を旅し、進んでいきました。

そんな民がエジプトを出発して2年が経過したときのことでした。目的地にだいぶ近づいてきたときのことです。モーセは、12人の偵察隊をその地に遣わしました。その地は、大変素晴らしい土地だったのです。

しかし、帰ってきた偵察隊のほとんどの人たちは、皆うなだれ、こう言いました。
「もうだめだ、あの土地に俺たちは行けない。なぜなら、あの土地には、自分たちよりも強い大男がいて、太刀打ちできない。まるで、俺たちは、いなごのようだ。そして、彼らも、俺たちを見たら、そう見えたに違いない」。こう報告したのです。

すると、その報告を聞いた人たちは皆がっかりし、うなだれてしまいました。彼らは、「そう見ているに違いない」という勝手な思いこみで挫折してしまったのです。

でも、本当はどうかといえば、数々の驚くばかりの奇蹟を経験し、強大なエジプトを脱出した彼らは、近隣諸国からは、大変恐れられていたのです。


私たちの人生にも同じようなことが起こっていませんか。
他人の目ばかり気になって勝手に思い込み、自己卑下し、周りの人たちは自分を「いなご」のようなちっぽけな存在に見ているに違いないと叫んでいませんか。

大切なことは、勝手な思い込みでなく、天地を創造された神様があなたをどう見ているかということです


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。(イザヤ書43章4節)

関根師の引用は、2010年12月3日の「"0"ゼロを掛けていませんか?」が初めてだと記憶しているが、その記事に対してインスパイアされた強力な反響を送って下さった方がいた。

今回のもまた、人間の心理を突いた非常にインパクトのあるメッセージだと思う。
これれらは全ての人に共通する人間の弱さであり、これを読んで気づきと励ましを受け取られた方も多いのではないだろうか。

ところで、「落ち込み」は正常な反応であるが、臨床心理学で学んだ症例が脳裏に浮かんだ。

同じ「思い込み」でもベクトルは反対に向いており、自分はダメだという落ち込みではなく、自己誇大的であり、しかも周囲の人からみれば「そんなことはありえない」ことであるにも関わらず、その非現実性を指摘しても認めず、自分が病気だという意識も持たない症例だ。


こうなれば異常の範疇に入り、量的問題(強弱)ではなく質的な違いだ。
現代の精神医学では、精神疾患は多くの要因が重なり合って発症すると考えられているが、その大きな要因として、私は生き方の歪みを放置し続けたことが関係しているように思えてならない。

悪いのは全て他者や環境にする思い違いの「怒り」に縛られており、他者の話に耳を傾けることができなくなっている人もいる。

人生の座標軸が与えられていれば、日々悔い改めるため歪みは常に修正可能となる。
いずれにしても、自己を見つめることなくして修正はありえないが、自分や家族以外のことでも多くのことを祈らされる悩み多き日々である。

posted by 優子 at 22:40| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年01月06日

2011年・年頭所感 ―変革の時代を越えうるもの―(紙業界新聞掲載文)

夫の仕事始めは社員への訓示に始まり、役員と共にお得意先へ挨拶回りでスタートした。その合間を縫って各互礼会でのスピーチと多忙である。

そして、今日は最も大きな「大阪紙業5団体合同新年互礼会」でのスピーチだった。

今年もリーガロイヤルホテル(ロイヤルホール)にて、日本製紙連合会(製紙メーカー)、洋紙・板紙代理店、大阪洋紙同業会、大阪紙運会(運輸関係)の5団体から500名以上が集まっての開催だった。

また、紙業界新聞各紙に年頭挨拶が掲載されており、既に関連誌の一部が発行されているので今年の「年頭所感」を掲載させて頂きたい。今日の互礼会でも現況に加えてこのようなことをお話したのだと思う。

変革の時代を越えうるもの
  
         日本洋紙板紙卸商業組合・副理事長
         日 紙 商 西部ブロック会・理事長   藤本良輔
         大 阪 洋 紙 同 業 会・理事長 
              
2011年、明けましておめでとうございます。前年よりも一層厳しい年明けでございます。

かつて紙業界は安定的な需要に支えられ、不況に強い業種と言われてきましたが、リーマンショック以降の景気の大幅な落ち込みと、インターネットの隆盛時代に入り、数量が2割減という過去に経験したことのない厳しい状況になっております。

メーカーはこの状況でも経営が成り立つように、リストラや古いマシーンを廃棄するなど、国内に対しては利益重視の商いに方向転換しました。

しかし、卸商にあっては未だ売上至上主義で数量を追いかける会社もあり、業界の規範が乱れています。
時代が大きく動いているにも関わらず、いつまでも価格競争に興じて「ヨソがするからウチもする」という現状は、まことに嘆かわしい限りです。

また昨今は、印刷業界への与信問題が大きな悩みになっています。
多額の倒産を食らって連鎖倒産に巻き込まれやしないかと、まるで地雷を埋められた荒野を歩くような緊迫した状況にあり、日紙商は取引信用保険の説明会を開きました。

一方で、「M&A」の手引きを作成して各地区で勉強会を開催しました。
これについては、総論ではうなずけても現実には難しく、オーナー経営者にとってはなかなか決断できないのが実状です。とにかく、恒常的な経費削減、リストラ、小口価格の維持など、日々苦闘を続けております。

大阪洋紙同業界は現在73社が健闘していますが、この激しい競争に耐え抜くためには、確固たる経営理念と使命感だけが支えになってきます。

目先のやる気だけではもはやどうにもならない時代であり、やる気を起こさせる刺激策ではなく、個人の内側からあふれ出る情熱と主体性だけが問われてきます。

近年の苦境によって、私の中で使命感がクローズアップされてきました。それは、社会的必要に応えて商売しているんだという使命感であり、卸商への熱い思いです。

いつの時代も企業形態は変化し、同じ形態が永遠に続くものではありません。今もまた変革の時にあり、経営者は形態を変えざるを得ないのかどうか識別しなければなりません。

そして、受容しなければならないならば、自社の精神だけではなく、卸商たちの息吹を次代に継承するほどの気迫をもって前に向かっていきたいと思います。それが時代を越えることを可能にする力になるでしょう。

最後になりましたが、紙業界、関連業界、関係者お一人おひとりの上に、ご健勝と益々のご隆盛を祈念申し上げ、新年の御挨拶と致します。

                 〈美濃紙業(株)社長〉

夫は何度も上京しては各製紙メーカートップから現状を聞き、それを同業会にお分かちしてきた。
その中で私の最も新しい記憶では、今後の落ち込みは2割削減に留まらず3割にもなるだろうと見込んでいるメーカーもあった。
それで我々中小の経営は成り立つのだろうかと心配は尽きない。

今日は小寒、1年で最も厳しい寒さの時期に入った。

「冬ナクバ 春ナキニ」

厳しい寒さを経てこそ春が来る。
その試練が厳しければ厳しいほど春の喜びは大きい。今の経済状況は努力だけではどうしようもないと挫折しそうであるが、それでもなお「最善は未来にあり」と信じて励もう。


同様に、人生の寒に入っている人にもおられるだろう。
寒ければ寒いと言い、苦しい時は苦しいと言えばいい。しかし、現実から逃げていては人生は難破で果てる。「寒」を認識してこその試練である。

聖書(イザヤ書42章25節)には、

   「それゆえ、主(神)は激しい怒りと、
   猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。
   それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、
   彼らを焼いても、心にとめなかった」。
  

私もこれまでの人生途上でこういう人々も結構多く見てきたが、私は勇気を出して現実を直視し、「汝の力は、日々汝が求めるところに従わん。」とのみことば(申命記33章25節・文語訳)を握って前進していきたい。

そして、ロバート・ブラウニングの詩が耳に響く。
 
           
        老いゆけよ、我と共に!
  
   最善は常に未来にあり。
   人生の最後、そのために最初も造られたのだ。
   我らの時は御手(神の手)の中にあり。
   神言い給う「全てを私が計画した。
   青年はただその半ばを示すのみ。
   神に委ねよ。全てを見よ。しかして恐れるな!」と。
 
             
posted by 優子 at 20:31| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2011年01月05日

次なる目的に向かって

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」。
                    (詩篇91:11)

これはみことばカレンダーの1月の聖句である。
「御言葉カレンダーも最高です!特に、1月の御言葉には神様からのご配慮を感じた」とは、荷物がミネソタに届いた時の一報に書いてくれていた次女の言葉だ。

アメリカではお正月気分など全くなく、Ph.D.(ピー・エイチ・ディー:博士号の学位)を取得予定の次女夫婦は只今就職活動真っ最中で、まもなくデンバーへ向かう。

真智子たちが求める条件と合う職場が与えられるように祈ろう。

こちらもアッと言う間に休みは終わり、今日は2011年の仕事始めである。
夫は昨日から顔つきが変わっていた。すでに気持ちは仕事に切り替わり、厳しい状況だけにストレスも相当なようだ。

明日は寒の入り。今朝の自宅付近の外気温はマイナス2度で大阪より4度も低い。
今日の真智子とのチャットで言っていたマイナス17度のミネソタの比ではないが、寒いほうが冬らしくていい。気魄に溢れて出陣だ!

「恐れるな。わたし(神)はあなたと共にいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから」。
                
                   (イザヤ41:10)

信仰を与えられて生かされていること、これ以上の幸はない。
健康が守られて仕事に向かえることを感謝し、心を込めてそれぞれの働きを始めよう。マチ・クマへ想いをこめて。
 

posted by 優子 at 14:15| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

お正月は父と母を偲ぶ時

今年も神戸の叔母を訪ねた。
高速道路も空いていて55キロの道のりも50分余りで到着した。従姉妹も交えてゆっくりできるのはお正月くらいである。

ユキにとっては大おばあちゃんと大叔母からお年玉を頂き、お腹いっぱいご馳走になった。

私自身の記録:
「わが名(イエス・キリスト)のゆえになしたことは冷や水一杯の報いも失わない」と言われた主イエスの言葉を信じ、一切を神に委ねて別れた。


今年は予定通り6時前に帰宅。家の前に親族の自動車が2台止まっていたので、荷物を置いてすぐに母屋へ新年の挨拶に行った。

今秋、私が60歳になるなんて信じられないが、しかしまた、母が亡くなって15年にもなるというのはもっと信じ難いことだ。
もう15年間も母に会っていないし、父と別れて12年になる。

東大阪に居た頃は、夫の仕事納めの日から藤本の両親宅(当地)で泊まり、お餅つき、買い物、おせち料理を作り、夫の親族と過ごして元旦の夕方に実家へ向かった。

途中、年賀状をとりに自宅の郵便受けに立ち寄るのが恒例だった。実家では父と母が溢れるご馳走を用意して待っていてくれた。

父が亡くなってから、私は毎年お正月になると父の年賀状と箸袋を出して父を偲ぶようになった。

父を偲ぶ祝い箸紙.jpg

この箸紙は1987年のお正月のものだ。
1987年と言えば私が求道へと導かれつつあった時で、両親にとっても苦悩の年末年始であった。

そして、この年の春まだ浅き頃に主イエスに出会い、6月に受洗した。

この年、お正月の3ケ日が終わって祝い箸を捨てる時、私はそっとバッグに収めた。父の筆跡が懐かしい。


次の写真、右側の年賀状は、父が1984年のお正月に子どもたちに出してくれたものだ。幼いいたずら書きは6歳の知子が書いたもの。

この頃が懐かしい.jpg
   
        「あけまして おめでとう
           とも子ちゃん
           まち子ちゃん
         おしょうがつですよ
         おぢいちゃんも おばあちゃんも
           まっています」


左のは1985年のもの。
この年は丑年だったということは父の還暦の年だった。自分がその年になって改めて気がついた。

        「他愛ありて 自愛あり 
         感謝ありて 繁栄あり
           ことしも 
            その心を 大切に」
  

毎年500枚もの年賀状を書いていた父。そこにはいつも父らしいメッセージが刻まれていて、毎年読むのが楽しみだった。

私にとってお正月は両親を偲ぶ時でもある。
懐かしい父と母。
再会の時、私は父と母の胸に抱きつくのを楽しみに今年も生きる。

posted by 優子 at 19:33| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2011年01月02日

2011年・新年礼拝 ―「主は羊飼い」 ―

日本人はお正月を迎える前に大掃除をし、新しい下着や靴下を用意したりして、1月1日が特別な日であると思い込まされて生きてきたように思う。

しかし、1月1日を祝うようになったのはさほど古くからではなく、明治5(1872)年11月19日に突然グレゴリオ歴に変えることを布告したことに始まる。

キリスト教ではアドベントを4回迎え、クリスマスを迎えて新しい年の始まりとするので、今日は「降誕節第2主日」礼拝である。
(おお!だから”Merry Cristmas and A Happy New Year.”なんだ!今日初めて知った!)

そして、1月6日は3人の博士がイエスに出会った日、つまり異邦人がイエスに会ってお祝いした日として「公現日(こうげんび)」と呼ばれている。その関係からロシアのある所では1月6日にクリスマスのお祝いしている。

そんなわけで欧米では1月6日を終えてからクリスマスの飾り付けをはずすが、日本では日本の文化に合わせて、クリスマスが終われば直ぐに飾り付けをはずして新年の準備にうつる。

また、ユダヤ教では太陰暦を用いているので、2010年は9月10日から新年が始まっている。
新年は年によって異なり、だいたい9月10日前後である。キリスト教のイースターもこれにより決められているので年によって変わる。

ちなみにユダヤ教では夕方から一日が始まり、2011年は5771年にあたる。こういうわけで、新年というのは相対的なものである。

また、各国の地球儀を見ればそれぞれの国が中心に据えられている。
アメリカから見れば日本は「極東」という言葉で表されるように、人間は育った環境や文化でできあがっており、他者の目で自分を捉えるのはいかに難しいことかと思う。

今朝の聖書は、イザヤ書40章9節〜11節:
よきおとずれをシオンに伝える者よ、
高い山にのぼれ。
よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、
強く声をあげよ、
声をあげて恐れるな。
ユダのもろもろの町に言え、
「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、
その腕は世を治める。
見よ、その報いは主と共にあり、
そのはたらきの報いは、そのみ前にある。

主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに小羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

この箇所は、ルカによる福音書15章の99匹と1匹の迷える子羊を思い起こさせる。
イエスが次のように言われた箇所だ。

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。

この「悔改めを必要としない九十九人の正しい人」とは誰のことであるかについては諸説ある。

「悔改めを必要としない正しい人」はいないのではないかと思うが、パリサイ人(偽善者)たちのことを皮肉っているのではないか。
あるいは、すでに悔い改めている人のことを言っておられるのかも知れない。

私という自分の存在、自分の文化の中にいると自分は正しいという考え方になっていき、考え方の違うお互いがどれだけ理解し合えるのかは難しい。

人といろんな意見を交わして、いろんな考え方があることを知っている人は、他者を受け入れる素養があるのではないかと思う。

「親になって初めて知る親心」という言葉があるが、相手の気持ちを理解するためには、自分を相手の立場に置いてみる努力をすると、その気持ちが相手にも通じるのではないだろうか。

「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」と、イエスさまは私やあなたを捜し出して下さった。

イエスさまに心配をかけ、99匹の仲間たちにも心配をかけているのに、何の非難も受けずにイエスさまは捜し出し、助け出して群れに戻して下さったのである。

今度は安全なところに置かれた私たちが捜し出す者とされたく、今年も小さな目標を定めつつイエスさまの足跡を一歩一歩踏み行く者でありたいと思う。

新しい年を迎えるとは過ぎ去っていく年を清算する時でもある。私たちも過去を悔い改め、新たな年を祈りつつ歩み出したいと願う。

「自分の立場を捨てて他者を生かす生き方ができるように力を与えて下さい」。


以上が「主は羊飼い」と題して説教された新年礼拝の恵みである。

毎週の初めに礼拝の恵みの座に集められて、新しい力を頂いてそれぞれの持ち場に就く。何という特権であり感謝なことかと思う。

「礼拝は日常生活への出発であり、派遣である」という言葉を私は思い出していた。これは私に洗礼を授けて下さった小山恒雄牧師の言葉である。

改めて救われたことを感謝し、主のあとをついて行こうと、今朝も説教を通して奮起させられたことを神に感謝。

posted by 優子 at 22:46| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2011年01月01日

2011年開幕、新たなる希望に向かって

「わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべての恵みを心にとめよ」。
    
               
               (詩篇103篇2節)

「知り得ぬ行く末を見じ 我が道 主定めたもう
 君の手にすべて委ねん 日も夜も主共なれば。
荒れ狂う世の波風の 襲うを見て恐れじ・・・」。
          
               (作者不明・旧讃美歌より)

冒頭のみことばを心に刻み、過ぐる2010年の感謝を忘れず、また明日を恐れずにスタートしました。

皆様、新年、明けましておめでとうございます。


順境にある方、試練の中にある方、いろいろおられることと思います。
私達は昨年と違って安らかな気持ちで新年を迎えましたが、今も厳しい試練のまっただ中には違いありません。

しかし、この一年も常に主を見上げ、主が差しのべて下さっている御手を握って、何度も立ち上がらせて頂きたいと思います。

試練に遭えば遭うほどその真価が証明されるような、そんな生涯を築き上げて頂きたいと思います。


昨日の『ゆく年、くる年』を見ても感慨無量とはなりませんでした。何ごとにも鈍感になってしまったのかもしれません。しかし、今年は久しぶりに意欲的になっています。

日本クリスチャンペンクラブの学びも2009年春以降は全くできていなくて、課題図書も読まずに出席していました。2009年2月に賀川豊彦の『死線を越えて』を読んだのが最後でした。

2008年末からチョクチョク孫を預かっていた合間に、その年の秋に出版される本に掲載して頂く資料を調べ、3月末の締め切りギリギリに再度現地取材して『パンドラの匣』の一文を書き上げたのでした。

その直後に日常が一変し、それ以来読書どころではなくなってしまいました。20年間所属していた読書会を辞めキリスト教文学に絞って時間を使い始めたばかりの時でした。

これからも幼い孫との生活ですから制限がありますが、時間も健康も今までのようにはいかずとも制限の中で励みたいと思います。

何よりも孫の心と生活を大切に、孫との時を感謝し味わいながらやっていきたいと思います。

今年の元旦の食卓では、義母を前にして初めて食前の祈りを捧げました。数日前に神さまから力を吹き込まれたような感じがしました。
続いて孫が祈りました。

「イェシュしゃま、お正月がきました。大おばあちゃんもみんな守ってください。このお食事をいただけることを感謝し、イェシュしゃまのお名前によってお祈りします。アーメン。」

孫の祈りに、義母はたいそう驚きました。


その後3時間近くを共に過ごしてから、寒風の中でしたが私も一緒に家族全員でチャッピーの初散歩に出かけ、7000歩のコースを歩きました。

年末30日には、買い物に行った私と長女の帰りが遅いからと、夫は孫とチャッピーを連れてスーパーマーケットまで探しに行ったというのですから、13000歩は歩いたことでしょう。

ユキは3歳半にしてすごい体力です。しかも、嬉々として喋りっぱなしだったといいますから感謝です!

学齢期になれば知的なことも楽しみながら学べる子にと、大切な幼児期から情操の心を育んでやりたく、私が意欲的になることも感謝です。

さて、ブログを開設して6年目に入りました。
主に導かれている生涯を感謝し、新しい年も笑ったり怒ったり、泣いたり喜んだり、しかし、どんなことがあっても日々刻々悔い改めながら、心を込めて生きていきます。


お一人おひとりの上に神さまのお導きとお守りを切に祈りつつ、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

posted by 優子 at 22:25| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする