2011年02月28日

苦難の意味、『ヨブ記』をどう読むか

旧約聖書(いわゆる全世界の言語に翻訳されている聖書:2009年12月31日現在で2508言語数に翻訳)は、モーセ五書、歴史及び物語、詩歌と教訓、予言の4部門から成り立っており、『ヨブ記』は第3部門の「詩歌と教訓」の冒頭に置かれている。

一方、ヘブライ語聖書(ユダヤ教徒の聖書)では、第1部門の「律法(モーセ五書)」は同じだがそのあとは大きく違っており、2部が「予言者」、3部が「諸書」で、『ヨブ記』は「諸書」の中に組まれている。

「知恵文学」の名称を持ち、世界最高峰の文学と称賛されている『ヨブ記』をどう読めばよいのであろうか。

昨朝の説教冒頭で、牧師は『ヨブ記』を歴史的史実として読むか、文学として読むかによって大きく解釈が違ってくると提起された。

ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。

主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。

サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を畏れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂きまで、いやな腫物をもって彼を悩ました。

ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸いをうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。


          (ヨブ記 2章1節〜10節)

以下は説教の要諦である。

例えば『伝道の書』には、人生は空の空であると人生の虚しさを述べ、人生を豊かに生きるためには神を知ることだと書かれているが、『ヨブ記』もまた人生を豊かに生きる知恵として書かれた文学作品として理解する。

苦難をどのように受けとるのかとこれまで延々と考えてきた。
神がヨブの苦しみを許可されたことや、なぜヨブの子供たちが殺されなければいけないのかなど理解に苦しむが、その中心にある神の知恵を受け取ることが大切である。

ユダヤ教の教えは因果応報と言っていいだろう。
即ち、神と人との関係における原因であり、先祖が神の律法を守らずに罪を犯したからこうなったと考える。

しかし、律法を守ってきた人も私腹を肥やしていた人もみんな捕囚になったのであり、なぜ、良い人も悪い人も同じ苦難を受けねばならないのか。これは特に厳格に律法を守ってきた人の問いであろう。

あるクリスチャンの友が癌になった時、「私が何したって言うん?」と言われた。最初はその意味がわからなかったが、それは神への問いかけであり、何か原因があって罰を与えているという因果応報の考え方である。

ユダヤ教の教師(宗教家・ラビ)であるクシュナーが『なぜ私だけが苦しむのか』と、人生の難問を自らに問いつつ現代のヨブ記を書いている。
内容(「BOOK」データベース参考)
幼い息子が奇病にかかり、あと10余年の命と宣告される。
病名はハッチンソン・ギルフォード早老症候群、「プロゲリア」だ。
これは400万人〜800万人に1人の確率でなる奇病で、10倍から100倍ものスピードで老化が進む。誕生して1歳半になる頃には、既に老化が始まる。

「やがて動脈硬化などの循環器系の問題や、関節炎などの変性疾患も始まる。患者の大半は、10代のうちに心臓発作や脳卒中で世を去る。」

理不尽と思える不幸に見舞われたラビ(ユダヤ教の教師)が絶望の淵で問う。
神とは、人生とは、苦悩とは、祈りとは…。
自らの悲痛の体験をもとに、旧約聖書を読み直し学びつかんだのは何であったか。人生の不幸を生き抜くための深い叡智と慰めに満ちた書。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
クシュナー(Harold Kushner)
1935年ニューヨーク生れ。コロンビア大学卒業後、ユダヤ神学校に学びラビとなる。現在ボストン近郊ナティックにあるイスラエル・テンプルの名誉ラビ。

ユダヤ教は日本と同じく因果応報を唱えてきた。その考えにイエス・キリストは異を唱えられたのである!

今、経済の苦しみのただ中にある人、災害や癌で家族を亡くした人がおられるが、例えば肉食の人が癌にならず、殆ど肉を食べなかった人が癌になる。ただ運が悪かったとしか言いようのないことだろう。

しかし、苦難を乗り越える力が与えられている。必ず与えられると『ヨブ記』は言っている。

ヨブを訪ねた友人たちは苦難の中にあるヨブを慰めるどころか苦しめるだけだった。
私たちが苦難にあった時、なぜ苦しみの連続なのかと、そこから原因や教訓を引き出さなくてもよい。立ち直っていく中で自分自身が「そうなんだなあ」と思うのはいいが、原因や理由や教訓を探す必要もないし、意味づけを強要してもいけない。


私達は悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ者となりたい。
共に涙を流し、そのことを通してその人自身に新たに生きる力と勇気が必ず神さまが与えられる!
必ずそのようにして下さる神さまを信じて歩んで行きたいと思う


苦難の現実に主イエス・キリストが共にいて下さり、共に泣き、共に苦しんで下さることを教えられた。
苦難から立ち上がり、新しい歩みをさせて下さるように!
そして、その次にはその方たちと共に泣く者、慰める者にして頂きたい。


私は説教を聴きながら、22日に起こったニュージーランドの地震で被災された方々のことを思っていた。

今朝28日午前(日本時間同)の地元警察の記者会見では、犠牲者数148人で、身元確認作業は難航しているとのこと。

「日本外務省によると、CTVビル倒壊に巻き込まれたとみられる安否不明の日本人は、ビル入居の語学学校『キングズ・エデュケーション』で研修中だった富山外国語専門学校の生徒12人ら計28人」。

地震後初めての日曜日となった昨日、クライストチャーチ市内の各教会で日曜礼拝がもたれ、スプレイドン福音教会のジェミーソン牧師は、「悲しみや怒り、絶望に襲われているかもしれない。人々が寄り添い、助け合い、心くばりし、そして祈ることがいま最も大切なことだ」と語りかけた。

地上ではあまりにも悲惨な出来事が多い。
かのマザー・テレサが亡くなってから公開された日記には、「神は本当におられるのだろうか」と嘆き苦悶していた時期があったそうだ。人間マザー・テレサに共感する。

今も安否不明の我が子を探す親御さんのことを思うと言葉が出ない。只々この苦難を乗り越えさせて下さるようにと祈るばかりである。

『ヨブ記』については私もまた神さまと向き合って苦しみ抜いた年月があったので、『ヨブ記』をどう読んだかについては、私が神さまから納得させられたところのことを書いてみたいと思う。

私は単に文学作品として読んでいたわけではないことと、「ただ運が悪かったとしか言いようのない」という点に少々言及したいが、深淵で普遍的なテーマなので幼児との生活の合間には書けないし、深夜にまで没頭できる頭の冴えはあっても股関節と腰が痛くて座っていられない。


昨夜、クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』を発注した。


posted by 優子 at 15:49| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2011年02月26日

『ナルニア国物語』をあなたに!

只今、テレビの「土曜プレミアム」で放映中の『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』を見ながら書いています。

この物語については、過去ログ・2008年11月17日の「『ナルニヤ国物語』とC・S・ルイスについて」と「『ナルニヤ国物語』の信仰的背景 ―児童文学を愛する方々へ―」に詳しく解説しています。

作者はオックスフォード大学、後にケンブリッジ大学の教授を務めたC・S・ルイスで、物語はイエス・キリストの救いの信仰が背景になっています。

聖書が語る神信頼の絶対的希望が通奏低音として流れている素晴らしいキリスト教作品です。
是非、過去ログをお読み下さい!
posted by 優子 at 23:24| ご案内 | 更新情報をチェックする

2011年02月25日

失敗を恐れずに豪快にみことばの種を蒔き続けよう!

イエス・キリストが話された数多くの譬え話の一つに「種まきの譬え」(「種を蒔く人の譬え」)がある。
早くも週末を迎え、今になって20日の礼拝説教を記事にするのは些(いささ)か気後れするが、「種まきの譬え」で新しい視点を与えられたので記録しておきたい。

今まで私が教えられていたメッセージ、それはごく一般的なものであるが、ある「聖書を読む会」でお話したことがあるのでそこから始めたい。

当地へ移ってきて2年半頃のこと、自宅から徒歩で15分ほどの所に住んでおられたモーゼスさん・裕子さんご夫妻との出会いがあった。共にロンドン大学でそれぞれに生理学や薬学のPh.Dを取得されているインテリだ。

※ モーゼスさんご夫妻のことは、過去ログ2006年4月7日の「忘れ得ぬモーゼスさん御夫妻のこと」に記録している。

その後、お母様を天に送られてから神戸へ引越されて連絡も途絶えてしまったが、長女を信仰へと導いて下さった忘れられないご夫妻である。

このモーゼスさんのお宅で「聖書読み会」が開かれるようになり、その10回目が「種まきの譬え」も含む箇所で私が担当する番に当たっていた。2002年5月23日のことである。

では最初に今週の礼拝で開いた聖書箇所、ルカによる福音書8章4節〜8節を読んでみたい。
さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、

「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。

ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。
ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。
ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。
こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。
      
          (ルカによる福音書8章4節〜8節)

私は10年前の「聖書読み会」でこの箇所を次のように解説した。

「道ばたに落ちる」とは:
道路は人に踏まれて固くなっているので種子が地中に入らない。
つまり、習慣や伝統によって固まっている心には神の言葉は容易に深入りせず信仰に入り難い。

「岩の上に落ちる」とは:
岩の上は土壌が薄く、道路とは違い習慣や伝統に踏み固められていないため、如何なる真理でも容易に受ける。岩は太陽熱や日光を受けて種子の発育を早める。

その意味するところは、感じやすい人、軽薄な人、単純な人は急に一時的には信仰に燃えるが持続しない。日光や熱、試練に耐えられないからである。

「茨の中(間)に落ちる」とは:
福音を受ける素質はあるが、この世の欲に支配されて神の言葉の種を育てる事ができない。

「良い地に落ちる」とは:

正しく良い心は伝統や習慣に支配されず、それらの中から善悪を見分けることができる。そして、世のあらゆる誘惑や試練を耐え忍ぶ者には多くの実が結ばれる。

「良い地に落ちた種のように正しく聴きなさい」というわけである。

以上は兄より譲り受けた蔵書(正確には実家を建て直す時に兄が捨てて積んであったものを拾った)、黒崎幸吉著・昭和40年(第1版は昭和25年)立花書房発行の『註解新約聖書ルカ傳』を参考にしたものである。


この時、我が心の土壌はどうか。
また、性格の差異についてどう思うかと発題して私見を述べたことを覚えている。

さて、古森牧師もまた種を蒔かれた側の心の有り様を話されてから、実が結ばないのは自分がいけないからだと自分を責めたりするが、と語られてからメッセージは大きく転調した。

「それは勤勉な日本人にはピッタリとくる解釈ですが、しかし、イエスさまはそういうことを言われたのでしょうか、というのが今日の説教の意図ですが」として、次のように語られた。

「イエスさまは常に聞く人の生活を題材に話され、解釈や説明は一切されなかったようである。
近年までは寓喩的に解釈していたが、譬え話から教訓を引き出してメッセージするのではなく、今は寓喩的に捉えるのはあまり正しくないのではないかと言われ出した。

例えば、「良きサマリヤ人」の譬え話ならば、サマリヤ人は主イエスのことで、(強盗に襲われて半殺しにあった重症の人に)葡萄酒を与え油を塗ったことはサクラメント(聖餐式)のことであり、宿屋は教会のことというように具体的意味を持たせて解釈した。

※ 寓喩的解釈とは、聖書を解釈する際に聖書本文や聖書に登場する語彙を寓喩として捉えることであり、日本語では比喩的解釈と言い換えていいだろう。  

ここで視点が大きく転回した。
日本では畑を耕し畝を作って丁寧に種を蒔いていくが、イスラエルではそこそこに耕すであろうが種の巻き方は豪快である。

芽が出なくて失敗するものもあるけれど成功するものもある。
それでいいんだ。
とにかく、あなた達が今しているように蒔き続けなさい。そうすれば、どれかが100倍の実をつけてくれる。

いつか人は取り去られ(召され)仕事も終わる。
しかし、心に蒔かれた種はいのちを持っていて後年芽を出して実を結ぶ時が来る。
私達が今蒔く種がいつ芽を出すのかは私達の知るところではないが、私達にできることは諦めないで私達に託されたみことばの種を巻き続けることだ。
失敗を恐れずに豪快に巻き続けていきたい。」
と、種を蒔く人を視点に語られたのである。

聖霊によりインスパイアされた内容に心が躍り、この説教は豪快で印象的なメッセージとして私の中で記憶されるだろう。

自分を省みることはとても大事なことであるが、落ち込むのではなく主イエスを見上げて豪快に勇敢に前進していきたいものである。


最後に、この日の礼拝で心に響いた交読文(司会者と会衆で1節ずつ交互に読む)の一節も刻んでおきたい。(新共同訳聖書より)

「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
 人の足の速さを望まれるのでもない。
 主が望まれるのは主を畏れる人
 主の慈しみを待ち望む人。」
      
               (詩篇147篇10・11篇)

posted by 優子 at 23:29| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2011年02月24日

遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』の主人公ミツのモデル・井深八重晩年の手記

2月初め、庭の木にメジロを見つけた。
抹茶をまぶしたような緑茶色の小さな体に、目の周りを白い輪でふちどられ実に美しくかわいい小鳥だ。昨日の朝は洗濯物を干していると近くで鶯の声が聞こえた。

1週間前から昨日の午前中まで晴天が続き3月下旬から4月上旬並の暖かさで、曇天の今日も季節はずれの暖かさだ。

先週末から忙しくしていたので記事をアップできなかった。
19日のJCP例会も欠席した。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』関連資料を送って頂いたので読むのが楽しみだ。

今日は私の消息をお伝えするためとJCP関西ブロックのことでN兄と久保田先生にお電話した。

さて、毎年送られてくる『同志社同窓会報』の25号(1985年発行)に、「思い出すままに」と題する井深八重の手記が掲載されている。ここに一部抜粋してご紹介したい。
・・・突然思いもよらぬ出来事がこの身にふりかかりました。私はらい(ハンセン氏病)ではないかという疑いを受け、それが誤診であることが判るまで、怖しい試煉に遭遇することになりました。(略)

私はこの試煉の中にもがきながらも幸いレゼー神父という高徳のカトリック司祭にめぐり合い、その指導のもとに徐々に人生の真の意義を悟らされ、神の摂理ということも理解できたように思います。

       (略)

当時のらい患者を見て、これが人間かと思わせるほどに変わり果てた人たちを、院長としてお世話なさることは、神父とはいえ相当の心の戦いを味わわれたことと思います。

ある時一人の重症患者が声もかすれてとぎれとぎれに語るのを、うなづきながら顔をすりつける様に優しくいたわり慰めるこの老司祭を眼のあたりにして、私はある抗し難い衝動にかられました。

この一老司祭が七十余才の高令の身をもって、病者のために慈父のごとくにつくして居らるる姿に接して、私の使命はここにあるのではないだろうかと思うに至ったのであります。

       (略)

信仰の故とは申しながら、外国の方々にこの様にお世話になっていることを同胞たちは知っていたでしょうか。私は日本人として恥ずかしく思いました。そして、心の中にひしと迫るものがありました。

自分はたとえとるに足らぬ者ではあっても、日本人として、多くの日本人に代わってこれ等の宣教師の方たちの大恩にお報いしたい。お報いしなければならないと決心をかためたのでありました。

そんなことがあって、及ばずながら私はこの老司祭の指導のもとに、自分がかたく信ずる神のくしき摂理の道を辿って参ったのですが、いつしか六十有余年が経過してしまいました。・・・

そして、1973年3月末に現職を引き、「今は心静かに主のお招きの日を待つ日々でございます。」とし、「最上のわざ」という詩が「現在の心境でございます。」と結んでいる。

「最上のわざ」はブログ開設早々の2006年1月13日(「最上の生き方」)でご紹介しているが、今一度心に刻みつつ読みたいと思う。尊い生涯を送られた井深八重姉を偲び、我が残りの日々の生き方に思いを馳せつつ。

        最上のわざ
 
 この世の最上のわざは何?
 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み
 しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
 従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、
 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
 弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。

 老いの重荷は神の賜物。
 古びた心に、これで最後の磨きをかける。
 まことのふるさとへ行くために。

 おのれをこの世につなぐ鎖を
 少しずつはずしていくのは まことにえらい仕事。
 こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。

 神は最後に一番良い仕事を残してくださる。
 それは祈りだ。
 手は何もできない。
 けれども最後まで合掌できる。
 
 愛する全ての人の上に、神の恵みを求めるために。
 全てを成し終えたら 臨終の床に神の声を聴くだろう。
「来よ、我が友よ。われ汝を見捨てじ」と。     


井深八重は1989年5月15日に心筋梗塞で召天。
92歳の生涯だった。


附記:
2010年6月7日より設置したブログ訪問者数のカウンターは、今月22日の19時24分をもって取り外した。
その間、55400名の方々が訪問して下さっている。

ちなみに2重カウントを防止しているシーサーブログの「アクセス解析」によれば、2011年1月1日から2月21日までの1日の平均訪問者数は220名で、1日の平均アクセス数は454だった。

今後ともご愛読下さいますようによろしくお願いします。手(パー)かわいい


posted by 優子 at 19:37| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2011年02月18日

「それを断ち切る赦しと愛」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 18― 

「それを断ち切る赦しと愛」(村上 宣道牧師)

幼児虐待は現在、社会問題のひとつともなっています。これは昔からあったのかもしれませんが、最近激増しているようで、いたましい事件が次から次へと起きています。

昨年、日本の児童相談所に持ち込まれた訴えは、1万1600件ほどだったそうですが、実数としてはこれの何倍にも上るはずだと関係者は見ています。

精神科医の斉藤学氏の分析によれば、児童虐待には普通、四つの型があるそうです。

ひとつは身体的虐待で、実際にたたいたり、傷つけたりする。

第二は心理的、精神的虐待で、心をメタメタに傷つけるような言葉や仕打ちによるもので、時には身体的虐待よりも心に深い傷を負うそうです。

第三には性的虐待で、言葉にはできないほどの性的な暴力を親が自分の子どもに行う。

第四には、いわゆるネグレクトとも言われるもので、親の養育義務や責任の放棄をすることで、最近も食事を与えずに餓死させたという事件が報じられていました。

どうしてそのようなことをするのかという原因は複雑多様で、簡単に言い切れるものではないようですが、少なくとも次の四つのことが言えそうです。

ひとつは大人、親自身の自信のなさ、不安、そこからくるイライラやストレスなどを弱い子どもに発散するというもの。

第二は大人、親のエゴからくるもの。子どもを私物化あるいはペット化して、それが自分の思い通りにならないときに起こるもの。

第三に離婚、再婚など夫婦間のトラブルの中で特に見られるケースで、子どもを邪魔扱いにしていじめる、またはほったらかすなど。

第四に、自分自身が愛情不足で育ったり、あるいは虐待を受けて育った者に見られる行為で、これがかなり多いと言われています。

朝日新聞にも「愛されなかった親たち」という特集の連載で、虐待の問題の取り上げられていました。自分は受けた悲しみを知っているはずなのに、気がついた時には同じことをしてしまっている、まさに、人間の罪の連鎖反応、悪循環です。
 
虐待の問題に限らず、人間は皆、そのような罪深さを受け継ぎながら、そして、繰り返してきていると言えます。

それを断ち切る道は、徹底して罪の赦しを経験することと愛されていることを実感することです。
それには、私たちの罪の身代わりとして死んでくださったキリストの十字架を見上げるほかありません。そこにのみ、赦しと真の愛があるからです。
 
「愛は多くの罪をおおう」(ペテロの手紙第一 4章8節)。



posted by 優子 at 17:56| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年02月16日

「主よ!」

14日午後の吹雪は一瞬にして銀世界に変えた。
今回の雪は簡単に姿を消したが、それでも日の当たらない所の雪は今も残っている。

再び銀世界に@.jpg

『わがままな大男』の世界に入ってしまいそうな雪景色だ。
この日は大事をとって会社に自動車を置いて帰ったので、翌日(15日)は電車で出社した。

その翌朝は電車で.jpg

私はふたりを見送ったあと、7時半頃までベッドの中でラジオを聞いていた。今年になってからずっとそうだ。

以前は孫が寝ている間にと早朝から頑張っていた時もあったが、高血圧になってからできなくなってしまった。

夫への申し訳なさと挫折感に苛(さいな)まれつつも、朝は最も体調が悪いので冬場はどうしようもない。体調が悪いと気持ちもダウンする。

今もT君のことが嘘のように感じたり、私もあそこまで頑張らねばと思ったり、・・・否定的な気持ちになりやすい。死別の悲しみだけではなく、自らの死を実感し始めたからだろうか。

叔母にはカウンセリングで学んだことを思い出して、叔母が悲しみの感情を吐き出せるようにと関わるが気持ちは重い。

若い頃は誰しも獲得の人生であり上昇・拡大思考で生きるが、私達の年代になると自然に方向転換になる。
獲得するのではなく手放していくのであり、最も大切なもののためにそぎ落としていく生き方だ。

残された時間はそれほど多くはなく、これまでの人生を振り返って自己確認したい年代であり、「時間の持つ豊かさ」を味わう年代でもある。


幼な子との生活は明るくていいが、独りになる時間、誰とも喋らなくてもいい独りになれる場所がほしい。

今朝の最低気温はマイナス4度で、チャッピーの水を変えてやろうとしたらホースの水が一部凍っていたので、水と一緒に何度も氷の塊が飛び出てきた。
しかし、今日は冬晴れで室内は20度以上になってポカポカだった。

そして、明日はもう雨だ。春の雨になるそうだ。
今はずっと冬の世界に閉じこもっていたい心境だ。

しかし、目を注げる方がおられるのは何という安らぎであろうか。

「主よ!」


posted by 優子 at 23:05| 随想 | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

あなたは自由人ですか?

夕食前のお祈りで「ユキちゃんがお祈りする!」と目を輝かせて、「イエッしゃま、今日も教会へ行くことができて感謝します。おばあちゃんは腰が痛いようですが、どうぞ治して下さい。」と祈り始めた。

教会では最近は真面目にお祈りしなくなったが、家では今も自ら喜んでお祈りするユキである。夫も知子も私達は毎回驚きの喜びに浸る。

私達は3歳半の幼な子の祈りによって祈り心へと導かれ、祈祷会のようにそのあと私が祈ることもたびたびである。


14〜5センチも降った雪は11日だけで終わり、ユキがお祈りしたように今週も教会へ行くことができて感謝!

今朝の礼拝説教、「安息日の主」と題するメッセージをお聴きして、私はイエス・キリストによって一切の恐れから解放されている喜びを深く噛み締めた。

いつものように聖書と説教の要諦をご紹介したい。
聖書は出エジプト記(旧約聖書)20章8節から11節:
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため(奴隷)、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」というのは、神がモーセに与えられた「十戒」の4番目の律法である。

エジプトでは奴隷であったモーセたちである。
バビロニアによって滅ぼされたのは神の律法を守らなかったためであると、律法を守ろうとするのはいいがトラック何台分もあるような規則を作っていき、規則に縛られるような生活になっていった。

そこでイエス・キリストが律法の真の意味を伝えるために律法を犯されたのである。(先週の説教・過去ログ2月9日記事参照)

「安息日を覚える」ことが大切であるのに「仕事をしてはいけない」に目が向けられて、では何が仕事なのかといろいろ決められていった。

例えば、薪を拾ってはいけない、火を炊いてはいけない、何キロメートル以上外に出ると仕事になるからいけないなどと延々に続き、これら細かい規定から更にふくれあがっていった。

高層アパートに住むユダヤ人は、安息日にエレベーターのボタンを押すことによって電気が入るから仕事になるというわけで、ボタンを押すことは禁じられている。

そこで高層アパートには2つのエレベーターがあり、安息日用のは各階ずつ止まることになっており、今現在もこのように生きているのである。


出エジプト記23章12節に、
「あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。」
とあるように、
あなたがたは仕事を休むということよりも、あなたが使っている奴隷や家畜に休みを与えるためであると書かれてる。
エジプトで奴隷になったからこそ、そのことがよくわかるであろうと神は愛を示され、愛を教えるために安息日の戒めを教えられたのである。


私達が理不尽な苦労を受けた時、あとで仕返ししようとする人と、子供の時に虐待を受けた人は刷り込まれているから人に返してしまうこともあるだろう。また、その体験を愛に変えてお返しする人と2通りある。

このほか、50年目ごとにめぐってくる「自由と解放」を意味する「ヨベルの年」は、奴隷は解放され、売った土地の権利は元の所有者に返されなければならない。
たとえ元の所有者に余裕がなくて買い戻せない場合でも返還して完全な解放が行われる。(レビ記25章28節)

しかし、イエスの到来によって、人間は奴隷から解放され完全な自由人となった。何の奴隷であったかは各人により異なる。
何々をしてはいけない、何々をしたら祟(たた)りがある・・・など、規則主義の奴隷もそうだ。

私達はそれら一切の奴隷状態から解放されたのである!
しかもそれは神さまからの無償のプレゼントである。

死海はガリラヤ湖から水が流れて来るばかりで注ぎ出るところがなく、ついに濃い塩分になり生物は住めなくなった。

私達も神さまから頂くばかりではなく、人に注ぎ出さなくてはならない。
自由人の喜びを他者に分け与える時に神の愛が流れていき、生きた者にさせられ、愛と優しさに変えられていく人生になる。


その模範をイエス・キリストが示して下さり、永遠の安息を与えて下さったのである。

私達の小さな一歩、小さな勇気、小さな愛を必要としている人達がおられる。その人達を見分けさせて下さるように祈り、イエスの足跡を歩ませて頂きたい。


ついでながら、イスラエルでは曜日を数字で呼ぶ。
日曜日は「1の日」、月曜日は「2の日」、・・・土曜日が「7の日」であり、土曜日が聖なる日として安息日(日曜日)に当たる。

また、イスラム教の安息日は金曜日であるから、週末は金曜日から始まり金・土曜日が休日になり、日曜日から新しい1週間が始まる。

というわけでイスラエルでは日曜日に社会全体が動き出すので、イスラエルのクリスチャンは土曜日に聖日礼拝をする。

以上が説教の要旨だった。

ユダヤ教の戒律を思うと強迫神経症になってしまいそうだし、八百万の神を信じる日本人は、高層アパートのエレベーターの話は笑うに笑えない話ではないだろうか。

あの木を切ったら祟りがある、家の方角が悪い、家の間取り、印相、手相、名前の画数、前世の因縁が悪い・・・と、あらゆるものに縛られ恐れを抱いているからだ。

それは真に畏れる神を知らないからであり現象面は同じだ。

私はまことの神と出会い、人間の努力や修養ではどうすることもできない罪を赦され贖われて、全き自由人の生涯に入れられた。

私も神さまから頂くばかりではなく、頂いた愛を人に注ぎ出していく者でありますようにと強く願う。


あなたは自由人ですか?
何に縛られている奴隷ですか?
幸いな生涯に導かれることを祈ります。


posted by 優子 at 22:16| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

ライフワークの現状と雑感

かつて20年間お世話になった「河内の郷土文化サークルセンター」(「東大阪読書友の会」が所属)を退会した翌年の2009年11月、サークルセンター創立25周年を記念して『河内文化のおもちゃ箱』が発行され、そこに私の一文も掲載されている。

※ 掲載文・「太宰治『パンドラの匣』の舞台は、孔舎衙健康道場だった!」は、カテゴリ『読書会関係』2009年11月17日に公開。

これは『パンドラの匣』の主人公・ひばりのモデル、木村庄助氏(昭和22年22歳)だ。木村庄助氏.jpg

その本が好評で増刷され、「今月末には再び大々的に書店の書棚に並ぶことになる」とのこと。iPadにスポットライトが当てられている今、増販されるとは二重の喜びである。

読書会を退会する最後の3年間を、サークルセンターの役員としても関わらせて頂いた懐かしい日々を思う。

それからまたまもなく3年になろうとするが、遥か以前のことのように感じるのは日常生活に無我夢中だったからだろう。

読書会を去ることにした大きな理由が、今後はクリスチャンペンクラブでの活動に重きを置いてキリスト教文学を深めることにあったが、退会して8ヶ月後、娘の人生に一大事が発覚してそれどころではなくなってしまった。よく読書会も辞めておいたことだと思う。

孫の成長と共にようやく生活のリズムもついてきたので、今年から再びライフワークに意欲的になった矢先、今月の関西ブロック研究例会も欠席することになってしまった。

19日はゴールデンウィークの関係で美濃紙業が振り替え出勤日になったのだ。先月今月と一日ずつ欠勤した知子は、これ以上休むわけにもいかず欠席せざるをえなくなったのだ。

今月の課題図書は何度か読んだ遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』ゆえに、大田先生のご講義をお聴きできないのは残念だ。

拙著「遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点 (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)」≪カテゴリ:掲載文(神・文学)に掲載≫でも触れたように、これは『わたしが・棄てた・イエス』というのが本当のタイトルである。

遠藤自身が語っているところを上掲の評論にも引用した。

「 犬の眼」の背後に(臆病ゆえにイエスを「 知らない」と言って拒んだ)ペテロを見るイエスの眼差しがダブルイメージとしてある。
『わたしが・棄てた・女』というのは、『わたしが・棄てた・イエス』というのが、本当の題なんですけれども、日本人はそこまで読み取ってくれない。そこが実作者として一番辛い。」


この作品は同志社(女学校)の大先輩、井深八重がモデルになっている。読みやすく、かつ深い内容なのでお薦めの一冊だ。

クリスチャンの方で書くことに関心のある方は、日本クリスチャンペンクラブのホームページ(お気に入りリンク)の案内をご覧頂き、私たちの働きに加わって下さるならば大歓迎!

HPは毎月更新され、エッセイや詩など会員の作品が順次公開されている。
その管理をして下さっているのが文香さん(ペンネーム)で、2月9日のご自身のブログ『生かされて』に、『メメントドミニ』で書いた『わがままな大男』の一文を紹介して下さっている。

その最後を、「巨人が小さな男の子と出会って喜んで天国にいったように、父もイエス様と共に天国へ行ったのだなあと思いました。」と結ばれたお証しに深い安らぎを感じた。

浅田高明先生はお元気にされているだろうか・・・
浅田先生と読書会時代に想いを馳せ、「読書会関係」の記事を開いた。


posted by 優子 at 09:36| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2011年02月11日

15センチの積雪! ユキは喜び、チャッピーは震えていた

今朝目が覚めると銀世界に変わっていた!

8センチの積雪.jpg


昨夜半から静かに降り出した粉雪は、お昼前から牡丹雪に変わり2時頃にようやく止んだ。その時の計測では15センチの積雪だった。

私はユキと大喜びで外へ飛び出した。
「僕は2階に居るわ」と良輔じい。
お隣の高校生の男の子は等身大の大きな雪だるまを作っていた。知子ママもユキのためならと一生懸命作った。

ママと雪だるま作り.jpg


チャッピーは素足だから寒いのか、ブルブル震えていたので即刻退場した。


ユキと雪たぐるま.jpg

どう?ユキちゃんのゆきぐるま(雪だるま)。
手はユキが考えて雪で作ったんだよ。すごいでしょ!


断捨離した地球儀.jpgこれは雪だるまではなく、知子の小学校入学のお祝いに兄からもらった地球儀だ。

「断捨離」の合言葉のもとに第2弾大整理で処分することにした。
この整理で新品のコーヒーメーカーが2つも出てきた。いつも整理整頓していれば、先月は余計な出費をせずにすんだのに。もうやだ〜(悲しい顔)

50歳を過ぎてからの記憶力低下は甚だしく、若い頃には考えられないことだ。

私は娘達が着た幼稚園の制服まで直しているので、知子はビックリ仰天、悲鳴をあげた。
物を捨てられない私は12年前の引越しの好機にも処分できなかった。しかし、60歳を前に「死に支度」意識も働いて大処分となった。
この地球儀もその一つだ。
14日に大型ゴミ・燃えないゴミで持っていってもらうことになっている。

さて、明日もまた積雪の予報が出ているが、雪はもう十分楽しんだので降らないでほしい。

posted by 優子 at 22:23| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年02月10日

勤続45年、美濃紙業相談役、今日退職さる!

今日の記事は讃美歌405番を聞きながら書き始めたい。

2003年2月、夫が胃粘膜切除術で4〜5日間入院する前日のこと、この機会に私が常に気になっていたことを夫に尋ねた。それは夫に万が一のことがあった時の会社のことだ。

夫は、「僕に何かあった時はユー(優子)が社長になって、Mさん(常務)とTさん(専務)に相談して今後のことを決断するように」と答えた。

Tさんは既に何年か前に退職され、頼りにしていたMさんも今日退職された。
大学卒業と同時に入社されて以来45年間勤め上げられた。45年前といえば私が中学3年生の時である。

Mさんは私にとっても忘れられない人であるが、昨年9月に再び入社した知子にとっては私の比ではないだろう。

娘はMさんのことを誠実で責任感が強く、不言実行の人として心から敬愛していただけに、これからお目にかかれないのは寂しいことだと思う。

今月5・6日に会社のパソコンを全て新しく入れ替えて、社内中で連動できるようにした時も、業者だけに任せることなく休日を返上して出社して下さっていた。

その前にも会社で眠っていたパソコンを知子用に設定して下さるなど、Mさんは会社きってのパソコン通でもあった。

数年後から役員となって頑張っていかねばならない立場の知子に、労務関係のことを教えて下さった。

営業マンとしても有能な方で、大得意先となった会社を新規開拓し美濃紙業に大きく貢献して下さった。

管理職になられてからは人事や労務管理など社内のことを務めて下さり、常に誰よりも早く出社して花の水やりに至るまで行き届いて下さり、まさに聖書の教えを実践するような私達の尊敬する方である。

かつて娘がMさんのことを、「石像」から発して「石」とニックネームをつけた。
話す機会がある時にはたくさん話して下さるが、その機会がないと無表情で石のようだからと。わーい(嬉しい顔)

今日はカメラを持参してツーショットを撮らせてもらうようにと言ったのに、若い娘にはオバタリアンの勇気がなくて残念だったが、知子は明日ご自宅に届くようにプリザーブドフラワーとメッセージをお贈りしたようだ。

監査役を受けて下さったのでこれからもお目にかかれるが、ますます厳しくなる紙業界で夫はこれからも頑張らねばならない重責感を感じていることだろう。

私と娘は取り残された寂しさを感じるが、Mさんの新しい門出にあたり、私は讃美歌405番を歌い、これからもお健やかに良き日々をお過ごしになるようにお祈りしたい。

      神とともにいまして ”God Be with You”

@ 神ともにいまして 行く道を守り
  天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ

(※繰り返し)また会う日まで また会う日まで
       神の守り 汝(な)が身を離れざれ

A 荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
  行く手を示して 絶えず導きませ

B 御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き
  御翼の蔭(かげ)に 絶えず育(はぐく)みませ

Mさんに心から感謝し、
神さまの豊かな祝福がありますようにお祈りします。


11日08時50分追記:
昨夜遅くから降り始めたみぞれは雪に変わり、今朝は真っ白の世界になっていた。
積雪8センチ、今も雪は降り続いている。
今日は祝日でよかった。


posted by 優子 at 20:08| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2011年02月09日

律法主義に陥りやすい人間の弱さ

6日の礼拝ではルカによる福音書5章33節〜39節から説教された。最初に聖書を開き、説教の要旨をご紹介してから考えさせられたことを書いてみたい。

また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈りをしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。

するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。

それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。

まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

イエスは安息日に罪人と食事をし、また、命を救い、愛の行為を最優先された。
その行動は律法(規則)違反だったのだろうが、律法違反してもいいのだと真正面から答えを返すと相手の罠にはまることをご存知なので譬えで話された。
その譬えは聞く相手の判断に任されるのである。

織りたての布は洗うたびに縮んでいくから、布も葡萄酒と同様に古いものと新しいものを一緒に使わないというのは人々にもよくわかる常識的な話だった。

旧約聖書や新約聖書の「約」は「約束」・「契約」の「約」であり、旧約聖書だけを読むユダヤ教徒の関係から、旧約聖書を「ヘブライ語聖書」、新約聖書を「ギリシャ語聖書」とも言う。

新約とは、イエスの(十字架で流して下さった)血によって新しい契約がなされたという意味であり、古い契約の律法主義とは一緒にできないことを教えるためにこの譬えをされたのである。

私達は律法の中心にある意味を追求することが大事であり、律法を守ることに汲々としていればわからなくなる。

イエスは律法を否定されたのではなく、律法の真髄をこのように言い表すことは命を救うことであり、神の愛を示すことだと教えられたのである。


特に日本人はと言っていいと思うが、古いものを新しいものに変えようとしないのではないだろうか。
「まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである。」とあるように、ユダヤの人たちも保守的であったと思われる。

北村慈郎牧師免職処分の問題も、いいことをするなら律法の枠の中でしてくれということだ。
(注:北村慈郎牧師免職処分の問題とは、日本キリスト教団内で論争している出来事で、洗礼を受けていない者を聖餐式に与らせたことが問題になっている。)

北村牧師に対して規則を守らなければ切りますよと免職決議がなされたことは、まず規則を守って愛の行為をしなさいという律法主義に見える。愛は規則の中で行えと。
その行為が最終的にイエスを十字架に追いやったのである!

安息日に罪人と食事をされたり命を救われるなど、愛の行為を最優先されたイエスは、他者への思いやりが行為の源泉にあった。それがここに示されており、これら2つは相入れないものである。

北村牧師に対する決定は規則主義であったと思う。
日本社会にいるのだから教団という規則を元にした規則を守ることが一番であり、話し合いはそれからにしようとされたのである。

しかし、私達は彼らを批判するのではなく、彼らが悔い改めることができるように祈ろう。私達はイエスさまの目線で他の人々に関わっていきたい。それを行う者とさせて頂きたい。

以上が今週の説教の要旨だった。
説教を聴きながら、私はオードリー・ヘップバーン主演の『尼僧物語』を思い出していた。

若くして修道院(カトリック)に入り、修練を積んでアフリカの奥地にも派遣された。そこで白人の医師の助手としても働くが、手術中でも時間が来れば手を止めてドアまで行って司祭の祈り(?)を受けねばならなかった。

主人公はその形式的なことにも疑問を感じ、今までのことを悩みに悩んだ末に修道院を去る。ベールを脱いだ時には白髪がたくさん混じっていた。

3時間以上に及ぶ長い映画だった。
テレビの深夜放送で高校3年生の冬休みに見たので詳しく覚えていないが、同志社で学んでいたキリスト教(プロテスタント)とは異質なものを感じた。

オードリーが演じた尼僧は、形式的な律法主義の教えに従い続けることができなかったのだと理解し記憶している。

北村牧師のことについては、以前から日キ(日本キリスト教団)の友から聞き知っていた。昨年、日キの教会に転入したこともあって、今初めて聖餐式問題について考えさせられている。

私の母教会、日本イエス・キリスト教団 放出(はなてん)教会はクローズで、洗礼を受けていない者は聖餐式に与ることはできなかった。その後、導かれた当地の教会はオープンだったので驚いたものだった。

「洗礼を受けていなくてもイエスさまに従って生きていきたいと思う人は、パンとぶどう酒(いずれの教会も実際はぶどうジュース)を頂いて下さい」と、式の初めに牧師の言葉があり、望む人は自由に与ることができた。

正直のところ馬見労祷教会もオープンだったのはもっと驚いた。
先月の免責処分撤回の署名依頼に対して、私としては聖餐式の聖書解釈学的意味や神学的意味、また、その位置づけや歴史的経緯を知ってから結論を出したいと思っていたが、話し合い無しで免職処分ということに異議を感じて署名した次第である。

思うに、洗礼を受けている・受けていない以前に、イエスさまの言葉に耳を傾けない人には聖餐の意味も喜びもわからないから拝受したいとは思わないであろう。

しかし、例えば我が夫のように、未だイエスさまと個人的関係になっていなくても、長い年月牧師のメッセージを聴き、「もしも信じるならばキリスト教だ」と思っている人もいるのである。

ルカ伝18章15・16節には、
「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。
するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、
『幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。・・・』」。

とある。

この幼な子たちもイエスさまのことは何もわかってはいなかったはずだ。
夫は以前の教会でも現教会でも毎回聖餐式に与かっているが、イエス・キリストはこのような人を排除されるだろうか。


キリスト教史における歴史的経緯よりも、イエスが最後の晩餐でされたことを詳しく深く読み調べて私なりの結論を導き出したいと思う。

聖書学や神学を学び、聖書を深く読み親しんでおられる牧師たちの論争であるから、例えば聖書の教えにはない万人救済主義(死ねば全ての人が天国へ行くという考え方)に逸脱するような、福音の真理に関する内容ではないと信じるが、自分なりに確かめたいのである。
そうでないとすれば、直的には、イエスさまはオープンを拒まれないと思う。

安息日も人間のために作られたのであり、安息日のゆえに人間を造られたのではないだから、安息日の奴隷になって束縛されてはならない。

イエスさまが模範を示されたように、形式ではなく他者への愛、思いやりを大切にする聡明な信仰者でありたい。
イエスさまがクリスチャンたちに願っておられることはそのことだと思う。


この日、知子は少々疲れが出ていたので教会を休んだ。
礼拝中、ユキがじっとしていないので気が散って困った。礼拝堂を出て庭まで出ていくので気が気でない。

自動車に引かれる心配はなくても、私が子育てしていた頃と違って1人にしておけないので、私達まで席を立ってゴソゴソした。
説教されている牧師や皆さんにも申し訳なくてならない。ふらふら


posted by 優子 at 20:21| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2011年02月08日

深い感動に浸る『わがままな大男』

文香さんの2月4日のブログで『わがままな大男』という童話を知り、6日の夜にアマゾンに発注した。今は大手の書店まで出向かなくても、家に居ながらにして手に入るのでありがたい。

原書に忠実な訳本はどれだろうと悩み、小野忠男氏の名前への信頼で決定したが、期待を裏切られることはなかった。

ワイルドの『獄中記』は大学時代あたりに読み、今も印象に残る1冊である。
ワイルドは同性愛の罪で牢獄に入れられ、『獄中記』はその獄中で書いたものである。私の心に添う福田恆存(つねあり)の翻訳本には、あらゆる箇所に線を引いたあとがある。

このほか『幸福の王子』は知っているが、迂闊にもこの名著をこの年齢まで知らずにいたとは悔やまれる。娘たちも知らないのではないかと思う。

今朝、チャッピーとユキと朝の散歩から帰って来た時、ユキが郵便受けから本を見つけた。
生協さんが来るまでに掃除をと思っていたが先に読んでやった。ユキよりも私のほうが後回しにはできなかったのだ。

小野忠男氏の手による訳本は素晴らしいものだった!

読み終わった時ユキは言った。
「初めは大男が怖かった。それから、ちょっと悲しくなった」。

3歳6ヶ月の幼児にしては感度良好だ。
これから何度も読んでやりながら、イエスさまの話と共に豊かな想像力を伸ばしていってやりたいと思う。

この大男の姿は我々人間に巣食らっている本質でもあろう。
童話に登場する両方の手のひらと両足に釘のあとがある「小さな子ども」は、神の子イエス・キリストであり、ワイルドは神の愛によって人間は救われることを述べているのである。


大男の庭は大男の心のありさまであり、しかし、いつしか「自分の心の高い塀に気づき、自らの手で塀を打ち破った」のである。

この本と出会えたのも神の導きである。
今まさに私の身近に、かつての大男の如き哀れな人がいるのだ。大男が自分で塀を打ち破ったように、自らの心の分厚く高いコンクリート壁を壊してほしいと願わずにはいられない。

大男の庭に遊びに来た子供たちを通して大男に気づきが与えられたように、神さまはいろんな方法で私たちに導きを与えて下さっているのである。

どうかその人も神さまと共に自らの心をこそ見つめてほしいと切に願う。


ワイルドはこの作品を34歳(1888年)で書いた。
46歳で亡くなる最後の著述となった『獄中記』にはこんなことも書いている。

「ぼくにとってなすべきただひとつのことは、すべてを受けいれることだと理解したのだ。それ以来―きっと奇妙にきこえるだろうが―ぼくは以前よりしあわせになった。

いうまでもなくぼくが到達したのは純粋な自分の魂そのものだった。いろいろな点でぼくは自分の魂の敵だった。

しかるにいまそれが友のごとくぼくを迎えてくれるのに気がついた。魂に触れるとき、ひとはクリストの教えさとしたごとく、幼な児のように純なるものとなる」。


『わがままな大男(巨人)』の粗筋は、「お気に入りリンク」の『生かされて』2月4日の記事をご覧頂きたい。

以上、ユキのお昼寝中に一気呵成に書いた。
さてさて、ユキもヒックンのように何度も「読んで」と本を持ってきてくれるかな?(^ー^)
改めて文香さんに感謝しつつ。


posted by 優子 at 16:01| 文学 | 更新情報をチェックする

2011年02月05日

メールボックスに残る従兄弟のメール

悲しみの時は何もしないでジッとしていることが多かったが、昨日は早々に着物の後片付けをし、今日は娘といつもの掃除をしてから、午後は「断捨離第2弾」で物置になっている縁側の大掃除をした。動いている方が気持ちが楽だった。

夕食でお鍋を囲んだ時、無性にT君がかわいそうになって苦しくなった。
Mさんは独り取り残されてどうしているんだろう。叔母はどうしているんだろうと胸が痛んだ。
叔母とメールのやりとりをした。

闘病生活の1年5ヶ月間に、T君には手紙や葉書きのほかにメールを5回出していた。T君からの返信はメールを4回もらった。

残っているメールを読むと不思議な気持ちになる。
現実から逃避してインターネットを相手に仮想現実に生き続けることができるような気がして、そこに留まっていたい気持ちも脳裏をかすめた。

他者を寄せつけずに孤立して自分だけの世界で生きている人もまたそれと同じだなと思う。
他者の言葉に耳を傾けることもなく、自分の考えだけを押し通して一方的に生きている人に似ている。

T君からの最後のメールは今年の1月4日だった。
お正月の3日に叔母の家へ行った時に叔母に託したお見舞いを翌日に届けてくれた。このメールはT君の母と妹の前で書いてくれたものだ。
Tです。

お見舞い、ありがとうございます。母から受け取りました。こちらは今日から食事も再開され、一週間ぐらいで退院できると思います。
それから、年賀状を頂いていながら、年末からずっと入院していたため、こちらからの年賀状も書けておらず、すみません。
いつも気遣って頂き、本当にありがとうございます。
取り急ぎ、お礼まで

この食事も1度目で異常を来たし、口に入れていいものは水だけになり、まもなく水さえ体内に治まってくれず、点滴だけになり、このメールをくれた28日後に亡くなったのだ。

今もメールを送信すれば着信するからT君が生きていると錯覚しそうだ。ただし、どんなに待っても返信されない一方的なものである。

そうと分かっていても錯覚してはならぬと、T君は一昨日白骨になったと自らに言い聞かせた。

アドレスも残ったままでネットは残酷でもある。気持ちの整理がつくまでアドレスは消さずにおこう。


posted by 優子 at 23:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年02月04日

死別の悲しみ

2日朝10時過ぎ、叔母は前日とは見違えるほど落ち着きを取り戻して電話してきてくれた。その最後に「着物忘れなや!」と言われて「はい」と返事したものの、電話を切ってから必死だった。

と言うのは、股関節と腰が痛いので喪服を着ようかどうか悩んだ末に、洋服で御無礼しようと決めたので、前日は丸一日あったにもかかわらず何も用意していなかったからだ。

電話を切って大急ぎで着物を出して長襦袢に掛け襟をつけ始めた。途中で自治会の役員さんが新年度の3役になってほしいと頼みに来られるハプニングもあった。

私は昨年3月に副会長を終えたところだし、今は孫の世話があるのでとても無理だ。
それに役員会は日曜日の午前中にあり、行事は日曜日に多いので教会へ行っていることを話して理解して頂いた。

その日の午後、3時過ぎの電車に乗って葬儀場へ向かった。

そして全てが終わった今、改めてT君の告知から1年5ヶ月間の闘病を振り返りたい。

昨年11月中旬だったか、T君が12月から復職することになり会社の人が来宅されて相談していた矢先に腸閉塞になり、2ヶ月余りの最後の厳しい闘いとなった。

2009年8月末、胆石の手術のつもりで開腹した時、胆嚢は癌でパンパンに腫れて手のつけようがなく周囲にもたくさん転移していた。

それらを取り除こうとすれば腸を全て取り除かねばならず人間として成り立たないことになり、仕方なく洗浄だけして胆嚢もそのままにして閉じた。

そして、余命3ヶ月、抗癌剤治療をすれば2年くらいだろうと宣告されたのだった。


さすがにあと3ヶ月ということだけは本人に隠したが、それ以外のことは全て本人にも告知された。個人情報なんとかで医師は患者に隠してはいけないことになっているそうだ。

何よりもT君は性格的にも徹底して調べる人であり、父親が肺癌になった時に十分に調べ上げて熟知していたし、自分に告知されてから徹底的に調べたものと思われる。

危篤状態になっていても、医師は本人にお伺いをたてないと薬を使えなかったほどで、その薬を使うと腎臓に良くない、肝臓に良くない、心臓が弱るなど、各種薬剤について熟知していたので拒否したそうだ。

眠れなくても睡眠薬は使わないし、亡くなる数日前に吐き止め薬を使うことを許したが、その副作用で眠くなっても眠ろうとせずに頑張っていたという。

「Tは眠るともう目が覚めないと思っているようで・・」と、叔母が泣いて電話してきた。しかし、そんなT君に叔母は「もう頑張らなくてもいいよ」とは言えなかったのだ。

かといってT君は死を受容していなかったわけではない。
死を直視し、葬儀場どころか葬儀の部屋まで決めて妻に伝えていた。あの場所は12年前に叔父(T君の父親)の葬儀で使った同じ部屋だったのだ!

しかしまた、死が迫っていることを知りながらも、とにかく家に帰ろうと努力していた。それは人間の生きようとする本能だろう。

昨年秋にT君が植えた庭のクロッカスが芽を出したので、妻のMさんが写真に撮って見せていた。それを見たかったようで意識が無くなる直前に、「〇〇子、さあ家に帰ろ」と言ったという。


意識はなくなり瞳孔も開いていた時に電気ヒゲ剃り機を顔に当てると、長年の習性から顎を出し頬に手を当てたという。

叔母がホテルから一時帰宅した31日の電話では、「あんなに帰りたがっているので、帰ることで命が短くなってもいいからチューブをつけたまま帰らせてやってほしいと私の考えを伝えてもらった」と言っていた。

その日、主治医は手術中で相談は夕方になると言っていたので、叔母はその相談で再び病院へ戻ったのかもしれないとも思っていた。

それで翌1日に電話が入った時は、私の方から「叔母ちゃん、今どこ?」と聞いたのだった。

叔母は「Tの家」と言うのでT君は危篤状態ながらも息あるうちに帰宅したのかと思ったものだから、「じゃあ連れて帰ってあげたんやね」と言うと「病院で死んだから連れて帰ってきたんや」と叔母に言われて絶句したのだった。

それにしても私はもう一度会いたかった。
会わせてほしかった。


叔母は「私はお荷物で何もTにしてやれない。できるのは見舞客を断ってやることしかできないから」といろんな人にも話していた。
感染症を起こしていたので免疫力は全くなくなっていたからとも言っていたが・・・最期は皆そうだと思う。

このように言われていてもお見舞いに行くならば行く者の自己満足でしかなく慎むべきだ。それでもなお私は祈りつつ神の導きを待ったが、最後まで示されることはなかった。

しかし、妻のご両親や妹さんは会っておられたと知って複雑な気持ちである。
別れをさせてほしかった。
本人が拒否していたならばしかたないが、どうだったのか今は叔母には聞けないが・・・

「Tは親孝行な子やったけれど、最後にこんな親不孝して私よりも先に死んでしもた。でも人生の最高の時に死んだんやから幸せやと思う。太く短く生きたんや。」と、叔母はどうしようもない悲しみを自分に言い聞かせるかのように何度もいろんな人に話していた。

亡くなったのは午前2時頃(葬儀でも時間や経歴などはアナウンスされなかった)だったので、その日に通夜もできたが、みんなクタクタだったことと、妻のMさんが「Tさんといたいから」との願いで1日延ばしたそうだ。

実家のお母さんに泊まろうかと言われても断り、夫の亡き骸と2人っきりで最後の夜を過ごしたという。

「Tさんといっぱい話しました。今朝はコーヒーを入れてあげたんです。」と話して下さった。
叔母も親として嬉しかったであろう。

共に結婚が遅かったふたりに子供はいないが、本当に仲睦まじいカップルだったようだ。

結婚3年後に癌の告知を受け、そして、1年5ヶ月余りの看病で、たった4年半の短い結婚生活だったが、まさに「愛して愛を失うは、愛せしことなきに勝る」である。


通夜と葬儀の時に立礼に立ったのは、喪主のMさん、杖を手にした82歳の叔母、そして、故人の妹と、女性ばかりの姿に涙した。

兄、夫、妹の伴侶もT君の棺を担いでくれた。

私はお通夜の夜は殆ど眠っていないので昨夜は9時半頃から眠ってしまった。
夫と知子も昨朝は7時に家を出て駆けつけてくれたので疲れていたであろうに、今朝は夫と娘が起きたのも全く気がつかず、気がついた時は自動車が出発する時で、それからまた8時まで眠ってしまった。

T君が亡くなった翌日から異常な寒さは去り、日中は3月上旬の陽気になっている。衣紋掛けに掛けた喪服は窓際で春風に揺れていた。

退院したら食べようと食通のT君がネットで購入したこだわりのカニやワインなどたくさん残っているそうだ。
そして、春になればT君宅の庭にもクロッカスの花が咲くだろう。あるじのいなくなった庭に。

死別の悲しみはこれからだ。
叔母やMさん、Aちゃんに神さまの慰めを祈り、私も寄り添わせて証しさせて下さるようにと引き続いて祈り続けたいと思う。

今朝、我が家のプランターに植えたチューリップも1センチほど芽を出していた。


posted by 優子 at 19:56| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年02月02日

「愛して失いしが、愛せることのなきよりも、 はるかにまされるを」

やっと楽になってよかった、しかし、それでもいてほしかったと両義的な感情に襲われている。

今はもういないんだ、二上山を黙して眺めていた。
何とも言えない深い悲しみに今も涙が出てこない。しかし、体全体で慟哭している。声なき慟哭だ。

「昨日寝る前にすごく悲しくなって泣きました。
叔母ちゃんが生きる希望をなくしてしまわないように、慰められるように、お祈りしてます。
真智子」


今朝届いていた真智子のメールを読んで、涙が溢れてきた。
母の時の悲しみや父の時の悲しみまで昨日のことのようによみがえり、愛息の死別に耐えねばならない叔母を思い胸がつぶれそうに痛い。

T君の小さい時からのことを思い巡らせる。
子供が遅かった叔母が赤ちゃんのT君を抱いてあやしていた姿も鮮明に覚えている。まぶたを閉じると、明るい陽射しの中で叔母がT君を抱く幸せそうなシルエットがキラキラと輝いている。

ユキが何気なく触っていて見つけてくれた写真。これは今も忘れられない懐かしい遠い日の思い出だ。

優子・6年生1月、剛君と。.jpg

写真の裏には「6年生 1月」と書いてある。
私が12歳(1963年)だからT君は3歳10ヶ月だった。その後、T君は178センチの大きな青年になった。

これは高羽(たかは)中学校前のことぶき公園で写したものだ。
この前日は同志社女子中学の合格発表だった。受験番号を見つけて父と抱き合って喜んだ。これはその翌日の写真だ。

母が受験勉強への労いから学校を休ませてくれ、私ひとりで叔母の家に行った。このとき初めて一人で電車に乗ることになり、母から急行に乗り換える駅も十分に教えられていたものの、小心者の私は急行に乗り換える勇気もなく各駅停車で石屋川まで行ったのだった。

この時すでに神さまはT君を50歳でお召しになることを定めておられたのか!

私よりも9歳も若いT君だから、T君が私の葬儀に来てくれるはずではなかったか!!!
T君の現実に直面するのが怖い。嫌だ。
叔母の顔を見ることなどできない。


今日明日と通うには遠方なので、今日は知子にお昼から早退してきてもらって私一人で出かけることにし、夫と知子は明日駆けつけてきてくれることになった。

テニスン(『イン・メモリアム』)の挽歌を脳裡で繰り返す。

「われは信ず、何事がふりかからんと、そが真なるを
われは覚ゆ、悲しみのいと深きときに。
愛して失いしが、愛せることのなきよりも、
はるかにまされるを」


神の慰めがご遺族の上に豊かにありますように切に祈りつつ、T君に会いに行こう。


posted by 優子 at 09:23| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年02月01日

今朝未明、T君永眠す

従兄弟はようやく死の床の苦しみから解放されて、今朝方未明に息を引き取った。

葬儀のことも決まって叔母が訃報を知らせてくれたのは今朝10時を過ぎていた。その時も叔母は息子が何時頃に息を引き取ったのかもわからないないほど混乱していた。

昨日の午後、叔母はホテルから一旦帰宅したが、その直後に嫁から娘を通してメールが入り、「血圧が下がり呼吸が浅くなったので酸素マスクをつけた。しかし、安定している」とのことだった。

T君の様子はその妹を通して叔母(つまり母親)のところに届く。
昨年12月始めの頃だったと思うが、叔母と嫁が電話でお互いに泣いてしまったことがあり、今後はお互いに直接やりとりしてはいけないとT君が指示したのだ。

変化がない内容のメールはそのまま転送し、娘が打ち直したメールの場合は深刻な内容であることを叔母にもすぐに察しがついた。

さすがに先週初め頃からは、どんなに厳しい内容でもそのまま転送していたようだが、年老いた親を想う子らの愛に胸打たれる。

昨日はそのあとにまた電話が入ったのだろう。
午後3時15分、「今から病院へ行ってくる」とだけの慌てた様子で短い電話があった。

昨夜、私が探し続けていた一枚の写真をたまたまユキが見つけたので、虫の知らせを感じた。

しかし、この世はやはり理不尽で理屈に合わぬことのほうが多い。
T君はなぜこんなに早く死なねばならなかったのか。私には神さまのなさることがわからない。

夫と兄に、そして、妹、叔母方の親戚に連絡した。
この地に引っ越してきた1999年4月、その7月の終わりに神戸の叔父が亡くなった。
あの時、喪主として立ったT君は39歳だったのか・・・叔父の時と同じ西神中央駅近くの葬儀場だ。
 
「T君はイェッしゃまのところへ行ったの?
イエッしゃまのところは遠いの?
アメリカより遠いの?」

矢継ぎ早に尋ねるユキを私は強く抱きしめた。

posted by 優子 at 17:50| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする