2011年07月31日

回想の時

真智子は中学校時代のノートや試験用紙だけではなく、今までの歩みを細かく記録保存しているので整理も並大抵ではないが、ようやく終盤に入ったようだ。

整理中に懐かしい写真を見せてくれることもしばしばで、私は遠い日々に想いを馳せる。
真智・中1の作品.jpg

これは真智子が中学1年生の時に作ったオルゴールだ。蓋を開けると「四季の歌」が流れる。藤本の祖父母の家の庭に咲くキキョウの花に魅せられてデザインしたという。

私はここに移ってくるまでキキョウにも気づかない22年間だった。見えるものも見えず、見ようとしなかったのだろう。花に気づき、「秋の七草」のキキョウが梅雨が明ける前から咲くので驚いたものだ。

私達が当地に移ってきたのは1999年4月で真智子の神戸大学入学式の前日だった。真智子はきっと夏休みに遊びに来た時にキキョウを見たのだろう。
キキョウ満開.jpg

今年も7月の初め(6月末?)から咲き始めて今も満開である。
咲いているのを知らなかった真智子に、今朝、教会へ行く時に案内すると感慨深げだった。

今朝の礼拝は夏季休暇中の牧師の代わりに同志社大学大学院の神学生が語られ、来週の平和聖日礼拝は高見敏雄牧師が講壇に立たれることになっている。

その日は家具が届く予定だったが予定が早くなったので出席できるので嬉しい。マチ・クマとの礼拝も今回の帰国では次週が最後になる。
マチ・クマの間から見える子供はユキだ。献金ご奉仕のユキ.jpg

7月から子供が礼拝に出席している時は子供も礼拝献金奉仕を担当することになり、ユキ1人で左半分の人々のところへ献金袋を持って回っている。

ちなみに、この4月から献金が終わると2階へ行き、10分から15分間ほどの短時間ではあるがCS(子供のクラス)が開かれるようになった。私達が早く来られないということでこのような方策をとって下さったのである。

今日は神学生を囲んで昼食会があったが、真智子があと1回お寿司を食べたいと言うので今日の昼食も外食した。その後、真智子と私は国分まで送ってもらって美容院へ行き、買い物をして帰宅した。かき氷器も買った。

夜はユキが楽しみにしていた花火をした。昨夏と違って大爆笑の花火大会になった。さあやり始めようと思ったら大粒の雨。たらーっ(汗)
大人は喜び家に入ると、「もう(雨の)音がしていないよ。イエッしゃまや!」と喜ぶユキ。雨は一瞬にして上がり、私達は再び外へ。わーい(嬉しい顔)

爆笑の花火大会!.jpg

優子:「良輔さんも(写真に)入って!」
良輔:「僕はこんな格好やからやめとくわ」
真智:「もう去年からその格好で(ブログにも)出てるよ!」(全員爆笑)

爆笑の花火大会A.jpg

これぞ日本の夏! 
夫はいい味を出している。楽しかったね。
アメリカ生活に疲れた時はパパの姿を見ると癒されるよ。

そういえば明日はPLの花火大会だ。遠くだが2階に上がると打ち上げ花火が見える。

日本では花火大会は8時から始まるのが一般的であるが、ミネソタでは10時から始まるという。8時ではまだまだ明るくてできないというのが理由だ。
あのミシシッピー川沿いで全米でもかなり大規模な花火大会があるそうだ。

マチ・クマのミネソタの夏も今年で終わる。
ミネソタでは7月21日か22日に荷物を出して、24日にミネソタを発ってワシントン入りする予定だ。

この「ミネソタ便り」にも終止符が打たれ、以後は「ワシントン便り」となる。真智子の、そして、マチ・クマの新しい季節の始まりである。


posted by 優子 at 23:58| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年07月29日

女性の生き方 −dual career problem ―

ミネソタでも8月1日に引越し屋さんが見積もりをとってくれることになった。引越しは見積もりから少なくとも2週間後になると言われているので日数的にも余裕ができて安堵した。

今日は久々に昔のように真智子とおしゃべりし、このたびの就職活動について話を聞かせてもらった。以下は真智子が話してくれた要約である。
大学時代に経験した就職活動では、「結婚したら仕事はどうしますか?」と必ず聞かれた。
アメリカではそれを聞くことは法律で禁じられているが、仕事をしたい女性が女性として生きることは、結婚しても仕事をして生きることであり、お互いに生きていけるような採用が増えて欲しい。

スペシャリストはどこででも働けるわけではなく、2人共がこのキャリアを積んでいきたいという意志を持っている時に" dual career problem "に苦労している人が多いという。

ある大学では、(夫婦の)一人だけなら採用できるから、もう一人はその周辺の大学で就職口を探す方向で考えてほしいと言ってくれた人もあるが、同じ所に住みたいというのは理解されても、同じ職場で働きたいということはなかなか理解されなかった。

アメリカでも夫婦で仕事を探すのは難しく、「初めは別々になっても仕方ないと思った方がいいよ」という人が多かった。でも、そんな生活に希望は持てなかった。(ここに真智子の結婚観や人生観が鮮明に現われている)

結婚し母にもなる女性が働けるような社会を作るべきで、「多様性を認める」とは美しい言葉だがそれを実践するのはとても難しいことだ。それは他者を理解しないとできないことであり努力して達成できる社会である。

そうは思いつつも、就職活動の中、自分自身のジェンダー意識にも苦しんだ。
そんなに無理して社会に入っても自分の居場所なんてないのではないかと、昨年の12月から今年の2月半ばまでの就職活動中は絶望的に思うことも多かった。

そんな時にIMFに2人で働く道が開かれた。

2人で雇われることが素晴しいと共感してくれる人がIMFの中に居て、神さまが働いて下さりいろんな人が協力してくれた。こうしてこのたびもまた、神さまに期待することを体験させて下さった。

この話を聞きながら、真智子が小学校5年生の時にPTAの広報紙に書いたことを思い出した。年間(実質8ヶ月間)40枚発行した手書き新聞に「女性と社会」というタイトルで次ようなことを書いた。
我が国でも性別役割分業に対する疑問が起こり新しい歩みが始まっていますが、「男女平等」を言う時、女性が家から離れて職業を持つことが男女平等であり女性の自立だとするならば、それはあまりにも短絡的思考でありましょう。
画一化することが平等ではなく、単に職業に就くことが自立ではありません。

これからの女性は、職業婦人として、あるいは家庭婦人として生きるにしても、まず内なる自己をしっかり見つめ対決していくという真の自立をしていかねばなりません。

子育ての時と言っても限られた時間です。子供に手がかかる時も、人間にとって他では得ることのできない貴重な時であると思います。

男性も女性も共に社会や家庭のあり方を考えていく上で大切なことは、男性と女性が同じようになることではなく、両性が精神的自立をしなければ進歩するどころか後退していくでしょう。

女性とは、男性とは、・・・・考えてみたいテーマですね。

             
        (東大阪市藤戸小学校・PTA広報委員会/
         『ふじとニュース』No.40、1992.3.10発行)
                               より

どんなことも神さまと共に誠実を込めて一生懸命する真智子。
いよいよ活躍の場へいざなわれた真智子にみことばを贈りたい。

「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
 (神の)御手が私とともにあり、災いから遠ざけて
 私が苦しむことのないようにしてくださいますように」。

              (第一歴代誌 4章10節 「ヤベツの祈り」)

今後もマチ・クマの背後で祈り続けよう。


posted by 優子 at 16:23| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年07月28日

ワシントンへの荷送りでストレスフルな日々

食器だけではなく着物の用意もあって、次女夫婦のワシントン入りは引越しというよりも娘の嫁入りという感が強い。

23日は呉服屋さんの説明とアドバイスを聞きながら着物を選別するのに時間がかかった。そして、袋帯を二重太鼓にリフォームするために、長襦袢は寸直しのために預けた。

その時に選んで下さった中からいくつかを真智子が選別したのが25日。フーにユキの子守りをしてもらって、マチと必死でかたづけながら選んだ。

そして翌26日に再度呉服屋さんが来宅され、真智子が選んだ着物に対して、帯、帯揚げ、帯〆(帯じめ)を合わせて下さり、バッグや籠つき巾着(きんちゃく)、草履など、そのほかいくつかの小物を購入した。

そのあとで帯の締め方を教えて頂いたので、今回も3時間あまりを要したが何とかめぼしがついてきた。あと1回おさらいしてもらうことになっているから何とかなるだろう。
着付けの時はフーも同席してノートを執っていたので「Ph.D着付け補助クマ」も誕生した。わーい(嬉しい顔)

さて、最も懸念しているのがワシントンへの引越しである。IMFとの連絡の遅れなどもあり、引越し手当ての情報がわかったのは今月下旬に入っていた。

その間も次女夫婦は全てを神さまに祈りつつ、できることを最大限にやっていた。荷物整理だけではなく、ミネソタ大学大学院の先輩の方々にメールして参考になる話も聞かせて頂いていたようである。

この5年間、真智子たちはこのような大変な連続でここまで持ち運ばれてきたという。
「どんなことも神さまの介入なくしては(事は)成らないのだから、このたびのことも神さまに委ねてベストを尽くそう」との確固たる信仰に励まされる。


アメリカへの運送方法は2通りあるという。
IMFが指定している業者に頼む場合は、補助手当が十分あって送料の心配もないが、その場合は全て船便になる。
母国からピアノまで運んだ人もいるそうだが、船便で200万円となればベッドから家具まで運べる費用だと思う。

一方、一括方式のランプサム(lump-sum)だと規定額を一括で受け取り、自分で業者を選んでアレンジするので、色々こちらの采配でできる。例えば家具や書籍は船便にして着物は航空便でというふうに使い分けることができる。

しかし、前者よりも額が低く、その上にこの円高である。一括方式の手当を円換算すると大幅に目減りしてしまうが、2人はランプサムでするようである。


今は引越し屋大手2社に合い見積もりを取ろうとしている段階だ。国内引越しの場合のように営業マンが直ぐに飛んできてくれず来週初めになる。

これに加えて荷送りは日本からだけではなく、アメリカへ戻ってからミネソタの家の引越しもあるのでハードだ。
5年間のミネソタ生活では荷物を増やさないように生活してきたので量は多くないだろうが、アメリカへ戻ってから手配するには日数的に余裕がなくなってきた。

そこで今朝、家主さんに電話して見積もりの立会いを頼んでいた。幸いにして引き受けて下さることになり、あとは家主さんが運送屋さんと直接日程調整して立ち会って下さることになった。

私も気持ちはあっても体力がなくて情けない。あまりにしんどくなると気力まで萎える。
昨日の午前中は1時間ほど寝て、昼食の用意もユキの食後の歯磨きも次女に頼んだ。太志君も何回か歯磨きの仕上げをしてくれている。
税関の関係から荷物は自分でダンボールに詰めてはいけないとのことだが、多忙なマチ・クマにとってもありがたいくらいだ。

日本では放射能汚染肉のことでも大変なことになっており酪農家の苦悩は計り知れない。

また、アメリカ経済も深刻だ。8月2日の期限までに債務上限が引き上げられなければ、米国が債務不履行(デフォルト)に陥る可能性があると報じている。次女夫婦も経済ニュースを注視していた。

真智子たちがアメリカへ渡った2006年頃とは打って変わって、今ほどIMFの働きがクローズアップされ期待されている時はないだろう。この危機の時代にIMFに入って職に就くというのも神の計らいか。

急激な円高はどこまで景気が落ち込み、東日本大震災で落ち込み、アメリカの債務不履行が現実になれば、私達にどんな影響が及んでくるのだろう。もはや会社の体力も限界ではないかと心配でならない。


ともかく目下の急務は次女夫婦の引越しが順調に進み、日本とミネソタから引越しが完了することだ。
船便の荷物も部屋に納まるであろう10月半ば頃にひと息つけるだろうか。その時に今夏の出来事を懐かしく思い出してもらいたく記している。 

2週間後の今頃はアメリカに向かう飛行機の中だ。
真智子にしてやることはないか、ほかに持たせてやるものはないかと思い巡らす余裕もなく日が過ぎ、共に健康が支えられますようにと祈る日々である。


posted by 優子 at 23:24| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年07月24日

歌って笑ったウィー(Wii)タイム

今朝は知子とユキは用事があって次女夫婦と4人で教会へ行った。私は今月初めての礼拝出席である。

その後、昼食を外食で済ませて4軒回って買い物し、真智子に持たせてやる衣裳タンスも決めてきた。

昨夜も着物のことで夕食を作れなくて外食に出かけ、その前夜は夫と知子の夕食がいらなかったので夕方遅くまで着物に時間を割いてお寿司を取った。このところ店屋のものが続いてウンザリしている。

ところで、次女夫婦が帰郷して既に1ヶ月以上も過ぎているのに何故今になってタンスなのというわけだが、IMFとの交信で先方の不手際で未だ詳しい引越し情報が入ってこないためだ。

しかし、もうこれ以上待ってはおられず近くの家具屋での購入となった。年配の店員さんは総桐の小袖タンスを強く勧めてこられた。

高価な着物のことを思えば桐は決して高いコストではないというのも重々承知の上だが、どんなに勧められても扱い方に心を配らねばならない桐タンスをアメリカへ運ぶ気はない。

しかし、せめてもの気休めにと内側だけでも桐材を使ったものにした。そのタンスは私が思っていたような大きさと概観で、真智子も気に入ってくれたので疲れが吹っ飛ぶほど嬉しかった!

帰宅したのは3時半頃になりユキも少し前に眠ったところだった。私は買ってきた物を片付けたあと2時間も眠ってしまった。目が覚めると6時前になっていた。

ところで、マチ・クマは学者夫婦だが実にユニークである。
今やインターネット隆盛の時代で、アメリカにいても日本のテレビ番組(「今週のベスト10」)をユウチューブで見ることができ、日本で流行っている歌謡曲もよく知っている。

今日はヤフーオークション(?)とやらで、真智子が中学時代に読んでいた漫画を落札したという。

また、2人は毎回帰国するたびにカラオケに行く好き者で、先週は任天堂の「ウィー」を購入して宅配されてきた。


先週はフーもまた倉庫に置いてある荷物整理で多忙であったが、その合間を縫ってセッティングしていたので、6時頃から夫の「ウィー」体験を皮切りに家族全員が楽しんだ。

そんなわけで、今日は私が生まれて初めてカラオケを歌った記念すべき日になった!
選んだ曲はアンディ・ウィリアムスの「ムーン・リバー」。真智とクマが上手に持ち上げてくれるので何曲も歌いたくなるほどだった。
私はポピュラーソングで夫は演歌専門。父親の歌を聞いて「日本へ帰ってきた気がするわー」とマチ。(笑)

今年の関西北越会の旅行では私もカラオケを歌おうかな。女性で歌わないのは私だけというのも少々情けなく思っているので、マチのように何事も楽しくできるようになりたい。

Wii @.jpg

Wiiでデュオ.jpg

マチ・クマは私の知らない今の歌謡曲ばかり。
クマ(フーとも言う)はラップも上手、これぞPh.Dラッパー!

Wii A.jpg

009.JPG

ユキが歌った曲は、「汽車ぽっぽ」、「ヤッホーしんかんせん」、「ABCソング」、「どんぐりころころ」。

↓ 次はボーリング。この格好見てよ!

ユキちゃん、Wiiでボーリング!.jpg

「ユキちゃ〜ん、指を放したからまたエラーだよ」。

マチ・クマはウィーを購入したので今後はアメリカでもカラオケができるとあって、ワシントンでの家探しの時にも壁は厚いかどうか聞いたところ、「分厚いコンクリート壁だから大丈夫」だって!

マチ・クマと一緒にいると、ハードでストレスフルな研究生活を上手にコントロールして乗り切っていたのがわかる。緊張度最大級の時はユウチューブのアカペラで讃美歌405番を歌っていたそうだ。

夕食や夫とユキの入浴を挟んで6時から10時過ぎまでのウィータイム。今日は本当に楽しかった。アメリカへ行くまでに何回できるかな?わーい(嬉しい顔) 揺れるハート

マチ・クマ、楽しい時間をありがとう!
大切な思い出がまた一つ増えました。
 附記:25日午前1時10分に記す。


posted by 優子 at 23:59| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年07月23日

母が持たせてくれた着物をワシントンへ!

次女夫婦が帰宅して32日が過ぎ、滞在期間はあと18日となった。
マチ・クマは大学・大学院時代の本やノートなどを整理し、大量の論文コピー紙を私が裏紙に利用できるように半分に切ったりと休憩なしの忙しさである。

そして、私もまた今週に入ってから真智子に持たせてやりたい着物の準備で必死である。

次女は高校生の頃から着物に心を寄せ、自分で着物を着て楽しみたいという思いがあった。これからは国際舞台で活躍することになり、私生活や働きの場で機会があれば着物を着たいというので2着ほど持っていくことになった。

そこで真智子と2人で21日(水)は衣裳ダンスを、22日(木)は小袖ダンスの着物を一つひとつ取り出して写真に撮って整理した。

2日間とも台風6号の影響で少雨や曇天で非常に湿度の多い日だったが、日数がないので気になりながらも着物を風にさらした。 

誰か短期集中で着付けを教えてくれる人を紹介してもらえないかと、数日前から友人や知人にメールして尋ねてみようと思いつつも1日2日と日は過ぎていった。

そんな時、郵便局の帰り道で急きょ近くの呉服屋さんへ飛び込んだのだった。21日のことである。

すると快く教えて下さるというので、早速今日の午後1時にお訪ねして2時間の個人指導を受けた。
今日は肌襦袢から着物を着るまでを教わり、あと2回講習して下さることになっている。

そして、着物と帯の組み合わせなどを見るために1時間ほど来宅して下さることになった。

私は今秋60歳にもなるというのに着物のことは恥かしいほど知らず、深草色(?)だった油単もとっくに色あせて破れたままだが、恥かしいなんて言っておられない。

呉服屋さん(女性)は着物の数の多さと高価さに驚かれ、色や柄の良さに何度もうなっておられた。
無駄話は一切しないのに1時間どころか3時間にもなり、頭も体もクタクタで何が何やらわからなくなってしまって最後はもうソコソコにして終わった。
何点かお預けし、真智子用に必要な小道具も揃えて頂くことにした。

母は結婚の時の荷物を「遺産分けのつもりや」と一度だけ言ったことがあったが、着物だけでも当時の金額で2千万を下らないだろうと思う。

その殆どが着ていないものばかりで私はずっと苦になっていたから、1日目は「これで死に仕度ができた」と喜び、2日目になると只々母への想いで胸がいっぱいになった。

真智子は言った。
着物への思いは祖母への思いであり、「おばあちゃんがママにこしらえてくれた着物だから着たいのであって、ほかのは着たいと思わない」と。
親や祖父母の気持ちを大切にしてくれる子だ。

今は余りに忙しくて疲れているので感慨も感じないが、落ち着いたら亡き母との時間を取りたいと思う。勿論、父への想いも同じだ。懐かしい父と母を偲びたい。

そして、この機会に油単を新しく作ってもらうことにした。
「年を取ったら油単を紫色に作り直したらいい」と言っていた母。
しかし、今度も深草色(?)にして実家の紋を入れることにした。これは真智子の希望でもある。

箪笥も母が言っていたように洗いに出して本来の色に戻したいが、私が死んでからやってほしいと思っているのだが・・・


今夜の状態.jpg

今夜の部屋の様子。メチャクチャ。ふらふら
片付けるまで入室禁止。

いくつかの引き出しにも着物を雑に入れてあるので、必死でやっても片付けるのに1日仕事だ。明日の午後は買い物もあるので取り掛かるのは月曜日になるだろう。
真智、また頑張ろうね!
附記:24日午前1時半に記す。


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2011年07月20日

ミニSLに乗るマチ・クマを見て嬉しかった!

今回の帰国は40日間の長期滞在だったので、「ミニSL・関屋鉄道」にも乗車させていただくことになった。
今月の走行日は17日ということで、日曜日は教会から帰って大人もみな昼寝して夫を除くみんなで出かけた。夫は帰宅した時もまだ眠っていた。ムード

関屋鉄道@.jpg

私には真智が31歳になろうが経済学者になろうが、小さいときの真智のままだ。お姉ちゃんが楽しそうにしていたら真智にも楽しませてやりたい。

今日は機関車に乗った知子と真智子の喜ぶ顔を見て、私はとてもとても嬉しかった。特にこの日の朝は、不適切な言葉で真智の心を傷つけてしまったから。
ごめんね、真智。
常にイエスさまと一緒の真智に神の豊かな祝福あれ!


関屋鉄道A.jpg

昨夜教わった写真のトリミング第3作目。
7月11日の記事にも昨夜写真を掲載した。

関屋鉄道B.jpg


関屋鉄道のオーナーさんと.jpg

これが関屋鉄道の社長さんだ。

ユキと知子は3度目だが私は今回が2度目で、初回のことは過去ログに記録している。
http://yukochappy.seesaa.net/article/141128585.html

この美しい邸内を何周も走って下さり何度乗ってもOK!
しかも無料なのだ。
ご自身のお好きなこととは言え、他者のために庭を開放して楽しませて下さる○○さんの上に神の祝福がありますように祈った。

翌18日の祝日(海の日)は長女と次女と私の3人で買い物に出た。
50代から70代の母親が、結婚した娘と待ち合わせて買い物や食事に行く光景は私の憧れだったのかもしれない。

母は難病になってしまったから数回しか行けなかったので、母の闘病中や亡くなってからも同じ年恰好の親子を見ると羨ましくて、私はじっと立ち止まって悲しい気持ちで見ていたものだ。

そして、近年は母側の立場で見ているのだが、娘がアメリカ住まいとあってはこれまた断念するしかなく、それゆえに18日は嬉しかった。

両手には長女と次女!
これぞ娘をもつ母親の喜び!


しかし、クタクタになるまで(知子の万歩計によれば約7キロ)歩き回ったのに、買ったのは真智子のスーツ1着と色違いのボトム(私流にはズボン)にスカートなど5点だけで、カジュアルな服は気に入ったのが見つからず知子にも何も買ってやれなかった。

とは言え、真智子のスーツ購入は今回の第一目的だったのでよかった。
アメリカでは真智子のサイズだと「0(ゼロ)」サイズで、スーツだけは今後も日本で調達することになるようだ。

入社(?)すると2ヵ月後の11月に初めてのミッションが控えており、担当するエリア(国名)も伝えられてきた。

真智子はお気に入りのスーツをゲットして「これで大臣に会える」と笑ったので、「日本だと大臣はコロコロ変わるけれどね」と笑うに笑えぬジョークを返したが、あと3週間でまたアメリカへ行ってしまうのかと私は残りの日を数え始めている。

 
附記:原発事故により日本全国節電一色であるはずなのに、難波にあるTデパートでは全くその意識すら感じられなかった。歩き回っているのに何時間もいると体が冷え切ってしまうほどに冷やしていた。

今や誰でもがコンセントの向こうにはフクシマがあり、日本の危機的状況を感じながら生活しているというのに何たること!
地下街の店の中にも異常なほどに明るい店内(有名チェーン店)があった。

デパートに苦情を伝えるにもクタクタでそのまま出てきてしまったが、せめて我がブログを通して訴えたい。


posted by 優子 at 10:04| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

驚くべきユキの祈り

7月5日の夕食前のお祈りの時のこと、ユキは一人ひとりが祈るようにと言ってきかなかった。そこで席順に真智子、太志君、私、夫、知子の順に祈り、最後にユキが祈った。

「イエッしゃま、今みんながイエッしゃまできたことを感謝しましゅ。
おばあちゃんとマチとフーがけんかしてましたけれども(これは先に祈った夫の表現)仲直りできましたことを感謝しましゅ。
このお食事をイエッしゃまの・・あっ、違う!まちごえた(まちがえた)。おばあちゃんがごはんちゅくってくれたことを感謝しましゅ。このお祈りをイエッしゃまのお名前を通して御前にお捧げします。アーメン」。


一同、唖然とし言葉なく、夫はただただ感じ入っていた。
もはや「素晴しい」という表現さえ不適切で、まさに聖霊が祈らせて下さったと神の御臨在を感じた。私はこの幼児(おさなご)の信仰を通して導かれること度々だ。

16日にユキが整形外科を再診しX線検査をした時のこともそうだ。
14日早朝、ユキは目覚めと同時に「痛い!痛いよう!足が痛いよう!」と泣き叫んだ。コブラ返りかと思って親指を反らせたりしたが見当はずれだった。

まもなく激しい痛みは嘘のように治まったものの痛みが完全に消えたわけでもなく、「足をこうすれば痛いねん」と自分からわかり易く説明するユキの成長に目を見張りながら心配は続いた。

その日も日常と変わりないしぐさだったが、知子は父の帰りを待ってすぐに整形外科を受診させた。診断は「単純性股関節炎」。3歳から5歳までの男の子に多いそうだ。

その初診時、X線検査のため薄暗い検査室で一人になった時のことを知子があとで尋ねると、ユキは次のように答えた。

「イエッしゃまが見ててくれると思ってたから、ユキちゃん、暗くて一人でもこわくなかったよ」。

「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない」。(マルコによる福音書10章15節)

イエスさまのお言葉がX線のように私の骨の髄にまで届いた。幼児のように常に謙虚で純粋な心でいられたらどんなに幸せなことだろう。 

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年07月17日

原発、問われる後代への責任

今朝の礼拝は3週間ぶりに出席するはずだったが、今朝になって私だけが欠席することになった。ちょっとした家庭内争議と高血圧ゆえの理由である。奏楽のご奉仕にあたっていた長女はもとより、次女たちもとにかく教会へ出発した。

礼拝後の「交わりの会」も今月はユキ(孫)の誕生月ということもあって出席し、外食して2時前に帰宅した。

私は長女に持ち帰ってもらった3週間分の印刷物に目を通し、今日発行された『馬見労祷教会報』(217号)を興味深く読んだ。

今月号は6月に開催された京大原子炉実験所見学に参加した方々の感想が掲載されている。私も参加したかったが孫の世話があるので断念した信徒研修会の報告である。
そこには次のようなことが書いてあった。

・世界には広島級の原爆120万個分の核廃棄物がある。

・原発により生み出される放射性廃棄物は何百年にも渡って管理する費用が必要であり、事故による放射能汚染の損害まで加算すれば、途方もない負の遺産を後代に押し付ける。

・福島原発事故で4月5日までに放出された放射性物質は63万テラベクレルで、広島原爆の約200個分、チェルノブイリ事故の3分の一の放射性物質が海・空・大地に流れている。
戦時中の大本営発表と同じような情報隠しではなく、国・東電・マスコミは真実の情報を知らせて欲しい。

・神は原子力の「平和利用」を許すだろうか。・・・(このような)恐ろしいものを人間が利用しようと思っていることこそ紀元前の「バベルの塔」の話とどこが違うだろうか。

・協力会社という名の下請け労働者は「原発ジプシー」と言われ、定期点検ごとに各地の原発に移動し、今もフクシマの最前線に立っている。


など、その一部しかご紹介できないが、そもそも「原子力の平和利用」ということ自体問い直すべきではないだろうか。
それが医学の分野であっても「欲望の医学」になっていないか、生命倫理だけではなく科学倫理を考え直さねばならないと思った。

私は教会報の編集委員の一人で(実質的には全て牧師がやって下さっている)、今月号の番に当たっている「あとがき」を次のように刻ませて頂いた。

このたびの福島原発事故以来、ある人の言葉が私の心に強く迫っています。
「知らないことは罪である。知ろうとしないことはもっと深い罪である。知っていながら行動しないことは、もう罪悪です。黙っていることは、現状を容認することになるのです」。
私たちは今までの傍観的な生き方から決別せねばなりません。今月号は京大原子炉実験所見学についての特集です。この教会報を神さまが豊かに用いてくださいますように祈ります。(F)

ここに書いた「ある人」とは、私の社会性を目覚めへと導いて下さった本畝久子氏である。
http://yukochappy.seesaa.net/archives/20061005-1.html
20世紀は進歩だけではなく多くの大きな過ちをおかした時代であった。今こそ方向転換する時であり、私たちは社会改善のために時間を割く者でありたい。

posted by 優子 at 23:59| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2011年07月14日

40年ぶりに『黒い雨』を開く

原爆資料館で「黒い雨」のあとを見て井伏鱒二の『黒い雨』をもう一度読みたいと思って久々に開いた。

この本が出版されたのは1970(昭和45)年で、その翌年の大学2回生の時に庄野英二氏(児童文学者、父は帝塚山学院の創立者・庄野貞一、弟は作家の庄野潤三)の日本文学作品研究で読んだ。

この授業では、毎週1冊読んでくる課題図書があり全員が読後感を述べる授業形式だった。このたび手にするのはたぶん40年ぶりだと思う。

私がその時に述べたメモ書きには次のようなことが書いてあった。
井伏の描写力はすさまじい。本を読んでいて何回顔をそむけたかわからない。

「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の平和より不正義の平和の方がいい。」
これは原爆を体験した人だから実感をもって言える言葉である。

アメリカは何のために原爆を落としたのか!!
心から憤りを感じた。

人間は容易に過去を忘れて現実を受け入れていく。憎しみについてはそうでなければ生きていけないだろうが、この地獄は忘れることなく生かさねばならない。

この地獄を伝えていかないと私たちは忘れてしまい、いつかまた人は同じ事を繰り返すだろう。人間とはそういうものだ。

日本人が一体となって平和を叫び、核兵器を持つ国を無くならせることが、原爆を知っている日本人の責任であると思う。

『黒い雨』を簡単に拾い読みしただけだが、主人公の名前もよく覚えていたほどに強烈な作品であり、40年の人生経験を経ての感想の骨子も19歳の時と変わっていない。

井伏鱒二の描写の凄さとは、たとえば原爆投下直後に亡くなった人々を兵隊たちが戸板やトタン板で運んで穴の中に放り込むところもそうだ。(新潮文庫・昭和46年10月5刷・P165〜166)

穴ぼこに死体が多すぎて焔が下火になると、穴のほとりへどしりと死体を転がして行く。その弾みに、死体の口から蛆のかたまりが腐爛汁と共に、どろりと流れる出るものがある。

穴のそばに近づけすぎた死体からは、焚火の熱気に堪えきれぬ蛆が全身からうようよ這い出して来る。なかには転がした弾みに、関節部に異変の起きたものがある。

たとえば童話のピノキオが、関節部の留釘を抜きとられたことのような始末になってしまう。ピノキオは板と留釘とで組立てられた玩具だが、それでもなお臑(すね)を何かに打ちつけると、自分が木であるからして痛さを感ずるそうだ。況(いわ)んや死体は生前には人間である。

「この屍(むくろ)、どうにも手に負えなんだのう」
トタン板を舁(か)いて来た先棒の兵がそう云うと、
「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」と相棒が云った。

僕がこの場で聞いた人間の声は、トタン舁きの二人の兵が交したこの言葉だけである。そのトタンの上の死体は、ピノキオの留釘をすっかり抜きとったようにして纏(まと)められていた。

僕は思わず知らず「白骨の御文章」を口のうちで誦(とな)えていた。
広島はもう無くなったのだ。それにしても広島という町が、こんな惨状で末路をつげるだろうとは思いもよらなかった。

この授業で庄野先生が言われたことは:
「井伏はレンズが捉えるほどによく書き取っており綿密である。
あらゆるところにオトボケのような井伏のユーモアがある。井伏の文学を読む時はこれを考えること」。


また、「宝石箱をひっくり返したような輝かしい青春を持とう!」と言われた庄野先生の言葉を40年ぶりに思い出した。作家らしい表現と内容に感銘を受けて走り書きしたメモがノートの欄外に残っている。
そして、そのような青春時代でありたいと願いつつ20〜30歳代を過ごしていた。

ウィキペディアによれば、庄野先生は「BC級戦犯容疑をかけられたが、佐藤春夫がマッカーサーに宛てて書状を送ったため釈放される。」とあるので、特に青春への熱い想いがおありだったのだろう。

1993年に78歳で亡くなられているので、指導していただいていたのは先生が56歳の頃だ。返却された提出物に懐かしい「Eiji」のサインが残っている。学内に掛けられていた絵画のサインと共に懐かしく思い出される。

私の持ち時間もそう長くは残っていないから、少しでも多く黙想し思索する時間をとりたい。

最後に『黒い雨』の中で何度も出てくる「白骨の御文章」を読んでみたい。これは浄土真宗の葬儀で何度も聞いたことがある。

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。

されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露(つゆ)より繁しと言えり。 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。

されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ」。


これを読むと底なしの虚無の悲哀に落ち込んでいくが、私はまことの神と出会い、イエス・キリストと共にある平安と希望の恵みに感謝があふれる。

この世の旅路を希望をもって生きがいある歩みとして下さるために与えて下さった信仰、これ以上の大いなることはない。より良き日々を生きたい。

posted by 優子 at 18:14| 文学 | 更新情報をチェックする

2011年07月13日

次女の結婚5年を経て真智子への想い再び

昨夜はフー(次女の伴侶)が故障中のパソコンを修理してくれた!
私たちがミネソタへ発つ直前の4月25日に突然に電源が切れて壊れてしまったパソコンだ。留守宅の長女と連絡取れなくなっては困ると、あの時すぐに電器店へ走ったのだった。
もう寿命だと諦めていたのに婿殿は見事修理してくれたのである!!!

002.JPG

故障の原因はハードディスクかと思っていたそうだが、電源を入れるとパソコンがひどく熱くなっていたのでファンが回っていないことに気がついたという。

そこでファンを取り外して掃除をしてくれた。写真に撮るのを忘れたが、パソコン本体にもファンにもホコリがたくさんたまっていた。
PC分解掃除.jpg

そして、ハードもチェックしたところ全て問題はなく、ホコリが故障の原因だった。毎日掃除していてもあれだけたまるのだからびっくりした。
「ありがとう思い出」がまた一つ増えた。

マチ・クマ(フー)は帰国中も我が家からIMFと連絡を取っているが、IMFはセキュリティが非常に厳しく毎回パスワードが違い、トラブルもあって何度か電話もしている。

勤務に先立っての引越しの費用はIMFが負担してくれるが、なにぶん異国への荷物ゆえにアレもコレもというわけにはいかないだろう。

今日はダンボール箱ひと箱分くらいの食器を選び、マチは午後も書籍類の整理にとりかかっていたが、私は相変わらず血圧が高く体調も悪いのでユキと一緒に昼寝した。

※ しかし、左目は昨日より回復著しく、今日は殆ど分からないほどになり、赤色のあとの黄みがかった色も殆ど消えている。

赤黒いレバー肉を貼り付けたような赤い目が6日間ほどでほぼ回復した。自然治癒力を与えて下さっている神さまと、祈って下さった方々に感謝します。


次女夫婦は先月結婚5周年を迎え、今ようやく真智子にも少しだけでもアレコレしてやれる嬉しさをかみしめながら今日は楽しい時間を過ごした。

しかし、嬉しさばかりではなく5年前の淋しさもよみがえった。
来月11日の出国までにワシントンの新居へ引越し屋さんから荷物を送リ出すことになり、私はもう一度真智子を手放さねばならないさみしさを味わっている。


娘のカメラにあった写真から卒業式の朝のスナップ。

卒業式の朝.jpg

ミネソタの家で。


posted by 優子 at 23:51| 真智子(ミネソタ便り) | 更新情報をチェックする

2011年07月11日

4歳のお誕生日、おめでとう!

昨日は神戸の叔父の13回忌の法事だった。
私はずっと血圧が高く体調も悪いので脳溢血になっては大変と前夜まで出欠を迷っていたが、息子(私の従兄弟)を亡くした叔母を慰めたく祈りつつ行ってきた。

今日は4才の誕生日.jpg 

そして今日、幸悠(ゆきひさ)は4才になった!
これは今日の幼児教室で水遊びをしているところだ。

初めてのトリミング.jpg

7月19日夜追記: ↑ これは初めてトリミングした写真。
切り取り方を教えてもらったので使える写真が多くなる。
ありがとう、真智!
以下の写真も本日追加した。
 

今日も血圧が高いので幼児教室には次女夫婦が連れて行ってくれたものの、ひと足遅れて私も行った。マチ・フーが居るのに休んでなどいられなくて!
マチとユキA.jpg

「川が流れている」と喜んだユキ.jpg

見学にこられた自治会長Kaさん(3年目も御奉仕して下さっている)と、この会の主催者で私のあとを引き継いで下さった地域福祉推進委員長のKiさんともいろいろお話できて楽しかった。

幼児教室の光景.jpg私はどこでしょう? 目
自治会長さんと話しています。

Kiさんも小学校教師であられたので、私は自己紹介のつもりで小学校のPTA広報でペンを奮っていた頃の『ふじとニュース』をお渡し、香芝市でも小学校の先生方の研修会で講師として立たせて頂いたことなど話が弾んだ。やはり教育に関する話には熱くなる。

今ではユキもすっかり自治会の中で認知していただいている。ユキのためにも私らしく積極的でありたいと思う。

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年07月09日

広島への旅(最終回) 

昨日関西の梅雨が明けた。広島へ出発したのは先週のこと、早いものでもう1週間経った。
朝の厳島神社.jpg

↑ これは3日朝7時前の厳島神社付近。

早朝の回廊で.jpg

知子とユキが神社に入ってまもなく土砂降りの雨になった。梅雨空の予報だったものの幸いにも雨に降られたのはこの時だけだった。

宮島桟橋からJR宮島航路で約10分間ほど船に乗ると宮島口桟橋に着いた。そこから広電に乗って広島・原爆ドーム前まで行った。

JR宮島航路の船上にて.jpg

広電宮島駅.jpg

広島moverA.jpg

「ここはミネソタ?」「ノー」

広電の中にはミネソタで乗ったようなおしゃれな電車がたくさん走っていた。「ムーバー(mover)」と呼ばれていた。

広島mover.jpg

 広島の町は美しかった。
緑が多く実に実に美しい町だった。


美しい広島の町.jpg

町はあまりにも美しく、地獄の苦しみを死んでいった人々を思って悲しみが極まった。
昼食を摂った店で隣りの席に座られた女性がこう言われた。

「原爆資料館へ行って下さったのですか。ありがとうございます。私は2〜3度、入ろうとしましたがどうしても中へ入れませんでした。そして、あの時のことは何も話したくないのです。どうか核廃絶を訴え続けて下さいね。」

と、原爆を経験した80歳前後の2人の女性は口を揃えて言われた。この旅を機に考え続けていきたいと思う。本も読みたい。

アメリカ社会の中で生き国際機関で働くマチ・クマにとっては、日本人としてのアイデンティティも再確認させられたことだろう。

今回の旅は欲張りすぎてじっくり時間をかけることができなかった。宮島を回るならば2泊必要だ。

帰りの新幹線の中で、「出版大手3社の新書すべて電子化される。全体の2〜3割にあたる400点」と字幕が流れ、夫は深いため息をついた。
「出版の一部ではあっても紙業界は厳しいなあ〜」。
確かにお先真っ暗である。

このたびはKNT(近鉄)ツーリストのT所長さんにはお世話になった。Tさんは営業マンの模範だと思った。今後も是非お世話いただこうと思うし、この方ならば自信をもって知人友人にも紹介できる。懇切丁寧なサポートを頂いて素晴らしい旅になったことを刻んでおきたい。

現地のコンダクターを務めてくれた良輔さんもありがとう!
お疲れ様でした。揺れるハート

附記:
6月22日に股関節の手術をされたNさんが、今から退院すると9時過ぎに電話があった。すごい回復ぶり!どの疾患もこのようであればいいのにな。

昨夜のユキのお祈り:
「イェッしゃま、おばあちゃんのお目々を治して下さい。いつも治してくれないけれど治してください。・・・」と祈り始めたのでびっくりした。
体調が落ち着いたらユキのページに書きたいと思う。


posted by 優子 at 10:32| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2011年07月08日

広島への旅 D ―ユキと知子に起こったハプニング―

さて2日夜の散歩では回廊や鳥居は再び潮が満ちて海の中にあった。

ユキにはガイドさんの説明など面白くないものだからウロウロするので目を離せない。私もまたユキに気を取られて途中から説明を聞くことができなかった。

鳥居を前に腰をかけておられる外国の若い女性がウロウロしているユキに声をかけられた。ニューヨークから来られたアメリカ人家族のお一人だ。

この日、広島到着を前に新幹線のドア付近に居た時のこと、外国のビジネスマンが笑顔でユキに手を振ってくださっているのに、ユキは恥ずかしくて恥ずかしくてママ(知子)に抱きついて顔を隠していた。

そのうちにママに励まされて" hello "と言い、" my name is Yukihisa."と言った。その人は持っていた小さな手提げ袋を" candy "と言って差し出して下さった。中には焼き菓子(マドレーヌやフィナンシェ)が入っていた。

ユキはママに促されて" thank you." と言ったが、この一言はユキにとって大きな冒険だったに違いない。幼児なりに自信につながる充足感を感じていたのが私にもわかった。

こうした朝の経験があったので、鳥居の前でははるかに短時間でリラックスして外国の人と接し始めた。その方々は日本語は全くわからないアメリカ人家族だった。

私はひたすら灯籠の影に隠れて見ていた。(^ー^)宮島ナイトのハプニング.jpg以下は知子から聞いたことである。

アメリカ人の第一の疑問が「英会話の学校へ行っているの?」であり、お連れの3〜4人からも聞かれたほどユキの英語に驚かれたそうだ。勿論、行っていないが、ユキが英語に関心を持っているようなので5月初めから英語の歌をかけて聞いているが。

知子がそのことを説明すると、「本当に5月からなの? すごい! 本当に信じられない!」と驚嘆されていた。

ユキも自分の英語が「英語の人(アメリカ人)」に通じているので嬉しいらしく、「ママ、しゅごいね(すごいね)。ママ、しゃべっていたね」と、ママのことも誇らしげだった。

この翌日に私はヒロシマを目の当たりにし、この夜のことを思い出して複雑な気持ちになった。
この方たちは福島原発事故が起きているこの時に日本へ来てくださったのであり、広島にも立ち寄っておられるに違いない。このあと京都や奈良にも行かれるそうだ。

戦争が人間を狂わせる。
日本は被害者であり加害者でもあるのだ。
附記:この記事と次の記事は昨日書いたもので、見直さないまま掲載した。

というのは、昨日はマチ・クマが一日外出していたので長い時間パソコンの前に座っていて、そのせいで非常に疲れてしまった。

その関係だと思うが、今朝目覚めた瞬間に左目に違和感を感じて鏡を見ると真っ赤になっていた。血圧は175/101もあった。結膜下出血.jpg

タクシーを呼んで真智子の同伴で眼科を受診した。結膜下出血と言われ、心配ないものだが全体に濃く広がっており程度は重いとのこと。
処方された薬はアドナ錠30mg、「毛細血管を補強して抵抗力を強め、出血を止める薬」を毎食後1週間服用。

頭痛もあり体調が悪いのでタクシーを呼んで頂いて内科(主治医)も受診した。素人判断で薬を飲んだり飲まなかったりして血圧のコントロールができていなかったのが要因だったようだ。

1週間後に眼科と内科共に再度受診することになっている。帰宅してすぐに会社に電話して夫と知子に安心してもらった。

この日は先月から始まった月1回の幼稚園(10時から45分間)で、帰宅した時太志君たちも帰ってきたところだった。太志君はユキを連れて行ってくれたのだ!
フーが連れて行ってくれた「幼稚園で遊ぼう」.jpg(7月19日夜・写真掲載と追記)

フー、ありがとう。ユキ、よかったね。
こんな叔父ちゃんがいてユキは幸せね。

7月12日追記:
今日、ニューヨークへ戻られたアメリカ人から知子にメールが届いた!

posted by 優子 at 20:44| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

広島への旅 C ―宮島でのハプニング・良輔編―

1時間しか取れなかった大和ミュジアムの見学もソコソコに、すぐ横の呉港から瀬戸内海汽船と高速船の瀬戸内ライナーに乗って宮島へ渡った。

呉港.jpg 

みんな揃って" MINNESOTA 5 " (ミネソタ 5)!

呉港にて.jpg


瀬戸内シーラインの客席.jpg

瀬戸内シーラインで.jpg
 
「宮島グランドホテル 有もと」にチェックインしたのは4時過ぎだった。神社は早朝6時半から開くので、知子は明朝見学することにしてユキを寝かせた。

旅館から厳島神社の入口まで徒歩で3〜4分とは言え、夕食までに神社を見学する予定なので一息ついてすぐに出かけた。

宝物館が締まる5時まであと10分余り。神社の入口で教えていただいた通りに、私たちは一番奥にある宝物館を目指して回廊をまっしぐらに突進した。

宝物の中で最も印象に残ったのは小林千古画伯の絵画(『誘惑』)だったが、歴史ある神社の宝物館としてはまとまりのない収集のように思った。
とは言え、時間も短いうえに見落としの多い私のことだから的はずれな感想で当てにはならないだろうが。

厳島神社.jpg  

厳島神社@.jpg

干潮時の鳥居.jpg
 
海に浮き上がって見える鳥居と違って干潮時の風景も面白い。ここもどこも回廊下にも蟹がたくさんいた。

干潮時の厳島神社鳥居.jpg
 
ところで、旅館玄関前の出迎え札(?)にあった「国際印刷・・」の名前を見てビックリ! 夫に聞くとやはり美濃紙業の関係会社の方々だった。

 お風呂のあと夕食を終えて部屋に戻ろうとしてエレベーターに乗ろうとしたら、がく〜(落胆した顔) ふらふら ちっ(怒った顔) もうやだ〜(悲しい顔) こんなところで会ってしまった!

夫たちは爆笑して挨拶を交わしているが、とにかく私は素顔だったから逃げ出したかった。こんな年になっても気にするなんて、私も女なんだなあ〜〜〜〜。

Nさんは私たち以上に驚かれたことだろう。
初対面のNさんに続いて、翌朝には父の会社で長年働いて下さっていたMさんにもお会いできた。父の葬儀に来てくださって以来だから11年ぶりの再会だ。

私の年齢をお聞きになって驚かれたMさんもすっかり白髪になっておられた。私たち夫婦もこれから加速度を増して老いていくのだろう。父が生きていたら86才の夏である。


夕食後はアップライトされた厳島神社付近をガイドさんつきで散歩した。そこでユキと知子にアメリカ人とのハプニングがあった!
                     (つづく)

posted by 優子 at 14:32| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2011年07月06日

広島への旅 B ―大和ミュジアム見学―

広島と話は前後するが、広島に到着後すぐに在来線に乗り換えて呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)へ向かった。呉は戦艦「大和」を建造した軍港があった所である。

広島に原爆が落とされた時、呉からもキノコ雲が確認され、すぐに救援隊や調査団が派遣された。そして、この人々が日本で最初に原子爆弾の存在を確認することになる。

アメリカの絶対優位の量に対して日本は質で対抗して「大和」を建造した。不沈艦にするために徹底的な検証が行われ、ブロック建造法、弱電技術、・・・などの技法は後の自動車製造の基礎となった。

「大和」は当時の最新技術の結晶で、世界各国の戦艦との比較でも日本が群を抜き、史上最強で最大の戦艦だった。戦機ではあるが私は日本人の有能さに胸が熱くなった。

そして、1940年8月8日に進水し、その翌年に開戦。
戦線の拡大、後退、最終局面と、見学順路が進んでいくうちに胸が締め付けられるような痛みを覚え呼吸するのが苦しくなった。戦争は狂気だ。若者たちは20歳やそこらで死んでいったのである。

戦後、呉市はアメリカ連合軍に進駐されイギリス軍に統治された。
そして、旧海軍施設を平和産業の転換に命運をかけ、企業誘致が軌道に乗って1951年に国際社会への復帰を果たした。

世界最大のタンカーを数多く建造して世界一の造船国となっただけではなく、「大和」の建造技術は自動車や家電製品の生産に活かされ戦後日本の復興と近代化に大きく貢献してきた。

大和ミュジアム@.jpg

10分の1の戦艦大和の前で

「大和」は1945年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途上で米艦載機の攻撃を受けて沈没した。
その関連記事として、過去ログ・2010年9月21日に「平和を考える―大和戦艦帰還兵・吉田満の場合―」がある。私はそれらのことを思い出しながら館内を見学していた。

その一部をここに引用転載したい。
戦艦大和の生還者・吉田満について次のようなことを話された。

総勢3332名の乗組員を乗せた戦艦大和に下された命令は、片道の重油だけを積み護衛機一機もつけないで沖縄出撃しなければならない無謀な作戦だった。

果してこのことにどのような意味があるのか、「真の作戦目的」は何かと、第2艦隊司令長官だった伊藤中将は大本営に訴えた。

すると、「要するに君達には死んでもらいたい。一億玉砕したということで士気を高めるために立派に死んでもらいたい」と通告された。

伊藤長官は納得したが、一つだけ自分に権限を与えてほしいと訴え、作戦の中止命令を自分に与えてほしいとの求めだけは確約された。

そして、100機以上の爆撃を受けて、ついに作戦中止命令を出し、「生きている者は海に飛び込め!」という英断で、1割にも満たない200数名ではあるが生き延びることができたのであった。伊藤は大和と運命を共にした。

生き残った吉田満は『戦艦大和ノ最期』を書き遺した。

http://yukochappy.seesaa.net/archives/20100921-1.html)には、戦後、吉田がクリスチャンになったことや死に際の言葉など興味深く読んでいただけるだろう。

                      (つづく)

附記: " museum " の発音は" mjuːzi'əm "で、カナ表記は「ミューズィアム」や「ミュージアム」と書くが、私の感覚で「ミュジアム」としている。

posted by 優子 at 17:03| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2011年07月05日

広島への旅 A ―広島の地獄と米国の大罪に絶句―

原爆が投下された当時、広島には35万人の人々が暮らしていたが、その年の終わりまでに14万人が死亡した。

キノコ雲は高度12000メートルにまで達し、直径280メートルの火玉は「小型の太陽」のようだった。中心温度は100万度を越え地表温度は4000度、屋外にいた人々は一瞬にして炭になった。
「内臓組織に至るまで全身の水分が蒸発・炭化した遺体が道路などに大量に残された(ウィキペディア)」。

爆心地から600メートル離れた場所でも2500度で、屋根瓦は溶けてブツブツの泡状になり、3.5キロメートル圏内の人々が火傷を負った。

気圧は10万気圧にも達し、爆心地から500メートル離れた地点の爆風圧は1平方メートルあたり19トンの力で、秒速440メートル。これは音よりも100メートル早い速度であり、爆風は半径2キロメートルまでの木造を一瞬にして全て壊滅させた。

体中に火傷を負い皮膚が垂れた人々を絵で見ていたが、それは4000度もの熱線で被爆し高圧力の爆風で叩かれたためであったとは! 

何という地獄!
何という苦しみ!


川を覆い尽くした遺体が川の干満により再び戻ってきた時には、内蔵が発酵して腹部はパンパンに腫れていた。
遺体を地上に上げるのに2週間、火葬するのに1ヶ月かかったという。

瓦礫や焼けた遺骨は拾いきれず盛り土を入れただけであるから、私たちが立っていた一帯は墓なのだ!


以上は、原爆ドーム周辺でボランティアガイドをしておられる三登 浩成氏(65歳)からお聞きしたものである。氏はお母さんが妊娠4ヶ月の時に広島市に入られた体内被曝2世で、お母さんは93歳で今もご健在であり、お父さんは爆心地から3キロメートルの所で被爆されたが93歳まで生きられた。

現在、被爆者手帳を持っている人は22万人、平均年齢は77才である。原爆のようにはっきり起こったものでも因果関係を認めてもらえずに却下された人も多い。

真実を語り継ぎたいとの志で活動されている氏は、アメリカへの遠慮ゆえにかメディアや資料館にも触れられていないことを氏のブログ『広島の視線』(http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/folder/811757.html)に詳しく書いておられるという。

これまで嫌がらせや圧力がかかった経験はないというが、三登氏の勇気ある活動に感謝と励ましを贈りたく心ばかりカンパした。
                       (つづく)

附記:今朝、今夏初めて蝉の鳴き声を聞いた。7月1日には上本町(大阪)でも聞いた。

旅行前日のこの日、千里さんと上本町で待ち合わせてNさんのお見舞いに伺った。Nさんは術後8日目にして杖を片手に普段と変わらぬ速さで歩いておられる回復ぶりだった。感謝!

この日、マチ・クマにユキを預けて平日の外出は9ヶ月ぶり。千里さんとも1年7ヶ月ぶりの再会で共に年齢を感じさせた。25年来の友との交わりは子供たちが小・中学校時代だった頃を思い起こさせた。

posted by 優子 at 23:00| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

広島への旅 @ ―「未来の世代への責任」より―

出不精の私が今年2度目の旅に出た。
帰国中の次女夫婦も共に1泊2日の広島への旅は、ミネソタ旅行に続いて意味深く忘れられない旅になった。

広島は数年前から次女共に候補地に上がっていた。次女は中学校(東大阪市在住時)の修学旅行で一度訪ねているが、私は今秋で60才にもなるというのに未だ広島を知らないのだ。

そこで昨日は呉の大和ミュジアムを見学して宮島で一泊し、今朝再び広島へ戻り資料館を2時間かけて見学した。

今すぐにでも感じたことを書き始めたいが疲れているので、過日6月18日のクリスチャンペンクラブ例会で発表した文章から読んでいただこうと思う。
実際に広島を訪ねての感想もここに書いたことと同じであり、活字になる時はもう少し加筆しようと思っているので公開した。

未来の世代への責任
             
このたびの東日本大震災の死者・行方不明者は2万人を超え、津波は人々が営々として築いてきたものを根こそぎ奪い去った。壊滅した村や町は瓦礫と化し、記録写真で見た戦後の焼け野原のようだった。そして、福島第一原子力発電所の事故は世界を震え上がらせた。

被災していない私たちでさえこの現実が受け入れられず、しばらくの間は毎朝目が覚めれば、あれは悪夢だったに違いない、悪夢であってほしいと願い、テレビをつけてはその現実に呆然とする日々だった。

「フクシマ」が世界の言葉になり、あれから3ヶ月過ぎた。原発では日夜2500名もの人々が命がけで作業をしてくださっているが、未だ深刻な状況から脱していない。

日本は「ヒロシマ」と「ナガサキ」を経験した唯一の被爆国なのに、原発事故を起こすとは何という特異な国なのだろう。

先日、カタルーニャ国際賞を授賞した村上春樹氏は、「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった。」と授賞式のスピーチで語っておられたが、ヒロシマとナガサキはずっと叫び続けていたのである。

しかし、被爆国の当事者であるにも関わらず、多くの人々が傍観していたために悲惨な体験を生かすことができなかったのだ。私も例外ではない。


日本は戦後10年に原子力基本法を成立させ、いつのまにか世界第3位の原発保有国になっていた。私はそんなことさえ知らなかった自らの無関心さを恥ずかしく思う。

せめて今からでも主体的に考え、同時代に生きる人間としての責務を果たしたいと願う。その責務とは、批判に臆することなく「原発反対」の声を上げることだ。

今や人間は核爆発で地球を破壊するほどの力を持ってしまった。そもそも地球上に存在しない物質を作り出し、それを廃棄することもできず脅威にさらされている私たちの姿は、あまりに深刻すぎてブラックユーモアにもならない。


青森六ヶ所村の原発再処理工場で大事故が起これば、北半球で人は生きていけなくなってしまうという。この現実にありながら今も、「反原発は集団ヒステリーだ」と公言する政治家もいるのである。

原爆の地獄を経験した日本は、日本独自の道を歩むべきだった。人は間違いを犯しやすいが、間違いに気がつけばそれを認めて方向転換することだ。

これまでの政策批判だけではなく、私たちもまた連帯的に責任を負わねばならない。即ち、今より傍観的態度と決別し、自分の問題として考えることだ。

日本の未来はもとより、世界の未来は今の大人たちに託されているのであり、私たちには未来の世代への責任を負うている。

一人ひとりがヒロシマとナガサキの人々に連なって、被爆国日本のメッセージ伝えねばならない。子や孫に、日本のために、世界のために、全ては神のために果たしていきたい。
核廃絶を訴え続けることは全ての日本人の使命である!
このことが広島で感じたことの最たるものであった。

原爆ドーム@.jpg

※ カテゴリは「JCP関係」ではなく「夫婦・家族」にした。

posted by 優子 at 22:59| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする