2011年10月31日

ユキの感動表情ルポ

今日はユキの真剣さと感動に感動した。
遅い昼食を終えてテレビのチャンネルを回していると、犬と猫が激流に流されている映像に目が止まって見始めた。

あとで調べると1993年のアメリカ映画『奇跡の旅』だとわかった。
ゴールデン・レトリバーの老犬シャドウとアメリカン・ブルドックのチャンス、そして、ヒマラヤンの猫サシーの冒険の旅だった。

私は途中でかつて(1963年)映画化された『3匹荒野を行く』だと思い出した。帰宅した長女にいつものように今日の出来事を話していた時、「本棚にもあったよ」と言われて思い出したのだが、そういえばここ何年間もこの本を見たことがない。

ユキと私は時間を忘れて最後まで見た。
見始めてすぐ、「この人たち、どうして日本語しゃべってるの?」とユキが聞いた。外国人が日本語を話しているのが不思議なのだ。私は音声を切り替えて説明した。

動物が話していることも不思議に思っているのではと聞きたかったが、あまりにも真剣に見つめているので邪魔をしたくなかった。ユキのこんな真剣な表情を見るのは初めてだった。

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見入るA.jpg

見入るB.jpg

3つめの写真は、老犬シャドウが帰ってきたラストシーンだった。
そのあとの長いエンディングの間も身動きしないで見終わって、最後にこう言った。
「おばあちゃん、涙が出てきたわ。悲しいからと違って、シャドウが帰ってきたから嬉し涙が出てきた」
と、涙で少し潤んだ目を手で拭いた。

私はユキの感情の動きに感動した。
人間は4歳にもなればここまで知情意が発達するのである。この感動がユキの内部で発火し、より高いもの、深いものへと繋がっていき、人格が造り上げられていくのである。


時計は2時半をさしていたが、お昼寝の前にユキと一緒に我が家のチャッピーを見に行った。
チャッピーは前足を伸ばして大きく伸びをした。パーキング生活にもすっかり慣れて寝ていたのだ。犬

posted by 優子 at 21:24| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

ああ60歳! ―ペン友から届いた言葉の花束と知子とユキの愛情料理―

優子さん
いま、ブログを読んで感激しています。
お誕生日おめでとうございます。
ご家族の温かい愛に囲まれて幸せですね。愛が伝わってきて、わたしまで幸せな気持ちになりました。

真智子さんのおっしゃるとおり、優子さんのブログに励まされている人はたくさんいることと思います。
わたしもその一人です。
メッセージ入りのマッサージチェアー、すてきですね。
優子さんのお身体を思いやるやさしい気持ちがこめられていますね。

これからも健康が守られて、よき執筆活動ができますように、
主の恵みが豊かにありますようにお祈りします。

昨夜、クリスチャン・ペンクラブの友からも「言葉の花束メール」を頂いた。昨日のバースデーカードに続いて神さまからのプレゼントを心深くに刻んだ。

私は文書伝道者に選ばれている神さまの召しを強くされている。加齢と共に肉体の弱さを覚えるが、今後はもっともっと真面目に健康管理に務めながら励みたいと思う。

では、知子とユキが心を込めて作ってくれた昨日のバースディ・ディナーを記録しておきたい。
献立は、ハンバーグ、エリンギのソテー、長いものポテトサラダ、コーンスープ(人参とピーマン入)、そして、エビチリソースだ。

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ユキのクッキング@.jpg
ユキは、キュウリ、エリンギ、ピーマンを切ってくれた。

10月半ば頃から知子が夕食作りにチャレンジしている。その時はユキにも野菜を切らせたりミンチ肉をこねてハンバーグを作らせたりしての親子クッキングタイムだ。

知子は肉が苦手になった私にハンバーグは大丈夫かと尋ねてくれていたのに、結局、昨日も半分食べるのが精一杯で申し訳ないことをしてしまった。上手においしく作ってくれていたのにごめんね。

以上、感謝の記録である。

<11月2日21:30追記>
優子さま 遅ればせながらハッピー還暦プレゼント
お若いですね。それに、今では年齢は軽く10歳はマイナスせよと聞きますから、50歳ですよ。・・・

ご家族の上にも主の祝福を祈ります。ユキくんは希望の子ですね。
感謝!!!
posted by 優子 at 18:07| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年10月30日

ああ60歳!

ママ、お誕生日おめでとう!!
お誕生日プレゼントのマッサージチェア、調子はどうかな?

でも、ママが60歳になるっていうのは、まちにとっては嬉しいだけでもなくて、複雑な気持ちもあるよ。最近は、神戸のおばちゃんのこともあって、すごく寂しくなる時がある。ママ、元気でいてね。

いつもどんなことからも目をそらさず生きているママの人生は、本当に尊いと思う。ブログに綴られていることで励まされるし、他にも沢山励まされた人がいると思う。

最近、人生の大切なことから目をそらす人間が多いっていうのは、人生の半ば以降の方が感じるもののような気がしてきたよ。

嫌なこと、悲しい部分も見ることができるのはイエス様を信じているからだと思う。イエス様を知っていても見ない人は多いと思う。ママの目はとっても綺麗。まちも、イエス様と一緒に、綺麗な目で生きていきたいよ。

ママ、幸せなBirth Dayを過ごしてね!

イエス様に愛されているママへ

真智より


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

優子お義母さんへ

お誕生日おめでとうございます!
お義母さんは僕らの励みであり、支えです。まだまだ元気でいてください。
血圧のこと、いつも心に留めてお祈りしています。

メメント・ドミニをお読みしていますが、工事は無事予定通りに終わると良いですね。しんどい環境でも、イエス様の助けがありますように。

その状況を文学への考察に活かそうとされる熱心さに、お義母さんの生き方があるように思いました。
プレゼントのマッサージチェアで、たまにリラックスできてたらいいなと思っています。
この一年も、お義母さんが主の恵みで満たされますように。
太志

とうとう真のあーら還(還暦)

ハレルーヤ!
早くも特別に祝福される日が巡って来ましたね。
体調は芳しくなくとも日々色々あって生かされています。
感謝ですね。日曜日にこの日が巡ってきたこともうれしいですね。ハレルーヤ。
健康な日々がずーーと続きますように。
       アーメン
  シャローム☆淳子

バースデーメッセージをありがとう!!!
本当に「日曜日にこの日が巡ってきたこともうれしい」ことだった。

夫は昨日のゴルフと旅行で疲れているだろうから体を休めてくれればいいと思っていたのに、ヒゲを剃り始めたから注目してしまった。そして、今朝の礼拝に一緒に出席してくれた。

今日の午後は教会バザーの準備だったので家族には先に帰ってもらい、私は大笑いしながら楽しい時を過ごした。

帰りは教会の最寄りの駅まで自動車で送っていただき、外は土砂降りの雨でも心は上天気で家路に着いた。夕刻5時半頃、ドアを開けるとレストランのような匂いが漂い、知子とユキがバースデー・ディナー作りの最中だった。このことは次のページに記録したい。

今夏、次女夫婦が帰国した時、還暦を迎える私に何か贈りたいといろいろ考えてくれていたことを知った。そして、日本橋に出かけて最適品を見つけてきてくれた。心のこもった発案に長女も賛同してくれて3人からプレゼントされたのがこれである。

ジャジャーン! これで〜す!
感謝・還暦祝い!@.jpg

「ママ、大大大好きよ!! 絶対元気でいてね 真智子」

「リフレッシュして情熱を燃やしてください。本当に深い愛に感謝しています。太志」

「ママ、いつも全身全霊で支えてくれて本当にありがとう!これからも我が家の太陽、元気でいてネ!知子」

そして、ユキも芸術的な字で「ゆきひさ」と書いてくれている。
サインしてくれたのは出国前日の2011年8月10日

デスクワークが多い私にはパソコンの周辺機器がいいだろうということでマッサージ機をプレゼントしてくれたのだ。
「心のこもったプレゼントをありがとう!
 気持ちがいいから毎回連続で使わせてもらっているよ!」
 揺れるハートるんるん

夫よ、ひがむことなかれ。
真智子は父親の60歳の時にもプレゼントしてくれている。

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「還暦パーティ」

これは東大大学院にいた時のこと。真智が父親の東京出張に合わせてリザーブしてくれていたレストランで食事した時のスナップだ。写真撮影は2006年3月14日とあるので真智の結婚が決まってすぐの頃だ。

この日、夫は真智子からプレゼントされた体重計(インナースキャン)を持って帰って来た。
以来、夫は若い女の子のように朝晩かかさず体重計に乗っている。わーい(嬉しい顔)

ちなみに現在66歳の夫の体内年齢は41歳で手(チョキ)、私は42歳だ。
そういえば6年前の私は36歳だった。あの頃は今よりも3キロ強も軽く体脂肪は28%位だったと思う。今は体重も重く体脂肪も32%もあるのに体内年齢が42歳って参考になるのかな?わーい(嬉しい顔)

私の髪の毛に白髪が出てきた時、病床の母に聞いてみた。
「お母さん、娘に白髪が出てきてどんな気持ち?
嬉しい?悲しい?」

母はしばらく考えてから言った。
「どちらかと言えば嬉しい」と。

母が生きていたら、60歳になった私を見てどんな感慨を抱くのだろうか。

私は知子と真智子という優しい娘たちがいて幸せだ。年老いた時の我が子を想ってくれていた両親も喜んでくれていることだろう。
それだけではなく、優しい太志君と幸悠も与えられた。
勿論、夫にも感謝している。妻の書くブログにも無関心で殆ど読んでもくれないし、傍若無人マンだけれどね。(^―^)

ほむべきかな、主の恵み。
 
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。

                  (詩篇 103篇2節) 


posted by 優子 at 20:50| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2011年10月29日

日光・草津旅行、夫婦のスナップを刻む

今夜8時半頃、夫が無事に熊本から帰宅した。私は「神さま、感謝します」と射祷するも、無愛想に出迎えた。

今回の旅行がどこの主催であるかも、今日はゴルフだったことも今朝知った。昨日の朝、夫が家を出る直前に厳しく注意したので旅程を引き出しに入れて行ったからだ。どこに何の集まりで行くか、帰宅時間も全く言わずに旅行に出かけるのは、35年間言い続けても未だに変わらない。

この12月には結婚して35年にもなろうというのに、全く感化されることもなく傍若無人に生き続ける夫。これが若い頃の夫婦喧嘩の最大要因だった。今も時には爆発することもある。今回は冷ややかに怒った。体が耐えられないからだ。

夫のこのような無礼さは毎度のことで、昨日の記事の最後に書いた「対立中」の理由でさえない。
冷戦の原因は今週初めの夜のこと、遊びの延長で夫はわざとユキの足を引っ掛けてこかしたのだ。ユキは後頭部をまともに強く打った。しかし、謝らないのである。夫は穏やかな人だがこういうところがある。

翌朝、ユキはこのことも祈っていた。
「イエッしゃま、おじいちゃんは悪いことをしても反省しません、今度からごめんなさいと言えるようにして下さい(「助けて下さい」の意)」。
大人と違って純粋な祈りである。

今朝、知子は私を病院まで送り届けてユキと耳鼻科へ行った。ユキの右耳の耳あかを取り出してもらうためだ。

知子には取れないはずだった。
誕生以来の耳垢は大きく堅くてお医者さんでも苦労するほど大変だったという。強い痛みを必死で我慢したユキを知子は何度も褒めていた。

ユキは早速帰宅した夫に、「おじいちゃん!今日は耳やさんへ行ったよ」と話していた。(笑)

さて今週初めに、過日の「栃木・群馬の旅」の写真を「関北会」主催者が会社に届けて下さった。毎年30〜40枚もの写真を頂くのでお世話して下さる方は大変だ。

その上に「データで送って下さい」なんて言えないので(>_<)、ここに掲載した写真は間接撮影とでも言うのだろうか、私の常套手段とする写真を写したものである。

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10月13日夜、中禅寺金谷ホテルにて
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10月15日昼、軽井沢・万平ホテルにて

10月14日夜、草津温泉・大阪屋にて、私は公の席で生まれて初めてカラオケを歌った。この時さほど緊張せずに挑戦できたのはステージらしき場所がなかったからだ。創業が江戸時代という宿ゆえか、バーは狭く雰囲気もイマイチだったおかげで「カラオケ挑戦の夢」が叶ったのである。

最後に今日は誕生日前夜祭と銘打って私たち3人でケーキタイムを楽しんだ。夫にはひとかけらも残していない。

理由はいくつかある。
昨夜もご馳走を食しており、血糖値の高い夫の体を思ってのこと。そして、空腹時にパンを食べるようにケーキを食べる夫と一緒では雰囲気を楽しめないこと。そして、明日はバザーの準備で私の帰りが遅くなるから・・・etc。

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チョコレートのプレートには
「60さい おめでとう! おばあちゃん!」と書いてある。

外壁工事中なので晴天の昼間でも電気を消すと夜のように暗い。

レジを待っている時、知子に言った。
「『おばあちゃん』よりも『ママ』と書いてくれる方が嬉しかったな」と。
すると、「おばあちゃんへのギフツ(贈り物)はと言うユキと考えていたんだけれど、何も思いつかないからケーキにしたのでユキに合わせてしまった」と言った。
そして、支払おうとしたので止めた。
娘は薄給の身、その気持ちだけ感謝して受け取った。嬉しかった。
ありがとう、知ちゃん!

posted by 優子 at 22:21| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

いかにして脱出不可能な状況から脱出するか

火曜日から晴天が続いているので工事も中断されないからありがたい。
昨日の奈良の最低気温は5.8度まで下がり、日中は20度まで上がったものの我が家は「核の冬」のように暗く寒い。家中がシートで覆われているからだ。

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これは玄関で、家中がこの状態だから息が詰まりそう。
昨日から「3D(スリーディー)工法」と呼ばれる作業に入り、タテヨコの窪んだところに濃い色が入った。

家の周囲をシートで覆われているだけではなく、24日から全ての窓がビニールで覆われたので空気の入れ替えもできない不自由な日々である。

窓がビニールで覆われてからはカーテンを開けているが、それでも昨日の室温は17度から上がらなくて寒かった。
冷暖房の室外機も覆われているので暖房することもできず、室温が20度になった今日でも何度か外へ出て体を温めに行った。まるで温泉につかるような感じである。

私はこの工事の初日から安部公房の『砂の女』と大江健三郎の『飼育』が脳裡に浮上し考え続けている。

つまり、脱出不可能なものからの脱出、閉鎖的状況においての脱出の仕方など、人はどうにもできないものからいかに脱出するかについて想像力を働かせて文学的に掘り下げようと試みている。


10月22日の記事で、「だからこそこの期間を有益に生かしたいと思う」と書いたのはそういう意味である。

『砂の女』ではジリジリと迫ってくる砂の怖さ。それは死の恐怖というのが定説だったように思うが、自分の穴の中から出られぬ自分を思わせる。
それはまた毎日毎日砂かきをしている日常であり、我々の生活と同じようでもある。


「脳の力を信じきっているのが作者(安部公房)であり、作中人物の仁木順平だ。公房は脳さえあれば生きていけるという考え方で、心の脱出(楽しみ)は脳からしか湧いてこない」とは、読書会の導き手だった西口孝四郎氏のお説だ。(1991.8.20)

『飼育』では監禁されている状態、閉ざされた壁の中で生きる状態がテーマになっており似通っている。

では現代における監禁状態とは何だろうかと考えると、原発事故で放射能に捕らえられたこともそうだ。


この読書会の時(1989.9.11)も西口氏は次のように言われた。

「人間は誰かに捉えられている。これを突破するには考え方によるしかない。思想的に、あるいは政治的にするなど、自分の楽しみを見つけさえすればよいのではないか。
(登場人物の)黒人の場合は食べ物をもらえること、子供たちとの交わり、セックスなどだ。

書記(登場人物)の死は何を意味するか。
それは身障者からの解放だ。義肢を外してソリに乗って滑り、死ぬ。その顔は微笑んでいた」。


しかし、西口氏の大ファンである私もここは頷けなかった。人間は考え方で解放されるものではないことだけは明確だからだ。
この時、私はどのような感想を述べたのか知りたくてノートを読み進めた。

「現在における監禁状態とは何だろう。病気や戦争も監禁されたのと同じだろう。
では、私自身にとっての監禁状態とはどういうことが考えられるだろうかと考えてみるに、自分自身から解放されなくて自由人になれないことだ。

それは即ち罪に監禁されているのではないか。
生まれたままの肉、自我に監禁されている。
しかし、完全に解放されるということがあるのだろうか、人間が・・・」
と、準備していった発表要旨のメモが残っている。

この時、私は37歳であり、洗礼を受けてから2年経過しているが、まだまだイエス・キリストの贖罪がわかってはいなかった。
そのこともごまかさずに記録されている。メモの最後まで発言したかどうかは覚えていない。

この時すでに母は無情な神経難病を告知されていたが、このあとの過酷極まる病気の進行と共に私の霊的目覚めへと導かれていくことになる。そこに至るまでには安部公房が描いた砂地獄のような時期もあった。

外壁工事の最初の数日間は息が詰まりそうになって何度か外へ出た。初めて外気に触れた時、母の入院介護中のことがよみがえった。辛く悲しい心象風景だ。

母の病室で一泊して病院の外に出た時の外気は別世界のように感じた。
しかし、1分間さえ息抜きすることができない母に、「お母さん、ごめんね。私も自分の時に苦しまねばならないからゆるしてね」と、自分の無力さと薄情さを詫びながら梅田(大阪駅)まで歩く繰り返しだった。
まるでそのシーンが映像で映されているかのように、肩を落として歩いていく私の後ろ姿がはっきり見える。


工事中の不自由さは難病に捕らえられた母と違って、洗濯物はパーキングに干せるし気晴らしもできる。午前中はチャッピーと長い散歩に出かけたり、チャッピーを繋いでから再度ユキと2人で公園へ行ったりして2時間ほど外で過ごす。

外壁工事中.jpg

今では不自由さにも慣れて格段に耐えやすくなっている。でもやっぱり早く終わってほしいが。

義母は一日に何度でも会うたびに工事中の煩わしさを共感してくれるかのように話題にする(笑)。予定通り2週間で終わるかどうかあやしいところだが、神さまが人間に適応力を備えて下さっていることを思いつつ、もう少しの辛抱だ。

思いもかけず母を偲ぶ記事になってしまった。
母の初七日が45歳の誕生日だった私も60歳になる。
母と別れて15年、もうそれほどは生きられないと思う。それだけ両親と会える日が近くなった。
命ある限りは一日でも長く生きて成すべきことを誠実に果たさねばと思う。

附記:夕食後にも降圧剤を飲んでいるのに血圧が170を越えている。体感的にも非常に悪い。明日、検査を兼ねて他の病院を受診。
今夜夫は熊本泊。静かでいい。3日前から夫対私たち3人で対立中。
   

posted by 優子 at 22:17| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2011年10月25日

キリストの真理を通して情報を読む

近江兄弟社出版部が発行している『湖畔の声』10月号が届いた。今月の福井達雨氏の連載は、「なでしこジャパン」の過激な報道からマスメディアの在り方を考えるものだった。

周知のように福井氏は止揚学園(知能に重いしょう害をもつ人たちの家)の園長である。世の弱者たちのために人生を捧げておられる福井氏ゆえに、その言葉は実感をもって伝わり私の眠りを覚ました。

「例えば、人間は強さ、賢さを求めがちです。そのために強者、賢者は尊敬され、自分の生き方や努力の目標になります。弱者を誉め、自分の歩む指針にする人はまず、いないと思います。

だから、『なでしこジャパンに感動して、生きる勇気が与えられた』とその強さに称賛の声が上がるのです」。


実にそのとおりだと感じ、そのあとに長い沈黙が落ちた。
福井氏に指摘されなければ気づかなかったことが大きなショックだった。私もまた時代の影響を受け霊的感性が鈍化していたのであろうか。


福井氏は次のように続けて書いておられる。

「しかし、聖書には『わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さをほころう』と説かれ、『弱さを誇ろう』という御言が何度も出てきます。・・・

強さや賢さを力にする人間、弱さや愚かさを誇りにする聖書、この違いこそ深い意味があります。・・・

聖書が生み出す真実は人間の知恵には惑わされないイエスさまの御言なのです。その真実は真理なのです。

その真理こそ、私たちがマスメディアにしばられて、身動きできなくなることから抜け出させ、自由を与えてくれる源です。聖書は、『真理は、あたがたに自由を得させるであろう』と語っています」。


確かに最近の私は主(しゅ)に在る主体性が希薄になっている。それゆえに、普段接する人々が子供の教育について語っておられるのを耳にしてもしんどく感じた。

しかし、教育問題は今に始まったことでもなく私も子育てをし、イエスさまから目を離さずに歩いて行ったから世に振り回されることなくたどり着けた経験もあるのである。

私達は今、情報過多という言葉でさえ言い表すことができないインターネット時代に生きている。そして、今ほど個人の在り方、理念が重要視される時代はないだろう。

だからこそ私も十分に心して生きているつもりであるが、福井氏の文章を読んで今の私は何とお粗末で出来合いのものしか感じることができなくなっていたことかと思った。
情報に翻弄されては骨抜きにされてしまい、クリスチャンにとって命取り(霊的な死)になりかねない。


こう気づかされたあとに今日の記事をネット情報で終わるのは愚弄されるかもしれないが、昨日世界同時発売されたジョブズ氏の伝記著者がジョブズ氏の人間像を語っており、その内容は10月7日に記録した彼の側面とは正反対のエピソードで意外なものだった。
ジョブズ氏をよく知る人の発言であるからたいへん興味深いものである。

【10月24日 AFP】米アップル(Apple)の共同創業者、故スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏は完璧主義者で、従業員たちに厳しくあたり、いら立ち、痛烈に否定的な態度を示すこともあった―24日に発売されるジョブズ氏の伝記の著者はこう語る。

「彼は心温まるような人物ではなかった。とても短気だった。とても冷淡で、ときに他人に対してとても意地悪になれた」。ジョブス氏の伝記を執筆したウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)氏は、米CBSテレビの情報番組「60ミニッツ(60 Minutes)」のインタビューでこう語った。

■人にも厳しく求めた完璧主義

アイザックソン氏いわく「彼は、レストランのウエートレスに対しても、プログラミングのために一晩中起きていた人に対しても、近づいていって『全部間違ってるぞ。ひどいもんだ』と言える人間なんだ。それで相手が『なんでそんなこと言うんだ?もっと優しくなれないのか?』と言えば、彼はこう返す。『私は完璧を求める人間とだけ一緒にいたいんだ。それが私だ』」。

ジョブズ氏の完璧主義は、養父のポール・ジョブズ(Paul Jobs)氏譲りだったという。(略)

アイザックソン氏は、「(ジョブズ氏は)世界最高の経営者ではなかった」と語る。「実際、彼は世界最低の経営者だったかもしれない。

「彼はいつも物事をひっくり返していた。それに物事を混乱に陥れていた。最高の製品を作ったかもしれないが、最高の経営スタイルを生み出したとは言えない」。

2004年に膵臓癌が見つかった時、医師は「非常に進行が遅く、(すぐに手術すれば)完治できる」と説明したが、手術を受け入れたのは9ヶ月後のこと。しかしその時、癌は膵臓の周囲にまで転移していたという。

「アイザックソン氏がジョブズ氏に手術を拒否した理由を尋ねると、ジョブズ氏は『体を開けられるのがいやだった。そんな風に自分を侵害されたくなかったんだ』と答えた」という。

人間は矛盾を併せ持つ存在であるから、これもまた意外なエピソードとは言えないかもしれない。
しかし、「体を開けられるのがいやだった。そんな風に自分を侵害されたくなかったんだ」という言葉に彼の全てが語られているように思い、私の中で悲しみが込み上げてきた。
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posted by 優子 at 18:10| 随想 | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

苦痛な外壁工事と餌を食べないチャッピーのこと

18日から始まった外壁工事だが、始まったばかりだというのに苦痛でならない。
1日目に足場が立てられ周囲は幕で覆われてしまったから鬱陶しく、それだけではなく全てのカーテンを閉めるので暗くて息が詰まりそうだ。

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外壁工事A.jpg

こんなことが苦痛でどうする、目の見えない人のことを想像してごらんと自らに言う。被災された人々のことを思うと書くことさえためらうような情けなさである。しかし、だからこそこの期間を有益に生かしたいと思う。

2日目は高圧洗浄された。屋根、外壁だけではなく2階の網戸やガラス窓から、庭の洗い出しのところや門の階段まできれいになった。

そして叔母の家に行った20日は外壁タイル部分の補正修理で、翌21日は溶剤を乾かすために中断。22日は雨の予報だから休みということだが今日は夕方まで降らなかった。私は1日でも早く終わってほしいところだ。 

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工事期間中、チャッピーも慣れないパーキングで過ごさねばならない。しかも、まん悪く発情期と重なってしまった。もう年を取ったから終わったかと思っていたら今週から始まり、強度の月経困難症のようにかわいそうなくらいイライラしている。

しかも昨日の朝から餌を食べなくなってしまったので心配だ。こんなことは初めてだ。一昨夜の餌を半分しか食べなかったが、翌朝は空っぽになっていたので安心した。しかし、昨日からは少しずつ手であげないと食べなくなり、今日はそれでも食べなかった。

我が家にやってきた早々も食べなくて知子が一粒ずつ手渡しで食べさせていたことがあったが、昨日はユキが食べさせてやっていた。(24日追記:23日の夕方もビックリするほど根気よく餌をやってくれていた)
いつも与えているメーカーの餌だが、封を開けたばかりの新しい餌だから嫌な臭いでもするのだろうか。

普段ならばウッカリして2回あげてしまった時も平気で食べるチャッピーだ。体調が悪いのだろうか、今日は全く食べようとしない。

昨日から牛のようなと言おうか、狼のようなと言おうか奇妙な鳴き声で遠吠えをするし、今朝も早朝にその声で起こされた。
見ると『ちびくろサンボ』のトラがバターになる時のような勢いで回っていた。そして私が見えなくなると鼻をクーンクーンと鳴らして呼ぶ。

夫は昨夜は有馬温泉にて不在、しかたなく血圧が高いながらも起き抜けに散歩に連れて行ってやった。力強くグイグイ引っ張るのでまずはホッとしたが、高血圧が心配なのでチャッピーには合わせずにゆったりと小一時間歩いた。

ようやく家に着く頃に落ち着いたようだが、やはり餌にはそっぽを向いて朝も夕も食べなかった。敷いてやっている布を餌の上にかぶせてしまう。ミルクとビスケットはおいしそうに食べたので大丈夫なんだろうと思っているが・・・

『星の王子様』に登場するキツネが私の前に現れて言う。
「めんどうみた相手には、いつまでも責任があるんだ。守らなけりゃならないんだよ」と。

そう、チャッピーのことをこんなに心配し大切に思うのは、チャッピーのために時間をとって面倒みてきたからだ。その時間が私や家族みんなの心に愛を育ててくれたのだ。

月曜日は家中の窓をビニールで覆うそうだ。塗装が終わるまで覆ったままだというから空気の入れ替えもできなくなる。早く終わってくれないと私も酸欠とストレスでチャッピー状態になってしまいそうだ。予定通り2週間で工事が完了することを願うのみである。



posted by 優子 at 22:23| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

母の即断で助かった命 

石屋川沿いを六甲山に向かって上がっていくと、右側の山の中腹に甲南病院が見える。
石屋川を行くC.jpg

晩夏だったと思うが叔母の家へ遊びに行った時に病気になった。幼い妹から発病し、時間の経過と共に私、兄と症状があらわれてきた。
妹は2歳になっていなかったと思う。だとすれば私は5歳前で兄が6歳くらいで母はまだ31歳だった。

往診してくれた開業医は腸炎と診断し、自分が治す、治せると自信をもって言ったそうだが、この1年前に従兄弟(父の兄の子で、私より4歳ほど年上だったと思う)が腸炎で亡くなっており、私達もグニャとしてコーヒー粕のようなものを吐いたので、母は迷うことなく医師の言葉を振り切ってタクシーを呼んだ。

そして、運転手さんにこのあたりで最も良い病院はどこかと尋ねて、教えられた甲南病院へ連れて行ったのだった。治療費も高いと言われたそうだが、お金にはかえられないと母は即決した。

病院では3人の命は助かるかどうかは五分五分だと告げられるほど一刻を争う容態だった。あの時、母の機転と行動力がなければ私達は間違いなく3人とも死んでいたのである。
その同じ頃に父の会社の得意先の子供さんも同じ病気で亡くなっている。「経済的にも豊かな社長さんだったから十分に手を尽くされただろうに・・・」と何度も母が言っていた。

私もかすかに往診して下さった開業医のしぐさを覚えている。病院の廊下をベッドに乗せられて運ばれたことや、最初に角の部屋に入って耳たぶに傷をつけて血を採られたような記憶がある。輸血をしたのだろうか。

病室はとても広く、ドアを開けると綺麗なベージュの布のついたてが立ててあった。私を真ん中にして、左に兄、右に妹が寝ていた。

院長・副院長共にとても優しく穏やかな人柄だったことも覚えているから、幼児でも人格的なことはわかるのだ。

しかし、お医者さんが部屋に入って来られたら泣いていた。
というのは、毎朝、両太ももに黄色い薬の入った注射が打たれた。これがまた非常に痛かった。続いて太いリンゲルの針が刺された。兄には父が付き、妹には母が、私には神戸の叔母が付いてくれた。

看護婦(看護師)さんと付き添いの家族が、泣き暴れる私たちを抑えてのリンゲル注射だった。両親は本当に辛かったことだろう。

終わるまで30分間か1時間かかったのか時間はわからないが、点滴注射と違って終わるまでずっと痛いので泣いていた。終われば足はパンパンに腫れ上がり包帯が巻かれた。今も太ももに針のあとが残っている。

高い入院代に加えて、あの当時でも1本何万円もする高価な注射が3人分だったというから、当時の両親には支払いが大変だったと思う。

付き添いの人の食事もホテルのような食事が出されたと母が何度も言っていた。母は私たちにわからないようにそっと食べるのだが、今もあの時のトーストの香ばしい香りを思い出せる。

ようやく重湯を口に入れられるようになり、次に小さなジャガイモをひと切れ食べられるようになった頃のことだ。

母は私たちに付きっきりだったので、留守宅は祖父(父が養父としてひきとった独身の伯父)が夕食を作ってくれていた。「おじいさんのカレーはシャブシャブやった」と、父が笑いながら話していたことも懐かしい。

あの頃はまだ自家用車がなかった時で、父は毎晩仕事が終わると大阪からオートバイで国道2号線を走り、甲南病院まで山を登ってきてくれたのだ。まだ32歳と若かったとはいえ、大変な日々だっただろう。

抵抗力のない妹から病気になり、年上の兄から回復していったそうだ。
3人揃って退院の日、御影(みかげ)駅から電車に乗ったが、私は駅の階段を登れずに尻餅をついたのを覚えている。足に力が入らなくて登れなかったのである。その時も叔母が一緒だった。小さい時から叔母にはお世話になった。

いつも石屋川を歩くたびに遠い日々を思い出す。
10月25日は母が召された日、母逝きて15年目の命日を迎える。


posted by 優子 at 09:38| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

今秋もユキとふたりで石屋川へ ―叔母の底知れぬ悲哀―

ユキと2人で電車に乗って神戸の叔母を訪ねるのは2回目である。昨年の10月27日に行った時のことをユキは全く覚えていなかったが、石屋川駅の改札口を出た瞬間に全てを思い出した。私さえ忘れていた松ぼっくりを2つ拾ったことまでも。
今年の松ぼっくりはまだ青く、手を固く握り締めたようにしっかり木にくっついていた。
これは野坂昭如の『火垂るの墓』の記念碑である。

石屋川を行く@.jpg

この記念碑は昨日まで知らなかったが、『火垂るの墓』については過去ログ・2007年6月8日の記事に記している。
その辺りは野坂昭如の処女作、『火垂るの墓』に出てくる舞台である。

上がってみると御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近くみえ、・・・国道(2号線)に電車3台つながって往生しとるし、上がり坂のまま焼跡は六甲山の麓まで続くようにみえ、・・・

「えらいきれいさっぱりしてもたなあ、みてみい、あれ公会堂や、兄ちゃんと雑炊食べに行ったろ」・・・

阪神石屋川の駅は屋根の骨組みだけ、その先のお宮もまっ平らになって御手洗(みたらし)の鉢だけある。


昭和20年6月5日に、B29、350機の大空襲を受けた神戸の町を、主人公の清太が母の安否を求めて歩く場面である。

これが御影の公会堂

石屋川を行くA.jpg

公会堂の前の道路は国道2号線で、右へ行くと大阪、左は三宮に通じる。
ここから10分ほど石屋川沿いを上がって行くと叔母の家がある。写真には写っていないが六甲山に向かう左側の公園の中を歩いて行く。

石屋川を行くB.jpg

途中、半分以上過ぎたあたりから右前方の山の中腹に甲南病院が見える。ここは私が幼かった頃、兄妹3人の命を助けられた病院だ。これについては次の記事に収めたい。

母より2歳年下の叔母は82歳になる。
今年の2月1日に50歳の息子を亡くし、今月16日に納骨を終えた。今夏、叔父(叔母の夫)の13回忌も終えたので、来月上旬に仏壇を息子の家へ移すという。叔母は自分が死んでからのことを思って決意したのである。


とは言うものの叔母には孫がいないのでいずれ叔母の家は絶える。
しかし、「わたしたちの国籍は天にある」のであり、あとのことも思い煩うことはない。

1ヶ月ほど前に叔母の右目奥のあたりに動脈瘤ができているのがわかった。今やMRIは脳の血管まで写し出すのだ。その三叉路になっているところの角に動脈瘤ができていて手術には大きな危険が伴う。高齢でもありそのまま放置することになった。

今月初めには叔母を訪ねたかったが血圧が高くて行けなかった。
納骨の朝、ワシントンから真智子が電話してくれたと、その夜叔母から明るい声で電話があった。今日も叔母は明るくしていたが、息子の病気がわかって以来、今回が最も気力をなくしているように思う。

叔母は仏壇の過去帳に亡き夫や息子がいると思っていたそうだ。だから過去帳と共に仏壇まで手放したあとは寂しくなると、魂の抜け殻になってしまうようなことを話していた。

しかし、過去帳に夫や息子がいないことを言われ、それならば仏壇の中にいるのだろうかと・・・叔母はそのことをお寺さんに尋ねたという。


住職:「仏壇の中にもいません」
叔母:「ではお寺さんは何に拝んでおられるのですか?」
住職:「(真正面に掲げられている)阿弥陀さんに拝んでます」

「なんだ、死んだ人に拝んでいるのでなかったら月参りをしてもらってもしかたがない・・・」と、深いため息をつきながら力を落として言った。

私は何も言わずにただ聞いていた。叔母の底知れぬ虚しさと悲しみに寄り添いながら聞いていた。

単に「悲嘆のプロセス」というものではなく、絶対的なものを知らないがゆえに亡き人と完全に隔絶されたと感じる底知れぬ悲しみだ。だからこそ今より根源的な神への希求となっていくことを願う。


昼食の食前のお祈りはユキが祈った。叔母は「ありがとう」と言った。帰る前に3人で手をつないで私が祈った。この時も叔母は「ありがとう」と言った。

私も60歳からは何か新たにしなくてはと思っていたが、何か形に見えるような結果を残さねばならないと錯覚しかけていたように思う。

私のすべきことは今を精一杯生きることだ。これは誰にとってもそうなのだが、私にとって今の使命は孫との楽しい時間を過ごすことであり、それが長女を助けることにもなる。これが今の私が第一になすべきことなのだ。

何事にも誠実を尽くし、日常に関わる人々に愛をこめて関わり、機会を逃さずに福音を伝えることだ。このことを深く心に刻んで私は私らしく歩んでいこう。

附記:

ゲームに夢中.jpg
大おばあちゃんに教えてもらったアイフォーン(?)のゲームに夢中。
また背が伸びたね.jpg

叔母は今年からユキの背丈を測ってはセロテープを貼り、そこに印をつけている。1月から8.5センチも伸びたユキは1年間で10センチくらい伸びそうな勢いだ。

今日のことはユキの記憶にもいくらか残るだろう。
そして、もっともっと大きくなってこの記事を読んだ時、神戸のおばあちゃん(正しくは大おばあちゃん)と私のことも懐かしく思い出してくれるに違いない。

posted by 優子 at 23:29| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

腹話術で語る「永遠のいのち」

16日の特別伝道礼拝は子供たちとの合同礼拝で、猪股武文さんが「永遠のいのち」と題して腹話術を交えてお話して下さった。この朝、ユキも含めて4人の子供が集められた。

猪股さんは1944年生まれの67歳で、22歳の時に馬見労祷教会にて洗礼を受けられ、2002年まで教会役員や教会学校の教師としてご奉仕された。
その後、退職を機に2003年よりフィリピン(レイテ島の北側)に移住された当教会の地方会員である。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
               (ヨハネによる福音書 3章16節)

腹話術で福音を語る.jpg
人形の名は「ひこちゃん」
「ひこちゃん、外国へ行く時にはパスポートが必要なように、神さまの国、天国へ行くにはパスポートが必要なの。ヨハネによる福音書にはこう書いてあるんだよ。

『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。
                   
神さまのひとり子の命が払われたんだよ。高価なものを払って下さったのがイエスさまだよ。
そして、そのことを知ったということことは、天国へ行く切符を手に入れたことなんだよ」。


フィリピンでは日曜日の朝は5時過ぎから8時頃まで、テレビの全てのチャンネルでカトリックやプロテスタントの礼拝の様子が流されている。

またショッピングセンターなど、街の広場でも礼拝(プロテスタント)やミサ(カトリック)が捧げられているという。

フィリピンはカトリックが多く、カトリックは幼児洗礼を与えるが、だからと言って教会に繋がっているわけではないから、テレビや街々でのわざを通してカトリックの人々を掘り起こして救いに与るような働きをしているのだという。

私は前日までの旅行で霊的な疲れを感じていたので、いつも以上に礼拝を待ち焦がれて出席した。

それゆえに、聖書の最大のメッセージであるこの聖句が心深くに届いた。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(みこ)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで」
に感謝の涙が溢れそうになって抑えたが、「主われを愛す」の讃美歌を歌っている時は声を挙げて喜びと感謝の涙を流したかった。

そして、神さまから示されたのは私自身に残された時間の使い方だ。
私たちがこの地に移ってからも母教会の内田兄(きょうだい)は放出教会の様子を伝えたり本を送って下さっていた。そして、どの教会でもいいから繋がるようにと祈って下さっていた。

「私は60歳になって定年退職したら神さまのために捧げたいと思っていたんです。」と、ニコニコされて話しておられた内田さんのことが忘れられないのである。
私もいよいよ60歳を迎え、神さまに深く探られながら猪俣さんと内田さんの生き方を重ね見ていた。
幼子の生涯に祝福あれ!.jpg

この写真は礼拝が終わる後奏の時、3歳のAちゃんの姿を夫に教えられてシャッターを押した。初夏の頃からお母さんと2人で来られているAちゃんは3歳だ。ユキに感化されて祈りの姿勢を執るようになった。

私はこのような幼児の姿に強く胸を打たれる。この幼な子の魂に十字架が刻まれて祝福に満ちた生涯を歩むことができますようにと篤い祈りを捧げた。お母さんのご了解を得て掲載させて頂いた。

昨日は地域の幼児教室があり午後も深く静まることができなくて、今朝のデボーションで聖霊に導かれて書き始めたら、ここで中断となった。

8時20分過ぎから外壁工事の足場屋さんが来られ、慌てて玄関周辺やベランダを片付け、干してあった洗濯物をパーキングに移したりと大騒動だった。チャッピーの散歩は10時半を過ぎるだろう。

ところが職人さんたちは30分もすれば早々から休憩してメールしているので、今日1日で足場を組み終えられるのかなと横目に見ながらパーキングと玄関を何度も行き来していた。

そのことも一切を神さまに委ね、最初から最後まで事故なく工事を終えることができますように。
たった今、金具を打ち付ける賑やかな音が始まった。わーい(嬉しい顔)

猪股さんの上に神さまの豊かな祝福がありますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

posted by 優子 at 10:05| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2011年10月17日

「自由は制限つき」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 26― 

「自由は制限つき」(関根 弘興牧師)
 

だれでも、人は自由でありたいと願っています。「束縛を受けずに歩みたい」という思いですね。でも、自由ということを考えるとき、私たちの自由はいつも制限つきの自由なのだということを知っておくことは大切です。

しばらく前に、子どもと一緒に川に行って魚を釣ってきました。うちに帰るとすぐに水槽に水を張り、飼い始めたんです。しかし、悲劇は数日後に起こりました。

なんと魚が泳いでいるとき、ジャンプをした拍子に水槽から飛び出てしまったんです。魚は、「きっとこんな小さな水槽じゃ嫌だ、俺は自由になるぞ!」と言って水槽から出たのかもしれませんね。

しかし、私たちがその魚に気づいたときには、すでに魚は死んでしまっていたのです。魚にとっては、自由を謳歌する場所は水の中という制限があるわけです。
 
あなたが宇宙に出たら、分厚い宇宙服を着なければなりません。酸素ボンベも必要でしょう。「俺は、鳥のように自由になるぞ」と考えて、屋上から飛び降りたら、大変なことになります。
 
ですから、自由というものは必ず制限がついているのです。魚にとっては、水の中が自由な場所であり、鳥であったら大空でしょう。それでは、人は、どんな場に生かされるとき、本当の自由を味わうことができるのでしょう。
 
聖書はこう教えています。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」。
              (ペテロの手紙第1 2章25節)

本来あるべき場所から離れてしまったら、それは不自由なんですね。羊が羊飼いから離れたら、自由ではなく、それはただ危険なだけです。

聖書は、イエス・キリストこそが私たちの羊飼いであり、この方の導きの中で歩むことこそ、本当に自由の中を歩む生き方が始まると教えているのです。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」。
               (ガラテヤ人への手紙5章1節)

先日の日光東照宮での説明でも感じたことは、日本人は何と多くの恐れに縛られているんだろうということです。
私はキリストと出会って全ての因習や慣習から解放されました。
本当に恐れるべきものを知らないということは、本当に畏れるべきものをも知らないということではないでしょうか。
posted by 優子 at 21:26| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年10月16日

関西北越会 栃木・群馬の旅

北越紀州製紙(北越製紙と紀州製紙が合併した新会社)と北越紀州販売(北越製紙の代理店だった丸大紙業が吸収されて、今月1日付けで設立された新会社)が、関西の有力販売卸を招いての旅行(関西北越会)が13日から15日に開催された。

1978年(昭和53年)から始まった関西北越会(略して関北会:かんぽくかい)は今回で34回を重ね、私は2005年(28回)にデビューし夫と同伴している。ただし30回の香港旅行は欠席。理由は飛行機が苦手なことと、行き先とお目当てのショッピングは余りにも関心がなかったからだ。 

その旅行の直前だったと思うが、民生委員の任務中に胸部を強打して肋骨に微かにヒビが入る怪我をした。夫はそれを妻の欠席理由にして体裁をつくろったようだ。

さて、今年は「栃木・群馬を巡る2泊3日の旅」で、13日は早朝6時45分に新大阪集合とあって5時半に家を出た。この朝9時半過ぎに品川で下車したが、昨年の同月23日の同時刻頃に夫婦で品川に来たことを思い出していた。

品川駅港南口で東京勢と四国から出席された2社の方々と合流して大型バスに乗り込んだ。
今年は16社全社出席(31名)とは言うものの昨年より1社減っている。破綻した会社があるからであり、ずっとお仲間だったのに話題さえ出ず、かと言って酒のつまみにされたくもないが、severeな現実は他人事とは思えない。

都内を抜ける道が渋滞して昼食は1時間半も遅くなり、日光東照宮の見学もズレ込んで閉門前の40分間そこそこの拝観となってしまった。

日光は高校1年になる春休みに、家族と母方の親族たちと行って以来45年ぶりだった。私は15歳、ということは母は41歳で父は42歳だったのか・・・と、両親を偲びながら歩いた。
日光は関西からは遠く、もう行くことはないだろう。


日光東照宮@.jpg

日光東照宮A.jpg

日光の三猿.jpg

日光の三猿。
私は現実から目をそむけないで、見て、聞いて、語りたい。

東照宮を出てバスが「いろは坂」に入ってまもなくすっかり日が暮れてしまった。その夜の宿、中禅寺金谷ホテルに着いた時、ロビーの暖炉に火が入っていた。娘たちと行った9月末のドイツのホテルを思い起こさせた。

翌日は秋晴れで半袖一枚でも寒くないほどの陽気になった。
ゴルフ組みの夫は日光カンツリー倶楽部へ、観光組の私は、華厳(けごん)の滝、竜頭(りゅうず)の滝、吹割(ふきわり)の滝、戦場ヶ原を見学した。

華厳の滝.jpg

「華厳の滝」
1秒に2.5トンの水量が落下する。
写真の右下に虹が見え、空中に漂うミストが服を濡らした。

男体山.jpg

男体山

竜頭の滝@.jpg

「竜頭の滝」に向かうスタート地点

竜頭の滝A.jpg

竜頭の滝、周囲は紅葉していた
次は「吹割の滝」
関東の方々もこの滝をご存知なかったが、ここが一番の人気だった。

吹割の滝A.jpg

吹割の滝@.jpg

よいお天気だったので滝のすぐ際まで行った。

このあと金精峠(こんせいとうげ)を越えて群馬県に入り、昼食は老神温泉・仙郷(せんきょう)で豪華な会席料理を頂いて草津温泉に向かった。
昼食を終えて外へ出ると青空は一転してすっかり曇っていた。3時半頃から小雨が降り出し、翌朝は土砂降りの雨になっていた。

軽井沢@.jpg

霧雨の軽井沢、ここは聖パウロカトリック教会。
この日は結婚式が予定されていたので中には入れなかった。

次は日本キリスト教団軽井沢教会、幼稚園も併設されていた。

軽井沢A.jpg

↓ 旧軽井沢銀座通り
このすぐ右手前に軽井沢教会がある。

軽井沢B.jpg

ところで軽井沢ではトイレの殆どが有料(100円)だったのには驚いた。ハネムーンでアメリカの有料トイレに驚いた時と同じ驚きだった。

立ち寄った店の人になぜ有料なのかを尋ねると観光客の多さゆえだという。
それに対応するには整備が不十分でもあり、有料にすることで環境意識への啓発になればと期待してのことのようである。しかし、数少ないが公衆トイレもきれいに清掃されてお湯も出るとのことだった。

世界文化遺産の日光東照宮(中禅寺金谷ホテル泊)、三名湯の草津温泉(大阪屋泊)、そして昨日は軽井沢の万平ホテルで昼食をいただき1時間の散策を楽しんで帰阪した。

駅まで送り迎えしてくれた知子に感謝!
電話で聞くユキの声が小さい時の知子の声にそっくりだった。留守宅の知子たちは雨の日々だったが楽しい時を過ごしたようだ。

そうそう、忘れていた!
ワシントンの真智子と太志君へ!
バーを借り切っての2次会で、ついに歌ったよ、カ・ラ・オ・ケ!
歌は勿論、"moon river"!

「これだけワイワイガヤガヤやかましいと誰も聞いてはいないだろう。ええい、歌っちゃえ!」と幹事さんに予約してもらったら、「待ち時間0分です」と即スタートとなった。しかし、最初の音がとれなくて辞めようかと思ったけれど、やめるにやめられず歌うしかなかった。

歌い始めると、「誰が歌ってるの?」と言う感じで周囲がシーンとなったのはわかったが、見渡すほどの余裕はなかった。しかし、間奏の時にはスッカリ自分の世界に入って、"enjyoy!"と言い、これでマチ・クマと知子に「やったよ!」と報告できると思って嬉しかった。

今夏の「ウィー」体験でマチとクマのおだてをまに受けて、この時も横に居られた北越紀州製紙の常務さんと大阪支社長さんの賛辞を素直に喜ぶ私。
「『思い出のサンフランシスコ』をリクエストしてもいいですか?」とまで言われて本気になりそうになるおめでたさも私らしい。ふらふら

次回のために最初の語り部分をユウチューブで練習しようかな?わーい(嬉しい顔) 60歳を前にシニア優子が翔んだ夜だった。
歌う前から盛り上がっており、大阪支店長Tさんのご配慮を感じながら真智のことも話したら共にビックリ仰天されていた。

軽井沢の昼食の最後は常務さんのご挨拶。
特に私が共感したのは、「北越紀州製紙は内需型企業からグローバル企業へ事業展開を進めるとは言え、国内あっての海外であり、これからも卸のみなさんの力を頂いて国内販売に力を注いでいきたい」という仕事への姿勢だった。

これは当たり前のことではあっても、人間性が希薄で機械的な内容になりがちな昨今であるから謙虚さと精神性が感じられるスピーチだった。きっと聴く者1人ひとりの心に届いたことだろう。

夫に聞くところによれば、北越製紙も紀州製紙も共に卸商を大切にする社風だという。その部分は現代においては死角になっていることだけに今後も良き社風は継承していってほしいものだ。

こうして今回も大企業や組織で働く男たちのシルエットを興味深く観察しながらの旅だった。機会があれば感じたことを書きたい。

最後になったが、関東の人たちは関西の人よりも遥かに放射能汚染問題に敏感だったことを書き加えておかねばならない。
日光の枯葉のこと、子供を遠足に行かせない親のこと、食べ物のことなど、語られる表情は非常に真剣で関西人の意識とは著しく違っていた。

この美しい自然と人々の生活をこれ以上破壊させないために、国が進むべき方向に選択の余地はない。


附記:我が家は明後日から2週間の予定で家の外壁工事をすることになっている。早、築12年半になり決断した。
チャッピーも苦痛な日々になるだろうが、たった2週間のことだからチャッピーと共に不自由な生活に耐えよう。

10月29日追記:この時の写真は10月29日(カテゴリ「夫婦・家族」)にも掲載。


posted by 優子 at 20:50| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

神の恵みの中で生かされて

先週末8日は電車に乗って「宇陀アニマルパーク」へ行った。その前夜遅くに青森から帰ってきた夫も一緒に行ってくれた。

当初、知子はユキと2人だけで行くつもりだった。私たちを同伴させては疲れるだろうとの心遣いからだ。
しかし、母と子だけでは淋しだろう。私だってユキの楽しそうな様子を見たいし、知子に淋しい思いをさせたくない。そして、大いに楽しんできた!!!この日は汗ばむほどの陽気だった。

楽しかったねー.jpg 

「ユキちゃん、ママが作ったお弁当、おいしかったね」。
4人で写したスナップもあるが、それは年賀状に使うとか(^-^)

天国に住む豚.jpg

幸せなブタさんでよかったね。

牛の乳搾りに感動!.jpg

さて、右端の子は誰でしょう?
ブタさんを見る姿はやっぱりこの時と変わらない。
私は5歳、この子が今はお祖母さん。

これは幼稚園年長組の遠足で太田牧場へ行った時、搾乳機をつけて乳搾りを見ているところだ。
しかし、太田牧場というのがどこにあるのか全くわからない。幼稚園の遠足だからそんなに遠くへは行かないから大阪近辺のはずだ。検索するとかつて大阪市東淀川区にあったことがわかった。「大阪の地乳」とあった。

太田牧場のことをいつか母に聞こう聞こうと思っていたのに聞けないままになってしまった。親が亡くなって自分の幼かった頃のことを聞けないというのは淋しいことだ。

この日、ユキは牛の乳搾りとバター作りもしたが、とにかくバッタに夢中。踏んでしまうほどたくさんいて賑やかな歓声が絶えることがなかった。
私達は知子たちがバター作りをしている間に、黒豆の枝豆収穫体験(1株もらって豆をちぎって持ち帰る)と芋掘りをした。

バッタ大好きユキちゃん.jpg

アニマルよりもユキはバッタが一番!

「ユキちゃん、この日、生まれて初めてカエルを見たね!
 芝生と同じような色なのによく見つけたね。
 トノサマガエルが2匹、ピョンピョン飛んで行ったね。
 楽しかったね。また行こうね。いろんなところへ行こうね」。


子供たち

子供たちは わたしたちが好きにできる所有物ではない。
子供は養い育て世話するために、神から賜ったもの。
わたしたちの子供は わが家にやってきた
とても大事なお客さま。
気配りと世話を受けてしばらくの間いて
それから わが道につくため 出ていってしまう。

               (アンリ・ナウエン) 

神が幸悠の上にみこころに叶うことをなさいますように。


posted by 優子 at 20:56| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

肉食廃止運動の背景を考える

マルセイユで8日、巨大な肉のパックに人間が入る抗議パフォーマンスが行われた。これは「世界肉食廃止週間(World Weeks for the Abolition of Meat)」という活動の一環で、肉食をやめることをめぐる政治的な議論を呼び掛けることが狙い。(10月10日、18:40 発信地:マルセイユ/フランス)

この記事をクリッピングしたブログ記事のいくつかにも目を通したところ、「肉食はとてもやめられない」というだけのものばかりだった。

昨夏、ユウチューブで戦争関係の記事を探していた時に「アニマルライツ」(動物の権利:animal rights)と「PETA」(動物の倫理的扱いを求める人々の会:”People for the Ethical Treatment of Animals”の頭文字)を知り、動物たちの現状に言葉には尽くせられない非情なショックを受けた。

2ヶ月間ほど見るに耐えられない動画を「これでもかこれでもか」と自分を痛めつけるかのように見ていた。その関係文献もたくさん読んだ。
以来、好物のハンバーグも食べられなくなってしまったし、牛を見るのも怖い。牛が怖いのではなく地獄の映像を思い出して怖いのだ。

マルセイユで起こったパフォーマンスは肉食の背景にある非道さを訴えているのだと思う。世界中の家畜たちは物のように扱われ、横にもなれないほど狭いところに詰め込まれて大きくなる。それでも清潔さを保たれているところはまだしも、その殆どはあまりにも不潔で病気の動物もそのまま放置されている。

工場式畜産がBSE(牛海綿状脳症)や鳥インフルエンザなどを引き起こし、人畜共通感染症の大きな原因であると多くの専門家が訴えている。
WSPA(世界動物保護協会)の2004年の報告書にも「次の世界的な健康の危機か」と警鐘を鳴らしている。

病気だけではなく深刻な問題は他にもある。
大量の食肉生産のために膨大な数の動物に作物が必要になる。その作物を人間にまわせば飢えている人々のお腹を満たすことができるのだ。そして、動物の糞尿と食肉にする時の大量の血が地球環境を壊し続けていることも知らされていない。

この工場式畜産が爆発的に拡大したのは第2次世界大戦後だったと思うが、とにかく即刻にも動物は放し飼いや人道的で持続可能なやりかたで飼育されるべきである。

一方、菜食主義を通り越して肉や魚だけでなく乳製品や卵も食べない絶対菜食主義者(ビーガン:vegan)もあり、それはまた少々偏狭な考え方ではないかと思うが、わが家では以前から少なかった肉食がより一層少なくなった。


創世記1章29〜30節(聖書)には次のように書いてある。

神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。


肉食が始まったのは「ノアの洪水」以降で、それを境にして人間の寿命が短くなったというのも私には頷けるのである。菜食主義者のオリンピック選手もおり、我々は肉食でなくても生きていけるのであり、だからこそ健康なのだという文献も数多くあった。

先日出かけたアニマルパークの豚は天国豚だった。あそこにいた豚や牛、羊たちは何兆分の一に選ばれた幸運な家畜たちであり、それは天国と地獄の違いどころではない。
私はその動物たちのことを喜ぶというより、今この瞬間も地獄につながれた動物たちを思って胸が痛んだ。

以上、今朝パソコンを開けるとマルセイユのニュースに目がとまり、そのまま読み流して終わることはできなかったので思いつくまま書いた。
読者の方々はどのように感じられたであろうか。


posted by 優子 at 08:59| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2011年10月10日

我が家の門は掲示板

「結婚以来、わたしの願っていたことが一つあった。それは自分の家の前に掲示板を立てることだった。20センチほどの片屋根をつけて、その掲示板に、教会案内と聖書の言葉を貼っておきたかった。

そうすることは、わたしたちの信仰を、世間に明らかにすることになる。旗色鮮明ということは大事なことだと、わたしは思っていた」。


これは三浦綾子の「三部作」と呼ばれる作品の「第二部」・『この土の器をも』に出てくる言葉である。

かつてマンションに住んでいた時、1階ロビーの掲示板に教会のチラシを貼ることができなかったので、この箇所もまた強烈な印象として残っている。

そして当地へ引越し一軒家に住むようになってから、門に教会やキリスト集会のポスターやチラシを貼り、我が家で開いていた家庭集会、「聖書を読む会・オリーブの会」の案内も数多く貼っていた。

私は「隠れキリシタン」としてではなく、キリスト信仰の旗印を鮮明に掲げて歩み始めたのである。
これが我が家の掲示板である。我が家の掲示板.jpg
そして、昨日教会から持ち帰ったポスターを早速掲げた。来週の特別伝道礼拝のお知らせである。牧師がラミネート加工して下さっているので雨になっても大丈夫。横には「ご自由にお持ち下さい」と書いてチラシを入れた。
2011年度 特別伝道礼拝
〜いのちゃんの腹話術とお話〜

  日 時:10月16日(日)午前10時30分
  ところ:日本キリスト教団 馬見労祷教会
  お 話:「永遠のいのち」 猪股武文さん(フィリピン在住)

どなたでもご自由に参加できます。
お子さまとご一緒にぜひ一度、教会にお越しください。
入場無料ですが、礼拝中に献金があります。(自由献金)

  連絡先:古森敬子牧師
      奈良県北葛城郡広陵町平尾546−3 
      TEL/FAX 0745−55−7573

続いて私からご案内です!
この爽やかな秋の一日、教会で聖書のメッセージをお聞きになりませんか?
私は孫の成長に伴って再び教育について考えることが多くなってきました。娘たちには通学可能な範囲内に行かせたい私立校がなかったので公立校で学ばせましたが、周囲を見れば塾通いの子供たちばかりでした。

我が子を良い環境の学校へ入れたいと思うのは誰しも思うことです。
しかし、例えば我が子を同志社へ入れたいと思う人の多くは、キリスト教主義の教育を受けさせたいからではなく、その大多数は今も変わらずブランド志向で学校を選んでいます。
いつの世もブランド信仰、学歴信仰、金銭信仰・・・に生きる人が何と多いことでしょうか!

そういえば今から22年前のこと、子育て真っ最中の時に次のような文章を書きました。
今や学校選びはブランド志向と化し、我が子を有名私立校に入学させるために人々は世に振り回され、盲目的に突進している。

その渦中に翻弄される寸前、神より絶対的価値観を与えられた私は、決して人々に悩まされることなく親子共々、最高の人生を歩む特権を与えられた。

親の教育観は、即ち親の価値観であり、問われるべきは親の価値観である。

(過去ログ:2007年8月22日より抜粋。http://yukochappy.seesaa.net/archives/20070822-1.html

とは言うものの時には、塾に行かせなくていいのだろうか、私立へ入れるべきかと周囲の様子から不安を感じたこともあり、まるで激流の川の真ん中で足に力を入れて踏ん張っているような心境の時もありました。しかし、娘たちは一度も塾へ通うことなく自学自習で過ごしました。

子育て、夫婦の問題、嫁姑、近隣や職場の人間関係、親子関係、経済的な悩み、病気、老いの問題・・・など、私達は常に人生のどの段階においても多くの悩みを抱えながら生きています。

しかし私は人生の悩みに打ち勝ち、苦難の時も他人の愚かな嘲笑や非難にも負けずに生きられる最高の人生へと導かれてきました。だからこれからのことも根本的な心配はしていません。

たった一度の人生ですもの、喜びと希望と感謝に溢れて生きていきたいですね。教会ではそんなことに気づかせられるお話を聴けるところです。是非一度お近くの教会にお出かけ下さい。
教会に行くのに遠慮はご無用!きっと大歓迎されることでしょう。


私は孫が腹話術の人形を見てどんな反応を示すのか密かな楽しみです。(^―^)
これをお読み下さった方々の上に神さまのお導きがありますように切にお祈りします。


posted by 優子 at 15:24| 随想 | 更新情報をチェックする

2011年10月08日

大震災から7ヶ月、三菱製紙・八戸工場は今

6〜7日に三菱製紙八戸工場を訪ねた夫から、このたびの大震災で最も大打撃を受けた三菱製紙の現況を聞くことができた。

青森県八戸市にある広大な八戸工場の敷地は約44.9万坪もあり、社宅敷地も合わせれば約49.2万坪にもなる。
そこは埋め立て地の工業団地で岸壁から直ぐ横にあり、その工場の後ろは道路を隔てて陸上自衛隊基地で工場より10メートルほど高台になっている。

津波が来た時、人々は必死でその高台に駆け上がって難を免れたという。岸壁を乗り越えてきた津波はなだらかに入ってきたが4.7メートルにも達した。

全てを流されて怪我人が6名出たものの犠牲者が出なかったのは幸いだった。1階の動力系統は水に浸かったが、2階にあった抄紙機(紙をすく機械)は被災しなかった。
海側から山側に向かってマシンが設置されており、最も被災した海側に新しいマシンが置いてあったので復興も古いマシンから始まった。

見たところは以前とは全く変わらないかのように復興していた。
しかし、水に浸かった紙は山積みされたままで、使い物にならなくなった1階の電気系統の計器類も山積みされていた。被災した紙は古紙に再利用される予定である。

復興が早かったのは「復興しよう!」という社長の決断が早かったことと、現社長が八戸工場を熟知していたからだ。社長は的確な判断で優先順位をつけ、まず動力源のボイラーを動かして東北電力に売電した。

従業員の死者がでなかったので従業員全員と地元の人々とで人海作戦で復興に立ち上がった。


多くの地元の人々を集めることができたのはそれだけ三菱に力があるからだ。従業員も心一つになって努力した結果、予想以上の早さでマシンを動かすことができた。その背景に三菱グループの協力があったことは大きい。

今では震災前の9割を製造しており、今月中には完全に従来の態勢になる見通しだ。
震災後も北越紀州製紙と大王製紙のOEM協力(「オーイーエム」:Original Equipment Manufacturerの略で他社ブランドの製品を製造すること)で85%の売上げを上げていたが、再開までの期間は半年間というのが限界だった。その期間内で他の製紙メーカーの紙に変更されたシェア移動は最低限に止まった。

今後は復興需要も出てくるであろうが、紙の需要量が激減している中、紙流通がいかに生き残っていくかは深刻である。過当競争せずに利益を得られるようにしなければならない。

このたびの大震災で大打撃を受けた日本製紙の石巻工場は、主力工場でありながら他にも工場があり、それに比べて三菱製紙は唯一八戸工場ゆえに一層深刻な状況だった。日本製紙もまた全国から5000人以上の従業員を集めて瓦礫を撤去したという。

三菱製紙にとって「製品が出るのを待っているぞー!」というユーザーと卸商からの声が大きな励ましだった。

これらの話をしてくれた夫は、リーダーの在り方の大切さとブランド力についてしみじみと語った。三菱の紙は品質が良いということでお客さんが待っている、そのブランド力が復興の原動力になった。

この話は今朝の電車の中で聞いた。
と言うのは、今日は孫と「宇陀(うだ)アニマル・パーク」へ行ったのだが、昨夜10時前に青森から帰宅した夫は疲れているであろうに同行してくれた。
それで電車に乗った瞬間から三菱製紙の現状をレポートしてもらい、私達は長谷寺を通り過ぎたのも気がつかず30分余りはあっという間だった。

大体の状況を聞き終えて、いよいよ2人の会話に発展するところで目的地の榛原(はいばら)に着いて終了となった。

私は復興に立ち上がった人間のたくましさと偉大さに胸を熱くした。
スーパーの店先に並べられた新米を見た時も、東日本の農家の人々は震災に打ちのめされ、為政者たちにも絶望させられ、放射能の恐怖に覆い尽くされながらも、黙々と田を耕して田植えをされたのだと思って目頭が熱くなった。

あらゆる分野で人々の果敢なる勇気と努力が重ねられていたのである。どうか神さまが一人ひとりの心に希望と喜びを与えて下さるように!

また、先ほどは今月4日に100歳を迎えられた日野原重明さんの特集を見た。そこに神さまからのメッセージが溢れていた。
信仰を同じくする者として、命という時間を無駄にしないで生きていきたいと強く思った。
パンチ

しかし、再び血圧が異常に上がってしまった。そのことも神さまに委ねよう。


posted by 優子 at 23:15| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2011年10月07日

スティーブ・ジョブズさんの死を悼む

今月5日に56歳で亡くなったスティーブ・ジョブズさんの死は日本でも大きく取りあげられた。
私は名前さえ知らず、「アップル」の最高経営責任者(CEO)であり、「iPhone(アイフォーン)」や「iPad(アイパッド)」などヒット商品を次々と生み出した人であることなど全く知らなかった。

この「マウス」を開発した人もジョブズ氏だった。
パソコン草創期の1980年代は、まだ「コマンド」という複雑な記号を打ち込まねばならなかったのを、彼が「アイコン」と「マウス」を考え出し、マウスを使ってアイコンをクリックすることで格段に使いやすくなって爆発的に拡がっていったという。

ジョブズ氏は時代を大きく変えた人であり、まさに紙業界を震撼させたアイパッドの生みの親でもあったが、彼がどんな人物でどんな人生を送ったかは僅かな報道からも感じ取ることができた。

彼の口癖は「今日が人生最後の日」で、日々緊張感をもって今日を大切に生きた。何事も楽しみながらやり、決して金儲けのためではなく、自分のアイデアを拡げたいとの思いから、それを実現するために会社を立ち上げたという。

" Think diffent! "(考え方を変えよ!)
焦点を絞ってエネルギーを集中する。そのために最高の環境を整え社員の能力を発揮させる。それはやる気にもつながる。

彼が集中したのはテクノロジーに人間らしさを加えることだった。
インターネットは情報や知識だけで人間的な側面を忘れている。感情を伝えるには表情が足りないから映像や音楽も取り入れられるようにしたというのだ。


「私達は自分がとても個性的な存在で独自な考えを持っていることを忘れがちですが、自分にとって感動的なものを表現することは素晴しい。

何か新しいことをしようとすると困難なことが待ち受けています。初めは本当に苦労しましたが、諦めようと思ったことはありません。

何か新しいことを始める時に一番大事なことは、それを成し遂げたいという情熱です。成功する人としない人の一番の違いは途中で諦めるかどうかということです。必要なのは強い情熱です」。


この言葉は常に前に向かってチャレンジしている人々には大きな励ましになるだろう。
彼は禅の影響を受けたそうだが、ここを読む限りにおいては聖書的でもある。私はこの言葉からジョブズ氏の世界観の一端を垣間見る思いだ。

「今日が人生最後の日」とは「今日は私の残りの日々の最初の日」よりも気魄があり、常に緊迫感を持って生きた。常に己の死を思いつつ、濃密な日々を足早に駆け抜けていったジョブズ氏の死は、私には霊的ブレイク・スルーの如き出来事だった。
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オバマ大統領はジョブズ氏について、「人類史上まれな功績を残した。我々の世界の見方を変えた。アメリカで最も偉大な革新者の一人だ」とたたえ、その死を悼んだ。
私もジョブズ氏を偲び、我が脳裡に記憶し、オバマ大統領の声明文を記録しておきたい。

スティーブは最も優れたアメリカの革新者のひとりでした。
違う発想をする勇気をもち、世界を変えられると信じるほど果敢で、それを実現するだけの才能を持ち合わせていました。

この惑星上で最大級の成功を収めた会社を、自宅のガレージから立ち上げた彼は、アメリカの創意工夫を体現していました。彼がコンピューターを個人向けのパーソナルなものにして、インターネットがポケットに入るようにしてくれたおかげで、情報革命は手に届くようになったし、直感的に分かりやすい、楽しいものになった。そして彼はその才能を物語作りにも使い、何百万もの子供や大人に喜びをもたらしてくれました。

毎日を最後の一日のように生きるというのが、スティーブの口癖でした。そうやって生きたおかげで彼は、私たちの暮らしをすっかり一変させ、様々な業界をそっくり塗り替え、人類の歴史上きわめて珍しい偉業を達成しました。つまりスティーブは、私たちひとりひとりが世界をどう見るか、その見方そのものを変えたのです。

ビジョンをもったひとりの人間を、世界は失いました。世界中の多くの人が、彼の訃報を、彼自身が発明した道具で知ることになった。それこそが何よりも彼の成功に対する最大の賛辞かも知れません。

ミシェルと私は、ローリーン夫人と家族、そしてスティーブを愛した全ての人に、想いと祈りを捧げます。

私も良き生を生きたい。
今日は人生最後の日と覚悟して生きるほどの真剣さで生きたい。


posted by 優子 at 20:25| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2011年10月05日

時代の趨勢 東大大学院秋入学

世界の大学で主流になっている秋入学に合わせて、昨日東大大学院で入学式が実施され、式典の司会進行や挨拶など全てが英語で行われた。入学生の7割余りが海外からの留学生であるという。

真智子たちの授業も殆どが英語だったと聞いていたが、秋入学に入学式も英語というのは時代の趨勢だろう。日本の大学も変わりつつある。

東大(学部)でも優秀な留学生を集めて国際的な競争力をつけようと、早ければ5年後の秋入学を目指しているという。

日本のトップを誇る東大だが世界ランキングは26位だ。
そのこともあってか、次女夫婦は東大大学院で修士号を取得し、その後3年間の博士課程の単位を1年間で修めてミネソタ大大学院に留学したが、東大の大学院と言えども国際的には通用せずアメリカでは一から始めねばならなかった。その後、最短期間の5年間で博士号(Ph. D. in Economics)を取得した。

次女夫婦がIMFに就職したこともあって、昨夜の『クローズアップ現代』で、「欧州信用不安の行方 〜IMF副専務理事に聞く」を私達夫婦は興味深く見た。

今夏8月初めに米国の債務不履行(デフォルト)問題があったが、今はギリシャの財政破綻への懸念からヨーロッパ全体のユーロ危機が叫ばれている。ギリシャがデフォルトすればリーマンショックどころではない。

そんな世界的金融危機の最中に来日されたIMF(国際通貨基金)の朱民副専務理事のインタビューだった。
朱民氏はアメリカの大学で教育を受け経済学博士号を取得し、中国人民銀行の副総裁も務めた中国を代表するエコノミストとのこと。そして、今年7月、専務理事に次ぐナンバー2のポストに中国人として初めて就任した。

番組が終わった瞬間、「要はIMFが(ギリシャへの資金援助に)『イエス』というかどうかやな」と夫は言った。

日本はIMF加盟国の中で米国に次ぐ2番目の出資国であるが日本人の採用人数は少ない。国連も同様で妹が国連職員になった時から聞いているが、いつになっても少ないのはどうしてなのだろう。国連の常任理事国にもなれないことについては同意できなくてもわからないでもないが。

国際的にも通用する経済学者になったマチ・クマが、かつてないほどに注目されるIMFへ導かれたことの不思議と、神が2人に抱いておられる将来への期待を感じるのである。

その一方で先日の小学校の現実(10月1日記事)に打ちのめされている。あのような教師とも呼べない教師ばかりではないだろうが、我が子の時以上に教育環境について考えさせられている。

それは我が子(孫)の幸不幸にとどまらず子育ては日本の将来に関わることである。

溢れる情報と競争社会を生き抜くにも最も大切な事は自分自身を見失わないことである。その前提として自分の価値観が問われるのだが、とにかくキリストに在って周囲に翻弄されないことだ。

そして、神さまが孫に与えて下さった賜物(ギフト)を豊かに伸ばしてやれるよう、その母を支え、賢い祖母でありたい。


今日の記事はタイトルにそぐわないだけではなく、私の頭の中のようなまとまりのない記事になってしまった。

posted by 優子 at 15:53| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2011年10月04日

コスモス満開の秋

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「緑色の赤ちゃんバッタがいっぱいいるよ!」
これは昨日のユキ。
涼しくなって虫が激減したようなので網と虫かごを持たずにチャッピーの散歩に行ったのだが、バッタはたくさんいたので再び網とかごを取りに帰ってやってきた。
チャッピーはお留守番。
私はユキをゆっくり遊ばせてやろうと折りたたみの椅子を持って行った。本も持って行けばよかったと思うほど気持ちがよかった。

「おばあちゃん、アメリカの人は目が青いけれど、アメリカのチョウチョも日本のチョウチョと同じ目をしてる?日本のチョウチョと目の色は同じ?」
何て素敵なことを感じているんだろう。
私はユキの不思議に感動してしまった。

ユキの大好きな真智は「藤本」姓でないことを話すと、「真智はワシントンへ行ったから成田になったの?」と言った。柔らかい心から溢れ出る言葉はキラキラ光っている。
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ユキと献金のご奉仕。
キリスト教会では牧師の説教のあとに礼拝献金があり、その当番に当たっている奉仕者は黒いビロードの布で作られた献金袋を持って会衆を回り、最後に講壇前で献金感謝の祈りを捧げる。
その番が3ヶ月に1回まわってくるが、今年7月から献金奉仕者と共にユキも毎週小さな献金袋を持って会衆席を回る。

不思議なことに恥かしがりやのユキが、一度も躊躇(ためら)うことなく自らの務めを理解し、促されなくても自ら講壇前へ出て行くのは感心だ。

というわけで今週はユキと並んで献金感謝のお祈りを捧げた。
奉仕者はマイクを通して祈るのだが、いつの頃からかお祈りの最後はユキにマイクを向けて下さるようになった。そして、この朝も幼子の声が会堂に響いた。
「このお祈りをイエッしゃまのお名前によってお祈りします。アーメン」。 

献金が終わるとCS(教会学校)の担当教師とユキは2階へ上がり、短い時間ではあるが幼稚科のクラスを開いて下さっている。私達が早い時間に行けないゆえのご配慮である。嬉しいことに夏を迎えた頃から3歳の女の子も加わり、ユキは会うのを楽しみにしている。

ユキにCSの様子を尋ねると、「出席のシールを貼って、イエッしゃまの絵本を読んでもらって、お祈りして、ブロックとか折り紙で遊んで終わるの。以上です。」と説明してくれた。(笑)
ユキの愛唱歌は大人の礼拝で歌う「みつかいと共に」だが、「こども讃美歌」を知らないのでママに教えてもらうといいね。

この夏もユキの心身の成長は著しく、体格的には来春は幼稚園を飛び越えて小学校に入学するような勢いである。成長と共に幼さが日に日に消えていくようで、「イエスさま」と言うようになるのも秒読み段階を迎えている。

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もうすぐ4歳4ヶ月、明日は知子ママが幼稚園へ願書を取りに行く。


posted by 優子 at 22:27| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

「人を輝かす神」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 25―

人を輝かす神 (安海 靖郎牧師)
 
『北国に駆ける愛』の新版が出ました。映画にもなった故三橋萬利(みつはし・かずとし)牧師の自伝です。新版には、奥様とお子様がたの思い出も添えられて、より立体的にその生涯と信仰に触れることができます。
 
三橋牧師は、昭和3年に青森県で生まれました。3歳の時、重い小児麻痺にかかり、両足と右手の機能を失ってしまいました。戦前ゆえ、学校に入れず、独学で大学入試資格を得たのです。

当時は、男は皆、兵隊検査を受けて、甲・乙・丙とランクづけされて、徴兵されました。師はそんな検査に呼ばれることもなく、「自分は一体、生きている価値があるのだろうか」と真剣に悩みました。

21歳の時、友人から一冊の聖書をプレゼントされ、読みました。一条の光が暗い心と生活の中に差しました。その時の経験を、この本の「喜びの訪れ」という項目でこんなふうに書いています。

「生まれて初めて手にした聖書。読んでみても内容についてはさっぱりわかりません。けれども、何か重々しいものを感じました。これは普通の本とは違うという印象を受けながら読んでいくうちに、ある時から特に『神』という言葉に注目するようになりました。今までの日本人の持つ神観とは異なるものでした。
(・・・中略・・・)

引力の法則を発見したあの有名なニュートンは、『私にとっては、引力の法則を発見したことより、神の存在を知ったことのほうが、より偉大な発見であった』と言ったそうです。私にとっても、唯一の創造主を知ったことは、彼の感激に優るとも劣らないほどすばらしいものでした」。
 
三橋牧師はこの後、それまで抱いていた「私は何の役にも立たない者」という低いセルフイメージ(自己像)が全く変わります。神のかたちに似たものとして造られたという存在意義を知り、神よりの使命に生きる道を進みました。

素晴らしい結婚に導かれ、ご夫妻で聖書学校で学び、40年にわたって札幌の教会で牧師を務め、大きな教会を建て上げました。また、″優しい夫″、 ″尊敬する父″ として生涯を送りました。

しかし彼は言っていました。「私は自分の世話も満足にできないんです。教会のお世話などできません。全部イエス様のおかげです」。
本物の信仰と謙遜に生きた方でした。神が誇る生き方といえましょう。

夫人がご主人(三橋牧師)を背負って移動されていた写真を今も鮮明に覚えています。

posted by 優子 at 11:36| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年10月02日

50日を経てワシントンに船便届く!

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IMFのHQ1で。

次女夫婦(マチ・クマ)がミネソタからワシントンへ移って1ヶ月余り過ぎた。そして、IMF職員になって1ヶ月、2人はフレッシュマンである。
時折届くメールには仕事の引継ぎを初めディスカッションなど多忙を極め、あっという間の1ヶ月だったようだ。そんな中にあって論文の執筆も続けているというから偉いなあと思う。

ところで、日本全体の債務残高はまもなく1150兆円に達しようとしているが、IMFの経済アナリストのマチ・クマはどのような助言をしてくれるのだろうか。

日銀が国債を買えばデノミも抑えられるからいいという意見もあったが、大震災と原発事故という大惨事まで起きた日本が心配でならない。先週の国会答弁を聞いていて野田首相には溜め息が出た。

さて、今夏8月8日に送った船便の荷物がようやく9月29日にワシントンの家に届いた。日通の現地日本人も1人同行され最後まで丁寧にして下さり感謝していた。

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「本当に素敵な箪笥で、真智と二人でとても喜んでいます。傷も無く、無事に届いて本当に良かったです。大切に使わせていただきます。本当にありがとうございました。
本当にたくさん持たせていただいているので、これから荷物を開けていくのも、感謝の気持ちでいっぱいです。さっそくお風呂セットは使い始めています。明日にでも温泉卵器を使おうと、真智と話しています。さまざまな食器も、楽しみにしています」。
(クマ)

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急きょ嫁入り支度(?)とあって家具も地域の家具屋さんで購入するしかなかったが、デパートにも納めているメーカーだというので即決した。
感謝と喜びを何度も伝えてくれる真智子を見ていると、私は何という親不孝な娘だったことか!

箪笥を開くととてもいい匂いがして和室を想わせる感じになるらしい。着物だけは直ぐに納めただろうが、仕事があるので荷解きは少しずつになるだろう。

ミネアポリスの1日の最低気温は0度〜3度と低いが、ワシントンもまた2度〜7度だからミネアポリスと変わらない。当地もかなり気温が落ちてきており10度前後に下がるらしい。今年もまた秋が深まっていく。

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国際機関で働く日本人は少ない。頑張れ、ニッポン!

次女夫婦の上に神の祝福が豊かにありますように、そして、神さまに期待されている2人が良き働きをさせて下さるように祈っています。
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posted by 優子 at 08:56| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2011年10月01日

小学校教師の暴言に唖然!

昨日の朝から一斉にキンモクセイの香りが漂い始めた。いよいよ秋本番である。
運動会シーズンたけなわの今日この頃、9月に入ってから近くの小学校から音楽や指導する声が聞こえていた。時折、行進曲だけではなく教師の暴言も聞こえて気にはなっていた。

昨朝はそのこともスッカリ忘れて、音楽に誘われるままにチャッピーの散歩を兼ねてユキと一緒に出かけた。そこで耳を疑う教師の暴言の現場を目撃して唖然とした。

1時間以上も動悸は治まらず、血圧もみるみる上がっていくのがわかった。3時間程経ってようやく落ち着いたが、今これを書き始めると再び体調に影響していくのがわかる。

朝礼台に立って指導(?)していた教師の暴言たるや暴力団と全く同じであった。特に乱暴な言葉を吐く時にはマイクを外して言っていたが、マイクを通しているような声で怒鳴っていた。

全体練習が終わる直前に4人の女の子(たぶん6年生)に「おまえらこっちを見てないやないか。立っとれ!」と立たせたままで、休み時間中の5分が過ぎ、6年生だけで組み立て体操の練習のために一斉に集合してきた。

こちらから見る限り、子供たちはチャイムが鳴って集合した瞬間から、いや整列する前から私語も無く整列していたのであるが、その中心的教師が「おまえら何してるんじゃ!」と、それはそれは舌を巻いて大声でまくし立てた。

子供たちは暴力的な力で押さえつけられていた。
他の教師もまた「やる気出してやれ!」と、子供たちは真面目にやっているにも関わらず、学年の3名の教師はそれぞれに乱暴な言葉を吐いていた。このような暴言が蔓延しているのである。

いつからそうなってしまったのだろうか。
民生委員として出入りしていた頃はこのような雰囲気ではなかったから、ここ2〜3年で変わってしまったのだろうか。私は暴力的恐怖を感じた。

憤りを通り越して悲しくなり見てはおられず、体調も心配になって早々に立ち去った。近くで校庭の木々の世話をしておられた男性に印象を聞いてみたが、「どこでもこんなもんですよ、運動会やからね」と淡々とした返事が返ってきただけで、私の拒否反応を快く思わなかったようだ。

これでは社会がよくならないはずだ!
これが学校と言えるだろうか!
子供たちの純粋な心をどんどん歪めてるだけではないか!
ユキがいなければ即刻校長を訪ねたであろう。


私はあまりのショックで知人の意見を聞いた。その方は長年小学校の教職に就いておられた近隣の方だが、私の期待した教育論にはならなくてガッカリした。その電話を切ったその手で学校へ電話し、校長に次のようなことを話して職員への注意喚起をお願いした。

「このような力で押さえつけていれば、子供達は来春中学校へ入学した瞬間から『先生』を『おまえ』と呼びますよ。
問題は子供ではなく教職員です。管理職の校長としてのご苦労はわかります。職員室の雰囲気も想像できます。しかし、これではプロ意識に欠けるどころか教育ではない。・・・目に見えない努力をし続けて下さい」。


今はモンスター保護者も出現している時代だが、教師もまたこれでは話にならない。
私は今再び子育てを半分担う日々にあって、時には自己嫌悪に落ち込むほどイライラを孫にぶつけてしまったこともあった。「口先だけではなく深く悔い改めさせて下さい」と祈り続け、心から孫に詫びたことも何度かあった。

昨朝目撃した現場はここの小学校に限ってのことではないだろう。だからと言っていいということではない。大人は子供に敬意をはらわなくてはならない。

私の子育て中にも同じようなことがあった。やはり小学校でのことだ。その先生には半年かけて理解してもらえたが、長女の心に深い傷をつけたままだった。その時のことを思って書いたのが下記の文章だ。

しかし、私はこの時はまだ、傷ついた心へのフォローがどんなに大切なことであるかに気づいてはいなかった。長女の気持ちを十分フォローしないで置き去りにした悔いがある。

聞こえていますか子どもの叫び

「まず自分の言葉が相手を傷つけるかどうかを感じる能力を育てること。それが育てば、バッハやモーツァルトの美しい音楽を感じとることができる。」

これはヴァイオリンの早期才能教育で活躍された鈴木慎一郎氏の言葉です。
つまり、自分の言おうとする言葉が相手の心にどう響くか分からないようでは、バッハやモーツァルトを感じとることも演奏することもできないとということでしょう。

言葉は脳で言語化されますが、精神的発達と関係し魂に関係するものです。
子供達の多くの事例を見ても明らかなように、知能を展開させていくのも心であり、心を豊かにすることが最重要事項であることがわかります。

そして、その心は経験により形成されていくのですから、主に親や教師との関り合いの中で作り上げられていくわけです。
私達はそのことを今一度記憶すべきではないでしょうか。   

 (藤戸小学校PTA広報委員会 1992年2月4日発行
      ふじとニュースNO.30より転載)  

詳しくは過去ログ:2006年10月4日で取りあげている。(http://yukochappy.seesaa.net/archives/20061004-1.html
この広報紙は年間に40号を重ね、その最終号には次のように書いた。

親が子供を映す鏡なら、学校もまた子供の心を映す鏡です。そして、PTAの存在が我が子の教育を見守る唯一の場です。
2年間の広報活動を通して、親と教師、親同士の相互理解を深めることがいかに大切かを痛感しています。

「親同士のコミュニケーションが深まると、学級の子供たちは中学校でも生き生きするから不思議ね」と言った、かつての同僚の言葉を思い出すのですが小学校ならなおのごとしでしょう。

親と教師の関係も同様ですが、教科担当制の中学校と違い、クラス担任制の小学校では子供と担任の先生との関係は何よりも大切です。
学校の主役である子供にとって、学校が楽しいところでありますように。

この新聞を通して親同士の話し合いが深まるきっかけになったように思います。しかし、先生方からの声が全く無かったのは残念でした。今後はPとTの意見交換へと発展していくことを願っています。

1年間、お読みくださりありがとうござました。最後に、アメリカの市民運動の先駆者、ラルフ・ネーダー氏の言葉を贈ります。

「理想的な市民は、自分の仕事や家庭だけではなく、政府を改善するとか、公害をなくすとか、学校をよくするとか、これらのことにも時間を割く人達だ。
そうした努力なしでは、民主主義は堕落し、少数が多数をコントロールしてしまう」。

もう20年も前に書いたものを読んで、一生懸命子育てに集中していた時を懐かしく思うでけではなく、孫育てに関わっている今、幼稚園や学校環境が再び視野に入ってきている。
年齢を重ねた今、若い頃に口ずさんでいたことや書いてきたことがいかに大切なことであるかを実感するだけに真剣だ。

教育界もますます問題は複雑になるばかりであるが、清水安三の如く「われら四方より患難(なやみ)を受くれども窮せず、為(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」、一切を神に委ねて「祈りつつ前進」しよう。

昨日の午後からの雨も夜には上がり、今、小学校から運動会の音楽が聞こえてきた。子供達の良き思い出になりますようにと祈ろう。

私は教会規則改訂委員会のためにまもなく教会に向かう。
会議中は明日の奏楽の練習をしながら待っているからと、知子が送迎してくれることになっている。ユキは爺(じい)保育園。神と共にある幸せをしみじみ思う。

posted by 優子 at 09:02| 教育 | 更新情報をチェックする