2012年08月26日

神のメッセージ版「ジョハリの窓」

「ジョハリの窓」は心理学やカウンセリングでよく取り上げられる理論だ。自分自身の「気づき」を助ける為に、また、円滑なコミュニケーションの学びなど多くの領域で用いられている。今冬、長女が参加したリーダーシップ研修会の冒頭でも取り上げられていた。

まずは「ジョハリの窓」について、「ウィキペディア」よりグラフと共に一部引用してご紹介したい。

自己には「公開された自己」(open self) と「隠された自己」(hidden self) があると共に、「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」(blind self) や「誰からもまだ知られていない自己」(unknown self) もあると考えられる。

img_967614_29752743_0.jpg
                    
「開放の窓」は自分だけではなく他人(周囲の人)も知っている部分(明るい窓)で、「盲点の窓」は自分は知らないが周囲の人が知っている「盲目の窓」である。
この4つの部屋を構成している縦軸は自分自身の視点であり、横軸は他人(周囲の人)の視点を表すもので移動する。

ついでながら「ジョハリの窓」は、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリー・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」で、提案した2人の名前を組み合わせて命名された。

さて、今朝の礼拝では「ジョハリの窓」から話を起こされ、ローマ人への手紙の7章4節〜6節から「(神の)霊に従う生き方」と題して説教された。
教会では一般の学びや研修会では聴くことができない神のメッセージを聴くことができる。その要旨をお分かちしたい。


「自分も他人も知らない部分があるということは、常に可能性を潜めているということであり、愛の信頼が可能性を引き出していくのではないだろうか。

『お前はダメだ』と悪魔の声を聞き続けるならばそのようになっていくだろう。しかし、神さまは悪いことをしつづける私たちを信じて信じて信じ抜いて導いてくださるのだ。

神の霊に導かれる時、神の信頼に抱きすくめられて真の自分を見出すことができる。隣人を自分のように愛する人に変えられていく」。


隣人とは身近にいる人や自分に親切にしてくれる人ではなく、自分を困らせる人、いじめる人、いわゆる嫌な人のことである。

神に罪ゆるされて救われてもなお躓きやすいお互いであるけれど、神の愛の中に留まっているならば祈り心が与えられる。
私たちは祈りを通して心に平安が与えられ、平安が祈る人を支え、祈りから祈りへ導かれながら忍耐させてくださり、あかしする者としてくださるのだ。

カウンセリングの学びで何度も耳にしたことは、「過去と人は変えられない、変えられるのは自分だけ」、「全ては気づきから始まる」という言葉だ。その通りだと思う。

そして「自分が変わると周囲が変わってくる」とは、私に洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師がよく言われていたことだ。

今、人生の荒野(苦難や試練)を歩いている人はどうか自分自身を見つめて、悩まねばならないことに焦点を合わせて悩んで欲しい。逃げてはダメだ。

問題が問題なのではなく、その問題に対してどう立ち向かうかが問題であり、その意味において他者が問題ではなく全ては自分自身の問題なのだ。

自分はどのように生きたいのかを考え、自分自身と対峙することだ。
せっかく人生がうまく行っていないのに挫折しないなんてダメだ。本当に強い人とはゼロになる体験をした人であり、これ以上落ちこみようがないことを経験した人だ。


人は真の自覚や反省が伴うと欝になるだろう。そして、そのあとが重要だ。「自分はもうだめだ!!!」という精神的自己破産を経て神にギブアップする。その時に光が射してくる。信仰は苦しみを苦しみだけには終わらせない。

今朝の説教から今関わっている人々のことと共にそんなことを思わされた。お互いに限られた人生を大切にしたい。神の霊に導かれる人、神の戒めを受ける人は幸いである。
8月最後の週も主が共にいてくださいますように。

posted by 優子 at 21:58| 奈良 ☀| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2012年08月22日

無心に虫採りするユキをカメラで追う

昨夕の雷は凄まじかった。雷義母も「あんなのは初めて。田舎にいたときもなかった」とビックリしていた。

チャッピーは怖がってかわいそうなほど震えていた。スキンシップして撫でてやっていてもガタガタ震えていた。そのうちにまたドカーンと鳴るので犬と一緒に固まってしまった。ユキは泣いて抱きついてくればかわいいのに平気な顔をしていた。
雨も猛烈に降った。お向かいの家の階段から池の水を抜いた時のように雨水が滝のように流れていた。

春うららの季節は僅かで、毎年ゴールデンウィークを迎える頃には急激に気温が上昇して夏のしんどさが思いやられるが、この時期になると行く夏が惜しまれる。

若い頃は夏といえば8月で8月中が真夏だと思っていた感がある。しかし、日中は35度前後の気温であっても、8月半ば頃から陽射しは部屋の奥まで入ってくるし、数日前から蝉の声も勢いが弱まってきた。
路上に死んだアブラゼミやクマゼミが目立つ。悲しくてしばらく立ち止まってみつめることもしばしば、夜は秋の虫が聞こえ夏は行きつつある。

そんな晩夏、ユキの心に幼い日々の思い出を深く刻んでおいてやりたくて、今朝は日影のない砂利道も厭わずトンボ採りにつきあった。知子が愛用している黒色の日傘は陽射しと暑さを感じさせず、夢中になって50枚以上もの写真を撮っていた。傑作は一枚もなかったが・・・

今日は「おじいちゃんと同じランニングがいい!」と、家でくつろぐ祖父の姿を真似てランニング姿の「おやじチビ」である。

トンボ採りC.jpg まもなく6歳の知子.jpg
ユキは知子(5歳11ヶ月)にそっくり。

050.JPG

トンボ採りA.jpg

トンボ採りB.jpg

トンボ採りC.jpg

5.jpg

無心になって虫を追いかけていた日々は人生の宝、心のふるさとだ。カメラ越しにユキの姿を追い続けた私もかけがえのない時間だった。

こんなリボンでアブラゼミの羽を表現するなんてすごいね!
ユキの蝉.jpg
左のがユキの初作品、それを見て私も作ったら(中央)、「蝉のからだは黒いから先に色を塗らなあかんよ」とユキは2作目を作った(右)。足も6本ついている!わーい(嬉しい顔)

未来のユキへ: 
今日の昼食前のお祈りは久々に祈祷会になったよ。ユキの配慮に富んだ力強いお祈りに導かれて、ユキのあとにおばあちゃんもお祈りしたら、「またお祈りしたい!」と言ってユキがお祈りして本当に恵まれたね。食べ物はすっかり冷めてしまったけれど(^ー^)。

ユキ、人間はいろんなことを経験しながら大きくなっていくのだけれど、どうか今の素直な心を失わないでね。その心さえあれば常に神さまがユキの心と努力に連動して働いてくださるよ。キリストの臨在の力はすごいんだから!

昨日ママにも贈ったみことばを未来のユキに贈ります。ママは神さまの恵みの中で良き日々を重ねているよ!

「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」。
        (Tペテロ3章8・9節  新改訳聖書)



posted by 優子 at 21:16| 奈良 ☀| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

お盆休みは大雨警報解除の前に「赤目四十八滝」へ

お盆休みの旅行先を探し始めたのは8月に入ってからだった。幸運にも宿が取れて「赤目四十八滝」(三重県)へ行くことになった。
ところが13日夜9時頃からの雷雨は14日朝6時頃からますますひどくなり、半ば出発を諦めかけたほどだったが9時頃から小雨になったので出発した。10時前には大雨警報が解除された。大阪・寝屋川でも被害が出ていた。

それとは反対に小雨の旅行は暑くなくて最高のリクレーションになった。一寸先のことがわからないものは人生も同じだ。その途上でどんなことがあろうとも最後まで頑張り抜くことだと思った。結果がどうであれ生き抜くことが尊い義務なのだ。

今回の旅行は自宅から58キロながら、景色と自然を満喫し、適度なウォーキングあり、旅館も全てよかった。あまりに近いのでユキは旅館に着いた時もまだ「いつから旅行が始まるの?」と何度も言っていた。是非、真智子たちも連れていってやりたい。

赤目48滝@.jpg

布曳の滝の前で
最初に日本オオサンショウウオセンターを見てスタートした。
1行者滝 2銚子滝 3霊蛇滝 4乙女滝 5大日滝 6八畳岩 7千手滝 8布曳滝 9竜ヶ壺 10縋藤滝 11陰陽滝 、そして、百畳岩までは行きたかったが帰りの体力も計算しておかねばならないので断念。半分弱のところで引き返したが、5歳1ヶ月のユキはよく頑張ったと思う。
赤目48滝A.jpg 赤目48滝B.jpg

雨のあとで水量も多く迫力満点。もう少し水量が多ければ入山禁止になっていたという。
下山して嬉しいカキ氷.jpg
下山して茶店でカキ氷を楽しむユキ。

良輔:「サンショウウオは3000万年前から進化してないそうや」
優子:「あなたと同じやね」(良輔がクスクス笑ったので、優子と知子は爆笑!)
赤目の宿@.jpg

翌朝は朝食前から蝉採りに。ついにヒグラシを採った。きれいな蝉だった。逃がしてやるときに触ると大きな声で鳴いた。
「カナカナカナカナ・・・」
ヒグラシの声は心を癒す。美しいヒグラシ.jpg
赤目の宿A.jpg 初めての川遊び.jpg 
初めての川遊び。
最初はこわごわだったが、そのうちに何か手応えを感じたのかユキから達成感と自信のようなものが感じられた。子供は何事からも学び吸収していくのだ。

15日は午後1時頃に帰宅。同日6時過ぎにお寺さん来訪。毎年最終訪問先になっている。
13日に義母と墓参し午後は盆の準備。その夜義母と二人で迎え火を焚いて翌朝旅に出た。今年は三男夫婦と4人で送り火をし、長男の嫁を意識する夏の行事を終えた。

実家のことについては16日の日付けで両親のカテゴリに収めた。

附記:14日から過去ログ・2007年8月21日づけの『わたしは貝になりたい』へのアクセスが目立ち、15・16日の二日間で350を超えるアクセスがあり今日も続いている。15・16日はそれぞれに800近いアクセスがカウントされ、17日は830に達した。

その記事に書いていることは、昨夜の我が家でも話題になっていたことであるので一部転載しておきたい。

本当に問題を解決したいならば、お互いに心を開いて話し合うことだ。話し合いのテーブルにさえつこうとしない人もいるが、それでは生きていることにはならない。
そのような人たちはともかく、誠実に生きたいと願っている人々にとっては、心を開くことができるかどうかにかかっている。

お互いに心を開いて、お互いに相手の立場を考えながら話し合うことだ。それでさえ同意できないこともあるだろう。しかし、そのこともまた最重要ポイントなのだ。

即ち、意見が一致しないということを同意すること。
一致しない時には友好的に話を打ち切るのだ。見解の相違をお互いに認めることだ。それは人間として崇高な姿である


”agree to disagree ”

これこそが真のデモクラシーの意味なのだから!

憤るべきことには憤る。しかし、感情的な争いをしないで、自分の信念を曲げずに生き抜くことだ。

posted by 優子 at 15:44| 奈良 ☁| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

父母の墓参、霊標を記録する

今年も一年ぶりに兄と再会し11日に両親の墓参に行った。その後二時間ほど昼食しながら歓談した。今年も兄よりも早く着いたので今年こそはとばかりに霊標の文字をメモしてきた。戒名には関心がないので省き、年齢は満年齢で記した。

弥三郎(父の祖父)昭和7年2月24日 76歳

弥吉 (父の父) 昭和42年8月24日 78歳
  

つね (祖父の母か?)明治25年1月14日 26歳  
   祖父(亀吉)から母親を早く亡くしたと聞いたように思う。

ちかの(祖父の継母か?)大正9年6月9日 56歳
    なぜ父に聞いておかなかったのだろうか。きっと何度
    かは聞いていたのだが、この人たちのことは記憶にも
    残らない聞き方をしていたのだと思う。

ヨシ (父の母) 昭和44年9月8日 76歳

亀吉 (父の伯父)昭和48年7月1日 84歳
    
    生涯独身だったため父の養父となり次男だった父が
    引き取り共に暮らした。母にとっては結婚当初から
    夫婦だけの生活ではなかった。

成子 (母)   1996年(平成)8年10月25日 70歳
    介護は女の仕事と決まっていた時代である。母は多忙
    な日々にあって義兄姉の助けも全くなく、義父、義母、
    そして、義養父の三人を介護して看取った。

三郎 (父)   2000年(平成)12年8月8日  75歳

藤本の墓参は義母が般若心経を唱えている間、皆は立ったまま全員で手を合わせるが、実家は一人ずつ正前にしゃがんで手を合わせる。
私は両親を初め故人に対して手を合わせるのではなく墓前で神に祈る。昨年は知子たちは来なかったが、今年はユキを膝にとって墓前にしゃがんだ時、自然に父と母に語りかけていた。そして、神への祈りに導かれた。

「お父さん、お母さん、この子が私の孫です。知子の子供です。(嗚咽)お父さんとお母さんの曾孫ですよ。(嗚咽)
兄も私たちもそれぞれに苦労していますが、お父さんとお母さんのように最後までしっかり生きていきますから、どうぞ安心してください。

天のお父様、今年も兄と一緒に両親の墓前に来られたことを感謝します。今年も妹の姿はなく一緒に来ることができませんでしたが、どうぞ兄の家族も、妹の家族も、私の家族も皆、天国へ入れてください。これからの一年もどうぞ私達を見守りお導きください。
(最後はユキと一緒に声を合わせて)このお祈りをイエスさまのお名前により御前にお捧げします。アーメン」。


ユキの声が天空に響いた。
神さまは一言のお祈りも決して忘れることなく覚えていてくださる。
父が亡くなって12年目の夏である。

附記:正確にはこの記事は17日に書いたものであるが日付けを16日とした。
posted by 優子 at 21:45| 奈良 ☀| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2012年08月12日

平和聖日礼拝を守る

今朝は休暇中の古森牧師に代わって高見敏雄牧師(西大和教会名誉牧師)が講壇に立たれ、終戦記念日を前に「人を大切にする熱い思いを持って」と題して説教された。

冒頭で、「まず戦責告白するのが平和聖日の務めであろうと各教会が平和聖日礼拝を守っている。全ての教会がそうであってほしい」と述べられ、配布してくださった「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の中心部分(下記下線部分)を読まれた。

第二次大戦下における
日本基督教団の責任についての告白

わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。

まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれに続く戦時下に、教団の名において犯した過ちを、今一度改めて自覚し、主の憐れみと隣人の赦しとを請い求めるものであります。

わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。

明治初年の宣教開始以来、我が国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちはこの政府の要請を契機に教会合同に踏み切り、ここに教団が成立いたしました。

わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さと過ちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。

「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明(正しくは命令)いたしました。

まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うと共に、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また我が国の同胞に心からのゆるしを請う次第であります。


終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団が再びその過ちを繰り返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

    1967年3月26日 復活主日 総会議長 鈴木正久

以下は説教の要旨である。

当時は礼拝に特高警察が入り、週報に「宮城遥拝(きゅうじょうようはい)」と書いてあるかもチェックしていた。「宮城遥拝」とは、神である天皇のいるところに向かって拝礼するという意味である。

このことがドイツのボンヘッファーの耳に届き、「日本の教会は皇帝礼拝をしているのか」と嘆いた。「イエスは主なり」であるのに「皇帝は主なり」と言っているのは悲しいと嘆いたのである。

マタイによる福音書5章9節:
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう」。


私たちは「平和を守る」ではなく「平和を作り出す」努力をしなければならない。大江健三郎は「平和のために戦争を記憶し続ける努力をしましょう」と述べている。

そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。

何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。

その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
  
        (ピリピ人への手紙2章1節〜11節)
  
「パウロは他者を熱い心で愛せよと勧めている。『熱い心をもって仕えていく』というのは、洗礼を受けた者はキリストの心を持って他者に仕えることを選び導かれていくことである。」と説教を結ばれた。

話の中にあった陸軍砲兵工廠(こうしょう)や大阪空襲について、私の幼い時の記憶を辿ってみたい。

東洋一の規模を誇った大阪砲兵工廠は、大阪城周辺の現在の大阪ビジネスパークからJR森ノ宮駅にあったというから、あの焼け跡がそうだったに違いない。

まだ父が自家用車を持っていなかった時、母方の祖父母の家へ行くときは環状線(当時は「省線(しょうせん)」と言っていた)に乗り、大阪から天王寺まで行く途中で茶褐色の大きな建物の焼け跡があり、その鉄骨を見るたびに怖かったことが今も忘れられない。

あれが大阪砲兵工廠のあとだと思う。私が4〜6歳の頃だったと思うので、戦後10年後頃はまだまだ戦禍のあとが残っていたことがわかる。読書会でも両親(父は大正15年、母は昭和元年生まれ)の世代の人々がその話をしておられた。

9月26日追記:数日前の電話で叔母に聞いた話より

叔母は北浜の証券会社に通勤していたので環状線に乗っていたわけではないが、私の幼児期の記憶にある茶褐色の焼け跡はやはり大阪砲兵工廠だった。

あの辺りは大阪の中心地だからいつまでもそのままにはしていない。あの頃電車の車窓から見ていたのは2歳頃のことのようで、父か母に抱かれて見たのだろうとのこと。そう言えば、電車はいつも混んでいて嫌だったことを覚えている。

「淀屋橋から高島屋が見えた。御堂筋も焼け野原で、当時一番大きな建物だと言われていたガスビルと、大丸とそごうの建物が残っていただけだった。西には住友の本社があり、あとは朝日会館とダイビルだけだった」。

肥後橋、住友病院の辺りだ。
朝日新聞社ビルがあるので「朝日会館」という字を当てたが、「ダイビル」についても正しく聞いておきたい。父や母からもよく耳にしていた名前だ。 

砲兵工廠のことは今日から記憶にとどめる名前だ。60歳と年齢を重ねているとは言え、戦後6年後に生まれた私は、父がよく戦時中の話をしてくれていたにも関わらず関心をもって聞いていなかった。今となってはとても悔やまれる。

大阪空襲では、米軍は淡路島と淀川を目印にして飛んできたそうだ。そして、「8月14日午後約150機のB-29の集中爆撃で工廠は80%以上の施設が破壊されその機能を失った」(ウィキペディアより)とある。大阪が焼け野原になったのは終戦前日のことだったとは!

中学から同志社へ通うようになった1963年の頃、大阪駅界隈の地下街には傷痍(しょうい)軍人が立っているのを毎日のように見ていた。戦場で手や足や目を失った人々だ。松葉杖をついて目の前にはアルミの飯ごうや蓋を置いて立っていた。

どの人も白い服を着て、足には父から聞いていたゲートルを巻いていた。濃い色眼鏡をかけ、アコーデオンを弾いている人もよく見かけた。今となってはこれも貴重な戦後の記録になるだろう。

私は彼らが戦場で怪我した軍人さんであることは知っていたが、子供心に怖くて、そばへ行ってお金を入れたのは2回くらいだったと思う。そして、高校生になる頃にはその人たちの姿は見えなくなっていた。
大学に入学した1970年は万博の年で、日本は経済大国への道をまっしぐらに突き進んでいくのである。

広島と長崎の原爆投下、そして、終戦。「終戦ではない敗戦だ」と言っていた人もいた。8月は一人ひとりが悲惨な歴史を振り返りじっくり考える時だ。

附記:礼拝後の「交わりの会」(愛餐会)の一言スピーチでは、高見牧師との機会を生かして聖餐式のあり方で争っている教団のことと、一致できないことを一致するにはについて、また、師ご自身の聖餐式のあり方についての見解をお聞きした。

敬愛する牧師と同じ見解であることを確かめることができた。
「話し合い続けること、考え方の違う人を決して切り捨ててはならない」と強調された教えが私の心に深く刻まれた。

その後知子はより詳しく突っ込んで、自分の考えを語り教団の問題点を指摘した。
教団は「第二次大戦下における日本基督教団の責任告白」をしているが、現教団はかつてと同じ過失を繰り返しているではないかと結論づけたことに、高見牧師は深く頷かれ同意された。

80歳になられる高見牧師は実に柔和で穏やかにして非常に気骨のある尊敬する牧師のお一人だ。

posted by 優子 at 23:59| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2012年08月10日

地域のラジオ体操とユキの成長

毎年8月1日から10日間開催される自治会のラジオ体操でユキの成長を追った。
2009年・ラジオ体操.jpg

2009年夏、2歳になったばかりのユキはこんなに小さかった。
この頃の知子の姿は痛々しく心はズタズタに傷ついていた。そして、このあとも壮絶な中を通らねばならなかった。

この夏に始まった自治会のラジオ体操は初年度だったこともあり、ユキが最年少の参加者だった。
この年、私は自治会の副会長(Aブロック会長)を務めており、市に対して援助金申請しようと世代間交流を名目にアピール文を書こうとしていたので、幼児の参加は大歓迎だった。今年も4世代が集まり自治会が一つの家族となるイベントとなった。

今夏は高齢者と同じくらい幼児や学童の参加者が多くなり、夏の行事としてすっかりこの地に根づいた。この住宅地ができて50年近くになって初めての「ふるさと文化」的なものが誕生したのである。
先日もその先導者となった当時の自治会長Kさんにお話しして労をねぎらったことであった。

次は2010年、3歳のユキだ。
この9月から知子が勤務に就き、私とユキとの生活が始まる。
2010・ラジオ体操@.jpg

次に2011年、4歳。ラジオ体操A.jpg
この頃次女夫婦が帰国中で、帰米すればミネソタからワシントンへの引越しを控えており、日本からも沢山の荷物を航空便と船便でワシントンへ送った。

そして今朝のユキ、5歳になった!
2012年ラジオ体操・ユキは5歳に!.jpg

この頃生意気になってきたのも成長の証し。
昨日は『フクシマ』の特別授業に付き合ってくれたのはいいが、その帰りはバッタ採りに付き合わされた。ふらふら

「おばあちゃん! ユキちゃん、今まで待ってたやん! だから今度はおばあちゃんがユキを待って!」と主張されて、炎天下の昼前のバッタ採りとなった。
しかし、15分間が限界で説得して続きは夕方にしてもらったが、とにかく正論で主張してくるので今後は論理的に対処しないと納得してもらえそうにない。

ラジオ体操では毎日参加賞があり子供だけではなく大人にも配布される。その配布数で参加人数を把握するので遠慮は無用なのだ。これはある朝の参加賞でいただいたガラス瓶のラムネ。

初めてのラムネ.jpg

ユキにとっては生まれて初めてのラムネなので、ビー玉でふさがらないように飲むのも初体験。ロンドンオリンピックを見ながら飲んでいる。

ついでにアッと驚くユキの素麺の食べ方を!
ユキちゃんの素麺食し方.jpg

お手伝いもよくしてくれる。新聞を取ってきたり、チャッピーの食事の世話、取り入れた洗濯物のタオルをたたみ、大好きなクッキングetc・・・ユキのお手伝い.jpg

今朝はラジオ体操に行く道で羽化しかけの蝉を見つけ、ユキに安全な場所に移してもらった。殻から頭が出ていたが羽化することなく死んでしまった。私は悲しくて悲しくていつまでも見つめていた。涙が頬を伝った。

夏休み中のユキの一日は、網と虫かごを持ってチャッピーと一緒にママの見送りから始まる。
駅の往復で10匹以上の蝉を採る。私も60歳で初体験、なかなか面白いものである。近頃は採ってすぐに逃がしてやることが多いが、家に着いたら必ず大ばあちゃんに見せに行くのが日課になっている。

ユキとの日々、時間はゆっくり時を刻んでいる。


posted by 優子 at 23:42| 奈良 ☀| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2012年08月09日

特別授業『フクシマ』を参観

4年前から始まった自治会主催のラジオ体操も明日が最終日、今年は寂しさよりもホッとするのはしんどいからだろうか。

また3年前から毎年夏休み中の3日間、小学生を対象にサマースクール(学習お助け隊)が集会所で開かれている。最終日の今朝は4年生を対象に特別授業『フクシマ』も開催され、私はユキと一緒に参観させていただいた。

授業に参加したのは自治会在住の小学4年生6名で、授業者は「香芝市・放射能からこどもをまもる会」の主宰者N氏だ。
先月は香芝市長の懇談時間を確保してくださりご一緒させてくださった方である。私と同年齢で現役時代は聾学校(高校or中学?)で社会科を教えておられた。

今日の主な授業内容をご紹介したい。
@ 福島の地理と現状、フクシマで何が起こっているか。
原爆は1年後には残存物が1000分の一に減ったが、原発事故は僅か10分の一である。
0.6μSv/h(毎時マイクロシーベルト)以上は危険であることを覚えておく。

次に、日本全国地図や福島県地図を見て福島について話し合う。
福島には日本で4番目に大きい湖の猪苗代湖があり、日本一の桃の生産地であること。福島県の右端が「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈の間が「中通り」、奥羽山脈の左側が「会津」の三つに区分される。「中通り」も放射線の数値が高い。

A フクシマ訪問の報告。
N氏は昨年11月にご家族でフクシマを訪れ、その時の様子をパワーポイント(プロジェクター・スクリーン)で見せてくださった。
原発20kmが警戒区域でそれ以上行けなかった。放射能測定器から「ピピピピ」と警戒音が鳴りっぱなしだったという。その地点での線量は0.38(車内では0.22)だった。

ところが60kmの渡利(わたり)地区では1.08(車内では0.3)もあり、放射能汚染は同心円ではないこと。(2012年3月時点で0.8に下がっている。)
福島の人々は野菜や米は会津産の物を放射能測定して食べている。

B 放射能測定器の使い方の指導と測定。
最も簡易な測定器(左手前の体温計に似た形のもの。値段は3500円)から、ガンマ線やベータ線も測れる高価なもの(10000円と50000円のもの)まで計4台の機器で部屋の線量を測定した。

放射能線量計.jpg

それぞれに、0.05μSv/h、0.054μSv/h、0.16μSv/h、
0.17μSv/hの数値が測定された。後者の二つはガンマ線、ベータ線も測定しているので数値が高く出ているということだった。

C 神奈川県から避難してきている子供の作文を紹介して授業のまとめ。
原発事故後、何日も下痢が続いたり首筋が腫れた。関東にいるときは給食時はお弁当を持参して食べていた。「秋を見つける」という授業で、葉っぱやドングリは触らないで見るだけ、秋の芋掘りは中止、雪遊びも中止・・・そして、香芝へ避難してこられた。
改めて放射能汚染の深刻さを実感させられる。

2時限目は自然エネルギーの必要を学び、風力発電の模型づくりが予定されていたが、ユキが限界だったので私は1限目だけで失礼した。

私は恐縮しつつも授業の準備やサポートもしないで子供たち同様に学ばせていただいた。N氏との交わりを重ねるたびに社会のために奉仕されている姿と人柄に感銘を覚える。

私の通っている教会の牧師は6日(月)から10日間の夏休みをとり、6日から東北教区被災者支援センターでボランテイアに出かけておられる。そして、12日(日)には私たちの教会が支援し続けている白石(しろいし)教会を訪問される予定だが、今日の学びで白石が強い放射能汚染下にあることを知った。

私も是非一度、被災地を訪ねたいと思っている。自分の足で被災地に立ち、自分の目で見なければならないと内なる促しを感じている。

附記:美濃紙業のHP、" being & doing " が更新されました。「お気に入りリンク」の「美濃紙業株式会社」からお入りください。

posted by 優子 at 21:51| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2012年08月06日

教会の歴史に見る人間の実相

キリスト教会では概ね月の初めの礼拝で聖餐式が執り行われるが、昨日の説教に関連して聖餐式について考えたい。

聖餐式とはいわゆる「最後の晩餐」に由来し、イエスが十字架上につけられる前に弟子たちと最後の食事をし、ご自身の記念としてこの食事を行うよう命じられたことが「コリント人への第一の手紙」11章24節から29節に記されている。

主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

この「わたしの記念として」とは「キリストを思い起こして」の意味だ。

さて、聖餐式では厳粛な気持ちでパンと葡萄ジュースをいただくのであるが、未信者にもパンと葡萄酒を授けるのかどうか賛否両論あり争点になっている。大きく分けると3つの立場がある。

まず「オープン」と呼ばれるのは、他教派の者であってもキリストを救い主と信じて洗礼を受けた者は聖餐に与ることができ、「クローズド」はその教会の教会員や同じ教派の受洗者だけに限られ、「フリー」は礼拝に出席している人ならば未信者であってもその人の意思で与ることができるというものである。

これまでの長い教会の歴史では、他教派の人さえ認めないクローズドが伝統になっていた。
私が洗礼を受けた教会は「オープン」であった。そして、当地に移って5〜6年通っていた教会は「フリー」形式をとっている。

「フリー」の聖餐式が現れたのは2000年の教会の歴史から言えばつい最近のことだそうだが、パンと葡萄酒はどういう意味を持っているかという聖餐論については、宗教改革者のルター、ツヴィングリ、カルヴァンでさえ全く一致を見ることなく、キリスト教会は分派分裂の歴史だった。

そして、ようやく光が見えたのがエキュメニカル運動で、1982年のリマ会議で50年に渡って論議されてきたことが合意され、考え方の違いを超えて聖餐式が一つになろうとしているという。(「リマ文書」)

オープンの教会で養われてきた私にはフリーの聖餐式に驚きはしたが、自分なりに調べてみようと思うほど強い問題意識もなく、それぞれの教会の立場を受け入れていた。

聖書を学んだ牧師たちの間でも多様な考え方があるということは、どちらかが完全に間違っているというものではないのだろうと思っており、そんな程度で気にならなかった。 

しかし、聖餐式の問題は神学であり聖書解釈学の問題だ。福音の純粋性、真理を守る闘いならば闘うべき闘いであり、真理のためには分裂もやむおえないこともあるだろう。ただし、主張はしても神に先立って裁いてはいけない。

実は日本基督教団内では聖餐式の解釈問題から大きな争いが生じている。キリスト者同志の争い事をブログの記事にするのは書く目的からそれるのではないか、何よりもキリストを遠ざけることになるのではとの思いから今まで取り上げないでいた。

しかし、人間とはいかに弱く罪深いものであるかを認識することは懸命であり、特に自らを深く洞察しようとしている人には真摯に読んでいただけるのではないかと思う。

やはり良いことだけではなく好ましくないことも取り上げるべきであり、それについて私はどのように考えるのかを書いてこそ『メメントドミニ』が『メメントドミニ』となる。


考え方の違う人と争いが生じた場合、十分話し合っても理解し合う余地がないならば神の主権に任せるのが懸命だ。
教団の総会でどのような話し合いがされてきたのか知らないが、裁判になった時教会として北村師(未信者にも聖餐を与えた牧師)を支持するか否かについて話し合われた時、当教会の女性牧師は「いじめ問題」の視点で議論されていたことが腑に落ちなくて異和感を覚えた。

これはまさに各人の信仰問題そのものゆえに、教団に対しても自分(教会)の立場を明らかにせずしての議論はありえないというのが私の考え方だ。信仰を守るというのは時としてリスクを伴うものであり、その旗印を掲げる覚悟がなくては焦点がずれる。

余談になるが長女の離婚問題についても信仰者の意見は二分し、クリスチャンだから絶対に離婚はいけないと誇示された方がおられた。知子の場合は聖書の教えを戒律的に固執するのではなく失敗を認めてやり直すべきと思った。

その方とは最後まで神の導きについて一致することはなかったので、私は「離婚の裁きも引き受けての選択です。」と語気を強めて言ったものだ。全てを神の主権に委ねてのことである。

その後、知子と私は主の臨在と平安の中で生かされているので、この選択は間違っていなかったと神のゴーサインであったと受け止めている。

聖餐式の話に戻そう。
女性牧師は言われた。
「安価な恵みの福音がフリーの聖餐に現れているように思う。また、キリストの命がかかっている高価な恵みである血の値の高価さ、救いの恵みに応えようと自発的にするのが奉仕である」と。

私も聖餐は福音であると受け止めている。
夫のように主イエスが自分の救い主であると信じるに至っていなくても、イエスならば礼拝に出席している者には共に食事をしようと誘って下さるに違いない。そのように私は聖書を読んでいる。
聖餐式については自分なりに学び考えたい問題となっている。


posted by 優子 at 21:13| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2012年08月04日

「創造の音高し!」の背景

今朝更新した美濃紙業(株)のホームページ、" being & doing " (http://being-and-doing.seesaa.net/)の「創造の音高し!」に関連して、" being " の部分を詳しく述懐したい。

近頃孫との関係で、人間に備えられている能力をいかに引き出すかということについて考えさせられることがある。
というのは、周囲の幼稚園児は水泳やサッカーなど運動系だけではなく、英語や公文など学習塾にも通っている子が多いからだ。

しかしまた、これは私の子育て時代でも見慣れた状況であるから敢えて驚きはしない。今から30年近く前のことであるが、兄の子供は幼稚園の時に「猫」や「熊」など、大人でも難しい漢字を覚えさせられているのを見て驚愕したものだ。
幼稚園時代の毎月の教育費(一人分)に15万円かかると聞いて、私は返す言葉がなかったことを覚えている。

だからといって我が子に何も学ばせなくていいのだろうかという不安は全く感じなかった。私の教育観とは全く異にするものだったからである。

私が与えてやれる教育の中枢に据えたのは「感じ考える教育」とでも言おうか、何事も驚異の心で感じる感性を育ててやることと自分の頭で考える姿勢だ。

このことが備わっていなければ知識獲得合戦は意味がなく知識を運用することができないし、学校という教育機関を離れてからこそ学び続ける知的探究心を生涯持ち続けて欲しいと願って育てたのである。

この考えから自我の目覚めが始まる小学校中学年の頃からは、誰が言っていることだから正しいのではなく、その人の言っている内容で判断しなさいと教えた。先生も親も間違うことがあるからだ。

今日更新した美濃紙業のHPに「問題意識を持って生きることと表現力が不可欠」と書いた根底にはこの理念が流れている。
そのために自分の気持ちや考えたことを伝える力を養うために、理解力、論理力、応答力、語彙力、説得力、プレゼン力などに力が入った。

知子は今、この同じ理念に立って社員たちの指導に精魂を傾けている。その具体的指導力は目を見張るものがあり、この困難を通して知子に備えられていた能力が豊かに開花したのである。

察しの文化の中で育った日本人は、親は子供の気持ちを察して先回りしてやってあげることが多い。私もまたその例外ではないのだが、外国では子供が意思表示しないと親は与えないと言う。

他者の気持ちを察するということは素晴らしいことには違いないが、子供の言葉の発達から見れば喜んでばかりはおられず、これを書きながら孫との関わり方も今一度見直さねばならないと思った。
以前よりも盛んになっている英語教育については別の機会にゆずりたい。

さて、社員たちは大人になり切っている年齢で異文化のごとき新しい価値観に立つ教育を受けて、さてどのような変化を見せるのか教育学的にも興味深くもある。お互いに良き影響を与えながら生きていきたいものである。



posted by 優子 at 22:34| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2012年08月01日

2012年夏 ―ユキは初めての夏休み―

今年も今日から10日まで自治会主催のラジオ体操が始まった。そして今日は夏休み中の初めての登園日でプール遊びが予定されている。
昨日の朝はまだ38度5分もあったので休ませるつもりだったが、ラジオ体操でお友達と会って急きょ出席することになった。知子と私の気持ちが動いたのである。

今朝は月初の朝礼があるので知子は父親と出社せねばならず私が用意することになった。いくつかの忘れ物があったが几帳面なユキにはこれもまたいいだろう。

しかし、かわいそうなことをした。
帰る道すがらユキはまた「頭が痛い」と言った。ふらふら
いつもこのあとに熱を出しているので、帰宅後すぐにシャワーに入れて正解だった。数時間後に熱が出てきて38.7度あった。休ませてやればよかったと悔いた。それに明日はユキと一緒に高島屋へ行くのをすごくすごく楽しみにしていたのに。7月から4回目の熱出しだ。
クマゼミとアブラゼミ.jpg
ユキが見つけたクマゼミとアブラゼミ

朝食中に見つけたセミは昼食の時もこのままのセミを見ながら食べていた。その後まもなくクマゼミはいなくなった。ユキの帰りを待ってくれていたんだね。

カラスよけ.jpg

夏場は玄関に日陰ができる10時半頃までチャッピーを玄関内に入れてやっているのだが、7月に入ってカラスに狙われて生ゴミを何度も荒らされている。

そこで子供たちが使っていた沐浴のバスタブをゴミの上に置いてカラスよけに使うことにした。「こんなユニークなことをする人はいないわ」と長女は笑うが、先週から被害に遭っていない。カラスに勝った!わーい(嬉しい顔)
1977年の沐浴器.jpg

ユキの水遊びに使ってやろうと思っていたのにカラスよけになってしまった。35年前のものとは思えない。物持ちがいいでしょう?

ユキちゃん、早く元気になあれ!

posted by 優子 at 23:36| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする