2013年08月31日

ランドセルの思い出ふたたび

夏休みが終わる直前の昨日、ユキとユキをかわいがってくれる叔母のために再び六甲まで出かけた。この前訪ねてから20日しか経っていないのに出かけたとは、出不精の私にはかなり珍しいことである。

しかも台風の影響で天気が悪くなるということや、数日前から体調不調も重なっているのに心が決まらず、家を出る45分前まで葛藤しての決断だった。血圧は高くはなかったので。

今回も叔母と六甲で待ち合わせたので、近鉄電車一本で行ける「阪神なんば線」ではなく阪急電車で行った。ユキも3種類の電車に乗れるとあって大喜びだった。

阪急電車で六甲へ.jpg
行きの梅田駅で。
↓ 帰りの電車で。
特急で梅田へ.jpg
特急の最高速度は115キロだったね。

終点梅田駅に!.jpg
まもなく終点梅田に到着。ビルの中に入る。

到着!.jpg
無事到着で〜〜す!!!

梅田を発つ前に、今週初めに大雨で冠水した茶屋町や「かっぱ横丁」を横目に見ながら紀伊国屋書店へ寄った。
ネット時代になっても店の雰囲気は学生時代と全く変わってはいなかった。私は15年ぶりぐらいだろうか懐かしい空間だった。

ユキに絵本や児童書を買おうと思って入ったものの、電力不足にも関わらず書店は冷蔵庫並みの冷気で、体調の悪い私はすぐにおなかが痛くなって店を出た。

結局レジ近くに大々的に平積みされていた曽野綾子さんの新書版(『人間にとって成熟とは何か』)を一冊買っただけで、帰りにもう一度立ち寄って日本地図と世界地図が一冊になった地図帳を買ったものの、ユキの本は一冊も買わずじまいだった。
私の楽しみは増えて嬉しいが、ユキの本はネットで検索して買ってやろう。

さてさて叔母は先週から、来春小学校に入学するユキのランドセルを買わせてほしいと言ってくれ、思いもしなかった驚きと嬉しさと同時に私たちが買ってやりたいとの気持ちで揺れている。

そして、知子と真智子の時を思い出した。
知子のランドセルは実家の父(父母)から祝ってもらうつもりが、藤本の父が買ってくれるというので困った。父は買ってやるのを楽しみにしてくれていただけに、何も言わずに身を引いてくれた父の顔に寂しそうな気持ちが窺われた。

義父はランドセルと机を買ってくれたので、結局、両親からは「何か買ってやって」とお金でお祝いしてもらったものの、何も買うものがなくて申し訳なかった。真智子の時も同じだった。

あの時私は、私の両親に心遣いの一言がない義父のことを夫に愚痴った。

その後義母が何度も「おじいちゃん(伴侶)は孫にはみんなランドセルと机を買ってやった」と言っていたことも思い出すのだが、今は若い頃以上に義父への感謝の気持ちがあり、年を取るのはいいことだと思う。勿論、父の愛と父への感謝も若い頃よりも深い。

そして今、今度は祖父母になった私たち夫婦がユキのランドセルを買ってやりたいし買わせてほしいのだが、どうしたものだろう。
叔母(母の妹・ユキの大叔母)の気持ちを大切に感謝して受けるのが良いのだと思う。叔母には孫がいないから。知子も同意してくれた。


叔母ちゃん、ありがとう!
ユキと叔母と.jpg
ユキは幸せやね。

21時15分追記:
台風15号は昨日温帯低気圧に変わったものの不安定な大気が続いている。今日の午後は確実に雨が降ると思われたが予報は見事に外れ、予定されていた自治会初の納涼大会(夕方4時〜夜9時)は最後まで執り行われた。
自治会初の納涼大会.jpg
2013納涼大会.jpg

金魚すくいとスーパーボール釣りをして、わたがし、たこ焼き、焼きとうもろこし(これはおじいちゃん)、そして、光るミッキーマウスを買ったね。

明日9月1日は日曜日なので新学期は2日から、またこの公園に集合して集団登園の日々が始まる。今年も園舎の耐震工事の関係で、新学期早々の4日に遠足があり海遊館へ行くことになっている。

そして、22時55分再追記:
忘れてた!
明日は愛する夫の68歳のお誕生日だった!!!ふらふら


posted by 優子 at 18:00| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年08月28日

未掲載の写真で綴る幼稚園2年目の夏休み

今月半ば頃より先週までの10日間ほど、ユキは文句ばっかり言ってとても反抗的だった。これも成長の一場面であることを重々承知しつつも、私は先週末に音(ね)を上げた。

鈍感そうな、いや、大らかな良輔おじいちゃんまでユキの心の叫びを真摯に受け止めたほどで、土・日の家族の関わりかたでユキの心は修復されたのだろうか、まるで憑きものが落ちたように今週から素直なユキに戻った。

最近感じるユキの著しい成長としては、外でも恥ずかしがらずに自分からしっかりと「おはようございます」と挨拶ができるようになったことだ。昨朝は無愛想な人までが、「いつも挨拶してくれはるねん」と笑顔で言ってくださってビックリした。

では、2013年夏の日々を刻みたい。
7月27日の朝にマチが、夜にクマ(フー)が帰国。その翌日、ドラッグストアーで日本の商品を調達しているところ。

2013夏C.jpg
今はまた頑張って仕事をしているんだろうな・・・
8月1日、マチ・クマと4人で難波へ買い物に行った時、純和風の甘党の店で一休み。アメリカ勢の二人同様、私も久々のかき氷だった。おいしかったね。ユキにも一人前注文したが、さすがにユキは全部食べられなかったね。
Chuo-Ku Osaka-Shi-20130801-00259.jpg

次はマチ・クマが日本を去る前日の8月5日。お昼寝前にクマに『くまのコールテンくん』を読んでもらっている(笑)。マチはもう寝ているよ。
お昼寝.jpg

その夜の花火。最後の線香花火を撮りたかったがシャッターチャンスを逃してしまった。楽しかったね。
花火A.jpg

マチ・クマが帰米した日の帳が下りる頃、ユキは寂しくて泣いてしまった。この時、2人は日本を飛び立って3時間半。太平洋の大海原の空高くアメリカ目指して飛んでいた。
マチ帰米した夜A.jpg
真智:「ありがとう。ゆきちゃん、そんなに慕ってくれて嬉しいよ。
ふうもまちもゆきちゃんが大好きよって言っておいてね」。

夏の午前中は陽射しを避けるために玄関内で過ごすチャッピー。お盆明けから毎日「チャッピーとプラレールで遊んでいた」。チャッピーは落ち着けなくて休息できなかったけれど・・・犬

チャッピーとユキ@.jpg

新学期前夜に必死になっていた昨年とは大違いで、「なつやすみ やくそくカレンダー」や「2013 こども3つのやくそくカレンダー」に空白はない。

2013年やくそくカレンダー.jpg
今シールを貼っている「3つのやくそくカレンダー」は、「おはよう・おやすみなさい」の挨拶と「おてつだい」をしたかどうかの記録である。
この写真は今朝のこと、「『おやすみなさい』は絶対に言うから今貼っとくね」と融通もきかせるユキ。まあいいか・・・わーい(嬉しい顔)

ピンク色の紙は朝・夜の歯磨きとお天気調べの「やくそくカレンダー」で、裏面には絵か貼り絵をすることになっている。ユキは答志島での楽しかった時を貼り絵にした。

初めての海!.jpg ユキとマチと.jpg
21時30分追記:この貼り絵にそっくりの写真があったのでアップした。
左がユキで右が真智。上手にできたね。
「うきわをして初めて海に入ったよ!太志おじちゃんはスペースがなくて描けなかった〜!」とママのコメント入り。乗ったのは賢島行きの電車ではなかったけれどなぁ・・・(笑)

これは今朝の光景。ママのお見送り@.jpg
会社に行くママをお見送りするのももう僅か、夏休みが明けたらユキも幼稚園! 猛暑の頃はチャッピーがダウンするので駅まで行かずに日陰のある所までだったね。
駅でママにわたしたお手紙。
ママのお見送りA.jpg
ユキは毎日のように家族一人ひとりに手紙を書いてくれる。私たちだけではなく、生協のAさん、近隣のNさん、大ばあちゃんにも手紙を書いてわたす優しいユキ。

昨夜は帰りが遅くなったママに会えなくて、寝る前に一生懸命書いていた。それを読んでホロリとさせた。
「ままおかえりままおそかったねままあしたわ6じにおきるよゆきより」

記録的な猛暑もようやく治まった。24日から急に朝晩は涼しくなり、夜は足や膝が冷えるほど肌寒い。これを書いている今、ツクツクホウシの声で晩夏になっていることに気づかされた。

※「故キング牧師しのぶ展示会」が開催されているワシントンで、8月24日に大行進が行われ参加者は数万人に上ったというが、日本で報道したのは北海道新聞だけか?

キング牧師の演説からちょうど50周年にあたる28日にも大規模な行進が予定されており、バラク・オバマ大統領やビル・クリントン、ジミー・カーター両元大統領が演説する。


posted by 優子 at 17:19| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年08月26日

藤圭子さんの死に思うこと

藤圭子さんのファンだったわけではないが、投身自殺の報道は非常に衝撃だった。私と同じ1951年生まれだったことも衝撃だった。

その後、娘さんとの関係が悪かったことを知り、単に芸能界の人としてではなく友人か知人のことのように感じ、これから生きていかねばならぬヒカルさんのことばかりを思っている。

夫・宇多田氏は次のように現在の心境を綴っておられる。
出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。

この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました

しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。

とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました
結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます。

最終的に僕から救いの手を差し伸べられなかった悔しさ、大切な人間を失った悲しさでいっぱいです。

これを読んで、一瞬、島尾敏男の『死の棘』が脳裡をよぎった。「彼(島尾)はひたすらに精神を病む妻に寄り添い、寄り添うことで妻を癒し・・・」。
宇多田氏もどんなに苦悩に満ちた日々であっただろうか。繰り返す離婚再婚、そこに宇多田氏の妻への愛情を強く感じる。別れてしまえば他人になる夫ではなくて、子を思う親の愛のようだ。

ヒカルさんの想いも公開された。
8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。さまざまな臆測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。

彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。
その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。

幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした
 

母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。

誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。

悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。
ありがとうございました。

母親への両義的な思いが見て取れる。どれもこれも本当の気持ちだろう。
お母さんが悪いのではなく、病気がそうさせているのだと受け止めての苦悩であったので、まずは安堵した。だから感謝の気持ちも失ってはいないのだ。

それでもどんなに苦しかったことだろう。
私が最も悲しいのは、毎回繰り返される地獄のような日々がお互いを遠い存在にさせてしまったことだ。


「母」を「母」と呼びきれず「彼女」になるのは心の現われで、そのこともわかって書いたのだろうか。あるいは葛藤して悩んだあとも「母」とは書きたくない、書けなかったのだろうか。あるいはまた、英語圏で育った者の自然な言葉とも読める。私は今も何度も読みながら考えている。

母親のこのような最期を受けて残された者の心の痛みは計り知れないが、距離を置かねば生きていけなかったことも含めて、精一杯の関わりをしてきたのだから自分を責めないでほしい。

そして、どうか遺体になったお母さんと別れを告げてほしい。会わないままで荼毘にふしてはいけない。このことはことのほか大切なことだ。何よりもこれから生きていかねばならない自らの長い人生のために。

そうすれば、あとはゆっくり悲嘆のプロセスを進んでいける。そして、いつか必ず「笑っている」お母さんの思い出に抱かれることだろう。母をゆるし自分をゆるすことができた時に。

神さまが勇気を与え現実から逃げずに別れの決断をさせてくださるように!


藤圭子さんは病気ゆえに人の言葉に耳を傾けることができなかったが、自分で悩みこまないで誰かに話すことがどんなに大切なことか。その「誰か」がいない人は公的な窓口もある。

どんなに苦しくても与えられた命を生き抜かねばならない。神に祈れ!必ず突破口が開かれる!


附記:ニュースが流れて4日も経っているが、やはりやむにやまれずに夜遅くから一気呵成に書いた。今日の記事にと夕方から下記のものを書きかけていたものがあるので、それも削除しないで記録しておきたい。

今月6日未明、ユキ以外全員が目を覚ますほどのゲリラ豪雨だった。その朝、マチ・クマが8時の電車で再びアメリカへ帰った日だった。

以来雨は一滴も降らず、かつてない猛暑日になった。さすがの私たちもお盆休みに入った頃からクーラーなしでは眠ることができなくなった。

そして23日の夜9時頃、待ちに待った雨が降り出し、それを堺に急に10度以上も気温が下がった。雨が上がった今日も季節はひと月先の9月末だ。

そんな昨日、豊中や大阪もゲリラ豪雨に見舞われ、大阪駅界隈で午前10時45分から10分間に降った雨は27.5ミリで、1937年の観測開始以来最大だったという。

最高度の排水設備を有していたが処理できず、阪急梅田駅(茶屋町)の道路が冠水し、ビル内の「かっぱ横丁」が水浸しになっていた。

明日以降は再び夏に戻るので嬉しい。猛暑はコリゴリだが、8月にこの涼しさはいやだ。
夏を丁寧に味わいつつゆく夏を惜しみ秋を迎えたい。

posted by 優子 at 23:59| 随想 | 更新情報をチェックする

2013年08月22日

真智子を通して届けられる神の祝福と励まし

ワシントンに移って1年経った頃、次女夫婦は Washington International Japanese Church(ワシントン インターナショナル 日本語教会)に導かれた。

次女は幼稚園時代より高校時代までの15年間、熱心な求道者として教会生活を送っていた。私の母教会であり、自宅から自転車で20〜30分のところにある日本イエス・キリスト教団・放出(はなてん)教会である。

1999年4月、神戸大学の入学式を明日に控えて東大阪から当地に引っ越してきた。以後4年間は毎朝6時過ぎの電車で奈良県から大阪を越えて六甲へ、帰りは最終電車で午前0時頃に帰宅という厳しい生活にかわり、地理的なことに加えて体力的にも教会へ通うことはできなくなってしまった。

しかし、幼い時から蒔かれたみことばはずっと真智子の中で育まれていたので、東大大学院に籍を移して間もない時、自ら求めて千駄木近辺の根津教会を探して時々通っていた。

次女は人格形成やその後の進路決定においても聖書から大きな影響を受け、常に主イエスと共に在って主イエスを求めて歩んできた。そして神は、ミネソタ時代に真智子を通して伴侶をも救いへと導き入れてくださった。

ワシントンで通い始めた教会のことや牧師のことは昨秋頃から何度か話してくれていた。以来、私は時々教会のホームページを開き、昨日も"ホームページ" 上でいくつか礼拝メッセージを聴いていた。
マチ・クマが礼拝に集っている姿を想いつつ、霊的一体感の恵みを感じ嬉しかった。

知子とユキがワシントンを訪れた6月上旬、牧師は帰国されていて知子たちはお目にかかれなかったが、その時の帰国中にクリスチャンのテレビ局・CGN TV に出演された対談がHP上で紹介されている。

「対談 信仰と人生」から、西郷牧師の宣教姿勢が伝わってきた。
 

私が感銘を受けたのは、西郷牧師を通してアメリカで信仰に導かれて帰国された人や、洗礼こそ受けていないが「殆どクリスチャン」として帰国された人が、その後も恵みの中で育っていかれるようにと、帰国された方々が通われる教会を訪ね、教会として日本の牧師(教会)と交わるようにされていることだ。

例えばこういうことに代表されるような西郷牧師のあり方が、真智子の目に「これからも色々話してみたいな、と思う牧師御夫妻です」と思わせるのだろう。

外国に住んでいる人は、神のみことばだけは母国語で聴きたいし読みたいだろう。それゆえに世界の日本語教会、日本人教会の働きの上に神の豊かな祝福を祈るばかりである。
私も一クリスチャンとして私にできる宣教に力を尽くしていきたいと大いに励まされた。


魂の「収穫は多い!」

私よりも3歳年上の牧師ゆえに説教中に盛り込まれる同世代のエピソードはおもしろく、小中学校時代の6年間を宝塚で過ごされたので関西の雰囲気にも馴染みがおありだろうと嬉しくなった。

常に私たちのために新しいことを進めておられる神さま。
マチ・クマの祝福を祈り、マチを通して日本の我が家まで祝福を流してくださる神さまに栄光あれ!

附記:
大学を卒業して10年が過ぎた。大学卒業後東大大学院での2年余りを経て、結婚と同時にアメリカへ渡ったのは7年前の8月だった。

その後、ミネソタ大学大学院で夫婦ともに経済学博士号を取得し、夫婦ともにIMFに入り、これまでの努力が報われたことへの感謝を忘れずに励んでいる。
そして今もまた、研究再開の立ち上げという新たな果敢なる挑戦を始めたマチ。

私はここを開き、真智に賜ったタラントを大いに発揮せよと激励したい。そして、あの時の真智を胸に、私も自分のフィールドで燃えたいとの思いを起こされている。
今夏の猛烈な暑さのごとくに!


posted by 優子 at 07:41| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2013年08月21日

夢は無意識に埋まっている心のメッセージ

夢を見た。幸せな気持ちに包まれた夢だった。
あれは父母の夢だったのだろうか、それとも、私たち夫婦が中心になっている夢だったのだろうかわからない。

両親は50代後半くらいで、母は難病になる前の元気な母だった。夢の中のシーンに母の姿はなかったが、隣の部屋かどこかすぐ近くに母の気配があった。私は35歳くらいで知子と真智子は小学生だった。

「真智が帰ってきているから何か美味しいものを食べに連れて行ってやろう」と、父が言った。「私もカンパする!」と言い、続けて「神戸の叔母ちゃんも誘おう!」と言うと、「叔母ちゃんは○○へ行ってるよ」と母が言った。どこかお友達と一緒に体を動かして楽しんでいるようだった。

不思議なことに神戸の叔母だけが今の年齢だった。
私は叔母に大急ぎで感謝のお手紙を書きたいと思った。この時の私は今の年齢の私が感じているもので、幸せを感謝したかった。

私は、「どこへ食べに行く? 早く予約しないと食べられないよ」と言って、ユキを膝にとった。
ユキの背中を愛撫しながら溢れる愛情を感じて涙していたら、ユキが私の顔を見て、「おばあちゃん、なんで泣いているの?」と聞いた。

「幸せだから泣いているの」と、まるで「永遠の微笑み」のような微笑みをユキに向けながら言った。このまま不動で心安らかに微笑み続けるように感じていた

その時には父母は居なくて、私は今の年齢だった。夫も登場していたと思うが、鮮明な姿はなく気配として登場していた。ユキを抱く横で夫も座っていて、その周りに知子と次女夫婦が居た。

これは猛暑日が続く昨日(20日)、ユキと一緒に寝てしまった白昼の夢の内容である。
この数日、自分の心の状態を見つめていたので、自分の心に向き合ってみたくて夢を記録した。心理学で学んだとおり夢の内容をそのままに、付け足しや削ることもしないで、夢から目覚めてすぐに書いた。

夢の中の風景は心の状況であるというが、この夢の解釈は夢分析の知識を引っ張り出さなくても明白だった。
というのは、幸せな老後を送る老人と親孝行な子供たちのことと、そうではない親子のこと事例を取りあげ、共に親の生き方に相関関係が認められないケースを考察した内容を、同日のお昼前に書いていたことが関連しているようだった。

しかし、矛盾がいっぱいなのは夢ゆえのこと。
夢のシーンでは子供たちは小学生なのに、真智は海外生活している現実そのままゆえに父のセリフとなる。
「私もカンパする」とは両親に言ったこともなく最後まで甘えたままの私だったが、この時、私自身が真智子になり、夢の中の父が夫と重なって、父親の収入を越える娘の心遣いがあの言葉だった。

私の場合は夫の収入が両親のを超えたことはなかったが、しかしまた「私がご馳走する!」と言わなかったのは、お金を出し惜しんだわけではなく、いつまでも親に甘えていたいという気持ちの現れだった。私がずっとそうであったように。
夢の中でもこれらのことを明確に感じての言葉だった。

夢は無意識に埋まっている我々の感覚であり、自分の中にある直感的なもので作るので、夢を見た時の気分や感想、また、連想も書き綴り、何度も読み直して解読すればよいと言う。

夢から目覚めた時は非常に安らかで幸せな気持ちだった。それは私の願望なのかもしれないが、「そうだったのか」と気づかせてもらったような気がしている。

とにかく的はずれではない分析の概要だと思うが、夢を読み直してみて、私の心(無意識)からのメッセージと思われるところにアンダーラインを引いておいた。いつかまた読み直してみるのも有意義であろう。

posted by 優子 at 16:20| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2013年08月18日

ある平和主義者の選択

※ 2013年4月から2014ね5月末まで西大和教会で礼拝を捧げていたが、この記事はカテゴリ「馬見労祷教会関係」に収録。

5日間の長い盆休みで私の精神は堕落し体も重かったが、教会を出るときは徐々に精神が引き上げられつつあった。
礼拝の初めの祈りで「週の初めに神より礼拝に招かれる特権を感謝します」や「先週おかした罪を赦して下さい」と祈られるとおり、明日からの歩みに備えられたことを感謝するばかりである。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」。

              (マタイによる福音書 7章7・8節)
「求めよ」とは「神を求めよ」、「神のことばを求めよ」の意味である。

「私たちは時には間違った祈りもするが、それでも神さまは聴いてくださっている。心から信仰をもって神に求める祈りも、子どものような無茶な勝手な祈りであっても神さまにとっては同じである。
どんな祈りであっても聴き届けられ、その人に最もよい時に最もふさわしいもの(形)を与えてくださる。」
という牧師の言葉が心にとまった。

こどもの礼拝のリタニー(交祷)では、「あなた(神さま)が心をとめられるのは、祈ることしかできない私たちであり、私たちが互いに祈り合うことこそ、一番の宝物である」ということを深く受けとめた。

また、「基地や軍隊を必要としない平和を作り出すことができますように。」と結ばれていた「平和の祈り」を読み、次女夫婦が帰米してから遠藤周作の評論と併読していたアメリカの平和運動家、アリス・ハーズのことを想起させた。

1965年、厳格なクェーカー教徒であり平和主義者であるアリスが、デトロイトで自らにガソリンをかけて焼身自殺した。ベトナム戦争反対への意思表明の自殺であり、享年82歳だった。


これはベトナムの仏教僧ティック・クアン・ドックの焼身自殺(1963年6月11日に、当時南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に対して抗議するため、サイゴン・現ホーチミン市のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺)に倣っての自殺だった。

ティック・クアン・ドック僧のニュースは11歳だった私にはあまりにも衝撃的で、日記帳には拙いながらも信じがたい行動をとる人間への驚異と悲しみが綴られ、切り抜いた新聞記事が挟まれていた。
身辺整理のために子供時代の日記帳はついこのあいだ処分したばかりで、茶色になっていた当時の記事をここに掲載できないのは残念だ。

アリスの思想の中核にはキリスト教、「特にクェーカー教から由来する真摯な平和主義の思想」があったが、彼女のそれは聖書の示す「絶対平和主義と全く質を異に」し、「冷静な『現実主義者』であった」。

『ある平和主義者の思想』(岩波新書・1971年第3版発行)は、大学2回生の時に読んだあとも何度も手にした本であるが、年齢を重ねた今、私は下記の単純明快な指摘にアリス・ハーズの深い洞察力を見る。

「わたくしたちが賢明であれば、アメリカのよいところをソ連の悪いところと比較して自慢するのではなく、ソ連のよいところをアメリカのよいところと比較しようとするでしょう。

でもそうすればアメリカ自身の罪が明らかになるので用心しているのです。おそらくロシア人も、事情は同じでしょう。彼らもまた、アメリカの悪いところだけを見て、良いところを見落しています。しかしそのためにどちらも行き詰っているのです」。


このことは国家間のみならず個人が経験するところの社会生活においても言えることであり、互いにこの姿勢で生きるならばかなりの問題が改善されるだろう。
しかしながら、「お互いに」というのが難しいということも現実であり、物事を客観的に見ることの難しさが根底にあるが、とにかく示唆にとむ現実的な助言だと思った。

20世紀のように「戦争を繰り返すな!」という叫びが無力なものにならないように、熱心に祈りを積み上げ、時に応じて社会に対して声を出していきたいものである。自分勝手な祈りをしているならば間違いに気づかせてくださいと常に祈りつつ。

posted by 優子 at 18:21| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

多様性とは自分と人は違うということ

今夜の『NHKスペシャル』で『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で』を見た。カトリック信仰者の緒方貞子さん(85歳)は尊敬する憧れの人だ。

「“小さな巨人”と称えられ、その類いまれなる行動力と決断力が、今も世界の尊敬を集める、一人の日本人女性である。
1991年から10年に渡って国連の難民救済機関UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップを務め、“戦争が生み出した弱者”である難民を救うため、世界を駆け回った」。

以下は緒方さんの言葉より:
▼文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。

▼忍耐と哲学をかければ、物事は動いていく。

あいまいで不透明な問題などというものはない。あいまいで不透明と考えるのであれば、それを個々の課題に落とし込み、課題ごとの方策を考えていくことが肝要

▼熱い心と、冷たい頭を持て。

▼(決断は)最後は理論ではない。一瞬のカンです。

聡明で行動力のある人だ。
以下は緒方さんの興味深い人となりについて書かれている。("Nスペeyes"より抜粋):
緒方さんが1991年から10年間、国連難民高等弁務官としてトップを務めた国連難民高等弁務官事務所(以下、UNHCR)の外国人の部下やスタッフたちが、緒方さんについて「彼女の持つ一番大事なところは“ケアリング”」と口を揃えて話したこと。

おそらく、難民や戦争の被害者、犠牲者ひとりひとりの立場に立って、彼らの救済に尽力する緒方さんの姿を見たからこその言葉でしょう。

この“ケアリング”を日本語に訳す場合、ニュアンス的にとても難しいのですが「思いやり」という言葉が該当します。しかし、お話を伺った関係者の皆さんが緒方さんを語る“ケアリング”は、いわゆる日本人の考える「思いやり」では表現し切れないように感じました。大きくいえば母性のようなものでもあるのかなと

「母性のようなもの」とは、聖書で培われた世界観の現れではないだろうか。

附記:夫はモスクワで開催されている世界選手権大会から目が離せない。
私は今朝未明から高血圧による強い頭痛で目が覚め一日中伏せっていた。夜になってテレビを見る体力が戻ったが体調はよくない。

posted by 優子 at 23:44| 引用文 | 更新情報をチェックする

2013年08月14日

父母の墓前で涙の祈り

連日ベランダなどの金属面に肌が触れると1秒たりとも触っていられないほど熱い。しかし、昨日も夜になると涼しくなり夜半から窓を閉めるほどだったので熟睡できた。

最近の猛暑で知名度を上げている大阪府豊中市は、今日は38.9度でランキング全国一となった。その豊中市の服部緑地に実家の墓がある。今日は最初に藤本の墓へ、そのあとで父母の眠る墓に行った。
熱波で溶け折れたロウソク.jpg
11日に兄が灯したロウソクは
連日の熱波で溶けて垂れていた。

父母の墓前で.jpg
母が着ていたワンピースを着て、父と母が愛した知子と。
真智子も帰国するたびに祖父母の墓参を気遣ってくれるが、
未だ実現せず。

 
父母の墓前でA.jpg 
私たちもすっかり熟年になった。
ここに父と母が一緒に立っていたとは信じがたい。
母の年齢まであと8年。会いたい。

父母の眠る墓.jpg
叔母と従姉妹の愛(絵ろうそくと甘茶香)を墓前に。
「絵ロウソクとお香を持って帰ってもらえて本当に良かったです!
今週出張で金沢に行った際たまたま目に留まって買ったのですが、それがおじさんやおばさんの近くで灯ってくれるのかと思うととても嬉しいです^_^ 」。


白檀や沈香などに甘茶を混ぜてお香にした甘茶香、そして、絵ろうそくはとても高価なものだった。叔母と従姉妹にいくつかの写真を添付した。兄も一緒のはずだったのに・・・。ユキは態度が悪くて写らず。

今日は百合の花がなくて残念だったが、例年ロウソクと線香は兄が、私は百合の花を用意し、私は神に祈った。
今日も、夫、知子、幸悠は祈りの姿勢をとり祈った。私は神に呼びかけた瞬間から声がうわつり涙の祈りになった。

母に続いて父が亡くなってから12年間続いた兄との墓参は、年に一度の再会の日でもあった。今年は事情があって別々になった。今日の記事は、祖父母の墓参に心を寄せつつも行けない真智子に様子を知らせたくて記録した。

叔母が言うように墓参は一人で行くのがよい。家族で行くと賑やかで嬉しいが、一人でゆっくりと懐かしい父や母と心ゆくまで居たい。


帰宅するとチャッピーがいつもの場所で暑さを凌いでいた。風が通るからだろうか、今夏はここにいることが多い。チャッくんのサバイバルの知恵である。
チャッ君のサバイバル.jpg
お留守番してくれてありがとう!
冷たいスイカを美味しそうに食べた。

※ 夫が会社に免許証を忘れてきたので、今日は終始知子の運転だった。初めての道だったが無事に帰宅できたことを神に感謝した。
これを機に運転は若い知子がしてやってほしい。兄がそうであったように、全てが懐かしい光景だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
附記:
90歳の義母は足がふらつくからと、(藤本の)墓へは私たちだけで行くことになっていたが、今朝になって行くと言って玄関に座っていた。今月初め、庭でこけて後頭部を3針縫う怪我をしているので躊躇したが、全くいつもどおり力強く歩いていたので一緒に行くことができて良かった。
私のほうがふらついて頭もボヤーっとして、私自身はもとより夫と知子が案じるほどだった。

藤本の墓地からPLの塔が一望できるので、ここはPLの花火(毎年8月1日にある)を見るには最高のロケーションである。
PL.jpg

帰りは大阪府堅下(かたしも)や国分の特産品である「大阪ぶどう」を買った。私も知らなかったが大阪はぶどう栽培が盛んで、特にデラウエアでは生産量全国第3位だそうだ。自宅からすぐの165号線沿いにはたくさんのぶどうの直売所がある。大阪ぶどうはとても甘いデラウエアで、今年のは特に甘いように思う。
大阪ぶどう.jpg
スーパーの店頭に並べられているぶどうと違って軸も青く新鮮だ。これで1000円、おまけの3房を入れて11房あった。

明日の夕刻、上本町の寺町からお寺さん(禅宗)が来られて、その後親族と夕食。義母と(義妹も?)送り火をしてお盆の行事が終わる。疲れるから明朝はゆっくり寝ておこう。

posted by 優子 at 23:32| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2013年08月13日

チャッピーのお世話に燃えるユキ

昨日はついに36.8度(大阪は38.2度)にまで上がった。33〜4度までは「暑いねえ」ですむが、34度を過ぎるとみんな耐え難い表情になっている。体が暑さに耐えて順応しようとしているのがわかる。

今日の生協配達の担当さんのレターには、「もの凄く暑いです!ずっと暑かったですが、先週金曜日からの暑さは半端ではないです。外に出たら危険な気温です。」と書かれていた。それほどに凄まじい猛暑だ。

さすがの私たちもここ数日は寝る時もしばらくクーラーをつけていた。
各部屋にはエアコンが取り付けてあるが、知子の部屋のは何年も前から機能停止状態になっているので、真智子の部屋で寝るように勧めたが、私たちの居室に簡易ベッドを設置して4人で眠ることになった。しかし、長時間のクーラーは体に合わなくて喉も乾燥してきたので午前3時頃に窓を開けた。

ところが、昨夜は日中の暑さとは打って変わって涼しくなり扇風機さえ不要で寝たが、今朝の5時頃に家族皆が寒くて目が覚めて窓を閉めるほどだった。おかげで熟睡できて今朝は夫も元気な顔で出社した。

私は夫と知子を見送るとすぐにユキと一緒にチャッピーの散歩に出る。6時半過ぎの早朝とは言え、この1週間の散歩は3〜4分間で終了し、それでさえ汗ビッショリだった。今朝は涼しかったので久しぶりに池の周りを歩いた。気持ちよかった。

朝の散歩@.jpg

今夏からユキがチャッピーのリードを持って歩くようになった。しかし老犬とは言え、今もチャッピーの方がユキよりも力が強いので怖々(こわごわ)だ。
それでも次女夫婦滞在中、体力がかなりきつくて起きられなかった時はユキ一人で行ってもらったこともあった。何日も経ってからその時に歩いたコースを聞いてビックリ、20分間ものコースをよくぞトラブルなく帰ってきたものだ。

朝の散歩A.jpg

帰り道は日陰の多い道を選び、ユキが命名した「森の道」を抜けて帰った。 
朝の散歩B.jpg 
この時は7時前、8時頃になると日陰は半分になる。
今朝は久々にチャッピーも満足気だった。

お掃除大好きユキ.jpg
自ら率先してお風呂場や洗面所を掃除してくれるユキ。
ありがとう。一生懸命ってステキ!

そして今はお昼寝中。ブラームスの子守歌は私の耳にも心地よい。
ユキは明日からのお盆休みを楽しみにしている。ママとおじいちゃんとみんな一緒に居られるから。



posted by 優子 at 15:43| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年08月12日

希望を見失いそうな2013年8月

次女夫婦が日本を離れる前日から2度目の夏が始まり、日を追っての猛暑はすさまじく決定的に記憶される夏になった。

昨日の奈良の気温は36.5度で、大阪はそれよりも1度高く、40度ラインを突破したところが全国で5ヶ所あった。しかし、実際は気象庁の発表よりももっと多かったと考えられ、気温が48度にもなっていたところもあった。

気象庁の気温観測は、「風通しや日当たりの良い場所で、電気式温度計を用いて、芝生の上1.5mの位置で観測」し、「直射日光に当たらないように、通風筒の中に格納してい」るので、実際の気温はもっと高い。

そんな猛暑の10日、私は妹にも声をかけて神戸の叔母を訪ね、従姉妹も一緒に4人で多くのことを語りあった。叔母も85歳、すっかり高齢になり、膝の痛みは相当ひどく、歩く姿は痛々しい。

叔母たちと待ち合わせた阪急六甲駅界隈は千駄木の団子坂の風景を思い出させた。そして、私には東大時代よりもっと懐かしい神戸大学に通っていた頃の真智子の姿をしばし追っていた。 

会ってすぐ、駅のすぐ目の前にある中華料理店に入った。
叔母は窓越しに外を見ながら、「真智ちゃんと一度だけこのあたりの店に入ったことがある」と言った。

しかし、この店こそが叔母(マチの大叔母)が連れて行ってくれたところのようだ。真智が神戸大を卒業する頃に。

夕刻7時前、帰りの十三駅のプラットホームは淀川の花火大会に行く人で溢れていた。梅田から歩く人も多く、中津から十三(じゅうそう)までの道路は人の波が続いていた。
今や関西随一の花火とあって昨年は55万人もの人出を数えたというが、大阪生まれで大阪育ちの私に馴染みがないのは平成元年に始まったからだ。今年で25回目を数えるという。

梅田(JRでは大阪駅)に着いてからもゆかた姿の若い人が目についた。長い年月をかけた工事も終わり、阪急百貨店一階の各出入り口あたりはすっかり新しくなっていたが、大阪駅界隈を歩くと郷愁を感じさせる。 

私は「動く歩道(moving walkway)」を歩きながら、心の内で誇らしげに語っていた。
私はいったい誰に何を誇っているんだろう。 

私が大学1回生(1970年)の時には今と全く変わらない「動く歩道」があった。私たちの若い頃にはすでに今と変わらない豊かな物を享受していたんだと。
いや、それだけではない。その有能な技術と作ってくださった人々のことをも誇っていた。とにかく現在の若い人々を意識しているようだ。

この「動く歩道」は日本では1970年の日本万国博覧会(大阪万博)に合わせて登場し、日本初は1967年に阪急梅田駅に設置されたというから、まさにこの歩道だったのだ! 私が16歳の時のことだった。

日本では8月は亡き人を偲ぶ月。
懐かしい父と母を偲び、若かりし時代と半生を振り返ってみたい。
妹の道は遠い。
兄は昨日両親の墓参りをしたと今朝電話が入った。

主よ、私は無力ですから希望を見失わないように、新たな望みを与えてください。「わたしの死なないうちに、これをかなえてください」。


「神は、すべての約束を果たされる。
神は拠り頼む者の盾」。
    
                            (箴言 30章5節)
このみことばに力を与えられて、焦らないで、この只中で神のすばらしい恵みを見つけよう。Wake up my glory!

                      
posted by 優子 at 23:12| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

届け、原爆犠牲者の地獄と祈り

今日「原爆の日」を迎えた長崎の平和祈念式典を見ていて、例年以上に未来への危惧の念を抱いた。それだけ私自身が真剣になったのかもしれないが。

式典には核保有国のインドが初出席し、参加国は過去最多と並ぶ44カ国に及び、安倍首相は「日本人は、唯一の戦争被爆国民だ。われわれには確実に『核兵器のない世界』を実現していく責務がある」と挨拶した。

ところが、この文言とは相反する態度表明をしたのが、4月末のジュネーブで開かれた核拡散防止条約(NPT)の会議で提出された、「核兵器は非人道的なものだとして、いかなる状況でも使用すべきではない」とする共同声明に日本は署名しなかった。

確かに日本はアメリカの核の傘に守られているから苦しい立場であり、原発を維持したい考えもあるのだろう。しかし、自国のよって立つところを曖昧にしていては道を誤る。日本の選択を問われているのである。

かつて世界に響き渡ったワイツゼッカー大統領の演説の全文を読み直した。
日本が核兵器廃絶に「ノー」を言えないのは、ヒロシマとナガサキを自分や自分に関わる人々が経験していないからなのか。核廃絶にでさえ党派を越えて一致できないことが私は残念でならない。

ドイツの悔い改めは全ての国、全ての人々に問われていることでもある。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。
戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方々、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

             (略)

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。             

             (略)

かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか−−

             (略)

もともとの土地にいられた我々には、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。

私たちはナチス時代のドイツ国民のように良心を麻痺させてはいけない。世界の国々が被爆国の実態への理解力と感受性を働かせねばならないのに、どうして日本が心一つになれないのだろうか!

あの時代を生き残った人たちはいよいよ少なくなり、まもなくいなくなるだろう。戦後生まれの私たちでさえ60代である。私たちは親や周囲の人から戦争の話を聞く機会があった。

戦後20年も経った私が中学生の頃、通学時に大阪駅界隈の地下街で軍服に身を包み、足にはゲートルを巻いて街頭に立つ傷痍軍人の姿を何度も見た。非常に間接的ではあっても戦争の名残りをじかに見てきた世代である。

それゆえに私たちもまた、戦争という狂気、人間の悲惨さと平和の尊さを訴えねばならないと強く思わされた。そうでなければ、「歴史は繰り返す」と言われるとおり人間はまたしても蛮行を犯す。

最も、今や核兵器を使えば人類が破滅することは自明の理であるから、核は抑止力などになりはしないのだ。
ヒロシマとナガサキが100年の記念式典を迎える時、日本は、世界は、せめて今の姿を維持しているのだろうか。私は32年後の子や孫の世代の人々を想像しながら記念式典の中継を見ていた。


広島の被爆詩人・『原口喜久也遺稿詩集 現代のカルテ』より:
             その時

隣りの病室から突如! うめき声がし それは
断続的に深夜の空気にもつれていたが
息絶えたのか! ひっそりした空間で
誰かが ああ誰かがすすり泣いている

核に犯され死滅してゆく者のこの刹那を
ワシントンよ モスクワよ 知るがよい
”ゲッセマネの園の祈り ”を知るように

骨髄が痺(しび)れる夜の底には・・・・月も金星も
宇宙ロケットもない ぼくらはまず
何よりも地球の危機に打ち克つべきだ!
 原口氏の祈りと怒りが私の胸にも燃えあがるのをおぼえる。
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posted by 優子 at 23:00| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2013年08月08日

開かれゆくアフリカと21世紀の暗黒大国

先日の答志島へ行く列車の中で、クマからブラックべりー(スマートフォン・BlackBerry)で撮ったボツワナの写真を見ながらミッションの様子を話してもらった。

ミッション中は基本的には写真を撮ってはいけないことになっており、例えば政府の建物は撮影してはいけないとのこと。それは一般の海外旅行でも場所によっては写真を撮ってはいけないなどに準ずるものであり、許される範囲で撮影してきたものを見ながら話してくれた。

ボツワナ共和国(通称ボツワナ)は立憲国家で議会制民主主義が施行されており、経済はダイヤモンド採鉱事業が中心で、政治、経済状況共に安定している。

アフリカ共和国の空港はジンバブエやライべリヤ(リベリヤの英語読み)よりもきれいだった。

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アフリカ共和国の空港

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ボツワナのスーパーマーケット
(欧米と全く変わらない店のたたずまいに驚いた。ケンタッキーフライドチキンの店もあったという。)

靴(革製品)の工場見学。
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セントラルバンク(中央銀行)の人たちが国の成長ぶりを見せてくれ、国としては工業製品で頑張っているし頑張りたいらしいが今はまだ難しい状況だ。

農場見学ではトマト栽培を見た。農業用水をリサイクルして農業に再利用していた。
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トマトは青い状態で袋詰めされる。クマはこれよりももっと赤くなってからペットボトルの水で洗って食べた。
ミッションにはペットボトルの水や、野菜不足を補うためにホウレンソウの缶詰を持って行った。料理は肉料理が主で、とにかく塩辛くて食べ物には苦労する。

ミッションのメンバー5人中4人がクリスチャンで、ボツワナの中央銀行総裁(女性)が通っている教会へ、クマの他一人と共に連れて行ってもらった。

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サファリパークへも案内された。(ライオンの写真がなかったので聞いてみると、ライオンはいなくてジンバブエで見たそうだ。)

ワシントンに帰宅したら真智の愛の手紙とフルーツが用意されていた。IMG-20130712-00079.jpgクマがワシントンに着陸する少し前に真智は離陸し、シンガポールのミッションに出発したからだ。
クマはワシントンDCに戻ってから日本大使館へ出向いて、7月21日の参議院選挙の在外選挙に行ったという。

以上、クマから聴いたボツワナの現況を書き留めながら、かつてアフリカが「暗黒大陸」と呼ばれていたことを想起した。
宣教師のリビングストンがアフリカ大陸の横断探検によって、暗黒のベールが剥がされていったが、今改めて私の中のアフリカ像が塗り替えられたような気持ちだ。

そして、中国のことを思った。
かつてナポレオンは中国を「眠れる獅子」と言った。今や中国のGDPが世界第2位にまでなったものの、中国は21世紀にも残っている「暗黒大陸」のようだ。それも未開の地を意味する暗黒大陸ではなく、精神の暗黒大陸である。

私は文明が常に良いものであるとは思ってはいないが、インターネットという文明の利器が獅子の目を真に目覚めさせる助けをしてくれるのではないかと期待している。


昨日無事帰米したマチ・クマは早速翌日(7日)から勤務に就き、「こちらは22度で、なんだか夏休み明けの秋に突入した感じです。」と、真智から短いメールが届いた。

こちらは立秋を迎えた昨日、そして今日も34.4度まで上がった。今後2週間ほど猛暑が続き、明日は36度にもなるそうだ。

2013年8月8日、父が召されて13年目の夏である。



posted by 優子 at 22:51| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2013年08月07日

IMFのエコノミストもまた平和の使者だ!

マチ・クマは無事ワシントンダラス空港に到着し、自宅には夜6時前(日本時間今朝7時前)に着いた。実家から23時間かけての帰宅だった。クマからも10時過ぎに心のこもった感謝メールが届き、「これからも励ましあって、頑張っていきたいです。」と結ばれていた。

次女夫婦がIMFで働くようになって2年過ぎたが、私は二人がどのような仕事をしているのかをよく知らなかった。経済学者として各国の経済を評価し、ミッション先には理論やデータを提供するのが主な仕事だと思っていた。

真智が帰国した時はあれもこれもいっぱい話したいことがあるのに、いつも私の中で満足することはなく充実して歓談の時を持てたという思いがない。
どうしていつも不完全燃焼のように満たされない思いばかりが残るのだろうと思ったとき、はたと気がついた。ユキがいるからだ。ユキが居ないときは話し合う時間があった。

今から書こうとしていることも、出発前夜(8月5日)に10分間ほどの立ち話で聴いたことだ。それでも私の心は躍り、疲れていても自分の目が輝いたのがわかった。
話を聞き終わると感動が口を突いてあふれ、そのコメントを真智もまた非常に感動してくれて、そのことが私を喜ばせ希望と意欲に繋げてくれた。


ミッションでは、IMFが何をしているのかを知ってもらうためにアウトリーチする。

IMFが中立で偏りのない意見を持ち、IMFのアドバイスがピントはずれにならないように、中央銀行や政府の意見だけではなく、国民の人たちの声も聴くためにいろんな人に会うようにしている。

その国の情報を得るために工場見学や社会見学をさせてもらって学ぶのもその一つであり、政党も与党だけではなく野党の人たちにも会い、野党の幹部の人たちとも食事をする。

また、”policy-oriented ”(ポリシイ・オリエンティド・政策志向)と言って、政策を決めていく時にどのようなデータを見て、どのように判断していくのかをアドバイスする。その時、他国のことをよく聞かれるのでアドバイスとして話す。

理論だけでは耳を傾けてもらえない。IMFが何をやっているのか、そして、やろうとしていることを知ってもらうために話すし、彼らもまたそのことを知りたいと言ってくれる。

このようにIMFの主張は理論だけではなく、理論と実践の両方でその国の方向性をアドバイスする。

私が抱いていたIMFへのイメージは覆され深い感銘を受けた。

人と人の関わりはとても重要だ。それはIMFにおいても例外ではなく、一人ひとりの関わりを通してより良き未来を切り拓いていくのだと思った。その国が平和のうちに発展していくように支援していくのである。

勿論、それは心ある者にしかできないことであり、IMFと言えども事務的にしか仕事をしない人もいるだろうし、昇進に重きを置いてする人もいるだろう。それはどの国においても、どの会社においても同じであるのは人間普遍の姿である。

発展途上国であれ先進国であれ、どの国もより良く発展していくためには多くの試練があり苦悩が伴う。それゆえに他国の例を聴くことは大いに参考になる。

私にはイエス・キリストの福音(喜びの知らせ)を伝えていくことと同じであると思った。信仰から信仰へと進んでいくときもそうだ。

例えば突破できない現状(それはつまり自己のことにほかならないことが多い)に悩むとき、信仰者の体験談は大きな助けになるだろう。語る者は自分が最も苦しかった時にどのように悩み、どのように道が開かれていったのかを語るのであり、聴く者はそこをこそ聴きたいのである。

神は互いに人生を分かち合って歩んでいくのをどんなに喜んでくださることであろうか。
国と国においても然り。
それらの交わりから信頼と愛の感情が生まれ、そうした一人ひとりの働きがいろんなところで積み上げられていって平和への歩みが力強くされていくのだと思った。

折しも68年目のヒロシマとナガサキである。
日本は世界平和の礎となり、原爆犠牲者の死を無駄にしないためにも、政府の言動を注視しなければならない。

真智の話を聴いて胸が熱くなり、真智もまた「ママの魂は健在だ」と喜んでくれ、短くも濃縮された至福の時間だった。


posted by 優子 at 18:58| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2013年08月06日

また会う日まで 神が真智子と太志と共にいてくださるように!

昨日の午後、真智たちもゲリラ豪雨を知ったが、今日の明けがたの豪雨は長時間だったのでユキ以外はみんな目が覚めてしまった。家を出るときにこの雨ならばスーツケースはズブぬれになるだろうと、ウトウトしながら心配していた。

今朝、夫はいつもよりも早く靴を履き出すので、あわてて真智たちを玄関に呼んだ。駆け寄った真智子夫婦は父親に感謝の気持ちを伝えた。

「次はいつ帰ってくるの?」
「12月。○○へミッションに行くから。パパ、いろいろありがとう。」
「そしたら元気でな」

夫の僅かな言葉に娘を想う父親の気持ちがにじみ出ていた。
そして、微笑みながら玄関を出て行った。寂しさを堪えながら。

「行ってらっしゃい!」 
真智子にも父親への熱い想いが溢れていた。私が父に感じていたように。

その1時間あまりのち、頼んでいたタクシーが着き、二人は8時の電車で発った。今回は上本町の伊丹空港行きのリムジンバス乗り場まで知子が見送ってくれた。

またね!!.jpg

この時、とても湿度が高くて熱帯地方のようだった。

真智、大好きよ!.jpg
真智とツーショット!手(チョキ)

今回の帰国はミッションの帰りだったので荷物が多く、キャリーバッグも荷物満載だった。ビジネスクラスだとスーツケースの重量が32キロまでOKということで、ブルーのスーツケースはかなり重かった。

日本はシンガポールからアメリカへの中継地ということで、休暇を取っての帰省後もビジネスクラスでアメリカまで帰るのだが、クマはエコノミーだもうやだ〜(悲しい顔)
ビジネスクラスはエコノミークラスよりも3倍近い金額にもなるというわけで別々になった。旅慣れた若者だからエコノミーでもno problem.わーい(嬉しい顔)

しかもいつものように時差ボケ解消のために、ワシントンに着いた翌日から勤務に就くというから、機内ではひたすら寝ることだろう。

リムジンバスで伊丹空港に向かうマチから届いたメールより抜粋:

パパとも今回いっぱい話せてよかった。
会社も新しい挑戦、どんどんがんばってね。まちもまちらしく頑張るわ。くまも。

頑張れ日本!

今回もふんだんに歓迎してくれてありがとう。お言葉に甘えてゆっくり過ごさせてもらってたけど、本当に色々ありがとう。

今回は短かったけど、濃厚だったような気がする。いっぱい話せたし、いっぱい楽しかった。

ゆきちゃんもどんどん挑戦するようになって、嬉しいわ。
海で飛び込んだり、泳いだり、深いところまで行ってみたり、すごかったね。これからもいっぱい挑戦していってね。また遊ぼうね。

じゃ、行ってきます!
みんな大好きよ。

くまもよろしくいってます。

真智子

真智たちが乗った電車が見えなくなった時、「あーあ、また行ってしまったなと、ユキはため息をついた。しかし、次の句は、「真智(勿論、フーのことも入っているよ)は行ってしまったけれど、がんばろう!」と、自らを激励するかのように何度か繰り返した。

私は愛をこめてユキの手を握りながら讃美歌を歌いつつ帰路についた。そして、洗濯物を干す時もずっと歌っていた。

「ユキちゃんも(プラットホームで)お祈りしたかったな。今、お祈りしてもいい?」と言うので祈りの姿勢をとった。それはそれは心のこもった素晴らしいお祈りだった。

その途中で、「おじいちゃんとおばあちゃんが旅行に連れて行ってくれたことを感謝しま・・」と声を詰まらせているのでユキを見ると、目に涙をいっぱいためて泣くのをこらえていた。

6歳にして神への感謝が溢れているのである。私は思わずユキを膝にとって抱きしめた。

ユキがお昼寝をしている間にこれを書いていると、今(3時32分)、真智から「出発時刻が3時40分になったから、もう搭乗したよ。無事乗り込めてよかった。いってきます!」とのメールが入り、大急ぎで讃美歌405番の歌詞をコピペして贈った。(あえて「送った」と書いていない)

予定より15分早く午後3時40分、離陸。
ワシントンダラス空港へは着陸予定の3:40pmより少し早く着くだろう。日本時間は明朝午前4時30分頃か。
フライトの無事を祈ろう。
真智、太志君、行ってらっしゃい! また会う日まで元気でね!

神ともにいまして 行く道を守り
天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ
  また会う日まで また会う日まで
   神の守り 汝が身を離れざれ

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
行く手を示して 絶えず導きませ
  また会う日まで また会う日まで
  神の守り 汝が身を離れざれ

御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き
御翼の蔭(かげ)に 絶えず育(はぐく)みませ
  また会う日まで また会う日まで
  神の守り 汝が身を離れざれ

☆讃美歌405番はここをクリックすれば聞けます。同志社では毎年卒業式に歌われる讃美歌です。

昨夜、真智からIMFがどのような働きをしているのか、その一端を聴いてひどく感動したことや、答志島への車中でフーから聴いたボツワナでのミッションの話を次のページで是非お分かちしたい。

マチ・クマへ:アシナガバチの巣に、またハチが数匹集まっていたので棒で取り除いたよ。巣は直径12センチだった。

posted by 優子 at 15:51| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2013年08月04日

再び答志島へ

8月3日から一泊二日で答志島へ行った。私達夫婦と真智子は今回が2度目の答志島だった。
というのは、5年前の5・6月頃、私は膀胱癌の疑いが濃厚で生命が揺さぶられる試練の中にあり、当時ミネソタ大学大学院に在籍していた真智子が一人で帰国してくれた。

この時、癌に立ち向かうために親子だけで旅行に出たいというわがままもゆるされるだろうと思って、家族だけで旅の予約をとっていた。幸いにして癌の疑いは晴れての旅行になったが、ユキが病気だったので知子は不参加の答志島だった。

5年前の記事は先日教わったばかりの「リンクの埋め込み」で貼っておきたい。
ここをクリックして開いてください!
あの時、点滴針を刺されたままの生後11ヶ月のユキが、今ではこんなに成長して5年間の時の重みを感じずにはいられない。
  

答志島へ.jpg8月3日、近鉄ビスタカーで鳥羽へ。

そして、鳥羽から船で15分、答志島の和具港へ。
旅行の幹事役の夫が船の出発時刻を読み違えて船は出たところで、次の便は2時間後。ふらふら しかし、誰も一言も文句を言わなかったのはお見事!と言うよりも、文句を言うのは私だけかな?(笑)

答志島@.jpg

というわけで旅館に着いたのは4時頃で、大急ぎでマチ・クマ・ユキの3人が海へ入った。知子も私も泳ぎは苦手、夫ももう若くないので、マチ・クマのおかげでユキは初めて海を体験できた。

娘達が子供だった頃は、浮き輪の中に入っている知子と真智子を夫が引っ張って遠い岩まで連れて行ってくれていた。何て懐かしいのだろう。まるで昨日のことのようだ。過ぎた日々があまりにも懐かしすぎて今は前へ踏み出したくなくて、このまま思い出の中に留まっていたい気持ちだ。

ユキには父親がいないから、私は次女夫婦をありがたく思う。
何事にも慎重なユキだが、マチ・クマの上手なリードで一日目から水にも慣れて貴重な経験をさせてもらった。きっと大きな自信につながることだろう。

答志島E.jpg
夕方の海の水は暖かかったそうだ。

答志島F.jpg
マチとクマは海中の魚を見ているよ。
美しいバハマの海には及びもつかないけれど・・・

答志島B.jpg
ユキのこの嬉しそうな顔!

ユキ、強く生きるのよ! 
人生はすべて神の御手の中。
思いっきり楽しみ、思いっきり悩み、大いにチャレンジせよ!


答志島D.jpg

答志島L.jpg
知子の上に神の慰めと励ましが豊かにありますように!

答志島G.jpg

答志島A.jpg
夫はいつしか眠っていた!わーい(嬉しい顔)

これは今朝の光景。まず準備体操から!わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔)
答志島C.jpg

答志島H.jpg

帰りの宇治山田駅で。

答志島I.jpg 
久々に日本の雑誌を読むマチ。
今回の帰国で「ゲリラ豪雨」という聞きなれない言葉に驚いていた。
乗る電車(ビスタカー)が到着した。

帰りは伊勢の「おかげ横丁」へ連れて行ってやろうと思っていたので、宇治山田駅で途中下車できるようにチケットを組んでいたが海を満喫することにした。

答志島J.jpg

乗車後すぐに寝てしまったユキ。
ここは2階席になっているビスタカーの1階で団体席だという。「きっと船底のように鬱陶しいのでは?」と不満を口にしていたが、私は知子の右横に座り、十分に7名座れる個室になっているので中々よかった。良輔さん、ここでもまた不満げなことを言ってごめんなさい。そして、ありがとう!

二人が帰国した(7月27日)頃から気温は低くなったものの曇天だったが、3日から海水浴日和になり天候に恵まれた答志島の旅だった。
帰りの鳥羽駅では、マチ・クマにジェラートとアイスコーヒーをご馳走になった。おいしかった以上に言葉にはならないものを感じた。きっと夫もそうだろう。

次女夫婦は6日の朝8時の電車に乗り伊丹空港から成田空港へ向かい、午後4時前に日本を離れる。また別れねばならないのか・・・・寂しいな・・・・

附記:久保田先生から早々と『遠藤周作の文学 その視点と道程』が届いていた。今から読むのが楽しみだ。マチたちを見送ったあとのさみしさを和らげてくれるだろう。

posted by 優子 at 22:57| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2013年08月02日

真智子との時

毎日がアッという間に過ぎていく。仕事に追われて連日帰宅が遅い知子は妹夫婦との交わる時間もなく週末を迎えた。

29日:マチが父との時を持ちたいとの願いで、夫婦揃って早朝から美濃紙業へ出向いた。IMFでは本来休暇中は仕事はしなくていいのだが、多くのメールへの返答など自分たちの仕事をしながら過ごしてくれていた。昼食後、マチは父親と出かけて二人だけで最良の時間を過ごした。
この日営業会議があったので3人が帰宅したのは9時前だった。

しかし、知子はこの夜も夜遅く帰宅した。そして、仕事について次女夫婦に意見を求めて話し始めたので、終わったのは午前2時20分だった。それさえ私が強制終了したのであり、それからお風呂に入ったので翌日は3時間足らずの睡眠で出社した。

マチの話から有能な仕事ぶりがわかった。
活躍の舞台は違えども、誠実に仕事をする人もいればそうではない人など、それもまた国や文化を越えて人間の本質は同じであることに深い感銘を受けた。しかし、この夜で血圧が高くなってしまった。


30日:ユキの要望でマチ・クマに登園日のユキのお迎えに行ってもらう。私は血圧が高かったので行くのを躊躇したが、マチたちが行くのに行かずにはおれなくて同行した。


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先生のお顔にボカシを入れて申し訳ないが、何度も見たい写真なので記録させていただいた。
「マチとフーとチャッピーの名前が同じように出てくるので・・」と、担任の先生も名前だけはすっかりお馴染みのマチとフーである。

そう言えば、ラガルドさんは180センチのフーよりも背が高いんだって!
マチたちもエレベーター内などでラガルドさんに会うそうだが、目と目を合わせて挨拶される人だと聞き、私が抱いているイメージ通りの人だった。IMF内でもSPがついているのには驚いた。


その日の午後は、ユキが25日に受診した眼科に健康保険証を持参して出向いた。あの日は慌ててしまって知子のを持って行ったために、なるべく今月中に精算して欲しいとの電話が入り、次女も一緒に公共バスに乗って出かけた。とにかくいろんなことを話したいので2時間に1本のバスでもよかった。

途中、市の中央郵便局で久保田暁一先生にご著書・『遠藤周作の文学 その視点と道程』を送っていただくように手配したが、この時の私のドジさにマチが笑っていた。わーい(嬉しい顔)
今回で2度目の自動機振込みの挑戦だが、苦手な私は振り込み詐欺にあうこともないだろう。

31日:前夜は睡眠導入剤を飲んだために目覚めても頭が朦朧としているので、ユキにチャッピーの散歩を託す。柴犬といえどもユキにはまだ犬の方が力強いので心配したが託してお昼前まで寝ていた。マチたちも同じようにお昼まで寝ていた。

昨日8月1日:真智子の服を買いに4人で高島屋へ行った。アメリカではマチのサイズだと「プチ」で、好む服が少ないそうだ。久しぶりに難波の地下街を歩いた。2008年以来か。クマはずっとユキの世話係をしてくれた。

2日:今日の午後、ようやく団欒できたという感じである。
パソコンの使い方(写真にボカシの入れ方と、「aタグ」を使ってリンクの埋め込み)を教えてもらい、その後2〜3時間いろいろと話に花が咲いた。

IMFという職場で、また、世界各国に出向くので、すでに100ヶ国くらいの人々と関っていると思うので、人間についてや普遍性についてなど尋ねてみると、私が想定していた通り、文化の違いよりも最終的には個の問題であるという同じ認識だった。目に人柄が現れている。

人間の中にある偏見は原罪であろうとか、生命倫理の問題など、人間についての関心が尽きず、家にいた大学時代までの真智子と語り合っていた頃が戻ってきたようで、楽しく満ち足りた時間だった。


最後に、胸が熱くなった日本の誇るべきエピソードを!

去年、東京で開催されたIMFの年次総会へ行った関係者たちは皆、「日本のホスピタリティ(歓迎ぶり)はすごい」と一人ひとり言ってくださったそうだ。
日本人のもてなす心は世界の人々を魅了した。
ということは、心地よさもまた文化の違いを越えて普遍だということである。


今夜は2度目のカラオケをしていたが、私はその中で幸せをかみしめながら夕食の後片付けをしていた。
滞在日数は残り3日間、この時を感謝して濃密な時を過ごしたい。

posted by 優子 at 23:59| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする