2013年10月31日

市民講座リポート・「親子であるゆえの難しさ」より

昨日に続いて今日も2つ目の記事を続けたい。昨日開催された当市の市民講座、川合春路氏による「親であるゆえの難しさ 〜我々は子どもとどう向き合えばよいのか〜」のリポートだ。

今、教育界の批判の槍玉に挙げられている「ゆとり教育」は、本来の意味合いと全く異にしている。
「ゆとり」を打ち出したのは永井道雄(教育社会学者)、今から約40年前の三木内閣で文部大臣を務めた人である。

しかし、彼が掲げた「ゆとり」とは、忙しさの中で自分を見失っていることの反省から出たものであるのに、その本意が見失われて広まってしまったと、このような導入から本論に入っていかれた。

私は現在子育て中の母親たちの表情を興味深く観察しながら耳を傾けていた。以下は私が理解し心にとまった事柄である。

「ゆとり」とは子供自身が生きていてよかった、楽しいと感じて自分自身を展開できる状況を作っていくものである。それに必要不可欠なものが「ゆとり」であり、自分を取り返すということである。楽をして自堕落になることではない。

このことを頭の中でわかっているだけでも全然違う。なぜなら何かの時に「これでいいのかなあ」と迷いが出てきて、その迷いが助けとなるからだ。迷うことのできるゆとりを持つというわけだ。

だから時々でいいから自分を振り返り、「私のやり方でいいのかなあ・・・この子をダメにしてしまわないだろうか」と考える。それが子供を大切にしているということであり、突き放すのではなく見守り支えるのである。

依存から自立に向かって苦しむ思春期の時は、手助けしたくても手や口を出さないことが大切だ。そして、相談にきた時はくどくど言わないでちょっとだけ言う。

子供が注意したとおりにならなくても当たり前と思えばいい。ちょっと言うことが非常に良い働きかけになっている。それもまた「ゆとり」である。そのしんどさに耐えていくのが子どもを大切にしていることだ

親は自分ができなかったことをやらせたいと子供の自由な選択を許さなかったりする。
保護者の中には我が子かわいさゆえの情愛があまりに強くて、「悪いのは誰々でうちの子は悪くない」と主張し身びいきする人がいる。
あるいはまた、親は「こんなにやっているのに!」と子供に情愛を押し付ける。そのような情愛ではなく、字を逆転させた愛情が子供を大切にするということである。

ランドセルを背負ったまま塾へ行く子供たちをよく見かけるが、彼らはコンビニにたむろしてカップ麺をすすり、プラットホームで夕食のつなぎのお弁当を食べている。夜遅く帰宅すれば気晴らしにゲームをする。この子供たちはいつ寝るのだろうか?!

幼稚園年長になればお稽古や塾に追い立てる親も多い。しかし、あの時期はうんと遊んでいないといけない。そこからつかんでくることがないと弱い子になる。

このように子供たちは追い立てられて毎日を過ごしており、このような毎日に適合していき、それがないと不安になっていくのである。
それは親も同じでとても危険なことだ。親は子供たちの明日を見ていないと思えてならない


今取り巻いている状況はあまりにも厳しく、例えば環境問題にしても今世紀末には地球の気温が4〜5度上がると言われている。これはもう大変な事態である。

今世紀末と言えば今の子供たちには現在であり(生きており)、ということはまさに私たちの問題でもある。そのような時代を生きなければならない現実問題があるのだから、今やれることを必死になってやらなければならない。

子供たちは厳しい明日を生きることだけは間違いないだけに、より良い明日を迎えるために今準備しなければならない。それは子供たちがゆとりを持てるように親が必死の気配り、努力をしようということだ!


「良い子」とは学術優秀で品行方正な子ではなく、困難にくじけないたくましさ、粘り強さ、我慢強さを有する子である。
とまどいつつも、迷いつつも、焦らず、諦めず、自分を見失ってしまうことなく途を開ける人間に育てねばならない。


例えば、教えてもらってないところがテストに出たからできなかったと言うような、教えられなかったことに対してお手上げではいけない。教えてもらわなかったことの連続が我々の人生ではないだろうか。

親は苦しんでいる子をハラハラしながら見守るのであり、子供にとっては親がいつもそばにいてくれるのが大切なのである。そうすることで子供は安心し、親から信頼されていることがわかる。
親子関係は難しいがこんな素晴らしい関係もない。

他人の評価が気になるのは誰しもあるが振り回されてはならない。謙虚さを持ちつつ自己変革していく しなやかさが必要だ。

子どもを型に押し込めない。はみ出すところがあるというのがその子の個性が生きているということである。自己主張できないのは集団に組み込まれていないと不安になるからだ。

以上、書くことで学びがより一層確かなものとされたように思う。

講演終了の定刻7分前に退室したので最後まで聴けなかったのは残念だが、困難な時代を生きる子供たちの子育て、次代を担う子供たちの育成がいかに重要であるか、講師の謂わんとするところは十分受け止めることができた。

時間の流れと共に常に世代は入れ替わり、今の幼児が中心になって人々のために働く時代が来る。
その時、この子供たちの中から自然科学者や社会科学者ほか、あらゆる分野の研究者が育っていなければならないことを思うと、真の教育について考えさせられることしきり。

なぜならば仮に高学歴を獲得したところで、生きることの意味を知り「良心を手腕とする人物」でなければ知識を生かすことができないからだ。


講師が自己紹介の中で、「私は義務教育、特に小学校をいかに充実させていくかに主眼を置いて活動している。そんな私が今強く思っていることを話したい」と言われたとおり、実に示唆に富む話だった。

私は改めて子育ての大任を思うと同時に人生の羅針盤である聖書を与えられている恵みを感謝した。
ユキのことも本質を見失わずにユキはユキらしく育ててやればいい。そのためには私や知子がぶれないためにも神と共に歩むことだ。私は精神の高揚を感じながら帰途についた。


posted by 優子 at 18:18| 教育 | 更新情報をチェックする

我が家のジャックが幼稚園でも大歓迎!

昨日もユキが話していたのだが、今日は収穫したサツマイモで「おいもパーテイ・ハローウィン」をすると言うので、私は今朝になってジャックを運ぶことを思い立った。そう、26日に我が家にやって来た提灯ジャックだ。

大急ぎで洗濯物を干してジャックをカートにくくりつけ、ロウソクと共に子供達よりも一足先に幼稚園へ運んだ。子供たちと一緒だと子供たちはジャックが気になって道中危ないからだ。先生方は大歓迎してくださった。

降園時、ジャックを引き取りに行った時、お遊戯室の黒いカーテンを閉めてジャックにロウソクを灯してくださったことをお聞きした。お便り帳にも書いてくださっていた。

「かぼちゃを囲んで、みんなで楽しくハローウィンパーティができました。
絵で見るのとは違い、本物のかぼちゃに本物のロウソクの火・・・子ども達が本物に触れる機会を与えて下さり、本当にありがとうございました。
収穫祭であることも、つけ加えて伝えることができました」。


ユキのお便り帳を読みながら、私と同じ感動を共有してくださったことが嬉しかった。本物に触れる感動と大切さだけではなく、収穫祭のことも取り上げられるとは、「さすが教育者だなあ」と深く頷きながら悦に入っていた。
まさに「ハロウィーン・コスチュームでハーベスト・フェスティバル」だった。

その折、「お誕生日、おめでとうございます」と言われてびっくりした。ユキは何でも話しているんだと嬉しかった。
では、ユキが作った今日のハローウィンパーティーのコスチュームをここに記録しておいてあげよう。お面の顔はジャックと同じだった!
ユキのお面はジャックだね.jpg
ついでに最近よくやっている遊びを記録。
降園後、公園でひと遊びしたあと、10月になってから帰宅してからも家の前で自転車で遊ぶ。自転車を近鉄電車に見立ててユキは運転手と車掌さんを兼務する。水で描いてあるのは線路だ。
ユキちゃん電車@.jpg
これは縄跳びをしているところ。
縄跳びA.jpgまるでお猿のよう!縄跳び@.jpg

「縄跳びはそんなにジャンプしないよ」と、股関節をかばいながら見本を見せてやるのだが、1回以上は怖くて飛べなかった。

「ただいま!」
やっと電車ごっこを終えて家に入ってきた。今日は1時間半も遊んでいた。では私もこのへんで擱筆としよう。
それにしても明日から11月とは時間の経つのが速すぎる。

posted by 優子 at 16:04| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年10月30日

62歳の誕生日に

今日2つ目の記事である。
今年もワシントンから誕生日のグリーティングカードが届いた。今は特に忙しくしているから「いいよ」と言っていたがやっぱり嬉しい。
真智・太志君 ありがとう!

ユキを迎えに行く前にバースデーカードを見つけ大急ぎで読んだ。読み終わった時、大粒の涙が落ちた。涙を拭いて小走りしている時も幸せで胸がいっぱいだった。
知子も一生懸命ベストを尽くしている。この1年も子供たちに励まされて私も良き日々を生きたい。

これは10月10日、瑠璃光寺五重塔をバックに写してもらったスナップだ。夫もすごく良い表情をしており、共に映りが良いのでこの写真の中からマチ・クマにお礼を言おう。
関北会・山口の旅.jpg 
真智、太志君、ありがとう手(パー)
ユキも紙粘土でプレゼントを作ってくれたね。後ろの切り紙はハローウィンのジャックを粘土の玉にひっかけてある。
ユキからのプレゼント.jpg
「女の子はかわいいウサギが好きだと思って作ったよ」とユキ。女の子だなんて嬉しいな。なのに「このウサギこわいよね」と知子。そんなことないよ。
そういえばあのカボチャを皆さんにも見ていただこうと、25日から夕方5時頃から2〜3時間点灯させている。
ジャックランタンとA.jpg
ロウソク一本でこんなに明るくジャックの顔が浮き上がる!
発光させて写すとこんな感じだ。ジャックランタンと@.jpg
提灯ジャックも明日でおしまいとは寂しい。
それぐらい親しくなったよね。


附記:祖母は私の誕生日を忘れなかった。
と言うのは10月30日(明治23年)に教育勅語が発布されたからだ。

教育勅語とは「日本の教育の根幹と国民の培うべき徳行を説いた勅語で、正式には『教育ニ関スル勅語』」と言い、その最後には叔母が言ってたように「10月30日 御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と書いてある。

このことを今年も叔母から聞いて、そういえば母が話していたことを思い出しただけではなく、祖母からも何度か直接聞いたことがあったことを思い出した。こんな小さなことも私には貴重な思い出であり、母や祖母にまつわる懐かしいエピソードなのだ。

親を失うというのはこういうことだ。私の幼かった頃のことを知っている父母はいない。親ほどではないが、私の幼かった頃のことや母のこと、また父のことを知っているのは叔母だけである。叔母が元気なうちに聞いておきたいとの思いが募る。
どんな小さなことでもいい、母や父のことを知りたいから。


posted by 優子 at 23:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

現代の教育講演会に参加して思ったこと

今日は知子の代理で市民講座に参加するために総合福祉センターへ出かけた。講演内容は現役子育て中の保護者に焦点を当てたもので、10月から5回シリーズで「親子関係を考えるU」が開かれていた。

先週の水曜日は臨床心理学の立場で「グリム童話から思春期の子どもと母親の関係を考える」というので、私が参加するつもりだったが台風関係の大雨で欠席した。

最終回の今日は「親子であるゆえの難しさ 〜我々は子どもとどう向き合えばよいのか〜」で、これは知子が希望していたのだが昨日は参観日で連日の欠勤になるので断念した。ならば私が聴いてきて要点を伝えてやろうと思った。

ユキが幼稚園に入園して思うのは、専業主婦だった私はPTA活動にもかなりの時間を割いて協力できたし、それらを通して私自身が育てられてきたのだが、あの頃は知子のように仕事をしながら子育てしている母親のことを今ほども関心を持っていなかった。

専業主婦も忙しくはあるが手抜きするのも自分次第であるのとは違って、勤務する母親は幼稚園や学校からの便りを読むのも必死である。

私は働く母親が、あるいはシングルの父親が短時間で読めるように、これだけはと思う要諦だけを広報してあげたいと思うことがよくある。仕事があると学校教育や子どものことに関心があっても時間を割くのが難しいからだ。

ということで、私は常々知子の秘書のごとくに必要なことを伝えたいと心に留めている。
今日は公共バスで行くので講演会が始まる1時間も前に着いてしまうが、保健医療課でユキの医療証交付の手続きもできるとあって一石二鳥と勇んで出発した。多忙な娘の役に立てるのが嬉しいのだ。

講師の大阪樟蔭女子大学の川合春路氏は私より2歳年上で、今も現役で教育界で活躍しておられる方である。講演は氏の使命感をも感じさせる素晴らしい内容だった。

講演から私たちの教育観で間違いないということと、常に心をこめて生きよということだったよと知子に伝えてやりたいと心が躍った。

子育て現役の人たちへの教育講演は全く違和感を感じなかっただけに、最初のうちは何も耳新しいことがなくて少々退屈に感じ、そしてまた既に過ぎ去った人生の淋しさを感じたりしていたが、氏の例話から新たに気づかされ深く考えさせられて、いつしか淋しさなど忘れて共感し感動をもって聴き入っていた。

時代が変われども子育ての要諦は変わらず、加えて現代は私が子育てしていた頃よりもはるかに混沌とした状況であるから、以前にもまして確固たる理念と信念がなくてはならないというのが私の感想だった。


2時間に1本というバスの関係で終了7分前に退室しなければならないのは残念でならなかったが、今ではめったに講演会に出向くこともないだけに貴重な時間を過ごさせていただいた。

知識としては何も新しいものはなかったが、ビデオやネット中継で聴くのではなく生の講演は心に響き、子育てを終えた私の心をも感動させた。
勿論反省することもしきり。そこがまた生きている証であり、新鮮な感動を伴って聴けるのである。知子だけではなく子育てママのためにもページを改めてお分かちしたい。

それに先立って講演の初めに紹介された詩、ノーマ・コーネット・マレックさんの「最後だとわかっていたなら」をご紹介しておきたい。(※ 詩の題名をクリックしてください)

講師はこの詩から、「私たちは一番大事なものをあとまわしにするが、あとまわしにしてしまわないようにという強い自覚が必要だ。そのために時々、『死』に目を向けることが大切である。私は年をとったから強く感じるようになったのだろう。」と語られたが、私も全く同感だ。

人生とは何か、人間にとって何が大切なのか、それがわかれば正しい教育観を持って子どもを育てられる。ユキの教育もまた娘たちの育て方と同じスタンスと方向で間違いないことを今一度確認することができた。そもそも教育とはそういうものであるのだから!
講演内容も乞うご期待!


附記:今日62歳の誕生日を迎えた。感謝!

posted by 優子 at 18:34| 教育 | 更新情報をチェックする

2013年10月26日

6歳から68歳の初めてのハローウィン

今にも雨が降りだしそうな曇天ながら昨夜からの大雨は夜明け頃に上がり、予定通り午後1時より自治会主催のハローウィンが開催された。
自治会の子供たちだけではなく校区内の0才から15才の子供を対象に、事前の申し込み形式で182名の申し込みがあったという。

お菓子を配る家は17軒から協力の申し出があり、我が家も参加して1時20分頃から3時まで大いに楽しませてもらった。

会長さん、ありがとう!.jpg

ハローウィン@.jpg ユキの後ろ姿.jpg
 
マントと帽子は100均ショップで調達。

子供たちが「トリック オア トリート」と言うと、私たちはお菓子をバッグに入れてあげる。お菓子は自治会から当日朝に預かったのだが、最後の人たちにはお菓子がなくなってしまったので200名ほど参加したのだろう。
trick or treat.jpg
 

子供が " Trick or Treat "「イタズラかお菓子か?」(「悪戯されたくなければお菓子頂戴」の意味)と言うので、迎える側は「トリート」と答えて、子供の手提げ袋に一つずつお菓子を入れてやるのだ。

同じ家に行かないようにとグループごとに持たされた地図に、我が家のところに印も入れてやらねばならず、一人ではとてもできなくて急きょ夫に協力依頼した。こういうことは快くやってくれる。

ハローウィンA.jpg
私は服の前と後ろを反対に着ていたのも一日中気づかなかった。どおりで着心地が悪かったはずだ。
ハローウィンD.jpg

子供たちは見事なカタカナ英語を口にしていたが、ユキは2年前から既に正しく発音し、私も私なりに楽しもうと英語で返した。わーい(嬉しい顔) 
すると目の前に青い目の男の子が来た。この校区内にフランス人やアメリカ人の家族がおられるのを知らなかったが、共に日本語が堪能だった。ふらふら

私はまず" Treat!" と言い、そのあとは自然に " Have a Happy Halloween. " が口に出てきた。そして、"Here you are."と言いながらお菓子を配った。
最後に" Enjoy!"と言って見送っていたが、実は誰よりもエンジョイしていたのは私だったのかもしれない。

ところで、ハローウィンでは一般的に魔女やお化けに仮装するのだが、死者を冒涜するようで嫌だった私は、シェイクスピア作品に登場する「道化」(wise fool)を心に留めてユキに着せた。

ハローウィンB.jpg
かわいいwise foolでしょ!

ハローウィンE.jpg
ユキがもらったカボチャ!
再び最後に公園に集まってゲームをして遊んだ時、ジャンケンを勝ち抜いた二人のうちにユキも残っていたのでカボチャを、知子もまた大人のゲームに協力したからとヒョウタンをもらった。

8月末の初めての納涼大会に続いて初ハローウィンである。発案から準備実行まで、リーダーたちと地域上げての協力体制に頭が下がる。

散会する頃には冬の訪れを感じさせる冷たい風が吹いていた。週明けの朝は気温がガクンと下がるというので帰宅してから電気カーペットを敷いた。日暮れを待ってジャックランタンに火を灯した時、下着一枚のユキは震え上がっていた。 

提灯ジャックとユキ.jpg
楽しかったね、ユキ。感謝!

お菓子配りをしている時、我が家の近くになると「ここはユキちゃんの家やー」、「次はユキちゃんの家やー」と、たくさんの子供たちの声が聞こえてきた。
今ではすっかりユキも存在感を出して生きている。
ユキ、お友達と一緒に大きくなあれ!


附記:昨日のお昼前、25分間ほど真智より電話あり。
今夜9時過ぎから2時間16分、真智と私たち夫婦でスカイプする。
その後、この記事を書き始め(27日)午前1時5分に書き終えたが26日の日付で更新する。

   
posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年10月23日

自治会主催でハローウィン?

私が初めて「ハローウィン」を知ったのは、高校時代に見ていたアメリカのテレビ映画『奥様は魔女』だった。1960年代にアメリカのテレビドラマの全盛期に入り、私は中学3年生の時から3年間ほど『テレビジョンエイジ』という月刊誌を購入していた。今も何冊か残っている。

『奥様は魔女』(原題:Bewitched)が日本で放映されたのが1966年だから、今から50年近くも前のことになる。広告代理店に勤めるダーリン・スティーブンスが結婚したサマンサが実は魔女だったという話だ。

その中で子供たちが仮装して夜に家々をまわってお菓子をもらう「ハローウィン」を物珍しく見ていた。その時は「ハローウィン」ではなく「万聖節」と訳していたと思う。

私の記憶では、その後まもなく(同じ頃?)神戸の有名な洋菓子メーカーMがいち早く「ジャック・オー・ランタン:Jack-o'-lantern、別名:提灯ジャック」(カボチャの中身をくり抜いてロウソクを灯す)を飾りつけるようになった。提灯ジャック.jpg

「ハローウィン」をアメリカの子供たちが楽しんでいたので、私は長い間キリスト教と関係があると思っていたが、根源はケルト民族から由来したものだ。
カトリックの教会歴では11月1日が「諸聖人の日」で、翌2日が「死者の日」となっていることにも関連性があるようだが、そう言えば日本キリスト教団の教会でも11月の第一聖日(日曜日)を召天者記念日礼拝を捧げている。

カトリックと違ってプロテスタントでは、いかに大いなる働きをした人物であっても「聖人」として崇敬することはしないが、提灯ジャックを作ることや提灯ジャックが「善霊を引き寄せ、悪霊達を遠ざける効果がある」などは、キリスト信仰とは全く相容れないものである。

アメリカではキリスト教とは全く無関係で宗教性のない大衆文化として広がったという。1960年代のテレビでも私の目には季節のイベントのように映っていた。

八百万の神を信じる日本人は本来の宗教的な意味など考えることもないだろうが、自治会主催で「ハローウィン」が26日の午後に計画されている。このことを知ってからしばらくの間、私はユキを参加させるかどうかについて考えていた。

娘たちが小さかった頃、盆踊りは死者を供養するためのものだから行ってはいけないと教会で耳にしたことがあるが、それは偏狭な考え方だと思った。

それにPTAや地域の「子ども会」の関係で役目があり出ないわけには行かなかったし、それ以上に娘たちを日本の風物や情緒を知らずに育てたくはなかったので、私は盆踊りもだんじり引きも娯楽として楽しませた。

そしてまた国際理解の観点から日本人としてのアイデンティティの大切さを思い、母国日本の歴史や文化を知らずして外国の人と話はできないと考えたからだ。

その後加速度を増して国際化が進展し、しかもまさか我が子が海外に出て国際的な舞台で活躍するなど予想だにしなかったから、尚の事よかったし正しい判断であったと思っている。


ユキには「ハローウィン」について簡単に説明し、いちご狩りやさつまいも掘り同様の認識で季節のイベントとして参加することにした。

ユキもまた将来海外で生活するやもしれぬ時代である。となれば、我が子の子育て時代と逆転し、日本でもハローウィンを体験しておくほうが異国の文化に順応しやすくなるのではと思うほどだ。(笑)

次女夫婦の通っているワシントンの教会でも盆踊りを楽しみ、HPには「今年も、ハロウィーン・コスチュームでハーベスト・フェスティバルをご一緒に祝いましょう。」と案内されている。

アメリカのテレビドラマから始まり、洋菓子メーカーを初めとする広告メディアの長年の影響を経て、国際化隆盛時代を迎えた今、自治会のイベントにまで同化したのである。
あの頃には考えられない変化であり感慨深いものがある。私のハローウィン雑感だ。

posted by 優子 at 23:51| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2013年10月19日

雨の日の運動会

今日は幼稚園の運動会。ユキも年長組になり幼稚園最後の運動会である。ところが昨夜から雨が降りだし、この土・日は雨模様。しかも明日の方が悪天候との予報で主催者側は悩まれたことであろう。
お母さん方もまた、どうなるかわからないお弁当作りだったので気をもみながら作っていたことだろう。

そして7時15分過ぎに「運動会は30分遅れで実施。雨がひどくなれば小学校の体育館で」と保護者の携帯電話に一斉送信され、小雨降る中、運動会が始まった。
1週間前とは打って変わって毛糸のセーターを着た人も珍しくなく、マフラーをしている人まで何人か見かけた。
ユキ.jpg

ユキは一等賞!.jpg
1等賞!
でもあとの3人は女の子だったね・・・るんるん

祖父母と踊って玉入れ!.jpg
「一緒にあそぼう♪」
全園児・祖父母リズム団体。
親子障害物競走A.jpg
親子で障害物競走、ここは子供を抱き上げての玉入れ。
知子は「高い高い」の姿勢で体重20キロのユキを抱き上げたが
腕の力なく失敗して先を越された。

そして、午前の部最後のプログラム。
年長児組体操リズム 「輝け!夢に向かって」
組み立て体操@.jpg
雨の中の組み立て体操。
A組み立て体操.jpg
ブリッジもお見事!
組み立て体操C.jpg
中央の子がユキだ。
↑この写真が時代物に見えるのはビデオから間接撮りしたためで、知子の子供時代の写真ではない。今日は近視調整のコンタクトレンズを装用したので、近くのカメラ写りは老眼状態で見えなくてユキと違う子を撮っていた。ふらふら
組み立て体操B.jpg
この時もこのあとに両手を横にあげてポーズを決めたのに、ここでシャッターを押したために「保存処理中」に時間がかかってシャッターチャンスを逃してしまった。もうやだ〜(悲しい顔)
知子はユキの真剣な顔の組み立て体操に感激し我が子の成長をかみしめていた。
ママと!.jpg
これは子供と保護者のリズム競演。
この練習が8日にあり私は知子の代理で出席したが、私から一言も伝授されないまま知子は本番を迎えた。要はエンジョイすることよ!

知子は保護者の「大縄跳び」に参加し、勝ち残ったため午後にも挑戦して優勝したはいいが1回目で既に足はガクガクだった。
「縄跳びがこんなにしんどいとは思わなかった。自分の筋力は小学生の時のままだと錯覚していたので、本当にしんどかった。」と驚きを隠せない。

私は老眼の目でユキのお友達や知子のママ友の写真なども含めて232枚の写真を撮っていた。そのうち取捨選択して60枚ほどに絞り、そこから何枚かをブログに記録した。
ここに知子の幼稚園時代の組体操の写真を貼りたかったが疲れも限界、今日はここまで。

夕食後ユキが言った。「ユキちゃん、もう一回、運動会したいな」。
寝る前のお祈りでも、「イエスさま、今日、運動会が終わりましたが、小学校になったら6回もあります。楽しみです」と祈り、満たされた一日を感謝して8時頃から爆睡した。

園長(校長兼務)先生は「雨の日に実施して申し分けありません」と何度も恐縮してくださるので、「決行してくださって良かったと多くの方々が仰っていますよ」と申し上げたのだった。

特に私たちにとってはありがたかった。明日もダメならば月曜日になる。そうなれば夫(祖父)はとうてい出られないし、知子は無理を押して会社を休むであろうが、仕事が山積みになってしまうのでまた帰宅が深夜になってしまうところだった。

運動会が終わってからしばらく雨は上がっていたが、夕方6時頃から再び雨が降りだした。


附記:▼ 昨年の運動会は秋晴れだった!
▼ 昨夜、夫は1泊2日で金沢から帰宅。今日は運動会のあと食料の買い出しにも連れて行ってくれた。夫と知子は明日ゆっくり休養させてやりたい。

posted by 優子 at 22:11| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年10月17日

トマトの老木に人間の一生を重ね見る 

先週の今朝は夏服で家を出て集合場所の新大阪駅・千成びょうたん前に向かった。着いてすぐ主催者から近くの喫茶店でお茶をご馳走になった時もアイスコーヒーを注文したほど暑く、その夜はユキが寝る時はしばらく扇風機をつけたという。勿論、山口県もクーラーが入っていた。

ところが今朝は10.4度まで下がり血圧も150台に急上昇。今朝は久々に知子を駅まで見送れるとあって毛糸の帽子を被った。頭を暖かくすると脳卒中の予防になると教えてももらったが、何よりも心地よく体調も楽になるので周囲の目など気にしない。

まだまだ陽射しが強いので毛糸の帽子の上に夏の帽子を被って外へ出た。この上にウインドブレカーを着たので薄物とは言え4枚だから、1週間前の真夏から晩秋に突入だ。 
マチ、元気?.jpg「マチ、クマ、元気にしてる?
読者の皆様、お元気ですか?」
では本文に入ります。
今年もゴールデンウィークの頃に野菜の苗を買い、例年よりは心を込めて育てた。キューリとピーマンを2本ずつとミディトマトを1本植えた。
例年プチトマトを買っていたが、今年はフルーツトマトを買った。プチトマトの苗よりも値段が4倍ほど高く280円ぐらいだったと思うが、甘くて大きな実がたくさん成った。200個近く収穫しただろうか、買えば4000円ぐらいになるだろう。
ミディトマト甘いね.jpg
7月6日(土)朝8時すぎ、甘いミディのフルーツトマトを収穫!

青々とした葉に赤い実が鈴なりに成った。それでも毎回6〜7個ずつの収穫だったから、来年は家族みんなでたくさん食べたいのでもっと植えよう。
キューリもたくさんできた。
これは収穫が始まった6月18日(火)の朝7時半、登園前にキュウリの朝取りだ。収穫は1本! 裏はやぶ蚊がブンブンたかってくるのでかなわない。水やりも足踏みしながらだ。
登園前に朝採りキュウリ.jpg 

朝採りキュウリだよ.jpg
2ヶ月間キューリを買わずに満たしてくれた。

そして晩夏の頃には、あんなに青々としていたトマトの木もかなり勢力がなくなっていた。
夏の終わり.jpg8月28日のトマトの木。
右のはユキが幼稚園から持ち帰ってきたプチトマト。

9月下旬になるとトマトのプランターの土の表面が湿るようになった。雨が降ったのかなと思ったがそうではなかった。
それまでは土の表面がすぐにカラカラになっていたのに、その頃から水を吸い上げる力がなくなって水分が残っていたのだ。目に見えないいのちの営みを目で見るようだった。


その後まもなく茎の下部に白い斑点がつき、上に広がっていった。今では茶色の斑点もできて3分の一の高さまで病気が広がっている。
それでもなお新しく青い実をつけ大きくして赤くしてくれるのだ。最後の頑張りで。

老いたトマトの木@.jpg  老いたトマトの木A.jpg
青い実は今も10個を数え、所々に黄色い花まで咲かせているのは痛々しくさえある。

トマトの成長と枯れていく姿を見ていると人間の一生と重なって見える。いのち盛んな時は元気いっぱい活動し、やがて老いを迎えて病気になっていき、何もかもが衰えてついに生を終える。
老木になってもなお実を結ぼうとするのは、いくつになっても子を思う親の愛を思わせる。懐かしい父と母を。


そして、ある人の言葉が聞こえる。
「親は最後まで子供に教えているのよね。人間はこうして死んでいくということを身をもって教えてくれているのよね」と。

父の晩年は、重度の脳梗塞に倒れてから病院を2度3度変わって、一度も家へ帰ることなく3年3ヶ月の入院で生涯を終えた。

2000年の春の頃だっただろうか、もとの病院に戻ってきた時に親しく言葉を交わしたMさんは、父よりもひとまわり年上のお母さんのために毎日一日中ついておられた。これはその女性が言われた言葉だ。
父の死後、何年も経ってからその方のお母さんも亡くなられた。その方とは今も年賀状で消息を伝え合っている。

今夏はトマトがいっぱい!.jpg
7月12日のトマトの木。
 
まもなくトマトの木を引き抜かねばならないが、美しく生命盛んだった時の姿を忘れない。

小さな苗だった時も、グングン大きくなっていった時も、成長して実をいっぱいつけていた時も、老いた今も、どの時も命輝く日々だ。でもやっぱり若い頃はなんと美しいのだろう。

娘たちも私の30代40代の頃を覚えておいてほしい。それは自分史において最も充実していた時代だった。人生苦に悪戦苦闘していた時でもあるけれど、その時に神と出会い、神に愛されていることを知り、苦難に慟哭しながら信仰が練られていった。

今もこれからも生涯の終わりまで悩みは尽きないだろうけれど、主の恵みの中で生かされていくのは何たる喜びであろう。ただ主の平安と導きのみを願って生きていこう。これからこそが人生の本番なのだから。

私は今、晩夏の頃のトマトの木だ。
年を重ねてきたからこそ感じる深い哀歓。生かされている限り、常に今を生きていこう。



附記:台風のたびに犠牲者が出て、日本列島もズタズタになっていく。
伊豆大島 では16日未明から早朝にかけて、台風26号の大雨で土砂崩れを招き22名もの方が亡くなられ、未だ27名の安否がわかっていない。ただただ祈るばかりである。

本文で「いのち盛んな時は元気いっぱい活動し」と書いたが、みんながみんなそうではない。生まれた時から重い病気や障害を負って生まれくる人もたくさんおられることを忘れてはいない。

10月28日追記:トマトの木は25日に引き抜いた。生き物の命を殺めるような酷さを感じた。これでは花や野菜も植えられなくなってしまうと思うほどだった。

posted by 優子 at 22:48| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2013年10月14日

第36回関西北越会余録 ―関西北越会で文章配布―

旅行に行く2日前のこと、突然にある思いがひらめいた。いや、「与えられた」という実感だ。それは先月の日本クリスチャン・ペンクラブの例会で発表した新島襄について書いたものを皆さんに読んでいただこうとの思いだった。

萩といえば長州藩の本拠地であり、維新に活躍した志士達を数多く輩出したところだ。彼らを教育し感化したのが吉田松蔭であり、彼はペリー艦隊でアメリカへの密航を企てて失敗し、その10年後に新島襄が脱国に成功したのである。
その関連に加えて『八重の桜』が放映中ということで実にタイムリーな内容なのだ。

この思いと同時にきたのが、「この文章を多くの方々に読んでもらいたいですね。」という大田先生の言葉だった。「キリスト教関係の雑誌でコラム記事にしてくれるといいですが・・・」と、例会帰りの車中でお聞きした。

そこで急きょ、参加者に配布させていただこうと30枚用意した。慌て者の私は誤字を改めていないデスクトップ上のものを印刷してしまい、当日朝の環状線乗車中に気がついて新幹線に乗ってからすぐに訂正した次第だった。

そして、旅行会社の添乗員さんが落ち着かれた頃を見計らって配布の依頼をし、配布時は今日の見学が終わって宿に向かう車内がいいだろうとお願いした。翌日はゴルフ組と観光組に分かれるのでそれがベストだった。

私は配布時に配布の動機を話して挨拶させていただこうと思ったが、それは添乗員さんに委ねた。添乗員さんは一言もなく唐突に配られたので皆さんは何事かと思われたことだろう。配布後すぐに読んで下さり、しばらく水を打ったような静けさだった。

幸いなことにバスガイドさんが、時代背景と意味合いを繋げての聡明なるガイドによりホッと胸をなでおろしたことだった。
「勉強になりました。良い資料をいただきました」とガイドさんの嬉しいコメントを初め、7〜8人の方からコメントをいただいた。

中学から同志社で学ばれた京都在住のご夫妻は、「よく書いてくれた。誰もこのようなこと(聖書のこと)知らんから嬉しい。」と同志社ファンらしい喜びを、その奥様(私の妹と同じ学年)は八重さんのことを話してくださった。

ところで、私に「文章を配布しよう」との思いを働きかけてくださったのは神さまである。不思議だったのは、胸が熱くなったものの高鳴るというのではなく坦々と動かされていったことだ。しかしまた躊躇することもなかった。
ただし配布する時にひとこと説明しなかったのは、それを希望していても添乗員さんに申し出ることができない消極性ゆえだ。


今改めて「今の時を生かして用いなさい」(エペソ書5章16節)のみことばを心に刻み直している。そして、昨朝の牧師のメッセージは神さまから私への個人的なメッセージと受けとめた。
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」。(ペテロの第一の手紙 4章10節)

天に国籍を持つ者として、召されるまでこの世を精一杯生きる。
神さまから預かっている賜物(カリスマ)を大切にするだけではなく、十分に用いることが神さまの大きな喜びである。

私たちの命を通してそれらの一つひとつが神の栄光を現していくのである。恐れず勇気をもって賜物を生かして用いていきたい

37年間共に過ごしてきた夫は、文章を配布する私の行為に照れつつも心底では自分にない積極性に憧れを感じていると思う。

しかし、夫には積極的に見える私もまた先に触れたように消極的なところが多分にあるのだ。このエピソードは実によく私の一面を表している。

その場の雰囲気を読めないのはいただけないが、私は自然体で積極的に行動する人に憧れを感じており、それゆえに「恐れず勇気をもって賜物を生かして用いていきたい」との牧師の言葉に励まされるのである。


夫の事業の上にも、特に信仰をもって励んでいる知子の上に神の導きと祝福が豊かにありますように祈るばかりである。
次回の旅行先は中国(広東省)が濃厚のようだ。

最後に、配布させていただいた文章をお読みくだされば感謝です。

          神の見えざる手に導かれた生涯
                            藤本 優子

新島襄が函館から脱出したのは、吉田松陰が下田から密出国を図った10年後のことである。国禁を犯して脱国した新島襄の生涯は、まさに神の見えざる御手に導かれてのプロビデンス(摂理)であった。

函館からベルリン号に乗り込んだ新島は、セイヴォリー船長の同情で乗船し、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り移った時も、セイヴォリーの助けがあった。後年それらのことが明らかになって、セイヴォリーは船長を解雇された。

ワイルド・ローヴァー号のテーラー船長も新島をかわいがってくれ、新島の名前が呼びにくいので「ジョウ」と呼んだ。これらの良き人々の助けによりアメリカの地を踏み、その後はワイルド・ローヴァー号の所有者ハーディが新島の運命を開花させていくのである。

敬虔なクリスチャンであったハーディは新島の保護者となり、新島を「ジョウ」ではなく「ジョセフ」と呼んで高等教育を受けさせた。まず英語の基礎を学び、アーモスト大学卒業後、アンドヴァ神学校で神学を修めた。新島は帰国する時に、心の父ハーディへの感謝をこめて「ジョセフ・ハーディ・ニイシマ」と改称した。

日本国が新日本建設のために有力な大勢の官吏を欧米へ派遣した時、新島は岩倉具視一行の文部省当局者・田中不二麿の官吏グループの通訳に抜擢された。この時すでに在米7年で英語に精通していたこともあるが、政府の留学生ではなく国禁を犯して密出国した新島である。この時もまた神の摂理が働き、キリスト教に強い関心を持っていた森有礼により特別に抜擢されたのである。

このことから不二麿との深い交わりを得、そしてまた木戸孝允とも知遇を得て同志社創設の実現にもつながっていくのである。国禁を犯して脱国した者が、よりによって尊王攘夷の中心地に、しかも、こともあろうに日本国が厳禁していたキリスト教主義の学校を創設できたことは、まことに神の摂理であった。
新島襄は述べている。

 「私の一生はアンシーン・ハンド(Unseen Hand・神の見えざる御手)に導かれて今に至っている。今後も私はこのアンシーン・ハンドの導くがままに行くべきところに行くのである」。

 また、明治23年に同志社普通学校を卒業し、後年、同校の教頭になった波多野培根は次のように書き残している。

 「『彼は其往く所を知らずして出ていけど』(ヘブル書11章8節)、不思議なる『見えざる手(アンシーン・ハンド)』が彼を導きて目的の地カナンに至らしむる。
自己の意識せるよりも意義の深遠なる大事業を為し、不朽の感化を後世に垂れるのは此種の人である」。

 新島襄の上に神の摂理が働いたごとく、神は切に求めてやまぬ者の上に働いて御心を成就されるのである。


posted by 優子 at 15:42| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2013年10月12日

第36回関西北越会 山口・湯田の旅 @ ― 41年ぶりの萩 ―

関西北越会は北越製紙(株)とその代理店・北越紀州販売(株)が主催する西日本の卸商との親睦旅行で、1978年に始まり今年で36回目を重ねる。
私の関北会デビューは9年前からだが、香港へは行かなかったので今回で8回目の参加である。

季節はずれの暑さが続いており、9日は日本海側を中心に気温が上昇し、新潟県糸魚川市で35・1度を記録した。10・11日も連日の真夏日で服装はTシャツ1枚の服装だった。

10日は東京から10名が山口宇部空港へ。大阪組の21名は12時38分に新山口駅へ。新山口で東京勢と合流して昼食(味の宿梅乃家にて)タイム。この日は菜香亭、瑠璃光寺五重塔、秋芳洞を見学して長門湯本・大谷山荘で一泊した。

※ 今年は主催者側のメンバーが大きく変わって慣れないため、折々に撮ってくださる写真が大幅に少なくて残念だが、瑠璃光寺五重塔をバックにしたスナップが1枚だけ記録できると思う。

昨年の知覧は深い感慨を覚え、今年の萩は1972年2月末に来たことがある懐かしい町であり、共に心に残る旅だった。

今から41年前のこと、兄の大学卒業旅行に私も友人と一緒に加わって訪ねたひとつが萩だった。友人4名に声をかけたところ参加者は1名だけだったが、総勢5名で2泊3日の山口・島根の旅に出た。私は20歳、大学2回生を終える頃である。

あの時、山口では秋吉台と萩へ行き、夏みかんの黄色い実と白壁を見ながら雪の舞う中をレンタルサイクルでサイクリングした。

山口県は全国一多くの偉人を輩出した県である。高杉晋作や木戸孝允の誕生地、松下村塾、明倫館跡、東光寺など、今もあの時の記憶は鮮明に残っている。

それだけではない。
あの時、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が浅間山荘に立てこもり、山荘の管理人の妻を人質に10日間も立てこもり事件の最中だった。
宿泊先の皆生温泉(?)のホテルに入った時(2月28日)、ロビーのテレビを人が囲み、テレビ画面にはクレーンに吊るした鉄球を山荘に何度もぶつける映像が生中継されていた。
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兄と私。
これは昨日11日、41年前に兄と立った高杉晋作誕生地で。高杉晋作誕生地.jpg

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菊屋横丁:この左手側に高杉晋作誕生地がある。
右手前の木に夏みかんの実が見える。

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伊勢屋横丁にある木戸孝允誕生地。

萩の名産になっている夏みかんは、明治維新後に禄を失った士族の救済のために、小幡高政が青海島にあった夏みかんの苗木を士族たちに配ったことに始まる。当時は栽培技術もなく、ただ植えておけばよいというので士族にも可能だったからである。

萩の夏みかんは実がついてから1年間そのままにしておき、太陽の光をたっぷり浴びさせてから収穫するという。バスガイドさんの名ガイドで夏みかんの砂糖漬けを買ったが、案内の通り甘さの中に少し苦味があって実に美味しい。青いのは小みかんで黄色いみかんよりも苦味が強い。夏みかんの砂糖漬け.jpg

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松下村塾。
松蔭は米をつきながら本を読み講義もした。
たった8畳と増築した10畳半の狭い部屋で学んだ塾生たち。若者たちの燃え上がる情熱が時代を突き動かした!
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左端が兄、左から3人目が私。

萩での滞在は短く松蔭神社と松下村塾を見学後、とにかく高杉晋作誕生地と木戸孝允誕生地だけは訪れたくて急いだが、まもなく連れの女性2名も来られて共に歩いた。菊屋横丁では藩の豪商・菊屋家も見学した。

時間不足ゆえに独りになって思索や感慨に浸ることができなくて残念だったが、明治維新三傑の二人の誕生地を訪れることができたので満足し、萩焼の店々を立ち寄りながら集合場所に向かった。
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高杉晋作立志像前。
侍姿のパフォーマーと記念にパチリ!

この日、夫はゴルフ組で別行動だった。
 

posted by 優子 at 22:52| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2013年10月06日

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」

※ 2013年4月から2014年5月末まで西大和教会で礼拝を捧げていたが、この記事はカテゴリ「馬見労祷教会関係」に収録。

10月は冷暖房のいらない快適なはずが季節外れの気温で、礼拝にもクーラーを必要とする真夏日の暑い一日だった。

今日は教会歴で一番長い「聖霊降臨節」第21週目の礼拝である。
「聖霊降臨」とはイエスが十字架上で死んで復活され、天に昇られたあと信徒たちに聖霊が降(くだ)ったことを言い、その後使徒たちは福音宣教に遣わされていき教会誕生の時代に入る。

「聖霊降臨節は、信仰者の群れである教会とは一体どういうものであるかを考える時でもある。
私と神の関係だけでは十字架にならないし、私たちと横の関係、即ち社会との関係がなければ十字架にはならない。このことからも教会はこの世から隔絶された空間であってはいけない。社会と関わり、現実問題があることを肝に銘じておかなければならない」。


この言葉から牧師は今朝の聖書の箇所を解き明かされた。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」。
この有名なみことばの意味が私の中に深く届いた。

聖書箇所は、マタイによる福音書22章15節〜22節:
そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、

「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。

そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

「カイザル(Caesar)」は君主を示す称号で、「カエサル」は古典ラテン語読み、英語読みでは「シーザー」。
「パリサイ人」とはモーセ​の​律法を​厳格​に​守るユダヤ教​の​一​党派で、それ以外の人々とは一切​関わらずそのことを誇りとする人々。「パリサイ​」とは「分離​された​者」の​意味​である。

以下は大沢星一牧師の説教を私なりに理解したものである。

パリサイ派の人々にとって律法は命よりも大事だとしている。
デナリオン銀貨は成人男子の一日の日当くらいの額であった。その表には「尊厳なる神の 尊厳なる子 皇帝ティベリウス」と刻まれていた。従ってユダヤの人々にとって、この貨幣は宗教的な意味を持っているものであり、このままでは神殿には納められなかった。そのために両替屋がいたのである。

ヘロデ派は聖書の中でマルコ伝に2ヶ所しか出てこず詳しく書かれていないが、いわゆる当時のイスラエルの与党でヘロデ・アンテイパス王を支える一派である。

この王はローマに媚を売って王様でいたい人で、ローマの思い通りに使われる傀儡(かいらい)政権であり、それを支えているのがヘロデ党であった。

パリサイ派の人は税金など払わない人々であり、ヘロデ党とは相反する人々であった。従って「カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」という問いに対して、イエスがどちらに答えたとしても自分が危うい立場に追いやられるのを知っている。
そこで「お金を見せなさい」と仰った。イエスは相手の土俵には絶対にのらない

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と言われた言葉を、まるで二つが並列に置かれているかのように捉えられて政教分離が行われていった。

アメリカの場合は、特定の宗派を優遇することはしないという政教分離であるが、日本の場合はとてもいびつな政教分離である。

本来信仰は分けることはできないものであり、神の思いによって全てを律していこうというものであるから、密接に結びついていたものであるから分けにくい


その最悪な例が1930年代半ば以降のヨーロッパ、ドイツのナチス党の台頭だ。これに対して殆どの教会は言葉を発せず受け入れていた。
ただしボンヘッファーは違った。
教会は社会と関わるべきことを強く訴えていた。はっきりと社会に対して「然り」、「否」と物を言うべきだと


「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と言われたイエスは、ボンヘッファーの訴えたようことを言いたかったのだろうか。とにかく政教分離などはイエスの意図しているところではなかった。

「神のものは神に」は神殿税のことを言っているのであり、「信仰を守りなさい」とも「神殿税はOK」とも言っておらず、神殿税の拒否を言っているのである。

イエスは搾取されて苦しい生活をしている人々の神殿税を良しとはせず、信仰を利用した悪を批判した。これはイエスの強烈な批判なのだ。

「神のもの」とは、返さなければならないという信仰用語であり、私たち自身の信仰そのものがどういうものであるのか考えていかねばならない。
信仰とは私たちの魂に関わることであり、日常のさまざまな出来事もまた魂に関わることである。それを守るのが信仰である。

イエスの最も願っておられるのは人々の魂の平安である。私たちは神さまによって守られているということを心に刻んで、「私たちは神のものである」と、私たちの信仰を守っていきたい
。 

祈り:
主よ、私たちの歩みを守ってくださいますように。
些細なことに翻弄されてしまう私たちの魂でありますが、力強く守り支えてください!


神さまから新しい力をいただいて、これから始まる1週間の備えができた恵みを感謝します。

附記:
この日の午後、1時間ほど午睡して、急きょ一人で難波へ出かけた。地下街や高島屋を歩く。亡き父母を偲び、道頓堀の「今井」に行きたくて日が暮れてから心斎橋筋に出る。

老舗も残っているがかつての情緒は全くなく、今や「心ぶら」という言葉も死語になった。あまりの混雑ぶりで一人で歩くのは怖くて緊張したほどだった。中国語やベトナム語など東南アジアの言葉が飛び交っていた。

「今井」の店に入ってホッとした。この店だけ時間が止まっているような懐かしい空間だった。「かちんうどん」を食べて、再び高島屋へ戻り、ケーキを買って8時半頃帰宅。
5時間の外出は祖母でも母でも妻でもない自分自身で居られる貴重な時だった。

posted by 優子 at 23:50| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2013年10月04日

商法倫理の構築を求めるのは無知蒙昧な暴論か?

デジタル化が進み紙業界のビジネスモデルは崩れ、もはやここを通り抜けるしかなく、通り抜けた時に生き残っているかどうかである。

厳しさが増すばかりの現状にあって来年4月から消費税の増税が決定されたが、中小企業や商店などはその増税分を価格に上乗せできるかどうかは死活問題である。

その関連から久しぶりに夫に紙業界のことを尋ね、「紙卸商は製紙メーカーや代理店をも巻き込んで商法倫理の枠組みを構築すべき」と提言したのだが、夫の覇気のない姿勢に今更ながら深い溜め息をついた。

消費税増税のことから考えたことはこうだ。
そもそも消費税は税金であるから、小売業者は消費税の増税分を商品の価格に上乗せする義務があるわけだが、現状はそんな単純で簡単なものではない。

事実、全額転嫁できると見ている経営者は約5割で、周囲の様子を見て考えるというのがそれに続く。消費者側にしても消費税が上がって非常に困るのは弱者であるのだが、業者側もまた弱者が苦しむ構図になっている。

食料分野を例に取れば世界の現況は食料価格高騰の時代に入っており、約60%を海外からの輸入に頼っている日本は、それに加えて円安で輸入原材料が値上がり、そこに消費税増税である。

日本の財政を考えると消費税増税は仕方のないことで、IMFのラガルド専務理事が「財政の健全化に向けた第一歩と歓迎する」と評価したのも頷けるが、開始時期については著名な経済学者でも賛否両論だ。

とにかくこれまで以上に厳しい状況下での増税だけに 政府もいろいろと考えている。
経済産業省は流通業者が増税分の価格転嫁を拒む事態がないように、「転嫁対策調査官(転嫁Gメン)」を採用したり、「消費税転嫁対策室」を設置して増税分の価格転嫁を拒否する小売業者などへの立ち入り調査に乗り出すというが、たがが500人程度の人数で機能するのだろうか。

小売業者が増税前の価格で売ると小売業者の損失になるため、仕入先に安い値段での納入を迫ることになるだろう。公正取引委員会などは転嫁を拒否する事業者を指導・公表するというが、それは流通関連業者の全ての段階で徹底しなければならない。

適正価格同様に増税分は全ての業者が価格に上乗せすべきであり、適正な利益を確保すべきである。

紙卸商にあっては未だに売り上げ数量のみを追いかけて、いつまでも「ヨソがするからウチもする」と売上至上主義でやっている会社があり業界の規範を乱している。

エンドユーザーも少しでも安価なものを買いたいというのも理解できるゆえに、代理店は規範を乱している卸商には安く売らないという倫理観がなくてはならない。
そのためにはまずメーカーが責任をもって関連組織に伝えて従わせなければならないのではないか。

それゆえに、「製紙メーカーやメーカー代理店も巻き込んでの企業倫理、商法倫理の枠組みを作らねばいけないのでは?!」と夫に話したのであるが、これは無知蒙昧な暴論なのであろうか?!


2011年の原発事故以来、私はしみじみ思うのだ。
自分だけが幸せというようなことは有り得ない。自分が幸せになりたいならば他者も幸せでなければ成り立たないのだ。それは家族単位においてもそうであるように、社会や世界においても同様だ。

効率性だけで利益のみを貪(むさぼ)るような生き方をこそ、「フクシマ」が問いかけているのではないか?!

私たちは消費税増税を機に社会のあり方に気づき、是正する努力を始めねばならない。
私たちもまた誘惑に弱い者であるお互いゆえに、神なき人々のむさぼり社会の中でどのように実践していけばいいのだろうか。

神はどのように願っておられるのか、常に神の御心を探りながら進んでいかねばならない。それはまるで地雷を踏まないように歩くが如くに、一歩一歩自らを問いながらの歩みに違いない。


posted by 優子 at 23:15| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2013年10月01日

試練の日々は懐かしさに変わりぬ

大阪では31.1度まで上がり西日本は暑い10月の初めである。
今日はとても懐かしい人に会った。懐かしいと言っても数年前の日々につながる人である。2009年4月から2010年8月まで生協の共同購入の配達をしてくださった人だ。

この10年間に人生に関わる大きな出来事が4つあった。それらは私の自分史においても記録されるべき深い苦悩であり大試練であった。その方は苦悩の日々を通されていた時にお目にかかっていた人だ。

今日もユキを公園で迎えたあと小一時間公園で遊んでいた。その時、その方はユキの姿を見てトラックを止めて公園まで入ってきてくださり、私はユキに呼ばれて気がついた。

「藤本さん、お元気ですか? お孫さん、大きくなって!」
「○○さん!お元気でしたか?!」

私も名前も顔も鮮明に覚えていた。残念ながらユキは○○さんのことを覚えていなかったが、○○さんはユキが来年小学校に入学することも知っておられた。

「知子さんもお元気ですか?」と聞いてくださり、知子もすっかり元気になり父親の会社で頑張っていることを話した。

2009年4月と言えば、知子の体も心もズタズタで血がしたたり落ちているような情況だった。その後まもなく全ての問題が明るみになり、最大限の努力も虚しく2009年秋に調停を起こし2010年1月に離婚に至った。そして、2010年9月から美濃紙業に入社した。

今振り返ると○○さんが担当してくださった期間は、まさに知子の一大事の顛末と重なる時だったのだ。苦悩の底にいた知子の姿も何度か見ておられた。

私自身も苦悩の中にあったから知子のことを話すのは苦痛だったが、折を見て「実は・・・」と、知子が離婚して帰ってきていることを話した。「そうだと思っていました」と仰った。

生協の方々はどなたも一生懸命仕事をされる人ばかりで気持ちがいい。そんな中でも○○さんは特に美しい目をされている。大病だけではなく苦しいところを通ってこられたことを知り、それゆえに美しさと明るさが際立っているのだと思った。

別れぎわ、「苦しい時に心を支えてくださってありがとうございました」と感謝し、わずか2〜3分間の語らいだったが本当に嬉しい再会だった。これこそ人生の大きな喜びだ。

あとになれば苦しい時のことも懐かしい思い出に変えられていた。だから、喜びも苦しみも悲しみさえも、どんなことも懐かしい思い出に変えられるのだと思う。
悲しみや苦悩も永遠には続かない。いつかは神さまが取り去ってくださるのであるから、命ある限り最後まで生き抜かなくてはならない。

○○さんはあの頃と変わらず美しく明るい目をして頑張っておられた。私はどんなに励まされたことだろうか。○○さんの上に神の祝福が豊かにありますように主の御名によって祈ります。


やはり今日のことを書いておこうと夜遅くから書き始めたのだが、書くことで感動が深められるのを覚え、脳の研究者の言葉を想起した。感動は人の心に若さを与えてくれるというのだ。

日々の生活で「すごいなぁ」と感動すると、脳の神経群に感動をつかさどる「尾状核」が気持ちを動かし、「そのことで判断力と理解力が高まるので『感動する力』は脳をレベルアップする」というのだ。

そういえば感動について忘れられないエピソードがある。次女が幼稚園の遠足で須磨離宮公園へ行った時のことだ。ユキの幼稚園とは違って遠足は常にバスで保護者同伴だった。

私は隣の席に座った人とお喋りを楽しんでいたのを覚えているので、相手の方も退屈させない人だったのだろう。
その方に「藤本さんはよく感動されるんですね」と言われて驚いた。私には意外で嬉しい驚きだった。このことをきっかけに自己洞察を深めていったように思う。

あれから28年過ぎたが、今も「感動する心」だけは失っていないつもりだ。これだけが私の唯一の良いところかもしれない。
感動は自ら湧き出るものであり、しかも若い頃以上に感度よく深みも増している。そんなことを思うと感動とは自ら生きることなのだ。

数年前からアルツハイマーの初期かもしれないとの心配が極まって、ついに先月に主治医を訪ねたほどに悩んでいるが、「感動する心」を大切にすれば脳のレベルアップにもなるというのだから、悩む暇があったら私たちをこのように創造してくださった神に感謝して感動の日々を送ることだ。

そして忘れてはならないのは、どんな時も常に「今」が私たちの最高の時であるということだ。どんな状況であっても生かされている今を感謝して歩んでいきたい。


posted by 優子 at 23:55| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする