2013年11月28日

「卒園」という言葉が聞こえてくる季節 −作品展より−

今日は幼稚園・小学校共に終日開放されて自由に参観できる「オープンスクール」だった。知子も時間を割いてユキと一緒に登園した。私は朝一番の「お店やさんごっこ」に間に合うようにと、洗濯物とチャッピーの散歩を済ませて知子より45分遅れて園に到着した。

「お店屋さんごっこ」の合間にダンスショーも設けられており、ユキは今春ワシントンD.C.でマチ・クマにも披露した「エビカニックス」を楽しそうに踊っていた。

園では今日から土曜日まで作品展が開催されている。そして、明日もお店を出して二つの保育園の子どもたちを迎えるとのこと。もう一度ゆっくり眺めてみたい平和の光景だ。

作品D.jpg

年長・作品展.jpg
全体を写し切れないほど
遊戯室いっぱいに展示された園児の作品集。

年長・作品@.jpg自然物を使って自分が主人公のお話を大好きな粘土遊びで表現している。 
「ゆきとうさぎ!」
うさぎさんがあそんでいるよ。
ゆきとうさぎが、そのそばでおもしろいことをしたから、
みんながたのしくわらいだしたよ!

オリジナルクローク.jpg卒園記念に作った時計。
幼稚園で心に残っていることを描いた世界にひとつしかない時計。
ユキは夏のプール遊びを描いた。
「これからのみんなの幸せな時を刻んでくれることでしょう・・・」

作品B.jpg
今にも動き出しそうな指人形。
濃いまゆげやね。
ん? 目 お口もすごいね〜。
ウインナーソーセージをくわえてるみたい。わーい(嬉しい顔)
 

次は今まで読んだ絵本からお気に入りのを選んで思い出のアルバムの表紙に描いた。
作品C.jpg
「にじがでているきもちのいいひ
きかんしゃがちょうちょに『こんにちは』って
あいさつしながらはしっていったよ」
 

先月の参観日でママと作ったサンタバッグ。
やっぱり電車が大好きなユキ。
サンタバッグ.jpg

このほか絵が4点と制作カレンダーがあった。
今年も幼・小の交流として5年生と脱穀があったが、今朝は血圧が高かったので心を残して知子と共に10時前に園を出た。

廊下に吊ってあるスモックこと「お仕事着」。かわいいな。
ユキのは中央あたりにある電車模様のスモックだ。
 お仕事着.jpg
私は幼稚園へ行くたびに吊ってあるスモックを見るのが好きだった。もうすぐ卒園とは何とさみしいことか!

レミ.jpg「おいで」と呼ぶと寄って来てくれたレミ君。
昨年末、フーがジンバブエのおみやげに買ってきてくれたライオン君に「レミ」と名づけたが、園にやって来たうさぎさんにも同じ名前を推薦して決まったとか・・・名づけ親はユキ?

2階のお遊戯室へ上がる階段の踊り場で。
知子の横の紺色の貼り絵はユキのだった! 
山の上の幼稚園.jpg
窓の外は山!
ユキが通う山の上の小さな幼稚園。

教室の中をトンボが飛び、大きな○○(スパイダー。字を見るのも怖い)、時にはムカデやイノシシも出るそうな。ちっ(怒った顔) 

登園光景.jpg 
これは11月8日の見送り当番の朝。
当番の子供は最前列に並ぶので知子の横がユキだ。

知子は今月から再び仕事が過酷な状況下にあり、当番できる日は前日にならないと予定も立たない状況ゆえに可能な日にさせていただいている。
知子が早朝に家を出る時は、私はユキを見送りに行くついでにチャッピーと一緒に子供たちの後ろを歩き、学校前まで見送り補助をしている。

ワシントンも今週から厳しい寒さだそうだ。連日氷点下の寒さで明日の予報も−4度で最高気温も6度となっている。こちらも今日の午後からますます冷え込み年末年始の頃の寒さになった。

次女はまもなくワシントンを発ちアジアに向かう。
中国が東シナ海に防空識別圏を設定して以来不穏な状況が続いている。IMFは政治に関与しないので仕事上は心配していないがいつもよりも心配だ。全ての危険から守られるように祈ろう。

いつの時代も人間の罪と悲しみが繰り返され希望を見失いそうになる。12月1日からアドベント(待降節)に入る。
心を高く上げよう。


posted by 優子 at 23:33| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年11月24日

収穫感謝祭は先住民への感謝から始まった

※ 2013年4月から2014年5月末まで西大和教会で礼拝を捧げていたが、この記事はカテゴリ「馬見労祷教会関係」に収録。

今日の収穫感謝礼拝は子どもたちとの合同礼拝だった。「子どもたちとの礼拝は平和の象徴である」。以下は大沢星一牧師の説教から心に届いたことをお分かちしたい。
収穫感謝の始まりは今から400年ほど前にアメリカで始まったものである。
自由に祈ることのできる国を作ろうと、1620年に102人(ピリグリム)がメイフラワー号に乗って北アメリカへ渡ってきた。
その冬は食べ物もなく多くの人が倒れ死んでいった。そんな時に先住民(インディアン)が食べ物や物資を差し出して助けてくれた。

翌年は先住民からもらった種を蒔いて多くの収穫物を得た。そこで先住民の人たちに感謝のお返しをしようと、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが収穫感謝の始まりである。

今では先住民への感謝はすっかり忘れ去られ、毎年11月の第4木曜日を祝祭日として" Thanksgiving Day" が祝われているが、先住民たちの間では「大量虐殺の日」として守られている。その後、多くの国から移住してきた人々が多くの先住民を殺してしまったからだ。

1960年代には全米各地でインディアンたちの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(Red Power movement)」が起こり、アルカトラズ島を占拠して抗議した。

入植者の最初の思いはどこへ行ってしまったのだろうと考えさせられた。ピリグリムの人々を忘れてはいけない。神さまだけではなく他の人々、横の関係も考えていかねばいけないことを考えさせられている。

ローマ人への手紙12章1節から8節には、神さまに自分自身を捧げなさいと書いてあり、9節からはどうやって生きていくのかの最も基本となっている「愛」について書いている。「愛」とは「大切にする」という意味である。 
12章9節〜18節:
愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。
熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。
貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
互いに思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とは、共に生きることだ。
この「喜び」や「悲しみ」は不定法で書かれており、単なる命令形ではなく強い命令である。従って安易な同情や共感ではなく、「徹底的に喜び泣きなさい」と共に生きていくということである。

では共に生きるとはどういうことか。
それは一人ひとりを大切に受けとめていく、しっかり向き合って大切に考えて真剣につき合っていくということだ。

誰でも嫌いな人はいるだろう。いてもいい。しかし、嫌いな人も大切にすること。嫌いな人を好きになれとは言っていない。好きにはなれないが大切にすることはできる。

自分を苦しめる人や苦しめようとする人を呪うのではなく祝福を祈るのだ。それはその人を人間として大切にすることである。その人としっかり向き合って正々堂々と意見を述べよ。それが大切にするということである

私たちはいろんな人と共に生かされているのであり、これが神さまへの感謝ではないかと思う。
あなた(神)の恵みに多くの人々の力が加えられていることを感謝できますように!

牧師の説教を通して豊かに恵まれ、愛餐(あいさん)式では、収穫物のさつまいもを薄くスライスしてプレートで焼かれたものが配餐され、御言葉と共に感謝していただいた。

礼拝後、ヘンデルの「ハレルヤコーラス」を練習した。
兄が高校生時代の聖歌隊で、この時期になると毎年歌っていた「ハレルヤコーラス」のおかげですっかり覚えてしまっていた。
クリスマスの頃、全同志社の聖歌隊でキャロリングがあり、京都の町(四条烏丸や河原町)で歌っていた。今も兄のバリトンが耳に響き、私は兄と掛け合いで歌っている心地がした。



posted by 優子 at 17:00| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2013年11月23日

ケネディ暗殺の映像は日米初の衛星中継だった

夕方、ユキが玄関に入ってくるなり叫んだ。
「おばあちゃん!マチが帰ってきたよ!」
そんなわけはない。マチはもうすぐ中国へ行かねばならないし・・・
「マチが帰ってきたよ!」
本当に帰ってきたのかなぁ・・・私は再会の驚喜で卒倒しないように恐る恐る玄関へ行った。

「マチが帰ってきたよ!」とユキがドアを開けた。
その瞬間になってやっとわかった。
1時間前に美容院へ出かけた知子が短くカットしてきたのだと気がつき、そこへショートカットした知子が現れた。

こんな信じがたいことを信じてしまうほど私は真智子に会いたいのだ。親とはそういうものだ。それにしても日本に住んでいるならばいざ知らず、痴呆状態と思われかねない信じがたい思考と行動を取ってしまった。
2014年1月23日追記:1月9日に手術を控えていたから尚の事だった。この時は下記にも「重要な仕事」としか書けなかった。

次女もまた日々ハードな仕事をこなしている。今月末には中国に派遣され、そのあとはワシントンへ直帰しないで2日間だけ帰国する。帰米後も重要な仕事があるので休暇を取らなかったのだ。たった2日間だけでは何もしてやれなくて辛いのだが会えるのを楽しみにしている。

次女が経済学者としてIMFで働く現実は、私自身も国際化時代を身近に実感する日々であり、その幕開けとなったのが50年前の今日だった。

1963年11月23日(現地時間22日)は日米初のテレビ同時中継が開始された日であり、その最初の中継がケネディ大統領の暗殺という衝撃的な映像だった。

私は12歳になったばかりとはいえ、迂闊にも日米初のテレビ宇宙中継については忘れていたが、ケネディ大統領を狙撃したオズワルドのことも、ジャクリーンさんの横に立つ小さなキャロラインとJrのことも何もかもよく覚えている。小学校6年生だった私も悲しみでいっぱいになった。

葬儀で3歳のJr(愛称ジョン・ジョン)が覚えたばかりの敬礼をして父を見送る姿は忘れられない。このJrも自分が操縦する自家用飛行機がマサチューセッツ州沖で墜落し、1999年に38歳で死亡した。
ジョン・ジョン敬礼で父を送る.jpg
 
exd1311160006000-p1.jpg キャロラインさんが50年追悼式典を待たずに1週間前に駐日大使として着任したのは、オバマ大統領の配慮だという。
父の膝のキャロライン.jpg

初めて通信衛星を使った衝撃の生中継は日本の国際化時代の始まりであり、翌年は東京オリンピック開催へと続く。


posted by 優子 at 22:17| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2013年11月21日

いよいよ就学前健診

今日は午後から来春入学児童の就学前健診のため知子は昼前に退社した。昨年の今頃、降園してくる園児たちが少ないのでどうしたのかと思ったら、年長児は保護者と小学校へ就学前の手続きに行っているとのことだった。

あれから早1年経ったとは!
嬉しさでいっぱいのはずなのに、何故かさみしかった。
この淋しさは何だろう。ユキが幼児から脱皮していくさみしさか・・・我が子の時は嬉しさでいっぱいだったのだが。これは子と孫の違いではなく私自身が若かったからだと思う。

いよいよ就学するユキは知子や真智子のようにしっかりできるのだろうかと心配なところがある。思いつくままに書けば、

▼ 未だにスプーンを赤ちゃんの持ち方をする。1年目は正しく持っていたのに年長組になってから持てなくなり、毎日毎食時注意している。

▼ 片づけができない。知子がどんなに工夫していることか!それでもできない。出したままで次の遊びに移り、口やかましく注意されてようやくかたづける。

▼ 右と左が未だハッキリとわかってない。
「先生はわざとやっているんでしょう」と仰るが本気だ。「右足は?左足は?」と聞いても即答できずに考え込む。ふらふら 特異なユキである。
「右と左に理屈なんかないの。ただ覚えればいいだけ!」と言っても覚えられない。これでは道路を歩いていて「左側へ寄りなさい!」と行ってもわからないので危険だ。困った。。。。

▼ 暗記が苦手。くだらないことは直ぐに覚えるのに・・・
▼ 挨拶もイマイチ。未だに「ご挨拶は?」と促さねばならない時がある。
とは言え、小さい時から郵便や新聞配達、ゴミ収集車の方には「ありがとうございました!」と、大きな声で心の伴った言葉が自然に出る。これはユキのとても素敵なところだ。るんるんかわいい

とにかく娘たちは何でもよくできたので私の子育ては楽だった。
知子は「ここ」と「あそこ」がわからなくて、幼稚園時代に2度説明したことがあったが、それは年齢にふさわしい事柄なので子供の成長を興味深く見ていたものだ。

勿論、ユキについて特筆すべき魅力もある。
既製のおもちゃはプラレールくらいで、あとは自分で考えて一から自ら作って遊ぶ。必需品は紙とハサミ、セロテープ、ホッチキス・・・などで、1時間でも2時間でも飽きずに遊んでいる。想像力豊かで立体的なものも上手に作る。

「では、理系に向いているのかも!」と知子。
「私たち夫婦は理系でも文系でもなく無系だけれど、子供たちは良く育ったわ」と、ふたりで大笑いした。

そして私は言った。
「遠藤周作のお兄さんは秀才だったけれど、周作の成績は『アヒルの行列』で『乙』の中に作文の『丙』のまじる成績だったよ。

朝顔の種を庭に蒔いて水をかければ芽が出て花が咲くと教わったからと、雨の日にも合羽を来て傘をさして水をやっているのを見た兄がびっくり仰天。
雨の日には水をかける必要のないことを説明されて、『あっ、そうかア』と叫んだと書いているよ。自分は迂闊なほど『遅熟児』だったと。

まあ、ユキはそこまでの見事さはないけれど大らかに育ててやればいいのよ。そのかわり私のような喜びを享受することは最初から諦めておくのが賢明かもね」
と笑った。

ランドセルも17日に予約した。ランドセルの購入は年が明けてからで十分なのに何と早々とと思われるかもしれないが、私たちはそのつもりでも今はそうはいかないのだ。

16日に知子が高島屋へ行った時も、欲しい商品は既に売り切れ、ネット販売ならばあるとのことでネットで注文したのだった。かと言って早々と送ってこられては気が抜ける。今は何よりも残り少なくなってきた幼稚園生活を楽しみたいので、東京の店と電話でやりとりして商品は来年3月半ばに送ってもらうことにした。

入学準備が始まった。
知子が年を取ってから今を振り返った時、キラキラ輝いてる日々であるに違いない。親は我が子が老いた時の幸せをも願うのだ。

頼りないユキだが、今朝はこんな微笑ましいことがあった。
目覚めた瞬間に「おじいちゃんは?」と言うので、「もうママと会社へ言ったよ」と言うと、「またおじいちゃん行ってしもうた」と泣いた。

と言うのは、19日の夜はお得意先の方と麻雀で午前12時前に帰宅し、翌朝ユキが起きた時にはもう家を出たあとだった。夏は早朝5時半頃から起きていたユキも、寒くなってから7時前まで寝るようになった。

そんなわけで昨夜は祖父に会ったものの、「またおじいちゃん行ってしもうた」というわけで泣いたのだ。その理由がまたかわいくてならない。

「幼稚園でいつもジャンケン負けるから、おじいちゃんジャンケン強いから教えて欲しかったのに」と涙をボロボロ流して大泣きしていた。

このような幼さもまもなく消えていくのだろう。
右と左もわからなくて勉強はついていけるのだろかとの懸念もあるが、一生懸命勉強することを身につけてやればいいのだ。大らかにゆったりと大きくなっていけばいい。

今週初めから12月中旬の寒さになった。
11月18日夜、夏の花火が残っているからと寒さに震えながら花火をした。今夜も残りの4本をママと二人でやっていた。「やっとなくなった」と喜ぶ知子。わーい(嬉しい顔)
冬の花火
冬の花火.jpg
posted by 優子 at 23:03| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年11月20日

老化の観念を追い払って神の生気に満ちよ! ― JCP関西ブロック例会より A―

開会礼拝では詩篇91篇11節から「守護の天使」と題して、東 道男牧ご自身の信仰体験を通して聖書の原書に忠実なスピリチュアル溢れる力強い説教をされた。御年93歳の牧師である。
お証しの概要は次のようであった。
牧師は10月10日の朝に路上で転倒された。まるでサムソンに倒されたような激しい衝撃を受け、しばらく起き上がれないほどだった。
すぐそばにたむろしていた若い婦人たちに助けられて、目的地まで抱きかかえるようにして長距離を同行してくださり、守護の天使のように思って感謝した。

その後、足腰の痛みを鍼灸で苦痛を忍んでいたが、大型台風が北上していった嵐の夜のこと。
夢の中で「死の陰の谷」を歩いていると思いつつ進んでいた時、詩篇36篇10節のみことば(「命の泉はあなた(神)にあり、あなたの光に、私たちは光を見る」)を思い出していた。

そのみことばを唱え終わるか終わらないうちにハッと目が醒め、奇跡が起こった。足腰の痛みが文字通り夢のように消えていた。
心身に大きな変化が起こり気分が爽やかになり、神さまからいただく命の力で内なる私は輝き出した。詩篇46篇1節〜3節のみことばの通りだ。

「神はわれらの避け所、私たちの砦、苦難のとき必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない」。
        
そして聖書のことばを詳しく解き明かしてくださった。

「避け所」は原文にはなく、「生命を燃え上がらせて生き抜く力が与えられる」という意味である。積極的な言葉を抑えて消極的な言葉に置き換えている。
また、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23篇4節)の「死の陰の谷」も正しくは「暗闇の谷」である。

新共同訳聖書(プロテスタントとカトリックが共同で翻訳した聖書)は、カトリック解釈がふんだんに取り入れられており、原文にはない言葉がふんだんに使われている。

しかし、使徒言行録(口語訳聖書では使徒行伝)12章7節の「主の使い」は間違いなく「守護の天使」であり、プロテスタントはそれを信じていないのかと思われる。
「すると、突然、主の使いがそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、『早く起きあがりなさい』と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた」。

「恐れない」をヘブライ語で「イラー」と言い、精神安定剤に「イララック」というのがあるが、聖書は実に鎮静剤に勝るものである。

繰り返し読み、祈り、神さまから力を与えられることをイメージする。すると、それが現実になるのである。そのことを単なる自分の神秘体験に終わらせず証しする。
この心で生き抜いていってほしい。そうでないならば聖書の言葉を全く受け入れていないことになる。


東牧師は本当に神に生かされている人だと思った。その牧師の前で私の文章は「あなたは聖書の言葉を本当に信じているのか?」と問われかねないと思ったが、書いていったものを発表した。

読み終わった時、周囲から「うーん」と声なき反響があった。誰からもコメントがなかったので、是非東牧師のコメントをこそほしいと思っていたので声を出そうとした時に牧師の方から語ってくださった。

私が最後に引用した聖書箇所よりも、「詩篇92篇13節から15節を加えるとよい」と仰った。いつもよくそれだけ何章の何節かすぐに出てくるものだと驚くばかりである。

「彼らは主の家に植えられ、
われらの神の大庭に栄えます。
彼らは年老いてなお実を結び、
いつも生気に満ち、青々として、
主の正しいことを示すでしょう。
主はわが岩です。
主には少しの不義もありません」。

「年を取っても夢や希望を失わず、いつも勇気をもって一歩踏み出す。脳は活発に働き続けているのに、老化という世間の考えを追っ払うことができるのが信仰です。『なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます』とあるように、若々しく艶やかに生気に満ちる。
年を取っていく怖れや不安に打ち勝っていったところに本当の信仰があります(開かれていきます)」。


このお言葉をいただいて、私がどんなに喜びと感謝にあふれて帰路についたかおわかりいただけるだろうか!!!

同日21時15分附記:
▼ 東牧師のお写真はここに掲載させていただいている。
▼ 今夕、東牧師より5枚に及ぶお手紙が届いた。明日の第一便でお返事をお送りしたい。

posted by 優子 at 13:38| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2013年11月19日

6歳の知子と6歳のユキ

知子6歳のお誕生会!.jpgこの写真は幼稚園時代の知子だ。11月のお誕生会があった日、嬉しそうに帰宅した。その素敵な笑顔に圧倒されて玄関先で写した。この時の表情も声も今もはっきり覚えている。

いつもニコニコして、お弁当の日は必ず「ママ、おいしかったよ。ありがとう!」と言って、空っぽになったお弁当箱を流しに置いた。教えたわけでもないのに感謝とねぎらいの言葉がなかったことは一度もなかった。

今日は知子の誕生日。
あれから30年の月日が流れて知子は36歳になった。

今年の孫の運動会でユキが組み立て体操をしていた時、知子の時を思い出していた。知子の演技は力強く自信に満ちていた。30年前のことも今も色あせないで目の前で見るようだ。

しっかり者の知子とちょっと頼りないユキ(^−^)。知子がユキとクラスメイトだったら面白いだろうなぁ。そんなことを想像しては心をほっこりさせてひとりでニコニコしている。
あの知子が母になり、その子供が年長になって組み立て体操をやっている。何て不思議なんだろう。

「ユキ、これはね、今のユキと同じ6歳の時のママよ!」 
知子の組体操A.jpg
「ユキ、わたし ともこよ。ユキも上手やね!」

知子はこちらを向いてくれていたからすごい余裕だ。
正確には知子は5歳11ヶ月で、ユキは6歳3ヶ月。

知子の組体操@.jpg A組み立て体操.jpg
「ともこちゃん、ユキもすごいでしょ!」

知子のブリッジは最高に上手だったね。
知子のブリッジ!.jpg !ブリッジ.jpg
親子でやってるね。わーい(嬉しい顔)
バンザーイ!知子の.jpgリレーで優勝して大喜びの知子!
小さい頃は運動能力も優れ活発だったね。

知子、お誕生日、おめでとう!
過去には感謝、現在は勝利、未来には希望!
我が神よ、今日までお導きくださったことを感謝します。

知子へ:
これからの1年も神の愛の中で聡明さを磨きつつ、知子の人格と才能を十分に発揮することを願っています。
「その最もふさわしい道は職業であり、才能発揮のために大切なものは職業だと思う」と、羽仁もと子も言っています。

母としてだけではなく職務をもつ生き方は大変だけれど、大変な分だけ喜びも大きい。挫折も喜びもすべてが生きる喜びであることを忘れないでね。


posted by 優子 at 22:03| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2013年11月18日

夏目漱石とキリスト教 ―JCP関西ブロック例会より @―

日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックの6月と11月の例会は、数年前から千里ニュータウン教会にて開催している。1年ぶりに訪問する私は東(あずま)牧師との再会を心待ちにしていた。

ヘブライ語に明るい東牧師は旧約聖書の原文からみことばを解き明かしてくださり、スピリチュアル溢れるメッセージはとても貴重なものである。今回師のメッセージを初めて聴かれた方々も深く感動しておられた。

それだけではなく、発表した文章に対しても信仰生涯の大きな節目となるようなコメントをいただき感謝と喜びに満たされて帰宅した。そのことは次の記事にゆずり、まず漱石について記しておきたい。

今回初めて講師としてお招きした宮薗美佳氏とは、かつて20年間所属していた東大阪読書友の会で2度お目にかかったことがある。その頃大学院生であられた氏は、現在、常磐会学園大学常勤講師として活躍されている。

読書会在籍中に漱石研究者である相愛大学人文学部教授の鳥井正晴氏をお招きして講演していただいたことが4度あった。後半の2回は講師が数名の院生をお連れになり、その時に宮薗氏に発表の場を与えられて一度話されたことがあった。今から10年以上も前のことになると思う。

というのは敬愛する西口孝四郎氏の退会後、私のメモ書きはひどいもので、いつ、どの作品の時に来られたのかさえ書いていないのでわからない。5〜6年前には日本キリスト教文学会でお姿を見つけてお声をかけたこともあった。
講演に耳を傾けていると読書会時代が懐かしく脳裏によぎり、宮薗氏がその後もずっと漱石研究されていたことに感慨を覚えた。

演題:「漱石とキリスト教」
英国留学に至るまでの経歴、キリスト教との接触、漱石作品にみるキリスト教(初期作品を中心に)、まとめとして、自己をも相対化する視点を獲得したことを語られた。
それらから漱石に親近感を感じて記憶に留めておきたいところをメモしておきたい。

漱石がイギリスへ渡る時に乗った船に宣教師がたくさん乗っていて、宣教師は偶像崇拝する日本人に熱心に伝道していた。

漱石もいろいろと問われて反論している。そんな漱石がイギリスに着いた日の日記に「Smith Bible Dictionary 其ノ他ヲ買フ」とあり、「Bibleノexposition ヲ聞く」(聖書の説明を聞く)と何度か書いている。

明治34年4月17日(水)の日記:
「Mrs.Edghillカラ耶蘇ノ説教ヲ承ハツタ仕方ガナイカラ自分ノ思フコトヲ述ベタMrs.Edghillガ云フニハ貴君はpray(祈る)スル気ニナラヌカト云ツタ余ハprayスベキ者ヲ見出サヌト云ツタ、(後略)」

(後略のところには)エッジヒルはgreat comfort(大いなる慰め)を知らないのは情けないと言って泣いたのは気の毒であった。エッジヒルが「貴君のために祈ろう」と言ったので「宜シク御頼マウシマスト答ヘタ、」
そして、エッジヒルが自分のことをあまりに深切に思って下さるから聖書を読むことを約束して読んだ、というようなことが書いてある。

漱石は「神は無である」と言っており、神を信じる気はないが聖書を読んでみようとする。そこが漱石のキリスト教の接触と受容があるのではないかと考えている。

国費でイギリスに留学した漱石だが日本とイギリスの貨幣価値が違うので、文部省がお金を送ってくれてもすぐに無くなってしまい、切り詰めた生活をしていたために精神のバランスを崩して神経衰弱になった。
漱石はイギリス留学を振り返って『私の個人主義』でこんなことを書いている。

「自己が主で、人が賓(ひん)であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えて呉れました。私は其引続きとして、今日猶生きていられるやうな心持がします」。

「人が賓」とは、人は単に客ではなく大切に関わるということ。

また、「自己の発展を仕遂げようと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」とも述べ、自分だけが大事なのではなく相手も大事なんだということを言っている。

漱石の言う「自己本位」とは、他人が言っていることの受け売りではなく自分が見てどう思うのかが大事であるということであるが、漱石は自分が考えた立脚点に立って物事を見ていると私は受け止めている。

次の箇所は漱石とキリスト教を論じる時によく取り上げられるところである(『道草』48章)。島田は金をせびりに来る育ての親で、健三は漱石が自分と考えている人物である。

「島田の一生を煎じ詰めたやうな一句を眼の前に味はった健三は、自分は果たして何うして老ゆるのだらうかと考へた。彼は神という言葉が嫌いであつた。然し其時の彼の心にはたしかに神といふ言葉が出た。さうして、若し其神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、此強慾な老人の一生と大した変りはないのかも知れないといふ気が強くした」。

ここは書き手が全てを知っているんだよではなくて相対化している。自分と主人公(建三)が神の眼を内面化している。内面化させているから健三を書けたのではないか。

36歳の健三(漱石)を48歳の漱石が書いた。
『こころ』ではまだ他者を裁いていたが『道草』では裁きながらも包み込んでおり、36歳の漱石には見えていなかったが、48歳の漱石は見えるようになったからこのように書けたのである。

『道草』は観念的ではなく、金(かね)という日常の現実、きたない世界を取り扱っている作品だ。
私にとっては、人生途上に出くわす問題は「解決がないという解決」を教えられたことで、人生の節目となった忘れられない作品である

若い頃は問題にぶつかっても解決があった。その都度スッキリと終止符を打って次に進むことができたのに、結婚してから誠意が通じない人物がいることを知り、それまでのように常に青空のようにすっきり解決して進んでいくというものではなくなった。

しかも人生を重ねながら理屈に合わぬ不条理なことに苦悩し、いくつもの未解決な問題を抱えたまま進んでいかねばならぬというのが40歳前後の人生観であったので、『道草』は人生を理解する大きな助けとなった。
つまり人間の営みを包み込み、「解決がないという解決」を知ったことで、生きるのが非常に楽になったのだ。

そのことは即ち私の中で相対的な視点を持てる段階を迎えていて、その精神にピッタリ合う考え方と出会った瞬間に相対化という結晶を見たのだと解している
それは1997年8月、45歳の時である。その10ヶ月前に母を亡くし、この時すでに父は死に至る病床に移されて3ヶ月過ぎた時だった。

以来、漱石は書棚に並べられた偉大な作家というだけではなく、人間漱石と出会い、漱石の軌跡に親近感を感じている。
幼少時に養子に出された漱石は、一番大事な時に親の愛を受けていないのに漱石文学が虚無的ではないのは私の関心点の一つである。


posted by 優子 at 11:36| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2013年11月13日

『盲導犬クイールの一生』読後メモ

昨日、ユキが今年の幼・小回覧図書を預かってきた。当PTAの教育推進活動の一貫として毎年継続しているもので、今年度は盲導犬が社会的に周知されるために『盲導犬クイールの一生』が選出された。

クイールについてはドラマ化もされており、私も名前だけは知っていた。本を数日間で次の人に回さねばならないので、平日に読む時間はとてもない知子(連夜12時過ぎまで仕事をしている)のために、私が読んで内容と感想だけでも伝えてやろうと今朝家事を終えて本を手にとった。

メモを取りながらでさえ30分で読み終えたので、ゆっくり味わいながらでも1時間あれば読めるだろう。知子に本を手にとるように勧めたい。

私の心にとまった言葉やエピソードは、
★子犬は「節度ある愛情の中で」育てられねばならないこと。

「この子は何があっても叱らないでください。」ということが、クイールの盲導犬としての適性を伸ばすのに最良だと感じていたということ。

素直さの光る犬

★訓練士はそれぞれの犬の性格や能力を頭に入れて接するということ。

★盲導犬使用者の言葉:
 「ハーネス(盲導犬が装着する盲導具)をとおして青空を見ることができる」。
 「盲導犬を失ったとき、再び失明したと思った」。


★「わしゃ、犬はいらん」と言っていた犬嫌いの盲導犬使用者・渡辺さんがクイールを友としたこと。
― 夜、訓練センターの宿泊所に入り、自分の部屋に布団を敷く渡辺さんと、その様子を見つめるクイール。静かに見守っているようで、よく見るとクイールはそわそわしていて、もし渡辺さんが「手伝ってくれよ」とでも言おうものなら、本当に手を出しかねない。そんな様子なのである。 ―(本文P92より)

★クイールが10年ぶりの里帰りで、たった8ヶ月間過ごしただけのパピーウォーカーの家へ戻ってきたとき、全てを覚えていた(ようであった)こと。


これら感動したこととは反対に「盲導犬使用者」という言葉は、読むたびに違和感があった。「使用」は「物」に対して使う言葉であり、「利用」は「使用」よりもはるかに「役立つ」という意味合いを感じるが、「利用」もまた尊い働きをしてる生命に対して使う言葉ではないと思う。

心に強く感じたことは、犬でさえ愛の中で育てられながら訓練されていくのであるならば人間はなおさらのことであり、全てはそのことに集約され帰結する。
子どもを授かった者はあふれる愛の中で育て、正しい価値観に立って教育し訓練するのが賢明だ。お互いに子供の良さを引き出してやれる親でありたいものだ。

そして、クイールの一生のように自分自身の使命を明らかにされて全うする生涯でありたい。


★「犬は、自分の立場、地位を決めてもらうと気持ちが安定するんです。」という言葉から、一つの聖句が私の心を照らした。

「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。(イザヤ書43章4節)

人は皆、私たちを造られた神さまに自分が愛されているとわかった時に平安が与えられ、意味のある生き方ができるのである。これは神さまが私たち一人ひとりに言われている言葉である。

後半から目頭が熱くなりティッシュ片手に読み終えたが、同時に感動と共に脳に異変を感じていた。読み終えた時、案の定血圧が上がっていた。
先週末に受診した時も、医師から「のんびり、のんびりと」生活するように言われたが、こんなことでは血圧に縛られてしまう。

なお、『盲導犬クイールの一生』についてはここに、盲導犬の関連記事として過去ログに「盲導犬の育て方に学ぶ」がある。

我が家のチャッピーも14歳6ヶ月。柴犬の寿命は12〜3歳だそうだ。1日に10分間でもいいからそばにいて遊んでやりたいと思いつつ14年経ってしまった。悔いるのがわかっているのにできないでいる・・・

posted by 優子 at 11:55| 教育 | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

冬を生きる

午後から下半身がシンシンと冷えてきたので真冬のズボンに履き替えた。夕方のニュースで冬将軍が南下していると聞き、大急ぎで家族全員の電気毛布を敷いた。
1ヶ月前の今日は31.3度の真夏日だったのも異常だが、その後しばらく秋を味わっただけで一足飛びに明日は12月中旬の寒さになるという。

私は年齢を重ねるほど冬が嫌いになった。何よりも夜明けが遅いのが嫌だ。高血圧になってからは寒さゆえに早朝に起きるのが怖くもある。虫に悩まされる夏も嫌だけれど、夏は明るくて元気だ。まるで若者のように。

毎年寒さに向かう頃は気持ちが重くなるのだが今年は違う。すでに冬を迎える覚悟ができており、後ろずさりするような気持ちもない。

高村光太郎の詩が冬を生きる覚悟へと誘ってくれる。
きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た

光太郎は冬を人生の試練や苦難に喩え、それに立ち向かう胸中をうたっているのだろうが、私の心には坂村真民(しんみん)の詩がぴったりする。

         冬がきたら

冬がきたら
冬のことだけ思おう
冬を遠ざけようとしたりしないで
むしろすすんで
冬のたましいにふれ
冬のいのちにふれよう

冬がきたら
冬だけが持つ
深さときびしさと
静けさを知ろう
冬はわたしに
いろいろのことを教えてくれる

先ず沈黙の大事なことを
すべての真理は
この沈黙のなかからのみ
生まれてくることを
それから自己試練の大切なことを
すべての事を成就するには
この不屈の魂によってのみ
成功することを

長く暗い冬の真ん中にクリスマスの喜びがあるというのは、何という慰めだろう。まるで心地よい暖炉にあたるようで、暖炉のそばで元気にさせられながら冬を過ごすのだ。そして、そうしているうちに冬にも慣れて、いつしか鶯の声を待つようになる。

老犬チャッピーも外では寒かろう。今夜から土間でおやすみ。チャッピーも元気で鶯の声を聞けますように。

附記:昨夜10時過ぎから次女とスカイプした。サマータイムが終わると時差が長くなって困る。それでも私たち夫婦と3人で遅くまで話し合った。
今改めて真剣に人生の終わりを考えなくてはならぬと思った。

真智
ワシントンも寒いのね。
ミネソタの比ではないけれどここよりはるかに寒いね。

いよいよ寒く暗い冬に突入するけれど、
クリスマスの喜びがいつも元気づけてくれます。
そして、気がついたら2月の終わりごろになっていて
春を心待ちにする頃になっている。

暖かくして温かいものを体に入れるのよ。
またスカイプしようね。

真智に負けずに知子も励んでいます。
ママは幸せです 。
今日の午後に真智に送ったメールより


posted by 優子 at 22:55| 随想 | 更新情報をチェックする

2013年11月06日

独居で24時間の在宅介護体制は可能か?!

私たちの住宅地は1970年頃に開発され、当時40代前後と若かった入居者たちもすっかり高齢になった。自治会の現在の高齢率は34%で、8年前は奈良県で第2位、15〜16年前頃は吉野と同じだと聞いた民生委員さんが急いで老人会組織を立ち上げたという。

今では自治会でいろいろな触れ合いの場を作っているが、今日は民生委員さんのお世話で在宅介護についての集まりを作ってくださった。参加者の多くが75歳以上の方々で、老いと介護の問題は自分自身や伴侶の現実であるだけに真剣な眼差しだった。

私もまたいつ介護が必要な身になるやも知れないと思っている。時にはもう少し先のことかと思ったりもするが、高齢者の群れに入ったという認識はある。

しかしながら近年は孫との生活が中心になり、子供の情操や教育について関心が向けられているだけに、親しくしていただいている主催者に声をかけていただいたのでお手伝い方々出席した。

今日のテーマは、当市で独居の人が介護を受ける場合、公的機関からどの程度支援を受けられるのか。支援を受けながら独居でも生きていけるのかを知りたいことと、介護体験者や老いと直面している人々の不安や問題を分かち合おうと集まった。

ゲストとして、市の地域包括支援センターと同センターから委託を受けているケアマネージャーの事業所から1名ずつ、そして、地域の開業医N医師をお招きして20数名の自治会員が参加した。

地域包括支援センターとは概ね65才以上の人の相談にのる窓口で、介護予防、高齢者虐待・・・など4つの柱でやっている。(一部聞き漏らす)

当自治会内にあるケアマネージャーの事業所(終生入院できる療養病院を併設)は、デイケアセンター、訪問介護、元気な人のデイケアサービスなど、この地域から大阪までの地域の窓口としてやっている。

4年前から始まった元気な人のデイケアサービスに、今年9月後半から90歳の義母も通所したが本人の希望で3回だけで終わった。今日ゲストとしてお招きしたケアマネージャーさんにも改めてお詫びした次第である。

さて厚生労働省は、「2025年(平成37年)を目途に、高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援・サービス提供体制(地域包括ケアシステム)の構築を推進」している。

これは大変ありがたいことだと思うが、私は病院で死ぬことになるだろうと思っていたので大変なことになったと感じている。在宅介護は公的支援があっても家族が大変だと予想するからだ。

ところで身体介護とは、食事、入浴、トイレ介助やおむつ交換のことであり、生活援助は家事一般ということであるが基本的には独り暮らしでないと家に入れない(来てもらえない)。

というのは平成18年の改訂で、元気な同居人がいると家事援助ができないという制度が入ったからだ。
例えば、一緒に住んでいても家族が夜遅くまで仕事に出ている場合、要支援者は昼間は独居になっているのに制度が改定されたためにできないというのだ。
しかし、「この家だけは!」とケアマネージャーが市へ申請することができ、市が協議審査して許可される場合もあるので絶対にダメというわけではないらしい。

まず、ケアマネージャーがアセスメント(評価、判断: assessment)して手伝いの計画を立て、しかも介護の枠内で立てる。枠を出た分は10割の自己負担になるからだ。

家事支援の場合、例えば掃除と言っても、どこのどういう掃除かも決めねばならない。
また、急に寒くなってきたので厚手の服や寝具を出してほしいと言ってもやってもらえないということを聞いて、憤りを感じるほど驚いた。そもそも日常生活においては命に関わることではないという考え方で許してもらえないというのだが、何と愚かで非合理なことだろう。

しかし、これもまた制度上そうであっても要支援者とヘルパー、また、ケアマネージャーと地域包括支援センターとの信頼関係の中で手助けをしているとのことで安堵したが、現場でも快く手助けの判断ができるヘルパーの育成が大切だ。


制度である限りキッチリ線引きしていかないといけないが、介護の現場では支援者側の人間の成熟度が試されていると強く感じた。


独居者の介護支援の場合、要支援者本人が意思疎通や決定判断ができるならば24時間対応の訪問介護ができる制度があり、子供の要望でも可能とのことだ。

介護保険は社会保険制度であり医療保険と同じである。従って将来のためにのみ積み立てているのではなく、しかしまた、将来のための制度であるから無くなることはないという考え方が基本にある。

以上が主な内容であったと思うが、道路を隔てた集会所向かいの公園に、幼稚園から帰ってくる孫の様子を見に行きながらの傾聴だったので聞き漏らしたこともあった。

分かち合いの時、足が不自由なある人は、伴侶の入浴中も気が気ではなく、「生きてるかー?」「生きてるぞー」と声を掛け合うそうだ。高齢になった夫婦の笑えない現実が伝わってきた。
また、「地域の会合で教えてもらった体操も続けている。自分でできることは自分でやり、介護を受けないように頑張っている。」と語られ、強い気力が溢れていた。

私は高齢者の介護ではなかったが、非情な神経難病で全く体の自由が効かなかった母を介護した尊い経験がある。私が40歳前半の4〜5年間のことだった。

母をお風呂に入れることができたのは実母だからできたということがとても大きい。改築した実家は設計上、浴室が生活スペースの2階ではなく3階にあり、エレベーターも昇降機もないので、お風呂に入る時は兄が母をおぶって上がり、降りる時は私に全体重をあずけた母を手すりを支えに降りていた。

母は私に命をあずけ、もしも事故があっても母は私を責めることなどなく、父や兄からも責められないからこそ危険を承知でできたのである。
危険な時も何度かあった。私は毎回「サムソンのような力をください!」と必死で神に祈りながら命がけの介護だった。


それも40代だったからこそできたのであり、60代になった今は1回たりとてできない。50代初めの頃、数ヶ月間だけ夫と一緒に義父をお風呂に入れたことがあったが、母の過酷さとは全く状況も違い、あの頃はまだまだ頑張れていた。

「人間は次第送り」と母がよく言っていたが、人はみな老いていく。まるで老いへのベルトコンベアに乗っているようだ。

今日の集まりは非常に意義深く感じた。2009年の夏に自治会主催で世代間交流として始めたラジオ体操が継続しているように、今日の集まりもまた継続していくことが肝要だ。今日を生きるために。誰も例外ではない老いのために。


附記:11月4日に“ being & doing ”を更新しました。


posted by 優子 at 23:13| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2013年11月02日

キリストに在る恵存 −N兄と大和郡山で再会−

写真家でもあるクリスチャン・ペンクラブの友が、フジフィルム主催の「30000人の写真展」に作品を出展され、奈良県の会場にて展示されるとの知らせを受けて郡山まで出かけた。

郡山へは自宅から電車を乗り継いで1時間ほどだ。夫は夜明け前からゴルフに出かけて不在のため、ユキと知子を誘って一緒に出かけることにした。
郡山と言えば金魚の養殖で有名な所である。何度か自動車から金魚の溜池を見たことがあるが、近くで見たいと思っていたので、ユキも喜ぶだろうと思って誘ったのだ。

7月から全国28都市で開催されてきた写真展も奈良が最終だった。Nさんは遠路長浜から写真仲間と共に3時間かけて来られた。会場のイオンモールはとても大きなショッピングセンターだったが、正午過ぎにNさんの姿を見つけて半年ぶりの再会を果たした。

Nさんの作品・「惜別」は淡路島の岩屋漁港・絵島をバックに立たれた奥様の写真で、「妻○○○は故郷に永眠する」と記されていた。
来月で奥様を天に送られて早1年になる。今日も奥様の話が出るたびにNさんの目に涙が溢れていたが、「私にとって小さな喜びの作品出品です」と言われた。

※ 召される1ヶ月半前にお見舞いに上がった時に頂戴した押し花作品・『ピエロの仲間たち』は遺品となった。

そのあと昼食をすませて会場をあとにして金魚の養殖池を探した。バスの運転手さんに教えてもらって、郡山城前で下車し近くの金魚卸店を訪ねて見学させてもらった。

郡山城は豊臣政権の中初期に秀吉の実弟・秀長の居城となった城である。
郡山城.jpg
手前の線路は近鉄橿原線だ。

奈良県大和郡山市は全国で最古の金魚養殖の歴史を有し、ダントツで日本一の生産量を誇っていたが、今は愛知県の弥富町にゆずったそうだ。
  
ようやく訪ねた養殖池だが季節外れで金魚は殆どいなかった。それでもユキと私は大喜び、写真家の二人も写真撮影に余念がなく、被写体を見つめるN兄に早くこのような日々が戻ってくるように祈った。

郡山へC.jpgN兄(きょうだい。クリスチャン男性の呼称)のしばしの安らぎの時。感謝!

長原さんと郡山へ.jpg
これは1000匹入りの箱だ。
郡山へB.jpg
 

郡山へD.jpgN兄は何度もユキを撮ってくださり胸が熱くなった。 
郡山へA.jpg ゆるキャラ.jpg ユキはモデル?.jpg
やまと郡山城ホールにて:これは大和郡山市の「ゆるキャラ」?
未だに恥ずかしがって傍に行けなかったユキ。

藤本優子姉(しまい)

・・・(略)・・・キリストにある「恵存」を知りました。よき一年の記念日となりました。これからも共に祈りの中を歩みたいですね。

「金魚」の小さな生命に接してよかったです。ゆき君は元気いっぱい動いてよかったです。よろしくお伝え下さい。

ゆき君からのお手紙のはげまし、「おしろい花の種」ありがとうね。芽が出て咲くことを願っています。
優子さん、知子さん、ゆき君にシャローム。

日本開拓伝道団長浜教会 N・T

「シャローム」は「平安」、「平和」、「あなたに溢れるほど豊かな祝福がありますように」の意味である。

今も毎日のように家族一人ひとりに手紙を書いてくれるユキは、昨夜、初めて会うNさんにも自ら心をこめて手紙を書いていた。
神さまはユキを通してNさんを慰めてくださり、私たちの祈りにこたえて今日の時を豊かに祝福してくださったのである。


神の平安よ、
わがうちを貫いて流れよ。
静かな川よ、
わがうちを貫いて流れよ。
激しい暴風の中でも、
さかまく激流の中でも、
自我のさざ波の立たぬまでに。
                 (『愛は絶えることはない』より)

「あなたがたは、この世では悩みがある。
 しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
        
                     (ヨハネによる福音書 16章33節)
N兄に贈るみことばと祈りである。

posted by 優子 at 23:27| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2013年11月01日

さようなら ジャック

さようならジャック.jpgさようなら、ジャック。
別れの朝が来た。
薄緑色だったジャックがオレンジ色になって、朝の斜光線を浴びて輝いていた。ユキは「もっと置いておく」と言ったが「さようなら」を告げて登園した。

私はカボチャに情が移ってしまったのか、別れが辛い。
チャッピーとの別れがきたらどうなるんだろう・・・

ゴミ収集車が来た。
胸がつぶれそうだった。
目を閉じて耐えた。

ありがとう、ジャック。
君のこと、忘れないよ。
君のこと本に書くよ、必ずね!

posted by 優子 at 10:00| 随想 | 更新情報をチェックする