2014年02月28日

「おばあちゃん、死んだら(みんな)星になるの?」

「おばあちゃん、死んだら星になるの?」
昨日、ユキは初めて耳にしたことに驚きを隠せない表情で聞いてきた。幼稚園で聞いてきたのだ。

そして今日は、「○○ちゃんのお母さんが星になるようにって、みんなはこうやって手を合わせたとき、ユキはこうやって神さまにお祈りしたよ」と手を合わせて見せ、「おばあちゃん、(人が)死んだら本当に星になるの?」と、昨日よりも真剣な顔で聞いてきた。

私は瞬間的に祈った。どのように答えてあげればいいだろう。衝撃にならないように、しかし、ごまかしてはだめだ。言葉を選びながら話し始めた。

「星にはならないよ」
「そしたら死んだらどこへ行くの?」
「人間には心と魂と霊というのがあるんだけれどユキにはまだ難しいね。心はいのちをくださった神さまのところへ帰るの。
聖書(ヘブル人への手紙9章27節)にね、『そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように・・・』と書いてあって、死んだら誰でも一人ひとり神さまの前でね、『あなたはどのように生きましたか?』と尋ねられるの。
そして、この体は土に返るの」。

「そしたら溶けてしまうの?」
「そうね、長い長い時間かけてね」

また、こんなことも言った。
「○○ちゃんのお母さんが死んだって新聞に書いてある?」
「それは書いてないよ」
「えっ?!どうして?」
       (略)
「そしたら、今日も死んだ人がたくさんいるの? 生まれた人もたくさんいるの?」
「世界中にどのくらいの人がいるの?」

問答は長く続いた。

6歳の子供が「死んだらどこへ行くの?」と、人間の根源的な問いかけをしたことに私はひどく驚き深く感動した。

人が死ぬと星になるという考え方は、人間に有する普遍的な集合的無意識であり心のよりどころなのであろう。
宮沢賢治の『よだかの星』はとても印象的だ。私も中学1年生の教科書で学んだのを覚えているが、短い期間だったが中学校の教壇に立っていた時は指導する立場ゆえに真剣に読み非常に心を打った。賢治もこの作品で死の暗喩(隠喩)として「星になる」という表現を使っている。


今日荼毘にふされた方は42歳で生涯を閉じねばならなかったのは、まだ熟していない青柿を無理やりもぎ取られるようであまりにも痛々しくあまりにも悲しい。
しかし、家族を大切に愛に生きた生涯は若くして終わろうとも素晴らしい生涯であった。


それでもなお私は神さまに問いたい。
聖書関係の本や牧師の説教でもよく聴くところの、使命があるうちは決して死なないというのは私には励ましにはならないのだ。

このたびの悲しみもどう考えても使命を完了したとは思えないし、6歳を末っ子に3人の子の母親ならば、せめて末の子が成人するまでは生かしてほしい。これからも大切な使命があるではないかというのも私の正直な気持ちだ。

「おのれ生ある間はこの身に代わらんことを念(ねが)い、おのれ死に去りてのちは、子の身を護(まも)らんことを願う」と仏教の『父母恩寵経』にあるらしいが、特に子供が幼ければ尚のこと、「母親は化けてでも残していった子を守りたいと思う」と言った母の言葉も想起する。

この問題もいつか必ず神さまが私を納得させてくださることを信じて、引き続き生涯かけて探究していきたいと思う。今はただただご遺族に慰めと助けがあるように祈るばかりである。

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年02月27日

幼くして母を失ったユキのおともだち  

「他人の悲しみをみて
 悲しくならずにいられようか。
 他人の嘆きをみて
 やさしい慰めを探さずにいられようか」。

       ウィリアム・ブレイク 『無垢の歌』より

愛する者を失う苦しみ。死別は悲しみを通り越して苦しみという方が言い得ているように思う。特に我が子を失った親と同様に、幼くして親を失った子どもの悲嘆と苦痛ははかりしれない。それは2000人にのぼる東日本大震災で親を亡くした子供たちからも明らかだ。

亡くなられた方とは私も知子も面識さえないが、ユキのクラスメイトのお母さんが亡くなられたのは衝撃であり悲嘆の極みだ。
私はユキを通して長期入院されていたことだけ知っていたので、○○ちゃんに一度だけ声をかけたことがあった。昨年の11月28日のことだ。
「○○ちゃん、お母さんがおうちに帰ってきてよかったね。お母さんがもっともっと元気になるようにお祈りしてるね」。
○○ちゃんは「うん」とうなづいた。

6歳と言えばまだまだ幼くはあるが、ユキは「死」が不可逆的なものであることはわかっているようだ。
その子がユキと重なり、母親の死に至るまでの愛と悲しみの日々と、これからこの苦しい悲しみを越えながら大きくなっていかねばならぬことを思うと言葉では表せぬ悲しみの極みだ。


私にも何かできることはないかと手元にある関係図書を何冊も引っ張り出して読み漁った。万が一、卒園式で○○ちゃんに触れる機会が与えられるかもしれない。その時に神さまの慰めに満ちて接することができるように自らの心を整え備えられたくて読んでいた。

親御さんと親しくされていた方々はこれから子供さんとも接することだろう。悲嘆の子どもを支える周辺にいる大人たちに伝えたく、ネットから一部だけ引用させていただこうと思う。

子どもが涙を流せるなら、それはとても大切な時間です。抱いたり、手を握ったりしながら十分に泣かせてあげましょう。泣かない子どももいます。それは決して薄情なのではなく、どうしていいかわからなかったり、我慢しなければいけないと思っているのです。

子どもが怒りを表現するとしたら、それも自然なことです。「頭に来るね」と共感して、その怒りの表現を受け入れましょう。子どもは時として周囲が予想しない行動をしたり表現をすることがありますが、寄り添うことが最も大切です。すべての子どもの気持ちを大切にして受け入れましょう。

子どもが「死」に関して質問してきたら、魂は別の世界に行って戻ってこないこと、心の中に思い出として生きているが会いには行けないこと、身体は土にかえることなどを説明しましょう。できる時には、子どもの育った家庭の宗教や文化を考えて説明に織り込むとよいでしょう。

大人も「死」を語ることは避けたいものです。しかし、大人が避ければ、子どもは表現する機会を失います。ごまかさずに、誠実に向き合って答えましょう。


国立成育医療研究センター「親を亡くした子ども こころの診療部」より

「死」とか「死んだ」とかいう言葉を避けないで、やさしく、しかし、率直にありのままを伝えましょう。
悲嘆に対し、ありのままに、誠実に向き合うあなたの姿こそが、子どもへの素晴らしい贈り物であり、亡くなった愛する人との記憶を心から大切にして尊重する最良の手段のひとつとなることと思います。


ニューヨークライフ財団・「大切な人を失ったあとに −子どもの悲嘆とケア 子どもを支える親と大人のためのガイドブック―」より

そして、誰も免れることのできない「死」を思う。
死に臨む時、家族に囲まれていようともただひとりであり、人生で最も孤独な時だ。自分が死の現実の前に立たされる時のことを覚え、いざという時にあわてないために心の備えをしつつ生きよう。


ご遺族の上に神さまの慰めを祈りつつ、知子は今夜、退社後直接葬祭場へ向かう。

posted by 優子 at 11:54| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

神さまが事態を必ず好転させて下さるという希望を失うな! ―キリスト信仰による「花だより」−

先週末JCPでお導きいただいている敬愛する牧師から長いお手紙をいただき、今朝もう一度聖書を開いてゆっくり味わいながら読んだ。

「荒野と、かわいた地とは楽しみ、
 さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
 さかんに花咲き、
 かつ喜び楽しみ、かつ歌う」。


このイザヤ書35章1・2節は、王国滅亡後のバビロン捕囚の苦難の中で、決して救済解放の希望を失わず、ついに捕囚民族解放、故国帰還という希望が実現した喜びを歌う「花だより」である。
牧師は手紙で熱く語り、師の声で聴いているように私の心深くに入ってくる。

「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには(どのような苦難も)万事が益となるように共に働く・・・」と聖書に記されているから、希望を持ち続け、どんな試練にも必ず神さまが助け導いてくださることを信じて進めとのメッセージだ。

その中で今年1月に亡くなられた料理研究家・小林カツ代さんのエッセイを紹介してくださっている。カツ代さんは熱心なクリスチャンだった。

じっと我慢、耐える、頑張る、というのではありません。どこかに道は(神様によって)残されていると考えます。(苦難の日にも私は)考えられる限り考え、やれる限りは(希望を失わずに)やります。

みんなが諦めても諦めない。違う角度からも考えます。しつこくとか、諦めきれずにぐずぐず(する)というのとは違います。考えられる限り、出来る限りのことはしてみるのです。

どこかに(神様が用意していて下さる)突破口はないか。まだやるべきことはないかと頭をめぐらし行動します。とにかく投げ出してしまわないことです。

とは言え、それでも尚出来ないこと、取り返しのつかないことは人の世の常。いさぎよく諦め、その事態を(ヨブのような信仰で)受け入れ(すべてを神様に委ね)自然に身をまかせます。

あとはケ・セラ・セラです。「なんとかなるワサ」です。
それは絶望ではありません。なんとかなる、という(信仰的な)希望に向かっているのです。

牧師からの長い手紙は全ての人を励ますものであり、まさに今もずっと獅子奮迅の働きをしている知子への励ましになるので刻ませていただいた。

「どんな事があろうとも神様が必ず好転させて下さるという希望を失わない事です。私達もどんなことがあっても、恐れず心配もせず、現状如何を問わず希望を持ち続けるのです。

夢や希望は神のみ旨に適う限り必ず『実現する』という事です。そのことを信じて一切を神様にお任せし、いつも心に『花の便り』を夢見て生きて行って下さい」。


こうして今朝は時を忘れてのデボーションになり、神と豊かなる交わりの時を過ごして1日のわざを始めた。
休日の夜も毎晩仕事をしている知子に、ワシントンで励んでいる次女夫婦にも、そして、『メメントドミニ』の読者の方にこのメッセージを届けたい。

附記:ユキのクラスのお友達のお母さんが昨夜亡くなられたの知らせが入った。知らせを聞いてユキと祈っている時、私は激しく泣いてユキに衝撃を与えてしまったかもしれない。

インフルエンザで休んでいる○○ちゃんは今、どうしているのだろうか。ただただ神に祈るばかりだ。

posted by 優子 at 22:45| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

国を越えての大気汚染

日本でも中国の大気汚染の高い数値が出ている。昨日から1週間以上は要注意で、今日は環境基準を超えた「有害」の「赤」で警告されており、心肺疾患者、高齢者、子供は「屋外での活動を中止する」とし、健康な人でも「有害 屋外での活動を減らす」という段階だ。
15.png

これは「全国のPM2.5情報・予報サイト」の大気汚染PM2.5予報(予測値)で、同じ画面の「リアルタイムPM2.5マップ(速報値)」(環境省・そらまめ君)の20時更新では34地点で「85μg/m3」の「注意喚起レベル」になり、環境基準を越えた赤色が北海道にも数カ所加わり日本全国に及んでいる。

ところが、このような状況にあっても園児の保護者たちはそれほど気にかけていないようで、PM2.5対応マスクをしているのは孫だけかも知れない。

今朝、長女は幼稚園でも園庭での活動を減らしていただくようにと(実際よりも一段階低い内容で)注意喚起を促す手紙を書き、朝一番に読んでいただくようにと子供にことづけたが特に配慮はなかったそうだ。県の公式の「注意喚起」と共に当市の教育委員会の見解を教育機関を通じての広報が必要だ。

何事も神経質にならないように、しかしまた、「中」以上の「多い」や「注意」になれば心にとめるのが肝要だ。大気汚染も放射能汚染と同様で個人ではどうしようもないことだが、マスクをしたり屋外での活動を控えるなど時代の要請として心掛けるべきだろう。

慎重派の孫は汚染度がひどい時はマスクを嫌がらずにやってくれるが、インフルエンザ大流行の今、マスクをしていくと子どもたちに「風邪ひいたんやろ」と言われるそうで、拒否反応を示した時は無理強いしないようにしている。
子供たちに風邪の症状はわかっても目に見えない環境汚染を理解せよというのが無理な話なのかもしれない。

そういう私も無防備な親や子供たちに囲まれていると「まあ、いいか」と、「みんなで渡れば怖くない発想」に陥りそうになる。
しかし、「みんな食べているんだから」「みんなマスクをしていないから」とやっていると、実は私が知らなかっただけで「みんなそういうことは注意していたんだ」という羽目になる。

しっかり目を開け耳を傾けて、自分の頭で考えて主体的に生きねばならないと思う。

posted by 優子 at 21:18| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年02月22日

未来のユキに贈る幼稚園の頃のこと

1週間前の大雪を経験して以来、普通の道路の上を歩くありがたさを感じながら歩いている。その後も厳しい寒さで、−3度の昨朝は金魚の水が中までシャーベット状に凍っていたので、動きにくくなっていた金魚のために氷をかき出すのに大変だった。あまりにも冷たい水なのでお湯を入れてあげればよいのか迷ったほどだった。

8日後にも残る雪.jpg今日も残る14日の雪。この時の気温は5〜6度なのに防寒着なしでも平気なユキ。子供は元気だ。

はや2月も終わりに近づき、昨日は幼稚園最後の参観日だった。参観日にママの送迎当番とあって大喜びのユキは、リュック(登園バッグ)も忘れて家を出た。
しばらくして気がついた知子に言われたユキはUターン、と同時に私もリュックを取ってリレーのごとくダッシュして途中で出会ったユキに背負わせた。手(パー)

参観には何人かの祖父母も来られていたそうだ。この日は2年間の集大成として幼稚園で経験したことや昔話、わらべ歌などを組み入れた子供たちの創作劇「かにたろう〜冒険の巻〜」の発表会だった。ユキは「桃太郎」に登場するキジ役だ。とは言っても5人のキジがいる。

DSC_0042.jpg「ケンケン わたしはキジよ。ケンケン わたしはきれい。ケンケン わたしはキジよ。ケンケン わたしはきれい」。
「ぼくのなまえはキジ ケン」。

両手をはばたかせて再演してくれた。

一昔前までのように一人が主役を務めるのではなく、桃太郎が5人ならばキジも5人というように全ての子供にセリフも平等に割り当てられる。この演出は近年出現したモンスター・ピアレントの関係だろうか。

さて、卒園式まであと16日。気がつけば卒園式の朝を迎えていることだろう。
今、新たな思い出になろうとしているユキの幼稚園時代を振り返り、成人した幸悠を想いながら幼稚園時代のことを残しておいてやりたいと思う。

2012年4月11日、入園式の日の記録より:
入園児は男児14名で女児17名、うち3分の2くらいが両親共に出席しておられた。
登園する道で知子はユキに話した。
「ユキ、今日はいっぱいお父さんが来るけれどごめんね。ユキちゃんにはお父さんおらへんよね。でもユキのお父さんはイエスさまよね。」
「うん!!!」と微笑んで答えたユキ。おめでとう!@.jpg

その翌日の登園初日:
優子さま
なんという感動、感謝でしょう。ようやくここまで来ましたね。大きな恵みの一区切りですね。そしてこの区切りは明日の大きなスタート地点。

これからはあれよあれよという間にユキくんはどんどん成長しますよ。優子さんの手を振り切って走り出します。主が引っ張っていかれます。追いついていくのがたいへんかな。
でも安心。後ろ姿を見るのも幸いです。
      (略)
ではまた。ユキくんによろしく。知子ママにも。

入園式のブログを見てくださった友からのメール、嬉しかった。
知子の一大事の時には私を叱咤激励し、あの時の言葉も生涯忘れることはない。

友たちは私たちのことを祈りに憶えてくださり、私たちの喜びや悩みを共感して、時に応じて慰めや励ましの言葉を贈ってくださった。多くの方々に支えていただいて幸悠は卒園式を迎えようとしている。

登園初日@.jpg登園第1日目のユキ。
この朝、チャッピーの散歩をかねて知子を駅まで送った帰り道で土筆を見つけた時のこと、
「ユキ、つくしの坊やがいっぱいいるよ」と心の中で会話し、たくさんのムスカリが咲いているのを見た時、「おばあちゃん、すごいねえー。きれいねー」とユキの声が聞こえてきて、手をつないでいるはずのユキがいなくて寂しかった。

この日帰宅した瞬間にユキが言った。
「おばあちゃん、幼稚園は電車で遊ぶより『切りとり線』よりもっと面白かったわ! 土曜日も日曜日も幼稚園に行きたい!」

2012年4月17日:
「ゲンちゃんもみんなママが居るのにユキだけママがいない。ママ(知子)も迎えに来て、家に一緒に帰ってから会社へ行けばいい」と、ユキは30分間も泣き続けた。
雨の日も楽しい@.jpg5月25日:雨の日も楽しいね。
2012年6月27日:
知子はユキを受診させて一息つくことなく会社へ向かった。その後も一日中38度5分の熱が続いた。午後は長時間ゲップで苦しがり、知子に電話し医院との電話のやりとりなど長い一日だった。

ユキは母恋しくて声を抑えて泣いているので、「『ママー』って呼んで思いっきり泣いていいよ」と言うと、私の胸に抱かれてしばらく号泣していた。

切なかった。
病気の時ぐらいはママがずっとそばに居てほしいだろう。知子だって子供が病気の時ぐらいは居てやりたいだろう。専業主婦だった私には初めて知る切なさだった。

2012年7月4日:
顔が濡れるのが嫌で、どういうわけかママの時だけ今も毎晩お風呂で大泣きしており、「プールは全部お休みする」と言っていた。
そのユキが幼稚園で一番楽しかったのは「プール」と言った!!!
「そして、全部の遠足とかけあし大会!」とつけ加えた。

2012年7月11日:
蓋を開けた瞬間、「うわぁ、ユキちゃんのお弁当、お花ばたけみたい!」とお友達に取り囲まれたそうだ。
お弁当は概ね週に1度で水曜日と決まっていた。知子はほぼ毎回お弁当の写真を撮っていたようだ。早朝に出社しないといけない時も手抜きをせず5時半に起床して、お弁当を作ってから家を出た。よくやったね、それでこそ母親だ!
8月30日:夏休みの登園日夏休み当園日C.jpg
帰国中のマチとクマが迎えに行ってくれたね。
2012年10月21日:運動会の日
知子はプログラム最後の年長児の組体操を見ながら泣いていた。
「あの危機を乗り越えられたことや、入園以降のユキの成長を思うと感謝で胸が一杯になって、この子達全員の幸せを願いつつ見ていたので、この中に我が子はいないのに涙が止まらなくて困った」。

2013年3月22日、年少組の終了式:
「ゆきひさくんと藤本さんにお会いすることができ、本当の親子の愛にふれ 私もたくさんのことを学ばせて頂いた1年でした」。
先生の言葉は神さまからの慰めと激励だと思った。

春休みは、その春走り始めた「しまかぜ」の写真を撮りに何回も通った。楽しかったね。
2013年2月の終わり頃、知子は会社のことでたまり溜まった心身の過労から突如両耳ともに中耳炎になり、手術するも回復遅し。内科医に紹介されて別件で日赤も受診・・・ゴールデンウィークに予定していたアメリカ行きの飛行機をキャンセルした。

2013年5月、知子の仕事がますます最悪の過酷な状態になった。朝は6時半に家を出て夜11時前に帰宅というどうしようもない激務が続いた。
おじいちゃんが公園へ.jpg2013年5月14日:
1度だけおじいちゃんに公園まで送ってもらったことがあったね。この日、良輔は日帰りの東京出張でこのあと駅へ向かった。
ユキが入園する年の2012年2月、知子は取締役になって経営改革に尽力することになった。しかし、この頃もずっと父親と心通じ合わない苦闘の中で激務をこなしていた。2人の間で私もまたユキの世話をしながらの日々はきつかった。

2013年6月4日:
「みんなずるい。だっていつもお母さんがいるもん!」と言い、見る見るうちに目は真っ赤になって涙があふれ両手で目をおさえて声を殺して泣いた。
私はたまらなくなって会社に電話して知子を呼んでもらった。泣かれると知子も辛いだろうが、ユキは電話口で思いっきり泣けばいいのに自制した。ユキはそういう子なのだ。

1分間ほどママの声を聞いただけで得心してベッドへ入った。空はまだ薄明るかった。
夕食を済ませお風呂に入れて7時半頃には寝させてやる日々。
知子はさみしさに耐えているユキのためにもアメリカ行きを決行し、真智子たちの休暇が取れた6月8日から6日間、ユキとワシントンへ。帰国後も激務はきつくなるばかりだった。

私もストレスがたまるも気分転換する時間も機会もなく、これらのしわ寄せが2学期になってユキに異変を来たした。この年の夏は猛暑日が続き外で遊ぶことが少なかったことも影響したと思うが、ユキの心が荒れて深刻な状況になった。

2013年9月14日:
知子:ユキもみんなが行っている塾へ行きたかったら行かせてあげるよ。
ユキ:ユキが○○(塾)へ行ったら、そのあいだ、おばあちゃんは御用したりパソコンしたり寝たりするんや。おばあちゃんやママはユキが邪魔やから○○へ送るんやろ。ユキは遊んでほしいねん!

暴力も振るうので知子と私だけではなく、あの良輔までが本気で悩むほど深刻だった。この時、ブログを読んでくださっている友たちが心配して励ましや助言をくださり、どんなに助けられたことか!

「ユキは遊んでほしいねん!」 
ユキの心の叫びを受け止め、2学期から降園後も公園にお友達がいる間は付き合うことにした。私の予想通りだった。その後、ユキの異変は嘘のように治まった。
仕方がなかったとは言え、経営改革以前から常に寝ても覚めても仕事の話ばかり。ついにユキは「ある日、突然」という形で問題行動を出した。子供が荒れるのには必ず原因があることを改めて心に刻む。


年長時の秋A.jpg
ユキは知子の左   11月8日・登園見送り当番光景:
年長時の秋B.jpg

幼稚園の先生はじめ、お友達のお母さん方にもお世話になった。雨や小雪の日、夏の雷雨の時は12名を2台の自動車で送り、帰りは自宅前まで送ってきてくださった。当番以外の人も自発的に動いてくださった。そんな時は感謝の気持ちだけではなく、子を思う親の姿に胸が熱くなった。

先日、赤ちゃん時代の写真を1枚選んで持参したものと、最近撮ってくださった園児の写真を貼って記念に残るものを用意してくださっていたという。そこに卒園式の日に子供たちの身長と体重を測って書きこんでくださるそうだ。「こんなに大きくなりました」と。

心のこもったいっぱいの愛の中で保育されたことは生涯の幸せ。
どの子もみんなが幸せな大人に成長してほしいと切に願う。自分らしく、自分でしか表現できない歩みを力強く始めてほしい。

posted by 優子 at 17:51| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年02月20日

母の死の悲しみの共鳴板となってくれた空穂の歌 ―私の合同例会余禄―

「例会の恵みを流してくださってありがとうございます」。
関東ブロックの方からのメールは心を弾ませる。

昨日の記事に関連して空穂の歌を詠みたい。記紀歌謡は文盲状態ゆえに短歌も解することができないが空穂の歌だけは心に響く。空穂の歌と出会ったのは母の死別直後の悲しみにくれていた時だ。

空穂は21歳の時に母(60歳)を、23歳の時に父(64歳)を亡くした。
空穂も年を重ね、すでに遠い遠い日の出来事になっているのにかえって記憶は鮮明になり、「我が胸に生きつづけては、面変(おもがわ)りしまさぬ父母」と、91歳(1967年)で亡くなるまでの70年間終生父母を追慕する(特に母を恋う)歌を詠い続けた。そんな空穂に魅かれて今も時々書を開く。

▼ 還暦になりぬよ我はとおぼろなる父母の写真にのぞきこみつも

▼ 嫁子どもありて賑ふ通(つう)が家をうれしと見ませわが父よ母よ
     ※「通」とは空穂の本名・通治のこと
▼ 老いてわれこの世に最(もと)も深くあるは親と子がもつ心とぞ知る

▼ 世を終へむ時の近づき子の我やいやますますにわが親おもふ

▼ 子ら皆のただ健かにくらさばと云はしし母よ好き子ぞわれも

▼ 頼むぞとただ一言いはしけるを母が眼ざしわれを離れず

▼ 老いて知るわが父母やあきらかにいたはり合ひて一代(ひとよ)経ませる

▼ 死期来なば先づ第一に親に謝し我はこの世を立ち去りぬべき

▼ 身にあまる勿体(もたい)なき愛ある世ぞとわれはぐくみし母ゆゑに知る

▼ 八十五の翁となれど母おもへばただになつかし今日は母の日

▼ 人の世を信ずる心くづれんとすれば見え来ぬ母の面影

▼ 亡き親のこころ我にあり在(おま)しなばわが思ふごとく思ほさむかも

  私にとって第一の道標は言うまでもなく主なるキリストであるが、こんな時母はどうするのだろうかと我慢強かった母を想うこともしきり。私も親の教えに背いていない、親の人生観を歩いていると嬉しく思う。

▼ われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦(う)みし生命も甦り来る

私もまた「母の愛子」であったことを思うにつけて、心身が疲れた時に活力が甦ってくる。空穂と同じ情感回路なのだ。

▼ 報いなくして賜ひたる
  一人の母の愛により、
  われ天地(あめつち)をうるはしき
  栄の台と覚えにき。

          (『まひる野』の「亡き母」の第3連)

以上いくつかを刻んだが、母の死後、空穂が私の悲しみの共鳴板になってくれた。母は病床にて谷口諭・幸子夫妻を通して救われて神のみもとに帰ったが、父と兄に話す時もなく神さまと母とのこととして仏式で弔った。

まだ日が浅い法要の席で住職さんが空穂のことを感慨ぶかげに話されたことがあった。名の読み方をお教えしたのだが、あの時は空穂が洗礼を受けていたとは露知らず、それゆえに空穂に魅かれたことも嬉しく思った。作品のみの解説書は多くあれど、その人物の精神のありかを語る書は非常に少ない。

このたびの例会で大田先生の『窪田空穂小論 ―貴族のこころ、平民のみち―」を配布してくださり興味深く拝読した。
母の悲しみの時、空穂のほかに茂吉の『死にたまふ母』も心を打った。悲しみの心をえぐられるような共感でもあった。

▼ 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳足らひし母よ

▼ わが母を焼かねばならぬ火を持てり天(あま)つ空には見るものもなし

▼ 灰のなかに母をひろへり朝日子(あさひこ)のぼるがなかに母をひろへり


私もまた母の遺骨を拾うのではなく「母をひろう」との思いだった。次は娘たちが私を拾ってくれるのであろう。

児童文学の『かみさまへのてがみ』のところでは、孫が全く同じようなことを言っていたので二重の感動で聞いていた。
「おばあちゃん、天国に聖書を持っていかなくてもいいの?天国には聖書はあるの?」と、ついこの前も尋ねられてユキと一緒に話していたことだった。

幼稚園の昼食時には手を合わせてみんなで「いただきます」と言ったあとで、心の中で「イエスさま、いただきます」と言ってから食べるという。すばらしい!
ユキは私がゆったりしているといろんなことを話してくれる。このたびの学びを生かしてユキともっともっと本の世界を楽しもう。
早速ネットで発注した本が届いた。
附記:消えたおにぎり
15日の朝は早いので名古屋に向かう車内で食べようと、前夜に炊き込みご飯を炊いておにぎりを用意していた。

ところが、津(日本で一番短い駅名)を過ぎた頃にバッグを探したところ無い。玄関に置いたバッグの上か横に置いたので忘れてきたのだと思った。

しかし、家にも無い。どんなに探してもどこにも無い。

そういえば・・・と、犯人の見当がついた。犬 犬 犬 に違いない。
今夜から今までの寝床サイズにA.jpg誰かの目と鼻の先に置いていたからそうに決まっている。冤罪だったらごめん。それほどにチャッピーは回復しているのだ。しかし、包んでいたラップも無いので数日間は心配したが大丈夫だった。(笑)

今日初めてチャッピーを5〜6分間の散歩に出た。死線を越えたとは信じられない姿だった。

posted by 優子 at 22:52| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月19日

キリスト教信仰短歌の世界 ―中部・関西合同例会よりB― 

大田正紀先生は日本の近現代文学を専門とされ、特にキリスト教との関連で論じることができる数少ない研究者だ。関西ブロックでは大田先生の指導のもとでキリスト教文学の学びが特色となっている。

今回も多くの資料を配布して下さった。
近代の小説を論じてきて一番残念なことは、独歩、藤村、志賀直哉、有島・・など、明治の頃にクリスチャン(プロテスタント)になったものの、文学に目覚めて殆どがキリスト教から離れていったのは何故か・・・

最後まで信仰を持ったのは星野天知(『文学界』という本を作った人)ぐらいだが、最後はカトリックだった。プロテスタント信仰を持ちながら文学を完成させた人は少なく、三浦綾子、椎名麟三ぐらいであとはいない。カトリックは広範な支持を得ている。

短歌は、万葉集、古今集、新古今集と伝統的に続いてきた。
日本人の心に新しい抒情をきたらしたものは小学校唱歌と讃美歌と森鴎外の『於母影(おもかげ)』だ。

『於母影』は西洋の詩を翻訳したもので、日本の伝統的なものを失わずに西洋の永遠につながるものへの飢え渇きを書いた。

讃美歌は植村正久など初期のキリスト教会の持っている言葉のレベルの高さ、伝統的なものと繋げていく素晴らしいものがあった。現代の讃美歌は言葉のレベルが落ちている。

唱歌は教育宣教師のような役割のアメリカンボードの人々が、唱歌を歌えさえすれば教会へ行ってもすぐに讃美歌が歌えるようにとの思いで、ヨーロッパやアメリカで歌われている民謡だと称して福音の種を蒔いた。
そこには日本人の美の伝統である「あはれ」に、いったん滅びる命に永遠の命があると初めて根づいていった。

日本の短詩型の中で初めて花開いたのが与謝野晶子と鉄幹である。特に晶子の晩年の歌に良い詩が多い。
晶子は健康的な心の持ち主だと思う。
平塚らいてう(らいちょう)などは、母であることを捨てることが女性の自立だと言っているが、晶子は子ども一人ひとりを大切にし、母であることは豊かさの証だとして命を守ろうとしている。


晶子の子どもたちがカトリックの学校へ行き、洗礼を受け、晶子と鉄幹もクリスチャンになった。本人は洗礼を受けてクリスチャンになっているにも関わらず仏式で葬られているのはいかがなものか。

晶子はひたすら鉄幹を一人の男性として尊敬し仕事をし、立たしめた。母であることの豊かさに焦点を置いて、もう一度評価される歌人ではないかと思う。

窪田空穂(うつほ)は植村正久により洗礼を受けてクリスチャンになったが、植村の牧師引退を契機に棄教というよりは卒業のような離れ方をした。

若い頃に一度キリストに出会ったら、その人の心に神さまが終生影響を与える。教会に行けなくなっていても一度神さまを知ってしまった人間は偶像を拝まないし、自分のそばで生きている人に仕えたいという思いが消えないと思う。それが傷跡となって残っている。

今の日本には万葉集の長歌の伝統がなくなってしまった。まとまった思いを表現していくためには「5、7、5、7、7」では足りないと思う。現代詩ではなくて「7、5調」の韻律を持ったもので詠えないか。

キリスト教の影響を受けた現代歌人は塚本邦雄と岡井隆で、塚本ほど日本の歌人や文学者の中で聖書を題材にした歌を歌った人はいないが、信仰は浄土真宗である。
聖書を引用するのが聖書の歌人ではないということを覚えておきたい。古今、新古今の比喩表現、暗喩表現にすぐれた。

岡井隆はクリスチャンの家系としてはとびきりの家系だが、若い時にキリスト教から離れていた。これだけ才能のある人が、どうしてキリスト教から離れてしまったのか残念に思う。

それはピューリタンを間違って理解していることにある。ピューリタンは神に愛された者が愛への応答としてきよめられた生活をしているのに、日本ではそれを祝福として考えられず外側の規則ばかりに目が捉われている。

「あかしとしての短歌」:前川正と三浦光世。
人は皆、人に語れない家族の問題があるが、三浦綾子もまた語っていない家族問題があり、学校を卒業する前後に自殺願望があった。その理由は何かわからない。生きていくのであればこの家で生きていたくない。そして、生きて行くために職場を得て学校を選んで代用教師になった。

ところが敗戦後、それまで教えていた教科書の墨塗りを命じられ、国家の欺瞞的な教育に加担した自責の念から教職を退き、いつの時代にも真実なものはあるのだろうかと悩む。その後、肺結核発病。前川正との出会いにより聖書信仰とアララギ短歌を教わり次第に心が開かれていく。

前川正の歌:
▼ 死を賭して戦争を拒否せざりし基督者を 信ぜずといひて友は去り行きぬ

▼ 笛の如く鳴り居る胸に汝を抱けば 吾が淋しさの極まりにけり

綾子の歌:
▼ 祈ること歌詠むことを教へ給ひ吾を残して逝き給ひけり

▼ 妻の如く想うと吾を抱きくれし君よ君よ還り来よ天の国より

前川の死後、前川正と瓜二つのクリスチャン・三浦光世と出会い結婚。
男の本質は幼児性であるから女よりも妬む。かつて妻を愛した男はゆるしがたいと思うが、光世は導いてくれた前川の愛の記憶を生涯大切にするように勧めた。光世の謙遜さは三浦綾子記念館にも表れており、彼の相聞歌は展示されていない。

三浦綾子の文学は夫婦の合作、魂の合作だ。共にお祈りしてから文学を書き始める。常日頃、互いの生い立ちを話し合い、それが作品に大きな影響を与えた。『泥流地帯』や『塩狩峠』など三浦の代表作は光世の短歌がもとになってできたのだと思う。

光世の歌:
▼ この弱き妻が子を背負ふを思ふだに憐れにて子を願ふ心になれず

▼ 許さずは許されじとキリストの言ひ給ひしを三十年許し難き一人吾にあり

▼ 着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛し吾が妻なれば

「ハンセン病と短歌」:井深八重 
八重が神山復生病院創立70周年に発表した短歌がある。多くの患者がそうであったように堀清子の仮名を用いている。

▼ 病む人の家居つくりしその君のいさを尊し永遠のよまでも

▼ 病む人の幸のみ希ひとつくにに命はてにし大き君らは

▼ み摂理のままにと思ひ忍び来ぬなべては胸に深く包みて

啄木も決してキリスト教と無縁ではない。啄木の妹・光子はクリスチャンになり、その伴侶・三浦精一も受洗。その後、精一は日本社会党が結成されて入党。日本に社会福祉学を導入したのはその息子である。

日本の短歌で最大の功績を残したのは斎藤茂吉だ。
茂吉は人間の動物性をけだもののような優しさとして肯定していくが、自分の感情は全て正しいと考えるところに危うさがある。
茂吉の戦争加担は全集から外している。しかし、これは犯罪的だ。全集を出す時は全て出すべきだ。


弁明してもいいから、根本的に自分で批判する精神を持たねばならない。同調するのは良くても批判精神がないと傲慢になる可能性がある。そういうことがクリスチャンの証しの短歌として大事であろうかと思う。クリスチャンになった者は心しておかねばならない。

神さまを知っている人は全てハッピーになるのではなくかえって苦しみは多いが、苦しみに意味があることを見出してもらう。それは本当に大きな喜びだ。

講演の最後に自費出版された関西ブロック会員の短歌を紹介された。

附記:井深八重については過去ログに『同志社同窓会報』の25号(1985年発行)より、「思い出すままに」と題する八重の手記を転載させていただいている。

posted by 優子 at 19:54| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

児童文学作家に誘われて絵本の世界へ ―中部・関西合同例会よりA― 

今関信子先生は滋賀県の著名な児童文学作家(日本児童文学者協会会員、子どもの文化研究所所員)である。JCP関西ブロック例会の作品講評では鋭いコメントをしてくださるので私は身を乗り出して聴いている。
いつもパッションに溢れ、今回も全身全霊で語ってくださった。
その言葉の端々から自分に正直な方だと思った。それは私の最も大切にしていることだけに、今後は是非もっともっと個人的出会いを深めていきたいと思った。

<以下は講演より>
今、子育てがうまくいっておらず、いろんな所で子供たちの状況が気になり、子供たちに届けたい言葉を考えている。

こんな話があった。
学校から電話があり、お宅の子が友だちのまつげをハサミで切ったから謝りに行くようにとのこと。どうしてそんなことをしたのか子供に聞くと、その男の子は長いまつげだから邪魔になると思ってまつげを切ってあげたという。

「どうしてそんなことをしたの!」と頭ごなしに怒るのではなく、子供がどのように感じているかを聞いて子供の心をとらえていかねばならない。

『かみさまへのてがみ』(エリック・マーシャル作、谷川俊太郎訳)

「かみさま もし死んだあと生きるんなら どうして死ななきゃいけないの?」

「かみさま どうしても知りたいことがあるんです。天国ってどんな感じ? すてきだってわかっているけれど どんなふうにすてきなの?・・・」


小さい時から神さまを身近にもち、神さまと関わりをもちながら生きている子供たちは、このように思っているんだろうなと思う。

大好きな人が本を読んであげて声を届けていき、その声を聞いていく、この関係が愛を育てていくことなのだ。どの子も聞くということ、愛されていることがどんなに嬉しいことか!

子供たちはまだ未分化で、声を聞くことはとても嬉しいことだという体験の大切さ。人間は愛されるために生まれてきた。神さまから委ねられた教育があるんだということ。

声と共に聞くという喜びを体験し体験させる。声、リズム、絵をないまぜにした中で文学作品に出会っていく。

子守唄は音符がついて童謡になる。言葉と心地よいリズムを楽しみながら、人が人として愛されていくことがどういうことか。


話術としては言葉に情感を込めること。
例えば、「本が好きになる秘密を教えてあげる。それはね、いっぱい遊ぶことなんよ」と、この意外性が大切で、「お話を読むことはいいことだよ」と言うのはそこでダメ!意外性を届けるのだ。

「『え?それって・・』と思うことを見つけるのよ!
するとそれがたまっていくから、それを経験と言うのよ。」というふうに、子供たちに話を届けるときは子供たちの心をこっちに引きつけて話す。

自分の言った言葉が自分を打つだろうなと思っても、それを聞いた人がアレンジして誰かに伝えていくだろうから、「それでもなお」を含めて地域にも職場にも、全ての日常の中に今ある自分を晒(さら)していく。
破れても破れてもやるぞという気持ち。そこから何かが起こっていく。それはもう神さまがやってくださるから、大胆に大らかに神さまの恵みの中で生きていきたい。


『わたしとあそんで』(マリー・ホール・エッツ作)
この本は子供のランキングで常に3番目に上がっている。
※ 絵本のあらすじは「絵本ナビ」より一部引用させていただいた。
はらっぱへ遊びに行った女の子は、「ばったさん、あそびましょ」と、草の葉にとまっていたバッタを捕まえようとしますが、逃げてしまいます。

カエルも、カメも、リスも、かけすも、ウサギも、ヘビも、みんな捕まえようとすると逃げてしまいます。
誰も遊んでくれないので、池のそばの石に腰掛けてじっとしていました。

すると、バッタが戻ってきて、草の葉にとまります。カエルも戻ってきて、草むらにしゃがみます。カメも、リスも・・・みんなもどってきました。誰も、もう怖がって逃げたりはしません。
シカの赤ちゃんがやってきて、少女のほっぺたをなめます。

最後の女の子の言葉がとても印象的です。
「ああ わたしは いま、とっても うれしいの。とびきり うれしいの。」
「なぜって、みんなが みんなが わたしとあそんでくれるんですもの。」

「わたし」はみんなと何かしたいと思っていたのに誰も誰も相手にしてくれなかった。それはこちらのアクションが向こうにそぐわなかったからだと思う。

自分ひとりで静かに自分の世界に入っていく。そして、ミズスマシをジッーと見ている。するとそこへみんながやって来る。

この時の女の子の目!!!
これを言葉で書けと言ったら本当に難しいと思うが、絵ってすばらしいなあと思う。 

大きな世界の中で自分はこんなに小さい。自分を越えたものが自分をくるんでくれている。作者は自分は大きなものに包まれているという体験をしたんだろうなと思う。


『のろまなローラー』(小出正吾作)
作者は児童文学会の小出正吾で、坪田譲治など児童文学会初期の人々はクリスチャンが多かった。この作品は信仰をもって書かれたものだと思う。自分のスタンスで、自分の欠けが多くても生きることの意味を知っている。

子供たちが興味をひく主人公を立てて周りの者を立てていく。ローラーは働く自動車だけれどクレーンなどのようにかっこ良いものを主人公にはしない。
子供はかっこよく過ぎ去って行く新幹線が好きだ。それは自分の躍動する心を感じ取っているのだ。

51B63SF6X4L__SL500_AA300_.jpgローラーは行ったり来たりしているだけ。そこへ風を切って走る自動車がやってきて馬鹿にする。ところがパンクになったりして他の自動車が喘(あえ)ぐ。パンクすることでローラーとゆっくり会話し出会う。その後、平らにされた道を通り過ぎていく時、「ありがとう」と声をかけていく。

最後は圧巻だ。
ローラーは美しい夕焼けを見ながらゴロゴロしながら元の場所に帰っていく。絵と言葉がうまく噛み合わさり溶け合っている。そうでないと良い絵本はできあがらない。

子供のサロンに行く時は、紹介する本の中に必ずこの本を入れて行く。小出さんは先輩のクリスチャン作家として尊敬しているひとりだ。

最後に『フレデリック』(レオ・レオニ作、谷川俊太郎訳)を読んで講演を閉じられた。聴き終わったとき私は子供に戻っていた。さすが児童文学者、鋭い感性と情感豊かで子供の心を大切にされていると感銘を受けた。


posted by 優子 at 11:14| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

開会礼拝メッセージ ―中部・関西合同例会より@― 

2月15日(土)、名古屋にて開催された日本クリスチャン・ペンクラブ中部・関西ブロックの合同例会は豊かに祝された。ここに私の記憶に留めておきたいものを記録し、この幸いをお分かちしたいとの思いで刻んでいきたいと思う。

<開会礼拝>川上与志夫先生のメッセージより:
神戸女学院で教鞭を執っていた時、らい菌が侵すハンセン病の国立療養所長島愛生園へ1週間行ったことがある。
病者たちの菌は陰性になっているので感染しないということが分かっていても恐れがあり、「大丈夫なんだよ、こんなこと思ったらダメなんだよ」と自分の心を戒めながらの滞在だった。

指が無いので包帯でスプーンを手に巻きつけて碁を打っておられたり、舌先で金属板に打たれた点字をなめて読んでおられた。

私たちには1冊の聖書でも、金属板でできた大判の厚い1冊には聖書の中の1巻が入っているだけで、それらを高く積み上げて聖書(旧約聖書・39巻と新約聖書・27巻)になる。

「目の見えない者には通る姿が見える。そこに座るだけでどんな人かわかるんです」と言われて、身を隠したい気持ちになり身を正した記憶がある。

神谷(かみや)美恵子さんを交えて話したことがある。神谷さんの父は立派な人だったが、キリスト者でありながら娘が愛生園へ行くことを賛成しなかった。

らいで苦しむ人々に「なぜ私ではなく、あなたが?」という神谷さんの感覚がとても大切だと思う。
我々は日常で気がつかないことが多い。大震災で両親を失った子ども、子どもを失った親の悲しみ・・・それはやはりわかったつもりでもわからない。しかし、わかりたい。

金子みすずの詩    「振子」
時計の窓からのぞいてる
止まったふり子はさびしそう

窓のそとには、街がみえ、
子供が縄とびしてゐるに。

だれかがみつけてくれないか。
鞦韆(ぶらんこ)押してくれないか。

窓の硝子をのぞいてる
錆びたふり子は、さびしそう。

錆びて止まってしまった振り子がおじいさん、おばあさんであり、「誰かここへ来てブランコ押してくれない?!」と寂しげだ。
これは現代の世相を表している。気がついているようで気がついていない。

我々は何もかもできないが、この一つだけ、この人にはという奉仕はできるのではないか。ひとつのことに集中するのだ。

今ここで私がしなければいけない。
今ここで私がこの人に仕えねばいけない。

誰がするの? 私でしょ。
いつするの? 今でしょ。今しかできないと!

人間はただ与え続けられているだけでは生きていけない。
シュバイツァーは、「より良く生きようとしていることを手助けしていることが人生なんだ」と言っている。快い挨拶、返事が相手を喜ばせる。

文明人はどれだけ獲得したかで人を評価するが、インディアンはどれだけ与えたかで評価する。これは聖書の言葉と一致する。それに繋がっているのが金子みすずさんだ。

最後はそれぞれ黙祷をもって感謝の祈りを捧げた。
川上先生はインディアン研究家でもあり、何回もスー族の人々と生活を共にされたことがある。

何年ぶりであろうか。私は今、神谷美恵子の著作集を手にし、人生の終盤に入った今、もう一度読み直したいと思う。

かつて母の難病を通して苦難にある人々を知った時、私もまた神谷さんと全く同じ思いをおぼえた。
「なぜ私ではなく、お母さんが? なぜ私ではなく、この方々が」と。

それまで身近にいる人々のことで苦しんでいた。
言いたいことを言い、人道にも触れるほど他者を顧みない非道な人々に健康が与えられ、安穏な生活がゆるされている。かたや善良に生き地域の弱者のために尽くしてきた母の人生を難病で終わらせる神がわからなかった。

しかし、苦悩の果てにこの思いに至らされた時、私の人生も不条理ではない、それどころかこのように病いも負わずに生かされていること自体が不条理だと気づかされ、ついに神さまとの格闘に終止符を打って、神さまの恵みの中で生かされる者に変えられていったのである。

15日夜遅く、私は疲れを感じることもなくいつまでも楽しそうに話しているので知子が不思議がった。知子は会社の仕事を広げていたので邪魔をしてはいけないと退室した時は12時を過ぎていた。

川上先生のメッセージを文字に刻むことで、なぜ私の魂が躍っているのかわかった。師のメッセージを通して神さまが私を祝福してくださっていたのである!

残りの時間、もう一度真剣に弱い立場の人たちに目を向けて生きていきたいと思う。何もできないけれど、日々触れ合う人々の中で心を込めて生きていきたい。


posted by 優子 at 12:53| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

雪の日の追記

14日夕方:

この豪雪!
ママとおじいちゃんのために道を作るユキ.jpg
「ママとおじいちゃんが帰ってきたら滑るから道を作っているの!」
オンボロになったプラスチックのチリトリでパーキングまで雪かきしていた。2人とも大感謝、ユキは大いに人助けをした。

「これは『オオ、ノー!』って言っているところ」
雪だるまの両サイドから細い枝が出ている。
posted by 優子 at 16:12| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

雪解けぬ昨朝、170近い血圧で名古屋に向かう

大雪騒動の翌15日は、名古屋駅近くのビルでJCP(日本クリスチャンペンクラブ)の中部と関西ブロックの合同例会だった。
45年ぶりの大雪に見舞われている東京(関東ブロック)の友から、「皆様が予定通り参加されて有益な一日になりますようにお祈ります。」とメールを頂き、お茶菓子も名古屋に送ってくださっていた。

関西から10名、中部は1名の欠席者がおられたが総勢16名で有意義な学びと交わりの時を与えられ、神さまが豊かに祝福してくださったことを、まずはブログで関東ブロックの方々に感謝の御報告をさせていただきたい。

その前日、奈良北部に大雪警報が発表され、その夕方には雪はやんだものの翌朝は凍結して駅までたどり着けるかだろうかと心配した。そして15日朝、自動車が通ったあとに黒い道路が見えていた!

では自動車も走れるからと夫が起きようとするので感謝して固く断った。休日の早朝に夫を煩わせたくなかったからだ。そうでなくても午前4時までソチオリンピックを見ていたので夫は眠ったばかりだった。

しかしながら、実のところ私の体調は非常に悪かった。
夜半に目が覚めた時も非常に悪くて眠れなかった。案の定血圧が160もあり、起床後も上がる一方だったので大事をとって夫に送ってもらうことにした。会計のことで連絡がつかないままの事案もあり行かねばならなかったし行きたかった。

血圧が160以上は危険だからと医師から頓服薬を処方されている。それは強い降圧剤ではなく睡眠導入剤を精神安定剤として使うのだ。
昨夜これを飲まずに眠ったのは、服用した翌日も半日くらいはフラフラするのでプラットフォームから落ちるような事故があっては大変との選択だった。しかし、やはり夜に飲むべきだった。小さな薬を半錠に割って服用して家を出た。

すると自動車はパーキングからも出られず少しバックさせた状態でタイヤが空回りしていた。自動車は無理だとわかったものの、自動車をもとに戻そうと私が後ろから押したがそんなことではビクともせず、あとは夫に任せて駅へ急いだ。

転んで骨折しないように祈りつつ、一足ひとあし、足の裏全面を地につけて歩いた。雪道では踵(かかと)から地につける歩き方は危ないとテレビで聞いていたからだ。

歩くのは想像していたよりも大変ではなかったが血圧のほうが心配で駅までの道のりを長く感じた。歩きながらスターリン弾圧でシベリアに抑留されたロシアのアヴァンギャルドを思い出していた。そして、自らを励ましながら駅に到着した。

幸い鉄道のダイヤの遅れもなく予定通りの電車に乗り、大和八木からアーバンライナーに乗り換えて名古屋へ向かった。

学びについては次のページに綴りたい。

帰りは御用で大阪へ向かわれる川上先生と共に乗車し、おしゃべりしながらの2時間は束の間だった。川上先生は大学の恩師である。恩師は格別の存在だと思った。これからの時を大切にしたい。

名古屋は雪のかけらもなく信じられない世界だった。そして、当駅に戻るとまだ5分の1ほど雪が残っており、これまた信じられない世界だった。すぐ近くの区域では今朝も雪が多く残っていて、ユキと知子は散歩の途中で雪だるまを作ってきたというから三たび信じられない世界だった。

とにかく健康を保たれ無事帰還できたことを神さまに感謝します! 

posted by 優子 at 16:02| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

大雪警報で早々に降園

予報通り雪は午前3時頃から降り出したのだろうか、目覚めると2〜3センチ積もり始めていた。
夫は自動車で行くつもりでパーキングまで行ったものの断念して電車で出社した。知子も一緒に行こうと靴まで履いていたが、急きょユキを幼稚園まで送ってから行くことにした。
大雪@.jpg

私はカメラを取りに行って2階へ上がると、夫は外股の足跡を残して行ったあとだった。いつもの革靴で大丈夫なのだろうか・・・。オーバーコートを出すのに手間取って出発が遅くなったが、立春から10日後でも6時45分はまだ薄暗い。

雨の日は集団登園の集合場所から12名が2台の自動車(当番以外にもうひとりは自発的に助けてくださる)に分かれて乗せ、帰りは一人ひとり自宅前まで送ってくださるのだが、雪は自動車は危険だ。

そこで出られる人はそれぞれ保護者も一緒に徒歩で登園することを昨日申し合わせたので、私が同伴するつもりでいたが、知子は仕事の都合がつくと言うので玄関前で二人を見送った。

大雪D.jpg

帰りは園まで迎えに行くのが楽しみだ。その時はきっと大きな雪だるまが生まれていることであろう。

チャッピーもすっかり元気になって、とは言え以前とは全く違うので散歩はしないで庭に離してやると用を済ませて戻って来る。今は夏と違って蚊や恐い虫もいないので、ドアを開けっ放しにしておくと5分ほどで入って来るのだが、今朝は8時から20分経っても戻ってこない。

チャッピーは今も視覚、嗅覚は大丈夫だが耳がひどく遠くなってしまって、大きな声で呼んでも殆ど聞こえない。どこかでうずくまっていては大変と、私は服装を整え長靴を履いて探しに行くと途中で会った。

この時も階段で転けて顔を打っていたがこんなに元気になった。いい写真が撮れた。とても嬉しくて早速デスクトップの写真にした。

大雪E.jpg

チャッピーは健在なり。
日本犬の元祖、天然記念物の柴犬で〜す!

と、ここまで書いた10時15分、知子から電話が入った。10時2分、奈良県に大雪注意報が出て降園との一斉メールが入ったとのこと。小学校は11時に一斉下校。

「低気圧が15日にかけて前線を伴って日本の南海上を発達しながら北東に進み、奈良県には北よりの冷たい空気が流れ込み、このため北部の平地を中心に広い範囲で大雪となっている」。

私は雪の風景を楽しみたいので園まで迎えに行くことにした。一番乗りで雪を楽しみながら歩いたが既に左の股関節が疼き始めた。
大雪警報で降園.jpg

大きな雪だるま!.jpg
やっぱり作っていたね、雪だるま!
大雪で降園A.jpg

大雪で降園後@.jpg
帰宅後、小一時間ひとりで飽きずに遊んでいた。

大阪では道路も見え自動車が走っているというから、ここは異世界のようだ。大阪と県境い近くの地で20センチの積雪とは!

ワシントンD.C.も13日は深い雪で覆われ政府機関や国際機関の多くが閉鎖となり、ワシントンに雪が降ればどうしようもないと報道していたから、真智たちも自宅で仕事をしていたことであろう。

今も雪は降っている。電車の運休なく知子たちが無事に帰宅できますように。明日は名古屋でJCPの合同例会があり、朝が早いので鉄道が心配だ。

posted by 優子 at 13:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

キリストにある「愛の園幼稚園」と福祉作業所「ちいろば園」の働き

キリストにある働き.jpg

今日の午後、西大和教会附属・愛の園幼稚園開園50周年とちいろば園開設25周年の記念講演会に知子とふたりで参加した。

愛の園幼稚園は1964年に日本キリスト教団・西大和教会の教会学校全日制として始まった。キリスト教精神により障がい者も受け入れている。最初は10名ほどの小さな集まりだったが、今春で2600名の卒園者を数える。

1977年に学校法人の認可を得、尽力されたのが前園長の高見敏雄牧師夫妻だった。西大和教会の前牧師であり現名誉牧師だ。

その後、1989年に幼稚園と教会の歩みの中から福祉作業所「ちいろば園」が生まれ、現在は知的障がいをもった人たちのための施設、社会法人「ちいろば会」として三郷町勢野北で活動している。

愛の園幼稚園50周年とちいろば園25年の節目の記念講演会である。演者の筒井のり子さんは第一期の卒園児で、2001年には「日本ボランティア・コーディネーター協会」を設立し代表理事の任にある。

1時間半の講演は終始退屈することなく聴き入っていたが、その中から冒頭の部分だけお分かちしたい。

園児は10人ほどの少人数だったから、「今日は何をする? 何して遊ぶ?」と声をかけられた。それは深い教育理念のもとでの言葉であろうが、その問いかけが自分の中にあるものを引き出してくれ、しんどさと面白さがあった。

それと、誰でも「もう一つ(オールタナティブ・alternative)の場所」が必要だ。
私は小学校1年生の時が人生で最もしんどかった。そして、おばあちゃんと合わなくて家もしんどかったので、西大和教会や愛の園幼稚園で遊んでいた。
そこは地域の子供会とも違い、児童館のような役割は非常に大切だと思う。いろんな人間関係があることが救いになる。

講演会の最後に高見牧師が壇上に立たれ、次のように語られた。

「筒井さんは大学にこもらないでいろんなところで活躍されている。愛の園幼稚園やちいろば園のこれからのあり方を教えられたような気がする。
私は教会や園から引退したのでこれからはゆっくりしようと思っていたが、もうひと頑張りしないといけないなあと、今の思いを広げていきたいとの思いに立たせていただいた」。
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敬愛する高見牧師
高見牧師から今日のお誘いのお手紙をいただき、私たちのことを祈りのうちに覚えてくださっていることを感謝している。

ロビーで牧師と挨拶を交わした時、開口一番に大きなニュースを簡単明瞭に告げられ、私と知子の内に激震が走った。「もうひと頑張り」とはそのことを指しておられるのだと思った。

その出来事は私たちにとっても神さまの導きであり、神さまからの問いかけであると厳粛に受け止めている。感情に支配されず祈りつつ熟慮して進むべき道を選択したいと思う。神が望まれる道を。


馬見の教会からも多くの方々が出席され、1年ぶりの再会だった。

posted by 優子 at 22:23| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2014年02月07日

卒園まであと26日、今日は新1年生体験入学

年長組のクラスでは「あと30日」、「あと29日」・・・と、1月14日から「さかさまカレンダー」で卒園までの登園日を数えている。

全国でノロウィルスに加えてインフルエンザが猛威をふるい、年少組は水曜日から学級閉鎖になっている。年長組も毎日3〜4人が欠席しているが、残り少ない日々をみんなそろって元気で通えるように願う。

そんな今日の午後、道路を隔てた向かいの小学校で体験入学が実施された。
ユキが通っている市立幼稚園児にとっては幼・小8年間の一貫教育のごとく、年間を通して小学生との交流がある。今日は保育園などから新1年生が保護者と共に集合した。

今月は最後の参観日があるのでたびたび欠勤するわけにいかない知子は、今日のことを何人かに尋ね直接学校にも電話して重要度を尋ねた。保護者は雑談のみで全く重要ではないというので私が代理で学校へ趣いた。

午後1時、校内まで子供たちを引率してくださった園の先生にご挨拶し、ユキと受付に向かった。
ユキは現1年生児童に1年生の教室に案内され、お世話をしてくれる1年生の女児に国語の本を読んでもらったり、ランドセルを背負わせてもらったりしたそうだ。

ユキは国語の教科書を「絵本」と言っていたが、書物は全て「えほん」と言うものと思っているので聞き正して国語の教科書だとわかった。

同じ時、保護者は養護教諭(保健室の先生)からパソコン映像を見ながら学校生活についての話を聴いた。
山の上にある学校だから登下校時に骨折や裂傷などの怪我が多い(特に1年生)ということぐらいで、確かに耳をそばだてて聞かねばならない話はなかったが、それも出席したからこそ言える感想だ。

今日のように知子の代理で出席する時、私はいつも心に小さな痛みを感じる。ユキのことよりも出席できない知子を不憫に思うのだ。我が子のことは何もかもが初めてのことゆえに、心地よい緊張感をもって一つひとつ参加させてやりたい。

結局のところ、人生はそのような目には見えない心の経験が何物にも代え難い貴重なもので、それらが積み重ねられて生涯が築かれていくのだと思うから。


余談になるが今日の話で面白かったことがある。奈良弁だ。
私は方言を日本文化の宝物のように感じているのだが、隣接する大阪では使わない言葉があり、「やっぱりそうか!!!」と感動した。それは「いらん」という言葉だ。

大阪弁で「いらん」というのは「いらない」の意味であり、奈良でも同じように使われているのだが、それとは別に独特の用法があるのだ。

保健室に来る子供は体のことだけではなく心の叫びもあるので、教諭がゆっくり話を傾聴する場面でのこと。
「いらんことがあったんやなぁ。そんなことあったん、いらんかったんやなぁ」という共感的理解を示す言葉を聞き、声を出して笑いたいほど言葉の用法が痛快だった。

当地へ来て最初に耳にとまった言葉がこの言葉だった。
「しんどい話はいらんなあ」といわれて、少しは耳にとまりつつもさほど違和感なく、いつしか私の常用語にもなっているのだが、このような独特の言い回しがあったのだ。夕食時に知子と夫にも速報を流したところ、想像通り盛り上がった!

ついでながら真智が大学生の時、夏休み中の短期間だけ当地の塾で講師をしていた時のこと、答え合わせの「『まるつけ』を『まるうち』と言ってるよ!」と驚いて話してくれたことがあった。大阪のとなりの県で言葉が違うのは実に面白い現象だ。

このほか、大阪や神戸では「絵の具」は「え」にアクセントをつけるが、奈良の人は「の」にアクセントをつけるなど小さな発見がある。ユキには「のぐ」と発音するように教えているが(笑)。

1時間あまりの体験入学の最後は体育館で、こま回し、けん玉、ヨーヨー、羽子板・・など昔の遊びを紹介され、ユキは駒回しに挑戦し私も一緒に楽しんだ。1年生の女の子は上手に教えてくれた。
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登園日も残すところ26日だ。
私は娘たちが小学校へ上がるのが嬉しかったのに、今は嬉しさよりもさみしくてならない。孫だからというよりも自分が年を重ねていくことに抵抗を感じているのだろうか・・・。ユキが幼いままでいてほしいのだろうか・・・
何よりも幼稚園の先生との出会い、健全な幼稚園だったからこその感情であるのは言うまでもない。


園ではすっかり活発になっているユキも、小学校では「固まる君」になっていた。ふらふら
学校での様子を話すのも知子や真智子と違って頼りないが、ユキはユキの個性とペースで成長していけばいい。それでも1度だけやった入学式の練習で「新1年生起立!」と言われたとき、ユキ(左端)は立ったね! 
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ユキよ、今を、幼き日々の原風景を記憶にとどめよ!

金魚の水が5ミリほど凍り、出窓のサッシについた結露もバリバリに凍り、庭の蛇口をひねるとホースから氷が音を立てて飛び出してくる厳寒の日々。
今夜降り出した雪はすぐに積もり始め、今も静かに降っている。

posted by 優子 at 23:55| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年02月05日

危機を脱して老いを生きるチャッピー

九州で初夏日を記録した2月2日、当地も18度近になりホッと一息ついたが、4日の立春から一転。再び北極寒気団が極東と北米を覆い、今シーズン最強クラスの寒気が南下して昨夜から震え上がっている。明日の早朝は−6度の予報が出ている。

そんな立春寒波の頃、チャッピーがほぼ回復した。これで全快だと受け止めねばならない。年末までのように幼稚園への見送りは2度と行けなくなってしまったが、少しは歩ける老犬状態にまで回復したということで、それだけでも嬉しい。

これからは弱っていく一方であり、いつまた急変するかもしれないこともよくわかったので、私もまた1ヶ月前までとは違ってチャッピーとの残された日々を意識しながら過ごしている。

一時は「安楽死も視野に入れて」と友に言われ、その時の箱まで用意しかけていただけに、ここまで回復できたことは奇跡であり家族みんなの気持ちが明るくなった。


快方に向かってきたのは1月の最終週頃からだ。
一時は何をやっても食べなくなりチャッピーの好きそうなものをあげた。ホットケーキやマーガリンとオリゴ糖つきのトーストを食べさせたこともあった。

ところが噛む力もなく食パンの耳さえ固くて落とす始末で、柔らかいところだけ食べさせるのがやっとの時もあった。
半額だったということもあってチャッピーのためにデニッシュパンを買ってやったが、すぐに飽きて食べなくなり、犬用の高級メーカーの缶詰食でもダメで、「すっかりグルメ犬(けん)になってしまった」と思ったものだが、今から思うとまだまだ具合いが悪かったのだ。

少し元気になってくると悪いものを食べさせていてはいけないからと、犬の餌に替えたが食べなくてご飯と魚ばかりあげていた。
スーパーで当日中が賞味期限の半額になっている魚を買ったこともあった。足りない時は私たちのをあげたり、とにかく食べるようになったので本当に嬉しかった。

ユキが根気よく手で食べさせてくれていた姿も忘れられない。
少し食べるようになってくると器を一段高い所に置いてやった。前足が痛くて首を下げられなかったからだ。

そして、今週になってから食欲が今までのように戻ってきて、昨日から「犬食い」ができるようになった! 犬が犬食いするのも当たり前のことではなく、どんなに喜ばしいことか!

そして、昨日からチャッピーらしく餌をガツガツと食べ始めた!
これは今朝の様子だ。
立春寒波の朝A.jpg

立春寒波の朝@.jpg
痩せて毛皮がだぶついているけれど、チャッピーの顔が戻った。
10日間ほど死んだように眠り続けていたチャッピーが
この頃はよく起きている。🎵

それでも今朝も立ち上がれずに顔の全面を地面に打ちつけ、鼻(口?)を支えにして立ち上がる姿はかわいそうで哀れだ。

小心者の私は数分の散歩でも連れて行くのが心配で、裏へ行かせるのも怖い。段差のところは抱えて降ろしてやる私に、「そんなことをしていたら歩けなくなってしまう」と夫が言う。しかし、段差は注意してやらねばだめだ。

散歩は知子が毎晩10分ほど連れ出してくれている。
チャッピーは散歩に行きたがってシッポを振り、歩いている時は柴犬らしくシッポがクルッと上がっているという。とはいえたった200〜300メートルがやっとで、帰りは速度が落ちるそうだ。

今夜から寝床もいつものサイズに整えた。上手に着地したよ!
4〜5日前から吸水シートに濡らすこともなくなったが念の為に敷いている。
今夜から今までの寝床サイズに.jpg
「まちたちがちゃっくんが大好きなことがちゃっくんに伝わるといいな」。
ワシントンのマチ・クマもチャッピーの回復を祈ってくれていた。こんなに祈られている犬はいないだろう。チャッピーは讃美犬だものね。

1月9日に手術し18日目に職場に復帰した真智が、1週間の勤務を終えて2月2日朝に安堵するメールを送ってくれた。

「毎日元気になっていくプロセスが続いているよ。
 最近は、もうくしゃみしてもそんなに痛くないよ。
 歩くのもどんどん普通のスピードになってるよ。
 感謝です」。


夫婦共著の研究も自分たちらしい良きものになっていっていると、やりがいを感じて頑張っていると書いてあった。

私も過去に目をやらないで未来の明るい光を見つめ、マチとチャッピーに負けないように頑張っている。先月下旬からユキを見送ったあとチャッピーの様子を見てから独りで歩きに出る。
チャッピーと一緒に何度も歩いた道を独りで歩いている。



posted by 優子 at 23:30| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2014年02月03日

声優が残した磯野波平像

日本を代表する国民的漫画・『サザエさん』の磯野波平の声をつとめていた永井一郎さんが、先月末に82歳で亡くなられた。娘たちが小さい頃からずっと見ていたが、20年以上のブランクを経て先月からユキと一緒に見始めたところだった。

サザエさん役の加藤みどりさんは45年もの間、毎週木曜日に会っていたというから、家族のような大切な存在を失われて大きな喪失感に耐えておられることであろう。

私は『サザエさん』を見ながらよくこんなことを言って笑っていたものだ。
宿題もなかった時から見ていた娘たちはすっかり大きくなったのに、かつおは未だに夏休みの宿題で困っていると。その一方で漫画の主人公は年を取らなくていいなあと思うこともあった。

今や娘たちは社会の中核で活躍する年代になり孫が見るようになった。時代が大きく変わってしまったが、だからこそ日本の良き時代の家庭の感覚をなじませてやりたいと思う。まるで日本人の刻印を押すかのように。

健全で明るいサザエさん一家は、元気だった頃の両親や家庭を思い出させる存在でもある。
永井さんは82歳、父が健在ならば昨日89歳になったばかりだから父と同世代であり、私の中でもう一度父の死が重ねられたような痛みを感じる。


1999年3月、初代かつお役の高橋和枝さんの葬儀では永井さんが弔辞を述べた。
「長年親子役を演じていたので、かつおに別れを告げるということのほうが大きかった」と述懐しておられ、弔辞では「かつお、親より先に逝く奴があるか!」と声をかけ、最後は次のように締めくくられた。
「かつお、桜が咲いたよ、散歩に行かんか?」と。

その永井さんも生涯を終えた。
これは声優の死なのか、漫画の登場人物の死なのか錯覚しそうになる。

『サザエさん』の原作者・長谷川町子はクリスチャンだった。亡くなったあとも登場人物や全体像はしっかりと継承されて21世紀の今も健在だ。
しかし、波平の人格に肉付けしたのは間違いなく永井さんであり、波平は健全で良き時代の父親像だった。

不思議なことに私は60歳代になった今も自分をカツオやワカメに重ねて見ているのは、いつまでも親の庇護のもとにいたい願望のあらわれか。私もしばらくは寂しいことであろう。
波平さん.jpgユキが描いた波平さん。
こどもの観察力はすごい!


posted by 優子 at 23:06| 社会的なこと | 更新情報をチェックする