2014年08月30日

晩夏 −2014キュウリの夏―

今週初めから涼しくなり、ここ数日前から朝晩は1ヶ月先の気温になっている。昨夜はタオルケットでは寒くて夫には手近にあった羊毛布団をかけ、私はレッグウォーマーに真冬のソックスをはいて眠った。

今朝のユキの第一声は、「おばあちゃん、外は冷蔵庫の中みたいに寒いから冬の服を出して!」だった。

晩夏と言えども未だ8月で夏休み中なのだ。こんなこと初めてでは?少なくともレッグウォーマーが気持ちよいのは初めてのことだ。幸い、お昼頃にはすっかり暑くなっていたのでホッとしたが。(※この日の最低気温は18.3度で最高気温は29.9度だった。)

長い夏休みもようやく終わりを迎え、わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) と嬉しい顔を貼りたいところだが、私にはそんな資格はない。

夏休みの後半はユキの心をひどく傷つけてしまった。とにかくすぐに外へ遊びに行くので私は注意してばかり。そのうちガミガミ怒り、私は毎日悔い改めては同じことを繰り返していた。

ユキがいると読書や思索など全くできなくて、自分の時間を確保できないストレスが溜まっていた。ブログに向かう ― つまり祖母でも母でも妻でもない自分自身になる ― のも夜になってからで、時制を過去形に書き変えて更新した記事もたびたびだった。

このような状況は子育て中になかったと思うが・・・と思いめぐらすと、ユキに兄弟がいたら一緒に遊ぶのだろうにと一人っ子で育つ環境と影響を今夜初めて実感したのだった。


おばあちゃん 見て!.jpg「おばあちゃん、見て!」
手にアブラゼミがいる。





ベランダで収穫A.jpg

ベランダ収穫A.jpg

キュウリの終章A.jpgゴールデンウィークに植えたキュウリの苗はグングン伸びて、1階下の低さにある庭からベランダまで達してもまだ伸びやまず、まだまだ伸びた。
初収穫した6月14日以来、2ヶ月余り店で買うこともなく、時には義母にまでおすそわけをするほど満たしてくれた。




キュウリの終章@.jpgこの写真はちょうど1週間前の様子だ。下の方はすっかり枯れてしまい、今はベランダの葉も黄色くなってきた。
それでもいくつかキュウリの赤ちゃんがついている。それらはもう大きくはなれないだろうと思うが、もう少しそのままにしておいてやりたい。夏の名残りを味わいながら。
58円で買った1本の苗から8月27日に59本目を収穫し、そのうち11本はベランダで収穫した。
ピーマンの苗は4本もあったので100個以上取れている。もうしばらく収穫できるが、勢いのある時と違って緑色も薄くなり小ぶりで硬くなっている。

昨夏はトマトの成長を追ったが、今年はキュウリの夏だった。しかし、トマトの時のように気持ちはウェットになっていない。それでも引き抜くのは嫌なので、中国から帰ってから夫にしてもらおうと思う。

ユキの始業式の日は、夫が関西北越会(北越紀州製紙)の旅行で中国へ発つので、ようやく今日になって荷造りに着手した。(正確には2日朝、成田空港から早い便で発つので1日夜は成田空港のホテル泊)
私たちが旅の用意をしている間、知子もまた8日からの関西NP会(日本製紙)の台湾旅行があるので準備していた。

掃除ユキC.jpg準備を終えユキが掃除機をかけてくれている。ただし、今回で3回目か?
そのあと昼食を食べに出て、夫の靴とショルダーバッグを買ってきて準備完了。

夏休みも終わりだからザリガニを逃がしてやってほしいとの申し入れをユキが納得してくれ、夕刻ママと一緒に逃がしてやった。このザリガニは、先月フー叔父ちゃんと一緒にとってきたものだ。

ザリガニはかわいい目をしていて、川に放すとスーと見えなくなった。「ユキは淋しいけれど、ザリガニさんは良かったね」と、何度も言ったそうだ。
8月なのに今日はお昼前まで長袖を着ていた。
8月30日に長袖?.jpgでも、昨日の朝はまた、おじいちゃんと小さな小さなカエル2匹とオタマジャクシを取って来た。
オタマジャクシは今日死んでしまったから、カエルも明日逃がしてやるように只今説得中。

自然いっぱいの環境でユキはかけがえのない子ども時代を送っている。虫が大好きでザリガニを逃がしてきた時も、「おばあちゃーん、大きなショウリョウバッタとキリギリス!」と、それぞれの手に虫を持って帰って来た。

私がユキの心につけた深い傷を神さまが消し去ってくださるように。ゆるしてくださいとお祈りすることをゆるしてください。


posted by 優子 at 22:20| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年08月29日

「憎しみとゆるし マニラ市街戦 その後」 −キリノ大統領はゆるすことを選んだ―

知子の帰りを待ちながら21時からのBS放送、『憎しみとゆるし マニラ市街戦 その後』を見て大きな衝撃を受けた。

第二次世界大戦中の日本とアメリカの戦争によってマニラは戦場となり、妻と3人の子どもを日本兵に殺されたエルピディオ・キリノ(1948年から1953年まで、フィリピン大統領)のことを初めて知った。

銃弾に倒れた妻の腕に抱かれて泣き叫んでいた末の娘は、日本兵の銃剣で泣き声が消えるまで刺し続けられて殺されたという。

日本人もまた多くの罪を犯し、被害者たちは戦争が終わったあとも悲しみと憎しみに苦しんだこと。こんな当たり前のことが改めて心に鋭く突き刺さった。

「痛みの記憶に苦しんだのではなく、記憶の痛みに苦しんだ」。

「ゆるしがなければ前へ進めない」。


フィリピンでは70%の人がクリスチャンであるという。この言葉を語った人もクリスチャンであり、自分を苦しめた者をゆるさねばならないことは百も承知の上のことである。
それゆえに、この言葉は非常に重く、苦しみ抜いた者にしか感じえない語れない本物の言葉だ。
calvary.jpg

キリノはその時の様子や苦しみを妹に語っていた。そのことを妹が書き残していたノートが見つかり、キリノの憎しみ、苦悩、葛藤が明らかになった。

その後、キリノは国民の大反対を受けながらも、大統領任期中に死刑囚や終身刑の日本人戦犯たち108名に大統領の権限で特赦を与えて、全員を日本へ帰国させた。

これは蒋介石の行為と重なる。
日本が敗戦した時、中国にいた200万余りもの日本兵や日本の民間人は中国人の報復を恐れていたが、蒋介石は布告を出した。
「日本人に危害を加え、その物資を掠める者は極刑に処す」。

ついでながら敗戦時にソ連が出した、北海道・東北はソ連に、四国・九州は中国に、その他はアメリカとイギリスに領有されるという「日本4分割説」に強く反対したのも蒋介石だった。


キリノが苦しみの果てにたどりついた境地は、
「もしゆるさずにいたら穏やかな人生が訪れることはないんだ。私たちはゆるすことを学ばなければならない」だった。

残虐な戦いは現代も絶えることなくますます激しくなるばかりで、今やメディアで報道される内容は残虐極まりなく恐怖に震える。

各国が力を合わせてやるのがいいことなのかどうか。悪循環の流れを変えるために神の知恵を求めながら神の介入を祈ろう。暴力ではなく暴力を放棄することが真理である。

21時20分、知子が無事帰宅したので擱筆する。


posted by 優子 at 23:22| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年08月28日

人の不幸は蜜の味なのか?!

『企業のすべては人間性にある』という書物があるそうだが、男性によらず勤務する者にとっては仕事を通して人格を高め、社員の1人ひとりが互いに影響を与え合う人材に成長する。それこそが企業の成長であり、知子が経営改革の目的としているものである。

ここに詳細を書くことはできないが、美濃紙業にとっても新たなる始まりになることを祈って書ける範囲で書いておきたい。

「人の不幸は蜜の味」という言葉があるように、人間には悲しい側面がある。しかし、苦難の中にある他者のことを笑いながら語る人を、私はとうてい理解することができない。

笑っている人には苦難がないと言い切れるのだろうか。仮に自分だけはこの世の不幸から完全に除外されていたところで他者の不幸を笑えるのだろうか。だとすれば尚更笑ってはいけないことだ。

長い人生において私たちは幾多の大小の試練を越えて行かねばならない。連日の報道で知るところの災いが、自分の身には絶対に起こらないと誰が言い切れるであろうか。

例えば飛行機が大嫌いで絶対に飛行機に乗らない人は飛行機事故に遭う事はないだろう。しかし、頭上に飛行機が墜落して死んでしまうことだってあるかもしれない。

他社が自己破産したことを、まるで吉本新喜劇を見ているかのように声を立てて笑う人が社内外にいるのは実に悲しいことだ。彼らには想像力があまりにも欠如している。
会社が倒産すれば経営者のように家まで差し押さえられずとも、社員も即刻仕事を失うのである。それを思っただけでも他人事ではあるまいに!

そういう人を見かねて知子が一言注意した。要は、人に対して思いやりの心をもって生きようではないかと言ったまでのことであり、それは取りも直さずその当人の人生を無駄に終えることのないようにとの助言でもある。

願わくば、このたびのことを通して他者の不幸を笑っていた当人たちが悔い改めに導かれ、生きる意味を知ることができますように!
これら一切のことを通して我ら1人ひとりの上に神の導きと祝福が豊かにありますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。


営業マンの上司、取引先の支店長が成熟した人物であったことは大きな救いである。ワシントンの次女夫婦の祈りにも支えられて、神は円満に解決してくださり、私は今「ハレルヤ!」と讃美が溢れている。タイトルをクリックして是非お聞きください。

「救い主イエスと」(聖歌 590番)
 "All the Way My Savior Leads Me" 

救い主イエスと 共に行く身は 乏しきことなく 恐れもあらじ
イエスは安きもて 心足(こころた)らわせ 
物事すべてを 良きになしたもう 
物事すべてを 良きになしたもう

坂道に強き 御手をさしのべ 試みの時は 恵みをたもう
弱きわが魂(たま)の 渇く折りしも
目の前の岩は 裂けて水湧く 
目の前の岩は 裂けて水湧く

いかに満ち満ちてる 恵みなるかや 約束しませる 家に帰らば
我が魂(たま)は歌わん 力の限り
「君に守られて 今日まで来ぬ」と 
「君に守られて 今日まで来ぬ」と

今、試練の中にある方々のために祈ります。
神は最悪を通して最善へと導いてくださいます。最悪の時は神の前で謙虚にされ、神に助けを求める人は必ず助け出されるからです。神の平安を祈ります。

私たちが純粋に真理に立つとき、必ず問題は起きる。真理は反対を招くからである。真理は光であり、この世は闇を好む。だから、何かと問題が出てくるのは当然だと言える。

しかし、相手が私たちに対して怒って、「あなたは正直であなたは正しい。それが許せないのだ」と言っても、気にしなくてもよい。 良い行ないのために憎まれたとしても、気にしなくても良い。それでも個人のことに限っては平和を保つことを求めるのである。

主イエス・キリストに対してそうであったのと同じように、私たちを憎む者たちは、私たちの善の行ないを憎むようになる。その彼らに対して、あくまでも親切に、善をもって報いるなら、彼らはそれを見て自分の良心が痛むようになる。私たちはそのようにして彼らが救いに導かれることを求めるのである。

    ―ラルフ・A・スミス著(福音総合研究所)より抜粋引用―
アーメン!

posted by 優子 at 13:41| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2014年08月25日

村岡花子と社会運動 −ラジオ放送の声と映像―

村岡花子について4回目を重ねる。今回は社会運動にも力を入れていた花子をご紹介したい。
その前に、花子が「ラジオのおばさん」で親しまれていた「子どもの新聞」の動画をどうぞ! その1分19秒あたりから「全国のお小さい方々、ごきげんよう。これから皆様方の新聞です」と話している。

さて、禁酒運動、公娼制度の廃止運動(廃娼運動)、婦人参政権獲得運動で有名な日本キリスト教婦人矯風会は花子と関わりが深く、その様子が「矯風会の『婦人新報』が伝える村岡花子さんの世界」で紹介されている。

矯風会の文書部で働いていた時の『婦人新報』第416号には、
「『文學を愛する若き人々へ』と題する文章で、青年部長を務めていた花子さんが、『日本の廢娼運動のために、禁酒運動のために、明日の新日本建設のために、新しき意味に於ける基督ヘ文學者の出現を必要とします』と述べた上で、それが『我等の年部より出でよと叫んで、皆樣の雄飛をうながします』と結んでいる。」とある。

この志から「日本クリスチャン・ペンクラブ」の前身「基督教文筆家協会」の初代会長を引き受けたのだろう。このあたりを時系列に細かく辿るのも興味深い。

また、432号(20ページ)には「 座談會 基督者婦人と社會運動、社會事業及び社會運動に對し基督者婦人はいかに考へるか。何がヘ會婦人と社會運動團體との協力を困難ならしめるか。どうすれば今後ヘ會婦人と社會運動團體が圓滑に提携協力できるか。」は非常に興味深く、現代においても同じ状況であり、教会内のことだけではなく社会に対して働きかけて行く人材が求められよう。

これらのことからも、花子は部屋にこもってただひたすら原稿用紙に向かっていた作家ではなかったようだ。『我が魂と、我が心』も読んでみたい作品だ。
どの時代にもいた命を燃やして生きた人々の存在を思う時、私もまた時間を浪費することなく励みたいと強く思う。

日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックでは11月に『証し集』を発刊する予定である。2000字にそろえることになったが、それまでの1200字作品を入れても7つしか書いてこなかったので大変だ。原稿閉め切りが今月末に迫っているので何とか時間をとって集中したい。

posted by 優子 at 21:52| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2014年08月24日

教会のサマースクール

夏休みも終盤を迎えた今日、日曜日に全校登校日があり保護者たちは1時間半に及ぶ運動場の草引きだった。
教室には殆どの子どもたちが集まったそうだが、草引きの参加者はごくわずかで役員や委員(この学校ではPTAの委員すべてを役員や理事と呼ぶようだ)が殆どだったそうだ。

教会のサマースクールで作った工作.jpg子どもたちは既に完了している夏休みの宿題を持参することになっており、ユキは残っていた絵と工作も提出して完了。
これがユキの工作だ。→
昨日(6時間)と今日(1時間)の2日間にわたって開催された教会のサマースクールで、クラフト・「さかなのモビールづくり」で作ったものだ。
今日は残念ながら登校日で教会へ行けなかったが、作品の一番上に先週教えていただいた折り紙のトビウオもぶら下げた。題して「ぼくのすいぞくかん」!

   リタニー(連祷)
司会者 新しいものを見た時
みんな 知ろうとする心を大切にできますように。
司会者 新しいものにふれた時
みんな 学ぼうとする心を、大切にできますように。
司会者 新しい友だちと出会った時
みんな 心からの、出会いとなりますように。
司会者 知ることでわたしの世界は広がり、
     学ぶことで新しい思いは与えられます。
みんな 出会うと言うことは、わたしが変わることなのです。
司会者 神さま、勇気と力をください。
一緒に こわがらないで、わたしの世界を
     広げていくことができますように。

今年のサマースクールは「ヨナ書2章3節」より「神さまに愛されたヨナ」のテーマで、子どもたちに御言葉の種を蒔いてくださった。感謝!

子どもの讃美歌114番:
1、優しい目が、清らかな目が、今日もわたしを見ていてくださる。
 「まっすぐに歩きなさい」と、見ていてくださる。

2、大きな手が、暖かい手が、今日もわたしを支えてくださる。
 「離れずに 歩きなさい」と、ささえてくださる。

3、限りない広い心が、今日もわたしを 守ってくださる。
 「安らかに 歩きなさい」と、守ってくださる。

最近のユキは約束を守れなくて困っている。成長のプロセスであろうが、ユキは私たちの心をノックしているのだ。
怒るのではなく自ら静まって、ユキとの信頼関係を結び直したい。私もまた新たな気持ちで幸悠と関わりたい。

附記:昨日、ユキが教会に行っている間、私たちは会社経営の理念と生き方を確かめ合い、今後のことを話し合い有意義な時とした。

9月1日〜5日は北越製紙の工場見学を兼ねて夫は中国へ。私はユキの世話があるので今回は欠席。
続いて8〜10日には日本製紙の旅行があるが、これ以上会社を空けておられない父の名代で知子が台湾へ行くことになった。そんなわけでますます多忙を極めている。
共に事故なく無事帰還できますように。


posted by 優子 at 15:32| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年08月22日

聖書を土台とした経営

美濃紙業の隣の会社が自己破産したとの連絡が盆休み中に入った。休みが明けた18日はシャッターが閉められて貼り紙がしてあった。帝国データバンクによれば、負債は2014年4月期末時点で約21億8,000万円。

私も社長をよく存じ上げており、ある製紙メーカーとその代理店主催の旅行でも親しく声をかけていただいていた。紳士で好感を持っていた方ゆえに尚更に心が痛む。経営者、従業員の方々のことを祈っている。

知子はこの朝一番の会議にも出て、社員に当社の経営状況を伝えた。紙業界は印刷業界共に苦しい状況にあるゆえに、主な数字を挙げて安堵してもらい、だからこそ今日から新たに頑張るように奨励し、最後に一部不心得な社員のために苦言を呈した。

「『隣が大変や、ほんまに知らんかったわ〜 ♪わっはっは』というような発言を自分から発信することの決してないように、それは社員として、人間として宜しくお願いします」 とのコメントで締めくくって終わったという。

会議前の出勤直後のこと、「いやー私のことやないからええんやけど」と大笑いしていた社員を目の当たりにしたからでもあった。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とまでは求めないが、テレビニュースで見る全く知らない人の悲しみにさえ心痛むのに、年齢を重ねた者が隣社の苦難を思いやれないのはあまりにも哀れだ。その人間の本質はこういう時に曝露される。

有限な人間の為すこと、誠実にやっていても判断ミスもあり、隣社のことは他人事ではない。
私はストレスフルな中で健闘している知子を励ましたく、聖書を土台として経営改革している知子に、同じ理念に立つ人材教育コンサルティング・青木仁志(さとし)氏の言葉(「愛をベースに繁栄する経営へ」)を引用したい。まさにこれらは常々知子の日常である。

経営者に求められる第1の能力は「判断力」であり、「何が正しいのか、一番大切なものは何かを判断する力だ」。

青木氏自身の会社経営について「本当の経営者は天にあり。もし僕がイエス様から離れて自己中心的になったら自分の会社の繁栄はなくなると思っています。『自分にしてほしいということを他の人にも同じようにしてあげなさい(マタイ7・12)』」。

「経営者が背中で語らないような会社の明日はない」。

原理原則をしっかり実践する経営者が必要です。原理原則に素直になるということは、ただ従順なことではなく、何事にもとらわれず、何が正しいかを見極めて、これに従う心の姿勢です。

素直を深く極めるならば、人間は強く正しく聡明になり、限りなく成長することができます。
どうしたら社員をもっと幸せにできるのか、もっと客に貢献できるのか、社会に貢献できるのかという心をもって経営をすることが大切です」。

「人が育って会社が大きくなることが祝福であり、社員を幸せにする経営を実行していくことが繁栄の基になります。

企業の土台となる理念とビジョンを定め、それに共感する社員と企業文化を養い、社員の欲求を満たす企業をつくっていくべきです。何のため、誰のために、なぜ経営をしているのか、『心』の時代が今訪れています」。

今も知子が奮闘する美濃紙業は「出エジプト」(exodus、エジプト脱出)の途上にあり。
これからも神と共に進め!
これら一切のことを通して関係者1人ひとりの上に神の導きがあるように。そして、人生を深めていくことができますように。
隣社社長・Sさんの健康と心を神さまが支え守ってくださるように切に祈ります。


posted by 優子 at 23:55| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2014年08月21日

祝福された妹との時

毎日の小さな用事で外出もままならない日々にあって、年一回の浄化槽の一斉清掃(汲み取り)が終わったので急きょ20日朝からユキと妹宅を訪ねることにした。
天王寺から紀州路快速(前4両は関空行き/後ろ4両は和歌山行き。日根野で分離)に乗るのも初めて。自宅から妹宅まで2時間半だった。

和歌の浦海岸.jpg
さすが名勝・和歌の浦、片男波(かたおなみ)海岸の美しいこと!
この日の和歌山の最高気温は33.9度だった。

国指定の名勝地・和歌の浦を「若の浦」と記されていた万葉時代、山部赤人が、「若の浦に 潮満ち来れば 潟(かた)をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」(『万葉集』6巻919番)と詠んだ「片男波(かたおなみ)海岸」だ。

土・日はもっと混雑するというが、この海岸の美しさに知子は息をのんだ。厳しい仕事の現実とのあまりの乖離感に「別世界みたい!」の一言が口を衝いて出た。

楽しそうね.jpg

溺れているのではない。潜って石を拾っているところだ。潜ってる@.jpg

片男波海岸A.jpg
今日も海へ行くと言って聞かなかったユキ。「動物園か植物園かに行って、そのあと和歌山城の天守閣に登ろうか?」と、いろいろと提案してくれているのに泣いてぐずった幸悠。

では町営のプールへ行こうということになった。
と、その時、帽子とゴーグルがないことに気がついた。
昨日、水道場で妹がユキの世話をしてくれた時に忘れてきたようだ。幸い管理室で預かってくださっていたので、次回妹が泳ぎに行った時にもらってきて新学期までに送ってくれるとのこと。妹は私とは正反対の行動派、海水浴にもよく行くそうだ。

19日にも(もう何十回も行っている所なのに)下見もかねて泳いできたというが、自宅から自動車で片道1時間ほどかかった。その間、運転しながら車窓の景色を指してガイドしてくれるので全く退屈することなく、片男波海岸についても知らない私は感激の連続だった。

紀三井寺.jpg
紀州の三井寺・紀三井寺

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アーチ状の「不老橋」

和歌山城.jpg
和歌山城

紀ノ川.jpg
紀の川

大事にするね.jpg和歌山の家を訪ねたのは23〜24年ぶりだと思う。今日はどこへも行かず、妹と横になりながらいろんなことを話していた。
スリムになった妹には大きいからと譲ってくれた白いズボンに大喜び!

妹夫婦の海外滞在中(1989年から2年間)は両親も一緒に何回か庭の草引きに来ていた家。その時すでに、母は難病の告知を受けており足元がぐらついていた。毎年ゴールデンウィークと、秋は岸和田のだんじり祭りの日だった。

1988.6.19妹宅にて.jpgこの写真は1988年6月だから私は36才で、ちょうど受洗1年後だ。
私の髪の色は真っ黒ではなく栗色ぎみなのに染めたように真っ黒。若い頃からやや太り気味。わーい(嬉しい顔)
(2016年5月8日写真掲載)

「見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう」。
(詩篇 133篇1節)

8月22日追記:翌日の今日、妹は早速海岸の管理室を訪ね、今日の便で忘れ物を郵送してくれたとのこと。感謝!

posted by 優子 at 23:00| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2014年08月19日

ヒトラーチルドレン −ナチスの罪を背負って―

人間の悪、罪の歴史を考えている時、ユウチューブで「ドキュメンタリー・ヒトラーチルドレン 〜ナチスの罪を背負って〜」が目にとまった。50分間の内容を5回に分けて挙がっている。

ヒトラー側近たちの子孫のことは今まで考えたこともなかっただけに、彼らの人生もまたどんなに苦悩なものであるかを思い知らされた。
その中から一部ご紹介したい。枠で囲んだ文章はそれぞれが語った言葉である。

ベッティーナ・ゲーリング(ゲーリングは父の兄)
私はゲーリングの顔にそっくり。ゲーリングの娘よりも似ている。母方に似ればよかった。
アメリカに移住して結婚して姓が変わった時は、新しいスタートのような気持ちだった。離婚後も相手の姓を名乗っているのはゲーリングよりマシだから。
ゲーリングの子孫を増やしてはいけないと考え、兄と不妊手術を受けた。

カトリン・ヒムラー(ヒムラーは祖父の兄)
この名前のせいで神経が擦り減る思いだった。外国に旅行するととても不安だ。オランダ人やスウェーデン人に間違えられると嬉しかった。ドイツなまりがわからないようになるために外国語を熱心に学んだ。

自分は何かを受け継いでいるかも知れないと恐れたことは一度もない。そんなことを言えば、全て血筋で決まるというナチスのばかげたイデオロギーを肯定することになる。そんなこと考えたこともない。

自分の心に従った結果、親の犯した罪を知ってしまった時、どのように親と接すればよいのか。どこで親子の一線を引けばよいのでしょうか。
ヒムラーと同じぐらい罪を犯してしまった人たち、それよりも軽い罪を犯した人、もっと重い罪を犯した人、どの程度の罪ならばそうした親を愛することができるのか。限界はどこなのか。戦争犯罪人の子どもたちは誰もがバランスを取るのに苦しんでいると思う。

殆どの人は自分の人生を生きられるように親子の絶縁を選んでいる。一方で親に忠実に無条件に愛情を捧げると決意した人たちもいる。否定的な事実は一切受け入れないと決めて。

ライネル・ヘス(ヘスは祖父)
母方の姓を名乗ってもヘスの家系だとすぐにわかった。父方の顔を受け継ぎヘスそっくりだから。

子孫にとって、ここ(アウシュビッツ収容所)は地獄なんだ。
ガス室のすぐ近くに(家族が)住んでいた。焼却炉も2つのガス室も囚人も見えない。父は臭いや煙と一緒に育った。正気じゃない。

アウシュビッツの生存者が目の前に立って、「君たちはそこにいなかった。君たちがやったわけではない。君たちは罪悪感を持たなくても良いのだ」と言われて、胸が詰まった。堪え切れなくなってしまった。

あれほど恐ろしい体験をして生き残った人に「君ではない」と言われて、頭が真っ白になって何が何だかわからなくなった。そして、恐れや恥ずかしさとは違う感情が湧きあがってきて、幸福と心からの喜びを感じた。

収容所所長の子
常に心の奥底には、「父母を敬いなさい」という(聖書の)戒めにどうしても従えない自分がいることを知っている。

ほかの子どもと同じように、私も両親の愛情を強く望んでいた。だからこれまでの30年のように、これからも新しい事実を捜し続けます。

そうせずにいられないのは、父について何か一つでも肯定的な事実を期待しているからだ。誰かユダヤ人かポーランド人を1人でも命を救ったとか・・・しかし、まだ何も見つかりません。

収容所所長の子の言葉は、ホロコースト生き残りの子孫たちの前で語ったものである。

ライネルもまた別のところでホロコースト生き残りの子孫たちの前で語った時、彼の話を聞いたホロコーストの子孫の1人が、「子ども時代の出来事がこんなにもあなたを傷つけてしまった」と言った。この言葉も私の心に強く響いた。

ジャーナリストでホロコースト生存者の孫、ヘルダド・ベックは語った。
「ホロコーストの子孫たちもわだかまっていたものが少しだけ解決したことだろう。しかし、これは数少ない例だ。ホロコーストは想像を絶するほど恐ろしく、今日も我々一人ひとりを脅かしている。ホロコーストに終わりはない」。

最後に『ホロコースト生存者の証言』(ユウチューブ)から刻んでおきたい。
▼「50年生きてきました。あのあと50年です。あの恐ろしい記憶と共に50年生きつづけてきました。想像できますか? ・・・絶句・・・」

▼「罪悪感があるうちに・・・(声を詰まらせ)・・・私は、私は生きていたくありませんでした。私だけが生き残ったのです。なぜ弟たちは一人も助からなかったのか・・」

▼「600万人の人々が平穏を見出すのは、ホロコーストの生存者の最後の1人が亡くなった時でしょう。生存者がメッセージを送り届け、死んでいくのを知った時なのです」。

▼「誰も憎んではいけません。私はどんな親切も大切にします。物や金ではなく、親切な言葉がありがたいのです。人との関わりが大切です。

『こんな人関係ない』と考えてはいけません。関わらなければなりません。でないと同じ事が再び起こります。どんな素晴らしい国でも、ほんの一握りの人間が噂を広めるだけで全てが崩壊してしまうのです。

憎悪から何が生まれたか見ればわかるでしょう。宗教が違うとか、人種が違うからとかで人を判断してはいけません。その人の人間の中味を見るのです」。

今年は第一次世界大戦の開戦から100年になる。
人間よ、もういいかげんに賢くなろうではないか!

ユウチューブには蛮行のドキュメンタリーで溢れている。どれもこれも、人間が人間によくこんなことができるものだと信じられない地獄ばかりで、殆どが直視できなくて題名を見ただけで開くこともできない。

ヒトラーチルドレンの苦悩は犯罪者を出した家族の苦悩でもあろう。その方たちのことも憶えて祈らねばならない。
誰も例外ではない人間の実相を直視してこそ聖書のありがたみがわかる。苦しむ人々に主の平安と癒しがありますように!

空色と白い雲.jpg
空の青さと白い雲とのコントラストが美しい。
世界の平和を祈ろう。


posted by 優子 at 11:00| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

チャッピー、今年2度目の夏の衣替え

チャッピーは真夏になってから冬毛がボロボロ抜け始め、今年2度目の冬毛を脱いでいる。こんなことは15年来初めてのことだ。

ただ今衣替え進行中.jpg←これは4月22日で、3月下旬から冬毛が抜け始めてまもなく夏毛になるところ。
そういえば、このあとしばらくしてコロコロしてると思っていたのだが、夏毛になってすぐにまた冬毛が生えてきたわけだ。

これは8月16日のチャッピー。
2度目の夏毛にB.jpg

2度目の夏毛にC.jpg75%腎不全ゆえに、水をこのボールに1杯半は飲む。犬には飲み過ぎだ。
毛の生え変わりは生命力旺盛ゆえのことだと思うが、秋になって冬毛が生えてこないということはないのだろうか。少々心配でもある。

元気ではあるが、「今日はしんどそうやね。夏を越せても冬もまた心配だし、来年の夏は居ないかもしれないから大事にしてあげないとね」と、お盆の法要で集まった15日も柴犬好きの義妹が話していた。

短い散歩の後は必ずしばらくの間、「クンクン」鼻を鳴らしたり遠吠えをして「ワオー」と変な声を出すのは、淋しくて相手になってほしい時らしい。
再び夏毛になって.jpg
今日の午後2時過ぎ。
夏毛を取るのが趣味の夫の手によりスッキリしたチャッピー。
この冬に重篤になってから殆ど庭に放しているので、涼しいところを求めて暑さを凌いでいる。3〜4年前から「ひとり生え」のユリがあちこちに咲き美しい。

今日の奈良は35度近くになったが、風があったので私たちもクーラーなしで過ごした。ユキは朝の涼しい時から「クーラーつけて!」と言うのがお決まりのセリフになっている。

再び夏毛になって@.jpg
今日の夕方6時過ぎ。
エネファームを設置してから小屋に入らなくて困っている。こんなところに小屋を置いたので何度もキョロキョロ見ていた。
「雨の時ぐらいは入ってね」。

posted by 優子 at 21:15| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2014年08月16日

サッカー少年みたいね

先週は台風接近で中止になった待ちに待ったサッカー教室、ユキにとっては約4週間ぶりで2回目の参加だった。

準備体操@.jpg
 

初参加後、早速知子はネットでサッカーボールにレガース、服にスパイクと夜遅くまで検索して買いそろえていた。大きめのサイズを買うにしても「140」はちょっと大きすぎるね。

ボールを蹴る時は、両足をそろえて指先を時計の「2時」の形に開く。そして、左足を1歩前に踏み出して右足の内側で蹴る。あるいは、右足の甲で蹴るのだと、何度も誇らしげに教えてくれた。しっかり説明を聞いているようで、フレッシュマンの爽やかさが伝わってきた。
サイズ140は大きいよね.jpg
参加者は24名中11名、休暇中で少なめだった。

サッカーAの2.jpg

夕食の食前の祈りでは、サッカーのことを細かく縷々話し、「前よりいっぱいサッカーをしました。もっとやりたかったです。またやりたいです。」と祈っていた。

初回の帰り道では根を上げそうになっていたのに、すでに体力がついてきたのだろうか。サッカー少年になっていくのが楽しみだ。

附記:
ユキの名言:
「ところで会社(美濃紙業)って何するところ? 探検したんやけれどわからなかった」。

posted by 優子 at 22:06| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年08月14日

エボラ感染の米医師、隔離病棟から発信

8月13日付け「クリスチャン・トゥデイ」に、強く心揺さぶられる記事が更新された。

米キリスト教団体「サマリタンズ・パース」の宣教師で、2日にリベリアからジョージア州アトランタ市のエモリー大学病院に送られたケント・ブラントリー医師が、隔離室から送った手紙が公開された。

私自身の、また、信仰を同じくする兄弟姉妹への祝福と祈りの要請を願って一部引用編集して掲載させていただいた。

私はエモリー大学病院の隔離室でこの手紙を書いています。ここでは医師と看護師たちが最高のケアを提供してくれています。ナンシー(キリスト教援助団体「サービング・イン・ミッション」宣教師)と私の回復のために祈ってくれた全ての人々に深く心から感謝しています。
image.jpg
ケン・ブラントリー医師(左)と妻のアンバー夫人

私の妻アンバーと私が2人の子どもたちと共にリベリアに渡ったのは、エボラウイルスと戦うためではありませんでした。

私たちがリベリアに行ったのは、ELWA病院で神様に奉仕するようにと、神様が私たちを召命なさったと思ったからです。

神に従うと、しばしば予期せぬ場所に導かれることを学びました。

エボラがリベリアで広がると、病院での私の通常の仕事は、増えていくエボラ患者の治療にますます傾いていきました。この恐ろしい病気のために命を落としていく何人もの人々の手を私は握りました。直接この恐怖を目の当たりにしました。今でも一人ひとりの顔と名前を覚えています。

(ブラントリー医師の具合が悪くなったのは7月下旬で、その3日後、検査の結果自分の診断が確認されると、彼は直ちに自らを隔離した。)

結果が陽性と出たとき、私はあらゆる理解を超える深い心の平安を感じたことを覚えています。神様が私に何年も前にお教えになったことを思い出させて下さいました。

信仰のために必要なものは神が全て与えて下さると。
私の関心は今も同じです――神に従うことです。
 

どうか私たちの回復のため祈ってほしい。
それよりも重要なことだが、このような新しい状況にあっても、私たちが神の呼び掛けに忠実に応えられるよう祈ってほしい。

この記事は「クリスチャン・トゥデイ」"The Christian Post"(クリスチャン・ポスト)掲載記事から引用したものであると記されていた。

posted by 優子 at 07:30| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年08月13日

ユキの会社訪問

「ママはどんなところでお仕事しているの? マチみたいにひとりのお部屋?」「ママの会社は神戸とどっちが遠い?」など、今年に入ってからユキがいろいろ尋ねていた。

知子や真智子も小学校時代に親が働いているところを視察見学したものだが、今日は明日からのお盆休みを前に仕事も暇だろうし正午までということで、ユキはついに祖父の会社に連れて行ってもらうことになった。
会社の倉庫@.jpg






会社の倉庫A.jpg

会社の倉庫B.jpgユキが撮った写真。
断裁機で紙を切るところに驚いて写真を取り損ねたようだ。デスクに向かっているママや祖父の様子も撮っていなくて残念。
ユキの会社訪問.jpg

私はユキと知子のおみやげ話を楽しみにしていたのにガッカリした。仕事中、ユキは今日の学習をする約束だったのに常に注意してばかりだったからだ。
知子は15日締めの給料の計算を今日から始めなくてはならないのに、2分おきぐらいに声をかけられ疲れ切って帰って来た。

知子は「やっぱり思っていた通りユキと一緒だと大変」と、私をユキから半日でも解放してやりたいとの配慮もあって連れて行ったようだ。
おかげで私は静寂を満喫していた。洗濯物を干して『花子とアン』を見た後、涼しくて2時間ほど眠ってしまった。

夏になってからというもの、ユキは一日中蝉が気になって1分たりともジッとしていない。学習するのも注意散漫で、まず学習に入るまでにどれだけ声をかけねばならないことか!私は疲れ果てて落ち着いて何もできない状態だ。
おばあちゃん 見て!.jpg

ユキは本当に蝉が好きなのだ。ユキが帰って来るとすぐにわかる。「ジージー」と蝉の大きな声が聞こえてくるのだ。セミが歩いて来るかのように!そのことはとても微笑ましくて常に感動をもって見ている。

蝉をすぐに逃がしてはやるのだが、最近では網さえ使わないで手でとるほどの達人だ。しかもズボンのポケットにも入れてくるので困る。セミをポケットから取り出す時に足がひっかかるではないか、逃がしてやるのを忘れたまま洗濯してしまったらがく〜(落胆した顔)・・・と想像して鳥肌が立つ。

ユキは祖父から会社の前の街路樹に蝉がいると聞けば祖父に虫かごを渡し、夫(祖父)もまた蝉を取って帰って来たので笑ってしまった。東大阪のクマゼミをこんなところに放して淋しくなかったかな・・・

今日も会社に到着した早々の7時半から蝉とりし、「おじいちゃん、蝉とりに行こう」と誘って、会議前、会議後と、計3回も蝉とりに行ったという。

「ゆきとままのなつやすみにっき」には、フォークリフトで紙を運んでいるところや、紙を断裁している絵も描いていた。ステキ!

 「ままとゆきのなつやすみにっき」.jpg
就寝前のお祈りでは悔い改めていた。
「ユキは、すぐに飽きて疲れて、姿勢とか態度もすごく悪かったです」。


多くの人に助けられ知子の努力が報われて、美濃紙業に神さまの豊かな祝福がありますようにお祈りします。



附記:夫は男兄弟3人で今夜7時前に岐阜へ向かった。明日は従兄弟たちとゴルフだ。

お盆休みの第1日目は早朝に藤本の墓参を済ませて、両親の墓に行くのが義父が亡くなってからの習慣になっている。

特に私にとっては実家の墓参ぼ時が年に1度の兄との再会であり交わりの時なのに、今回も夫は一言の相談もなく出かけて行った。

私はこんな年齢になってまでエネルギーと時間を使って夫婦喧嘩はしないが、母の死が近かった1996年夏も藤本一族で行ったっけ・・・

ここでストップ!
ただ1行だけ附記するつもりだったのに悲しい思いというのは出てくるものだ。敢えて削除せずにおこう。
私は夫の良くないところをあげつらうのが目的ではなく、私も我慢していると言いたいのでもない。私たちの夫婦像を羨ましく見てくださっている方に伝えたいのだ。

これはごく些細な一例にすぎないが、人間である限り相手に対して互いに期待というものがあり、互いに叶えられないものもある。私たち平凡な夫婦にも。

どんなことも物事は一面から見ないで、村岡花子流に言えば「想像の翼を広げて」全体を見る目を持ちたい。そして、お互いに励まし合っていきましょうと伝えたいのだ。


昨年は別の事情があって墓参成らず、今年もまた再会できないので2年間も会えないままだ。兄は年に4回墓参してくれているので9月に会えるようにしたい。


posted by 優子 at 21:32| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年08月10日

ワシントンで日本の夏

猛暑の日本からワシントンへ帰ると気温は肌寒いぐらいで、もはや夏は終わってしまったみたいと寂しがっていたマチ。

みんな口をそろえて「じっとり暑くてきつい」と言っているそうだが、ワシントンの夏を4回経験したマチは「じっとり暑い日々が続く夏は一回も来ない。みんな、日本の夏を知らないから基準が甘いのかも。」と、夏が好きなマチは「蝉なんか全然いないし」とガッカリしていた。

こちらも台風11号の影響で7日夜から肌寒いほど涼しくなっている。ようやく2時間ほど前に台風が通過して再び蝉が鳴き始めた。
マチ・クマがワシントンへ戻って2週間、2人共元気にしているようだ。

ゆかた姿もよく似合うね.jpg「今日(日本時間の9日)はメリーランドの方の教会でヤードセールをするというので、ゆかたを着ていったよ!」と、微笑ましいメールが届いた。この前の帰国で半幅帯を持って帰り上手に着ていた。

和服を着るのもすっかり慣れているマチも、素材の違いで感覚が全然変わって戸惑ったそうだが、「ナイスくまアシストで、ビシッと着れたと思う!」とマチ。

このゆかたは私が嫁入り修行時代の和裁のおけいこで縫ったものだ。38年目にしてようやく日の目を見たとはいえ幸運だった。(笑)
下駄は生協のチラシで購入した「焼き・日田杉の右近下駄(鼻緒の絵柄は金平糖)」だ。

教会に着物の営業経験者がおられて、その方から「文庫」の結び方を教わったそうだ。私は「(総絞りの)ゆかたには川島の帯を」と母が言ってたことしか覚えていなくて、半幅帯も記憶になくて、今回「半幅帯」を持ち帰ったのもその方に教わったからだ。

「早速昨日(8月3日のこと)『文庫』の結び方を教わって、夜に自分でもやってみました。簡単だし、かわいいし、感動!
アレンジが沢山あって形や位置は色々できるみたいです。・・・
有難う。嬉しくて、昨日は寝付きにくかった。

おばあちゃんに直接聞けたら、どれだけ楽しかっただろうな、と思うけど、着物のことが少しずつ分かるたびに、おばあちゃんのことも少しずつ分かるようで、パズルのピースが埋まるようで、嬉しいです」。


真智子の言葉に胸がつまった。
母が真智の喜びを知ったら、どんなに喜んでくれたことであろう。
胸中で喜びと悲しみが交錯するが、母の愛を孫がしっかりと受け取ったのだ。神さまが母の心づくしの品々を無駄にしないで孫に生かしてくださったのだ。感謝!

附記:台風11号接近で大雨となり、8日夕方チャッピーを家に入れた。
台風時のバリケード@.jpg腎不全で多飲多尿なので知子と私は入れるのを拒んでいたが、「チャッピーがかわいそう」とユキの大泣きで心が動いてのことだった。
翌朝、チャッピーの小屋は奥の方まで雨が入っていた。

台風時のバリケードA.jpg夜遅くになってからズボンプレッサーやごみ箱でバリケードを張った。
絶対に家の中に上がらなかったチャッピーだが、今冬に病んでから上がりかける時があり、この時もユキが止めたので2本足ですんだ。老いは哀し。
9日朝、このシートも排尿で濡れており残るはあと1枚。大雨の中、老いた親のためではなく犬のためにシートを買いに出た。

▼ 今日は台風のため教会を休む。教会の方から「無理をしないように」との連絡あり。ちょうど帰る時間帯が台風の通過中だった。
午後2時頃、台風通過後の強い吹き返しも終わり、チャッピーを庭に出す。ユキはおじいさんと蝉取りに出かけた。
▼ 台風の被害が甚大でありませんように。


posted by 優子 at 16:08| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2014年08月09日

ヒロシマとナガサキで思うこと ― 反米感情を抱かない日本人−

長崎原爆の日の今日は強い台風11号接近を懸念したが、雨は上がり例年通り平和祈念像前で挙行された。

私が常々感じていることを書いてみたい。
ナチスのホロコーストと原爆投下は一般の戦争論の範疇には入れられないほど残虐な行為であり、その地獄を舐めた広島と長崎が、また日本国民や政府が反米感情を持っていないことを不思議に思うことがある。


私はその地獄を経験していないので被爆した方々と同列に立って語るのはおこがましいが、私だけではなく―「日本人は」と一般化しても良いと思う― 日本人は反米教育に走らない。特に近年の近隣2国のような感情とは異質のものである。

それには日本国政府や日本人の根底には日本も真珠湾攻撃をしかけ、アジアの近隣諸国に悪いことをしたという認識もあるからだろうが、広島と長崎で地獄を経験したたちは人間を狂気にさせる戦争をこそ憎むべきであり、そのことこそが戦争に翻弄された国民の使命であるという生き方だ。

イスラエルのベン=アミー・シロニー教授(ヘブライ大学名誉教授)の、日本は「限りなく過去を振り返る国ではない」という言葉にうなずく。
少なくとも広島と長崎の人たちはアメリカを憎むのではなく、人間を狂気にする戦争をこそ憎むべきであり、2度と戦争をしてはならない、核兵器を使ってはならないとの崇高な思いが溢れている。

ケネディ大使は「式典に参加できたこと、長崎の人々がより平和な世界を築くために献身していることに感謝している」とのコメントを出した。

このコメントには、原爆を投下したアメリカの大使という自らの立場で精いっぱいの思いを込めたものだと感じたが、どうか私の期待通りであってほしい。

人間関係のトラブルから国家間のトラブルに到るまで、要はいかに物事を客観的に見ることができるか。それが人間の成熟度を示す大きな指針であり、自らも常々心がけていることでもある。


長崎市長の平和宣言:
69年前のこの時刻、この丘から見上げる空は真っ黒な原子雲で覆われていました。米軍機から投下された一発の原子爆弾により、家々は吹き飛び、炎に包まれ、黒焦げの死体が散乱する中を多くの市民が逃げまどいました。

凄まじい熱線と爆風と放射線は、7万4千人もの尊い命を奪い、7万5千人の負傷者を出し、かろうじて生き残った人々の心と体に、69年たった今も癒えることのない深い傷を刻みこみました。

今も世界には1万6千発以上の核弾頭が存在します。核兵器の恐ろしさを身をもって知る被爆者は、核兵器は二度と使われてはならない、と必死で警鐘を鳴らし続けてきました。広島、長崎の原爆以降、戦争で核兵器が使われなかったのは、被爆者の存在とその声があったからです。

もし今、核兵器が戦争で使われたら、世界はどうなるのでしょうか。
今年2月メキシコで開かれた「核兵器の非人道性に関する国際会議」では、146か国の代表が、人体や経済、環境、気候変動など、さまざまな視点から、核兵器がいかに非人道的な兵器であるかを明らかにしました。

その中で、もし核戦争になれば、傷ついた人々を助けることもできず、「核の冬」の到来で食糧がなくなり、世界の20億人以上が飢餓状態に陥るという恐るべき予測が発表されました。

核兵器の恐怖は決して過去の広島、長崎だけのものではありません。まさに世界がかかえる「今と未来の問題」なのです。

こうした核兵器の非人道性に着目する国々の間で、核兵器禁止条約などの検討に向けた動きが始まっています。

しかし一方で、核兵器保有国とその傘の下にいる国々は、核兵器によって国の安全を守ろうとする考えを依然として手放そうとせず、核兵器の禁止を先送りしようとしています。

この対立を越えることができなければ、来年開かれる5年に一度の核不拡散条約(NPT)再検討会議は、なんの前進もないまま終わるかもしれません。

核兵器保有国とその傘の下にいる国々に呼びかけます。
「核兵器のない世界」の実現のために、いつまでに、何をするのかについて、核兵器の法的禁止を求めている国々と協議ができる場をまずつくり、対立を越える第一歩を踏み出してください。日本政府は、核兵器の非人道性を一番理解している国として、その先頭に立ってください。

核戦争から未来を守る地域的な方法として「非核兵器地帯」があります。現在、地球の陸地の半分以上が既に非核兵器地帯に属しています。

日本政府には、韓国、北朝鮮、日本が属する北東アジア地域を核兵器から守る方法の一つとして、非核三原則の法制化とともに、「北東アジア非核兵器地帯構想」の検討を始めるよう提言します。この構想には、わが国の500人以上の自治体の首長が賛同しており、これからも賛同の輪を広げていきます。

いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。

長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。

被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。

長崎では、若い世代が、核兵器について自分たちで考え、議論し、新しい活動を始めています。大学生たちは海外にネットワークを広げ始めました。高校生たちが国連に届けた核兵器廃絶を求める署名の数は、すでに100万人を超えました。

その高校生たちの合言葉「ビリョクだけどムリョクじゃない」は、一人ひとりの人々の集まりである市民社会こそがもっとも大きな力の源泉だ、ということを私たちに思い起こさせてくれます。

長崎はこれからも市民社会の一員として、仲間を増やし、NGOと連携し、目標を同じくする国々や国連と力を合わせて、核兵器のない世界の実現に向けて行動し続けます。世界の皆さん、次の世代に「核兵器のない世界」を引き継ぎましょう。

東京電力福島第一原子力発電所の事故から、3年がたちました。今も多くの方々が不安な暮らしを強いられています。長崎は今後とも福島の一日も早い復興を願い、さまざまな支援を続けていきます。

来年は被爆からちょうど70年になります。
被爆者はますます高齢化しており、原爆症の認定制度の改善など実態に応じた援護の充実を望みます。

被爆70年までの一年が、平和への思いを共有する世界の人たちとともに目指してきた「核兵器のない世界」の実現に向けて大きく前進する一年になることを願い、原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市とともに核兵器廃絶と恒久平和の実現に努力することをここに宣言します。

                     2014年(平成26年)8月9日
                       長崎市長 田上 富久

posted by 優子 at 22:52| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

父を偲び 自らの時に思いを馳せて

1997年8月5日(火):
「いつも同じ夢を見る。空襲で足の周りが燃えている夢や」と言って父は泣いた。
1997年8月7日(木):
この日、知子が(祖父の病床へ)行く。夜が明ける前、大変な雷雨だった。長時間の激しい雷に父のことを想ったが、案の定、父は怯えて泣いていた。空襲と間違えて恐怖におののいていたという。

父は出兵した3日後に浜松で終戦になって帰阪したので戦地での体験はない。そんな父が重度の脳梗塞により認知できなくなった時、戦時中の空襲の記憶が父を苦しめた。戦争とはいかに非人間的なものであるか!

2000年8月8日、父が亡くなって14年になる。
母が亡くなって半年後、父は重い脳梗塞に倒れた。その日の日記を開く。
1997年5月14日(水):
(真智子は高校2年生。知子に続いて真智子の時も学年委員長を務めさせていただいていた)
高津高校の総会でのスピーチにメッセージをこめることができた。
そのあとの連絡協議会の自己紹介では、「ここ2〜3年ぶりに病床の母を想うことなく安らかな気持ちでこの席に座っています」と言った矢先のこと。その夜、父が重度の脳梗塞で病院へ搬送された。

翌15日(木):
命は取りとめたものの父が父でなくなっていた。目の焦点は定まらず意識は朦朧とし、時間の経過ごとに麻痺が広がっている。
脳の腫れが起こり、意識も早朝時より今の方が悪い。ろれつが回らず右目が開けにくく麻痺が進行してきている。高血圧により心臓に負担がかかって肥大、血圧を急に下げるとよくないので150〜160ぐらいにとどめる。

兄に入院案内を届けるために実家へ向かう。

疲れた。怖い。お母さんどうしよう・・・
私以上に父は大変なのだからしっかりしなくては!
私は経験を積むほど弱くなっていく。精神力も動作も何もかも・・

吸引している患者さんを見て涙が流れた。
お母さんの事が昨日のことのように思い出されて泣く。病院で何度も泣いた。
お母さん!お父さんが大変なことになってしまった。お母さん、どうすればいいのかわからない。明日は知子を国立病院へ。どうしたらいいの?しっかりしないと!!!

父との時間を思い出したくてノートを開くと必至の戦いが綴られていた。そして、「母は英雄的犠牲だったように思う。実らなかった期待・・・」と、ポツンと書いている言葉からも当時の心中が窺える。

45歳の私は『ヨブ記』の答えのない脈絡を苦悩し続けていた。しかし、父が亡くなるまでの3年間で人生が深遠なものであることを受け容れる者とされた。

知子は商社に勤務し、真智子は大学2回生になっていた。
その前年4月に自宅を東大阪から夫の両親のもとへ移した。その直後からの親族との出来事は非道なものだった。夫が最も遠い存在に感じた。
しかし、神はこの最悪を通して私を訓練し勝利させてくださった。霊の目覚めを得る。

今振り返れば1年間この家から父の病床に通わねばならなかったことは、最悪な状況下の私の支えにもなっていたように思う。

絶叫しながらも父のために一切を耐えることができた。父にふさわしい娘でありたかった。そのことは取りも直さず、神の御心でもあった。
かろうじて父が私の新居を見届けてくれたというこじつけの思いが私を慰めもした。


あの日も暑い日だった。
いよいよ父の危篤を告げられて、8月8日朝、前夜詰めてくれていた兄と交替し、真智子と病院に詰めていた。そして、私たちの昼食と入れ替わりに兄が昼食に帰宅してまもなくのことだった。

あの夏から14年が過ぎた。
私は父を天に送ってまもなく真の信仰を与えられた。それでも尚、憎しみや悲しみの感情に苦しんだ時期があったのを覚えている。それもまた当然のことであり必然の道だ。

未だ実現されない父母の祈りはこれからも神に委ねつつ務めよう。醜い自我との葛藤に悩むこともしばしばだが、その葛藤は生きている限り解放されることはないだろう。
その葛藤から紡ぎだされる祈りこそが生きていることの充足にほかならないと思う。


「もし神の義が、人間の理解力によって、義として認められ得るような性質のものだとすれば、それは明らかに神的ではなく、かつ人の義と少しも異なるところがなくなるだろう。

ところが神は真実かつ唯一であり、更に全然理解し難く人間の理性を以てしては近づき難いから、その義もまた理解し難いことは自然であり、むしろ必然である」。
       
                 (オットー著・『聖なるもの』より)

お父さん、ひ孫の幸悠ですよ。.jpgユキは今日、父の写真に呼びかけた。
「ひいおじいちゃん、ゆきひさです」。
お父さん、お父さんの曾孫の幸悠ですよ。

posted by 優子 at 17:14| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

ヒロシマ69年目の日本

広島に原爆が投下されて69年目の今日、全国の小・中学校では平和を学ぶ全校登校日だったことであろう。広島は43年ぶりの雨の平和記念式典だった。

ユキ(小1)は2年生と合同で原爆を主題にしたアニメを見たようで、何度も熱心に内容を話してくれていた。
そのアニメを見る前に教室で、「今日は何の日か知っていますか?」と先生が子どもたちに問われた。

たくさんの子どもたちが手を挙げ、指名された子が「全校登校日です」と答えた。ふらふら
「なぜ全校登校日になっているのか知っていますか?」と問われた時、驚くことなかれ、あのユキが1人だけ大きな声で「はい!」と挙手し、「今日は広島に原爆が落ちた日でだからです」と答えたと言うのだ!

3年前に広島へ行ったことや、原爆ドーム、また、戦争について数日前に話していたからであろうが、未だに大きな声で挨拶できなくて口やかましく注意する日々だけに、挙手して大きな声で発言したことに驚いている。

ところで路上インタビューで、かつて日本がアメリカと戦争をしていたことを聞かされた若者が「マジで?!」と答え、あまりのことに唖然としてしまった。
それは論外としても、今や広島と長崎に原爆が投下されたことを知らない若者も多く嘆かわしい時代になっている。

という私もまた、60代の世代が知らぬとはどうなんだろうと問われるような思いである。広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の碑文に刻まれた言葉に関することだ。

「安らかに眠って下さい
 過ちは 
 繰返しませぬから」

この意味は、私たちはもう2度と戦争はしませんから安心して眠って下さいという日本国の戦争放棄の誓いであり、世界人類は2度と原爆は使わない、使わせないことを意味するものであると理解していた。

ところが、パール判事は曖昧な表現に激怒した。
パールとは、かの極東国際軍事裁判(東京裁判)で判事11名のうち唯一の国際法学者であり、ただ1人だけ戦犯たちに無罪を主張したインドのラダ・ビノード・パールだ。

パールが1952年11月に広島を訪問した時のこと、通訳を通して「二度三度と碑文の内容を確かめた後」憤りを込めて次のように言ったという。

これは日本人が日本人に謝っていると判断し、「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と発言したという。

「ここに祭ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落とした者の責任の所在を明かにして、『わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ』というのなら肯ける。

しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。

ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現を用いないのか。

原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない」。

また、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、「米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものである」。


この発言から碑文論争が起こったことを知らなかった。
東京裁判については若い頃に長時間に及ぶドキュメンタリー映像を見たことがあり、そこでパール判事を知った程度だが、少なくとも11名の判事の中で最も正当かつ客観的に見ていた人物だったと今も鮮明に記憶している。

この碑文の意味するところは、「過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓い」に相違ない。しかし今日の日本は戦争への導火線に火がついたような危うい状況になっている。もはや「平和ボケ」などしておられない。

「戦争になったらユキも戦争に行くの?行かなかったらどうなるの?」
7歳になったばかりの孫から鋭い質問が投げかけられた。

「この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない。」との、パールの言葉が現実にならないように祈るばかりである。


posted by 優子 at 23:35| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年08月04日

第1面に再度取り上げられた紙流通への提言

過去ログ・7月15日に取り上げた7月9日発行の『日刊紙業通信』に掲載された夫の発言が反響を呼んでいるようで、再度7月23日発行の第1面に「紙流通は卸の本分に立ち返れ〜藤本大洋同理事長」の見出しで「時の問題」として取り上げられていた。

大阪洋紙同業会の藤本良輔理事長(美濃紙業《株》社長)は、関西地区流通の昨年からの状況や現在持ち上がっている問題など取り上げ、「今こそ紙流通は、卸の本分に立ち返るべき」と述べた。
                     (略)

ユーザーに紙の特性や良さを繰り返し伝え、企画や商品開発に積極的にコミットメントする。卸商としても役割を果たし、かつ安値にストップを掛ける。藤本氏はそこから次の取り組みが生まれることを期待している。

「『0から1』への距離は『1から1000』への距離より大きい」。              
                        (マーヴィン・トケイヤー)
posted by 優子 at 22:00| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

平和聖日礼拝

「彼(神)はもろもろの国のあいだに裁きを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、鋤(すき)とし、
その槍(やり)を打ちかえて、鎌とし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない」。
                         (イザヤ書2章4節)

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。

1941(昭和16)年12月8日朝7時、突然臨時ニュースが流れた。私はドキュメンタリー映像やドラマで聞き知っているが、この時8歳だった高見敏雄牧師は、このアナウンスの記憶がかすかにあると言われた。

その後、大阪から舞鶴に学童疎開されたが、舞鶴と言えば海軍の本拠地のあった所で狙われる危険がいっぱいだ。軍隊の下請けのような学校にはいじめがいっぱいあり、教師も疎開児童をいじめた。当時の様子を聞いて私は人間の実相を見る思いだった。

今朝の説教の中で語られた木村利人さんの『子どもの時、戦争があった』の書名と重なるタイトルで、高見牧師は平和礼拝のメッセージを力強く語られた。その要旨をお分ちしたい。文責は聞き書きしたブログ著者にある。

日本キリスト教団は8月の第1聖日を平和の日と定め平和の祈りを捧げている。
これは8月6日に広島、9日に長崎に落とされた原爆を忘れることのないように定めたものであり、日本キリスト教団がかつての戦争に協力した大きな反省に立って平和こそ一番であると定めている。

日本キリスト教団は政府(軍部)の命令によって形成された教団であり、平和のために祈ることを忘れた教団であると言える。
当時、礼拝の前に宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をし、毎月8のつく日は神社参拝するように教会に要請した。それは日本においてのみではなく、日本が占領していたアジアの各地の教会においても要求した。

教会を守るために仕方がなかったと言うが、大きな罪を犯した。
1967年3月、日本基督教団総会議長・鈴木正久牧師が日本キリスト教団の戦争責任告白(文末に掲載)をしたが、今も「あれは鈴木牧師が個人でしたんだ」と言う人がいる。

恵泉女子学園学長の木村利人(りひと)さんは『幸せなら手をたたこう』の作者である。
メロディはフィリピンに伝わっていたスペインの民謡を用いてフィリピンの人々に日本の犯した罪を謝罪し、歌を作って交わった記録、『幸せなら「平和」を態度に示そう』が『子どものとき、戦争があった』(いのちのことば社)に掲載されている。

今もパレスチナとイスラエル、ウクライナの紛争が治まらない。
祈り続ける者は何らかの行動に立ちあがることができると思う。私たちの呟(つぶや)きではなく、神に祈りを捧げることが大切である。

憲法は国の交戦権は認めないと言っている。集団的自衛権が容認されたが、本当に行わないように祈らずにはいられない。自分の身に起こったならばと思い、人の悲しみを想像できる生き方をしたい。

附記:【第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白】
 
わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。

まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。

わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。

明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。

わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。

「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。

まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。

終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。

この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

                1967年3月26日 復活主日
                日本基督教団総会議長  鈴木正久

昨日の記事の最後にぼんやりとした促しを感じていたが、神は今朝の礼拝で高見牧師の唇を通して、直接、且つ、具体的に語ってくださり励ましを得た。
「祈り続ける者は何らかの行動に立ちあがることができると思う。私たちの呟(つぶや)きではなく、神に祈りを捧げることが大切である」と。

教団の決意表明以来47年経った今、世界は当時よりもはるかにどうしようもない状態に陥っている。また、まもなく69年目の終戦記念日を迎える日本の現況に憂慮し、切に神の導きと守りを祈る者である。
posted by 優子 at 21:43| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2014年08月02日

エボラ感染と戦う人々

ギニア、リベリア、シエラレオネの3国で、「エボラ出血熱」の世界史上最悪規模の感染拡大が止まらず、今年初めから8月1日現在で1323人に上り729人が死亡した。各国が非常事態宣言を出し国境封鎖の緊急対策がとられている。

リベリアの医務官長であるベルニス・ダーン博士によると、
「このウイルスの発生以来、多くの教会がこの疫病を医学的というよりも、むしろ霊的なものであると見なしてきた。・・・
リベリア人がこの病気の存在を受け入れるのを拒んでいるため、状況は悪化しつつある」
と指摘する。(クリスチャン・トゥディ/8月1日より)
アフリカの教会ではシャーマニズムの土着化もあるのだろうと想像させる。

関連記事によれば、キリスト教系の人道支援団体(サマリタン・パース/サマリア人の財布)と共に、エボラ感染者の治療にあたっていたアメリカ人2名が感染した。

その1人、ケント・ブラントリー医師は、まだ実験段階の治療薬がリベリアに到着したが、1人分しかないためにケントと同僚のもう1人の感染者、宣教師で病院の衛生士として働いていたナンシー・ライトボルさんに譲っという。

ブラントリー氏は、彼の治療で助かった14歳の少年の血液を自分の身体に輸血したが、効果がないと死に至る。エボラ感染者の致死率は90%だ。

「私たちはただ、神様が息子の命を助けてくれると信じている。私たちは祈っており、信仰によって支えられている。」とは、ブラントリー氏の母親が7月28日に電話インタビューで語った言葉だ。

私は今、ペシミスティックになりそうな気分だ。
先日の長崎県佐世保市の高1同級生殺害という猟奇事件は神戸連続児童殺傷事件を想起させるものだった。親御さんはどんなに深い悲しみと憎しみの中で苦しんでおられることであろうか。加害者の親もどうしようもない苦しみだ。

人々の心は深く病み、子どもの心も社会も病み、心ある先導者たちが声を大にしても反映されず、的外れの方向に突き進んでいるように思えてならない。

世界に目を向けても戦いは止まず混沌さは増すばかりで、いっそペシミストや虚無主義者になったほうが生き易いと居直りたい気持ちになる。

それでもブラントリーさんやライトボルさんのように、命のリスクを負ってまで救援の手を差し伸べる人々もいる。その現実の中で私はいかに生きるべきかを問い直さずにはいられない。

私たち人間に巣くう暗闇を直視してこそ神の赦しや慰めがわかり人にも伝えられるのだと思う。今はまだ私は軽々に語る気持ちにはなれない。

この異常な事件を犯してしまった子どもの家庭や学校、私たちの社会環境を真剣に是正していかないと、そのうち猟奇事件にまで「またか」と慣れてしまうだろう。
人間性の喪失。
何十年も前に言い古された言葉がせせら笑うかのように脳裏を過(よ)ぎる。

言葉にならない悲しみと苛立ちが胸を突き上げてきて書かずにはいられなくて書いた。
私たちはこの悲惨な状況に屈してはいけない。心を高く上げ、正義と戦い、愛を実践している人々のために祈ろう。何もできなくても祈ることはできる。そして、何かの気づきが与えられると思う。

8月3日7時50分追記:時事通信 8月3日(日)5時12分配信より。
【ニューヨーク時事】西アフリカのリベリアでエボラ出血熱に感染した米国人男性が2日、チャーター機で帰国し、ジョージア州アトランタ近郊の空軍基地に到着した。CNNなどが伝えた。エボラ感染者の米入国は初めて。

男性はエボラ患者の治療に当たっていたケント・ブラントリー医師(33)。アトランタの大学病院に搬送され、隔離病棟で治療を受ける。同医師とともにエボラ患者の支援をしていた米国人女性も感染しており、数日中に米国に移送される予定。2人とも重い症状だが、容体は安定しているという。 


posted by 優子 at 23:46| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

「忙し過ぎる夏休みが子供の可能性をつぶす」?

早8月を迎え、例年のように今日から10日まで自治会主催で朝のラジオ体操が始まった。かつてはユキのために家族全員で参加したものだが、みんな昨年ぐらいから休みがちになり今朝はユキだけの参加だった。

そして、今年から3日間のサマースクールにもデビューした。
これは地域福祉推進委員会主催で5年前から始まったもので、小学校教師の自治会員の方々が夏休みの宿題の「お助け隊」になって、また教科書の復習プリントを与えて9時から12時まで学習させてくださるのだ。
今日は15名ほどの子どもたちが集っていた。3校時にわけて途中でおやつタイムもある。

このような地域の取り組みは日本のアチコチで見られるのだが、外国の人の目にはどのように映っているのだろうか。昨秋のニューズウィーク(2013年10月7日付け)でスティーブン・ウォルシュ氏のコラムを興味深く読んだので一部ご紹介したい。

まず私が日本の夏休みで驚いたのは宿題の多さ。ほかにもポスター製作や作文コンクールへの応募が奨励され、部活の練習にも駆り出される。さらには林間学校や臨海学校、博物館見学にラジオ体操......。

課題や行事が盛りだくさんのおかげで、子供を楽しませなければいけないという親たちの負担感は減り、子供も長い自由時間を有効に活用できる──。

イングランド北部で育った私の子供時代とは大違いだ。夏休みには宿題はなく、大した予定もなかった。共働き家庭が多かったから大人の目もなかった。

(略)現代人は子供に最高の体験を与えようと必死だが、子供は本当に最高の体験をしているのか。私たちは、多くの活動をさせることが子供のためになると考える。大人が目を光らせることで子供を危険から守れるとも考える。

だが夏休みとは本来、子供の独立心と責任感を育む絶好のチャンスではないだろうか。分刻みのスケジュールを与えるよりも、想像力と創造力を駆使して退屈さを紛らわせる経験を積ませるべきではないか。 

かつて「休暇」とは仕事をせず、自身の内面や神と向き合う「神聖な日」だった。
現代社会では宗教色は薄れたが、日常と違う過ごし方をして経験と理解を広げる大切な時間という考え方は残っている。

つまり普段と同じことをするなら、それは休暇とはいえない。宿題や部活で子供を忙しくさせるのは、彼らが別の何かをする機会を奪っているのと同じだ。

・・・その中身の大半は学期中の試験対策の延長のように思える。・・・休日とは、子供が創造力や独立心、自信といった生きる上で大切なものを学ぶ機会であるべきではないのか。
 

スティーブン・ウォルシュ
1961年、イギリス生まれ。翻訳家。87年初来日。イギリスで大学講師を務めた後、04年に再来日。『恥ずかしい和製英語』(草思社)などの著書がある。4児の父。

確かに日本の子どもは忙しすぎる。幼稚園時代から習い事や塾通いに慣れているので、子供たちはそれが当たり前になっている。友だちも同じ生活パターンなので毎日のように忙しくても反発も感じないのだろう。親の努力もすごいものだ。

私はウォルシュ氏の主張に賛成だ。特に共感するのは休暇の意味と、学習塾一辺倒な風潮に批判的なところだ。学力向上、知識を詰め込むばかりが能ではない。私が考える学力の意味が違うし、その目的も違うのだろう。
つまり、子どもはどんな大人に育ってほしいかという目的と教育観が違うのだ。

しかしながらコラムニストの意見と違って、学校や地域の在り方は日本らしくて良いと思っている。これが日本の文化なのだ。


中・高生は夏休み中も部活で毎日多忙だ。また、ポスター製作や作文コンクールへの挑戦など、夏休みだからこそ取り組めるとも考えられる。要は学校からの強制的なものになっていないか、自発的に考える力を養えるようにプログラムされているのかであり、保護者が適切にサポートしてやらねばならない。

小学校で言えば読書以外の宿題は一部のものを除いて十分に7月中に終える程度だから、自由に遊ぶ時間は確保できているので現状のままでよいと思う。

ただし、読書については冊数のみを問題にしてはいないか提起したい。かつて当市の図書教育研究会主催の研修会の講師として招かれた時も、小学校の先生方を前に申し上げたことがある。

娘たちが小学生の時、夏休みの宿題で「読書10冊」というのがあった。私はこのような無意味なことを掲げることが信じられなかったし、その目的とするところは何かを問いたいと思った。

10冊も読まねばらならないとなれば当然のこととして、子どもたちは字が大きくて絵の多い本を選び、これでは本との出会いを妨げて本嫌いにさせるデメリットのほうがはるかに多い。


私はウォルシュ氏の問題提起を心に留めながら孫の夏休みを観察している。
ユキはすでに夏休みの宿題を終えたが、少々頼りないところを補習してやろうと知子が適切に関わっている。願わくば男の子でもピアノに親しんでほしいと思うが、知子が専業主婦でない限り伝授してやることは難しい。

今は寝ても覚めても蝉のことばかり。
たった今も「子どものアブラゼミと大人のアブラゼミをつかまえた!」と興奮して虫かごを見せに入って来た。私は毎日何度玄関に呼び出されることか!そんなユキに私は感動している。1年生から3年生くらいまでは遊びに夢中になれるようにしてやるべきだ。


ユキはまだまだかわいい年頃なので、今しかできないことを楽しむためにもユキと一緒にラジオ体操に参加しようと思っている。情けないことに今の私にはこんなことすら比叡山の千日回峰行のように感じるのだが。

今日は昨夜の夜更かしで血圧がかなり高くてしんどかったので行けなかったが、骨量も年齢よりも「少なめで要注意」と判定されており、地域のラジオ体操を機に習慣づけようと思っている。
明日から9日間、実践できなかったら情けない。

8月2日追記:今朝は雨でラジオ体操は中止だった。手(パー)


posted by 優子 at 17:51| 教育 | 更新情報をチェックする