2014年10月31日

小学生の実態を知りたくて孫の通う学校長を訪ねる

思いあぐねて今週28日(火)朝、小学校の校長にコンタクトを取り9時過ぎから20分間ほど面談させていただいた。朝の集団登校が全く機能していないだけではなく、高学年の無関心無気力さがずっと気になっていたからだ。

ユキの属するB班はとにかく4月から問題多い集団だ。他の班は並んで決められた時間に通過して行くのだが、B班は集団登校とは名ばかりで出発時刻もまちまちで、班長はもとより高学年の誰かが声を出すでもなく全く機能していない。

これまでに何度か数名の保護者からも担任に連絡し、そのたびに班全員が呼んで指導を入れてくださってはいたが改善されることはなかった。

1学期末の1週間は毎朝教員が集合場所まで来てくださっていた。それでも効果なし。2学期になってからはいよいよひどく、交通安全の視点からも個人登校よりも危険でさえある。

しかし、2学期に入ってまもなく集団登校の集合場所まで行かずに家の前で見送っている。とは言え、今も1年上の保護者が来ておられるが、私はユキの心理を察して手を放した。

人間は過去を美化する傾向があるので割り引いて想いを馳せるのだが、今の子どもたちは娘たちが小学生だった頃の子どもたちと確かに違っている。このことはどの時代にも言われてきたことであろうが、現代に生きる者として考察するのは賢明なことだ。

概して他の班の子どもたちも皆、無関心と無気力の子が大半を占めている。まるで魂を抜かれたような表情で蝋人形が歩いているようだ。
挨拶をする子はほとんどいない。自ら挨拶する子も何人かはいるが1人の男子以外は表情がなく、物体がボソボソと喋っているみたいだ。


この子たちが生まれた時には既にパソコンがあった世代である。あまりにも多くの刺激にさらされすぎたゆえなのか、魂を抜かれたように無表情で歩いている。子どもなのに目が死んでいるのだ。

これは親の在りようも含めて家庭や学校の問題だけではなく、何十年かの時間の経過により変わってきたのだろう。

私は学校での子どもたちの情況を知りたくて学校へ赴いた。校長も現代の子どもたちはガラリと変わったと仰り、私なりに導きだした答えと同じだった。これで今回の目的を果たしたと思えるほど納得することができた。

そして、私なりに考えていることを次のように要望した。
班のメンバーを集めての注意では全く改善されなかったので、5〜6年生に時間をかけて考える機会を持たせてほしい。低学年の幼児性に起因するのではなく高学年の規律のない無関心さに大きな問題を感じている。

6年生をこのまま何の気づきもないままに中学へ送るのではなく、あとに続く下級生たちもまた問題意識を持つことなく悪い気風を継承するだけだ。

私は子どもたちの心を揺さぶる良い例話がないか考えているのだがと言い終わった時、校長も怒るだけではだめだからと共感してくださり高学年と話し合うようにしたいと仰った。


教育は長い時間がかかる。種を蒔いた教師たちはその成長を見ることなく送り出すのである。種が芽を出し実るには長い時間が必要ゆえに、親や教師は寛容に気長に子どもたちを導いて行かねばならないことを改めて思わされた。

毎日の生活が子どもの考え方や性格を作っていくゆえに、日々の小さな働きかけが大切だ。
畢竟、教育とは自分が周囲の人々や社会から必要とされていることを認識できるように導くことであり、それでこそ学習にも意欲的になって知識を獲得していくのだと確信する。
 

「子どもたちよ、皆があなたを必要としていますよ。
 あなたの手を、あなたの目を、その腕を。
 あなたの知識を、創造力を、思いやる心を、愛を、エネルギーを。
 お父さんもお母さんも、先生も社会も、必要としているのですよ」。


愛の教育においても集団登校の事例もまた大いなる教材なのだ。

校長室を訪ねた時、「いつも柴犬を連れて歩いている者です」と申し上げると、「ああー」と思い出してくださった。わーい(嬉しい顔)

校長は毎朝一つの班を率いて来られ、いつもその中の女の子の手をひいて登校する姿を私は広い道路を隔てて何度も目撃している。まるで親子のような光景を微笑ましく眺めながら、その子はうまくけじめをつけていけるのだろうかとの懸念も感じている。

聞くところによれば最も遅い班だそうだ。毎朝校長先生が子どもたちの心に蒔かれている愛の種が、子どもの成長と共に親しさとけじめの分かる子になりますように。

最後に『ふじとニュース』と同年2学期のPTA新聞を自己紹介代わりにお渡しした。23年前の記事とは言え普遍的な内容のものをふんだんに書いているので、きっと共感してくださるだろうと思ってのことである。

この朝、洗濯物を干して学校へ電話すると午前中ならOKとのことで、あわてん坊の私は「すぐに参上します」と言ったものだから、大急ぎで飛び出し、帰宅後10時頃から遅い朝食を摂っていた。


posted by 優子 at 22:21| 教育 | 更新情報をチェックする

2014年10月30日

今年も次女夫婦からバースデーカード届く

この前60歳になったと思ったら早63歳になってしまった。年はみんな平等に取っているのだが、とにかく月日の経つのは何と早いことか。

数日前からピアノの練習を始めたユキは4日目の今日も続いている。練習といっても5〜6分間ほどしかしないのだが、それを聞きながら台所に立っていると、知子と真智子の幼かった頃のことがつい昨日のことのように思い出される。

そこで娘たちの声や演奏を録音したテープを引っ張り出してきた。そこには生後1ヶ月の泣き声から本読みやピアノ演奏など、12歳頃までにのモーメントを記録してあるのだが、子どもたちのピアノの練習曲を聞きながら炊事していた頃が懐かしくてならない。

いつかブログに娘時代が最も懐かしいと書いたことがあるように思うが、娘たちの幼・小時代こそ懐かしく思える。

それは自分自身の魂が開花して、意欲や体力共に充実していたことが多分に関係するだろうし、もう一つは人生苦をまだまだ知らなかったからだと思う。

この感じ方は私には意外だった。
というのは、懐かしく思う時は試練に耐えて果敢に生きていた時だと思っていたからだ。しかし、雲一つない青空のような日々は心の痛みもなく只々懐かしい。そのような時期も人生にはとても大切なのだ


そんなことを想っていた誕生日の今日、今年もマチ・クマからバースデーカードが届いた。

今はクマこと太志君はミッション中で、2人に余計な気遣いをかけたくなかったのに覚えていてくれた。やっぱり嬉しかった。とても嬉しかった。

ママ、お誕生日おめでとう!
ママは、いつも神様の希望を伝えてくれる。ブログから、会話から、生き方から。まちは信仰を強くされているよ。 ・・・ママらしさが一番。ママ、大好きよ。
真智子
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
優子お義母さん
お誕生日おめでとうございます! ・・・
ウガンダからもメメントドミニをお読みしていました。日本の秋が懐かしいです。滞在は今日が最後です。無事を守られて感謝しています。

これからのこともすべて、主に期待して、ゆだねて生きていこうと思います。真智と優子お義母さんに導いていただいた信仰に支えられています。・・・
太志

今エボラ出血熱で大変なことになっているリベリア(英語はライベリア)は、太志君が派遣されていた国の一つで、今春3月の滞在中にエボラ流行のニュースが流れて私は初めて知った。

ウガンダは東アフリカだが、出発前にチームで保健部門のレクチャーを受けて情報を更新したとのこと。「万事、衛生には気をつけて、主に祈りつつ行ってきます。」とのメールを受けていた。
一刻も早くエボラ出血熱の脅威が終結されるように祈り続けよう。

感謝録:祈りの友、千里さんからも愛の贈り物をいただいた。

63歳の誕生日に.jpgユキと知子からも真心の贈り物をいただいた。
ユキはビーズで首飾りを作ってくれた。
教会だけではなく、今度学校へ行く時もつけていくね。ありがとう!

ユキと知子からのプレゼント.jpg

昨日のユキのつぶやき:
「この頃ぜんぜんマチとフーは帰ってこないね」。
3か月前に会っているが2泊だけの短い帰国だったからそのように感じているのだろう。私も会いたい。

今夜6時過ぎに太志君から返信が届いていた。
「今はロンドンのヒースロー空港のラウンジです。DCはまだ早朝なので、真智はきっと眠っていますね」。
無事にワシントンにつきますように祈っています。

posted by 優子 at 23:55| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2014年10月27日

チャッピー15歳半の大逃走!

御年15歳5カ月だから人間で言えば80歳ほどになるチャッピーは、今年初め死ぬかと思うほど危篤状態になったが、すこぶる元気に過ごしている。散歩に行く時は喜んで喜んで飛び跳ねる。
チャッピーは出ない.jpg

あの患い以後は利口になって、ドアが開いていても逃げなくなったのに、1ヶ月ほど前から出てくるようになった。

「チャッピー、おいで、おいで」
今月頃から外へ出てしまう.jpgゴミ収集の朝、私がゴミを出していると同じように出てくるようになり、最近では出てから自由に近くを歩くようになった。
25日(土)のこと、買い物に出ようとしたらチャッピーも出てしまい遠くへ歩いて行くところを、ユキが簡単に捕まえてくれた。

ユキが捕獲!.jpg
今ではチャッピーを最も制御できるのはユキかもしれない。

14日朝、私はうっかり綱を放してしまい、こともあろうにチャッピーが逃走してしまった。彼女は私よりも20歳近くも高齢なのに、それはそれはものすごい体力だった。あの勢いで走って行くと車に轢かれると思って必死で追いかけた。

しかし、私は50〜60メートルも行けば追いかけようにも足が殆ど動かなくなってしまい、心臓も苦しくなって立ち止まってしまった。 チャッピーもさすがに途中から歩きだしたが、道なりの先端の曲がり角まで行っては大変と死ぬ思いで足を動かした。

ようやく私が1〜2メートルあとまで追いついた時に、チャッピーは振り返って私と目を合わせているのに知らんぷりして止まってくれない。
私はいつもの歩幅の半歩を何倍ものエネルギーと時間をかけて踏み出し、ようやく綱を足で踏んでホッとしたのも束の間、綱はスルリと抜けて2度目の挑戦でようやく捕獲した。

この朝は知子を駅まで見送ろうと一足先に出た時のハプニングだったので、知子は身動きが取れず右往左往していたようだ。知子に「鍵をそこに置いて早く行きなさい!」と大声で叫んでも声は届かず、ようやく家の鍵を道路脇に置いて駅へ走って行った。

こんな時は「チャッピー」とは呼ばず呼称は「イヌオ」に変わる。
1〜2日間ほど「イヌオ」(最悪時の呼称)と呼んでいたが、こんなに困らせるほど元気になって本来のバカ犬チャッピーになったことは喜ぶべきことだ。
ちなみにチャッピーの呼称の最悪時はイヌオで、最良時はチャックンだ。わーい(嬉しい顔)るんるん

それにしても6〜7歳の頃までは、逃げる時も5〜6qを一気に走っていたから、チャッピーも年を取ったものだ。それでも15歳半にしてはかなりのつわものだが。

遠吠え.jpgこんなに老犬になっても今年も10日ほど前から発情期の出血があり、心身共にストレスを感じているのか何度も大きな声で遠吠えしている。

今年は夏毛になってから再び冬毛が生えてきて2度も生え変わったので、秋になっても冬毛が生えてこないのではと心配していたが、9月半ば頃から暖かい冬毛でムクムクしている。この冬は元気で過ごせますように。

追記:
シャトレーゼの三笠模様.jpgチャッピーのポカポカ冬毛は、この2〜3年前(?)から毛並みが波模様になっている。04022012_515abd27a844f.jpg
これを見るたびにアレンジした三笠饅頭を思い浮かべるのだが、知子も同じことを思っていたというので2人で大笑いした。

posted by 優子 at 18:56| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2014年10月26日

10月最後の日曜日の光景

教会歴では今日から「降誕前」に入り、今朝は「降誕前第9主日(しゅじつ)」、つまり8週後にクリスマス礼拝を迎える。早いもので今週末は11月だ。

10月18日(土)は、日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロックの主な会場になっている大津教会へ再び赴き、4名で編集会議を開いた。

この時にヴォーリズが建築(1928年)した大津教会の礼拝堂を撮るつもりであったが、翌19日の召天記念礼拝準備のために、講壇前に教会員の遺影がたくさん並べられていたので遠慮した。
幸いにしてヴォーリズ建築案内に詳しく掲載されている。

山本祈未子姉筆の案内.jpg私たちの馬見労祷教会では次週11月2日が「召天者記念礼拝」で、今週に引き続いて来週も知子が奏楽を務めさせていただくことになった。


今日は思いもせず疲れているであろう夫も一緒に教会へ行った。
感謝!

ハナミズキ.jpg礼拝後、知子たちには先に帰ってもらい、私は9日の礼拝後のバザーの打ち合わせのために残った。その後、久々に教会の姉妹お二人と昼食を摂りながら交わりの時をもち夕方に帰宅した。
秋! 駅ロータリーのハナミズキ。

昨日に続いて今日の日暮れ、ユキはおじいちゃんにサッカーの練習の相手をしてもらっていた。我が夫・おじいさんは、ゴルフで疲れた左足のふくらはぎにサポーターを巻いていた。
そのサポーターは、マチが高校時代にバスケット(テニス?)をやっていた時に通った整骨院でもらっていたものだ。しかし、元気やね〜

おじいちゃんとサッカー@.jpg おじいちゃんとサッカーA.jpg 
左の写真は5時19分、その2分後には街灯が点いた。

帰宅後は野球とサッカータイム@.jpgこれは24日(金)、野球のボールは3つとも無くなってしまったのでサッカーボールで遊んでいる。
平日なのに自動車があるのは夫が長崎に出張のためだ。

ユキは秋になってから学校から帰って来ると玄関にランドセルを置いて、服も着替えずに1時間ほど遊ぶ。バッティングやサッカーのボールを蹴っている。
野球のボールは何度もお向かいの庭へ入ってしまい、ユキ自らチャイムを鳴らして問題解決するのはいいが恐縮することしきりで、恥ずかしがり屋のユキには意外な行動だ。

さて今夜のこと。
ユキは久々に知子の奏楽を聞いたからだろうか、急にピアノの練習をしたいと言い出して、知子がお風呂に入るとお風呂に呼ばれるまでのあいだ練習をやり始めた。それはそれは楽しそうに!

ピアノ練習再開.jpg実は昨年の3月初めにママにピアノを教えてもらうと言ってやり始めたが、3日坊主で終わってしまった。
私は知子や真智子のようにユキもピアノが弾けたらいいなと思っていただけにガッカリしたのだが、今夜、我が家にかわいい練習曲が流れた。
「おつかいアリさん」、何て懐かしい曲!


懐かしい教本.jpgこのテキストは新たにネットで購入したものだが、知子と真智子もバイエルと併用してこの本からレッスンを始めた。
何て懐かしい本!

就寝前のお祈りのあと、ユキはニコニコして、
「大きくなったら電車の運転手とピアノの先生になりたい」と言ったそうだ。
知子は「すごいなぁー」と感激したが、「なりたいものは日替わりやな」と心の中で笑っていたという。時にはパイロット、サッカー選手に野球選手といろいろと変わるからだ。
それでも常に残っているのは電車の運転手だという。怖がりゆえに車掌だったのが今は運転手になっている。

さてさて、大きくなったら何になるのか楽しみだ。
おっと、そんな時まで私は生きていないかバッド(下向き矢印)・・・・
はい、ここで転調!わーい(嬉しい顔)


posted by 優子 at 21:51| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年10月25日

秋の夕暮れに久々のウォーキング

当地は一駅違いで大阪府から奈良県という場所だが、朝晩の気温は大阪より4〜5度も低く昨日電気カーペットを敷いた。とは言え昨日は最低気温が8.2度であっても昼間は22.2度で、昼間との気温差が14度もあり掃除の時は半袖のTシャツに着替えて家事をこなした。

植木の剪定.jpg2回の大型台風も大したことがなかったので、この樫(?)の木の下に咲いていたシュウメイギクは倒れず、今も半分ほど花を残していたが21日朝、植木の剪定が始まる直前に刈り取った。

あっ、チャッピー邪魔!.jpgまずは刈り残した背の低いシュウメイギクを撮ろうとしたのに、「あっ、チャッピー 邪魔! 前を歩かないで!」



シュウメイギク.jpg
今日はユキの「秋みつけた」に誘われて知子と私の3人でロング散歩に出かけた。夫は昨日から長崎出張で不在。私と知子にとっては久しぶりの散歩である。

夕方4時半にスタートして旧村を歩く。ユキはママにヤギを見てもらいたくて立ち寄った。ここは私有地なのですぐに立ち去った。
あのヤギ君だ!.jpg

ヤギとユキ.jpgあの時のヤギだ!
ユキもヤギも大きくなった。
この時、ユキは3歳6カ月だった。



撮り鉄していた場所.jpg 
ここは撮り鉄していた場所だ。
この左側の土手から撮っていた。ユキは5歳8カ月だった。 

夕陽を受けて.JPG
夕日に染まるユキ。まもなく日が暮れる。  

池にはカモが25羽ほど到着していた。
カモ.jpg


落ち米食い?.jpg「落ち穂拾い」ならぬ鳩の「落ち米食い」。
実際はもっと薄暗くなっていた。
この日の奈良の日没は16時56分だった。



カエルはどこへ?.jpg
カエルやオタマジャクシを取った田んぼも稲刈りが終わっていた。
カエルたちはどこへ行ってしまったのだろう?
もう冬眠に入ったのだろうか?

もう日が暮れる.jpg
「降りなさい!木がかわいそうよ!」
ユキはあっという間に八重桜の木に登っていた。
慎重派だったユキがこんなことをしているなんて、
子どもの成長に目を見張る。

知子は稲刈りをした田んぼで茫然と身動きしないで突っ立っていた。
散歩が終わる頃、「まるでここ(自然界)だけ時間が止まっているみたい。人だけが年を取っているみたい。私はあの頃に最も年を取ったのだと思う」と、2008年秋の頃を思い浮かべて語った。


5時前に日が暮れて帰り道は薄暗くなっていた。あと1ヶ月もすれば5時を過ぎると真っ暗だ。

ユキが小学校1年生の汗ばむ秋の夕暮れの散歩。かつてのようにチャッピーも一緒に行けなかったのが悲しいけれど、散歩のあとすぐに知子とユキがチャッピーを短い散歩に連れて行ってやってくれた。
しかし、まだまだ元気なチャックン、先週は大逃走劇があった。近々更新したい。


知子は昨夜も今朝も仕事をする激務の日々にあって、明日の礼拝で久しぶりに奏楽のご奉仕を受け、私も連祷を務める。
夫は先ほど10時過ぎに帰宅したが、今日は長崎でゴルフをして疲れているので明日は休養のため欠席する。


posted by 優子 at 23:46| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年10月22日

朝の上町大地を歩く ― 合言葉は「主イエスに転調」!−

毎年この時期に健保組合に指定された健診機関で特定健診を受けている。指定されている病院は辺鄙な所ばかりで、唯一最寄りの沿線で行けるところを利用していたのだが、その病院が今年の6月に閉鎖になっていたため、大阪市中央区にある健保組合診療所で受けることになった。

そんなわけで今朝は私が夫と一緒に6時半過ぎに家を出て、知子はユキを見送った足で会社に向かった。私は会社手前の地下鉄・長田駅前で降ろしてもらった。

(東大阪市)長田は当地に引っ越してきた1999年まで住んでいた所で、駅構内は当時のままだった。私は改札口を入った瞬間から頭がボンヤリしてしまったように思う。

8時前の地下鉄は混雑していた。懐かしさでぼんやりしていたが発車のベルが鳴ったので飛び乗った。ドアが閉まった瞬間、反対方向の電車ではとヒヤッとしたが合っていたのでホッとした。

知子や真智子が高校へ通っていた時も、こんなに込んでいたんだと娘たちの高校時代を思い出していた。
そういえば1度だけ、私もこの時間帯に乗ったことがあった。母が亡くなった時だ。

1996年10月25日、あの日、夜半に母が亡くなり、夜が明ける前に一度自宅に帰って再び実家へ向かう時だった。黒のフォーマルウェアを着た私は、混雑した電車の中で近くの女性の視線を感じていたが涙が止まらなかった。

もう18年も前のことだ。ちょうどこの季節で今日のように暖かい日だった。この地下鉄に乗って母が通院していた住友病院に通っていたことや、父の病床にも2年余り通っていた。その頃に思いを馳せていたら気がつけば「谷町4丁目」をアナウンスしていた。


さて、ここからが大変。知子から地上に出てからの方向や道を教えてもらっていたが、極度の方向音痴と道路名が分かっていないので困った。

地上に出て道路標示を見るが、「森の宮」が「谷町4丁目」より手前なのか向こうなのか思い出せないのだ。私にとっては大阪と京都ではどちらのほうが神戸に近いかというような分かり切ったことだけに、あまりのボケように戦慄がはしった。

いくら考えてもわからないので、ついに長田駅でもらった地下鉄路線地図を見て思い出せたが、こんなことが分からないとは恐怖だ。やはり私は認知症が始まっている。


そのあともどんなに迷ったことだろうか。
しかしそれはボケではなくて方向音痴と道路名を知らないことゆえのことで気にならなかったが、「谷4」で降りてから何度か人に尋ね、最後は目的地の建物の目と鼻の先で尋ねた。

すると「私はここで勤務していますので」と無地到着。

中に入って「何階へ行かれるのですか?」と聞かれても答えられず(まだ読んでもいなかった)、「診療所」とさえ答えられずプリントを開いて見る始末。

しかも私は、プリントのどのあたりにそれが書いてあるかを知っているのですぐに見ていたにも関わらず、横から覗きこんでくださっている方が早く読み終えて「診療所は4階ですね。そのエレベーターで・・・」と、それはそれは優しく親切に教えてくださった。
幸せ感に満たされ、そしてまた自らのあまりのボンヤリぶりが悲しくもあった。

とにかくホッとして受付が始まる8時半までゆったり座って待っていた。
夫は健保組合の副理事として、また、生活習慣病の通院で、「いつもここに来ていたのか」と胸が熱くなった。そういえば大阪洋紙同業会もこのビルだ。

私は特定健診の検査なのですぐに終わり9時10分に出た。帰りは上本町(谷町9丁目)で何かおいしいものを食べて帰ろうと思っていたが、これでは早く着きすぎるので地下鉄に乗らずに歩くことにした。今にも降り出しそうな空模様ながら寒くもなく暑くもなく気持ちがよかった。

診療所を出てからの道は少し自信をもって歩き始め、すぐに船場の問屋街に出て帝人ビルに着いた。ところが、その前に「堺筋本町駅」があったので、堺筋を歩いていたことに気づいて再び地下鉄路線地図を見て方向チェンジした。

少し歩くと「日本橋」という矢印があったので、これで大体の方向は合っているとホッとした。念のために谷町9丁目方向を尋ね、谷町筋を4丁目から9丁目まで歩いた。

長堀通りと交差したところが谷町6丁目だった。この上町台地界隈は風情があり、織田作之助の『木の都』を想起しながらウォーキングを楽しんだ。

「こんなところに病院があったかな?」と思っていたらシオン教会の十字架だった。教会の十字架は病院のクロスとは違って縦長なのに間違うなんてどうかしている。すぐ近くに空堀(からほり)商店街があった。

谷町8丁目になると軒並み寺で、まさに寺町だった。そして、見慣れた谷町9丁目の交差点に着いて喜んでいたら、そのあとでまた間違えて千日前通りを歩きかけていたので、真反対に向き直って都ホテルを目がけて歩き、近鉄デパートに無事到着。10時5分だった。

関空や伊丹空港行きのリムジンバスを見ただけで旅行気分になり、ルンルン気分で歩きながら「私はお金のかからん人間やな」と心の中で笑っていた。
こんなことさえ私には刺激的で冒険だった。ボケを早めているのは、いつも家に引っ込んでいるからに違いない。


大阪紙商健保センターは売却のため11月末で閉鎖になる。一つの時代の終わり。その後は日本製紙のビルに移転。堺筋本町にあるそうだ。

大阪の町を見てももう父の姿を追うことはなく、私は夫のことばかり想っていた。楽しい散歩だったが秋は哀歓交々で、過ぎた日々が懐かしく感じることも度々だった。

しかし、その時は「転調、転調!」ともう一人の自分が声をかけた。心が短調になりかけると「主イエスに転調!」と声をかけていた。これからはこの言葉を私のキーワードに、そして家族の合言葉にしよう。


デパートのレストラン街も11時にならないと開かないし、買いたい物は何もないし、とにかく水分補給を兼ねて喫茶店でモーニングを摂った。その後、再びデパートに入ってお寿司を買って11時半過ぎに帰宅した。

ユキは土曜日の夜から熱を出し、その熱が溶連菌感染症とわかったために昨日は登校禁止で休んでいたので、今日は途中でしんどくなっていないかと少々気になりながらの外出だった。

この地に引っ越して15年半。私はこの地に根を下ろして生活しているが、やはり大阪が好きなのだ。人は生まれ育った地が特別なのだと思う。

posted by 優子 at 23:15| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2014年10月17日

知子の代理で授業参観と懇談会に!

今日は知子の代理でユキの授業参観と懇談会に出席した。写真を撮るなど不謹慎だが、知子に見せてやりたくて1枚だけ撮らせてもらった。
知子の代理で授業参観に.jpg
ユキは左から3列目の前から3人目だ。
いつも後方の席だったが、今回の席替えで初めて前の方になった。 
今日の参観は道徳の授業で、できないことでも諦めないでがんばるクマの話だった。私は子どもたちがワークシートに書いている様子を見ながら、子どもを育てていた頃の遠い遠い日に想いを馳せていた。

しかし今日は懐かしさだけではなく教育の素晴らしさに感動して胸が熱くなった。私たちは皆、このように一つひとつ教わって学習を積み重ねてきたのだ。

そして、貧困国の子どもたちの教室が思い出されてフラッシュのように何度も眼前に見え、世界中の子どもたちをこのような環境で学ばせてあげたい、学ぶことができるようにと祈りに変わっていた。

懇談会では、「今もけじめをつけられない子が4〜5名いるが、周囲が育ってきているのでのっからないようになっている」とのこと。確かに、私は子供たちの見違えるような成長ぶりに驚いていた。
一方、廊下に留まっている保護者たちの私語は相変わらずであった。

懇談会に残った保護者はクラス委員を入れて9名だった。他の子どもの懇談会に参加している人や、用事があって出られない人もいるだろうが、私の子育ての時よりも参加者が少ない。

初めての子どもの親御さんはみんなの様子を知りたくて聞いておられ、とても新鮮で微笑ましく感じた。こういう姿勢がとても大切なことだと思う。
私の子育て時代のこと、長女のクラスに高校生の子どものいるベテランのお母さんがいて、その人の話が頼もしくリラックスさせてくれたことを覚えている。

15日に原稿執筆から解放されて(私自身が延ばし延ばしにしていたため)昨日から主婦にふさわしく家事に励んでいるのだが、今日は休憩なしで出かけたために腰痛と疲れを感じながらの参加だった。子育て現役時代には考えられず老いの現実に直面させられる。

懇談会では必ず家での子どもの様子を話すだろうに、その内容も思い浮かべる余裕もなかった。

最近の印象的なことと言えば、ユキは漢字学習に知る喜びを感じている楽しそうなユキのことを話した。
ユキの様子に感動する私に習ったことをいろいろと話してくれ、学ぶことの楽しさを分かち合っている。私ももう一度漢字を学び直す気持ちで話を聞いているというようなことを話した。


学校はいいね、老いも病もない。
子どもたちはどの子も皆、幸せに大きくなっていってほしい。

そういえばK・H君に「おじいちゃん、お元気?5羽の鶏も元気?」と声をかけた。しばらくしてH君が、「おばあちゃんとおかあさん(知子)とそっくりやね」と言いに来てくれ、そのことが嬉しかったのとクリクリした純粋な目がとてもかわいくて抱き寄せていた。るんるん

懇談会の間、ユキは運動場で遊んで待っていた。ユキと手をつないで帰る。幸せな秋の一日だった。感謝!

附記:これは10月10日朝、夫はテレビ体操を初めて5年目になる。ユキも毎朝早くから起きている。
ラジオ体操だよ.jpg

朝のテレビ体操@.jpg
4年前はこんなに小さくてかわいかった。
朝のテレビ体操A.jpg 

35分に体操が終わるとすぐに出発。「行ってらっしゃい!」
行ってらっしゃい!.jpg

これは11日(土)、幼稚園の運動会に行くところ。
幼稚園の運動会へ.jpg

卒園児の競技に参加。
幼稚園の運動会C.jpg

幼稚園の運動会F.jpg

大阪ドームへB.jpgこのあとおじいちゃんと2人で大阪ドームへ、日本ハム対オリックス観戦に。夏休みに続いて2度目、今回は日本ハム側の席に。


Photo by Yuki.jpg
バッターは4番・ヘルマン。Photo by Yuki.

posted by 優子 at 23:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2014年10月12日

教会の帰り、大型台風来襲を目前に秋を楽しむ  

先週に続いて今週もまた台風が北上している。今回の19号は前回よりももっと大型の非常に強い台風で、明日関西に上陸し直撃する模様だ。

ヤフーニュースによれば、明日の夕方から京阪神地区の在来線すべての全列車の運転を取りやめるというので、甘く見ていた私は暗くなってから知子に手伝ってもらって電動自転車を移動させ、夫にパーキングの柵が開かないようにくくりつけてもらった。
チャッピーを玄関内に入れてやるのは明朝の散歩を終えてからでいいだろう。

今日は薄手の長袖でさえ暑いほどで昨日よりも天気が良く、教会の帰りに馬見丘陵公園のフラワーフェスタへ行った。ここは私は今年初めて知った所だが、夫は知っていてユキが幼児の頃に知子と来たそうだ。

そして今回は今年3度目の訪問だ。4月のチューリップ6月の花菖蒲に続いて、今日はコスモスを見たくて行ったのだが私と知子には期待外れだった。

しかし、数え切れない種類のダリアには感動した。
ダリア園.jpg

私はダリアを見るといつも祖父を思い出す。「ダリア」という言葉の響きは私を遠い日々へいざなう。

小学校入学直後(?)の頃まで住んでいた家の裏庭にダリアが咲いていた。庭は結構広くて柿やイチジクの木があり、花を育てるのが好きな祖父はイチジクの木の横に畝を作って、そこにダリアを植えていた。

祖父が亡くなったのは私が大学4回生の夏だったから、もう40年以上も前になる。ダリア園を歩いていると胸がキュンと痛くなって、次に高鳴ってきた。
私は祖父が咲かせていたダリアを捜した。まるで祖父を捜すような気持ちで捜していた。


ダリア園@.jpgこんな花だったと思う。
ダリアの蕾も何て懐かしい。よく覚えている。
4〜5歳の頃の記憶は結構鮮明に残っているのだ。ユキとの日々を良き時にしてあげなくては。

これもそうだ。何と懐かしいダリア!
色はもっと真紅だったが捜しきれなかった。

ダリア園D.jpg

ダリア園A.jpg
ユキ、おじいちゃんとの日々を脳裏に焼き付けるのよ!
昨日は夏休みに続いて再び大阪ドームへ
野球を見に連れて行ってくれたね。

ダリア園B.jpg
ユキの顔ほどもある大きなダリア。

サルビア.jpg
サルビアの花も美しかった。

1年生・秋@.jpg

馬見広陵公園@.jpg

8月半ば頃から耳が痛いほど鳴いていた秋の虫も、今はコオロギだけになった。まもなく秋から冬に向かう。その前にしばし心の緊張を緩めよう。 

竹取公園@.jpg馬見丘陵公園の地続きに竹取公園があった。ここは9日にユキが遠足で来たばかりの公園だった。

ここ「奈良県北葛城郡広陵町はかぐや姫の里」で、「昭和29年(1954年)、大阪市立大学講師の塚原哲雄氏が『竹取物語』に書かれた竹取翁(讃岐造)とかぐや姫が住んでいたところは、大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)であると発表した。」とのことだが全く知らなかった。

私は『御伽草紙』(室町時代)に収められているのかと思って開いたが無い。『竹取物語』は平安時代のものだった。(>_<)

すぐに「ナガレ山古墳」というのがあって、これまた無学の私は初めて耳にした。「ながれやま」と言えば千葉県の流山、味醂の産地で新撰組局長・近藤勇が自首した地を想起させる。

ナガレ山古墳.jpg
夫は何回も来ているからと、私1人で階段を上った。




ナガレ山古墳頂上.jpg頂上から見たところ。







ユキは竹取公園の遠足では「そりすべり」が一番楽しかったようで再度楽しんでいた。私たちもどんなところか見ることができてよかった。
竹取公園A.jpg私はすっかり肥えてしまったが、ボードもあるというので是非滑りたかった。ところが中学生以上は禁止でガッカリした。

いつもはブログ上に登場する私だが、とても写真に耐えられず、知子も疲れきっていて体調不調のため今日は共に掲載不可。(笑)

そして、4時過ぎに帰宅。私は下半身がガクガクで衰えが怖かった。
買い物の荷物の整理が終わってからがく〜(落胆した顔)、3人分の聖書と讃美歌の入った重いバッグを教会に忘れて帰ったことに気づきふらふら もうやだ〜(悲しい顔)、知子に再び教会へ取りに行ってもらうことになった。ちっ(怒った顔)

明日は「体育の日」で休日だから家族の心配をしなくてもよいが、どうか日本を縦断する台風19号の被害が最少でありますように祈ります。


posted by 優子 at 23:59| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2014年10月08日

近江八幡名誉市民第1号のヴォーリズ、没後50周年イベント開催中

2014年はウイリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名は一柳米来留:ひとつやなぎ めれる)の没後50年にあたり、10月4日からヴォーリズゆかりの地・近江八幡市でイベントが開催されている。
クリスチャン・ペンクラブの友を介して公益財団法人近江兄弟社本部事務局発信の案内をご紹介したい。初めに7日に更新された『クリスチャン・トゥディ』記事から!

キリスト教の伝道者で建築士のW・M・ヴォーリズの没後50周年を記念したイベントが4日から、ヴォーリズゆかりの滋賀県近江八幡市で始まった。

ヴォーリズは日本各地で1500以上の建物を建設するなど建築家としても有名だが、そのほかにも伝道、医療、教育、製薬販売事業、音楽や詩作、国際交流など幅広い分野で実績を残した。

記念イベント「ヴォーリズメモリアル」では、各分野の研究者やヴォーリズ夫妻と交流のあった人物の講演やコンサートなどが、1カ月にわたり行なわれる。

また、市内にある普段は公開されていない20カ所以上のヴォーリズ建築も開放され、建物の中を見学することができる。

初日の4日は、500人以上の観光客が訪れ、建物散策やイベントを楽しんだ。東京や東北など遠方から訪れた人の姿も見られた。ヴォーリズの生涯を一日かけて学ぶ「ヴォーリズ・アカデミー」も開催され、約20人が参加し、夕方には修了証が手渡された。

1カ月にわたるヴォーリズメモリアルでは、日替わりで連日さまざまなイベントが開催される予定だ。

11日(土)には、写真家の桃井一至氏による「ヴォーリズが愛した近江八幡」と記念撮影会・フォトコンテストが行われ、18日(土)には、政治学者で聖学院大学学長の姜尚中(カン・サンジュン)氏による講演「いのち、平和、そしてヴォーリズ精神」が行なわれる。

また、建築家の山形政昭氏による「ヴォーリズ建築の魅力」(8日・水)や、元同志社大学神学部教授の本井康博氏による「新島襄とヴォーリズ」(7日・火)、『ヴォーリズ満喜子の種まく日々』の著者で小説家の玉岡かおる氏による「ヴォーリズ満喜子そして神戸女学院」(12日・日)、滋賀YMCA前理事長の堀江宏氏による「YMCAとヴォーリズ」(9日・木)など、キリスト教や建築、YMCA、平和などの様々な切り口から、ヴォーリズの功績と魅力を語る講演会が行なわれる。

また合わせて、同志社大学グリークラブや神戸女学院大学コーラス部、関西学院大学新月会、ゴスペルシンガーの神山みさ、福原タカヨシによるコンサートなど、1カ月の期間中、様々なコンサートが行なわれる(講演、コンサートの詳細は、公式サイトのイベントスケジュールを参照)。

さらに、会場ではヴォーリズ建築9点をセットにした記念切手セットや、ヴォーリズのサイン入りメンターム薬用リップセットなど、会場でしか買うことができないメモリアルグッズ、漫画の伝記、書籍『神の国の種を蒔こう』(新教出版社)などが販売される。

W・M・ヴォーリズ(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、1880〜1964)は、1880年に米カンザス州で生まれた。コロラド大学在学中にYMCAの世界大会に参加し、海外伝道を決意する。1905年に英語教師として来日、滋賀県立商業学校(現八幡商業高等学校)の教師に赴任する。

1908年にヴォーリズ建築事務所を開設。学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など多くの西洋建築の設計を手掛けた。その数は1500を超え、韓国など海外にも建築物は残っている。今年2014年には、神戸女学院大学の建物群が重要文化財に指定された。

また、1920年に設立した近江セールズ株式会社(現近江兄弟社)は、主製品の塗り薬「メンソレータム」を販売し、製薬会社としても知られるようになり、現在に至っている。

近江兄弟社の名称は、マタイによる福音書12章50節「だれでも、わたしの天の父の御心を行なう人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」に由来している。

建築事務所や会社の利益などをもとに、熱心な伝道活動を行い、多くの伝道所や夜学、英語学校を設立した。さらに1918年に、結核療養所「近江療養院」を設立し、当時不治の病とされた結核患者の救済に当たるなど、医療・福祉の分野でも多くの足跡を残した。

1919年に子爵の一柳家の令嬢、一柳満喜子と自ら設計した明治学院チャペルで結婚。満喜子が地元の未就学児童を対象にして始めた施設「プレイグラウンド」が幼稚園になり、現在の近江兄弟学園へと発展した。

1958年には、近江八幡名誉市民第1号に選ばれる。1964年に近江八幡市の自邸で83歳で死去。公共事業や建築における活動の功績から正五位、勲三等瑞宝章を受賞した。妻満喜子は1969年に死去、従五位、勲四等が贈られた。

以上は『クリスチャン・トゥディ』の 「ヴォーリズ没後50周年 近江八幡市で『ヴォーリズメモリアル』始まる 1カ月間イベントがめじろ押し」より。

なお、W.M.ヴォーリズ没後50年記念実行委員会事務局のホームページ、「ヴォーリズ・メモリアルin近江八幡」に詳しく案内されている。

来週再び編集会議で出向く大津教会もまたヴォーリズが設計した教会である。今度こそカメラを持参して礼拝堂を撮ってご紹介したいと思う。
ついでながら、私が現在籍を置いている馬見労祷教会の礼拝堂建築にもヴォーリズが関わっていると耳にしている。

posted by 優子 at 12:49| ご案内 | 更新情報をチェックする

2014年10月05日

ユキ、小学校初めての運動会!

大型で非常に強い台風18号が北上しており、昨日の天気も危ぶまれたが終日雨の心配もなく運動会を終えた。
運動会.jpg

この日、夫は前日のゴルフ場近くの温泉旅館で宿泊して土曜日の朝に帰宅。しばらく休憩して11時頃に来てくれた。

運動会の前日、ユキが「明日は本気だすの?」と聞いてきたものだから、「明日本気ださなかったらいつ出すの?」と大笑いした。

今回は1枚として満足いく写真が撮れなかったが、「学年全員リレー」や「徒競争」は本気を出して走っていた。とは言うものの私は見逃してしまったのだが。
「あんなに本気になっている顔は初めて!ユキもできるんや。安心したわ。」と知子。

ユキは赤@.jpg

これは学年のリレーで、真ん中の赤いハチマキがユキだ。
このあとバトンを落としてしまうが、3番手だった赤が2番でゴールインできたのは、ユキが1人抜いたことが大きかったようだ。 

ユキは赤B.jpg

児童数が少ないためか、学年リレーと団体演技は2学年ずつでやっていた。日本全国おなじみの「組み立て体操」も5・6年での演技だった。

踊るポンポコリン.jpgこれは1・2年の集団演技。題して「ハッピー・ラッキー・ポンポコリン」。
かつて私の子育て中に一世を風靡した「チビまるこちゃん」のテーマソング、「踊るポンポコリン」に合わせて踊っている。ここ半月ほど前から毎日のように踊って見せてくれていた。

「みんなで踊るのは楽しいね。ユキはリズム感があってとても上手だったよ。エンジョイしていたから観ていて楽しかったよ。笑顔で踊っていたRちゃんもとても印象的だった」。

senior席に.jpg
夫は優待席(senior席)で。
まだまだ老人には見えないけれど、ようやく白髪がチラホラ見えるようになってきた。先月69歳になったんだものね。
061.jpg
午後4番目の個人競技・徒競争では、ユキはスタートで出遅れたが少しの差で1等でゴールイン!
それを見て私たちは退散し、最後に知子と並んでパチリ!

後年、知子自身がかつての自分を見たり、私を思い出してくれるのもいいだろうと思って撮ってもらった。
私はコロコロに肥えてしまい、この勢いならば56キロになってしまう。もう止めなくては!目標は51キロ。

!ただ今、チャッピー.jpg「ただいま、チャッピー!」
帰って来た時、チャッピーはお昼寝中だった。
義妹にもらった木のりっぱな小屋も、今では屋根がひどく傷んでネジも利かなくなって浮いている。そこで雨で屋根が腐らないようにビニールシートを張り、ガムテープや洗濯バサミで留めてある。

祈り:子どもたちの演技を観ていた時、先月、神戸市長田区の草むらで遺体で見つかった小学1年・生田美玲(みれい)ちゃんのことを思い出して、涙で見えなくなった。

悲しみだけではなく犯人への憤りががこみ上げてきて、その気持ちをどうしようもなくて手を固く握りしめていた。

昨日は神戸市立名倉小学校も運動会だったという。美玲ちゃんは目標を書くカードに「だんすをがんばります」と記していたそうだ。あの事件に巻き込まれなければ、今日の子どもたちのように嬉々として踊っていたことであろうのに。

また、9月27日の御嶽山の噴火でも多くの人々が悲しみの中にある。5日未明時点で登山者51人が亡くなり、安否がわからない人が13人おられるが、今日は再び終日捜索中止になった。雨による2次災害の危険があるためだ。
自衛隊、警察隊、消防隊員の方々の命がけの捜索の無事と、どうか全ての人が見つけ出されて自宅に戻ることができますように祈っている。

附記:今朝、マチとスカイプした。私たち夫婦は今年の年末年始の休みを利用して、ワシントンへ行く予定だったが中止になった。
お互いに仕事の調整がついて、全てにとって最善な時が与えられますように!


posted by 優子 at 15:48| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする