2015年01月30日

北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 @

「イスラム国」に拘束された後藤健二さんは未だ解放に至らず、集中できない日々に在るが、浅田高明先生からご恵贈賜った『「生命(いのち)」と「生(い)きる」こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―』を読んでいた。

かつて不治の病とされた業病・ハンセン氏病を発病した北條民雄と後藤さんとは状況が全く違うが、極限状況に置かれた人間の恐怖、恐怖の極限状況に在る人間の苦悩といのちを考えながら読んでいた。

北條民雄は20歳でハンセン病を発病し24歳の若さで夭折。死因は腸結核だった。
民雄が自作の原稿を川端に送ったことから手紙のやり取りが始まった。私は川端康成に親しみを感じたことはなかったが、川端と太宰とのやり取りや民雄への心ある関わり方を知り、私の中の康成に息が吹き込まれ人間性を感じたことも嬉しいことだった。

民雄は川端への手紙だけは明るい言葉を伝えたいのだが、実状は「それだのに、ああ、自分のこの絶望をどうしよう。」とは胸が抉られる。

文学も哲学も宗教も糞喰らへだ。僕の體は腐つて行く。ただ一つ、俺は癩病が癒りたいのだ。それが許されぬなら、神よ、俺を殺せ。
            (略)
例のやうに文藝欄を展げて見るが、文壇なんて、なんといふ幸福な連中ばかりなんだらう。何しろあの人達の體は腐つて行かないのだからなあ。

今の俺にとっては、それは確かに一つの驚異だ。俺の體が少しづつ腐つて行くのに、あの人達はちつとも腐らないのだ。これが不思議でなくてなんであろう。
 

極限状態に置かれた人間の絶叫と苦悩!
そんな他人事としてしか受けとめられない己に地団駄踏むが、これは私の人間性なるが故なのか、人間の限界なのか!


『いのちの初夜』は民雄自身が経験したことを小説にしたもので、以下は主人公・尾田(民雄自身)が療養所に入所した日の同病室の佐柄木の言葉である。

▼ 人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。

▼ 苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです。

▼ 僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比する、とね。意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです。

▼ 死ねると安心する心と、(試しに首を枝に引っ掛けた時に危うく首が絞まりかけた時のこと)心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか。

▼ 人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。

誰でも癩になった刹那せつなに、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。

けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。

尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。

▼ (尾田は)何もかも奪われてしまって、ただ一つ、生命だけが取り残されたのだった。

『「生命(いのち)」と「生(い)きる」こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―』の目次は以下の通りである。

@『間木老人』と『道化の華』 A発病と入院 B『いのちの初夜』誕生 C断種と隔離の思想 D神山復生病院 E光田健輔と小笠原登 F長島の女医たち G井深八重の生涯 H共生、共存の道 I大和路にて J熊本への旅 K結びに代えて 

浅田先生の医師としての視点と鋭い突っ込みは読む者の魂を覚醒させる。これら一つひとつの目次をもう一度丁寧に読み直し、それと並行して民雄の作品を読むべく、早速今日、市の図書館に北条民雄全集(上・下)をネットで予約した。

そこで不定期ではあるが、浅田先生の評論をテキストとして「北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々」について学んだことを記録しながらお分ちしたいと思う。

なお、青空文庫でも北條民雄 『いのちの初夜』など、多数読むことができる。 

posted by 優子 at 23:59| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

「私は戦争放棄を選ぶ」 ―『種を蒔く』2号掲載文より E ―

「日本がアメリカと戦争したんだって?! マジー?」と言った日本の若者に驚いたが、ドイツでも若者の5人に1人が「アウシュビッツって何?」というのが現在の状況だという。

1月27日の今日、ポーランド・アウシュビッツ強制収容所が解放されて70周年を迎える。
その関係からか、先週半ばから「ヒトラーチルドレン −ナチスの罪を背負って―」へのアクセスが毎日300余りあった。ヒトラー側近の子孫たちの苦悩をも心にとめたいと思う。

記念式典では生還者約300人が出席し、生還者の演説を中心に執り行われるようだ。生還者も高齢になり今回は一層貴重な時になるだろう。

下記の文章は2013年6月に書いたものに加筆して、掲載誌の目次・「危機を孕む時代に」に収録された一作である。         

私は戦争放棄を選ぶ

                       
今や世界の状況は混沌とするばかりで、日本の周辺国の動静もかつてないほど緊迫しており、安倍首相は憲法解釈の変更によって集団的自衛権行使容認に向けて躍起になっている。

確かに最低限度の防衛力は必要だ。しかし、これまで通り個別的自衛権と警察権で行使すべきであり、その一線を動かすことは断じてならない。

首相は、「日本が再び戦争するという誤解があるが平和主義を守り抜く」と主張している。しかしながら、その人間観は実に甘く、必ずやズルズルとエスカレートしていくのが人間である。

エスカレートすれば国民もナショナリズムを刺激されて懸命な判断ができなくなるであろう。それゆえに戦争のできる国にしてはならないのだ。

先の大戦でどれほど多くの人命を落としたことか!
これ以上「いつか来た道」を進んではならない。

アメリカとの関係においても、日本は十分に同盟国としての責務を果たしているのである。日本はアメリカを支えている最重要な国であり、イギリスよりも最も対等に近い同盟国だという。

実際、全国各地に132カ所もの米軍基地があり、そのうち米軍専用基地は84カ所も置かれているという。それだけではなく莫大な金を出しているのである。どんなに状況が変わろうとも日本は平和憲法を死守すべきである。

日本国憲法はアメリカが作ったものだと言う人があるが、井上ひさしは「日本国憲法はアメリカの押し付けとは卑怯な俗説」と言い残している。

現憲法が公布された昭和21年は小学校6年生だったというクリスチャン・ペンクラブの同志が、憲法公布について次のように証言しておられる。

「この憲法は、戦争に勝利したアメリカの押しつけ憲法ではないかと言う人がありますが、私はそうは思いません。

マッカーサーは3原則を示して、それを織り込んだ新しい憲法の参考案を作るように命じました。@天皇の地位、A戦争の放棄、B封建制の廃止。それは古い体質の日本に新しい風を吹き込んだのです。

『こうしてこの草案は、国民みずから選んだ代表である国会の手で昭和21年夏の暑い間、熱心な審議が続けられ、若干の修正を加えて可決、11月3日国民の歓呼の声の中に公布された。』(鵜飼信成『憲法』より)

学校でも『あたらしい憲法のはなし』(文部省編)という教科書になって、先生も生徒も感動的に学びました。憲法は守るものです。この平和憲法を次世代へそのまま送りたいと、私は思います」。

憲法改正が叫ばれる同じ時、世界に誇る日本の平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条を70年間近くも保持している日本国民に、ノーベル平和賞を受賞させようとの運動が起こっている。

これはクリスチャンの主婦が、「戦争はしたくない」という思いと、「平和賞は素晴らしい結果を出したから与えられるのではなく、平和の実現という目的に向かって頑張っている人たちを応援する意味もある」との思いから声を上げたという。

今年初めにノーベル委員会は平和賞候補にノミネートし、4月に正式に受理した。賛同者の署名は6月8日時点で8万人を超えた。この活動を神が用いてくださり、9条改憲者たちへの圧力となって日本国が間違った道に進まないように祈るばかりである。

戦後69年経った今、戦時中をくぐりぬけてきた世代も少なくなり、私とて戦後生まれで戦争の悲惨さは知らず、戦場に行っていない父や母から戦時下の話を僅かに聞いてきた世代である。

しかしながら、現代においてはそれらのことを直に聞かされただけでも貴重な存在ゆえに、私たちは子や孫のために断固として非戦の声を上げ、戦争の放棄と武力の不保持を定めた憲法を守り抜かねばならない。

集団的自衛権を拡大させていくと日本もテロの標的になり、悪循環の輪を深めていくばかりである。

最後に、第2次大戦下、ナチスの第3帝国の悪の根源がヒットラーであったことは言うまでもないが、親衛隊やドイツの国防軍だけではなく、その背景にドイツ国民の中に独裁者ヒットラーを受け入れる基礎があったということが検証されている。

即ち、ヒットラーの台頭を可能にする危険なメンタリティーがドイツ国民にあったというのだ。しかしこれはドイツ国民に限られたことではなく、人類に共通する人間の実相であり、まさに今の日本に問われていることである。

私たちは同じ愚行を繰り返さないように、集団的自衛権行使容認と憲法改正反対の声を上げ、今一度、国連の壁に刻まれている聖書の言葉を銘記したい。

     「彼らはその剣を鋤に、
      その槍をかまに打ち直し、
      国は国に向かって剣を上げず、
      二度と戦いのことを習わない」。
               
              (イザヤ書 2章4節)
                   (2014年6月)

2月3日追記:
1月31日、ドイツの良心、ワイツゼッカー元大統領が亡くなられた。94歳だった。
「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。過去の罪を心に刻まなければ和解の道はない」。
ワイツゼッカー元大統領の言葉は人類の宝であり、生かさねばならぬ。



posted by 優子 at 11:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

「知る力、深い知識、見抜く力、鋭い感覚を身につけて」生きる ―日本人人質の無事救出を祈って―

いつの時代も世界で悲惨な出来事があり、それが人間の歴史でもあった。「イスラム国」は、昨夏アメリカがイラク空爆を開始したことから欧米人を拘束殺害する映像をインターネット上に公開した。

その残虐さのみならずインターネットという利器のおぞましさ!

そして、1月20日、日本人もテロの標的になっていたことが公になり、私はいよいよ「平和」について真剣に考え、心底、平和を求める。
2名の無事救出を祈りつつも自己の内面から発する問いに悶々とし、神に祈ることさえ虚しく感じ、その誘惑に引きずり込まれそうになっていた時、先の記事に書いた中田考氏の発言から一歩前進した。

交渉するには相手の枠組みを知ることの大切さを再確認させられたのである。そのためには客観的に物事を観て考える能力が必須だと再確認し、抱えていた難問に対してそこまで漕ぎつけたという感じを得た。

すでに1人が殺害されたとの報道があった。ただただ無事救出されることを祈っている。尽力してくださっている国内外の政府関係者に託して神の導きを願って吉報を待つしかない。

世界になぜ平和が実現しないのか!
この問題は実は私たちが日常生活で経験することと同じ問題であり、これが私の、あなたの姿であることを受け止めねばならない。

「世界平和」や「国際問題」を論じるだけではなく、私たちの現実である日常に戻して考え、そしてまた国際問題を考える。物事をマクロ的に、またミクロ的に観て考えることが肝要だ。

そのためには何よりもまず「気づき」の大切さを思う。全ては気づきから始まると言える。

親子関係が断絶している人、夫婦関係の断絶、また、家庭崩壊などの相談を受けるたびに感じていた双方の、あるいは一方の「気づき」の欠落。
あまりにも自己洞察できない人は、まるで重い鎖に繋がれているようで微動だにせず、一生を費やしても進展することはないだろうと思うことしきり。

「気づき」の問題と共に「どうしたらいいんだろう」という困った感、主体性のなさも共通している。 

その程度はいろいろあれども、それは職場でも、クリスチャン同志の争いでさえ、人間の問題は皆ことごとく同じ問題だ。考え方の相違が問題なのではなく、相違をどのように乗り越えていくかが問題なのだ。

また、客観的に観ることができても自分の間違いを認めることができるかどうか。果たしてどちらの方が前進しているのかと考えるに、気づきがない人の方が困難度が高く、気がついているけれど認められないという頑なさのほうが救いがあるように思うのだが・・・


そのようなことを考えさせられ、混沌とした世界の状況に突破口を見出せず、何に希望を繋げばよいのかと考え始めていたのが先週末の精神的情況だった。

しかし、悶々とする中にも平和を祈り続けることが大切であると思い直すことができ、気持ちが軽くされて25日の礼拝に臨んだ。

そして、(昨日の)高見牧師の説教を通して、説教の聖句の中の「ピリピ人への手紙1章9節〜11節」の御言葉が心に届き、より具体的な導きを得て、もう一度希望をもって踏み出せるように力が与えられた。私に賜った神の恵みである。

「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり・・・」  

「知る力、深い知識、鋭い感覚、見抜く力、を身につけて」。
私も備えられることを信じて生涯励み続けよということだ。
「キリストの日」とは神に召される時であり、地上の生涯を終えて天に帰る日のことである。

神が政府関係者に「知る力、深い知識、鋭い感覚、見抜く力」を与えてくださり、「イスラム国」に拘束された人質を無事脱出させてくださるように。そして、この最悪を通して世界が最善へと導かれることを祈ります。

昨日は説教のあとの連祷(れんとう)に当たっていたので、人間の悲惨な現況、失望、落胆、そして、具体的な導きを得て、見失いかけていた希望を見出しての無事救出の祈りをささげた。

神に祈り求めるだけではなく、自己洞察しながら、神の御声を聞き逃さんがために、一言ひとことゆっくりと祈った。

今、一人ひとりに期待されているのは、世界の平和を祈るだけではなく、それぞれの生活の場でしっかりと歩んで行くことだ。


村山盛忠牧師の本をもう一度読みたいと思っている。

posted by 優子 at 13:03| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2015年01月22日

中田考氏の働きに期待

今日、外国特派員協会でイスラム法学者でありイスラム教徒の中田孝氏が、イスラム国邦人人質事件について記者会見した。

中田氏は「(安倍首相の)イスラム国と戦うという発言は非常に不用意」であり、「人道援助が適切な人に届いていない」との見解を述べ、日本政府とイスラム国に対して「イスラム国にも人道支援を」との独自の仲介案を提示した。

そして最後に、「もし交渉ができるようであれば、私自身、イスラム国に行く用意がある」と、イスラム国に対してアラビア語でメッセージを語った。

中田氏の見解はバランスを欠くことなく非常に客観的であり、昨日までの報道で疑問に感じていたところと重なるところばかりで、私は頷きながら全記事を読み動画も端折って観た。

以下は中田考氏のスピーチである。
▼今回、タイミング的に安部総理の中東歴訪に合わせて発表があったわけですけれども、安部総理自身は、中東に行ったことが地域の平和と安定につながると信じていたのだとは思いますけれども、残念ながら、非常にバランスが悪いというふうに思います。

もちろんイスラエルに対して入植地の反対を直言する、といったことでバランスの取れた外交を行っていると信じているのだと思いますけれども、中東においてそもそもイスラエルと国交をもっている国自体がほとんどないという自体を、正確に実感していないのだと思います。
ですので、これは中東、あるいはアラブ・イスラム世界では、非常に偏った外交というふうに見られます


▼記者会見のなかで、難民支援・人道支援を行っているということを強調していましたけれども、もし人道・難民支援ということで今回の中東歴訪があったのだとすれば、今シリアからの難民は、正確にはわかりませんけれども300万人とも言われています。

その大半、半数以上は、160万人とも言われていますけれども、トルコにおります。まずトルコを最優先すべきであって、(訪問国から)トルコが外れている時点で、難民支援のために行った、人道支援をすると言っても、これは通用しないというふうに思われます

訪問国はエジプト・イスラエル・パレスチナ・ヨルダンと、全てイスラエルに関係する国だけであると、そういう選択をしている時点で、アメリカとイスラエルの手先であると、当然認識されます。人道・難民支援のために行っているとは理解されない、というのが中東を知る者としては常識です

中東の安定に寄与するというのは当然理解できる発言ですけれども、中東の安定が失われているのはイスラム国が出現する前からのことです。そのなかでわざわざというか、イスラム国だけを名指しで取り上げて、イスラム国と戦うため、と言いながら、人道支援だけをやっていると言っても、それは通用しない論理だと思います。

日本人の人質2人がいるということは、外務省も把握していたことであって、わざわざ「イスラム国と戦う」ということを発言するというのは、非常に不用意であると言わざるを得ないと思います


テロリストの要求を飲む必要はもちろん無いわけですけれども、しかしそのことと、交渉するパイプを持たないということは、全く別のことだと思います

例え無条件の解放を要求するとしても、実際に人質2人を解放するために安全が確保されるのか、その間空爆を止めることが出来るのか、誰がどこに受け取りに行くのか、そういったことを、正しい相手を正しく話をするパイプがないことには、そもそも話になりません。

今回の件でも、これまでと似たようなケースでも、多くの「仲介者になる」という偽物が現れて、それにアメリカが騙される、というようなケースはたくさん起きております。今回でも、そういう恐れが当然あるわけです。

イスラム国の呼び掛けは、安倍政権だけではなく日本国民に対する呼び掛け、という形をとっておりました。それに対して我々は応えるべきだと思います。

もちろん日本は民主主義をとっている国ですので、安倍政権に賛成する人間もいれば反対する人間もいる。そのなかで我々にどういう対応が出来るのか、というのを問われているのだと思います


▼ここからは、私個人の提案、提言になります。それはもちろん、イスラム教徒、イスラム学者としての立場でもありますし、同時に日本国民として、日米ともに受け入れられるギリギリの線だ、ということで提言させていただきます。

安部総理が言ったとおり、日本はイスラム国と戦う、そういう同盟国の側に援助をするわけですけれども、それはあくまでも人道援助に限られる、というこの論理は、イスラム国に対しても同じように適用されるべきだと考えます。

これまでも人道援助、あるいは経済援助の名の下に、アフガニスタン、あるいは直接関係するイラクに関しても、日本や国際社会は多くの援助を行ってきましたけれども、それが適切な人の手に届いていなかったと。特にスンナ派のイスラム主義といわれる人たちに対しては、非常に扱いが悪かった、というそもそもの怨嗟が、今回の事件の根源にございます。

現在のイスラム国の前身は、イラクのスンナ派のイスラム運動です。ですので彼ら自身は、アメリカによってイラクが攻撃されたことを、自らの体験として覚えております。そしてその時に彼らも含めて、サダム・フセイン政権が倒れた時には、ほとんどのイラク人はアメリカを歓迎していました。

それが数ヶ月で反アメリカに変わった。それはやはり、空爆その他でたくさんの人が殺された、特に女子供たちが殺されて、それに対して全く保障がされていない、という自体がございます。現在それが繰り返されており、イスラム国が支配している、行政の責任を持っている地域で、多くの人びとが殺されています


国際赤十字、中東地域では「赤新月社」と言われておりますけれども、ここはイスラム国の支配下のところでも人道活動を続けていると聞いております。

ですので、私の提言と致しましては、イスラム国の要求している金額、これはあくまでも日本政府の難民支援、それと同額のものということですので、それを難民・人道支援に限る、ということで赤新月社を通じ、そしてトルコに仲介役になってもらって、そういう条件を課したうえで、日本はあくまでも難民の支援を行う、あるいはイラク・シリアで犠牲になっている人たち、そういった家族の支援を行う、という条件を課したうえで行う。

これが一番合理的であって、どちらの側にも受け入れられるギリギリの選択じゃないか、と私は考えています


これで最後になります。
日本ではあまり大きく報道されていませんでしたけれども、1月17日にイスラム国はイラクのヤジディー教徒を350人、無償で、人道目的で解放しております。これもひとつのメッセージであると捉えるべきだと、私は考えています。

イスラム国の定めた期限「72時間」は短すぎる。
これから、イスラム国にいる私の古い友人たちに対して、私のメッセージを伝えたいと思います。まず日本語で。

日本政府に対して、イスラム国が考えていることを説明し、こちらから新たな提案を行いたいと思います。しかし72時間というのは、それをするには短すぎる時間です。もう少し待っていただきたい。もし交渉が出来るようであれば、私自身、イスラム国に行く用意もございます。

1月17日にヤジディー(族)の350人の人質が人道目的で解放されたことは、私も存じております。そのことは高く評価するべきだというふうに思っております。それで印象も良くなっていると思います。

日本人を釈放することが、イスラム、及びイスラム国のイメージを良くするし、私もそれを望んでいます。また、日本にいる全てのムスリムもそのことを望んでいます。72時間という時間は、我々にとってあまりにも短すぎます。時間をもう少しいただきたいというふうに思っています。これを聞いていただければ幸いです。ありがとうございます。

これは純粋な申し出であると思った。
私はイスラム国の立場に立っての言論を聴いたのは今回が初めてであり、このメッセージは相手にも伝わると思う。

この記者会見を聴いて報道のあり方も考えさせられ、「群盲撫象」(盲人象を撫でる)という寓話を想起させた。何人かの盲人がそれぞれ象の一部だけを触って感想を語り合うという話だが、中田氏が特派員協会で呼ばれるよりも先に報道機関が中田氏を訪ねてほしかった。

特に報道は異なる立場からも取材することは極めて大切だ。政府は中田氏の助けも借りて全力を尽くしてほしい。

2人共無事解放されるように。その時まで後藤さんの信仰を強め支えてくださるように。そして、ご家族の方々をも支えてくださるように祈ろう。
今週に入ってから未来に希望を持てない心境になっていたが、この最悪を通して世界を平和へと導いてくださるように祈ります。もう一度、神さまが祈り心を与えてくださったことを感謝しつつ。

posted by 優子 at 22:57| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

イスラム国人質の日本人ジャーナリストはクリスチャンだった

★この記事は本日21時12分に公開したが数分後に非公開にし、今再び公開することを決意した。

一時非公開にしたのは2014年5月の『クリスチャン・トゥディ』誌インタビュー記事から、後藤さんがクリスチャンであることを公表することにより、ますます危険を招くのではないかと懸念したからである。

このことは最初の公開前にも考えたことであるが、やはり同じ結論に至った。

というのは、後藤さんがクリスチャンであることは既にあらゆるところで報じられており、私もまたテレビを見て彼がクリスチャンであることを知ったのである。報道されている後藤さんの足跡や発言からも後藤さんの背景が伝わってくる。

何よりも後藤さんは世界で活躍されているジャーナリストであり、インターネットの威力については十分承知の上でのインタビューであった。

今日の毎日新聞によれば、その4か月後も月1回のコラム執筆依頼に応じており、1回目の原稿・「戦争に行くという意味」 が同年10月24日に同誌編集者に届き26日に掲載。その後、今後のことを「相談するメールを数回送ったが、後藤さんからの返信は届かなくなった」とのことだった。

これらの状況下で一ブログが非公開にする意味はなく、反対にクリスチャンへの祈りの要請を願うためにも公開すべきとの結論に至った。
私が選んだ結論に対して賛否両論あろうが、信仰を同じくする1人ひとりの信仰が問われているのだと思う。


後藤さん、湯川さんが無事解放されるように祈りつつ、本文を掲載したい。

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地球上で起こっている悲惨なことにばかり目が向くと、虚無感に苛まれて希望を見失いそうになる時がある。
そんな矢先の昨夕、夕飯の用意をしていると「イスラム国」が日本人を人質に取ったと、ラジオから信じられないニュースを耳にして驚愕し、しばらく立ちすくんでいた。

その衝撃は治まらず、夜遅くまでニュースを見続けた。
ただただ「お守りください」としか祈れず、霊的に萎えていた私は力のない祈りしかできなかった。そのうちに、こんな最悪なことの中にも希望はあるはずと思い始めてまもなく眠ってしまった。

今日もずっと恐怖を感じながら悶々としていたところ、拘束されたジャーナリストの後藤健二さん(47歳)がクリスチャン(日本キリスト教団・田園調布教会)であることを知った。

新たな衝撃が走った。
しばらくして主を見上げた。
心を尽くし、力を尽くして祈ろう。

後藤さんは、「昨年4月にシリアで別の武装組織に拘束されていた湯川さんを後藤さんが救った縁で、交流を深めていた」という。後藤さんを通して湯川さんにも救いの希望と主の平安があるように。

いや、それだけではなく、周囲の「イスラム国」の人々にも神の導きがあるように祈ろう。
この最悪を通して欧米側諸国がイスラム過激派の人々の心に目を向け、また、正統なムスリムの人たちのためにも、全ての人々に神の最善が成るように祈ろう。

以下は、2014年5月30日の『クリスチャン・トゥデイ』誌より、国際ジャーナリスト・後藤健二さんへのインタビュー・「それでも神は私を助けてくださる」より抜粋引用したものである。

彼が神の計画のうちに、信仰を持ち、救われたのは、何がきっかけだったのだろうか。きっかけは、ある冬のクリスマス礼拝だったという。

当時、クリスマスの「イベント」の一つとして、教会を訪れた後藤氏は、そこで何か大きな存在がこの世にいることに気づき、そして今までのどこか傲慢であった自分の人生を大きく悔いた。90年代初めの出来事であった。

すでに、国際ジャーナリストとして駆け出していた彼は、常に「死」と隣り合わせにいた。そのことを不安や恐怖に思わなかったわけではない。紛争地に出向くときは、ほとんど一人で飛行機に乗り、現地で通訳やドライバーなどとチームを組む。しかし、日本から一人で危険地帯に出向き、そこで死を迎えるようなことがあれば・・・。

「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と後藤さん。

しかし、当時の牧師に「われわれの信じる神様は、われわれが死ぬときのためにいらっしゃるのではないのですよ」と咎められ、はっとした。それからは、毎日生きていることを感謝し、神様に守られ、今も生きていることに感謝しているという。

受洗後の歩みの中でも多くの奇跡を目の当たりにしてきた。
当時、混乱を極めていたチェチェン共和国。まだ取材経験の浅かった後藤さんは単身でチェチェンに向かった。

チェチェン行きの飛行機では、隣の席にスペインから来たジャーナリストたちがいた。どこに泊まるのか、通訳はどうするのか−−何もかも決まっていない状況だったが、彼らがすべてを手配してくれた。初めて会った若き日本人ジャーナリストに。

「何か大きな力に突き動かされている気がしました。彼らに出会わなかったら、チェンチェンを取材することはおろか、生きて帰って来られたかもわかりません。神様が守ってくださったとあの時も感じました」。

シリアや他の紛争地での取材中、大きな選択に迫られる時がある。どちらの道に行ったら安全に目的が遂行できるか。まさに命をかけた「選択」だ。

その時にいつも彼の頭をよぎるのは、「主なる神を試してはならない」(マタイ4:7)という聖句だった。選択を迫られたとき、「自分は神様を試しているのではないか?」と常に頭で考えながら、祈り、そして決断するという。父なる神は、決して自分を見捨てない。その言葉を信じての決断だ。

最後に後藤氏は、小さな聖書を差し出してくれた。いつも取材に出かけるときに手放さず持っている聖書だという。十数年前に同教会の牧師から頂いたものだと言い、大切そうにページをめくっていた。

そこには、「神は私を助けてくださる」(詩篇54:6)という言葉が。「この言葉を、いつも心に刻み込んで、私は仕事をしています。多くの悲惨な現場、命の危険をも脅かす現場もありますが、必ず、どんな方法かはわかりませんが、神様は私を助けてくださるのだと思います」。

柔和な笑顔の奥に秘められた強い信仰。何者かに全てを委ねた安心感と、それに背中を押されて飛び立っていく彼の姿は、キリスト者であるがゆえの愛ある強さなのではないかと感じた。人々の心に寄り添った彼のシリアからの言葉に、祈りをもってこれからも耳を傾けていきたい。

なお、全文はここに掲載されている。


posted by 優子 at 23:25| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年01月17日

阪神・淡路大震災から20年 A ― ご遺族の寄贈により創設された神戸大学経済学部「白木賞」 ―

阪神・淡路大震災で神戸大学の学生39名が犠牲になった。そのひとり、白木健介さんは経済学部第二課程(夜間コース)2回生だった。
葬儀の後、御両親は大学に100万円寄贈された。大学はそのうち80万円を基金として「白木基金」を創設し、震災年度から経済学部の優秀卒業論文受賞者を表彰している。

私は震災後、数多くの犠牲者を出した神戸大の学生やボランティアに励む神戸大生のことを高津高校のPTAで耳にしていた。
その4年後に次女が神戸大学へ進学することになり、白木さん御夫妻の亡きご子息への想いがこめられた基金の恩恵に与ることになろうとは思いもしなかった。

私が「白木基金」のことを知ったのは、次女が優秀卒業論文賞(白木賞)を受賞したからだ。今も2002(平成14)年度に名前が記録され、最優秀卒業論文賞受賞者は太字で記され、論文をPDFファイルで読むことができる。

その時、白木さん御夫妻への感謝の気持ちをこめて、今後も基金が永く続いて行くことを願って些少ではあるが次女から大学に届けてもらい、後日、学長からお礼状をいただいたことを思い出したが、今改めて白木健介さんの御両親に慰めと感謝の気持ちが溢れる。

また、福音歌手(ゴスペルシンガー)の森祐理さん(かつてNHK教育テレビ『ゆかいなコンサート』の歌のお姉さんとして活躍)は、東灘区で下宿をしていた神戸大学法学部4回生(読売新聞に内定していた)の弟さんを震災で亡くしている。

2013年3月下旬、日本クリスチャン・ペンクラブ理事長の池田牧師が召天されたことをお伝えするために、国内外を忙しく動き回っておられる森祐理さんとメールのやり取りをしたことがあった。美しいのは声だけではなく、その文面から柔和で美しい心が滲み出ていた。

森さんは今朝午前5時から神戸市中央区の東遊園地で開催された「阪神淡路大震災1・17のつどい」で独唱された。

「弟の命が土台となり、天国への希望を届ける熱意となっていることを思うと、死は終わりでなく、地に撒かれた種として何倍もの実を結ぶものだと改めて思わされています」。

「20年の節目を迎え、この世での命が終わる日まで、弟の命の分までも託された使命を全うしていきたいと、決意を新たにしています」。


01yuri2b.jpg悲しみに耐えて生き抜いておられるご遺族の方々の上に、神の豊かな慰めと希望がありますように祈り、この悲しみが決して無駄になっていないことを信じます。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
   
                  (ヨハネによる福音書12章24節)

posted by 優子 at 19:00| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

阪神・淡路大震災から20年 @

今から20年前の今日、兵庫県南部に直下型大地震が起きた時、私達は東大阪の9階建てマンションの8階に住んでいた。

私は43歳、夫49歳、知子は高校2年生、真智子は中学2年生だった。私は母の介護で毎週2回、大阪市内の住友病院に同行し、そのあと実家へ行って母と父を助けていた頃である。

あの朝、地面から突き上げるような地震にびっくりして飛び起きた。
当時は6畳の部屋に、二棹の和ダンスと鏡台を置いた部屋に家族4人が寝ていたものだから、タンスの下敷きになっては大変と、私は咄嗟に子どもたちに寝室から出るように叫んだ。

隣室のリビングルームではCDラジカセが遠くへ飛び、台所の炊飯器はひっくり返って洗米していた米と水が飛び散り、割れた食器で足の踏み場もなかった。トイレの便器の水がザブンザブンという音をたてていた。

すぐにテレビ(NHK)をつけたが、宮田アナウンサーは被害はたいしたことないの繰り返しで、「震源地でもない東大阪でもこれなのにそんなはずはない」と私はブツブツ言いながら片付けていた。

しかし、8時頃になると被害の様子がわかり始めた。神戸の叔母たちのことが心配になって電話したが既に回線は切れていた。

この日は読書会の新年会と例会が予定されており、「東大阪読書友の会」の代表だった関係から、奈良市に住んでおられた顧問の西口孝四郎氏に開催するかどうかを相談した。

「近鉄電車は動いているからやりましょうや」ということで開催することに決まった。
その後、会員さんたちから電話があり、また、こちらから電話したりで大変だったが、まもなく電話も通じなくなってしまった。

しかし予定通り、定刻正午より小阪駅前のユニオンホテル(現?)で新年会を開き、大阪商業大学に移動して例会を終え5時過ぎに帰宅。すぐにテレビをつけると信じられない光景で立ちすくんでしまった。

夜7時20分頃、父より電話が入った。
私たちの無事を知った父はこう言った。
「あの時、すぐおばあちゃん(私の母)の寝間に入って抱いていた。『死ぬ時は一緒や!』と言ってた」と。

進行性難病だった母は、この時すでに1ミリさえ全く身動きできない状況だった。怖かったであろう!!!母68歳、父69歳だった。

夜8時頃、兄が電話をくれた。
「優子か、僕や。大丈夫やったか?!!」と力強い口調で安否を聞いてくれた。

灘区に住んでいる叔母夫婦とは連絡がとれず、無事を祈るしかなかった。
あの時、御影(みかげ・東灘区)で一人住まいしていた従妹は、地震直後、パジャマのまま両親に向かって走った。叔母夫婦もまた必死で外に出て我に返った時、叔父が娘を助け出さなくてはと思った時に娘が駆けつけてくれたという。

親を思う子と、子を思う親の姿。
高校時代の従妹は有力なスプリンターで神戸放送サンテレビで映る姿も何度か見た。従妹の走る姿と、その時の従妹の気持ちを想像するだけで今も胸を打つ。私より10歳年下だからAちゃんは33歳だったのだ。

あたりの様子は現実のこととは信じられぬ事態になっており、家はドミノ倒しのように全てが崩壊していたそうだ。私は母の通院介助のために石屋川の様子を見ることなく過ぎてしまった。

翌18日朝の7時半頃に叔父から無事の第一報が入った。
叔父は電話口までこぎつけたものの、公衆電話は長蛇の列で直ぐに切らねばならなかった。8時半頃に叔母からも電話があった。

この日は母の通院日で、私はいつも通り9時前に家を出て住友病院で両親と再会した。帰り道、いつもならば10分ほどで行ける野田阪神に出るまでに1時間かかっていた。

国道2号線の淀川大橋手前の海老江(えびえ)の交差点では一般車両の通行止めでごった返していた。
母の床ずれの痛みも限界を超え苦痛に耐えていた。ようやく先頭の数台前になった時、私は身体障害者の証明書を持って交通整理の警察官まで走って行った。

事情を説明すると警察官は快く橋を通ることを許可してくれ、迂回せずに直進した。「さすが優ちゃんやなあー」と感激する父の反応に、「そんなん当たり前やんか」と返し、喋ることもできない母はホッとした表情を浮かべて微笑んだ。


その夜、叔母たちは西神中央のマンションに住んでいた息子宅に移ったと電話が入り安堵した。同じ神戸でも西区は全く被害がなく、ガスも水道も電気も全てが平常のままだったとは、まさに天国と地獄を見るようだった。

阪神電車は青木(おうぎ)駅までしか行かず、阪神高速道路は飴で作った玩具のように壊れていた。ところが、この大惨事なのに梅田界隈はそれまでと全く変わらず、ここでも天国と地獄絵を想像させた。

あの頃の私は母の介護で疲れていただけではなく、高津高校の役員、東大阪市の2つの行政委員、読書会会長、河内の郷土文化サークルセンター理事・・・と多忙な年月だった。
しかし、この大惨事に何一つお役に立てなくて、土佐堀のYMCAへ駆けつけたもののボランティアは立ち切れになってしまい自己嫌悪に苦しむ日々でもあった。


20年の月日が流れ、今朝5時半頃、目が覚めてラジオを聴きながら当時を思い出し、震災で大切な人を亡くされた方々の悲しみを想像していた。この20年間は必死に生き抜いてこられた日々であったことであろう。人は命ある限り最後まで生き抜かなくてはならないと強く思わされた。

母は翌1996年10月に、父も2000年8月に召された。
神戸の叔父は1999年7月に亡くなり、従弟は2011年2月に50歳で亡くなった。

posted by 優子 at 18:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

「国家と個人」 ―『種を蒔く』2号掲載文より D ―

目次・「危機を孕む時代に」に収録された一作。
国家と個人

やはりシリアはダマスカス近郊でサリンを使ったようである。

当初アメリカは、「越えてはならない一線」を超えたとし、「米国が何もしなければ独裁的な政権による化学兵器使用を容認することになりかねない。独裁者が大量破壊兵器を使ったことに目をつぶれば、歴史がわれわれに非常に厳しい評価を下すだろう。」との考えで、短期間に限定しての軍事行動を加えると訴えた。

しかし、アメリカが軍事行動をとればシリアの友好国であるロシアは黙ってはいないだろう。そうなれば攻撃は数日間では終わらず、第2のベトナム戦争、いや、第2がイラクならば第3の地獄を見ることになるかもしれない。今も米ロの緊張した対立状況が続いている。

アメリカの言い分を聞いていると、かつてアメリカが広島と長崎に原爆を落とすための大義名分にした、「戦争を早く終わらせるために」と同じに聞こえ、国家のエゴに唖然とする。

8月末の米国務省の定例記者会見では、いみじくもロイター通信の記者が軍事介入の正当性について次のように鋭く突いた。

「米国が核兵器を使用し、広島、長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは、あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」。
これに対して当局の返答はなかった。

国連本部前の「イザヤの壁」には、イザヤ書2章4節(聖書)の聖句が刻まれている。

    「主は国々の間をさばき、
     多くの国々の民に、判決を下す。
     彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、
     その槍(やり)を鎌に打ち直し、
     国は国に向かって剣を上げず、
     二度と戦いのことを習はない」。

日本国憲法9条もまた同じ戦争放棄の立場である。その日本においても今、憲法改正の声が高まっており憂慮すべき事態になっている。ここで原点に立ち返らなくては再び悲惨な時代に入っていくことであろう。

日々変化する国際状況を見ていると、いったい人間はいつになったら戦うことを嫌悪するのだろうか。いつになったら歴史に学ぶことができるのだろうかと嘆かわしくなる。

地球上では常に戦いが繰り広げられ、それが人間の歴史であった。しかし、戦いは国と国との関係だけではなく、日常生活での個人の問題も同じだと思う。

個人の争いも組織の争いも、そして国家間の争いも全て同じ延長線上の問題だ。十分に話し合い、それでも意見が違った時は、手を離して神に委ねるのが賢明だ。

それができるのは自己の努力ではどうすることもできない罪の問題に気づき、その罪の赦しがなければできないということがしみじみわかるようになった。

私たちは何事においてもある程度までは努力によって何とかなるが、努力すればするほど歪んで行く場合もあり、どうにもならない事も多々ある。私たちの力は何と有限なことかと思う。

それは日常生活でのことだけではなく、政治上のことも全てのことにおいて同じことであり、結局全ての問題は罪の問題に行きつくと気づかされる。

三浦綾子が、「人間の社会はなぜこんなにも幸福になりにくいのか、一体その原因は何かと考える時、やはり教会で教えられている罪の問題に、つき当たらずにはいられなかった。」と書いているとおりである。

為政者たちの上に神の導きと知恵が与えられて、アメリカやロシアに懸命な選択を祈るばかりである。
                               
                         (2013年9月)

2013年のシリアの化学兵器使用に関連して、" usfl.com "
(Wednesday, January 14, 2015)によれば、オランド大統領が2013年のシリア空爆取りやめたことを「まだ後悔している」と、下記のように伝えている。

【共同】フランスのオランド大統領は14日、原子力空母、シャルル・ドゴールの艦上で行った軍への年頭演説で、2013年にシリアのアサド政権に対して軍事介入をしなかったことについて「まだ後悔している」と述べた。

フランスは化学兵器を使用したアサド政権に対する軍事介入に参加方針を表明したが、オバマ大統領の方針転換で実現しなかった。オランド氏は「過激派が支配地域を広め、現在のような結果になった」と話し、暗に米国を批判した。

シリアやイラクではその後、過激派「イスラム国」が勢力を拡大。欧州各国から多くの若者がイスラム国に参加し、テロの脅威が増す事態を招いている。

この状況をいかにして治めて行けばよいのか。
私の祈りは愚者のたわごとなのだろうか。
それでもやはり同じ考えに行き着くのである。

posted by 優子 at 17:57| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2015年01月15日

ユキの成長と世界のより良き未来を祈って

「ちゃっくん無事救出されてよかったね!
やっぱりちゃっくんは天使やね。10倍ポイントよかった(^^)」。


チャッピーのことを「イヌオ」と呼んだ私はマチに言われて気づいた。(1月14日記事・「真夜中のお騒がせ犬」)
そう、チャッピーはいつも我が家の天使だった。ごめんね、チャッピー、イヌオだなんて。

数日前のニュースで、首都ワシントンの地下鉄で煙が充満して乗客1人が死亡したとのこと。メールもしなかったのに、ユキのインフルエンザや家族の体調を心配してマチから温かいメールが届いた。
ありがとう!
そして、ユキの担任の先生からも優しいお手紙をいただいた。インフルエンザで休んでいるのはユキ1人だけだって!

坂田先生より.jpgユキの欠席当日に続いて今日も担任の先生からお見舞いのお電話をいただき、昨夕から平熱になっていることをお伝えしたら、夕刻遅くに郵便受けに欠席中の宿題を届けてくださった。

愛をこめて子どもたちを導いてくださっている先生に熱いものがこみ上げ、お手紙を抱きしめた。何度読んでも涙で鼻がツンと痛くなる。

ユキが大人になった時のためにもここに記録しておいてやりたい。
字の読み方から何もかも一から教え、知識を授けて下さった1年生担任のS先生。ユキは生涯忘れることはないだろう。全てはここから始まったことを!

マチが結婚式に小学校1年のK先生にご臨席願ったのも、その感謝と感動の思いからだった。我が子や孫の幼い頃を知ってくださっている先生の存在は大きな喜びだ。

「ゆきちゃんのインフルエンザもパパの風邪も早く治りますように。
まちは今週からエンジンかかってきて頑張っているよ。来週月曜はキング牧師の祝日だから、今週末は3連休で楽しみ。頑張るよ。
お大事にね。  真智子」


毎年1月第3月曜日は " Martin Luther King Day "、マーティン・ルーサー・キング牧師(1929年1月15日 - 1968年4月4日)を称える米国の祝日になっている。アフリカ系米国人を記念する唯一の連邦法定休日だという。

キング牧師は僅か39歳で命を奪われた。
21世紀に入って、世界はテロが日常的に繰り返されるようになり恐怖に怯え、世界は良くなっていっているとは思えない。

新年早々の今月7日、アルカイダがパリの新聞社「シャルリ・エブド」の本社に2人組の男が銃を乱射し、編集会議に出席していた幹部や警察官など12人を殺害。その後犠牲者は17人になった。

この新聞社は時事問題を風刺をきかせた記事で伝えることで知られているとのことだが、改めて「表現の自由」について考えさせられている。

フランスは日本と違ってフランス革命により市民の力で自由と平等を勝ち得た国であるから、自由についても成熟した考え方のはずだ。

何をしてもよいというのが自由ではなく、自由には規律が伴い、表現の自由を重んじるということは、同時に他者の尊厳を侵してはならないということでもある。やりすぎてはいなかったか。

人間とは徹底的に自己中心にしか物事を考えられぬ弱い存在だ。自分自身もそうだし他者を通しても日常的に経験するところであり、私たちは常に自己洞察し、「客観的な正邪の観念」に立てるように訓練されねばならないと思っている。


いずれにしても暴力やテロは言語道断だ。
世界はこれからどうなっていくのだろう。
ユキが大きくなった時、世界はどのようになっているのだろう。

「ユキ、心を養いながら知識を蓄えた大人に成長して、より良き未来を生きてほしい。ユキのかわいい寝顔を想いながら、おばあちゃんは今そんなことを考えているよ。明日はお風呂に入れるね」。

ワシントンで働いているマチ・クマや、全ての人々の無事をいつも祈っています。

posted by 優子 at 23:58| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年01月14日

「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―」  浅田高明先生の真髄に心揺さぶられて

東大阪読書友の会に参加していた時、太宰治の『パンドラの匣』を取り上げた1992年4月の読書会で浅田高明先生と初めてお出会いした。今から23年前のこと、長女は14歳、次女は11歳、私は40歳だった。

ウィキペディアにも記されているように、浅田先生は医学博士の太宰治研究家で実証研究者として著名な方である。

このたび浅田先生から『異土』(文学表現と思想の会)2冊を御恵贈に与った。共に350ページに及ぶ分厚い「小説と評論の文学同人誌」である。
この2014年6月発行の9号には浅田先生の評論、「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと(1) ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―」、12月に発行されたばかりの10号には(2)が掲載されている。

(1)では原稿用紙176枚・59ページ、(2)には225枚・74ページに渡って執筆されている。それでもかなり割愛されたそうだが、執筆された評論は研究者たちだけではなく私たち一般の者にもとても興味深い文献である。

郵便受けで封書を見つけ、家に上がる前に封を開くや否や立ち読みし、寒さに気づいて食堂の椅子になだれ座って読み始めた。

とにかく感謝の一筆は1冊分だけでも読ませていただいてからと思いながらも、その一字一句からほとばしる先生の感慨がこちらに伝わり、胸に込み上げてくる思いを押さえることができず受話器を取っていた。

浅田先生は結核や呼吸器の専門医としてだけではなく、ハンセン氏病についても永く心を注いで来られたことから、拙著『メメントドミニ』で「遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』の主人公ミツのモデル・井深八重晩年の手記」をご覧くださった時に、その原本を教えてほしいとのご連絡をいただいて同志社同窓会報をご紹介させていただいたことがあった。そのことをお心にとめてくださってご恵贈くださったのである。

同志社同窓会報25.jpg
井深八重姉.jpgこのたびの著述で取り上げておられる井深八重は、同志社女学校(現在の同志社女子大学)英文科を卒業して英語教師になるが、ハンセン氏病と診断されて神山復生病院に隔離入院。その後誤診と判明するが、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた人物であり、遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルである。

この世には、かくも数奇な生涯があり、八重のような偉大な生涯を送った人々を前にして、私は己の生き方はこれでよいのかと問いたださずにはいられなくなる。

読み終えたら感じ考えたことを先生にお伝えしたい。

北條民雄のウィキペディアによれば、「2014年、ハンセン病に対する偏見、差別により本名は公表されていなかったが、出身地の阿南市が親族に20年間に渡って本名を公開するように説得、6月親族の了承を得て、没後77年経ってようやく本名が公開された」。 

差別意識や偏見とは、そんなにまで人間の心を束縛し不自由にするものなのか! まるでどうにもならぬ放射能のようではないか!!!

posted by 優子 at 23:35| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

真夜中のお騒がせ犬

今朝未明の午前3時過ぎ、犬の声で起こされてしまった。熟睡しているのを起こされたのだから、30分以上鳴いていたに違いない。

「どこの犬やろう。隣りの犬かなあ・・・」と、耳を澄ませてもよくわからない。透き通った声で鳴いているのだが、こちらも半分寝ぼけていたのでわからなかった。

しかし、やかましい。
ついに窓を開けて顔を出してみた。
どうも母屋の勝手口のあたりから聞こえてくる。

夫は知らんぷりしているので、私は血圧を心配しつつ降りて行こうとしたら、夫も起きてくれた。「チャッピーが鳴いてる」と、知子の部屋から高熱にも関わらずユキのかわいい声が聞こえた。

ベランダへ出ると、どうやら裏で鳴いているのがわかった。
と、その時、夫が懐中電灯も持たないで裏まで来た。
「どこや?」
「あのあたりで鳴いているわ」

そして、夫が犬の声のする方へ行って発見! 
うちのチャッピーだった。ちっ(怒った顔) ちっ(怒った顔) ちっ(怒った顔)

昨日は寝る前に何十年振りかで榎本保郎牧師の『ちいろば』を読んで、今も榎本節が脳裏に残っているので、この記事は榎本調で京都弁ならぬ大阪弁で書きたい。

真夜中のお騒がせチャッピー.jpgマメやなあと思われるけれど、朝になって写真を撮って来た。裏の家との境界線の溝に落ちて鳴いていたのだ。
柵の左側は裏のお宅の敷地で、右手前の溝の深さは1メートル近くもある。そこにチャッピーが居た。真っ暗闇の中で。
ばっかも〜〜〜〜〜〜ん!!!!!
夜中までウロウロするなんて、
やっぱりチャッピーは犬やった!!!

夫はしゃがんで、チャッピーの首輪を持って引っ張り上げた。ふらふら
さすが、この時ばかりは夫も点数を稼いだ。何年ぶりやろう、私に頼もしく感じさせた。スーパーの10倍ポイント加算という感じやった。


チャッピーはすぐには歩き辛そうだったが歩いたので胸をなでおろした。ちょうど昨年の1月は大変だったから。

チャックンはやっぱり犬やった。犬は真っ暗な夜でもウロウロするんやな。あるいは、ボケ始めているので徘徊なんやろうか。
とにかく今日から夜は繋ぐことにした。繋いだらえらい怒って鳴いていた。
「チャックンは学習でけへんからな」と知子。
その通りや。
しかも明日の朝には雨が降ってるかもしれん。雨が降ってたら、なんぼ鳴いて呼ばれても誰も助けには行ってくれへんで。

イヌオ(ダメ犬の時の呼び名)を無事救出してベッドに入ったのは3時20分頃だった。さあ、それから眠られなくて困った。

ようやく4時半頃から眠ったのはいいが、夫が起きたのも、いつ家を出て行ったのかも知らず、知子がユキの世話をしている音で目が覚めた。8時前だった。
そこでもう一度薬の吸入の仕方を私にレクチャーして知子も急いで家を出た。すでに夫は会社に着いている時刻だった。イヌオも今朝は遅くまで爆睡していた。犬

「今朝はごめんね」。
今夜は夫に何度も何度も謝った。
まあ、お互いに持ちつ持たれつやけれどな・・・と、心の中で想った。

私は昨夜のチャッピー騒動で夫に100ポイントアップし、その10倍ポイント進呈というほどに気持ちが満たされた。こんなことでである。

とにかく獲得した1000点をすぐに無くしてしまわんように、お互いに円満にやりましょな。
涼しい所でリラックス.jpg
チャッピーも、たのんまっせ!  
しっかりしてや〜〜〜〜。
お し ま い。


posted by 優子 at 23:23| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2015年01月13日

インフルエンザ流行早々にダウン!

3連休最後の昨夜、ユキが発熱した。
昨夕から私は相変わらずの現実に辟易して血圧が上がっていた。そのために頓服薬として処方されている睡眠導入剤を夕方と夜と2回も飲んでいたので、今朝も薬の成分が体内に残っており、平衡感覚がなくフラフラしていたために知子がユキを医院へ連れて行った。

ユキの熱は高いが悪寒や関節痛もなかった。しかし、医師が念のためにと検査したところインフルエンザA型だとわかった。知子たちが医院から帰宅した時は午後1時前になっていたので、知子は出社するのを諦めた。

実は9日夜から夫(ユキの祖父)が風邪で熱を出していた。翌10日(土)は、私が2ヶ月毎に受診しているかかりつけ医院へ夫も一緒に行くことになっていた。

というのは、昨年末で財政難から紙商健保組合診療所が閉業したために、夫も生活習慣病の管理をしていただこうと夫婦で通う事になったのだが、夫はただの風邪とのことだった。
しかし、軽い症状でも陽性反応が出る場合もあるとのことなのでインフルエンザだったかもしれない。幸いにして、3日間寝ていた夫は悪化せずに連休明けの今日もいつも通り出社した。

ユキは高熱なのに今夜も寝る前のお祈りをしたという。急に祈り出したそうだ。
「おじいちゃんは自分のことしか考えていないのでユキにうつりましたが、どうかおじいちゃんがそのことがわかりますように」と。


夫には、手洗い、うがい、マスク着用など、今もその都度事細かく言わねばならない現状なのだ。

知子は医師より今週末までユキの出席停止を学校に伝え、17日(土)のサッカー教室も欠席の連絡をした。12月28日(日)、1月4日(日)の練習日も、自ら「教会へ行きたい!」と言ってサッカーを休んだユキだが、久々に楽しみにしていただろうに残念だ。

ところで、今回初めて「リレンザ」という薬を処方され、知子から吸入の仕方を教えてもらった。
真智がアメリカへ渡った2006年の秋、インフルエンザの予防接種は注射ではなくて鼻腔にシュッシュと薬を吹き付けるだけだと聞いて、さすがアメリカは進んでいるとひどく驚いたものだが、昨年3月のインフルエンザで処方されたタミフルではなく吸入式のリレンザが処方された。

ネット検索から年齢的に可能になったこともあるようだが、丁寧な説明を聞かないで受動的に使用することに些か抵抗を感じる。

とにかく「インフルエンザの原因であるウイルスの増殖スピードは極めて速く、たった1つのウイルスが24時間後には約100万個になるといわれています。従ってできるだけ早く吸入する事が大切です。薬局などでお薬を受け取ったら、できるのであればその場で最初の1回分を吸入する事をお勧めします。」とのことで、ユキも薬局で説明方々最初の1回分を吸入してもらって帰宅した。

ユキが病気だと静かでいいが、やはり元気が何よりだ。早く良くなりますように。そして、神さまがユキのお祈りをお聴きくださって、このことから良輔の心を揺さぶって気づきを与えてくださるように切に祈ります。

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年01月12日

朝ドラ『マッサン』のリタ竹鶴の生涯

NHK朝ドラ『マッサン』の妻・竹鶴リタ(リサ)について知りたくて検索し、" withnews " " The page " "nippon.com "などから転載させていただいた。

2人の結婚は双方の家族の猛反対にあい、戸主の承諾が必要な教会での挙式を断念し、グラスゴーの登記所で結婚登録書に署名。家族で唯一の味方だった末妹のルーシーとリタの幼なじみ、そして登記官だけが立ち会う簡素な結婚式だった。

リタは、来日4年後の1924年と1931年に、政孝とともに視察名義で故郷・スコットランドに帰郷している。
この写真は1931年に里帰りした時のリタ(左から2人目)。右端がリタの母。リタの膝に座るのは姪のヴァレリーで、リタの横に座っているのが養女リマ(ドラマではエマ)だ。 

1931年、リタ、母と再会.png

今から90年も前のこと、親の大反対を押し切って日本人男性と結婚した娘。その娘と再会した母の思いはいかばかりであったであろうか。
その後、母と文通も交わすようになったそうだが、この頃には母と娘は和解していたのであろう。穏やかに微笑んでおられる表情に母の深い愛を想う。

心が痛むのはリマと政孝・リタ夫妻との関係が悪くなっていき、リタの晩年になるまで関係は修復されなかったことだ。

リタは亭主関白で典型的日本男児だった政孝を立てて尽くした。しかし、帰宅時に夕食の膳が整っていないと機嫌が悪くなるくせに、時間にルーズな夫を「夕食は家で食べるのか食べないのか、はっきり告げるのが男の礼儀ではありませんか」と諌めることも忘れなかったとは、自己確立した女性の素晴らしさを見る。

そんな政孝だが、リタの誕生日には必ずメッセージを添えて本を贈った。その表紙の裏には愛情いっぱいの言葉が記された多くの本が残されている。

余市への移住を人一倍喜んだのはリタだった。
リタは余市川にかかる田川橋の上で、足をとめ、そこから見える夕映えのなだらかな山並みとフゴッペ海岸の、故郷スコットランド思い起こさせる風景をうっとりと眺めていた思いもまた、いかばかりであっただろうか。

晩年、リタは肝臓や肺を病み、政孝がよく滞在する東京に近く、治療にも便利な神奈川・逗子で過ごすことが多くなったが、1960年秋には、どうしても帰りたいと余市へ戻った。
クリスマス前夜、窓の外では、リタを思い教会の信徒たちが讃美歌を歌ったという。

リタが1961年1月に亡くなった時、葬儀は養子の威より余市教会の牧師に一任された。政孝は自室にこもり涙に暮れた。葬儀の相談にも出てこず、葬儀が終わり、玄関を出ようとした棺を何度も何度もなでたという。

政孝は家中で、「おばあちゃんが死んじゃった」と泣きわめき、「大人がそんなに取り乱すというのは初めて見ました」と、孫が語っている。

そして政孝は晩年、「洗礼を受けなければリタと同じところに行けない」と、東京聖三一教会の竹内謙太郎司祭から病床洗礼を受けた。リタの祈りは成就された!


今、リタと政孝は美瑛の丘で眠っている。
「リタ幼稚園」(元々は日本基督教団余市教会が1950年に開設した教会附属の余市幼稚園)があり、そこから町役場に至る1.3qの遊歩道は「リタロード」と命名されているそうだ。
そこは、ベニハナトチノキ、サルビア、マーガレットなど、リタの故郷スコットランドが1年で最も美しい6月に、この道もまた多くの花で彩られるそうだ。

政孝とリタは、日本のウイスキーが本場スコットランドの最高級ウイスキーに肩を並べる日が来ると想像したことがあるだろうか。2人共、実によく生きた生涯であった。

2人の生涯を振り返る時、そもそも人生とは悪戦苦闘の連続であり、素晴らしい人生ほどそうなのだと改めて思わされた。

その背後で母の祈りがあった。特に母親ならば我が子は異国ではなく母国で過ごしてほしいが、我が子が自分の人生を精いっぱい生きることは、親の最高の願いであり喜びだ。リタの生涯に悔いはなく、お母さんもまた娘の生き方を受容し喜びに変えられたことだろう。

地上に在る時間は有限だ。だからこそ、それぞれが思いっきり自分に賜った人生を生きればいいのだ。子どもには子どもの人生がある。

地上では遠く離れていようとも、神に罪赦された者には天の御国に迎えられて永遠の時が約束されている。そこで親子が思う存分語り合えばいいのだ。
私たちも生かされているかけがえのない命を尊く悔いなく生き終えたいものである。


ドラマで見る限り、リタの根本となす精神性に筆が入れられていないのが物足りない。
リタは事あるごとに、何かあるたびに日々刻々に祈っていたに違いない。例えば、いつも「だいじょうぶ」という言葉の意味は、「神さまが共におられるから大丈夫」の意味であり、リタの最も中核となるところが描かれておらず素通りされているのは残念なことである。

それはキリスト教への無知ゆえなのか、あるいは脚本家の感じえぬ静謐だから表現できないのだろうかと興味深いところだが、リタことエリーを演じるCharlotte Kate Fox(シャーロット・ケイト・フォックス)さんの人間性がその部分をも想像させ、演劇に関しても演技力よりも先立つのは人間性であるとの感を強くして観ている。

posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2015年01月10日

子育てを通して構築すべきは親の価値観

前記事を書くことで、ヒヨドリとの出会いを導入として自然と人間の関わりや、ユキの得意分野で表現技法を引き出してやりたいとの思いが浮上している。

ところで、「生活科」は1992年度から小学1・2年生を対象に始まった教科で、主に体験的な活動を重視したものである。
「生活科」導入前の1992年の今頃、次女が小学校5年生の3学期の時に、私はPTA広報誌で「生活科」について書いたことがある。この年は学校週5日制が段階的に実施された年でもあり、いつの時代もより良きを求めてチャレンジしていたのだと感慨深い。

当ブログにも2006年に一度紹介させていただいているが、果たして23年前に書いたものを読んで、その内容は博物館行きと感じるのか、あるいは現代にも通用すると思うのか改めて読み直してみたい。

氷が溶けると何になる?

東北地方の小学校での話だったと思います。
「氷が溶けると何になりますか?」と先生が尋ねたところ、殆どの子供達が「水になります」と答えました。ところが一人だけ、
「氷が溶けると春になる」
と答えた子供がいて、先生達を考え込ませた話は有名です。

なんと心豊かで、夢いっぱいの答えでしょうか。
私達はこの感動こそ育ててあげなければならないのですが、何事も速ければよいというインスタント時代に生きる私達が、子供の感動を抑えてしまってはいないでしょうか。

そこで私が関心と期待を寄せているのが、今春(1992年)から正式教科になる小学校低学年(1・2年)の「生活科」です。
理科と社会をなくす戦後初めての教科改廃で、先生方のとまどいも大きく研修会が開かれています。

日本の学校は、明治の学制施行以来、一貫して「教科書学校」でした。
ものを知っている先生が、知らない子供に教える授業の形態をとってきましたが、この「生活科」により、自分の考えを自由に発表できる子が育つのではないかと胸ふくらませています。

先生方にとっては、先生自身の感性も更に関係していくであろうし、展開の仕方、評価の問題と、新しいチャレンジになることでしょう。

とにかく、子供達一人ひとりの発想を認めていただき、自分の考えを臆することなく発言できるように導いて頂きたいと思います。

平成4年度から、この「生活科」に加えて、2学期から学校週5日制が段階的に実施され、今年は「教育年」とも言える教育のあり方そのものが問われようとしています。

子供の成長にかかわる私達は、個性を引き出すという教育の原点に少しなりとも近づく努力をしたいと思います。

「氷が溶けると何になる?」      

 
(東大阪市立藤戸小学校PTA広報委員会 
         1992年1月16日発行
           ふじとニュースNO26号より転載)
 

これを読んで今思う事を述べよと言われれば、これだけ時代が激変しても原点は微動だにせず、私は23年前と全く同じ教育観で子育てすると言いたい。

言葉をかえれば、人生の座標軸となる価値観(親の教育観とは親の価値観である)はどんなに時代が変わっても不変であり、現代においては尚のことその理念を明確にして子どもの教育に関わらねばならないとの考えである。

一方親もまたと言おうか、時代が変わって親の世代も入れ替わっているにも関わらず変わっていない。親が子どもに求めるのは知識の先取りであり、その種の塾通いが一段と低年齢化しており、親は子どもに何を求めてその送迎のエネルギーと時間をかけるのだろうかと不思議でならない。

そういえば昨秋、教育全体を変えていくために大学入試改革をすると文科省が発表していた。5〜6年後と言えば、現6年生の子どもの大学入試から大きく変更され、これまでのマークシートの取りやめも検討されている。

確かに知識は必要であり、批判力を持つためにも知識がなくてはできないが、知識を豊かに機能させるには考える力が必要だ。
大多数の人々のやっていることは、問題意識を持って考える力を養わずして知識を詰め込んで行く。考える力の原動力となるのは感動する能力であり、感動の蓄積こそが能力を開花させると私は確信している。


わが子の教育、公教育のあり方、また公立学校での学力の保証の問題、私立校の使命・・・など、いつの時代も考えさせられる重要課題である。

年長者も「子育てが終わったから関係ない」ではなく、全ての大人が子どもたちを見守り考えつづけねばならない問題であり、子どもにはその年齢でしか経験できない発見と感動を蓄積して行ってほしいものである。

※1月9日23時10分に書いたものだが10日の日付けで更新。

posted by 優子 at 00:00| 教育 | 更新情報をチェックする

2015年01月09日

別のヒヨドリがきたよ!

また来たよ!.jpgその後、鳥はバードテーブルにもやってくるようになった。この写真も昨日ユキが撮ったものだ。この前とは別のもっと大きなヒヨドリだ。
ユキは今日、先生に見せようと、まだ書きかけの絵本の表紙だけ学校へ持って行った。そういえば、これもまた生活科の、しかも自らテーマを見つけてのリポートである! どんな会話がなされたのか聞くのが楽しみだ。

昨日はつがいのメジロが近くの木まで遊びに来た。ヒヨドリには悪いがメジロを撮りたい。このミカンは昼頃に殆ど無くなっていたので、3時過ぎに新しいのを置いてやった。

ミカンを置く.jpgするとその12分後、帰宅したユキが食べているところを見つけてパチリ!
 

12分後に来たよ.jpg










写真を撮っているユキを撮る.jpgそして私はヒヨドリを撮っているユキを撮った。窓越しではつまらないので、窓をそっと開けたのに鳥はすぐに察知して飛んで行ってしまった。
2015年は「撮り鉄」ならぬ「撮り鳥」の冬で始まったが、これでおしまい。メジロやスズメを撮った時だけご披露したい。乞うご期待!


posted by 優子 at 16:21| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年01月08日

「神の見えざる手に導かれた生涯  ―新島襄―」 ―『種を蒔く』2号掲載文より C ―

神の見えざる手に導かれた生涯  ―新島襄―

110927_110712~1.jpg1864年6月、函館から密出国した新島襄はこの時21歳。吉田松陰が下田から密出国を図った10年後のことである。

国禁を犯して脱国した新島襄の生涯は、まさに神の見えざる御手に導かれてのプロビデンス(摂理)であった。

函館からアメリカ商船のベルリン号に乗り込んだ新島はセイヴォリー船長の同情で乗船することが叶い、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り移る時もセイヴォリーの助けがあった。後年それらのことが明らかになって、セイヴォリーは船長を解雇された。

ワイルド・ローヴァー号のテーラー船長もまた新島をかわいがってくれ、新島の名前が呼びにくいので「ジョウ」と呼んだ。これらの良き人々の助けによりアメリカの地を踏み、その後はワイルド・ローヴァー号の所有者ハーディが新島の運命を開花させていくのである。

敬虔なクリスチャンであったハーディは新島の保護者となり、新島を「ジョウ」ではなく「ジョセフ」(Joseph)と呼んで高等教育を受けさせた。まず英語の基礎を学ばせてアマースト大学へ進み、卒業後はアンドヴァー神学校で神学を修めた。新島は帰国する時に、心の父ハーディへの感謝をこめて「ジョセフ・ハーディ・ニイシマ」(Joseph Neesima)と改称している。

日本国が新日本建設のために有力な大勢の官吏を欧米へ派遣した時、新島は岩倉具視一行の文部省当局者・田中不二麿の官吏グループの通訳に抜擢された。

この時すでに在米7年で英語に精通していたこともあるが、政府の留学生ではなく国禁を犯して密出国した新島に神の摂理が働き、キリスト教に強い関心を持っていた森有礼の口添えで特別に抜擢されたのである。

このことから不二麿との深い交わりを得、そしてまた木戸孝允とも知遇を得て同志社創設の実現につながっていくのである。

国禁を犯して脱国した者が、よりによって尊王攘夷の中心地に、しかも、こともあろうに日本国が厳禁していたキリスト教主義の学校を創設できたことは、まことに神の摂理であった。

「同志社」とは、新島の志を同じくする者が創る結社の意味である。新島の志とはキリスト教精神に基づく「良心」であり、「良心を手腕に運用する人物の養成」が建学の理念であった。

1888年に発表した「同志社大学設立の旨意」には、「一国を維持するは、決して二、三、英雄の力にあらず。 智識にあり、実に一国を組織する教育あり、品行ある人民の力に拠らざるべからず」と記されている。

また、「我が校をして深山大沢のごとくになし、小魚も生長せしめ、大魚も自在に発育せしめん事」という言葉からも、学校建設だけではなく新島の描く人間社会の在り方を想像させる。

yjimage.jpg新島は半生を振り返って次のように述べている。
「私の一生はアンシーン・ハンド(Unseen Hand・神の見えざる御手)に導かれて今に至っている。今後も私はこのアンシーン・ハンドの導くがままに行くべきところに行くのである」。

また、1890年に同志社普通学校を卒業し、後年、同校の教頭になった波多野培根は次のように書き残している。
「『彼は其往く所を知らずして出ていけど』(ヘブル書11章8節)、不思議なる『見えざる手(アンシーン・ハンド)』が彼を導きて目的の地カナンに至らしむる。自己の意識せるよりも意義の深遠なる大事業を為し、不朽の感化を後世に垂れるのは此種の人である」。

新島襄筆.jpg「真理は寒梅の似(ごとし)、敢えて風雪を侵して開く」と新島が詠んだ詩のとおり、彼の生涯はまさに風雪に逆らって咲く寒梅のごとき生き方だった。

しかも思いやり深く、内村鑑三をアマースト大学総長のシーリーに引き合わせる時も、多忙な日々にあって陰で人と人との間を取り持つ人物であった。

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ伝・3章6節)は、新島が「聖書の中の太陽」と呼ぶほどに愛した聖句である。

新島の上に神の摂理が働いたごとく、神は切に求めてやまぬ者の上に働いて御心を成就されることを心に刻みたい。2014年は新島が国禁を犯して函館の地より脱国してから150年目にあたる。
                           (2013年9月)

新島襄は46歳11カ月の若さにして帰天。京都東山・若王子山頂(現在の同志社墓地)に葬られた。私も同志社在籍中に4〜5回(?)墓前礼拝に集っている。

教会のクリスマス祝会で、私が高見牧師とカレッジソングを歌って以来、ユキが聞きおぼえた歌詞を歌っている。
" One purpose, Doshisha, ・・・For God, for Doshisha, and Native Land! "と。
ユキは同志社ボーイだ。7歳にしてカレッジソングを覚え始めるとは新島先生も喜んでくださることであろう。ユキも中学から同志社に進学するのかな?(^−^)

posted by 優子 at 22:23| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2015年01月07日

谷崎潤一郎の恋文 ―丁未子と松子への文章酷似―

1月3日朝、ベッドの中でラジオから聞こえてくる声をウツラウツラ聞いていると、谷崎潤一郎のことを言い始めたので耳を傾けた。

谷崎潤一郎が1964年のノーベル文学賞の最終選考直前の6人の候補に残っていたと言う。そして、選考委員の1人が「作品にあるサディズムは、西洋人の読者からは受け入れられにくいと思う」という見解を示したとのこと。

私は谷崎が好きではないが読書会に入っていたおかげで、今夜の「クローズアップ現代」の「谷崎潤一郎の恋文 〜文豪が貫いた意志〜」を関心を持って見た。
『細雪』のモデルだった3人目の妻・松子と谷崎との間で交わされた288通の手紙から、最後の妻との結婚生活に救いを感じた。

と言うのは、谷崎は最初の妻・千代を離縁して長女・鮎子と共々、友人の佐藤春夫に譲ってすぐに丁未子(とみこ)と結婚したが、稲荷山住まいから3年で離婚、一生の伴侶となったのは3人目の妻・松子だったからだ。

私にとって谷崎と言えば西口孝四郎氏であり、「谷崎の恋文」についても熱く語っておられた西口氏を思い出さずにはいられない。 

西口氏の発掘@.jpgこれは『中央公論』の「文芸特集 秋季号」(1994年)。
この特集号に14ページに渡って西口氏が谷崎年譜の「欠落の章」について、「谷崎潤一郎が妻丁未子にあてた三通の手紙」と題して執筆されている。


西口氏の発掘B.jpg今夜の番組は谷崎と松子の手紙に焦点を当てていたので触れていなかったが、西口氏は丁未子に宛てた手紙を入手したことから、文豪谷崎潤一郎にしては恋文の手法、発想の仕方がびっくりするほど同じで「少し”曲がない”とさえ思わせられる。」と指摘している。


一例を挙げよう。
丁未子さん宛ての恋文:
「その功績と名誉とは、私のものではなく、あなたのものです。私の芸術は実にあなたの芸術であり・・・」

松子さん宛ての恋文: 
「私にとりましては芸術のためのあなた様ではなく、あなた様のための芸術でございます」。


谷崎の人間性を見るに、西口氏の突っ込み方は実に鋭い。

谷崎年譜で空白になっていた1931(昭和6)年10・11月の2ヶ月間、生駒山麓の「稲荷山」に住んでいたことを突き止めたのが、西口孝四郎氏(私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い―)であり、私の文学への興味や社会に対して発言することの大切さを教えてくださった人だった。

西口氏は1956(昭和31)年から1972(昭和47)年まで読売新聞大阪本社の記者として河内支局を担当していたが、退職後の1985(昭和60)年になってようやく稲荷山に入り、新聞記者時代の手法で探り当てられたのである。

谷崎が2番目の妻・丁未子と高野山から落ち伸びて隠れ棲んだのが稲荷であり、その頃は谷崎が最も経済的に行き詰っていた時だった。その住まいをはからったのが稲荷山の持ち主(大阪本町の綿問屋・根津商店店主・根津清太郎)の妻・松子である。

西口氏は根津家の別荘の石燈篭とつくばい(手洗い)を発掘。さらに、石段、別荘の石段、木津家(木津家は根津清太郎の母親の実家で根津家と関係が深い)の碑、稲荷社などを発掘された。

西口氏の発掘A.jpg

それらを1987(昭和62)年に、芦屋市が建設していた谷崎記念館完成セレモニーで松子さんに見せたところ、
「一瞬、松子さんはハッとしたようで、『まだこんなものが残っていましたか』」と、それらの写真を食い入るように眺めていたと記しておられ、
「”思いがけないものに出合った”という強く驚いた様子から、私はやはりここは谷崎と松子さんにしては、生涯の中で『欠落の章』にしておきたかったのだ―いやしてしまっていたのだということを、強く感じた。」
と書いておられる。

まさにその時の松子さんと西口氏のツーショットが掲載された機関紙を持っていたのだが、捜しても見当たらず、大阪商業大学の「河内の郷土文化サークルセンター」事務局でバックナンバーを探していただいてもわからずに残念だ。

西口孝四郎氏.jpg2016年1月12日22時53分追記:
これがその時の写真だ。
左から西口孝四郎氏、谷崎の妻・松子夫人、その妹・信子さんである。

これは、『河内の郷土文化サークルセンター会報』第6号(1989年1月20日発行)2ページに掲載されている。数日前の掃除中に発見し、ここに記録する。

根津商店は後に経済大不況の波を受けて倒産し、店も住宅も別荘も一切を伊藤忠兵衛(伊藤忠)に売却しているが、盛んだった時代の稲荷山は、根津商店の従業員や地元の人たちのために遊園地を開発していた。

その「大阪府中河内郡孔舎衙(くさか)池ノ端遊園地根津別荘」と言えば、太宰治の『パンドラの匣』の舞台となった近辺である!

それを発見されたのが医師で太宰治研究家の浅田高明氏であり、今年拝受したお年賀状には、井深八重氏についても少し触れたハンセン病の論文掲載誌をお送りくださるとのこと。

浅田先生が今なお研究を継続されて健筆を奮っておられることが嬉しくてならず、心待ちにしているところである。


posted by 優子 at 23:44| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2015年01月06日

再び「馬見労祷教会関係」のカテゴリを設置

昨夜、再び「馬見労祷教会関係」のカテゴリを設置し、2009年秋から現在に至るまでのカテゴリ「神(聖)」から2時間半を要して70記事を収録した。

2010年9月20日の記事に「馬見労祷教会関係」のカテゴリを設置したとあり、「2012年9月9日追記」として削除の記載がされている。

当地に引っ越してから5〜6年間、福音系の教会に通っていたが讃美歌を歌わないのが耐えられず、母教会の放出(はなてん)教会や同志社での礼拝の如き静かな礼拝を強く求めるようになった。

知子とユキが初めて馬見労祷教会へ行ったのは2009年12月27日であった。私たち夫婦はそれより2ヶ月ほど前から通い始めていた。

母教会(自分の意思により信仰告白して洗礼を受けた教会)である日本イエス・キリスト教団と同じ教派の教会は遠方なため、他市ではあるが比較的近い馬見労祷教会への思いが与えられた。

そこはかつて日本クリスチャン・ペンクラブの理事・花盛牧師が牧会されていた教会で、私は花盛牧師と親しかったわけでもないが奈良の教会というのを覚えていた。

私たちが通い始めた頃、馬見労祷教会は無牧(牧師不在)の状態で、西大和教会で40年間牧会された現名誉牧師・高見敏雄牧師が代務として労してくださっていた。

2010年4月から新任の牧師が着任されることを知った時はがっかりしたものだ。その年の3月25日が4年間代務してくださっていた高見牧師の最後のメッセージだった。
しかし、ここは神さまがお導きくださった教会であるとの思いから、同年のクリスマス礼拝で知子と共に教会籍を移した。

その後、私たちはあることで、どうしても避けて通れぬ問題から2013年4月から西大和教会でお世話になるが、2014年2月を最後に急きょ牧師が辞任との報が入った。信じられぬことだった。

こうして再び教会は高見牧師、そして、第1週目は西大和教会の大沢星一牧師が労してくださることで礼拝が守られてきたが、今思うと神が動かされたのではないかと受けとめている。この事態をも生かして最善へと導いてくださったからである。

しかし、私たちはその後もずっと祈りの中で思いめぐらせていた。

「わたし(イエス・キリスト)はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。
聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。
それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。

               (ヨハネによる福音書17章11節)

親は死してのちも我が子たちが助け合って仲良く生きて行くことを願っているように、主イエスを信じた私たちのために祈ってくださったイエス・キリストの思いが私の心に届き、祈りつつ逡巡した後、問題の解決は神に委ねて2014年6月に馬見労祷教会へ戻った。高見牧師が労してくださっているうちに。

私たちの試練だけではなく教会は今も試練の中にあるが、高見牧師と大沢牧師を通して小さな群れは養い守られている。

Jesus.gif
そして今、教会は豊かな導きを受けながら、より一層の一致を目指して愛の交わりの中で力強い歩みを始めている。


posted by 優子 at 16:44| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年01月05日

ヒヨドリがみかんを食べに来たよ!

ユキが撮った!.jpgユキが撮った特ダネ写真!
正午過ぎ、裏の木にみかんを置くと30分もしないうちに鳥が来たので、カメラを用意して待つことにした。
ふと見ると鳥がみかんを食べていた! ユキが素早く撮った。年末にきれいに掃除してくれていたので、ガラス越しの写真とは思えない。
こんなに食べたよ!.JPGユキは早速幼稚園でもらった(買った)『さんぽずかん』で鳥の名前を調べた。鳥はこのあたりにたくさんいるヒヨドリだった。若いヒヨドリはこんなに食べて飛んで行った。→

私は即興でヒヨドリを主人公にした話をすると、ユキはニコニコしながら聞いていた。ユキと一緒にいると想像力が引き出されて楽しい。

バードテーブル.jpgあのあとみかんが落ちないようにと、バードテーブルを作ってあげたのに来なくなってしまった。

何を見てるの?.jpg「おーい、ユキちゃん、何しているの?」
今朝の散歩(私は10日ぶり)では、ユキが真冬に蟻を見つけたと驚きの声を上げ、私も感激してユキのように見つめた。
ユキがいなければ、こんな感動も知らずにいただろう。

小鳥がくればいいね.jpgお正月の三が日の寒さからすれば、今日は春のよう。
ユキは暖かい日射しの中で、鳥が来るのを待ちながら絵を描いていた。昨日も教会へ行く前に椿の花を描いていた。写生が好きなようだ。

主よ、ユキのこれからの長い学校生活が充実したものであり、学習能力を豊かに育てることができますように導いてください。
幸悠に私の希望を押しつけることがないように、どのように祈ればよいか教えてくださり、幸悠に与えてくださっている賜物を引き出してやれるように助けてください。


ケーキ作り@.jpgついでに昨年末のスナップを!
これは12月28日(日)の午後、できあいのスポンジを使ってケーキを作った時の様子。
買ったスポンジはまずかった。ふらふら

ケーキ作りB.jpg
posted by 優子 at 16:50| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年01月04日

キリストにあって新しく生きる

新年初めての礼拝にふさわしく、高見牧師は「コリント人への第2の手紙」5章16節〜20節から「キリストにある新しい人」と題して説教された。
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。

すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

下記に説教の要諦をお分ちしたい。
聖書において「新しさ」とは、キリストに在る人は神さまとの関わりによって毎日、質的に新しくされており使命も与えられている。

私たちは神さまに知られており、神の働きがあるということにおいて常に新しい。だから日々新鮮な思いでもって聖書に向かい、新鮮な思いで神に向かい、また祈りに向かうと言うことではないかと思う。

キリストに在る者、キリスト者とは、「キリストに結ばれている人」であり、「新しく創造された者」を指す。

それは神の恵みによって罪を赦された人(和解)であり、神との和解とは神さまから赦しを受けた和やかな関係である。そして、神に赦された人はキリストの恵みを伝えるという「和解のために奉仕する任務」がある。

私たちはキリストの喜びを人々に伝える「キリストの使者」、「キリストの全権大使」である。

キリストによって新しくされた者の生き方は、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ロマ書12章15節)、「主にあって喜ぶ」 (ピリピ書4章4節)生き方である。

新しくされた者の生き方は喜びがあり、ゆとりのある生活を送ることができる。心の配慮や思いやりができ、またユーモアを持って生きることができる。

キリスト者医師として立っている柏木哲夫氏は、人間の死は神に向かう準備をしなければならないことであることからホスピスを初めた。カトリック信仰のアルフォンス・デーケン神父の影響を受けて笑い(ユーモア)の必要を勧めている。

「ユーモア」の語源はラテン語で「フモール」で、人間の血液やリンパ液のことを指している。つまりそれらがなければ生きることができないように、ユーモアがなければ生きられないと言われている。

そこで柏木氏は「川柳の会」を立ち上げて指導した。例えば、

▼脳外科に頭のきれない者がいる。
▼眼科医に目先の見えない人もいる。
▼耳鼻科医に鼻がきかない人もいる。
▼胸部外科 胸をひらかぬ医者がいる。
▼腹部外科 腹を割らない医者もいる。
▼癌細胞 正月ぐらいは寝て暮らせ。
▼忘れない 親に預けたお年玉。

等々(聞き間違いもあるかも知れないが)、このような自然に出てくる笑いが大切である。

高見牧師の人格からほとばしる愛のメッセージをいただいて、魂が養われていくのを感じる。私たちは常に新しくされ、日々力強く生きていきたい。いや、そのように生かされていることを感謝します。


posted by 優子 at 23:01| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

羊顔のチャッピー

サルから羊顔に.jpg「羊のきぐるみ着てるっぽい柴犬が激カワ」という記事が目に留まって思い出したのが、我が家のチャッピー。
これ羊顔に見えない? 
羊犬 わーい(嬉しい顔)
これは昨年の3月17日、顔の冬毛が抜け始めた頃、最初は猿のようになり、次に羊のような顔になったチャッピー。

羊と言えば、イエス・キリストが話された有名な聖書箇所を思い浮かべる。ルカによる福音書15章4節から7節:

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。


さて、昨年の1月6日のこと、チャッピーに突然異変が起きて歩けなくなり食欲もなくなって、大好きなトーストも何も食べなくなったので、ついに死んでしまうかと覚悟したほどだった。その後奇跡的に元気になり、それから1ヶ月経った頃にはこんなに元気な食べっぷりになっていた。

元旦からの寒さも平気なようで、元旦の夜だけ玄関内に入れてやったものの本犬が落ち着かないので、夜も外の小屋で眠っている。

5月には16歳になるが、チャッピーはすこぶる元気で若い頃のように前足2本を同時に出して走る。この春もチャッピーと桜の花を愛でながら散歩できますように!

posted by 優子 at 20:27| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2015年01月03日

次女夫婦との元旦朝の感謝! 

次女が2006年のお正月にブログを開設してくれて10年目に入った。
その頃、次女は東大大学院に在籍し、千駄木に住まいしていた。その夏に結婚してミネソタ大学大学院に渡り、2011年春、夫婦共に経済学博士号(Ph.D)を取得して、9月から夫婦共にIMFのエコノミストとして勤務している。

その間、私はずっと書き続けてきた。これからも次女夫婦や知子とユキとの時を記録しつつ、自己への旅を深めていきたいと思う。

みことばカレンダー1月.jpgこれは毎年年末に娘たちに購入する12枚綴りの「押し花写真のみことばカレンダー」で、ちょっとした感謝のしるしにも用いている。
毎年11月に梅田のキリスト教書店(オアシス)まで出向くのだが、今回初めてネットで知子に発注してもらった。

次女夫婦が年末に帰国した時には持たせ、今年は年末のEMS便の荷物に入れた。その後たった4日間でワシントン宅に届いた。

真智子はこのカレンダーをスイートホームのテーブルに、知子は職場のデスクに置いている。今年も朝に夕に見ては御言葉から慰めや励ましを得て歩んでいくことだろう。

「神に愛されている人よ、恐れるな。
 安心せよ。強くあれ。強くあれ」。
(ダニエル書10章19節)

上記は新改訳聖書表記で、口語訳聖書ではこのように記されている。

「大いに愛せられる人よ、恐れるには及ばない。
 安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさい」。


今の私たちにふさわしい聖句である。いや、多くの人がそうであろう。読者の方々にも神の祝福が流れていきますように! 全ては神の御手の中、神の恵みの中で大いにチャレンジしたいものである。

元旦の朝、ワシントンの次女夫婦宅とこの部屋をスカイプでつないで共に過ごした。

2人に私たちの現況を聴いてもらい、それぞれの思いを語り合い、最後に次女は私と知子の主訴に対して全く同じ見解を述べた。私は夫への悔しさと悲しみがこみ上げて号泣してしまった。

このたびも真智が「お祈りしよう」と導いてくれ、夫以外の1人ひとりが祈り合い、主への信頼と平安を強くされて笑顔で「さよなら」した。


まるでこの部屋に一緒に居て喋っているようで、文明の利器の不思議さに驚くばかりで慣れることはない。スカイプタイムは3時間半に及び、あと30分でワシントンにも新年が来ようとしていた。

次女夫婦は2015年も良き日々を重ねていくことだろう。私も娘たちに負けないで知的探究心と集中力を復活させて評論を一本書きたいと思っている。

マチとクマのロスアンジェルス旅行:
ビバリーヒルズ 2.jpgビバリーヒルズにて。
(12月)19日は朝からビバリーヒルズへ行ってウィンドーショッピング。 昼食はダンジネスクラブ(蟹)のお料理で有名なレストランへ。
午後はビバリーヒルズでの暮らしを想像しながら住宅地を歩いたそうだ。静かで、庭仕事の音が聞こえてくるほどのどかだったとは、やはりパック旅行とは違う味わいだ。
マリリンモンロー.jpg
ハリウッド・チャイニーズシアターでは、「ママとパパも見たであろうマリリンモンローの手形をみつけてパシャリ。くまはスターウォーズのロボットの足跡を見つけてパシャリ」。 
クマは足を出さないと! 靴のサイズ30センチの足を!わーい(嬉しい顔)
スターウォーズ.jpg

ロスアンジェルスは見所が盛り沢山の楽しい旅になったそうだ。

「休暇前は追われるような忙しさだったから、LAに行って、バシッとモードが変わってすごくよかったです。頭の中が空っぽになって、まるで子供時代のような時間の流れに戻ったよ。楽しかった!神様に感謝」。

私まで楽しく幸せな気持ちにさせてくれた。
今年もマチ・クマの上に神の豊かな祝福がありますように祈っています。
★ さて、最近『メメントドミニ』をお読みくださっている方々のために、動画のマチ・クマをご紹介させていただきたいと思います。

まず IMFがアップしているユーチューブで真智が話しています。これについては、この記事に詳しく書いています。
このビデオで真智が写る直前の一瞬、坐っているクマが画面の左側に写ります。「ウォーリーを捜せ」風にクマを見つけてください!わーい(嬉しい顔)

もう一つは、2012年10月10日の記事の最後の方でIMFのHPリンクしています。その"About the IMF"のエコノミスト募集ビデオに2人の姿がたびたび登場し、ここではクマが話しています。

さきほどの着信メールには元旦礼拝に集い、牧師のメッセージもよく心に届いたとのこと。
ワシントンも2015年がスタートした。
今年もニュースでホワイトハウスを見るたびに、すぐ近くのIMFにいる2人を想うことだろう。IMFに報道関係者が入る時は、そのあたりをわざと通って2人の姿を日本へ届けておくれ・・・

ワシントンの8日は−12度、9日には−18度という予報が出ている。ミネソタで鍛えられたとはいえ、体調を壊さないようにミネソタ対応の防寒着で通勤してね。揺れるハート

18時58分追記:今夜の夕食にお正月にしか作らない茶碗蒸しを作った。1人に2杯ずつ、マチ・クマが居る時と同じ数を作った。

「おいしい、おいしい」と言って食べてくれるユキと知子の声を聞きながら、マチ・クマに食べてもらえないのが淋しく、胸が痛み、涙が出るほど辛い。
親と言うのは子どもたち全員が傍に居てほしい。さすがの現代文明でも、これをワシントン宅の食卓へ届けることはできない。


posted by 優子 at 15:33| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年01月02日

無事越年を感謝して

昨年12月は夫の理解できない言動に苦しみ異見する日々が続いた。神様による知子の英断で万事最善に過ぎ越されていったが、ついに私は精神的疲れが祟って23日より体調不調になった。

そんなわけで2014年大晦日はお節料理を作るのはやめて、昨夏行けなかった両親の墓参に出かけた。穏やかな天気で13度あった。

いつものように墓前で神さまに祈るも、いつしか両親への語りかけになり、溢れ出る涙に気がついて祈りに戻して祈り終えた。

帰宅後、ユキは大活躍。ベランダ側と玄関側のガラス窓を掃除してくれ、透き通って見えるほどきれいになった。根気よく最後まで飽きずに頑張れる子で頼もしい。

大みそかの大掃除@.jpg

大みそかの大掃除B.jpg
「ユキ!」

大みそかの大掃除C.jpg
私たちは子どもの笑顔を消してはならない。

大みそかの大掃除D.jpg
夫もベランダの窓ふきと、
積もりに積もったレールの汚れを掃除してくれた。

義母のお節料理は仕方なく買ったものを詰め合わせて用意したが、何もない我が家はさみしいとあって、急きょ数種類のみ作った。毎年煮る黒豆とトラ豆は30日に完了していた。

元旦の朝は母屋で義母の食べ慣れたお雑煮を用意した。
すまし汁に小松菜を入れ、上から鰹節をかけるのみ。これが岐阜の一般的なものなのか、あるいは藤本流なのかは知らない。

知子もようやく今朝から疲れが取れたようだが、あと2日で休みも終わる。例年ならば今日は神戸の従妹宅で御馳走をいただきながら叔母と一緒に過ごすのだが、それも欠礼してゆっくり過ごしている。

毎年「今年で最後かも知れない」と言う叔母とのことも覚えつつ、祈りめぐらした上での選択だった。

雪降る元旦@.jpg元旦は大晦日と打って変わって最高気温も5.1度と低く、予報通り夕刻から雪が降り、積もった雪は今日の昼過ぎまで残っていた。

雪の中を徘徊するチャッピー。


雪降る元旦A.jpgチャッピーの雪を払って中に入れてやるユキ。
今では滅多に中に入れてもらえないためか、土間では落ち着かず、敷物の上で寝ないで一晩中冷たいところで寝ていた。

今朝も−1.5度と低く、夕方から何度か吹雪いている。今夜は敷物を土間全面に広げていてやるのがいいだろう。敷物が薄くても石の上よりもマシであろうから。


posted by 優子 at 19:54| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

主の2015年開幕

2015年年賀状.jpg主の2015年、明けましておめでとうございます!
今年も神さまが『メメントドミニ』を用いてくださいますように祈りつつページを重ねて行きたいと思います。

今年の年賀状は夫婦連名ではなく、夫の申し出により「優子」のみで作成しました。結婚後初めてのことです。

2014年賀状.jpg
右は知子の年賀状です。

私たちは今年もどんなことにも意味を見出す歩みを重ねて行きたいと思います。

『メメントドミニ』を訪ねてくださる方々に感謝し、今年も皆さまのお励ましとご教示をいただいて、しっかり歩んで参りたいと思います。

神さまが私たち1人ひとりを導いてくださいますように、そしてまた、私たちは神さまの導き(内なる促し)に応答する者でありますように祈ります。

「悲しみの意味」  星野富弘

      冬があり夏があり
      昼と夜があり
      晴れた日と
      雨の日があって
      ひとつの花が
      咲くように
      悲しみも
      苦しみもあって
      私が私になってゆく

新年に示された御言葉は、「テモテへの第2の手紙2章1節」です。

「あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」。
 


附記:お年賀状に書いてくださった言葉に感謝! 
その一部の方々の言葉をここに。


▼いつもブログを拝見させていただいております。機会があれば又お目にかかりたいです。(大学時代の友)

▼いつも ほんとに ありがとう!(JCPのK先生)

▼ブログで真智子ちゃん達の様子を楽しく拝見させていただいています。(知子と真智子がお世話になったピアノの先生。ブログを見てくださっていたなんて感謝です。)

▼優子さんの生き方に心からエールを送っています。(読書会時代の知人。他市の読書会会長をされていた聡明な方。私は読書会を退会して6年、その間お目にかかっていないのに何故? とても嬉しい。)

▼何事にも全力投球で頑張っていらっしゃることと拝察いたします。(カウンセラー養成学校・上級コースの1年間、共に最前列の席で学んだ女医さん)

▼いつも明るいお顔にお目にかかれまして元気にさせていただいて居ります。(近隣の知人。日展入選10回達成され「日展会友」の称号をお持ちの書道家)

▼ご一家の皆様が神さまのよき働き手として頑張って居られうれしく存じます。(教会の友、信仰の先輩)

▼真智子ちゃんがアメリカからお帰りになられた時はお会いしたいと思っています。(真智子が小学校1年生の担任の先生)

感謝します。

また、亡母と同じ昭和元年生まれの読書会の大先輩Mさんは、
▼「私も寄る年波には勝てず、勝手ながら本年をもって年始のご挨拶を控えさせて頂きます。永年のご厚情ありがとうございました。」
と刷っておられ、「永い間ありがとうございました。88歳になりました。」と書いてくださっていた。
言葉にならないさみしさを感じてしばらく見つめていた。
読書会は昨春3月で退会されたとお聞きしている。

同じく読書会のMR.Sさんは、
▼「お陰様で八度目の当たり年を迎えました」とあり、96歳にして今も読書会(大阪商大)に集われているとお聞きしている。(書家で書画の表装家)

どの人も皆、良き日々をお過ごしになられますように。

posted by 優子 at 14:13| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする