2015年08月31日

日本最北の旭山動物園へ! −関西北越会 A−

8月27日、新千歳空港で東京組の方々と合流して大型バスに乗った。

870キロ走った北海道.jpg観光組は、千歳空港から札幌 → 旭川 → 富良野 → 夕張 → 室蘭 → 洞爺湖 → 余市 → 小樽 → 千歳空港へと、3日間で850〜60キロメートルもの距離を走ったという。

「北海道ではナナカマドも色づいてきているところもあり、小さな秋を見つける季節です」。
初めて北海道の地を踏んだ私には、ことのほかバスガイドさんの第一声が印象的だった。 

「グルメ旅行」とも称される関北会。
出発した27日昼食は、ホテル三浦華園でイタリアンのフルコース、いつものように乾杯から始まった。そして、日本最北にある旭山動物園へ向かった。

「旭川は盆地なので夏は蒸し暑く35度まで上がり、冬はウンと寒く、1・2月は−30度になる時もあり、このような温度差があるのは北海道でも珍しい」。

旭川と言えば何といってもまず思い浮かべるのが三浦綾子・光世さんご夫妻だ。光世さんも2014年10月30日に天に帰られ、ご夫妻はこの辺りも歩かれたのではないだろうかと、私は2人の姿を偲びつつ車窓を食い入るように見つめていた。

旭山動物園に着いたのは3時45分頃だったと思う。肌寒いかと思っていたら蒸し暑く感じるくらいだった。滞在時間は1時間半、しかも4時半には動物たちが寝室に入ってしまうというので大急ぎで回った。

写真は見て回った順番に掲載したかったがデタラメに掲げてある。

アムール虎.jpg「元気やねえ。走ってはったね」と言われたほどダッシュして回っていたのに、半分ほどしか見られず、猛獣館ではアムールトラしか見ていない。


レッサーパンダは私たちの真上にいたよ!

レッサーパンダ.jpg

レッサーパンダ@.jpg

寝ていたと思ったら起きて下を覗いていた。
アライグマA.jpg

ウンピョウ.jpg
これはウンピョウ。展示は夏期だけ。

エゾシカ.jpgエゾシカ。
手前のはこの春に生まれた小鹿。
奥に見えるツノのあるシカは、春にツノが自然に抜け落ちてから再び生えたそうだ。命がみなぎっている。

これがトナカイか〜。
トナカイ.jpg


オオカミの森へ.jpg

オオカミの森.jpg
犬と同じ姿をしていてもオオカミはこわそう。

カバが泳ぐ.jpg泳いでいるカバを見て感激!
この時は年齢を忘れてはしゃいでしまった。動物園はおもしろい。
動物の行動や生活が見られるように「行動展示」されている旭山動物園は最高だ。

しかし、アニマルライツのことが常に脳裏にあった。
「動物園にとらわれた動物たちは、その動物が本来持っている全ての権利(自由や家族や自然)を全て奪われている」。
その責めを感じながらもカバの写真を撮った時は、スクープ写真を撮ったような気持ちになってはしゃいでしまった。


キリンさん.jpg

キリンはこんなに大きいのか.jpgキリンがこんなに大きかったとは!











これは何だっけ?.jpgオランウータンと目が合った。わーい(嬉しい顔)




タンチョウはもう眠っていた。一本足でしんどくないのかなあ。向こうからこっちを見ているのは誰でしょう?

タンチョウヅル.jpg


ホッキョクグマ.jpg
ホッキョクグマ
ホッキョクグマ!.jpg


旭山動物園で.jpg

旭山動物園内.jpg夫と一緒に猛ダッシュで見て回ったが、長寿の血筋を引く夫も6歳の年齢差は大きかったのか、この時は私のほうがはるかに体力があった。


夫は、「走ったからミトコンドリアで体力アップしたんやなあ」と言い、大笑いしながら歩いた。もっともっと見たかったけれど断念して、集合時間10分前に東門に戻り記念写真に納まった。

旭山動物園.jpg

ここでも中国人がいっぱいで、シャッターを押してもらうにも話している言語を確かめてからお願いせねばならなかった。お願いした御夫妻は中国人だったと思うが、人がいなくて声をかけると日本語もお上手だった。

動物園内のマップに観たところに印をつけると半分ほどしか回れていなかった。メンバーの方々は「ここは狭いので1時間ぐらいで十分ですね」と話しておられたけれど、とんでもない! 私はやっぱり少なくとも3時間はほしい。
天王寺動物園(大阪)よりもはるかに動物を近くで見ることができ、発見と感動の最高の動物園だった。

旭山動物園マップ.jpg


posted by 優子 at 21:40| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

私たちは誓った、戦争は2度と繰り返さないと!

下記も『クリスチャン・トゥディ』より本日更新された記事から抜粋引用したもので、写真は『ウィンザー通信』から拝借したものである。

戦争法案打倒!.jpg国会正門前ステージでは、仏教者やキリスト者などの平和運動団体「宗教者九条の和」代表で聖護院門跡(京都市)門主の宮城泰年氏が宗教者を代表してスピーチを行った。

1931年生まれの仏教指導者である宮城氏は、戦時中、中学2年から15歳で終戦を迎えるまで竹やりで軍事教練に明け暮れ、それを「批判することすら許されなかった」と語った。

8月30日デモ!.jpgそして、「憲法9条をないものにした場合、私たちの人間性がたちまち失われていくことは、2012年に自民党が『公共と公の秩序』を優先する改憲草案にはっきり出ている」と指摘。その上で、政府に対して声を上げるために、「私たちは最後まで心から偽りのない生き方をしなくては」と訴えた。

安倍やめろ!.jpg「SEALDs」(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)設立メンバーの奥田愛基さんは、安倍晋三首相が21日に参議院特別委員会で民主党の蓮舫議員に対し、「そんなことどうでもいいじゃん」と野次を飛ばしたことに触れ、 「どうでもいいなら総理を辞めろ!」などと叫んだ。

「安保関連法案に反対するママの会」のメンバーが、「ママは諦めません。絶対に戦争法案を止めます!」

沖縄のヘリ基地反対協議会共同代表の安次富浩氏は「安倍政権は安倍サタン政権だ」と批判。「安倍政権を打倒しましょう。戦争法案、辺野古基地建設、さらに原子力発電所の再開を絶対に止めていく」と呼び掛け、「そのことに私たちの未来がある」と語った。

国会正門前でこの行動に参加した、日本基督教団西方町教会員で同教会九条の会メンバーの高橋巨泰(なおやす)さん(71)は、集会の終了後、本紙に対し、自らが高校1年生だった岸信介政権の時に、60年安保条約の改定がされたのを思い出しつつ、「若い人たちがようやく参加しているのがいいと思う。自主的に、政治的スタンスに関係なく立ち上がっている。女性の反対が多い。ようやく根付いているんだと思う」と感想を語った。

高橋さんは、日本国憲法が作られたときに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)で女性の権利を定めるよう提言した故ベアテ・シロタ・ゴードン氏に言及し、「女性と若い人たちが主役になりつつある。希望をそこに見いだしたい」と語った。

また、この集会でのぼりを掲げた、安保法案廃案などを求める上智大学教職員有志のメンバーで、同大総合人間科学部教授の澤田稔氏は本紙に対し、
「今まさにこの国の歴史が動いている、それを現場で目撃しているという気がしました。これこそ(党派性や立場を超えた)社会的連帯なのだなと深い感慨を覚えました。・・まだまだ、このうねりは拡大すると感じます」
 
posted by 優子 at 19:14| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

国会前に12万人、全国300カ所以上で安保法案反対の声

記事は2015年8月30日23時52分に更新された『クリスチャン・トゥディ』より。

安保関連法案に反対する大規模な抗議行動が30日、小雨が降りしきる中、国会周辺で行われた。主催者発表で約12万人が集まり、現在参議院で審議中の同法案をめぐっては最大のものとなった。

この日は、国会前の行動とともに、全国各地でも同時に抗議行動が行われ、大阪市の扇町公園では、主催者発表で約2万5千人が集まり、「戦争アカン!」と書かれたプラカードを掲げ、「戦争反対」「いのちを守れ」などと訴えた。こうした抗議行動は全国300カ所以上で行われ、同法案反対の民意を大きく印象付けるものとなった。

国会前では、これまでおのおので声を上げていた、学生や若者による「SEALDs」、主婦らによる「安保関連法案に反対するママの会」、中高年を中心とした「MIDDLEs」、60、70代主体の「OLDs」なども共に声を上げた。

抗議行動開始とされていた午後2時の1時間ほど前には国会北側で、自由の森学園の高校生を中心に、レ・ミゼラブルの「民衆の歌」の合唱があるなど、さまざまな世代がさまざまな形で安保法案反対を訴えた。

日比谷公園の霞門近くには、十字架を掲げるのぼりも多く見られ、各教会で午前中の礼拝をささげた後、急いでやってきたというキリスト者たちが数多く集まった。

霞門近くの街宣車からは、午後2時ちょうどから「戦争法案、絶対!」「9条守れ!」などのコールが始まり、地鳴りのような民衆の声が周囲を包んだ。数分に及ぶコールの後、街宣車の上に登場したのは野党議員たち。国会の内側からも声を上げることを約束した。

民主党の菅直人元首相は、「60年安保闘争では、安倍首相の祖父にあたる岸信介元首相が安保条約を強行採決の末、国会を通過させた後、その混乱の責任を取る形で岸内閣を解散させた。しかし今回、通過させてから解散ではなく、通過する前に廃案へ追い込もうではありませんか」と訴えた。

また、今月、同法案の参議院審議中に自衛隊・統合幕僚監部の内部文書を暴露した共産党の小池晃議員も登壇。

霞ヶ関で今日のような光景は見たことがない。この法案は、参議院で審議中にボロボロになってきた。廃案まであと一歩です。今の自民党は、まるで戦前の軍部の独走のようだ。皆さん、最後まで諦めずに共に闘いましょう」と語った。 

文化人からも反対の声が上がった。日本新聞労働組合連合の新崎盛吾中央執行委員長は、ジャーナリストの立場からスピーチを行った。

70年前の戦争で、新聞は戦争に加担したという事実があった。戦後、私たちの先輩は、『もう二度と戦争のためにペンを執らない、カメラを持たない、輪転機を回さない』と誓った。われわれは、その誓いの下に今まで仕事をしてきた。

しかし、安倍政権は、私たちの取材をも取り締まる法律、特定秘密保護法案を成立させ、集団的自衛権の行使を認め、現在の安保関連法案の審議に入った。

『戦争は秘密から始まる』といわれるが、まさにその通りになっている。これを防ぐことができるのは、世論の力だと私は思います。世論を反映してこそ、新聞であり、テレビ番組である」と語った。

作家の落合恵子さんは、「今日、それぞれの事情を超えて、ここにこれだけ大勢の人々が集まった意味は大きい。戦後70年を、新たな『戦前』にしないために、私たちが闘う。民意に耳を傾けるのは、民主主義の基本。政権与党の議員たちは、この光景を今どこで見ているのか。笑って見ているのなら、そのうち泣かせて見せようじゃないか!」と大声で語ると、それに応えるように群衆からは「おう!」と声が上がった。

日本バプテスト連盟ののぼりの下には、多くの牧師・信徒が集い、声を上げた。この日デモに参加した日本バプテスト連盟東京北教会の魯孝錬(ノ・ヒョリャン)牧師は、「私は韓国で生まれ、韓国で育ちました。兵役も2年経験しました。その2年間は、自分が自分でいられなくなるほどの苦痛を味わいました。キリスト者として『殺してはいけない』と十戒にもあるのを知っているのに、人を殺す訓練をするわけです。

日本には、憲法9条という素晴らしい憲法がある。戦争はしてはいけない。だれも戦争に出してはいけない。心からそう思っています」と話した。
日本バプテスト連盟では、教団の名前が入ったのぼりを立て、関東近県の牧師や信徒が集まっていた。

また、日本基督教団本所緑星教会の信徒である藤野知恵子さんは、「私たちは、平和をつくり出すことを怠ってはいけないと思います。平和をつくり出すためには、みんなが戦争に行かなくて済むような環境が必要です。だからこそ、この法案には反対なのです。

私のような小さな力も、何もしないでいるよりは少しでも行動しなくてはと思い、今日は国会前へやってきました。私たちに行動する力を与えてくださり、神様が祝福し守ってくださっていることを感謝致します
」と話した。

これまでも安保法案反対の抗議行動に参加してきたという、日本ナザレン教団小岩教会の津田望さんは、「私の人生の中で、これほど多くの人を目の当たりにしたことはありません。老若男女、あらゆる言語、あらゆる宗教、あらゆる政党の旗が揺れ動いていました。

『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる』。デモの間、この聖句が頭をぐるぐると回りました。『平和を喜ぶ』でも、『平和を願う』でも、『平和を祈る』でもなく、『平和を実現する人々』。私たちクリスチャンは、今この時期に平和を実現させなければならない。まさに『シャローム』です。


デモの最中、雨がどんどん強くなって、これまで数回のデモに使用した『九条壊すな』のプラカードは、芯まで濡れてとうとう再起不能になってしまいました。もう使わなくて済むことを願っています」と語った。

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう」。
      
             (マタイによる福音書 5章9節)


  
posted by 優子 at 07:29| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年08月30日

旅行疲れで礼拝欠席、知子に託した子どもたちへのメッセージ −子どもの礼拝で語ったこと C−

私は旅の疲れで礼拝を欠席したために、子どもたちへのメッセージで話そうとしていた内容を知子に代読してもらった。以下がその原稿である。

今日のお話はエルサレムの近くにあるエリコという町で、イエスさまが目の見えない人の目を見えるようにしてくださったというお話です。

最初に聖書を読みます。今朝の聖書はマタイによる福音書20章29節から34節です。「盲人」というのは目の見えない人のことです。

「それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスが通って行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。

群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。

イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。

イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った」。


以上です。
ここでは目の見えない人が2人出てきましたが、目が見えないというのは、どんなに辛く大変なことでしょう。
私は目の見えない人の大変さを少しでもわかりたくて、家の中で目を閉じて歩いたことがありますが、フラフラして立つこともできなかったし、ぶつかってばかりで何もできませんでした。

ましてや、外へ出るなんて怖くてできません。お母さんの顔も見えないし、青い空も、美し花も、ご馳走も何も見えないのです。

こんなに悲しくて大変なのに、それだけではなく、昔は、「目が見えないのは罪を犯したからだ」「悪いことをした罰だ」と言われていました。そして、「役立たず!」とバカにされて、とても辛い思いをしていました。

ある時、この人たちはイエスさまがそばを通っておられることに気づきました。2人は大きな声で「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください!」と叫びました。

「ダビデの子」というのは、神さまによって全ての人に与えられた「王様」という意味です。どこかの国の王様というような意味ではなく、全てを支配されている王様、つまり神さまの意味です。

2人の目の見えない人が「主よ、ダビデの子よ!」と叫んだ時、周りの人々に「黙れ!」と怒られました。でも、そんなことかまわずに力の限り叫び続けました。

この人たちの叫び続ける勇気と一生懸命な気持ちが伝わってきますね。怒鳴られて「黙れ!」と言われても、「主よ! ダビデの子よ!」と叫び続けたのです。

そして、イエスさまが「わたしに何をしてほしいのか?」と聞かれました。目の見えない人は、勿論、「主よ、目をみえるようにしていただきたいのです」と答えました。

イエスさまは目の見えない人に、そんなことお聞きにならなくても、よくわかっておられることでしょうに! 目が見えるようにしてほしいに決まっているよね。

でも、イエスさまはね、いつも私たちに、自分の言葉で自分の気持ちや願いをはっきり言うように願っておられます。恥ずかしがったりしないで、バカにされても、自分の思いを言う事がとても大切なのです。

この2人は、「主よ、目を見えるようにしてください」とはっきり言いました。すると、イエスさまがその目に触れて、目を見えるようにしてくださいました。

目が見えなかった2人は、イエスさまの不思議な力で目が見えるようになっただけではなく、心を神さまのほうに向けるようになって、イエスさまに従うようになりました。これこそが奇跡だと思いました。

子のお話を聴いて、ユキちゃん(今朝はユキだけだった)はどう思ったのか、続きはお家でお話してね。

では、お祈りしましょう。

イエスさま、今、イエスさまが奇跡を行われたお話を聴きました。イエスさまは、私たちにも大きな奇跡を行ってくださっています。イエスさまを信じるという奇跡です。ありがとうございます。

長かった夏休みも終わり、あさってから2学期が始まります。
一生懸命お勉強したり、お友達とも楽しく過ごすことができますように、いつもイエスさまが共にいてください。

このお祈りを、イエスさまのお名前によって御前にお捧げします。アーメン。


posted by 優子 at 20:20| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

63歳にして初めての北海道 −関西北越会 @−

27日朝早く、4時間足らずの睡眠で夫と伊丹空港へ向かった。北越紀州製紙メーカーとその代理店主催で毎年開催される旅行だ。

苦手な旅行、しかも家族旅行ではないので、準備と早朝の出発はかなりのストレスとなり血圧が高かった。2年前はストッキングを入れ忘れ、今回はファンデーションを忘れてしまった!

28日朝の激震を文字で表せないだろうか! よりによってこんな時に!!! 化粧品を購入できそうな店もなく、覚悟を決めてBBクリームだけで出るしかなかった。

私が不在になるとユキが一人になるので、知子は仕事を前倒しで頑張らねばならず、24日から連日早朝に出社して帰宅は11時前だった。一時的に子供を預かってくれる施設はどこにもなく、日本で子供を育てながら働くことは至難だ。

ボルトポーズ!.jpg出発の朝、知子は3時間ほどしか眠っていないのに駅まで送ってくれた。こんな時も「ありがとう」と言わない良輔。
ユキまで起こしてしまったので、出発前にユキのお気に入りのポーズ、ボルトの勝利者ポーズをしてもらってカメラに収めた。

「ちょうど10日前の朝、真智たちもここから乗っていったのか・・・」
マチ・クマと別れた時のさみしさがぶり返し、二人の足跡を追うかのように上本町から空港行きリムジンバスに乗った。

出発口ゲートでメンバーのお顔に気がついて手を振り合う。私は昨年の北越紀州製紙の広東省江門(じゃんめん)新工場見学とマカオの旅は不参加だったので、皆さんとは2年ぶりの再会だった。

右肩の負傷を尋ねてくださったので、「夫はこういうことは話していたんだ」と年季の入った夫婦ながら、夫の新発見の心地がした。

搭乗口前のベンチで祈り終えて目を開けると大勢の人が集まっていた。こんなに乗るの?! 怖い! やはりワシントン行きは難しいかも。機内でスチュワーデスさんに尋ねると乗客は405名! その上に荷物、飛行機自体も重い。本当に大丈夫なのか。
「真智たちも無事にアメリカに戻れたのだから・・」と自らに言って聞かさねばならないほど緊張度は頂点に達していた。

8時45分、定刻になった。
8時48分、動き出した。
万が一飛行機事故に遭っても、私は娘たちに信条や思いは伝えてある。このブログが日々の遺言でもある。では夫は? 知子に悔いを残す。そんなことを思っていると、飛行機は俄然速力を増し、まもなく離陸した。

新婚旅行で初めて飛行機に乗った時は、この迫力にこそ感動したのに、このたびもただただ固まっていた。

9時、シートベルト解除となり、私の緊張サインも下降方向に変わる。しかし、よくこんなものが空を飛ぶものだ。どうしてなのか知りたい! 誰か5分ほどで要諦を話してくれないだろうか。

この影は何だ?.jpg座席は右翼のほぼ真ん中だったので外が見えないのも悪くはなかった。
夫が空気の流れを指してしきりに力説するが、これは何だろう? 
降りる時にスチュワーデスさんに尋ねようと思っていたのに忘れてしまって残念無念。

ユキ、雲と同じ高さを飛んでるよ!.jpg「ユキ、雲と同じ高さを飛んでいるよ!」
私はずっとユキに話していた。
ユキも2年前にワシントンへ行ったのだ。私のような小心者には、そんなことも大したものだと思う。

9時27分。伊丹空港を離陸して35分後、「飛行機は新潟上空で高度39000フィート、約11700メートル。千歳着は10時半の予定、現地の天気は小雨、気温は18度」
機長のアナウンスが流れ、着陸30分前には着陸態勢に入り、高度を下げて行った。

ユキ、こんな飛行機があるよ!.jpg無事に新千歳空港に到着。神さまに感謝した。
カラフルな飛行機を見つけてパチリ。案の定、ユキは喜んで見てくれた。

第1回関西北越会(愛称・関北会)は今から1978(昭和53)年に始まり、夫は父親に代わって9回目の1986年より参加している。知子が9歳、真智は6歳になったばかりの6月だった。

私は次女が高校生になっても不参加で、夫はお誘いを受けていたらしいがマイペースの人であるし、その頃は母の介護と母を支える父を助ける日々だった。ようやく2005年の沖縄(ザ・ブセナテラス2泊)旅行でデビューして、海外は不参加だったので今回で9回目だ。

私たち大阪組19名と添乗員1名は新千歳空港で東京組12名と合流し、計32名で「北海道(旭川・洞爺湖)」2泊3日の旅が始まった。こうして第38回「関西北越会」がスタートした。さあ、北海道を楽しもう!

旭山動物園、富良野ファーム富田、洞爺湖、ニッカウヰスキー余市蒸留所でリタに思いを馳せ、そして、小樽。どれもこれもが印象的だった。
2泊目の宿泊先は強烈な印象で最高だった。両サイドに洞爺湖と内浦湾を見下ろす山頂に建ち、2008年の北海道洞爺湖サミット会場となったザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパだ。


北海道ということで和食を期待していたが、千歳到着後の昼食からイタリアン、フレンチ、フレンチ、フレンチと、全てがコース料理だった。そして、最後に懐石料理にも舌鼓を打ち、今回も豪華なグルメ旅行を楽しませていただいた。それらも一部掲載して思い出に記録しておきたい。

27日に使ったゴルフクラブが、早くもお昼前に届いた。世の中は常に働いている。動いている。ホテルも飛行機も休みなく。

附記:今朝の礼拝で子供へのショートメッセージのご奉仕があるのに休んでしまった。奏楽のご奉仕であるのに知子が代読を申し出てくれた。午後も2時間眠って少し元気になったが、戦争法案反対のデモに出られなかったのも残念だった。

posted by 優子 at 17:58| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2015年08月27日

10月からのNHK朝ドラは、明治のクリスチャン女性の実業家・広岡浅子だ!

蝉の声がトーンダウンし、秋の虫がにぎやかに鳴き始め、季節の移ろいを感じる。夜明けもすっかり遅くなった。
さて、10月から始まるNHK朝の連続テレビ小説・『あさが来た』をご紹介させていただきたい。
広岡浅子.jpg「八重の桜」の新島八重、「花子とアン」の村岡花子、「軍師官兵衛」の黒田官兵衛、「マッサン」のエリー(竹鶴リタ)と、ここ数年のNHK大河ドラマ、朝の連続テレビ小説の主人公がクリスチャンであることは、さまざまな場面で話題になっているが、広岡浅子もクリスチャンだ。

舞台は大阪で、"朝ドラ"初となる江戸時代、幕末からスタートする。主人公のモデルは、明治の女傑と呼ばれる「広岡浅子」。原作は、古川智映子の『小説 土佐堀川―女性実業家・広岡浅子の生涯』だ。

上記・下記ともに「NHK2015年度後期朝ドラ『あさが来た』、主人公は広岡浅子 クリスチャンの女実業家」より転載。

広岡浅子は、明治・大正を代表する女性実業家で、1850年、京都に生まれる。富豪・三井高益の三女として、女性らしく、和歌や書道、茶華道などを学ばせられた。

だが、生まれつき勝気だった浅子は、「女子も人間です。人間は学問をしなければなりません。女子にも学ぶ機会さえ与えられれば、必ず修得する頭脳はあります」と、事あるごとに両親に反抗して育ったという。

当時は上流階級の子女でも、女性の学問は軽んじられ、学校教育を受けられなかった。この幼少期の経験が、浅子の人生に大きな影響を与えたようだ。

17歳で、大阪の富豪・加島屋の当主、浅岡久五郎に嫁ぐ。夫は花柳界に入り浸りだったが、浅子は泣き寝入りなどせず、「もしあなたが世間並みの道楽をしたら、広岡家を出て行ってもらいます」と言い渡し、坊ちゃん育ちの夫に代わって実業界に身を投じていくことになる。

幸い夫は非常に優しく、温厚な人格者で包容力があり、浅子の好きなようにさせてくれた。むしろ夫の支えがあったからこそ、浅子の才能が存分に発揮されたとも言われており、今回のドラマ化にあたっても、「激動の時代を生きた夫婦の愛の物語」として大胆に再構成されているところが見どころだ。

浅子は、簿記、算術、法律、経済など実業に必要な幅広い知識を独学で修得し、鉱山と銀行の経営にあたった。数字に強く、先を読む力のあった浅子は、大同生命の創業にも携わっている。

学識だけでなく、教養も身に付け、男に負けない度胸を持っていた浅子には、数多くのカリスマ的伝説が残されている。

明治維新により、幕藩体制が崩壊し、大阪の富豪たちが資金問題で次々と没落していく中、若干20歳の浅子は、夫を奮い立たせ、諸藩の屋敷を訪ね回って直接貸金を回収。担当していた鉱山にも現場監督のため実際に足を運び、護身用の2丁のピストルを携えて、暗い坑道に入って行ったという。

40代後半に、大阪で最初に女子教育に乗り出した、成瀬仁蔵という人物と出会う。米国の教育事情に影響を受けた成瀬は、梅花女学校を運営しつつ、理想の女子大学設立を目指していた。

女子高等教育の必要を主張する成瀬に共鳴した浅子は、資金援助を含めた最高の後援者となる。そして、1901年、東京の文京区に誕生したのが、日本女子大学校、現在の日本女子大学である。

夫の死後、娘婿に事業を譲り、浅子は女性の人権・地位向上に尽力する。特に、売春問題に苦しむ女性の救出に力を注ぎ、大阪愛国婦人会の指導者として国策にも協力した。

また、成瀬の影響もあって、1911年、大阪YMCAの先駆者である宮川経輝牧師から洗礼を受けて、熱心なクリスチャンとなった。

日本キリスト教女子青年会(YWCA)中央委員や、大阪YWCA創立準備委員長を務め、『婦人新報』などに評論を掲載するなどして、1919年の晩年まで宗教活動に従事した。

連続テレビ小説「あさが来た」は、2015年9月28日(月)〜2016年4月2日(土)まで、全156回で放送予定。

私はBSの7時半に観ることが多いが、8時、12時45分、23時からと、チャンスは何度もあり、週末には1週間分連続で放送されたり、確か日曜日には短くまとめて放送していたようだ。

連続テレビを観るのは楽しみだけではなく、時間を気にしなくてはならないのがストレスでもあるが観ようと思う。

posted by 優子 at 05:13| ご案内 | 更新情報をチェックする

2015年08月26日

誰にも縛られない自由人として生きる

前回の記事を書き終わった時、星野富弘さんの「つばき」の詩を思った。中学校の体育の教師だった星野さんは、頚椎損傷によって首から下が動かず、寝たままの姿勢で口に絵筆を加えさせてもらって絵と詩を描いておられる。

        「つばき」

   木は 自分で
   動き回ることができない
   神様に与えられたその場所で
   精一杯枝を張り
   許された高さまで
   一生懸命伸びようとしている
   そんな木を
   私は 友達のように思っている 


今、私が置かれているその場所こそが、神さまが与えてくださった場所だ。星野さんは『愛、深き淵より』で、こんなことを書いておられる。
私は今まで死にたいと思ったことが何度もあった。けがをした当時はなんとか助かりたいと思ったのに、人工呼吸がとれ、助かる見込みがでてきたら、今度は死にたいと思うようになってしまった。

動くことができず、ただ上を向いているだけで、口から食べ物を入れてもらい、尻から出すだけの、それも自分の力で出すことすらできない、つまった土管みたいな人間が、果たして生きていてよいのか。

舌をかみ切ったら死ぬかもしれないと考えたりした。食事を食べないで餓死しようともした。が、はらがへって死にそうだった。死にそうになると生きたいと思った。母に首をしめてもらおうとも思ったが、母を殺人犯にさせるわけにはいかなかった。

そして、星野さんが絶望状態にあった時、大学時代の先輩が「ぼくにできることは、これしかありません」と言って一冊の聖書を置いて行った。そして、星野さんはイエス・キリストの言葉に出会い、導かれていくのである。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
            (マタイによる福音書11章28節)

神さまは決して私たちを見離したりせず、必ず必要な助けを遣わしてくださるということだ。ひょっとすれば今、苦しみの中にある人が、たまたまこの記事を開いて読んでくださったとすれば、そのこともまた神さまのお計らいだ。

イエスさまは、私たちの視点を180度転換される。
私たちは「なぜ、こんなことばかり!」と、精神的にも苦境に追い込まれる時がある。それは人間の自然な感情だ。しかし、その次が大切だ。「なぜ」ではなく「何のために」という視点だ。

その状況の中で自分はどのように生きるのか。

誰かのせいにして、その人やその人たちに縛られて精神的奴隷の生き方をするのか、縛られない自由人として生きるのか。ここで道が大きく分かれる。

私たちが自由人として生きることを選んだ時、新たなる道が大きく拓かれていくのである。

posted by 優子 at 07:39| 随想 | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

労苦の中にこそ神のまなざしを見出す

「これは私が願っていた道ではない。それなのに、どうしても歩まざるを得なくなった。つまり、これは神様のご計画なのだから、この先、きっと神様が何か素晴らしいことをして下さるに違いない。 

神様は私の歩みの中で、いったい何を計画しておられるのだろう。早くそれが知りたい。それが分かるまで、まずは、今、自分に出来る精一杯のことをしよう!」


毎日毎日の労苦の中にこそ、父なる神様の祝福のまなざしを感じて生きよ!

「今日というこの日は、あなたにとってかけがえのない大切な一日なのだ。だから、決して諦めてはいけない。また、軽く見てはならない。今日という日があなたらしく光り輝くように、あなたの必要を真剣に神に祈り求めなさい」。

自分としては到底めでたいとは思えないこの生活を、神様は既に祝福しておられます。

「今日の苦しみ、今日の悲しみがなければ、私の人生は成り立たない」と言えるほどに、神様は、この今日という日を、かけがえのない大切な大切な一日として、私たちの人生の中に位置づけておられることを信じます。

以上、誌上説教より。



posted by 優子 at 16:46| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

戦争法案廃案! 8月30日に国会前で10万人、全国で100万人の大行動を起こそう!

「戦争させない! 9条壊すな! 総がかり行動実行委員会」から8月30日に「戦争法案廃案! 安倍政権退陣!」を求め、国会前で10万人、全国で100万人の大行動を起こそう!という呼びかけが出されています。

20150830A.png

今しかできないこと、今ならば間に合うことに祈りをこめて、是が非でも戦争法案を廃案させよう!

マルティン・ニーメラー牧師(神学者)の告白:

ナチスが共産主義者を攻撃したとき
自分は少し不安であったが
とにかく自分は共産主義者でなかった
だから何も行動に出なかった。

次にナチスは社会主義者を攻撃した
自分はさらに不安を感じたが
社会主義者でなかったから何も行動に出なかった。

それからナチスは
学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し
自分はそのたびにいつも不安を感じたが
それでもなお行動に出ることはなかった。

それからナチスは教会を攻撃した
自分は牧師であった
だから立って行動に出たが
その時はすでにおそかった。

そして、彼らが私を攻撃した時
私のために声をあげる者は
誰一人残っていなかった。


時は迫っている。
しかし、今ならば、まだ間に合う。
絶対に戦争させない!
一人ひとりが尊重される、平和な社会を!
あなたもあなたの市や町で行動を起こしてください!


posted by 優子 at 07:49| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年08月23日

ネット・リテラシー −帯化現象のユリ―

ネット上には、「今やフクシマだけではなく日本全国に奇形動植物が見つかっている」というような記事が溢れている。数日前のこと、手紙をポストに投函しようとした時、ポストのすぐ傍で咲いているユリに唖然とした。

ユリの帯状現象A.jpg1本の茎に何十輪もの花がついているではないか! 
「まさか?」と思って、茎に目を落とすとやはり茎が帯状になっていた。

ユリの帯状現象@.jpgというのは、福島原発事故直後から福島近辺の県からも異常な動植物が報告されていた。その中にあった帯化現象の植物の異様さが衝撃だった。

しかし、調べてみると帯化現象は以前から存在しているものだという。

「帯化現象の原因は一概には言えず、昆虫や細菌によって生長点が傷付けられたことによって生じるもの、遺伝子が変異を起こした結果生じるものなどさまざまで」、いずれにしても成長点が異常分裂して茎が帯状になることを言うようだ。

これが放射能汚染と関係しているとすれば、ここ関西でこのようなユリが見つかったことは深刻な放射能汚染の実態だ。
しかし、落ち着いて向き合うべきだ。インターネットの時代ゆえに付和雷同してはならない。今ほどネットのリテラシーを磨かねばならないことを痛感したことはない。


帯化現象のユリについては自分なりに納得できる程度まで、その原因と出現する頻度などを調べたいと思う。「日本では報道されない原発事故状況」という信頼できる情報も多々あるからだ。

posted by 優子 at 17:07| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年08月22日

どの子も大人になる権利がある

13日深夜に大阪府高槻市の物流会社駐車場で、顔に粘着テープを巻かれた少女の遺体が見つかった。13日と言えば、私たちは墓前で神さまに祈っていた日だ。その同じ時にこのような悲惨な事件が起こっていたとは信じがたく、悲しくてならない。

被害者は大阪府寝屋川市立中木田中学校1年の平田奈津美さん(13歳)で、行動を共にしていた同じ中学1年の星野凌斗君(12歳)が昨夜大阪府柏原市内の山中で遺体で発見された。
せめてこの子だけでも生きて帰ってくることを祈っていたが無残な結果になった。あまりにも痛ましくて言葉が出ない。

昨夜柏原市で発見されたと速報が流れてしばらくすると、自宅上空で2時間近く轟音が続いた。遺棄現場に向かう取材のヘリコプターの音だった。

ここからすぐ近くに県境があり大阪府柏原市に入るからだ。今朝も6時過ぎに同じ音で目が覚めた。見るとヘリコプターが現場方向に向かっていた。

夜9時になって、「今から遊びに行く」という子供を放置している親に驚くが、今春、痛ましい死を遂げた上村遼太君もそうだった。深夜に外出することに違和感を感じない家庭だった。

我が子や孫については、まずその不健全さを正すだけで、このような事件に巻き込まれる危険はかなり減るだろう。しかし、それが難しい家庭の事情も多々あるのが現状ならば、私に何ができるのか。

例えば旅行先で夜遅くまでコンビニ前でたむろしている子供が居れば声をかけるなど、私たちは地域だけにとどまらず、本気になって社会全体で子供を見守っていかねばならない。

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。

ある報道誌には、「女子生徒によると、大人から注意を受けることはなかった」とあり、「夜遊びを注意しない周囲の大人たちの危機感の薄さも見えてきた」と記されていたが、その場を通った時、私ならばどうしただろうか。

私たちは、いや、私は危機感以前に子供たちへの関心、問題意識が希薄だったと認めねばならない。

海の中では生物の卵が孵化しても大きく成長するのはごく僅かだ。近年頻繁に起こっている痛ましい事件を思うと、そんな自然界の様子と重なってさえ見える。子供はみな、大人になる権利があり、子供たちが大人になるまで悪の手から守ってやらねばならないとの意識を共有しなければならない。


学校も子供への教育だけではなく、PとTが共に保護者に対して心に届く成人教育分野を手掛けてほしいと願い続け、働きかけてもいるが暗澹たる気持ちだ。
親と教師が成長してこそ、子供の成長につながっていくのである。

今もまたヘリコプターの轟音がひっきりなしに聞こえる。
これから事件の詳細が明らかになっていくだろうが、私は耳をふさぎたい気持ちだ。

posted by 優子 at 09:31| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年08月20日

真智子と私の心の記録 

「まだ日本にいるみたいで寂しい気持ちがありますが、徐々にこちらの生活に戻っていくことと思います。たくさんいただいた日本のものから、皆さんの愛を思い出して、励まされていくと思います。感謝しています」。
          (娘婿より18日13時05分着信)

「今回は、感覚が日本に戻ってたのか、アメリカに到着して違和感があります。外国に感じるよ。
こっちに戻ってきて、寂しい。
ブログを何回も読んでます。
写真も何度も見てます。本当に嬉しかった。最高の夏だった。パパの喜び、じわじわきてます。本当に本当に嬉しい」。

          (真智子より19日06時48分着信)
私も寂しい。
すごく寂しい。
たまらなく寂しい。
もっともっと近くにいてほしい、何度も会いたい。

昨夕、夕食の用意をしているとき、6人分ではなく4人分になり寂しさを実感した。知子もそうだけれど、いつも「おいしい、おいしい」と喜んで食べてくれるマチとクマ。

今年初物の幸水(梨)は食べてもらったけれど、たっぷりストックしていた宍道湖のシジミが使わないまま残っていたり、鰻ももう一回分あったのに食べさせてあげられなかったこと、鰹の生姜煮を持たせてやるのも忘れていた。そんなことも私には辛い。

今度はいつ会える?
今度はいよいよパパと2人でワシントンへ行こうか。出不精に加えて飛行機が怖いから、決断する勇気が与えられますように。

かつては飛行機事故以外ではハイジャックが大きな危惧だったが、現代は危険に満ちており私のような人間には一層の勇気が要る。

このお盆休みから数日間ニュースを見ていなかった間にも、無残な事件が国内外で起こっている。実際、真智もこんなことを言っていた。
「日本は平和であり戦争は過去のものだけれど、IMFにいると戦争は過去の話ではない。紛争地域を通らずに安心して行けるところは少ない」と。
日本も平和が過去の話にならないように祈るのみ。

真智は年に4回、ミッション(出張)に行っていたが、この1年間出張がなかったのはとても珍しく、バックグラウンドの分析をする人が必要だったために、それをやらせてもらっていたという。

今は金融政策を担当しているので金融市場を調べるため、日銀からIMFに出向している人にも会いに行くという。IMFで働く日本人(50人だったか60人だったか?)の6割は官僚の人たちだそうだ。現在の部署が戦略局だからラガルドさんのスピーチなども考えるという。

クマもまた「G7」(?)で使うレポート(?)にも携わっている。まずクマのようなヒラの人が調べて、それを上司にチェックしてもらい、そしてまたその上の人がチェックしてと、とても多くの人が加わって仕上げるそうだ。

各副専務理事には一人ずつアシスタントがついており、コミュニケーション局(広報局のような働き)が内容をチェックして外に出すという。パーソナルインフォメーションのトレーニングも受けるそうだが、このような話を聞いただけでもトータルに高い訓練度であると想像に難くない。

「単一民族の日本では今も『察しの文化』が大切にされているが、個人はみんな違い、IMFはまさに世界各国の人の集まりだから、多様性という意識は高い。
多様性は問題もいっぱい起こるが、違いを認識して違いを組み込んでいく。最悪の組み合わせでも補い合っていけば最高の組み合わせになる」。


このような話をもっともっと聴きたかったが、今回は短時間しかできなくて残念だった。しかし、短い話の一端からも苦労が窺えた。また、どんな時も冷静に話すラガルドさんに敬意を表する真智子から、これまでの謙虚さだけではなく円熟の響きを感じた。

そしてIMFが求めるところの、「明快な自己表現力に優れ、外交的手腕に長けていること、また強いプレッシャー下でもチームの一員として業務を遂行できる能力」という一節を想起させた。

真智の鋭い感性と広い視野による見解は私の悟性を刺激し、私の内部で気力を発火させ、緩慢ではあっても変化していくのがわかる。

私の置かれた日常では、刃物のような言葉で自己主張を繰り返す人々がいて、感情はしばしば葛藤をもたらし、意欲を損なってしまう時さえあるが、真智と話していると本来の自分が生き生きと起き上ってくるのがわかる。

そして、しみじみと思う。
他人の体験や話に耳を傾けることができるかどうか。その延長線上にある「人間の多様性」と「世界の大きさ」を認識できるかどうか、そういうことが人間の精神的な成熟度を表すのだと改めて思った。

私にとっては、どのテーマで語るにも究極的には「人間について」であり、それで「自分はいかに生きるか」ということに集約される。その根幹にある心の在り方、心の持ち方こそが命なのだと主張したい。


マチ・クマは昨年末、溜まったマイルでロスアンジェルス旅行をしたのに、マチは今も17万キロのマイルが溜まっているという。17万キロと言えば地球4周分以上だ。そのマイルで私たち夫婦にビジネスクラスを提供してくれるというのだ。

そういえば、私たちがミネソタへ行ったのもミネソタ在住5年目だったけれど、来年がワシントン在住5年目になるから決断の年かもね。

ミネソタへ行くのも私には奇跡に近かったから、ワシントン行きも実現させてくださるかも知れない。今回の帰国の折に、ワシントンの空港のゲートを入って飛行機までの道と、飛行機を降りてゲートを出るまでの道を写真に撮ってきてもらえばよかった。

ミネアポリス空港では国内線のガイドになっていたから、予期せぬ冒険だったけれど楽しかった。でも今度は間違いなく国際線の道案内をね! わーい(嬉しい顔)

真智、行くよー!
真智と太志君のいるところへ行くからねー!

ワシントン近くの自宅近くにもミネソタのようにリスがいて、蛍までいるというから驚いた。行くならば蛍の出る暖かい季節がいい。

リスA.jpg  リス@.jpg

さて、この記事の " topic sentence " はいかに。 最適なものに訂正しようと思うけれど、まずは公開します。

サマースクール作品.jpg附記:ユキが教会のサマースクールで作ったデコ石鹸を帰国早々の二人にプレゼントしたことも書いておくね。

水にぬれると押し花はすぐに取れるので、反対側を使うといいよ。揺れるハート

8月24日追記:先日、洗面所の収納庫で見つけ、忘れて行ったことに気づいた。

posted by 優子 at 10:52| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

楽しかった淡路島 (後篇)

これは翌8月15日朝。
魚釣りの桟橋で.jpg

初めての魚釣り@.jpgユキは生まれて初めての魚釣り。朝の8時半から2時間、私もまた暑さを忘れてエンジョイしていた。エサはアミエビだ。



昨日と違ってクラゲがいっぱい。
魚がいっぱい.jpg
いろんな種類の小魚の群れや、昨夜の夕食で出たような鯛も泳いでいたがエサを取られるばかり。では網で捕まえようと思ったが、これまた至難で、ついに魚の知能に負けて諦めた。

初めての魚釣りA.jpgベラや中型の魚を取っていた父子を見て、ユキの傍にユキの父親がいないので心が痛んだ。私はユキを心の中で抱きしめていた。

最初から父親がいないってどんな感じなのだろうと想像するのだが、どんなに考えても私にはわからない。それでもユキは幸せになる、いや、だからこそ心豊かな幸せな大人に育ててやらねばならない。


コブダイがいた!!!
コブダイ.jpg

コブダイ弁慶.jpg今年6月のBSプレミアムで、カメラマン・中村征夫氏が佐渡の海に15年も君臨しているコブダイ(体長1mの弁慶)を追う再放送の番組があった。とても印象に残っていたので、この魚を見たとき叫んでしまった。

梅雨明けA.jpgさて、帰米出発8時間前の16日夜になってパソコンの使い方を教えて貰っていた時、私が知っている技術を駆使したこの画像を見てマチは微笑んだ。

そして、「ワードで書き込みできるよ」と作成してくれたのが次の写真だ。こんなことができたら楽しいだろうなと思うが、ややこしくて覚える気もなくて諦めた。
下の写真、上部円内にユキと私、下の円内に知子がいる。ホテルの部屋5階から撮ってくれていた。

無題.pngユキの父親代わりになりたいとの思いがいっぱいでも、小魚1匹さえ捕れなかった。

ホテルのシャトルバス出発15分前に戻った時、旅行係りの夫はヤキモキしていた。

「バスがいっぱいで乗れなかったら予約済みの梅田行きのバスに乗れなくなる」と。しかし、乗客は私たちだけでみんなマイカーで来ていた。

帰りは、洲本から梅田まで10分遅れの2時間10分で着いた。その夜のニュースでは22キロの渋滞を報じていたから、早く帰ってきて正解だった。

朝顔も終盤.jpg楽しかった淡路島の一泊旅行。旅行は全家族が揃っているに限る。誰が欠けてもダメだ。
今も10個以上花を咲かせているが、毎日数えきれないほど咲いた朝顔も終盤に入り、2015年夏もまもなく終わる。

附記:この記事の「前篇」(過去ログ・8月18日)は、カテゴリ「真智子(ワシントン便り)」に収録した。

posted by 優子 at 10:54| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年08月18日

楽しかった淡路島 (前篇)

お盆休み前になると次女夫婦が日本を発つ日が近づいてきたと、そのことを思い出しては頭(こうべ)を落としていた。

ようやく家族全員が休日を迎えたお盆休み、真智たちはやはり海の幸を食べたいとのことで1泊二日で淡路島へ出かけた。甘い玉ねぎや淡路牛で有名な淡路島は関西人にとっては親近感があり、私は小学校6年生の臨海学校は洲本(すもと)だった。

前日まで猛暑の晴天が続いていた天気も、お盆休みは不安定で雨天の予報が出ていたが、幸い傘を使うことはなかった。

8月14日(金)、バスは予定通り7時50分に梅田阪急バスターミナルを出発したものの、西宮から事故渋滞に巻き込まれ2時間遅れて淡路島に到着した。

行きのバスで.jpg途中、「ユキでもグズっていないのに、おばあちゃんグズってる」と言われたが、私よりもヤキモキしていたのは旅行係りの夫だった。
全ての予定が2時間遅れで次のバスも変更しなければならず、渦が巻く時間帯もとっくに過ぎていた。ちっ(怒った顔) ちっ(怒った顔) ちっ(怒った顔)

地平線は紀伊水道.jpgこの地平線が紀伊水道で、鳴門の渦潮は、潮の満ち引きによる瀬戸内海と紀伊水道の潮位の差によって生まれる。
↓ ここは大鳴門橋の下、潮位の高い瀬戸内海から太平洋に流れ込んでいくのがわかる。

鳴門の渦潮@.jpg

鳴門の渦潮B.jpg

鳴門の渦潮A.jpg
小さな渦がいくつもできては消えた。
徳島と兵庫県は昨年、世界最大級の鳴門の渦潮の
世界遺産登録を目指して協会を立ち上げた。

鳴門の渦潮D.jpg

鳴門の渦潮C.jpg

大鳴門橋をバックに。

鳴門の渦潮F.jpg

夕方5時過ぎより.jpgようやく夕方4時半頃にホテル着。夕食は7時にお願いして5時過ぎから海へ入った。
白砂青松の砂浜で有名な大浜海岸へは行かず、ホテルのプライベイトビーチ(?)のような狭い浜で我慢。
yjimage.jpg
まもなくホテルのプールですべり台を楽しみ、特にマチ・クマが最高に盛り上がっていた。わーい(嬉しい顔)



B3A4.jpg過去ログ・2009年7月19日掲載の写真(←)は、ホテルの前が大浜海岸だった。
この時、ユキは2歳になったばかりで波が怖くて泣いた。ユキは今回で3度目の淡路島だ。

夕食は「山桃ワイン」の食前酒から始まり、テーブルに置ききれないご馳走が運ばれた。

活け造り.jpg 
「これザリガニ?」
ふらふら「ザリガニじゃないよ。伊勢海老!」と大笑い。わーい(嬉しい顔)

宝楽焼き.jpg
焼き物は淡路島名物 宝楽焼き
淡路牛のしゃぶしゃぶや、名物・鯛めしも堪能した。

後篇に記すユキの初めての魚釣りは、カテゴリ「知子(ユキの成長)」に収録した。

posted by 優子 at 20:07| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

帰国中の次女夫婦滞在日記

「無事に着陸しました。感謝! 真智子」
23時28分、無事にワシントン・ダラス空港に着いたとメールが入った。主よ、感謝します!
     
7月30日(木)夕方に帰国、夜に再会して今朝の見送りまでの日々を懐かしくたどりたい。

8月1日(土):私たち夫婦と次女夫婦で西大和教会を訪ねる。午後は仕事関係のことでN兄ご来宅。

8月2日(日):忘れえぬ平和聖日礼拝! ハレルヤ!

8月4日(火):私はリハビリへ。真智が一緒に行きたいと言ってくれたが、猛暑なので辞退した。私の外出中、クマ(娘婿)が風呂場の天井の掃除をしてくれた。3月13日、掃除中に落下して右腕関節の肩腱板断裂以来、手つかずのままだ。

before.jpgこれは掃除前。
実際はこの10倍も汚れていて、このようなものではない。

あの日、右半分を終えようとした時に落下した。
「そんなことせんでも(しなくても)僕に言うてくれたらええのに。今からすぐに帰るから!」と言った夫だが、今まで一度としてその動きはなかった。それもまた夫らしい。 
after.jpgそして、掃除後。→
1年ぶりに帰国したクマが風呂場の掃除だなんてふらふら申し訳ない。ありがとう!
おかげで、こんなにきれいになったから年末の掃除もしなくてよさそう。わーい(嬉しい顔)
ちなみに私のリハビリ具合は、腕を上にあげる「屈折」は90度、手のひらを上にして腕を横にあげる「外転」は70度、エプロンの紐を結ぶように手を体の背部に動かす「内転臀部」は今も痛くてできない。

回復度は普通よりやや遅め。今はリハビリの慢性期に入っているが、リハビリを続けることで腕が90度あがるとグンと上がるようになる。無理してはいけないが、少し痛いくらいのリハビリが大切。長い人で1年ぐらいかかるとのことだった。

この日はアルバイトの医師ということで患者は皆無に近い状態だったが、私は敢えて主治医以外の意見を聞きたくて受診した。

診察室で補佐する看護師の異様な視線に驚きを感じたが、細かく状態を診てくださり、こちらから尋ねることなく説明してくださった。それは決して患者がいないので時間があるからということではなく、この医師のあり方だというのはすぐにわかった。

医師は回復するまで長い人で1年くらいかかると言われたので、リハビリは年末まで続けることになるのかと思ったら、理学療法士は2年かかる人もいると言われたので来年2月末を目標にしたほうがよさそうだ。

8月5日(水):真智のヘアーカットに同行し、スーパーで必要品を購入。国分(駅)に縁がある。

8月6日(木):4・5日、ユキは集会所のサマースクール出席(3日は学校のプールに参加)、6日は全校登校日で午前中不在だった。この日、ユキの帰宅を待って4人で難波(高島屋)へ。

私は服選びは苦痛。今回はマチがカットソーを2着見つけてくれたのでよかったが、私に付き合わせてしまってマチは1着も気に入った服を見つけられなかった。

このあと、マチ・クマは夕刻6時に知子との待ち合わせ場所の八戸ノ里駅へ。私とユキは鶴橋のプラットホームでマチたちと別れて帰宅。マチたちは駅前のファミリーレストランへ。3人は最終1本前の電車で午前12時に帰宅した。

8月7日(金):8時半過ぎより家を出て4人で神戸の大叔母(私の母の妹)を訪ねる。「また(生きて)会えると思わなかった」とマチとの再会を喜ぶ叔母。

その夕刻、梅田で父(良輔)と姉(知子)と合流し、今年もディナーをごちそうになる。今回もワシントンから予約してくれていたレストランだ。この日のことは8月12日付け記事に記録した。

8月7日(土):ユキはおじいちゃんに住宅展示場へ連れて行ってもらい、先着50名に与えられるアトラスオオカブトをゲットし、その午後はマチ・クマも一緒に4人で京セラドーム大阪へ。ユキは今回5回目か?! この日はオリックス対西武。
大阪ドームA.jpg  大阪ドーム@.jpg

8月9日(日):この朝の礼拝で、私の信徒説教をマチ・クマにも聴いてもらって感謝! 「交わりの会」にも参加。

8月10日(月):権先生と梅田で再会。その日の記事に記録。

8月11日(火):マチ・クマ、再度、梅田へショッピングに出かけるが収穫なし。

8月13日(木):藤本と実家のお墓へ。兄とは2年ぶりの再会。墓参後、いつものレストランで3時間も歓談した。近況を語り合い、政治・経済、IMFの仕事など話は尽きず、私にとっても最高に幸せなひと時だった。

8月14日(金)〜15日(土):梅田からバスで淡路島旅行へ(18日に記載予定)。15日夕方4時頃に帰宅し、すぐに母屋へ。お盆で藤本の親族(近年は5名のみ)との交わり。私は疲れ切って9時半頃から眠る。

8月16日(日):教会欠席。疲れの中、午前中から3時間以上も家族で話し込む。途中で血圧が160台になったのでデパス服用。食前に祈り合っている時、神の顕著なみわざに圧倒される。

午後、真智と私たち夫婦と3人で買い物に出て、帰りにケーキ屋さんの喫茶でケーキタイム。その間、ユキは「ウィー」をしてもらいながら、知子もまた太志君と主にある時を過ごしていた。

最後の夜になってようやくパソコンの使い方を聞くが、「ウィンドウズ7」に入っているメディアプレーヤーの音楽を「8.1」に移してもらうのが精いっぱいで、CDをインストールする仕方やワードの使い方をいくつか聞いたが脳が応答なし状態だったので諦める。

その後、真智と30分ほど2人で話す。
翌朝は5時起きなので11時40分頃にベッドに促し、互いに強く抱きしめ合った。私の思いや生き方を共有してくれている真智の存在が私を慰める。

大急ぎでお風呂(シャワー)に入ったが、その後も午前1時前まで真智子の結婚記念誌を読んでいた。
数時間後に、また真智は遠くに行ってしまう。


今日8月17日(月):
11時にマチ・クマの飛行機は日本を離陸した。その頃、私はリハビリを終えてユキと歩いていた。

附記:帰りに白いトルコキキョウを買い(ユリも白菊も蕾ばかりだった)、8月3日(月)に急逝された近隣宅を弔問する。内々のうちに家族葬で終えられたことを11日に知り、知人同様に盆明けを待ってお慰めに伺った。お向かいなのに全く気が付かなかったとは!

これから一緒に年を取っていきたかった・・・ご遺族の上にただただ神のお慰めを祈るばかりである。

そして、近隣の友人には巨峰を持って激励した。明日は我が身。神の導きを祈りつつ。
「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」。 (第2コリント:4章8節)
最後まで精一杯生き抜きたい。


posted by 優子 at 18:13| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

マチ・クマ、まもなく日本を離陸

またね!.jpg
まち、太志君、今回も本当にありがとう! 本当に楽しかったね。
今回は2週間少しあったので少しは時間の長さを感じると思っていたけれど、あっという間やったね。
きっと人生もこんな感じで終わってしまうのだろうなとしみじみ思ったよ。だから、何事も悩み過ぎずに神のみ旨のままに、精一杯今を生きようと思ったよ。

今からずっとブログにまとめたいけれど ― それは最高の楽しみで、それをゆっくり何度も開いて見るのはもっともっと楽しみです ― 9時過ぎからリハビリに行きます。

飛行機が無事に運航して20時間後(日本時間の18日03時頃かな)に無事にワシントンの家に着きますように、ずっとお祈りしているからね。
電車、バス、飛行機の手続きと移動で大変だからお返事はいいよ。先ほどの写真を送るね。太志君とのハグのはうまく撮れなかった。ごめんね。

ありがとう! 本当に本当にそうやね。神様に委ねて精一杯生きるよ。写真もありがとう! 最高の家族! そして神様の家族!
リハビリも頑張ってね。気をつけて行ってきてね。
クマも真智も、いつもお祈りしているよ。本当にありがとう。
真智子

行ってらっしゃい! またね!.jpg真智子と太志君は、始発2便目の5時42分の電車で行った。駅員さんが居るとプラットホームまで送りに行けたけれど、改札口を出られないと困るのでここで見送った。

またね!!!.jpg家族みんなでの見送りでも辛くて涙が溢れて止まらなかった。
その1時間後、夫と知子は会社へ向かった。

image2.jpg

(6:32着信メールより)
ママ 、パパ、お姉ちゃん、ゆきちゃん 
最高の時間をありがとう。(○○略)本当に嬉しかった。色んなことを共有できて、本当によかった。神様の絶えることのない愛を感じ、偉大なみわざを感じ、心が温かく満たされ、やる気が出てきました。みんなのこと、いつもお祈りしています。

太志・初めての墓参.jpgようやくお墓参りが出来てよかった。司おじちゃんとみんなで話していた時、姫島のおじいちゃんとおばあちゃんといた頃のことを思い出して、懐かしかった。

毎日愛情たっぷり、献立もいっぱい考えてくれて、本当に美味しい御飯も、思い出いっぱいの旅行も、神戸のおばちゃんとの時間も、数え切れないけど、全部全部、本当にありがとう。

クマも本当に幸せを感じ、感謝し、心からよろしく言っています。
大好きよ。いつもクマとお祈りしています。
今、伊丹行きのバスです。
朝早くからみんなでお見送りしてくれて、ありがとう。

主イエスさま、あなたは言葉に表せないほどの賜物です。全てのことを感謝します。私たちのことを背後で祈ってくださっている方々を豊かに顧みてくださり、私たちと同じ祝福を与えてください。

あなたはどんな想像をも超えた偉大なお方です。あなたがほめたたえられますように。

「イエス・キリストよ、このさき直面するどんな物事よりも、あなたはすぐれて偉大です。私はその御腕の中に身をゆだね、そのあわれみの内にあって歩みます!」

次女夫婦の旅の無事をお守りください。 アーメン!


ラガルドさんと.jpgこれは(IMFの)社内賞を受賞してラガルドさんと握手しているところ。これならばいいよと掲載許可された唯一の写真。

↓これはオフィスのデスクに立てている聖句。
IMG_0461.jpg





真智、ママもママらしく生きるね!
ママが死んだら真智と太志君が泣いてくれると思うと嬉しいです。その時までしっかり歩いていきます。

ふたりのお働きの上に神の祝福を祈っています。
じゃあ、またね!



posted by 優子 at 07:52| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

神戸の叔母を訪ね、夕刻は梅田でディナー

8月7日(金)、私は次女夫婦とユキの4人で神戸の叔母を訪ねた。「また会えるとは思わなかった」と喜ぶ叔母は87歳の高齢だ。

しかし頭脳は冴えており、話していると母を見舞ってくれていた時と全く変わらない。マージャン仲間とは毎回午前9時から始めて12時間強もやるほどの体力。口の筋肉もフル活動でお喋りと笑いながら手を動かす。わーい(嬉しい顔)

叔母よりも2歳年上の母は70歳で亡くなり、今秋で丸19年になる。叔母だけでも長寿でいてくれるのは嬉しい。しかし膝の痛みは相当ひどく、傍にいるのが辛くてならない。

愛蓮前で再会.jpgこの日は、大阪駅経由阪急電車で六甲駅前の中華料理屋・愛蓮の前で再会した。
1999年4月、私たちが奈良に引っ越した翌日が神戸大学の入学式だった。真智はJR・六甲道からバスで大学まで通っていたが、時々は阪急で帰る時もあったので、「以前ここはマクドだった」と六甲駅構内も懐かしそうに見ていた。

愛蓮で@.jpg

愛蓮で.jpg
私の「海鮮あんかけラーメン」がまだだよう〜もうやだ〜(悲しい顔)

叔母との時.jpg叔母に見て貰っている写真の中には、マチが(IMFの)社内賞をもらった時に専務理事のラガルドさんと握手している写真もある。

アイパッドで@.jpgユキは叔母愛用のアイパッドで「キャンディ・ソーダ」というゲームを教えてもらった。

アイパッドでA.jpg
 
叔母ちゃん、いつまでもお元気でね!.jpg
真智子は言った。
「叔母ちゃん、元気でいてね。また会いに来るね!」

この日、私は母の服を着て出かけた。完全に歩けなくなって車いすに乗っていた頃に着ていたもので、母の通院介助中に何度か見た服で、2〜3着だけ処分せずに自宅に持ち帰ってきた。

夕方5時に叔母とサヨナラして梅田へ。

ここは大阪・梅田駅前の国内最大級規模の都心部ターミナル・グランフロント(GRAND FRONT OSAKA)にあるノースゲートビルディング28階。大阪駅の頂上で、地上150mにあるレストラン「ラグナヴェール・プレミア」の個室から撮った風景だ。

28階眼下は大阪駅前.jpg

左側の赤茶色のビルが「丸ビル」だ。2004年だったか、真智子の東大大学院修士修了式に出向いた時に、大学時代の友と東京駅の「丸ビル」で待ち合わせたことがあった。
「丸ビル」と言えばこのように円柱型ビルディングだと思い込んでいたので、上を見上げながら歩いて探したが見つからなかったはずだ。
ラグナヴェール プレミアで@.jpg

大阪人の私も知らなかったレストラン。遠くワシントンで検索予約してくれていた。ここで良輔と知子と合流して、次女夫婦からディナーをご馳走になった。
ありがとう!!! お料理も雰囲気も最高だったね、寒かったけれど。わーい(嬉しい顔)

IMG_4484.JPG

ラグナヴェール・プレミアで.jpg「ママ、遅いなあ〜」
まもなく日が暮れて景色が見えなくなってしまう。


2015.8.7夜.jpgついに到着。
20分前には着いていたが、駐車場からここまで辿り着くのに迷ったそうだ。




2015.8.7感謝!.jpg

もてなしもお料理も最高だったのでリピーターになるだろうが、室温が低すぎ、しかも調整できなかったから指先まで冷たくなってしまった。夏シーズンは分厚い目の上着持参で!わーい(嬉しい顔)

IMF内もこのレストラン同様に冷えるので、夏でも起毛のストッキングを履き、足元に電気カーペットを敷いているそうだが、この日は寒さもクレームにならないほど名文句炸裂の楽しいひと時だった。個室だったから遠慮なく大笑いしたね。

ユキ@.jpg19時59分、ようやくディナー開始。

スタートが遅かったので、ユキはそのうち睡魔に襲われた。

ユキA.jpg 

ユキB.jpg
デザートが来たよ! 

ユキC.jpg
デザートはおなかに! 

ユキD.jpg 

ユキE.jpg 

ユキF.jpg
風邪を引かないようにナプキンをかけた。 

寝る前には大阪城も撮ってくれていたけれど・・・
大阪城.jpg

眠っちゃった.jpgそういえば、去年も途中で眠ってしまったね。
去年は8時前でダウンしてしまったけれどね。



私は電車で.jpg店を出たのは午後10時半。
エレベーターで28階から4階まで降りて、自動車に全員乗れないので私は電車で帰宅。
ではまたあとで!
4階から1階まで.jpg

私はエスカレーターで4階から1階へ。
エスカレーターを降りてドアを出るとグランフロント。

レストランは大阪駅上にそびえ建つビルの28階だった。IMG_4591.jpg

帰りの電車の中で、次女夫婦帰国後初めて、2日後に迫った信徒説教の原稿に目を通した。
赤ペン加筆箇所続出で、翌日、データも訂正して更新した原稿を刷り直さねばならなかった。

この日の翌朝(8日・土)、ユキはおじいちゃんに住宅展示場へ連れて行ってもらい、アトラスオオカブトをゲットし、その午後は、マチ・クマも一緒に4人で京セラドーム大阪へ。ユキは今回5回目か?! 

この記事を書いていると、先ほどから2人は荷造りを始めた。
また日本を離れるのか・・・

posted by 優子 at 17:10| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年08月10日

10月号の経済学学術誌掲載の論文共著者!

次女夫婦は日本大学教授・権(こん)先生との研究論文が評価されて、10月号の経済学学術専門誌" Review of Economic Dynamics "(経済動学論評) のトップ記事に掲載されることになった。

次女夫婦の帰国滞在中の今日、敬愛する権先生が東京から大阪まで出向いてくださり再会を果たした。

梅田で権先生と.jpg
Congratulations!

次女夫婦と権先生との出会いは2006年の日本経済学会で、その学会の帰りに駅でもお会いし、お土産屋さんでもお会いするという不思議な出会いだったというから、私はその背後に神の摂理を感じないではいられない。

2009年だったか、権先生が食前の祈りをされていたのを見た次女は、「クリスチャンですか?」とお聞きしたと、次女が話していたのを覚えてる。

権先生は敬虔なクリスチャンであり、今では次女を通して伴侶も信仰を授かっているので、3人のクリスチャン学者による論文が取り上げられたことに二重の喜びを感じる。

論文のタイトルは、"Resource reallocation and zombie lending in Japan in the 1990s" (1990年代の日本における資源再配分と追い貸し)で、私なりに理解した論文の概要はこうだ。

バブルが崩壊して銀行が倒産した90年代後半の金融危機の頃に、銀行が回復の見込みがない企業に貸し出し、追い貸しすることによって、健全な企業に資金が回らなかった。それによって経済全体の資源配分がどれぐらい歪んだか、また、その歪(ひず)みがどれぐらい経済に悪影響を与えたのかを研究したものだという。

「ゾンビ(zombie)」とは、追い貸ししてまでも返済させるために、死んでいるのに生かされているから「ゾンビ」なのだ。ただし、死んでいるように見えても復活する企業もあり、死んでるか生きているかの判断は難しいという。


誠実で心豊かな権先生は、私にとっても生きる喜びを思い起こさせる人である。私も神の霊感に触れて私の文章を紡いでいきたい。感謝!

附記:論文の概要
Abstract

We investigate how resources were reallocated in Japan during the 1990s, a decade of economic recession, by measuring aggregate productivity growth (APG) using plant-level data of manufacturers from 1981 to 2000. We find that the contribution to APG of resource reallocation deteriorated in the 1990s and became negative during the late 1990s, when a financial crisis occurred. Matched firm-plant data suggest that misdirected lending by banks to failing firms (zombie lending) allowed them to avoid reducing production inputs, especially labor. Our counter-factual analysis using a general equilibrium model with heterogeneous plants indicates that without zombie lending, annual APG would have been higher by one percentage point during the 1990s.


posted by 優子 at 23:57| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年08月09日

信徒説教で「罪の問題と救済について ―遠藤周作の作品より―」を語る

今朝の朝顔.jpg今朝の礼拝で信徒説教者として講壇に立たせていただいた。先週の礼拝に続いて今朝も奏楽を務めた知子は、前奏曲に「パッフェルベルのカノン」を選んだ。

この曲は母と死別後、何年も聴きつづけていた曲だったから、前奏曲を聞きながら母と父を想い出して何度か涙を拭いた。まもなく前奏が終わり礼拝が始まった。
          
今朝は遠藤周作の代表作である『海と毒薬』と、その続編の『悲しみの歌』から、神を求めることなく生きる「日本人の罪意識不在」を考え、罪の問題と救済についてお話させていただきたいと思います。

最初に一言お祈りさせていただきます。

在天の父なる神さま、今朝はこの小さき者を講壇に立たせていただくことを心から感謝いたします。どうか、お聴きくださる方々にわかるように話すことができますように助けてください。

今、全国の教会で持たれている礼拝に神さまが豊かに臨んでくださいますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

信徒説教中.jpg戦後70年の今、平和の理念は大きく揺らぎ日本は再び大変危機的な状況に立たされています。
今日取り上げます『海と毒薬』は、まさに70年前に実際にあった戦争犯罪を題材にして書かれたものですから、終戦記念の8月にこれらの作品を思い起こすことは意義深いことだと思います。

『海と毒薬』はあまりにも有名ですので、ご存じの方もたくさんおられると思いますが、簡単に内容をご紹介いたします。

この作品は、第2次世界大戦末期に、九州大学付属病院でアメリカ人捕虜の飛行士8名が医学上の実験材料にされ、そのことを戦後直ちにアメリカ軍の法廷で取り上げられた、生体解剖事件を題材にして書かれたものです。
    
その実験とは、血液に生理的食塩水を注入して死亡までの極限可能量を調べたり、血管に空気を注入して死亡までの空気量を調べたり、また、肺を切除して死亡までの気管支断端の限界などを調査するという、何ともおぞましいものでした。

その生体実験の助手に2人の医局員、戸田剛と勝呂二郎に声がかかり、彼らは戦争に巻き込まれていくかのようにして実験に立ち会うことになります。

2人の人物像については、勝呂はごく普通の人間で、「平凡が一番幸福」と思っている人であり、空疎な内面を持って生きているように描かれています。
写真は六甲小学校発祥の地、六甲駅のすぐ近く、阪急沿線沿いにある。
8月7日に次女夫婦と孫の4人で神戸の叔母を訪ねた時に見つけた。
六甲小学校発祥の地.jpg戸田については手記の形式で多くの紙面が割かれています。
経済的に恵まれ、「昭和10年ごろ、神戸市灘区の東はずれにある六甲小学校で髪の毛を長く伸ばしている男の子はぼくだけだった。」と、子供の頃の経歴は遠藤氏のそれと多分に重なっています。

戸田は成績優秀、学芸会では必ず主役、絵や書き方もいつも金賞という人物に設定し、「大人の気に入られるように自分を作って生きてきた」人で、子供の時から他人の眼や社会の罰だけが恐怖だと思っています。「人間なんて一皮むけばみんな僕と同じだ」と考えており、「良心の呵責を感じない自分が不気味である」とすら言っています。
 
では、2人はどのようにして「あの事件」に関わっていったのでしょうか。この仕事は断ろうと思えば断れたのですが、勝呂は真剣に考えることもなく、「俺一人ではどうにもならぬ世の中」だからと、どうしようもないこととして生体解剖に立ち会うことを承諾します。

一方、戸田は運命だと考え、戸田なりに「自ら選び取った運命」として、冷酷なまでに積極的に参加します。そんな戸田ですが、「良心の呵責を感じない自分が不気味」だと言い、戸田のほしいものは呵責であり、胸の烈しい痛みでした。その箇所の一部を読んでみます。
戸田は、二時間前まで生きていた捕虜の赤黒くよどんだ水に漬けられたこの褐色の暗い塊り。俺が怖ろしいのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見ても、ほとんどなにも感ぜず、なにも苦しまないこの不気味な心なのだ。

今、戸田のほしいものは呵責だった。胸の烈しい痛みだった。心を引き裂くような後悔の念だった。だが、この手術室に戻ってきても、そうした感情はやっぱり起きてこなかった。

戸田は罪に苦しむことのできないことを苦しんでおり、そのあたりに人間らしさの痕跡を感じるのですが、「今日のこと、お前、苦しゅうはないのか。お前は強いなあ。・・・どう考えてよいんか、俺にはさっぱり今でも、分からん。」と、手術室では怖くて目を閉じて何もしなかった勝呂に戸田はこんなことを言います。

あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したことやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変わるもんやわ。

俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや。

戸田は身勝手な論理で自分を納得させて、常にこのように通り過ぎていくのですが、果たして、この2人はどちらの方が罪深いのだろうと考えたものです。

「考えても仕方がない」とする勝呂よりも、胸の痛みを感じたいと思っている戸田のほうが、救済の可能性があるようにも思います。

確かに戦争という時代においても、自分の出世のためには患者を人とも思わない柴田助教授や浅井助手もいましたから、そういった人々と比べるならば、勝呂と戸田は人間として苦しんでいると言えます。

戸田は、自分を押し流す運命から自由にしてくれるものが「神」だと言うのですが、「神があっても、なくてもどうでもいいんや。」と言っている勝呂の方が、闇が深いのではないかと。

そして、2人ともが「あのころは疲れていたから」と言うのです。この「ふかい疲れ」は、神不在、罪意識不在ゆえの虚無感、無気力からくる「ふかい疲れ」であり、まさに遠藤が日本人に問い続けた「日本的感性が孕む虚無」をこそ見極めようとしているのです。   

この『海と毒薬』を書いた20年後に発表したのが『悲しみの歌』です。これは『海と毒薬』の続編ともいうべきもので、ここに勝呂が登場します。私はこの作品を「東大阪読書友の会」が読書会で知りました。

この読書会は東大阪市の助成金で運営されていた読書会で、私は2009年3月まで20年間所属していました。2004年6月のテキストが『悲しみの歌』だったのです。私にはとても興味深い作品でした。

『悲しみの歌』では、勝呂は戦犯という過去を背負った開業医として登場します。戦後、影を潜めて良心的な開業医として生きてきた勝呂ですが、『悲しみの歌』の最後で首を吊って自殺します。

私はこの結末に衝撃的なほどびっくりしました。あまりに驚いたので、「遠藤はどうして勝呂を自殺させたんだろう」と次女に尋ねました。すると間髪入れずに、「作者がクリスチャンだからじゃないの?」と申しました。

その1年後、クリスチャン・ペンクラブでご指導いただいている文学者のお1人で、数多くの三浦綾子作品の解説でも著名な久保田暁一先生に、初めて日本キリスト教文学会に連れて行っていただきました。

その懇親会の席でスピーチを求められて、スピーチの最後にこのことを話題に出しましたら、遠藤周作学会会長の笠井秋生教授が、次女と全く同じことを言われたのです。

今思うと、それは当たり前すぎるほど当たり前のことですが、私は自殺させたことに非常に驚いたままでしたから、「クリスチャンだから」と言われた笠井氏に、「どうしてですか?」と返してしまったほどわからなかった。
そして、それから何年も経って気づきました。

私は無意識のうちに、クリスチャン作家の作品だから、勝呂は罪を悔い改めてハッピーエンドに持って行くのだろうと想定して読んでいたのです。

このことに気が付いたのもまた、かなり年月が経ってからでしたから、そのことにもびっくりするのですが、こういうのを心理的な落とし穴とでもいうのでしょうか。人間の無意識の思い込みの例話として語れる貴重な経験だったと思っています。

話を戻します。
ここからが今朝お話したいことです。

この時の読書会参加者の発言は、新聞記者の執拗な追跡や世間の風評が、勝呂を自殺に追い込んだというもので、私以外全ての方の一致した感想でした。ただ一人だけ鋭い感想を言われたのが、この本を推薦した方で、それは最後にお話します。

実はここで、遠藤は根源的なことを世に問うているのです。確かに世間の眼はたいへん辛かったでしょう。しかし、それで自殺したとは思えません。

「あの事件」については、勝呂は戦犯として裁かれて刑罰も受け、貧しい患者さんは無料で診療するなど善行を積んできたのです。しかし、それでも心に安らぎはなく常に何かにおびえていました。即ち、勝呂にとって罪の解決、罪からの解放が無かったために自殺に追い込まれたのではないでしょうか。

勝呂は最後まで罪の意識を自覚することはなかったと思うのですが、人は罪意識があろうとなかろうと、罪の解決を得ていないと魂の平安を得ることはできません。なぜならば神さまがそのように私たちをお造りになったからです。それゆえに無意識であっても罪から逃避せざるをえなかったのだと思います。

ここが「神なき日本人の悲惨」を描き続けた遠藤の訴えたいところなのです。夏目漱石は『こころ』で「罪と罰」を書きましたが、主人公の「先生」も自殺します。人間は何と破壊的な存在でしょうか。

読書会の講師としてお招きしたキリスト教に無縁の漱石学者はこう言われました。「八百万の神を信じる日本人が、徹底的に罪を追い詰めていった場合、罪を贖うのは自殺しかない」と。

戸田は「良心なんて考えよう次第で何とでもなる」といいます。戸田のように断言しなくても、多くの日本人はそのような考え方なのかもしれないなあと思う時があります。

『悲しみの歌』においても勝呂に罪意識はなく、「これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない・・・アレをねえ。」と、何十年経っても同じように受け止めています。彼の生き方に主体性はなく、そこに私は典型的な日本人の姿を見るのです。

しかし、遠藤が我々に問うているのは、勝呂のように生体実験に加わったとか、犯罪とまでいかなくても、誰一人として例外ではない万人に対して問われている根源的な罪の問題です。

日本人は人や動物、自然などを神格化して崇め、信仰の対象としますので、非常に都合のよい「カミ」なのです。

しかし、私たちの信じる聖書の神は、常に自分自身の在り方や主体性が問われます。「あなたはどうなのか?」「あなたは何をしたいのか?」と。

私たち人間は刑罰を受けたところで、それによって罪が赦されるのでしょうか。私たちを創造された神さまの前に立ち返らなければ魂に平安はなく満たされません。勝呂のように善行を積んでも罪から解放されないのです。

聖書が言う「赦し」とは、イエス・キリストが私のために死んで贖ってくださったと信じることであり、そのことを個人的に受け入れたならば、その瞬間に即刻即座に罪から解放されるのです。

ヨハネによる第1の手紙1章9節にはこのように記されています。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」。
このことを信じる者は幸いです。

神さまは悔い改めた者には豊かに赦しを与え、溢れる恵みをくださる方です。イザヤ書1章18節には、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。」とあります。

私たちは人を許しても「あの時、こんなひどいことをされた」と覚えていますし、「私はこうしてあげた」と、いつまでたってもどこまでも自己を立てようとする。これが人間の実相であり、人間の努力ではどうすることもできない自分の醜さと頑なさに気づかされます。

ところが神さまは悔い改めた者の罪を完全になかったことのように忘れてくださるのです。何という感謝なことでしょうか。私たちはただ「ありがとうございます」といただけばよいのです。

しかしまた、そのこともどんなに難しいことでしょうか。
例えば、太宰はマタイ伝28章を読むのに3年かけて読み、原書のギリシャ語までたどって徹底的に読みました。しかし、読めば読むほど自虐的になり、自己嫌悪し、自己否定や罪意識ばかりが深まっていき、「悔い改めたら赦される? そんなうまい話はない」と、神の愛が信じられなくて死を選びました。

また、完璧主義の有島武郎は洗礼を受けながらも無力と虚無のうちに自殺して果てました。有島の苦悩は富と性の問題ですが、「人間が犯す罪のその責任はいったい誰にあるのか。被造物である人間にか、それとも人間を罪を犯すことができるように創造した神の側なのか」という疑い。実に深刻な神義論です。

私たちの信仰生涯においても、囲いから迷い出てしまわないために、意地を張らずに常に神さまの前で本心に立ち返りたいものです。そして、悔い改めて立ち直るたびに、より深い信仰を与えて下さるという確信を忘れないで歩んでいきたいものです。

さて、『悲しみの歌』を推薦された方は、次のように感想を言われました。

「良心の罰を受けない人もいるのに、勝呂は罪から解放されずに、いつも追われて生きてきた。赦されるということは、どういうことなのかなあと思った」。

この感想は、あの時の読書会で唯一私の心に残った鋭い感想でした。

良心の呵責に悩む人もいれば、非道なほどに他者を顧みず自分のことしか考えない人もいます。しかも、そういう人に限って健康や経済も与えられ順風な人生を歩き続けていることも多い。

そのこともまた実に不可解なことであり、まさにその不条理で理屈に合わない出来事が私の苦しみぬいた課題でありました。

彼らは自分の自己中心さに悩むこともしない。悩むにも能力がいるんだと憤りを感じていましたが、そうではない。悩む、悩めるということが神の恩寵であると気づかされ、受洗後10年余りの歳月を通して神さまに納得させていただきました。(下線箇所も是非話したかったことなのに言い忘れてしまった)

その時、私は如何に悩み、如何に導かれてきたか、いつか機会がありましたらお分かちしたいと思います。

以上、今朝は拙いながらも遠藤周作の『海と毒薬』『悲しみの歌』から、罪について、そして、罪の救済についてお話させていただきました。

最後に、私の信仰に影響を与えた一人、クリスチャンのフランス文学者であり哲学者の森有正の言葉で閉じたいと思います。有正は明治時代の政治家・初代文部大臣の森有礼の孫にあたります。

「人間にとって決定的に死に値するものは、人間の持っている罪なのです。・・・・人間に罪というものがある以上、人間は死ぬことができない、これはいちばん重要な問題だと思うのです。

・・・人間の魂を、生きることができなくさせるものは罪です。自分が罪人だということです。・・・罪がある限り、人間は死んでも死にきれないということをつかむことです。自分の経験を深めていきますと、その問題だけが残ります。

・・・けっきょく最後に残るのは、人間の死の問題であるということ。しかも、死の棘、死の針は罪だということ、罪が死の針のようにあって、人間は死ぬこともできないでいる、人間があんなに死を避けるのは、ただ死が恐いからでなくて、やっぱりそこに罪があるからだと私は思うのです」。


以上です。
お祈りいたします。

天にいらっしゃいます主なる神さま、罪赦されて永遠の命をいただき、神の国の民に登録されていることを感謝します。

しかし、罪赦されても生まれつきの罪性や性格を変えるのは至難で、信仰生活が長くなればなるほど罪の自覚が深くなり、ただただイエスさまのみ名によって祈れることを感謝するばかりです。

日本のキリスト者は1%にも満たない少数ですが、あえて私たちに白羽の矢を当ててくださり救い出してくださいました。私たちが救い出されたのは人を救わんがためでもあります。

私たちが向き合わねばならない問題や救われ方も全て一人ひとり違いますが、どうぞその痛みと経験を用いて周囲の人々にみことばを伝える者としてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

このほかにも心に思い浮かんだことを加えながら30〜35分間お話させていただいた。70年前の今日、長崎に原爆が落とされたことを覚えつつ。

posted by 優子 at 20:53| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年08月06日

広島 原爆投下から70年

Hiroshima_aftermath.jpg

「核と人類は共存できない」 
                   (故森滝市郎・広島大名誉教授)

今年の平和記念式典には過去最多となる世界100カ国と、EU(ヨーロッパ連合)から代表が参列する。アメリカからは政府高官として初めてガテマラー国務次官が式典に出席。世界の核軍縮が進むよう祈るばかりである。

以下は「ノー・モア・ヒロシマ」より:
" No more Hiroshima" は、1945年(昭和20)9月3日早朝、外人記者として初めて広島入りしたイギリスの『デイリー・エキスプレス』紙のピーター・バーチェット記者が、同年9月5日付同紙に外人記者として、世界で初めて被爆地の実情を伝えた記事の最後に記された言葉。

この記事は、『デイリー・エキスプレス』の一面に大きく掲載され、大見出の「THE ATOMIC PLAGUE」のすぐ下には、I write this warinng to world(「私はこれを世界への警告として書く」)と書かれ、最後は、No more Hiroshimaで締めくくられた。

記事の概要は以下の通り(『広島県史原爆資料編』)。

「最初の原子爆弾が街を破壊し、また世界を震骸して、30日後の広島では、人がなおも死んでゆく。それは神秘的な、そして恐ろしい死であった。その人たちは、あの大激変の時に無傷であったというのに、何ものかわからない、私には、原爆の疫病としか描写するほかない何ものかによって死んでゆく。

広島は、爆撃を受けた都市の様相を呈していない。怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ、木端微塵に、抹殺壊滅したようだ。私は、これらの事実をできるだけ感情にとらわれずに記述し、それが世界への警告となるよう心から希求する。

(中略)

広島に着くと、25あるいは30平方マイルを見渡しても、ほとんど建物らしいものが見うけられない。これほどのひどい人間による破壊を見ると、腹の中が空っぼになるような気分にさせられる。

(中略)

これら病院には、爆弾の落ちたとき、全然傷を負わなかった者が今や、薄気味悪い後遺症で死んでゆく。

はっきりした原因もなく、どんどん病弱になってゆく。食欲がなくなる。髪の毛が抜ける、体には、青い斑点が現れた。そして耳鼻、口からは出血した。

医者がいうには、最初これらは、一般の衰弱の兆候だろうと思ったという。患者には、ビタミンAの注射をした。結果はおそろしいものだった。注射針でできた穴の所から皮膚が腐りはじめた。そしてそのいずれの場合も、被爆者は死亡した。

これが、私の見た人間の落とした最初の原爆の後遺症の一例だが、私はそれ以上の症例は見たくなかった。が、1ヵ月後の瓦礫の中を歩きながら、他のものも見ざるをえなかった。(以下略)」

核、戦争が絶対悪であることがわからぬ人々、その力を封じ込むために我々はどうすればよいのだろうか。現下の日本を憂いつつ、以下は「世に倦む日々」より引用転載したい。

▼ 7/15夜の国会前には2万人ほどが集まったが、国会の中には誰もおらず、抗議の声は届かないのである。

国会前でデモをする狙いは、圧倒的な頭数を揃えて絵を作り、報道ヘリに上空から撮影させることだけだ。夜の2万人では十分な絵にならない。

しかし、NHK前に2万人が集合する事件が起きれば、報道姿勢に影響を与えることは十分可能だろう。同じ2万人でも効果が違う。

兵力の一点集中は古今の戦術の要諦で、孫子の兵法にもナポレオンにもある定石だ。
少ないデモの人数で政治の効果を得るためには、敵陣営の最も弱い環を衝いて崩すべきで、渋谷のNHKへの集中攻撃は合理性の観点から採用すべき作戦だろう。同じことは信濃町の公明党についても言える。

▼ 国会(野党)も、マスコミ(報ステ・NEWS23・東京新聞)も、安保法案を阻止する本当の実力はなく、政局を自前で主導する力を持っていないことは6月と7月の現実を見れば瞭然だ。

ここまでの政局を主導し、反対派に法案阻止への有効な論点を与えてきたのは憲法学者だった。憲法学者の論陣こそが決定的な力だったのである。安倍内閣の支持率を落としたのも、世論を動かした主たる要因は憲法学者の立憲主義の説得力だった。

政治を動かすには力が要る。同じほどの強い原動力がなくては、支持率をさらに引き下げて廃案に追い込む条件は作れない。

▼ 解散を迫り、選挙せよと安倍晋三に要求するなら、われわれは投票先を準備しておかなくてはいけない。・・・受け皿を作ることは、法案を廃案に追い込む上で最も有効で必須の戦略だろう。

選択肢のビジョンが明確に立ち上がれば、そこへ世論を導くことができ、期待を集めることができる。法案を葬り去り、安倍政権を倒した後を約束することができる。次の政治を保障することができる。「政治改革」のときの細川護煕の日本新党のムーブメントを再現し得る。受け皿がなかったら、この安保法案について国民に信を問えと言えないのだから。

以上、質問に回答する具体論として、(1)外国人特派員協会、(2)NHKと公明党、(3)受け皿作り、の3点を述べた。

(1)外国人特派員協会については、『世に倦む日々』7月27日の「『言論の府』である外国人特派員協会への提案 - 論点を外から持ち込む」を! 以下に一部抜粋引用。

▼ 今日の日本の政治において「言論の府」と正しく呼べる機関は、国会ではなくて外国人特派員協会である。この事実の認識が必要だろう。

二大政党制下のこの国の国会は、すでに民意を代弁する国民代表が存在しない。形ばかり野党でも、その野党は民意を拾う野党ではなく、民意を拾うフリをする擬態する野党である。

今日、わが国の言論の府は外国人特派員協会である。外国人記者クラブで重要な論点が提出され、マスコミがそれを拾って報道し、最後に国会審議の場に届くという順番になる。

日比谷の外国人記者クラブでイベントがスタートする。そのことを踏まえた上で、第一に、あらためて、最高裁元判事による記者会見を組むことだ。

日本の危機的状況下、まもなく始まる70年目の平和記念式典を見守りたい。

posted by 優子 at 07:16| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年08月05日

権(こん)先生と次女夫婦の共著論文が10月号の経済学学術専門誌に掲載決定!

今日、次女夫婦と Kwon Hyeog Ug 先生(こん・ひゅぐ・うぐ日本大学教授)と3名で、2007年から取り組んできた論文が10月号の経済学の学術専門誌" Review of Economic Dynamics "(経済動学論評)に掲載されるとの吉報が入った。

すごいビッグニュースだ!!!
努力を重ねてきた次女夫婦の喜びはいかばかりだろう。

Review of Economic Dynamics
Volume 18, Issue 4, October 2015, Pages 709–732

Resource reallocation and zombie lending in Japan in the 1990s
Hyeog Ug Kwona,
Futoshi Narita,
Machiko Narita,

タイトルは、"Resource reallocation and zombie lending in Japan in the 1990s" (1990年代の日本における資源再配分と追い貸し)。結婚して間もなくの2007年以来研究を重ね、IMFに勤務してからも土・日・祝日は研究に没頭してきたものだ。

この喜びに至るまで他のジャーナルに寄稿していたが取り上げてもらえず、このジャーナルには3年前に送ったそうだ。そこで有益なコメントをいただいて大幅に改定して完成度の高い論文になったと言う。

今年6月後半に掲載が決まってからも多忙な本務に加えて校正依頼などの締め切りをこなすのが精一杯で、その喜びを実感する暇もなく帰国の日を迎えたと言う。だから超多忙だったのだ。

権先生は次女夫婦が帰国するたびに予定を調整してくださっていた。そして来週10日(月)、東京から大阪まで出向いてくださるそうだ。

2012年の年末に帰国した時、真智は父親に風邪をうつされて伴侶のみ京都で再会したが、その時の大学教授とは権先生だ。
今回は祝福が重なる特別の再会になることだろう。感謝!

posted by 優子 at 16:28| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2015年08月03日

次女夫婦共に家族の記念すべき平和聖日礼拝2015

忘れえぬ平和聖日礼拝.jpg次女夫婦が帰国して早4日。2日(日)の礼拝は生涯忘れられない喜びの日となった。礼拝後、和やかな愛餐会に集った。感謝!!!

馬見労祷教会は無牧(牧師不在)のため、西大和教会の大澤星一牧師が代務牧師の労を執ってくださり、毎月1度礼拝を執り行ってくださっている。

8月の第1週目の聖日は、日本基督教団の諸教会では平和を覚えて平和聖日礼拝をささげている。

この日の聖書箇所はエレミヤ書29章10節〜14章。その中の10・11節は特に有名なみことばだが、私の心深くに届いたことをお分かちしたい。
主はこう言われる、バビロンで70年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。


預言者エレミヤがエルサレムの民に預言してきたのに悔い改めず、エルサレムの神殿が破壊されてバビロン捕囚になった民に、エレミヤは神の慰めと希望を伝えた。

「70年の時」とは当時の寿命でもあることからも、誰一人エルサレムに帰ることはできないということであり、長く続くから腰を据えて暮らせ! その現実を受け入れ、腰を据えて暮らせと。

しかし、子や孫はエルサレムに帰ることができるから、その現実を受け入れ、腰を据えて暮らせと、エレミヤは厳しくも神の慰めと希望を伝えたのである。このことをエレミヤは「平和の計画」と言った。

ヘブライ語で書かれている「将来」とは「後ろ」、「自分たちの過去」のことで、私たちの前に私たちの過去があり、私たちの後ろに私たちの未来がある。決して消極的な言葉ではない。

そして「希望」とは、とても痛みの伴うものであり、歴史を振り返りつつ悔い改めつつ歩むことだと。

つまり、私の平和、私たちの平和を考えるのではなく、子や孫たちの平和を考える。常にこれまでの歩みを振り返りつつ歩むならば新しい目で見直す機会が与えられるだろう。その時、恐れることなく自分の過ちを認めよ。

耳新しい力強い平和のメッセージだった。
尚のこと日本の現況を憂い、最後に紹介されたニーメラーの告白がくさびのように聴く者の心に打ち込まれる思いだった。

ナチスが共産主義者を攻撃したとき
自分は少し不安であったが
とにかく自分は共産主義者でなかった
だから何も行動に出なかった。

次にナチスは社会主義者を攻撃した
自分はさらに不安を感じたが
社会主義者でなかったから何も行動に出なかった。

それからナチスは
学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し
自分はそのたびにいつも不安を感じたが
それでもなお行動に出ることはなかった。

それからナチスは教会を攻撃した
自分は牧師であった
だから立って行動に出たが
その時はすでにおそかった。

そして、彼らが私を攻撃した時
私のために声をあげる者は
誰一人残っていなかった。

当番役員のご奉仕中.jpg今月は当番役員ということで週報に記載されている次週の予告や報告、連絡などを読み上げることになっている。
また、この日の礼拝後に持たれた愛餐会の司会役、役員会では閉会のお祈りなど役目が重なった。奏楽を務めた知子の姿も見える。

週報より.jpg次週は私が信徒説教に立たせていただくことになっている。
敬愛する山本祈未子姉.jpg掲示板で毎週の礼拝案内を書いてくださっているY・k姉は、毎週礼拝後に次週の案内に更新される。感謝!(Photo by Machiko)

真智子夫婦も共に聴いてもらえるので嬉しい反面緊張するかもしれないが、真智は機会があるたびに私の文化活動に参加してくれたことを懐かしく思い出す。

中学校1年生の時は東大阪市後援の東大阪読書友の会25周年記念行事(通算8年間の会長初年度のこと)、また、大阪商業大学で講演会の講師としてお招きくださった時もビデオで撮ってくれていた。

あの時の演題は「文学作品に見る人間の真相 −選ぶということ 自由に生きるとは−」だった。母の介護中で大変な時だったが、だからこその神の計らいだと思った。もう21年も前のことである。

このたびは講演会ではなく礼拝説教として語らせていただくので、より一層祈りつつ準備しなければならない。次女夫婦が帰国以来、連日私たちは積る話をし続けているので、1度だけでも時間をとって声を出して準備せねばと思う。

この記事はカテゴリ・「我が心の旅路」に収録しようと思ったが、「夫婦・家族」でもなく、やはり「真智子」のところに収録したい。

posted by 優子 at 23:59| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする