2015年09月26日

九転十起、女傑 広岡浅子の生涯 −朝ドラ「あさが来た」のモデル ―

「今から顧みれば、断崖絶壁をよづるが如き、危険きわまる所を歩んで来た」。(広岡浅子)

産経特別版@.jpg今月初め産経新聞社の『SANKEI 
EXPRESS』の特別版を入手した。
それは、9月28日から始まるNHKの朝ドラのモデル・広岡浅子の生涯を15ページにわたって紹介したもので、今年4月初めから2ヶ月間、同新聞夕刊に連載された「九転十起の女 広岡浅子伝」だ。
浅子は大阪の実業界で活躍した人物であるが大阪でも殆ど知られておらず、私も非常に面白く読んだ。

浅子は1849(嘉永2)年、ペリー来航の4年前、京都の出水三井家の第6代当主、三井高益(たかます)の4女として誕生した。

天晴(あっぱれ)な気性を持って生まれたようで、おてんばを叱られた時は髪をバッサリ切った。おてんば娘と言うよりは「反骨を感じる」と執筆者は書いている。
裁縫、茶道、華道、琴などの習い事は大嫌い。男兄弟のように読書や学問がしたいと訴えたが、13歳の時には一切の読書を禁じられた。

後年、この時のことを次のように自伝に書いている。
「圧迫益々強ければ、これを打ち破らんとする精神は愈々固く、女子といえども人間である。学問の必要がないという道理はないと考えた」。

浅子は17歳で広岡信五郎と結婚する。その3年後に明治維新を迎える頃である。
広岡家は現在の大同生命保険の創業家で、信五郎は鴻池家と並ぶ江戸時代の大坂の豪商・加島(かじま)屋一族の人間だ。私は加島屋と聞いた瞬間、塩干物を商う新潟加島屋だと思ったが全く無関係。

伴侶の信五郎は「のんきな大名暮らし」。
一方、「維新を前に風雲ただならぬ空気を感じていた新妻は、婚家の太平ムードに危機感を抱く」。
実際、徳川慶喜の大政奉還で、大名に貸していた多額の金が紙切れ同然になって返金されず、旧幕府からも新政府からも大金を要求された。

「一朝事あれば、一家の運命を双肩にになって自ら立たねばならぬと意を決し、その準備に務めた」(「一週一信」)という。
一体何を始めたのか。それは読書、勉強だ。
「簿記法、算術、其の他商業上に関する書籍を、眠りの時間を割いて、夜毎に独学し一心にこれが熟達を計りました」。(「一週一信」)

浅子は婚家先の加島屋のために東奔西走し、「傾きかけた加島屋を盛り返し、浅子は経営の才能を見事に開花させ」た。筑豊の炭鉱事業にも乗り出し、「ピストルを胸に炭鉱に乗り込んだ」という逸話が残っている。

その後、加島銀行、大同生命保険会社設立に大きく寄与した。
夫の死後は娘婿の恵三に家督をあっさり譲ったとは天晴な女性だ。
それを期に社会活動に専念し、日本女子大学の創設に尽力し、浅子53歳の春に大学が開校してからは第2の青春を開花させ、頻繁に上京して勉学に励んだ。

浅子の生涯で特筆すべきは、47歳の時に成瀬仁蔵(浪花教会で受洗、教会附属の梅花女学校校長、日本女子大学創設者)との出会いである。成瀬より大きな影響を受け、後年、クリスチャンとなる。

61歳で乳がんを患い、63歳で成瀬の教会仲間、大阪教会の宮川経輝(つねてる)牧師より洗礼を受け、その後は伝道活動に奔走。日本YWCAの中央委員、大阪YWCAの創立準備委員長として活躍した。何事も全力投球だ。

また、若い才能のある人々を励まし女性の地位向上のために尽くした。自ら主宰の勉強会には矯風会のメンバーや、市川房江、村岡花子なども集っていた。

特に不思議な神の御手を感じるのは、浅子の一人娘・亀子が広岡恵三と結婚したことだ。恵三は元播州小野藩主の一柳(ひとつやなぎ)子爵の次男である。

そう、一柳と言えばヴォーリズの妻・一柳満喜子を想起する。満喜子は恵三の妹だった。
「満喜子は若い頃から父と不仲だったために、兄の養子先の広岡家に身を寄せていたことが」あり、広岡家のパーティで出会ったのがヴォーリズだった!

そして二人は出会いを深めていくのだが、結婚については相手が外国人だからと周囲から猛反対された。ただ一人だけ賛成してくれたのが浅子だった! 

結婚式は浅子が天に帰還したあとだったが、浅子は最期の病床で恵三を説得して結婚を許すことを約束させて召された。69歳の生涯だった。大同生命の旧肥後橋本社ビルはヴォーリズの設計である。

このほか、当初、日本女子大の土地は大阪の天王寺界隈(現在の府立清水谷高校)に確保していたことなど、一人の生涯だけではなく、出来事の背景にはいろんなことがあるのだと感慨深い。

ちなみに成瀬仁蔵が校長を務めた梅花女学校が創設(1878年)されたのは、土佐堀裏町十番地(現・肥後橋交差点南西)だった。

「あさが来た」の原案本である『小説土佐堀川』は1988(昭和63)年に書かれたもので、朝ドラでは広岡浅子を中核に置きつつも自由な展開になるというのでガッカリだが、しばらくは見ようと思う。

肥後橋交差点・土佐堀通り.jpgこれが土佐堀通り。
大阪市内の幹線道路は東西に走る道路を「○○通り」、南北に走る道路を「○○筋(すじ)」という。この写真は肥後橋の交差点から西側を写したもので、この通りの中ほど右手側に大阪YMCAがある。
土佐堀通りは母が入院していた住友病院へ通った道だ。肥後橋で下車してYMCAに立ち寄っては情報誌をもらって行ったものだった。そして、二つ目のなにわ筋を右に土佐堀川(常安橋)を渡るとすぐに病院だった。その後2000年に等価交換方式により建替えられて近くに移転した。

この写真は今夏淡路島へ行くときに、阪神高速道路走行中のバスの車窓から撮ったもので、いつか広岡浅子の記事を書く時のために撮った。

そして、そのあとすぐに堂島川を渡る。このあたりも中之島と総称する所で、娘時代から見慣れた私の好きな風景だ。
母の病床からの帰りは、よくこの川沿いを歩いて梅田へ出た。日曜日はこの写真のように午後でも閑散とし、母が亡くなった1996年秋は、右側手前に見える大きなビルの建設中で、道路も広範囲に工事中だった。

中之島.jpg








大隈重信:「男子も及ばぬ多大な力を発揮した。その精神と人格は永久に生きていくことを信じる」。

附記:
▼ 大同生命のサイト、「九転十起生 ―広岡浅子の生涯」
▼ 現在、大同生命大阪本社で特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」を開催中!
地下鉄四つ橋線・肥後橋駅下車すぐ(1−A、1−B出口)
      火 〜 金:10時〜19時。
      土・日・祝:10時〜16時。


9月28日(月)07時32分追記:
今、BSで始まった。
始まりがいい。見る人を引き込む。面白い!! 見ることに決定!!!



posted by 優子 at 14:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2015年09月23日

全身全霊打ち込む作家・今関信子さん

前記事の今関信子氏のお働きの一つををご紹介したい。
8月30日のこと、国会前に12万人、全国300カ所以上で安保法案反対の声が上がった時、滋賀県・長浜でも「とめよう戦争法案! 全国100万人大行動 湖北集会」が行われ、会場に160人が参加した。

その時の3名のリレートークで、米原市長、「真宗大谷派9条の会長浜」の代表者と共に、戦争法案廃案を呼びかけた。これがその時の概要である(「長浜 かくしん」2015年9月10日 No.49に掲載)。パソコン画面文字を拡大するとお読みいただける。

2015.9滋賀革新懇.jpg

9月21日の記事で触れたエッセイ・「渡り鳥のように国境を越えて」で、クロツラヘラサギの観察に行く時に、言葉の通じない日本と韓国の子どもたちが手を繋いで行ったことを紹介しておられる。

平和への道もこのような実在が積み重なって建設されていくのだと実感させられた。「戦争への道は小さなことから始まっていく」ように。
そして、エッセイを次のように締めくくっておられる。

「私たちの間には、さまざまな隔ての中垣があります。それでもクロツラヘラサギは国境を越えて飛びます。子どもを産み育てるために、飛び越えるのです。私も、過去の戦争によりできてしまった中垣を何とか低くしていきたいと願います」。

大人の生き方が人の世の幸不幸を決定することを再確認させられ、私の心に打ち込まれた新たなくさびであった。そして、平尾道雄・米原市長の「最大の抑止力とは『友だちになること』」が為政者たちに届くように祈るばかりである。


posted by 優子 at 11:32| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2015年09月21日

文章を書く者の真髄 ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

19日から始まった5連休を「シルバーウィーク」と呼ぶそうだが、大阪駅は子ども連れの家族やキャリーを引っ張る人々で混雑していた。

第1日目の19日は大津教会へ出かけ、クリスチャン・ペンクラブ関西ブロックの例会に参加した。

今関先生.jpgこの日の例会では、私たちのペン仲間である児童文学者の今関信子氏が語ってくださった。
今夏お孫さんたちと訪ねた長野県松代(まつしろ)の地下壕について紹介され、「『キムの十字架』に寄せて」の御講演から一同は書く者の真髄を受け取った。その要諦をお分かちしたい。
かつて強制労働のために朝鮮から連れて来られた人々が地下壕を掘った遺跡、松代象山(ぞうざん)地下壕が長野県松代にあり、年間に10万人もの人が訪れる。

松代象山地下壕は、「第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約8割が完成」した。
         (長野市ホームページ、松代象山地下壕より)

『キムの十字架』は、その壕の壁にハングルが彫ってあったことから書かれた本で、キムは著者が取材中に出てきた証言にあった人物である。

ノンクリスチャンである著者(和田 登)は、キムがクリスチャンなので、クリスチャンならばどのように考えるのだろうか。こんな時どのようなことをするのだろうかと知りたくて教会にも通い続けた。

『キムの十字架』は児童文学として書いていくわけだから事実をストーリー化して、それを深めつつ相対化して一つの作品に仕上げていった。

同年代の人の運命が、ある日突然変わっていくという、人を惹きつける書き方をしている。
キムとキムの兄とは日本へ行くことの考え方が微妙に違っていた(これを「キャラクター立て」という)。兄弟は違う壕で働くが、お互いを思い合いながら働いた。

強制的に連れてこられた人は(用が終われば)強制的に送り返されていく。ところが、その船にキムがいない。兄が船を下りて探しに行くと弟は死んでいた。

壕を掘るときは、いくつものダイナマイトを仕掛けて爆発させ、爆破で落ちた岩盤や土砂をトロッコで運ぶのが強制労働の人々の仕事だった。ところがある時、爆発しなかったのでキムが自ら見に行った。その時にダイナマイトが爆発した。

作者は、キムが身代わりになってダイナマイトに走っていったことをどうしても書きたかった。2章が最も書きたかったところだった。

人のために身代わりになれるくらいの愛があったに違いないと、クリスチャンではない作者が深く心を打たれた。


これはまさにアガペーの愛である。壁に彫られていたハングルを(ヤンさんに)翻訳してもらうと讃美歌の言葉だった。
「憂いの時にも望みを与え 慰めたまえ 神は愛なり」

私たちも自分のテーマを深めて、生き方を通して伝えたいことを日常考え続けていく。五感を通して考えていきながらそれを書いていく。私たちが毎日何を考えて生きて行くかが大事だ。

ものを書く根底に、「自分たちはこのことは伝えたい」ということを書く。私の体を通して書いていくというエッセイは、根っこが問題になる。そして、それが読み手に通じるように書く工夫が必要だ

今関氏は今春より日本キリスト教団出版局発行の『こころの友』の「子どもの隣で」を連載されており、その10月号は「渡り鳥のように国境を越えて」と題してクロツラヘラサギのことを取り上げておられる。

氏は10年前から熊本に童話を書いている人たちの指導に行っておられ、その仲間から八代市と韓国の小学生がクロツラヘラサギが取り持つ縁で交流していると知らされた。

クロツラヘラサギ.jpg絶滅危惧種になっているクロツラヘラサギは、朝鮮半島に生息している渡り鳥で、冬季に越冬のために九州に飛来する。クロツラヘラサギがいる動物園は日本で多摩動物公園だけ。(写真はこちらより拝借した)

氏は多摩動物公園にとどまらず、韓国まで飛んでクロツラヘラサギの取材に行かれたという。この取材魂!

動物園で紹介されたTさんとの出会い、クロツラヘラサギの足環から朝鮮と韓国に分断された子が父の消息を知ることになったという話を聞かれて、「祈りは神さまが届けてくださるに違いない」と思われた。

クロツラヘラサギを通して韓国の活動や朝鮮の様子などを知ることになり、今関氏の感性と感動力が氏の中で発火して新たなるものが生まれていく。
そして、「言葉や文化を奪われていった人々のことを覚え、私のテーマとして深めようと思った」との言葉も私の心に触れた。

以下は氏が語られたことを聞き書きしたものである。文書伝道に精魂を傾けておられる方々のことを覚えつつお分かちしたい。
私たちの日常はとても大事で、心の琴線に触れてくるように礼拝を守り、人々と交わり、毎日を大切にする。自分のテーマを深めていくのを拾っていって読者にわかるように書いていく。

『こころの友』は伝道用の冊子なので、説教臭くては読まれないし、かといって塩の味のしないのを書いてもだめで、塩の味を感じるような文章を書く。

私たちはどうしても説明したくなってしまうが、読む人が「あー(いいなあ)」、「あー(悲しい)」と声が出た時に何かが届いている。書き手はそこまで我慢することが大切だと思っている。

それがどのように届いたかを聞かせてもらうのはとてもありがたい。文章を書いている仲間はオベンチャラを言わないで、このように届きました(感じました)と言い合うので、それが仲間ならではのもの。本を書いても感想が届かないが、『こころの友』は多くの反響がある。

このあと9人の作品発表があった。
今関先生の講評はありがたい。私は「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」という「ルカ伝19章40節」の(イエス・キリストの)言葉をタイトルにして書いた。

氏は、その文中にある「私は今ほど時代や歴史について主体的に考えさせられたことはなかった。」を取り上げて、「この言葉が一番重いと思うから、これが光るように書くとよい」と指摘してくださり、「なるほど」と、また一つ手ごたえのある学びを得て非常に嬉しい。

早速やり始めたが、リビングルームにある1畳が私の書斎なので集中できない。独りになれる連休明けの楽しみにしたい。

この日は学びだけではなく、他の人の作品講評中の会話を聞きながら、神さまに自らの在り方を探られて、「私は愛がないなぁ」と深く悔い改めさせられた。私は主イエス・キリストに対して何と不誠実だったか。今よりまた新しく出直そう。(9月22日9時29分追記)

次回の例会は、11月21日(土)1時から5時。会場は千里ニュータウン教会。この日は日本文学者・長濱拓磨氏(京都外大・准教授)をお招きする予定だ
講師の関係で会場は大津教会に変更。2016年2月の例会を千里ニュータウン教会で長濱拓磨氏をお招きして開催する。

※ クリスチャンの方で関心のある方は是非お出かけください。後日、日本クリスチャン・ペンクラブHP(お気に入りリンク)にて詳しくご案内します。

戦後70年の節目に発行する『種を蒔く』3号は、今年度末2016年3月に発刊予定。原稿は11月の例会発表分までとすることに決定した。
本文49字×40行を縦書きにして、これまでの発表分を至急に大田先生まで添付送信すること。

尚、今回より会計に加えて再び書記も兼務することになった。

附記:『キムの十字架』(和田登著)については「アマゾン」のブックレビューより拝借させていただいた。
敗戦濃厚となる太平洋戦争末期、日本軍部は本土決戦にそなえ、長野県の山をくりぬいて大防空壕を建設し、皇居、政府機能全部を移転する荒唐無稽の計画を実行しようとしていました。

1944.4月〜1945.8.15敗戦で工事が中止されるまで、当時の金額で2億円、延べ60万人以上の労働力がつぎこまれ落盤など多くの犠牲者を出した難工事。その労働力の主力は主に朝鮮半島から強制連行されてきた人たちだったとのことです。

この本は、長野県の児童文学者 和田 登さんによる1983年出版の作品です。御自身が日韓の生存者から直接取材したり残存している記録をもとにノンフィクション「悲しみの砦」を1977年に出版されましたが、それで言い尽くせない部分を物語としてこの作品に結晶化させたとのことです。

韓国語に翻訳されたり、日本の中学生によって文化祭で上演されたり、アニメーションも創られたとのことです。作者はクリスチャンではないとのことですが、日韓の牧師にも取材し、聖書的な内容となっています。是非、一読をお勧めする作品です。

posted by 優子 at 18:16| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2015年09月18日

安倍政権がもたらした逆説 −真の民主主義国家に目覚めた日本―

安保法案についてはいろんな意見があって良い。しかし、国民の自由と権利を守るためにある、国家権力を縛る憲法を蔑(ないが)しろにすることは断じて許されないことである。今の安倍首相は独裁者以外の何ものでもない。彼らは自分たちが何をやっているのかわかっていない。

鴻池委員長の不信任動議に始まった昨日は、朝から夕方までテレビ報道から目が離せなかった。今日は複数の閣僚や首相への問責決議案、安倍内閣の不信任案も全て反対多数で否決された。彼らはこの勢いで安保関連法案を参議院本会議で可決成立させるのだろう。

不思議なことに無気力になりがちだった私は、最悪のシナリオになればなるほど強くされてきた。そして、今日は憤りと苦渋の中でシェイクスピアの『リア王』の最後を思い出していた。

悪を重ねてきたリーガンはゴネリルに毒殺され、ゴネリルも自殺して果てて悪も滅んだが、コーディリアという痛ましい善良な犠牲者も出たが、希望の芽が芽生えていたことを。
以下は拙著、「『リア王』は悲劇か ―リアの生涯を考える―」に書いたものである。

『コーディリアの死を通して気付かされたことは、「悪」は厳然として存在し、一旦「秩序」が破られて解き放たれた「悪」の力はドミノ倒しのように行く所まで行くということである。

しかし、「悪」の増大と共に「善」もまた動き出していた。
明日への希望は、嵐の中でリアの認識に至る姿と最期を見た人たちが生き残っていることである。

エドガーはリアの死を見てもまだ希望を捨てず、この劇の結びをエドガーに語らせていることからも、作者が彼に国家の回復を託していることが読み取れる。
リアの苦悩は無駄ではなかった。

安倍氏からすれば皮肉なことに日本人を民主主義への目覚めへと導くことになった。この逆説を何と言おうか!
喜べないことの中に良いことが芽生えていた。非道な出来事が繰り返されるだけではなく、その状況下で新しい希望も動き始めていたのである。

最悪の闇の中に抗議行動の光がともり、
そのうねりが日増しに大きくなって、連日全国で多くの人が抗議の声を上げている。私もまた抗議行動する人々から勇気を得ている一人であり、今もなお希望を捨ててはいない。

独裁者により一旦「秩序」が破られて解き放たれた矢は、ドミノ倒しのように行く所まで行くということは歴史が物語っている。だからこそ、この狂気の暴走をどうしても止めねばならない。諦めてはならない。いや、これからこそが本番である。

これで「万事休す」でも終止符でもない。今は苦渋を舐めるも、今はまだ「序曲」である。それは悪夢への序曲ではなく勝利への序曲であり、いよいよ闘いの幕が切られたのである。


デモに来ている人は組織に動員をかけられたわけでもなく、各自が主体的に抗議行動に集まってきた。政治に無関心だった日本人、特に若者までが政治に関心を持ち始め、絶対に超えてはならない垣根を超えて暴走する為政者たちに大きな声を上げている。

自分の頭で考えることの大切さを思う。一人ひとりが互いに育ちあいながら日本を真の民主主義を成熟させていきたい。私は今も行動に移せていないことにうしろめたさを感じつつ・・・


posted by 優子 at 22:23| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2015年09月16日

「シュナイダーが生きている限りドイツは良心をもっている」。 

シュナイダー.jpg昨夏刊行された『生きられた言葉 ラインホルト・シュナイダーの生涯と作品』は、シュナイダーを我が国に本格的に紹介された書物である。

著者は京都外国語大学でドイツ語の教授をされている下村喜八氏で、神の不思議な導きにより9月6日に氏と出会い−初めてお目にかかったのは8月23日−、上掲のご著書を拝受した。

「シュヴァイツァーと共に20世紀の良心と称えられたラインホルト・シュナイダーはわが国ではほとんど知られることがなかった」。

氏が本を差し出そうとされた時、「ラインホ」という字が目に入ったので「ラインホールド・ニーバー」だと思ったら「ラインホルト・シュナイダー」と書かれてあり、私もまた初めて耳にした人物だった。

非常に興味深く早速本を開くと直ぐに引きずり込まれて3〜4日間で読了した。ついに10日朝は洗濯物を干すと掃除もしないで読み始め、気がつくと正午になっていた。

3時間も没頭していたものだからひどく肩を凝らせてしまったが、集中力は健在だったので嬉しかった。ちなみにその翌日に脳のMRI検査を受けたのである。

生の意味、不条理な生、理不尽な苦悩、苦悩の存在論・・・など、深遠な問題に久々に没入し、時代、歴史、宇宙の関係性の中でも神と対峙した。

「隠された神」は「沈黙する神」と同義性を持ち、その苦悩の延長線上に見えてくるのが十字架だ。実存の私もまた、そこに至るまでが何と長く苦しい道程であったことか!


「人間の罪と絶望のなかに神が近づいてくる」。光が見えてくる。
それは一個の人生においてのみだけではなく、時代においてもそうであること。その意味でシュナイダーは歴史もアドベント(救い主を待ち臨む時)だという。非常に納得できた。

「病気やそれに伴う苦痛は、それ自体としては意味をもたない。しかし真理の呼びかけに応えて、真理を受け入れ、生涯をアドベントとして生きる時に意味をもってくる」。

シュナイダーにとっては、「イエス・キリストが神を啓示する言葉であり、かつ、キリストが真理を語り、教えただけでなくそれを生きたという意味において、究極の『生きられた真理』、『生きられた言葉』となった」。
そして、シュナイダーもまた。

シュナイダーにとっては「非暴力の力とは償いの力」のことであり、その償いとは「一方的な愛敵の行為」を意味し、「償いが唯一の平和の力」であると考えた。「報復ではなく償いが変革をもたらす」のだと!

今週末に迫ったJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の9月の例会でも作品のテーマは「戦後70年」に絞り、平和について考察を深め、この節目にある今こそ訴え書き残すべき文章を2000字内で発表することになっている。

目下その推敲中でもあるが、シュナイダーからも大いに学ぶことができた。難解な内容ゆえに今後も2度3度読み直して理解を深めたい。今再び自分の根源にある関心事、真理への探究の導きを与えられ、感謝と生きる喜びを感じる。

それゆえに尚の事、今夜の安保関連法案・参院特別委員会での締めくくり総括質疑から目が離せない。


posted by 優子 at 09:14| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

リハビリに通う風景

空.jpg肩の腱を断裂して13日で半年過ぎた。
5月9日から始まった理学療法士による運動(リハビリ)は今日で13回目だった。
4ヵ月間に13回は少ないように思うが、女性の療法士さんが1名しかおられないので、次の予約は早い時でも1週間後で、2週間近く空く時も珍しくなく日時も不定期だ。

そんな少しずつのリハビリでも今では信じられないほど回復した。当時の痛みは耐えがたい激痛だった。横になりたいのになるのが苦痛で、特に最初の1ヶ月はようやく眠れても痛みで何度も目が覚めた。

それが4ヵ月経つとかなりできることが多くなった。とはいえ、今日も「肩の動かし方を忘れてしまっている」、「まだ脱力できていないから痛くて動かせない」と指摘されたが、9月に入ってからエプロンの紐を後ろ手で結べるようになったし、大股で歩く時に腕を振って歩いてもほとんど痛くない。手(チョキ) るんるん

娘たちや友に励まされ祈られてここまで回復した。ありがとう!かわいい

IMG_5388.jpgリハビリの帰り道、カメラ撮りを楽しみながら歩いた。






リハビリの道.jpg
ここだけは自動車が通らない。
あんなに賑やかに鳴いていたクマゼミやアブラゼミの声は消え、夏の名残りを告げるツクツクホウシも命果てる時を感じてか、何か落ち着かないように鳴いていた。叢から虫の声が聞えていた。

ザクロの実.jpgザクロが実をつけ、しばらく行くとピンク色のノウゼンカズラが美しい。










のうぜんかつら.jpg


そして、実をいっぱいつけた栗の木を見た時は、「こんな木が家にあったらいいなあ」と思った。

栗の木.jpg
「桃栗3年、柿8年。梨の馬鹿野郎18年」。
桃と栗は芽を出してから3年で実を結び、柿は8年、梨は何と18年もかかるというのだが、60歳になった時にも思ったものだ。今からでも栗と柿を植えれば少しは食べられるのではと。
何度もその思いに駆られたが、僅かな空間があっても日が当たらないので諦めた。
 
シュウメイギク蕾ほころぶ.jpg我が家の庭のシュウメイギも蕾をほころばせていた。







秋の朝顔.jpg





今朝、朝顔が咲いていた。その横の鉢に昨年ユキにもらった種を植えると、かわいいフウセンカズラ(風船葛)が実をつけた。

posted by 優子 at 23:53| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年09月13日

「分けへだてしない神」

再び無牧の教会になって1年半になるが、私たちは代務を担って下さっている大澤星一牧師を初め、多くの牧師を通して魂の養いを得ている。

今朝は木ノ脇悦郎牧師からメッセージを賜った。7月5日は私だけ欠席したので私にとっては今回初めてのお目文字だった。

謙遜で物静かな方、プロフィールを知りたくて検索した。
関西学院大学よりエラスムス研究により博士学位受領(神学博士)。アムステルダム・フライ大学、中世末期宗教改革研究所客員研究員。福岡女学院短期大学教授、関西学院大学神学部教授(神学部長)を経てのち、今春まで福岡女学院院長・福岡女学院大学学長・福岡女学院幼稚園園長をされていたようである。

木ノ脇牧師のお説教の一部をここに刻みたい。いつものように私の聞き書きであるので文責は『メメントドミニ』筆者にある。

パウロは徹底したユダヤ主義者、律法主義者であり、ユダヤ教のエリートだったのに突然回心した。全く別の人間、異質な人間に変身した。人間観が変わり、救いや宗教観が全く変わってしまった。

ダマスコ途上のイエスの呼びかけによってアナニヤの所へ行き、多くのキリスト者たちとの出会いを通して変わっていった。そして、異邦人、即ちユダヤ人以外にイエス・キリストの福音を伝えて行った。

ユダヤ教は民族宗教だったが、キリスト教は普遍宗教、世界主教である。パウロが異邦人伝道することによって世界宗教に変わっていった。パウロの活動がなかったらキリスト教はユダヤ教の一派になっていた。

ユダヤ主義だった人が枠を取り出していったのだから、ユダヤ人から言えば、こんなひどい裏切りはなく数多くの迫害に会った。

ガラテヤ書1章1節に、「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」とあるように、エルサレムの偉い人から認められたのではなく、神さまから選ばれたことを強調している。

使徒行伝1章1節には、「さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない』と、説いていた。」とある。

即ち、キリスト者であってもユダヤ教の律法を守らなければ救われないんだよと言っており、これに対してバルナバたちと大論争になった。
パウロは、イエスの福音により自由になったその自由を最大限に大切にしようという立場であった。

バルナバはキプロス島出身のユダヤ民族、レビ人である。レビ人はユダヤ教の中枢を担う人であった。パウロの弟子、テトスもギリシャ人だった。

新約聖書はギリシャ語で書かれている。聖書が書かれた時代のギリシャ語では「ギリシャ人」の反対語は「ユダヤ人」だが、聖書が書かれた以前の反対語は「野蛮人(バルトロマイ)」だった。

唯一信仰のユダヤ人と多神教のギリシャ人。ユダヤ人は豚を汚れたものとして食べないが、ギリシャ人は豚を神に捧げるなど全く違う。

キリスト者は律法から自由にされたと言っても律法はどうでもいいとは言っていないが、律法主義者は律法で人をがんじがらめにするから、人は一度律法から解き放たれて自由にされるべきである。

しかしまた、人間は時間が経つと何かに縛られていく。

2章6節の「事実、かの『重だった人たち』は、わたしに何も加えることをしなかった。」の原文は「神は人の顔を見ません」である。
「人の顔」とは「メンツ、面目」のことであり、人の面目を受け入れないということ。神の判断にとっては面目は無関係であり、大阪弁の「それがなんぼのもんじゃ」(そんなの知ったことではない)という感じである。

人間は分け隔てすると反対の方へ行く。
つまり、相手がりっぱな人だと思うと自分が卑屈になり、そうでないと思うと傲慢になる。キリスト教も例外ではない。と言うのは、自分たちと違う考え方の人を異端だとして排除する。

人はそれぞれの役割を持つが、どれが優れているのではない。神は偏り見られない。異なる理解が許されないことにより、どちらの立場に立つべきかとなる。これが偏り見ることへの表れである。

私たちは最初の素朴なイエスとの出会いを思い起こし、自分が何者かであると思いそうになった時に原初に立ち返ることがとても大切であり、そして教会が一つになっていくことが大切だ。謙遜な思いを持ち、互いに助け合い、互いに生かしあっていこう。

これが全てにあてはまる答えであり、多くのことを考えさせられた。
今朝の聖書箇所、ガラテヤ人への手紙2章1節〜10節:
2:1その後14年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。

2:2そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。

2:3しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。

2:4それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。

2:5わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。

2:6そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。

2:7それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、

2:8(というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務めにつかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、

2:9かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。

2:10ただ一つ、わたしたちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのである。

礼拝後の「交わりの会」では今月の誕生者の祝福を祈ってくださり、9月1日生まれの夫は一言スピーチした。その後、昨日の「ちいろばまつり」の話題になり、ちいろば園に初めて参加した私も印象を述べた。

木ノ脇牧師は11月1日の召天者記念礼拝の司式も受諾してくださり、一同から感謝と喜びの歓声が上がった。

posted by 優子 at 21:59| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年09月12日

高見牧師が蒔かれた種、ちいろば園を訪ねる

今から26年前のこと、西大和教会を牧会されていた現名誉牧師高見敏雄牧師が中心になって創設された知的障害者授産施設(通所)、社会福祉法人「ちいろば園」が奈良県生駒郡三郷町にある。

ちいろば園E.jpg

晴天の今日、「ちいろばまつり」に初めて参加した。
ここは養護学校を卒業した18歳以上の人たちが通う作業所で、現在53〜4名が夕方4時まで活動している。「ちいろばまつり」は地域の人々に知ってもらうために行っているとお聞きしたが、今日も地域の小学校のPTAや自治会から応援に来られ、すっかり地域に溶け込んでいた。

ちいろば園@.jpg入口に入った瞬間、天窓から降り注ぐ光にとらわれ、心の底まで光が射しこんだような感じがした。

とにかく雰囲気が明るい。20年も前に建てられた建物とは思えないほど美しく清潔で、しかも頑丈な造りが印象的だった。




「ちいろば園」エントランス.jpg


ちいろば園B.jpg

2階では劇団「あおむし」による影絵「どこいったん」と人形劇「番ねずみのヤカちゃん」の公演。その後、6つの模擬店が店を開き、常設の喫茶軽食の「ドンキー」ではパンやクッキーなどのちいろば商品が販売され、どこもかしこも賑わっていた。

ちいろば園A.jpg私は人形劇の公演中に中座して館内を見て回った。







ちいろば園D.jpg

私が「ちいろば園」のことを知ったのは2014年2月9日の「ちいろば園開設25周年記念講演会」で、『ちいろば園と歩んだ25年 ──障がい者と「共に生きる」社会を目指して』では創設者・高見敏雄牧師の理念を知った。

その本の内容を含む292ページに及ぶ『ともにいきる社会をめざして』を昨年末に近隣のN氏にお渡しすると、非常に感銘を受けてくださったのでお誘いした。

N氏は大阪の聾学校の中・高校で長年教鞭を執っておられた方ゆえに障がい者への思いは深い。引退された今は当市の教育を見守り、原発事故後の子どもたちの安全のために労してくださっているおひとりだ。

今朝は教会で教会の方々と合流して教会の方の自動車に乗せていただくつもりが、私の連絡ミスで先に行かれたと思って出発したため、反対に私と孫がN氏に連れて行っていただくことになった。しかし、礼拝堂にも入っていただき教会を御紹介できたことはとても嬉しかった。

知子は家事を終えて11時15分頃に到着し、知子が自動車で来たので人形劇が終わったあとN氏は帰られた。
その後教会の方々と「ドンキー」で軽食を摂り、まもなく皆さんも退散。それぞれの抽選券を私たちに下さったが、私たちもまた抽選会の5分前に園を出た。

「家に居いるだけでは、何にも始まらない! とにかくなかまと出会い、明日の自分を考えよう。親といつまでも暮せるわけはない・・自分の将来、夢・・そんなことを考えよう」。

ちいろば園のHP「サービス紹介」を読んでいると、自動車の中で話してくださったN氏の言葉と重なった。
「人間は集団でしか成長しない。子供は先生と仲間の中で成長していく」。
ちいろば園C.jpg

今もヨーヨ釣りが大好き.jpg

私は高見牧師のことばかり想っていた。今日も高見牧師との再会は叶わなかったが、高見牧師ご夫妻が蒔かれた種がこんなに大きな実を結んでいた! そして、愛の園幼稚園もまた!

愛の園幼稚園A.jpg

愛の園幼稚園@.jpg







(イエスは)「また言われた、
『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである』。

また言われた、
『神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる』」。

         
                 (マルコによる福音書4章26節〜32節)

師が蒔かれた種は本物の福音の種、命が内蔵された種だった。そこに同労者が加わって積み重ねられた努力により、種が芽を出し成長して収穫の時を迎えたのである。
願わくは、今後も創設者の心を継承して多くの人々の安らぎと希望の場でありますように!


posted by 優子 at 22:05| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年09月11日

杞憂に終わった認知症 

検査結果の説明で呼ばれるまでの間、厳粛かつ謙虚な気持ちにさせられて思い巡らせていた。

2008年6〜7月の膀胱癌の疑いは震え上がったが、今回もあの時のように無罪放免にはならないだろう。認知症も怖いが、残酷な神経難病も怖い。どちらかを告知された時、私はどうするのか。これからまだ動ける時間を、まだ自己認識できる時間をどのように使うのだろうかと。

心配事が解消されても喜び踊る気持ちにはならなかった。昨日の大雨で茨城や栃木では大変なことが起こっている。そして私は今再びしばらく時間をいただいたのである。自分のために生きるのであってはいけないと、漱石のことを思い出していた。


「生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外(はず)した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない」。

「四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病(やまい)に生き還ると共に、心に生き還った。

余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った」。


この文章は、1910(明治43)年、漱石が保養先の修善寺で大喀血して30分間意識を失って重体に陥った、いわゆる「修善寺の大患」で生命のはかなさと生き返った感謝と喜びを綴った『思い出すことなど』に書いたものである。
この時の漱石の思いに自らの心境が重なり、私もまたこの考えを打ち壊そうとする古き自我と闘いたいと思う。

今朝、近隣の友から教えていただいた上本町にある脳のクリニックへ行った。そこは、今日行って今日MRIの検査をしてもらえるのだ。

近年は記憶力の甚だしい低下だけではなく、最近は言われても思い出せないことがいくつかあり、これ以上楽観的に考えることはできず、脳に異常が起きていることを覚悟した。

新しいことをするのが脳に良いことなのに、不慣れな役や内容の仕事、また、ストレスフルな話になると、頭がジーンとしびれたような感じになり持続する。

まさにパソコンの「ヤフーは応答していません」状態で思考力が止まってしまうのだ。しかし、例えば先月の信徒説教で話せねばならない時は、さほどストレスを感じなかった。

検査を受けるのは勇気が要り、決断するまで数日要した。肉体の寿命を宣告されるのも怖いが、精神寿命を宣告されるのも怖い。自分の人格が崩れていくのだから。

しかし、心臓死のように突然ではない。最終段階になるまでにやりたいこと、やらねばならないことができる。しかも現代は発見が早いと進行を緩める薬があるので、家族のためにも努力しなければならないと心が決まった。


友は言った。
「あなたが認知症になったら誰が困る? 家族でしょ。知ちゃんが大変になる。今ならば発症していても初期だから。一緒について行ってあげようか?」

幸いにして認知症の心配は杞憂に終わった。私が人知れず心配していた小脳の萎縮も全くなかった。

と言うのは、半年ほど前から夜に外を歩くと宙を歩いているような感じでバランスがとれず、昨日は昼間でもふらついた。母が負った神経難病・脊髄小脳変性症が発症しているのではないかと思った。脳がしびれたような感じになるのも小脳の異変かも知れないと。

論理的に話せないことも医師に伝えた。
医師は私に、目を閉じて手のひらを上にして両手を前方に90度あげるように求めた。小脳関係のチェックだとすぐにわかった。右肩腱板断裂の心配もあったが、前方には痛みもなく伸ばして上げることができ、いつまでも静止できた。

そして、首のエックス線を2枚撮り、15分間のMRI検査、そのあと、例の認知症の質問を受けた。

今日の年月日を聞かれた第1問目から危うかった。何を思ってか「せんきゅうひゃく」と言ってしまい、即「2015年・・・」と言い直した。100から7を引くと93、93から7を引くと86。緊張して時間がかかった。計算の得手不得手も斟酌しないと診断を誤るのではないか?

決定的にダメだったのは、「桜、猫、電車」を覚えて、あとで聞かれた時に「電車」が言えず恐怖を感じた。5つではなく3つだったのに忘れるなんて! 「乗り物」というヒントで瞬間的に答えたものの1点減点で、30点満点で29点だった。

25点以下は「認知症の疑いあり」で、20点以下は認知症だというから30点満点でないと正常ではないと思うが、「まあこれは年齢的な物忘れで気にしなくても良い」とのことだった。しかし、無念だ。

思い出せるのは物忘れで、以前はできたのにできなくなったというのが認知症だという。

そして、再び呼ばれて画像を見ながら医師より詳しく説明を受けた。

小脳も大脳も全く萎縮はなく、年齢を超える萎縮の度合いは全くなかった。脳の血管が詰まっているところも、脳梗塞を起こしたあとも全くなしという結果も非常に嬉しかった。きっと父のように多発性脳梗塞ではないかと心配していたから。

ただし、脳内の血管に1箇所、小さく膨らんでいるところがあり血管性の病気が少しあるが、まず大丈夫であろう。もしもこれが破裂してもくも膜下出血にはならないとのことだった。

また小脳の外側の髄質に白く映っている水っぽいものがあった。これは頭蓋骨の中にできた物らしいが、この2点を1年に1回MRI検査で経過観察となった。
それでも最後に、「これから30年は使えますよ!」と仰ったので安堵した。年齢的な衰えはあるが、要は頭が悪いのだ!

首のエックス線では、頸椎が年齢相応に歪んでいるので、頸椎の中を走る血管もまっすぐに走っていなかったが気にしなくてもよいとのこと。

降圧剤を飲み続けると認知症になると心配していたのは間違いだった。
脳を老化させないように最大限度良い状態に維持するのが血圧の維持であり、血圧が110〜120台に維持できていないと脳の機能低下が起こり認知症を誘発するということだった。血圧のコントロールにもっともっと真剣にならねばならない。


症状説明のメモもせずに行ってしまい、医師の見解を聞けなかったことがある。よく使っている簡単な言葉がわからなくなることはしばしばだが、物忘れと言うよりもわからなくなる現象があるのだ。

例えば数日前の夫との会話で、「公明正大にやりたい」と言いたいのに、「こうせいめいだい」としか言えず、しかも私の頭の中では「公・正・明・大」という字が浮かんでいるのに、この4文字を正しく並べられなくて、夫に言ってもらって「それが言いたかった」ということがあった。何という恐怖!

こんな大事なことをメモもしないで行くのは怠惰な性格の反映だが、仮に思い出そうとしてもなかなか思い出せないのだからメモしておかなくてどうする!

クリニックを出るとゴミ収集車の音楽が聞こえた。何と懐かしいメロディだろう。東大阪市の音楽でもなく、40年も前に聞いていた大阪市のゴミ収集車のメロディだった。
駅までの数分間は父母の居た時空だった。



附記:10時28分、近鉄デパートの公衆電話から知子に結果を伝えた。受話器を置いたのにおつりが出てこなくて待っていると目に入った。「10円・100円はおつりがでません」と。携帯電話を持たずに生きるのもいよいよ限界か。

posted by 優子 at 21:30| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

友のコメントメール ―ブログ『イエスと共に』をリンクに追加―

9月5日の記事「知子とユキの祝福された3日間」をお読みくださった友・M姉(しまい・クリスチャン女性の呼称)から嬉しいメールが届いている。

M姉とはまだ面識はない。このブログを読んでくださり次女のホームページを通してアメリカ経由で連絡を取ってくださった方だ。

次女がメールに気づくまでしばらく時間が経過しており、その間に私が右肩の腱板断裂の怪我を負い、メル友になった早々にシドニーの理学療法士であられる娘婿さんにスカイプ診断をお願いしてくださった方だ。以来、時々メールを交わし、出会いを深めつつある。

きょうの優子さんのブログを読んでびっくりしたこと、しんみりしたことがあります。

びっくりしたのは知子さんとユキさんが行ったあべのハルカスのレストランへ私もこの2月に行ったのですよ。

すぐわかりました。天井の近くを電車が走っていました。有機野菜がおいしいバイキングのお店、とてもよかったです。世の中はなんて狭いのでしょう。優子さんと私もそのうちばったりお会いできるような気がしてきました。

大阪はめったに行かないのですけれども、森祐理さんのファンコンサートが帝国ホテルであったのです。

しんみりしたことはユキさんの言葉です。「フツーのお母さん」という言葉。
ずっと働いてきた私には胸に痛い言葉です。

M姉は中学校の教師を務めあげられた方だ。今春よりベテラン教師という立場で週12時間中学校の教壇に立っておられる。

それだけでも大変なのにドイツ人留学生をご自宅に迎え入れておられ、教会でまでお料理の腕を振るわれているパワフル・ウーマンだ。

今日、M姉のブログ『イエスと共に』を「お気に入りリンク」に追加させていただいたので、是非ご覧ください。

posted by 優子 at 21:53| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

夏の名残りも往かんとす

IMG_5261.jpg
9月4日の朝顔。
葉っぱはクタクタ。このあとの衰え方は勢いを増し、今では殆どが黄色くなっている。その間も2つ3つの花を咲かせ、昨日はついに1つになった。
これで最後かと思ったら今朝も小さな花を咲かせていた。最後の最期まで咲こうとする朝顔に植物の忠実さを観る。


朝顔よ!.jpg昨日の朝顔。
命の限りに咲く花。
見る私も力が入る。

花よ!
いのち盛んな時ではなく、いのち終わろうとする時に咲く花よ、咲かねばならぬ花よ。
その凛とした美しさに教えられ、
私も最期まで自分の花を咲かし続けたいと思う。

次女夫婦が帰国する朝はこんなに咲いていた。
マチ・クマが帰国する朝.jpg

台風を前に.jpg

8月9日.jpg

孫が登校する時間だ。
夏休み明けの朝、「家がいいな」と言っていた孫だが、「学校は楽しいよ、何もかも楽しいよ」と嬉々として家を出た。今日はアトラスオオカブトをみんなに見せるのだと言って。

ユキ、今日も良い一日をね!


posted by 優子 at 07:38| 随想 | 更新情報をチェックする

2015年09月06日

「アブサロム、アブサロム!」

今朝の説教タイトルは、20世紀最後の米国作家ウィリアム・フォークナーの短編のタイトルである。この作品は南北戦争時代に黒人差別する白人主義を批判したもので、世界の不条理と、そこに生きる人間の掻きむしる苦しさを訴えようとしている。

このタイトルは聖書・サムエル記下18章28節〜19章1節より取られている。
18:28時にアヒマアズは呼ばわって王に言った、「平安でいらせられますように」。そして王の前に地にひれ伏して言った、「あなたの神、主はほむべきかな。主は王、わが君に敵して手をあげた人々を引き渡されました」。

18:29王は言った、「若者アブサロムは平安ですか」。アヒマアズは答えた、「ヨアブがしもべをつかわす時、わたしは大きな騒ぎを見ましたが、何事であったか知りません」。

18:30王は言った、「わきへ行って、そこに立っていなさい」。彼はわきへ行って立った。

18:31その時クシびとがきた。そしてそのクシびとは言った、「わが君、王が良いおとずれをお受けくださるよう。主はきょう、すべてあなたに敵して立った者どもの手から、あなたを救い出されたのです」。

18:32王はクシびとに言った、「若者アブサロムは平安ですか」。クシびとは答えた、「王、わが君の敵、およびすべてあなたに敵して立ち、害をしようとする者は、あの若者のようになりますように」。

18:33王はひじょうに悲しみ、門の上のへやに上って泣いた。彼は行きながらこのように言った、「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ、わが子よ」。

19:1時にヨアブに告げる者があって、「見よ、王はアブサロムのために泣き悲しんでいる」と言った。

以下は大澤星一牧師の説教要旨である。
「イスラエル建国の父」と言われているダビデは問題の多い人で、クリーンな人ではなかった。罪深く波乱にとんだ人生だった。この箇所は、ダビデがダビデの3男・アブサロムの死の知らせを使者から聞く場面である。

ダビデは自慢の美しい息子アブサロムを愛していた。アブサロムは愛するタマルを義兄(異母兄のアムノン)が犯したことに激怒し、2年かけて機会を待って義兄を殺す。そのために逃亡の生活となった。

その後、アブサロムは父・ダビデのもとに帰るが、父に反旗を翻し最後はダビデが勝利する。ダビデはアブサロムを殺してはいけないと言うが、ダビデの部下ヨアブはアヒマアズを送って殺してしまう。

王に対する反逆を許してはいけないのに、アブサロムの死を聞いたダビデは、息子への深い深い愛を隠し切れず泣いたという箇所である。

この「アブサロム、アブサロム」の叫びは私たちの叫びでもある。
私たちもいろんな人と出会って関わっていく以上、その苦しみを受け入れねばならない。その原因を追究するのではなく、もがきながらも受け入れて生きて行かねばならない。

ダビデのすがたが人々の心を捉えるのは、何度も繰り返してしまう罪と向き合っていくからだ。

疑いたくなる現実。人間は生まれながらにしてそのような歩みを行っていくのであるが、だからそのたびに神さまと向き合っていく。その苦しみを神さまに訴えていく。苦しくとも神が共に在ることを信じて生きて行きたい。

聖書に一言一句、全て困った時の答えが書いてあれば楽だろうが、神さまは私たちが悩んで取り組んで、もがいた決断を導いてくださると信じて歩んでいくしかない。

祈り、悩み、決断していく。それを神さまは守り支えてくださる。そのように歩めたらいいなあと思う。神さまに向き合い、いろんな出来事に向き合い歩んでいこう。

私たちがどのように歩んで行ったらよいか一人ひとりに示されているように思う。悩み、悲しみを全て神さまに訴える。そのような信頼を私たち一人ひとりにお与えくださるように!


附記:この記事は9月14日17時48分に公開したものであるが、9月16日10時55分に6日付けとして記録した。


posted by 優子 at 17:48| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年09月05日

知子とユキの祝福された3日間 

私たちが北海道へ行っている間、知子とユキも特別な3日間を過ごしていた。私たち以上にもっと祝福された時を!

経理の関係上会社を休むわけにいかず、さりとて学童保育などで一時的に子供を預かってくれるところもなく、日本はまだまだ三流国である。

そのために前倒しでできることをすべく、連日早朝出社で遅い帰宅。ある時は営業マンも全て帰った後に、広い部屋で一人残ってまでの努力を重ねて、出社することなく2日間欠勤することができた。

1日目の8月27日は、スーパーやホームセンターを回り、昆虫ゼリーやボタン電池など、ユキがずっとほしがっていた物の買い物に出たという。その時のユキの驚きよう!

「ふつうのおかあさんって、ふつうの日(平日)にこんなにスーパーに行くんやね」。

「ふつうの日にママは会社を休んで、ユキといっしょにゆっくりスーパーへ行けてうれしいな」。


きっとこれは働くお母さんをもつ子供の気持ちなのだろう。しかもこの感激はユキだけではなく、知子もまた全く同じだった。

ユキはママにおねだりして、ねだってねだって生まれて初めてゲームセンターでユーホーキャッチャー(?)をさせて貰った。ゲームは数秒で終わり、ユキはたった一度の経験で学習した。そして、見事な名文句を発した。

「これやったら(だったら)ガチャガチャのほうがいいわ、必ず一つもらえるから! ユキはもう一生ユーホーキャッチャーしない!」と!

そして、もう一度、先ほど行ったスーパーへ戻ってガチャガチャをさせて貰って大喜び。ユキの嬉しそうな顔と、嬉しそうな我が子を見つめる知子の姿が目に見えるようだ。涙があふれる。

そして翌8月28日は、母と子二人で天王寺の都ホテルで宿泊した。淡路島の帰りに、知子がユキにそれとなく聞いたそうだ。
「どこへ行きたい?」
「あべのハルカスの電車!」
それは幼稚園年長時代にランドセルを見に行った時の記憶に残っていた所だった。

当日、知子は掃除洗濯と家事を済ませるまで、ユキも読書か何か少しでも頑張るように勧めた。頑張ったあとだからこそ楽しみはもっともっと大きくなる。
ユキも少しは読書をし(夏休みに伝記2冊、リンカーンとエジソンを読んだ)、お手伝いも頑張っていたのに、予定よりも出発時間が遅れた時、朝から楽しみにしすぎていたユキは、「ママ、1時半に出るって言ったやん」とハンドタオルで涙を拭きながら愚図ったそうだ。

僕は電車の運転手!.jpgそして予定より30分遅れで天王寺、あべのハルカスに直行した。知子とユキはずっと手をつないで過ごしたという。

そこではプラレールではなくて本格的な電車で、線路に電気を通して「鉄道模型Nゲージ」を2時間も夢中になって操縦していた。どうもここはマニアックな人が自分の電車を持ち込んで動かすようだ。

夜のあべのハルカス.jpg夕食は、あべのハルカスでバイキング! 
店内の天井にはレールが張り巡らせてあり「しまかぜ」など近鉄電車を走らせているはずだったが、この日だけ脱線していたとは残念なことだった。
知子はユキを少しでも喜ばせてやりたくて見つけていたのにね。

また、コーラの味を知らないユキのたってのお願いとあって、バイキングのあとにコンビニでコーラを買ってホテルに持って入った。初めて飲んだコーラの味はとても美味しかった! その夜は11時前までテレビを見たり遊んでから爆睡したそうだ。

朝のあべのハルカス.jpgそれなのに翌8月29日の朝は5時半から起きてしまった。ふらふら ちっ(怒った顔) チェックアウトは12時でよかったというのに。

ユキと知子のスペシャルタイム@.jpg








チンチン電車.jpg

また来たよ!.jpgこの日は目の前にある天王寺動物園へ連れて行ってあげるつもりだったが、10時のオープンを待って再び電車の操縦に行ったという。
ホテルを8時に出たものだから、開店時間までの2時間、チンチン電車(大阪の路面電車)を見たりして徘徊していた母と子。わーい(嬉しい顔)

ユキ、嬉しいね!.jpg昼食はマリオネットホテルの19階でバイキング。部屋の3面がガラス張りだから南港の観覧車も見えたという。
ジェラートがおいしかったそうだが、1回しかお代わりしなかったんだって。
手術したあとの前歯も白い歯がまっすぐ顔を出している!

空が怪しくなってきた.jpg空模様が怪しくなってきた。

努力賞おめでとう!.jpgしかし、あるコンテストで600人中160人の努力賞に入賞したとかで、途中下車して展示場にも立ち寄った。
豪雨警報が出ていたが、幸い雨の合間に帰宅。


「ママ、大好き!」.jpg

絵のタイトルは
「ママだいすき!」


チャッピーもいるね!


夏休み明け、早速宿題が出て、夏休みで一番楽しかったことを書いて発表した。
私はてっきり真智たちとみんなで淡路島へ行ったことかと思っていたが違っていた。ユキにとっては淡路島以上に、比べ物にならないほどママとの時間が特別だった。

「あーあ、もう終わってしまう」。
「あーあ、もう全部終わってしまった」。

ユキは何度もつぶやいていたそうだ。

「ふつうの日に、こんなことができるんやね」。
あの時二人とも何度も口をそろえて言っていたという。

「本当に楽しかった」。

「日常とは全く違う時間が大切だとしみじみ思う」
と知子。

小学校2年生夏休み最後に、ユキと知子は共に異世界を経験し、至福の3日間を過ごしていた。その話を聴いた私は深い喜びと感謝に満たされた。

みんなで淡路島へ行ったことよりも、平日に、ふつうのお母さんのようにママが家に居てくれてスーパーへ行ったこと。そんな当たり前の何でもないことが、ユキにとっては驚異の喜びだった。

そして、ママと二人で都会のホテルに泊まったこと。それが何にも勝るユキと知子の幸せな時間だったのだ。私たちがウィンザーホテルに泊まっていた夜のことである。

2人の特別な3日間には、昨日記した私の意外な情動と、そのことへの違和感とは正反対の姿が映し出されており、私が自分の内部に感じた自分らしくない異物が取り除かれた思いがした。

そして、知子の思い、行為が『賢者の贈り物』と重なって見える。
知子にとって4〜5万円は私たち以上に大きな出費だったが、賢いお金の使い方をしたのだと思う。


それにしても、知子にはもう少し余裕のある日々を過ごさせてやりたい。その厳しい日々が知子の才能を開花させていっているのだとしても、幼いユキのためにももっともっと時間的に、いやそれ以上に、精神的にも余裕のある日々を過ごさせてやりたいと願う。

附記:景色の写真は全てユキが撮ったもの。

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

小樽での苦笑行動。旅は自分の心を眺めるため、自分自身に戻るため −関西北越会 最終章―

銀鱗荘D.jpg旅行最終日の8月29日はニッカウヰスキー工場見学後、小樽へ向かった。
石狩湾に囲まれた平磯岬に建つ「銀鱗荘」が今回最後の昼食先である。

ニシン御殿・銀鱗荘@.jpg銀鱗荘は「鰊(にしん)漁がもたらした巨万の富をもとに贅を尽くした」鰊御殿の代表的建物で、大網元・猪俣安之丞の個人邸宅を移築したものである。北海道文化財百選のひとつに数えられている。


最後の食事は懐石料理で大満足!
銀鱗荘A.jpg

銀鱗荘B.jpgはすかっぷの食前酒、美しい北海縞(しま)海老やホタテ貝を菊花に見立てた吸い物、そして、「いくらご飯」など、北海道ならではのものをいただいた。

フルーツは昨日の夕張鹿鳴館と同様に熟した夕張メロンだった。すでにシーズンオフになっているのに、どのようにして保存しているのか知りたい。

IMG_5233.jpgこのあと小樽の町を1時間の自由散策となり、北海道初めての私は勿論、運河に直行!
夫の案内で運河へ行ったが、誰一人として運河見学に来た人はいなかった。



小樽.jpgガイドさんは「ルタオ(LeTAO)もあります」とだけで何の説明もなかったが、初耳の私は「ルタオって何?」とチンプンカンプン。

私が世間のことを知らなさすぎることも承知の上だがもうやだ〜(悲しい顔)、最後に「ルタオ」に入って試食し、○○ケーキやクッキーを空港で買ったのであった。わーい(嬉しい顔)

時間もたっぷりの自由気ままな独り旅以外は仕方がないとはいえ、小樽の運河だけは空しいものだった。
私はただただ早足で運河を見て「デン」して帰ってきただけで、歩きながら森有正の声が聞こえて苦笑した。
 

「日本人は、出かける前に、観光案内書や写真などでもって知っているのと同じ姿を見つけ出せば、それで満足して帰ってくる」
と。

有正は旅について次のように言っている。
「遠くから自分に帰るために行く。・・・どこへ行こうと求めるものは自分自身。・・・何かに出会いに私は出かけている。自分のところにいたら何に出会うこともできないから、旅に出るだけの話です。

・・・ですから旅行しながら、飛行機の中から、汽車の窓から見ながら、あるいは道を歩きながら、自分の心の中を眺めているのです。

・・・物は絶えず新しい面をあらわしてくれるから、私にとっては、たとえばノートル・ダムは、いつまでたっても名所にはならないのです」
と。

小樽での苦笑行動の前に大きな驚きがあった。あのウィンザーホテルの出現だ。
実は圧倒されて感覚が麻痺したような感じだった。自分自身の「快し」としない反応に気づいたのは帰宅してからだった。

「すごいホテルだ」という驚きの背景に大自然という条件も大いに関係していたが、煌びやかで贅沢な作りに圧倒されていたことも事実で、2日間の旅の行程で得た自らの深化が背後に追いやられてしまったような思いを感じていた。

一言でいえば目が眩んだのであり、その麻痺から覚めるのに1日あまりかかった。一瞬であっても、今までこのような情動を経験したことは無かっただけに、私にはとても意外なことでありショッキングなことだった。

とにかくそこまで非日常を経験したのだから旅行の意味があり、本心に立ち戻れたのだからそれでいいではないか。このことはそのように思うことで終止符を打とう。

(※ この後日譚が次の記事で、9月5日の記事を書くことで幸いな終止符を打つに至った。)

帰りの機内でも「荷物は脱出の妨げになりますから」とアナウンスしていた。やはり飛行機に乗るのは命がけだ。飛行機事故で脱出などまずないだろうが、旅の無事と留守宅も守られたことを感謝して閣筆。
さあ、日常に戻って家事に励もう。


posted by 優子 at 11:14| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

ニッカウヰスキー余市工場へ 竹鶴リタの生涯に思いを馳せる  −関西北越会 D−

8月29日、洞爺湖、ザ・ウィンザーホテルをあとに余市へ向かう。目的地はニッカウヰスキー余市工場だ。

羊蹄山@.jpg
羊蹄山
雲に隠れる羊蹄山
羊蹄山A.jpg

北海道では春一番に植えたジャガイモの収穫が終わる頃、秋の一番最後に収穫するのがテンサイだ。テンサイは捨てるところが無く、葉っぱや甘味成分を絞ったあとも家畜の餌になる。

てんさい.jpgホウレンソウの畑に似ているのがテンサイ(甜菜/別名・砂糖大根)で、通称「ビート」と呼んでいる。この畑はジャガイモの葉っぱにも見えるが・・・
余市近くになると風景は畑から果樹園に変わっていくそうだ。

目の前に羊蹄山.jpg

ここが竹鶴正孝とリタの夢が実現したニッカウヰスキー余市工場だ。

ニッカウヰスキー@.jpg

ニッカウィスキーA.jpg
単式蒸留器(ポットスチル)

ニッカウヰスキーA.jpg1号貯蔵庫




この日は殆ど夫が私のバッグを持ってくれていた。

ニッカウイスキーB.jpg貯蔵庫の中








リタハウス@.jpg
リタハウス
 
リタハウスA.jpg

リタハウスB.jpg

リタハウスC.jpg
旧竹鶴邸。正孝はリタのために洋式も取り入れた。

ガイドさんつきの案内を聞きながらでも、写真を撮るにも半分撮るのが精いっぱいで、そのあともゆっくり見て回る時間は全くないので、案内が終わったあとウィスキー試飲の建物には行かずに「ウヰスキー博物館」目指して走った。

本当はゆっくりゆっくり半日かけて見学し、自らの思いを引き出して文章に収めたいところだが、とにかくカメラにさえ収めておけばパソコンで拡大して読める。2〜3年前にその技法を発見してから重宝している。

IMG_5157.jpg
リタの料理メモ

IMG_5158.jpg
リタのパスポート

リタ.jpg




IMG_5155.jpg











リタ2.jpg

IMG_5161.jpg展示室では何一つ読めないで出てきたが、風に揺れるこの花々が目に入った時、さみしさがこみあげ、リタさんは精一杯生きて天に帰っていったのだと自らに語っていた。


リタ3.jpgそして今、「過ぎ去った40年という時間の長さと故郷を思い、手紙とハンカチを握りしめて自室にこもっていた」という一文を読んで、人は一つの人生しか生きられないのだと思い、正孝との人生に悔いはなくとも、故郷スコットランドでの人生を想って言葉にはならぬ人生の悲哀に沈むリタを想った。

IMG_5156.jpgそして、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ人への手紙3章20節)の聖句が脳裏に輝いた。
私たちはまさに、「地上では旅人であり寄留者である」(へブル人への手紙11章13節)ことと、リタさんは今、ご両親だけではなく伴侶も共に、天にある故郷にて安らいでいることを実感させられて心が和らいだ。


附記:過去ログ・2015年1月12日に「リタ竹鶴の生涯』を書いていますので合わせてお読みくだされば嬉しいです。

アップルワイン試飲中.jpgウィスキー試飲会場ではアップルワインを2杯いただいた。
おいしかった!




ナナカマド.jpg北海道の各地にあった白樺の木は工場内にもたくさんあり、余市でもナナカマドの実が美しく色づいていた。
このあと小樽の運河界隈と旅の感想は次回最終章に刻みたい。


posted by 優子 at 13:21| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2015年09月02日

夕張から洞爺湖へ −関西北越会 C−

一昨日はユキの小児科受診(夏の疲れの腹痛で心配なし)と私のリハビリ、昨日は再度整形外科へ出向き連日頑張ったこともあるが、旅行から帰って4日にもなるのに、今日はしんどくて午前中眠ってしまった。目が覚めると日が照っていた。

帰宅してからずっと雨、雨、雨で、旅行の後片付けも捗(はかど)らなかったが、半乾きの洗濯物も干してスーツケースをベランダに広げ、旅行の後片付けは8割がた完了した。

そして、パソコンを開けると友から嬉しいメールが届いていた。

「私も一緒に北海道旅行しています。北海道旅行のブログ、楽しく拝見しています。・・・ブログ中に出てくるガラスの器、ドイツのナハトマンの器ですね。私も同じもの使っています」。
驚いた。私など耳にするのも初めてだ。
友からの嬉しいメールで元気をいただいて旅を振り返りたい。

ということで8月28日の昼食は、夕張鹿鳴館でドイツのナハトマンの高級なガラス食器でフルコースをいただいて洞爺湖へ向かった。

内陸部を通っている途中に通過した日高地方は競走馬を飼育しており、昔は農耕馬や軍馬が飼育されていたそうだ。放牧されているこげ茶色の牛を何度か見たが、車窓から写真に収めることはできなくて残念だった。

そして太平洋の海沿いを走り、洞爺トンネルを抜けて虻田(あぶた)洞爺湖出口を出た。出てすぐのトンネルを抜けると洞爺湖が現れた。洞爺湖とはアイヌ語で「丘に囲まれた湖」を意味するそうだ。

洞爺湖@.jpg洞爺湖は周囲が雪で真っ白になっても湖面は真っ青で、摩周湖や阿寒湖と違って真冬でも凍らない唯一の完全な不凍湖と言われている。

はるか向こうに「蝦夷富士」の別名を持つ「羊蹄(ようてい)山」がそびえ、湖には4つの中之島が浮かんでいる。

洞爺湖D.jpg  

洞爺湖A.jpg

遊覧船に乗るとカモメが船のあとをついてきて、中国人の家族が大人も子供も群がるカモメにカッパエビセンをあげて興じていた。私たちもカモメに夢中になってしまい、船内のガイドを聞くことなく終わってしまったのは残念だった。

洞爺湖B.jpgこのカモメはここに居座ったままでエビセンをいくつもゲットしていたが、カモメが塩分と油脂のスナック菓子をたくさん食べては健康が心配だ。これでは湖に潜って魚を捕まえることも忘れてしまうのでは?


洞爺湖の観光を終えて2泊目の宿泊所、山の頂上にそびえ立つザ・ウィンザーホテル洞爺リゾートへ向かった。

ウィンザーホテル@.jpg

洞爺湖では夏の夜は毎晩湖面で花火を催しているそうだが、
ウィンザーホテルからは花火も下を見下ろしての見物だ。

ウィンザーホテルA.jpg

ウィンザーホテルB.jpg

ウィンザーホテルH.jpg

ウィンザーホテルI.jpg

ウィンザーホテルJ.jpg到着は予定よりも少々遅れていたが、ゴルフ組はもっと遅くなるというので一足先に温泉に入った。
こんなホテルに大浴場は無いだろうと思っていた。しかも、バスローブで部屋と浴場を行き来してもよいというのも意外だった。
後姿のモデルは藤本良輔です😃→
大浴場へ.jpg


← 大浴場への通路。
夜は壁側の下部が点灯する。
この突き当り左側に浴場がある。

外観.jpg


大自然の中の露天風呂は最高! 
その時の外気温は15度で湯の温度は42度だった。
夫も到着後急いで大浴場で汗を流して総会(男性のみ)に出かけた。すべてのスケジュールが30分遅れで夕食は19時半から始まった。

いつも宴会(夕食)の席は主催者により決められている。

ウィンザーホテルD.jpg

洞爺サミットの会場になったホテルゆえにか、メニューに書かれている文字の多さも話題になった。

ウィンザーホテルE.jpg

ウィンザーホテル夕食会.jpg

お料理の写真も全て撮ったが、当ブログはグルメブログではないので最初と最後の二つだけ掲載したい。

ウィンザーホテルF.jpg

↓ これはG8のディナーに出されたのと全く同じデザート。

ウィンザーホテルG.jpg
ブラマンジェG8.jpg

IMG_5043.jpg
デザートもおなかの中に!

ウィンザーホテルK.jpg前夜は2次会に出なかったので、この夜は親睦のために30分ほどだけ参加した。さすがにカラオケはなかった。
毎年殆どの人が昼食時から、ビール、ワイン・・・と豪快に飲まれるので、胃袋と体力の強さに毎回驚く。
私たちはアルコールが苦手なので、いただくのはいつもジンジャーエールかオレンジジュース。

そして、8月29日朝:
ウィンザーホテルL.jpg

ウィンザーホテルM.jpg

ウィンザーホテルN.jpg

朝食は、和定食、洋定食、和洋バイキングのコースがあり、和定食と決めていた私たちもお仲間に誘われてバイキング会場に変更した。

ウィンザーホテルO.jpg私はバイキングでのお料理の選び方も取り方も苦手で時間がかかるように思う。
夫はこういうのは手早くて、カロリーの高そうなパンを3つもお皿に入れていたし、食べ終わるのも早かったのでコーヒーを入れてきてもらった。

ウィンザーホテル⒄.jpg
BBクリームだけでも持っていてよかった。

ウィンザーホテルP.jpg

ウィンザーホテル前にて.jpg

8時半、ウィンザーホテルをあとに、いよいよニッカウヰスキー余市工場を訪ねて、リタさんと竹鶴正孝さんの生涯に思いを馳せる。
             
posted by 優子 at 17:54| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2015年09月01日

夫が70歳になった

夫が70歳になった。「70歳」と言葉で聞いても驚くが、「70」という字を見ると現実のこととは思えず、私は夫よりも6歳下であっても我がことのように衝撃だ。

「60歳」になった時もそうだった。父の還暦祝いにオーデコロンを贈ったのが昨日のことのようだったのに、夫が60歳になったというのは信じがたいことだった。

生涯を共に.jpg私が60歳になった時は、夫が60歳を迎えた時ほどの衝撃はなかった。まさに伴侶は我が半身なのだ。いつごろからそのように思えるようになっていたのだろうか・・・

今も理不尽なことを繰り返す夫に命を削られる気持ちになるが、私は生涯を共にしよう。共に神さまの囲いの中で。

しかし、70歳といえば母が亡くなった年齢だ。
長寿時代の今、元気な90歳代も珍しくはないが、70歳も高齢者であり人生を終えていく年代である。砂時計の砂が落ちていくように、私たちにとって時間はこれまでよりもはるかに貴重だ。

夫のように70歳になっても母親が元気な人もおり、何という違いなのだろう。私はせめて次女が45歳になるまでは生きていてやりたい。あと10年、下の子が私が母を亡くした年齢になるまで生かせてほしいと願っている。45歳の大人でさえ母との別れは耐え難い悲しみだったから。

夫が70歳になった。
私たちの持ち時間が残りどれぐらいあるのかわからないが、明日からのことを恐れずに、生かされていることを感謝して老いていこう。

人生七十古来稀なり。
良輔さん、お誕生日おめでとう!
あなたの血筋を継いで、元気で長生きしてください。
でも、ただ長生きするのでは無意味すぎる。
今からは心の向きを変えて一緒に歩んでいきましょう!

IMG_5256.jpg今日は2学期の始業式。今朝も知子は早朝から出社し、夜も帰りが遅かったけれど、ユキは笑顔の一日だった。
そして、おじいさんの帰宅前にバースデーカードを書いていた。

IMG_5260.jpg



元気いっぱいのおじいちゃん!
「まち(次女夫婦)からもグリーティング・カードが届いていた」と、夫は嬉しそうに話していた。

posted by 優子 at 23:13| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

北海道の景色を満喫しながら富良野ファームへ −関西北越会 B−

8月27日はロワジールホテル旭川(7条通り6丁目)に泊まった。翌朝、私は夫よりも早く4時半に目が覚めてしまった。北海道は夜明けがかなり早く、関西と1時間もの差がある。

ロータリー交差点.jpgホテルの部屋から見えるロータリー交差点は信号機がなく外国の町を見るようだった。





日本製紙工場.jpgその右方向の遠方に日本製紙の工場があり、白い煙を出していた。夫はここにも何度か来たことがあるそうだ。
この日、夫は6時にホテルを出発して遠路、恵庭カントリークラブでゴルフ。

旭川市内.jpg私たち観光組は、旭川と富良野をつなぐ富良野線に沿って移動した。

ホテルを出てまもなく写した道路標示に三浦綾子文学館の文字があったので、それだけでも嬉しくて胸が熱くなった。

私はバスガイドさんの話に興味深く耳を傾けていた。
雪が多いのは北や東ではなくニセコや札幌だが、冬を楽しく過ごそうということで全道各地で冬の祭りが開催されている。
北海道弁の「しばれる」とは、寒さで体の動きが悪くなって体が縛られるような感じがするほど寒いという意味だ。しかし、北海道の室内や施設は暑いほど暖房しているので、旅行者は「北海道は暑い」と言うそうだ。

旭川周辺は米どころで水田が続くが、まもなく北海道らしい景色が車窓に広がった。美瑛は丘の町で、平地はなく畑と酪農の町だ。ジャガイモ、玉ねぎ、麦、てんさい、豆類、アスパラなど、特に美瑛や富良野ではアスパラを多く作っている。

「パッチワークの丘」とも呼ばれる美瑛の丘は、季節、時間帯、天気によって表情が変わるという。美瑛の丘の写真で有名な前田真三と「拓真館」も紹介された。

収穫が終わったアスパラ畑.jpgモヤモヤとした畑。これはこの時期のアスパラ畑だ。
アスパラは多年草で一度植えると12〜3年は植え替える必要がないので、収穫後も伸ばしたままにしている。


北海道は広いので農業は全て機械だが、アスパラだけは手作業だ。アスパラは伸びが早く、ちょうどいい長さで収穫するために朝昼夕と3回しなくてはいけない。
ちなみに、ホワイトアスパラも同じアスパラで、芽が出たら40センチほど土をかぶせて栽培するそうだ。

玉ねぎ畑.jpg
玉ねぎ畑。8・9月は玉ねぎの収穫期。
岩見沢周辺では玉ねぎの生産で有名だが、玉ねぎ生産日本一の北見へ行くと一面が玉ねぎ畑だって!

トウモロコシ畑もあった。牛のエサにする「デントコーン」も教えてもらった。人間が食べるコーンは間隔を置いて植えてあるが、デントコーンは詰め詰めに植えてあった。

北海道はひとシーズン1回限りの収穫で、今から収穫の時期になる。北海道で畑を荒らす動物はエゾシカのみ。サルもイノシシも下北までで北海道にはいないんだって! 北海道にも蝉がいるのか聞くのを忘れた。

直線道が続く.jpg

5キロも6キロも続く直線道路。ということは交差する道も直線道路だ。北海道は広い! 
兄が大学時代に友人と3人で、大阪から自動車で運転を交代しながら北海道を旅したことがあった。私はその時の話を懐かしく思い出していた。あれから50年近くも経って、ようやく北海道を訪れた。


富良野という地名は上富良野町、中富良野町、富良野市、南富良野町の4つあり、富良野市は北海道の真ん中で北海道のヘソに当たる。富良野も旭川同様に盆地だから暑くて寒い。

車窓から見える景色は一面の畑、美しい丘を見ながら「富良野ファーム富田」に到着。
富良野ファーム.jpg

ラベンダーの開花時期でなかったのが残念。
ラベンダー畑.jpg

前方に有珠山.jpg開花時期を終えたラベンダー畑の向こう前方に、30年周期で噴火する有珠山が見える。
昭和新山.jpg


写真には写っていないが、有珠山の右側に茶色の昭和新山がある。



富良野ファームA.jpg

富良野ファーム@.jpg

富良野ファームB.jpg


富良野スキー場.jpg富良野ファーム富田をあとにして夕張に向かった。
右の写真は富良野スキー場。

昼食は夕張鹿鳴館。ここは北海道炭鉱汽船株式会社(北炭)全盛時代の1913年(大正2年)に建設され、昼食のテーブルも100年前のものだった。天皇陛下も宿泊されたそうだ。

ナスとサンマのテリーヌ.jpg観光の関係で昼食はいつもあわただしくコース料理をいただいた。

ここで特に珍しく感じた一皿が「ナスとサンマのテリーヌ」で、とてもおいしかった。

全てのお料理がガラスの皿や器に盛られ、今日は霜降りの牛ヒレ肉もおいしくいただいた。私は肉食はしなかったのではなかったのか! 

このあと洞爺湖に向かい、2泊目の宿泊所、大自然の中にそびえる「ザ・ウインザーホテル」(フルネームは「洞爺リゾート&スパ」と続く)は次のページに続けたい。

posted by 優子 at 17:18| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする