2015年10月31日

馬見労祷教会は古墳群の中にあった!

教会では毎週土曜日の朝は翌日の礼拝準備のために6〜7名の方が、礼拝堂やトイレ、玄関、庭の掃除、また、牧師不在のために週報作成のために労してくださっている。私は不本意ながら役員であるのに特別の時にしか出席できていないので心苦しく思う。

今日は明日の召天者記念礼拝を前にして墓地の掃除に初めて参加した。午後から役員会があり、夫も壮年会代表で陪席することになっていたのでアッシー君になってもらって、午前10時から16時半近くまで教会で過ごした。

教会墓地.jpgこれは寺の墓地にある馬見労祷教会の墓だ。背後に見えるのは「三吉(みつよし)石塚古墳」だ。三吉石塚古墳.jpg




教会から自動車で5分もかからない場所にある。私は昨年の墓前礼拝以来2度目だ。

教会墓に刻まれている聖句.jpg
「彼は死ぬれども、信仰によりて今なを語る」。
(文語訳・へブル書 11章4節)

この辺りは「馬見(うまみ)古墳群」と呼ばれ、「奈良盆地西南部、奈良県北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵とその周辺に築かれ、北群、中郡、南群の3群からなる県下でも有数の古墳群」であることを今日初めて知った。

写真には写っていないが、三吉石塚古墳の右側には馬見古墳群を構成する古墳の1つで、国の特別史跡に指定されている「巣山(すやま)古墳」という前方後円墳がある。4世紀末〜5世紀初に造られた竪穴式石室で墳丘長は204mもあるそうだ。

また「Y姉の家の近くには牧野古墳(ばくやこふん)があるよ」と、そこここに古墳があるなんて「さすが奈良だ!」と驚く。
牧野古墳は奈良県北葛城郡広陵町に所在する古墳時代後期の横穴式石室の円墳で、高さ13m、直径は約50mあり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模だという。1957年に国の史跡に指定されている。

竪穴式や横穴式など50年も前に社会科で聞いて以来の懐かしさ。それらが実際に生活しているところにあり、私の通っている教会近くに点在していたとは何という感動! 生まれてこのかた埋没したままの知的好奇心もさすがに脈打つのを感じる。

この土地に生まれ育った教会の友・S姉(しまい)は、子供の頃は巣山古墳で肝試(きもだめ)しをして遊んだそうで、それを聞いた瞬間に子供時代のS姉が楽しそうに走り回っている姿が見えるようだった。いかに無知な私でも歴史を感じる楽しい話だった。

教会墓の納骨堂.jpg墓の裏側のドアを開けると、階段を下りたところが納骨堂になっている。
明日は礼拝のあと花を持参してここで墓前礼拝を捧げる。

このあと9名で昼食をいただいて、1時過ぎから牧師招聘委員会(私たちも陪席)、続いて2時から4時まで11月の役員会を持った。私たちの教会のために労してくださっている大澤星一牧師の関係で今日の開催となった。

めっきり空気が冷たくなった今朝、ユキは町内のハローウィンでお昼過ぎまで知子と出かけていた。私も教会の方々と恵みの時間を過ごした。
買い物をして帰宅すると6時前、すっかり日が暮れていた。今夜は放射冷却でかなり冷え込むそうだ。苦手な冬の到来である。

posted by 優子 at 22:25| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

1年なんてアッという間、早くも64歳の誕生日 

「光陰矢の如し」「光陰流水の如し」「光陰逝水の如し」「歳月流るる如し」「時節流るるが如し」「盛年重ねて来らず」・・・挙げればキリがない。
時は同じ速さで進んでいるのに、年齢を重ねるほど速く感じるのは何故だろう。人生の充実を感じるからだと思うが、60代も半ば近くになってくると先行きの短さをますます実感するようになり、聖書(詩篇90篇10、12節)の言葉も一層現実味を帯びてくる。

「われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

われらにおのが日を数えることを教えて、
知恵の心を得させてください」。

      
私は高校3年生になった時、上級生がいなくなって何か正体不明の感覚があった。そして妊娠中の時のこと、最初は2ヶ月に1度の受診が安定期を過ぎると1ヶ月ごとになり、8ヶ月になると2週間に1回、そして、9ヶ月になると毎週になり、予定日が近い妊婦さんと顔なじみになる。

そして先の人が居なくなっていく。まるで出陣していく特攻隊のよう。高校3年生の時に感じた正体不明の感覚こそこれだった。最前線に立つともう先の人がいない!この感覚の決定的な経験は両親が地上から姿を消した時だ。

私の前に存在していたつい立てのようなものが取り去られて風通しがよくなった。次は私の番だと最前線に立たされた気持ちになった。


母は70歳で、父は75歳で召されたが、そののちは亡き両親の年を数えては、もし健在ならばと両親の姿を想像するのが習慣になっている。想像の父は90歳で母は89歳になった。

この10年余りで90代でも全く驚かない長寿時代になり、先月も「私は今から米寿のお祝いに行ってきます」と元気溌剌のYさんに声をかけられた。
両親の年代の人がいつまでも元気でいてくれるのが嬉しく、何よりもその溌剌さに気弱な私は唖然とするほどの感動を覚える。

しかしながら、これを書いていて思ったが、そろそろ亡き父母の年齢を数えるのはやめよう。そうでないと想像の世界でもう一度喪失体験をしなくてはならなくなる。


「60歳代は1年ごと、70歳代は1ヶ月ごと、80歳代になると1日ごとに体力が衰えていく」と、よく耳にする。確かに63歳ぐらいからガクンと落ちたように思う。

読書会に通っていた時、敬愛していた今は亡き近藤一さんは「この年になると予定が立てられない。体調は日によって違うから、その日の朝にならないとわからない」と仰っていたが、この年齢にして早くも今週はまさにそうだった。

ようやく風邪気味も抜けて27日火曜日は久々に体調がよくコーヒーを飲んだ。私にとってコーヒーが飲みたいかどうかは体調のバロメーターでもある。気力も充実して机に向かった。
ところがその午後はもうしんどくて怠けてしまった。そのあとも冴えなくて昨日一昨日は時間を無為に過ごしてしまった。

今という時は二度と戻ってこないのに怠惰な自分に嘆く。人生で最も大切なものは時間だ。「盛年重ねて来らず」(若い盛りは二度とは来ないから、その時代を空しく過ごしてはならない。)を文字って自らに言おう。

「生ある者、今が最も若い時、この時重ねて来たらず、今を懸命に生きよ!」と。


小学校の入学式.jpgこれは小学校の入学式の日。
肌寒い日で風が吹いていたことや、母の手作りの白い服、スカートの裾に刺繍がしてあったこともよく覚えている。

中1修養会.jpg



これは中学1年生の5月、もう51年も前だ。
同志社に入学すると、新入生は初めての中間考査の最終日に琵琶湖畔の唐崎(からさき)ハウスで一泊2日の修養会がある。通学かばんは教職員の会議室に置いてくる。
PTAの委員になった関係で母も来たことがあり、その時に歌った讃美歌90番が母の愛唱歌になった。
そして、私は64歳になった。
この日を迎えられたことを神さまに感謝します。

今日は近隣のNさんが元気のない私を連れだしてくださり、3時間ペチャクチャお喋りして元気になって帰宅。ユキが帰宅する8分前だった。
パソコンを開くと今年もワシントンの次女夫婦からバースデーカードが届いていて、もっと元気になってネヘミヤの言葉を思い出した。

「主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
                   (ネヘミヤ書 8章10節)

バースデーカードから一部だけ記録させてもらおう。

御言葉カレンダーのカードも、使っているよ。教会でも、奏楽したくなってきて、先週初めて挑戦したよ。自分らしい演奏で賛美していこうと思うよ。生きることもそうなのかもな、と思ったよ。

ママはまさに、人生を通じて神様への賛美を綴っていっているね。今年も、神様と共に、素晴らしい日々を過ごしてね。健康も守られますように。お祈りしているからね。
真智子

先日の日曜礼拝で、真智が初めてピアノでの奏楽のご奉仕をさせていただきました。長いブランクにも関わらず、しっかりと7曲も弾くことができて、僕は感動しました。これを機に、僕も礼拝準備や賛美隊への参加をしていこうと思っています。

この一年も、優子お義母さんに主の祝福と恵みが豊かにありますよう、お祈りしています。
太志

真智は中学校の卒業式でピアノ伴奏をしてからピアノから遠ざかっていたのにすごい。経済学者の奏楽者。(^−^) そして、伴侶・娘婿の「僕は感動しました」の言葉に感動し、魂にも届く元気が出る贈り物だった。
そちらの教会では「聖歌隊」ではなく「讃美隊」というようだ。大いに讃美されたし!

「今年は2016年の御言葉カレンダーを既に10月10日に買ったよ。広岡浅子展を見に行った時にね。年末に銀行の手帳と美濃紙業のかわいいカレンダーが手元に届いたらすぐに送るね」。

初めて一人でネスプレッソ.jpgそして、これは知子からの贈り物。9月の5連休に高島屋で購入した。
あの日、試飲して購入しようとしたら、知子も同時に声を上げて、これが私への最適なプレゼントと考えていたのでと、どうしても払わせてくれなかった。

確かに気力が充実している時はコーヒー豆を挽く時間さえ惜しい。これだったらすぐにおいしいコーヒーが飲めるから独りになった時に楽しんでほしいとプレゼントされたのだ。ありがとう!

ところが最初の一杯は美味しかったけれど薄めても苦い。私は本物の味がわからなくて、体調のよかった火曜日もいつものコーヒー豆を挽いて飲んだ。(>_<) ありがとう!

知子、真智子、太志君、Nさん、
また今日から新しい気持ちでやりま〜〜〜す!!!
ありがとう!!!

posted by 優子 at 23:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年10月26日

福島や仙台で健康相談会を重ねる山崎知行医師の公開講演会ご案内

公開講演会.jpg来月私たちの教会に山崎知行医師をお招きして公開講演会を開催します。

→ IMG_5914.jpg
和歌山在住の山崎医師は、毎月福島や仙台を訪ねて健康相談会を開いておられます。メディアでは殆ど報道されない福島の現状を直にお聞きできる滅多にない機会です。東北や関東の情況も知りたいです。
とにかくどんな情況であれ真実を知りたい、そこから最善を見極めていきたいと思います。どうぞ是非お出かけ下さい。

我が町にも福島から実家へ避難されている方がおられますが、市内の関係者にも周知していただこうと、今朝お2人の世話人にご案内依頼してきました。「予定がなければ行きます!」との即答が返ってきました。

この日は礼拝で山崎医師がメッセージも語ってくださいますので、礼拝にもご出席ください。大いに歓迎します。礼拝では席上献金がありますが、ご自由ですのでお気軽にお越しください。

公開講演会@.jpg

公開講演会A.jpg

公開講演会ポスター.jpg最寄りの駅は、近鉄大阪線・五位堂(ごいどう)駅よりタクシーで1200円ぐらい(?)かかりますが、是非お出かけ下さい。

早速、我が家の掲示板にも貼りました。
※ 10月31日にいただいた拡大ラミネートフィルム版に更新。

posted by 優子 at 21:49| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年10月25日

イエスさまが語られた「天の国」の譬え話  −子どもの礼拝で語ったこと D―

今朝の「子どもの礼拝」は小さな子供たちが3名加わって賑やかだった。
馬見労祷教会では大人の礼拝の初めに子どもの礼拝を組み入れて、共に子供讃美歌を讃美し(歌い)、担当者が7〜8分間ほどの短いメッセージを語る。

そのあと子どもたちは2階へ上がってメッセージ担当者と他1名で分級に移る。出席名簿に聖句のシールを貼ったりして過ごし、誕生月の子どもがいればお菓子と飲み物をサービスする。
そして、説教最後のお祈りが終わった段階で再び礼拝に合流して献金のご奉仕をして礼拝を終える。子どもが激減した教会の苦肉の策である。

余談になるが、クリスチャン・ペンクラブの友、『生かされて』(右側「お気に入りリンク」に掲載)の著者が通っておられる「土浦めぐみ教会」は大規模教会である。

牧師が3名だったか複数おられ、午前中に3回に分けて礼拝が持たれ、教会学校には幼児から高校生まで合わせて約150名が出席。駐車場は何と300台も収容できるというから驚きである。

日本にもそのような教会があるというのは喜ばしい限りである。同じく大阪府吹田(すいた)市の教会に通っておられる関西クリスチャン・ペンクラブの友の教会も300名ほど集う教会だそうだ。このような教会が日本にも存在するのは非常な励ましであり、私も主に在って私たちの教会の歩みを続けよう。

今朝は「子どもの礼拝」でお話する奉仕に当たっていた。今回で5回目だと思う。次のような内容をお話した。

10月は、イエスさまが「天の国」がどうようものであるかを話してくださったところを読んできましたが、今朝はズバリ「天の国」のたとえです。最初に聖書をお読みします。

【マタイによる福音書 13章44〜46節】
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」。


これはこんなお話です。
ある人が畑を耕している時に宝物を見つけました。そこは自分の畑ではなかったので、宝物を見つけた人はそれを土の中に隠して大急ぎで家に帰り、財産を全部売って、そのお金でこの畑を買いました。

また、真珠を売り買いしている人が良い真珠を探していた時、ついに最高の真珠を見つけたので、持っていた物を全部売り払って、たった一粒の真珠を買ったというお話です。

(子どもが興味深く聴いてくれていたので御木本幸吉の真珠の養殖についても触れ、2000年前の自然界で創り出された真珠がどんなに高価なものであったかを話した。)

この2つのお話に共通しているのは、宝物を手に入れるために持っている物を全部売って買い取ったということですが、そして神さまの働きとは、畑の中にあった宝物や、やっと見つけた一粒の真珠を買い取って自分のものにしたことです。まさに、ご自分の命を投げ出して成し遂げてくださったイエスさまのことを思いますね。

神さまは誰でも宝物を見つけることができるようにしてくださっているのですが、土の中や海の中など、人々の目から隠されているので多くの人が見つけられないのです。「天の国」という宝物もそういうものですよとイエスさまは教えてくださいました。

では「天の国」「天国」ってどんなところでしょうか。
「国」と言っても、地球儀にある国境のある「国」という意味ではなく、死んでから行く所でもなく、神さまの恵みが満ち溢れているところです。だからその宝物を持っている人はイエスさまと共に生きている人のことで、その人は今すでに天の国にいるということです!

もっとわかりやすく話しましょう。
野球選手のマット・マートンを知っていますか? すごく優秀な選手なんだってね。
(ユキちゃんはおじいちゃんに何度も大阪ドームへ連れて行ってもらっているので野球選手のことも知っていると思うけれど、)阪神タイガースのマートンはいつもイエスさまと一緒です。クリスチャンです!

マートンはヒーローインタビューではいつも、「イエス様に平安がある」と日本語で締めくくるそうです。そして、こんなことを言っています。

「神さまは僕に野球の才能をくださった。だけど、どんなに頑張っても全てうまくいくとは限らない。でも、たとえ僕が失敗してもイエスさまが立ち直れる力であり、失敗のまま終わることはなくいつも前向きでいられる。

僕が試合中に意識しているのは、究極的には観客は1人、神様だということです。すべてのことを、神様に栄光をささげるためにさせてくださいと祈っています」。


このマートンのような生き方こそが、最高の宝物を見つけた人であり、その宝物を大切にして生きており、今すでに天の国にいるという意味です。

お祈りしましょう。
「神さま、今、イエスさまの譬え話について学びました。イエスさまが私たちのためにご自分の命を投げ出して救い出してくださったことを思い出しました。この宝物を無くさないように、いつもイエスさまと一緒に大きくなっていくことができますようにお守りください。
そして、学校のお友達や先生もみんな人生の最高の宝物を見つけることができますように、イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン」。

「マット・マートン『僕の人生の目的』」 は、1分56秒の短い動画です。是非ご覧ください! 

附記:
Power for living.jpg今朝の子どもの礼拝がユキひとりならば話そうと用意していった『パワー・フォー・リビング』(140ページ)は、当地に引っ越してからしばらく福音系の教会に在籍していた2007年頃に、友人や知人、民生委員の仲間など10名ほどにお配りしたことがあった。

ここに日本ハム監督のトレイ・ヒルマンのことが紹介されている。彼は宣教師で、熱心なプロテスタントのクリスチャンだ。こんなことを書いている。

トレイ・ヒルマン.jpg「私は完璧な人間では決してありません。数多くの間違いを犯してきました。けれども、神さまはその憐れみと恵みによって私を赦してくださり、私と家族を豊かに祝福してくださいました。

私を英雄と思わないでください。ただの人間にすぎない私を真似るのではなく、イエスさまに従い、イエスを真似しましょう。
あなたの魂を救い、天国と永遠の命への道を教えることができるのはイエスさまだけなのです」。

「イエスさまが死んでくださったこの犠牲により、私たちは永遠の命という贈り物をいただけるのです。この贈り物をいただくにはイエスさまを信じるだけです!」

 
posted by 優子 at 20:33| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

19年前の今頃は ― 母を偲ぶ ―

10日ほど前からずっと風邪気味で熱っぽい日々が続いている。昨日は久々に元気になったかと思うと午後は急にしんどくなって臥せっていた。
今日は昨日より元気になり、九州に行く夫を見送りに駅まで歩いた。その帰りに、町の呉服屋さんに所要があって訪ねると、七五三の晴れ着をひろげて接客されていた。

母が亡くなった10月は母を思い出していたので、私は早足で、まるで母に会えるような気持ちで帰宅して娘たちの祝い着を出した。

知子の祝い義は七五三の時に知子が自動車に酔って吐いたので悉皆屋さんに出して、真智子の七五三にも着たが、何よりも38年近くも経っているのですっかり古びていた。

真智子・お宮参りの絽の着物@.jpgところが真智子の晴れ着はまっさらのままだった!
「お母さん」
私は着物を抱きしめた。


真智子は6月生まれのため夏のお宮参りに合わせて絽の着物を用意してくれた。箪笥の中はいっぱいなので押し入れに入れていたが、箱を開けると匂い袋の香りも残っていた。

真智子を出産後1ヶ月間実家で静養している時に、母は呉服屋さんを呼び、いくつかの反物から2点選び出してどちらか好きな方を私に選ぶように言った。

真智子・お宮参りの絽の着物A.jpgこれも母の好きな加賀友禅なのだろうか。あるいは絽の加賀友禅などないのだろうか。こんな年齢になってもそんなこともわからないが、その時に見た「280000円」という値札だけは今もはっきり覚えている。
あの時は今の40万円くらいに感じたものだ。着物に仕立て、長襦袢なども合わせるとかなり高額になったことだろう。

お宮参りは男性側の祖母(母親)が抱くので母との写真がない。

真智子のお宮参り・橿原神宮.jpgあの時どうして「お母さんも真智子を抱いて一緒に写真を撮ってやって」と声をかけなかったのだろう。この日、室内であれ母や父が真智子を抱いている写真は一枚もない。

真智子のお宮参り.jpg
この時、母は55歳、父は56歳、
良輔は35歳だった。
そして今日、あの日以来35年ぶりに着物を出して衣文賭けに掛けて風を通したとは! 今日から桐の箪笥に直そう。そして、いつか真智子に持たせてやろう。これを着る真智子のジュニアを授かるならば、それ以上の喜びはない。その時は私はアメリカだってどこにだって行こう。
これは知子のお宮参り、共に橿原神宮だった。
懐かしい父と母。お父さん、元気にしてる?
お母さん、本当にいろいろありがとう!

知子のお宮参り.jpg

この時、母は52歳、父は53歳、義母は55歳。

この時、私が夫の実家に長襦袢を忘れて行ったために着物を着ることができなかった。母が私に着物を着せようとした時に長襦袢がないことに気づき、母は義母に長襦袢を貸してほしいと頼んだが叶わず、とても残念がっていた。

この際、長襦袢は絽でなくても紗でも麻でも夏用であれば素材は何でもよかったと思うのだが、持ち合わせがなかったから素っ気なかったのかもしれないと、これを書きながら過ぎた日を思った。

母は60歳になった頃に進行性難病である脊髄小脳変性症を告知され、10年の闘病のあとに70歳の生涯を終えた。1996年10月25日(金)、日付けが変わった午前1時28分だった。

この日(最高気温26.1度)は今週のように汗ばむ気温だったが、この夜の通夜は野分の風が吹いて急に肌寒くなった。
夜が明けて東大阪の自宅に帰り、母の遺影の写真を探し大急ぎで再び実家へ向かった。そのラッシュアワーの地下鉄で涙が流れ、目の前に立っていた女性が訝しげに私を見ていたことも忘れられない。

19年前の頃を覗きたくて日記帳を開く。
1996年10月21日(月):
朝8時20分頃、主治医より電話あり。母の容体悪く、挿管するか気管切開しないと助からないので早く来てほしいとのこと。真智子はこのことを知って中間考査のため学校へ行く。兄と私と良輔と知子(大学1回生)の4人で外来の方で話を聞く。

COが70近い(普通は40以下)
が50
PH(血液の酸性度)は7.317(7.3以下は厳しい状態)

COで呼吸状態がわかる。この状態になるとOを送ってやるだけではダメで補助呼吸が必要。ただし、本人の苦しみはあまりないらしい。なぜならCOが多くなると意識が混濁するため。Oは死期を早めることもあるとのこと。

10月22日(火):
医師の朝の話では今日があぶないとのこと。知子は9時半ごろ(???)来てくれる。真智子は試験のため学校へ。
その後まもなく、お昼までもたないと告げられ、良輔から学校へ連絡。昨日も試験のあと駆けつけてくれているので、おばあちゃんとの別れもしている。おばあちゃんもよくわかってくれているから試験が終わってから来るようにと伝えたが、2教科目を受けずに帰らされたと駆けつけてきた。先生の判断にも胸を打つ。

竹内の伯母、長男、神戸の叔父叔母も来てくれた。その後、母の様子がすごくよくなったので今の間に一度帰るようにと、叔母たちに何度も説得されてようやく病院をあとにした。
お母さん、私が帰っている間に逝かないで! 

良輔の車で真智子と2人帰る。お風呂に入り、知子が作っておいてくれた焼き飯とポテトサラダを食べ、黒の服と喪服の用意をする。母が用意してくれたものを出すのだ。母が20年前に箪笥に入れてくれた匂い袋の香りが部屋中に漂った。

10月23日(水):
11時過ぎ、母と再会。昨夜初めて妹が泊まったが、家族が揃うのを待たずに帰った。母は一晩中、目を見開いて起きていたという。

午後1時前から主治医の話を聞いた。私、知子、父、神戸の叔母、妹婿。父(71歳)は難聴のため、知子は祖父に寄り添って途中で中座する。
母は苦しそうに見えるが、そんなにそうではないようだろうということで酸素は流さないことに決めた。

しかし、「苦しくても呼吸していることに価値がある」と言って妹婿が酸素を流すべきだと主張し、廊下で議論になる。私は人間の尊厳を守るという事はどういうことかを話した。

兄が4時過ぎに来た。兄と二人で再び医師の話を聞きに行く。酸素は流さないと決める。真智子は4時半ごろ帰った。試験中、3日目である。かわいそうに。

夕方5時半ごろ、兄が仕事に戻る時に叔母も帰ってもらった。母についてくれるために再び兄が9時半頃来て、肥後橋まで送ってくれて10時15分ごろ帰宅。
この夜8時頃から母は眠り出した。この日は白目が膨れていた。点滴のための浮腫とのこと。

10月24日(木):
朝7時半、昨夜母の病室に泊まってくれた兄から電話あり。血圧が下がってきている。過去のデータからだと今日1日ぐらいとのこと。私は電話を切ってから何も手につかず1時間もオロオロしていた。

10分ぐらい叔母に電話し、谷口さんに電話する。谷口さん(母と同じ昭和元年生まれ)は言われた。

「あなたはイエスに立てられた人。リーダーシップをとって『みんなでお母さんを送ってあげよ』と言ってあげてください。その人の一生が終わるという厳粛な場、お母さんも今、肉体だけでなく魂も闘っておられる。そして、みんなの一番いい時に『もういいよ』と神が引き上げてくださる』」と。
電話の途中から苦悩する魂が静められた。祈った。

この日が最後の泊まりとなる。10時頃家を出る。母のために出かけるのが今回で最後になった。たった380回・・・

母の息は静かになっていた。この時はもはや瞬きはできなかった。しかし、かすかに動かして意思を返してくれたように思う。この時、母はどんなだったんだろうか。肉体の苦しさと心の情態はどうだったのだろうか。

最期の最後に2度目も泊まれる私は幸せだと思った。兄が泊まる時はいつも病室で午前1時〜2時まで、あの薄暗い光りで仕事をしていた。ところが、昨日に限って何か仕事の忘れものをしたので何もできなかったそうだが、母との時が与えられてよかった。忘れものも神の計らい。

そして兄にこの夜こそ休んでほしいと思った。どんなに苛酷な中にあっても、母に寄り添おうとして来てくれた。私もこの日はもうクタクタで歩くと股関節も痛い。夕刻6時頃、兄は叔母と知子を梅田へ送り帰宅した。

腰がビリビリしていたので、8時頃からベッドを広げて横になった。この夜、私は母が危篤状態になって初めて吸引した。怖かったが2〜3度した。

そして、9時過ぎから1時間あまりも眠ってしまったように思う。その時、蚊が私の下唇あたりをかんで痒くて目が覚めた。蚊のおかげで起こされたと思っている。これまでのように大きな呼吸音のない今、寝ていては母の様子がわからない。

しばらくすると喉にたくさんの分泌物があるようで苦しそうだった。もはや口を開くこともできなくてナースは鼻腔から吸引するが苦しそうなままだった。

しかし、何か様子がおかしい。
ナースコールを押してもなかなか来ない。また慌てて呼んだ。「言ってます!」と無礼な言葉が返ってきた。「早く来てください!」と言って切ったあと、まもなく主治医が入ってきた。血圧を測った。あとは覚えていない。

この時はもう、この1週間ほど何度もやってきた股間の動脈血からの検査は刺激になるのでしないとのこと。これを何度もしてきたのは、家族の人にあと母の命がどのくらいか予測して伝えるためだったと言われた。母よ、痛かったであろう。
針を抜いた後、私は毎回、強く、長い間指で抑えていた。動脈血が噴き出すと天井まで達するからだ。

そして医師は家族に「知らせてください」と言われた。
12時半頃、知子と真智子が来た。大阪市内の兄たちの方が遅くて、来たのは12時45分頃だったと思う。こんな時は服装を整える必要もないのに、父はスーツに身をかためていた。父が遅くて兄は困ったと言う。父もいよいよと連絡が入り戸惑ったのだろう。かわいそうに!

このあと母はどんどん悪くなった。妹はやっぱり間に合わないのだと思ったが、和歌山からタクシーを飛ばして1時25分すぎに到着した。
この時すでに医師は母の胸に聴診器を長い間あてて最期の心音を聞き分けようとされていた。そして、「残念ですが1時28分、お亡くなりになりました」と言われた。


その瞬間、私の耳に母の笑い声が聞えた。この時、私は母のベッドサイドの左手側に居たが、それはそれは大きな笑い声が鮮やかに聞こえたので、思わず声のする左側を見た。母の足元の天井あたりから聞こえた。はっきりと! そうか、ようやく母は苦しみから解放されたのだと思った。

住友病院建て替え.jpg母が亡くなった翌11月19日の新聞に住友病院建て替えの記事が出た。それでいい。悲しい思い出の建物は無くなったほうがよい。

今月初め、住友病院のホームページを見た。
我が国の神経内科学の最高の権威であり外来の主治医であった当時の病院長・亀山正邦氏も亡くなっておられた。
そして、病床で知り合った早苗ちゃんの主治医は副院長に、母の主治医だった心優しいN医師は診療主任部長として従事されている。私はN医師より年上だったのだろうか、殆ど変わっておられないから驚いた。

19年前の明日の夜に母を看取り、そして、母の初七日に私は45歳になった。

posted by 優子 at 23:07| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2015年10月17日

今は戦前時代、私たちが戦前世代にならないために絶対に政府の暴走を許してはならない

長浜かくしん.jpgクリスチャンペンクラブの仲間の長原武夫氏は、キリスト者として長浜の革新懇代表世話人に名を連ねて活動しておられる。
今日届いた『長浜かくしん』(50号)第一面には、氏の筆勢ほとばしる文章が掲載されている。ヒガンバナの写真も長原氏によるものである。

同封してくださった『全国革新懇ニュース』(373号)共に2紙から長浜の、そして、全国各地の動きが報告されており、戦争法案反対の国民運動をより発展させて、来たるべき参院選と総選挙で必ず平和を取り戻そうとの息づかいが伝わってくる。 

『全国革新懇ニュース』には、「失われた山河、見捨てられた命、『原発』『戦争準備』欲するカネの亡者」と題して、原子核工学者・小出裕章氏の講演が掲載されているので一部抜粋引用したい。

小出裕章氏.jpg

先の戦争で日本は負けた。
でも「国破れて、山河あり」、
国家が戦争で負けても、大地があれば人々は生きることができた。ところが、福島第一原子力発電所事故の放射能によって汚された大地は失われてしまったのである。こんな悲劇は戦争が起きても起こらない。

さらに、赤ん坊も含め100万人を超える人々が、法令を守るなら「放射線管理区域」にしなければならない場所に捨てられてしまった。

「放射線管理区域」とは普通の人々は立ち入りが禁じられ、私がそうであった「放射線業務従事者」であっても、その中で水を飲むことすら禁じられる場である。
            (略)
この国の政府は被害者を苦難の底に沈めたまま、原子力のさらなる利用に突き進んでいる。その上、東京オリンピックだ、同盟国と一緒に戦争に出かけるという政府でもある。何としてもこの政府を倒したいと思う。

昨年10月1日現在の総務省の発表によれば、1945年8月15日以降に生まれた「戦後生まれ」が初めて8割を超えたと報告している。

今まで私もまた「戦後世代」と言ってきたが、再び戦前の様相を呈する今、「私は先の戦争が終わって4年後に生まれたので戦後世代と読んできたが、今や戦前世代と呼ばねばならなくなった」と語る小出氏と同じ思いである。

私たちが本当に戦前世代にならないために政府の暴走を絶対に止めねばならない。今ならばまだひっくり返せるのだから、ガッカリしている時ではない。子どもたちのために、これから生まれてくる命のために、来たる参院選と総選挙に向けて、一人ひとりが意識を高めて「第一のものを第一に」選び取ろう。

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である」。
               (ヤコブの手紙 4章17節)

小出氏は『原発と戦争を推し進める愚かな国、日本』を昨日付けで出版された。これは京大退官後初の書き下ろしだという。氏は専門家として社会的責任を果たす第一人者のひとりである。

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2015年10月15日

福島の子どもの現状 

今年8月の川内原発1号機に続いて、今日2号機までも再稼働した。「再稼働後12時間程度で核分裂反応が連続する臨界状態に」とは何と恐ろしいこと。

「日本の政治家たちの福島原発事故に対する反応は、根本的に無知だけでなく、ばかげたほど無責任であると同時に、それは、東京電力、そして日本の政治的議題の大部分を編成する傾向にある原子力産業との政治的な繋がりのせいでもある」。

これはヘレン・カルディコット医学博士が、福島原発事故発生後早い時期に言っていたことで、「放射能に対する感受性は、子供達は大人の20倍であり、女の子は男の子の2倍、胎児の感受性は子供達より更にもっと高い。」と、子供たちに著しい生物医学的な傷を残すことを警告していた。

ついに福島の子供たちに異変が目に見えるようになってしまった。
現在、福島県内の子どもの甲状腺ガン発生率は平常時の70倍超。
2011年3〜6月の放射性セシウムの月間降下物総量は「新宿が盛岡の6倍」、甲状腺癌を起こす放射性ヨウ素の月間降下物総量は「新宿が盛岡の100倍超」(文部科学省2011年11月25日公表値)という驚くべき数値になっている。

これは『原子炉時限爆弾』で福島第一原発事故を半年前に予言した、ノンフィクション作家・広瀬隆氏が、今夏『東京が壊滅する日――フクシマと日本の運命』を緊急出版した中に記載されており、既に第5刷の増版を重ねているという。

「チェルノブイリ原発事故の経験がほとんど生かされていない」

「政府や福島県は、これまでの誤りを認め、詳細な情報を流すべきだ!」


また、「歴代ワースト総理・安倍晋三が犯す日本史上最大の犯罪――担当編集による著者インタビュー」でも広瀬氏がインタビューに答えている。以下は抜粋引用したものである。

▼ 2011年3月のフクシマ原発事故から4年半が経過し、すでに福島県の子どもの甲状腺癌の発生率は平常時の72.6倍です。もうすでに起こっていることですよ。その原因である放射性ヨウ素が、ここ東京にも、大量に襲いかかったのです。・・・

▼ 来年、2016年3月11日で、原発事故から5年が経過します。ネバダの核実験やチェルノブイリ原発事故の教訓は、まちがいなく「事故の5年後から癌や心筋梗塞の患者が激増する」ということです。
 
▼ フクシマの原発事故でコワイのは、広島・長崎原爆のような閃光や爆風での被害ではなく、200種以上の放射性物質がガス化して“見えない状況”で日本中に飛散したことです。放射性物質の8割が海に落ちたとしても、2割は山中や平地に落ち、河川を通じて関東平野や日本海側にも放射性物質が流出しています。・・・

▼ 忘れてはならないのは、「除染」というのはあくまでも「危険物を移動する」という意味であって、危険物そのものは永遠に「消滅」しないということです。

だから小泉純一郎さんが、「地下水が豊かで、放射性廃棄物の処分ができない国なのに、原発の再稼働など絶対にしてはならん」と叫んでいるのです。大きな危険性のある放射性物質を大量に含んだものが、豪雨で川や海に大量に流れ出たわけです。

土中や、地中の汚染はむしろ日増しに進んでいる。猛毒物のプルトニウムもトリチウムもストロンチウムも、海に大量に出ている。それを魚介類が取り込み、やがて子どもたちが体内に取り込み、それが体内で濃縮を起こし、トテツモナイ癌細胞となって放射線を放つ可能性が大なのです。
 
再稼働を開始した川内原発(鹿児島県)や再稼働候補の伊方原発(愛媛県)でこれから取り返しのつかない事故が起こった場合、日本列島の風の流れから、被害が鹿児島・愛媛にとどまることなく、日本列島全土を殲滅(せんめつ:つまり全て残らず滅ぼしてしまう、私たちも十分に想像できることではないのか!させる、ということです。

現代人はあまり強く認識していないようですが、日本中にある標準の100万KW級の原発では、1年で広島原爆の1000倍の放射性物質を生み出す核分裂が行われています。

つまり、あの忌まわしい原子爆弾の1000倍の危険な放射能が日本列島を埋め尽くす。フクシマ原発事故が起こっても、まだ日本人は懲りないのか。この民族の頭は大丈夫なのか。

安倍氏は今年8月に鹿児島の川内原発を再稼働させる時、「新しい規制基準の下で安全性は十分確保されている」とか、事故が起こった時には「私が責任を取る」と何度も言っていたが、いったい彼がどう責任を取ることができると言うのだろうか!

一端ことが起これば国も人間も誰も責任など取ることはできない。仮に被災者全員に有り余るほどのお金を配ったところでお金で健康の責任を取ることなどできないし、人体同様に自然界も取り返しのつかないことになってしまうのだ。

そのことは既に経験済みなのに、何故、相も変わらず経済優先の人間不在の悪政を推し進めるのか!
彼らはもう人生の半分以上生きた年齢だからいいだろうが、子々孫々に続く命に対してあまりにも極悪非道だ。


これまで福島原発事故後の日本政府の対応を厳しく批判し、真実を伝え警鐘を鳴らし続ける気骨ある原子力学者や医師もいるが、全体からすればそれはごくごくわずかで、大多数の人たちは専門家としての社会的責任についても考えさせられる。

「国民を混乱させるから真実を語るな」とは、緊急事態が発生した時の万能策のように使う。しかし、放射線の危険性がわからなかった時代でもあるまいに、待ったなしの放射能汚染に対してもそれをマニュアルとし、第一のものを第一にできないのはあまりにも極悪非道だ。

ウィキペディアによれば、例えば3種の核の「物理的半減期」「物理的に10分の1になる期間」「体内から9割が排出される期間」は次のとおりである。
プルトニウム 2億4千年、8億年、663年
トリチウム   12.3年、 41年、  40日
ストロンチウム 29年、 96年、  163年


これらは100年足らず前までは地球に存在していなかったものであり、人類は人類を破滅させる化け物を作っただけではなく、それを弄ぶ悪魔に牛耳られた人間が大量に増殖してしまった。

それぞれ考え方や立場が違っても、命に関わることだけは優先順位が同じでなければならないのに、まもなく原発事故が発生して5年になろうとする今も政府は現状を隠蔽し続けている。苦しむのは常に民衆なのだ。

附記:『ウィンザー通信』の「子どもも含め、本来なら『放射線管理区域』にしなければならない地に棄てられた人々を、さらに棄てる人たち」も併せてお読みください。

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2015年10月11日

広岡浅子を訪ねて大同生命特別展示へ U

大同生命特別展示で.jpg昨日の記事に続けて、ヴォーリズが建築した大同生命ビルのことや、興味深かったことを書いておきたい。なお、写真撮影と個人のブログに掲載する分には許可されていた。

右上の写真は特別展示会場受付でいただいた冊子で、このほかに当ブログ2015年9月26日記事の冒頭に掲げた産経新聞社の『SANKEI EXPRESS』の特別版が入っていた。

大同生命@.jpg大同生命本社ビルを入るとビジネスビルのイメージを覆され、吹き抜けになっているエントランスホールのゴージャスさに魅了された。

これは自然光ではなく電気の光だが、ヴォーリズが設計した旧本社ビル・営業室の光天井が復元されている。


大同生命A.jpg

大同生命D.jpg

加島屋活躍当時、堂島米会所は世界最先端の金融市場だった。両替商・加島屋は大名貸しで幕府の金融政策に関わり、その額は900万両(現在の約4500億円)にも及び、鴻池を抜きん出ていた。

しかし明治維新になり、この莫大な額の殆どが返済されず加島屋は傾いた。謂わば各地の豪商たちが国家を支えていたことや、それらの犠牲の大きさに深い感慨を覚えた。

展示場でA.jpg

これは加島屋が新選組に400両(約2000万円)を月0、4%で貸した時の借用書だ。
新選組借用書.jpg「預り申金子之事」(あずかりもうすきんすのこと)に土方歳三と近藤勇の署名が見える。

このあと鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組は落日を迎え、近藤は千葉県流山で処刑され、土方は函館で戦死し、この証文は反故になったようだ。大学1〜2回生の頃に新選組に興味を持っていたことがあるだけに、直にこれを見て歴史のリアリティを感じた。

明治維新の動乱で危機的な加島屋はなおも、明治天皇が東京遷都の前に行った京都から東京への旅(東京行革)で8万両(約40億円)を求められて、ついに浅子は加島屋の経営に参画することを決意した。浅子20歳の時であった。

月日は経って、これは炭鉱事業で必死だった頃の成瀬仁蔵への手紙である。この手紙にも何事も人任せにしない浅子の生き方が如実に表れている。成瀬仁蔵は新島襄、福沢諭吉と共に称される日本3大教育者の1人である。 

浅子の手紙@.jpg

これが浅子の肉筆である。
↑ 内容は以下の如くで、共に後半部分のみを表示した。↓

浅子の手紙内容.jpg

A浅子の手紙.jpg

白い丸は天井の照明が映ったものである。

B浅子の手紙.jpg

「やると決めたら、どんなに障害があろうともそれを乗り越えようとする浅子」は「成瀬をも叱咤激励して」日本初の女子大学設立に尽力し、その後、クリスチャンとしても多くの若者に影響を与えた。

浅子に影響を受けた花子.jpg


大阪教会全景.jpg大同生命ビルから徒歩で5分ほどの所にある日本基督教団・大阪教会も訪ねたかったが次の機会にした。
大阪教会は日本最古のプロテスタント教会の1つで、1911(明治44)年に浅子が洗礼を受けた教会だ。現在の建物は、1922(大正11)年にヴォーリズが設計したものである。(写真は大阪教会HPより拝借した)

「広岡浅子 ゆかりマップ」を開くと堂島川と土佐堀川を中心に江戸時代の地図が描かれていて、それを観音開きにすると全く同じ場所になるように現代の地図が表示されている。
非常に興味深い地図だが1ヶ所ミスプリントがあったために配布できず、公にしないならばとのことで特別にくださった。

このマップには浅子ゆかりの歴史的な地が紹介されている。堂島川沿いにある福沢諭吉誕生の地(中津藩蔵屋敷跡)があり、ここは母の病室へ通ったときに何度も歩いた所である。

このほか、梅花(ばいか)女学校発祥の地、堂島米会会所跡、大阪市中央公会堂、中之島を開発した豪商・淀屋常安(じょうあん)の淀屋跡、蘭学者・緒方洪庵が開いた蘭学の私塾・適塾・・などが紹介されている。

久々の『百万人の福音』.jpg昨日、書店で買った本はこの2冊のみ。
私は2010年クリスマスに日本キリスト教団の教会へ転会するまで長年購読していた『百万人の福音』を懐かしく開いた。やはりこのマガジンは読ませるものがある。

この9月号には16ページにわたって広岡浅子の特集が組まれていた。既に残冊は全く無かったが、別のページを開いて店頭に飾られていた1冊を買い取ることができた。読みたいものがある時の喜びを何に譬えようか!

広岡浅子に大いに励まされている知子にインスパイアされて、私もまたしっかり立って知子を祈りで支えていきたい。

シュウメイギク.jpg

『浅子と旅する』出版記念トークイベントご案内

▼浅子の生涯を描いたDVD映像(大同生命制作)上映
▼著者・芹野与幸氏と 『浅子と旅する』担当編集者によるトーク


日時: 2015年11月21日(土) 14時〜(13時開場)
場所: 大阪クリスチャンセンター OCCホールにて
要申し込み: キリスト教書店・オアシス梅田店 
        📞06−6344−3948
入場無料 ただし席上献金あり

上映されるDVDとは、昨日3人で見た12分間の映像であろう。
とにかく出不精の私を動かすほど気分は横溢している。是非行きたくて昨日直接書店で申し込んできた。


posted by 優子 at 21:26| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2015年10月10日

広岡浅子を訪ねて大同生特別展示へ T

大同生命B.jpg今朝は9時に家を出て、大阪・肥後橋の大同生命本社ビルで開催されている「大同生命の源流 ”加島屋と広岡浅子”」展に出かけた。
先月70歳になった夫は、さすがに昨日のゴルフの疲れを感じて休養。この日を楽しみにしていた私と知子はユキを連れて3人で出かけた。
肥後橋へ行く前にまず大阪駅前第2ビルのキリスト教書店に立ち寄り、100年ぶりに復刊された広岡浅子著・『一週一信 人を恐れず天を仰いで』を買った。63歳でキリスト者になった浅子の剛毅(ごうき)な信仰観を読むのも楽しみだ。

他者のフィルターを通した評論や案内書、また小説ではなく、まず浅子自身の著述を読んで私の広岡浅子を感じたい。今日は特別展示全般の印象のみを記しておこう。

その感想を一言でいうならば、この展示内容では浅子の全体像が見えない。最も影響を与えられた成瀬仁蔵とのことが十分に描き切れておらずクリスチャンに至った内面に触れていない。

これでは何を成したかという業績主義に視点が置かれていて、経済が全てだという印象を与える。実業界から退いてのちを取り上げてこそ広岡浅子の全体像が浮き彫りにされてくる。

私の指摘は大同生命という会社の視点で見ているからだと知子に言われて、まさにその価値観から見たものだと納得した。これが一般的な編集であり、「浅子はこんなすごいことをしました」というのが世人の結論なのだろう。

しかし浅子は、娘婿の広岡恵三に事業を任せて実業界から退いたあとも、いよいよ女性の地位向上のために社会的活動に心血を注いだのである。その頃の写真も掲示していながらキリスト教について一切触れていないのは異様であり、浅子の人生の集大成となったキリストとの出会いが書かれていないのは惜しい。

その先駆けとなったのが44〜5歳の時の成瀬仁蔵との出会いであり、仁蔵から多大なる影響を受けた。それは晩年と言うには早い、死の25年前のことゆえに無機的に掲げるだけではなく、生い立ちの説明と同様に精神性にも命を吹き込むべきだ。

つまり、浅子の成し遂げる馬力と努力も神より与えられた生来の賜物であり、のちに神と出会って謙虚にさせられて自らを低くされた浅子が若い女性たちに大きな影響を与えていくのである。

その内面に触れてこそ浅子の人物の全体像を描き出されるわけだから、私の浅子への旅が楽しみだ。これから回を重ねて広岡浅子を描いていくことになるだろう。


浅子.jpg

これは村岡花子のアルバムに残る御殿場合宿参加者の写真だ。
1914年頃、毎夏開催された勉強会には、市川房江(婦人運動家、政治家)、井上秀(日本女子大学校初の女性校長)、小橋三四子(みよこ:女性ジャーナリストの先駆け)など、将来社会的に活躍する女性たちが集っていた。
「一個人の目先の欲望のためではなく、社会全体のために必要なことを使命として持とう」とは、浅子がたびたび口にしていた言葉である。この時、浅子は65歳頃でクリスチャン生涯を生きている。

「キリストに救われてここ10年、単にわが身の安心立命をもって足れりとせず、国家、社会の罪悪をもその身に担うてこれと闘うあらざれば、真に十字架を負うてキリストに従う者にあらざるを悟り、人を恐れず、天の啓示を仰いで、忌憚なき叫びを挙げたものであります」。(『1週1信』より)

広岡浅子を書いた本.jpg第1号の女性実業家であるにも関わらず殆ど知られていなかったとはいえ、広岡浅子について書かれた本はこんなにある。

大同生命C.jpgこの「ピナクル」【建築用語で小尖塔(せんとう)とも言い、ゴシック建築に用いられる】は祈りの形をしており、これはヴォーリズが設計した旧大同生命本社ビルの屋上に使われていたものを移築したものである。
このほか柱やアーチも移築して使っている。
旧大同生命ビル.jpg
旧大同生命本社ビル
展示場で.jpg

附記:今日の外出は私にはもう一つの意味があった。
大阪駅から肥後橋への道、堂島界隈は、母が住友病院に通院していた頃から亡くなるまでの5年間に400回近く通った道だった。

母が召されたのは1996年10月25日。
この日、辛く悲しかった道を19年ぶりに歩いた。
知子にも話していなかったが、私は母を偲びながら歩いた。懐かしい道になっていた。


四ツ橋筋.jpg大阪駅から四ツ橋筋へ。










渡辺橋.jpg
堂島川にかかる渡辺橋を渡る。左角は朝日新聞社ビル。
その向こうに見える大同生命ビルが加島屋跡に建っている。 

肥後橋.jpg
土佐堀川にかかる肥後橋を渡る。
ビルの合間を阪神高速道路が走っている。

土佐堀川.jpg橋の手前(北側・梅田寄り)がフェスティバルホールで、土佐堀川を渡った所が大同生命ビルだ。




展示を見終えて再び大阪駅へ戻った。大阪駅は当時とすっかり変わった。
大阪駅前.jpg

大阪駅前A.jpg

大阪駅の前は地下道の工事で煩雑としていた。工事完了は8年後の3月末。その時、私は生きているのだろうか。
父も亡くなって15年過ぎた。今はもうここを走っている自動車を見ても、運転している父の姿を追慕することもない。


阪急百貨店の上に大きなビルが積み上げられ、まもなく右端に写っている阪神百貨店の外装も変わる。こうして駅や町は少しずつ変わっていく。人も入れ替わりながら。

中学から通った同志社への経由地・梅田も、地下街は知らない所もかなりある。奈良に引っこんでから梅田へ来ることがめっきり少なくなってしまったから。

大阪駅.jpg 

今日の昼食は、ユキの一番の大好物の天ぷらをいただいた。母の病室に泊まった帰りに2〜3度昼食を摂った「ハゲ天」へ行った。今も大阪駅(大丸)上の16階にあり、店構えもあの頃のままだった。
アイスクリームの天ぷら.jpg
お食事の最後にアイスクリームの天ぷらを注文したが、
おなかがいっぱいでみんなノツノツだったね。
ユキと知子と一緒だったから楽しかった。

★ 広岡浅子関係は私自身の検索関係上都合が良いので「JCP関係」に収録することにした。

posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2015年10月06日

科学が創造者の存在を明らかにする

昨夜、2015年のノーベル医学生理学賞に大村智(さとし)さん受賞の速報が流れた。土壌1グラムの中に約1億個の微生物がいて、それを一つひとつ調べて土壌細菌が作る抗生物質を発見された。

それをもとにして熱帯病の河川盲目症の特効薬が開発されて、年間4万人の失明を防ぎ、今も3億人に投与されているという。

「微生物の力を借りているだけで、私が偉いことをしたのではない」と語られた大村さんの貢献度は計り知れず、人のために役に立ちたいという強い志と驚異的な探究心に圧倒された。

そして、宝が土の中にあったという自然の神秘に、それらを創造された神を思わずにはいられず、聖書からストレプトマイシンを発見したワックスマンのことと重なった。


医学博士・菱川侃一(かんいち、東淀川教会初代牧師)は、著書『生かされてこそ人は生きる』に次のように書いている。

多くの人は、聖書は非科学的であると申します。しかしながら聖書の中には、近代文化の源をなした多くのヒントが隠されておるのであります。

結核治療薬の王者を発見した、ノーベル賞のワックスマン博士と文通したことがあるのですが、彼は自分がこのストレプトマイシンを発見したのは、聖書の中からヒントを得たのによると言っております。

「地の中には薬品が備えられている」という処を読み、ヒントを得、この言葉の通り、土壌菌からストレプトマイシンを発見したのだと教えてくれました。

聖書の一言一句も、これを真剣に受けとめることができれば、なお多くの偉大な科学的真理や、新事実も発見されるのではないでしょうか。

最近、世界で問題にされている身体精神医学も、福音書の記事に、その出所を求めることができます。

「キリストのうちには、知恵と知識との宝がいっさい隠されている」。
              (コロサイ書 2章3節)

posted by 優子 at 17:55| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2015年10月04日

初めてのナイスシュート! 

昨日は運動会、今朝はサッカー。明日は運動会の代休。
ユキは今回初めてシュートに成功したそうで、指導者に「ナイスシュート!」と言われたと嬉しそうに話していた。また、Rちゃんも知子に「ゆきひさくん、サッカーむちゃくちゃ上手やで」と言ってくれたと知子も嬉しそう。

ユキ・サッカー.jpg

ユキは左端・黄色のユニフォーム(サッカー教室ブログより拝借)
運動場はいつもの風景に戻り、昨日の運動会は幻のよう。

DSC_1440.JPG

サッカー教室を学校が公認していないために、小学校の運動場は野球が最優先で使用することになっている。しかし、30年も前から地域の小・中学校にサッカークラブの申請をしていても許可されないとは如何に!

そんな関係でサッカー教室は毎週あるわけではないが、ユキは7月から9月中旬までに開催された5回とも欠席した。
そのうち、練習日が「逆生(ぎゃくせい)・埋伏(まいふく)過剰歯」の手術の翌日であったり、淡路島旅行で不在の時もあったが、次女夫婦が帰国していたこともあり欠席した。

それまでも礼拝を第一にして毎回出席することはできなかったが、これからはサッカーを優先するようだ。子どもの成長とともに教会生活との兼ね合いが難しい。

今日の初シュート経験からユキが意欲的になったことと、教会では10分間の礼拝のあとは私たちを待っているだけなので、今後はしばらくサッカーに出席するようだ。

DSC_1444.JPG

そして、これまでは夫(ユキの祖父)が教会を休んで学校までの送り迎えをしてもらっていたが、これからは休養もかねて知子が休むことになった。とは言え、次週のサッカーは知子が礼拝の奏楽に当たっているので夫に頼むことになる。

posted by 優子 at 22:50| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年10月03日

爆弾低気圧通過して天気は明朗 ユキの運動会!

「あっ、旗が上がってるー!」
今朝7時前、ユキは目覚めと同時に窓から学校方向を眺めて叫んだ。明治期に定着したと言われている運動会でおなじみの万国旗を見て叫んだのだ。

今日は運動会日和! 
爆弾低気圧通過後の二上山.jpg爆弾低気圧が通過した昨朝の二上山(雄岳)の表情が嘘のよう。天気は明朗にして運動会日和。
今朝の最低気温は14度で、昼間は9月下旬並みの24度だった。(今回より当地の気温を記録)

2年生の運動会.jpg

入場行進が始まった。
この時の高揚感は50年以上経った今も覚えている。

入場行進@.jpg

ユキの背丈は後ろから2番目だから大きい方ではあるが目立って大きいというほどではない。ちなみに2学期早々の測定結果は、身長が129.1cmで、体重は23.2sだった。あんなに食べるのに体重が低めだ。

2年生の運動会@.jpg帽子のゴムが伸びている。ふらふら
ごめんね。保護者の怠慢、恥ずかしい。もうやだ〜(悲しい顔)

ハチマキはみんな先生が結んでくださった。ユキは丸結び(団子結び?)を要望したんだって。


幼稚園から始まった孫の運動会見学も今回で4回目。この日は毎回タイムスリップして30代になっている自分に気づく。

子供が中学生になると保護者の年齢が少し上がり、高校生になると40代にと、当然のことながら子供の成長と共に保護者の年齢も上がっていく。次女が高校生だった時にそのことを感慨深く眺めていたことを思い出す。 
今日もお母さん方を眺めた。
若い! 
今思うと大学生の子供の保護者でさえ何と若いことか!



1・2年生の団体演技:「ええじゃないか」
毎日学校から帰ってくると大きな声で歌いながら踊っていた。ユキほどエンジョイして練習していた子はいないだろう。近年はスタンダードな曲や歌ではなく、テレビではやっている歌ばかり。今も「ええじゃないか、ええじゃないか」と、ユキの声が耳鳴りになっている。わーい(嬉しい顔)

本番では途中で音響機器の不具合が生じて長い時間中断し、ついに次のプログラムに移り、そのあとでもう一度最初からスタートした。

その間に、隣席の方に娘さんからお孫さんの組の色や演じる場所を伝える携帯電話が入った。きっとお母さんが違う方向をご覧になっているのを察知されてのことだろう。中断も幸いだった。わーい(嬉しい顔)

私も一緒に笑ってばかりはいられない。徒競走はグラウンドの真ん中を一直線に走ったので見えなくて、私は全く違う子を撮っていたのだから。がく〜(落胆した顔)

運動会@.jpg

運動会A.jpg

運動会B.jpg

運動会C.jpg
最後のポーズも決まったね!!!

前述のごとくに見逃してしまった徒競走は1等だった。これはリレー。ユキは赤組だ。「赤組だ」と書くと、これまた赤組の応援歌が耳鳴りになって聞こえてくる。毎日毎日大きな声でやっていたから。わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) わーい(嬉しい顔) 

2年生も赤組.jpg

速かったけれど足がもつれて転ぶのではと懸念していた通り、アンカーにバトンを渡したと同時に膝をついた。これでは足を鍛えないと11月の駆けっこ大会はとても去年のようにはいかないだろう。それに比べてお友達は何と力強くたくましくなったことか!

ユキちゃん走る!.jpg

ユキ、楽しい一日をありがとう!!!

附記:最後に今社会問題になっている組体操を関心深く見た。この小学校では5年生と6年生が一緒に5段の組体操をやっていた。児童数が少なくなった時代のやり方だろうか。
5年生は5段とは別にやっていたように思うが、5段であっても一番下の重さが最も加わる場所の子供にはどれぐらいの重量がかかっているのかと心配しながら見ていた。

幸い事なきを得て全員が退場する姿を見て安堵したが、5・6年生の保護者には学校から事前に不安解消の説明があったのかどうか気になるところである。

posted by 優子 at 22:10| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2015年10月02日

小屋に入ることを忘れた老柴犬

「おばあちゃん! チャッピーがハウスに入ってるでー」
9月24日、学校から帰ってきたユキは玄関を開けるなり叫んだ。

ハウスに入ったのは半年ぶりぐらいになるだろうか。いや、今年初めの真冬でも雨に濡れていたから半年ではきかない。濡れたまま氷点下になった夜を過ごすので体調を壊すのではと何度思ったことか。とにかくユキが叫ぶほどの大ニュースだったが、結局、入ったのはこの時だけだった。

濡れるのが大嫌いだったのに.jpg9月10日の大雨の時もずっと行ったり来たりしていた。あらゆる工夫をしても小屋に入らない。あんなに濡れるのが嫌だったのに、雨で濡れているところにも横になるとは悲しい。

ユキが帰宅した時、雨に打たれて寝ていた.jpg「チャッピーが雨が降ってるのに外で寝てる!」
2015年11月17日午後4時すぎ、
学校から帰ってきたユキが教えてくれた。

夏が終わり、これから冷たい雨になる。何とか小屋に入ってくれないかと、この朝もう一度ダメ元で、夫と知子を見送ってからユキと二人でここに動かしたのだった。

ハウスは半年ぶり?.jpg

小屋に入っているチャッピーを発見してから4時間経っても入ったままだったので、まさか・・と心配になって出て見るとチャッピーはウロウロしていた。毛が濡れていたから濡れたまま寝ていたのだ。拭いてやったが、この頃は念入りに拭かせてはくれない。

E79C9FE5A49CE4B8ADE381AEE3818AE9A892E3818CE3819BE38381E383A3E38383E38394E383BC-6e1ef.jpg9月初め(3日?)の雨の降っていた夜中のこと、チャッピーが長い間鳴いているので夫が目を覚ました。裏庭で鳴いているのを突き止めて、懐中電灯を持って見に行くと、またしてもこの1月に落ちたところで鳴いていた。雨の中、夫は腹ばいになってチャッピーを引っ張り出したという。そのあとシャワーに入って着替えたというが、この夜は久々に熟睡できた私は全く気がつかなかった。

今ではもう散歩に連れて行くこともない。少しは歩けるのだが、すぐに歩かなくなって動かないのだ。裏へ行くことも全くなくなったのに夜に裏へ行っていたとは驚いた。

そこで次の日につなぐことにした。すると2時間も3時間も鳴き続け、玄関ポーチを降りたところでフンをしていた。しかも😠😠知子が踏んでしまったのだ。😵😵😵
ラティスで囲む.jpgそこで早速ラティスを買って柵にして自由にしてやったが、やっぱり長時間鳴き続けた。
雨が降っても小屋に入らないので、このようにスペースをウンと狭くしたがそれでも入らず、ラティスも1日で不要となって再び放すことにした。

チャッピーはまもなく16年と5ヵ月、犬の年齢換算表によれば80歳代どころか90歳代と示されているのもある。
もう半年以上も前から2時間でも3時間でも2〜3歩行っては戻り、2〜3歩行っては戻り、行ったり来たり、雨の中でもそのように徘徊し続ける。
時には夜中もしている。朝の目覚めも早く、私が目覚める5時半頃には既にウロウロしている。

昨夜は急速に発達する「爆弾低気圧」で暴風雨の予報が出ていたので、夕食後に知子と小屋を玄関のポーチに運び、遠くへ行かないようにラティスで柵を作った。

ところが雨が降ってきてもチャッピーは小屋に入らないで、小屋のすぐ前で丸くなって寝ていた。小屋に入るのをを忘れた老柴犬は哀れ。

夜半、ベッドの中で雷鳴と窓に打ち付ける雨の音がした。チャッピーはどうしていたのだろう・・・
早朝には雨は上がっていたが、夫が新聞を取りに行くとチャッピーは柵はそのままで、行き止まりにしていた植木鉢を倒して出て行き、門の近くで丸くなって寝ていた。毛の深くまで雨を含ませて。それでも元気よく朝の餌に飛びついた。

もはや小屋に入れる方法もなく、夕方再び小屋をもとに戻した。肩の腱板断裂の痛みを感じつつも一人で容易にできるようになっている。
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9月15日:チャッピーのいる庭
シュウメイギクとチャッピーと

posted by 優子 at 17:46| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2015年10月01日

知子の魂は自由になった!

今年の7月と8月は知子の苦悩がどん底に達した時だった。神さまから送られた助け人が関わってくださった時でもあったが、次女夫婦が帰国していた時に行った淡路島でも知子の写真は1枚しかない。

この3年半を振り返っても理不尽極まりないことの連続で、私もまたその混沌極まりない考え方と心情が理解できずに苦悩し続けているが、時には心を尽くして頑張っている知子に憤りをぶつけることもあった。

「突き抜けよ」。

「ただ見て通り過ぎよ」。


私の百戦錬磨の30代後半からの10年間、その最も耐え難い苦悩の底に在った時は、このヒルティの言葉に強くされてついに通り抜けることができた。
その偉大な先人の言葉も伝えているのに、なぜ知子はいつまでも常軌を逸した非道な人間に縛られるのかと憤ったのだ。人ではなく神への絶望ではないのかと。 


7月8月、知子はあまりに変わらぬ現実に信仰を奮い立たすこともできなくなって弱り切っていた。

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、砦である」。 (詩篇91:4)

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたをうつことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない」。
 (詩篇121:5,6)
 
知子は卓上カレンダーにある7月8月の聖句を読んでも「そうだろうか」と冷ややかに見つめ、ついにはみことばカレンダーを机の引き出しに入れたという。

ブログで書けるのはこれが限界ゆえに、これをお読みくださっている方々には何のことなのかお分かりにはならないだろうが、知子自身の欠くことのできない記録として以下のことを記録したい。それは知子のことを背後で祈ってくださっている方々への感謝の報告でもある。

美濃紙業では毎月初めに朝礼がある。知子は今朝の朝礼で連絡事項だけではなく、力を注ぎ出して会社の現況と今後のこと、そして、自らの信条なる希望のメッセージを語った。

そして一息ついた午後4時、知子は卓上カレンダーの10月を開いてみことばを読んだ。それは神の臨在を感じさせる神の絶妙なる時に与えられた神の慰めと励ましだった。


      野の木は実をみのらせ、
      地は産物を生じ、
      彼らは安心して自分たちの
      土地にいるようになる。

          (エゼキエル書 34章27節)

続いて11月のみ言葉も読んだ。

      わたし(神)があなたがたのために、
           天の窓を開き、
        あふれるばかりの祝福を
       あなたがたに注ぐかどうかを
           ためしてみよ。
           
           (マラキ書 3章10節)
  
知子にとって「彼ら」、「あなたがた」とは社員のことである。

私はこれらのことと共に、この1ヶ月間に知子がやってきたことを聞き、夜遅くから今日の記事を書き始めることになった。

知子の魂はついに突き抜けた。常軌を逸した非道な人間の足かせから解放されて気高い魂は自由になった。これからも苦労は尽きないが、いよいよやりがいを感じる苦労の段階に入ったのだと固く信じる。

「この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです」。
        
                (ローマ人への手紙5章5節)

" Now hope does not disappoint, because the love of God has been poured out in our hearts by the Holy Spirit who was given to us."

posted by 優子 at 22:46| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする