2016年01月31日

経済学者が語る「日本の戦争と平和」 −浜矩子 講演会 A−

浜矩子.jpg「国会の機能を失った今、日本の民主主義を守るためにはもはや国民の力しかない。国民でしか暴走を防ぐ手立てはない。」と、平和と経済の関係を語られた85分間は一瞬も退屈させなかった。
残念ながら撮影禁止で表情を記録できなかったが、テレビで見知っていたとおり他者の声を傾聴できる人物だった。

以下は私の聞き書きである。

平和と正常な経済の関係から、日本においてどのような問題が発生しているのかを整理して、どのようにやっていけばよいかを考えたい。

まず「アホノミクス」の「アホさ」の真相はどこにあるかを考える前に、その大前提として経済活動とは何か、経済と平和の関係を認識する。

経済活動は平和が成り立っている状況の中でしか成り立たない。平和を共有しているという前提でしか成り立たない。

経済活動は人間の営みであり、経済活動の営みは人間にしか存在しない。経済活動と人間との間に存在するものである。

従って経済活動は人間を不幸にすることはないはずであり、不幸にしてはいけない。人間を不幸にする側面をもっているのは経済活動ではない。

従って戦争を引き起こすために使われる、また、経済活動を活発にするために使われるというのは妄想である。最も人間を不幸に陥れる経済活動は全く成り立たない発想であり、人口に膾炙する「経済合理性」という言葉ほど誤用されている言葉はない。

「経済合理性の観点から考えると原発再稼働はやむなし」と言われたり、「倫理的観点からいけなくてもブラック企業が出てきたりする面もある」などと。

原発という技術がどれほど人間を不幸にするか。人間の命を危険にさらす技術には経済合理性は全くない。人間の基本的人権の第一に出てくるのが生存権である。

「ブラック企業」とは問題の本質を的確に言い当てた言葉であるが、「企業」とするのは本質的な問題がある。つまり本質的な定義矛盾があり、「ブラック」で言い終わるべきである。「ブラック」なるものが企業経営とは認められないからだ。

≪経済と成長の関係≫
経済は成長しないといけないという考え方があるが、経済はいつもいつも成長していなければ死に至るものではない。

成長することは重要な要素であるが、経済がどうしても成長する必要な場面は2つある。

@これから全てが始まろうとする時
Aこれまでの全てを失ってしまった時

この2つの場面以外の状況においては必ず成長していなければならない場面ではない。

即ち@は、若い経済、幼い経済で、大急ぎで経済を活発にさせて人々の生活の基盤を整えていかねばならない。

Aは敗戦直後の日本、焼けあと経済と化してしまったあのような時は、ドンドン投資をし政策を投じて傾斜生産方式(priority production system)でやった。

では翻って日本経済はどうか。
成長ではなく豊かな経済のただ中に貧困があり、今の日本は豊かさの中の貧困問題こそが最大の問題である。富の分かち合いの下手くそさ。彼らはそこに目を向けない。

「成長」という言葉に事程左様(ことほどさよう)に成長神話に弱い。そこで私が気が付いたことを共有させてもらいたい。

「成長」(growth)という言葉自体に「進化」「より良い状態に上がる」「レベルが上がる」という意味が含まれている。
しかし経済活動に関する限り、そのようなニュアンスは全く無く、単に規模が大きくなることを言っているだけである。 

経済活動に「成長」という言葉はやめ、「経済成長率」ではなく「経済拡大率」と言っておくとよい。この言葉により成長神話に振り回されなくて良いのではないか。

                        −つづく−

posted by 優子 at 08:49| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2016年01月30日

経済学者が語る「日本の戦争と平和」 −浜矩子 講演会 @−

いかるがホールへ.jpg自宅から自動車で30分ほどのところに法隆寺があり、今日はそこから1キロ余りのところにある「いかるがホール」で浜矩子さんの講演会があった。


浜さんファンというのは私たち夫婦の僅かに有する一致点で、教会の友に前売り券を分けていただいて2人で参加した。

浜矩子・講演会.jpg

この講演会は奈良県の生駒と北葛城郡の「憲法9条の会」主催によるもので、大ホールの730席は満席で多くの人が階段にも座り、立って聴く人もあり熱気に満ちていた。

その殆どが60歳以上の高齢者で若い人は1人しか見なかったほど少なくてガッカリしたが、私たち高齢者こそが結集して政治をもとに戻す責務があると感じた。

今日の記事ではロビーで手にしたチラシに紹介されていた「自由と平和のための京大有志の会」声明書を転載し、明日より3回に分けて講演内容をお分かちしたい。

戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。

戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。

精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。

海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。

血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。

学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。

学問は、権力の下僕ではない。生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。


posted by 優子 at 22:56| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

夕刻、ユキと会社へ

今週初めより血圧が下がらず、28日を最終回にしようと思っていたリハビリもキャンセルした。29日はもっとあがり160にもなっていた。この日は所用で夕方5時前に夫の会社に出向くことになっていた。

しかもまん悪く同じ日に重要な用事が重なった。
午前中に印刷屋さんから初校原稿が届き、すぐさま執筆者16名に原稿を振り分けねばならなかったので、頓服を飲むように指示されている限界値だが、頓服を飲んで体を休めることができなかった。

10時半に原稿が届き1時間余りで完了させて郵便局へ急いだ。お昼前の便に間に合った。

これでかなり安堵したものの、朝に降圧剤をふやしても下がらないので会社へは行かずにおくべきか迷った。眼底出血や結膜化出血を起こしては大変だし、かといって頓服薬を飲んでの外出も危険だ。

悩んだ末に神に委ねた。予定通り10分ほど早く下校するユキを迎えに行った。制服のまま宿題を持たせてすぐに東大阪に向かった。雨脚は強くなるばかりだった。
このことについては2月1日の記事に刻みたい。


ママの机で@.jpg小さな社員さんやね。
ここはママの机で、机の前にはユキが折った袴をはいた「やっこさん」が2つあった。




ママの机でB.jpg宿題をしていたのは最初の数分間だけで、結局宿題を持って行って持って帰っただけだった。




ユキが作ったペン入れが!.jpg「ここもママの机だって。こんなところにユキがおばあちゃんと作ったペン入れがあるよ!」

右側には「みことばカレンダー」もある。


良輔の机.jpg

雨風でボトボトになった防寒着も23度の室温で
すぐに乾いてしまった。

広すぎるオフィス@.jpg
広すぎるオフィス。

別れ.jpgこの日、Y常務が完全に退任された。勤続41年だった。

美友会から花束と寄せ書きを贈り、3階の人たちでお見送りした後、私たちも会社をあとにした。



posted by 優子 at 21:05| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

『種を蒔く』第3号出版に向けて今日から再開

日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックの『種を蒔く』第3号の初校原稿を昨年末に印刷屋さんに入稿し、2月の例会直前に納品の予定で動き出していたが、今年になって3週間中断し、ようやく今日再開するに至った。

今回は最終の編集責任を務めさせていただいているので、12月から用事をためないことや体調管理にも格別の注意をしているが、今日の印刷屋さんと再度打ち合わせでは、29日午前中にはゲラ刷りが送られてくるとのことでいよいよ忙しくなる。

私はそれを各執筆者それぞれに送り、赤字で訂正して付箋をつけて送り返していただく。執筆者による校正はこれを最後とし、今回は印刷屋さんと2回のやり取りで校了とする。2校目は私の目のみで行って印刷屋さんへ送ることになっている。

当初の予定では2月の例会前日には各自に配達(納品)されるはずだったが、今からだと2回のやり取りを終えて2月9日に印刷屋さんに必着しなければならない。

それはかなり難しいため執筆者各自に到着は早くて2月末になるのではないかと思う。こうして出版へ動き出したことを心から感謝し、このたびの多くの学びを今後に反映させていきたい。

このたび執筆されなかった方々も全ての関係者に神の祝福を祈ります。そして、この文集を神さまが祝福してくださって豊かに用いてくださいますように祈ります。

先ほど事務局から2月の例会案内が届きましたので、ここに転載させていただいてご案内し、クリスチャンの方でご関心のある方は是非一度お訪ねください。

ブログ画面右側にあります「お気に入りリンク」の「日本クリスチャンペンクラブ」のHPにも案内されていますのでご覧ください。

日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック 例会のご案内

日 時
  2016年2月20日(土)例会 午後1時30分〜5時
                    
場 所  日本キリスト教団 千里ニュータウン教会
       〒565-0861 大阪府吹田市高野台3丁目20−7   
       п@06−6871−2519

交 通 阪急・梅田駅より北千里行き乗車(20分間隔で発車)
    「南千里」下車。
E58D83E9878CE3838BE383A5E383BCE382BFE382A6E383B3E69599E4BC9AE291A0.jpg階段を降り、交番所の前のバス停で乗車(どのバスでもよい)約5分「佐竹台五丁目」で下車、徒歩7分。中学校のグラウンド前の坂道(北方向) 坂の上の角の教会。

タクシーは南千里駅よりワンメーター「高野台五丁目角の教会」。
途中で昼食をなさる方は、大阪駅・梅田周辺または南千里駅・ガーデンモール2階にもあるそうです。
阪急・京都方面は「淡路駅」、神戸方面は「十三駅」でそれぞれ乗り換え。    

参加費  500円(当日会費)

プログラム  
〇開会祈祷    1時30分〜1時50分   

〇メッセージ    東 道男先生

〇第1部 講演  1時50分〜3時20分

演題:  遠藤周作『沈黙』論 
     ―<ペドロ岐部>との関わりを中心に―

講師:  長M拓磨さん(京都外国語大学准教授) 
    
休憩  お茶会と会員紹介  3時20分〜3時30分

〇第2部 あかし文書発表    3時30分〜4時30分
テーマ:戦後70年をおぼえ記念としての課題など。または自由課題 。 
本文2000字以内(文集にしたとき2ページ分に相当します)のものをご用意ください。後日、文集にします。(当日ご用意いただく場合は、各自で10部コピーして来てください。)

相互講評   指 導:大田正紀先生
               
〇第3部 今後の歩みについて 4時30分〜5時00分  報告・連絡など


出 欠  出欠のご返事は、2月14日(日)までに、下記原田までご連絡ください。
※ 連絡先はJCP(日本クリスチャンペンクラブ)HPに掲載しています。

持参品 ・讃美歌225(すべてのひとに)
     讃美歌21 57(ガリラヤの風かおる丘で)の楽譜。
                    以上

§年会費の納入は、会計(藤本優子姉)までお願いします。
§今年もあかし文集「種を蒔く」第3号の発行をすることができました。感謝です。
原稿を寄せていただいた皆さん、編集に多大のご苦労をおかけした委員の皆様に深く感謝申し上げます。

posted by 優子 at 23:56| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

大寒波襲来の朝、聖日礼拝で祈る 

2014.2.14.jpg今朝こそはこんな景色を想像していたが、これは2014年2月14日の雪。
この1か月前は寝たきりになっていたとは思えないチャッピーの姿だったが、今は本当にいなくなってしまった。
チャッピーが死んで2ヶ月経った。もう2ヶ月経ったのかという気持ちと、まだ2ヶ月しか経っていないのかという気持ちが入り混じっている。

さて数日前から歴史的な大寒波襲来で、「翌朝はきっと雪で真っ白だろう」と思って目覚めた昨朝も今朝も雪はなかった。

奄美大島では115年ぶりの雪が降り、石垣島では海水温が低くなりすぎて仮死状態の魚が浜辺に打ち上げられ、台湾で積雪という驚くべき寒波だ。

先週末から知子は私たちのために暖房を切らずに家を出、昨夜は早朝にリビングの暖房が起動するように予約設定をした。こんなこと我が家では初めてのことである。

大寒波に見舞われている北米では、先週末にアメリカ連邦政府が「22日の午後3時より、政府機関の閉鎖を発表し非常事態宣言を出した」と報じていた。予報通りの大雪でニューヨークで68センチ、ワシントンも60センチの積雪とのこと。

次女夫婦と今日のお昼前(ワシントン時間24日夜)の電話では雪は止んだと言っていたが、積雪のため明日(月曜日)も休日だそうだ。どんなに文明の利器に囲まれていても、雪で都市の機能が止まってしまうというのは考えさせられる。

歴史的大寒波でも雪降らず.jpgここ奈良も今朝は−5度まで下がったが、晴れていたので午後の室温は19度になり、昨日同様に午後の4時間ほどは暖房が不要になった。
これは昨夜のうちにチャッピーの食器に入れておいた水が凍ったものだが、ユキは学校から帰るなり「○○がこんな大きな氷を持ってきた!」と、12センチほどもある分厚い氷を持ってきたことを熱く語っていた。

昨朝は−2度で最高気温も2度止まり。教会の帰りでも−1度の寒さだった。その朝の礼拝で今年度最後の司会を務めさせていただいた。唇に出た祈りを思い出して刻んでおきたい。祈りこんで臨んだ聖日の朝だったから。

恵み深い天の神さま
今朝は雪の予報でしたが雪も降らず、教会に集うことができましたことを感謝します。こうして愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたのは、私たちにとりまして特に意味があると思います。

ずっと冬枯れしてしまいそうな厳寒の日々ですが、そんな中にあってモクレンや桜は新しい蕾を膨らませています。自ら咲く季節を知り、その時まであなたが命を育んでおられます。

私たちの霊も冬枯れすることなく、あなたからの息吹をいただいて霊性をゆたかに養ってください。

おお父よ、あなたは全知全能の神ゆえに、私たちの思いや願いを越えて働かれる方です。神の恩寵をわかる者とされて生かされていることを心から感謝します。

しかし、私たちは恵みの中に生かされていながら、実に不肖なこどもです。あなたを失望させるばかりの者です。

あなたが払って下さった犠牲がいかに莫大なものであったかを思いますと、あなたの御前にただただひれ伏すばかりです。滅びでしかなかった私たちを救い出してくだったことを、今一度骨の髄までわからせてください。

私たちは祈りの中でさえ罪を犯すものでありますから、今祈らせていただいているこの者が罪を犯すことがありませんように。

病床にある方、苦しんでいる方、悩んでいる方、不安の中にいる方、痛んでいる方、すべてあなたがご存じでいてくださり、いつも傍にいてくださっています。どうぞそのことを知らせてあげてくださり、主の平安を賜りますように祈ります。

bible1.pngそして、私たち一人ひとりを強めてくださり、どんな時もイエスさまを信頼して進ませてください。

どうぞ馬見労祷教会に神の臨在がありますように祈ります。全国に立てられている全ての教会の上に神の臨在があり、御心にかなう教会でありますように祈ります。

これから語ってくださる○○さん(信徒説教)に豊かな聖霊を賜り、聴く私たちにも聖霊さまが豊かに行き交ってくださいますように。

このお祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げします。アーメン。


posted by 優子 at 21:12| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2016年01月21日

「生きることは愛すること」 

晩年の湯浅八郎を12チャンネル(教育テレビ)の番組で見た時に、彼が提唱した有名な「生活信条」を知った。

          湯浅八郎の「生活信条」

      生きることは、愛すること
      愛することは、理解すること
      理解することは、赦すこと
      赦すことは、赦されること
      赦されることは、救われること
 

いつの時代も多くの困難があり、いつの時代も世の為に尽くした人々が居た。私は現代の出来事や日常生活の問題で悶々とするとき、私の精神はいつも先人たちの生きざまから力を与えられてきた。

その中でもカール・ヒルティや森 有正に依拠することが多いが、湯浅八郎もその1人である。
残念ながら湯浅氏と会ったことはないが、大学1回生か2回生の時に湯浅氏の講演内容の文字起こしをさせていただいたことがあり、彼の弾むような声は今も耳の奥に焼きついている。

それは1回生の一般教養で国際理解教育を受講したことに始まる。
国際理解教育は当時生まれた新しい学問で、その宿題に国際理解に関する書物を読んで感じたことを書くという、私の得意とする領域内のことだったので大いにやる気を出してやった。

「国際理解」もまた人間の問題であるから、文学作品はもとより岩波新書や中公新書などが取り上げている広い領域のものが対象となる。

私は早速高校時代に読んだもので印象に残っているものを取り上げて5〜6冊分提出した。牧野博彦教授はそれに注目してくださったのだと思うのだが、「成績が優秀だから」と国際理解研究所の研究補助員に任命してくださった。

それは2回生の春だったと思うがよく覚えていない。同研究所の出版物には名前が掲載されていたこともあり大切に持っていたが、つい5〜6年前にそれらの冊子や資料も全て処分してしまって今はない。

その補助員としての最初の仕事が、湯浅八郎氏の講演内容の文字起こしだった。
余談になるが、その後はいくつかの会議に同行させてくださり、会場の受付では18・9歳の私でも知っている関西電力や山中大仏堂など・・・大企業の代表者を目の前にして興味津々だった。

その上に思いもしない報酬をくださり、「僅かだから1回ボーリングしたら無くなってしまうけれど」と、5000円を2度ほどいただいたことがある。

本論に戻そう。
湯浅八郎.jpg湯浅八郎は、実業家・政治家の父・湯浅治郎と、徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である母・初子の間に生まれた同志社にゆかりのある人物だ。

湯浅氏は同志社中学校時代に落第していて、それをユーモアたっぷりで語っていた。その録音テープを傍で聞いていた母も笑っていた。

中・高時代の私は全く勉強嫌いの成績不良生で母を悩まし続けたので、湯浅氏の話は母の慰めとなり私の未来にも希望を感じてくれたのかもしれないと、勝手なことを思ったものだ。

その後もこうして不発に終わったが、母の報われなかった願いは学業優秀だった我が娘たちが叶えて両親を喜ばせてくれた。

湯浅八郎に影響を与えた新島襄が目指した教育とは、
「個人が全体に無批判に従うのではなく、個人が連帯して全体を変えうる力をもち、またそのような権利を神によって与えられていること(自然権)を自覚している主体的な」人物の養成。

「政府の政策を時には批判し、修正を求める勇気と見識を持ち、場合によっては体制の変革を求めて自ら実行するような人物であった」。

        (同志社のHP「新島襄と同志社」より)

湯浅は1935年〜1941年に同志社の第10代総長に就任したが、「新島襄以来の同志社独自の教学精神を貫こうとした」ために「軍国主義に傾倒する当時の政府・軍部と対立し」て辞職。
その後、米国へ渡り各地で講演して回り、日米開戦後も米国に留まる筋金入りの人物だった。

戦時中も日本に留まった同志社のデントン女史と、米国に留まった湯浅八郎。感慨深い。

その後再び1947年〜1950年に第12代総長に就任し、同志社大学や「戦後の同志社諸校の土台作りに尽力した」。

そして、国際基督教大学(ICU:International Christian University)設立準備に入るため1950年に同志社総長を退任し、国際基督教大学の礎を築いて初代学長に就任。1981年に91歳で召天。

こういう信念のある信仰者を思い起こすことで私の霊性が強くされる。
私は神の側につくのか、人間の側につくのか。
つまり、私は神を恐れるのか、人間を恐れるのか。

あるいは、神への揺るがぬ信仰に立たされて、そこに留まれと言われるのだろうか。私に「修正を求める勇気と見識」はあるやなしや?!
祈ろう。



posted by 優子 at 23:31| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2016年01月17日

広岡浅子の生きざま

現在放送されているNHKの朝ドラ「朝がきた」も広岡浅子の後半生に入り、まもなく村瀬仁蔵(梅花女学校教師、校長。日本における女子高等教育の開拓者の1人、日本女子大学の創設者)との出会いに移っていくのだと思う。このエピソードこそが神の最たる摂理だったのではないかと思う。

その頃の浅子は実業家のかたわら、日本の女子教育を憂いて改善の必要を説いていた。九州の炭鉱事業に関わりながら成瀬の著書を熟読し、大いに賛同して日本女子大学校創立発起人となって5000円(現在の1億円くらいか?)もの大金を寄付した。

実業家として成功した財を「ここぞ!」と思った時に大金を捧げた浅子。その生き方に強く心を打たれる。
神より受けた恵みを他者のために捧げる、こういうことができる人こそが生きる意味を本当に知っている人だと思う。

そして、その支えは経済面だけではなく、たびたび東京に足を運んで計画や事業内容にも奔走した。

幕末、明治、大正時代の近代日本を駆け抜けた広岡浅子は、常に誠実に精一杯を生きた。村瀬仁蔵との出会いにより還暦を過ぎて洗礼を受け、クリスチャンとして新しい生涯に入ってからの『一週一信』にはこのような証しを書いている。

私は45、6年の間というものは非クリスチャンとして種々なる社会、ありとあらゆる困難と誘惑多き境遇に処してきたのであるが、今はこの間の長い活動の生涯を回顧してみると、いつもきわどい所から救い出されたと思う節が数限りなくたくさんにあるのである。

脱線し転覆しようものなら、一身のみならず一家一族をも滅ぼさなければならなかったような危ない所から救い出されたことは、今数うるにいとまないほどたくさんあったが、その度毎(たびごと)に一道の光明を見出しては進み、雲霧を排しては方針を立てていくことができた。

かくて老年になるまで続け来たった努力の跡を見る時に、非クリスチャンなるわが身の上にも、優渥(ゆうあく)なる天父の御恵(おんめぐみ)の至らざるなきに感泣するのほかはない。

どうしても、人間の力で切り啓(ひら)かれないような時にも、何ものかに支えられて正しい道を歩んで来ることができたことを今から思うと、神の御導きでなくばできなかったと感謝のほかはない。

クリスチャンになってからの伝道活動も猛烈だった。浅子自らがつけたペンネーム「九転十起生」にその気魄が溢れている。

浅子の最期の病床を見舞った山室軍平は、「九転十起生」から「箴言」24章16節を朗読して祈ったという。
「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、
 しかし、悪しき者は災によって滅びる」。

現代のクリスチャンたちも、先人たちの気魄をもって信仰の歩みを闊歩したい。


posted by 優子 at 23:20| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年01月16日

ユキの『どこでも行ける電車』と今関信子さんの『行きたいところへ行ける汽車』

先週の土曜日(9日)、ユキはママと二人で市民図書館へ行き、自ら選んだ本を2冊借りてきた。その時、私がリクエストしていた今関信子氏の『行きたいところへ行ける汽車』 も貸りてきてもらった。

そして今日、ユキは読み終わった本を返し、ユキの名前で図書貸し出しカードを作ってもらって、今週は5冊借りてきて早速読み始めた。来週も図書館へ行くならば我が家に読書ブーム到来か!

このタイトルを見た瞬間に、ユキの作文「どこでも行ける電車」と重なった。

『行きたいところへ行ける汽車』は、クラスのお友達との関わりの中でいろんな感情が新しい局面を開いていき、物の見方や考え方を体得していくことが描かれている。
そしてタイトルから想像させたとおり、こどもたちそれぞれが大切な人に会いたいと思うエピソードが書かれている。


たみちゃんは、たみちゃんが小児麻痺になって歩けなくなってから帰って来なくなったお父さんに会いたい。汽車に乗っておとうさんのところへ行きたい。
春夫くんにも行きたいところがある。天国へ行きたい。春夫くんをうむとすぐ死んでしまいまったおかあさんのいる天国へ。
「ひみつの汽車は、みんなを行きたいところへつれて行ってくれる汽車です。だから、だれだって、乗りたいと思います」。 

そして、ユキの『どこでも行ける電車』はこうだ。

自分が行きたいと頭で考えて、「家のまえ」という駅の屋根を支えてるところに触れたら、線路がかわって電車が来る。

そして、電車のドアがあいて、その中には11月24日に死んだ「家のチャッピー」が絶対に乗ってて、遊んで、そして行きたいところに着いたら、電車は宇宙に返っていきます。
この電車に乗ったらアメリカにも行けます。

チャッピーは宇宙に居て、チャッピーが乗っている電車が来たら、ユキの行きたいところに行って、行ってる間もユキはチャッピーと遊んでいて、行きたいところに着いたら電車はまた宇宙に戻っていく。

家に来た時はチャッピーは庭で遊ぶし、元気なチャッピーになってるからすごく早く裏へ走っていくよ。そして、この電車があればアメリカにも行けるよ。だからマチとフーにも会いに行く。

そして行きたいところへ行ったらチャッピーが乗ってる電車は宇宙へ戻っていく。

チャッピーが75%腎不全とわかった日.jpg私は改めてユキの想像力と、その根源となっている豊かな感性に感動を深くた。
そして、チャッピーのことが思い出されて悲しい。
チャッピーはいつもここに居たのにね・・・


いつだったか屋根を支えてるところに触れたら、天から光輝く線路が下りてきて電車が到着して・・・私はしばらくチャッピーと遊んでいた。
また、屋根を支えているところを触ってチャッピーを呼ぼう。

附記:先週の土曜日に続いてユキは皮膚科へ2度目の治療に行った。

左足の裏に痛みがあり魚の目かと思って受診したら「ウィルス性イボ」と診断され、−196℃の液体窒素凍結治療を受けている。先週は4週間かかると言われたが、もっとかかるかもしれないそうだ。

学校で感染してきたというから多目的室だろうと思う。私も入学前の説明会に行った時、初めて多目的室に入ったが、コンクリートの部屋に敷物が敷いてあり不潔だろうなと思った。ユキはくさい臭いがすると言っている。

私は我が子の子育てのとき同様に、家へ帰ったら必ずナイロンタオルに石鹸をつけて足を洗わせている。幼稚園の時には私が洗ってやっていた。

多目的室や図書室へはスリッパか何か与えたいのだが、子どもたちが個々に「どうして?」と聞いてくるから嫌だと言う。ユキの気持ちも無碍にできずこれまで通りにするしかない。


posted by 優子 at 21:24| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

リハビリの帰り道、真冬の景色にカラスと菜の花

昨年3月13日に右肩の腱を断裂し、その2か月後からリハビリを受けている。平均して月3回しか予約を取ることができないので、今年初めての昨日は23回目だった。

私が受けているリハビリは理学療法士自らの手による運動療法で、まず患部を10分間ホットパックで温めてからベッドに横になって受ける。
最初は医師に言われるままにホットパックに続いて電気を流したが、非常に不快感が強く血圧に異常を感じたのでやっていない。

リハビリのカルテには「ROM」「伸張」「筋力」に印が入っている。
ネットで検索すると「ROM」とは「Range of motion」の略で、「関節可動域」の意味だという。そして、伸張(ストレッチ)して筋力強化運動の3種類を受ける。
時間にして30分、治療費は730円、これに医師の診察を受けても同額であるが、今では3ヵ月に一度受診する程度だ。

今回は3週間もリハビリが空いたので、それで調子が良ければ今回で終わりにして様子を見ようかと思ったが、やはり受けた後は非常に楽になったので2月いっぱい続けようと思う。

大みそかにした換気扇の掃除も、あのような怪我をしたとは思えないほど平気だった。しかし、いつも療法士さんに指摘されるように、今も肩の関節を開くことができないので「バンザイ」ができない。
また腕を高く上げようとする時、胸の筋肉で助けようとするので、そのうち右鎖骨付近の痛みが出てひどい肩こりにもなる。

これが回復の限界なのかもしれないが、まだ痛みがあるので回復の可能性もあるだろうとのことだ。このような怪我をすると痛みのために体がいびつな形で固まってしまう人が多いそうだが、幸い私はなっていないと言われて嬉しかった。

7ヶ月過ぎた頃から右側に寝返りもできるようになり、きっとその頃からユキを見送る時も右手を振っていたのだと思う。腕は90度しか上がっていなくても。

怪我をした当初どうなることかと思ったが、こんなに回復して本当に感謝している。どの病気も怪我もみんなこのようであればいいのにと、いつも病床にある方々を思う。


リハビリの帰りはパン屋さんという大きな誘惑が待ち受けている。昼食のサンドイッチ(高脂血症なのに卵サンドが大好物)やユキのおやつだけではなく、歩いたご褒美にとパイなど甘い物を買ってしまう。これではせっかく往復1時間歩いても何にもならない。

そして、再び祈りながら、いろんなことを神さまと対話しながら歩く。それも楽しみの一つでもある。クリスマスの前、朝日を受けてキラキラと葉を落としていた木々もすっかり裸になっていた。

リハビリの帰り.jpg

そこにカラスが鳴きながら飛んできて枝にとまった。

カラス君.jpg「おーい、カラス君よ!
いつも悪者あつかいにされて気の毒。カラスだって精一杯生きているんだから嫌ったらかわいそう。
これから友だちになってねー。
元気で長生きするんだよー」


カラスにも思いがいくのもチャッピーのおかげ。ありがとう。

数日前に特派員がワシントンも4日から寒くなったと言っていたが、こちらも新学期が始まった日から一段と寒くなった。それでもワシントンの比ではないが、昨日の最高気温も8度しか上がらなかった。

それでも風がなかったので、初めてリハビリの帰りに少し遠回りしてチャッピーと歩いた砂利道に入って行った。

鮮やかな真冬の黄色.jpg
これは菜の花? 何て鮮やかな黄色だろう!

あるいは何かアブラナ科の植物が長けたあとの花なのだろうか、あの時のようにやっぱり鮮やかに咲いていた。

私はこの景色を見たくて砂利道に入った。
真冬の黄色.jpg

チャッピーとよく歩いたのはユキが来る2009年3月までだったから、もう7年も前のことになる。遠くに見える柵の向こうには池があり、あの頃この土手もよく歩いたね、チャッピー。
チャッピーのおかげでこの地も私の故郷になっていた、第三の故郷に。

チャッピーが居なくなって50日。


寒さはもっと厳しくなって週明けまで続くそうだ。

posted by 優子 at 23:21| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年01月12日

西口孝四郎氏が感じた谷崎潤一郎と松子夫人の「欠落の章」

昨年の1月7日の記事、「谷崎潤一郎の恋文 ―丁未子と松子への文章酷似―」に掲載したかった写真が見つかったので追記した。

西口孝四郎氏.jpg左から西口孝四郎氏、谷崎の3番目の妻・松子夫人、その妹・信子さんである。

西口氏は根津家の別荘の石燈篭とつくばい(手洗い)を発掘され、更に、石段、別荘の石段、木津家(木津家は根津清太郎の母親の実家で根津家と関係が深い)の碑、稲荷社などを発掘された方である。

それらを1987(昭和62)年に、芦屋市が建設していた谷崎記念館完成セレモニーで松子さんに見せたところ、
「一瞬、松子さんはハッとしたようで、『まだこんなものが残っていましたか』」
と、それらの写真を食い入るように眺めていたと記しておられ、
「”思いがけないものに出合った”という強く驚いた様子から、私はやはりここは谷崎と松子さんにしては、生涯の中で『欠落の章』にしておきたかったのだ―いやしてしまっていたのだということを、強く感じた。」
と書いておられる、まさにこれがその瞬間の写真である。

この写真は西口氏のウタ子夫人が撮られたのではないだろうか。いつもご夫妻ご一緒だったから。
ご関心のある方は是非ここをクリックしてお読みください。

posted by 優子 at 23:19| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

チャッピーのいない3学期の始まり −メジロがミカンを食べにきたよ!−

今年もミカンを@.jpg冬休み最終日の6日、今冬もユキは木の枝に小鳥のためにミカンを置いた。


今年もミカンをA.jpg








その日、小鳥は一羽も来なかった。


メジロが来たよ!@.jpg翌日、最初にヒヨドリが来て、ついに待望のメジロがやってきた!





ゆっくりおあがり・・・
メジロが来たよ!A.jpg

ヒヨドリが来た.jpg→これはガラス越しに写したもの。
年末にユキとおじいさんがきれいに掃除をしてくれたので外に出て撮ったように写っている。

小鳥たちを見ているとチャッピーのことが思い出されて悲しい。


6日の朝は夫と知子をパジャマのまま見送ってから再びベッドに入った。血圧が高かったこともあるが、ユキが「冬休み最後だから寝たいだけ寝る」と一人前なことを言っていたからだ。そして二人とも9時までねばっていた。

その日、「学校 嫌やな」「学校 嫌やな」と何回言っていたことか。(^0^)
2年生の夏休み終了直前に発症した「学校 嫌や病」は、勿論学校が嫌いなのではない。長期の休みが続いたあとに感じる自然な思いだ。
特に冬休み明けの嫌さは万人共通ではないだろうか。ユキもイッチョマエになってきたと私は微笑んで聞いていた。

始業式の朝、ユキは感心に寝坊せずに起きた。
そして、「学校 楽しかった!」と帰ってくると思っていたが、少々違っていて「学校はふつう」と言った。これもまた良し。しかし夜には「学校 超たのしい!」と言っていた。

午後はお友達と2時から5時まで遊ぶ約束しているからと、嬉々として公園へ行った。その間ずっとサッカーをしていたそうだ。

こうしてユキの3学期がスタートした。2年生もあと少し。
知子は早くに家を出て見送ることができない日が多くなったけれど、ユキは今朝も笑顔を輝かせて、いつものように何度も何度も見えなくなるまで振り返って「行ってきまーす!」と言って登校した。

「ユキ、良い一日をね!」

私もいつものように大きな声で返した。
ユキの幸いな一日を祈りつつ。

出てきたピーを見る.jpgただこれまでと違っているのは、玄関にチャッピーの姿がないことだ。
いつもいつも、これからもずっとずっと玄関に居てほしかった。ずっとずっと一緒に居たかった。

チャッピーのいない3学期が始まった。
チャッピーに会いたいな・・・


posted by 優子 at 08:27| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

懐かしき友、懐かしき年末年始の光景

「学生時代の友人は、空白の時間があっという間に埋まってしまいますね。」と、ブログを欠かさずに読んでくださっている大学時代の友が再開メールに書いてくださった。

「昔、学生時代に優子さんと高野線の中で、『大晦日の雰囲気が好きやね』と話した事を覚えています。忙しい年末も母という頼もしい大黒柱が居た幸せな娘時代の事ですね。母は今の私よりずっと若かったのに、足元にもおよびません」。

そのような話をしていたことを私も覚えている。
Sさんもずっとお節料理を作っておられたことを知って嬉しかった。私のいだいているSさんのまま年を重ねてこられたことが嬉しいのだと思う。

私もSさん同様に今もお節料理を作っている。正確には母が亡くなってから作るようになり、ずっと今も変わらずお気に入りの純和風だ。

しかし、2014年の暮れに続いて今年はもっと簡素になってしまった。昨年よりももっと家庭に平和がなかったために心身共に余裕がなく、かろうじて、蓮根、ごぼう、人参、筍、里芋、干し椎茸のお煮しめと、あとは黒豆と虎豆を煮ただけだった。

結婚後の越年風景は仕事納めの夕刻から藤本の家へ行き、元旦の昼下がりに実家へ向かった。その数年後から31日は私がお節料理を作り、義母はその日の掃除をするという習慣になった。

夜は夫と義父の靴を磨き、義母に「アイロンをかけましょうか」と申し出ると、義父の分に加えて義弟の分も合わせて17枚も出されたのにはびっくりした。すでにその段階で疲労困憊していたのでなおさらだ。大晦日のお風呂はいつも午前0時前になっていた。

そして、元旦の夕方に実家へ帰った。両親は首を長くして私たちの帰りを待ってくれていた。途中で東大阪の自宅の郵便受けから年賀状を取りに寄るのも習慣になっていた。

実家に帰る時はいつもクタクタに疲れていて、ある年は声が全く出なくなっていたので、あの母が辛そうに「そこまでしなくてもええのに」と言ったことが忘れられず、「そうなのか・・」と思った。
今になって母の気持ちを慮(おもんばか)れるようになるとは情けない。

母はいつも私たち家族の分として別に四段のお重箱を用意してくれていた。このほかにもご馳走や子供たちへのお菓子をいっぱい用意し、他者にも同じように惜しげなくふるまえる心の豊かな人だった。

夫はその翌日に実家へ戻り、数日後に迎えに来くる。お正月に限らず、ゴールデンウィークやお盆休みなど、私はただただ実家に帰ることが楽しみだった。今思うと親子水入らずで過ごす数日間は私だけではなく、両親も楽しみにしてくれていたのだと思う。

しかし、母が60歳になった頃、進行性の難病を告知された。難病中の難病と言われている「ALS」とどこが違うのだろうと思うほど、脊髄小脳変性症もまた残酷な神経難病だった。

ある年のお正月、お雑煮の中に入っている野菜の切り方がいびつになっていた。どんなに悲しく衝撃だったことか!

その時から私は母に甘えるのをやめた。娘時代はよく手伝っていたものの、結婚して実家に帰った時は殆ど母任せだったから。

そして、その年からお正月道具の屠蘇器、重箱、雑煮椀などの漆器類や食器を片づけて帰った。「助かるわ」と、しみじみ喜んでくれた母の顔が今も鮮明に思い出される。
今、この私の傍に母がいて目と目を合わせて笑っていて、声まで聞こえるように。


その後、母の体はますます不自由になり、私は父を助けるためにも通院時の介助に加わり、年末から藤本の家へは行けなくなった。
30日の(お餅つき機で)お餅つきだけ日帰りで行き、元旦に新年の挨拶に行った。その夕刻に実家へ向かったが、その数年後にはそれもできなくなった。

あの頃はお正月どころではなく、「ただ月が替わるだけ」と自分に言って聞かせていた。

そんなわけで母が病んでから年末年始は嫌いになった。
年末年始の雰囲気が大好きだったのは母が元気だった時までだから、私が35〜36歳で、母が61〜62歳頃までだった。私も母と肩を並べることもなく、40〜50代だった頃の母の年齢もはるかに過ぎてしまった。

母が亡くなった3年9ヶ月後に父が亡くなってまもなく15年半になる。今では両親が居ないことにもすっかり慣れたが、やはり年末年始は嫌いだ。

実家へ帰るのが楽しみだった頃が懐かしく、私は家族がいてもさみしくて、独り住まいの人はどんなにさみしいことだろうと思うのが年末年始の心象になっている。


posted by 優子 at 11:21| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

神の祝福の中で新しい年を始める次女夫婦

次女夫婦も3日の礼拝で豊かに恵まれ、感謝と喜びあふれるメールを届けてくれた。まさに2016年のスタートにふさわしい「ワシントン便り」だ。

その日、真智は着物を着て行った。
母は私の嫁入りにたくさんの着物を用意してくれたが、そのほとんどが袖を通さないまま眠っている。次女はそれらの着物を喜んで着てくれている。

3日の礼拝に着て行った着物にはしつけ糸がかかっていたというから、40年を経て初めてしつけ糸が解かれて袖を通されたことになる。

今回は昨年の「ワシントン桜祭り」以来だから、着付けも忘れていたようだが、そりゃそうだろう。日常はIMFのエコノミストで頑張っているのだから何という非日常なことだろう。

そこで娘は重宝なインターネットなどで和服の着付けを調べて思い出し、「毎回くまにも感謝!」と、これまたIMFのエコノミストの伴侶である着付け師の協力を得て日本文化を体現したというわけだ。

同じアパートのアメリカ人も、「You look beautiful!」と感動してくれ、教会の人達もみんな寄ってきて、「本当に素敵!」と言ってくれたそうだ。

2016新年礼拝@.jpg「おばあちゃんのセンスは本当に良いね。
すごく嬉しい!

マミー.jpgお祈りのシェアの時に、おばあちゃんのことを話しました。

また天国で会えることを信じて感謝です」。 




2016新年礼拝A.jpg礼拝では「ただ主を」や「新しき地に」などを弾き、お祈り中は「神は愛なり」などを弾いたという。



2016新年礼拝B.jpg
ワシントン・インターナショナル日本語教会の西郷純一牧師ご夫妻と。
牧師御夫妻は真智子と太志にとって第二の父と母だ。
神に感謝!
上記教会の元旦礼拝で語られた西郷牧師のお説教を拝読した。詩篇126篇1〜6節、私たち家族にとってもタイムリーで絶妙なメッセージだった。

詩篇第126篇 1節〜6節:

「主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。

その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。

その時『主は彼らのために大いなる事をなされた』と
言った者が、もろもろの国民の中にあった。

主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。

主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。

涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。

種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」。


過去に対する感謝なくして前には進めない。

「解放の喜びは必ず実現する」と、そのことが起こる前にあらかじめ夢を持ち、人生にヴィジョンを持つ。その夢は「神様の言葉から生まれるもの」であり、罪と悪魔に囚われていた人々が、神様の下に帰ってくる夢を象徴している。

まず、夢を実現させてくださるのは神様だと信じること、主がしてくださると言う信仰である。

夢が実現するプロセスの中で、私たちは必ず困難にぶつかる。その中で、もし、自分の力で夢が実現できると思い、自分でやろうとしたら、必ず挫折する。

神様がしてくださると言う信仰こそが、そのような困難な中で、私たちに屈服しない力と希望を与える。

この信仰は、また私たちに、謙虚さを与える。夢が実現したとき、「これは私ではない。主がしてくださったのです」と謙虚に言って、栄光を主に捧げることができる。

新しい年も真智と太志君の上に主の祝福がありますように。
そして西郷牧師ご夫妻と、牧しておられる教会の上にも主の祝福を祈ります。

「ワシントン行き、実現したら嬉しい!
ミネソタ&サンフランシスコの時はママ達の結婚35周年、
マチ達の結婚5周年だったけど、ということは、今年はママ達の結婚40周年記念&マチ達の結婚10周年記念やね!
是非来て欲しいです!
最善な形で神様が実現してくださいますように!」


posted by 優子 at 15:12| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

年の始めの祝福

今朝の礼拝で敬愛する木ノ脇悦郎牧師のお説教を拝聴できるとあって、昨夜は翌朝目が覚めるのを楽しみに床に就いた。

毎月2回奏楽のご奉仕を務めさせていただいている知子は、新年の礼拝にふさわしい楽曲を思い巡らせ、「アブラハムの祝福 −年の始めに−」の説教題を心に覚えて選曲していた。

" lITURGICAL ORGAN−BOOKS(b)"(教会オルガン前奏・間奏・後奏曲集)から選曲したそうだが、荘厳で華やかな曲想は私の心を希望へと導いてくれた。

以下は木ノ脇牧師が話されたことで記憶しておきたいことを書き取ったものであるが、文責は私にある。順番が前後するがその最後に聖書箇所を掲げた。

講壇に立たれた木ノ脇牧師は新年の挨拶のあと、「皆様にとって、教会にとって、祝福される年であるように祈っています。」とのお言葉をくださりメッセージに入っていかれた。

神がアブラハムに与えた祝福が同じように私たちにも与えられているという、恵まれた確信をもって新年のメッセージにしたいと思う。

聖書の読み方で歴史が動いてきました。聖書の読み方で争いや分裂が生じ、その最たるものがプロテスタントの起こり(?)である。

「これはわたしのからだである」というイエスの言葉、「である」という言葉で大きな論争が起こり聖餐式をめぐって一致できなかった。

カトリックは「化体説(けたいせつ)」(パンとぶどう酒が完全にキリストの肉と血に変化するという考え)で、ツヴィングリは「わたしの体を象徴しているんだ」という理解であり、ルターは象徴ではなく「キリストが我々と共におられるということだ」というふうに、「である」という言葉一つで分裂を起こして教派に分かれていった。

現代においてもずっと聖書の読み直しが行われている。

1980年代、中南米で「解放の神学」が生まれ、韓国では「民衆の神学」、そして今は最後まで解放されなかった女性に焦点が当てられた「フェミニズム神学」、また、アジアならアジアの文脈で聖書を読もうと「文脈化の神学」が生まれ、それぞれの時代の中で何が最も有効であるのかを意識しながら読まれている。

パウロの信仰理解は、ユダヤ教の伝統の中で読むのか、あるいはイエスの贖罪信仰の中で読むのか、そこに大きな違いがある。

パウロはキリストの福音の立場で民族を越えた神の恵みとして聖書を読んだ。信仰の賜物としての霊の働きを大切にした。

ユダヤ人は選民思想を感謝すればよいが、選民意識が他を排除する。自分は特別だと言う意識がヘイトスピーチになって出てくるのも排除の論理である


パウロは、「信仰があれば誰でもアブラハムの子孫になれるのだ! 私にも及び、すべての人に及んでいく。それが創世記の信仰ですよ!」と語っている。

律法の不可能性はパウロが一番よく知っている。その祝福が霊の働きとして実現されていく。

時間が経つと人間は信仰さえも律法化してしまう。神の恵みを独占物にしてしまい他を断罪する。しかし、私たちは感謝を持続させるように願っていきたい。すべての人が神の愛、神の祝福の中に置かれていることを忘れてはならない

私はキリストの教えに生きるようになって画期的な価値転換が成されたが、それでも変わらない狭い心が今も残っており日々闘っている。

人はややもすれば心理的視野狭窄に陥るので、常に主イエスから目を離さないことだ。

これまでにも福音を自分だけの専売特許のようにしたり、あるいはまた、とんでもない聖書解釈を公言している人にも出会ってきたが、そのようにならないためにも信仰の友との分かち合いはとても大事だと思う。

この新年のメッセージを心の糧にして、私も大いに前進していきたいと意欲的である。

今朝の聖書箇所は「ガラテヤ人への手紙」3章1節〜14節:
ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。
あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。
御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。
このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。

いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。



posted by 優子 at 23:55| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

真智からのメッセージ・メール

今日は毎年恒例となっているお正月の集い(ただし2015年は私たちが行けなくなって実現しなかった)、神戸の従妹の家へお呼ばれに行った。
妹も元気な姿を見せてくれ、共に主に在る交わりの時を持った。神さまは一人ひとりに関わってくださっている。

真智子(次女)から12月31日未明に届いたメールの一部を同日記事に引用したが、そのあとには次のようなことを書いてくれていた。

私はその全容に深い感銘を受け、何度も読み直しているが、ここにも記録してお分かちしたい。

まち自身、日々の中で、イエス様を信じて海の上を歩いたペテロを何度も何度も思い出します。

イエス様の言葉を除いたら、なんて馬鹿で意味のない危険なことをしているのかという状況。実は人生はそういうことばかりだと、まちは思う。

嵐の海で、暴風や水の上であることの恐怖が来る時、あたかも現実に戻った、目が覚めたような感覚になって、「なんでこんなことを自分ができると思ってしまったんだ?」「なんでこの人ができると思ってしまったんだ?」と泣き叫ぶ気持ちに襲われる。現実に戻って、泳ぐなど、現実的な方法で何とかしなければ、と思う。

でも、それは現実なんかじゃない。そもそも何でしようかと思ったかも分からなくなるぐらい恐ろしい状況で歩いてきたのは、そして歩いてこられたのは、そこに理屈はなく、神様が共に居て下さったから。

神様によってのみ、ここに生かされているんやわ。恐れないで、神様が共におられると信じて生き抜くのみやわ。

信仰と人生の先輩であるママが通ってきたところを、神様は私にも分からせてくださってきていると思う。祈りあって、励ましあって、神様を目指して生きていたい。

冬休みに入って、久しぶりに高校時代の哲学の資料集を読んでいます。高校の時も本当に分かりたかった。
「よく生きる」とは、生きるとは何なのか。いろんな人がどう思って感じて生きたのか。

今読んでみて、高校の頃の自分よりも、哲学者たちの考えたことが理解できたり味わえるような気がします。同時に、ママと語り合ったことも懐かしい。

真摯に人生に向き合った哲学者達が考えたことは本当に興味深いです。信仰を持った哲学者の哲学に共感することが多いです。

キルケゴールの実存の3段階論は、かつて理解していたか分からないけど、特に興味深い。

人間は「美的段階」を生きるが常に不安に脅かされ絶望し、「倫理的段階」に飛躍する。しかしやはりそれを追求しても不安に駆られ絶望し、「宗教的段階」に飛躍する。

そこでは、人は単独者として神の前に立ち、キリストの名において、そしてそれ故にのみ、人間は本来の自己を回復する。

ルターの「ただ信仰によってのみ」という言葉。
哲学しながら信仰するというヤスパース。

またママと、こんな話もしたいです。

私もキルケゴールの「神の真理はあくまでも絶対的主体性の真理である」だったか、苦悩の果てにこの言葉がストンと胸に落ちたのだ。

あの人がどうのこうのではなく、徹底的に神と我の関係においてでしか神の真理、愛はわからないという説に納得できた。いつかまた以前のように時間を気にせずにこのような談義をしたい。

また真智はスカイプでこんなことを言った。
「人間は何ができるから、何をしてくれるから素晴らしいのではなく、存在そのものが素晴らしいんだということをしみじみ感じたことがある」と、その深い経験に私は絶句し、と同時に真智の歩み方(生き方)の真実さに圧倒された。

これは努力で生み出されるものではなく、神のみこころに叶う人に働く神の聖霊によってでしか感じることができないからだ。

スカイプでは次女夫婦それぞれに仕事上の経験をも話してくれ、それぞれの真摯な生き方に感銘を受け、良き生涯を築き上げていっていることを神に感謝した。

今、改めて次女夫婦のクリスマス・カードを読み直す。
クリスマスの翌日にワシントンに発送した国際郵便物が届いたというメールが、12月30日未明に届いていたことも今夜になって気がつくなんて・・・

また、たった5〜6人の方にしか贈らないお歳暮なのに、叔母に2度も同じものを贈るなど11月からミスが目立つ。

近年は年がら年中心安らぐことのない日々で、3日前の12月30日はどうしようもなくなって次女に連絡を取った。
まだ一度もこちらから真智に電話したことがなかったことにもよるが、アメリカの国番号も押しているのにかからずに、仕事用のスマートフォンにメールを打って真智から電話をかけてもらわねばならなかった。

ちょうどその頃は、教会の皆さんに「ウィー」をお世話してカラオケ大会を楽しんでもらって、疲れて帰宅したばかりの夜遅い時刻だったのに、私達夫婦のために2時間半も時間を割いて訴えを傾聴しくれ、わかりやすい言葉で優しくアドバイスしてくれた。

クリスマスに届いた次女夫婦のクリスマス・カードには、クマ(次女の伴侶)が教会でのエピソードを書いてくれている。

「10月頃から真智と共に讃美チームに加わり、礼拝での讃美を大きな声でリードしています。真智は2週に一度ピアノの奏楽をさせていただいています。

奏楽と讃美のご奉仕を始めてから、讃美歌に触れる機会が増えて、それによって気持ちが支えられ、癒されることが多々あります。主に感謝です」。


昨日のスカイプでも真智が電子ピアノを弾いてくれた。教会からお借りしているそうだ。
1曲目に弾いてくれたのが「神はひとり子を」で、私もこの曲を前日にかけていたところだった。共に本心に立ち返ろうと思っての選曲だった。この曲は娘たちが幼い時に家族4人で歌った初めての聖歌だったから。

そういえば、真智にピアノを教えてくださったY・M先生が、「真智子ちゃん 海外でご活躍のご様子 素晴らしいですね」とお年賀状に書いてくださっている。
いつも『メメントドミニ』を読んでくださっているから、きっと教会でのことも喜んでくださっていると思う。感謝!

私もマチ・クマに励まされて、何よりも自分らしさを失わないでやっていこうと思う。マチ・クマの祝福を祈り、そして、どの方も皆、生かされている人々に有意義な一年でありますように祈ります。

posted by 優子 at 23:57| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

主の2016年開く 冬晴れの元旦

主の2016年 明けましておめでとうございます。
2016冬ばれの元旦.jpg

昨年は雪が降る寒い元旦でしたが、今年は空は真っ青で穏やかな冬晴れでした。

新しい1年の幕が明けました。
そして、2006年のお正月に次女にブログを開設してもらって、早いものでちょうど10年が過ぎました。その間に公私ともに状況は変化し、日本や世界は混沌を深めるばかりです。

この年も行く先にどんなことが待ち受けているのかわかりませんが、全てのことを神に委ねて、今まで以上に熱心に主と共に在りたいと思います。

「人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る」。
 
やはり新しい年の初めはこの聖句を想います。

年賀状2016.jpgこれが2016年度の年賀状です。
写真は昨春3月31日のチャッピーと孫・幸悠(ゆきひさ)です。

当地に引っ越して今年で17回目のお正月ですが、思い起こせば1回目のお正月から常にチャッピーが一緒でしたから、初めてチャッピーがいないお正月です。


そして、これが知子とユキの年賀状です。
知子2016年賀状.jpg


次女夫婦が年末年始に帰国しない時はいつもしているように、今年も元旦の朝に(今日は11時から)2時間余りスカイプしました。ワシントンはまだ大みそかの夜でしたが、日本時間に合わせて新年の挨拶を交わしました。

現在私たちが所属している教会は元旦礼拝はないのですが、スカイプを通して新年を迎えることができたのも神さまのおかげと新年の恵みをいただきました。

その次女とのやりとりは是非次のページに記したいと思います。
特に今年は私たちが次女を通して新年の恵みを受けるばかりでした。

午後は何年か前まで元旦のチャッピーの散歩はいつも家族そろって歩いたように、元旦に、何よりも久々に家族そろって散歩に出ました。これこそが天使犬・チャッピーが残していってくれたものです。


私も久しぶりに歩きました。チャッピーと一緒に歩いた道を。
まずは30分ほど歩いてコンビニへ行き年賀状を30枚買い足して、そのあとはチャッピーも知らない初めての道をユキに案内されて、1時間半、1万歩きました。

雪降る元旦@.jpg2015年元旦は雪降る寒い元旦でしたから、チャッピーにも今日の暖かい陽射しを浴びさせてあげたかったです。


これからチャッピーのいない日々が始まります。
特に今年は四季を通じて何を見てもチャッピーを思い出し、時には涙を流すでしょうが、それも神の恵みです。

私も新たなチャレンジをしていこうと思います。
神さまからいただいたそれぞれの新しいキャンバスに、今年はどんな絵を描いていくのでしょう。

人生に真摯に向き合える人は幸いです。喜びだけではなく痛みをこそ分かち合い励まし合って人生を渡っていきたいものです。

互いに神さまのお導きに気づいて導かれていく者でありますように、共に新しい歩みを始めましょう。


posted by 優子 at 23:50| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする