2016年03月31日

大阪水上バスで大阪観光と大阪城の桜見物 @

今日は昨日よりももっと暖かくなり、朝の最低気温は8度で最高気温は23度にもなり春本番の陽気になった。
そんな今日、春休み中のユキをどこかに連れて行ってやりたくて、大阪水上バスに乗って大阪城公園よりアクアライナーで大阪観光に出た。と言う私も実は今回が初めてだ。この遊覧クルーズ船は1983年の大阪城築城400年祭に創業したという。

1997_4A1A1BAC7B0A6A4CEC9E3A4C8.jpgこれは1997年4月12日、その半年前に母を亡くして私以上に憔悴しきっていた父(72歳)と「桜の宮」の川辺で撮った写真だ。
あの時、肌寒い風に花びらが舞っていて冬のように感じた。この地上に母が居なくなってしまったということが信じられなくて、風景に色はなくモノトーンのようだった。


この時、父と私は遊覧船を見ていた。
父は「来年の春は是非あの遊覧船に乗ろう」と言った。「うん、絶対に行こうね。船に乗って桜見物しようね」と父に微笑んだ。しかし、それは叶わなかった。
この1ヵ月後、父は重い脳梗塞に倒れ、以後家に帰ることなく3年3ヵ月後に亡くなった。

アクアライナーA.jpgあれから19年。
父と乗船できなかった船にユキと乗った。

「お父さん、この子がお父さんの曾孫ですよ」。
(私は瞬きをして目を閉じている)

アクアライナー@.jpgJR環状線・大阪城公園駅から3分の所に水上バスの乗り場があり、そこから中之島周辺の名所を1時間かけて遊覧するクルーズ船、私たちはアクアライナー5号に乗った。

大阪の桜もまだ3〜4分咲きだったが楽しい一日だった。私は177枚、ユキも70枚写真を撮っていた。


アクアライナーB.jpg 
川崎橋
IMG_7254.jpg

アクアライナーC.jpg

アクアライナーD.jpg

アクアライナーE.jpg

↑ 中之島中央公会堂 ↓

アクアライナーF.jpg

八軒家浜.jpg
八軒家(船着場)
ここは「天下の台所」と呼ばれていた江戸時代の重要な港だった。
そして、以下は過去ログ・2007年4月6日の記事より:

▼さて、今日の目的は紀州熊野古道の起点となっている天満橋、八軒家(はちけんや)から四天王寺までの歴史街道を歩くのである。永田屋昆布本店玄関に「八軒家船着場の跡の石碑」があり、この名前からわかるように昔はこの辺りは海であった。
「その昔、京となにわを通う30石船の発着場として、かなりの賑わいを見せていた」。


アクアライナーG.jpg
淀屋橋。土佐堀川。左に見えるのは牡蠣料理の屋台船。
ここでユウターンした。

アクアライナーH.jpg

帝国ホテル.jpg
帝国ホテル大阪。
紙業界が利用するホテルで、夫は毎年10回近く訪れる。

アクアライナーI.jpg
これは造幣局。

アクアライナーK.jpg
大日本帝国陸軍の旧大阪砲兵工廠化学分析場。
    (撮影はユキ)

アクアライナーJ.jpg
新鴫野橋(しんしぎのばし)をくぐった瞬間に現れた大阪城。
これが最も美しい大阪城の姿だそうだ。
新鴫野橋は軍の橋で一般人は通行できなかったという。

軍の水路の遺跡.jpg
このトンネルは砲兵工廠から大阪港まで船で輸送する時に
使った水路で、唯一ここだけ埋め立てられずに残っている。

アクアライナーL.jpg
アクアライナーは水面から天井まで1.6mで、
満潮時にも低い橋の下を通れるように天井が30センチ下がる。
実演されて喜んだユキ。
IMG_7288.jpg

アクアライナーM.jpg
はい、おしまい。大阪城港に到着で〜す!

アクアライナーN.jpg

アクアライナーO.jpg
後ろに見えるのは大阪城ホール。

アクアライナーP.jpg

私たちが乗った船が再び出港した。 京都へ通じる橋ということで秀吉が「京橋」と名づけたことなど、アナウンスに耳を傾けながらのクルーズは全く退屈しなかった。観光客だけではなく、地理に詳しい大阪の人にも楽しいに違いない。

川の両岸の桜が満開になれば圧巻だろう。
「船はどうやった? 桜もだいぶ咲いてたな」と、今日も大阪市内を走っていた夫は言葉を発した。あの川崎橋も渡ったという。
今日だけは夫も一緒だったら解説入りでもっと楽しかったかも

もう今は大阪の町をみても、父が運転している姿を想像して探すことはなくなったが、楽しく、ちょっぴり寂しく、人生の哀歓を感じる春である。


水上バス観光のあとは、船の発着場のすぐ川向かいにあるホテル・ニューオータニで昼食を摂り、午後は大阪城の桜見物に出かけた。
                       (つづく)
posted by 優子 at 23:56| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

ワシントンより西郷牧師のイースターメッセージ! −死は終わりではない。永遠の命を!−

毎年日本ではワシントンDCの桜祭りのことは大々的に報道されるが、「石灯籠点灯式」があるのを知ったのは昨年だった。ワシントン・インターナショナル日本語教会の西郷純一牧師が、昨年の石灯籠点灯式で祈られたビデオで知った。

そして、西郷牧師が3月27日に語られたイースター日曜礼拝メッセージをお分かちしたく、まずは一部抜粋してご紹介方々転載させていただき、最後に「お気に入りリンク」で全文をお読みいただきたい。

ミッション中のクマも休日にアフリカの地で是非どうぞ!

聖  書:「ヨハネによる福音書 3章16節」
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子(みこ)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

タイトル:永遠の命 死は終わりではない


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私が、ニューヨークで牧師をしていたときのこと。奥さんがクリスチャンで、5人のお子さんのいる大家族が教会に来ておられた。

ご主人は日本で有名な経済新聞・経済誌を出す会社のNY支社の責任者であられた。そのせいもあってか、キリスト教に対しても様々な疑問、質問を持っている方であり、中々の論客でもあられた。

彼は、若いときから色々な教会に行って、キリスト教のこともかなり知っておられた。その彼が、やがて、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、洗礼を受ける決心へと近づいた頃、私にこんな風に言われた。

『先生、私は、これまで、キリスト教のことを一杯聞いて来た。その教会によって、その教会の牧師によって少しづつ、言っていることが違うように思えることも沢山あった。

そんな中、確かに、一杯、キリスト教について聞いて来たが、今、一番知りたいのは、その一杯の知識の中で、一言、これだけ信じていれば、あなたはクリスチャンだと言える一言、そう言う聖書の言葉があるなら知りたい。それを教えて欲しい。』と。

私が、その時、即座に、迷わずに開いた言葉が、今日の聖書の箇所、ヨハネ3章16節であった。恐らく、この聖書の言葉ほど、人々に、特にクリスチャンたちに知られ、暗記されている聖書の言葉はないであろう。

            (略)

私たちが『永遠の命を持つ』ことの確信、それこそが、私たちが今一番必要としているものである。

2011年3月11日、東日本を襲った未曾有の大震災から満5年が経った。

何万と言う人たちの人命が、赤ん坊からお年寄りに至るまで、その人がどんな人であるかに関わらず、容赦なくあっと言う間に私たちの目の前から消え去って行った。

この出来事は私たちに沢山のことを教えてくれたが、『永遠』の大切さ、『永遠の命を持つ』ことの必要はその一つであった。

この大地震は、そして、その悲劇は、その人が善人であろうと無かろうと、神を信じていようといまいと、その宗教が何であろうとなかろうと、無差別に容赦なく人々を襲った。

もし、永遠がないなら、即ち、今生きているこの世が、私の人生のすべてなら、この人生とは、何と不公平で、不条理で、かつ、空しいことか、と多くの人が思った。

それゆえに、沢山の『なぜ?』と言う質問が私たちに残った。『なぜあんな良い人が・・・』、『なぜあんな可愛い罪の無い子が、こんな目に・・・』と言う、人生の不公正・不公平さへの疑問であり、苦悶であり、怒りであった。

『永遠』の存在について『実践理性批判』哲学で有名なイムマヌエル・カントは、このように言う。
公平・公正さの大切さを私たちの心に植え付けた神様は、私たちの人生を、不公平なこの世だけで終わらせることはない。次の人生、永遠の世で必ずその不公平を是正なさり、正しい裁きと正しい報いとが待っている。

このように『永遠』の存在は必然であり、私たちの人生になくてならないものである。

だから聖書は言う。『神は、人の心に永遠への思いを与えられた』(伝道3章11節)と。

このあと本論に入って行く「イースター日曜礼拝メッセージ」を是非お読みください! 今はまだアップされていませんが、音声でも聞けると思います。

メッセージの最後にあった山川千秋さん(フジテレビ・アナウンサー)のことは、私も非常に印象的に残っており、『死は「終わり」ではない』 と 「神と共にそれぞれの船を漕ぎ出す」に書いています。

山川さんは病床でイエス・キリストに導かれ、罪赦されて永遠のいのちを賜られた。

▼「『闘病』とひとくちで言うが、神にすがらなければ、やがて耐えることができなくなることが、今から見えてきた。祈りがなければとても耐えられない」。

▼「普通なら考えられないほどの平安である。改めて救いを信じる事の偉大さを思わずにはいられない。・・・

テレビに出る職業は「妬み」と「虚栄」の人間を作る。私もその典型だった。それに対する警告が神から示されたと今の私は理解した」。

▼「この病になってみると、相手が実によく見えてきます。気休めの慰めは一発で化けの皮がはがれます」。

山川千秋さんはクリスチャンの妻とベック宣教師を通して主イエスを信じる者とされて天に帰還されました。

そして、私も思います。(拙著・「扉が閉まる前に」:2004年のスマトラ沖地震による津波に触れて書いたものより抜粋)

「この前の津波を思い出してほしい。善良な人々もそうでない人々も一瞬にして取り去られたのだ。このこと一つ考えても、死ねば終わりであるわけでも、死ねば全てが赦されるわけでもない。

『人間に罪というものがある以上、人間は死ぬことができない。・・・・罪が処理されなかったら、人間は死のうにも死ぬことができないわけです。』と書き残した森有正の言葉が魂に響く」。


2016年のイースターに、あなたもイエス・キリストの十字架と復活をご自身のこととして思い巡らされてはいかがでしょうか。

2016新年礼拝B.jpgこれは2016年1月3日の新年礼拝後に、ワシントン・インターナショナル日本語教会の西郷純一牧師ご夫妻と。

牧師御夫妻は真智子と太志にとって第二の父と母だ。
神に感謝!


posted by 優子 at 18:16| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

ワシントン満開の桜を見てアフリカへ飛び立ったクマ

2016ワシントンの春.jpg「イースター おめでとう!
ゆきちゃんの2年生修了もおめでとう。
もう3年生か(びっくり!)」


ワシントンは関西よりも寒いのに昨日のニュースで、ワシントンDCの桜が早くも満開になったと報じていた。そして同日、次女からも桜の便りが届いていた。

「昨日はちょうどアパートの前の桜が満開で、桜の下のベンチでくま(次女の伴侶のニックネーム)とゆっくり鑑賞したよ。リラックスできて、綺麗で、感謝でした」。

私はしばらく二人の光景を想いながら目を細めていた。
クマからもミッションに出発メールが入っていた。

「こちらは今日がイースターですが、残念ながら教会には行けず、昨日、真智と二人でイースターを想って色々話し合いながら過ごしました。出発前にも関わらず、ゆっくりとそのような時間を取れたこと、感謝でした」。

読みながら涙が溢れ出た。今回は10日間と短いので私の気持ちも和らぐが、これを読んだ時はすでにアフリカ大陸の上空を飛んでいた頃だと思う。

今回の出張先の国へは4回目だっただろうか。日本との時差はマイナス6時間だから、今夜18時過ぎに着陸した頃だ。ホテルにチェックインしてから到着メールを送ってくれることだろう。

次女夫婦が今年は是非私たち夫婦にワシントンへ来てほしいと声をかけてくれている。知子とユキは既に3年前に行っているが、ワシントンの空港はミネソタの空港よりややこしそうなので自信がない。特に帰国する時が私のような者には難しいらしい。

次女の飛行機のマイルを使って私たちもビジネスクラスで往復できると、数年越しに誘ってくれているのだが、いよいよマイルの有効期限も迫っているので決断しなくてはならない。さて、どうしよう・・・

附記:最近『メメントドミニ』を読み始めてくださっている方々に次女夫婦をご紹介します。

真智子が登場している IMF のビデオが今もユウチューブに上がっています。そのビデオは3分間弱の短いものです。最後の方で4番目に話しています。ここをクリックしてください。

このビデオの解説を過去ログ・2014年3月23日に書いています。

また、過去ログ・「IMFのエコノミスト募集ビデオにマチ・クマ出演!」も是非ご覧ください。

”IMF Economist Program”(IMF エコノミストプログラム)は、画面の下の方のビデオ画面をクリックしてください。


▼ クマの到着メールが遅いのでメールを送っていたら、22時16分にクマから連絡あり。便が遅れて渋滞にはまっているとのことで、今もホテルに到着していないそうだが、とにかく無事着陸したとの知らせを受けた。神さまに感謝!

そういえばクマがワシントンへ戻った時、私たちがワシントンへ行った時のために、体力があれば飛行機を降りてから待ち合わせ場所(バッゲイジ・クライム?)までの要所要所を写してきてね! 

今回は間違いなく国外からの到着だからミネアポリス空港の時のように国内便の間違いはしないね。ただし国際公務員用の出口ではなく一般人用の出口の写真をお忘れなく!

では現地でのお働きと、DCへの無事帰還を祈っています。真智も独りになるけれど元気でね!

まもなく開花.jpg
これは当地の今日の桜状況、いよいよ明日にも開花か。

開花待つ.jpg







石投げA.jpg今日のユキ。
池に石投げをしています。






タンポポ.jpg
明後日から春本番の暖かさになるそうですが、チャッピーのいないさみしい春です。

posted by 優子 at 22:36| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

家の教会スタート −2016・イースターの朝に−

復活の朝に!.jpg「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい」。
   (ルカによる福音書 24章6節)

空の墓.jpg



数日前から寒の戻りで今朝も0度の寒い朝だった。
今日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターである。教会では「イースター、おめでとうございます」と挨拶を交わすが、私は毎年「おめでとう」よりも「復活してくださってありがとうございます」という思いでいっぱいになる。

そして、今年のイースター礼拝は家族だけで捧げた。

祈る幼きユキ.jpg幼い頃のユキは我が家の「祈りの人」だった。この写真は2010年4月、桜の下で食前の祈りを捧げているところ。

祈る幼児.jpg右の写真も同じ頃のものだ。お祈りの前に一口食べていたが(^−^)。
 
家の礼拝で奏楽者も備えられているとは何と恵まれていることだろうか。私たちは信仰者による奏楽ゆえに祈りへと導かれていく。今朝の前奏曲は " LITURGICAL ORGAN-BOOKS(b) " より W.Volkmar の " Andante mosso "だった。

第1回礼拝終了.jpgそして、私が祈り、讃美歌312番、全員で「主の祈り」、讃美歌148番、聖書「マタイによる福音書 28章全章」を一節ずつ輪読、その後一人ずつ祈り、最後に聖歌172番(新聖歌では127番、聖歌総合版も127番)を讃美した。聖歌が1冊しかないので新聖歌、聖歌総合版まで出して手渡した。

献金のご奉仕は教会同様にユキにお願いし、写真右側に写っている袋に入れた。献金のお祈りは、知子や真智子がcs(教会学校)で教わった祈りを教えた。
「今、献金をしました。これをイエスさまの御用のためにお使いください。このお祈りを主イエス・キリストの聖名(みな)によってみまえにお捧げします。アーメン」。

最後に頌栄、後奏で礼拝を終えた。10時5分から45分の礼拝だった。なお献金は1ヶ月ごとにユニセフか国境なき医師団に寄付することになっている。

礼拝後、卵サンドに.jpg今後はユキの提案で、司会役をおじいちゃん(良輔)、神さまのお話は優子、奏楽は知子、献金はユキの担当で進めることになる。

礼拝後は昨日作ったイースターエッグ(ゆで卵)を使って、昼食の卵サンドイッチ用に5つの殻をユキがむいてくれた。イースターエッグは白い卵の方がいいね。


イースターエッグ.jpg

主イエスのご復活を感謝し、お祝いします!
このエッグラップは多くの教会で用いられているもので、数年前に知子が仕事で出会った発売元のクリスチャン社長より頂戴したものだ。

2016年の新しい春。4月より月1回、我が家で家族と共に「キリスト教良書を読む会」も予定されている。学びの場はいくつになっても大切だ。私は7年ぶりに知的探究の道が開かれたことを感謝し、熱心に学び人生を深めていきたいと思う。

Awake up my glory!
目覚めよ、わが魂よ、わが誉れよ、わが栄えよ!


附記:聖歌172番・「墓の中に」を讃美すると魂が高く引き上げられるのを覚える。

墓の中に いとひくく
ほうむられたり ああわが主!
よみより帰り 死と悪魔に勝ちし
きみこそ勝利の主なれ
きみこそまことの主なれ
ほめよイエスをわれらの神を

番しつづけし 兵の努力
むなしかりき ああわが主!
よみより帰り 死と悪魔に勝ちし
きみこそ勝利の主なれ
きみこそまことの主なれ
ほめよイエスをわれらの神を

封印かたき かどやぶり
いでたまえり ああわが主!
よみより帰り 死と悪魔に勝ちし
きみこそ勝利の主なれ
きみこそまことの主なれ
ほめよイエスをわれらの神を アーメン


posted by 優子 at 20:00| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2016年03月26日

The Passion

今年は今週の日曜日から受難週に入った。受難週とはイエス・キリストがロバに乗ってエルサレムに入城した日から復活祭前日までの一週間を言う。そして、明日はキリストが甦られた復活祭(イースター)である。

神のひとり子である罪なき主イエスが神からも見捨てられて苦しみ抜いて死んでくださったのは、主イエスが私たちすべての者の罪を担い、私の、そして、あなたの身代わりになって贖ってくださったからだ。このことを信じられる者は幸いなり。

ところで、"passion"(パッション)は「情熱」の意味しか知らなかったが、2004年に話題になった映画のおかげで"the Passion"は「キリスト受難(曲)」の意味であることは知っていた。

しかし、何故「情熱」が「受難」に結びつくのかという疑問さえ感じなかったので、今週の礼拝で耳にしたことは興味深かった。

"passion" の語源はラテン語の"patior"(パティオール)「苦しむ、苦しみ」の意味であると知り、とても興味深く感じた。

ドイツ語で「情熱」を「ライデンシャフト(Leidenschaft)」と言う。
「苦しみ」は" Leiden "(ライデン)で、" schaft "(シャフト)は「名詞・形容詞・動詞などにつけて、性質・状態といった抽象的意味を持つ女性名詞をつくる接尾辞」。つまり「ライデンシャフト(Leidenschaft)」は苦しみの集まりということになると。


私は2004年の映画、『パッション』(原題:The Passion of the Christ )を見ていない。この映画は、イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を描いてあるというのも今知ったところで、その一部だけでもユウチューブで見ようとしたが、やっぱり直視することができなかった。映画であると分かっていてもダメだった。

イエスの体には外科医が扱うあらゆる傷があったという。キリストの磔刑についてはルーベンスやレンブラントなど多くの巨匠が描いているが、私は現実味を帯びて描かれた絵画にこそ内省を促される。

『イーゼンハイム祭壇画』.jpgこれは16世紀初めの画家、マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald) が描いたリアリティ溢れる『イーゼンハイム祭壇画』の上半身だ。

また次のサルバドール・ダリの『十字架の聖ヨハネのキリスト』は、天の父(神)の視点から見たもの、あるいは、イエスを十字架につけた私たちをイエスがご覧になっているとも見ることができ、この構図もまた心を揺さぶられる。キリストの磔刑 ダリ.jpg

イエスはまことの神であり、まことの人でありたもうお方。神喪失の時代であっても私は己が確信したところに留まる。

「人間の神喪失はあっても神の人間喪失はない」(ユンゲル)。


聖書・コリント人への第2の手紙5章21節:
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

讃美歌21 306番「あなたもそこにいたのか」" Were you there "
聖歌400番「きみもそこにいたのか」、新聖歌113番も同じ。

1 あなたもそこにいたのか、
  主(しゅ)が十字架についたとき。
  ああ、いま思いだすと
  深い深い罪に
  わたしはふるえてくる。

2 あなたもそこにいたのか
  主がくぎで打たれたとき。
  ああ、いま思いだすと
  深い深い罪に
  わたしはふるえてくる。

3 あなたもそこにいたのか、
  主が槍でさされたとき。
  ああ、いま思いだすと
  深い深い罪に
  わたしはふるえてくる。

4 あなたもそこにいたのか、
  主を墓におさめたとき。
  ああ、いま思いだすと
  深い深い罪に
  わたしはふるえてくる。

5 あなたもそこにいたのか、
  主が甦られたとき。
  ああ、いま思いだすと
  深い深い愛に
  わたしはふるえてくる。


Were you there when they crucified my Lord?
Were you there when they crucified my Lord?
Oh! Sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they crucified my Lord?

Were you there when they nailed Him to the tree?
Were you there when they nailed Him to the tree?
Oh! Sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they nailed Him to the tree?

Were you there when they laid Him in the tomb?
Were you there when they laid Him in the tomb?
Oh! Sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they laid Him in the tomb?


マタイによる福音書 27章27節〜66節:
それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。

また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。

彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。

彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこにすわってイエスの番をしていた。そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。

祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。

ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。

すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。

そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。

そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。

ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。

ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。

ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。
posted by 優子 at 15:12| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

2年生は皆勤だった!

昨日は終業式、早くもユキは2年生を終えた。2年間がこんなに早く終わってしまうならば、あと4年間の小学校生活もあっという間に過ぎゆくことだろう。

この1年間ユキは1日も学校を休むことなく皆勤だった。我が子には一度もなかったことだけに感慨もひとしおである。
すかさず夫は「おじいちゃんも休んだことなかったで。たぶん6年間」と言うが、「ええー?! それで成績はどうだった?」

この1年間に身長は2.7センチ伸びて129.5センチに、体重もようやく11月から増加し始め、2.5キロ増えて25.6キロになった。そして、靴のサイズは21.5〜22センチ、あと1センチで私と一緒になる。

2学期の懇談会では「優等生で自慢の息子さんでしょ!」と担任の先生に言われて、知子は嬉しくも驚きながら話していた。確かに宿題以外は復習や予習をやっていないので頼りないところがある。復讐や予習など娘たちにはしたこともないが。

実際のところ、毎日予定がなくて遊べる子はユキだけでクラスの子は塾通いの子も多いので、ようやくユキも家庭学習をしなければいけないということはわかってきたようだ。

そこで今週の連休明けから「毎日1時間一緒に勉強しよう」と声をかけた。私はパソコンの前に座るのをやめて読書の時間に当てることにして、ユキと一緒にテーブルに着いて図書館の雰囲気でやり始めた。

ユキも真面目にやっている。ところが私の頭脳は相当にガタがきていてひどいものだ。「なぞなぞ」は何度同じこと聞かれても答えられないし、今週からやり始めた「綾とり」もひどいものだ。

「一人綾とり」や「二人綾とり」も殆ど忘れてしまっていて、ユキに教えてもらう始末。ユキは母親と祖父に教えてもらったといい、3段梯子、4段、5段、6段まで器用にやってのける。

知子もまた小学校時代に綾とりを教えてもらったのは父親だったという。私たちの世代は男の子は綾とりなどしなかったのに、夫は子ども時代によほどやっていたのだろうか。それにしても70歳にして忘れていないのはすごい!

何度教えてもできない私にユキは愛想を尽かせることもなく、根気よく教えてくれる。おかげでようやく3日目にして覚えた。さて今もできるだろうかと心配になってやってみると、自然に手が動いてできたので安堵したが、毎日しないとすぐに忘れてしまうだろう。

このような頭でユキの勉強を見ようというのであるが、2日目3日目と脳の動きも徐々に改善されつつある。しかし、初日はひどいものだった。

3角形はいくつ?.jpg「おばあちゃん、わからへん」
「どれどれ、まず問題を読もうね。この図には3角形が3つあります」と読み始めたのはいいが「ん?」、
この例題が理解できなくて詰まってしまった。

「なんで3つもあるんやろう。2つやのになぁ。こうして線を引いて三角形を際限なく作って数えるんやろうか・・・うーん、わからない。これはママに聞こう!」と、まあこういう感じでスタートした。

それを聞いた知子は爆笑した。私が故意に演じていると思ったらしいが本気だと知り、「それがいいわ。ユキもやる気になるわ」と大笑いした。

夕食の用意をしている時もユキが「なぞなぞ」を言ってくる。
「ボケの人がかぶる帽子ってなーんだ?」
「ボケ防止!」
「当たり!」
ユキが考えた問題だから簡単だったけれど、答えられるのは2割ほど。しかし、ユキのおかげで私の生活にボケ防止エクソサイズが組み込まれて感謝している。そして、一緒に勉強すると一挙両得だ。

毎日何度も「おばあちゃん大好き」と抱き付いてきて、今もまだ「おばあちゃん、遊んでー」と言う可愛いユキ。

こんなことを言ってくれるのもいよいよ秒読みに入っているから、今こそ味わわなくてはとユキとの時間を大切にしている。
何よりも60代を生きる私にはそんなに多くの時間は残されてはいないので、これまでの出来事や生き方を振り返って人生を整理して統合する段階である。


担任の先生の評:
「ゆきひさくんは、とっても意欲的に学習し、学級のみんなのためを思っていろんな事を引き受けてくれました。3年生でもさらに成長し、活躍してくれることを期待しています」。


今日は久しぶりに「ハウルの動く城」を聞きながら書いていた。10年前の今頃は長女次女共に結婚へと動き出し、よく聞いていた曲である。

4月にユキは3年生になる。

posted by 優子 at 20:37| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

在りし日のチャッピーを想って歩く

最近も不調ぎみだったからだが、私は相変わらず歩いていない。しかし今日、ついに外へ出た。夕方4時前でもおひさまが明るく輝いていた。

ウォーキングを欠かさない夫が、「あの家の大きなコブシの木が満開で綺麗やった」と、昨日熱く語っていたからだ。そんなことで心が動くようになったのもチャッピーのおかげ。チャッピーが自然界への眼を開いてくれたから。

まずNさんに生協の商品を届けるので公園を横目に通り過ぎた。真冬も毎日公園で遊ぶユキ。今日は6人でキックベースボールをしていた。そのあとサッカーもしたそうだ。

キックベースボール.jpg

ユキ公園で@.jpg先週金曜日から正午過ぎに帰宅、いよいよ3学期も終わり明後日で2年生を終了する。





今日のおかめ桜.jpg今日のおかめ桜。









満開はここだけ.jpgそして、この桜が我が町で一番先に咲いて満開になるのだと思う。おかめ桜のお家の2軒隣り。





2013.3.26.JPGこれは2013年3月26日、同じ場所。去年までチャッピーと一緒に見た桜。
ここに立っていたチャッピーがどこにも存在しなくなったというのが不思議でならない。
でももう「どこへ行ってしまったんだろう」とは言うまい。





こぶし.jpgこれが夫が言っていたコブシの花だ。
大きなお屋敷の中だから思いっきり撮れなくて残念。
夕方の陽光もなく、写真で見るよりももっと暗かった。

まだ冬から目覚めぬ.jpg周囲もまだ冬のよう。
桜のつぼみもとても小さかった。
でもほんのりピンクに見える。





春まだ浅き二上山.jpg
二上山(雄岳)もまだ冬のよう。

お見事!.jpgうわぁ、お見事!
美しいね、チャッピー。
気持ちが晴れるね。






春の目覚めを待つ.jpgでも、池の周りの桜の蕾は固い。
当地は日本でリンゴができる最南端の土地だとか、とにかく寒い。大阪と3〜5度の温度差がある。

ユキ公園で.jpg戻ってくると子供たちはブランコで遊んでいた。
現在の門限は5時半だが、まもなく6時まで延長を言ってくることだろう。

今はチャッピーが死んでから4カ月だから、ユキはまだチャッピーが居た時のままだけれど、これからユキは大きくなっていき、時間も過ぎてもっと遠い過去のことになっていくのが悲しい。

23日に植えたチューリップ。チャッピーは花を見ることはできないだろうな・・・.jpgチャッピーが死ぬ前日、11月23日にチューリップの球根を植えた。




春の陽射し チャッピーは居らず.jpg
「チャッピー、お日さんのところへおいで」と呼んでも姿はなく、
チャッピーの代わりにチューリップを日なたに置いてやる。
柴犬を見ると食い入るように見、頬を伝う涙で我に帰る。

チャックンと散歩の光景.jpg今週から受難週に入った。
「要は神さま、要はキリスト」では曖昧な混沌の時代。
全知全能なる唯一絶対の「神の像、キリストの像」を掲げて「出エジプト」の春。チャッピーのいない2016年春である。

「厳しかった冬も終わり、桜咲く時節となりました」。
こんな言葉にも何とも言えぬ感慨を覚える。
クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック事務局長より総会と例会案内が届いたが、総会の会計報告書も仕上げていない。


posted by 優子 at 22:12| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2016年03月20日

現代の我々をも鼓舞する広岡浅子

昨日の記事に続けよう。
広岡浅子は60歳過ぎて宮川経輝牧師より聖書や宗教哲学を学んだ。求道中には救世軍の山室軍平牧師の指導を受けた。

浅子は宮川牧師に「どうしても真実(ほんとう)の祈りができないが、どうしたら祈れるのか」と訴えた。宮川牧師は気張りすぎるので神に語ることができないのではと、「幼い子供がお父さんに甘えて心の中の思いを言うように」言われた。すると浅子は、

「しかし私には他人と違って甘えた経験が更にありません。父も母も、夫までも、私が甘えるどころか、皆私を頼りとしておったのであります。それゆえ今神の前に甘えて願いを述べよということは、私には一向敵(ふさ)わしくないことでありました。かくて夏去り秋来たって、また翌年の夏となり、私は63歳を数うるに至りました」と述べている。

浅子は特に山室軍平から大きな影響を受けたという。
「浅子の趣味は囲碁であったが、霊的な生活や人生の大義を忘れて何事かと山室に諭され、その後、一切囲碁をやめたという。それほど、山室の浅子への影響は大きかったらしい」。

ちなみに、女傑・浅子の囲碁の打ち方は非常に堅実だったという。ここに女傑といえども、否、女傑であるからこそ何事も実業家として十分に熟考した上での決断であったに違いないと、そのこともまた非常に深い感慨を覚えた。

広岡浅子がクリスチャンになって「九転十起生」というペンネームで書いた『一週一信』は、組合教会の機関誌に書いたものであるのでキリスト教界への苦言が目立ち、実名で書く時の温和で謙遜な筆致とは違って非常に挑戦的で厳しいばかりの文章である。

「神意に従って尽くすべきはあくまで尽くし、争うべきは断じて争う決心をいたしました。而(しか)して神はこの老婢をも捨て給わず、尊き福音宣伝のために、これ日も足らぬほどに用い給うのであります」。

「キリストに救われてここに10年、単にわが身の安心立命をもって足れりとせず、国家、社会の罪悪をもその身に担うてこれと闘うにあらざれば、真に十字架を負うてキリストに従うにあらざれば、真に十字架を負うてキリストに従う者にあらざるを悟り、人を恐れず、天の啓示を仰いで、忌憚なき叫びを挙げたものであります」。


と書いているように、実に猛烈だ。
浅子の顔を想いながら一部読んでみたい。

広岡浅子.png「頭(かしら)に立つ者の心に緊張と努力勉励の精神に燃ゆるところがあるならば、かくまで乱れることはないであろう。

今日は敏腕家といい、才子といって、多くかかる人物が社会に用いられるのであるが、しかしそこに忠実まじめなる心を欠くことはあるまいか」。

「説教は研究により努力によってできるであろう。否、説教は人格信仰の流れであらなければならない。祈祷に到っては更に更に人格信仰の結晶であるから、真似ることも研究によって得ることもできない信仰生活多年の蓄積である。信徒としても、真に謙遜(へりくだ)ってこの境の信仰に入(い)りたいものである。
           (略)
説教に対して敬虔の念を欠き、またいかに説教を軽々に取り扱い、・・・更に彼らがいかに祈祷の念を欠如しつつあるかを語るものではあるまいか。・・・彼の信仰の内容も窺われて恐れ入る次第である。

厳密にいうならば、これは再びキリストを十字架につけると同じことではあるまいか。要するに、かかる説教者は牧会伝道に従事する資格のない者である。未だ人の師表とするに足らないのである」。


「浅子の歯に衣着せぬ評論は、当時、教界に大きな刺激を与えた」のは想像にかたい。そんな浅子にも人間臭いところを感じるのは、宮川経輝が語っていることだ。

「刀自(とうじ:老女の尊称)が基督教に入りてより以後の人格上の変化に至っては実に驚くべきものありき。こは特に其の家庭の人々の説明せらる所なり。

然りと雖(いえど)も刀自は二つの直らざるものありき、一はすききらひのあることなり。すけば全くすき、きらへば見向きもせざること。
二は人を批評することなり。この二つは如何に忠告するも容易に之を取り去ることを得ざりき
」。


それでも尚、人望が厚いというのも然り。
浅子は神よりの賜物を非常なる努力により磨きつつ、あの前近代の我が国の精神風土に多大なる影響を与えた人物であったこと。それは現代においても全く違和感を感じない生き方であり、現代の我々に強く迫られている感を受ける。

広岡浅子の強烈な文章に笑ってしまうのだが、非常に感服して心を寄せている私は、「あさが来た」の視聴率が非常に高いというので、広岡浅子を通してリバイバルが起こることを祈ろうと内なる促しを感じるほどである。


posted by 優子 at 22:31| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

広岡浅子から人生が何たるものかを知る

若き浅子.jpg 広岡浅子.png
人生半ば頃の浅子と人生を極めてきた浅子。

成瀬仁蔵.pngNHKの朝ドラ『あさが来た』もいよいよ終盤。登場人物が年齢に応じた風貌になっていないことや、成瀬仁蔵なる人物(右写真、役名:成澤泉 )の演出に少々不満を感じているが、『花子とアン』の花子がお酒に強かったというほどには間違ってはいないようだ。

成瀬仁蔵は「キリスト教信仰によらない『宗教多元主義』的な世界観に立つ日本女子大学を創立した」。(『種を蒔く』3号掲載、大田正紀著・「澤山保羅(ぽうろ)を継ぐ信仰と女子教育 −良知・自給・愛−」より)

ところで、浅子が横腹を刺されたのは虚構だと思っていたが、実際にあった話だった。犯人は両替屋時代に加島屋を目の敵にしていた万屋で、2度お金を借りに来たが借入を断られたための逆恨みの犯行だった。

出血がひどく7日間も昏睡状態が続いたという。大勢の見舞い客に対応する為に病院が会議室を提供せねばならなかったほど浅子の人望は厚かった。

亀子と恵三.jpg娘婿の広岡恵三(浅子の一人娘・亀子の伴侶は元播州小野藩主の一柳(ひとつやなぎ)子爵の次男である。一柳と言えばヴォーリズの妻・一柳満喜子。満喜子は恵三の妹だった)に社長を譲ってからは婦人運動や廃娼運動など、社会のために精魂を傾けた。

60歳(1909年)の時に乳がんの腫瘍摘出手術を受け、その年の暮れに成瀬仁蔵を介して大阪教会の宮川経輝牧師と出会い、経輝の導きを受けて2年後のクリスマスに受洗した。

受洗後はクリスチャンとして更に社会貢献に励み、伝道に情熱を傾けてキリスト教界をも激震させる熱心さで命を燃やした。しかし、肝臓を病んで1919年に東京の広岡家別邸で召天。69歳の生涯を閉じた。

このような浅子を知ると、人生が何たるものか、生きるとはどういうことかを思わずにはいられない。60代半ばを迎えんとして、今再び若者のごとき情熱が溢れくるのを覚え人生意気に感ず。
キリスト教界にも浅子の語気鋭く論駁しているところを自らへの励ましのためにも刻んでおきたいものだ。


実業家、キリスト者として猛烈に生きた浅子の人望は厚く、葬儀は東京と大阪2箇所で行われ、告別式執行順序を見るとキリスト教界のみならず、その時代に影響を与えた人物が顔を並べている。

浅子の葬儀次第.jpg

牧野虎次は同志社の第11代総長。
山室軍平は日本人初の救世軍士官(牧師)。救世軍とはキリスト教伝道、社会福祉、教育、医療を推進するキリスト教派団体。

宮川経輝は熊本バンドのひとりで新島襄より薫陶を受ける。(熊本バンドとは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つ)。

小崎弘道は霊南坂教会創設者で同志社第2代総長。宮川経輝、海老名弾正(同志社第8代総長)と共に組合教会の「三元老」と呼ばれていた。

そして、矯風会の矢嶋 楫子(やじま かじこ)。
井深梶之助は牧師で当時の日本基督教会の指導者。ハンセン病者に仕えた看護婦、井深八重は姪にあたり、ソニー創業者のひとりである井深大も同じ一族だ。
日野真澄は知らなかったが牧師で同志社大学神学部教授。

浅子の愛唱歌は讃美歌83番、1933年初版発行の讃美歌133番だ。長女に弾いてもらったが、私には馴染みのない初めて聞く曲だった。(現在日本キリスト教団で使用している1997年初版発行の「讃美歌21」には収録されていない。)

浅子の告別式の時、仁蔵は病床に臥せっていたため麻生が成瀬の弔文を代読した。約300人が参列。その2カ月後に成瀬も末期の肝臓がんで召天した。

成瀬仁蔵と広岡浅子.jpg
成瀬仁蔵と広岡浅子

浅子が人を評価するのは、
「誰よりも努力し、仕事に熱心であること。自分の頭で考えて行動し、人の役に立てること。そして、業務の流れや物事の道理を正しく理解し、実践できること」だとする。
この「積極的な人材育成と、自らがきめ細かく指導・評価することで、加島屋の従業員の意識を大きく変えることに成功した」。


井上秀.jpgドラマでは娘の親友(メガネの子)は井上秀がモデルで、浅子がとてもかわいがり寝る時も娘と秀と3人で「川」の字になって寝たという。

井上秀は日本女子大学校卒業後、家政学の第一人者になり日本女子大初の女性校長として第4代校長となった。それは卒業生から校長を輩出したいという成瀬の願いの実現でもあった。

井上秀は浅子像を次のように述懐している。
何事も恐れない女の人を私はこの人で知りました。どんな逞(たくま)しい男の人々にでも、交渉し、命令し、叱責する有様に痛快を感じ、『この方はほんとにえらい女の人だ』と、すっかり心服してしまいました。

男女同権などと理屈をいう人の一人もいない時に、事実として、男と同じ力をもつ女の人の生き方を、女社長の姿を見せてもらったことになります。深い影響を受けました。

「してはいけません」「おやめなさい」ということをほとんどおっしゃらなかった。「やりましょう」、「やりなさい」といつでも、激励する方でした。

学ぶことが大好きで、勉学に没頭した若き日の秀。そんな彼女の価値観を変えたのは、浅子の「実践する姿」だったという。秀は書物ではなく浅子の生き様から学んだことを、こう語っている。

浅子さまから身近にうけた「生き抜く力」を欠いていたなら、どうでしたろうか。思えば私は幸福者でした。何としても、えらい女性の浅子さまとのご縁で今日の私があると考えられるのです。

井上秀は浅子の期待に応えて知識、人格共に開花させた。人生は出会いで決まると言われている。しかし、主体性なく、真摯に悩み求めることのない者に出会いはない。出会っていても気づくことさえないからである。

日本女子大学成瀬記念館で広岡浅子展が4月8日まで開催されており、ここでしか見ることのできない浅子の書簡がたくさんあるという。

また、大同生命の広岡浅子の生涯は非常に興味深く、時間がある時に端から端まで読んでみたいお薦めのサイトだ。


posted by 優子 at 09:40| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

「人には愛を、地には平和を、まず私から」―『種を蒔く』3号掲載―

「人には愛を、地には平和を、まず私から」    
                 川上与志夫

世界中での紛争と険悪な国際関係に、私の心は平穏を失っています。
戦争という狂気の時代に心ならずも戦場に駆り出され、過酷な環境で身も心も蝕まれ、苦しみながら死んでいった多くの兵士たち。さらに、平和な生活を空襲で乱され、命をむしり取られた銃後の人たち。現状は今も変わっていません。この人たちに、改めて深い哀悼の意を捧げずにいられません。
 
何のための死だったのでしょう。犬死と言ったら、死者を冒涜することになるのでしょうか。逆に、美化する言葉はいくらでも並べられます。

しかし、無理を押しての美化は、死の非情さを増幅するばかりです。非情さは、その死が非常であり異常だからです。非常や異常の最たるものが狂気です。戦争です。
 
奇襲による殺生や他国を踏みにじる卑劣さ。一方、抵抗できない瀕死状態の町に無数の爆弾を投下する非情さ。まるでゲーム感覚の狂気です。戦争という狂気は、その狂気を正当化してしまいます。だれの本心も「殺されたくない」「殺したくない」のです。
 
人間の歴史は戦争の歴史です。賢い人間は智能だけを発達させてきました。心は分別のない子どものままです。科学の発展と心情の成育に調和がとれていません。未熟な自分を「賢い」と思い込んでいる「愚か者」が、人間の姿です。
 
知識は発達していても、十分な教養、つまり、「大局的かつ倫理的に判断して行動する能力」に欠けているのです。だから、とんでもない方向に走ったりします。悲しいかな、人間社会はそれを繰り返して今日に至りました。
 
いつの世でも、どこの世界でも、心ある人は人間性の尊厳を求めてきました。人間性とは、他者を思う善良で美しい優しさです。利己と利他を同等に重んじる生き方です。これこそ人間が他の動物とは違っている、人間性の特質です。
 
今のままでは、人間文明はあと100年で崩壊するでしょう。人間が万物の霊長であるならば、「万物をいとおしむ心」を持たなくてはいけませんね。一挙手一投足を注意深く意識し、「これでいいのか」と自問しながら、丁寧に生きていきたいものです。
 
神は人間に「万物を支配せよ」と命じました。支配とは「他者を支え、他者に配る」ことです。権力者はそれを「他者を牛耳る」と理解し、悪徳支配者として君臨してきました。この誤解が歴史上の悲劇を生みました。この利己の思いが今もつづいているのです!
 
戦争はいじめの延長線上にあります。いじめは、恨み、羨望、嫉妬、驕慢、疑念、貪欲などのいやしい品性が、複合的に働くところに生じます。創造主への感謝を忘れた、自信のない人や國が引き起こす悪行が、いじめであり戦争です。校内でのいじめや国家間のいじめや紛争をみれば、よくわかります。
 
すべての人や生き物は、よりよい環境で、よりよく生きたく願っています。その願いの実現に献身するのが、人間の務めのはずです。平和を希求する信仰者の義務です。いま、私の心は創造主の前にひれ伏します。「人には愛を、地には平和を、まず私から」と。

心の生活習慣病.jpg川上先生のご著書はどれも優しく語りかけながら自己洞察へと導かれます。

『心の生活習慣病を退治せよ!』には珠玉の言葉が満載。気づかされ、励まされ、前方に目を向けさせられる万人にふさわしい本です。是非お買い求めください!
その中からいくつかをご紹介します。これらの言葉につながるエピソードは本書でお読みください。

▼「今日一日だけ、
 この人に、
 この一事に、
 心をこめて生きてみよう。


気の合わない人にも笑顔を向ける。一日伸ばしになっていた嫌なことを、気合いを込めてやり遂げる。今日一日だけだから必ずできます。

来る日も来る日も、今日一日だけの頑張りです。明日になっても『今日一日だけ』の辛抱です。これを続ければ、『中途半端病』から脱出できます
今日一日だけでいいのです。やれますよね。頑張れますよね」。


▼「アメリカ英語で大学2年生のことを『Sophomore』と言います。これはギリシャ語の『sophos(賢い)』と『 moros(愚か)』の合成語です。大学で学んでいるのだから『賢い』と思い込んでいる『愚か者』を意味しています。

大学を出たのだから、教養も知識もあると思っている人。とんでもない! 大事なのは本物の教養です。

教養とは、
大局的に物事を判断し、
倫理的に行動する、
心の姿勢と実践力のこと
」。


▼「暗い気分の朝でも、歌をうたうとその声で元気が出てきます。感謝の祈りを口にすると、気分が明るくなります。歌や感謝の声は一日を美しい色に染め上げてくれるのです。

ここに、いい一日が始まります。いい一日が終わります。

川上先生より.jpg一日を感謝の祈りではじめ、
一日を感謝の祈りで終える。
これが、よい一日です。
よい一年です。
よい一生です」。


私も今からまた新たなる気持ちでスタートだ。
014932s_mini.jpg目と顔と心を輝かせたい。
川上先生、ありがとう!!!


posted by 優子 at 12:43| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

「ナバホ通信員との和解と『私の戦後の決着』」(『種を蒔く』3号掲載)の著者 川上与志夫先生 伊勢志摩サミット外国語案内ボランティアに!

『種を蒔く』3号に掲載されている「ナバホ通信員との和解と『私の戦後の決着』」を多くの皆さまにもお読みいただきたく、著者のお許しを得て転載させていただいた。

著者・川上与志夫氏は日本クリスチャン・ペンクラブ副理事長、牧師。何よりも私の大学の恩師でネイティブ・スピーカーのごとき英語を話される英文科の教授だった。私は日本文学専攻であるが、1回生の時に一般教養で宗教論を受講した。

先生から原稿を送られてきて読ませていただいた瞬間、非常に感動し、是非ブログにも掲載させていただこうと思った。

ナバホ通信員との和解と「私の戦後の決着」    
                     川上与志夫
                            
今年は戦後70年。いつまで戦後はつづくのか・・・。私にはアメリカに関して一つのわだかまりがありました。それは戦後3年目に亡くなった父の心を気遣ってのことです。

2007年の10月、ハワイでアメリカ・インディアンの盛大な祭典があり、その祭りに3人のナバホ族暗号通信員が参加してきました。

太平洋戦争の末期、アメリカ軍は通信員としてアリゾナ州のナバホ族を起用。有能な若者に英語を特訓し、ナバホ語での暗号通信に携わらせたのです。

それは彼らにとって、アメリカ人として認められるよいチャンスであると同時に、不本意な軍隊協力でした。自分たちの土地を奪い、自分たちを辺鄙な保留地に追いやったのがアメリカ合衆国です。そんな国の軍隊のためになど尽くしたくありません。しかし軍隊の命令は絶対です。服従せざるを得ませんでした。
 
特訓を受けた通信員は硫黄島や沖縄戦で活躍し、日本軍や民間人をさんざん苦しめたのです。戦地での彼らには白人将校の護衛がつきました。

将校の役目は二つです。一つは通信員を守ることであり、もう一つは通信員が日本軍の捕虜になりかけると、彼を射殺することでした。味方を殺す? それはナバホ語の暗号を守るための、非情で苦肉な策でした。
 
戦場で通信員は日本人の死体を目にしました。するとどうでしょう。その体型も顔かたちも自分たちと同じではありませんか。同じモンゴロイドなのです。同じように国土を踏みにじられ、仲間を殺された弱者同士です。通信員の心に、日本人に対して申し訳ない想いがつのったのです。こんな闘いはしたくない。けれど、しないわけにいかない!
 
生き残りの通信員が3人、日本人との和解を申し出ました。ハワイの真珠湾では、日本軍が結果的に「卑怯な」奇襲攻撃を行って、戦艦アリゾナを含む多くの艦船と兵員を葬りました。

日本もアメリカもいろいろな点で、相手国に対して負い目があるのです。その和解の儀式に、3人の日本人が招かれました。1人は特攻の生き残り、1人は戦地からの復員兵、3人目が私です。私が招かれたのは、戦中・戦後の厳しい生活の体験者であり、アメリカ・インディアンの研究家であったからです。
 
ハワイのホテルの一室で、双方から3人ずつが顔を合わせました。仲介してくれたのはハワイ先住民の方々でした。それぞれに過去を語り、愛と寛容の包容力で憎悪を断ち切る誓いをしました。

アロハのアロは「額」、ハは「呼気(吐き出す空気)」であることを教えられ、二人ずつ抱き合って額をつけ、息を交わしたのでした。相互の肩に手をかけ、額をつけて息を吐く。それは敵だった相手を温かく包み込む感動的瞬間でした。
 
最後に、誓約書・「和解の誓」に6人が署名し、それを交換しました。その後、楽しい雑談がつづきました。やがて抱擁を重ね、両手で握手をかわし、笑顔で別れたのでした。
 
空襲で父の建てた家と工場は焼かれ、財産を没収され、母と私たち九人の子どもは苦しい戦後を送りました。父の悲嘆はどれほどだったでしょう。私たち子どもには、その怨念は何とか解消できます。しかし父は戦後に体調をくずし、ろくに薬もなく、3年後に衰弱して死去しました。

多くの子どもを残して逝く、やりきれなかったであろう父の心・・・。その心にどう向き合ったらよいのか、私は長い間煩悶していたのでした。
 
ハワイから帰る飛行機の中で、私の心は安らいでいました。しわの深い、老いたナバホ通信員たちの優しい顔が浮かびます。家に戻ると、私は居間に飾られた父の写真に和解の儀式を報告しました。

赦しこそこの世でもっとも美しいことです。額の中の父は穏やかな笑顔でそれに応えてくれました。父と私の戦後は、ここに決着したのでした。
(ナバホ族に関しては「ウィンド・トーカーズ」という映画がDVDで借りられます)

素晴らしいお証しに深い感銘を受けた。

ここで川上先生について只今進行中の素敵なエピソードをお分かちしたい。お人柄や生き方を感じていただけると思う。
それは2月20日のクリスチャン・ペンクラブの例会でもお伝えしたことであるが、5月26日・27日に開催される伊勢志摩サミットで外国語案内ボランティアされるのだ。

川上先生.jpg驚くべきはここからだ。
通訳の募集は20〜30代なのに81歳にして応募されたこと。このユニークさに私は深く感激した! 何て素敵なんだろう。
勿論合格通知が届いた。年齢で却下しなかった主宰側の姿勢も素晴らしい。通訳ボランティアには2回の語学研修と「おもてなし」の研修があるという。

しかも2月半ばにテレビ局が御自宅を訪ね1日密着取材されるとお聞きした時、電話口ではしゃいでしまった。既に放映済み。「それらの情報を流してくださいね」と今日の電話でお願いした。


ご自宅はサミットが開催される会場から10分ほどの所だという。大きなお宅で外国の方の来訪も珍しくない。もう10年ほども前から「是非、遊びにいらっしゃい」と娘も一緒にお誘いを受けているのに、出不精の私は好機を逸している。

日本クリスチャン・ペンクラブに入会するには2名の推薦者が必要だったが、『百万人の福音』で副理事長・川上先生のお名前を見つけて即刻連絡を取り、推薦者お一人だけでも快く満江巌牧師理事長が歓迎してくださった。1987年の夏のことである。

こうして大学卒業13年後に主イエスを介して恩師と再会し、しかも私は日本文学専攻だったので英文学の先生とは疎遠だったにも関わらず、このように親しくお交わりしていただけるのは本当に幸せだと思う。

続いて次のページに「人には愛を、地には平和を、まず私から」を掲載させていただこう。

『心の生活習慣病を退治せよ!』より著者プロフィール

川上/与志夫
1960年国際基督教大学・教養学部卒。1963年アンダソン神学校(米国)卒。1991年より1年間、アイダホ大学客員研究員。教職:大阪女学院、神戸女学院を経て、帝塚山学院大学に奉職。現在、同大学・名誉教授。アメリカ先住民居留地に住み込み、伝統文化を踏査。羽根冠とインディアン名「リトル・クーガー」を授かる。元関西市民大学講座学長、日本クリスチャンペンクラブ、日本シュバイツァー友の会に所属。

ご著書多数だけではなく、いろんなところでご活躍されている。
明日の日本と進路 - 世界平和教授アカデミー

posted by 優子 at 21:57| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

賀川豊彦の生みの親 長尾巻牧師

昨日の記事にあった長尾巻(ながお・まき)牧師のことだが、私は詳しく知っているわけではなく三浦綾子が『天の梯子(はしご)』で書いているエピソードを知っているだけだ。

しかし、その1〜2ページの紙面に書かれていたことが私の生き方に大きな影響を与えたのである。ご紹介するにあたり本を開きたいのだが、近年購入した文庫版が見当たらない。次女に持たせたのかも知れないが覚えていない。そこでかつて書いていた家族新聞に記録されているのを頼りにご紹介したい。

家族新聞.jpg

これは長女が中学校1年生、次女が小学4年生の時に私が書いたものである。中央の写真は蒋介石で右下が長尾巻である。少々長くなるが『天の梯子』から引用したい。

「私は日本を愛し、中国をも愛している。この愛する二人の者に喧嘩させたくない。人の罪を負って十字架にかかったイエスの弟子の私は、国の罪をも負わねばならず、背負いきれない国の罪に、私の頭はうなだれる」。

この詩は全世界に伝えられ、当時の敵将蒋介石氏のごときは、「日本にドクターカガワがいる限り、私は日本を憎むことが出来ない」とまで言ったと伝えられている。

総統蒋介石氏はこう言ったと伝えられている。
「日本はひどい。日本は残虐だ。だが今日も賀川先生が熱涙をもってこの中国のために祈ってくれていることを思うと、日本を憎み切ることはできない」と。

そして敗戦。当時中国には、日本兵及び日本の民間人が200余万人もいたという。当然のことながら彼らは中国人の仕返しを非常に恐れた。

しかし、全員無事に帰国できた。
それは蒋介石が「日本人に危害を与え、その物質を掠める者は極刑に処す」と布告したからである。しかも日本が四分割に分断されなかったのも蒋介石の功績によるものであった。

「北海道及び東北はソ連に、四国・九州は中国に、その他はアメリカと英国に領有されるという案がソ連から出された。が、これに極力反対したのがこれまた蒋介石氏であった。蒋介石氏は、賀川豊彦牧師の熱い祈りを忘れることができなかったと言われている」。

そこで三浦綾子は「祈り」の大きさ、重さ、長尾巻の存在と生き方を次のように語るのだ。

「こう考えてくる時、私は改めて、一人の人の祈りの大きさを思う。
もし長尾巻牧師が5年間誰一人来ない教会において絶望していたとしたら、世界の賀川は生まれていなかったであろう」。


長尾巻.png5年間も誰も来ない教会で、祈り、讃美し説教し続けていた長尾巻牧師。その教会に若き賀川豊彦が入ってきたのである。
賀川豊彦が敬愛してやまなかった恩師長尾巻牧師

「何の報いられるところがなくても、神に信頼して祈っていたからこそ、賀川豊彦牧師が生まれた。
だがもし、賀川牧師が祈りの人でなかったならば、蒋介石氏の胸を激しく打つことはなかったであろう。すると、日本はあるいはばらばらに分断されて、世界の地図から消えていたかもしれない。

賀川牧師の絶えざる祈りが日本を救うのに、いかに大きくあずかっていたか。改めて私は、一人の人間の祈りの偉大さを思わずにはいられない」。


そして、三浦綾子は読者に訴えるのだ。

「私たちはともすれば、自分一人ぐらい、どう生きてもかまわないと、思いがちなものである。だが、長尾牧師を思い、賀川牧師を思う時、私たちのその思いは正される。

一人の生き方は大事なものだ。その生き方を支える祈りは、大切なものだ。誰が知らなくてもいい。私たちは人間として祈るべきことを、真実こめて祈って生きていきたい。

自分の魂のため、家族の生き方のため、隣人の幸福のため、韓国のため、北朝鮮のため、台湾のため、東南アジヤのため、ヨーロッパのため、オーストラリヤのため、すべての人々のために、愛と謙遜をもって祈っていきたい。

世界の一人一人が、そうした祈りを持つ時、自分も変わり、世界も変わるのではないだろうか」。


私は30代半ばに洗礼を受け、その後まもなくこの書を読んで心を大きく揺さぶられた。自分史にも記録すべき新たなる段階となった出来事である。

中学1年生だった知子は秋の文化祭で、「平和」をテーマにした夏休みの自由研究を展示し、この新聞も掲示した。私が展示物を見学した時、社会科の先生が熱心に読んでくださっていたことも忘れられない。

私もまた、このことをこそ戦後70年を期して発行した『種を蒔く』3号に書くべきだった。思い出すこともしなかったことが情けなく悔やまれる。

▼賀川豊彦は「インドのガンジーと並ぶ『東洋の聖者』として、生前は欧米で最も知名度の高い日本人だった」。

▼「後に彼が世界の賀川豊彦になった時、アメリカで出版された人物伝のタイトルは『勝利者賀川』(コンクェラー・カガワ:" conqueror Kagawa " )であった」こと。

▼ワシントン大聖堂には日本人として、新島襄とともに彫像が掲げられており、1947、48年には、ノーベル文学賞の候補に選ばれていたこと。そして、1954〜56年に3回、平和賞の候補だったことも公式資料で確認されていること。


そして、賀川への批判についてクリスチャン・ペンクラブで学び深く頷かされたことがある。

▼「スラム街の人々への偏見や思い上がりがあったと、賀川の全てを否定する人もいるが、その時代が握っている知識のレベルであり、それをもって全てを否定するのはやり過ぎである。

また、賀川は早い時期に全国非戦同盟を組織して日本の軍国主義に「ノー」と言っていたが、特高や憲兵にたびたび検挙される中で、いつしか大東亜共栄圏構想に賛同して愛国キリスト教を唱え、日本の軍部が行っている中国や朝鮮での残虐行為を黙認したなどの問題はあった。

しかし、戦時中、ホーリネス教団を除いて日本のクリスチャンは神社参拝に「ノー」を言わなかった。あれは習俗であって宗教ではないから頭を下げていいとしたのである。賀川一人にその責任を負わせることはできない」。


変わりゆく日本、教会もまた試みにある時代に在って、賀川が創設した「イエス団」や、主宰していた「イエスの友会」と長年関わりの深いN兄に、これまでの歩みを書き残してほしいと先週の電話で話したところである。

最後に驚くことなかれ!
私たち家族が所属する馬見労祷教会もまた賀川豊彦とのかかわりが合って産み出された教会であることをお分かちしたい。

馬見村の青年たちが大和高田の教会の伝道集会で賀川豊彦の説教を聴き、賀川から洗礼を受けた。その後、農繁期のみの託児所を開設し、賀川の理念に基づいた宗教教育を実施。それが現在の馬見労祷保育園となる。

そして、1935年に園舎兼教会堂が建築されたその土地は、賀川が出版した書物の印税などの献金によって購入したものである。


長尾巻牧師が友の通う教会の創立牧師であったとは非常に感慨深く、Mさんが長尾牧師のことを貴教会のホームページに掲載してくださるのを楽しみにしている。

posted by 優子 at 12:31| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

神の恵み ブログが取り持つ信仰の友

2008年の総務省調査によると、国内のブログ総数は1690万、このうち稼働しているブログは308万で、今はブログよりも「SNS」の方が隆盛になっているという。

ウィキペディアによれば、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(英: social networking service、SNS)とは、インターネット上の交流を通して社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築するサービスのこと」で、「人と人とのつながりを促進・サポートする、『コミュニティ型の会員制のサービス』」、スカイプやフェイスブック、ツイッター、ライン・・・のことである。

私はブログを書き始めてから11年目になるが、これからも鞍替えすることはない。ブログが性分に合い、何よりもブログという道具は私の要望を満たす。

これまでにブログが結ぶ不思議な出会いがあった。
娘たちの中学校の先生が『メメントドミニ』を読まれて連絡を取ってくださったこと。もうお1人は、ちょうど1年前に見ず知らずの方が連絡を取ってくださって知己を得たことだ。共に次女が滞在するアメリカ経由での出会いだった。


今改めて次女から転送された昨年のメールを調べると、Mさんが私に連絡を取ろうとして真智子のHPにメールしてくださったのが2015年2月23日で、真智子が返信したのは3月17日だった。その出会いの不思議を過去ログ2015年4月9日に記している。

まず何よりもその女性との出会いが不思議だった!
その方は『メメントドミニ』を愛読してくださっていたクリスチャン女性で、私のブログにコメント欄がないからと「お気に入りリンク」にあるミネソタ大学大学院在籍時代の真智子のHPにメールしてくださった。

ところが次女はIMF(ワシントン)に移ってからめったにそのHPをチェックしないものだから、メールを発見したのは1ヶ月ほど経ってからのこと。次女はすぐにその方のメールを転送してくれ、私は嬉しくて早速メールを差し上げたのだが直ぐにお返事がなかった。

その時私が大怪我をした直後だったのでお心遣いくださり、返信しないでリンク先にある美濃紙業宛にお見舞い状を送ってくださったのである。
※2016年3月17日追記:斜体の部分は私の思い違いで、私のメールが届いていなかったのだ。
そこで「どうしても連絡を取りたかった私はメールがだめならせめてお見舞いを・・・と思って別のルートを探しただけだったのです。それほど、私は優子さんに惹かれるものがあったということなんでしょうね。」と教えてくださった。
いずれにしても本当に嬉しく感謝でいっぱいです。

というわけで、メールはアメリカ経由、詳しく言うならば、ミネソタ、ワシントン経由で私の所に届いたのである。どんなに感激したことか! 

その後、Mさんとの出会いは深まっていき、気がつけば互いに気持ちを分かち合える知己になっていた。
とても聡明で細やかな配慮に富む優しい方。お嬢さんがおられるシドニーへも思い立ったら数日後に出発される行動派。お料理まで気軽にやってのけられ、全てが私とは正反対の女性である。(^0^)

千里さんや文香さん(『生かされて』の著者)、また『希望の風』さんと重なるところ大である。新たに信仰の友を与えられて、他にもあの方この方と、たくさんの良き友を与えられていることを神さまに感謝している。

Mさんが所属されている日本基督教団・金沢元町教会は大きな教会だ。役員として教会のために労しておられる。金沢元町教会では「役員」とは呼ばず「長老」と呼ぶそうだ。
先日2016年度の主題聖句を教えていただいたが、今の私には涙が出るほど素晴らしい教会だと思った。

先日、Mさんがご自身のブログ・『イエスと共に』の3月6日の記事でとても嬉しいことを書いてくださっているので、ここに転載させていただきたい。

2016年 03月 06日
信仰の友
パソコン上で決まって訪れるブログがある。写真集「流れのほとり」 と 「メメント ド ミニ」。そして犬のブログ。だだちゃんとアスカとセナとエビスとかぼすちゃんMaruちゃん。ほとんど毎日おじゃましている。でも個人的に連絡を取り合うということはほとんどしない。遠くから見つめている。

でもひとり「メメント ド ミニ」http://yukochappy.seesaa.net/のFさんとはこんなにも親しく何でもお話できるかしら?というほど意気投合してよく連絡を取り合う。

彼女は最近では日本クリスチャン・ペンクラブ 関西ブロックで「証し文集 第3号 種を蒔く」の編集員として活躍した。この本が私が思っていたものよりもずっとすばらしいものだった。優秀な二人の娘さんも素敵なクリスチャンで、ご主人も最近洗礼を受けられた。

彼女のブログの幅は広く、深い。そのブログにはコメント欄を設けていないので、彼女にどうしてもお手紙を書きたくなって私はちょっと困った。でもなんとか連絡がとれた。それが2015年の3月ころだったと思う。まだ一年程というのが驚きだ。もう十年前からの友人だったような気がする。

彼女から教えられることは本当に多い。
最近一番ショックだったのは「長尾巻牧師」のことである。

長尾巻牧師は私の所属する金沢元町教会の初代と四代目牧師であるけれども、彼女から賀川豊彦と長尾巻の関係を教えられたのである。私はそこまで知らなかった。

彼女が遠藤周作の『沈黙』 について書いていたので「私の教会の創立にもキリシタン迫害が関係あります。長崎から送られたキリシタンを取り締まる奉行であった長尾八之門がキリシタンに惹かれてクリスチャンになったのです。その子の長尾巻が初代牧師です」とお知らせしたら、彼女はもうずっと前から長尾巻を知っていたのである。

それで今、私は長尾巻にとても関心がある。私の教会の創立牧師であるので、彼女よりは詳しくなりたい。先日は教会で「紙芝居 長尾巻」を読んだ。きょうはいろいろ資料を教えてもらって借りてきた。これをもう少しわかりやすくまとめて教会のホームページに掲載したいと思ってる。

このような信仰の友が与えられたことを本当に感謝している。信仰の友が私の信仰を強くしてくれるように感じている。

私もまた友のブログを読ませていただきながら信仰から信仰へと導かれてきた。Mさんからも既に多くのことを教えられ気づかされているので、このような友を紹介してくださった神さまの愛とご配慮に感謝している。

それにしても300万以上も存在するブログの中から生涯の友と出会えたのは偶然ではなく、その背後に神の摂理があると受け止めている。

1年前、『生かされて』の文香さんが、Mさんとのことを「ブログを通して神様が働いてくださっていることがはっきりわかります。」とメールしてくださったことも忘れられない。

そして思う。
昨年の今頃、特に怪我直後の1ヶ月間はチャッピーはどうしていたんだろう。あの時、肩の腱板断裂だけではなく左右の肋骨も強打していたので、寝起きするのも拷問のようで一日中強度の苦痛に耐えていたから。
これがちょうどその頃の写真だ。
これは2015年4月1日のチャッピー。
悲しそうなチャッピー.jpg
ごめんね、チャッピー
この7ヶ月後に死んでしまったチャッピー。
若い頃と違っていつも憂いを含んだ目をしていたね。ひとりぼっちでどんなに孤独だっただろうか・・・

posted by 優子 at 21:11| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

『リア王』は悲劇か  シェイクスピアが描く人間の実相 ―『種を蒔く』3号掲載文 最終E−

私にとって書くということは自己への探求以外の何物でもなく、この「『リア王』は悲劇か ―シェイクスピアが描く人間の実相−」もまた人間の真相を探りたく書いたものである。

これは2006年2月に『あしたづ』第8号(大阪商業大学・河内の郷土文化サークルセンター発行)に掲載されたものを、ごく一部削除して『種を蒔く』3号に掲載したものである。

というのは、3号に掲載していただいた文章の執筆中、何度も『リア王』のことが脳裏に浮上し、私に大きな影響を与えた作品であったことを認識させられて、『種を蒔く』の読者の方々にもご紹介したいとの思いから掲載していただくことにした。

既にこのブログ上にも何回かに分けて2006年3月2日〜8日に公開したものであるが、再度このページで一気に掲載させていただくことにした。

      『リア王』は悲劇か
            シェイクスピアが描く人間の実相
                           藤本 優子
          1 はじめに

日野原重明は著書の中で、「死というものを勉強する場合には、文学がすごく役に立つ。殊にシェイクスピアは、人間の死に対する恐れとか、死との対決とかを、見事に描き切っている。」と書いている。

2000年の夏に父をも天に送った私は、改めて「生きるということ」と「死ぬということ」についてじっくり考えてみたいと思い、翌年6月に「東大阪読書友の会」で『リア王』を取り挙げていただいた。
 
ところで、この作品はシェイクスピアの有名な四大悲劇の中でも彼の最高の姿と言われているが、自分の愚かさが招いたことであるから私には悲劇だとは思えなかった。

当時大学院生だった次女が帰省した折に、久しぶりに文学や人生について語り合った時、それについて意見を聴いてみた。すると間髪いれずに「いやあ、これほどの悲劇はないよ。」と言い放ったから驚いた。そして、次のようなことを言った。

「リア王は、耳障りのいいことを言う人を優遇するという愚かなことをしてしまったけれど、ある日、自分がそのような愚かなことをしたと気がついた。しかも、それによって生じた辛く情けない状況の中でね。この逆境が自分に全く責任のないことから生じているなら、どれだけ気が楽だろう。でも、自分の愚かさから生じたことであるから悔やんでも悔やみきれない」。

だから悲劇だと言うのだ。
「なるほど」と、私は考え込んでしまった。私の視点とは全く反対であり、にわかに探究心は旺盛になって取り掛かった次第である。

          2 『リア王』の梗概と主題

『リア王』はあまりにも有名な作品であるから簡単な概要にとどめたい。権勢をほしいままにする老王リアが、言葉によって三人の娘たちの愛情を試し、その結果に基づいて王国を分割したことから物語は始まる。

リアは末娘コーディリアの真心を信じられず、偽善も明白な長女ゴネリルと次女リーガンの歯の浮くような賛辞を信じて、領土と王権を二分する。その後、ゴネリルとリーガンはリアを虐待し追放してしまう。

リアは計り知れぬ苦難を受け、狂乱の姿で世を呪い、嵐の荒野を彷徨う。最後にリアとコーディリアは再会するが、コーディリアは殺されリアも死を迎えるという悲惨な結末で終わる。

この作品は、リア王とコーディリア、ゴネリル、リーガンを中心とする主軸に、グロスター伯爵と嫡子エドガー、庶子エドマンドをめぐる副筋を実に巧みに絡み合わせて人間模様を織り成している。

リアとグロスターは、信じている子に裏切られたと思いこみ、コーディリアとエドガーは愛していた父に裏切られるという筋書きである。愚かな二人の老人は共に不実な子に欺かれ、愛情深い子を勘当するのである。

主題は、親子の愛情と信頼に関わるもので、特に父と子の問題と年を取った父親の愚かさである。もう一点は権力と金(豊かさ)の問題であり、それらをもぎ取られてどん底に落ちて全く裸になった時、人間はどうなるのかということである。

「千万の心を持つシェイクスピア」とコールリッジが言ったとおり、シェイクスピアはこの作品においても「親と子、老人と若者、夫と妻、主人と家臣、権力者と下積みにある者など、さまざまな人間関係を俎上に乗せ、この世の権威と人間の真実に揺さぶりをかけ問いかけている」。

          3 私のシェイクスピア概観

本論に入る前に印象的に感じたことを述べておきたい。
まず一点は、冒頭から第一場面の終わりまでの展開が非常に速いということである。しかも、コーディリアが最も優しい娘であるということをよく知っているリアが、言葉の愛情テストごときもので判断してコーディリアを勘当し、あっという間に国土を他の二人に分け与えてしまう。

「そんな馬鹿な、どうして?」と笑ってしまうほど私には信じがたいことであり、リアリズム的視点からは理解できないことだと思った。
コールリッジもこのことを「全くの荒唐無稽」と呼び、多くの読者にも躓きの石となっているらしいが、ヤン・コットは、次のように述べている。

『リア王』の導入部は、心理的なまことらしさを求める人からすれば馬鹿げて見えるだろうが、シェイクスピアの劇は殆ど例外なく単刀直入に劇全体の基調を定めてしまうということである。

思うに、シェイクスピアはリア(人間)の受苦や善と悪の闘いをこそ書きたかったのではないだろうか。

もう一点は、敬虔なクリスチャンであったと伝えられているシェイクスピアが、何故この舞台を「神」ではなく、「神々」という異教の世界に設定したのかということである。

この疑問に対して、青山誠子が『シェイクスピアにおける悲劇と変容』で次のように答えてくれている。

「神」(God)の名を舞台で用いることを禁じる法令が1605年5月に発せられて以後、劇作家や俳優たちは、異教の神々(gods)を代用することで急場をしのいだが、『リア王』の執筆は、この法令以前、1504〜5年の冬(または1505〜6年の冬)と推定される。

しかも『リア王』以降の劇は、『マクベス』を除いて全てが異教の世界に展開しているという。これについては、シェイクスピアの心に、異教の世界を選択する必然的志向が存在していたと推定せざるを得ない。と述べている。この点について終章で触れることになろう。

          4 リアとグロスター

リアには絶対者としての誇りと傲慢さがあり、そこから生まれた一切の反抗を瞬時も許さぬ性急さである。シェイクスピア悲劇の殆どが、「性格は運命である」という言葉に要約されているとおり、これがリアの致命的欠陥であり、そのために「親子の愛」という情のみならず、間違った国譲りの愚行を犯し、今まで守られてきた「秩序」も乱してしまう。

長女ゴネリルの忘恩だけではなく、その夫オールバニー公や執事オズワルドまでがリアに対して不遜な態度をとり、リアはゴネリルを呪う。
  
聞け! 自然よ! 聞け! 愛する女神よ!
聞き給え!
  この雌を孕ませるつもりがあるなら、
  こいつを石女にしてくれ!
  こいつの腐った肉体からは、親の誉れとなるような子は生まれさせてくれるな!
どうしても産ませるというなら、悪意の塊のような子を授けてやって、それが長じて自然の情を知らぬ天邪鬼となり、この女の拷問の責め苦となるように!
                 (1幕4場)
 

次に次女リーガンを頼っていくが、リーガンはゴネリル以上に冷酷だった。そして、荒れ狂う嵐の中、リアは荒野をさまよい歩きながら二人の娘を呪う。

二度と会うまい。お互い二度と顔は合わすまい。
とはいえ、お前はわが肉、わが血、わが娘だ、
いや、わしの肉に宿った病毒だ、・・・・・・
泣くものか、自然の情けを知らぬ鬼婆ども、
二人とも必ず復讐してやるぞ、・・・・・
                 (2幕4場)


リアは傲慢であったが、ここまで言わしめる娘を持ったリアは悲劇であり、ゴネリルとリーガンからダンテの『神曲』にある「地獄篇」を想起させた。
  
心に苦がなければ、体は苦痛に敏感だ。わしの心のこの嵐は五感を鈍らせ、何も感じさせない。脈打つもののほかは。
                 (3幕4場)


リアの苦悩はいかばかりであったことだろう。
「人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心が痛むときは、だれがそれに耐えようか。」と聖書にあるように、リアもまた肉体の苦痛よりも精神の苦悩のほうがはるかに大きいことに気がついた。

そして、他人の罪を責めるだけではなく、貧しい者たちへの憐れみに目覚め、狂気を通して据傲の罪を洗い清めていくかのようである。

ああ、今までわしはこのことに気づかなかった!
奢れる者よ、これを薬にするがいい、
  身を曝して惨めな者が感じていることを感じるがいい、
  余計な物を振り落として彼らに与え、
  天道いまだ地に堕ちていないことを示すがいい。
                 (3幕4場)


一方、グロスターの庶子エドマンドは、グロスターの嫡子であり兄であるエドガーに取って代わろうと企み、エドガーが父を殺そうとしていると嘘をつく。

信じやすさと迷信深さが欠点であるグロスターは、信じている子に裏切られたと思い込み、彼もまた計り知れぬ苦しみを通らなければならないことになる。

エドマンドは、グロスターがリアを助けようとしていることをリーガンの夫コーンウォールに告げたことにより、グロスターはコーンウォールに両目をえぐりとられる。グロスターは両眼を失った後にようやく真相に気づき、「正邪の別を、仮相と実体の別を見分ける視力を持ち」、「感じるように見る」ことを学んだ。

目が見えたときには躓いたものだ。
今はよく物が見える、
  物を持っていれば安心して油断するが、無一物になれば、かえってそれが財産になる。
ああ! 可愛い倅エドガー、
  お前は欺かれた父の怒りの餌食だった、
  命ながらえお前に触れて見ることさえできたなら、わしは両の眼を取り戻した、と言おう。
                 (4幕1場)


肉体の痛ましい再発見である。グロスターはエドガーを捨てた自分の愚かさを嘆き、不幸な者への同情も知り人生への認識を深めていく。この箇所は何度読んでも目頭が熱くなり深く感動的である。

その後、グロスターの自己認識はリアのように深まることもなく、個人的段階に留まったままであるが、かつてのグロスターよりもより善いより賢い人間として死んでいく。

一人は据傲から、一人は「信じやすさ」から同じ愚を犯した二人の父親。そのためにリアは狂気、グロスターは目を失うという代償を払わねばならなかった。

シェイクスピアは肉体の盲目と精神の盲目を示し、心の盲目は肉体のそれよりもはるかに怖いものであり、全ては心の眼が見えなかったためであると訴えているかのようである。

リアはグロスターの死を契機に、子に背かれた忘恩の苦しみからもっと高い次元の深い苦しみへと飛躍する。ここにリアの「目覚め」の兆しを見ることができる。即ち、人間本来の生きる意味と目的に方向が示されていき、読み手である私もいつしかリアと一体になって考えさせられていた。

          5 シェイクスピアの意味する「忍耐」

エドガーは「みじめなトム」に変装して裸体に近い姿でリアと苦しみを共にし、いかなる苦境に在っても絶望せず、耐え抜くことを知っている。
 
「苦しみも連れがあれば耐えられる」。(3幕6場)
「不運のどん底に落ちれば浮かび上がるだけ」。(4幕1場)
「これが最悪だと言っているうちは、どん底ではない」。(4幕1場)
「時の塾すのが何より」(5幕2場)


エドガーは悪のはびこる中で人間の善を信じて耐えていこうとする。「時の塾すのが何より」とは、希望をもって待つということであり、岩波文庫の脚注同様に聖書のことばを想わずにはいられない。
   
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、・・・・
神のなされることは皆その時にかなって美しい。


さて、「万事、機が熟するのを待つのが肝心だ」の英文は
“Readiness is all” であるが、原文では”ripeness”だという。この言葉は「円熟すること、熟すこと、発展させること」という意味であり、私はここにシェイクスピアの意図を明確に読み取るのである。ヤン・コットも次のように述べている。

このシェイクスピア的な翻訳不能の《成熟》という言葉は、文字通り成熟することであると同時に、あらためて身を委ねることをも意味する。人は成長して死に達しなければならないのだ。それがすべてなのだ。

即ち、シェイクスピア(エドガー)の言う忍耐はただ我慢するのではない。神に全てを委ねて、神のみこころに叶うことが成就されるのを信じて待つという、信仰による希望の忍耐である。

このことはまた、全てのことに時があるように、私達に与えられている持ち時間には限りがあり、人は自らの死に向かって成熟しなければならないという意味でもある。

コーディリアの死を通して気づかされたことは、「悪」は厳然として存在し、一旦「秩序」が破られて解き放たれた「悪」の力はドミノ倒しのように行く所まで行くということである。

この嵐が止んだ時、リーガンはゴネリルに毒殺されゴネリルも自殺して果て、悪も滅んだが痛ましい善良な犠牲者も出た。

しかし、「悪」の増大と共に「善」もまた動き出していた。明日への希望は、嵐の中でリアの認識に至る姿と最期を見た人たちが生き残っていることである。

エドガーはリアの死を見てもまだ希望を捨てず、この劇の結びをエドガーに語らせていることからも、作者が彼に国家の回復を託していることが読み取れる。リアの苦悩は無駄ではなかった。

          6 コーディリアとリアの死

コーディリアと再会した牢獄でのリアは、謙遜な人間に変えられていた。最愛の娘との和解を達成され、正気に戻り、尚且つ、この世の地位も権力も金も一切は空しいものであると眼が開かれた。この世的なものに価値をおかず、赦しと祈りの生活こそが至福であると気がついた。

さあ、牢獄に行こう。
  お前と二人だけで、籠の中の鳥のように歌をうたおう。
  わしの祝福が欲しいというなら、わしはお前のまえに膝をついて許しを乞おう。
  そんなふうにして生き、祈り、歌い、たわいない昔話などして、
                 (5幕3場)


これがコーディリアと和解して辿りついたリアの最終的な境地であった。二人が到達した魂の気高さ。もはや、この二人の静謐を壊すことはできない。

からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。(聖書)

シェイクスピアは、人間の魂(精神)は如何なる時も如何なることからも自由で束縛されないのだという人間の素晴しさをも訴えている。
そして、苦悩や悲惨な出来事を越えるすべは、内面世界(魂・精神)の成熟にこそあり、そのことこそが最高善であり至高であることを私は改めて心に刻みたい。

リアはハムレットのように「雀が一羽落ちるのにも特別の摂理が働いている」という強い信仰ではなく、揺れ動き、時には神を見失いもして、再び神(摂理)への信仰を回復するのである。

しかし、懐疑や苦悶はあっても神への反抗はなく、ただ「機を熟するのを待つ」忍耐であった。このことはまた、人間シェイクスピアの信仰生涯でもあったのであろう。

コーディリアの亡き骸を抱きながら語ったリアの臨終の言葉、特に最初の4行は実に悲痛である。

そして可愛いやつがしめ殺された。
もう、もう、命がない。
犬が、馬が、鼠が生きているというのに、
  なぜ、お前には息がないのだ?
お前はもう戻って来ない。
  絶対に、絶対に、絶対に、もう絶対に!
  頼む、このボタンをはずしてくれ。ありがとう。
  これがあんたに見えるか?
娘の顔を見ろ、この唇を、
  ほら、ほら!(息絶える)


また最後の2行については、これ以上付け加えることがないほど過去の批評史において様々に論じられてきたという。

即ち、リアはコーディリアの唇が動いたように感じて、蘇生を確信した歓喜の表現と見るのか、あるいは絶望の表現と見るのかである。ここは、それほどまでに難問であり、多くの学者に注目されてきたという。

しかしながら、人生を神の摂理によって支配されているものと受け止めているシェイクスピアは、リアが悶死したと読まれては無念であろう。これは苦痛の極限における人間の姿であり、リアはコーディリアの死を認めて、悲しみに耐えながら息を引き取ったと理解できる。

コーディリアの唇が動いたように感じた時、リア自らの死を迎えた瞬間であったことから、あえて解釈するならば、愛娘との再会を暗示しているのではないだろうか。

シェイクスピアはそれらを明示せず、「リアにしか見えないもの」とエドガーに語らせて、リアの中に閉じこめたまま劇を終らせている。リアがその生涯の死に際に見たものは何だったのであろうか。

リアの死は外面的には敗北のようにも見えるが、内面世界(魂)においては静謐が成就されての臨終であった。リアの死は苦難の終止符であり、全ての苦悩や悲しみからの解放であった。

多くの人々はリアの死を「万事窮す」と見るであろうが、一切の苦難を経て悔い改めに至らせてくださっての死は、「こと終われり」という神様の完了の宣言であったと、私は信仰によって受け止めている。

コーディリアの死後、最後までリアは神々の名を一言も呼ばせていないのは、シェイクスピアの意図的なものであろうと青山誠子は述べている。少し長くなるが興味深いところなので引用したい。

シェイクスピアは神の摂理を否定し、人間の世界を支配するのは盲目的な運命であると考えているのであろうか。いや、そうではなかろう。なぜならこの作品で、秩序に抵抗し無神論をいだくのは、悪のグループの人たちに限られているからである。

シェイクスピアはこの劇の中で、神々は人間の祈りに応じたまうとは限らず、摂理は人間によっては計り知れぬものだということを言いたいのであろうか。摂理へのゆるがぬ信仰に裏打ちされた『ハムレット』の世界から『リア王』のこのような世界に至るシェイクスピアの悲劇、さらに異教の神々のしろしめすロマンス劇の世界への軌跡は、一面、神と人間との関係の探求の道と見られるのではなかろうか。


このことが、〔3〕で触れた青山の「異教の世界を選択する必然的志向が存在していた」という理由なのである。
この作品は異教の世界を舞台にしているが、精神は深くキリスト教的である。即ち、悲劇は迷信やたたりなどの原因によって起こるのではなく、人間の起こしたものであることを深く認識している。

そして、全てが神(天)の眼にさらされており、心の「目覚め」は自らの苦悩や深い悲しみを経て、初めて達成されるものであると強く訴えている。

          7 『リア王』は悲劇か否か

冒頭で述べたように、私にとって悲劇とは自分には責任のないことによる苦難を意味していた。従って、父リア王に対して真実を守り、真実ゆえに勘当され、父と再会するが殺されてしまうコーディリアの生涯こそ悲劇であったが、リアに対しては同情し哀れみを感じても悲劇だと考えられなかった。

しかし再び読み終えて思うに、確かに自分に責任のない苦難や悲惨な出来事も悲劇であろうが、リアやグロスターのように自分の愚行によるものもまた悲劇であると考えるようになった。

なぜならば、この愚かさはリアの愚かさに留まらず、人間の本質を示す愚かさであり我々自身の姿であるからだ。故に『リア王』は悲劇でないどころか、普遍的経験について書かれてあり、人生は悲劇の連続であるとさえ言えよう。

私は次女にシャッポを脱がざるを得ない。それどころかリア王の愚行に対して「そんな馬鹿な」と思っていた私は、未だ自分の姿がよく見えていなかった。

リアの愚かさは笑うに笑えない自分の愚かさであり、お互いの姿だったのだ。私は「無知の無知」であり、まさに「無知の知」、「汝自身を知れ」である。

ついでながら、かのトルストイは『リア王』を「抗しがたい嫌悪感と退屈」と批評した。彼は、シェイクスピアの最も厳しい批評家として知られており、300枚を越える大論文『シェイクスピア論および演劇論』では、全作品を否定しているという。

これでは「人生の師」と仰がれ、私が抱いていたトルストイの人物像と真っ向から対立し、新たな興味も湧いてくるというものである。

          8 終わりに

英語圏の国の家庭には、聖書と共に必ずシェイクスピア全集があると言われている。この作品と取り組むにあたり訪ねた大阪府立中央図書館にも430冊余りの文献があったのには驚いた。

シェイクスピアは私が今まで研鑽を積んできた作家でもなく、専業主婦の傍ら思い立って3ヶ月余りで書き上げようと取り組んだものであるから十分なことはできない。

そこで、『リア王』に関する作品論と、シェイクスピアの信仰という観点で作家論に絞った。もとより英文学の素養もない私は、シェイクスピアの必読書と言われる古典的名著も全く知らないまま、ただ書名から盲目的に10冊を借り出しての取り組みであった。

検索中に聖書の『ヨブ記』との関連で書かれた作品論が目に留まり、大変興味深く感じたが別の機会に譲ることにした。

確かにリアは、ヨブのように大切なものを次々と失っていき苦難の中を通らされていくが、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっ」て生きている善良なヨブとは違う。

また、最後にコーディリアの死という苛酷な悲しみまで通らせてはいても、シェイクスピアには悪人が栄え、善人は悲惨であるという苦悩はない。

勿論、勧善懲悪で事足りる世の中ではないという認識に立っていることは言うまでもないが、コーディリアに焦点を当てて『ヨブ記』との関連で論じるのも興味深い。

シェイクスピアは当初、この悲劇の題名を『コーディリア』にしようと考えていたと知った時、私は自らの姿に気づかなかったとは言え、一方で「リア王は悲劇か」という当初の疑問も案外的外れではなかったと思った。
なぜならばコーディリアこそが悲劇であったからだ。そして、私の読み方も作者を失望させてはいないだろう。

「千万の心を持つシェイクスピア」と言われているように、シェイクスピアの物の見方や人間観は単純明解ではなく、特に人間性の複雑さへの認識は深い。人間は実に複雑で不可解な存在だ。

シェイクスピアが直視する人間の中に在る「悪」と、それがもたらす破壊、その跡に残る無垢な者が受ける苦難と悲惨な光景は今も変わらぬ世界の姿である。

私たちは人生の途上において、それぞれの嵐を越えて行かねばならないが、嵐は祝福への序曲である。しかし、苦難が人を謙虚にし成熟させるのではない。苦難と闘いながらも、かえって心を歪め頑なにする人も少なくないと思うからだ。

気高い魂を得て召されたリア。大切なことは、その苦難をどのように越えていき、認識を深めていくことができるかどうかである。認識の深化によって現実を見る眼が変わり内面が変えられていく。

私たちが手ごたえのある人生を送りたいと願うのであれば、苦痛を伴うものでしかありえないということも改めて銘記せねばなるまい。

願わくは、私もリアのように苦難を通して心の眼が開かれていき、苦難の極みにおいて歓喜と勝利を得る生涯でありたい。最期まで神の確かな望みを見失うことなく、自分自身の死に向かって成熟していくことができるように、神の導きを切に祈りつつ拙論を終えたい。

紙幅の関係で、この作品のキーワードでもある「無」、「仮狂」や「羊狂」とも言うべき「道化」(“clown”ではなく“fool”)、また、「逆説」について取り上げることができなかったことも記しておきたい。


【附記】
 当誌掲載の作品執筆中に何度も『リア王』を想起し、『リア王』から大きな影響を受けていたことに気づかされた。この評論は、2006年2月に『あしたづ』第8号(大阪商業大学・河内の郷土文化サークルセンター発行)掲載文に加筆改定したものである。        
           (2015・11・21)


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2016年03月13日

「新しい創造」 ―木ノ脇悦郎牧師 最後の代務説教−

先週の総会で牧師招聘が議決されて、2年間無牧(牧師不在)だった教会に4月から牧師が着任されることになり、木ノ脇悦郎牧師の説教は今朝の礼拝で最終となった。

木ノ脇師は昨年7月の第1主日礼拝から今日で10回。その間に『ガラテヤ書』を取り次いでくださり、今朝はガラテヤ人への手紙の最後6章11節〜18節を「新しい創造」と題して語られた。

「ガラテヤ書から礼拝メッセージを共にいただいて参りました」。と、以下はその聞き書きであるが、体調が不調のために聞きのがした不確かな一ヵ所は斜体で記した。

パウロがガラテヤ書の教会の信徒へ語ってきた事柄を端的に言うと、「あれか、これか」という決断を迫っていた。

人間を誇るのか、あるいは神を誇るのか。私たちの信仰の対象になるのは律法なのか福音なのかと「あれか、これか」を迫っていく。律法の業(わざ)が大切なのか、あるいは福音に対する信仰が大切なのか。霊的な生活をするのか、肉的な生きかたをするのかを迫っていた。

肉(生まれたまま)の生き方は「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽」であり、霊的な生き方は、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」である。

「あなた方はどちらの生き方を選びますか」と迫ってきた。自由か隷属かという迫り方もする。

パウロがこのように激しく迫ったというのは、ガラテヤの教会にそれだけの状況があった。それゆえに考え、決断しなければいけない状況があったと縷々(るる)述べてきた。

17節で、「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。」と言っている。

パウロは私たちの決断、意思の働きを重要なものとして迫っているが、最も重視しなければならないのは「神の恵み」であって、神の恵みの中にあって決断していく。

それらはこれまでは対立するものとして捉えられてきた。
アウグスティヌスとペラギウスの対立。アウグスティヌスは神の恩寵だけが問題だとし、神の恩寵の必要性を認めなかったペラギウスの考えを異端の考えとしてきた。

ルターとエラスムスの対立では、ルターは良い業よりも信仰だけが大事であり決断する意思など持っていないとし、エラスムスは神の決断は受け入れなければらないとしてカトリックとプロテスタントが分かれて行った。

神の恵みは同じだが、同時に人間の良い業も大切であり、恵みか決断かと対立的にとらえるものではない。神の恵みなしに私たちの決断などありえない

マタイによる福音書23章27節:
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである」。

人間の主観において自己顕示をする傾向があり、私たち人間はたびたびそのように陥ってしまう。キリストの苦難を背負っていくのを逃れるためにユダヤ的律法を語っている。

ガラテヤ人への手紙6章13節:
「事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである」。

肉について誇るとは、自分の業績を誇る根拠として割礼を自由な人に迫っていく。

「誇り」という言葉は殆どがパウロが語っており35回使っている。そのほかに見出せるのは2か所だけ。即ち、そのことを如何に大きな問題として語っていたか。

そのことによって自分の存在を誇る。業績を誇りとして依存して生きていこうとする。それらは外的な附属物であり、本来依存すべきは自分ではない。

南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の「南無」は命に帰る「帰命(きみょう)」ということで、全てを仏にお任せするということであり、私が自分に依存するのではない。

真言密教においては大日如来に依存し、キリスト教はキリストに頼っている。その他には何もない。

パウロもコリント人への第1の手紙1章(30・31節)で語っている。
「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」。

第2コリント10章7・8節: 
「あなたがたは、うわべの事だけを見ている。もしある人が、キリストに属する者だと自任しているなら、その人はもう一度よく反省すべきである。その人がキリストに属する者であるように、わたしたちもそうである。
たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい」。


10章17・18節:
「誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである」。

ガラテヤ人への手紙6章14節:
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」。

この世的な依存関係、自分の主観に依存することからキリストに依存するように。自己を中心とするこの世的な判断を断絶させてキリストに倣っていく。

ガラテヤ人への手紙6章15節:
「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」。

エペソ人への手紙2章14・15節:
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、」

パウロの真意はどこにあったのか。
福音書では受難の中でキリストが示されるが、パウロが自分の手で書かれたことからももう一度思い出してみることが大切だ。

大きな人間の争い。それは神さまについての争いのように見えるが、それは人間的な思いの違いによって出てきた争いであり、その中でパウロが熱く語ったことを聞きとり、新しく創造されて平和を作っていくことだ

こうしてガラテヤ書を締めくくられた。

「今私たち自身の事柄として喜びをもって新しく造られて参りますように。依存するのはただキリストのみ、神の恵みのみと決断して歩んで行きますように導いてください。和解を求める良き証人となりますように・・・」

毎月2週目の礼拝のあとに持たれている「交わりの会」には礼拝出席者全員が参加し、木ノ脇牧師に感謝の花束を贈呈した。

木ノ脇師は関西学院大学神学部学部長、福岡女学院院長、福岡女学院大学学長を務められてきた。代務者としても4回経験されたそうだが、「代務は月一回だったので、毎週説教は生まれて初めてなので鍛えられました」と仰った。

と言うのは大澤牧師が来てくださっている時は、大澤牧師が牧会される西大和教会が留守になるので木ノ脇牧師が説教されていたゆえに、2月3月は大変だった。感謝!

私は感謝の一言スピーチで次のようなことを言った。

「短い間でしたが、また一人敬愛できる牧師に出会わせてくださった神さまに感謝します。私の人生に影響を与えられた牧師です。
特に今朝のメッセージを深く受け止め、これから自らを探りながら、また神さまにも探られながら、短くなってきた残された時をより良く歩いて行きたいと思います」。


夫も信仰のことをしっかり話していた。
知子はユキのサッカーで欠席。先週は総会があったのでユキをギリギリまで説得してサッカーを休ませたため、サッカーの服装で教会へ来ていた。

1時間ほど和やかな交わりが続いた。皆さんが慕っておられ名残り惜しさを感じていたが、牧師就任式には来られるとのこと。

師は言われた。
「意見の食い違いや宗教観の違いがありますが、要は神さま、要はキリストであり、その基本のところを踏まえて教会形成していただきたいと思います」。

先週の役員会で、任期を1年残して申し出ていた私の役員辞任が承認された。


posted by 優子 at 23:04| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月12日

チャッピーのいない春の訪れ

電気を点したようなハクモクレン.jpg今も咲いているだろうか、土佐堀川沿いのハクモクレン。
もう20年も前のこと、肥後橋駅あたりに大きな花を咲かせるのハクモクレンの木を見つけて、母が亡くなる最後の数年間は春先になるといつも土佐堀川沿いを歩いた。
母の通院に付き添い、最後の1年3ヶ月入院した住友病院へ通っていた頃のことである。ハクモクレンの花が咲くと電気がついたみたいで幻想的でもある。
ハクモクレンは母の晩年を思い出させる花。
あのハクモクレンは今も咲いているだろうか。

先週末から季節外れの暖かい日が続いていたが、10日から真冬に逆戻りした。今朝は−1度まで落ち室温は10度。しかし、陽射しは明るく力強い春の光が射していた。

6日は教会の2015年度の第2回総会があり、そのあと役員会を終えて6時半ごろ帰宅した。その翌日、なおざりにはできないことが新たに生じて血圧が上昇してコントロールできなくなってしまった。

ようやく今日は高めの状態まで落ち着いてきたので体も楽になった。
1週間前に蕾だったおかめ桜は、家に閉じこもっている間に花の盛りをすぎ色あせて散り始めていた。

チャッピーを思い出す春の開幕@.jpg

ブルーとピンク、いや、水色と桃色の色彩は私の原風景の一つ。

チャッピーのいない春の始まりA.jpg

チャッピーのいない春の訪れ。
おかめ桜はチャッピーを思い出させる木。

チャッピーのいない春@.jpgユキも心なしかさみしそう。

チャッピーがいた時は楽しかったね。

2013.3.26.JPG





 → これは2013年3月26日のユキとチャッピー。ユキが幼稚園年長組に進級する春で、チャッピーはまもなく13歳。
元気なチャックンも13歳後半から老いの坂を下って行き、昨年11月24日に16歳半のいのちを閉じた。

ユキが作った「どこへでも行ける電車」.jpg先週半ばに持って帰ってきたユキの紙粘土で造った「はやぶさ」は、真ん中で2つに分かれ磁石で連結している。
この電車は「どこでも行ける電車」にすると言った。

花が散ってしまわないうちに明日も見に行こう。
チャッピーと見ていたおかめ桜を。
まもなくチャッピーのいない春が始まる。
2016年の春が始まる。


posted by 優子 at 21:14| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

未曽有の大震災から5年 −「慰めもて 変わらざる主の十字架は輝けり」―

被災地に立てられた十字架.jpgこれは2011年4月15日の『クリスチャン・トゥディ』に公開された、被災地・気仙沼に立てられた十字架である。

千年に一度と言われる未曽有の東日本大震災から5年。杜甫は「国破れて山河在り、城春にして草木深し」と詠ったが、津波は一切を根こそぎ奪っていき、福島には山河や町々は残るとも死の廃墟と化した。

大切な人を亡くし、生活の一切を奪われてしまった人々に、どのような言葉をもって慰めることができるだろうか。その悲しみや苦悩を抱えながらよくここまで頑張ってこられたものである。

このはかりしれない苦悩を前にしたあの時、2010年秋のチリ落盤事故で地下700メートルに閉じ込められたマリオ・セプルベダさんの言葉を思い出した。
「地下には神と悪魔がいた。私は神の手を握った」
彼が絶望への誘惑との闘いの中、常に神に目を向け続けたことを思い出して自らを励まし、被災された方々のために祈りを重ねた。

同年4月のクリスチャン・ペンクラブの例会で語られた仲間の言葉は今も鮮明に記憶している。

私達クリスチャンは元々滅びなければならない者が罪ゆるされて生かされているのだから、福音をのべ伝える使命がある。

これまで日本が世界中のクリスチャンにこんなに祈られたことはないだろう。物資の援助は勿論だが、教会は福音(Good News.喜びの声)を伝えなかったらダメだ。

被災地のことを伝えるテレビから讃美が聞こえてこない。
聖歌397番は関東大震災の時に作られた。(過去ログ・4月15日に掲載!)
その2節には「水は溢れ火は燃えて」とある。関東大震災では津波はなかったのに「水は溢れ」と作詞されている不思議さを思う。
  

水は溢れ火は燃えて 死は手を広げまつまにも
慰めもて変わらざる主の十字架は輝けり
 ※慰めもて汝(な)がために 慰めもて我がために
  揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

あの日、病院から帰宅して(重い気持ちで)国会中継を見ていたら地震になり、津波の映像を目にした。それを見ている間中ずっと涙が止まらなかった。

今、この状況の中で神さまを信じるとはどういうことかを聞かせて頂きたい。・・・僕はここを隠し持って生きれない気持ちだ。イエスの十字架と復活抜きでは何も関われないのではないか。

〇〇(聞き逃した)に、「張りぼての神は死んだ。この神を見よ、神を信じていないでここから始めよう。」というキャプションで書かれていたが、しかしクリスチャンはこの中にも神の御手が働いているんだと思う。

その頃、キリスト教界でクローズアップされた佐藤彰牧師については、著書・『「苦しみ」から生まれるもの』を1992年に購入して以来よく知っていた。

下記は「クリスチャンの地震被災情報」の第一報として挙げた2011年3月15日の記事、「ヒゼキヤ、緊急の祈り」より抜粋した佐藤彰牧師の祈りの要請である。
本日3月13日の礼拝はもちろん、立ち入り禁止のゴーストタウンなので、予定されていた洗礼式も婚約式もすべてがなくなりました。
果たして教会員の流浪の旅がいつまで続くのか、想像すると暗澹たる気持ちにもなりますが、大自然をおさめる全能の主が歴史の主として新たな宣教の1ページを導いてくださることを信じ、告白いたします。
        (略)
最後に実は先週の日曜日、まさかこのような事態となるとは思わず、「ヒゼキヤ、緊急の祈り」と題してメッセージをしました。

アッシリアに飲み込まれそうになる中、ヒゼキヤは荒布をまとい、祈り、預言者イザヤにも、国家存亡の危機に際し、緊急の祈りを要請しました。

すると、アッシリヤの王は自分の国に引き返し、ニネベの神殿で自分の息子の謀反に遭い、亡き者となり、気がつくと脅威が去っていたという不思議な歴史の顛末を目撃したことを確認し合いました。

そしてまさか、その週に私たちの群れが緊急の祈りを要請し、流浪の民のようにそれぞれの避難所にて日曜日の聖書の箇所をかみしめることになろうとは想像だにしませんでした。

繰り返しになりますが、どうか教会の活動がピリオドを打ち、宣教の働きがストップしてしまうことのないように、再びよみがえるように、放射能がとどめられるように、熱くお祈りを、緊急のお祈りを、祈りの結集をなにとぞよろしくお願いします。

2011年3月13日                   
               佐藤 彰

この「緊急の祈り」のあとに私は次のように記している。

「あのヒゼキヤもまた、時に不信仰になり、ためらいもし、恐れもした人物だった。
しかし、そのような者にも神は勝利を与えられたのである。私達も今こそ渾身の祈りを捧げよう。絶望しないで今こそ神に祈り続けよう。

ヒゼキヤの切なる祈りが神の摂理へと至らされたのか、あるいはまた祈りも神の摂理の中でのことなのか・・・、とにかく私達も苦境極まる今こそ摂理の参与に預かりたいものである。
共に神にのみ頼り、神のみまえに魂の底からの祈りを注ぎ出そう」。 


その後、佐藤牧師は神の摂理の内に、いわき市泉町滝尻泉町に新会堂、保守バプテスト連盟・福島第一聖書バプテスト教会を再建された。

大震災から5年後の今日、”Christian Today”には被災地で苦しみを通して生まれた恵みが報告されている。

「東京基督教大学国際宣教センター(FCC)日本宣教リサーチの調査によると、宮城地域では震災後、データを取った30の教会・宣教拠点だけでも、500人以上が受洗者、決心者、求道者として導かれたことが報告されている。神の愛を媒介にすることで、人と人がつながり、信頼が生まれていったのだ」。

あの頃のユキは毎日同じ祈りをしていた。「昨日」というのは実際の昨日ではなく、近い過去を表す幼子の表現である。

「イッシャマ(イエスさま)、昨日地震が起こりました。もう起きないようにしてください。火事になって家も倒れてみんな流れていきました。助けてください」と。

そして5年経った。
苦しみより生まれたものは何事が起ころうとも決して失うことはない。
苦しみ悲しむ方々に神の慰めがありますように。
この祈りはこれからも何十年にわたって祈りの課題から消えることはない。

附記:聖歌397番「とおきくにや」をどうぞお聞きください。

posted by 優子 at 21:40| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

チャールズ・スポルジョンの祈り

大木.jpg3月4日は最高気温20度のポカポカ陽気になり、翌日からは最低気温も高く4月中旬から下旬の暖かい日が続いた。
今朝も暖かい朝だったが、朝が最高気温で時間の経過と共に下がっていき、午後から暖房を入れる冷たい雨の1日になった。

この写真は近隣の家の庭に植えられた楠の木だ。私はよく立ち止まってこの大木を仰ぎ見る。4日朝、明るい陽射しに輝く木を見上げていると、スポルジョンの祈りが天から聞こえてくるようだった。

樫の木.jpg「キリストを、ことばに表せないほどの神の賜物として、たたえる神学を保ち続けなさい。
誰かが罪を軽いものにし、堕落を目減りさせ、来たるべき罰を軽んじ始めたなら、そのような人に、もはや説教させてはいけません。
      (略)
説教者が福音を徐々に矮小化し、イナゴのえさにもならないほど無価値なものに変えているなら、背を向けなさい。キリストこそ、すべてです。ことばに表せないほどの神の賜物です」。
         
               (チャールズ・スポルジョン『祈り』より)

「祈る言葉の一つひとつに、魂を凝縮させ、自らの激しい苦悶を心に覚えつつ祈る人」。

私たちの教会にもそのような祈りを捧げる人がおられるのは感謝なことだ。私たちが祈る方は全知全能なる神ゆえに御前に近づき、大きな心配事も小さなことも申し上げて平安を得る。

2月28日の「連祷」で私は次のような祈りを捧げた。思い出しながら文字に起こしておきたい。

「恵み深い主なる神さま、今朝の礼拝もまた木ノ脇牧師をお遣わしくださり養いになるお説教を賜ったことを感謝申し上げます。

私たちが与っている神さまへの信仰は、何と尊いことでしょうか。日本においても信教の自由になるまでに多くの先人たちの血が流されました。殉教してまでも信仰を守り抜かれた方々がたくさんおられました。

日本ではクリスチャンは1%にも満たない少数ですが、その中に私たちに白羽の矢を当ててキリストを信じる者に選び救い出してくださいましたことを感謝します。教会で神の家族と共に祈れる恵みを心から感謝します。

しかし主よ、私たちの教会は今、あなたのお導きを祈り求めています。
私たちは何事も唯々諾々として従うことが仕えることでも従順でもなく、神さまは私たちに主体性をもって選ぶことを願っておられます。

どうかあなたが私たち一人ひとりの内面を探ってくださり、私たちを信仰から信仰へとお導きください。

一粒の種として召してくださった私たちを、どうか福音の証人として多くの実を結ぶ者になれますように。そして、キリストを頭とする教会を主の御心に叶う教会へと導き成長させてくださいますように。

主の御名が崇められますように!
この渾身の祈りを私たちの救い主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げします。アーメン」。


冷たい雨に.jpg
恵みの雨

posted by 優子 at 18:00| 馬見労祷教会関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

記憶に残る戦後大阪の残像から ―『種を蒔く』3号掲載文 D−

         記憶に残る戦後大阪の残像から
                            藤本優子
終戦から6年後に生まれた私にも、不気味で怖い戦後の残像がある。あれは2〜3歳ぐらいだったと思うので、戦後10年頃の大阪にはまだ戦禍のあとが残っていた。

母方の祖父母の家へ行く時、大阪から天王寺に向かう省線(環状線)の車窓から、茶褐色の鉄骨だけになった建物の残骸が建っていて、とても怖い光景だった。それが砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の焼け跡であることを知ったのはずっとあとのことで、読書会で年配の方々の話で知った。

砲兵工廠は大阪城周辺、現在の大阪ビジネスパークからJR森ノ宮駅あたりにあったというから、あの焼け跡がそうだった。東洋一の規模を誇った大阪砲兵工廠は、1945年8月14日午後、約150機のB―29の集中爆撃で破壊され大阪は焼け野原になった。

大阪空襲の時、米軍は淡路島と淀川を目印にして飛んできたという。その頃、北浜の証券会社で働いていた叔母が焼け野原になった大阪の様子を話してくれた。
「淀屋橋から高島屋が見えた。御堂筋も焼け野原で、当時一番大きな建物だと言われていたガスビルのほかは大丸とそごうの建物が残っていただけで、西には住友の本社があり、あとは朝日会館とダイビルだけだった」と。

父は出兵した3日後に浜松で終戦になって帰阪したので戦場経験はない。そんな父が晩年重度の脳梗塞により認知できなくなった時、空襲の記憶が父を苦しめた。「いつも同じ夢を見る。空襲で足の周りが燃えている夢や」と言って父は泣いた。

ある朝、私は夜明け前に激しい雷雨で目が覚めた。その日、病床の父を訪ねると、案の定父は怯えて泣いていた。雷雨を空襲と間違えて恐怖におののいていたとヘルパーさんからお聞きした。50年も前の記憶に怯える父の姿から微かにではあるが、私は初めて戦争を身近に感じた。

私の実家は大阪市西淀川区で、梅田から阪神電車で8分の所だ。中学から同志社へ通うようになった1963年の頃、梅田界隈の地下街に傷痍軍人が立っているのを何度も見たことがある。

戦場で手足や目を失った人が松葉杖をついて、目の前にはアルミニウムの飯ごうや蓋を置いて立っていた。どの人も白い服を着て、足には父から聞いていたゲートルを巻いていた。濃い色眼鏡をかけ、アコーデオンを弾いている人もいた。

戦争が終わって20年近くも経っているのに信じられない光景だった。しかしまた、たった20年前まで戦争していたことや、大阪が焼け野原になっていたことも信じられなかった。

あの頃、大阪駅前の広い道路を隔てた正面あたりに旭屋書店があったが、その界隈は闇市(やみいち)があったと両親から聞いたことがある。

私はテレビのドラマで観た闇市を重ね合わせて当時の様子を想像して歩いた。大学生になった頃(万博の年)には旭屋書店は曾根崎に移っていたと思うが、昔の話をしてくれていた両親の話をもっと真剣に聞いておくべきだった。

アウシュビッツ収容所に代表されるジェノサイドや原子爆弾など、20世紀で人類の罪は頂点に達したかと思ったが、それからのちも人間は残虐な殺戮を重ね続けている。

21世紀に入ってからは、日常的に殺戮が繰り返される時代になってしまった。今またフランスで起きた同時テロ、世界の首脳が叫ぶ「テロに屈しない」の意味は何だろう。この連鎖を断ち切ることなどできないように思う。

日本は原発事故を起こし、人間が生きるために必要な根源的なものを全て失い、取り返しのつかないことになっても何も変わらなかった。

世界で唯一原爆の地獄を経験しながらも戦争法案可決とはあまりにも罪深い。沖縄の人々の叫びも届かず、絶望的で無力感に苛まれそうだ。そんな時、インターネット上で読んだ平良愛香牧師の言葉が私の信仰を奮い立たせた。

平和のつくり方。それは、私たちが希望を失わないことから始まる。・・・(略)・・・
私たちは楽観できないこの世界を生きている。自分の感情で「平和だ、平和だ」と歌っていられるような気楽な世界にはもう生きていない。「神様、あなたの力がなければ実現できないのです」。そういう切羽詰まったもがきの中で初めて、「恐れるな。私は既に世に勝っている」という言葉と出会うのだ。


神さまから希望をいただいて堅く立ち、みことばを握りしめて平和をつくっていこう。
                                   
                           (2015・11・21) 

        
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2016年03月07日

「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」−『種を蒔く』3号掲載文 C−

    「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」
                            藤本 優子

いつの時代も国家は過ちを犯し、いつの時代も目覚めた人たちは国家権力と闘ってきた。そして、人間の中に在る悪と、それがもたらす破壊、その跡に残る無垢な者が受ける苦難と悲惨は今も変わらぬ世界の姿であるが、事もあろうに戦後70年の夏に戦争法案が可決され、私は今ほど時代や歴史について主体的に考えさせられたことはない。今まで政治や人権に対して無理解、無関心だったことを深く悔い改めるばかりである。

そして、その絶妙なる時に、我が国にラインホルト・シュナイダーを紹介された下村喜八氏と出会った。シュナイダーはナチス時代にキリスト教徒の反ナチ・反ファシズム抵抗文学者の代表的人物で、私は初めてそれぞれの時代に生きる人間の在り方というものを考えさせられている。

シュナイダーは、「時代が抱える問題がどれほど深刻であっても、そこから逃げ出すことは許されない。なぜなら人間はまさにその深刻な問題によって呼び出され、それによって人格が細部にわたって形作られる」と語っている。

そして下村氏は、著書『生きられた言葉 ラインホルト・シュナイダーの生涯と作品』で次のように述べている。

「世界の歴史もアドベントである。歴史は最後の審判と救いに向け進んでいる。しかしやはり世界も眠っていて、何を病んでいるのか認識しようとしないし、病気の苦痛が世界のなかに発見する悪しきものに立ち向かおうとしない。病人のなかで起こっていることは、実は世界のなかでも起こらなければならないのである」。

今、日本の政治が大きく動いている。再び愚かな歴史を繰り返すのではないかと、罪深い人間の本質と限界を見る思いで絶望しそうになる。

しかし、主義や立場の違う多くの人々が、憲法を無視する独裁政権と戦争法案反対のために自ら立ち上がったのである。安倍内閣は戦争法案を強行に可決させたが、彼らの愚行が政治に無関心だった国民を目覚めさせた。私はここに『リア王』の最後でシェイクスピアがエドガーに語らせているところの希望の光を感じるのだ。

老王リアが言葉によって三人の娘たちの愛情を試して王国を分割しようとした時、リアは末娘コーディリアの真心が信じられず、偽善も明白な長女ゴネリルと次女リーガンの歯の浮くような賛辞を信じて領土と王権を二分した。

その後、ゴネリルとリーガンはリアを虐待して追放し、リアは計り知れぬ苦難により狂乱の姿で世を呪い、嵐の荒野を彷徨う。最後にリアとコーディリアは再会するも、コーディリアは殺されリアも死を迎えるという悲惨な結末で終わる。

しかし、悪を重ねてきた次女リーガンは長女ゴネリルに毒殺され、ゴネリルも自殺して果て悪も滅ぶ。

そして、エドガー(グロスターの嫡子)はリアの死を見てもまだ希望を捨てず、「我々はリアの本然の声に謙虚に従って、この時代の圧力に耐え抜いていくのだ」と、この劇の結びをエドガーに語らせている。

私はここにシェイクスピアが彼に国家の回復を託していることを読み取るのだ。つまり悪の増大と共に善もまた動き出したという希望をだ。

私たちも最後の最後まで諦めてはならない。「たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える」のである。このたびのことが日本の真の民主主義の目覚めという歴史的な時となるように、私もこの時代に生きるキリスト者として目覚めて戦いたい。

 「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。
            (ルカによる福音書 19章40節)

「ふたたび『銃口』が背中に当てられる時代がきた。今度はキリスト者として目覚めて戦いたい。権力への恐れやへつらいから最も弱い者を二度と犠牲にはしない」。
                       (三浦綾子)
                           (2015年9月19日)


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2016年03月06日

「剣をとる者はみな、剣で滅びる。」 −『種を蒔く』3号掲載文 B−

     「剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
                          藤本 優子

1990年6月、日本クリスチャン・ペンクラブの全国集会が奈良で開かれた時、田中芳三氏が「この道はいつか来た道」だと警鐘を鳴らしておられたことを今も鮮明に覚えている。

そのことがきっかけになって日本の現在と未来に目を向けてきたが、今や一党一強で野党不在の政治状況で戦争前夜を思わせる歴史的節目に立っている。

政府のやり方を糾弾すべき立場のマスコミは官邸にコントロールされ、安倍政権を批判する人はメディアからシャッタウトされている。

そんな6月4日、衆院憲法審査会が3人の憲法学者を招いて参考人質疑を行った時、自民党推薦の学者までもが、他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認の安全保障関連法案は「憲法九条に明確に違反している」との認識を表明した。

このことに驚くこと自体が現在の状況を物語っているのだが、もっと驚いたことは、それに対して菅官房長官が「違憲との指摘はあたらない」と述べ、安倍氏もまた「憲法違反ではないと確信している」と反論したことだ。彼らは学問や学者を何と心得ているのであろうか。ここに現内閣の狂気が顕になった。

多くの人々が反対行動を起こしているにも関わらず彼らの勢いは一向に衰えず、私は徒労感と無力感に打ちのめされそうになる。

こうして人々は権力に呑み込まれて時代に翻弄されていくのだろうか。このままでは衆院で強行採決されてしまう。こんなことを許していれば次は「大本営発表」となりかねない。

かつて独裁者ヒトラーを生み出す温床になったのは、当時のドイツ国民にヒトラーの台頭を可能にする危険なメンタリティーがあったからであり、この徒労感と無気力が化け物を作り出してしまったのである。

マルティン・ニーメラー牧師(神学者)の悔恨の告白が私たちの心に鋭く訴える。

   ナチスが共産主義者を攻撃したとき
   自分は少し不安であったが
   とにかく自分は共産主義者でなかった
   だから何も行動に出なかった。

   次にナチスは社会主義者を攻撃した
   自分はさらに不安を感じたが
   社会主義者でなかったから何も行動に出なかった。

   それからナチスは
   学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し
   自分はそのたびにいつも不安を感じたが
   それでもなお行動に出ることはなかった。

   それからナチスは教会を攻撃した
   自分は牧師であった
   だから立って行動に出たが
   その時はすでにおそかった。

   そして、彼らが私を攻撃した時
   私のために声をあげる者は
   誰一人残っていなかった。

日本を戦争のできる国にしようとしている人々に厳粛な気持ちで問いたい。
第二次世界大戦で亡くなった日本兵212万人と、民間人50万から100万人にも及ぶ人々の死はいったい何だったのか。

しかも原爆まで投下され、犠牲者の地獄の苦しみを知りながら、またしても戦争のできる国にするというのか! 犠牲者たちのことを本当に肝に銘じているならば、どんなに時代や世界状況が変わろうとも、越えてはならない一線がある。

イエス・キリストが、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」と教えられたことが絶対的真理だ。これこそが踏み越えてはならない一線であり全てに勝って最善なのだ。

今は理解することも判断することもできない子どもたちのために、大人は真理を見極めて命がけで阻止しなければならない。どうか反対を叫ぶ働きが大きなうねりとなって政府の暴走を止めることができるように、神の憐れみにすがって祈るばかりである。

                      (2015.6.20)

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2016年03月05日

神に用いられる今関信子さん

今朝の最低気温は8度と昨日よりも一気に7度も上がり、日中は4月並のポカポカ陽気になった。

さて、私たちのペンのお仲間に児童文学作家として活躍されている今関信子さんがおられる。『種を蒔く』3号にも「敗戦後70年の節目の年に」と題する一文をご寄稿下さり、『キムの十字架』と『国をつなぐ奇跡の鳥クロツラヘラサギ』から心に響くメッセージを寄せてくださった。

昨年11月に出版された『国をつなぐ奇跡の鳥クロツラヘラサギ』が「敗戦後70年の節目の年を意識して」書かれた作品だ。

「敗戦後70年の節目の年に」には、
「2015年、日本国憲法は発言の自由を保障しています。あの時とは大きくちがう状況の中で、キリスト者の私は、いかなる言葉を発し、いかに行動していくのか。祈りつつ考えています。
              (略)
危うさの中のわずかな平和。『平和こそ』の思いを強くする姿が、垣間見られます。平和を作り出す者へ注がれる主のまなざしを感じつつ、ペンを握り直す思いです。」

と書いておられる。

米原市チラシ.jpg滋賀県の新聞には久保田暁一さん同様にたびたび紙面に登場する著名な方だ。
同じペン仲間がチラシのコピーを送ってくださって知ったが、明日は長浜市・米原市・長浜市教育委員会・米原市教育委員会主催で開催される湖北母親大会で記念講演される。

3月8日附記:この日、会場に「満席80人が参集の中で熱弁でした」とペン友が伝えてくださった。時には1日に3度の講演をされるとお聞きして驚いてしまった。
今関信子さんの尊いお働きを神さまが豊かに祝してくださり、健康を強めて守ってくださるように祈ります。


もうかなり前のことになるが当市の図書館でも公演されたことをお聞きしている。
私は是非、孫が通っている小学校にお招きしてクロツラヘラサギのことを語っていただきたいと思っているので、知子がPTA委員を引き受けねばならない時を手ぐすね引いて待っている。
この学校での当該委員会名は知らないが、是非その分野で教育活動に関わってほしいと思っている。

昨年9月の例会の帰り道でお聞きしたところ、毎朝4時に起床され7時までを執筆時間に当てておられると言う。その後、朝食や家事。9時になるといろんなところから電話が入り活動的な一日が始まるとのこと。

あの華奢なお体のどこにあのようなパワーがあるのか。情熱の塊、いつも全力投球、真剣に、時には顔中笑顔で語られる姿は圧巻だ。
そのような方ゆえに多忙な日々に在っても細やかなお心づかいされ、このたびもすぐに労いのお葉書を落手した。私もかつての精神を思い起こし襟を正された。

主にありて
「種を蒔く」が届きました
労をとって下さってありがとうございました。
いい一冊になりましたね。
目を通して、私は いい方々と交わりを持たせているのだなあと 
心から感謝しました

私は涙が出るほど嬉しく、私こそこのような方と、また方々と親しくお交わりさせてくださる神さまに心から感謝した。
今関信子さんの健康を守り支えてくださるように祈り続けたい。

拙いながら『キムの十字架』については「文章を書く者の真髄 ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―」に、『国をつなぐ奇跡の鳥クロツラヘラサギ』については、「戦争と平和を考えさせられた『国をつなぐ奇跡の島 クロツラヘラサギ ―日本・韓国・朝鮮の架け橋』」に記している。

posted by 優子 at 18:08| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

なぜこんなことが! 上村遼太君のこと −『種を蒔く』3号掲載文 A−

      なぜこんなことが! ― 上村遼太君のこと ―
                              藤本 優子

2015年2月20日、川崎市の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太君が殺害され、深い悲しみに襲われた。容疑者の目星はついているのになかなか逮捕に至らなかった間、私は何度もシェイクスピアの『マクベス』を思い起こしていた。

王座につくためにダンカン王を殺したマクベスは、良心の呵責で血に染まった両手を見て恐怖した。マクベスの妻もまた不安に苛まれて夜中に起き出して、「血が落ちない」と手を洗う仕草を繰り返し、「まだ手から血のにおいが消えない、血のしみが消えない」と精神を病んで発狂して死んでしまった話だ。

完全犯罪をして笑っていたマクベス夫妻は、誰が彼らを告発しなくても彼ら自身が自らを告発し、良心の声に苛まれて廃人になっていった。しかし、遼太君を殺した犯人たちは罪意識に苛まれることもなく、そのことが私の悲しみを一層深めた。

私は遼太君の不条理極まりない死をどのように理解すればよいのかわからなかった。これまでも「通り魔殺人」など理不尽な事件が起こるたびに悲しみと義憤を感じたが、私は今一度、上村遼太君の悲しみの淵で神さまに問うた。

率直に言うならば、今まで教えられてきたことを根底から考え直さずにはいられず、根源的な疑問が再び吹き出したのだ。

つまり地上で起こっていることは全て神の許しがあってのこと、という教えに疑問を感じたのだ。「気まぐれな傍観者にとっては」、この説明で「気がおさまるかもしれないが」と語るクシュナーの弁に共感した。


クシュナーはユダヤ教徒で、『善良な人に悪いことが起こる時』(日本語のタイトルは『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』)の著者だ。

私は「なぜこんなことが!」という不条理に対して納得できる答えを見出せず、「世界中で起こっている事は神の責任ではなく、巡り合わせである」とするクシュナーの説に共感するも、それでは満足を得られなかった。

そんな悶々とする日々を過ごしていた時、ふと『リア王』の結末を思い出した。リア王の激しい嵐が止んだ時、リーガンはゴネリルに毒殺され、ゴネリルも自殺して悪は滅んだが、コ―ディリアの善良な犠牲者も出たという話だ。

つまり「悪」は厳然として存在し、一旦「秩序」が破られて解き放たれた「悪」の力はドミノ倒しのように行く所まで行くということと、悪がもたらす破壊と跡に残る無垢な者が受ける苦難と悲惨という痛ましい帰結。その理屈が私の呻きを止めた。 

シェイクスピアはここで、「悪」の増大と共に「善」もまた動き出していたという希望をも描いており、私はそこに見失いそうになっていた希望を感じたのだと思う。つまり全てを支配されている神が厳然として存在しておられるということを、もう一度確認したのだ。 

かつて私は『ヨブ記』をむさぼるように読んだ時期があった。人の一生には自分の責任とは無関係の苦しみがあり、しかも悪を行っている者が栄えているのは何故かという問題に七転八倒していた時だ。

半生を弱い人々のために尽くしてきた母が無情な神経難病を負い、かたや他者のことなど全く顧みない人々に安穏な生活がゆるされている。

この道理に合わない現実に苦しみ、かくて苦悩の果てに辿り着いた境地は、神の責任論については人間の理性を超えることであり、神の領域であることを納得させられて主の平安をいただいたのであった。


  「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
  わたしはわが力の及ばない大いなる事と
  くすしきわざとに関係いたしません。
  かえって、乳離れしたみどりごが、
  その母のふところに安らかにあるように、
  わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。
  わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです」。
                 
                 (詩篇131篇1・2節)

しかし、この思いを受け取るまでに人はどんなに苦しむことか! 
こうして10年にも及ぶ年月を要して神の恩寵を知る者とされたのに、このたびの上村遼太君の死はそのことをも忘れさせるほどの悲しみだった。


「私たちが抱く同情や義憤は、神の愛や神の怒りが私たちを通して現れたものであって、神の存在を示す最も確かな証明ではないだろうか。」と、クシュナーの言葉に慰めを覚えるが、加害者たちの罪意識の無さは文明が進めば進むほど歪んでいく人間の姿であろうか。

これから悲しみと苦悩の長い道程を歩まねばならない遼太君のご両親が、神さまと出会うことができるようにと祈るばかりである。
                         
                          (2015.4.18)

昨日の記事の「附記」にリンクした2015年3月6日の記事に記している光景と感情は、今も昨日のことのように鮮明に思い出される。

あまりに美しいので立ち止まった時、制服姿の上村遼太君が笑っている元気な姿を見たと思った瞬間消えてしまい、私は周囲をキョロキョロして捜していた。春がそこまで来ているのに遼太君はもういない。加害者の底なしの罪深さを思う。

以下は、2016年2月4日の朝日新聞デジタル版・「上村遼太さんの母親の意見陳述要旨」を転載したものである。

兄弟で一番小さい3300グラムで生まれました。夜泣きせず、よくおっぱいを飲む子でした。よく笑い、よく眠り、とてもおとなしい子でした。特に体が弱く、ぜんそく持ちでした。正月に入院したこともあります。

遼太が年長のときに隠岐に引っ越しましたが、友達をたくさんつくり、すぐに島に溶け込みました。夜中にぜんそくがひどくなり、病院に連れていかないといけないこともありました。せきがとまらず、病院で点滴を打ちました。その時は本当に生きた心地がしなかったです。

お調子者で争いごとは好きではなく、周りをちょろちょろして、いつもにこにこしていました。授業参観では何度も後ろを振り返ってにこにこするので、「前を向いて」と注意しました。そんな遼太がかわいくて仕方がなかった。

3年生で陸上を始めて、800メートルの選手に選ばれました。「ママ、絶対見に来てね」と言っていたので、当日は張り切ってお弁当を作り、見に行きました。いよいよと、こちらまで緊張しました。スタートと同時にあっという間にトップに。独走しそのままゴールへ。

興奮して「遼太!」と叫び、泣いてしまいました。周りの保護者に「もらい泣きした」と言われ、遼太もそのことを作文にも書いていました。題名は「走るのだいすき」。最近久しぶりにその作文を呼んで涙が止まりませんでした。

自信がついたのか、「ミニバスをやりたい」と言い始めました。剣道と両立できるのかと思いましたが、弱音を吐かず、頑張っていました。その頃から「ママ」と呼ばず「かあちゃん」「おかあさん」と呼ばれるようになり、少し寂しい気持ちになりました。

高学年になると、剣道との両立が難しく、剣道はやめました。ミニバス中心の生活はハードで疲れていたと思いますが、弱音を吐かずにまじめにやっていました。私たちは親ばかとマザコンで有名でした。バスケの後、必ず「かあさん、ぼくどうだった」と聞いてきました。5年生の秋にはキャプテンになりました。自慢の息子でした。

元夫と長女のことで悩み、家に引きこもっていた時期がありました。そんな時、友人のお母さんから「遼太君をちゃんと見てあげて。お母さんがそんなだと遼太君がかわいそうでしょ」と。それからはバスケに保護者として積極的に関わるようになり、遼太のおかげで立ち直ることができました。

隠岐大会で優勝し、県大会に出場しました。優勝カップを持った遼太と撮った写真が1番のお気に入りでした。その後、元夫がいて耐えられなくなり、川崎に引っ越すことにしました。「母さんと一緒に行く」と言ってくれたが、かわいそうなことをしたと思います。

川崎に行ってからも友人をいっぱい作っていました。私もパートと夜のアルバイトを頑張りました。実家に戻ったので、母子手当などが打ち切られ、親の年金で生活するわけにもいかず、正社員で働ける職場を探し、実家を出ました。

その頃、交際していたTさんと生活するようになり、お互いに働いていました。遼太は「Tくんといるといつも家がきれいでいいね」とか言ったり、こっそりTさんの服や靴下を身につけたりして、遼太なりにTさんのことを認めているんだと思っていました。

バスケに打ち込んで、土手を走りに行ったり、公園で練習したりしていました。中学入学後、元夫が携帯を買い与え、深夜まで友人とやりとりしていたようでした。夏からは深夜に帰ってくるようになり、私は早番や残業があったりして会えないこともありました。

新学期になり、電話をかけても出ないことがありました。これは捜索願をだそうかと思った頃に遼太は帰ってきました。遼太とちゃんと話したいと、Tさんと兄、遼太と私の4人で「なんで学校に行かなければならないんだ」ということを話し合いました。学校はしばらく休んでいいから、門限は守って帰って、ご飯を一緒に食べる約束をしました。その頃に日吉事件が起きました。

遼太の顔がはれ、口の中が切れていたので、「病院に行こう」と言うと「目は見えるし冷やせばいい」と言いました。何度も病院に行こうと言いましたが「腫れていても大丈夫」と拒む遼太に、子ども同士でもいろいろあるから触れてほしくないのかなと思い、あまり触れるのを止めました。

私が「長く休むと学校に行きづらくなる」と言っていましたが、私は子どもより早く家を出ます。制服や弁当の準備をして出ますが、遼太は制服を着るけどなかなか出られずにいたようです。「大人になったら母さんに家を買ってあげる。楽しみにしててよ」と言っていました。でも「あ、でも学校行ってないから無理かな」と笑っていました。

2月19日夜、遼太がパンを焼いてくれ、「ジャムでしょ」と言われ、パンの上にジャムがやたらと載っていたのを覚えています。「寝るね」というとパーカを着始め、外に行こうとしました。私は「何調子乗ってんの。いい加減にしろ」と言いました。遼太は振り返って、何も言わず家を出ました。それから遼太は帰ってきませんでした。

朝から仕事に行ったため、ニュースは見ていません。刑事さんが家に来て、遼太のことを聞いてきました。「昨日の夜何を食べたか」など聞かれ、刑事さんは外に出て電話をしていました。電話を終えて戻ってくると、刑事さんは「多摩川で事件があり、お母さんに確認してほしいことがある」と言いました。

その瞬間、何が起きたのか分かりました。長男が何かあったことに気づいて出てきて、「自分が確認します」と言って確認してくれました。自分に何が起きたのかよく分からない。Tさんが私の代わりに話を聞いてくれ、支えられて立っていたことを覚えています。

警察署で遼太の顔を見ると寝ているようでした。顔の傷口にはテープが貼られ、傷は隠されていました。鼻やおでこに傷があり、髪が刈られていました。体には布がかぶされていて、「体は見ない方がいい」と言われました。「見ない方がいい」と言われた理由に気づき、涙が止まりませんでした。遼太の目は少し開いていて、何度も閉じようとしましたが閉じず、その時の顔が今でも忘れられません。

23日に遼太は家に帰ってきました。バスケ部のユニホームを着させ、傷を隠すためにアンダーウェアやネックウォーマーも買ってきて着せました。とてもかっこよかった。気づいたら身長も私と同じくらいまで伸びていました。「母さん、母さん」と起きてきそうでした。

報道で好き勝手なことを書かれ、子どもたちも学校に行きたくないと言いました。川崎の家は遼太が残した汚れがあり、離れたくなかったのですが、離れることにしました。なぜ私たちがこんなにつらい目に遭わなければならないのか。そう思いました。

家裁の少年審判を傍聴したときは、遼太のために何が起きたのかを知らなければいけないと思い、覚悟をして行きました。内容はとてもひどいものでした。人のすることではなく、聞くに耐えないことでした。

一昨日の裁判の日までは遼太がどんなふうに傷つけられたのか知りませんでした。首、腕、足、身体のいたるところにある傷。いつも笑っていた遼太は残忍なことをされました。どれだけ怖かったか、という気持ちが大きすぎて許すことはできません。なんで誰も止めてくれないの。なんで、なんで、ばかりでした。

遼太が自分から服を脱いだことを聞き、服がぬれていたら私が大騒ぎすると思ったのかな、学校で習った着衣水泳で泳ぎにくいと思ったのかな、などと考えると胸が締め付けられる思いでした。

暴行を受けた後、2月の寒い中、遼太が23・5メートルを移動して必死で家に帰ろうとしたと思うと、どんなに怖かっただろうと思います。自分が生きていることが許せません。まだまだ子どもでいつも私の側で笑っていました。遼太のいないつらさをこれからどうしたらよいのか。結婚や子どもができて大人になっていく姿を見ることもできません。遺骨になってしまった遼太は友達と遊ぶことも、ゲームをすることもできず、人生の全てを奪われてしまいました。

できるなら遼太が味わった怖さ、痛さの全ての苦しみを犯人に味わわせてやりたい。犯人に言いたいことは一つだけ。「遼太を返してほしい」ということです。以上です。


先月2016年2月10日の裁判員裁判で、横浜地裁は無職の19歳少年に対し、懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決を言い渡した。

posted by 優子 at 14:24| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

鶯の初鳴きに チャッピーのいない悲しみ極まる

かなり前から知子は毎朝早く父親と出社するようになり、知子がユキを見送るのは週に1回あればよいほうだ。先週のように帰宅が10時過ぎると、ユキは朝も夜もママの顔を見ないこともある。

今朝は久しぶりにユキを見送ってから出社した。今朝も氷点下だったが空気はさほど冷たく感じなかったので知子に促されて駅まで歩いた。その帰りに「おかめ桜」を見に行った。

チャッピー、今年も咲いたよ@.jpgこの町で一番先に咲く桜。毎年いつもチャッピーと見ていた桜。
近づくと木の枝が赤みを帯びていたので小走りで駆け寄った。まるでチャッピーに会えるかのように。

やっぱり咲いていた。
私はカメラを取りに家に戻って再びやって来た。

チャッピー、今年も咲いたよA.jpg「チャッピー、今年も咲き始めたよ! ほら!」

しばらく木を見上げて下に目をやった時、いつも傍で立っていたチャッピーはいなかった。


いつもチャッピーがいた庭。
チャッピーはいない.jpg最後の2年間、チャッピーが庭の小道で尿をするので水で流していたらシュウメイギクはすっかりダメになり、昨年から枯れ始め今年はこんなになってしまった。

これは去年の4月1日の記事:
ここにも新芽が出てるよ!.jpg「ユキちゃん、ここにも新芽があるよ!」

「あら、チャッピーも見てくれていたのね」。


そんなことも懐かしく思い出していた。

その時、近くで鶯が鳴いた。
「ホーホーホヘ」を2度繰り返した。
鳴き始めの下手な声だったが、鶯の声を聞いた瞬間に涙が溢れ出た。


いつもチャッピーと一緒に春を迎えていたのに、16回も一緒に向かえたのに今年は居ないなんて、こんなに悲しいことはない。家に入って泣いた。ずっと泣きたいのを我慢していたから泣いてすっとした。

チャッピーが死んで2か月余り過ぎた2月。血圧が安定している合間を縫って「戦争法の廃止を求める統一署名」に回った時にチャッピーが死んだことを話した。

お隣の方はこんなことを言って泣かれた。
「生ごみを出す時はいつも垣根越しにゴソゴソとチャッピーがいる音がしていたのに、この頃しないねえと何度も娘と話していたんです」と言って涙を流してくださった。

このことから、私はチャッピーの死を話さないのはチャッピーに申し訳ないと思った。
チャッピーは16年以上もここに居たから、多くの人々がチャッピーのことを知ってくださっていたのに、死んでしまったことを伝えないとはチャッピーに失礼だ。チャッピーの尊厳を傷つけるように思った。だから散歩中によく会っていた人に出会ったときは話そうと思った。


5〜6年前に愛犬を看取った男性は、今も携帯電話の待ち受け画面にしていると話された。ある女性は「親の死よりも悲しいと言う人もいるよ」と話された。

先週の朝、知子の代わりに登校時の交通当番を終えて立ち話ししていた時、自治会三役の方に声をかけられた。「初めまして、藤本さんですね? いつも柴犬と歩いておられる」と。

次期自治会会長の有力候補に残っているので受けて貰えないかと言われて、びっくりして丁重にお断りしたが、チャッピーのことを言われて胸がチクッと痛んだ。

チャッピーを飼い始めて3ヵ月経った頃、まだ当地にも慣れていない頃に、「いつも柴犬を連れておられる方ですよね」と二駅向こうの薬局の店員さんに言われて驚くと共に、少々嬉しくない気持ちがした。店員さんは私が毎朝チャッピーと歩く散歩コース内に住んでいる方だった。

チャッピー、あのとき嬉しくない気持ちだなんてごめんね。

これは、昨秋亡くなる1ヶ月前のチャッピー。
行ったり来たり.jpg

この時もチャッピーは何時間も行ったり来たりしていた。
昨年からシュウメイギクもかなり減って向こうが透けて見える。

私は今もチャッピーを探している。
夜に台所の生ごみを庭のゴミ箱に入れに行く時、ドアを開けた瞬間にチャッピーがどこにいるかキョロキョロしながら「チャッピー」と呼ぶ。

時々、「チャッピー!」と大きな声で呼び、ある時はしゃがんで走ってきたチャッピーを想像して頭を撫でるしぐさをする。家族がこんな光景を見たら狂っているように見えるだろう。

秋の終わりにチャッピーが死に、チャッピーの知らない冬が来て、そして、春になってしまった。

13歳以上の高齢犬用の餌も誰かにもらってもらわなければ。封を切っていない袋と開けたばかりの袋、それに、ペットシートもたくさんある。見るのも辛くて今もそのままになっている。

附記:「おかめ桜」 ―『種を蒔く』2号掲載文より G ―
ここに1年前のチャッピーの様子も書いてあった。

posted by 優子 at 16:05| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

全人的経営に励む知子

知子が執行役員から専務取締役になって1ヶ月過ぎた。
重責に就いた3名それぞれに製紙メーカーや代理店の方々から祝電やお祝いをいただいたり、また、社長と共に4人でご挨拶に伺ったことで、なお一層奮起させられている。

特にこの4年間は父親との百戦錬磨の闘いだったゆえに、我が夫と知子それぞれに新しい気づきを与えられたことであろう。
知子は社長の存在の重さを感じ、良輔もまた知子の存在を誇りに感じたことであろう。私はそう信じる。


昨夜、その朝の朝礼で知子が語ったことを聞かせてもらって感動した私は、そのことも会社のブログに公開すべきと勧め、昨夜のうちに文字に起こしてもらった。
そして先ほど『being & doing』を更新した。ここに同じものを記録しておきたい。

世代交代の新体制に入って1ヶ月過ぎ、毎月初めに持たれている昨日の朝礼で藤本知子専務は今一度、自らの中核にある全人的な経営理念を熱く語りました。

少子化、電子化といった厳しい時代により紙の需要が減少している中で、それでも創業70年の和洋紙卸商として生き残っていく為にはどうすればよいのか。

やはり最初に出てくるのは適正利潤の追求でしょう。これは商売の基本でもありますが、その為には利潤を得ていた過去のどの時代よりも、今こそ社員が一つとなることが必要だと私は考えています。
 
最近の私は、数年前は頻繁に出席していた経営者向けセミナーにめっきり足を運ばなくなりました。セミナーでは経営理念や人材育成などのテーマを取り上げ、それらが特に人気があるテーマのようですが、今の私の考えでは、これらについてはノウハウを学んで事に当たっていくよりも、私自身の全人格を真正面から社員にぶつけていく、その真剣な熱意と誠実な姿勢こそが重要であると信じています。

そして、この事は私の尊敬する松下幸之助さんも仰っていることなのです。本日も私の愛読書から先の話の具体的内容ともいえる部分を抜粋して皆さんにシェアしたいと思います。

これは松下さんが経営者向けに書かれた著書ですが、皆さんの中に、もし「彼は過去の人だ」と思っておられる方がいらっしゃるならばそれは間違いであると私は考えます。

何故なら、どれだけ時代が変わろうとも過去・現在・未来において決して変わらぬ不変の真理というものがあり、それを語っておられるからこそ私は松下さんを尊敬しているのです。
では抜粋してお読みします。

商売は真剣勝負である。その勝負のときに、社員が汗水流して働いてくれている姿が見える人、その成果を無にできないと思える人は、強い。     

こっちが値をつけても、「何を言うとる、そんなもの売れるか、相場はこうやで」と、こうなりますな。・・・(略)・・・「松下さんこれ高いな、よそはもっと安いで」とこういう場合があります。そのときにぼくはね、「しょうがおまへんなあ」と言うてまけなかったんです。
 
そのとき、ぼくの目に浮かんだのは従業員の姿ですわ。
原価が1円のものを1円15銭と言うて高いとおっしゃる。すると自分の働きが悪いのかということですね。自分の働きが悪ければ、これはしかたない。

しかし顧みて、自分の働きは悪くない。一生懸命働いている。よそよりコストが高くついているはずがない。またそのとき、10人なら10人の者が朝の7時から晩の7時まで一生懸命働いて、汗水流しているのをぼくはこの目で見ていますわな。
 
ぼくは、その人たちの成果というものを無にすることはできないと思ったんです。だから「高いからまけろ」と言われても・・・しょうがないなあ、よそが安うするのやったら、うちも安うしないとしょうがないと思ったら、あきまへんのや。

ぼくはそのときに、一生懸命働いておったかということを自分で考えた。また従業員の10人なら10人が、汗水たらして働いているその成果を、自分の意思によって無にすることができない。そうすると、非常に強いものが出てくるわけです。(略)
何ごとにもやっぱり自分で正しいと思うことには強い。

従業員が一生懸命にやっているのに、自分が簡単に当を得ない値段をつけることは、その10人の働きを殺すことになります。これは自分として許されないことやと私、思うんですね。常に頭に従業員のことがあるんです。だから、強味が出てくるんですね。(略)この10人の成果を無にしてはいけないということがぐっと出てくるから、強くなるわけです。

これは経営者として営業について言及しておられますが、この逆も全く同じことです。つまり、他の部署の人達は営業の頑張りを殺すようなことをしていないだろうか?

そうしたことを今一度心に留めながら、今日から始まる1ヶ月も、それぞれの持ち場において真剣に業務に取り組んで頂きたいと願います。


附記:引用文は松下幸之助著『社長になる人に知っておいてほしいこと』(PHP総合研究所編)、「社員の働きを殺していないか」より

2012年より多忙になった知子を助けるべく秘書役を買って出た私は、『being & doing』を更新すべく上掲に引用した書名を正確に伝えてほしいと頼んでいた。
今朝10時過ぎに届いたメールに次のような嬉しい言葉が添えられていた。

「この本をわたしにくれた事と、その内容に共鳴できる精神を培ってくれたママに感謝! みなイキイキ働いています」。

知子は社員さんを大切にし、そしてまた、その方々に支えられて励んでいる。


この本はJCPの夏期研修に向かう途中、八木駅で京都行きの電車を待っていた時にプラットホームの書店で買ったものだ。

店頭でページをめくりながら非常に感銘を受け、読んだ後で良輔に読ませてやろうと思って買ったのだが不発。その後知子が感激して読むも生き方として感動したのであり、その後長い間本棚に埋もれていた。

それを昨年10月に本棚から雪崩落ちてきたのを知子に渡し、それ以後バイブルのように座右の書として実践し、自らを磨きつつ社員みんなにも浸透させつつあり、非常に魅力ある職場を形成している。


「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、
夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。
昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」。

                (出エジプト記 13章21節)

これからも誠実と謙虚な生き方を忘れずに、神さまに聴き、導きを乞いながら大いに人生にチャレンジをしてほしい。

posted by 優子 at 18:30| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

「地の塩」 後藤健二さん −『種を蒔く』3号掲載文より @−

ついこの前新しい年を迎えたかと思えば、はや3月になった。
そして、日本中を震撼させた後藤健二さんの死から1年1ヶ月。あの衝撃を通して改めて認識を強くされたことがある。

それは、見たこと、知ったことについては、倫理的義務が生じる。紛争についてはその場に行かなくても報道で知っている。だから、われわれは直接的であれ、間接的であれ関係していかなければならない」という、桜美林国際学研究所の加藤朗所長の言葉だ。

後藤さんも、「僕たちは、同じ地球上で同じ時間を生きている。どんなに遠くても距離は関係ない。同じ時を過ごしている人々のことは、僕たちの問題として関わるべきだ」と語っていた。

そして、「どんな困難な状況下にも人々の日常があり、そこには『小さな幸せ』がある。その『小さな幸せ』を見ることができるから、僕は取材を続けられるのだ」と。

後藤さんを偲びつつ『種を蒔く』3号に掲載していただいた拙文をここに刻んでおきたい。

         「地の塩」 後藤健二さん
                                藤本 優子
21世紀に入ってから「テロ」が頻発し、今や世界は制御不能となって崩壊に向かっているように見える。

1月20日、夕食の用意をしているとラジオから、IS(イスラム国)と称する中東の武装集団が日本人2人を拘束したというニュースが飛び込んできた。私は尋常ではない衝撃を受けて震え上がった。その夜は、ただただ「お守りください」という祈りしかできなかった。

その翌日、拘束された1人がクリスチャンであることを知り、新たな衝撃が走った。ジャーナリストの後藤健二さんは、昨年4月にシリアで別の武装集団に拘束されていた湯川遥菜さんを救い出したことから交流を深めていたという。そして、「助け出せるものなら、もう一度助けたい」と、湯川さんを助けるべく危険地域へ入って行ったそうだ。

私は長い沈黙のあと、後藤さんを通して湯川さんに主の平安と救いがあるように、いや、それだけではなく、周囲の過激組織の人々にも神の導きがあるようにと祈り始めた。

1月24日夜遅く、湯川さんが殺害されたことがわかった。そして2月1日、日曜日の朝5時半頃、ラジオの声で目が覚めた。アナウンサーは、午前5時過ぎに後藤さんが殺害された動画がネット上に配信されたことを繰り返していた。

私は隣のベッドで寝ている夫に告げ、隣室のテレビをつけた。
「ひどい」「ひどい」「神さまは助けてくださらなかった」。私は小さな声で途切れ途切れにつぶやきながら立ちすくんでいた。ご遺族の思いは想像を絶する。私でさえ数日間体調を壊して寝込んでしまった。
 
この地球上でこのようなことが起こっているとは! 人間の底なしの罪深さ! 過激集団の残虐さのみならず、インターネットという利器のおぞましさ! その動画を瞬時にして世界に流し、終わることなく繰り返す。

後藤健二さん、怖かったであろう。どんなに怖かったであろうか。一撃で殺されるのでさえ想像を絶するのに、あの恐怖に何日間も晒されての残虐極まりない最期。後藤さんはあの時もずっと主の御名を呼び祈っておられたにちがいない。

「ある国の平和も、他国がまた平和でなければ保証されない。この狭い相互に結合した世界では、戦争も自由も平和も全て連帯している」。これはネルー首相の言葉であるが、今ほどこのことを実感したことはない。

各国の首脳は「テロには屈しない」と言うが、それは復讐の連鎖を重ねることでしかない。しかしまた、このような残虐集団をそのまま放置しておくことはできず、この恐怖支配の拡大を防ぐためには軍事力で反撃するしかないのではと、いつもここで考えが行きづまってしまう。

世界になぜ平和が実現しないのか。平和の問題は私たちが日常生活で経験することと同じことだと思う。家庭や学校、近隣や職場での衝突も全て同じ線上の問題であり、クリスチャン同志でさえ主にあって一つになれないのが人間の実相ではないだろうか。要は考え方の相違が問題なのではなく、相違をどのように乗り越えていくかが問題なのだ。 

後藤さんは、「『神は私を助けてくださる』(詩篇54篇6節)という言葉を心に刻み込んで」仕事をしておられた。

「取材に訪れる場所は、耐えがたい困難がある。その中で人々が暮らし、生活を営んでいる人たちの暮らしと心に寄り添いたい。それを世界に向けてその様子を発信することで、何か解決策が見つかるかもしれない。そうすれば、私の仕事は成功ということになるのではと思うのです。」と語っておられた。このような人物ゆえに聖霊が働かれて友の救出に向かわせたのだろう。

後藤健二さんはまことに「地の塩」であった。後藤さんの成されたことはこれからも「地の塩」として、社会や国家の良心となって世界の腐敗を食い止めて行くことであろう。

神さまは後藤さんの死を「一粒の麦」として豊かに実を結ばせてくださると信じる。この信仰こそが真の「テロには屈しない」ということであり、それゆえに世界がどんなに暗闇を深めていこうとも諦めないで、後藤さんの意志を継いでいく者でありたい。

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」。

                 
                (マタイによる福音書5章13節)
                             (2015.2.21)

一昨日の礼拝後、『種を蒔く』3号を木ノ脇牧師に、教会の方々には押し付けにならないように今回はお読みくださりそうな方々にお渡しした。そして今朝、8名の方々に郵送し近隣の方にもお届けした。

3月とはいえ今朝は氷点下で洗濯物を干す指先が痛くなる冷たさだった。日中も7度までしか上がらず夕方には雪が舞った。明朝はさらに−3度の予報が出ているが、翌3日からグンと春めくそうだ。


posted by 優子 at 22:34| JCP関係 | 更新情報をチェックする