2017年01月31日

株主総会で感謝の決算報告

今日昨年に続いて2度目の株主総会に出席した。
私は昨日から血圧が高く、今朝も降圧剤を追加するも下がらず頓服薬を飲んでも下がらないまま、孫と待ち合わせていた小学校の昇降口へ迎えに行った。

ユキは6時間目が終わった段階で一足先に退出して走って来た。そして、自宅に立ち寄って宿題とDSを手提げバッグに入れて大急ぎで駅へ向かった。

私は頭痛だけではなく頓服薬で朦朧としていたので地下鉄に乗り継ぐのもしんどくて、16日朝、知子と一緒に出社した時のように八戸ノ里(やえのさと)からタクシーで会社へ向かった。

車窓から見える長田までの景色は20年ほど前まで何度も自転車で行き来していた場所であり、どこも懐かしく会社に着くまでずっとユキに話していた。

「この空き地はママ(知子)や真智が病気になった時に通っていた中央病院のあとやよ」。

「ここは御厨(みくりや)の交差点、この産業道路をずっと右へ行くと花園のラグビー場があって、花園図書館にも何度も通ったよ。
その帰りはね、いつもここで自転車を止めて1時間以上もお友達(千里さん)としゃべっていたわ」。

「これは第2寝屋川で、ここを渡ったらママと真智が通っていた藤戸小学校やよ。ああ、懐かしい。ここに通っていた真智がワシントンに住んでいるなんて不思議やね」。 

「このマンションに住んでいたんよ」


と、やっぱり東大阪は故郷のように懐かしかった。

「中央大通りを渡って右折して側道に入ってください。UFJ銀行を左折して・・・」と、16日朝に知子が案内していたとおりに運転手さんに説明して会社の倉庫側にタクシーを着けた。知子が手を振って立ってくれていた。

昨年はギリギリに到着したのでご挨拶する時間が無くて、1階(倉庫)で働いておられる方々にお目にかかれなくて残念だった。

現場の人たちこそ会社を縁の下で支えてくださっている人たちだ。お一人おひとりが実に誠実な方々で美しい笑顔で気持ちよく働いておられた。

「専務にはお世話になっています」と、良い職場環境であることを喜び感謝を伝えてくださり、社員の方々の表情は私の想像をはるかに超えるものだった。


職場は冬の厳しい寒さと真夏の強烈な暑さゆえに、私も思い出しては自らを律することしきり。また、重い紙を持つために腰を痛めないようにと祈るようになったのは、知子を通して知ったからだ。

誠実に労する社員の方々の経済を少しでも豊かにしたいと願う知子の思いもまた何度聞いてきたことか!

挨拶を終えて3階に上がった。
店頭の方々、12月から入社された有能な経理の方も誠実な方で皆が快く勤務されいる。営業部門で精いっぱい励んでおられる方も、どの部署の人が欠けても仕事が成り立っていかない。

株主総会では、知子が作成した決算報告書を例年通り良輔(我が夫)が読み上げた。その成果は見事なもので、株主の重鎮のお一人は「大したものだ」と称賛された。

この結果が知子の美濃紙業の「出エジプト」完了であり、これは言うに言われぬ思いと努力の結晶である。知子の気力と健康を支えて昼も夜も導き、最高の結果を出させてくださった神さまに感謝します。

明日の2月1日の朝礼で、知子が全社員に決算報告を告げ、会社のホームページの『being & doing』に公開する。それは神さまに捧げる感謝の報告であり、『being & doing』に終止符を打つ最後の更新となる。

IMG_2268.jpg知子は見事に成し遂げた。
この栄光を神にお返しします。


posted by 優子 at 23:35| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

王子動物園と六甲山牧場へ

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「六甲山牧場の動物たちは みんな穏やかやったよ」。 
ここは標高700メートルにある六甲山牧場、神戸の市街地より気温は4〜6℃低い。

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@六甲山牧場.jpg

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※ 正しくは、2017.1.30.12:28 更新

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

ヴォーリズの愛した冬の木立

IMG_2008.jpg1月半ばから厳しい寒さが続いている。今朝の最低気温は−4度、窓を開けるとバリバリと氷を砕く音がし、知子とユキの部屋の結露は凍っていた。

しかし、風もなく久々の冬晴れ。
私は3週間ぶりに散歩に出た。

裸になった冬の木立。
木々は身じろぎもせず立っている。
そんな冬の木立を愛したヴォーリズを想って歩いた。

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         「森の春」 "Spring in The Forest"

冬の間ずっと見なれて来た力強い幹や枝よ、さらば
やがて春が来てあのみどりの葉が見られるというのに
私の心の奥には何か悲しみがある
それは春が来ると、幹や枝がつくる窓飾りを通して
あの大空が眺められなくなるからだ

冬の木立はそれぞれがたましいを持ち
それぞれが個性を持っている
だが春が来れば木の葉が生い茂り
それはちょうど織物のタテ糸のように
木の葉のヨコ糸にかくれてしまうのだ

私は頑丈な樹々の骨組みとの
こうした別れに
じっと耐えなければならない

やがて秋の日の黄金と深紅の炎が
あのじゃまな木の葉の掛け物を燃やし尽くし
まことの樹々の姿を取り戻してくれるまで
その別れに耐えなければならない

なぜなら春の樹々は暖かいいのちを
私の心に告げてはくれるが
身じろぎもせず立っている冬の幹や枝は
私の心に堅い意志をしみ込ませてくれるのだから


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春はまだ遠い。
それでも桜は蕾をつけていた。

         冬の歌

いかに冬の日々が冷たくても
わたしの心は歌わずにはいられない
この冷たい冬の一日一日
やがて私たちの身近に
あの春の日をつれてきてくれるのだから


posted by 優子 at 17:06| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

聖書の「TPPは問題を解決する千倍の力」 −クリスチャン弁護士・佐々木満男氏のコラムより―

先日ネット上の聖書メッセージを検索している時に、「本物の牧師の語る・・・」というタイトルに驚いて微笑んでしまったが、確かに今やそのように標榜せねばならない様相を呈している。

「本物」と言えば、本物の信仰をもったクリスチャン国際弁護士・佐々木満男さんのコラムを今朝久々に読んだ。

お目にかかりたいと思っているお一人で、かつて佐々木さんのブログ『ドントウォーリー』の「問題を突き抜けよ!」に、拙著の記事をリンクしてくださったことがあり励まされた。

今朝読んだ記事は我が子だけに伝えるには惜しく、是非お分かちしたいと思う。テーマは「TPP」。

TPPと言えば3日前にトランプ氏が第45代大統領に就任し、就任後初めての仕事がオバマケアの手直しとTPP(Tans-Pacific Partnership)離脱の署名だったが、佐々木氏の言う「聖書のTPP」は「Thanks、Praise、Prayer」、聖書に刻まれている「祝福のTPP」である。

「TPPは問題を解決する千倍の力」より抜粋転載させていただいた。
聖書のTPPは、 神の定めた方法であるから、 どんな問題も解決する。

聖書のTPPとは何か?

Thanks (感謝) とPraise (賛美) とPrayer (祈り) である。

このTPP (感謝、 賛美、 祈り) を日常生活の習慣にしていくと、問題が次々に解決していくから不思議である。
私はこれを毎日体験している

ただし、 このTPPは意識して実行していないと、
自分の肉の弱さからすぐにNPPになってしまう。

NPPとは、 Negatives (否定) とPessimism (悲観) とPride (高慢) である。このNPP (否定、 悲観、 高慢) は、 問題をどんどんこじらせていくから不思議である。
私はこれもまた毎日体験している

TPPとNPPの違いはどこにあるのか。
その人の思いが 「天に向いているか」 それとも 「地に向いているか」 の違いである。

思いが天 (神の国) に向いていれば、
「感謝と賛美と祈り」 しか出てこない。
「大丈夫だ、 どんな問題も天の父が解決してくださる!」
と全能の神の力に頼ることができるから、
問題の重圧から解放され問題を乗り越えていく。

思いが地 (罪の世) に向いていれば、
「否定と悲観と高慢 (自己中心)」 しか出てこない。
「大変だ、 どんな問題も自分でがんばって解決しなければならない!」
と弱い自分に鞭打ってがんばるから、
問題に縛られ問題の下敷きにされてしまう。

アメリカの有名ながんセンターの医師の調査によると、
教会でいつも賛美している聖歌隊員の免疫細胞数は、
一般人のそれに比べて、 なんと 「1000倍」 も多く測定されたという。
毎週教会で賛美と感謝の礼拝を捧げている人たちは、
そうでない人たちと比べて平均7年も長命である。

「1分間、 喜び、 笑い、 感謝の思いに満たされる」
と体内に24時間の免疫システムができ上がり、
「1分間、 怒り、 不平、 不安の思いにかられる」
と6時間分の免疫システムが破壊されるそうだ。

「ストレスは悪いものである」
と思っている人は, ストレスによって虚弱にされてより病弱 ・ 短命であるが、
「ストレスは良いものである」
と思っている人は, ストレスによって強化されてより健康 ・ 長寿であるという調査結果もある。

試練や問題も同じである。
「試練や問題は悪いものである」
と否定的に受け止める人は, それによって弱くされていくが、
「試練や問題は良いものである」
と感謝して受け止める人は, それによって強くされていく。
(ヤコブの手紙1:2)

聖書には、

「主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

(イザヤ書 40:28〜31) と書かれている。

天の父を信じて 「感謝と賛美と祈り」 のうちに生きれば、
聖霊の力を得て、
自分の持てる力を十分以上に発揮することができる。

でも、 不安にかられて 「否定と悲観と高慢」 のうちに
この世のハウツー論だけを頼りに生きれば、
自分の持てる力をほんの少ししか発揮できない。

言い換えれば、 TPP (感謝、 賛美、 祈り) は、
NPP (否定、 悲観、 高慢) よりも
「1000倍」 もまさる力である。

「あなたの大庭にいる一日は、
よそにいる千日にもまさるのです」

(詩編 84:10)

まことに「アーメン!」です。
今日も良い1日を生きましょう!!!

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21・22日連夜に知子とユキと3人で観た『十戒』。

ユキは漫画の聖書物語『十戒』を手に真剣に観ていた。驚くほど内容をよく知っていた。観終わったあとも本を見入り、黙して高揚した心を静めねばならないほど深い感銘を受けたようだった。

「これはイエスさまが生まれる何年前のこと?」と、ユキの鋭い質問に答えたり、「ここには人間の姿が凝縮されているね」と感想を語り合い、「『家の教会』でも『出エジプト』を読みたいね」と話していた。

posted by 優子 at 12:19| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

家の教会2017C −5つのパンと2匹の魚−

2017年1月22日(日) (2017第4回 家の教会)
10時30分〜11時25分
出席者 3名(Except R)
@ 前奏 知子
A 祈り  優子
B 主の祈り 
C 讃美歌21 425番 「こすずめも くじらも」
D 聖書 マルコによる福音書 6章30節〜44節
     ヨハネによる福音書 6章1節〜14節
E お話  優子
F お祈り 一人ずつ
G 讃美歌 第2編26番 「小さなかごに花を入れ」
H 後奏 知子

マルコによる福音書 6章30節〜44節:
6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
6:35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。
6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
6:37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
6:38 するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
6:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
6:40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった
6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
6:42 みんなの者は食べて満腹した。
6:43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
6:44 パンを食べた者は男五千人であった。

ヨハネによる福音書 6章1節〜14節:
6:1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
6:2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
6:4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6:6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
6:7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
6:8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
6:10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
6:12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
6:13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
6:14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

お話:
今朝の聖書の箇所は「5千人の給食」と呼ばれているイエスさまの奇跡で、この奇跡だけが4つの福音書すべてに記されています。

にもかかわらず私は今までこの象徴的な奇跡を取り上げませんでした。病を癒された奇跡もそうですが、人間の論理では説明できないからです。

しかし、そのようなことは私が心配することではないので「家の礼拝」でも読みたいとの思いが与えられました。

イエスさまは群衆に霊的な糧を与えておられました。群衆は病気の癒しなど多くの奇跡を見たのでイエスさまから離れずについてきました。群衆たちの熱心さにも驚きます。

イエスさまは奇跡をおこなわれた後は必ず寂しい場所で独りになって祈られました。それは偉大な力を蓄えるためでした。私たちも霊肉ともに休養を取ることがいかに大切であるか。神さまと二人っきりにならないと霊的に命取りになります。

霊肉共に疲れ切ってしまっては神さまの息吹も感じられなくなってしまいます。イエスさまのように独りになって神と憩う。そのことでしか魂を休ませることはできません。

最多忙の人だったデパート王・メイシーは「誰ともしゃべっていない時が私の祈りの時である」と言いました。あんなに多忙な人物でも祈りの時は持っていたのです。働き盛りの人にとっては、通勤の電車の中が祈りの時かもしれません。


さて、この箇所の背景は夕暮れです。
弟子たちも疲れて空腹だったので、弟子たちは群衆もお腹を空かしていることだろうと気になっているのですが、「私たちもクタクタですから、彼らは解散させて自分たちで食べるようにさせてください」というのが本音だったと思います。

そんな時、イエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。彼らに5000人もの人々のお腹を満たすことなどできないことをご存知で言われたのです。

この時の弟子たちの気持ちはすごくよくわかります。まさに私たちの姿ですね。同じようにお腹を空かしている群衆を目の前にしても、自分も疲れてお腹が空いているとイエスさまのように優しい気持ちにはなれません。

ある程度までは愛の言動ができても限界になって無力さに絶望します。そしてそれは、弟子たちが5つのパンと2匹の魚を持って「これしかありません」と立ち尽くしているのと同じではないかと思いました。

でも、そんな僅かな食べ物が余るほどになった。ということは、私たちの能力や援助金が僅かで無きに等しいものであっても、「私にはこんなことしかできませんが」と心から捧げるものは、イエスさまの御手によって豊かに用いてくださるのだと教えられます。

イエスさまは私たちの全てをご存知です。イエスさまが私たちに求められるのは、能力や持ち物の量ではなく、「こんなことしかできませんが」と心から捧げる人を喜ばれるのです。

ある時、敬愛するT姉(今年91歳になられる)に「いつもお祈りしてくださってありがとうございます」と申し上げた時、「神さまは祈らせてくださるのよね」と仰いました。

この「祈らせてくださる」という言葉から、祈りをも神さまに「させていただくこと」であると教えられました。

疲れていた弟子たちは僅かなパンと魚を、しかも自発的に差し出したものではなかったのですけれども、イエスさまの御手によって役に立たせてくださいました。

これは単にパンと魚を増やしたという奇跡ではなく、神さまが他者のことを「祈らせてくださる」のと同じように、神さまは私たちが心から捧げるものを祝福して神さまの御用に用いてくださるのだと気づかされます。


最後に黒崎幸吉もご紹介しておきます。
「無より有を創造し、少数のパンを数千のパンに増加するを得給う神に在し給いながら、少しの残品をも無駄にこれを棄て給わない。神の御旨の奇しきを見よ」。

私たちも週の初めに魂の休息をとり、今週も主イエスが私たちと共にいてくださいますように。

私に洗礼を授けてくださった小山恒夫牧師は「平日はクリスチャンの晴れ舞台である」と言われました。

聖日の朝にもう一度信仰を回復させられて、再び感謝と喜びと希望を握らせていただいて1週間の務めを果たしていきたいと思います。


posted by 優子 at 16:58| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月19日

大空を舞うコハクチョウ 

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今も欠かさずブログを愛読してくださっているペン友の長原武夫さんが、「湖北の野鳥カレンダー2017」を送ってきてくださった。ユキと私が野鳥にも興味が広がっていることをお知りになったからだ。

短信には「幸悠君の笑顔 見えますかね」と書かれていた。その一言に込められた愛が洪水のように私の心をも満たし、ひび割れた心のすみずみにまで滲みとおっていった。

IMG_1947.jpg先週はご自身が撮られた写真を送ってきてくださった。
これは350ミリレンズで写されたもので、500ミリでないと良く撮れないそうだ。ましてや私たちのカメラでは 、でもいいよね、行きたい!!! 

琵琶湖周辺の人々は琵琶湖を「うみ」と呼ぶことや、今年はコハクチョウは少ないが、それでも200〜300羽いるとのこと。

ユキに地球儀でシベリヤを示し、あんなに遠くから飛んでくるコハクチョウに大いに励まされた。感動したユキはお礼のFAXを送信した。

もう少し暖かくなってからなんて言ってたら白鳥はシベリヤへ帰ってしまう。私は是非見に行きたいとユキに声をかけると知子も大乗り気。行こう、行こう!
せめて遠くからでもいい、自然界の鳥を見たい。コハクチョウを直に見たい。

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イエスは言われた、「空の鳥を見よ」と。

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IMG_1948.jpg新年になって明日はもう20日になるのに、トイレに掛けている聖句が12月のままだった。やっぱりこの聖句が私の一番の愛称句だと思う。

これは母の介護に通っていた頃に買ったから、もう24〜5年も前から使っているのでボロボロだ。
今から10年ほど前のこと、「かなりくたびれているからもう使えないね」と家庭集会に来られていた友に言われたことがあるが、だからいいのだ。

私は実家のトイレにも同じものを掛けた。父が毎月めくってくれていた。両親も何度も目にしてくれていた聖句集だから、テープで補強していつまでも使いたい。

私はこの聖句に何度励まされてきたことか!
そしてこれからも!


posted by 優子 at 18:14| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

ここに真の気概あり −薄利多売を続ける紙業界に企業倫理も社会貢献もなし―

昨朝、私は知子と共に美濃紙業に出向いた。その目的は、昨夏から更新が止まっている『being & doing』が未だ書けずにいるからだ。

かつて、太宰治の『パンドラの匣』の執筆を求められた時に、その舞台となった孔舎衙(くさか)健康道場の跡に立って書き上げたように、私自身が社内の方々と話し、自ら社内の雰囲気に触れたくて赴いた。

私の体調が整い気魄が充満すれば、2017年のビジョンと共に年初の情景を文字で表現できるであろう。知子の背後に感じているみ言葉は「イザヤ書 43章19節」だ。

「見よ、わたし(神)は新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる」。
 
  
さて、今日の記事では知子と全く同じ志をもった大先輩の経営者を御紹介したい。
過去ログ・「知子の『出エジプト』に神の栄光あれ! @」で御紹介した記事で思ったことだが、「証し」は誤解を招く懸念があり、私なりに感じたところは引用しなかった。文章は実に難しいと思うことしきり。

即ち、富や名声、また、健康などを得ることが神の祝福ではないことを申し上げておきたい。

それは「ハレルヤ信仰」とも呼ばれている「勝者信仰」であり、聖書がいうところの祝福ではないので、いずれも読解力を働かせてお読みいただきたい。

この記事に紹介されている人物は、私たちの志、信仰と全く同じ気概の経営者ゆえに励ましを感じて転載させていただいているのである。


袋詰めセメントの販売では国内トップを誇る建築資材の総合商社「株式会社タカボシ」(本社:東京都足立区)。50年を超える歴史を有し、「お客様第一主義」をモットーに、堅実な歩みを続ける。

image.jpg同社の創始者であり、現在は代表取締役会長を務める石山伊佐夫氏に、これまでの歩みと、経営を通じた信仰の証しを聞いた。

高度経済成長真っただ中で、石山氏は独立。その一方で、タカボシの成長は、ピンチの時にこそ培われたものだと語った。

1979年の第2次オイルショックで、東京からセメント他全ての建築資材が消え、建設業者が困窮する中、付き合いのある運送会社や砂利販売業者のトラック延べ100数十台もの車を走らせ、滋賀県にある大阪セメント(現住友大阪セメント)からセメントを運び、いくらでも高く売れるときに、値段据え置きで提供するようにした。

この突拍子もない考えが、「東京にタカボシあり」と一躍、同社の名を認知させることになった。

「このことが今日のタカボシの基礎となっています。オイルショックがなかったら、うちの会社は今のように発展することはなかった。ピンチというのはチャンスなんですね。

オイルショックの時も値を吊り上げて販売したところからは、その後社会が正常に戻ったとき、お客さんは離れていきました」と明かした。

「『お客様第一主義』が創業当初からのタカボシのスローガンです。自分がされてうれしいことは人にもする、自分がされて嫌なことは人にはしない、これがお客様第一主義の原点です」。

「2002年に胃がんで入院していたときのことですが、信頼し、副社長までやらせた男が、皆をそそのかし、クーデターを起こしました。入院中を選んでの行為が悔しくて、夜も眠れませんでした。

その時に、妻がイザヤ書41章10〜16節を紙に書いてくれました。私は、これを読んで気合が入り、ご飯も喉を通らずにやせ細っていたのが、この御言葉によってよみがえりました」
と御言葉の力を語った。

「神様は、努力の結果、万策尽きたと思う頃に働いてくださるお方だと思うんですね。だから信仰を持っていれば、ピンチになったときに必ず助けてくれます」と力を込める。

建設業界は今年、東京オリンピックに備え、空白の年といわれているのだが、タカボシでは、創業以来の大口の注文があったという。

「目先のことでもうからなくても、尽くしていれば見返りはどこかから必ずあります」。

石山氏は、タカボシをオールクリスチャンのクリスチャンカンパニーにしていきたいという明確な目的を持っている。

「社員に伝道し、信仰に導くことは難しい。こればかりは強制できませんから。でも、諦めません。すでに、来年新卒で入社してくるのはクリスチャンです。こうして一人一人増やしていきたいと思っています」と語った。

最後に石山氏は、「諦めない」ことが自分の信条だと強調した。今年2017年は、つくばエクスプレス六町駅寄りの土地に新社屋が建設され、会社発展を継続しつつ、さらなる社会貢献を目指している。

以上、『クリスチャン・トゥディ』の「『与える』&『諦めない』経営で受けた神の恵み 石山伊佐夫・株式会社タカボシ代表取締役会長」より抜粋引用させていただいた。

イザヤ書 41章10節〜16節:
41:10恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

41:11見よ、あなたにむかって怒る者はみな、
はじて、あわてふためき、
あなたと争う者は滅びて無に帰する。

41:12あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、
あなたと戦う者は全く消えうせる。

41:13あなたの神、主なるわたしは
あなたの右の手をとってあなたに言う、
「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。

41:14主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、
イスラエルの人々よ、恐れてはならない。
わたしはあなたを助ける。
あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

41:15見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある
新しい打穀機とする。
あなたは山を打って、これを粉々にし、
丘をもみがらのようにする。

41:16あなたがあおげば風はこれを巻き去り、
つむじ風がこれを吹き散らす。
あなたは主によって喜び
イスラエルの聖者によって誇る。

posted by 優子 at 23:54| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

暗澹たる時代だからこそ光の中を生きる

「歴史は繰り返す」とは若い頃からよく聞いていたことだが、これはもうどうしようもない人間の実相だと思う。
地獄の戦争を経験した世代は平和を強く訴えるが、経験したからと言って全ての人がそうではないように、戦争を経験していない人の中にも平和を訴える人々がいる。

カトリック信徒の経済学者・浜矩子さんは安倍首相を次のように批判している。
「成熟度の低い人間は追い詰められるほど意固地になる。慌てれば慌てるほど強権的になる。そうした子どもじみた振る舞いが崇高なる平和の誓いを脅かす」と。

そして、1968年の「プラハの春」を彷彿とさせる。
「権力者はやがて超保守主義に陥り、周りを見失い独善的になってしまうもので、そのことに自分で気がつかない。これは人間がもっている本性的な弱点であり、したがって行きつく所までいかないと終わらない」。

その年の12月、カール・バルトに友人のトゥルンアイゼンが「時代は暗いね」と電話をかけてきた。それに対してバルトも「実に暗い」、「そうだ。世界は暗澹としているね」。そして続けた。

「但し、意気消沈だけはしないでおこうよ、絶対に。何故なら支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。しかもこの全世界においてだよ。

しかし、まったく上から、天上から支配していたもうのだ。神が支配の座についておられる。だから私は恐れない。もっとも暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしようよ。すべて人に対する全世界に対する希望を。

神は私たちを見捨てたりはしない。私たちのうちのただの一人も、私たちお互いみなを見捨てたりはしない。支配していたもう方がおられるのだから」。


この夜、バルトは召され、これがバルトの最後の言葉になった。

世界のことも、日本のことも、日常のことも、私たちが経験する全ての行き詰まりにおいても、これは的確なメッセージとして私たちを励ます道案内である。

計り知れない犠牲の上に、長い年月をかけて築き上げてきたデモクラシーさえも再び瓦解されてしまいそうな、重苦しい暗雲が迫ってきている。

日本のみならず、今後ますます世界は一触即発の状況になっていくように思えてならない。トランプ氏に「大統領緊急カバン」(核のボタン)を委ねる恐怖。世界はどうなっていくのだろう。

各国の為政者たちよ、
過去の暗い時代を再び繰り返さないで!!!

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたし(イエス・キリスト)はすでに世に勝ったのです」。
             (ヨハネによる福音書 16章33節)

いつまでも平和で自由な時代が続くわけではありません。患難が予想されます。しかし、罪と死の力に対するキリストの勝利は、今日も変わることなく、私たちの勝利でもあります。まるで、まだ敗者であるかのように、闇の生き方をしてはなりません。勝者として光の中を生きるのです。
              (川端光生牧師の一言)

posted by 優子 at 07:23| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

家の教会2017B −新しいぶどう酒は新しい皮袋に−

2017年1月15日(日) (2017第3回 家の教会)
10時〜10時45分
出席者 3名(Except R)
@ 祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌 294番 「み恵み豊けき」
C 聖書輪読 マタイによる福音書 9章10節〜17節
D お話  優子
E お祈り 一人ずつ
F こどもの讃美歌 88番「神さまがわかるでしょ」
          48番「こどもを招く」

※ 今朝も知子は共にするも奏楽なしで行った。

マタイによる福音書 9章10節〜17節:
9:10それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
9:11パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
9:12イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

9:14そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
9:15するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
9:16だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

お話:
今日のお話はマタイの家で食事していた時の話です。  
律法を守っている真面目なユダヤ人にとって、道徳的な基準にも達しない取税人や罪人と一緒に食事をすることはとても汚らわしいことでした。そこで律法を厳格に守るパリサイ人らは、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と 聞いたのです。

するとイエスさまは、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」と言われました。

イエスさまを必要とするのは病人や罪人ですが、実はそれは全ての人が病める者であり罪人であって、イエスさまを必要としない者は一人もいないのです。

そのことを知らず、自分は正しいと思っているパリサイ人こそが、最もイエスを必要とする人なのです。


次にバプテスマのヨハネの弟子たちがイエスさまに訊ねます。私たちやパリサイ人は断食をしているのに、「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」と訊ねました。

断食というのは一定の期間は全ての食物や特定の食物を食べない宗教的行為で、ヨハネの弟子たちもまたヨハネの導き通りに厳格に断食を守っていました。

モーセの律法には断食は年に1回だけだったのに、その後は年に28回の断食を行うようになり、主イエスの時代は、月曜日と金曜日のが断食日と定められていました。計算すると1年間に100回以上も断食することになります。

個人的にする時には悲しみや苦しみの時に断食を行ないますが、日本でも何か物事の成就のために「茶断ち」と言って、願いが叶うまでお茶を飲まないという話を聞くことがあります。

そこでイエスさまはこういわれました。
「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」と。

イエスさまはご自身を新郎に譬えておられ、弟子(信徒)は新婦であり、これは聖書の奥義です。ですから「花婿が奪い去られる日が来る」とは、イエスさまが十字架にかかられる時の意味であるというのも自ずとわかるでしょう。

ですから新郎新婦がいるパーティに招かれた人たちは悲しんだりはしない。そんな時にも断食をするのはあまりにも形式的すぎるのであり、その本質は全く異なるものであるとイエスさまは仰ったのです。

16、17節で語られたことは、当時の当たり前の生活の知恵でした。
「真新しい布切れ」とは「織りたての布」のことで、まだ水に晒(さら)していない布のことです。布を初めて水につけると縮みます。ですから服を縫う時も、最初に布に霧吹きで水をふくませてビニール袋に入れて一晩おき、翌日にアイロンをかけてから型紙を当てて裁断します。

だから新しい布で継ぎ当てをすれば、濡れた時や洗濯した時に古い服を破ってしまい、新しい布も役に立つどころか無駄になって両方ともが駄目にしてしまうと主イエスは言われました。

新しいぶどう酒と古い皮袋の譬えも同じです。
収穫したぶどうをつぶして酵母菌と共に動物の内臓や皮で作った袋に入れて密封すると、ぶどうは勢いよく醗酵してワインになるそうですが、皮袋が古くなると弾力性がなくなって、ぶどうの醗酵に耐えられず袋が膨れて破れてしまいます。

そしたらぶどうだけではなく古い皮袋もダメになってしまいます。これも真新しい布切れの譬え話と同じで、古いものと新しいものは共存できないことを仰ったのです。

即ち、イエスさまが教えてくださった自由、「主体的に生きよ」という福音と古い律法とは相いれないのです。バプテスマのヨハネはキリストの新しい教えを知っていましたが、生活面においては古いままでした。

神の愛と恵みである主イエスの十字架の福音(新しいぶどう酒)には新しい皮袋が必要です。イエスさまの福音を受け取った私たちは主イエスの新しい皮袋に入った新しいぶどう酒であり、その中で私たちを主イエスに似た者へと醗酵させてくださるのではないでしょうか。


イエスさまの弟子たちは神さまの一方的な恵みに生かされて、律法に縛られた生活ではなく真の信仰理解(ぶどう酒)で、生活(皮袋)においても主体性をもって生きていました。

21世紀に生きる私たちはなおのこと、新しい皮袋となって生きたいと思うのであります。
それはどういうことかと言いますと、第一義的には他者との比較においてではなく神さまの絶対評価の上に立って生きることです。

特に他者と比較して自己認識するような日本の風土においては誘惑や葛藤がついて回ります。日常生活で起こる様々なことの中で、優先順位をいかにすべきかと常に考えさせられます。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」というのはクリスチャンの誰にとっても生涯の課題です。道を間違うことのないように主に訊ねながら選び取っていきたいと思います。


posted by 優子 at 16:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

孫の泣き叫びも聞こえぬ夫

この詩を過去ログ(2012年12月2日)で紹介させていただいたことを覚えているが、今一度、私の心に一字一句を刻み、今生かされている全ての人にも贈りたい。この詩でも夫には届かぬか・・・

この詩が書かれた1989年、溺れた子を助けようとした10歳の長男を失ったノーマさんが、長男に伝えたかった気持ちを詩にしたもので、9.11同時多発テロの追悼式で読まれ世界中に広がった。

「最後だとわかっていたなら」                 
作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦

あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための 
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

この詩は、愛し合う夫婦と親子の幸いな家庭を築いていた父親ゆえの愛の言葉であり、無関心や忙しさから愛する人にその愛を伝えることを忘れてしまわないようにと教えてくれている。

円満ではない日々にある家族がその一人を失ったならば、その苦悩は筆舌に尽くしがたいであろう。いや、何が起こっても感じ得ぬ人もいるとすれば、取り返しがつかなくなった後でさえ苦悩できることは幸いであり、意味がある。

「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」。

新たなる歩みは常に悔い改めから始まるのであり、悔い改めなくして喜びはあり得ない。自分の罪を主(イエス・キリスト)に告白し、悔い改めるならば即刻即座にして主の平安が戻ってくる。

私たちは何度も失敗するお互いであるが、パウロが「私は自分の憎む悪を行っている。自分のしていることがわからない」と告白しているように、私たちは悔い改めによる恵みを繰り返し味わうという恵みの中に生かされている。

もうこれ以上孫を犠牲にはできず決断すべきか、私はなおも祈って待つべきか悩みの中にあり。

ユキは今、寒風の中、14時から16時半までサッカーボールを追いかけている。今季最強の寒波だが雪は降っていない。

DSC_0011.jpg
「すごい風で砂が顔や体に当たって痛かった」。
写真はサッカー教室のブログより拝借。

posted by 優子 at 15:55| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月11日

映画・遠藤周作の『沈黙 −サイレンスー』、三浦綾子の『母―小林多喜二の母の物語』まもなく公開!

マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作原作の『沈黙』と出会って28年。ついに『沈黙 −サイレンスー』が今月17日より公開される。公式サイトはここです。

また2月から三浦綾子原作の映画『母―小林多喜二の母の物語』が公開される。本日更新された『クリスチャン・トゥディ』でダイジェスト版を見ることができる。

女優で落語家の露のききょうさん、罪人の友主イエス・キリスト教会の進藤龍也牧師をはじめ、家庭礼拝のシーンでも、監督の強い希望でクリスチャンのエキストラを数人起用している。

「私は、この映画を伝道映画だと思っているの。伝道映画を作るには、クリスチャンの助けが必要。神様への信仰を映画で表現したい。
この映画のテーマは、キリストの愛そのもの。キリストの痛ましい十字架上の死と多喜二の無残な虐殺を重ねているのよ」。


IMG_1892.jpg『メメントドミニ』でも『母』については何度も取り上げており、多喜二のお母さんの写真や自筆も御覧いただける。

その記事でご紹介している『ウィンザー通信』には、当時のことを知る人が詳しく証言されている。

尚、クリスチャン・ペンクラブの例会で遠藤周作研究者・長濱拓磨氏が語られた『沈黙論』はここです。

posted by 優子 at 11:30| ご案内 | 更新情報をチェックする

2017年01月09日

野鳥に夢中になった3年生の冬休み

2017.1.9雨上がりの朝.jpg
2階の窓から望む 今朝の雨上がりの二上山(雄岳)

2017,1,6ユキと散歩B.jpg3年生の冬は、チャッピーがいなくなって2回目の冬だった。今ではチャッピーがいないのも慣れてきたけれど、いつも一緒に歩いたチャッピーの姿が見えないのはさみしい。

「命あるものはみんないつか死んでいくんやね」。

私は独りごとのようにユキに話していた。


真冬は目を楽しませてくれる花も少なく、今冬から私たちの視線は野鳥に集中し、今やユキと私は鳥の話題ばかり。散歩の後は撮った写真をパソコンで見るのが私たちの楽しみ。


この木に止まっているのは何という鳥だろう。


今ではユキ自らパソコンを起動させて写真を入れる。そして、いつものように散歩図鑑で名前を調べる。それでもわかりにくい時は、「今は何でも検索!」と画像で確かめる。しかし、それでもわかりにくい場合がある。


ムクドリ.jpgどうやらこれはムクドリのようだ。名前は可愛くても鋭い眼をしている。


これは5日の朝にユキが撮ったカラスくん。

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IMG_1763.jpg


モズ.jpg今朝は道路にいた鳥が、2階の窓を閉めた音に驚いて電線に止まったのでユキを呼んだ。ユキは最速でカメラを持って階段を駆け上がってきた。

「これはモズや!!!」 
「ついにモズを撮ったね!」

!ヒヨドリ来たよ.jpgユキはヒヨドリのかわいい表情も撮ったが、残念ながらモズもヒヨドリも窓越しからしか撮れなかった。


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ベランダの際にみかんを置いたらヒヨドリが一番最初に食べに来た。

君は「ファースト・ペンギン」だ!


↓ 以下もユキが撮ったよ。
2017,1,6ユキと散歩@.jpg

IMG_1822.jpg
これは私が撮ったキャベツ畑!
ようやくキャベツの値段も下がってきたけれど、
昨秋からあまりの高騰に「お好み焼き」は1回だけだった。

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沈丁花.jpg
沈丁花が赤い蕾を見せていた。

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お隣さんちのハボタン。

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私が撮るとこのように平凡な写真になってしまう。

お向かいさんち.jpg
これはお向かいさんちのハボタン。
お正月の風情があるね。(photo by Yuki.)

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裏のタンポポ。(photo by Yuki.)

そして、冬休みのビッグニュースと言えば、
ついに「DS」とやらを買ってもらったこと!!!

1月2日にママと二人で外出した時に、私たちにも予告されていなかったけれど、知子は決めていたそうだ。買ってあげることを。「任天堂スリー・DS」と言うらしい。


IMG_1768.jpg 
1日30分間だけ。その約束は今も守っている。
メガネはテレビを見る時につけているブルーライト軽減メガネ。


お友達のほぼ皆がずいぶん以前から持っているのに我慢していたから、どんなに喜んだことか!!! 玄関で立ったまま喜びがさく裂して話していた。


知子の「逆教育法」とでも言おうか、自学自習もこの真剣さ。

実際、継続して1時間集中するようになった。


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このブログを書いている今もリビングは図書館のよう。何と居心地のよい場所と時間だろう。

ユキは今、DSを買ってもらった日にママと一緒に選んだ3年生の総復習のドリルをやっている。傍のテーブルで知子は仕事、我が夫は長い昼寝。


IMG_1879.jpgお正月休みや休日は忘れていたリコーダーの練習も頑張った。

笛の音で集まってきた野鳥の鳴き声でユキは気が散ったけれど、ユキも鳥と一緒にリコーダーで歌っていた。


そして今、先ほど起きたおじいちゃんとトランプ(「51」と「13ゲーム?」)に興じている。ときどき揉めたりもするが、ユキとおじいさんはいいコンビ。


IMG_1786.jpg楽しい冬休みだったね、ユキ。

また一緒にお散歩に行こうね。

3学期も良き日々をね!




posted by 優子 at 17:05| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

家の教会2017A −「沖に漕ぎ出そう」−

2017年1月8日(日) (2017第2回 家の教会)
10時〜10時45分
出席者 4名
@ 前奏
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌 「天にいます私たちの父」
 
C 聖書輪読  ルカによる福音書 5章1節〜11節
D お話    優子
E お祈り   一人ずつ
F 讃美歌   445番 「み神と共に進め」
G 後奏    黙祷をもって終わる

ルカによる福音書 5章1節〜11節:
5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
5:2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
5:3その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
5:4話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5:5シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
5:6そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
5:7そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
5:8これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
5:9彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
5:11そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

お話:
先ほど読んだ箇所に出てきたシモンとは、後にペテロと呼ばれる人です。ペテロはイエスさまがシモンにつけられたニックネームで「岩」という意味です。

漁師であるシモンたちは魚がよくとれるのは夜だということをよく知っていて、それはプロの漁師にとっては誰もが知っている常識でした。でも、夜通し働いたのに魚は一匹も捕れなかったのです。

そこへイエスさまが、「沖に漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と仰いました。イエスさまは漁師ではありませんが彼らは言われたとおりにしました。

このとき彼らは夜の間ずっと働いていたのでクタクタです。その上に、もう網も洗っていたのです。そんな時に言われたとおりにするというのはすごいなあと思います。

イエスさまはチャレンジを与えられました。そのチャレンジを素直に受け止めたのもすごいなあと思います。この時、漁師の常識に縛られたままだったら大漁を経験することはできませんでした。


ここで私は経済学の大家・ケインズのこんな言葉を思い出しました。

「難しいのは、新しいアイディアを開発することより、古いアイディアから逃れることである」と言う言葉です。

自分を空っぽにしないと新しいものは入ってこないと思います。
「沖に漕ぎ出す」とは、「ガリラヤ湖沖の深い所へ行きなさい」と言う意味です。シモンたちは漁師ではないイエスさまが仰ったことだけれど、イエスさまへの信頼があるから従ったのです。私たちはどのくらいイエスさまを信頼しているでしょうか。

ここでシモンに大きな変化が起こっていますが気がつきましたか?
イエスさまの言われたとおりに網を下したら網が破れそうになるほど、2艘の船が沈みそうになるほどの大漁だったのです。

シモンは(5節で)イエスさまのことを「先生」とお呼びしていたのに、8節では「主よ」と呼び、「わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と奇妙なことを言いました。

ペテロはきっと、このお方は私の心の中までご存知で、自分の心が罪でいっぱいであることがわかったので恐れおののいて告白したのです。

私ならば、「主よ、私の罪深さをゆるしてください」と言うと思うのですが、そうではなくシモンは、「わたしから離れてください」と言いました。「赦してください」というよりももっと謙虚であるのようにに思います。

するとイエスさまは、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言われました。ユキは「人間をとる漁師」ってどういう意味かわかる?
「イエスさまの話を聞く人を集める人」。そうやね、その通り! 人々にイエスさまのことを伝え導く人のことですね。

私は今日のお話のタイトルにあるように、神さまから示されたと感じたときは臆せずに「沖に漕ぎ出そう」と思いました。

最後に、みんな一言ずつ2017年の抱負を語り合いましょう。
ユキはこの新しい年はこんなことをやってみたいと思うことがありますか?(それぞれが主に在る志や希望を語りました。)
 
私たちそれぞれの目指すべき「沖」(深み)は、それぞれに違います。そして、今は何となく漠然としたものであるかもしれませんが、具体的な思いが与えられたら、その時は「私には無理だから」とか「私はできません」ではなく、主の御業を信じて主と漕ぎ出していきましょう。

このあと昨日(540円で)買ったばかりのDVD・『クォ・ヴァディス』を観ました。私が生まれた1951年にゴールデン・グローヴを受賞した歴史スペクタクルの超大作(2時間45分)です。

IMG_1855.jpg「クォ・ヴァディス」については昨年のペンテコステ礼拝でお話し記録していますので、是非お読みください。
映画では、まさに今朝読んだ聖書個所をペテロが群衆に語っていました。見ごたえがありお薦めです!!!

ボロボロになった讃美歌.jpg高校生の時に使っていた讃美歌はボロボロ。ついに今日、表紙が取れてしまいました。



posted by 優子 at 16:10| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月06日

聖書の黄金律に立つ経営

キリストの教えは常に現実肯定であり、「主体的に生きよ」という教育です。知子は今、自らを高めながら、自身の生き方を通して、このことをスタッフの人々に伝える途上にあると言えます。

社員の方々は各部署の一人ひとりが無くてはならぬ大切な存在であることを理解し、それゆえに自身もまたそうであることに気づき、主体的な仕事ぶりに変えられています。

気がつけば皆が同じ意識でやっており、キリストの教えは最高の社員教育にも結びつくのです。今後ますます神さまから与えられた多様性を生かして、良き社風を構築していくことでしょう。

聖書は人生のガイドラインであり黄金律です。それは単なる観念や思想ではなく、具体的で現実を動かす力であり、最善にして最も生きやすい生き方でもあるのです。

人格を表す英語の”person”(パーソン)は、ラテン語の”persona”(ペルソナ・仮面)が語源と言われていますが、この「ペルソナ」(個)である自分自身の人格を高めていくことはやりがいのあることです。それはビジネスにおいても然り、そしてそれこそが最も求められていることなのです。

※ 過去ログで、「ペルソナ」から導入した「選ぶということ、自由に生きるとは」を書いています。

人間は何度か話せば、あるいは長い時間をかければ、相手がどんなに言葉が巧みであっても大体人柄はわかります。

職場内や社外との関係においても同じで、ビジネスにおいても全て人と人、心と心のつながりで成り立っています。それは夫婦、親子、友人、知人など、日常に関わる全ての人間関係において言えることです。

その核となる「人格」は心理学では行動から推測します。
「行動=人格×環境条件」で記すとわかりやすいと思いますが、「行動」は「人格」と「環境条件」という二つの要因によって表現されてきます。この場合、「環境条件が一定であれば」という前提が要ります。

行動の違いは各自の価値観によって決定され、その人が価値基準をどこに置くかによって、その人の思考、判断、行動に関係していきます。

人間として、また、人間関係で最も大切なとは、まず自分自身に正直であることと、他者に対して誠実であることとは、ビジネスパートナーとしても重要です。誠実な人は信頼でき仕事を任せることができます。

信頼関係があればそれが善循環となって良きものを生み出し、何よりも生きがいを感じて生きていくことができ、これ以上の喜びはないでしょう。


世界はますます混沌とし大激動の中にあります。どうなっていくか誰にも予想できません。大企業も中小企業の経営者も必死です。

しかし、知子は心強いです。
信仰者は神さまがこの道を開いてくださったことを知っているからです。ですから必ず最後まで成し遂げさせてくださるという確信を揺るがせないためにも、週の初めに神を礼拝し静思するのです。

すべての事に意味があることを忘れないで、試練の時は過去の恵みを思い出して炎を再燃させ、心が弱った時には励まし合って、今年も主(しゅ)と共にチャレンジに励みたいものです。誰もが自らの新たなるチャレンジです。

既にハーモニーを奏で始めている美濃紙業。
私は2017年の歩みに期待しています。


posted by 優子 at 10:20| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

お正月に屋外の遊び場へ!

お正月も早4日、2日からユウターンラッシュのニュースが流れていた。例年だと神戸の叔母を訪ねるのだが、今回は私も知子と共にゆっくり休養して活力を養うことにした。

昨日はのんびりと堺市(大阪府南部丘陵)にある「ハーベストの丘」へ出かけた。お正月に、しかも、寒い屋外で過ごすなんて人生65年初めてのことだったが、さすが知子のお薦め。近距離で十分楽しめて、遅い昼食も摂って6時間の外出で帰宅した。

ここで私はついに生まれて初めてゴーカートに乗った!!! 
まずはユキと知子から。これが幸運だった。というのは、乗車するのは身長140センチ以上という条件だけで、大人がアクセルとブレーキのついている右側に座ればよいということだったので、最初にユキと私が乗って、ユキがもっと乗りたいと言ったら知子と乗ればよいと思っていたら、ユキが「先にママと乗る!」と言ってきかなかった。

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全長850メートル.jpg




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IMG_1701.jpg「運転したことのない人には難しいわ。ママはユキと乗らなくてよかったわ」。
これが降りてきた知子の第一声だった。
ユキは私たちが勧めたブルーの防寒着を着ないで薄い上着を着てきたので「寒い、寒い」と言っていた。

次は私たちの番、私は係の人にお聞きした。

「私は自動車の運転はできないのですが乗れますか? 遊園地でもまだ一度もゴーカートに乗ったことがなくて、でもどうしても死ぬまでに一回乗りたいんです!」と。

IMG_1704.jpg係の男性はとても優しかった!!! 足だけ写っている、そのかただ。 
親切に教えてくださり安心させてくださった。
私は夫のサポートを頼りに右側に乗った!!! 
走行距離850メートル、「行ってきまーす!」

到着した時、その方が見守ってくださっていたことがわかった。私たちの前の人たちはぶつかって困っていたので、その男性が原付きに乗って白バイのように急行されていた。

IMG_1707.jpgこの写真を見て胸が熱くなった。
40年を共に歩いてきた2人。
そして、これからも。

IMG_1709.jpg"

「ハンドル左へ!」、「アクセル踏んで!」、「踏みすぎ!!」、「ブレーキかけて、ハンドル右!」
夫の声かけに合わせて必死でやっていた。やっぱり本物の自動車を動かすなんて私には怖くてできない。
でも、楽しかった!!! 
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IMG_1712.jpgそして、ユキはアーチェリーを初体験。






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真冬にポピーが咲いていた。

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そして、羊の放牧場へ。
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こんな看板に大笑いしてしまった。

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「ラマさんやね。こんにちは」

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この羊たちはおなかが空いているのか
スコップをくわえて放さない。

羊たちはみんな柵をかじっていた。
柵をかじる羊.jpg

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ユキは「羊がユキを見ている」と言ったけれど、
羊は餌をくれるのを待っている。

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この羊を見ていると
顔の冬毛が抜けて羊の顔のようになった
チャッピーを思い出した。
2014.3.17のチャッピー.jpg
これは、2014年3月17日のチャッピー。

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DSC06128.jpgこれはユキが撮ったもの。
かわいいね。

牛さんは
何を思って
生きているの?

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大きくなったね、ユキ。
そして、ユキのひとこと。「おじいちゃん笑ってる。
いつも写真撮る時、笑ってないのに、
今日は笑ってる。」


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幸せな「天国アニマル」の動物たちは心の緊張を緩めてくれ、時間がゆっくりゆっくり流れている癒しのひと時だった。

いよいよ明日は初出。心の座を新しくされて、2017年は昨年よりもより良く歩むことができますように。
『メメントドミニ』をお読みくださっているお一人おひとりにも、神さまが正しい方向にお導きくださいますようにお祈りします。
さあ、新しい船出をしましょう!

posted by 優子 at 21:18| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

私たちが教会を離れている理由

私は常に「忍耐している時は愛はない」、「愛において真理を語れ」ということを一つの指針にしているが、私たちがなぜ教会を離れて家で礼拝を守っているのか、それを語る備えがなされ、もはやそのことを語らずに進むことはできないので述懐したい。

無牧(牧師不在)だった教会に昨春のイースター礼拝より牧師が招聘された。招聘決定に先立って、2015年12月27日の最終礼拝でその牧師をお招きして説教を聴く機会を設けた。

ところが、それは驚くべきものだった。

「神は間違いを犯す、イエス・キリストも間違う」と、耳を疑うべきことを何度も繰り返されたのだ。このような話は世界広しと言えどもキリスト教会において、時代を超えて前代未聞の内容であろう。

この教会に私たち家族と全く同じ見解の信徒が一人おられたことは救いである。その方は役員会に陪席して異議を述べ、「信徒説教で支えていきたい」と共に労する姿勢も表明されたが、代務の牧師や役員たちの魂には届かず招聘することに決まった。反対した役員は私一人だけだった。

総会でも私たちは共に会衆に訴えた。その時、役員の一人が「教会存続のために役員は(教会に残る)責任がある」と私を批判された。それは私も最終的に悩んだことだった。

しかし、そもそも信仰対象である神概念を全く異にする教会で、私が責務を続けるという行為の意味は何か。せめてあと2人でも反対する人がいれば状況は大きく変わり、その中で労することは大きな意味がある。

しかしながら、この状況下で残るというのは異教の神に仕えることであり、私自身のためにバウンダリーズ(境界線)を引くべきが賢明。

また、孫の人格形成への悪影響は是非とも避けねばならない。もしも私の選択が間違っていたとしても、神さまからその裁きをも受ける覚悟で決断した。

こういうわけで2015年末より2016年2月上旬まで、神の導きを乞うために祈りつつ思いめぐらした末に導き出された答えは、総会でも合意されたならば教会を離れるという結論だった。

敬愛する信仰の先輩の意見を聴き、また、自らの判断に至った段階で2名の牧師にも相談した。共に全く同じ見解を示された。

総会でも審議したが反対者は私たち4名だけで、大多数の賛成を得て牧師招聘が決まった。

この人たちはいったい何を信じ、どんな神に祈っているのだろうか。昨春、教会のために祈っている時、涙なくして祈ることができなかった。神さまの御心を痛めていることが私の痛みである。

あの教会は賀川豊彦の献金により建てられた教会である。神さまは教会を正してくださると信じる。私は神に期待して、時が来れば神の介入により教会が正されることを信じている。

私たちが教会を離れたわけを語ることを急がなかったのは、キリストを遠ざけることになるのではないかと懸念したからだ。

しかし例えば、警察官が犯罪を犯したからといって警察は不要だということにはならないのと同様に、驚くべきことを言う牧師がいるからといって「だから教会は、キリスト教は・・」ということにはならない。

問題はそういうことではない。要はいかに主体的で自立した生き方が大切であるかということだ。そして、自らの限界を知って生きることの大切さをも思い知るのである。

その受け止めがあって初めて、神の御心と自分自身の意志を見分けることができるのではないか。自己洞察できる人ならば深く読み込んでくださると思う。

この教会は病んでいる。自浄作用もできない状態だ。人間はかくも間違いをおかしやすい存在なのであるが、今もまた歩みの途上であることを忘れてはならない。

このことを書くかどうか悩みぬいた末の最終段階で、イエス・キリストならばどうされるだろうかと思い巡らし、福音書に残されているイエスさまが言われたことに集中して記述する判断に至った。

私は教会に失望したが、神に失望することのない確かな信仰が養われていたことを感謝している。現況の教会には望みをもってはいないが、神がどのようになさるのか祈りつつ待っている。その思いは最初から変わらない。

つまり神が教会を正しく再建されるために、私たちを召し出されるならば喜んで戻ろうと思う。必ず神の時が備えられていると信じて「家の教会」を起ち上げた。

クリスチャンにとってクリスチャンの交わりは大切だ。私たちが偏狭で間違った信仰に陥らないように、神はずっと以前より、また新たに祈りの友を与えてくださり、祈り合い、交わりを与えられていることを感謝している。

無牧の時に代務してくださった牧師の一人にも相談したが、最後に言われたことは、「意見の食い違いや宗教観の違いがありますが、要は神さま、要はキリストであり、その基本のところを踏まえて教会形成していただきたいと思います」。

しかし、問題はそれにさえ先立って、「神の概念」が違っているのでどうしようもない。そのことをこそ相談したではないか!

こんな最悪なことの中にも神は良いことをしてくださる方である。このことを通して私たちと同じ価値判断で教会を離れた方と個人的出会いへと導かれた。

クリスチャン同志の交わりのために、そして、学びと霊的必要のために始まったのが「ブルンナー読書会」である。その方を学びのリーダーとして回を重ねている。

私がブログを書いている時は、全能の神さまの御前で神さまと二人っきりの交わりの時であるので、デボーションに準ずる時間である。

常に神さまにアカウンタビリティを取りながら書いている。「アカウンタビリティ」とは会計や経済学から出た用語ではなく聖書の言葉だ。

即ち、かつて日本銀行総裁を務めていた速水 優が語っていたように、「他人がなんと言おうと、自分のしていることを神さまに申し開きができる」と思うことを書いており、神の前で説明責任とれるとの思いを与えられて「我が心の旅路」としてここに記すことにした。

これを書き終えるにあたり、私は今、イエスさまのみことばが脳裏に浮かんだ。

「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる」。
           (マタイによる福音書 15章8・9節)

なお「バウンダリーズ」とは、自分の責任と他人の責任の領域の境界線のことである。


posted by 優子 at 23:10| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

家の教会2017@ −「今は恵みの時、救いの日」−

2017年1月1日(日) (2017第1回 家の教会)
11時〜11時40分
出席者 4名
元旦礼拝.jpg
@ 前奏   知子
A 主の祈り  一同
B 讃美歌   414番
「あらたまの年たちかえり」
C 子ども讃美歌  82番「おおしくあれ」(写真)
D 聖書輪読  コリント人への第2の手紙 
                6章1節〜10節
E お話    優子 
F お祈り   一人ずつ
G 讃美歌   448番「み恵みを身に受くれば」
H 後奏    黙祷をもって終わる

コリント人への第2の手紙 6章1節〜10節:
6:1わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
6:2神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救いの日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。
6:3この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

お話:
「神の恵み」とはどういう意味でしょうか。「恵みの時」は 原語で「神の御旨にかなって受納せれられる時」という意味です。
即ち、イエスさまの十字架の贖罪により神さまと和解した関係になったということであり、イエス・キリストが再臨される迄の間は、神さまが私たちの祈りをお聴きくださって助けてくださる期間であるということです。

その後は、これまでに生まれて死んでいった全ての人が神の審判の座に立たされるのです。「今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」とは、クリスチャンだけにではなく今生きている全ての人に告げられているのです。

世の終わりが百年後か千年後かは誰にもわかりませんが、そのことよりもまず、私たちが明日交通事故に遭って、あるいは地震や津波に襲われて死んでしまうかわかりません。だから今こそが誰にとっても「恵みの時」であり「救いの時」なのです。

私はよくこんな光景を想像します。ノアの箱舟の扉が閉まる直前に駆け込んだ人や、「出エジプト」で言えば、モーセが神の力を受けて紅海を割った海が元に戻るギリギリに渡り切った最後のヘブライ人の光景です。

そんな「滑り込みセーフ!」も幸いですが、今こそ自分の問題として考える時なのです。


コリントの偽信徒の中にはパウロを謗(そし)る者がいましたが、キリスト者はパウロの如く、自分に悪意を向ける人や反対者に対しても迫害や仕打ちをしない、いじわるをしないのです。

それどころか自分に敵対する人に「寛容のみならず進んで親切を尽せ」と、その愛がキリスト者の発露であるとパウロは言うのです。しかし、「進んで親切にせよ」というのは難しい時がありますね。

一方では、豊かに聖霊をいただいて(主に在って)神・キリストの義によりて悪魔の悪だくみを破り、律法による義をも破るのです。まさにこのことは知子が最近何度も経験していることです。

私たちが「主よ、信じます」、「主よ、感謝します」と言えるのは自分の意思だけによるのではなく、主の恵みの中にあるからです。 ですから恵みの中で生かされていることをしっかり心にとめて、新しい年はますます大らかに力強く生きていきましょう! 主イエスと共に!

私たちが教会を離れて家で礼拝を捧げていることについては、ページを改めて綴ります。

posted by 優子 at 11:00| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月01日

新たな2017年は新たな力で始まる

主の2017年、明けましておめでとうございます!
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2017年賀状.jpgこれは2017年の知子の年賀状です。この写真は2016年12月1日に記録した時に撮った写真です。

私は年賀状さえ用意できず、今年は長女の年賀状に名前を書いてお届けさせていただきましたが、ご無礼をおゆるしください。
お年賀状をありがとうございました。
「いつもブログ拝見しています」。「ブログから祝福が溢れていますね。」と、嬉しいお言葉をいただきました。

また、「公私共のご活躍、いつも敬服いたしております。」とは、1990年頃に学んでいたカウンセリング(臨床心理学)の講義を、いつも最前席で並んで座っていた敬愛する女医さんからのお励ましです。
「とんでもない」と恐縮しつつも、ブログをお読みくださっているのではと感謝しました。ありがとうございます。

また、「知子ちゃんも真智子ちゃんもピアノを続けて下さって嬉しく思います。」と、娘たちにピアノを教えてくださった先生の嬉しいお言葉。真智子も幸せをかみしめることでしょう。

友や知人の近況を読ませていただくのは嬉しく励まされます。心と心が通い合うことほど嬉しいことはありません。それは心が弱った時の気つけ薬になり、立ち上がろうとする私を励ましてくれるからです。


今年は元旦と聖日が重なり、元旦礼拝をしない教会においても元旦に聖日礼拝を捧げています。
私たちも食前の祈りを捧げておせち料理とお雑煮をいただいたあと、新年初めての家庭礼拝を捧げて、そのあと正午からワシントンとスカイプをつないで次女夫婦共に全家族が相見(あいまみ)えて分かち合いの時を持ちました。

1時間半は豊かに祝されて、まもなく新年を迎える次女夫婦に「よいお年を」と言って切りました。


元旦@.jpgユキは小鳥に夢中。
礼拝後に今日のみかんを置きに行き、スカイプのあと何度も裏庭へ行き来していました。



これは今日のメジロたちです。
本当に美しくかわいいですね。

元旦C.jpg

元旦B.jpg

カール・ヒルティは『眠られぬ夜のために』(第一部)の「1月1日」に次のように書いています。

「もしあなたが人生の幸福を心から望むならば、キリスト教を神学や教会主義と取り替えてはならない。むしろ、あなたは自分でキリスト教をその源において、すなわち、福音書のうちに、とりわけキリスト自らの言葉の中に求めなさい」。

次の記事で今朝の礼拝(家の教会)を刻みますが、私たちが昨春から家で礼拝を捧げるようになった理由に触れたいと思います。クリスマスの前から思い始めていることですが、今一度祈って神さまの御心を思いめぐらせます。

ああ、それにしましても脳の働きが悪くて怖いです。
おせち料理は年々簡素になり4段重箱が3段になりました。作る段階になって「高野豆腐買うの忘れた!」という始末でした。トラ豆もそうです。我が家の定番品目ではないとはいえ、「松かさいか」に至っては冷凍庫で眠ったままで今思い出したほどでした。これを機に今後は徹底的に好物だけに絞ることにします。

posted by 優子 at 17:21| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする