2017年04月30日

家の教会2017P ―イエスの「終末についての説教」−

2017年4月30日(日) (2017第17回 家の教会)
9時30分〜11時
出席者 2名(With T)
@ 聖書輪読  マルコによる福音書13章全章
A 分かち合いと祈り
B 聖歌 582番(新聖歌397番) 「神の御子にますイエス」

※ ユキは久々のサッカー教室のため不在。
昼食後、ユキと二人で聖書を読み、短く話して祈り合う(午後12時50分〜1時10分)。その後まもなく遊びに出かけた。


マルコによる福音書13章全章(1節〜37節):
13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
13:2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
13:3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。
13:4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
13:5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。

13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
13:12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

13:14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
13:15 屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。
13:16 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
13:17 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
13:18 この事が冬おこらぬように祈れ。
13:19 その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
13:20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。
13:21 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
13:22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
13:23 だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。

13:24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、
13:25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
13:26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
13:27 そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
13:28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
13:29 そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
13:31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
13:32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
13:33 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
13:35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
13:36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
13:37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。

お話:
北朝鮮の止まらない軍事的挑発に一触即発の状態が続いています。こんなに緊迫した状況になってもこれまで同様に笑いながら話している司会者やコメンテーターには強い憤りを感じます。

戦争への不安や恐れを現実的に感じる今、この箇所からイエスさまに導きを求めて読みたいと思います。

弟子のひとりが言った「立派な建物」とはエルサレム神殿のことです。当時の人々は「エルサレムの宮の建築を見ないものは建築美について語る資格がない」と言っていたほどの建物でした。

しかし、イエスさまはそのような物は永遠性もなく滅び去るものだと言われました。事実このあと40年足らずのち(紀元70年)にローマ帝国によって破壊されてしまうのですが、この時弟子たちは「いつ、そんなことは起こるのですか」と尋ねました。

これはエルサレムの破壊のことだけを指しているのではなく、世の終りにおいても起きるという預言として受け取るべき内容であることから、イエスさまの「終末についての説教」と呼ばれているところです。

「終末の徴」というのは、偽キリストや偽預言者が現われて、戦争、地震、飢饉が起こり、家族同士でも憎しみ合い、殺し合うというのです。
殺されるのは勿論キリスト者で、世の終わりに近づくに従ってキリスト者はますます憎まれて迫害の苦難がくると言われました。何と恐ろしいことでしょうか、そんな覚悟が私たちにあるでしょうか。


黒崎幸吉は次のように語っています。
「キリスト者はこの世の悪のためにもまたその益のためにも苦しまなければならない。この世の人々を愛しこれがために苦しむことは主イエスの道であった。これがまたキリスト者の踏むべき道程である」と。

戦争は世の終りの前兆として必ず起るけれども、しかしこれまでもどの時代にも戦争は起きてきました。私は今まで想像力もなく歴史を淡々と読み流してきましたが、聖書においても、日本史、世界史に残されている事実は何と残虐であったか。今ほどリアルに感じることはありませんでした。

円周と円の面積との相関関係に例えて文明の進歩を円周とするならば、結果である面積も大きくなっていきます。
しかし、文明の進歩は決して理想に向かっているのではなく、文明が進むほど悪や戦争が頻発して世界は混沌さを増すばかりで聖書が記している通りです。


キリストの再臨前には空前絶後の大患難が世界に臨み、宇宙的大変動が起こるとのこと。それはいつかわかりませんが、大切なことは怠惰な信仰生活を戒めて常に「目を覚ましていなさい」と仰いました。

そして「惑わされるな、慌てるな、前もって取り越し苦労するな」と言われ、何度も「気をつけなさい」と繰り返し警告しておられます。

14節の「立ってはならぬ所」とはエルサレム(神殿)に起こった時が世の終末に近づいた証拠であるというのです。

聖書の言葉を神の言葉と信じる私たちは知っています。いつか天地は滅びるということを。「しかしわたし(イエス・キリスト)の言葉は滅びることがない」と主は言われます。

即ち死ねば終わりではないから救いの希望を握って堅く立ち、最期まで困難や試練を耐え抜けというのです。それは我慢ではなく希望の忍耐です。

そして、憎むべき破壊者に巻き込まれないようにひたすら逃げよ。地上のものに執着しないで早く逃げよと忠告されています。実際この世の終わりの時はそれら一切は滅びゆくものです。

ただ迫害への恐怖が常に私の脳裏にあります。迫害にはすぐに転んでしまうような恐れがあります。いや、その時は転ぶことさえできない問答無用の大迫害でしょう。

しかしそのことも一切神に委ねて平安をいただきます。そして今は北朝鮮の危機を回避して最悪の進路に進まないように祈るばかりです。

聖歌 582番(新聖歌397番) 「神の御子にますイエス」 
メロディは「アニー・ローリー」です。
@ 神の御子にますイエスのために
   罪を敵として立つは誰ぞ
   (くり返し)全てを捨てて従いまつらん
         わが全てにます王なる主イエスよ

A 富の楽しみと地の位に
  目もくれずイエスに付くは誰ぞ

IMG_4531.jpgB 罪にとらわれし魂をば
  イエスに連れきたる勇士は誰ぞ


C わが持てる物は主よ汝(な)が物
  きよきみいくさに 用い給え
 

posted by 優子 at 13:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月28日

God's in his heaven

今年こそとヤマフジに誘われて夕方散歩に出た。
2年前にヤマフジ(ノフジ)を知り、昨年は気をつけていたのに期を逃し、ついに見た満開の時!

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「わあ 美しい!」
声を上げて走り寄り、息を呑んだ。

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Pippa's Song (春の朝)
            Robert Browning                     

The year's at the spring  時は春、
And day's at the morn;   日は朝(あした)、
Morning's at seven;      朝(あした)は七時、
The hill‐side's dew‐pearled; 片岡(かたをか)に露みちて、
The lark's on the wing;   揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
The snail's on the thorn;  かたつむり枝に這い、
God's in his heaven ―    神、そらに知ろしめす。
All's right with the world!  すべて世は事も無し。


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モッコウバラ

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「主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい」。

       (哀歌 3章22・23節)

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ナルコユリ

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色づきはじめたサクランボ

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風に揺れる新緑

God's in his heaven. 

「あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」。

                (詩篇16篇11節) 

posted by 優子 at 18:24| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

チャッピーがでてきたよ!

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私の不在中に帰宅した日のユキの置手紙

朝早くから午後3時前まで外出した25日のこと。まん悪く今週は家庭訪問のため午後1時過ぎに学校から帰ってくるというので困ったが、ちゃんと宿題を済ませて遊びに出かけていた。

2月に東大阪の読書会へ出かけた時は近隣の友にお世話になったが、その後の間に著しくしっかりしてきたようで、今日は「かえって楽しかった!」と頼もしい感想が返ってきた。どうやら私の方が不安だったようだ。

IMG_4410.jpgその夜、ユキが遊んでいるゲーム機(DS)に惹きこまれた。写した写真に花やシャボン玉で落書きしたり、これは「どんな写真が取れるか分からないカメラです」という機能にセットして撮ったもの。

「これはチャッピーじゃないの? チャッピーではなくて柴犬の顔なのかなぁ」と、私だけではなくユキもわかっていなかった。何度か写していると今度は間違いなくチャッピーが出てきた!

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チャッピーが笑ってる!!!

私はどうしてチャッピーが出て来るのかわからなくて不思議でならなかったが、ユキが以前にチャッピーの写真を撮って保存していたものが組み合わさったものだった。

しかし毎回出て来るのではなく滅多に出てこない。
「おばあちゃんにもチャッピーと撮ってあげたい」と何度も挑戦してくれたユキの優しさが嬉しかった。

それにしても魔法のような出来事に馴れっこになっている現代の子どもたちが大人になった時、彼らはどのような人間観を備えどのような考え方をするのだろうかと興味深い。

posted by 優子 at 08:31| 愛犬・チャッピー | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

「今日よい1日を出発くださいますように!」

「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」。
                    (詩篇14篇1節)

神がいないなら、「空の空、すべては空」です(伝道者1:2)。学業、労働、結婚など生の営みの全てが無意味です。それゆえ「神はいない」人生を真剣に生きるのは愚かなことです。

人生に意味があるのは、「神はいる」場合だけです。
しかし、「神はいる」と信じながら、「神はいない」かのように生きるなら、それも愚かというべきではありませんか。

        ―キリストの栄光教会:「今日の御言葉」より―

「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように」。
       (黙示録1:5〜6)

「今日よい1日を出発くださいますように」。

主を見上げ、友の励ましに支えられて新しい今日を始めよう。友のことを祈りつつ。

posted by 優子 at 07:14| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

家の教会2017O ―信仰は神の恵み―

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今日の二上山(にじょうざん・雄岳)

2017年4月23日(日) (2017第16回 家の教会)
16時10分〜17時
出席者 3名(Except R)
@お祈り  優子 
A 聖書輪読  ヨハネによる福音書 20章19節〜31節:
B お祈り   一人ずつ
C 分かち合い
D 子ども讃美歌  「雄々しくあれ」
          ユキの独唱に始まり共に讃美する
E 讃美歌   496番 「麗しのしらゆり」

ヨハネによる福音書 20章19節〜31節:
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

20:30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
20:31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

お話:
イエス・キリストの誕生は神の言葉(ロゴス)が人となった「キリストの受肉」という、とてつもない出来事でした。そしてクリスマスと同様のとてつもない出来事がキリストの復活でした。

復活の出来事により、神さまがイエスさまの十字架の死によって私たちの罪をお赦しくださったことがわかったのです。復活は神さまからの赦しの宣言であり神さまの応答です。

ですからイエスさまのお言葉を信じる者は、キリストの復活によってその人の罪の問題は完全に解決しました。このことを「救い」と言い、復活こそがクリスチャンの原点なのです。


パウロはこのように言っています。

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」。

           (コリント人への第一の手紙15章17節〜20節)

復活などあり得ないと多くの人は言うでしょう。2000年前の人にとっても復活は信じがたいことでした。

今日のお話はイエスさまが復活されたその日の夕方の出来事です。弟子たちはイエスさまへの迫害が自分たちにも及ぶことを恐れて戸を閉めていたのですが、イエスさまは戸を開けずに戸を通過して入ってこられました。

イエスさまは弟子たちにご自身を現してくださいました。
ところがそこに居なかったトマスが帰って来た時に、仲間から「わたしたちは主にお目にかかった」と言われて、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」 と主張しました。

その8日後にイエスさまはトマスにも現われてくださり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ないで信ずる者は、さいわいである。」と仰いました。

それ以後の人々のクリスチャンはみな見ないで信じる者になったわけですが、2000年前多くの人々がイエスさまの奇跡を見ました。しかし、奇跡を見た人が皆信仰を持ったわけではありません。

奇跡を見て信じた人もいれば、見ても信じなかった人がいました。ではどうして信仰を授かる人と授からない人がいるのでしょうか。

私は全く疑う余地もなく信じることができました。なぜならば復活されたのは人間ではなく神だからです。
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」とイエスさまは言われました。

そのこと以前に、信じることができないのは主イエスが話されたことに関心がないからだと思っています。聴く者の心に、また、奇跡を見ていた人の心に求めがないからです。「求めがない」とは即ち心に飢え渇きがないのです。

自分の人生にさえ主体的になれず傍観者として生きている人も大勢います。誰も皆、人生途上で次から次へと難題がやってくるわけですが、傍観的に生きている人はそれらと対峙しないで流してしまうのです。

自分自身と向き合うことをしないのです。そういう人に限って決まって他者を責めるのが特徴ですね。「悪いのは全て相手だ」と。常にそのような生き方をしていると、ついに何も見えなくなってしまうのでしょう。

ですからいくら年齢を重ねても他者の優しさや思いやりがわからず、感謝と喜びのない人生を生きることになるのです。それではせっかくの命が勿体な過ぎます。

自己と向き合うと自分の内面の葛藤の醜さを知り、そのようにありたいと願いながら実行が伴わないという二律背反に苦しみます。偉大な思想家は言います、パウロの告白に優る自己省察はないと!

自分の姿を見ると落ち込みますが、そのたびに主イエスを見上げるのです。そしてパウロの言うように、「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と何度も立ち上がるのです。常にこのことを憶えて生かされていることこそが神の恵みです。

御言葉(聖書の言葉)にこそ力があります。神の力が働いているから慰めを受け、励ましと力を受けるのです。真剣に求めている人ほど恵みが豊かに注がれます。最近の私は知子の唇を通して聴く御言葉から溢れる励ましと希望を感じています。

私たちは修養してクリスチャンになるのではありません。神の恵みによって一方的に授かったのです。そして、「あなたこそ生ける神の子キリストです」という告白の恵みを経てクリスチャンになるのです。

そのとき神さまは自分の生涯が何のためであるかを確認させてくださり、そこから真の人生が始まるのです。まさに神を知るまでは「人生の夜明け前」なのです。


弟子たちは復活の主と出会って福音を宣べ伝え始めました。

「わたし(イエス・キリスト)はよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。

ブルンナーはこのように語っています。

「この言葉によってキリストが言おうとしておられることは、何よりも先ず、もしあなたが地上的ないのちを超えて、永遠に向かって目を上げないなら、わたしが誰であり、あなたがたに対して何を意味するものであり、わたしがあなたがたのためになしたこと、これからなそうとしていることを全然理解できないであろう」。

一人でも多くの人が神さまの恵みを受け取られますように!
厚かましく「ありがとうございます!」とお受けすればいいのです。

そして、互いに良い影響を与え合いながら生きていきたい。そのような日々こそが最高の人生だと思います。
今週も多くの闘いがあるでしょうが、どんなことの中にも主のみ旨がなるように信じて励むことができますように。今週もそのことを祈って始めましょう!

「イエスさま、今日の朝はいろいろありましたが『家の教会』ができて感謝します。・・・」(ユキの祈り)

讃美歌 496番 「うるわしの白百合」

無題.png@ うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
  イエス君の墓より いでましし昔を

(繰り返し)うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
      ゆりの花 ゆりの花 ささやきぬ昔を

A 春に会う花百合 夢路よりめさめて
  かぎりなき生命に 咲きいずる姿よ
  
B 冬枯れのさまより 百合しろき花野に
  いとし子を御神は 覚したもう今なお

附記:外出中のお昼過ぎのこと。
良輔より淳子姉が来てくださっているとの連絡が入り、出先で出会ってしばらく話す。1月に入院されていた時よりもお元気になっておられたが、痛みが完全に癒されますようにお祈りします。

posted by 優子 at 17:48| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月22日

ブルンナー読書会G ―われは復活なり―

「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」。


IMG_4359.jpg昨秋から互いに日が合わず、今日ようやく半年ぶりに「ブルンナー読書会」を再開した。ただし知子は欠席。


お導きくださっている下村喜八さん(ドイツ文学者、京都府立大学名誉教授)は、先月京都外国語大学教授職を退官された。最終講義はゲーテを取り上げられたとのこと、タイトルもお聞きすればよかった。


「ブルンナー読書会」では『我は生ける神を信ず 使徒信条講解説教』(新教出版社)をテキストに学んでいる。使徒信条はキリスト教徒の基本信条であり教会で唱えられている。


「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、

三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、

全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、

罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン」。


今回は先週迎えたイースターにちなんで3章分を飛ばして、最終章の「われは復活なり」の御講義をお願いした。

最初に讃美歌294番を讃美し、下村さんが祈り聖書を拝読された。


聖書、コロサイ人への手紙3章1節〜11節:

3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

IMG_4321.jpg以下は私のノートテイクゆえに正確さに欠けるかもしれないことをお断りしておきたい。


この本に収録されているのは、1939年9月、
第2次世界大戦が始まった時になされた説教で、死に取り巻かれていた時のものである。

キリスト者と言えども死に対する恐れと不安に脅かされており、正気を失ってしまっていた。「死んでも生きる」ということを信じているならば恐れや不安はないはずだ。

キリスト者の自己反省として此岸(しがん)的なこと、即ち、この世的な時代精神の影響に巻き込まれてきたからではないかとブルンナーは言う。

即ち、理性や悟性で理解することしか信じないという18世紀後半からの啓蒙主義の洗礼を受けた者には、信じたいが信じられないところがある。これが現代の此岸的な精神である。

聖書の言う「彼岸」とは、「此岸の世界へ永遠が侵入してくることを意味する」。黙示的出来事とは世界の終末の出来事であるが、今やますます自分中心、自国中心になってきた。フランスの選挙はヨーロッパが崩れる分かれ目かも知れない。

原始キリスト教団のキリスト者は、イエスは救い主であることを信じて疑わなかった。内村鑑三、矢内原忠雄、シュナイダーたちは、天に国籍を持っていたから抵抗できたのである。

「あなたはどのように生きたいか」と問えば、かつて家族制度があった時は、美田を残す、子孫繁栄させる・・・などが生きる目的であったが、今は名誉、財産、地位を求めていくのであろう。

ゲーテの人生目的は、ヒューマニズムの典型的考え方で、名誉、地位、財産を残すのではなく、持って生まれた才能を伸ばし、教養、人格形成を求めた。
ではキリスト者の目的は何かといえば、「キリストのようになる」ということである。

「かれキリストは、わたしたちすべてが沈んでいた死の虚無の中から永遠のいのちへわたしたちを呼び起こさんがために、神からわたしたちのもとに遣わされたのです」。

「永遠のいのち」というと限りがない時間的なことを考えるが、「完全な」「罪がない」「死なない」「満ち足りている」という意味を持っており、苦しみもない、死もない、「あっ、生きているな」という満ち足りた気持ちが考えられる。

聖書が語る信仰とは、キリストと出会って罪を知り、悔い改め、罪が赦されて希望が生まれた。そういうことが生起したのであり、キリストを信じるとは、キリストが約束されたものを受け取ることである。

「復活」には2つの意味がある。
「キリストと共に死に、キリストと共に甦る」。そして、「キリストと共に住む」という意味がある。

今回も深い内容だった。下村さんが「ここは重要なところです」と指摘された部分を私は読み流していたし、(P191終わり〜P192のところで)問題を提起され時間をたっぷりとってくださったのに、脳が動かず読解さえできなかった。頭が冴えている時に読み直したい。


私の心に刻まれたことは、ブルンナーがイエスの言おうとしておられることはこうだと語っているところだ。


「もしあなたが地上的ないのちを超えて、永遠に向かって目を上げないなら、わたしが誰であり、あなたがたに対して何を意味するものであり、わたしがあなたがたのためになしたこと、これからなそうとしていることを全然理解できないであろう。


キリストは決してこの世的に人間に幸福を与える存在でもなく、政治的なメシヤなる救世主でもない。


もしあなたがわたしを理解しようと欲するなら、どうしても地上的な時の次元を突き抜けて思いを高く永遠にまであげられなければならない。そうするならば、わたしがあなたがたに神の国を近づけ、あなたはわたしによって永遠のいのちに近づくことができるからである。そのことを欲しない者、その者はわたしとわたしの福音から手をひかなければならない」。


主イエスの御臨在のもとで勉強会を再開させてくださったことを感謝します。次回は主の御名によって妨げとなっている者を砕いてくださいますように。

1時間半の学びのあと同時間を割いて交わりの時をもてたことを感謝します。


IMG_4256.jpg次回は 5月20日(土)。

讃美歌 332番。

テキストは

「9章 いかにして聖霊を受けるか」。




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2017年04月20日

新年度の季節  

1年生4月末.jpgついこの前小学校に入学したかと思ったら、早4年生になった。大きくなったね、ユキ。


行ってらっしゃい!.jpg今も1年生の時と同じ制服を着ているが、知子が3月初めに「150」の制服を買って来た。

制服屋さんは男の子は大きくなるからと「150」を強く勧められ、袖口も無料で短くしてくれるそうだが大笑いするほどダボダボだ。


4年生からクラブ活動もあるので水曜日以外は帰宅は4時頃になる。短く散歩に出た。写真ばかり撮るので全く運動にはならないが、その楽しみで外に出るようになった。

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藤は今頃から咲き始めるのか・・・
去年の天王川の藤を思い出した。

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背丈が1pほどの草。
よく見ないと気がつかないほど小さい花。

つぐみ.jpgこれはツグミ! 

今や鳥にも詳しいユキ。

ユキの秘密基地のそばにいたよ。

もっと近くで鮮明に撮りたい。




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昨日「ユキは生き物係になった!」と、今日は得意げにスジエビ2匹を持って行った。昨夏おじいさんと捕って来たのだが、かいもく餌をあげていないのに元気に冬を越して一回り大きくなっていた。


「酸素がブクブクしている水槽に入れてもらったから、すごく嬉しそうに泳いでいたわ」と、玄関を入ってくるなり嬉しそうに話していた。


4年生始業式.jpg4年生から上靴入れを新調した。

クラブは球技。ユキは陸上をやりたかったのだが、ジャンケンで負けて残念がっている。

今日は初めてのクラブ活動だった。

「陸上に入りたかったな。オニゴ(鬼ごっこ)してたからいいな。」と幼いことを言っていた。


そして、お友だちとの約束の時間まで20分ほど宿題して遊びに行ってしまった。こういう時の集中度はかなりのものだ。


お友達はユキに感化されて何か捕りに行こうと水路へ行った。

私が「顔は撮らないで少年たちが遊んでいる所を撮りたいんだけれど」と言うと、「おばあちゃん、それはやめといて」と気遣いながら優しく言われてしまった。

「うん、ユキの嫌がることはしないよ」。


このような日々もいよいよあと僅か、ユキもどんどん活動半径を伸ばして独り立ちしていくことだろう。 

明日は参観日、来週は家庭訪問と、子育て時代が懐かしい新年度の季節である。


18時10分追記:
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池で釣りをしていた人にもらったブルーギル。
明日学校へ持って行くんだって!

posted by 優子 at 17:51| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

野の花に魅了されて

IMG_4191.jpg毎朝やっぱり今も「チャッピー、おはよう」と声をかけてしまう。
今朝は嬉しそうにまとわりつくチャッピーの姿が本当に見えていたので泣き出しそうになった。

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ナルコユリが芽を出していた。この時期の自然界は日に日に姿を変える。

裏庭はすでに草で埋め尽くされている。洗濯物を干している時にふと下を見ると、小さなピンク色の花が見えたので大急ぎで洗濯物を干し終えて見に行くと息をのんだ。

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この繊細な創り。初めて見る野の花に魅せられた。
「ねえ、ユキならどう撮る?」と話しながら夢中に撮っていた。

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「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。
  
(マタイ 6章28・29節)

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「神が造ったすべての物を見られたところ、
それは、はなはだ良かった」。

  (創世記 1章31節)

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人の目にも止まらない野の花。
そんな野の花にこそ最も魅了される。  

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お隣のモッコウバラもいっぱい蕾を膨らませていた。

今日の仕事始めは校正原稿の郵送だ。今週末には送り返していただかないといけないので、昨日の午後も準備に集中した。
無事に手配を終えて帰り道は写真を撮るのを楽しみながら歩いた。

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IMG_4229.jpgこの地に引っ越して数年経った頃、犬の散歩で何度も一緒に歩いたおじいさんが、「これはクスノキ」と葉の匂いも教えてくださった。

「このあたりでは春になると『岳登り(だけのぼり)』と言うて二上山へ登るんや」と、歩きながらいろんなことを教えてくださった。ある年の春は自転車に乗ってエンドウ豆を持ってきてくださった。

私はこのクスノキを見るたびに優しかったおじいさんを思い出す。どんなに慰められたことか! 人があとに残すものは愛だ。
おじいさんはもう亡くなられたのだろうかと自動車で家の近くを通るたびに思う。


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八重桜も満開!

そして公園の八重桜も!
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雨雲が近づいていたので薄暗いが色のコントラストが絶妙だ。

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このあと再び昨日に続いて編集作業に没頭し、最後に例会報告を書いて強制終了。すでに夕刻6時過ぎ、クタクタだった。

手書き原稿をワードで打ちながらとても恵まれた。すぐにでも執筆された友にお伝えしたかったが、明日にはきっとFAXしたい。(電話だと長くなるので

明日ここに貼った写真を見るのを楽しみに今日も感謝の一日を終える。水・木曜日は少しゆっくりできそうだ。

posted by 優子 at 23:04| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月16日

ユキとおじいさん、イースターの午後はチューリップフェアへ

IMG_4112.jpgようやく昨日開花したギザギザの切れ込みがあるフリンジ咲きチューリップ。
イースター愛餐会のあと、ユキはおじいさんと馬見丘陵公園へ。午後の気温は26度にもなり日焼け止めを塗って行っても2人とも日焼けして帰って来た。

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posted by 優子 at 18:51| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

家の教会2017N ―イエスの復活―

IMG_3955-thumbnail2.jpg昨朝、脳死の赤ちゃんが「昨夜7時に亡くなった」との連絡が入った。午後はイスラム教式で埋葬するので午前中ならば在宅しているという短い知らせだった。

この日は大津教会でクリスチャン・ペンクラブの集いがあり、会計報告と編集に関して連絡事項と多くの検討を抱えていたので休むことができず、関係者に遅刻する可能性ありを連絡して知子と共にご自宅に馳せ参じた。

ご遺体の前で、そのお母さんに寄り添い、許しをえて声を出して神に祈らせていただいた。まもなくお母さんとRちゃんの泣く声が聞こえた。お祈りのあとRちゃんを抱きしめて長い間泣いていた。3年生までずっとユキとクラスも同じ、まだ9歳の女の子だ。

まもなく伴侶が役所から帰ってこられた。日本では死亡後24時間経たないと埋葬できないので翌日の午後になると動揺しておられた。

どのような言葉でもって慰めることができようか。
私はただ " I have deepest sympathy." としか言えなかった。

我が子の不条理な死という悲しみと苦しみだけではなく、それに加えて私と知子が経験している積年の苦悩の、その究極にある女性とご家族である。ただただ神のご加護を祈るばかりである。

今頃、埋葬されたところだろう。

知子は信仰によって夜が明けるのを心待ちにし、朝早くからイースター愛餐会の準備を整えてくれていた。知子と私は今年のイースターほど神の真実を深く感じたことはない。

今朝はRちゃんご家族のことを憶えつつイースター礼拝を捧げた。

2017年4月16日(日) (2017第15回 家の教会)
10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏
A 主の祈り
B 讃美歌(21) 575番 「球根の中には」
C 聖書輪読 マタイによる福音書28章全章
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ(T)
E 聖歌 172番 「墓の中に」
F 後奏

マタイによる福音書28章全章:
28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使いは女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

28:11 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
28:12 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
28:13 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
28:14 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
28:15 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

お話:
安息日である土曜日が終わって日曜日の明け方のことです。ユダヤ人の律法では土曜日が安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)でした。

今朝は先週の続きでマタイが書き残した箇所を読みましたが、マルコはマタイよりも詳しく記しています。

「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。」
         (マルコによる福音書16章1節〜3節)

ここに登場するサロメとは、洗礼者ヨハネの首を求めた人物(ヘロディアの娘)ではなくイエスの弟子です。サロメと言えばバプテスマのヨハネの首を求めた人を思い浮かべますが、それは「ヘロディアの娘」と呼ばれているサロメであり、ここにでてくるサロメは別の人物で、イエスの母マリアの姉妹である「クロパの妻マリア」(マリア・サロメ)と同一人物と言われているようです。

墓の入り口に大きな石が置いてあります。これは死者と生者の世界を分け、もはやどんなに嘆いても交わることができないという象徴的なものですね。

この石を動かすことができなければイエスさまの御遺体に香料を塗ることもできません。でもとにかく行ったのです。行かずにはおられなかったのです。

すると地震が起こって天の使いにより大きな石を転がされ、恐る恐る墓の中に入って行くと白い長い衣を着た若者が座っていたと言いますから凍りつくほどびっくりしました。
実際「見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。」と書いてありますね。

しかし「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。私は「恐れながらも大喜びで」という言葉に引き付けられました。 

見張りをしていた番兵たちはただただ恐怖だけでした。しかし、イエスを信じる者にとっての恐怖は直ちに喜びに変わったのです。試練や苦悩なくしてクリスチャンはありえません。

私たちは人生の途上で何度も呻く苦悩を経験します。理屈に合わないことばかりで「どうしてですか?! いつまで忍耐すればいいのですか?!」と苦難に耐えかねて何度も呻きます。

私はクリスチャン生涯に入れられて今年で30年になりますが、信仰生活の初めの頃は「神は物事すべてを良きものにしたもう。神は愛にして愛なるお方」と知ってはいても、小さな慰めは感じ得てもよく分からなかった。実感できませんでした。

ようやく10年あまり過ぎてからわかる者とされました。
そこに至るまでの苦しみは恵みへの必然の道であり、それらのことを通されながら神さまは確かに深みへと導かれてきたことがわかります。呻きから恵みへとセットされていたのです。

墓に馳せ参じた彼女たちの根底にイエスさまへの信頼があったと思います。最初は驚きと恐れでいっぱいでしたが、次の瞬間、恐れながらも大きな喜びが来たのです。

私たちの信仰生涯においても主の御心の時(神の時)に思いもしない出来事があり、まさに神の絶妙なる時に絶妙なる出来事があり驚きに震える時があります。

その出来事を通して「優子よ、わたし(イエス)だ。わたしはいつも共にいる。全てを知っているぞ」と、神の臨在を知らせてくださいます。

墓に急いだ女性たちは半信半疑ではあったかもしれないけれど、主は復活されるということを確信していたのです。その時は半信半疑ではあったとしても、復活されるという信仰をもっていたのです!


私たちの日々も尽きぬ試練との闘いで無我夢中の日々ですが、彼女たちのように信仰を持って「走るべき行程」を最後まで走り抜きたいと思います。神の家族(信仰の友)と共に互いに励まし合いながら。

IMG_4008.jpg自然界を見ていますと不思議でなりません。
自然界を創られた神はその中に死者の復活をも暗示しておられるように思います。


この「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。(ロマ書10章4節)

主イエス・キリストが復活されたことより土曜安息日は廃止され、復活された日曜日を「主の日(聖日)」と定められました。ハレルヤ!

「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」。
    (コリント人への第一の手紙 15章19節)

カール・バルトは言っています。
「聖書は信じた時に神の言葉になる」。

「イエスさま、ユキはおなかがすいたのでお話の聴き方があまりちゃんとできなかったけれど、イエスさまが復活されたことがわかりました。
イエスさま、復活してくださってありがとうございます。おめでとうございます。イエスさまが復活されたので、ユキの家も今からパーティーみたいなものをします・・・」。

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★聖歌172番「墓の中に」歌詞:

1.墓の中に いと低く
  葬られたり ああ我が主
 (くり返し)
  黄泉(よみ)より帰り 死と悪魔に勝ちし
  君こそ勝利の主なれ 君こそまことの主なれ
  ほめよイエスを  我らの神を

2.番し続けし  兵の努力
  虚しかりき  ああ我が主
  (くり返し)
3.封印固き  門(かど)破り
  出でたまえし  ああ我が主
(くり返し)


英語版はここをクリックしてください。

★讃美歌(21) 575番「球根の中には」
 
     1 球根の中には 花が秘められ、
       さなぎの中から いのちはばたく。
       寒い冬の中 春はめざめる。
       その日、その時を、ただ神が知る。

     2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
       深い闇の中 夜明け近づく。
       過ぎ去った時が 未来を拓く。
       その日、その時を、ただ神が知る。

     3 いのちの終わりは いのちの始め。
       おそれは信仰に、死は復活に、
       ついに変えられる 永遠の朝。
       その日、その時を、ただ神が知る。


posted by 優子 at 14:34| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

只今必死状態

IMG_3951.jpg知子は2か月前から猛烈に聖書を読んでいる。平日も通勤電車の中で、夜も時間があれば読み、休日は深夜まで、また昼間は長時間読んでいる。
そんな知子から先ほど贈られたみ言葉は。

「あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」。(ヘブル人への手紙12章3節)

IMG_3943.jpgそして今朝、祈りの友からいただいたみ言葉は、
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。
  (ヘブル人への手紙4章12節)

IMG_3937.jpg「家の教会」での聖書メッセージの準備は、毎回8〜10時間(2〜3日)かけて準備しているが、今日はあともう少しで完了という11時過ぎに、『種を蒔く』4号(日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック発行)の初校が届いた。
すぐにでも封を開けたいところだったが礼拝メッセージを仕上げた。

覚悟はしていたが、またまた「必死状態」パートVになった。取り掛かり出した11時半過ぎから、まずは一通り見て印刷屋さんと大田先生にメールし、印刷屋さんからの電話で原稿を見ながらあたふたし、その後も目次漏れを発見するなど、Oh help!

気がつけば2時半過ぎていた。垣根の間から外を覗くと古紙回収がそのままになっていた。その時、義母の古紙を出すのを忘れていたことに気が付いた。こんなことは初めてだった。そのあと少しして回収に来てくださり幸運だった。感謝!

そして大急ぎで掃除機をかけて、ようやく昼食をと思った瞬間にユキが帰宅した。腰も痛くて座れず、「お行儀が悪いけれど」と孫への教育的配慮を忘れず(笑)横になって食べ物を口に入れた。

今日は久々の晴天。午前中に行くつもりだった散歩に夕方から30分ほど出かけた。抜けるような晴天ではなかったが、青い空をバックに桜を見たかった。

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でもこれだと「抜けるような晴天」だ。
11日の冷たい雨風で色あせてもいたが、ようやく青い空のもとで桜を見ることができて大満足。これで今年の桜も見納めだ。

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今朝は4度まで下がり午前中は暖房をかかせないのに、まもなく葉桜の季節に移る。11日から造幣局の桜(八重桜)の通り抜けも始まった。

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公園の八重桜も間もなく開く。
蕾をアップにするとこんなだよ!
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木々も新芽を芽吹かせ、その勢いまで伝わってくる。
自然界の神秘。その中に復活を暗示させる。
明日は いよいよ"Good Friday"(聖なる金曜日)。


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私が折ってしまったチューリップも精いっぱい咲いている。
本当はもっと背が高くて最初に咲き始めたほど元気だったのに、夜は完全に花びらを閉じられないし、目覚めてもやっぱり勢いがないけれど、「2017年のチューリップ」を脳裏に焼き付けたい。

さて、JCP15日の例会では総会がある。知子の助けを得て会計報告は9日に完了させた。今月末までに印刷屋さんを再訪する予定。それまで「必死状態・パートW」を頑張らねばならない。
明日のことは明日のことにして、今日も感謝で閉じる。

posted by 優子 at 23:53| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

自然界に秘められる神のわざ

明日は冷たい雨の一日とあって、曇天ながらやはり桜が気になって今日も散歩に出た。40分間ほどとどまっていたので帰宅した数分後にユキが帰って来た。

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今年は晴天に恵まれないまま桜の季節が終わろうとしている。
昨日から花は散り始め、小さな花筏(はないかだ)ができていた。

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この木にたくさんの鳥が花をついばんでいた。

IMG_3741.jpg10羽はいただろうか、周囲には私のほかは誰もいないのに、鋭く人の気配を察して場所を変える。花に埋もれてどこにいるのか見つけられず、かろうじて1羽だけ姿を捕らえた。


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2013年4月5日。
ユキにねだられて写された一葉。
今となっては大切なチャッピーとの
ツーショット。

チャッピーは本当にここに来たんやね。
そして、私は本当に柴犬を飼っていたんやね。

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静かな場所で満開の桜をひとりじめ。池には水鳥がいる。
心が癒されていくのがわかる。
私の耳にはずっと" On Golden Pond "が聞こえていた。

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遠くの木々も日に日に姿を変えていく。

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ここにもスノウフレークがあった。

IMG_3827.jpg公園では数種類の鳥たちが食べ物をついばんでいた。これはムクドリ。もう1羽はもっと右側にいる。
人間よ、鳥に学べ。この鳥たちは種類が違っていても平和にやっている。
幼稚園児が帰って来たので鳥たちはあわただしく飛んで行った。

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スノウフレークはヒガンバナ科。

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ユキの秘密基地の前にもスノーフレークが咲いていた!

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これも初めて気がついた近隣宅の木に咲いていた。

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白く見えるのは山桜だろう。

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毎年12月に入ってから球根を植えるので咲くのが遅いが、
今年も我が家にもチューリップの季節が訪れた。

IMG_3850.jpg万物を創造された神を想いつつ「球根の中には」(讃美歌)を聞く。

1 球根の中には 花が秘められ、
 さなぎの中から いのちはばたく。
 寒い冬の中 春はめざめる。
 その日、その時を、ただ神が知る。

2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
  深い闇の中 夜明け近づく。
  過ぎ去った時が 未来を拓く。
  その日、その時を、ただ神が知る。

3 いのちの終わりは いのちの始め。
  おそれは信仰に、死は復活に、
  ついに変えられる 永遠の朝。
  その日、その時を、ただ神が知る。


次週のイースター礼拝で讃美したい。

posted by 優子 at 21:09| 随想 | 更新情報をチェックする

突如まぶしい光に移されて7回目の春

昨日の午後、知子とユキと3人で散歩に出た。ここ数日続いた暖かい空気が入れ替わり風が肌寒くなっていた。

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2010_4_6ADA1.jpgこれは2010年4月6日。ユキは2歳8ヶ月だった。
知子はこの時と同じウインドブレーカーを着ている。
もう少し手前に立ってもらえばよかったね。

上掲の埋め込んだリンク記事より:
孫はチラチラ舞う花びらを手のひらで受けながら、「この雪、冷たくないね」と、いつも読んでもらっている絵本に出てくる言葉を言った・・・

「あなたがたは、先の事を思い出してはならない、
また、いにしえのことを考えてはならない。
見よ、わたし(神)は新しい事をなす。
やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる」。
          

本当にそのように生かされているね。感謝!

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風が強くすでに花びらが散り始めていた。
生命が溢れて葉が噴き出している。

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公園の桜も今が満開!

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これもなんと美しい! 初めて見たスノウフレーク
帰宅早々ユキはポケット図鑑を開いて名前を教えてくれた。

posted by 優子 at 17:30| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

家の教会2017M ―十字架の意味―

4月8日 9時46分.jpg
2017年4月9日(日) 
     (2017第14回 家の教会)

10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏(Dubois:「大路を旅する汝らよ」−十字架上の七言より―)
A 主の祈り
B 讃美歌
C 聖書輪読 マタイによる福音書27章27節〜56節
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ(T)
F 新聖歌  113番 「君もそこにいたのか」 
G 後奏 

IMG_3627.jpgマタイによる福音書27章27節〜56節:
27:27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。
27:28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、
27:29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。
27:30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。
27:31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。

27:32 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。 27:33 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、
27:34 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、
27:36 そこにすわってイエスの番をしていた。
27:37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。
27:38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
27:48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
27:50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。
27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、
27:52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
27:53そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
27:54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。
27:55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。
27:56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

お話:
今日から受難週に入りました。十字架にかかられて復活されるまでの最後の7日間です。聖書にはこの最後の7日間を詳しく書いています。

これらのことをマタイは28章中の8章を、マルコは16章中の6章、ルカは24章中6章、ヨハネは21章中10章も書いているということです。ゆっくり時間をかけて読み直してみたいです。

エルサレム神殿には12の門があり、イエスさまは子ロバに乗って、その中の「黄金の門」と言われている門から入られました。

ゼカリヤ書(旧約聖書)9章9節に、「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」という言葉があり、イエスさまのエルサレム入城により成就しました。

ローマ帝国に支配されていたユダヤの人々は、イエスさまがローマ帝国から自由にしてくれる強い王、革命家のような王だと思っていましたから大歓迎して迎えました。マタイの記事から群衆の声が聞こえてくるようです。

「群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、
『ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ』」。

       (マタイによる福音書21章8・9節)

「ホサナ」とはヘブライ語で「今、救ってください」という意味です。ところが、このように熱狂していた大人たちは一転して「イエスを十字架につけろ!」と喚(わめ)き始めます。子どもたちには意味がわからず非常に混乱したことでしょう。

ついでながら「黄金の門」は、その後エルサレムがイスラム教徒に占領された時に塗り固められて、今も封鎖されたままだそうです。ユダヤ教の人々はイエスさまを救い主と信じることができなくて、今度こそ本当の救い主がこの門を通って現われると信じて待ち望んでいるのです。

木曜日の最後の晩餐の後、イエスさまは祈るためにオリブ山に行きます。ここでイエスさまとペテロの有名なやり取りがあります。マタイによる福音書26章34・35節です。

「『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』。 ペテロは言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。弟子たちもみな同じように言った」。

そしてゲッセマネの園で祈りますが、ここでユダの手引きでイエスさまは捕まり、大祭司カヤパによる取り調べが朝まで続きます。その中庭に入り込んでいたペテロが見つかり、イエスさまが予告されたようにペテロは3度イエスを知らないと言うのです。

そして金曜日の朝早く、イエスさまはサンヘドリンという最高裁判権を持ったユダヤ人議会で尋問されました。死刑にする有罪の証拠は何一つ見つからなかったのですが、総督ピラトはユダヤ人指導者や群衆の声に動揺し、「あなたがユダヤ人の王であるか」と問うたことに対して「そのとおりである」と言われたイエスさまの言葉で有罪判決を下しました。

ローマ兵はイエスさまを十字架につける前に40回鞭打ちました。その鞭には尖った金具がつけてあり、打たれるたびに肉が飛び散りました。映画の『パッション』でリアルに描いてあるそうですが、映画とわかっていても私は見ることが出来ません。

ヨハネはイエスさまが亡くなられる時のことを次のように書き残しています。
「しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た」。(19章34節)

私は今も忘れられないのですが、教会へ行き始めた頃にお聴きした小山恒雄牧師の説教で、イエスさまの肉体には外科医が扱う全ての症例があったということが忘れられません。
「血と水とが流れ出た」というのは、大量出血で心臓が停止して心臓組織に水がたまったものが流れ出たのです。

死刑は9時頃から始まり3時頃まで続きました。12時から3時まで全地は暗くなりました。神殿の幕が真二つに裂け、地震が起こり、墓が開いて眠っていた聖徒たちが生き返ったこと、また、ローマの百卒長(百人隊長)が「まことに、この人は神の子であった」と証言したことなどが記録されています。

calvary.jpgイエスさまは「すべてが完了した」と言われて息を引き取られました。 これは全人類の罪の身代わりが完成した宣言です。

イエス・キリストの十字架の死は疑いようのない歴史的事実であり、すべての人間の罪の身代わりとなって死んでくださったのです。このことでイエスさまの十字架を信じる者は罪が赦されて永遠の命が与えられるようになったのです

私たちの身代わりになって罪を贖ってくださったのに、それでもなおどこまでも強情なのが私たちです。勿論クリスチャン倫理を示されてもそれを成就することは誰もできません。

そのこともイエスさまがご存知であったために、それら一切を背負って負けて死んでくださったのです。そして、そこから神のわざが始まったのです。命ある限りそのことをもっともっと深く知り味わっていきたいです。

私の人生を誰が最も評価してくださるのでしょうか。
それは主イエスです。
人の評価は役に立つものだけです。人の評価は3日もすれば変わってくるでしょう。だからそんな人の評価には立たないのです!

私はイエスさまの愛がわかった時に、イエスさまが私のすべてを見ていてくださり、覚えてくださっているのを知りました。いや、イエスさまが私のすべてを見ていてくださり、覚えてくださっているのを知った時にイエスさまの愛がわかったのです

3日前の散歩のとき、殆どの桜は3分ほど咲き始めていた中で、まだ蕾もそんなに膨らんでもいないのに焦らず堂々と風に揺られていた木がありました。その木がとても個性的に見え、神さまも私たちに全てさまざまなことは個性に任せてくださっているんだと思いました。

私たちはイエスさまという神さまによる受け皿があるから信じるのです。私たちが召されるとき、まだ捉えていなくてもイエスさまはそれで「良し」として天国へ迎え入れてくださいます

さあ受難週を心に刻みましょう。
AD30年頃の今頃の日曜日に主イエスはエルサレムに入城され、月曜日にいちじくの木を呪い、神殿から商人を追い出され、火曜日は神殿で問答され、水曜日はベタニヤへ行かれマリアから香油を注がれ、木曜日は最後の晩餐をされ、金曜日に十字架につけられて亡くなられ、黄泉に降られて日曜日に復活されました。

ユキのような児童にはわからないでしょうが、今一度私たちは自らと向き合い、イエス・キリストの十字架とは何であったのかを考えたいと思います。これは全ての人に問われているのです。

あなたにとって十字架の意味は何でしょうか。
あなたは、自分が神さまに救われ、愛されていることを確信していますか?

次の聖日はイースターです。
それまで主に導かれ備えられて共に御復活の感謝と喜びを捧げましょう。
 
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聖歌400番、新聖歌113番
「君もそこにいたのか」

@ 君もそこにいたのか  
  主が十字架につくとき
  ああ 何だか心が震える 
  震える 震える
  君もそこにいたのか

A 君も聞いていたのか 
  釘を打ち込む音を
  ああ 何だか心が震える 震える 震える
  君も聞いていたのか

B 君も眺めてたのか 
  血潮(ちしお)が流れるのを
  ああ 何だか心が震える 震える 震える 
  君も眺めてたのか
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C 君も気がついたのか 
  突然日が陰(かげ)るのを
  ああ 何だか心が震える 震える 震える 
  君も気がついたのか

D 君も墓に行ったのか 主をば葬るために
  ああ 何だか心が震える 震える 震える
  君も墓に行ったのか 
               アーメン

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これは昨日の様子。
折ってしまったチューリップが花を咲かせてくれた!

附記:午後、良輔は天王寺へ。
   高校時代のバスケットクラブの友人と4人で同窓会!

posted by 優子 at 14:22| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

満開の桜 ― 神のなされることは皆その時にかなって美しい」。―

4日から気温は20〜22度と5月上旬の暖かさが続いている。昨日の曇天でも半袖のTシャツ1枚で掃除をしていても汗が流れ落ちた。雨の今日も暖かい。しかし、せっかく満開になった桜も雨天で色が映えない。

そんな今日、雨上がりの合間に先日のローカルニュースで知った専称寺を訪ねた。先週知子がユキの大きいサイズの制服を買い求めに行ったばかりの制服屋さんのすぐ近くだった。

一本の老木、樹齢約200年になる江戸彼岸系のしだれ桜だ。

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このあと買い物をして、自宅近くの池の周りをドライブした。

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3日前の蕾も満開になっていた。

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「天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
      
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
      
神のなされることは皆その時にかなって美しい。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを
初めから終りまで見きわめることはできない。

今あるものは、すでにあったものである。
後にあるものも、すでにあったものである。
神は追いやられたものを尋ね求められる。

わたしはまた、日の下を見たが、
さばきを行う所にも不正があり、
公義を行う所にも不正がある。

わたしは心に言った、
『神は正しい者と悪い者とをさばかれる。
神はすべての事と、すべてのわざに、
時を定められたからである』と」。

          (伝道の書3章)

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専称寺の桜も良かったけれど、ここの桜も絶景だ。どこかへ花見に行きたいと思うが人に酔う。ここは誰もいないので心が癒される。

独りになる時間が全くない知子は専称寺でも池でも帰ろうとしなかった。明日にでもゆっくり独りでリトリートの時をもつがいい。神さまと二人だけの密な時間に浸るがいい。

いつもチャッピーと一緒に来た日々を思い出す。
悩みの日はいつまででもつき合ってくれた。
チャッピーの姿を思い出して悲しみが胸を突き上げた。


posted by 優子 at 20:33| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

悲しむ人々を憶えつつ春を始める

今日はユキのことを書くつもりだったが、散歩中の黙想を記したので、この写真はユキのページに記録したい。

4年生始業式.jpg  行ってらっしゃい!.jpg
4年生始業式の朝。
幼稚園から使っていた上靴入れが新しくなった。 

始業式の朝A.jpg
ユキちゃん、進級おめでとう!
今夜はお赤飯にしよう。
今日、大阪の桜が満開になったと報じた。

 
IMG_3525.jpgお昼頃からしばらく雨天が続くというので雨が降らないうちに散歩に出た。


池の桜はようやく3分咲き。曇っているので暗い。

B始業式の朝.jpg

ここ数年聴かなくなっていた”On Golden Pond(黄昏)”を昨夜久しぶりに聴いたので、散歩の間ずっと脳裏に聞こえていた。(これをお聞きになりながらお読みください。)

独りになれるのもありがたい。ユキと一緒に暮らすようになるまでは毎日この道をチャッピーと歩いた。今ではすっかり懐かしい日々になっている。

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これを書きながら目頭が熱くなるのはどうしてだろう。
チャッピーが死んでしまった悲しみだけではない。過ぎた日々への懐かしさだけでもなく何か不全感がある。これまで祈り求めつつ積み重ねてきたことが、殆どまだ実を結んでいないことに悲哀を感じているのだろう。

でも前へ進まなくては。


「主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい」。
                 (哀歌3章22・23節)

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60代になると黙想の時も自らの人生や死について省察することが多くなった。若い精神は何事も弾力を以って応じていくことができる。そんな30〜40代の活動的な季節を生きている人は、失敗を恐れずに思いっきり挑戦するべし!

年を取ると動脈硬化と同じように心の弾力も失っていくように思う。このことは私には意外だった。しかし、

「わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」。

       (コリント人への第2の手紙 4章16節、28節)

始業式の朝C.jpg
赤いモクレン

4月は新年の始まり以上に新しい1年の始まりを感じる。新しい春を生きることができなかった児童や学生たちを想うと、心が凍り付き、果てしなく重く沈んでいく。
ご遺族の上に神の慰めを祈りつつ絶望へと傾く心を意志をもって主イエスに向ける。

世界で起きている人間の蛮行は治まるどころか核戦争まで予感させる時代になっている。『チェルノブイリの祈り』の中にこんな述懐があった。
「私は神さまはこわくない。こわいのは人間です。
人間よりも恐ろしいものってほんとうにあるのでしょうか」。

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「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたし(イエス・キリスト)はすでに世に勝っている」。
             (ヨハネによる福音書 16章33節)

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始業式の朝H.jpg山はまだ冬の眠りから目覚めていないように見えるが、3月初め頃から植物が出す新陳代謝の匂いで満ちている。

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柴桜

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万物復興の命の春。自然界のよみがえりのごとく福音の種には驚異的な命を宿している。マイナス100にマイナス1をかけるとプラス100になる。神は私の賜物をも用いてくださるであろう。だから私は最期まで私の成熟していく実況中継を書き続けていこう。 

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。

               (ロマ書8章28節)

折れていたチューリップ.jpg
かわいそうに、花開く前に折れていた。ごめんなさい。
私が洗濯物を入れるときに折ってしまったのだと思う。
どうしようもないほど心が痛む。咲きたかったであろうに。

雨は19時前から降り出した。暖かい雨だ。
ブログを書き終えた今も知子はまだ帰宅せず。平日は夕食を共にすることはないが、今夜は特に遅い。疲れていることだろう。

posted by 優子 at 22:32| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

1日22ページ×4日間 ユキの頑張り成るか

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ユキの傑作!

IMG_3402.jpgツバメが活動しているからとユキに案内してもらった。
私たちが巣の近くに行くと親鳥がすかさず戻ってきた。やっぱり雛がいるのだろう。

IMG_3441.jpg今年初めていただくエンドウ豆。ユキはさやをむくのが大好きなので大いに助かる。

以上は4月2日(日)の午後のこと。


2013年3月.jpg3年前のも写真に収めているよ。
これは小学校に入学する春のユキ。


そして、次はユキのママ。

1981年3月.jpg1981年3月、実家にて。
知子は3歳4か月。左にいるのは私の兄。
真智子は9か月の赤ちゃんだった。
私は29歳で兄は32歳、みんな若かった。

一昨日から暖かくなり今日は20度のポカポカ陽気。池の周りの桜の開花具合を見に行こうと、朝一番にユキと散歩に出かけた。

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蕾はようやく大きくなって赤みを帯びていた。

そして、ユキの秘密基地2号。正しくはユキとI君の秘密基地。
ユキの新秘密基地.jpg

春休みになってから二人で作り始めた。

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入り口はこちらから。

私が高齢の女性と立ち話している間に、ユキは基地の中の写真を撮っていた。
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入り口から中を見たところ。







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煉瓦を椅子にして棒にもたれる。

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IMG_3474.jpg「撮り鉄」の経験を活かしてナイス・シャッター! 
でも、もうこんな高いところから飛び降りないで!

帰宅後はユキも多忙。母親から家庭学習に与えられているたった1冊のドリルさえやっていないことが日曜日に判明し、昨日から1日に22ページのドリルのノルマをこなさねばならなくなった。始業式の日まで猶予した。

昨日は真智の机で2時間半。途中で5分ほど休憩して再び集中したというから驚いた。今日は散歩で時間を取られたために、昼食もキリがつくまで降りてこなかったからますますびっくり仰天。

午後はお友達と4時間遊んできて只今再び挑戦中。
そして今、「できた!」と本日のノルマ終了宣言!
さすが私の孫、いや、頑張り屋の知子の子!
明後日はもう始業式。

附記:先週初めからの異常なしんどさが治らず、何か異変が起こっているのかと心配していたが、今日はかなり良い。健康が揺さぶられると生きる姿勢を正され、ますます真剣に生きようとする。元気な時からそうでありたい。そして誰も皆、そうであってほしい。

posted by 優子 at 18:26| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年04月02日

家の教会2017L ― ナルドの香油 ―

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2017年4月2日(日) (2017第13回 家の教会)
10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏 
A 子どもの讃美歌  「天にいます私たちの父」 
B 主の祈り
C 聖書輪読  ヨハネ12章1節〜11節
C お話    優子
D お祈り   
E 讃美歌   313番 「ナルドの壺ならねど」
F 後奏

ヨハネ12章1節〜11節:
12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
12:10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。

お話
主イエスは復活される1週間前にエルサレム入城されました。まだ人を乗せたこともない小さな子ロバに乗って。この時、ユダヤの当局から指名手配されて「イエスの居どころが分かれば届け出よと」命令が出され、イエスさまの死が近づいていました。

最後の1週間の水曜日、イエスさまがとても愛しておられたマルタとマリアとラザロの兄弟姉妹に会いに行かれました。ベタニヤという村です。この翌日、主イエスは逮捕されるのです。

ナルド.jpg「ナルド」はヒマラヤの高山地に自生するオミナエシ科の多年草植物で、精油はその根茎から採取される高価なものです。
マリアが持ってきたのは約300グラムで、それは300デナリといいますから300万円余りにもなる年給に相当するものでした。

香りをつけるためならば数滴で十分なのにイエスさまの足に塗りました。そのようにするのは埋葬の時だと言いますから、マリアはイエスさまの死を予感しての行動でした。

マルコによる福音書の14章8節に、
「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」とイエスさまが仰っています。

しかもユダヤでは人前で髪の毛を解くのは娼婦のすることであり、女性にとって恥辱と考えられていましたから、マリアは本当に砕かれた心だったことがわかります。マリアの信仰、優しさをイエスさまはご存知でした。

それに対してユダは、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」と言いましたが、他の弟子たちもそのように思ったに違いありません。マタイ伝では「弟子たち」と記しています。

このことについて黒崎幸吉は、「功利的にまた道徳的に考うるならば、この言は最も正しき考えであると言わなければならぬ。しかしながら天国における価値判断は功利主義の原則によらない。」と言っています。

ここで想起するのが“ Not doing , but being. ”です。
つまり、私たちは何をするかではなくて、どのように生きているかという「在り方」こそが大切であるということです。” doing ”の前に自分はいかにあるのかという " being "です。

今しかできないこと。今すべきことを精いっぱいやったのです。マリアの行為は受難のキリストと正面から向き合っていた純粋な愛の発露でした。弟子たちはイエスさまがまもなく世を去ろうとしていることに対して無関心だったのでしょうか。


イエスさまはユダのことも重々承知の上でした。黒崎幸吉は次のように述べています。
「神の御旨に従いてこれを用い給いしものであって、その目的はおそらく彼によりて神の経綸が実現せんがため、また最も優れたる人間といえども罪に陥る可能性あることを占めさんがため、またこの世においては聖徒の群中にすらサタンの侵入を免るることができないことを示すがためであろう」と。

これに加えてもっと突っ込んで言えば、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」というような場面や状況にあった時、欺瞞を感じたことは無いでしょうか。自らに、また、その場の人々にも。

主イエスが語られた全てのメッセージの中核は「罪」の問題です。聖書(キリスト教)がいう「救い」とは罪が赦されるということです。人は罪の解決なくして死ぬに死ねないのです。死ねばすべて赦されるわけではなく、死んでからでは遅いのです。


IMG_3391.jpgいつも精神を研ぎ澄ませて「神の時」を生きたいと思います。それはどんな生き方かと申しますと、苦しい時は苦しみ、悲しい時は悲しむということであり、それらを避けないで対峙するということ。クリスチャンならば苦しみながらも神に祈りつつ生き抜くということです。

来週はいよいよ受難週に入ります。私たちもマリアのように今一度主イエスの受難を心に留めたいと思います。主イエスは私の罪を贖うために、あなたの罪を贖うために身代わりになって死んでくださったのです。

私たちも「私のナルドの香油」をマリアのように惜しげもなく差し出せる者でありたいと切に願う者であります。


  主イエスと関わりのない罪人はない
  主イエスが忘れる罪人はいない
  主イエスがそっぽむく罪人はいない
  主イエスが怒る罪人はいない
  主イエスが見捨てる罪人はいない
  主イエスが招かない罪人はいない
  主イエスが御手を差し伸べない罪人はいない
  主イエスに救われない罪人はいない
                 
                (河野 進)

附記:同じ記事がマタイ26章6節〜13節、マルコによる福音書14章1節〜11節に記載されていますが、それぞれ記述の違いがあります。

マタイ・マルコでは「重い皮膚病の人シモンの家」で、ラザロは客となっているのに対して、ヨハネは特筆していませんが生き返った「ラザロとマルタ、マリアの家」と考えられます。

マタイ・マルコでは頭に香油をかけたのに対して、ヨハネでは足に塗って自分の髪の毛で拭ったとあります。

また、ヨハネでは「マリア」と記しているのに対して、マタイ・マルコでは「一人の女」。
マリヤの行為に文句を言ったのは、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」で、マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこに居合わせた人の何人か」となっています。

IMG_3390.jpg「イエスさま、ユキは今週から4年生になります。これからもたぶん怪我もするけれど、大きな怪我はしないようにお守りください。
いつも日曜日にしている『家の教会』で、讃美歌を歌ったあとに聖書を読んで一つひとつ覚えています。
今週も遠くにいるマチとフーも元気で過ごせますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって御前にお捧げします。アーメン」。


追記:この日の午後、久々に4人で散歩に出た。
posted by 優子 at 13:10| 家の教会 | 更新情報をチェックする