2017年04月02日

家の教会2017L ― ナルドの香油 ―

IMG_3389.jpg

2017年4月2日(日) (2017第13回 家の教会)
10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏 
A 子どもの讃美歌  「天にいます私たちの父」 
B 主の祈り
C 聖書輪読  ヨハネ12章1節〜11節
C お話    優子
D お祈り   
E 讃美歌   313番 「ナルドの壺ならねど」
F 後奏

ヨハネ12章1節〜11節:
12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
12:10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。

お話
主イエスは復活される1週間前にエルサレム入城されました。まだ人を乗せたこともない小さな子ロバに乗って。この時、ユダヤの当局から指名手配されて「イエスの居どころが分かれば届け出よと」命令が出され、イエスさまの死が近づいていました。

最後の1週間の水曜日、イエスさまがとても愛しておられたマルタとマリアとラザロの兄弟姉妹に会いに行かれました。ベタニヤという村です。この翌日、主イエスは逮捕されるのです。

ナルド.jpg「ナルド」はヒマラヤの高山地に自生するオミナエシ科の多年草植物で、精油はその根茎から採取される高価なものです。
マリアが持ってきたのは約300グラムで、それは300デナリといいますから300万円余りにもなる年給に相当するものでした。

香りをつけるためならば数滴で十分なのにイエスさまの足に塗りました。そのようにするのは埋葬の時だと言いますから、マリアはイエスさまの死を予感しての行動でした。

マルコによる福音書の14章8節に、
「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」とイエスさまが仰っています。

しかもユダヤでは人前で髪の毛を解くのは娼婦のすることであり、女性にとって恥辱と考えられていましたから、マリアは本当に砕かれた心だったことがわかります。マリアの信仰、優しさをイエスさまはご存知でした。

それに対してユダは、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」と言いましたが、他の弟子たちもそのように思ったに違いありません。マタイ伝では「弟子たち」と記しています。

このことについて黒崎幸吉は、「功利的にまた道徳的に考うるならば、この言は最も正しき考えであると言わなければならぬ。しかしながら天国における価値判断は功利主義の原則によらない。」と言っています。

ここで想起するのが“ Not doing , but being. ”です。
つまり、私たちは何をするかではなくて、どのように生きているかという「在り方」こそが大切であるということです。” doing ”の前に自分はいかにあるのかという " being "です。

今しかできないこと。今すべきことを精いっぱいやったのです。マリアの行為は受難のキリストと正面から向き合っていた純粋な愛の発露でした。弟子たちはイエスさまがまもなく世を去ろうとしていることに対して無関心だったのでしょうか。


イエスさまはユダのことも重々承知の上でした。黒崎幸吉は次のように述べています。
「神の御旨に従いてこれを用い給いしものであって、その目的はおそらく彼によりて神の経綸が実現せんがため、また最も優れたる人間といえども罪に陥る可能性あることを占めさんがため、またこの世においては聖徒の群中にすらサタンの侵入を免るることができないことを示すがためであろう」と。

これに加えてもっと突っ込んで言えば、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」というような場面や状況にあった時、欺瞞を感じたことは無いでしょうか。自らに、また、その場の人々にも。

主イエスが語られた全てのメッセージの中核は「罪」の問題です。聖書(キリスト教)がいう「救い」とは罪が赦されるということです。人は罪の解決なくして死ぬに死ねないのです。死ねばすべて赦されるわけではなく、死んでからでは遅いのです。


IMG_3391.jpgいつも精神を研ぎ澄ませて「神の時」を生きたいと思います。それはどんな生き方かと申しますと、苦しい時は苦しみ、悲しい時は悲しむということであり、それらを避けないで対峙するということ。クリスチャンならば苦しみながらも神に祈りつつ生き抜くということです。

来週はいよいよ受難週に入ります。私たちもマリアのように今一度主イエスの受難を心に留めたいと思います。主イエスは私の罪を贖うために、あなたの罪を贖うために身代わりになって死んでくださったのです。

私たちも「私のナルドの香油」をマリアのように惜しげもなく差し出せる者でありたいと切に願う者であります。


  主イエスと関わりのない罪人はない
  主イエスが忘れる罪人はいない
  主イエスがそっぽむく罪人はいない
  主イエスが怒る罪人はいない
  主イエスが見捨てる罪人はいない
  主イエスが招かない罪人はいない
  主イエスが御手を差し伸べない罪人はいない
  主イエスに救われない罪人はいない
                 
                (河野 進)

附記:同じ記事がマタイ26章6節〜13節、マルコによる福音書14章1節〜11節に記載されていますが、それぞれ記述の違いがあります。

マタイ・マルコでは「重い皮膚病の人シモンの家」で、ラザロは客となっているのに対して、ヨハネは特筆していませんが生き返った「ラザロとマルタ、マリアの家」と考えられます。

マタイ・マルコでは頭に香油をかけたのに対して、ヨハネでは足に塗って自分の髪の毛で拭ったとあります。

また、ヨハネでは「マリア」と記しているのに対して、マタイ・マルコでは「一人の女」。
マリヤの行為に文句を言ったのは、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」で、マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこに居合わせた人の何人か」となっています。

IMG_3390.jpg「イエスさま、ユキは今週から4年生になります。これからもたぶん怪我もするけれど、大きな怪我はしないようにお守りください。
いつも日曜日にしている『家の教会』で、讃美歌を歌ったあとに聖書を読んで一つひとつ覚えています。
今週も遠くにいるマチとフーも元気で過ごせますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって御前にお捧げします。アーメン」。


追記:この日の午後、久々に4人で散歩に出た。
posted by 優子 at 13:10| 家の教会 | 更新情報をチェックする