2015年08月26日

誰にも縛られない自由人として生きる

前回の記事を書き終わった時、星野富弘さんの「つばき」の詩を思った。中学校の体育の教師だった星野さんは、頚椎損傷によって首から下が動かず、寝たままの姿勢で口に絵筆を加えさせてもらって絵と詩を描いておられる。

        「つばき」

   木は 自分で
   動き回ることができない
   神様に与えられたその場所で
   精一杯枝を張り
   許された高さまで
   一生懸命伸びようとしている
   そんな木を
   私は 友達のように思っている 


今、私が置かれているその場所こそが、神さまが与えてくださった場所だ。星野さんは『愛、深き淵より』で、こんなことを書いておられる。
私は今まで死にたいと思ったことが何度もあった。けがをした当時はなんとか助かりたいと思ったのに、人工呼吸がとれ、助かる見込みがでてきたら、今度は死にたいと思うようになってしまった。

動くことができず、ただ上を向いているだけで、口から食べ物を入れてもらい、尻から出すだけの、それも自分の力で出すことすらできない、つまった土管みたいな人間が、果たして生きていてよいのか。

舌をかみ切ったら死ぬかもしれないと考えたりした。食事を食べないで餓死しようともした。が、はらがへって死にそうだった。死にそうになると生きたいと思った。母に首をしめてもらおうとも思ったが、母を殺人犯にさせるわけにはいかなかった。

そして、星野さんが絶望状態にあった時、大学時代の先輩が「ぼくにできることは、これしかありません」と言って一冊の聖書を置いて行った。そして、星野さんはイエス・キリストの言葉に出会い、導かれていくのである。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
            (マタイによる福音書11章28節)

神さまは決して私たちを見離したりせず、必ず必要な助けを遣わしてくださるということだ。ひょっとすれば今、苦しみの中にある人が、たまたまこの記事を開いて読んでくださったとすれば、そのこともまた神さまのお計らいだ。

イエスさまは、私たちの視点を180度転換される。
私たちは「なぜ、こんなことばかり!」と、精神的にも苦境に追い込まれる時がある。それは人間の自然な感情だ。しかし、その次が大切だ。「なぜ」ではなく「何のために」という視点だ。

その状況の中で自分はどのように生きるのか。

誰かのせいにして、その人やその人たちに縛られて精神的奴隷の生き方をするのか、縛られない自由人として生きるのか。ここで道が大きく分かれる。

私たちが自由人として生きることを選んだ時、新たなる道が大きく拓かれていくのである。

posted by 優子 at 07:39| 随想 | 更新情報をチェックする