2016年10月09日

家の教会㉖ −「実らないいちじくの木」と「枯れたいちじくの木」―

2016年10月9日(日) (第26回 家の教会)
10:15〜10:50
@前奏
A主の祈り
B子どもの讃美歌  88番 「神さまがわかるでしょ」
C聖書輪読    ルカによる福音書 13章6節〜9節
         マルコによる福音書11章12節〜14節、20・21節
Dお話      優子
E讃美歌     312番 「いつくしみ深き」
E後奏

ルカによる福音書13章6節〜9節:
13:6それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。
13:7そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
13:8すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
13:9それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

マルコによる福音書11章12節〜14節、20・21節:
11:12翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
11:13そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
11:14そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

11:20朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
11:21そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。

IMG_0525.jpgお話:
聖書で「ぶどう」や「いちじく」はイスラエルの比喩ですが私たち自身をも意味します。「わたし」は所有者(神)で、「園丁」はイスラエルや私たちのために祈る人、即ちイエスさまです。そして、この「実のならないいちじくの木」とは、イエスさまを受け入れなかったイスラエル(古代ユダヤ人)のことですが、世界の人間のことでもあります。

強情で傲慢な私たちを「切るのは待ってください。私が世話をしますから、もうしばらくこのままにしておいてください。」と、神さまに執り成してくださるイエスさまなのです。それだけではなく実のならない木である私たちの身代わりになって切られたのです。それが十字架の出来事です。 
           
また、マルコ伝11章は「枯れたいちじくの木」あるいは「呪われたいちじくの木」と呼ばれているお話です。これは十字架にかかられる1週間前の出来事ですから、「朝」とは4月11日月曜のことであり、20節の「弟子たちはこれを見」たというのは12日火曜日のことです。

いちじくの木は葉が先に出てくるのではなく、先に実をつけて次に葉がでてきます。実は2月頃から付き始めて、葉が出てくるのは4月の終わりから5月頃ですが、このいちじくは既に葉が茂っていたので実があると思われたのか、あるいは冬越しの実が残っているかもしれないと思われたのかもしれません。

この話は「審判の奇跡」と言われており、イエスさまの怒りと審判を人間にではなく木に間接的に行われた奇跡です。イエスさまは救い主であり審判主でもあります。

では、なぜ怒られたのか。それはいちじくの木(イスラエル)は外見は立派でも、神との契約関係にありながら神への信仰(実)がなかったからです。宗教的なものを豊かに所有しながら、その中に信仰を見出すことができなかったのです。それどころかイエスを十字架につけてしまいました。


しかし、このお話は信仰の無い人にだけではなく信仰者も厳粛に聴くべきです。神さまを必要としないで生きていた生き方を悔い改めて回心したクリスチャンであっても、信仰の実が育っているでしょうか。

パウロはガラテヤ書(5章22・23節)で、「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と言っています。ですから信仰があっても信仰が欠如していれば実のないものになってしまいます。

私に洗礼を授けてくださった故小山恒雄牧師は、「信じて救われるのは、瞬間的な神の恵みの御業(みわざ)と決断によるが、信じぬくことは一生一代の大事業であり、そこには山あり谷ありの生活がある。しかし、聖書は試練と忍耐の祝福を確約している。」と仰いました。

イエス・キリストを信じることができるということ自体が神の奇跡、神の御業です。わが身に奇跡を起こしてくださった信仰者であるお互いは、いちじくの木の譬え話を忘れないで日々刻々に悔い改めて、それぞれに賜った人生を歩みながら使命を果たしていきたいものです。自分の頑張りでするのではなく切に祈り求めて。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。(ヨハネ3章16節)

photo by Yuki シュウメイギクA.jpgイエスさまは今も熱心に私たち一人ひとりのことを神さまにとりなしてくださっていますから、私たちは命のある限り悔い改めるチャンスは与えられているのです。死んでからでは遅いのです、感謝して喜んで生きていきましょう!

附記:12時より知子と二人でRちゃんの弟・Mくんの病床へ、17時前帰宅。先週の知子に続いて今週もRちゃんパパに送迎していただく。

posted by 優子 at 18:53| 家の教会 | 更新情報をチェックする