2016年11月06日

家の教会㉚ −神さまに喜ばれる生き方−

2016年11月6日(日) (第30回 家の教会)
10:45〜11:30
出席者 3名(Except R)
@ 前奏
A 主の祈り  
B 子ども讃美歌 88番 「神さまがわかるでしょ」
C 聖書輪読  マタイによる福音書 23章1節〜13節
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ
F 讃美歌 298番 「安かれわが心よ」

マタイによる福音書23章1節〜13節:
23:1そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
23:2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
23:3だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
23:4また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
23:5そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
23:6また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
23:7広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。
23:8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
23:9また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
23:10また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
23:11そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
23:12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

お話:
この23章はパリサイ主義の内容を示しています。「パリサイ人」を新共同訳聖書では「ファリサイ人」と表記されています。ヘブライ語で“רושים”というのは、律法を守らぬ人間と自らを「分離する」という意味です。(英語で“Pharisee”fˈærəsì)。

ユダヤ人は律法をとても大切に守るため数え切れないほどの決まりを作りました。まず「人体の部分の数」として248の「積極的戒律」と、1年の日数365の「消極的戒律」、合わせて十戒の文字数である613の細目に区分しました。

私たちが信じるイエス・キリストは、神に対する愛と人に対する愛以外に大切な律法はないと教えてくださいました。

今日の個所で最初にイエスさまが言われたことは、律法学者たちは神の掟を教えながら「実行していなかった」ことです。このことはキリストを信じる者すべての人も心に留めなければなりません。

どのような問題も傍観的にではなく自分の問題として聴き、神さまを愛し信頼しているならば、信仰の結果としてまず自分自身が変わることを願いイエスに従っていくことでしょう。 

2番目に言われたことは、「人に注目されたい、みえをはったり褒められたいためにやってはいけない」ということです。先週読んだ箇所にあったように、「自分の義を、見られるために人の前で行わないように」という教えと同じです。

私たちは常に神さまの視線を感じていますが、このことをしっかり心にとめておかないと悪魔の罠(誘惑)に陥ります。常に注意して心を守っていなければ、いつのまにか神さまに喜んでいただくのではなく自分を喜ばせる生き方に変わってしまいます。

3番目に言われたことは「高ぶるな」ということです。8節、9節はルターが問題提起したことと多分に重なるところです。イエスさまは弟子たちと信徒たちの間に階級を禁じられました。宗教的特権階級の出現は堕落をきたします。

もちろん、このこともまた単に形式的に理解するのではなく、その精神を忘れないようにと弟子たちの虚栄心を強く戒められました。ヨハネは自分を他の信者と同じ立場で記していますし、パウロは自分を求道者と同じに置いています。

私たちもイエスさまのみことばを真剣に受け止めるならば、教会で「先生」と用いるべきではないですね。先生呼称を使っていない教会もありますが、特に日本人は「先生」と呼ばれたり呼ぶのが好きですから注意しなければなりません。

呼ばれる側は錯覚して高ぶらないように、呼ぶ側もまた自己確立した人格でなければなりません。イエスさまが「あなたがたはみな兄弟だからです。」と言われたとおり、私もまた「○○師」という書き方についても考えてみたいと思います。

余談になりますが、かつて東大阪市の読書会の代表をさせていただいていた時のこと。かの有名な讃美歌・「ああ主のひとみ」を作詞された井置利男牧師が参加してくださいました。

当時はそのような有名な牧師さんとは知りませんでしたが、私は参加者に牧師であることを述べて「井置利男さん」と紹介しました。

なぜならば、読書会においてまで「先生」と呼ばれては自分自身に戻れません。職位からも解放され、親でも妻や夫でもない一個の人間として参加したい、してほしいという私の考えからです。

そして、これらの戒めの最後にイエスさまが言われた、「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。」ということこそが、それらの背後にある根本的なメッセージなのです。

牧者(minister)は奉仕者です。人に仕えてもらうのではなく仕える側です。この言葉から「サーバント・リーダーシップ」(Servant Leadership)という経営用語が日本においても広く用いられていますが、これはハウ・ツーの類ではなく、この言葉の真の意味を理解している人は少ないのではないかと思います。

牧者が人々に仕えられている異様な教会(牧者)も見てきましたが、それは信徒たちの問題でもあります。盲従するのではなく、何事も自分の頭で考えることをしなくてはだめです。

神の存在を知って「主体的に生きよ」、そして、「愛をもって互いに仕え合いなさい」というのがイエスのメッセージです。

2_onpu_ak.gif「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」。
           (ペテロの第一の手紙 4章10節)

讃美歌 298番 「安かれわが心よ」("Stille, mein Wille, dein Jesus hilft stiegen")

@ 安かれ わが心よ 主イエスは ともにいます
  痛みも苦しみをも おおしく 忍び耐えよ
  主イエスの ともにませば 耐ええぬ 悩みはなし

A 安かれ わが心よ なみかぜ 猛(ほえたけ)る時も
  父なる あまつ神の みむねに 委ねまつれ
  み手もて 導きたもう 望みの 岸は近し

B 安かれ わが心よ 月日の うつろいなき
  み国は やがて来たらん 憂いは 永久に消えて
  かがやく み顔仰ぐ いのちの 幸をぞ受けん
                  アーメン


  
posted by 優子 at 13:38| 家の教会 | 更新情報をチェックする