2016年11月13日

家の教会㉛ −「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。そして、私たちは本当に見えているのだろうか?−

今日は礼拝の時間が取れなくて夕食後に3人(Except R)で短いデヴォーション(devotion;神との交わりの時、静思の時)をもちました。

私が夕食中に「聖書だけでも読もうよ」と声をかけると快諾を得て、ユキまでテキパキと心弾ませて準備しました。ユキはそれぞれの聖書を出して「今日はどこ読むの?」と聞き、ママ(知子)の聖書も開いていました。孫がイエスさまの御愛の中で真実な心に満たされていることを感謝しました。

怒りや憎しみに支配されていては神を礼拝できません。いや、そのような時も、そのような時だからこそ神に助けを求めるのは素晴らしいことです。神はその人が倒れないように見守り、導きと共に大いに祝福してくださいます。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。
               (ペテロの第一の手紙 5章7節)

私たちは神さまと共に、しかし形式だけの礼拝至上主義に陥らないように、へりくだった心、悔いた心、真実な心で創造者である神さまとの交わりを喜びます。今日も私たちは全能の神の前に感謝をもって喜んで集いました。

2016年11月13日(日) (第31回 家の教会)
19:05〜19:30
出席者 3名
@ 聖書輪読  ヨハネによる福音書 9章全節
A お話   優子
B お祈り  一人ずつ

ユキ、聖書を読む.jpg聖書は毎週1節ずつ輪読していますが、ユキは当初から自分の読む場所を見逃さないし、読み方はこの半年間で著しく進歩しました。
今日はサッカーをしたので疲れているであろうに、一段と体力も養われて集中できました!

子ども時代の書き込み.jpg知子の聖書には子ども時代の書き込みがありました。






ヨハネによる福音書 9章1節〜41節:
9:1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである
9:4わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
9:5わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
9:6イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
9:7「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
9:8近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。
9:9ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。
9:10そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。
9:11彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。
9:12人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。

9:13人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。
9:14イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
9:15パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
9:16そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
9:17そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
9:18ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、
9:19尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
9:20両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
9:21しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
9:22両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。
9:23彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。

9:24そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
9:25すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。
9:26そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。 9:27彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。
9:28そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
9:29モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
9:30そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
9:31わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
9:32生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
9:33もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
9:34これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。

9:35イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。
9:36彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
9:37イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
9:38すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
9:39そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

9:40そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある

半世紀前頃までの日本人も障がいをもって生まれてきた人は先祖の祟りであるなど、因習に縛られて全く根拠のないことを信じていたようです。

しかし人間がつくったカミではなく、まことの神さまは全く正反対のことを言われました。その方々は神の呪いのもとにではなく、神の祝福のもとにあると宣言されているのです。

「弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。
イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」。

この箇所を読むと、いつも宇野繁博さんのことを思います。

小学校の教師をされていた宇野さんは中途失明され、その後、聖書に導かれて、「この御言葉で視覚障がいの意味がわかった!」と、不条理な苦悩から解放され、神さまの御用のために働いておられます。
「お母ちゃんが生きている時にこの御言葉を伝えてやりたかった」と仰った宇野さんの言葉が、今も私の耳の底にこびりついています。

そして、そのあとに書かれていることも心に強く迫ってきました。
15節以降を読んでいきますと、盲人がパリサイ人に見えるようになったと言うと、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と、見えるようになったことを無視して意味のわからぬことを言いました。このこともまさに人間の実相です。

パリサイ人は聖書をよく読んでいる人々です。しかし、高慢と偏見で心が歪んで事実を「見る」ことができないのです。聖書を読むときも素直な心で聖書の光に照らされて自らも省みながら読むのです。


パリサイ人たちは肉体の目は見えていても何も見えず、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と、目の見えない人を神ののろいのもとに置いて、「彼を外へ追い出し」てしまいました。

でも、そのことを聞かれたイエスさまは、すぐに「彼を見つけ出し」てくださいました。神(イエスさま)は常に休むことなく私たち一人ひとりに眼を配っておられるのです。

この盲人は肉体の目が開かれただけではなく霊の目までも開かれてイエスさまに出会ったのです。

私たちも高慢になりやすいお互いですから、自分が高慢であることに気付かないパリサイ人たちを人ごとのように見てはいないでしょうか。その危うさが常にあることを覚えていないと何も見えなくなってしまいます。

私たちは聖書を読んでいるから「真理を知っている!」と思ってはいないでしょうか。神さまはそのほんの少しだけを知らせてくださったにすぎないのです。肉の目が明いていても霊の目が盲目にならないように、常に自らを振り返りたいと思います。

ユキにはいつも以上に短く要点を話し、たった20分あまりの短いデヴォーションでしたが、それぞれが神さまから新しい力をいただいて新しい週に踏み出せる恵みを感謝しました。


posted by 優子 at 23:19| 家の教会 | 更新情報をチェックする