2017年01月02日

家の教会2017@ −「今は恵みの時、救いの日」−

2017年1月1日(日) (2017第1回 家の教会)
11時〜11時40分
出席者 4名
元旦礼拝.jpg
@ 前奏   知子
A 主の祈り  一同
B 讃美歌   414番
「あらたまの年たちかえり」
C 子ども讃美歌  82番「おおしくあれ」(写真)
D 聖書輪読  コリント人への第2の手紙 
                6章1節〜10節
E お話    優子 
F お祈り   一人ずつ
G 讃美歌   448番「み恵みを身に受くれば」
H 後奏    黙祷をもって終わる

コリント人への第2の手紙 6章1節〜10節:
6:1わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
6:2神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救いの日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。
6:3この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

お話:
「神の恵み」とはどういう意味でしょうか。「恵みの時」は 原語で「神の御旨にかなって受納せれられる時」という意味です。
即ち、イエスさまの十字架の贖罪により神さまと和解した関係になったということであり、イエス・キリストが再臨される迄の間は、神さまが私たちの祈りをお聴きくださって助けてくださる期間であるということです。

その後は、これまでに生まれて死んでいった全ての人が神の審判の座に立たされるのです。「今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」とは、クリスチャンだけにではなく今生きている全ての人に告げられているのです。

世の終わりが百年後か千年後かは誰にもわかりませんが、そのことよりもまず、私たちが明日交通事故に遭って、あるいは地震や津波に襲われて死んでしまうかわかりません。だから今こそが誰にとっても「恵みの時」であり「救いの時」なのです。

私はよくこんな光景を想像します。ノアの箱舟の扉が閉まる直前に駆け込んだ人や、「出エジプト」で言えば、モーセが神の力を受けて紅海を割った海が元に戻るギリギリに渡り切った最後のヘブライ人の光景です。

そんな「滑り込みセーフ!」も幸いですが、今こそ自分の問題として考える時なのです。


コリントの偽信徒の中にはパウロを謗(そし)る者がいましたが、キリスト者はパウロの如く、自分に悪意を向ける人や反対者に対しても迫害や仕打ちをしない、いじわるをしないのです。

それどころか自分に敵対する人に「寛容のみならず進んで親切を尽せ」と、その愛がキリスト者の発露であるとパウロは言うのです。しかし、「進んで親切にせよ」というのは難しい時がありますね。

一方では、豊かに聖霊をいただいて(主に在って)神・キリストの義によりて悪魔の悪だくみを破り、律法による義をも破るのです。まさにこのことは知子が最近何度も経験していることです。

私たちが「主よ、信じます」、「主よ、感謝します」と言えるのは自分の意思だけによるのではなく、主の恵みの中にあるからです。 ですから恵みの中で生かされていることをしっかり心にとめて、新しい年はますます大らかに力強く生きていきましょう! 主イエスと共に!

私たちが教会を離れて家で礼拝を捧げていることについては、ページを改めて綴ります。

posted by 優子 at 11:00| 家の教会 | 更新情報をチェックする