2017年01月15日

家の教会2017B −新しいぶどう酒は新しい皮袋に−

2017年1月15日(日) (2017第3回 家の教会)
10時〜10時45分
出席者 3名(Except R)
@ 祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌 294番 「み恵み豊けき」
C 聖書輪読 マタイによる福音書 9章10節〜17節
D お話  優子
E お祈り 一人ずつ
F こどもの讃美歌 88番「神さまがわかるでしょ」
          48番「こどもを招く」

※ 今朝も知子は共にするも奏楽なしで行った。

マタイによる福音書 9章10節〜17節:
9:10それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
9:11パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
9:12イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

9:14そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
9:15するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
9:16だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

お話:
今日のお話はマタイの家で食事していた時の話です。  
律法を守っている真面目なユダヤ人にとって、道徳的な基準にも達しない取税人や罪人と一緒に食事をすることはとても汚らわしいことでした。そこで律法を厳格に守るパリサイ人らは、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と 聞いたのです。

するとイエスさまは、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」と言われました。

イエスさまを必要とするのは病人や罪人ですが、実はそれは全ての人が病める者であり罪人であって、イエスさまを必要としない者は一人もいないのです。

そのことを知らず、自分は正しいと思っているパリサイ人こそが、最もイエスを必要とする人なのです。


次にバプテスマのヨハネの弟子たちがイエスさまに訊ねます。私たちやパリサイ人は断食をしているのに、「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」と訊ねました。

断食というのは一定の期間は全ての食物や特定の食物を食べない宗教的行為で、ヨハネの弟子たちもまたヨハネの導き通りに厳格に断食を守っていました。

モーセの律法には断食は年に1回だけだったのに、その後は年に28回の断食を行うようになり、主イエスの時代は、月曜日と金曜日のが断食日と定められていました。計算すると1年間に100回以上も断食することになります。

個人的にする時には悲しみや苦しみの時に断食を行ないますが、日本でも何か物事の成就のために「茶断ち」と言って、願いが叶うまでお茶を飲まないという話を聞くことがあります。

そこでイエスさまはこういわれました。
「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」と。

イエスさまはご自身を新郎に譬えておられ、弟子(信徒)は新婦であり、これは聖書の奥義です。ですから「花婿が奪い去られる日が来る」とは、イエスさまが十字架にかかられる時の意味であるというのも自ずとわかるでしょう。

ですから新郎新婦がいるパーティに招かれた人たちは悲しんだりはしない。そんな時にも断食をするのはあまりにも形式的すぎるのであり、その本質は全く異なるものであるとイエスさまは仰ったのです。

16、17節で語られたことは、当時の当たり前の生活の知恵でした。
「真新しい布切れ」とは「織りたての布」のことで、まだ水に晒(さら)していない布のことです。布を初めて水につけると縮みます。ですから服を縫う時も、最初に布に霧吹きで水をふくませてビニール袋に入れて一晩おき、翌日にアイロンをかけてから型紙を当てて裁断します。

だから新しい布で継ぎ当てをすれば、濡れた時や洗濯した時に古い服を破ってしまい、新しい布も役に立つどころか無駄になって両方ともが駄目にしてしまうと主イエスは言われました。

新しいぶどう酒と古い皮袋の譬えも同じです。
収穫したぶどうをつぶして酵母菌と共に動物の内臓や皮で作った袋に入れて密封すると、ぶどうは勢いよく醗酵してワインになるそうですが、皮袋が古くなると弾力性がなくなって、ぶどうの醗酵に耐えられず袋が膨れて破れてしまいます。

そしたらぶどうだけではなく古い皮袋もダメになってしまいます。これも真新しい布切れの譬え話と同じで、古いものと新しいものは共存できないことを仰ったのです。

即ち、イエスさまが教えてくださった自由、「主体的に生きよ」という福音と古い律法とは相いれないのです。バプテスマのヨハネはキリストの新しい教えを知っていましたが、生活面においては古いままでした。

神の愛と恵みである主イエスの十字架の福音(新しいぶどう酒)には新しい皮袋が必要です。イエスさまの福音を受け取った私たちは主イエスの新しい皮袋に入った新しいぶどう酒であり、その中で私たちを主イエスに似た者へと醗酵させてくださるのではないでしょうか。


イエスさまの弟子たちは神さまの一方的な恵みに生かされて、律法に縛られた生活ではなく真の信仰理解(ぶどう酒)で、生活(皮袋)においても主体性をもって生きていました。

21世紀に生きる私たちはなおのこと、新しい皮袋となって生きたいと思うのであります。
それはどういうことかと言いますと、第一義的には他者との比較においてではなく神さまの絶対評価の上に立って生きることです。

特に他者と比較して自己認識するような日本の風土においては誘惑や葛藤がついて回ります。日常生活で起こる様々なことの中で、優先順位をいかにすべきかと常に考えさせられます。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」というのはクリスチャンの誰にとっても生涯の課題です。道を間違うことのないように主に訊ねながら選び取っていきたいと思います。


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posted by 優子 at 16:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする