2017年01月22日

家の教会2017C −5つのパンと2匹の魚−

2017年1月22日(日) (2017第4回 家の教会)
10時30分〜11時25分
出席者 3名(Except R)
@ 前奏 知子
A 祈り  優子
B 主の祈り 
C 讃美歌21 425番 「こすずめも くじらも」
D 聖書 マルコによる福音書 6章30節〜44節
     ヨハネによる福音書 6章1節〜14節
E お話  優子
F お祈り 一人ずつ
G 讃美歌 第2編26番 「小さなかごに花を入れ」
H 後奏 知子

マルコによる福音書 6章30節〜44節:
6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
6:35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。
6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
6:37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
6:38 するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
6:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
6:40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった
6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
6:42 みんなの者は食べて満腹した。
6:43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
6:44 パンを食べた者は男五千人であった。

ヨハネによる福音書 6章1節〜14節:
6:1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
6:2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
6:4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6:6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
6:7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
6:8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
6:10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
6:12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
6:13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
6:14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

お話:
今朝の聖書の箇所は「5千人の給食」と呼ばれているイエスさまの奇跡で、この奇跡だけが4つの福音書すべてに記されています。

にもかかわらず私は今までこの象徴的な奇跡を取り上げませんでした。病を癒された奇跡もそうですが、人間の論理では説明できないからです。

しかし、そのようなことは私が心配することではないので「家の礼拝」でも読みたいとの思いが与えられました。

イエスさまは群衆に霊的な糧を与えておられました。群衆は病気の癒しなど多くの奇跡を見たのでイエスさまから離れずについてきました。群衆たちの熱心さにも驚きます。

イエスさまは奇跡をおこなわれた後は必ず寂しい場所で独りになって祈られました。それは偉大な力を蓄えるためでした。私たちも霊肉ともに休養を取ることがいかに大切であるか。神さまと二人っきりにならないと霊的に命取りになります。

霊肉共に疲れ切ってしまっては神さまの息吹も感じられなくなってしまいます。イエスさまのように独りになって神と憩う。そのことでしか魂を休ませることはできません。

最多忙の人だったデパート王・メイシーは「誰ともしゃべっていない時が私の祈りの時である」と言いました。あんなに多忙な人物でも祈りの時は持っていたのです。働き盛りの人にとっては、通勤の電車の中が祈りの時かもしれません。


さて、この箇所の背景は夕暮れです。
弟子たちも疲れて空腹だったので、弟子たちは群衆もお腹を空かしていることだろうと気になっているのですが、「私たちもクタクタですから、彼らは解散させて自分たちで食べるようにさせてください」というのが本音だったと思います。

そんな時、イエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。彼らに5000人もの人々のお腹を満たすことなどできないことをご存知で言われたのです。

この時の弟子たちの気持ちはすごくよくわかります。まさに私たちの姿ですね。同じようにお腹を空かしている群衆を目の前にしても、自分も疲れてお腹が空いているとイエスさまのように優しい気持ちにはなれません。

ある程度までは愛の言動ができても限界になって無力さに絶望します。そしてそれは、弟子たちが5つのパンと2匹の魚を持って「これしかありません」と立ち尽くしているのと同じではないかと思いました。

でも、そんな僅かな食べ物が余るほどになった。ということは、私たちの能力や援助金が僅かで無きに等しいものであっても、「私にはこんなことしかできませんが」と心から捧げるものは、イエスさまの御手によって豊かに用いてくださるのだと教えられます。

イエスさまは私たちの全てをご存知です。イエスさまが私たちに求められるのは、能力や持ち物の量ではなく、「こんなことしかできませんが」と心から捧げる人を喜ばれるのです。

ある時、敬愛するT姉(今年91歳になられる)に「いつもお祈りしてくださってありがとうございます」と申し上げた時、「神さまは祈らせてくださるのよね」と仰いました。

この「祈らせてくださる」という言葉から、祈りをも神さまに「させていただくこと」であると教えられました。

疲れていた弟子たちは僅かなパンと魚を、しかも自発的に差し出したものではなかったのですけれども、イエスさまの御手によって役に立たせてくださいました。

これは単にパンと魚を増やしたという奇跡ではなく、神さまが他者のことを「祈らせてくださる」のと同じように、神さまは私たちが心から捧げるものを祝福して神さまの御用に用いてくださるのだと気づかされます。


最後に黒崎幸吉もご紹介しておきます。
「無より有を創造し、少数のパンを数千のパンに増加するを得給う神に在し給いながら、少しの残品をも無駄にこれを棄て給わない。神の御旨の奇しきを見よ」。

私たちも週の初めに魂の休息をとり、今週も主イエスが私たちと共にいてくださいますように。

私に洗礼を授けてくださった小山恒夫牧師は「平日はクリスチャンの晴れ舞台である」と言われました。

聖日の朝にもう一度信仰を回復させられて、再び感謝と喜びと希望を握らせていただいて1週間の務めを果たしていきたいと思います。


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posted by 優子 at 16:58| 家の教会 | 更新情報をチェックする