2017年02月12日

家の教会2017E −嵐を静めたもうイエス―

IMG_2419.jpg2017年2月12日(日) (2017第6回 家の教会)

10時30分〜11時10分
出席者 3名(Except T)

@ 主の祈り  
A 讃美歌     461番 「主われを愛す」
B 聖書輪読    マタイによる福音書 8章23節〜
                       27節
C お話      優子
D お祈り     一人ずつ
E 聖歌472番 「人生の海の嵐に」

マタイによる福音書 8章23節〜27節:
8:23それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
8:26するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
8:27彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。

お話:
先週は悪霊にとり憑かれてどうしようもなくなっていた人を静められたお話しでしたが、今日は自然界の暴風や海を静められたお話です。この奇跡をマルコ(4章35節〜41節)とルカ(8章22節〜29節)も書いています。

ある日、イエスさまは弟子たちに「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と仰って沖に向かいました。ところが、突然激しい暴風が吹いてきて舟が転覆しそうになりました。

ガリラヤ湖の水面は地中海よりも低くて、周りを高い山に囲まれてるので、時に冷たい空気が山から吹き降ろしてきて暴風が起こることがあるのです。

ところがイエスさまは眠っておられる。イエスさまの眠りは神と共にある平安の象徴です。弟子たちはイエスさまを起こして「助けてください、わたしたちは死にそうです」と叫びました。

イエスさまは、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われ、荒れ狂う風と波を叱りつけられて、風も静まり穏やかな波のない湖になったというのです。

マルコ伝の4章39節には、「イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」と記されています。

「なぜこわがるのか」というのは、イエスさまが共に居られるのに「なぜ怖がるのか」ということであり、私たちが信じる神さまは唯一絶対なる全能の神であり、私たちの命をも一切のことを握っておられる神です。にもかかわらず現実の出来事を恐れてしまうのですね。

主イエスはいつも信じる者と共にいてくださることを知っているならば「恐れるな!」ということであります。このような自然界の嵐だけではなく、人生の嵐の時も「恐れるな」と仰っているのです。

ここで「湖」と訳されている原語ですが、他の箇所では「海」と訳され、その意味は「この世」の意味であるということです。

即ちそれは「暴風」や「波」は深刻な病気や事故であり、子育ての悩みであったり、老後のこと、また、職場や家庭などあらゆるところで経験する人間関係の悩みであり、単純ではない人生の途上で経験することを意味するのです。

私たちは生きている限り新たな問題に出くわして動揺し混乱するのですが、それが人生でありそれらを避けることはできません。


幸いにして私たちは信教の自由を保障される時代に生かされていますが、中東ではキリスト者や教会への迫害が日常化しています。日本もまた過去の時代に大きく向きを変えつつありますから、どんな艱難があるやもしれません。

それら一切のことが「この世」のことであり、しかし、そんな嵐の時にこそ信仰が試されているのであり、キリストは「わたし(イエス)が共におるぞ!」と仰ってくださっているのです。

私たちは神に祈りますが、本当に全幅の信頼をもって祈っているでしょうか。今一度確かな信仰に立ち返りたいと思います。

弟子たちは信仰はあっても薄い信仰でした。それでもイエスさまは自然の猛威を叱りつけて弟子たちを助けてくださいました。イエスさまは私たちをお見捨てにはならないのです!

神さまは決して信じる者をお見捨てにはなりません。この箇所から心に刻むべきことは、嵐の時こそ静まってイエスさまを信頼しておればよいということです。

私たちは時に喚(わめ)きたくなる自らの限界、また現状に陥(おちい)りますが、主イエスは必ず助けて導きを与えてくださいます。ですからどんな時も、素直になれない時もまた主の御名を呼ぶのです。

なぜならば素直な心、正直で砕かれた心でないと神の導きはわからないからです。これが私の信仰姿勢であり、愛する人々に伝えたいことの精髄です

イザヤ書30章15節の御言葉もたびたび握りしめるみ言葉です。
「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。

主イエスに手をとられて試練を超えさせていただいた時に、私たちは霊の目が開けられ真のキリストに出会うのです。

ひとたびそのことを体験させていただくと、刻々と状況が変わる中に在っても、平安などありえないような時にも、台風の時にも台風の目は静かなように心底は平安で守られています。

今の私のように「私は苦悩に打ちのめされながら希望をもっており」と生きることができるです。
そしてこれこそが主イエスに在るキリスト者の生き方、真の自由であり、その歩みは中断することなく常に最善へと続けさせてくださっているのです。

ジョウビタキの雌.jpg
聖歌590番 
「救い主イエスと共に」 
救い主イエスと 共に行く身は
乏しきことなく 恐れもあらじ
イエスは安きもて 心たらわせ
物事すべてを よきになしたもう
物事すべてを よきになしたもう

坂道に強き み手を差し伸べ
試みの時は 恵みをたもう
弱きわが魂の 渇くおりしも
目の前の岩は 裂けて水わく
目の前の岩は 裂けて水わく

いかに満ち満てる 恵みなるかや
約束しませる 家に帰らば
わが魂は歌わん 力の限り
君に守られて 今日まで来ぬと
君に守られて 今日まで来ぬと


ツグミ.jpg聖歌472番 「人生の海の嵐に」

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
いざないの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

posted by 優子 at 13:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする