2017年02月19日

家の教会2017F −迷える子羊を捜し出される神―

2017年2月19日(日) (2017第7回 家の教会)
10時15分〜11時00分
出席者 3名(致し方なくExcept R)
@ 前奏 
A 主の祈り
B 子供の讃美歌 88番 「神さまがわかるでしょ」
C 聖書輪読   ルカによる福音書 15章1節〜7節
D お話     優子
E お祈り    一人ずつ
F 讃美歌    517番 「われに来よと主は今」
G 後奏

ルカによる福音書 15章1節〜7節:
15:1さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
15:2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
15:3そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

お話:
このお話をする機会に羊の習性を調べてみました。
羊が食べるのは草だけで、食べるのが大好きです。お腹が空いていたら眠られないというのを聞いたこともあります。
聴力も視力も良いんだって。
羊の目.pngユキは1月の終わりに六甲山牧場で羊を見てきたからよく知っていると思うけれど、羊の目は水平に細長い瞳孔があるでしょ。

瞳孔と言うのは角膜と水晶体の間にある薄い膜で、カメラの絞り(光の調整)の役目をします。だから270度から320度も見渡せるので、頭を動かさなくても自分の後ろが見えるんだって。

でも奥行きはあまりわからなくて、影や地面のくぼみの前に来ると怖がって先に進まなくなることがあるそうで、先導者に従う傾向がとても強いそうです。

明るいところが好きで群れでいると安心だけれど、群れから引き離されると強いストレスになり、ストレスに直面するとすぐに逃げ出してパニックに陥ります。

頭も牛と同じくらい良いんだって。豚はもっと賢いそうだけれど、羊は人や他の羊の顔を何年も記憶できて、顔の表情から心理状態もわかるんだって。すごいね。

ところで、聖書で「羊」というのは「神のこども」を意味します。そして、「羊飼い」は神の子どもたちを養い育ててくださるイエスさまのことです。

今日のお話は100匹いた羊の1匹が迷い出てしまって、羊飼いであるイエスさまが見つけ出してくださったというお話です。

このお話は「迷える羊」や「見失った羊」などいろんな呼び方がありますが、以前取り上げた「放蕩息子」の話を思い出しませんか?

また、この箇所に続いて記されている「無くした銀貨」と共に共通する3つの譬え話は、失われたものが見つかった神さまの喜びが主題になっています。

この譬え話をされたのは1節2節にあるように、取税人や罪人たちがイエスの話を聞こうとして近寄ってきた時、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」とつぶやいたパリサイ人や律法学者たちに教えるためでした。

「取税人」と言うのは、ローマ人の手先になって自分と同じユダヤ人から税金を取り立てていた人たちです。しかも自分のふところにも入れるために不当に高い金額を取っていました。

「罪人」と言うのは宗教的に見捨てられた人のことで、警察に連れていかれるような悪いことをした人のことではありません。
ユダヤ教の戒律を熱心に守っているパリサイ人や律法学者が、律法を厳格に守らない一般の人々をこのように呼んで差別していました。

ところがイエスさまはそのような人々と仲よくされているので、それを見て忌まわしく思ったパリサイ人と律法学者に迷い出た一匹の羊の話をされたのです。

最初にお話ししたように羊は群れの中でしか生きられません。その羊が1匹いなくなったので「99匹を野原に残して」捜しに行ったのです。

でも、捜しに行っている間に99匹にも危険なことが起こらないだろうかと心配ですね。たとえば狼が来たら大変です。そんなことを思うと、迷い出た1匹は諦めて99匹を守っておくほうが合理的であると思います。

ところが99匹を置いてでも捜しに行くのは、迷い出た1匹は特に素晴らしい羊だったからでしょうか。そうではない、どの羊もみな同等に1匹1匹がかけがえのない羊なのです。

例えば私に3人の子どもがいるならば3人とも大切なように、どの子が居なくなっても地の果てまでも捜し続けます。「あと2人居るから諦めよう」とは思いません。それが親の愛であり真実の愛です。

1匹を見出したもうイエス.jpg母親がそうであるならば神さまの愛はいかばかりでしょうか!
神さまは切なる愛をもって熱心に捜し続け、1匹を見つけるまで捜しまわって「恵みの中で生きよ」と連れ戻してくださるのです。それがイエスさまです。

見つけ出した羊.jpgこのお話からヒシヒシと感じるのは、私たちがイエスさまと出会ったのは私たちが熱心に探し求めたからではなく、私たちが神さまを捜し求めていた以上に神さまが私たちを捜し求めてくださったということです。

神さまは常に私たちが本心に立ち返るのを待ち続けている父であり、その願いはただ一つ、私たちに祝福を与えることなのです。

神さまは書物や人を通して、あるいはまた出来事を通して気づきを与えてくださって、善き道へ導いてくださるのです。忍耐強く、決して諦めることなく。


聖書には「神は自分のかたちに人を創造された。」とあります。ということは、どの人の生命も神さまと繋がっており、人格をもって生かされているということです。

既にイエスさまに見出された者は迷い出ないように、主に在るお互いは祈り合い、教え励まし合って信仰生涯を全うさせていただきたく祈ります。

なお、この「迷える子羊」に続いて「無くした銀貨」が記されており、これらは「放蕩息子」の話と共に見失われた者の帰還を喜ばれるというのが主題です。

15:8また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
15:9そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。

イソヒヨドリ.jpgこれは先週の日曜日(2月12日)にユキが初めて撮ったイソヒヨドリ。

今朝、「いつかまた4人で礼拝できますように」と祈ったユキ。
このような素晴らしい祈りをイエスさまが叶えてくださらないわけがない。


附記:昨日、クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会を大津教会でもった。
『種を蒔く』4号(久保田暁一先生追悼号)に寄稿してくださった関東・中部・関西メンバーの追悼文を朗読し、全員の目を通して校正。
3月に再度大津教会にて編集者4名で編集会議、その後同日に印刷屋さんへ入稿予定。次回例会は4月15日(土)、総会も開催される。

posted by 優子 at 12:32| 家の教会 | 更新情報をチェックする