
早朝の激しい雨あがり、ようやく3時間も過ぎてから二上山(雄岳)が姿を現したが、一日中重く暗い雲が空を覆っていた。
読書会があった21日の朝、佐野一雄さんがお正月明けに亡くなられたとのハガキが副会長さんに届いたと訃報を告げられた。98歳だった。足が弱くなっておられたが、前年11月の『サークルの集い』では戦争体験を話されたそうだ。
書道家の佐野さんは『河内(かわち)の表装美術クラブ』を主宰されるだけではなく、東大阪の著名な文化人だった。その前身の「衣摺(きずり)を語ろう会」の1989(平成元)年の総会では塩川正十郎さんの記念講演の記録が残っている。
2000年8月8日に父が亡くなってまだ日も経っていない同月28日に、佐野さんが毎夏行かれる高野山にご一緒したことがあった。
佐野さんは落下傘部隊の生き残りで輸送機の操縦士だった。

正面の石碑に「空」という字が彫ってあり、「空」について思うことを話してくださった。
ここで写真を撮って差し上げると非常に喜んでくださり、「いつもこうして持ってまんねん」とニコニコしながら見せてくださった。
佐野さんは熱心な真言宗信徒で法名を持っておられ、いつもこの前でお経をあげておられた。密教のこともたくさん話してくださり、「○○ソワカ」の意味は忘れてしまったが、その文言を今も記憶している。
物知りの佐野さんのガイドを興味深く聞きながら奥の院を歩いた。たくさんの大きな石碑は中をくりぬいて棒を通して転がして運んだことや、大名の墓に鳥居があるのは鳥居内は霊界を意味することなど話は尽きず、一番奥にある弘法大師の霊廟、そして、大圓院に案内された。
あの頃は父の悲しみで何も話さなかったが、どうして景教について話題にしなかったのだろうと今これを書きながら思う。
翌年8月13日に家族で高野山へ行き、佐野さんのご紹介で平家物語ゆかりの瀧口入道と横笛の恋物語の大圓院で宿泊した。

5月の明るい陽ざしに負けないくらい元気な笑顔が輝いている。
悲しくさみしい。
とうとう逝ってしまわれたか・・・私は読書会を離れてから一度お目にかかっただけだったと思う。
↓これは2002年5月の読書会。
左奥の定席に佐野さんのお姿が見える。

左奥の定席に佐野さんのお姿が見える。

この時はクリスチャンの友人・鳩飼きい子さん(正面・黒板前の黒い服の女性)が出版された『不思議の薬 サリドマイドの話』をテキストに、鳩飼さんをお招きしての会だった。
鳩飼さんも2010年に80歳で召天された。(私は鳩飼さんの右手側。ゲストなのに真ん中に座って下さらず、謝儀も受け取ってくださらなかった。)

←これは2014年の年賀状で、もう一方のは2015年のものだ。

佐野さんを偲び、昨年度発行された『かわちの』64号に寄稿された文章の冒頭をここに貼らせていただこう。

佐野さんにお聞きしておくべきだった。戦争の実態と、憲法を改正し戦争できる国にしようとしている日本の現状について。
悲しいが前を向かなくては。
頭(こうべ)を上げて、私も残りの時間を精いっぱい生きなくては!
この日、古いメンバーの方々はすぐに私を認知して大歓迎してくださった。「御髪(おぐし)が変わられたけれど」とだけ仰りつつも、それ以上の驚きがあったように感じた。
帰りぎわ、Iさんに「またお会いしたいです」と御挨拶したら、「また来てね。本当に会えなくなってしまうから」と仰った。
本当にまた参加しようと思う。
東大阪市の中央図書館である花園図書館は民営化され、市から出る委託料で運営されている。ただしサービスは良くなったという。元旦も休館せず夜は9時まで開いているそうだ。
読書会に対してもこれまで通り選定図書は10冊ずつ購入してくださっているとのこと。市から助成金が出なくなって久しいが、書籍を購入してくださるだけでもありがたい。それでも会計が苦しいので、年会費を2000円から3000円にアップして会報の印刷代を捻出しているという。
市民会館跡に商工会議所を建て、その1階に永和図書館が入る。設計図もできあがっていた。読書会の要望も出すそうだ。
サークルセンター(商大)との兼ね合いもあるが、これを機に読書会会場を図書館に移すといいのではと思う。草創期は永和図書館で開いていたのである。
花園図書館は遠く、路線バスも廃止されてますます辺鄙になっているので、豊中との交歓読書会も新永和図書館ならば気兼ねくお迎えできる。駅の真正面で足場もいい。
新年度は創立50周年になる。こんな時代だからこそ読書会の存続意義は大きく、ますますの発展を祈るばかりである。
なお、市民会館は更地になったままの市民病院跡地に建つそうだ。
附記:読書会関係の写真を見ていたら、知子が参加した時のがあったので貼っておきたい。1998年8月の読書会は、漱石研究者・鳥井正晴氏を招いて『三四郎』がテキストだった。
1998年といえば、母を亡くして父が病床にあった時。私は46歳、知子は20歳だった。
―完―
【関連する記事】
- 昨日の記事に追記と今日のこと
- Dさんを囲んでカイロスの時 −「読書会は絶滅危惧種」で大爆笑−
- 春の食卓 ―生節の押し寿司―
- 9年ぶりに読書会へ A ―『舟を編む』−
- 9年ぶりに読書会へ @ ―懐かしき時空にタイムスリップか―
- 西口孝四郎氏が感じた谷崎潤一郎と松子夫人の「欠落の章」
- ハンセン病療養所・徒労(たいろう)院
- 北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 A
- 北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 @
- 「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を..
- 谷崎潤一郎の恋文 ―丁未子と松子への文章酷似―
- 「拝啓 二宮金次郎様」 ―東大阪読書友の会会報より―
- ライフワークの現状と雑感
- 20年ぶりに中山義秀『厚物咲』を再読
- 増版予定の25周年記念本
- 孔舎衙健康道場発掘者の喜び結実す! ―映画『パンドラの匣』座談会のDVDより..
- 今朝の読売新聞朝刊に刊行本報道さる!
- 河内の郷土文化サークルセンター創立25周年
- 『河内文化のおもちゃ箱』掲載文 ―「太宰治『パンドラの匣』の舞..
- 『河内文化のおもちゃ箱』、発売日の今夕拝受!