2017年03月05日

家の教会2017H ―やもめの献金 偽善者に惑わされてはならない―

早1年の6分の一が終わり3月に入りました。
春が近づきますとイースター(復活祭)を想います。今年の復活祭は4月16日ですから、3月1日から受難節(レント)に入りました。より一層心を低くしてイエスさまが話されたことを味わいたいと思います。
2017年3月5日(日) (2017第9回 家の教会)
13時15分〜13時45分
出席者 4名
@ 主の祈り
A 子供の讃美歌 90番  「主イエスと共に」
B 聖書輪読   マルコによる福音書
            12章35〜44節
C お話      優子
D お祈り     優子、ユキ
E 聖歌      474番 「主がわたしの手を」

マルコによる福音書12章35〜44節:
12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、
『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、
わたしの右に座していなさい』。

12:37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。

12:38イ エスはその教えの中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
12:39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
12:40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。  
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

お話:
今日のお話は、イエスさまが律法学者たちの偽善を厳しく非難されたというお話です。エルサレム神殿の中で祭司長や学者たち、古代ユダヤ教の最高裁議会を司る衆議所の役員たちが、イエスさまを攻撃しようとやってきた時のことです。

イエスさまはダビデの子以上であることを話す良い機会でした。イエスさまはダビデの末裔として生まれてきましたが、神の御一人子が人間の姿になって地上に生まれて来てくださったのですから、イエスは実はダビデ以上でありダビデの子孫以上でした。

その時に群衆たちに彼らの偽善行為を非難されて教えられました。
彼らが長い衣をまとって歩き回っていること、たくさんの人が行き来する広場で挨拶されること、そして上座に座りたがっていることも、それらを好むのは自分は立派な人間であると誇りたいための見せかけであると言われたのです。

特に東洋の文化圏においてはそのようで、現代の日本でも席については敏感です。集まりを主催する時は神経を使います。しかし、イエスさまの教えによって生かされている人は上座も下座もありません。

また、弱者の信用を利用する罪はさらに重いことでしょう。出エジプト記22章22・23節にはこうあります。
「あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたし(神)は必ずその叫びを聞くであろう」。

そして、心にもない形式的で長い祈りをすることも敬虔の姿を装った見せかけです。イエスさまはそういう偽善者に注意しなさいと教えられたのです。

偽善者に惑わされないだけではなく、自らの内にもないかを常に神さまに探られながら自己洞察を忘れてはなりません。


黒崎幸吉は、「善人を装い、殊に信仰の深さを装いつつ悪を行う者は、露骨に悪を行って隠すことなきものに比してその罪さらに重く、その罰は一層厳しい。」と言い、
「人はむしろ正直に自己の正体を神の前、人の前に露出すべきである。これによって人の前に自分を修飾するの必要もなく、神の前に罪を重ぬるの虞(おそれ)もない。」と要義しています。

人間は過ちを犯します。失敗しない人なんてどこにもいません。私たちは何度も間違います。そこで大切なことは、自分の間違いを正直に認めて「ごめんなさい」と心から悔い改めることです。

相手(人間)に謝ることができくても、まずは神さまに正直に申し上げることです。神さまの前で正直に生きていくならば、自己と葛藤しながらも、必ず「ごめんなさい」と言える人に変えられていきます。正直さは生涯の終わりまで中断してはならない大切なことです。

この時イエスさまは人々が賽銭箱にお金を投げ入れる様子を見ておられました。賽銭箱は真鍮製のラッパ形の入口が13ある形だったそうです。

お金持ちたちはたくさんのお金を入れていたのでしょうか。しかし、お金持ちだからたくさん入れるわけではなく、そのこともまた「相当の克己と信仰とを要する」ものです。

そこへ一人の貧しいやめもがやってきてレプタ2枚入れました。レプタは貨幣の中でいちばん小さな単位でした。この写真がそうです。

sirakawa-coinE10A2.gif「聖書の度量衡と通貨」によれば、これは「『ハスモン朝のレプトン銅貨』で、ユダヤ王国(ハスモン朝)の王ヤンナイオス(在位BC103-76)が発行したもので、表は星、裏は錨(いかり)の模様。10-12mm 0.6g」という形状も小さな銅貨です。

コドラントはギリシアの貨幣で、1コドラントはローマの貨幣「1デナリオンの128分の一」ということですから、貧しいやもめは当時の日当の64分の1の金額を入れたことになります。

それはとても小額ですが、やもめの女性の全財産であったとイエス様は言われました。有り余る中から献金したのではなく、それを使って空腹を満たすにも十分ではないであろうのに、それさえも神さまに捧げたのでした。

そんなことできるでしょうか。とても大きな犠牲です。イエスさまはやもめの女の心からの捧げものを喜ばれたのです。それは誰にも勝る多額の献金でした。

それともう一つ大切なことは、富の貧富があるように人間の能力にも多少があります。しかし、自己の能力が小さなものであっても卑下することではなく、有能な人は誇ってはならないのです。能力は神さまからの賜物であり、心を込めて神さまと人のために用いるように託されているのです。

なお、献金についてはパウロが次のように言っています。
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」。 (コリント人への第2の手紙 9章6・7節)

イギリス人の知人から聞いた話ですが、イギリスでは(一般化していいかどうかわかりませんが)、毎月の月定献金は銀行から自動引き落としになっているとのことに驚きました。

義務感や機械的に捧げるのではなく、毎月心して捧げたいものです。そして、教会は神さまの御用のために正しく適切に用いることと、会計報告の責任があるのは言うまでもありません。

やもめの女性は決して無理して捧げたのではなく、全てを神に委ね、本物の信仰で生かされていたのですね。富める人は自らを誇り、貧しい寡婦を蔑んで見ていたことでしょうが、女性は恥ずかしいとも感じていません。そんな信仰者になりたいものです。

附記:今朝のサッカー教室に1年生のお友だちがたくさん見学にきてくれたそうです。「継続は力なり」、ユキは体育の授業でドリブルの見本に指名されると誇らしげに話してくれました。
これは今日の『サッカー教室ブログ』より拝借しました。4年生と走っています。写真からも春の空気を感じます。

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posted by 優子 at 15:10| 家の教会 | 更新情報をチェックする