2017年03月19日

家の教会2017J ―パリサイ人とサドカイ人のパン種に警戒せよ―

つくし.jpg
(Photo by Yuki.)
2017年3月19日(日) (2017第11回 家の教会)
9時40分〜10時10分
出席者 4名
@ 主の祈り
A 讃美歌    465番 「うれしき朝よ」
B 聖書輪読   マタイによる福音書 16章1節〜12節
C お話     優子
D お祈り    優子
E 讃美歌    294番「みめぐみ豊けき」

マタイによる福音書 16章1節〜12節:
16:1 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
16:2 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
16:3 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。
16:4 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。

16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
16:7 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互いに論じ合った。
16:8 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互いに論じ合っているのか。
16:9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
16:10 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
16:11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
16:12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えのことであると悟った。

お話:
裏のスイセン.jpg今日のお話は、パリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスを試そうとして「天からのしるし」を見せて欲しいとやって来たところです。

パリサイ派は聖書をよく読んでいるのですが、律法(神さまが与えられた教え)を形式的に従う人々で、サドカイ派は理知を重んじ政治に関心がありました。新約聖書に出てくる「祭司長たち」とはサドカイ人(びと)のことです。

共に復活や霊の存在を信じていないことや、当時のユダヤ社会の体制派ですが互いに対立関係でした。しかし一度だけ意見が一致しました。それはイエスさまを十字架に架けるという裁判においてです。

夕焼けならば明日は晴れ、朝焼けは天気が悪くなる前兆であることは私たちもよく知っています。それと同じように、イエスさまが多くの不思議な業をなさったことを「恵みによる救いの時の徴」であることを見分けることができないのは、不信ゆえに霊的な盲目になっているからだと言われました。

パリサイ人やサドカイ人は主イエスを救い主として認めていないのに信仰者を装っている。つまり、イエスさまによって福音が伝えられて罪の赦しが示されているのに、それを「ありがとうございます」と受け取っていないのです。

だから彼らは「徴」を求めるのであり、イエスさまは「邪悪で不義な時代」(よこしまで神に背いた時代)だと厳しいことを言われました。

「ヨナのしるし」というのは、「家の教会」でも『ヨナ書』を読んだことがありますが、ヨナが神さまからアッシリアの都ニネベの人々に伝道するように言われた時の話です。

ヨナは神さまからニネベの人々に悔い改めて神に立ち返るように告げなさいと言われたのに、神さまの命令に背いて舟に乗って逃げました。
そして、海に投げ込まれ、大きな魚に呑み込まれて魚のお腹の中で3日3晩経ってからニネベに打ち上げられたというお話しです。

「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。
        (マタイによる福音書12章40〜41節)

このようにイエスさまご自身がヨナのことを解き明かしておられる通り、イエスさまもヨナのように3日3晩、大地の中におられるというのです。即ちイエスさまが十字架の上で処刑されて死なれ、葬られて、3日後に復活されることを示しています。

そして、この数日後にイエスさまは十字架につけられるのですが、パリサイ人もサドカイ人も主イエスの復活が信じることができませんでした。

パリサイ人らは不信仰ゆえに盲目だったのです。このことは信仰によって受け止めることなのです。霊的に盲目な者にはどんな徴も、どんなに徴を与えられても何の意味もなしません。だから彼らにはヨナのほかには何の徴も与えられないと仰ったのです

イエスさまが言われた「時代のしるし」の「時代」とは「時」という言葉であり、絶妙なる時や機会を意味するものであり、「時のしるし」を見分けるとは「思い起こす信仰」に生きることだというのです。

私たちが主に在るならば、日々の出来事にイエス・キリストの恵みが示されていることに気づきます。そして、私たちは生かされて生きている今こそが、神の時であり、神の恵みにあずかる時であることがわかります。

心が不純な時は静まって思い起こさねばなりません。私たちは何度も何度も神さまから赦されて、支えられて常に最善へと導いてくださっていることを思い出して恵みの中で生きることです。

イエスさまのあとから追って来た弟子たちはパンを持ってくるのを忘れていたことに気がつきました。その時、イエスさまに「パリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に警戒しなさい」と言われたので、食料の調達を忘れたことを叱られると思ったのでしょう。

それにしても、イエスさまの5つのパンの奇跡や、7つのパンで4000人を満腹にさせてくださったことを、すぐに思い出せたらイエスさまが何とかしてくださると安心できたはずです。

即ち弟子たちにとって、パンの奇跡の体験が彼らの中で生きた経験にはなっていなかったのです。自分の生活において生きた働きにはならなかったのです。

私はここを読んで、「弟子たちはパンの奇跡を見ていたのに食料のことで心配するなんて」と驚きました。そして自らのことを振り返っても、やはり「私だったら一瞬忘れたとしても、あんなに印象的なことならばすぐに思い出すのに」と思いました。

しかしその次に、彼らを笑えないと気づかされました。

私たちもこれまで何度も何度も神さまに助けていただいて心から感謝の祈りを捧げたのに、それらが身についていないこともあるのです。例えばいつまでも気持ちを変えることができないならば、それらは生きた経験にはなっていないということだからです。


「信仰の薄い者たちよ」の語源は「信仰が小さい」という意味だそうですが、イエスさまは弟子たちを誤解されて信仰が小さいと言われたのではなく、そういうことがあなたがたの信仰の小ささの現れだと言われたのです。

そんな弟子たちだから、イエスさまは何度も何度も弟子たちに教えられたのです。パリサイ人やサドカイ人の思想の中にある多くの害毒に感染しないように教えられたのです。

サドカイ人にはヘロデ党が多かったことから「ヘロデのパン種」(マルコ伝8章15節)とあり、彼らは「しるし」を求め、証拠を示されて納得する人々です。

私たちは既に主イエス・キリストによって大いなる「しるし」を与えられています。それはイエスさまの十字架の死と復活であり、そのことを思い起こすことができる恵みを与えられています!

この恵みによって導かれていくのがイエス・キリストを救い主として信じる者の生涯です。私たちもかくありたいものです。


「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか」。
          (コリント人への第1の手紙5章6節)

かつて「今日でもキリスト教徒の中に、このパリサイ型とサドカイ型とがあり、いずれも真の信仰ではない。」と警鐘を鳴らした黒崎幸吉の「パン種に対する注意」を記しておきます。

「口と手とをもって形式的に律法的にキリストに仕えんとする教会主義は、一種のパリサイのパン種である。

又福音の中より奇跡を除き、イエスの神の子に在し給うこと、十字架によりて罪を贖い、復活して神の右に在し、やがて再び来りて審判を行い給うこと等を除きて、キリスト教を一種の文化運動、社会運動に化せしめんとするものは一種のサドカイ主義である。

かくのごとく今日我らの世界においてもこの二主義が種々の形を為して存在しているのであって、我らはイエスを神の子と信ずる信仰によりてこのパン種を除くことをしなければならない」。

ユキが撮ったノスミレ.jpg昨日、裏庭でユキが見つけた野すみれ。今朝、私も撮ってみた。

今日は午後2時からサッカーだった。



@2017.3.jpg
これも昨日ユキがお友達と見つけたつくしの大群。
ユキに誘われて早速今朝、野すみれとツクシの大群を見に行った。

【関連する記事】
posted by 優子 at 16:48| 家の教会 | 更新情報をチェックする