2018年04月17日

ブルンナー読書会S ―二種類の悲しみ―

IMG_3319.jpgこれは4月14日(土)の記録である。

今回はエーミル・ブルンナー著・下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の9回目、説教のタイトルは「二種類の悲しみ」。
開会礼拝:讃美歌90番「ここも神のみくになれば」(知子奏楽)、聖書朗読とお祈り(知子初当番)。

コリント人への第2の手紙7章8節〜10節:
 7:8 そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、
7:9 今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
私の感想:
私が本当に主イエスと出会うまでは、病気や災難など自分の責任によらない悲しみが「神のみこころに添う悲しみ」であり、自分の愚行から出たことはそうではないと感じていた時があったような気がするが、ある時ユダのことから「いや、そうだろうか」と立ち止まって考えさせられた。

ペテロはユダと同じようにイエスを裏切ったが、ユダはペテロと違って自ら命を絶ってしまった。と言うことは、嘆き悲しみ、愚かさに気がついたあとに、救いに至るものと滅びに向かうものがあるということではないか。

ペテロは恐怖に負け、ユダは金に目がくらみ、共に無垢の苦しみゆえの悲しみではなかったのに、2人の末路は天と地の違いになった。

と言うことは、悲しみ自体がどうのこうのではなく、抱えている問題が身から出た錆であるかないかでもなくて、悔いも嘆きも、悲しみも苦しみも、それらをどのように通過していくかだと気づかされる。

詰まるところ神に祈るかどうかが、救いか滅びかの分かれ道であり、「神の御心に添った悲しみ」というのは、神を主と認め、神に祈るかどうかで決定される。ユダは神に助けを求めるべきだった。

大きな試練が来た時、私たちも初めは利己的な祈りをするのだろうが、祈りの中で神さまが触れてくださり、祈りが変えられていく経験を何度もしている。悔い改めは神さまがなされることであり、自力でできるものではない。


知子の発表:これは4月14日(土)午後、3時間集中して作成したもので、これをもとに発表した。(マチ・クマにはエクセルのデータを送ります)

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下村さんレクチャーのノートテイク:
罪とは間に生じる人との関係に起こる人格と人格の間で起こる。従って、誰かに対する罪であり、それは神に対する罪である。

・一方の悲しみは救いをもたらし、他方の悲しみは死をもたらす。

・イエス・キリストによって新しくなるという意味は、陽光が絶えず射すキリスト教とは何の関係もない。それは宗教的な幻想である。

・救いに至らせる悲しみは神から来ており、救いに至らせない悲しみはこの世から来ており、両者を識別する決定的な標識は、「悔い改め」にある。

・正しい悲しみは悔い改めに導く悲しみであり、それは回心の時にしか体験しないようなものではなく、庭の雑草取りのように絶えず行わねばならない。悔い改めによって、問題なのは本来私自身であるという認識にまで突き進まねばならない。

・神を妨げている自我、神と隣人を愛するよりも自分自身を愛する自我、是が非でも自己主張する自我、これこそ人間の本来の病、聖書が罪と呼んでいるあの病です。

「十字架の愚かさと躓き」(P63、lastより8行目〜P64,4行目)でも学んでいる。
「われわれは、自己の悲惨の深み、従って人類がその一切の進歩にもかかわらず病んでいる、あのすべての悪の根源をまだ見ていません。私は私の本質の深みにおいて転倒している、神を喪失し、自己を追及して神を回避しているということ、ほかならぬこの認識こそ重要なのです。(後略)」
転倒した命、転倒した生。

ルターは人間を、「おのが内へと屈折した心、したがって究極には自己自身を愛し、神と隣人を愛さない心」と定義しています。

自分の罪深さがわかって、キリストと共に十字架につけられることによってのみわかる。キリストと共に十字架につけられることによってのみ悲しみがわかる。

悲しみは悔い改めと一つになっている。自分の罪を知り、愛の認識が深まり、罪の認識が深まり、そしてまた、愛の認識が深まるというように、ないまぜになって進んでいくように思われる。出口のある悲しみである。

・「その時、あなたは、自分自身が神との和解を得ていること、神と結ばれていること、そして新しい生にあずかっていることをも認識するのです」。これらは一挙に起こると思う。

4-17-21.jpg・自己憐憫から生じる悲しみは出口を持たず、ますます問題と悲惨の中へ入り込んでいくだけだが、悔い改めを生む悲しみは出口をもっている。その出口とは、イエス・キリストの十字架を通って復活と永遠の世界へと至る出口である。

次回は、5月19日(土)。次回より学びの最後に一人ずつお祈りして閉会する。

4-16-6.jpg附記:下村さんは知子の発表を感心してくださり、「ゼミでは『優・良・可』のどの評価をつけられますか?」とお聞きすると「秀です!」と仰り、―私の発表はギリギリ「可」をもらえるかどうかだから―我が子が褒められるのは自分のこと以上に嬉しかった。

posted by 優子 at 21:13| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする