2018年04月28日

「証しとしての文学ー三浦綾子ー」 ―日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会―

4-23-9-53be8.jpgこれは4月21日(土)に大津教会で開催されたJCP関西ブロック例会で大田正紀先生(梅花女子大学名誉教授、日本近現代文学研究者)の講演内容を聞き書きしたものである。

「証しとしての文学―三浦綾子」
日本では文学か宗教かという二律背反でとらえる人が多い。明治のキリスト教文学はロマンティズムと結びついたキリスト教だったため、憑き物が落ちたように信仰が失われて行った。これがプロテスタント文学の限界ではなかったか。しかしカトリックは、人間に期待を持っていなかったところに文学が起こってきているので、人間の悪や罪を見つめるところがあった。

三浦綾子はあくまでも証しとして文学を書こうとしていた。私が出会ったイエス・キリスト、私が出会った闇と、闇を乗り越えさせてくださった光を書きたいと思った。三浦以後は力あるプロテスタント文学者は途絶えている。(三浦の生い立ちは割愛)

三浦のキリスト教との出会いは小学2年生で、2戸一住宅の隣家に越してきたクリスチャン一家の子、前川正と美喜子に誘われて旭川教会の日曜学校に通った。その後、前川家の転居と美喜子の夭逝で繋がりが途絶える。

堀田綾子は代用教員として尋常小学校や教場、国民学校で奉職。黒塗りの教科書を使い皇国主義の教育をしてきたが、戦後民主主義への転換で国家の欺瞞的な教育に加担したことに気づき、教壇に立つ勇気を失い、自責の念から教職を退いた。

このあとすぐに肺結核を患い13年の療養生活が始まった。綾子は真面目な教師ではあったが虚無的な思いにとらえられ、求愛されるまま2人の青年と二重婚約し、養生せず酒も煙草もやめていなかった。

三浦綾子のキリスト教信仰と文学創作に大きな影響を与えた青年が二人おり、一人は入信に導いた前川正である。前川は北海道医学部に進学したが肋膜炎に罹り、静養して一時全快するも結核再発。

作歌活動するが短歌の芸術を高めていくことが目的ではなく、「我いかに生くべきか」との人生論で基督教徒としての「信仰に生きる道」こそ最大の課題だったという。

前川は再会した綾子に今のままでは魂ごと死んでしまうと真摯に諫め、キリストに従って新しく生きるように勧めたが、綾子は死にものぐるいで抵抗した。前川より聖書信仰とアララギ短歌を教わり、言葉と思いを正しくすることを諭され、次第に心が開かれて行く。

4-23-2.jpg綾子は結核から脊椎カリエスになり札幌医大病院に転院。西村久蔵の訪問を受けつつ回心を果たし、小野村林蔵牧師より病床洗礼を授かる。

綾子は二重婚約していたことがどんなにひどいことか気づく。そんな中でいのちに導きキリスト教を教えてくれた前川正を病気で亡くした。ギプスに固定されたまま愛する者の死を聞くほかなかった綾子の苦悩は想像を絶するものであったろう。

 「笛の如く鳴り居る胸に汝を抱けば 吾が淋しさの極まりにけり」
 「背骨の一箇所痛む処あるをば告げずして 雨降るひるを臥し居つ」
                  『生命に刻まれし愛のかたみ』より

その後、前川正と瓜二つのクリスチャン、三浦光世と出会う。光世は前川の弟さんと間違えられたほどよく似ていた。そのとき綾子は未だ寝返り一つ打てない状態だった。光世は綾子の回復を待って4年後に旭川六条教会で結婚式を挙げる。

光世は信仰に導いてくれた前川の愛の記録を生涯大切にするように勧めた。『生命に刻まれし愛のかたみ』は、妻がかつて愛していた男性の追憶集であり、光世の存在なくしては成らなかった。あなたがあなたのままでいることを大切にしたいという「存在愛」の形を歌ったものは稀有なものである。

結核療養者同士の二人は祈りをもって結婚生活を始めた。
子どもがいるから結婚に意味があるのではなく「断念の愛」もある。子どもがあるなしに関わらず、相手が居ることを喜ぶというのが夫婦にとって第一のことだ。三浦文学は光世が口述筆記の係を引き受けることにより始まった。最初に夫婦は必ずお祈りをして書き始めると言う非常に珍しい姿勢で、最期の時まで変わることはなかった。

「許さずは許されじとキリストの言ひ給ひしを三十年許し難き一人吾にあり」
「少年吾に母を罵りし草野某忘れ得ぬは許されざることか」
神さまはゆるさないのは罪だと言われるが、僕はやっぱりゆるすことができなかったと、光世もまた素直に信じるようになったのではなく葛藤の中で信じられるようになった。従って二人の魂の合体である。

「吾のこの今日ある陰に信捨てし祖父の祈りもありしかと思ふ」
今は信仰を捨てていると言えども、いつも僕をかばってくれたおじいさんの祈りが僕を守ってくれていたのではないか。光世の信仰と歌と生涯は、綾子の中で醗酵して『塩狩峠』『泥流地帯』などに豊かに実り、作品に昇華されている。

4-23-8.jpg作家デビュー作『氷点』
『氷点』は終章の陽子の遺書から書き出されたというから、三浦さんのテーマ、モチーフだったと言っていいかと思う。

「けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。どんな小さな子供の前にも。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。けれども、今、『ゆるし』がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしい」。

これが一番伝えたかったことであるが、日本古来の「継子いじめ」として伝わり失敗作だと嘆く。「私の筆が足りなくて、私が本当に言いたかった、キリスト教の原罪ということが十分にはわかってもらえなかったんですから」と。この小説の主題は、神に向かうべき人間が的をはずし、金や名誉や地位の方を向いて自分中心に考える「原罪」なのだ。

「神の痛みの神学」で有名な北森嘉蔵牧師は、三浦の原罪理解を行き届いたものとしながら、「しかし、『的をはずれる』のは罪の定義ではあっても、ただちに『原罪』の定義にはならない。

むしろ詩篇78章56〜57節の『狂った弓』、つまり矢ではなく弓、行為ではなく人間の側に歪みがある、それが原罪なのだ」という。大切な指摘である。

「そうせざるをえないこと」をして「そうしたいこと」をする、それが原罪である。アウグスティヌスは「幼児は罪がないのではなく、単に罪を犯す能力がないだけである」と言った。すべての人間のなかに罪があるというのだ。

また北森は、陽子のなかに「身代わりの苦しみ」ともいうべきものがあると興味深い指摘をしている。本来殺人者の子ではないにも拘わらず罪ある者として裁かれた陽子は、イエス・キリストを指し示す存在で、それ以上に大事なのは陽子の絶望だ。

ここには「地上で罪をゆるす権威をもっている」(マルコ2章10節)と宣言されたイエスの言葉への渇望がある。したがって、贖い主「イエス・キリストを知らなかったことが、陽子にとっての真実の『氷点』だったのである。」と結論される。

陽子は「自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失」ったのだと思う。その罪がなんであるか明確には描かれていないが、兄の徹とその親友北原邦雄という二人の異性の求愛の前に、かつて自分が憎しみ嫌悪してきた母夏枝と同質の自己中心的な誘惑性を自覚したことが大きいのではないか。

自分の義しさが一点でも崩れたとき、陽子は己を支えることができなくなった。それが陽子のなかにある罪の自覚と贖い主との出会いが、『続氷点』で描かれなければならなかった理由だ。

韓国で『氷点』が出版される時『原罪』として出版されたという。佐古純一郎は、クリスチャンにわかってもらえる前提で書いたらどうかと『塩狩峠』を書くことを勧めた。日本人をクリスチャンにしようとした『氷点』ではなく、『塩狩峠』が日本人に届き、イエスさまを信じて生きたい物語を届けることができた。

朝日新聞社の1千万円懸賞小説に『氷点』が入選したとき、朝日の学芸部にキリスト教を理解する門馬義久記者(現役の牧師)がいた意味は大きい。

夫・光世さんは懸賞金1千万(内450万は税金で徴収)は「わたしたちは1円も手をつけないようにしよう」と、背広一着、ネクタイ一本も買わなかった。綾子の13年間の療養生活で多額の借金を背負ったお父さんに、教会の献金、療養中物心両面でお世話になった方々への挨拶などに使い、テレビを購入したのは10年後のことだったので、テレビ放映された「氷点」のドラマは見ることができなかった。
このほか、ピューリタンの生と死『塩狩峠』、ヨブ記としての『泥流地帯』『続・泥流地帯』、昭和への遺書『銃口』なども時間の許す限り語ってくださった。

附記:
▼ この日、学びの前に2018年度の総会を開催、会計報告も承認された。担当者選出ではメンバーのやむない事情で、今年度も書記(12年目?)・会計(7年目)・例会係(4年目?)をお引き受けした。

▼ 毎年6月と11月は千里ニュータウン教会を会場にしていたが東牧師が召天されたので、今後は大阪方面や神戸方面で会場を捜したい。

▼ 次回6月16日(土)は、梅花女子大学(大阪府茨木市)で開催することが決まった。講師は京都外大の長濱拓磨先生、講演のタイトルは「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』 ー切支丹物をめぐる二人の交流を中心としてー」。
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posted by 優子 at 07:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする